> 金環食 作:佐野由宇
金環食 作:佐野由宇
――ねぇ、明星、金環食って、太陽がゼロになるみたいな瞬間だね。
 子供の頃、無邪気にコリンクの明星に天体の図鑑を見せながらそう言っていた。だが、ある日を境に、僕は天体の図鑑を見ることすら、嫌になってきた。
 それは、忌々しいいじめだった。


 あれから、十年。
 今日の朝ご飯は、チーズが乗ったパンだった。それを食べながら、何気に今日のニュースを見てみると、来年、数年に一度しか出ない、金環食が見られるというニュースが出た。アナウンサーが妙にわざとらしいコメントを言いながら、金環食について語っていた。
 だが、僕はそれにあまり興味がなかった。レントラーの明星も、あまり興味なさそうに見ていた。
 朝ごはんを食べ終えると、支度をして、学校へと向かった。



 五月の春真っ盛りの日。僕は、暖かな風に当たりながら、通学路を歩いていた。
 学校へ向かうと、学校の校門に、昔から僕を執拗にいじめる、同じクラスの四人の男子たちが待機していた。なるべく避けようと通るが、
「よぉ、まだ星空を眺めてぼっとしているのか?」
「ぼくちゃん、星大好き」
 はははと笑い飛ばす男子たち。周りにいた人は見て見ぬふりで、また始まっているよと、呆れているような顔をしていた。不愉快だ。なぜ、みんなは見て見ぬふりができるのだろう? 不思議でたまらない。
「おい、そこで何をしている」
「やべ、先生だ」
「良かったな、味方がいてよ」
 男子たちは嫌味を残して去って行った。現れたのは、理科を担当する、若山先生だった。この中学校に入学して以来、僕をなぜか、いつもかばってくれる先生だ。僕は、若山先生が何か言う前に、お辞儀をして早々に去っていった。


――あいつ、いつも星ばかり見ていて気持ち悪いよな。
 嫌な記憶がまざまざとよみがえる。僕は、その記憶を振り払い、教室へと行った。
 教室へ行っても、これといって友達というのがいない。でも、一人というのに、慣れてしまっているので、寂しいという気持ちはなかった。
 でも、本当は、寂しいけれど、仕方のないことだ。
 ホームルームのチャイムが鳴り、担任の吉雄先生が教室へ入ってきた。
「おい、席につけ。出席をとるぞ」
 吉雄先生の低い声で、生徒たちは渋々と、席に着き始めた。


 昼休み。お昼を食べ終えた僕は、廊下を歩いていたら、若山先生と会った。
 僕は、他人のような目で見ながら、通り過ぎようとしたら、
「ちょっと、日夏君」
 最悪なことに、呼び止められてしまった。渋々振り返り、
「話があるから、ちょっと、研究室へ来てくれないか?」
 周りに人がいないことが取り柄だったが、僕は、なんだろうと思い、若山先生についていくことにした。


 失礼しますと一言言いながら、研究室へ入ると、コーヒーの匂いがした。いつも思うのだが、なぜ研究室はいつもコーヒーの匂いがするのだろう、でも、それは先生がいつもコーヒーを飲んでいるからだと思う。あたりまえの答えだが……。
 他の先生はいなくて、研究室は閑散としていた。洗面台の横には、加湿器が煙を出していた。
 若山先生は、コーヒーを淹れ、飲みながら、自分の定位置の机に座ると、
「日夏君、天体に興味があるかい?」
 いきなり、そういわれ、僕は、
「無いですけれど」
 はっきりと、目を反らしながら、そういった。
「ははは。そうか。でも、本当は興味があるんだろ?」
 若山先生の言葉に、僕は戸惑った。確かに、僕は、天体に興味がなくなったが、完全に興味をなくしてはいない。
 次の授業のチャイムが鳴り、僕はその応答には答えず、急いで教室へ戻った。



 放課後。やっと授業が終わった。僕はカバンに、教科書や筆箱を突っ込んだ。すると突然、若松先生の言葉を急に思い出した。
――本当は興味があるんだろ?
 僕はその言葉が頭に浮かんだが、すぐに振り払った。僕は、カバンを持ち、教室を出た。


 家へ帰り、自分の部屋へと戻った。部屋の電気をつけると、机の上の本棚に、天体の図鑑があった。
 捨てようと思ったが、捨てきれず、そのまま放置している。なんで、捨てきれないのか、分からない。
(……若山先生の言葉は、当たっている。でも、僕は天体という言葉のせいで、一人になったんだ)
 明星が、グルルと甘えるように、僕にすり寄ってきた。僕は、なぜか、悲しくなってきて涙が出た。



 次の日も学校だった。朝、男子たちの姿がなかった。ほっとしながら、校門から入ると、若山先生の怒鳴り声が聞こえた。
 隅っこの方で、人垣がかたまってできていた。僕は、ちらと見ると、若山先生が、僕をいじめる男子たちを叱っていた。
 僕は心の中で驚き、呆れていた。
(……何で、僕がこの後、男子たちに、指摘をされるのを分かってやっているのか?)
 僕は、そう疑問に思いながら、教室へと行った。


 休み時間、僕の予想通り、男子たちに指摘された。
「おい、どういうつもりなんだよ」
 僕の机を蹴りながら、そういう。周りにいたクラスのみんなは見て見ぬふり。関われば、男子たちにいじめられるに決まっているので、巻き込まれないようしているだけ。
 僕は黙っていたら、力の強い、男子に肩をつかまれ、こぶしを振り上げようとしたら、次の授業のチャイムがタイミングよくなった。
 男子は、舌打ちをし、次の授業の、バトルの実習の準備をし始めるため、自分の手持ちのフローゼルを出した。僕は、いつものことだと思っていたが、今回ばかりは、もう限界を越していた。
(なんで、あんな余計なことをしたんだ?)
 明星を出しながら、そんなことを思っていた。



 昼休み、僕は、若山先生のいる、研究室へと向かった。扉をノックし、名前を名乗らずに、入った。
「どうしたんだい、日夏君?」
 朝のことを言おうとしたが、それはやめた。怒っても仕方がないと思ったからだ。
「いえ、何でもありません。失礼しました」
 僕は、扉を閉め、去って行った。

 日夏が去った後、横で見ていた橋岡先生がコーヒーを淹れながら、
「まったく、名前ぐらい、言わなくては。それに、なんで用がないのに、来たのだろうね、先生」
 と、質問を投げかけると、
「ははは。まぁ良いじゃないか」
 陽気に笑いながら、若山先生はそう言うと、その橋岡先生が
「よくありません!」
 そう、大声で言った。若山先生は頭をかき、何事も無かったかのように、コーヒーを飲んだ。
 橋岡先生ははぁとため息をもらしながら、自分の机に座り、何だか複雑な気持ちで、自分の授業の準備をした。


 僕は教室へ戻り、なんで、あの時に怒らなかったのだろうと、気弱な自分を恨んだが、それは無理なことだと思った。たとえ、怒っても何も変わらないからだ。僕は、本を読み、暇な昼休みを過ごした。
 でも、いつもなら、いじめてくる男子たちがいじめてこない。僕は、はっとした。
(若山先生は、僕のことを考えてくれてやったのかな? だったら、若山先生にお礼を言わなければ……)
 そう思っていたら、次の授業の鐘が鳴った。



 放課後。僕は、若山先生がいる、研究室へ行ってお礼に行った。ノックをし、自分の名前を言いながら、入った。
「今日はありがとうございました。おかげで、男子たちがなぜかいじめに来なくなりました。
 それに、昼休みは用も無いのに、研究室に来てしまい、申し訳ありませんでした」
「そうか、それは良かった。しかし、私の方こそ、お節介をして申し訳がない。
それより、日夏君、今は受験生だが、高校は決まっているのか?」
 受験。そう言えば、今は春。そろそろ決めなければと、薄々と気づいていた。
「迷っているなら、ここはどうだい?」
 若山先生が出したのは、天文学部がある、浦辺高校のパンフレットだった。前から心の中で行きたかいと思っていた高校だ。ここから遠いので、あの男子たちと同じにならなくてすむ。
 それに、偏差値はぎりぎり大丈夫なので、良いだろうと思っていた。
「ありがとうございます。でも……」
「何で、担任でもないのに、教えてくれるかって? うーん、分からん。ははは」
 僕は先生の答えにどう言葉を返せば良いのか分からなかった。
 無言の間に入る、加湿器の音が耳障りに聞こえてくる。
「だが、日夏君。君、その高校に行きたいと思っているなら、本当は、天体が好きなんだろ?」
「なぜ、分かったのですか?」
「顔だよ、顔。顔がほころんでいたよ。さ、もう帰りなさい」
 若山先生は、にかっと笑った。僕は、自分が気がつかない時にほころんでいたことに何だか恥ずかしくなり、お辞儀をして研究室から足早に去った。

 家へ帰り、僕は、おもむろに、浦辺高校のパンフレットを見た。
「ガウ?」
 明星が心配そうに見ていた。
「なんでもないよ」
 僕は、明星の頭をなでながら、そういった。
「雅斗、ごはんよ」
 母さんの言葉に、僕は、生返事をした。
(浦辺高校か)
 僕は、そう思いながら、高校のパンフレットをベッドに置いた。

 今日の夕飯は、グラタンだった。台所に入ると、チーズの匂いがして、とてもおいしそうな匂いだった。父さんは、まだ仕事でいないので、母さんと二人きりで食べることにした。
「明星はこれね」
 母さんは、明星に、少しのグラタンと、ポケモンフーズを出した。
 明星は嬉しそうに食べ始めた。
「さ、食べましょう」
 いただきますと言い、母さんとグラタンを食べた。



 次の日。休みだった。僕は、学校の課題をやりながら、暇を潰していた。
 理科の課題をやろうとして、ふと、手が止まった。理科の課題は、星座だったからだ。僕は、一瞬、手が震えていた。
(何怖がっているのだろう、僕)
 僕は、手が震えながらも、課題をやりこなした。明星が心配そうにこちらを見ていたが、大丈夫という風に、ほほえんだ。
 すると、扉をノックする音が聞こえ、僕は返事をすると、母さんがおやつを運びながら、入って来た。
「何をしているの?」
「宿題」
 母さんは覗き込みながら、僕の宿題を見ていた。
「へぇ、星座ね。そう言えば、今まで黙って悪かったけれど、中一の頃から、若山先生宛てに手紙が来ていたわ。あなたのことをずっと心配をしてくれていたみたい」
「何で黙っていたの?」
 僕は驚きながら、母さんを見た。
「若山先生が、絶対に見せるなって言われたから。でも、雅斗が、もし迷っていたら、この手紙だけ渡せって」
 母さんは、一通の手紙を置くと、
「後で見てね。あなたがきっと変わると思う手紙だわ」
 そう言うと、部屋から去って行った。

 忌々しい宿題がようやく終わり、僕は、ふと、横にあった封が切ってある手紙を読み始めた。


 日夏雅斗

 今まで黙ってすまない。実は君が中一の時から君の母親宛てに手紙を出してきたんだ。
 それに君がこの手紙を読んだときは、もう私との別れの年かもしれぬ。つまり、中三かな?
 その時、一人ぼっちだった君が妙に思って実はこっそりと担任に尋ねたんだ。
 そしたら、天体が詳しすぎて奇妙に思われていじめが発端したことが分かったんだ。
 私はそれを聞いてなぜ、天体が詳しいことがそんなに変なのかと逆に疑問に思った。それはなぜかというと、私も、昔、天体が詳しすぎて、中学の時にいじめられた経験があって中三まで孤立状態だった。でも、いつも私をかばってきた先生がいたんだ。
 だから、昔の私のように君を庇い続けようそう思った。でも、お節介しすぎたかな?
 でも、その先生も私のようにこっそりと手紙を出してくれた。そして、私も君みたいに一通の手紙を見て変わった。自分は自分なんだ。誰か何と言おうとも気にしない方がいいということに気づいたんだ。それに、その先生は僕に本当の居場所を教えてくれた。
 それが浦辺高校だったんだ。
 もし、迷っていたら、君の本当に行きたい居場所へ行けばいいと思うよ。別に、天体が詳しすぎたって良いじゃないか。と、私は思うけれどね。
 だから、もう過去にはこだわるな。誰が何と言おうと気にしない。それを約束してくれ。
 それでは。

 若山夜須

 達筆な字で書いてある字は、僕の心を動かすような瞬間だった。
(もう過去にはこだわるな……か)
 僕はふっと笑った。笑うのは久しぶりかもしれないというくらい、笑いを忘れていた。
 明日、若山先生に会ったら、言おう。僕の決意を。
 明星は、傍らに来て、僕にすり寄って来た。ふと、明星を見ると、まるで、安心したような顔をしていた。
 僕は、明星の頭をそっと撫でた。



 休みが終わり、学校がまた始まった。
 いじめてくる男子も、校門の近くにいなかった。僕は、ほっとした。
 廊下を歩いていたら、若山先生と会った。
「やぁ、おはよう」
「おはようございます。あの、手紙、読みました。ありがとうございました。
 僕、浦辺高校に行きます。先生のあの手紙のおかげでようやく僕の居場所がその高校だということに気づきました」
 若山先生は驚きながら、僕を見ていた。そして、苦笑をすると、
「そうか、そうか。それは良かったよ。それじゃあ、勉強に励めよ」
「はい」
 僕は、明るくそう言うと、先生と別れた。
(日夏君のあんな明るい姿、初めて見たよ。それに、笑えるくらい、昔の私に似ている)



 年が過ぎ、三月になった。
 たくさんの受験番号がずらりと並んでいる、紙を僕はどきどきとしながら、たどって行った。
(あ!)
 真ん中の所に、自分の受験番号があった。
 嬉しくて、僕は心の中で感極まった。

 家へ帰り、僕は明星を出した。
「やったよ、明星! 僕、合格したよ!」
 明星に抱きつきながら、笑った。
「ガウ、ガウ!」
 明星も嬉しそうに僕の合格を祝うかのように、鳴いた。


 卒業式の日。僕は、若山先生に浦辺高校に合格をしたことを報告した。
「おお、良かったじゃないか!」
「はい。僕、絶対天文学へ入ります」
「そうか、そうか。それを聞いて私は安心をしたよ。良かったな、合格して」
 若山先生は嬉しそうにそう言った。
「若山先生、今までありがとうございました! 浦辺高校に入れたのも、先生のおかげです」
「ははは。それを言われると、私も嬉しい」



 帰り道。僕は乗りながら、走っている明星に話しかけた。
「明星。僕、天文学部に入ったら、絶対明星と金環食を見ようと思うんだ。明星もそう思うだろ?」
「ガウ!」
 明星は走りながら、うんという風に、言った。
 春の風が当たるたびに、心が晴れ晴れとした。
 僕は、空を見上げながら、四月から新しい高校へ行くことに、胸がわくわくとしていた。
 新しい高校。ゼロからのスタートとなる。そして、明星と金環食を見て、太陽がゼロになるみたいなその瞬間をこの目で見たいと、心の中で思っていた。
 
> うるおいボディ 作:音色
うるおいボディ 作:音色
「脱水症状ですね」
 家に帰ったらアギルダーが干乾びかけてぶっ倒れいていた。慌ててポケモンセンターに連れて行って言われたことがこれだ。
「脱水、ですか」
「よく水分を取らせて、安静にしておいてくださいね」
 笑顔でジョーイさんが注意事項を書いた紙を渡してくれた。タブンネがボールを持ったトレイ持って来ながら「タブンネー」と鳴いていた。

 お前さ、喉が渇いたんなら水くらい飲めよ。と言って見るが、アギルダーが昼間ほっとかれたのが気に食わないらしく、部屋の隅でいじけている。好物のチーズで釣ったらすぐに機嫌がなおった。
 大体アギルダーが干乾びるなんて俺知らなかったし、お前虫タイプだよなぁ、水タイプじゃないよなぁ。
 とりあえず、またこいつが干乾びないように何か対策を練ろうとするが、良い案が浮かぶはずもなく、とりあえずこ―ゆーことに詳しそうな奴に電話をかけてみた。

「俺のシュバルゴ元気?」
「そっちこそ俺のアギルダー元気だろうな」
 虫ポケ専攻の友人は玉虫大学で研究を続けているらしい。カブルモとチョボマキの交換進化の謎を解き明かすと豪語している。
「悪い、部屋に帰ったら干乾びてた」
「なんだとぉ!?」
 すぐポケセンに連れてったから大事には至らなかった、と説明するが向こうは呆れたような声を出した。
「あのなぁ、アギルダーは乾燥に弱いんだぞ。まぁ、管理がドレディア並みに難しいとは言わないけど。あいつら、薄い膜をぐるぐるにまきつけているだろ?あの幕は空気中の水分を吸って保つ特性があるんだ」
「へぇー、初めて知った」
「だから、一定の湿度を保ってないとすぐに弱っちまうんだよ。うちの研究室も湿度の調整大変なんだぜ」
「水を飲ませるのじゃだめなのか」
「うーん、直接摂取するのとはまた違うみたいなんだ」
「じゃあ、俺の部屋はどうすりゃいいんだよ」
「加湿器でもおけば」
 なるほど。

 そんなわけでアギルダーと加湿器とやらを買いに行くことにした。
 俺が加湿器の良さなんか分かるわけもないので、本人が気に入ったものを選ばせりゃいいか。そんな軽い考えで自転車にまたがった。
 こっちは必死こいてペダルを踏んでいるというのにアギルダーは余裕の表情を浮かべて先を進む。くそ、テッカニン張りに早いのは知っているが少しはスピードを落とせっての!
 電気屋の前に着く頃はこっちは汗だくでアギルダーは物足りなさそうな顔をしていた。後で公園にでも連れてってやるから思う存分飛び回って来い。
 その前に加湿器だ。

 加湿機コーナーなる場所に行くと大小様々、デザインも様々。俺としてはなるべく邪魔にならないサイズで尚且つ俺の財布にやさしいお値段のモノが良いのだが、それで粗悪品掴まされてアギルダーの機嫌を損ねるは御免なので一応真面目に見て回る。
 ……真面目に説明などを読んでみるがよく分からない。水を入れたらお湯を沸かして湯気で湿度を大きくするとか、超音波で水を砕いてファンで吹き出すとか。
 加湿出来りゃなんでもいいわけだが、当のアギルダーはあっちにうろうろ、こっちにうろうろ。止まっている奴が気に入ったのか、と見に行くと0が5個ついているような代物。ダメです。
 何かもっと手軽な奴ないですか。店員さんに聞いたら「こちらなんかいかがでしょう」。お勧めされたのは、水を入れるだけで中のフィルターみたいな奴が水を吸い上げて気化して行く奴、らしい。
 値段も手ごろ。これで良いか。アギルダーは加湿器を見るのが飽きてきたらしい。これください。

 帰り道に約束通りに公園による。ぎゅんぎゅん飛び回るアギルダーを見ながら俺は一服。チョボマキ時代はえらく臆病だったらしいが、俺の所に来てアギルダーとなっている様子を見る限りは全然そんな事はない。
 アギルダーは虫タイプで唯一“うるおいボディ”の特性を持っているらしい。だから乾くと弱ってしまう、という仮説を立てていると友人はいっていた。
 梅雨の時期になったらこいつは元気になるんだろうな―とか思いながら、ミックスオレを飲み干した。
 
> メロンパン・プラトニック 作:とらと ★
メロンパン・プラトニック 作:とらと ★
 メロンパンだ。そうだ、メロンパンがいい。メロンパンを買って帰ろう。
 そんなこと思い始めると、全部がブリキの安いオモチャになって、マイコにはどうでもよくなった。社会や算数の勉強なんて、ちっとも惹かれなくなった。今日は帰り道に、ご近所の飼い犬のマルを撫でて帰ろうとときめいていた、そのことも頭から抜けてしまった。ひとつのことに夢中になりだすと、心が火を噴くミサイルになって止まらなくなる、マイコにはそういうところがある。マイちゃんはちょっとだけ変ね、周りが見えなくなっちゃうのね、保健室の先生はそんなふうに言った。担任の小柴先生は四年の一学期の終わり、マイコさんは独特の世界観を持っている、そんなふうに通信簿に書いた。独特の世界観。その言い回しは、少しマイコのお気に召した。
 それが一過性のものであるならば、マイコだってこんなに苦労はしていない。メロンパンいいな、メロンパン食べよう、今日の二時間目の国語の時間に突如そのことが頭に浮かんでから、帰りの会の一礼を済ませ、皆が動物園の猿のようになって教室を飛び出すその時まで、マイコはメロンパンのことだけ一途に考え続けていた。音楽の時間にはメロディーという歌詞をメロンと間違えて歌ったし、社会の時間にはノートをメロンパンらしきもののイラストで埋めつくしてしまった。休憩時間にもぼうっとして、メロンパンの絵には懲りたので、リアルタッチのメロンのイラストを大きくひとつ机に描いた。掃除時間、その机を動かした男子生徒がエッという顔をしていたのになんだか得意になって、マイコは窓の外に手をかざして、二つの黒板消しをいつもより多めに打ち鳴らした。ぼふん。ぼふん。白が多めのチョークの粉は、マイコの白い息と一緒に風に乗って、グラウンドへと流れていった。それと一緒にマイコも飛んでいきそうだった。目的地はそう、メロンパンのおいしいあのパン屋さんまで!
 ちゃちゃっと掃除を終わらせて、トントン階段を降りて、下駄箱から運動靴を引っ張り出して。赤と白の上履きは、ランドセルの隙間の中へ。入れ替わりに筆箱を取って、そっと中身を確認する。そこに息を潜めていた、マイコのなけなしの百二十円。運が良かった。いつもはお金を持ち歩かないけれど、今日はスーパーの四個入りのドーナツを買うつもりで、貯金箱から抜いてきていたのだ。
 誰にも見られないようにポケットに『なけなし』をしまって、そこからのマイコは誰より素早い。ランドセルをきちんと閉めるのも億劫でそのまま肩にひっかけると、後ろ手にひねり錠をカチャカチャやりながら歩いて、それ以上もたもたできずに走り出す。正門を越えて、上級生や下級生を追い抜いて。いざ行かん、メロンパンのいるところ!
 目指すパン屋さんは学校から家の前を素通りして、しばらく行った所にある。比較的新しいパン屋さんで、隣町から越してきた女の人が営んでいるそうだ。こういうときのお母さんの情報網は凄くて、旦那さんと小学生の息子さんがいるそうよ、そろそろ追って引っ越してくるそうよ、というところまでマイコは聞かされて知っている。お母さんがそこで先日買ってきた一個百二十円のメロンパンは、サクッとしてて、あまぁくて、思わず弟のシュンと二人でうーんっと唸ってしまうほどのおいしさだった。シュンは前歯でちびちび削るリスみたいな食べ方をするから、いつもみたく胸元を汚して、お母さんに怒られていた。なぜだかマイコも巻き添えをくらった。けれど、それを差し引いても余りある、まっことおいしいメロンパンなのだ。
 メロンパン、おいしいおいしいメロンパン! 一歩一歩弾むにつれて、マイコのお口はメロンパンのためのお口になっていく。こっそりお菓子を持っていってご近所のマルに見せてやると、マルは涎をだらだら垂らして尻尾を振って『待て』をする、マイコだってもしマルチーズなら、今そんな感じになってるだろう。いや、『待て』でさえきっとままならない。そのくらい受け入れ準備は万端だ。万端すぎて、生唾が出る。ごくり。
 あぁ、どうしてこんなにお腹がすいているのかしら。今日だってきっと給食を、いつもと同じに食べたのに。そういえば、今日の給食はなんだったろう。食べたものを思い出せなくなることは、マイコくらいの歳でだって、よくある。マイコなんか、昨晩のご飯なんていつも思い出せない。でもそれは別に構わない、そんなこと思い出せなくったって何も問題は起こらないからだ。オネーチャンそういうのオバアチャンみたい、シュンがそう言ってばかにしてくるのは、ちょっと腹立たしいけれど。
 こういうことを考えてると、マイコはいつだかテレビで見た、記憶の引き出しの話を思い出す。頭の中には大きな大きな棚があって、記憶っていうのはある事ごとに、その棚の別々の引き出しにしまっておくのだそうだ。その引き出しの数があんまりにも多いから、何度も何度も触っている引き出しの場所は覚えるけれど、あんまり使わない引き出しの場所はそのうちにすっかり忘れて、だから思い出せなくなってしまう。何月何日の晩のおかず、なんて記憶はよっぽどのことがない限り触ることがないから、きっと奥の方の引き出しに入れっぱなしにするんだろう。けれど、さっき食べた給食の引き出しの場所は、しまいこんだばっかりだから思い出せたっておかしくない。どこにいれたんだっけ。さっき引き出して入れてから、一度も触っていないお昼ご飯の引き出しが、棚のどこかにあるはずなのに。
 膨大な量の引き出しが、マイコの前にそびえ立っている。あてずっぽうだ、その一つを引いてみる。ごとり。コーンスープの香りがする……あぁ、これは今朝のコーンスープだ。コーンスープと、プチトマト、ちくわの中に棒のチーズが入ったやつと、晩の残りのおみそ汁。今朝はお母さんがいなかったから、マイコとシュンとの二人分を、マイコ一人で用意した……
 はた、とマイコは立ち止まった。気がつけば、家のマンションの前にいた。
 高い高いマンションは、どこか記憶の引き出しを思わせた。
 凍え乾燥した冬の空の下を走ってきたから悪かったのか、砂漠の中に呑まれるみたいに、唾が引いて喉が渇いた。その砂が胸の奥に落ち込んで、体が重たくなる。明確だった頭のビジョンが蜃気楼みたく霞んでいった。動かぬ灰色のマンションを見上げて、マイコは――なぜだか、このままエントランスをくぐって、エレベーターに乗って、七階の家まで帰った方がいい気がしてきた。ポケットの中の百二十円をそこの自販機に飲み込ませて、ホット缶のコーンスープでも買って、シュンの待つ我が家へと急いだ方がいいような。きんきんに冷えた足をこたつのなかに突っ込んで、夕方のニュースでも見た方がいい。そうだ。その方がいいに決まっている。
 マイコは歩いて青い自販機の前に立つと、ポケットから百二十円を取り出した。ちゃりん、ちゃりん。『なけなし』を飲み込んだ自販機がヴンヴンと呻り始める。ちゃりん。いつもなら持ち歩かないはずの百二十円。あぁ、どうしてだろう。どうして今日に限って、ドーナツを買って帰ろうなんて贅沢をしようと思ったんだっけ。指を伸ばす、コーンスープの赤く灯った、楕円形のボタンをなぞる。なんでだろう。分からない。分からないけど、何か――
 お釣りのレバーを押して戻して吐き出したお金を取り返して、マイコは走り出した。学校もマンションも背に走り出した。喉が詰まって、なのに白い息がほうほう漏れて、足の先がじんじん痺れる。そう思い始めると、寒い。マフラーも手袋もランドセルの中だろうか。突っ込んだ上履きに押しやられて、底で小さくなっているのだろうか。もしかしたら教室の机の中かもしれない、そうだとしたら最悪だ。
 あぁ。走っていくマイコを、すれ違った人が変な目で見た。あぁ。優柔不断だ。最悪だ。何が入ってるか知れない引き出しなんて開けなければよかった。メロンパン、サクサクのメロンパンの中のふわふわの幸せのことだけを、じっと考えていればよかった。
 新しいパン屋さんは営業していたけれど、別段良い匂いはしなかった。電信柱の上から、一羽のカラスがじっと見ていた。戸を引いてお店に入ると、生ぬるい空気がマイコを包んだ。外から見たのと違わない、こぢんまりした狭いお店だ。カウンターには誰もいない、ごめんください、マイコは小さな声で言ってみた。誰も出てこない。レジの横には、黒いネコの置物が、黄色い目を光らせてマイコのほうを窺っている。ごめんくださぁい! 叫ぶと、はいはぁい、と返事が聞こえた。女の人の声じゃない。
 お金を包んだ拳を固く握りしめて、お店の中を見渡した。サンドイッチ。クロワッサン。ひよこを模した丸いパン。その空間で、マイコは『異物』みたいだった。マイコという存在だけが、てんで場違いのように思えた。早く帰りたくって足がうずく。レジ皿に百二十円置いて、メロンパンだけ手に持って、さっさと出ていってもいいのだろうか。振り返ると、お目当てのメロンパンは、ガラスを挟んで道路に面したショーケースに、規則正しく並んでいた。メロンパンだけじゃなく、どのパンも整然と置いてあった。まるで、はみだしものに用はない、とでも言うように。
 どくん、どくんと、心臓は妙な音を立てていた。メロンパンに近付くと、その奥のガラスの向こうに、さっと黒い影がやってきた。カラスだ。足を一歩引く。カラスはガァガァ鳴いて、見た感じよりずっと大きな、真っ黒な翼を震わせて、爪と、鋭いくちばしで、ぎらぎら光る目で、ガラスをへだてたマイコに襲いかかろうとした、マイコは驚いて、キャアッ、と目を瞑って、身を縮めた次の瞬間、

「――大丈夫?」

 そんな声が降ってきて、ふわりと何かに包まれて、マイコは目を開けた。
 目の前に、知らない人がいた。マイコと同学年か、少し上くらいの男の子だった。なのに、タキシードをきちっと着こなしていて、黒い蝶ネクタイをつけている。ハットまでかっこよく被りこなしている。そして、背中から黒い翼が生えている。
 いつのまにかうずくまっていたらしいマイコの前でその翼を折りたたむと、タキシードの男の子はひどく悲しそうな顔をした。
「すまなかった。仲間がひどいことをしたんだ」
 あまりにもぼうっとしすぎて、その意味がよく理解できず、とにかく謝られているということだけ把握して、なんとかマイコは首を振った。ぷるぷるとばね付きの人形みたいに頭を揺らしているマイコに、男の子はやっぱり悲しそうな顔をした。
「少し動揺しているみたいだね。うちで休んでいくといい」
「う、う?」
 マイコはそれしか言えず、けれどその返事を男の子は好意的に受け取ったようで、へたっているマイコの手首を取ると、ぐいっと引き上げた。
 立たされて、手を引かれて、マイコは男の子と歩き始めた。
 静かで可愛らしい町並みを二人はしばらく歩いた。不揃いのデザインが施された茶色の石畳の歩道に沿って、オレンジや黄色を基調にした、おもちゃみたいな家がぽつぽつと並んでいる。つるつるの屋根から伸びた煙突が、モクモクと白い煙を吐いている。あれ、なんだか『へんてこ』だ。マイコの住んでいるあたりに、こんな通りはなかったはず。ここはどこだろう。パン屋さんは、どこへ行ったんだろう。ようよう落ち着いてきて隣を見ると、真っ黒の翼は町にちょっとだけ浮いていた。目があって、彼はニコリと返してきた。
「君の名前は?」
「えっと、木村マイコ」
「マイコちゃんか。なるほど」
「あなたは――カラス?」
 自分でもおかしいなと思ったその問いに、彼はやっぱりニコリと笑った。
「それ以外の何かに見える?」
 マイコと彼――カラスとは、てくてくてくと、『へんてこタウン』を歩いていく。
 温かい手のひらに連れられて最初はどきどきしていたけれど、そのどきどきがびくびくのどきどきからわくわくのどきどきへと変わるまで、それほど時間はいらなかった。
 だってここは、マイコが毎日朝昼晩、思い描いているような世界なのだ。星は赤色、雲は青、太陽と月が一緒に踊っているピンク色の空の中を、一隻の宇宙船が金平糖を吐きながら渡っていく。茶色の石畳の上を、金色の魚が泳いでいる。こんもり茂った並木からは、ドーナツの木の実が下がっている。横断歩道の白線はコンベアみたく流れて、向こう岸までマイコたちを連れて行ってくれる。こんなのまるで妄想の中。あんまりにも嬉しくって、首やら目やらをぶんぶん振って、マイコはずんずん歩いていく。カラスもずんずんついてくる。
 ライオンのえりまきをしたトラ猫が、ワンワン言いながら逃げていく。薬局前のカエルの置物が、素敵な歌声を響かせている。ちょっと人のおうちの窓を覗くと、真っ白と真っ黒の大きな大きなドラゴンたちが、こたつに潜って昼寝している。そんなことしたって、こらこら、とたしなめてくる大人たちはだぁれもいない。ふふぅ、と笑いがこみあげて両手で口を押さえていると、目の前に川が現れた。橋も小舟もない。川面を覗きこんだ瞬間、ふわっと立ち込めた匂いには、思わず声を上げてしまった。
「コーンスープだ! おいしそう!」
 コーンスープだねぇ、とカラスも笑った――そうなのだ、濃い黄色の川の中に、つぶつぶコーンが浮かんでいるのだ。どろどろ流れる水面には、自分の顔も映らない。すごいすごい、マイコは思わず手を叩いた。これならお湯を沸かさずとも、毎日毎日飲み放題だ。でも、川の中に入ったらおいしくっておいしくって、ついつい溺れて死んじゃうかも。それを想像したら、やっぱり笑いが漏れた。ぼくの家はこの向こうだ、カラスは得意そうに言った。
「ねぇカラス、分かったよ」
「ほう、何が分かった?」
「これは夢。わたしは今、夢の中であなたといるの」
「なるほど。でもどうして?」
 こんなへんちくりんな話をしているときに、どうして、なんて聞き返されたことなんて今まで無くて、マイコはちょっと熱くなってしまう。
「だって、コーンスープの川なんて夢の中にはありえても、現実にはありえないもん。現実ではね、水の色は透明。汚れてても緑。泳いでいるのはコーンじゃなくて魚だもの。それに――」
 ひゃあっとマイコは悲鳴を上げた。急にマイコを、お姫様だっこの形にカラスは抱え込んで――黒い翼を広げると、軽々空へ飛び立ったのだ。
 はためきの音、流れる景色、ひたひた頬に当たる風。カラスの胸にぴったり頬をつけて、マイコはカラスの顔を見ていた。まっすぐ前を向いているカラスの黒々した瞳に、吸い込まれそうとマイコは思う。自分のかカラスのか分からない心臓の音が、どくどく耳に届いてくる。自分を守ってくれた彼。手を取り歩いてくれる彼。マイコの話を馬鹿にせず、真剣に聞こうとしてくれる彼。お姫様だっこに憧れるような、そんな年頃の女の子ではマイコはなかったけれど――すとんと着地して、カラスはマイコの顔を覗きこむと、それに? と続きを促してきた。
「それに、人間は空を飛ばないよ。そんなの童話の世界だけ」
 聞いて、カラスはふっと微笑んだ。そういうちょっと大人びた顔が、さまになるような男の子だった。
 もう一度手を取り合って、二人はコーンスープの川を背に歩きだす。
「どうしてそうだと言い切れる?」
「……どういうこと?」
「ない、ということを証明するのは、途方もなく難しいことだ。コーンスープが流れてる川をマイコが見たことがないからって、それが世界中どこを探してもないとは言い切れない。空を飛ぶ人を誰しも知らなかったからって、絶対に存在しないとは言えないだろう。世界の隅々までのことは、神様だって知らないんだから。ありえないと言うことは、どこまでいってもありえない」
 ここがぼくの家、と彼が指し示した家の前で、じゃあ、とマイコは、温かい手を握り返した。
「魔法が使える人間も、もしかしたらいるかもしれない?」
 カラスはそんなマイコの横で、右手を高く掲げると、パチン、と指を鳴らした。
 触れてもいないドアの取っ手が、その瞬間くるりと回った。ススス、と手前にドアが開いた。中には誰もいない。カラスはマイコの背中を押して、招き入れるようにそこを潜った。
「ゼロであるとは、言い切れないね」
 カラスはそう言って肩をすくめた。
 へんてこタウンとは打って変わって、カラスの家は薄暗かった。でも、焼き立てパンみたいなお腹の底をくすぐる匂いが、玄関にまで充満していた。
 ここからは土足禁止だよ、と止められたところで靴を脱ぐと、マイコはランドセルから学校の上履きを取り出した。足の甲のゴム部分に大きく『4の2』と書かれているのを見て、カラスは目を丸くする。
「マイコは四年生?」
「うん」
「へぇ、そうか! 年下かと思ってた。ほら、マイコは背が低いから」
 そういうふうにからかわれるのは、別に嫌いではない。カラスがどこからかスリッパを取り出して来るのを、マイコは部屋の奥をそわそわ覗きこみながら待っていた。居間の方も、薄暗い。誰と住んでいるのだろうか。
「上履きなんて、よく持っていたね」
 こちらへどうぞ、と案内される方へと、マイコは歩いていく。長い長い長い廊下。ゴム底の擦り切れたマイコの上履きは、ぺたぺたと音を立てる。古い色合いの床板が、踏むたびにキシキシ鳴いている。
「持って帰らないと無くなっちゃうんだもん。自分のことは、自分で守らなくちゃ。学校は毎日が戦争みたい」
「戦争。それは、大変だ」
 神妙に呟いたカラスの横顔が、同じ間隔で並んでいるランプの明かりに浮き沈みする。
 急に気持ちが沈んでいくとき、マイコはそれを止められない。さっきまで浮ついていた体が、心の底の、真っ暗な茂みの沼の中へ、ずぶずぶずぶと嵌まっていく。瞬きをすると、まぶたの裏に張り付いた、重くて硬くて冷たい校舎が、マイコの行く手に見え隠れする。
 さっきまで握っていた隣の手のひらを、もう一度黙って取る。隣も握り返してくる。温かい。カラスの左手は、マイコの欲しい温かさを、きちんと理解しているみたいだ。
 十二個目のランプの前を通ったとき、ふとマイコは首を回して、あっと声を上げた。
「カラス、怪我してる」
 マイコの視線の方を気にして、カラスは畳んだ翼を震わせた。薄ら明かりに照らされたカラスの左翼が、赤黒い血を滲ませている。
 どこで怪我したの、と問うても、どうってことないよ、とカラスは微笑むだけだった。どうってことないなんてこと、マイコにとってはあるはずない。それはだって見るからに、じくじく痛むに違いないのだ。夢みたいな世界にいるのに、カラスはそんな痛みをこらえて、マイコを抱えて飛んだというのか。手を引いて歩き出したカラスをしつこいくらいに問いただすと、困った顔でカラスはこれだけ言った。
「……ぼくも戦っているんだ」
 カラスも戦っている。その答えは、不安を駆り立てるものでもあって、それと同じだけ、『戦っている』のがマイコだけではないのだと、そんな安心感も与えてくれた。
「わたし、ばんそうこう持ってる」
「そんなものくれるのかい。ぼくなんかに」
 ランドセルのポケットに忍ばせていたばんそうこうは、傷には少し小さかった。どう貼ろうか考えあぐねて、斜めにそれを貼りつけた途端に、ばんそうこうは緑色の光になって、あっという間に弾けてしまった。するとカラスの怪我は、立ちどころに治ってしまったのだ。あたかもマイコが、魔法でも使ったかのように。
「ありがとう、マイコ」
 名前を呼ばれるのはなんだか照れくさくて、マイコはちょっとうつむいてしまった。
 ようやくたどり着いた部屋は広間で、奥にはカウンターとキッチンが見えた。落ち着いた照明のアンティークなお部屋の真ん中で、ヨーロピアンな椅子を示されて、ハーブティーでも入れるからそこに座っていてとカラスは言った。きょろきょろお部屋を見回しながら、マイコは大人しく待っていた。パンもお菓子も見当たらないけれど、優しい甘い素敵な香りが、お部屋いっぱいに広がっている。古いミシンの置物、ダイヤル式の黒電話。焦げ茶のイーゼルに立てられた女の人の絵。主張の控えめな観葉植物。落ち着いた色合いのキルトが、木調の壁に掛かってる。
 そわそわするほどおしゃれな空間。けれども、マイコの夢見る『へんてこタウン』とは、どうにも趣きが違いすぎる。ここは本当に、わたしの夢の中? ――そのとき、ひとつ異彩を放っている大きなものが目に入って、マイコは完全に思考停止した。
 それは、毎朝毎晩見かけていた、青い自動販売機。
 ――どぅん、と心臓が驚いたような音を立てた。立ち上がると、ぎこっと椅子が鳴った。一歩二歩歩くたびに、しゃれた家具や、小物やキッチンが、ミシンが電話が草がキルトが絵画の中の見慣れぬ女が、じっとマイコを見つめていた。薄暗い空間に、無機質な電灯を落とす、汚れた自動販売機。陳列された黄色い筒。唾を呑む。けれども喉がつっかえている。赤く灯った楕円のボタン。さっきなぞったそのボタン。もう一度そこに触れようと、マイコは吸い寄せられるように、甘い言葉に誘われるように、その赤色へと指を伸ばして――誰かがそっと、頭を撫でた。
「行ってみる?」
 自販機の横、やはり長く伸びた廊下を指して、カラスは言った。マイコは浅く頷いた。

 奥にはエレベーターがあって、二人はそれに乗り込んだ。
 エレベーターには正常なボタンが無くて、『7』だけ置き忘れたみたいにひっついていた。ぐんぐん上昇する箱の中で、二人は黙っていた。チン、と開いた扉の向こうに、慣れたはずの景色が広がっていた。マイコはカラスの先を歩いた。
 表札のかかっていない一室の前に二人は止まった。ランドセルのいつもの場所からいつもの鍵を取り出すと、その鍵穴にマイコはそいつを捻じ込んだ。
 いつものようで、なんだか少し重く感じるドアを開いて、マイコは驚いた。――驚いたのに、なのにどこかで、そうだと分かっていたような気もした。
 そこに、マイコの家はなかった。誰か別の住人の家でも、もちろんなかった。そこに待っていたのは、ただただ白い壁と、床と、高く高く高く聳える、大きな大きな『棚』であった。
 それが記憶の引き出しであると、マイコにはすぐに分かった。だって自分のことなのだ。大きさも色も形もてんでばらばらの引き出しが、勝手に開いたり閉まったり、中身を吐き出したり吸い込んだりしている。収まりのつかなかったがらくたが、棚の足元に散らばっている。何重にも鉄のチェーンが巻きつけられて、南京錠の掛かったやつが、開けてほしい、開けてほしいと言わんばかりに、呻いて細かく震えている。そんなひどい引き出しでも、それでも、自分のことだから、そうだと分からないはずがない。
 白い部屋に、黒い黒い影を落とす、マイコの巨大な記憶の引き出し。
 シュン、どこ、マイコはそう叫んだ。自分の家のドアを開けたのだから、弟のシュンは部屋のどこかにいるはずなのだ。どうしようもなく嫌な予感がして、マイコは思わず部屋の中に駆け込んで、がらくたの類を跳ね除け始めた。シュン、出てきて、言いながらかき分ける、まだぴかぴかのランドセル、真っ白な上履き、リコーダー。頭の上に降ってきた、あの日の黒板消し。リビングの花瓶の萎れた花。空いたビールの缶……。
 引き出しの裏から飛び出してきた何かを見て、マイコは弟を呼ぶのをやめた。チョロチョロと走ってきたのは、見覚えのない子リスだった。子リスはマイコの足元に立つと、膨らんだ片頬を両手で押して、器用に何かを吐き出した。そして、座り込み、伸ばしたマイコの手の上に、唾液に濡れたそれを渡した。
 それは、おもちゃのような小さな鍵だった。
「……これ、なに? これはいらないよ」
 戸惑うマイコの黒い瞳を、子リスの相貌も見つめていた。まっすぐ視線をぶつけてくる子リスに、マイコは気持ちが負けそうになる。ビーズのような子リスの目玉が、小さなマイコを映している。リスはすくっと立ち上がった。そして言った。
「おくびょうもの」

 ――世界が崩れ出した。歪みヒビ入った床に立っていられなくなると、後ろからカラスがマイコを抱き上げた。傾いた棚から滑り出した無数の引き出しが崩落し、二人と子リスに襲い掛かった。カラスは翼をたたみ、マイコを抱えたまま急降下していく。対して子リスは、突然長い翼を広げ、崩壊する世界を高く飛び立っていくではないか。
「シュン待って! シュン!」
 呼べど、子リスは振り返ることを知らない。
 すとんと着地して、するとそこはさっきの椅子の横だった。カラスの家の家具と小物は、長すぎる地震みたいな震動にぐらぐら揺れていた。靴を履いて、早く、そうカラスが急かすのにマイコは慌てて踵を返し、元来た廊下を今度は一人駆け抜けた。狂ったランプの点滅する長い廊下を、無我夢中で駆け抜けた。暗闇の中で上履きを脱ぎ捨て、なんとか運動靴に履き替えたところで、追いかけてきたカラスに腕を掴まれ二人は玄関を飛び出した。
「まだ上履きがっ」
「そんなのは後!」
 驚いたことに『へんてこタウン』は、どこからか湧き上がってきた黄色い流砂に今にも飲み込まれようとしていた。二人の駆けていた通りの石畳も、じきに砂に覆われた。足がとられて走りづらい。カラスは右手を口元へやって、ぴゅうっ、と指笛を吹いた。途端、倒れかけていた木々の陰から、白い塊が飛び出してきた。
「マル!」
 見覚えのある、綿あめみたいなマルチーズにマイコは叫んで――それからマイコはカラスの手で、その背中に乗せられた。マイコがしがみついた、マイコの知っている五倍くらいの大きさのマルに、マイコを頼む、カラスはそう声を掛けた。
 翼を煽ってカラスは空へ飛び立った。その背を追って、おもちゃの家が沈んでいく砂漠の上を、マルは風のように疾走した。
 淡いピンク色だった空が、だんだん赤らんでいっている。星も雲も金平糖を吐く宇宙船もそこにはない。ただ、カラスの目指すところ、赤らんだ空の一番赤い場所に、真っ黒い巨大な影が暴れている。黄色の目を光らせている。マイコが怖気づいたところで、黒い怪物は泡のような砲丸のようなものをカラスへと放った。
「カラス危ない!」
 マイコの声に応えるように、カラスは翼を振るった。両翼が生み出した黒い衝撃波が、敵の攻撃を打ち崩していく。崩されたその砂塵がマイコとマルにも襲い掛かる。急にうっと気分が悪くなって、マイコはマルの首元に顔を埋める。ふいに振り返ったカラスがマイコの異常に顔色を変えた瞬間、鋭い砲丸攻撃がその翼にぶち当たった。
 カラスの声にマイコが顔を上げた時には、もう遅かった。カラスはぐるぐると回りながら、砂漠へと無防備に急落していく。その光景にぞっとしたばかりに、怪物から放たれたものがマイコとマルへと差し迫っていたことに一瞬気づくのが遅れてしまった。マイコは背に伏せ、マルは必死にそれを避けようとしたが、無駄だった。流れてきた黒い泡のひとつが、マイコの体を包み込んだ。

『――マイちゃんはちょっとだけ変ね』
 聞こえてきたのは、声だった。保健室の、先生の声だ。あの鼻にかかった声、教室に行けないマイコを見た、呆れたようなその眼差し。

 あぁ、なんだ。息が苦しい。次々砲撃がマイコを襲う。忘れかけてた音と色とが襲ってくる。落ちゆくカラスを臨む視界が、暗く明るく塗り変わっていく。

『――誰ですか、木村さんの上履きを隠したのは』
『――自分でやったんじゃねぇのかよ』
 小柴先生の声と、終わらない帰りの会に苛立った、クラスメイトの囁く声。

 マルのキャンキャン吠える声。力ないカラスの翼が近づいてくる。傷まみれの翼。ばんそうこうは足りるだろうか。間に合うだろうか、せめて地面にぶつかる前に。

 ――とぼとぼと歩く帰り道。追い越していく、無数のランドセル。連れ立って綺麗な一軒家に入っていく、四年の同級生たち。
 精肉店で買って帰る、ちょっと冷めたコロッケ。あそこのお宅大変なのよ、リコンしたんですって、お姉ちゃんの方も気を病んだというか、少しおかしくなったみたいで――耳を塞いでも流れ込んでくるご近所さんの噂話。
 マンションの七階のドアを開ける。以前より、電話していることが多くなったお母さん。受話器を置いて、たまにこんなことを言うお母さん。
『魔法が使えたらよかったのにね、幸せな頃に戻れる魔法が』
 夕暮れ、薄暗いリビングで、白く光るテレビ画面を、頬杖をついて眺めるシュン。
『オネーチャン、学校、たのしい?』


――――全部、全部、引き出しの奥底に無理に押し込んだ、目を背けていた記憶たち。

「カラス!」
 滑り込んだマルの背中に、どさっ、とカラスは落下した。左の翼が歪んでいる。マイコが触れるだけで、うっ、とカラスは呻き声をあげる。目の前に、記憶を放つ怪物は、いまだに黒く佇んでいる。マイコはカラスの手を握る。温かい。欲しかった温かみを、カラスの手はマイコにくれる。なのに、もう、どうしていいのか分からない。
「カラス、いつも一人で戦っていたの?」
「ぼくは都合のいい存在であればよかった」
 カラスはそう唸った。そんな声をかき消すようにマイコは続けた。
「カラスはわたしのために、わたしが夢ばっかり見て、妄想ばっかりして、いろんなことから逃げてるときに、ずっと戦ってくれていたの?」
「ぼくは君の、君にとっての、都合のいい存在でなければならなかった」
 そんなのってない、そう言ってマイコはカラスの体を抱きしめる。受け止められない思い出に向かって、自分の代わりに傷ついていた、黒い翼を抱きしめる。目から涙がはらはらこぼれる。こぼれて、黒塗りの翼に浸み込んでいく。
「だってわたしのことなんだよ!」


 ――世界が明るみを増していく。
 砂が消えていく。『へんてこ』なものたちも消えていく。赤かった、ピンクだったマイコの空が、真っ白な光を帯びていく。マイコとマルとマイコのカラスと、マイコの記憶の怪物だけが、マイコの視界を描いていく。
 自らの中に受け入れていく記憶が、後ろ盾になっていく。剣になり、弓になり、鋭い槍になっていく。力が湧き上がってくる。汗ばむほどに熱い手が、握り返してくる。カラスは翼を広げると、お決まりの『ニコリ』をマイコに向ける。
「……君は加湿器みたいな人だ」
 カラスの紡ぐ音が、世界のそれだけになっていく。
「君の声は、ぼくの瞳に潤いをくれる」
「君の言葉は、ぼくの翼をつややかにする」
「君の涙は――ぼくに、飛び立つ力をくれる!」
 強くはばたき、カラスはマルの背を発った。カラスの翼の巻き起こす旋風が、マイコの気持ちを扇動し、怪物へ向かっていくマルの全身の躍動が、マイコの心を高ぶらせ。消えていくコーンスープの川の、黄色く浮かぶコーンの上を、蹴りつけ、乗り越え、飛び越えて、彼女らは力いっぱい猛進していく。すっと眼前をよぎったものは、あのときの翼付きの子リスだった。子リスにかける上手な言葉が見つからなくて、マイコは奥歯を噛みしめる。悔しくて、情けなくって、なのにびっくりするほどに、体が前を向いている。
 子リスはマイコの肩に乗り、チチッと鳴いた。黒々した目が、マイコを映した。マイコは――その背に畳んだ白い翼を広げると、カラスのそれに習うように、マルの背中を飛び立った。
 風が髪を薙ぎ頬を打つ。頭の中が明るくクリアになっていく。急速に近づいてくる真っ黒い影は、もはや怪物の形ではない。マイコの一部になるはずのもの。目を背け、悲しい思いをさせていたもの。マイコが、手を伸ばすべきもの。
 カラスの左手が、マイコの右手を掴んだ。きつくそれらを握り合って、二人は飛翔した。高く、高く、高く。そこに黒く広がっている、太陽みたいな輝きの中へ。目を合わせ、呼吸を合わせて、二人は握った手と手を伸ばす。伸ばし、怖くない、怖くない、心の中で呪文のように唱えながら、黒い渦の真ん中へと、二人の腕が吸い込まれていく――


 そのあと、甘い香りがして。
 空から雪か花びらみたいに、メロンパンが降ってきた。

 降り積もる飴玉みたいなメロンパンの中を、マイコはさくさくかき分けた。その次は、へたっぴの積み木みたいなメロンパントンネルの中を、腰を屈めてくぐっていく。唾は出ず、不思議とお腹も鳴らなかったけれど、サクサクの中のふわふわの幸せが、そのあたりには詰まっていた。
 その先にあったものは、なんてことはない、小さな小さな宝箱だった。
 マイコは少し拍子抜けしてカラスを見た。世界はもう完全に真っ白になっていて、マイコの目には、彼と、その宝箱しか映らない。マイコがぼうっとしているので、カラスはその箱を手に取って、マイコへと手渡した。
「マイコはもう、持ってるよ? その宝箱の鍵を」
 そう言われて、握りしめていたこぶしをひらくと、子リスにもらったおもちゃの鍵が、ちょんと手のひらに乗っていた。
 鍵穴に差し込むと、おもちゃの鍵は容易に回った。かちっ、と音はしたけれど、それを開くのはなんだか怖くて、マイコはそっと視線を移す。君のことだろう、とカラスは笑った。その柔らかい笑い方に、マイコもちょっと気が弛んだ。
 少しずつ開けようと思って手をかけると、わずかの隙間が生まれた途端に、箱の中から、虹色の糸のような細い光が、するすると外へ流れ出した。
 力が抜けていくように、マイコと、マイコをふんわり抱きしめたカラスとは、その光の帯を見ながらゆっくりゆっくり落ちていった。じんわり回りながら下へ、下へ流れていく二人の傍を、メロンパンがふわふわ舞っていた。温かくて、せつない気持ちで、鼓動は静かでも胸が苦しくなった。両手で口元を覆っても、目だけはマイコは、その光からそらさなかった。
 光がそこに描いたのは、ちっちゃなマイコと、まだ赤ちゃんのシュンと、二人を愛おしそうに抱きしめた男の人が笑っている、一枚の古い写真だった。
 降りしきるメロンパンの姿に隠れて、だんだんそれが遠ざかっていく。変、とマイコは小さく笑う。だって、嬉しいのに、こんなにも涙がでる。さっきだって、本当はそうだったのだ。自分のために戦っていたカラスのことが悲しくて、苦しくて、なのにすぅごく温かくて。
「帰らなきゃ。思い出したの」
「ほう。聞かせてごらん」
 マイコは頷いて、目を閉じた。涙の滴がほっぺをつぅと伝って、顎の先からぽたぽた落ちた。
「今日ね、お父さんが帰ってくるの。お父さんに会うの、本当に、本当に久しぶりで……学校のこととか、うまく話せるか、怖いんだけど……」
 ほっぺたをカラスの指が拭って、ふふっとマイコは笑顔をこぼす。
「メロンパンをね、買って帰るんだ。お小遣いあんまりないから、一個しか買えないんだけど、とってもおいしいメロンパンでね。よっつにちぎって、お父さんとお母さんと、シュンとわたし、みんなで分けて食べるの。……怖いけど、楽しみ」
 それは楽しみだ、カラスの優しい声が、頭の上から注いでくる。
 目を開け、差し出された透明なガラス玉を、マイコは受け取った。きっとそれは、こぼした涙の結晶だ。手のひらに乗せていると、ガラス玉は、すうっと薄らんでマイコの胸へと吸い込まれていった。
「今日のことは、引き出しなんかじゃなく、宝箱にしまっておいて」
 ささやくようなカラスの言葉に、うん、とマイコは頷いた。
 腕が離れ、手のひらが離れ、名残惜しげに指先が離れて、さなぎから旅立つ蝶のように、マイコはカラスから遠ざかっていく。また会える、と問う声に、カラスはしっかり頷いた。
「もちろん。マイコが望むなら、いつだってぼくらはまた会えるさ」
 その刹那、花吹雪のようにメロンパンが舞いおどって、カラスの姿は見えなくなった。


 *


 ひんやりした空気にぶるっと体を震わせて、はたとマイコは目を覚ました。
 きちんと閉めたはずの入り口のドアが全開になって、そこから外気がびゅうびゅう流れ込んでいる。やめろ、あっちいけ、と叫ぶ男の子の声が聞こえて、なんだなんだ、とマイコは座り込んだまま首を伸ばした。陳列棚の影に隠れて、お店の目の前で竹ぼうきを振り回していたのは、マイコと同学年か、少し上くらいの男の子だった。なのに――タキシードを着ていない。黒い蝶ネクタイもつけていない。ハットまでかっこよく被りこなしてなんていない。そして、背中から黒い翼が生えている、なんてことはもちろんない。
 けれども、そっくりだ。マイコはこれでもかってほど目を大きく丸くする。そこで、バタバタ暴れているカラスを追い払おうとしているのは、うちの学校の体操服を着た、『カラス』そっくりの男の子だった。
 さっきマイコを驚かせたカラスがようやく去っていってから、ふーっと息をつきながら男の子は振り返った。むすっとした顔も、あ、いやえーっとこの体操服はさたまたまちょっと試しに着てて、なんて言い訳する立ち振る舞いも、ちっとも『カラス』ではないけれど。顔も背丈も、写したみたいにそっくりだ。マイコはぱちくり瞬きをしながら、えっと、と小さく言葉を落とした。
「……カラス?」
「え? あ、あー……友達なんだ、あいつ。隣町に住んでたのに、おれが引っ越すのにわざわざついてきたみたいなんだよ。……変だろ、カラスが友達なんて」
 あぁ、声まで、あまりにもそっくり。――狭いお店の真ん中にマイコがいつまでもへたりこんでいるので、男の子は照れたようにぼりぼり頭を掻いた。
「何の用? パン買いに来たんじゃないの?」
 でもぶっきらぼうな喋り方は、全然『カラス』じゃない――そこまで考えたところで、やっとマイコは現実世界に戻ってきた。正しくは、戻ってきてる、と実感した。そうだ、ここはメロンパンのパン屋さんだ。メロンパンを買うために、ここまで走ってきたんだった。
「め、メロンパン……」
 それだけなんとか声にして、わたわたとポケットに手を突っ込んで、マイコは百二十円を男の子に手渡した。男の子はそれをしげしげ眺めて、もう片方の手でまた頭をぼりぼり掻いた。
「ごめん、百五十円なんだけど」
「え、うそ」
「うそじゃない。悪いけど、今日から一個百五十円。かあさん、おれが知らない間にめちゃくちゃな値段つけるから」
 だからあと三十円、と男の子は手を出した。ぼっと恥ずかしさがこみ上げて、マイコは耳まで真っ赤になった。なんだか居ても経ってもいられなくなって、やっぱいい、と首を振ると、ほとんど泣きっ面になりながら開きっぱなしのドアをくぐって駆け出した。
 外は相変わらず寒くて、でも体は芯までぽっぽしている。足がもつれて、ランドセルのふたもぼんぼん鳴ってスピードが出ない。おい、と男の子の声がした。無視を決め込んでマイコは走ろうとした。
「おい! 上履き忘れてる!」
 けれど、そこまで言われると、やっぱり立ち止まらざるを得なかった。
 お店の玄関の前で彼が高く掲げているのは、マイコの古臭いゴム底擦り切れ上履きである。いつの間にランドセルから飛び出したのか。もう、恥ずかしい。恥ずかしいったらありゃしない。
「返してよ!」
 別に取られた訳でもないのにそう叫んで、マイコはそこまで駆け戻った。男の子は上履きを高く掲げ、なかなか下ろそうとしない。手を伸ばしてぴょんぴょん跳ねるマイコの反応を、楽しんでいるとしか思えない。
「なに、お前、四年なのな? チビだから年下かと思ったわ」
 足の甲のゴム部分に書いてある『4の2』を見ながら、男の子は嬉しそうな顔で言った。いじわるな奴だ。一端しゃがみ、特大の不意打ちジャンプをして、マイコはそいつから上履きを取り返してやった。
「あ、お、おい」
 急に威勢が悪くなって、男の子はまたマイコへ呼びかける。ふんだ、もう知らない、二度と振り返ってやるもんか、マイコはそんな気持ちで通りをずんずん歩いていく。あ、あ、あのさぁ。男の子の声は、なんだか気恥ずかしさをはらんでいる。
「おれも四年二組なんだけど……明日から」
 さっきの決意はどこへやら、マイコは思わず振り返ってしまった。
 もう一度、まじまじ眺めても。カラスそっくりと言えど、男の子は学校では見覚えのない顔である。クラスメイトどころか、学年にだってこんな顔知らない。へ、とマイコは気の抜けた声を出した。それから、あ、と思い当たるのは、お母さんの噂話。確か、小学生の息子さんが近々引っ越して来るとか、どうとか。
 男の子は見ている方がこっぱずかしくなるようなうろたえた表情で、今度は両手で頭を掻いた。
「だからその……あのさ。算数とか社会とかどこまで進んでるか、よかったら教えてくんない? ……何ならまけてやるからさ、メロンパン」
 ぼうっとして、それでもマイコは頷いていた。
 電信柱の上から二人を眺めていた影は、ひとつ翼をひらめかせると、夢の国へと消えていった。
 
> ぎょたぬ! 〜四コマ的な日々に化けてみる〜 作:巳佑
ぎょたぬ! 〜四コマ的な日々に化けてみる〜 作:巳佑
【1】
 雨がざぁざぁと歌いながら降る、とある路地に、赤い花柄の傘をさした一人の女が鼻歌交じりで歩いていた。長靴ではなく、素足でサンダルという濡れる気満々のスタイルな、その足取りは楽しげなスキップを刻んでいる。
 腰まで垂れているふわふわとした雲のような白い髪を揺らしながら、その女が歩いていると、その水色に染まった瞳が何かを捉えた。電柱の傍で力なく倒れている一匹の山吹色の生き物がそこにいた。
 体長はだいたい六十センチぐらい。尻尾は山吹色と茶色が縞模様と描いていて、太くて丸みがあるナスを連想させるかのような形。そしてあお向けで倒れている為、お腹がぽこっと膨らんでいるのが分かった。そして目元はやけにこげ茶色に染まっていた。
 この生き物は知っている、狸だ。そう女が思ったときのことだった。
 ぐぅっと、女と狸のお腹から威勢よく虫が鳴いた。
 

【いきなりクライマックス?】
 なんだか温かい空気が身を包んでいる。
 それを感じた一匹の狸がゆっくりと目を覚ました。

 若干、ぼんやりと狸の視界に映るのはどこかの部屋らしきところだった。
 自分が桃色のカーペットの上にいることをとりあえず把握する。

「あっ! ようやっと起きたんか。えらいぐっすりやったなぁ」
 ほんわかとした声がする方に狸が向くと、そこにいたのは一人の人間の女性だった。

 笑顔で包丁を持ちながら。


【いきなりクライマックス? その二】
 自分の方に向けられている鋭利な物体に狸は鳥肌が立った。
 
 もしかして殺される?
 そう本能的な声が一気に、狸の体中に広がった。

 一方、女の方はというと相変わらずニコニコ笑顔でこちらを見ている。
 止めろ、止めろ、そんな危ないものを持ちながら笑うなと狸は泣きそうだった。

「お、おれを食ってもお、おいしくないぜっ!?」
「あー。狸鍋っちゅうのも悪うないなぁ」


【いきなりクライマックス? その三】
 女のその言葉に狸は思わず後ろに飛んで距離を取った。
 背中から冷や汗がたらたらと垂れているのが狸自身でも分かった。

「あ、そういえば、あんさんしゃべれるんやなー。もしや化け狸さんかなんかかいな?」
 
 がくぶると体を震えさせ、ひたすら身の危険に怯えている様子の狸に、女は「食べへんから安心してぇな」となだめる。

 しかし、包丁を持ったままだったなので説得力は皆無だった。


【包丁怖い】
 なおも落ち着いて話を聞いてくれそうにない狸に、女は「うーん」と頭を抱えた。
 このままでは話が進まないし、さてどうしようかと。

 試しに女は包丁を置いてみて、ついでに両手を上げて何もないことと敵意がないことを示してみた。

 すると、狸の口から安堵のため息が一つ漏れた。
 
 それを見逃さなかった女はもう一回、包丁を持ってみると、また狸が怯えた。


【反応がいい子だから困る】
 再び女が包丁を持つと、狸がガクブルと身を震わせて、怯えて。

 また女が包丁を話すと、狸がホッとして。

 もう一度、女が包丁を持つと、また狸が怯えて。
 
 その繰り返しの中で、女の目がキラキラと楽しげに輝いている。
 これは面白いものを見つけたといった感じで、味をしめたようだ。


【いい加減に話を進めよう】
「お、お前、本当に食おうとしてないだろうなっ!? あ、怪しいぜっ!?」
「いやいや、たまたまやったんやって。ほんまやで?」

 そう言うや女は、距離を取ってガクブルしている狸を一旦放置しといて、台所があるところへと向かった。
 
 女が次に戻ってきたときには、その手に包丁の姿はなかった。
  
「な? これでウチは丸腰や。あんさんを食う気なんてさらさらないで?」
 女は手首をぶらんぶらんと振りながら、手持ち無沙汰だということを示していた。


【ふにふに】
 とりあえず、なんとか狸も落ち着いてきたところで女と狸はようやっと互いに面を向きながら座っていた。
 狸はあぐら、女は正座の姿勢で。
 そして、先に口を開いたのは女の方であった。

「そいで、あんさんは化け狸、であってるやろか?」

 一瞬、どうしようかと迷った狸だったが、諸々やってきた為に自分自身をフォローできる隙は全くなかったので、しぶしぶながらも正直に答えることにした。
「そうだぜ、おれはしょうしんしょうめいの化け狸だぜっ。どうだ、驚いたか、人間!」
 最後の方は腰に手を当て、鼻を鳴らしていた狸に女は言った。

「へぇー。ほんまものの狸なんかぁ。中に人入ってへん?」
「ひゃめろーっ! おへひゃ、ひょんみょもの、ちゃぬきだじぇー!!」


【ポンッ!】
 女による頬の引っ張りから解放された狸は、頬を赤くさせながらムスッとした顔になった。
 ちょっと痛かったのか、目頭からちょっぴり涙の粒らしきものが浮かんでいる。

「おれは立派な狸になる為に山から下りてきたんだぜー! なめんじゃねぇぜー! 人間っ!」
「なんや、そいならウチと一緒みたいなもんかぁ」

 狸の顔が一気にきょとんとしたものになる。
 それってどういうことだろうなのだろうと思っていると――。

 ポンっという小気味ないい音が部屋に鳴り響いた。 
  
 
【それはそれは美しい】
 もくもくと上がっていく白い煙にごほごほと狸はせき込んだ。
「すまへんなぁ、毎回、解く度にこれやからなぁ」

 徐々に煙が晴れていくと、狸の目が丸くなった。

 ビチビチと動く桜色のそれ。

 狸の目の前にいたのは上半身は人間、下半身は魚の尾ひれ――いわゆる、人魚と呼ばれる者だった。


【化かされたのは】
「どうや? ウチもあんさんと同じく、立派な人魚になる為に海からやってきたんやで?」
 
 片手を頭の後ろに、そしてもう片方の手を腰に当ててアピールを振りまいている人魚の女に狸はただただぼう然とするばかり。
 まさか自分以外にもこうやって化けることができる奴が目の前にいたとは思えなかったからである。

「まぁ、全体の姿を変えそうなあんさんと違って、ウチは一部だけやからなぁ」
 そう言いながら人魚の女は尾ひれを振ってみせる。

 すると狸のお腹から虫の鳴き声が響いた。


【お互い様ってやつ?】
「もう、おなかがすいたからってウチを食べへんでなぁ?」
「だれが食うかっていうんだぜっ! だれが!」

 そういう狸に人魚の女が相も変わらずに、尾ひれを振ってみせる。

 また狸のお腹から虫の鳴き声が響いた。

「人魚の肉は不老不死に」
「だからちげぇーって言ってんだぜっ!?」   

  
【白い煙】
「まぁ、とりあえずやな。この調子やと飯も作れへんし、もう出前にするわ」
 
 人魚の女がそう言うと、その身が再びポンっと鳴く白い煙の中に消えていく。
 毎回、あんな感じで変身しているのか、「派手だぜ」と狸は言った。   

 煙が晴れると、またそこには人間の足を生やした女が立っていた。
 
 下半身は丸出しで。


【白い煙 その二】
 目の前いる女の姿に、狸は思わず顔を赤らめて鼻血を発射した。

「いやぁ、白い煙ってこういう風に生着替えの為に隠す役目もあるんやで?」
「そういうことは早く言うもんだぜっ!?」

 顔を真っ赤にさせながら再びこちらに顔を向けてきた狸に、人魚の女は生足をほれほれと見せびからしていく。
 柔らかそうでいい感じの太ももに、スラッとした細い足。

 狸が再び鼻血を勢いよく発射させた。
「ほぉー。初心なんやなぁー」


【腹が減ってはナントカできぬ】
「ははは、すまへんかったなぁ」  
 空腹状態なのにこれ以上やると、流石に狸の体力がやばいかと思った人魚の女は冗談をこれまでとして、近くにあったロングスカートを履いた。一方の狸は鼻血を垂らしながらあお向けに倒れている。

 そして人魚の女は水色のスタイリッシュな携帯電話を取り出すと、ピポパポと目的のナンバーを押した。
「あ、そちらスーパー特急のピザ屋はんですかいな? すまへん、チーズたっぷりハムピザLサイズ二つお願いできへんやろか? 住所は――」

 それから電話を切ると、人魚の女は狸の方に向いてニコっと笑った。  
「おいしいもん頼んだから、それで許してぇな」

 おいしいものという単語に、耳をピクピクと動かした狸はむくりと起き上がる。
「お、おいしいもんっ?」
「そうやで、めっちゃ食わせてやるから、ほな覚悟しぃな」
 相変わらず、狸の鼻からは鼻血がこぼれていた。


【ピザが届くまで】
「さてと、これで準備はできたっと、後はピザを待つだけや」
 折りたたみ式のテーブルに一人と一匹分の飲み物を置くと、人魚の女は座った。
 
 向かい側には狸がピザを今か今かと楽しみに待っている。
 その鼻には鼻血を止める為にティッシュが詰め込められており、白い大きな鼻毛が出ているようなその顔に人魚の女は笑った。

「わ、笑うんじゃねぇぜっ!」
「いやぁ、すまへんなぁ。これは中々のケッサクやで……ぷぷぷ」

 一回、顔を背けてそう詫びていた人魚の女だったが、再び狸の顔を見ると、腹を抱えて笑った。


【ピザが届くまで その二】
「まぁ、冗談はともかくな」
「冗談に聞こえないぜ」

 とりあえず飲み物を一口飲んで、落ち着いた(らしい)人魚の女が狸に尋ねた。
「さて、これからやけど、あんさんはどうするつもりやねん?」

 確かに今は家に上がっている狸だが、これからまた旅に出るかなと思っていると狸は真剣な顔で言った。
「もちろん、おれはまた旅に出るぜっ! 立派な狸になる為にはここで足止めばかりしてても駄目だしだぜっ!」
 しかし、真剣顔と鼻にティッシュ詰めという見事なギャップコンボに人魚の女は口元を一瞬だけ歪ませた。

「……さ、さよか」
「おい、今、ちょっと、お前、笑っていたぜっ!?」


【ピザが届くまで その三】
「まぁ、ともかくや。あんさん、見聞きしたところまだ半人前そうやし、どうや? ここいらでちょいと修行していくっちゅうのは」
「な、何を言ってるんだぜっ!? お前っ!?」

 いきなりの提案に旅を続ける気満々だった狸はもちろん反発を覚えた。
「せやけどなぁ、これからまたここを旅したところでまたお腹空いてばたんきゅーっていうオチが見え見えやで?」
「そ、そんなことやってみなきゃ分からないんだぜっ!? それにおれは早く立派な狸になりたいんだぜっ!?」

 馬鹿にされてたまもんかという勢いでいきり立ってくる狸に、人魚の女はまぁまぁと両手を前に示しながら諭す。
「今回はたまたまウチが通りかかったから良かったもんやけど、これがハンターとかに拾われたらどうするやねん、はく製行きで死ぬで?」
「そ、そんなこと、分かるもんかだぜっ!」

 なおも噛みついてくる狸に人魚の女は両腕を組みながら、うーんと頭をかがめる。
「もしかしたら、鍋マニアモンスターに拾われるかもしれへんしな」
「なんだぜ、鍋マニアって」


【ピザが届くまで その四】
「ええか、鍋マニアモンスターっちゅうもんはな、なんでもかんでも鍋料理にして、究極な鍋を求める奴らのことを言うやねん!」
「そ、そんなのがあんかのだぜっ!?」 

 聞き慣れない単語に思わず聞き入った狸に、人魚の女は更に続ける。
「ウチら人魚族でも大変注意人物にしている奴らなんやで。不老不死になれる鍋なんて、あいつらにとったら最高すぎやろ」

 ずいっと顔を寄せて来た人魚の女に押されるかのように、狸はまゆつばを飲み込む。
 ゴクリと喉が緊迫音を鳴らす。  

「それに狸鍋っちゅうもんも、あいつらにとっては目玉鍋みたいやで?」


【ピザが届くまで その五】
 そんな怖いものがいたのか、そうなのかとその話をすっかり信じた狸はガクブルと身を震わせた。
 
 今の自分のままではきっと食われてしまうというところを無意識に、頭によぎらせた狸は更に額から汗を垂らしていく。 

「な? ここでしっかりと修行して力をつけていかんと、ここから先きついで? ここならウチがおるし、ここを拠点としていっぱい修行すればええやないかなぁ」

 そう微笑んで語りかけてくれる人魚の女に狸はうーんと頭を抱えた。


【ピザが届くまで その六】
 確かにここなら場所も食べ物を確保できるし、なにより先輩らしき存在もある。
 頼りになるかどうか分からないが、少しはマシになるというものだ。

 そうやって狸がしばらく考えた後、答えを出した。
「……分かったぜ。しばらくここでお世話になるんだぜっ」

 その答えを聞いた人魚の女の顔が満足そうに頷いた。
「それがええで、それが」

 そして、玄関からピンポンという電子音が鳴り響いた。
 まるで、何かの始まりを示すかのように。


【ピザほくほく】
 テーブルの上に置かれた二枚のハムの上にチーズがたっぷり乗せられたピザに狸が熱視光線を当てている。
 もちろん尻尾は楽しげに揺れていた。

「ピザは初めてかいな?」
「おうだぜっ。話は聞いたことあるけど、実物を見たのは初めてだぜっ!」

 人魚の女がナイフで六等分に切れ目を作ってやると、一切れを狸の皿の上に乗せてあげた。
 香ばしいチーズの匂いが狸の鼻を更にくすぐらせていく。

「よしって言うまで、食っちゃあかんで?」
「犬と一緒にすんじゃねぇぜっ!」

 
【チーズもぎゅもぎゅ】
「熱いから気ぃつけてな?」
 そんな忠告が聞こえているかは不明だが、狸は早速、ピザをがっつき始めた。

 一口食べて、それから伸びるチーズに狸の目がキラキラと光る。

 もう一口食べてみて、また伸びるチーズに狸の目が再びキラキラと光った。

「もぎゅもぎゅ。チーズに恋してしまったようやなぁ」
「そ、そんなことないんだぜっ!?」
 しかし、チーズが伸びる度に尻尾を振らせていたので、人魚の女にはバレバレだった。


【食べ終わって】
「ふぅー。食べた、食べたでぇー。もうお腹いっぱいや」
 そう言いながら人魚の女はお腹をポンポンと軽く平手でたたいていた。

「食べたぜー。うまかったぜー」
 満足そうな狸のお腹もポンポンと膨らんでいた。

 自分も狸になったみたいと言おうとして、人魚の女が狸の顔を向いたときに吹き出した。

「な、なに笑ってるんだぜっ!?」
「ひゃはははっ! チーズで思いっきり泥棒ヒゲができてるでぇー!」


【ようやっと自己紹介】
「ひゃ、ふぅふぅ、すまへんなぁ。まぁ、これからよろしゅうってことで自己紹介でもしようや」
「お、おう、そうだぜっ。なんか怒りそびれた感がある気がするけど、気のせいにしとくぜっ」

 最初に人魚の女の方から、名乗りを上げた。
「まずはウチやな。ウチは白澪沙璃(しらみお しゃり)っちゅうんや。よろしゅうな」

 続けて狸が名乗りを上げた。
「おれは零(ゼロ)って言うんだぜっ!」

 そう狸――零が言った後、沙璃は思いっきり笑った。
「だ、駄目や……! チーズの泥棒ヒゲが受けるでぇ……!! ひゃははは!」
「わ、笑ってんじゃねぇぜ!? コラ!」


【2】
 真っ暗闇の空間に一匹の狸が立ち尽くしていた。
 ここはどこなのだろうか? 誰かいないのか? あちこちと歩いてみるが光は見えず、いるのかいないのかと声をあげてみるが返事はなく、やがて狸は歩き止まってしまった。ただの暗闇で一匹だけ。一匹だけというのは旅でもう慣れている、はず。そう狸が思ったときだった。
「やーいやーい」
「やーいやーい」
 狸が左に右に顔をせわしなく向かせるが誰もいない。むしろ、今、届いた声は耳にというより頭に響いてきた感じが狸にはあった。
「おーちて」
「こぼれちゃって」
 狸は誰だと声を荒げた。なんか馬鹿にされているにしか思えない言葉にいら立ちを募らせながら。
「なんにもないない」
「なんにもないない」
 だけど、聞こえてくるのは嫌みしか言わない何かの言葉。それが歌うかのようにまだまだ続けられていくと、なんだか胸が苦しくなってきた狸は思わず耳をふさいだ。しかし、直に頭へと響いてくるらしい、その言葉が止まることはなかった。
「やめろ、やめろ、やめろ! おれは、おれは……!!」


【目覚め】
 ちゅんちゅんと鳥の声が朝を告げる中、狸はハッと目を覚ました。
 悪夢を見たことを示すかのように額から背中から汗が流れている。

「ゆ、夢か。び、ビックリしたぜ……」
 そう言いながら、依然と高鳴る胸を落ち着かせる為に一杯の水をちょうだいしようと狸は立とうとした。

 しかし、立てない。
 何故だろうと狸が思ったのと、自分の腹の上に何かが乗っていることに気がついたのはほぼ同時だった。

「ぽよよ〜……ぽよよ〜……やでぇ〜……」
「人の腹の上で寝てんじゃねぇぜっ!!」


【狸の腹】
「……ったくよ、本当にあきれるぜ!」
「だからすまんかったってゆうとるやんかぁ」

 朝食の時間。
 夜中閉じられていたカーテンは開かれ、部屋いっぱいに朝日が入り込んでいる。
 その光を浴びながら、テーブルの上に置かれている朝食を人魚の沙璃と狸の零はモグモグと食べていた。

 真白なガラス製の皿に乗っている朝食はスライスチーズと食パンで、飲み物は牛乳。
 零の機嫌を直す為にか、沙璃は零の皿にたっぷりのスライスチーズを乗せていた。

「もっと気持ちええ枕にならんといかんっちゅうのに、ウチとしたことが早すぎたマネを」
「おれの腹を枕代わりにしてんじゃねぇぜっ!!」


【まだまだ】
 この人魚の家に居候させてもらってから一週間、ずっとこんな調子だから困る。
 朝食を食べ終わった後もそんな文句を呟きながら零は頭の上に葉っぱを乗せた。

 そしてくるっと一回転ジャンプを決めると、ポンっという小気味のいい音が響き、白い煙が舞う。

 そして煙が晴れると、そこに現れたのは一人の少年だった。
 背はこれから伸び盛りそうな小学生高学年ぐらいで、上は黒の半そで、下は青いジーンズを履いていて、一見、普通の人間となんら変わりのない姿。

 ただ一つ、頭の上にピコピコと動く二つの分度器みたいなものを除いて。


【尻カクレテ頭カクサズ】
「なぁ、毎回、思うねんけど、なんで狸耳だけが出るんや?」
 零の変身した姿にちょっと残念そうな声をあげた沙璃を見て、馬鹿にされたと思った狸がいら立つ。
 
「おれだって、ちゃんと耳が出ないように努力してるんだぜっ!?」
 確かにまだ半人前だ。ここまで来るのにも人間に化けるときにはちゃんと頭を隠すようにと零は一苦労していた。

 その零の言葉に沙璃は違うと右手を横に振った。

「人間のときやったら、尻尾枕っちゅうのも悪ぅないと思ってな」
「いい加減に枕から離れろよだぜっ!!」


【勉強?】
「これから図書館かいな? 勉強熱心やなぁ」
「まぁな」
 とりあえず沙璃からもらった、狸耳隠し用の黒いスポーツキャップをかぶると零はそういえばと声をあげる。

「前から気になっていたんだけどよ、お前はどこで勉強してんだぜ?」
 一週間前からずっと零は気になっていた。
 沙璃から本がいっぱいあって勉強ができるという図書館というものを教えてもらった零はそこに行っているわけだが、一方の沙璃はその間に何をしているのかが非常に気になってくるというものだった。
 
 その零の問いに沙璃は一つの桃色にカラーリングされた板らしきものを零の前に持ってきて得意げに言った。

「ウチはこのノーツパソコはんがおるから大丈夫やでっ!!」
 零の目がなんだか白くなった。


【湿度事情】
「だってぇー。ウチ、湿度があらへんと外出れへんもんよー。雨が降ってきてくれれば一発なんやけどなぁー」
「なんで、湿度がねぇと駄目なんだよだぜっ!?」
「人魚やから?」

 なんだそれはとでも言いたげに見てくる零に対して、人魚は真面目な顔をしながら答える。
「地上に来るまでは海暮らしやったからなぁー。多分、それが影響されてるんちゃう? とりあえず湿度がないとあれやし、あの加湿器も二十四時間営業や♪」

 沙璃が指で示した先には水色のボディーに白い花柄をまとった一機の加湿器が働き続けている姿。

「湿度70%以下がマイバッドヒューミディティーで、湿度82.5%がマイベストヒューミディティーでな」
「知らねぇぜっ!!」


【見たことないから】
 もういい、このまま沙璃の湿度話になんか付き合ってられないと、零は家を出ようとしたが沙璃に腕ごとグイっと呼び止められてしまう。

「なんだぜっ!?」
「これ、持っていきぃな」
 
 そう言われながら沙璃が零の手の上に乗せたのは赤色に染まった長方形の何か。
 なんか四角いものが埋め込められており、数字が書かれた丸いものもある。

「……新手のノミ取り道具かだぜ?」
「いや、携帯電話やから、それ」


【初心者ですから】
「うお、言葉では聞いたがあるけど、これが携帯電話なのかだぜ」
「使い方、分かるん?」

 もちろんだと言いながら狸は胸を張った。
 しかし、見たときにそれが携帯電話だと分からなかったのだから……というツッコミは沙璃は心の中だけに秘めておく。

「えーとだぜ、確か……」
 そう言いながら、きょろきょろと何かを探すかのように零首が動く。

「糸ってどこかにねぇのかだぜ」
「それは糸電話や、あんさん」


【初めてあるある?】
 沙璃はとりあえず、使い方の説明を零に施すことにした。
「えぇか? この丸ぽちにある数字をな、電話をかける相手の番号通りに押すんや」
「なぁ、先端とかにあるのはノ、ノミのやつかだぜ?」
「いや、それは声を聞く為の穴と、相手に声を送る為の穴やで」

 とりあえず、携帯電話というものがなんたるかを分かった零は適当にボタンを押してみた。

『1、1、0』

 沙璃が慌てて零から携帯電話を奪い取った。


【いい感じ】
 とりあえず繋がる前になんとか切った沙璃はかけてもいい番号、つまり自分の携帯電話番号を零に教えてから見送った。

「さて、ウチも頑張らへんとなぁー」
 伸びをしながら沙璃は居間に戻る。
 あの零という狸はまだまだ抜けているところはあるが、根は真面目で努力屋というのを、沙璃はこの一週間で理解した。

 種族は違えども、一人前になるという志は一緒。
 自分は零より先輩みたいだが、追い抜かれないように頑張らないといけないなと思いながら沙璃は桃色ノートパソコンを開き、左クリック一つ入れる。

「今日もえぇ波がきとるなぁ」


【お互い様というやつ】
 沙璃が家でパソコンを興じている中、図書館に到着した零は早速、勉強すべく本を集め始める。

 人間社会などを知って、この世を渡り歩く為にと零がいき込んで集めた本とは――。

『チーズの歴史を歩もう!』
『チーズ料理レシピ』
『チーズの魅力、教えます!』
『スライスチーズ工場』

 零の口からよだれが垂れたのは言うまでもない。
 

【3】
 雨がしとしとと降る中で、楽しげに揺れている赤い花柄の一つの傘と平坦に歩き続ける黒い星柄が特徴的な一つの白い傘。
「はぁー。テクニシャンな加湿器もええけど、やっぱ雨もええな♪」
「そういうもんかぜっ?」
 ルンルンと鼻歌混じりにステップを決める沙璃のテンションによく分からないと零は首を傾げる。
 本日は雨なので、乾燥嫌いの沙璃も外へ出られるということもあり、今回、彼女と零は少し遠出しようということになった。
「そういう、零やって電車の中ではルンルンやったなぁ。座席に座るなり窓に顔をベタァってつけたりしてたよなぁ?」
「は、初めてだったからしょうがないんだぜっ!」」
「あれは中々の芸やったでぇー」
「うっせいぜっ! そ、それよりもこれからどこに行くんだぜっ!?」
「遊園地や、遊園地♪」 


【入り口なり】
 沙璃と零が住んでいるところの最寄駅から三駅ほどのところに遊園地があったりする。
 人が集まる都会に位置しているそこは休日になると家族連れやカップルや友達同士などで、賑わっているのだが――。

 流石の雨に人も少しまばらである。

「まぁ、人が少ない分、アトラクションも乗りやすいし、まぁええやろー?」
「ぽ、ポジティブってやつなんだぜ……」
 とりあえず沙璃と零は一日中、アトラクションに乗ることができるといった遊び放題のフリーパスを買いに入り口の売り場に向かう。

「大人二枚だぜっ」
「いや、あんさん子供やろ」
「子供扱いすんじゃねんだぜー!」
「半人前のはずなんやけどなぁー」
「バカにするんじゃねぇんだぜー!」
 店員さんは苦笑する他ない。


【早速すぎる】
 だだをこねる零の頭を抑えながら沙璃が大人一枚と子供一枚のフリーパスを購入して、いざ中へと入場する。
 そこまでは口を尖らせていた零だったが、中の様子を見たらそんな怒りもどこへやらと飛んでいった。
 
 広がるかぎりのアトラクションの数々。
 コーヒーカップやメリーゴーランド、フリーフォールやジェットコースターといったアトラクション。

 そして飯所や売店なども、この世界に入ってきた人々に向かって手を招いている。
 沙璃は目指すべき方向へと拳を天に突き出し、勢いよく歩き出した。

「よっしゃー。お土産買いに行くでぇー!」
「今なのかだぜっ!?」


【こいつらも?】
「冗談やて、冗談♪」
「ったくだぜ……」
 とりあえず売店から離れた沙璃と零は屋内ジェットコースターなるものに乗ることにした。
 ちなみに屋外のもあったのだが、そちらは残念ながら工事中のようで乗れなかった。

「うお!? なんだぜっ!?」
 屋内ジェットコースターを目指す沙羅と零の前には一匹の大きい白いうさぎが現れた。
 もちろん本物の白いうさぎではない。もこもことした着ぐるみである。ちなみに眼は赤だ

 その白い着ぐるみはしゃべっちゃいけないタイプの方で、必死に腕や足でダンスをしまくってしアピールしていた。

「こ、こいつも化けているんかだぜ……!?」
「うん、そうなんやで。この子も一人前になる為に頑張っとるんや」
 沙璃は子供の夢を壊さないでおくことを選択した。


【一方的な】
 踊り続ける白いうさぎに何を思ったのか零がスタスタと近づいていった。

 やっと来てくれたと白いうさぎは踊りを止めて、腕を広げいつでもウェルカム体勢に。

 零は白いうさぎの前に止まると、人差し指を前に突き出し言い放った。
「かちかち山で勝ったからって、調子に乗ってんじゃねぇぜっ!?」

 その一言だけ置いて去っていく零に、白いうさぎはただただ見送ることしかできなかった。


【制限】
 お目当ての屋内ジェットコースターに到着した沙羅と零だったが、そんな彼らに最大の試練が立ちはだかった。

「なんだぜ? これ」
「あー。これな。この身長よりも低ぅやったら乗れへんっちゅうテストやな、テスト」
 先程の白いうさぎの着ぐるみと同じ、白いうさぎのキャラクターの板が屋内ジェットコースターの入り口立っている。
 確かにその近くには『これより低い人は乗れません』という注意書きがあった。

 身の丈は約百四十五センチといったところか。
 百六十を超えている沙璃はともかく零はギリギリかもしれない。
 意を決して零がその板の隣に立つと、ちょうど同じだった。

「どうして泣いとるねん」
「この白いうさぎと同レベルなんて、おれは認めねぇぜ……」


【震え】
『それではー、皆さん。屋内ジェットコースター、デッド・ブラックホールをお楽しみくださいませー』
 お客達が赤い機体の縦長な乗り物に乗って、安全バーも閉め終わると、そのアナウンスを合図にコースターが動き出した。
 ブラックホールという名にふさわしく、中はほとんど真っ暗である。
 
 沙と零は隣同士に座っており、ニコニコ顔を浮べる沙璃に対し、ガクガクブルブルと零は身を震わせていた。
 どうやら最初のゆっくりと昇る感覚に、何かを感じたようである。
「怖くなってきたいかいな?」
「別に怖くなんかねぇぜ。こ、これは武者震いってやつだぜっ!」
「ほんなら、バンザイしようで、ほなバンザイ、バンザイ」
「は? バンザァ――」

 一気に下降し、風が体を切った。

「アァァァァアアァアアァァァァアアアアアァアアアアア!!!!」
 イがどこか飛んでいったようだ。


【コーヒーカップ】
「うぅ……」
「大丈夫かいな? 零」
 屋内ジェットコースターは無事に終わったが零は無事には終わらなかったようだ。
 あまりの衝撃だったようで、よく変化を解かなかったと沙璃は零の肩を優しくたたいていた。

「こ、こんなところで音を上げちまう、おれじゃねぇぜっ」
「ほんなら次はあれに乗ろうや」
 
 そういって沙璃が指で示したところはコーヒーカップであった。
 屋根にテントが張られているので、雨でもできそうである。

「あそこはなぁ、コーヒー豆になるんやで、ウチら」
「なんだとだぜっ!?」


【挽きすぎ注意】
 沙璃と零が目当ての場所にたどり着くと、そこには可愛らしいコーヒーカップが七、八個ぐらいそこにあり、沙璃と零は水玉模様のコーヒーカップに乗る。

「ここではどうすんだぜ?」
「コーヒーカップがな動き出したらな、この円盤を回して、ひたすら挽くんや」

 ほどなくコーヒーカップが愉快な電子音に乗って動き始めると、沙羅がコーヒーカップの真ん中で棒に刺さっている円盤を回してみせる。
 すると、ぐるんとコーヒーカップに円運動がかかった。

 続いて零も沙璃に習って、円盤を握り、思いっきり回すとぐるんと大きくコーヒーカップが円運動した。


【挽きすぎ注意 その二】
 円盤を回したときに揺れるコーヒーカップに味をしめたのか、零がひたすらぐるぐると円盤を回し続ける。

 ぐるぐるぐるぐるとコーヒーカップの円運動が加速していき、零の視界がぐにゃぐにゃに歪んでいき――。
 
「ありがとうございましたー!」 
 終わった後、零はもちろん気分が悪くなった。まさにコーヒーカップ酔いである。

「零、いまやったらおいしいコーヒーになれるで?」
「なんで、おめぇは平気なんだぜぇ……?」
 一方の沙璃はニコニコ顔を絶やさなかった。 


【ゆっくりとでも】
 ここまでスピード感が満載のアトラクションを体験した沙璃と零はここいらでゆっくりとしたものを乗ることに決める。
 流石にこのままでは慣れていそうな沙璃はともかく、遊園地初体験の零がばたんきゅーと倒れてしまうのは目に見えていた。

「そうやなぁ、せっかくやし、今度は観覧車でも乗ろうで♪」
 そう言いながら沙璃が指さした先には大きな円状にたくさんのゴンドラが実についているアトラクションである。
 
 しかし、それを見た零が何故だかまたガクガクブルブルと身震いをした。
 その様子に気がついた沙璃がどうしたのかと零に尋ねると、今度は素直に答える。

「か、風車みたいにぴゅーって、ぐるーって回るのかぜっ?」 
「ないないで」


【観覧車の中で その一】
 観覧車の搭乗口に沙璃と零が到着すると、スタッフの案内に従うことに。
 ゴンドラに乗る際に、相変わらず零はガクガクブルブルと身を震わせていたので、沙璃は手を繋いでゆっくりと一緒に入った。

「ほ、本当にいきなりぴゅーって動かないだろうなだぜっ!?」
「大丈夫やて、ゆっくり回る、それが観覧車っちゅうもんやで」

 しかしいつ自分を裏切っていきなり観覧車が急加速するか分からなくて、まだガクガクブルブル言わせていた零に。沙璃は春色ロングスカートのポケットから二本の缶を取り出し、零に渡す。
 それは温かい缶コーヒーであった。

「お前……」
「ほんまは飲食禁止やけど、これでも飲んで落ち着きぃな」


【観覧車の中で その二】
 温かい缶コーヒーで身も心も温かくなった零は気分が落ち着いたらしく、今は興味津津に外を眺めている。
 どんよりとした空であるが、それでも街並みが遠くまで見えた。

 ここまで旅してきたんだなと改めて自分の旅を振りかえった零に沙璃は尋ねた。
「なぁ、お互い大変やな。一人前になる為にここまでやってきて。辛いこともたくさんあったやろ、あんさんにも」

 少しの間、沈黙が流れた。
 確かにと零は思う。ここまでうまく化けることができずコソコソしていたり、中々食糧に巡りあえなかったり、はたまたどうもうな犬に追いかけられることも珍しくなかった。

 そんなことを思ってから零は視線を外に向けたまま言った。
「でも、悪いばっかりじゃなかったぜ。今はちょっとだけ、そう思えるぜ」


【観覧車の中で その三】
 自分の言ったことが恥ずかしかったようで顔を赤らめているのが横顔からでも伺える。
 そんな零に沙璃は思わず微笑んだ。

「ウチもなぁ、立派な人魚になる為にここまで来て初めてのことばかりでな、面白かったこともあれば、戸惑いがちでしんどいときもあったなぁ」
 
 沙璃はゆっくりと立ち上がると、そのまま零の隣に座った。

「隣に誰かがいるってええよな。零が来てから、日々がもっと楽しくなった気ぃする」


【観覧車の中で その四】
 いきなり沙璃が隣に座ってきて最初は驚いていた零だったが、特に嫌がることもなく、そのまま沙璃の隣に座り続けた。

 自分がここに来て、気がつけばもう早二か月ぐらい。
 その間の生活を振り返ってみると沙璃に結構お世話になっているのだと改めて気がつく。

 おいしいチーズをくれたり、色々なことを教えてくれたり、変わった奴だけど、嫌いじゃない。
 どっちかと言われれば――。

「こ、今度、腹枕券でもやるぜ」
「おっ、おおきにな♪」
 できればこれからもこの日々が続けばいいなと零は思うようになっていた。 


【4】
 観覧車も乗り終わり、沙璃と零は一回トイレに向かうことにした。
「ええかぁ? 女子トイレに入っちゃあかんで?」
「そんなこと分かってるぜっ!」
 そんなやり取りの後、男子トイレに入った零は様式トイレに入った。まだこの姿での立ち動作には慣れていないからである。
 これからどんなアトラクションに乗ろうかなと考えている間に無事トイレが終わり、手を洗って、零がトイレから出ようとしたときであった。
 目の前に男が現れた。
 横幅の大きいお腹を携えた、かっぷくの良さそうなタキシード姿の男である。
 こいつ、なんだろうと思った瞬間――。
「零殿、お探ししましたぞよ〜」
 その男が笑って、嫌な予感がした零が逃げようとしたが簡単に捕まり、そのまま布を口にあてがれ、眠らされてしまったのであった。


【待ち】  
「中々、出てこんへんなぁ」
 
 女子トイレから出てきた沙璃は男子トイレがある方へと顔を向けながら、そう呟いた。
 トイレ前で別れてからもう二十分は過ぎている。もしかしてお腹を壊したのだろうか。
 初めての遊園地でテンションアゲアゲだったし、当たっているかもと沙璃はもうちょっとだけ待つことにした。

 しかし、それから更に十分が経過したが、一向に零は出てくる様子はなかった。

「何があったんかいな」


【そりゃ誰だって驚く】
「うーん、様式は誰もおらんし、和式にもおらんなぁ」
「…………」

「あ、もしかしたら、掃除用具の中っちゅうのは……ガチャッとな……んー、おらへんなぁ」
「…………」

「なぁ、あんさん。ここに小学生くらいの黒い帽子を被った少年とかおらへんかった?」
「……えっと、いなかったっすけど……」
「そうか、おおきに♪」 

 去っていく沙璃の後ろ姿を見送りながら、ニ十歳半ばと思われしき通行人Aは呟いた。
「ごめん、おふくろ。俺、お婿さんにいけないかもしれない」


【頼むから嘘だと言ってくれ。(通行人Aの心情より抜粋)】
 立ち小便しているときにいきなりの女性来訪。
 
 これから先、どうしよう。果たして男としてやっていけるのだろうか。

 実家にいるおふくろにこの話を聞かしたら泣くだろうな。友達にばれたら、ゆする為のネタにされるなと通行人Aが思っていると、手洗いがある方のL字壁の先から先程の女性が現れた。
 
「ほんまにおらへんかったよな?」
「いませんよぉー!!」
 流石に泣きたくなってきた通行人Aであった。


【手掛かり】
 男子トイレにはいないようだし、さて、どうしようと模索しながら沙璃は男子トイレを後にする。

 一見、零は勝手にどこに行きそうなところがありそうだが、しかし、今、この状況で勝手にどこかに行くのだろうかと色々と考えていたときだった。

 偶然、目の前に黒い帽子が落ちていた。
 他の者だという可能性があったのだが、沙璃の目は鋭く光り、そして彼女は舌なめずりを一つした。

「これは、事件やな」


【一方、その頃】
 とある森の中に存在する一つの里、そこに一匹の狸が立っていた。
 
 ここは、もしかしてと思いながら狸が歩いていると、一匹の狸は小さい狸が他の狸達にイジメられているところに出くわす。
「やーい、やーい。落ちこぼれー! 落ちこぼれー!」
「お前だけらしいよなー。一族の中でうまく化けられないのって」

 そのイジメの所より自分を挟んで右側からまた別の狸の声が聞こえてくる。
「なぁ、なんでアイツはオレ達の一族にいるんだ? 正直言って、お荷物だぜアイツ」
「本当に落ちこぼれって意味だよな、アイツ。一生この里から出られないんじゃねぇーの?」
「それ、言えてるぅー」

 その狸の目頭が熱くなっていった。


【ココロイタイ】
 泣いてたまるもんかと狸が必死に我慢していると、いきなり里が消え、狸は真っ暗闇な空間に投げ出された。

 すると、その狸の目の前に現れたのは二匹の大きな狸で、大きな腹と尻尾も有していた。一匹は片眼鏡をかけており、もう一匹はキセルを口にしていいて尻尾の付け根には赤いリボンみたいなものが蝶々結びされている。

 二匹――その小さな狸の両親は寂しそうな顔を浮べていた。
 何かに裏切られたとでも言いたげな、そのような解釈にも取れなくない。
 
 その顔に小さな狸の体が震えてしまった。


【アタタカイ】
 もう我慢してきたものが一気に爆発してしまいそうだった。
 歯をギシギシと音を立てながら小さな狸はもう駄目だと思っていた。

 ついに小さな狸は膝をガクンと崩してしまう。もうこれ以上は――。

『どうや? ウチもあんさんと同じく、立派な人魚になる為に海からやってきたんやで?』

 そのときだった。
 そんな声が頭に響いてきたのは。


【マケナイ】
 小さな狸の心から浮かび上がっているのは一つ一つの想い出。
 一緒に一人前になろうと手を取ってくれたあの人魚。
 
 それは一緒に一人前になろうと手を取ってくれた白いふわふわした髪をもった人魚との日々。
 チーズをたらふく食べた日のこと。
 パソコンという機械を教えてもらった日のこと。
 自分の腹を枕代わりに使われる日のこと。
 
 気がつけば、小さな狸は泣いていた。
 その涙に込められている意味は悲しみなんかではない――。

 勇気をくれるものであった。


【ちょっとだけかもだけど】
 小さな狸――零がハッと起きたときにはそこは人知れずな路地裏にある倉庫内であった。
 体には暴れないようにする為にか、しめ縄がぐるぐると零の体にとぐろを巻いている。
 ちなみに変化の方は解かれていて、元の狸の姿である。

「おや、零殿、起きましたぞよ?」
「まぁ、早い起床でありまして。すぐには起きられないように、悪夢の術を一つ入れておいたのですが」

 拘束されている零の前には二匹の狸が座っていた。
 一匹はかっぷくの良さそうな大きな腹を持ち、首からそろばんをかけている狸で、もう一匹は狸にしてはスマートな体つきが特徴的の狸だ。
「お前ら……太村(ふとむら)と、細崎(ほそざき)だな、だぜ……!」

「お久しぶりですぞよ、零殿」
「全く、手間をかけさせてくれましたね、貴方は」 


【ちょっと待て】
「なんで、お前らがここにいるんだぜ!?」
 零がいきなりそう噛み付いてくると、スマートな体つきの狸――細崎は鼻を鳴らしながらすまし顔で言った。

「それはこちらの台詞ですよ、零様。里の掟を破って、何をやっているのですか?」
「見ての通り、修行だぜ、なんだよ、悪いのかだぜ!?」
 零の刃向い言葉に細崎の目がカッと鋭くなったが、零が先に言葉を続けた」

「あのままじゃ、おれは駄目のままなんだって気がついたんだぜ!? おれは一生、半人前のまま里で一生を暮らすなんてごめんだぜ! 自分から行かなきゃ駄目だって、気がついたんだぜっ!!」
 
 その言葉にそろばんを首からかけている狸は号泣していた。
「うぅ、零殿、立派になりましたぞよよよよ」
「分かってくれて嬉しいんだぜ」
「勝手に話を進ませないでくれませんか」


【ようやく】
「いやぁ……零殿、やはりわたくしの見る目は間違いではなかったぞよ、さささ」
「ちょい待ちまなさい、太村」
 縄を外そうとしている太村を止めた細崎はどこからか鞭を一本、取り出した。

「やっぱり、これはお仕置きが必要なようですねぇ……」
「わたくしめもやられるのぞよ?」
「顔を赤らめながら聞かないでください、恥狸が」

 とりあえず、邪魔な太村をどかし、細崎が零にお仕置きをしようと鞭を振り上げようとしたときのことだった。
 細崎の後方から待ったがかかった。
「ちょっと、待ちぃやー!!」

 細崎がその声をだした主の方に向くと、そこには一人の白い髪を持った女がいた。


【色々違う】
「沙璃!!」
「ようやっと会えたなぁー、零。探したんやで?」
「ど、どうしてここが分かったのですか?」

 まさかここまで追ってくるなんてという驚いていた様子の細崎に沙璃は手に持っているものを示す。
 それは赤一色の携帯電話であった。

「へへへ、零に一台、持たせて正解やったわ。GPSっちゅう機能を使わせてもろうてな、ここまでやってきたんや」
「GPS?」
  
 聞いたことのない様子の零に、沙璃はちょっと考えた後――。
「頑張っている、ぽんぽん狸の位置を、探せる。略してGPSや」
「グローバル、ポジィティング システムですよね、それ」


【お約束】
「とにかく、GPSとはこちらも油断していましたね……」
 沙璃からもらった一台の携帯電話は零の尻尾の中に大事に入っていた。
 荷物検査みたいなことをされなくて、零は運が良かったのである。

「さてと、ええ加減に零をこっちに返してくれへんか?」
「そうはいきません。零様は里の掟を破ったのです。早急に帰らせます」

 掟という言葉に首を傾げた沙璃の為に太村が代わりに答えた。
「わたくしたちの里では半人前の狸は里に出てはいけないという掟があるですぞよ。一人前と認められて初めて里を出られるぞよ」
 
 それを聞いた沙璃はフーンと声を上げた。
「ルールは破る為にあるもんちゃう?」
「認めません」


【だって】
 沙璃が胸に手を当てて主張する。
「ウチら人魚やって、半人前から修行っちゅう名目でウチみたいに里から出されている奴がおるで」

「貴方の一族と一緒にしないでください、というか、人魚だったのですね。どおりで只者ではないと思ってましたよ」
「それ、本当かだぜ?」
「かっこつけているだけぞよ、いつも細崎は――」

 細崎が二匹の陰口をたたこうとするのと、ポンっという音が響いたのはほぼ一緒だった。

 白い煙が晴れた先には、一匹の美しい桜色の尾ひれを持った人魚がいた。
「白澪沙璃っちゅうもんや、よろしゅうな」


【太村はそっち系】
「え、白澪ぞよ?」
 そう声を上げたの太村であった。
 沙璃の美しい人魚姿に驚いたのではなく、その名前に驚いているようである。
「そうやで? 白澪やで?」

「こ、これは、ぞよよよよよよよよ」
「落ち着きなさい、細崎、何があったというのですか」

 そう言って細崎が太村に一発、ポンと頭を軽く叩いた。

「弱いぞよ?」
「なら満足するまで、殴ってからお話しますか?」

 
【まさかの】
「えーと、ぞよ」 
 ボコボコにされた後、本当に満足でもしているかのような顔で太村が語り始める。

「かちかち山は知っておるぞよ?」
 太村の問いに残った三匹は同時に頭を縦に振った。 
 かちかち山と言えば、イタズラ好きの狸が老婆を殺して、一人残された翁の為にうさぎが狸に復讐したという物語である。狸は背中に火傷を負ったり、傷口にトウガラシを塗り付けられたり、他にもされた後、最終的には泥舟に沈まされ、死んだという話だ。

「まぁ、実際にイタズラが過ぎただけで人の命までは手を出してないぞよ、だけど、うさぎに色々された内容はほぼ一緒ぞよ。これはその後の続きと思ってくれればいいぞよ。それでぞよ、うさぎの策略で海に身を投げ出された狸は人魚に助けてもらったんぞよ」
 え、という言葉が三匹から漏れたのは言うまでもない。

「それでぞよ。そこで人魚姫の白澪燈夜(しらみおひよ)という者と仲良くなった狸は、二度と命を奪うような悪さをしないことを誓って、元の場所へと戻っていったんぞよ。あ、ちなみにその狸は零殿の母君ぞよ」
「マジかだぜ!?」


【まさかの その二】
「白澪燈夜……ウチのかあさまの名前や。ということは、ウチのかあさまは零の一族の……」
「そうぞよ、命の恩人ぞよ。天祇(あまし)というのが零殿の母上殿の名で……わたくしたちの里の姫様なんぞよ。助けてもらえなかったら、一族は終わってしまっていたかもぞよ」

 まさかの真実に場は水を打ったかのように静かになった。
 無理もない、狸たちにとっては一族を救った命の恩人の娘が目の前にいるし、当の本人もまさかの接点に驚いている。
 ただ、雨の音だけが室内に運ばれてきていた。

「……ウチは人魚の姫に、零は一族の王様を目指して……か、面白いやん」
 やがて、そう最初に呟いたのは沙璃だった。

「なぁ、これも何かの縁やと思うねん。お願いや。零と一緒にいさせてくれへんか?」
「あ、おれもお願いするんだぜ!!」


【一応、決着?】
「……ですが……うーん」
「いいじゃないかぞよ、細崎。わたくしもそれが面白いと思うし、何より、零殿の為になると思うぞよ」
 未だに悩んでいる細崎に、太村が背中を優しく叩いた。

「半人前なのに掟を破り、だけど、里に戻ってくるときは一人前……というのもかっこいいぞよ? 正直言って、人を化かしたりする、わたくしたちにとっては、そういう常識破りな者についていった方が楽しいし、安泰するとおもうぞよ?」
 里だけという狭い世界ばかりでは、本当の意味で成長などできはしない。
 こうやって、荒波を超えながらの方が強くなれるというものである。

「そう、ですね……」
 細崎はやがて悩みが少し晴れたかのような顔を浮べた。その様子に太村も一安心する。

「使えるコネは色々と増やした方がいいですしね」
「わたくしの全力な説得の時間を返して欲しいぞよ」


【はやすぎ】
 しめ縄を解かれ、沙璃の元へ戻った零は太村と細崎の方に向いた。
「あ、ありがとうだぜ。それと、おれは頑張っていくから心配しなくても大丈夫だぜ!」
 
 その言葉に感動して涙ちょちょ切れを見せているのは太村である。この旅や沙璃との出会いなどで、ちょっとだけかもしれないが本当に大人になったと、そう思えたのだ。細崎も今までとはちょっと違う零の様子に自分の観察眼の甘さに舌を打った。

「沙璃様……零様のこと、よろしくお願いします」
「細崎はん」
 お辞儀をし終えてから細崎は目付きをキリっとさせながら言った。

「ぜひ、将来は零様の子供を四、五匹ほど」
「色々とツッコミが追いきれんからスルーでえぇか?」 


【昔を知っている者】
 やがて、その場を去っていく沙璃と零の背中が見えなくなるまで、細崎と太村は見送った。

「ふぅ……終わったであるぞよ。さてこれから天祇殿にどう報告するか考えなきゃぞよ」
「そうですね……全く、本当に手間のかかる子ですよね」
 そういう細崎の顔はなんだか楽しそうなものであった。

「こうやって、零殿を見送っていると、わたくしも昔のことを思い出すぞよ」
 ちなみにだが、太村は細崎よりも一回り、二回りも上の古株狸である。
 だから、あのような昔話を知っていたわけで。
 そういうことはつまり――。

「昔の天祇殿はあれ以上にすごかったぞよ〜。零殿にはぜひ、天祇殿を超えて欲しいぞよ」
「……人魚の他にもあったりですか」
 親も親なら子も子か、けど、それはそれで楽しみだったりする細崎がそこにいた。
 

【一つの終わりは何かの零からの始まりなり】
 ひとまず、零の強制送還騒動に無事、決着がつき、雨が降る中、人間に化けている零と足を生やした沙璃が歩いていた。
「な、なぁ、沙璃」
「なんや、零。そないにかしこまって」
 顔を赤くさせて、もじもじしながらも、零はなんとか言った。
「助けてくれて、ありがとだぜっ」
「ん、どういたまして」
 ニコっと笑いながらそう返す沙璃に、零は一息ついた。
 今回は捕まってしまって、しかも助けてもらって……本当に沙璃には助けてもらってばかりでカッコがつかないと、零は自分自身に舌を打っていた。これじゃあ、まだまだ一人前になるのは先の話ということも今回のことで分かった気がすると零は思っていた。すると、零の心を読んだのか、沙璃がいきなりこんなことを呟いた。
「あのままじゃ、おれは駄目のままなんだって気がついたんだぜ!? おれは一生、半人前のまま里で一生を暮らすなんてごめんだぜ! 自分から行かなきゃ駄目だって、気がついたんだぜ、やな♪」
 その台詞を聞いた瞬間に、零は思いっきり目を丸くさせた。その言葉は確か、細崎と太村に向かって言い放ったものだ。それを何故、沙璃が知っているのだろうか。知っているということはまさか――そう思いながら、零が隣を見ると、沙璃がニヤっと笑っていた。
「かっこよかったで♪」
「聞いてたのかだぜ!?」
「だって、あんなに大きな声で言うてたら、そりゃ、外まで丸聞こえやで」
 やられた、今非常に穴があったら入りたい気分に零が陥ったときだった。

 両方の腹から虫が鳴いた。

 その鳴き声にお互い、見やると、思わず笑ってしまった。
 零が感じた先程の恥ずかしさもどこかへと飛んでいったようである。
「今からおいしいチーズを使ったピザ屋に行くんやけど、どうや?」
「も、もちろんだぜっ!」

 これで終わりというわけじゃない。
 まだまだこれから。
 ゼロから一人前になる修行はまだまだ続いていく。

 けど、ちょっとだけ、大人になった子狸がそこにはいた。
 
> SPURT 作:とらと
SPURT 作:とらと
 もう何度目か分からないバトンを受け取って、おれは走り出す。血の滲む足で渇いた地面を蹴り、ひび入った爪で空気を捉え。ぐんぐんスピードが上がっていく。やみつきになる疾走感。歓声の嵐の渦をかいくぐっていく、おれは今、孤高の弾丸トップレーサー。
 チェンジリレーは孤独な戦いだ。三つの敵影を追うおれを助ける味方は傍にはいない。助けだけじゃない、おれには翼もねぇ。長い足でもねぇ。『こうそくいどう』も使えねぇ。けれど、仲間がいる。おれには仲間がいる。バトンを託しあった三匹の仲間と、親のカケルの思いを乗せて、おれはただがむしゃらに速度を上げていく。見ててくれ、これが、おれの渾身のラストラン。
 これが最後の出走だと知ったのは、たった二時間前のこと。遠い所に引っ越すんだ、このレース場ともお別れなんだ、震えながら話したカケルの真っ赤な瞳が忘れられない。おれにとって、おれたちにとって、ポケスロンとは青春で、たったひとつの夢で、追いかけ続ける目標で、本気になれる場所だった。仲間にとっても同じだったろう、おれたちは脳天雷でぶち抜かれたみたいな衝撃の中で、一歩たりとも動けなかった。もう走れない。今日という日が終わってしまえば、ポケスロンの、この舞台に立つことは、もう二度とない。だけれども、おれたちがこれほどショック受けると知って、一人でそのこと抱え込んで、今まで黙って、そんな素振りなど微塵も見せずに今日まで笑ってたカケルの根性には恐れ入った。カケルのその根性は、最後の栄光に向けおれらを奮い立たせるに十分すぎる。
 一周目で頭に位置叩き込んでた障害物を難なくかわし、迫るトップスピード、オタチを抜き、ワカシャモを抜き、目の前に残すはただ一影。眩いばかりの晴天を一点塞ぐ紺色の翼。なるほど。おれは無我夢中でそいつを追う。それは、図ったような粋な演出だ。最後のレースに相応しい。
 おれとそいつとが出会ったのは、それもこんな風に晴れた日の早朝、何の変哲もない草むらの中。おれもあいつも生まれたばかりで捨てられた、哀れなコラッタとスバメだった。温かい人間の手の中で生まれ、その手で冷たい暗い草むらへと投げ捨てられた、満身創痍の赤ん坊だった。はじめは訳も分からず、けれどただ『誰も信用しやしねぇ』と固い決意を結んだばかりの、二匹の幼子の暁の邂逅。おれたちはそこで、程度の低い殺し合いを演じたんだ。
 次に再会したのは、それぞれ親に拾われて、それぞれの立場を手に入れてからだ。内気なガキだったカケルを町へと連れ出し、ポケスロンに夢中にさせていったのは、その頃おれのたったひとつの自慢だった。何か月ぶりかのあいつの姿をそこで見たとき、衝撃だった。レベルも低くて力もなくて、ヘタレで、体力もなくて、技もろくに覚えられなくて、それでもカケルを変える、変えてやると、粋がってばかりの口先ヤローだったおれの前に、あいつの存在はデカかった。ちっぽけなことに満足しておれが随分足踏みしてる間に、あいつは、おれと同じだったはずのあいつは、たくさんの経験をこなし、バトルをこなし、レースをこなして、メキメキ成長して、進化まで成し遂げていた。あいつの翼の風圧がおれの体を吹き飛ばし、あいつがゴールラインへと翔けていく、その背中を、何度も何度も目にしてきた。敵わないのが悔しくて、もう情けなくってしょうがなくて、あんなのちっとも良くねぇとレースを投げかけたことさえあって、おれは本当にバカヤローだ。でも、ある日ランで見た、あいつの砂袋提げて必死の顔して翔けてく姿が、捨てた親に見せつけるような気合いのこもった羽撃きが、命削るような疾走が、びびってんじゃねぇ、びびってんじゃねぇと、おれを立ち上がらせてくれた。あいつは拾ってくれた親のために、揺るがない情熱を抱いていた。仰天するような孝行心と向上心が備わっていた。おれはどうだ。おれみたいな使えないポケモンを拾ってくれた、居場所を与えてくれたカケルに対して、高慢な気持ちを抱いてはいなかったか。カケルをどうこう以前に、自分に甘過ぎやしなかったか。高いギプスなんか買えない、優秀なコーチもつけられない。でもおれたちは、そんなもんなくたって、仲間を、親を、そして自分を信じる心さえあれば、どこまでもバトンを繋げていける。そんなレースの本質を、おれはあいつから教わったんだ。
 おれがあいつに、絶対にお前を抜いてみせる、と言ったとき、あいつはゲラゲラ笑った。そんなのムリだ、お前がオレに勝てる確率は、0.000001パーセントくらいなもんだ、そういって翼を広げたのさ。それでもやってやる、そうおれが食らいついてやると、あいつの目の色が変わったんだ。ちょっとでも可能性があんなら、いいやゼロパーセントだってでもいい、おれはお前を絶対に絶対に抜いてやる。すると、いいか、ってあいつは言った。『エアコンのガンガンに仕事してる、加湿も効いてる、マッサージチェアとアロマ付きの温室みたいなとこで、オレらは育ったんじゃねぇ。そういうエリートにオレらは選ばれるセンスなんてなかった。でもだ。オレらは泥臭いやり方でそいつらに喰ってかかっていける。キレイに均されたとこで育ったあいつらが、度肝を抜くような方法で、オレらはあいつらを追い抜いていける。エアコンも加湿器もブッ壊して、丸裸のあいつらにオレらは、根性一本でぶつかっていくしかないんだ――』
 駆け抜けるフィールド、裂いていく風、風、風、大歓声が聞こえてくる、熱いうねりが迫ってくる。あぁしかし近づかない。一歩前をいく紺色の翼がどうしてもどうしても近づかない。残りタイム示す電光掲示板がついに、最後の一桁のカウントとなる。諦めるのか。諦めるもんか。何度諦めれば気が済むんだ。思い出せ、がむしゃらだったこと、毛がぼろ雑巾みたいになって、足が廃材みたいになって、それでも走り続けたこと。目の前にチーズぶら下げて、フラフラになって、他の選手に笑われながらでも、燃え尽きるまで走り続けたときのこと。感じる、熱狂する観衆のどこかに、カケルの顔、仲間の顔、おれを熱くさせた、変えてくれた大切な存在、声、言葉。
 そうだ。息絶えるまで駆けてみろ。恥も苦しみも撒き散らして。どんな傷だらけでもいい。醜い姿だっていい。前歯が折れても、尻尾がちぎれても関係ない。風を味方にしろ。エッジを効かせて障害を越えろ。翼が近づいてくる。ついに翼が近づいてくる。苛立って、羨ましくって、妬みさえして、ずっと焦がれてた紺色の翼が、射程範囲まで近づいてくる。あと少し。あと少しだ。頭が真っ白になる。感情が焼け切れていく。ついに肩が並んだ。行けるか。行ける。まだ走れんだ。酸素が足りねぇ。息が吸えねぇ。まだだ、まだまだ、おれはまだまだ走れんだ。
 最後に跨ぐゴールラインが、すぐそこまで迫っている。さぁカウントダウンだ。大合唱が聞こえてくる。二匹の息遣いが。ゼロメートルの距離が。行けるか。行け。勝てるか。行け。行け。最後の最後まで駆け抜けろ――サン―――ニ――――イチ――――――!
 
> 酔って候 作:クーウィ
酔って候 作:クーウィ
1


 ねぐらから這い出た時、最初に感じたのは肌寒さだった。
 反射的に片眼を上げて空を拝むも、そこにあったのは予想に反し、何時もと寸分変わりの無い、澄み切った青があるばかり。
 天高く馬肥ゆるとかいう言葉そのまんまの、能天気なまでの秋の空。……けれども一方、毛皮を通して肌に染みて来る空気には、一年分の余所余所しさと嫌厭感が、ウンザリするほど滲み込んでいた。
「そろそろまた冬か……」
 思った事が口を衝いて出る、その事自体にも動かし難い既視感を覚えつつ。俺はかったるい思いを溜息に籠めると、ゆっくりと住処を後にして歩きだした。
 

 物心付いた時から、俺には家族がいなかった。
 何故いないのかは考えた事が無い。事実いなかったし、深く考えるのも馬鹿らしかったから。
 ぬくぬくと森に住んでいるポケモンや、自由にフラフラ飛び回れる羽根の生えた連中なら、「それはおかしい」とか何とか言ってくるかもしれない。だが、『街』に住んでいる俺達の様なポケモンから言えば、そんな甘ったるい感傷に浸っている暇や余裕なぞ、ある訳が無いのである。

 記憶に残っている最古の風景は、ビルとビルの隙間から覗く、目抜き通りの雑踏の様子。どうしてそれが記憶に残っているのかと言うと、痩せ細って小さくなっていた当時の俺が、直後に飛び込んできた食い残しの目立つフライドチキンの残骸で、何とか露命を繋いだからだ。
 人間の臭いがこびり付いた汚らしい鳥の骨に、夢中で武者ぶり付いたガリガリのコジョフー。俺と言うポケモンの、記念すべき出発点である。
 今では街の野生ポケモン達の中でも最も腕が立ち、身軽ではしっこい存在として知られている俺にも、そう言う時代があったってわけだ。

 そんな俺が現在どうやって食ってるかってぇと、これがなかなか洒落たものなのである。
 昔はゴミ漁りなんかで辛うじて凌いでいたが、それもとっくに過去の話。徐々に経験も積んで体が出来てからは、人間相手にかっぱらいもやったが、これはこれで目立ち過ぎて、トレーナー連中に追い回される危険が常に付きまとう。散々に逃げ走り駆けずり回った挙句、追い立てられてドブネズミの如く排水溝に潜り込むのは、如何にも泥臭くて頂けない。
 そこで無事進化も終え、コジョンドとなった俺が選んだのが、力ずくで目当てのものを奪い取るかっぱらいではなく、スマートに獲物を掠め取る、いわゆる掏摸(すり)と言う奴だった。
 実力的には尚の事力ずくが通りやすくなったが、それに頼っていたのではいい加減目立つ格好になったのもあり、本格的に駆除される恐れも無いとは言えない。野良ポケの間でも知られた存在になっていた事だし、何時までも汚い下水道に走り込むよりは、小奇麗にしていた方が格好も付く。
 何より、漸く実力に見合うだけのプライドを保ち、気持ちに余裕を持って生きる事が出来るようになったと言うのが、非常に大きかった。直接食いものを狙うよりもやり甲斐はあったし、『金』と言うものも持って行きどころさえ覚えれば、軽くて嵩張らない分取り回しが良い。
 身なりを整えて出すものを出せば露店の店主ぐらいは動かせたし、路上で憂鬱そうな顔をしている連中に少し多めに持っていけば、それなりの見返りは期待出来た。

 そして、起き出した俺がねぐらにしている排水管の残骸から離れ、今日最初のターゲットとして選んだ相手と言うのが、目下前方で浮付いている、一組の主従と言う訳である。



「うわぁ、凄い……!」
 両脇に控える彼女らの中央で、引率役である少年は、無邪気な歓声を上げた。目の前にそびえる巨大な駅舎に目を輝かしつつ、年相応にはしゃぐそんな主人に釣られてか、反対側に位置する彼女の息子も、浮付いた気持ちを隠す事無く表に出して、周囲に広がるあらゆるものに、好奇の視線を彷徨わせ続けている。
 そんな両者の有り様に、事実上の最年長者でもある彼女は、溜息半分苛立ち半分と言った思いで、そっと軸足を入れ替えつつ肩を回す。物見遊山に来たような雰囲気の両者と違い、常に素早く、それでいて鋭く視線を移動させている彼女には、何処にも『隙』と言うものが無い。
 道行く人間とポケモンの波に向けられるその視線にも、無意識の内に相手の技量を推し量る武芸者としての本能が滲み出ており、淡く険を交えたその目付きは、即座に動き出せるように配慮された立ち姿と相まって、佇んでいる一匹の雌コジョンドに、自然と周囲を俯伏させる、侵し難い威圧感を与えていた。
 それは同行している両者には日常の一部分に過ぎなかったが、多少の心得を持って此方を窺っている招かれざる客人には、この上なく面倒な代物であった。

 しかし、無論彼女は、そんな事など知る由もない。目下の彼女の一番の関心事は、明らかに早きに過ぎた街への到着時刻と、好奇心にうずうずしつつ落ち着きの無い、二人の若者の動向についてであった。
 案の定、傍らに立っている少年は、駅舎の正面に掲げられている大時計と、自らの腕に装着されたCギアのデジタル表示を見比べつつ、首を傾げ始める。
「う〜ん…… ちょっと、早く着き過ぎちゃったな。まだ約束の時間まで、3時間近くもあるよ」
 困(こう)じ果てたようにそう口にした少年の表情が、再び明るくなるのに大した時間はかからない。「まぁ」に続いて吐き出されたその意思表示を、彼女自身は渋い顔で、一方反対側に控える彼女の息子の方は、目を輝かせて受け止める。
「まぁ、じゃあ折角だし、時間が来るまでにどこかへ行ってみよう! スイもサイも、ライモンの街は初めてでしょ? 姉さんからお小遣いも貰ってるし、偶にはゆっくりしようよ」
「何時も頑張って貰ってばかりだからね」と付け加えられると、流石の彼女も何時までも仏頂面でいるわけにもいかず。時を移さずして一行は、ライモンの象徴である中央駅舎を離れ、主流となっている雑踏の波に乗って、東に向かって歩き始めた。



 駅前広場できょろきょろしていた連中が動き出したのは、間もなくの事だった。
 主人だと思われるガキンチョが腕時計を確認した後、俺と同族に当たる二匹の手持ち達に向け、何やらごにょごにょと話しかける。でかい方が不承不承、チビの方が嬉々として、と言った感じで頷くと、彼らの主人は先に立って、商店街が並んでいる東の方角に向けて進み始めた。
 その際、集団の中で最も長身である雌のコジョンドが、発ち際に鋭い一瞥を周囲に投げ掛け、駅舎の傍の植え込みに蹲っている俺の心臓を、薄気味悪く一撫でする。……無論見つかりはしなかったものの、余り良い気分ではない。正直止めて頂きたい。
 一応俺はこの街の野良の中では最強であると自負しているし、それ相応の実力もあると信じている。が、流石にああ言う手合いにちょっかいを出して、まともに立ち合えるとまでは思っていなかった。
 この街は、人間達によるポケモンバトルが盛んなせいだろう。偶に居るのである。逆立ちしても勝てそうにない様な、キチガイじみた戦闘マシーンみたいなのが。今視線の先にいる同族も、多分そう言った連中の一種であろう事は想像に難くない。
 目付きと言い立ち姿と言い、「私強いかんね、手ぇ出したらボコボコの半殺し確定だかんね」っつー感じの主張が、色濃く滲み出ている。恐らく生まれてからずっと、武辺一筋に生きてきたコチコチのバトル屋で間違いないだろう。そこそこ良い顔してるのに、勿体無い話だ。

 普段なら、ああ言う物騒な奴が関わっている的には、手を出さないのが賢明である。無理にリスクを冒さなくとも、ここは天下の大都会。標的になりそうなとっぽい野郎は、ちょっと探せばそこら中にゴロゴロしている。
 けれども今回、俺は敢えて、目の前の連中の後をつけて行く事に決めた。かなりリスキーな相手であるのは間違いなかったが、それに見合っただけの価値はあると踏んだからだ。
 恐らく、懐具合は温かい筈である。……と言うのも、主人に当たるガキの態度はどう見ても御上りさんのそれであったし、浮付いていて微塵も影の無いその様子から見ても、手持ちに不足があるとは思われない。此処の所余り良い収穫に恵まれていなかった俺としては、そろそろ一発当てて、好物をたらふく味わいたいと思っていた矢先だったのだ。
 俺もこう見えて、結構グルメなのである。昔苦労した分、貫禄が付いてからは反って世の中の楽しみや道楽と言うものに敏感になっちまったらしく、今では揚げ物の油がどれぐらい使い回したものかや、素材の鮮度がどんなものかぐらいは察しが付くようになってしまった。『野良ポケモンと言えば残り物』、と言った程度の認識しか持っていない屋台のオヤジ共から上物を召し上げるには、多少は割高の金額が必要になってくるのは説明するまでも無いだろう。

 そして、更にもう一つ。実は俺、大の酒好きなのである。ビールや焼酎、ウォッカにウィスキーまで、『アルコール』と付くものなら何だって構わないほどに、酒の類に目が無いのだ。
 昔、今の俺のねぐらに一緒に住んでたホームレスの泥鰌髭が、しこたま買い込んで来た酒とつまみで良い具合に出来上がっちまってた時、無理矢理缶ビールを押し付けられたのが、そもそもの切っ掛け。それ以来、俺はぐでぐでに酔っ払った時に来る、あの幸せな酩酊感の虜になってしまっていた。
 一杯引っ掛けて酔眼で周囲を見渡すと、自分の心の中がスッキリ晴れて、世の中の全ての事柄が、笑って許せるような気がして来るのである。舌も普段以上に良く回るようになるし、平素なら恐ろしくて出ていけないような場所にも、積極的に踏み出したくなってゆく。別に飲まなくてもやって行けるが、実に愉快な気分にしてくれるあの飲み物は、ある意味俺の生き甲斐の一つとも言えるものであった。
 ところがここ数年の内、人間達の間で何があったのかは知らないが、街角に立っている自動販売機から酒の類が尽く消え失せて、以前のように気軽に手に入れる事が出来なくなってしまっていた。前はコインを何枚か用意すれば造作も無く買えたと言うのに、今ではそれとは別途の手間賃も伴って、顔見知りのルンペン連中を通してでないと、缶ビール一本傾ける事が出来ないのである。起き立ちに感じたあの憂鬱を吹き飛ばす為にも、俺は是非とも久しぶりに、一杯やりたかった。
 俺は主に酒手を稼ぐ事を目当てに、此処で一勝負仕掛けてみる事にしたのである。



 駅前から出発した三者の内、最も小柄なコジョフーのサイは、今や前方を歩いている主人以上に、浮き立つ気持ちを抑えかねていた。
 歩けば歩いただけ珍しいものが目に入るこの街は、修業に明け暮れている普段の生活からは想像も付かないほどに刺激に満ち溢れており、文字通り退屈する暇がない。街に入った当初こそ、謹厳な母親の存在が頭の片隅にこびり付いていたものの、そんな事がどうでも良くなるのに、然したる時間はかからなかった。
 まだ日も昇り切らぬ未明の空の下、シッポウシティの外れにある小さな道場を出発した時には、こんな楽しい余暇が取れようとは、夢にも思ってはいなかった。それだけに、喜びも一入である。
「へぇ……! 最新型の加湿空気清浄機だって。『臭いセンサー及びプラズマクラスター搭載、イオンの力で快適な日々を!』かぁ。なんだか良く分からないけど、すごいね」 
 箱形の機械が沢山並んでいるお店のショーウィンドウの前で、少年が感嘆の声を上げる。無論主人にも良く分からない様な代物が、ポケモンである彼に理解出来よう筈もなかったが、例えアイアントの爪先ほどの知識さえ持ち合わせていなかったにせよ、彼の気分が下向きになる様な事はなかった。『ぷらずまくらすたぁ』でも『いおん』でも、何だって良いじゃないか。別に噛みついてくる訳でもないだろうし。

 そうやってワイワイ騒ぎながら、尚も目抜き通りを進んでいく内。不意に先頭を歩いていた少年が立ち止まると、何やら目を輝かせつつ、前方の空を指差した。
 見上げた先にあったのは、鉄製の籠状の物をぶら下げた、巨大な輪っかの様なもの。機を移さず軌道修正した彼らは、遠くに見えるその奇妙な物体に向け、足取りを速めて進み続ける。
『あそこに見えるのは、何だろう?』 ――期待を込めて弾む足取りで道行く彼には、背後に続いている母親の、不興気な眼差しに気が付くだけの余裕はなかった。



 好き勝手ふらふらしている連中の後をつけ狙いつつ、俺はなかなか手出しが出来ない事に、若干の苛立ちを覚えていた。
 大まかな流れは、当初の想定通り。ガキンチョ二匹はどうにもならない位に隙だらけで、唯一あのコジョンドだけが、当面の障害として立ちはだかっている格好である。
 傍から見る限り、チビのコジョフーの方も足運びや反射神経自体は悪くは無く、年の端の割にはそこそこ出来そうな雰囲気ではあったが、やはりそこはガキの哀しさ。見るもの全てに心を奪われ、主人共々きゃいきゃい騒いでいるばかりで、例え真後ろから髭を引っ張りに行ったとしても、絶対に仕損じる事は無いだろう。
 それに比べると、両者の後ろに影のように付き従っている同族の方は、兎に角薄気味悪いほどに死角が無かった。常に黙りこくって歩を進めているばかりで、必要以上に周りに気を取られる事も無く。時折周囲を鋭い目付きで睥睨しては、その度に物陰に避難している、俺の寿命を削り取っていく。止めろ。
 一度なんかは、ここぞとばかりに忍び寄って行った刹那、まさにジャストタイミングで振り向かれて、もう少しで叩き殺されるとこだった。咄嗟に近くにいたオッサンの傍に寄り添い、手持ちのふりをして事なきを得たが、正直生きた心地はしなかった。……何となく胡散臭そうな目で見られた様な気はしたが、思い過ごしだと信じたい。
 取りあえずその時は難を逃れた訳だが、もうこれで同じ手は使えなくなった。腹いせにケータイに向けてがなり立てているその中年サラリーマンの尻ポケットから紙入れを抜いて、中身を確認した後でゴミ箱にinしてやったのは余談である。スリの俺が言うのもなんだが、耳障りだから余所でやれっての。財布の中も如何わしげな写真入り名刺ぐらいしか入ってねぇし。
 そうやって俺が脂ぎった親父と戯れている間、連中は電機屋の店先で屯しつつ、機械の箱の群れにうつつを抜かしている。店先を通り過ぎる際、ついでにウィンドウの中を覗いてみると、箱の列線の傍には『空気清浄機・加湿器』の文字。カシツキぐらい俺の住処にもあるっつーの。野晒しになってたのを昔の同居人が拾って来ただけだから、別に動く訳じゃないけれども。

 やがてそうこうしている内、不意に進路を変えたターゲットは、そのまま街の外れにある、遊園地の方へと向かい始めた。
 派手なアーチと街路樹の並木を抜け、躊躇いもなく中へと入って行く連中に続いて、俺も偶々同じ方角に向かっていた二組みの家族連れに紛れ、何食わぬ顔で敷地内に踏み込む。互いが互いのポケモンだと思ってちらちらと視線を向けて来る彼らを尻目に、ちょっと気取って大型の花壇を一つ飛び越えてやると、興味深げに見つめて来ていたガキ共が、揃ってはしゃぎつつ歓声を上げた。
 普段ならチラリと振り返って、格好付けて見せてやるのも悪かねぇ所だが、生憎今の俺は忙しい。案の定前方に視線を戻すと、追いかけていた連中は屋台に寄って、呑気にたこ焼きなんぞ頼んでやがる。
 チビ助コジョフーが受け取っているのは、立ち昇る白い湯気も眩しい、アツアツのチーズが乗っかった一品。物珍しげに楊枝をつまみ、嬉しげに頬張っているその様子に、未だ朝飯すら食ってない俺の腹が、虚ろな音色を響かせる。
 隣にいる主人の方は、受け取った自分の食いブチを少しでも冷まして置こうと口を尖らせており、その吹き掛けられた息によって煽られた削り鰹が、忸怩たる思いで見つめる此方の鼻の頭に、得も言えぬ様な香ばしい匂いを運んで来る。
 降って湧いたこの狼藉に、俺はますます逆上しつついきり立ち、戦意を燃え立たせる訳なのであるが――この期に及んでも例によって、空気の読めない同族野郎が行く手を阻む。主人に勧められるも首を横に振った雌コジョンドは、相も変わらず険を交えた表情で、ジロリと周囲を一亘り見回した後、己の前でたこ焼きを食べている、小さな同族に視線を戻す。
 ……何か当初よりも更に目付きが厳しく、ご機嫌斜めになっているように見えるのは、僕の気のせいで御座いましょうか?



 たっぷりの花鰹と揚げ玉が乗った、大粒のたこ焼きを頬張りつつ。少年は次の予定を定める為に、つまんだ楊枝を次の一個に突き立てて置いて、腕に装着したCギアを覗き見た。
 デジタル表示の文字盤は、現在午後1時を回った所。約束されている時刻まで、まだ1時間以上あった。
 ホッと一息吐いた彼の面上に浮かんだのは、勿論零れる様な笑み。傍らに控えている二匹のポケモンに対し、まだまだ時間が余っている事を告げた後、彼はもう一度爪楊枝を手に取ると、食べ良い具合に冷めて来たたこ焼きの更に奥に向け、その切っ先を潜り込ませる。
 手にした白樺の木片が、起点となる堅い蛸の身をしっかりと捉えたのを確認すると、鰹節が上面を覆い隠しているそれをゆっくりと持ちあげ、一口に平らげる。最初の一個で火傷した箇所が少し痛んだが、揚げ玉の歯触りと甘辛く濃厚なたれの味わい、そして主役とも言うべき蛸の切り身の噛み応えが織り成すそれは、そう簡単に飽きが来るようなものではない。
 満足げな表情でトレイの上蓋を閉じた少年は、続いて同じ様に食べるのに夢中になっているパートナーと、此方は中々打ち解けてくれず、何時も通りの雰囲気のままで付いて来ている武術ポケモンに、次なる目的地を指し示した。
 再び動き出した彼らの行く手には、ここに来る際目印となった、あの巨大な観覧車が鎮座している。

「特定のポケモンについてはお断りさせて頂いておりますが、それ以外のポケモンでしたら、重量制限内なら問題ないですよ」
 一緒に乗れるのかと言う少年の質問に対し、係員の男性は笑顔で答える。念の為、特定のポケモンについて尋ねてみたところ、ダストダスやベトベトン、スカタンクの様な、色々な意味で密閉空間にはそぐわない種族が該当するのだと言う。それなら、格別問題は無いだろう。
「原則的に二人乗りですが、小柄なポケモンやお子様連れであらば、多少の超過は大丈夫です。ごゆっくりお楽しみください」
「ありがとうございます! ……だって、サイ、スイ! 大丈夫みたいだし、折角だから乗って行こうよ」
 振り返って声をかけると、二匹のポケモンはそれぞれの反応で、彼に対して意思を示す。……やはり、母親であるコジョンドのスイは、嬉しそうに踊り上がる息子と違って、あまり気乗りがしない様子だった。
 元々彼らがこの街に来たのは、彼女と言うポケモンの情報を、バトルサブウェイの対戦用システムデータに加えたいと言う申し出が、サブウェイの運営側からなされた為であった。言ってみれば、彼女にとっては今日の行程もその内容も、ある意味修行の一環に他ならないのである。
 どうやら謹厳な性格のスイには、今の様な物見遊山に等しい時間の潰し方は、それほど好ましいものではないらしい。少なくとも、そこまでは経験未熟な少年からも、窺い知る事が出来た。……そう、そこまでなら。

 けれども生憎彼には、本来は姉のポケモンであるコジョンドの気性を、完全に見抜く事は出来ていなかった。その為、コジョンドに向けられていた彼の注意は、直ぐに目の前に現れた別の存在へとシフトしてしまう。
 再び前方に視線を移した彼の目に留まったのは、ただ一つだけ他のものとは形状の異なる、妙に装飾の行き届いた籠であった。他の籠の2.5倍はある大きさのそれは、モンスターボールではなくゴージャスボールを模した塗装がなされており、内部には大きなテーブルが置かれていて、数人の大人達が食事を楽しんでいた。
「あの、あれは?」
 先ほど言葉を交わしたばかりの係員に向け、少年は自分が見た物への疑念を、率直にぶつけていく。それに対し、親切な壮年男性職員は、今度も懇切な言葉と態度で、目を丸くしている子供に向け、笑いながら言葉を返してくれた。
「ああ、あれはディナーワゴンだよ。あの20番ワゴンだけは特別製でね。予め予約を入れてチャーターすると、あそこで食事をしながら風景を楽しむ事が出来るんだ。君も大きくなったら、一度乗りに来てくれると嬉しいね」
「へええぇ…… あんな高い所でご飯かー。良いなぁ」
「まぁ、興味があるのなら、一度親御さんとも相談してみて。取りあえず今日は、ポケモン達と普通のワゴンに乗ってみて、観覧車がどんなものかを体験してみると良いよ」
「さぁどうぞ」、と乗り場に続く扉を指して、一歩引いてくれた係員に対し、少年は元気良く返事をすると、そのまま次にやって来た籠の中に、二匹と共に乗り込んで行った。



 ガキ共が観覧車に潜り込んだのを見ると、遂に俺は待ちに待ったチャンスが訪れたものと意気込んだ。
 既に、隙をついて目的を達成出来る見込みは無いだろうと、諦めかけていた所である。こうなったら多少強引にでもと思った矢先に、この展開。まだまだ捨てたものではない。
 あんな所に缶詰めになってくれるのであらば、攻める側としては願ったり適ったりの状況である。狭いあの密室の中では、例え何かが起こったとしても、迅速な対応は望めまい。不意を突いて死角から行けば、あの厄介な同族が暴れ出す前に、取る物取ってずらかる事も、そう難しくは無い筈だろう。
 一度勢い付くと、物事と言う奴は考えれば考えるほどに、成算に満ち溢れているが如く感じるものである。雀躍した俺は、今度こそあの連中に目に物見せてやらんと、機を移さずに行動に移った。
 乗り場の手前でおずおずと佇んでいるミニスカートを横目に、同じくゲートに詰めている係員のオッサンの目をすり抜けて柵を乗り越え、回転している巨大な鉄枠の向こう側で身を伏せる。
 連中が乗り込んだ籠が目の前に差し掛かった所で、俺は素早く立ち上がるとそいつに手をかけ、他の人間の目に触れないよう反対側の死角にぴったりと身を押し付けた状態で、遥か上空へと昇って行った。



 狭いワゴンの中は、異様な空気に満ちていた。
 より正確には、単に元々立ち込めていた雰囲気が、密室状態と言うその環境によって、露わとなったに過ぎないのだが……それでも、今までずっとそれに気付かなかった彼にとっては、それは文字通り唐突に訪れた災難以外の、何物でもなかった。
「あの……母上?」
 無言のプレッシャーに負けて、コジョフーが恐る恐るといった調子で声を上げる。乗り込んだ当初こそ嬉々として目を輝かせ、持っていたチーズたこ焼きの残りをぱく付いていた小柄な武術ポケモンは、今や明らかに危険な雲行きを示している現状況に、完全に委縮してしまっていた。
 果たして目の前の彼の生みの親は、今日この街に着いてから初めて口を開いたと見るや、思わず全身の毛孔が縮み上がる様な低い声音で、目元をピクピクさせつつ声を絞り出す。……この間、彼らの主人は全くこの状況に気が付いておらず、更に外にへばり付いている招かれざる客は、密かにワゴンの扉を固定しているストッパーを緩めて突入の機会を窺っていたのだが、既に我慢の限界に達していた彼女には、そんな事に対して配慮を見せるような気配は一切なかった。
「一つ、聞きたい。……一体私は、遠く外地に赴く際の心得と言うものを、普段お前にどう教えていた?」
 どう見ても穏やかならぬと言った風情の表情が、爆発寸前の憤怒で彩られるのに然したる時間は掛らなかった。思わず総身の毛を逆立てて竦み上がる息子に向け、あからさまに怒気――もとい、青光りするほどの殺気を放射しつつ、ゆっくりと無意識の内に腰を浮かし始めたコジョンドは、更にその数秒を以て、自らの中に立ち上ってくる憤怒を、言葉の形に捏ね上げて吐き出して行く。
「卑しくも武芸家ともあろう者が、見知らぬ地にて何処までも腑抜けに気を緩め、一時として夢見心地から戻って来やぬとはどう言う……? あまつさえずっと付け狙われているのにも気付かず、主人の身を案じもしないで享楽にふけるとは……!」
「……え゛?」
「いや、あの……その」
「……? どうしたの、スイ?」
 事ここに至って、流石に彼らの主人も異変に気付き、場違いなほどに無邪気な声で、激高しつつあるコジョンドに向けて尋ねかける。また紡ぎだされたその言葉尻は、外から中の様子を窺っていた招かれざる客にも、しっかりと届いていた。……しかし、それら全てが既に遅く、また余計な刺激であった事は、誰の目にも明らかであった。
 次の瞬間、凄まじい勢いと剣幕で立ち上がり、「恥を知れ!!!」と怒号したコジョンドの一撃によって、息子のコジョフーは一瞬でワゴンの扉を突き破って外に飛び出し、外部にへばり付いていた客人は、その衝撃をもろに受け、木っ端の様に宙を舞っていた――



 籠の中での会話の内容に驚愕するあまり、思わず全身が固まっちまったその刹那――突然ものすごい吠え声と共に何かが炸裂し、鉄板にへばり付いていた俺は呆気無くそこから引っぺがされて、何が何だか分からないまま、中空に向けて放り投げられた。
 胸板を思いっきり打ん殴られた様に感じた次の瞬間には、頭から真っ逆様の状態でフライ・アウェイ。正直その時は、自分の置かれている状態が寸分も理解出来ずに、半ば茫然とした思いで、真っ青な空を見上げていた。
 多分そのまま何も起こらずに落下していれば、俺は正気に戻る前に頭から地面に叩き付けられ、実に詰まらん死に様を晒していたのは間違いなかっただろう。実際余りに唐突だったのと、全身に受けた衝撃がかなりのものだった為、直後何者かに右足を掴まれるまで、俺の意識は完全に上の空のままだった。
 しかし、そうはならなかった。逆さまにぶら下げられた状態で、俺は地上に向けて落下して行く鉄の扉を息を押し殺して見送った後、下界で上がる悲鳴を余所に、顎を引き下げ上を見る。そこには、片手で吊り籠の底部に掴まりつつ、もう一方の手で俺の右足を捉まえて歯を喰い縛る、あのチビ助コジョフーの姿があった。
「うわぁあああ!? スイ、一体どうしたのさ!?」
 そんな主人の間の抜けた声が響き渡る中、小さな武術ポケモンは咄嗟に掴んだのであろう俺の片足を離そうともせず、表情を歪めて荒い息を吐いている。と同時に、どうやら地上でも事態に慌てふためいたのか、今まで回転していた観覧車の動きがガタンという音と共に停止してしまい、俺達は完全に、この広い空に取り残されてしまった。
「……離せよ。お前じゃ無理だ」
 顔を真っ赤にして耐えている相手に向け、俺は思わずそう口走った。……正直この高さから落っこちて無事に済むとは思えなかったが、そこは俺も男である。
 義理も面識も無い相手に対し、ここまでに必死になれる様な根性の持ち主を、おいそれと道連れにはしたくない。我が身が可愛いのは山々だったが、薄汚い野良犬にも最低限度の意地はあるのだ。
「このままじゃどうにもならん。一緒に落ちたかねぇだろう」
 だが、尚もそう呼び掛ける俺の男気にも、頑固なチビは一向に耳を傾ける気配が無い。それどころか、もう一度口を開こうとした次の瞬間、そいつは思ってもみなかった方法で、目下の情勢を是正しようと試みる。
 何とそいつは、大きく息を吸って指先に力を込めたと思いきや、鋭い気合いと共に俺の体を振り被って、一気に吊り籠の上部へと放り投げたのだ。
 流石に微塵も予想していなかった展開に、思わず俺は「ンきゃあああ!?」等と言った感じの意味不明な悲鳴を上げながら、無様な格好で投げ上げられた天井に落っこちる。辛うじて足から接地し、何とか武術ポケモンとしてのメンツは保たれたが、直後視界の内に入って来たのは、一番居て欲しくない相手であった。
「……うす」
「う゛、母上……」
 間を置かず飛び上がって来たコジョフーも、俺と同じく息を呑み。吊り籠の屋根で俺達を迎えたのは、燃えるような瞳で此方を睨みつけている、あの恐ろしい雌コジョンドであった。隣に立っているチビが掠れた声を発すると、そいつはゆっくり足を開いて半身に構え、必死に愛と平和(ラブ・アンド・ピース)を希う俺の気持ちも弁えずに、自らの意思を明確に示す。
 更にそれに応じる形で、傍らに立っているコジョフーも雰囲気を一変させ、決意も新たに身構えるに及び、堪らず俺は首を巡らせ、隣のチビに抗議する。
「おい、ちょっと待て。俺はまだやるとは言ってねぇぞ……!? 大体勇ましいのは結構だが、どう考えても勝てやしねぇだろ!?」
「どうせ逃げても逃げ切れっこありません……! それなら寧ろ堂々と受けて立った方が、怪我も軽くて済みます。今ならまだ、二、三日呻るぐらいで勘弁してくれる筈……!」
「ちっとも嬉しくねぇよ!!」
 救いの欠片もない相手の見通しに、全力で突っ込みを入れつつも。結局は俺の方も、前方の同族に向けて相対し、何が起こっても即座に対応できるよう、姿勢を下げて軸足を直した。
 逃げようにも逃走ルートは一つだけで、そのたった一つの脱出口は、鬼婆コジョンドに塞がれている。何だかんだ言った所で、所詮は袋の鼠。目の前の相手を何とかする以外に手など無い。
 そして、そう俺が覚悟を決めたその刹那――まるで此方が決意するを待っていたかのように、殆ど微動だにしていなかった前方相手が突如として動き出し、此処に戦いの幕が切って落とされた。

 俺が片足を引いて半身を下げ、嫌々ながらも戦う意思を示したその直後。
 いきなり前方で身構えるコジョンドの右腕が翻ったかと思うと、隣に立っているチビ助が、小さく詰まった呻き声を上げた。
 反射的にそちらを振り返って見ると、小柄な武術ポケモンは天を仰いでたたらを踏んでおり、驚愕に目を見張ったその額には、何か細い棒状のものが突き刺さっている。
 眉間の辺りに突き立っていたのは、先ほどコジョフー自身が使っていた、あのたこ焼き様の爪楊枝。俺は慌ててコジョフーの右腕を引っ掴むと、そのまま場外に向けて引っ繰り返りそうになっているチビ助を、際どい所で自分の側へと引き戻した。
 ところがしかし、危うい所を救ってやった相手の口から漏れ出たのは、礼では無くて警告の叫び。「気を付けて……!」と絶叫するチビ助の言葉にハッと顔を上げると、そこには既に何かの影が、目の前一杯にまで迫って来ていた。
 既に、回避も何も出来るもんじゃない。次の瞬間、俺はそれによって強かに顔面を打たれ、寸刻気が遠くなると共に、完全に視力を失った。
「んがあッ!? 目が、目がぁーーーっ!!」
 顔を押さえてそんな事喚いている俺の体を、更に何者かが突き飛ばす。無様に金属板の上に転がる過程で何かが勢い良く風を切って頬を掠め、続いて鋭い気合いと何かがぶつかりあう衝突音が、「ん目眼めメMEぇ!」と全力で騒いでいる俺の背後で聞こえてくる。

 やがて何とか目をしばたかせつつ顔を上げ、涙ボロボロの状態で視界を取り戻して振り向くと、件の親子は目下盛んに技を繰り出し合って、狭い足場の上で暴れ回っている。顔面に『猫騙し』を喰らった俺がどうにか無事に済んでいるのは、どうやらコジョフーが俺の体を突き飛ばした後、身を持って時間を稼いでくれている御蔭であるらしい。
 しかし、それも長くは持ちそうになかった。
 腕先の毛を鞭の様に振るって攻め立てるコジョンドによって、コジョフーの体はあちこち腫れ上がって痛々しい有り様になっており、このままでは何時均衡が破れてもおかしくは無いだろう。俺が顔面に一発喰らっただけで転げ回ったほどのダメージだ。あれだけボコボコにされて、平気で居られる訳がない。
 とは言ったものの、ここで俺が奮起して加勢に馳せ参じたとしても、事態が好転するとはバチュルの毛先程も思えない。同じコジョンドとは言え、向こうはもう何年も正統な修業を積んで来た化け物である。闇雲にぶつかった所で、勝ち目なぞあろう筈がない。
 と、その時。思わず天を仰いだ俺の目に、遥か頭上に揺れる一台の籠が飛び込んできた。
 途端、俺はまるで電気仕掛けの人形の様にガバリと跳ね起き、頭上に伸びる鎖を掴んで、鉄の籠を吊り上げている、太い支柱によじ登り始めた。まるで何かに憑かれた様な面持ちで懸命に腕を動かす傍ら、未だ争っている二匹の同族の方をチラリと見やって、もう少しだけ耐えてくれよと祈る様に念を送る。

 ――こうなったら、あれの力に頼るしかない。



 倒れていた野良コジョンドが、勢い良く立ち上がった時。コジョフーのサイはまさに藁にも縋る思いで、自分よりずっと長身の、その細身の獣に目を向けていた。
 既に体力は粗方消耗し尽くしており、これ以上孤立無援で戦うのは、事実上不可能に近い状態だった。完全に守りに徹しているにもかかわらず、母親の攻め手は何時も通りに峻烈で、僅かな呼吸の乱れや逡巡が伴う度に、彼の体に鋭い打撃を加え続けて来る。致命的な大技こそまだ貰っていなかったものの、このままの展開が続けばその内思う様に体が動かなくなって、『飛び膝蹴り』や『はっけい』辺りで止めを刺されてしまうのは目に見えていた。
 ところが、そんな彼の願いも虚しく――上を向いて起き上ったそのコジョンドは、パッと足元を蹴って飛び上がったと見るや観覧車の鉄枠に掴まって、必死に戦っている彼を尻目に、さっさと戦線を離脱し始めてしまう。
 直後に繰り出された『はっけい』をかわす為、咄嗟に横っ跳びに鋼鉄の板の上を転がるも、彼は見捨てられたと言う事実を前に、空漠たる思いが募って来るのを、如何ともする事が出来なかった。

 やがて万策尽き、体力も残り僅かとなった所で、彼は眉間を狙った一撃を避け損ね、楊枝が刺さって出来た傷を打たれて、「うっ!」と呻いてバランスを崩す。
 すかさず放たれた追撃の『はっけい』が強かに脇腹を捉えると、痛みと麻痺で息を詰まらせたサイは、横様に突き転がされたまま起き上がれる事が出来なくなった。
 咳を交えた荒い息を吐きつつも、何とか持ち直そうともがいていたまさにその時――不意に自分の隣に、何か大きなものが降って来た様なけたたましい落下音が轟き渡ると、同時に身を横たえている鋼鉄の床面が、ぐらぐらと揺れた。
 痛手を負った体に多いに障ったその衝撃に、思わず顔を顰めている彼に対し、降って来たばかりのその人物は、実に能天気な声音で話しかけて来る。
「ぃよお! 待たせたなぁ!!」
 声に応じて顔を上げたサイに対し、明らかに目が据わっていないその同族は、実に愉しげな様子で笑い掛けて来た。



 突然戻って来た同族の様子に対し、今まさに一戦終えたばかりのスイは、今日と言う日が始まって以来最も強い、凄まじいまでの怒りの発作に見舞われていた。
 今目の前に立っているコジョンド――どうやら良からぬ企ての下、ずっと後を付けて来たと見える相手――の状態は、明らかに普通ではない。視線は全く定まって無いし、上半身は固定されずにふらふらと揺れている。顔色は傍から見てもあからさまに赤く染まっており、時折ダラリと垂らされる舌が、これ見よがしにペロリペロリと口元を舐める。
 臆面も無しに逃げ出した揚句、事が終ってからノコノコと帰って来たそいつは、どこからどう見ても完全に『出来上がって』いた。

 普段から謹厳・糞真面目で通っている彼女にとって、それがどれだけ腹立たしい事なのか? ……残念ながらその事実を知っている者は、身に受けたダメージも忘れてポカンと同族の顔を見上げている、彼女の息子以外には誰もいなかった。



 吹きっ晒しの心地良い風に抱かれ、素晴らしい眺めが堪能出来るその場所に戻って来た俺は、最高にハイだった。
 先ほどまで一体何に怯え、何を恐れる必要があったのか? ホンの十数分前の出来事だったと言うのに、もう何も思い出せない。一体この場に、この世界に、何の不都合があると言うのか!

 あの後、俺は『何故か』必死になってこの大きく美しい観覧車の鉄枠をよじ登り、丁度俺達が今居る籠の斜め上に止まっている、一等馬鹿デカイ籠の中へと入り込んだ。
 そこで何が行われているかを知っていた俺は、突然扉が開いて驚き慌てる正装した男女を尻目に、真っ白いテーブルクロスの敷かれた中央にある食事台の上から、お目当てのものを取り上げてラッパ飲みにする。その瓶はワインであった。
 一本終えるとまた一本、更に選んだ最後の一本は大当たり。料理の仕上げにも使われる香り付け用のブランデーを飲み干したところで、俺はいよいよ今までの義理を果たすべく、勇躍その場を後にして、下方に見えるこの籠に向け、一っ跳びに帰還して来たという訳である。
 行きは良い良い帰りは恐い、とは人間達の言うところであるが、よじ登るより飛び降りた方がずっと早いのだ。全く世の中、悲観的な考えが多くて困る。

 ところがこれほどまでに幸せな気持ちで一杯で、いっそ殴り合うよりも肩を抱き合って歌でも歌いたいぐらいの俺に対し、目の前に立っている同族は、到底そんな気分にはなれないらしい。
 どう見ても表情が引き攣ってるし、目元はピクピクして今にも耳から湯気が出そうな按配である。よせよせ、そんな面。まだ若ぇだろうに皺になっちまうぞ。
 そんな心配を密かにしてやっていたのであるが、困った事にどうやらそれが、口を衝いて出てしまったらしい。いきなり相手の顔色が変わったとみると、瞬時に恐ろしい形相で地を蹴って、喚き叫んで突っ込んで来た。
 思いもかけない展開で、しかも動きがヤバいぐらいに速い。呆気にとられて目を見張る内、相手は一瞬で距離を詰めて来ると、低い軌道で地を蹴って、『飛び膝蹴り』をかまして来た。
 無論そんな物喰らえば、幾らなんでも平気では居られない。腹に入ればゲロッぱするだろうし、顎に当たれば宙を飛んで、ケンタロス座辺りまでぶっ飛んでしまう。流石にそれは頂けない。

 なので当然俺の方は、全力を傾けてそれをかわした。……いや、かわそうとしたと言うべきか。
 後ろに素早く足を送って、体を開いて避けようとした。ところがここでアクシデントが勃発し、後ろに足を送った所で、上半身が後ろにのめって流れてしまう。
 慌ててバランスを取ろうと手足を総動員してバタつかせたところ、あろう事か持ち上げた左膝が、突っ込んで来た相手の胃の辺りに、まともに突き刺さってしまった。相手の膝の方は俺がのけぞったので此方まで届かず、丁度カウンターが決まった形だ。
「げッ……ほ」と苦しげに呻き、ぐらりとよろける相手に対し、俺は何とか渾身の力で持ち直して、ふら付きながらも衝撃を受け止めて、倒れないように踏み止まる。一方相手の方は、息を乱しながらも素早く立ち直り、俺が支えてやろうと手を伸ばす前に、サッと飛び退って距離を取った。
 尚も敵意を込めて烈しい視線を向けて来る雌コジョンドを呆れた思いで見詰めている内、俺はその強情さに辟易しながらも、今までは全く気付かなかった、彼女の容姿に目を奪われる。多少怒りとダメージに青ざめながらも、顔の道具の配置や作りは俺好みであったし、厳しい修行に耐えて来たのであろう痩身は、力強く引き締まっていて誠に美しい。
「良く見たら、あんた美人だなぁ……! こりゃ驚いた!」
 思った事がついつい口を衝いて出てしまうのが、飲んでる時の俺の悩み。特に今回は久しぶりだった事もあり、ちょっとハメを外し気味だった事は認めよう。


 だがしかし……気分良く褒めた心算だったのに、何故この台詞で怒るのであろうか?


 一瞬目を丸くしたように見えた相手は、直後今度こそ完全にぶち切れて、憤怒の塊みたいになった。
 顔は『赫怒』と言うのはこう言う状態を指すのだなと思えるばかりに紅潮し、最早赤いを通り越してドス黒く見え、口元は歯を食い縛っているのだろう、口辺が上がって尖った犬歯が覗いている。その余りの剣幕に、此処までずっと大人しくしていたコジョフーまでが悲鳴を上げ出した。
「う……うわぁ!?」
「何でここまで怒る必要があんだ……?」
「そりゃ怒りますよ! どうするんです!? もう此処まで来たら、一体どうすれば良いのか……」
 実の息子ですらこれである。となれば、赤の他人である俺なんぞに、有効な手が思いつく訳もない。
 流石にこの期に及んでは、続けてラブコールなぞ送れるもんではない。この状態で生まれて初めて、おぼろげながらも恐怖を感じた。これは本格的にヤバい。
 最早こうなってしまったからには、何とかして『良いところ』を見せ、少しでも怒りを解いて貰うより仕方ない。そう思った俺は、ここで普段でも滅多に見せない取って置きの大技を、彼女に対して披露する事に決めた。

 思わず竦み上がる様な形相で殺到して来た相手に対し、俺は平手で一発自分の顔を叩くと、真正面から一歩踏み出し、迎え撃った。
 初撃の『猫騙し』はしっかり引き付けて『見切り』でかわし、咆える様な気合いと共に打ち込まれた『はっけい』は、『はたき落とす』で軌道をずらす。
 一歩踏み込まれれば迅速に退き、振り上げられた鋭い蹴りを、体を反らして寸前で外す。更に止まらず三歩引き退く俺に向け、彼女が青白い波導を弾丸状に練り始めたところで、初めて俺は自分から攻勢に出た。
 両足に全身の力を込め、姿勢を沈み込むように下げた俺に向け、彼女は裂帛の気合いと共に、『波導弾』を解き放つ。高度な技量と豊富な修行量をして初めて可能となる必中の妙技は、青白く渦を巻き凄まじい勢いで、俺を目掛けて突っ込んで来る。
 それに対する俺の方は、眦を決して覚悟を決めると、「はっ!」と短い気合いを上げて、思いっ切り後ろに向けて地面を蹴った。空中に浮かび飛び行く先に存在しているのは、このバトルフィールドとなっている吊り籠を支える太い鋼鉄の鎖と、それを固定している鉄骨の支柱。地を蹴りながら捻りを加えていた俺の体は、支柱に激突する頃にはほぼそれと相対する形となっており、接触した俺はそこに叩き付けられる代わりに、更にそこから手と足を使って壁を突き放し、三角跳びの要領で空へと駆け上る。
 流石の波導弾も、この急激な運動には対応し切れなかった。尚もしつこく俺の体を捉えようと追尾して来たものの、更に上を飛び違えるその軌道には付いて来れずに、何処までも高い遥か蒼空へと消えて行く。一方流麗な軌道を描いて宙を舞う俺の方は、下方で茫然と目を見張り、今己が見た物を信じかねている雌コジョンドに向け、一直線に降下して行く。

 俺の奥の手・『アクロバット』。身軽で敏捷な特性を持った性格で、尚且つ高い身体能力を持った者だけが体得できる、飛行タイプの大技である。
 ……ここまでは上手く行っていた。そう、『ここまで』は。
 予定では俺は彼女の隣に着地して、とびきり爽やかな笑みを浮かべてこの技の感想を仰ぎつつ、あわよくば良いムードにでも持ち込む腹ですらあったのである。
 しかし、俺は酔っていた。……どの道酔いでもしてないと殆ど出さない大技であったが、それでもやはり素面の時に比べれば、多少は精度がずれるのは致し方ない事である。

 軌道をわずかにずれていた俺の体は、そのまま彼女の手前ではなく、直接彼女の頭上までオーバーランして、盛大な浴びせ蹴りをその美しい顔に叩きつけたのである。

『こうかは ばつぐんだ !』



 満天の星空の下、俺はすっかり良い気分になって、自分の住処に帰って来た。
 片手に握った紙袋の中には、更に追加の缶ビールが何本か。つまみの類もしっかり買い込んで来て、抜かりや不足は更にない。

 あの後、俺は目を回している雌コジョンドや丸くしているコジョフーと共に、乗客の救助に当たっている係員等の飛行ポケモン達によって、他の乗客らと同様地上へと下ろされた。
 白昼堂々施設をぶっ壊した事もあり、かなり面倒な事態になりかかっていたものの、偶々例の大きな吊り籠(サロンワゴンと言うらしい)に乗っていた客達が、俺と雌コジョンドの試合を大層気に入って、取り成しや尻拭いをやってくれたおかげで大事には至らなかった。
 全部終わって釈放されると、ガキの奴はあんな目にあったと言うのに馬鹿なのか能天気なのか、事態が丸く収まったのは俺のおかげだと言う結論に至ったらしく、一日連れ回される破目になった代わりに、実に良い思いをさせてくれた。彼らは俺の案内で街のあちこちを回り、礼と称して俺が目を付けたものは全てその場で買って分けてくれた。……ただ、あの雌コジョンドだけは、回復してからも塞ぎ込んじまって、ボールに閉じ籠っちまったきり出て来なかったのだが。

 別れ際、小僧は最後まで俺について来ないかと誘いをかけ、断り切るのに骨が折れたが、何とかそれは振り切る事が出来た。そしてその時だけ、何故かあの雌コジョンドは自らボールを揺らして外に出る意思を示すと、別れて巣に帰って行く俺の背中を、刺すような視線ながらも最後まで見送る。……御蔭で、折角の締めが幾分心臓に悪かったと言う事を付け加えておかねばなるまい。ああ言うシチュエーションは二日酔い以上に性質が悪い。


 そして、今俺は独りねぐらに座り込んで、静かに星を見上げつつ酒を飲んでいた。……既に十分に酔い、この上なく良い気分になっていたと言うのに、何時の間にかあの高揚感は消え去って、飲んでも飲んでもちっとも盛り上がらなかった。
 別れ際にかけられたある言葉が、ずっと頭の中にこびりついて離れないのだ。

「僕も大きくなったら、あなたや母の様な、の様に強いコジョンドになりたい」
 二人きりになっても畏まった言葉ばかり使うチビ助に茶々を入れ、『ワタクシ』だの『母上』だのはねぇだろと突っ込んでやった所、はにかむ様に笑って言葉を改めたチビコジョは、澄んだ瞳でそう告げたのだ。
 あの時の、嘘偽りの一切ない、真っ正直な告白。それが何か奇妙な感情のうねりを、俺の心の底に植え付けてしまった。
「あなたの様に」。『貴方の様に――』。これは果たして、適当な言葉なのだろうか……? こうして飲んだくれている、しがない都会暮らしのスリを相手に。
 奴はまた、こうも言っていた。
「僕も頑張って修業を積んで、何時か母に負けない位強くなります。何時かまた、出会えた時。……その時は、僕もあなたに挑ませてください」、と。


 更に一頻り喉を鳴らすと、持っていた缶は空になった。
 次を出そうと手を伸ばすも思い直し、空き缶を背後に投げ捨てた俺は、ふと思い出した事柄につられ、ぶっ壊れてただの粗大ゴミ以外の何物でもない、錆びついた加湿器に目を向ける。
 それを拾ってきた奴を、思い出す為に。

 俺に酒の味を教えた相手。ガラクタを拾って来ては弄り倒し、暇にかまけて俺に人間の文字を教えたその男は、ある時奇妙な道具を自作して、このねぐらから出て行った。
「もう、此処には帰らねぇ」
 そう言い捨てたその時は、「まーた始まりやがったか」思わなかった。……しかし、結局奴が戻って来る事は無かったのだ。
 数年後、その男が作ったガラクタが、『締め付けバンド』と言う名前でヒット商品になっているのを、破れた古新聞で確認したのは、ある秋の終り頃だった。

 そこまで回想が終ると、俺はつと立ち上がり、紙袋を手に歩き出した。
 ――酔いがさめる時、果たしてどこにいるのか? 今は全く分からないが、もう此処には戻ってこないだろう……それだけは、何処かではっきりと理解している気がしていた。
 
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