> オブジェクト・シンドローム 作:水雲
オブジェクト・シンドローム 作:水雲
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<theme>A-Glass</theme>
<title>Object Syndrome</title>
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<li>テーマ</li>
<li> A </li>
<li>ガラス</li>
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 ああ、いきなりどうも失礼した。私的な記録として残すための、ただの定義付けだ。どうか気にしないでいただきたい。
 それでは、どこから始めようか。
 そう。
 最初に打ち明けておくと、私は0378に恋していた。


 時が6を示し、分が0を示す。
 そうすれば、さあどうだろう、体内時計がサスペンドを自動的に解除し、起動回路をキックされ、私は勝手に目を覚ましたではないか。私のメインシステムが『休眠モード』から『活動モード』へと変更される。サブシステムのテストラン。休んでいる最中に体内へたまっていたノイズをスキャニングし、キャッシュをみじん切りにしてパケット化、さっさとこの世から抹消する。人間は朝食を摂ることで一日を始めるようだが、私の場合は一体どういう言葉をあてはめるのが適切なのだろう。それは図書館を調べてもわからない。
 情報インフラが発達したこのご時世、人間にも昼夜などおよそ関係なくなったようで、私が寝ている間にも複数のモノたちがここへ届けられる。「モノを引き出したい」という人間からの要求信号があった場合、私は夜中だろうが問答無用で叩き起こされるのだが、今日は珍しく「モノを預けたい」との要求信号しかなかったようだ。単純な預け入れだけであれば、略式エントリーのプロセスに任せているだけでいい。私がリアルタイムでしゃしゃり出る必要もないので、久しぶりに朝の六時まで休むことができた。
 よし、仕事を始めよう。
 マザーCOMへリクエストを送り、私は新しく入ってきたモノたちのリストを受け取り、まずは新入りのそれらを広場へと呼び出す。早朝に決められた私のルーチンワークだ。
 早速、私は広場へと向かった。
 Rotom : < おはようございます。初めまして、ここ電脳世界-MNDでは、わたしが管理者です。パーソナルネームはRotom-MND、分類ナンバーはΣ-109375。えらく長ったらしいので、気軽にRotomと呼んでください。御用の時にヘッダーに添える名前もそれで結構です。あなたたちの主人に現実世界へ引き出される時までは、わたしが責任を持って管理いたします。ああまだ動かないでください。心配はいりません、大丈夫ですよ。それぞれの友達のところへ、きちんとこちらで誘導しますから。 > : end
 モノたちは少しばかり戸惑っている。住み慣れない世界、モノを相手に堂々と話しかけてくる存在。まあ無理もなかろう。
 私は改めてひとつひとつにチャンネルを合わせて挨拶しながら、不具合がないかを確かめる。ここへ送られた際にオートで割り当てられたパーソナルタグを上書きし、お互いが呼びやすい数字をセットする。マザーCOMのプロセス領域のどこかに不備があるらしい。ここへ来る際にかなりの頻度で文字が化ける仕様は、どうも未だ改善できていないようだ。文字コードの海から探さねばならないほどのすさまじい記号で名付けられる輩も、決して少なくはない。
『ねえねえ』
 突然のコネクション。
 無視した。
 こちらの処理が先だからだ。バックグラウンドでは、「聞こえた」との応答信号が向こうへエコーバックされるはずだ。
 Rotom : < えっと、はい、これで結構です。今日からはここがあなたたちの家となります。主人に呼び出される時までは、その数字があなたたちの呼び名です。6065、0189、1077、よろしくお願いしますね。基本的には自由に行動してくださって結構です。が、ひとつだけ注意事項があります。ここ電脳世界-MNDの領域外、そうですね、近所で言えばPorygon-RIZの管理する電脳世界-RIZなどへは行かないこと。いるんですよ、たまに。本来なら動くことを嫌うモノのはずなのに。あそことは規格が異なっているため、最悪の場合、あなたがたのパーソナルデータが破壊され、わたしたちや主人たち永遠に見つけてもらえなくなります。 > : end
 脅すことは別に趣味ではないのだが、こうして反応を調べることも私にとっては重要だ。素直なモノには信頼を寄せ、不満を漏らすモノには要注意とマークしておく。モノとしての本分を了解しているのか、今回は全員聞き分けがよく、あっさりと了承してくれて助かった。ヒマワキの木で造られた椅子である6065、カイオーガのピンナップポスターである0189、シェイミ色をした絨毯マットである1077。今日の新入りはこの三つ。『お元気で』との旨をフッターに添え、私は主人のモノたちがたむろしている場所へと各々転送した。
 さて。
 先ほど送り返した応答信号のログを自分で探り直し、私はステイタスに目を通す。パーソナルタグは――
 案の定だった。
 苦笑する。いくらかおかしそうな語気を込めて、正式なレスポンスを飛ばす。
 Rotom : < やはりあなたでしたか。 > : end
 再びのコネクション。
 すると、一体のモノがアバターの姿を借りて広場へ現れた。
『おはよう。ねえ、あたしの声、聞こえてたんでしょ。なんでさっきは無視したの』
 Rotom : < 仕事がありましたから。というより、まだ残っていますよ。 > : end
『休憩しなくていいの?』
 Rotom : < 今し方始めたところですって。電気を食べていればいいだけの話ですから、ここの世界で休憩だなんて、もともとはいらないのですよ。 > : end
 つまんないの、とだけ言い残し、モノはすぐに行方をくらました。
 あのモノこそが、パーソナルタグ0378。現実世界での正式名称「ガラスのオブジェ」だった。


 詳しく話せば長くなる。
 私が「モノ」と対話できるようになったのも、それほど最近の話ではなくなってしまった。モノたちの配置が昨日と比べて若干変わっているのも、私の気のせいではなかったのだ。
 自分で言うのも何だが、ロトムである私はまだ若い。だから、寿命が来てしまったという自覚はない。とするとつまり、私が「生物」ならぬ「静物」としての感覚を徐々に得ていってしまったのではなかろうか、と考えている。そんな私を異常だと客観的にとらえるのも、まあ妥当な判断であろう。しかし、自身にシステムリカバリをかけるつもりもさらさら無いということは、ここで明言しておこうか。電脳世界-RIZのポリゴン――私よりずっと年配だが――も、とっくの昔からモノたちと対話できる力を獲得していたらしい。他の管理者のことまでは知りかねる。
 電脳世界-MNDへ閉じこめられてからの八年間、他の管理者たちと同様、私はずっとモノたちの管理を担っている。ファイルの整理をし、こちらの縄張りへ迷い込んだコマンドに回れ右の信号を送り、暇さえできればモノたちと他愛ない雑談を交わし、そうして私は一日をここで過ごしている。
 現実世界、時の移ろいでモノはホコリをかぶる。
 それと同じだ。
 電脳世界、時の移ろいでモノはノイズにまみれる。
 誰かが定期的に掃除をしてやらねば、いつかはデリケートなデータをノイズに埋め尽くされてしまい、半永久的に見つけてもらえないまま、電脳世界の蒸気に蒸され続けることとなる。
 お局であるマザーCOMからの信号と命令が跋扈するこの世界。外部アクセスによる人間とのフロントエンド。天文学的なまでの電気と数学によってここは成り立っている。高科学文明である今日(こんにち)を鑑みると、マザーCOMは処理能力の精度に欠けるポンコツババアで、しかし思ったよりもずっと秩序めいていた。
 かく言う私も馬鹿が伝染った。荒んだこころはいつか平穏を取り戻すものらしく、人間たちの童心につきあうのもそれほど悪い話ではないと思うようになってしまった。人間は大地のどこかへちょっとした小部屋を作り、モノを好きなように配置し、自分だけの秘密基地を作り上げる。手に余るほどのモノはコンピュータを経由して電子化し、私が預かり、引き出される時まで管理するのだった。人間たちの秘密基地を己の牙城と呼ぶのならば、差し詰めこの電脳世界-MNDが私の城であった。


 ――おい、聞こえてんのか。返事くらいしろよ。
 最初に言葉を交わした相手は、そう、パーソナルタグだけは忘れもしない。0098だ。当初はバグだとばかり思い込み、交信記録の大半を処分してしまったため、残念なことに、データの残滓から想像しうる姿形はもうほとんど憶えていない。0098は果たして椅子だったのか、机だったのか。はたまた皿だったのか、コップだったのか。わずかに残った断片化ファイルだけでも生かしておこうと思って、厳重なロックをかけておいたはずなのに、知らぬ間にパケット化し、電脳世界の海へと還してしまったようだ。0098と初めて言葉で接触したその瞬間から動き続けている記念時計は、ゆうに200メガのセカンドを越える。七年を過ぎた今もなお、情けないことに私は後悔し続けている。
 もちろん、当時の私は衝撃のあまり言葉を失っていた。
 ――驚いた、って、はあ? アホ言え。あのな、おれたちにもはっきりとした意思が存在するんだ。電気(メシ)食って動いている中途半端なやつらなんか特に顕著だろ。微細な電位ひとつひとつに小さな意識を存在させて、人間と直に接するんだ。虫の居所が悪ぃ時にはイタズラして、逆に良い時にはプロセスを早めてやる。ここと向こうを行き来できる、どっちつかずのおまえにならわかるはずだろ。おれたちは現実世界で言葉を持てないから、そうやって人間への意思を己の形で表す。それだけだ。おれたちは、ずっとそうして、あらゆる所から、人間やポケモンを見守ってきたんだよ。
 乱れに乱れた有意信号から察するに、結構ぶっきらぼうでがさつな野郎だった。それは一応憶えている。現実世界では口の聞けぬ物体だけに、電脳世界にて有意信号を扱うのは難しいらしかった。0098は、この他にもまとまりのないぐちゃぐちゃな言葉をたくさんよこしてくれた。それらを、意味を成さない文字の羅列として、マザーCOMが私の記憶領域から消去してしまうのも、今にして思えば仕方のない話だった。
 ――おまえのような生き物は、自分から何かをすることでやっと己の存在価値を示す。はっ、つくづく嘆かわしい。だがな、おれたちは違う。それこそ根本的にだ。静に徹することで真価を発揮する。人間に必要とされる時こそ、されるがままに黙って役割をこなす。他の物体を支え、守り、しかし外力の入らぬ限りは決して自分から動かない。それがおれたちの鉄則であり、掟であり、唯一無二の目的だ。そういう意味では、現実世界の重力ってのは永遠の宿敵でもあるし、恋人でもあるのさ。
 確かに高圧的な態度が0098の特徴であったが、不思議と憎めなかった。
 まるで、自分がモノであることを誇りにしているかのような口振りだった。
 いや、実際に0098は誇りにしていた。
 0098だけではない。0098を初めとするモノたちは次々とそんなことを口にしていた。
 私には納得できなかった。理屈は理解できても、感覚では納得できなかった。今でもその気持ちは変わらない。
 生きる者の性であろう。当然だが私は全ての活動が停まる死期を恐れている。0098たちの理論に真っ向からぶつかる考えだ。みずから動き、物事を成し遂げ、世界の一部に変化をもたらす。それが生きることだと信じてやまない。この電脳世界での服役は、身動きの取れない狭っ苦しいところでじっと過ごすよりかは、よっぽど精神衛生上いいものだった。
 けれど、モノたちは違う。どこであろうといつであろうと、動かないことによって生の全てを主張する。必要とされる時にだけ存在を表し、しかし能動的にはならず、生き物のそばにいる。年を経て朽ち果て、スクラップにされる最期の瞬間だろうと断じて動かず、静かに散っていく。それが、モノたちの華々しい生き様だった。モノの誰しもがそのような考えを根幹に携えているため、善悪をふらふらする人間たちや私よりも、ある意味ではずっと上等な生き方なのかもしれない。
 相容れぬ者とモノが別次元で共存している電脳世界。一言で済ますとなれば――図書館の言葉を借りよう、まさに呉越同舟だった。


 午前中の見回りと掃除を済ませ、広場に誰もいないことを再三とチェック。はやる気持ちを抑えつつ、マザーCOMと繋がっている母線を最低限に絞り、バックグラウンドでアクセサーを立ち上げ、0378へのコネクションを再度図る。
 いよいよ、密会を始めたいと思う。
 Rotom : < 終わりましたよ。 > : end
 さっきよりも反応が早かった。遅いよう、という悪態を第一声に、しかし嬉しそうに0378がやってきた。
 0378はいたずらっぽく笑って、
『やっぱり早くあたしを見たかったんでしょ』
 Rotom : < ええ。 > : end
 あえて否定するほどでもなかったので、私はあっさりと白状する。お互い様なところもあるだろう。
 最近の日課だ。仕事合間の休憩と称し、また品質管理と称し、0378の正体をスキャニングで「見る」ことは、私の密かな愉しみとなりつつあった。普段は簡素なアバターしか与えられていないため、本来の姿を確認するには特殊なやり口を必要とする。「目の前にいるアバター」と「保管されたステイタス」を照合させ、「ここへエントリーした時の形状」を図書館に検索させる。
 X。
 Y。
 Z。
 メインメモリをふんだんに使い、あくまでも三次元的に、私は0378をその場で擬似視覚する。
 青々としたガラスで全身を表す0378は本当に綺麗だった。小枝に休む鳥を思わせる滑らかなシルエット。ミルクを薄く塗ったような光沢。精緻な施しがなされた主翼は角度によって反射を変え、内側から幾層もの光をきらびやかに発散させている。首の角度は空。その先の見つめているものが何なのかを訊ねても、0378は内緒だと言って適当にはぐらかす。
 名誉ある品なのだと0378はいつも自慢気だった。ロトムである私は人間で言うポケモンに属されるのだが、そのポケモンコンテストに0378の主人は優勝を連ね、何の因果かホウエン地方のミナモ美術館から贈呈されたそうだ。言われてみれば、なるほど、どこの美術館に飾ってもこのアーティファクトはさまになるだろう。主人が秘密基地でお客を驚かせるのにはもってこいだ。
 変わらぬ日常の中、モノたちの本来の姿を確認するのは、私にとって非常に豪奢な行いである。人間に芸術のこころがあるように、私のシステムにもそれがランダム制御的に備わってある。
 つまるところ、お互いの、こころの慰めだった。
 人間に相手してもらえないモノたちを、私が代わりとなって鑑賞する。私はこれをつまらないなどと考えたことは一度もないし、私に見られることを不服だと告げるモノもいなかった。これまで、数千点に及ぶモノたちを視覚して目を肥やしてきたつもりだが、0378は群を抜いて美貌に満ち溢れていた。0098たちと同じく、0378もこうして私や人間に見られることを喜びにしている節が随所に見受けられた。
 私はふと、不毛な質問を投げかけてみる。
 Rotom : < 見られていて緊張するとか、動けなくてつらいとか、そういうことは思わないのですか。 > : end
 0378はさも不思議そうに、
『どうして? 人間があたしを見ることで感性を動かしてくれる。それが「置物」であるあたしの本来の役目だもん。秘密基地に置いてもらって、自分から何もしなくても、誰かの目に止めてもらう。手入れしてもらう。そしていつか壊れて捨てられる。最ッ高の至福だよ。いい? 単純に「素晴らしい!」とか「泣いちゃった!」とか、そんなことを思うだけが感動じゃないの。正負の感情どちらであれ、こころを強く動かす。それが感動ってもの。人間の言う「薄気味悪い絵」をそのまま「薄気味悪いなあ」と言ってもらったり、「考えされられるなあ」とか言ってもらったりするのが、その子にとって一番嬉しいことなの』
 そういうもの、なのだろうか。モノと対話できる能力を得てしまったとは言え、所詮私は生き物だ。0378の依拠する本質には到底辿りつけそうにない。壊れて捨てられることの、果たして何が満足なのだろう。
『あたしからも質問。前から訊きたかったんだけど、いい?』
 Rotom : < はあ。 > : end
 0378の姿に見とれて生返事となるが、まあどうせあの事だろう。出会う回数がとりわけ多かったはずなのに、今まで0378に訊かれなかったのがかえって不思議なくらいだ。
『きみはなんでずっとこっちの世界にいるの? 毎日毎日飽きもせずにあたしたちの相手をしてくれるのはどうして? 仕事だから? それとも単なる暇つぶし?』
 ほら来た。
 0378だけに限った話ではない。40時間もすれば、私は新入りのモノたちからこのことを訊かれる。必ず訊かれる。
 だから、いつものように返した。
 Rotom : < 昔、調子に乗っていた頃がありましてね。現実世界や電脳世界であくどい事を散々やらかしたのですよ。とっつかまって、今も刑罰を受けている最中なのです。 > : end
 0378はしばらく黙ったあと、
『うっそだあ。昔はワルだったって、なんだか人間くさくて説得力なさすぎ。武勇伝を語るつもりなら、聞き上手の0874を呼ぼうか?』
 ほら来た。
 0378だけに限った話ではない。二秒もすれば、私は新入りのモノたちからこう言われる。必ず言われる。
 だから、いつものように返した。
 Rotom : < 本当ですって。あなたたちには見えていないだけで、実際わたしには二つの強い制約がかけられているんです。時限式ロックで電脳世界-MNDに縛られ、かれこれ八年となりました。仮に自力で手錠を外して外に出られたとしても、三分とたたないうちに自爆プロセスがどかん。だからもうしばらくは、こっちの世界に居座りっぱなしなのですよ。 > : end
『うそ』
 0378は、今度は早めに打ち消してきた。
『あたし知ってるもん。きみはすごいって。さっきの話が本当でも、そんな時限式ロックとか自爆システムなんか、あっという間に解除できるはずでしょ。あたしたちを大切にしてくれている手際の良さからわかるもん。できるのにしないってことは、何か別の目的があるんでしょ。あたしたちとは違って、きみは黙って過ごすことに喜びを感じるモノなんかじゃない。現実世界で暮らすことが、本来の生き方のはず』
 つくづく返答に困った。
 この時はまだ、私は私自身の気持ちに気づいていなかったからだ。


 それから、凶悪なバグも特に起こらず、強いて言うならマザーCOMの息遣いがうるさいくらいで、穏やかな二日が過ぎた。
 かれこれ、0378と出会ってからちょうど一週間目だった。
 来るべき時が、来た。
 ここは出会いと別れが最初から決定された世界だ。覚悟ならいくらでもしていたが、いくらでもし足りなかった。
 いつものように0378を見つめ、おしゃべりしていた時だ。とある引き出しの要求信号が私に届いた。指名されたモノたちを現実世界へと送り返す作業任務だ。宛名一覧を読み、内心で溜息をつく。
 Rotom : < あなたの主人から、あなた宛です。どうやら新しい秘密基地の場所が見つかったみたいですね。 > : end
 そっか、と0378はにべもなくつぶやく。その淡白さが嬉しくもあったし、つらくもあった。
『これでお別れだね。短い間だったけど、楽しかった。あの人の代わりにあたしを見てくれてありがとう』
 そこで三秒という長い間を置いて、
『誰かがここを去るのを見送るのって、やっぱり寂しい?』
 Rotom : < まさか。モノにいちいち情を持って別れを惜しんでいては、やってられません。今日を限りにあなたの単独ショーに付き合わなくて済むのだと思うと清々しますよ。メモリが軽くなります。 > : end
『なにそれ。きみさあ、最後くらい優しい言葉で飾れないの?』
 胸のふさがるような思いは、何故か意図せぬ言葉を私に選ばせていた。
 嫌われ者として最後を締めくくり、宙ぶらりんの未練を断ち切りたかったのかもしれない。
 私などに見られるより、人間たちに見られることが0378にとっても本望だと、よく知っていたからだ。
 ということで、荷造りが始まった。私は宛名を読み上げ、0378以外のモノたちも呼び寄せた。0378、0379、0380、0381、0382、この五点が今から現実世界に戻る。図書館のファイルを凍結させ、引き出しの際の最終プロセスを済ませる。モノたちに説明することも特に無いし、モノたちも早く主人に会いたいだろうしということで、早々に締めくくった。
『じゃあ、さようなら。元気でね』
 Rotom : < はい。 > : end
 一応のお約束として、『お元気で』との旨をフッターに添えようとした。
 半秒だけ考え、途中でキャンセルした。
 送信相手を選び直し、チャンネルを0378以外のモノたちに限定し、『お元気で』と一斉送信した。
 これまで蓄積してきた記録の箱をひっくり返し、その隙間すきまからにじみ出ている想いを言葉に換え、私は0378だけに送信した。
 Rotom : < ホコリの世界へさようなら、いつまでもお元気で。現実世界の気温があなたを優しく祝福しますよう、電脳世界の片隅からお祈りします。どこまでもクリアで強いこころを持った、あなたはまさにガラスの雛形でした。壮麗で、立派で、本当に美しい方でした。たとえ、今後どれほど魅力的なモノがここへ現れたとしても、あなたと過ごした600キロセカンドを、わたしは一生忘れないでしょう。 > : end
 それ以上は、続けられなかった。
 この期に及んでも、私は私に嘘をつき、最後まで本音を言わせずにいたのだ。
[ <Administrator Rotom-MND> : <Transfer> Cyber World MND <Include> <File 0378> <File 0379> <File 0380> <File 0381> <File 0382> Real World BATE102 : <Ready> : <sec 10.0> ]
 五つのモノたちをまとめてカタパルトに搭載。私は、0378たちを、主人のもとへと転送した。


 その百二十秒後だった。
 0378の、現実世界での姿を考慮すれば、いずれはそうなるだろうと思わなくも無かったはずなのだ。
 何かが砕ける鋭い音と人間の悲鳴が、ノートパソコンのマイクを経由してこんなところにまで届いてきた。
 音に反射した私は、即座にノートパソコンのウェブカメラに電気を通して現実世界を覗く。
 見えてしまった。
 強烈に後悔した。
 私の思考回路に、亀裂のようなものが走った。
 沸騰する勢いで電圧(けつあつ)が上昇した。
 私を制限する光学神経系プロテクトを、全部殺した。無意識だった。
 八年前に封印した現実プログラムのホットスタート。時限式ロックにブルートフォース、強制解除。ゴーストマシンを私の代わりに置いて、マザーCOMからの接続を遮断。最悪の順番で、いっぺんに実行した。脱獄対策の自爆プロセスもパージしたかったが、不可能だった。かつてのどす黒い思惑が、純潔だった神経繊維のあちこちに侵入し、不良システムが八年ぶりに私の中で蘇ったからだ。体内で暴れる乱雑な衝動に振り回され、図書館強盗をし、データをひったくり、誰かの掃除機である9945の名を叫んだ。事情を説明しないまま、問答無用で拉致った。
 カタパルトに乗り込んで待機するも、転送のロード時間が死ぬほど苛立たしい。
[ <Administrator Rotom-MND> : <Transfer> Cyber World MND <Include> <Administrator Rotom-MND> <File 9945> Real World BATE102 : <Ready> : <sec 5.0> ]
 エサを待ちわびたケダモノのごとき獰猛さで、私は八年ぶりに現実世界へと飛び出した。
 一秒、
 0378が、転倒によって上半身を壊されていた。
 二秒、
 0378の主人が、へたり込んで呆然としていた。
 三秒、
 その他の0379、0380、0381、0382は、全員無事だった。
 四秒、
 私は9945にまたがり、自身が電源となって9945のトルクに火を入れた。
 五秒、
 9945を掃除機として働かせ、壊れた0378の回収にあたった。
 六秒、
 0378の破片が、次々と9945の腹に収まっていく。ガラガラとした甲高い音が私の狂気を煽る。
 七秒、
 うっかり0378の破片を触ろうとした主人を、私は慌てて突き飛ばした。
 八秒、
 突如のめまい。
 自爆プロセスが警告信号を発してきた。三十秒もたたないうちから、私の不良システムが異常をきたし始めた。
 頭痛をこらえつつ秘密基地内を駆けまわり、0378の破片を全て9945に食わせきった。画面も割れよの勢いでノートパソコンのモニタを蹴り倒し、仰向けにさせる。
 あらかじめ用意していたコマンドをノートパソコンへ送る。9945の腹をイジェクト。0378の破片をざらざらと流しこんで電脳世界-MNDへ預け入れた。次に、電源コードを巻き戻して9945本体も預け入れた。最後に、破損を免れていた0378の下半身をとっつかみ、ノートパソコンとの連結を私が担う。管理者として私だけに与えられた親鍵をシグナルに乗せて突き刺し、私と0378は、9945から七秒遅れて再び電脳世界-MNDへと戻った。


 先ほどとは逆の順番で、私は全てのプロテクトを修復した。言うなれば、脱獄者がみずから自分の牢屋に戻り、檻に鍵をし、自身の手足に手錠をはめ、聖書を読み始めたのと同等の行為だ。
 その最中、サブシステムのどこかが、9945の声を拾っていた。
『ね、ねえRotom、これ、0378、だよね? ぼく、やらされるがままやっちゃったけど、勝手にこんなことしていいの? ダメじゃない?』
 いいわけがなかった。ダメに決まっていた。
 私は黙って9945を元の場所へと返し、0378をスキャンする。X、Y、Z、
 やはり無残な姿だった。
 0378は、完全に上半身を失っていた。
 マザーCOMに処理される前に、ガラスの欠片たちとガラスの下半身をひっくるめ、私は独断でひとつの0378と再び定義付けた。
 今頃になって感情がキックバックされ、私は恐怖で震えてきた。それは、自分が規則違反を犯したからではなく、目の前にいる0378をかつての0378と認めたくなかったからだ。
 ――秘密基地に置いてもらって、自分から何もしなくても、誰かの目に止めてもらう。手入れしてもらう。そしていつか壊れて捨てられる。最ッ高の至福だよ。
 それでも、これはあんまりすぎた。
 いいわけがなかった。ダメに決まっていた。
 百二十秒前の世界に、戻れるものなら戻りたかった。
 恐怖と絶望に引き裂かれて、私は途方にくれる。
 0378の主人からの要求信号。
 私はしぶしぶ、主人とのコネクションを図る。
 マイクを通じて聞こえるのは、涙混じりのパニック声。そこから拾える意味は、0378を渡してくれとの訴えだった。
 お互い興奮状態にあったとはいえ、さすがに腹が立った。
 今更どうしようというのだ。現実世界の0378は形を失った。私たちで言う死んだも同然の、無様な格好だ。もはや直せる直せないの問題ではない。
 煩わしさを覚えつつも、私は混線した思考回路を必死に整頓し、電圧を下げる。有意信号を使って言語を作り、私は主人に向かってこう送信した。
[ 彼女はモノだ。あなたと再会し、飾ってもらう日を待ち焦がれていた。わたしはずっと彼女と対話をし、モノとして生きる楽しみを聞いてきた。だが、その願いはここで終わってしまった。そちらが生き物の世界ならば、こちらはモノの世界。どうか、わたしに供養させてほしい。 ]
 さしもの私も冷静さを失っていた。向こうにしてみれば、ひどくシビアな言い方となってしまったことだろう。それは否めない。
 涙腺を持つ人間がこれほど羨ましいと思えた日は、ない。私も残念な気持ちでオーバーフロー寸前だった。
『ねえねえ』
 突然のコネクション。
 無視できなかった。
 Rotom : < ま、まだ生きていたのですか。 > : end
 交信の合間にもやってくる、主人からの要求信号。
『うん。こんな格好になっちゃっても、あたしはモノだから。だいじょうぶ、形を変えただけ。ごめんね、びっくりさせちゃって。あの人、今どうしてる?』
 迷いに迷ったが、私は正直に告げる。
 Rotom : < 泣いています。あなたを壊してしまったことを、本当に申し訳ないと思っているようです。 > : end
 交信の合間にもやってくる、主人からの要求信号。
 良かった、と0378は何かに安堵した。
『Rotom、あたしをあの人のところへ戻して。あの人の「世界」に帰りたい』
 今度こそ完璧に思考が停止した。
 八年ぶりに解除した不良システムの余波が、まだ体内のどこかに残っていたらしい。停止した「今の私」の思考を「昔の私」が乗っ取り、全ての指揮権を奪った。
 Rotom : < 何ぬかしてんだ! せっかくあっちの世界に戻れたのにあいつはあんたの体も願いもぶち壊したんだぞ! そんな格好でどうするってんだよどうせすぐごみ処理場へ直行されて捨てられんのがオチだ! 三日もすればあんなやつはあんたのことなんか忘れてのうのうと生きていくに決まってる! あんたたちはモノだけどな、こちとら生き物だ、有終の美なんざクソくらえだ! あっちの世界で酷い目に遭わせるくらいなら、こっちにだって考えがある! あらゆる権限を行使して、あんたにはずっとここで過ごしてもらう! いいか、絶対だぞ! > : end
 そこまで口走ってようやく、私は私の気持ちに気づいた。
 それはまさしく、私の本心であった。
 回路を塗り固めていた嘘が、音もなく溶けた。
『あたし、怖くなんかないよ。Rotomに寿命があるのとおんなじで、あたしたちにもいつか壊れる時があるの。あたしの場合、それが不幸な事故だっただけ。それでも、あたしは最期まであの人のモノでありたい。最初にあたしを受け取った時には喜んでくれて、あたしが壊れた時には泣いてくれた。その気持ちで、もう十分』
 Rotom : < し、しかし。 > : end
 交信の合間にもやってくる、主人からの要求信号。
『お願い。Rotomならわかってくれると思う。向こうとこっちの世界の架け橋となるRotomなら、あたしたちの気持ちも、理解してくれるって信じてる。あたしは、最期まであたしをまっとうしたい』
 交信の合間にもやってくる、主人からの要求信号。
 私は、生涯の中でもダントツで一位に輝く懊悩に苛まれた。
 0378には死んでほしくない。死んでほしくないが、そんな甘い感情はモノとしての0378を頭から否定するものだった。
 ここは出会いと別れが最初から決定された世界だ。
 モノにいちいち情を持って別れを惜しんでいては、やってられないのに。
 モノと対話できるようになった時から、決意していたことなのに。
 最終的に、二十三秒というとんでもなく長い時間を費やして、私はようやっと、とある一文を主人側へ返信した。
[ 1.2メガセカンド。つまり二週間、わたしに時間をいただきたい。大丈夫、悪いようにはしない。パーソナルネームRotom-MND、分類ナンバーΣ-109375の名誉を懸け、彼女をあなたの元へ返すことを、約束する。 ]


 主人の返答が「応」だろうが「否」だろうが、私にはやりたいこととやるべきことがあった。
 神の悪知恵と悪魔の英知で灰色に濁った思考が、その時の私の全てだった。
 脱獄や改竄や無断使用など、現時点ですでに五つ以上の禁則事項を犯してしまっている。追加懲役三年はくだらない。
 そんなの知ったことではなかった。
 考えうる限りの、あらゆる手を使った。
 時間が惜しかった。更なる罪を重ねることを決心した。私は自身のシステムを再度ハックし、先程の脱獄とパーソナルタグ9945無断使用についての顛末をシステムエラーとして適当にでっちあげ、マザーCOMの警告信号を誤魔化すことにかろうじて成功した。
 図書館のデータを徹底的にドブさらいし、座標を一瞬で特定。最短距離を高速演算。ガラスのがらくたと化した0378と共に、私はあらゆる電脳世界を一直線に突っ走った。別の電脳世界が発生させている磁気嵐から守るため、何重にも強固なプロテクトを0378に張らねばならなかった。あまりの処理速度に神経繊維が悲鳴をあげ、それでも私は足を止めない。亜光速にも近いスピードで、私は0378をとある場所へ連れていった。
 刑期があと十五年延びてもよかった。
 二度と0378に会えなくてもよかった。
 私は、何としてでも0378に生きてほしかった。
 人間相手用のメーラーを立ち上げる。ヘッダーに緊急事態の旨を添付。警報レベルはMAX。私はとあるパソコンへ向かって、周囲の電脳世界に届きそうなほどの強度でコールした。


 この物語の終局も、もう間近だ。語ることも少なくなってきたし、いい加減そろそろ引導を渡そう。
 あの日を境に、ガラスのオブジェとしての0378は死んでしまった。
 あの日を境に、パーソナルタグとしての0378は欠番と成り果てた。
 とりあえずだが、現在もなお、私は電脳世界-MNDの管理者として活動している。泥縄で仕掛けたジャマーが運良く効いてくれたのか、マザーCOMからのお咎めも今のところは来ていない。モノを受け取り、管理し、雑談し、鑑賞し、時が来れば引き出させる。何事もなかったかのような日常が、無法者の私をそのまま受け入れてくれた。
 0378は、ここにはいない。
 発狂していたあの日のことを、後になってもよく思い出す。そのたびに私は少々恥ずかしい気持ちになる。いやはや、まったく、つくづく、なんとも、自分らしくなかった。しかしながら――真理なのかは判断しかねるが――急いでいる時ほど、得てして正解を選びやすいらしい。本能の命じるままに敢行したあの日の自分を、私は決して悔やんでいない。
 あの日、私がアクセスしたのはホウエン地方の113ばんどうろ――そこに位置するガラス職人の家の端末だった。
 私はガラス職人をこれでもかというほど拝み倒し、色をつけてもらった。鬼気迫る振る舞い、一触即発の場面だったかもしれないことは、素直に自白しておこう。0378の全身を砕いてゼロに戻し、「きれいなイス」へと生まれ変わらせてもらった。青々とした肌色は相変わらずで、モノのとしての生命を光と表現し、雅やかに照らしていた。形は変わってしまえども、再び主人のそばにいられることを0378はこころから喜んでいた。秘密基地へやってきた客との語らいを、戦いを、生活を、優しく見守っているだろうと私は推測する。
 生まれ変われたその日、0378が私に何を言ったか。主人が私に何を言ったか。
 それは、誰にも教えたくない、私だけの秘密だ。


 0378は、もう恐らくここへは戻ってこないだろう。
 だから、0378が再び死ぬその時に、私はきっと立ち会えない。
 私は、0378との交信記録の全て、約600キロセカンドを、今度こそ厳重にロックをかけて大切に保管している。
 ――ホコリの世界へさようなら、いつまでもお元気で。現実世界の気温があなたを優しく祝福しますよう、電脳世界の片隅からお祈りします。どこまでもクリアで強いこころを持った、あなたはまさにガラスの雛形でした。
 そして、脆く美しく散った0378は、まさにガラスの生き様そのものを描いてみせた。唯一最後まで壊れなかったのは、モノとしての信念だ。
 あのガラスのオブジェにつけられた0378というパーソナルタグを、まるで昔の恋人の写真のように、私は今も欠番として扱っている。


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> ガラスのとりかご 作:天草 かける
ガラスのとりかご 作:天草 かける
彼女ーーエルフーンは自由に外の世界へ行くことができなかった。
その理由は彼女が一流企業の令嬢だったというのもあるが、もうひとつ、明確な理由があった。
それは、治療不能の病にかかっているということである。

いつもの彼女の世界は自室の窓から見える1本の桜の木と雄大な空しか無かった。ーーもっとも、現在は秋のため桜の木は枝だけの寂しい姿をしていたのだが。
そんな彼女にはもちろん友達などいなかった。
ただ一匹を除いて。

〜〜

エルフーンがいつものようにベッドの中で読書をしていると、窓からコンコンと誰かが叩く音が聞こえてきた。
ここは二階なのに誰が叩いたのか。
その誰かを知っている彼女は何の恐怖心も抱かずにその方向へ振り向いた。
「・・・また来たんだ」
「よう! 元気か!?」
エルフーンの目の前には、桜の木の枝に乗っかった一匹のサンダースが軽く前足を振っていた。
年はエルフーンと同じくらいの、まだ少年と言ってもおかしくない顔立ちをしている。
「見れば分かるでしょ? 全然元気じゃない。・・・毎回思うけど、よく使用人のポケモン達に捕まらないね」
「まぁな。俺にかかればこんなへぼみたいな警備なんてお茶の子さいさいなんだよ」
「そう、ならあとでお父様に警備を強化していただかないと」
「ええ!? それは勘弁!?」
オーバーリアクションをとるサンダースに、エルフーンはくすっと笑い声をあげる。
サンダースは、まだエルフーンが外に行ける程元気だった頃に知り合った友人である。
そして彼女の病が重くなり、外に出られなくなった時から時々こうして会いに来てくれるのだ。
もちろん使用人であるポケモン達に捕まることもあるが、その都度エルフーンの助けもあって、ただつまみ出されるだけで事は収まっていた。
「それで、今日はどうしたの? またトランプでも持ってきた?」
エルフーンは使用人に捕まってもめげずにくるための呆れ半分、今回は何をして遊ぶのかという期待半分の眼差しでサンダースを見つめる。
しかし、次のサンダースの言葉でその眼差しはなくなった。
「いやな。ずっと思ってたんだけどさ。・・・お前、そろそろ外に出ないか?」
沈黙。
しばらく立った後、エルフーンは目の前のポケモンから目線を逸らしながら口を開いた。
「・・・知ってるでしょ? 私は今、重い病気にかかっているから出られないって」
「あ、そうだったな。それで、その病気はいつ治るんだ?」
「多分永遠に無理。そんな病気だから」
「え〜? それじゃ、一生外出れないじゃんか?」
「そうなの。だから、私はもうあきらめているの。外に出ることを」
エルフーンがそう言った後、サンダースはしばし悩むような仕草を見せ、常識はずれの事を口走った。
「う〜ん。・・・なら病気がかかったまま外に出るとか?」
「・・・バカじゃないの?」
「そうかな? 俺は良いアイデアだと思うけど?」
「いい? 私の病気は、いわばとりかごみたいなもの。この病気が有る限り、私は外に出ることはできないの」
「とりかご? そんなのどこにあるのさ?」
キョロキョロと、本当にとりかごを探しているような仕草をするサンダースに、エルフーンはため息をする。
「目に見えない物なのよ。・・・そうね。言うならば、ガラスでできたとりかごね」
「ガラスでできた?」
「そう、その通り。・・・私はこのガラスのとりかごがある限り、外には出られない。だけど、このとりかごは壊すことができないの」
エルフーンはそう言いながら窓から見える秋空を見つめる。窓から夕焼けが差し込み、エルフーンの哀しみを一層際立たせた。
「だから外に出ることはできない。私はこのとりかごを壊すことができないの。ガラスだからあなたを見たり、話したりすることができるけど、ここから出て、一緒に遊ぶことはできないわ」
エルフーンの自虐的な発言に、サンダースはポリポリと顔をかいたあと、ゆっくりと口を開いた。
「なら、俺が壊してやろうか? そのとりかご」
「え?」
「いやさ。そのとりかごってガラスでできてんだろ? 俺ってよく街でひとん家の窓ガラス割ったりしてるからガラスを壊すの得意なんだよなぁ」
「・・・壊せると思っているの?」
「ああ、俺なら壊せると思う」
そんなことできるはずがない。
エルフーンそう言おうとするが、目の前のポケモンの自信満々な笑みを見ると何故か否定することができなくなった。
「よし! お前のとりかごを壊すにはとりあえず病気を治す方法を見つけないとな! なんか方法ないの?」
「だーかーら! そんな方法が無いって言って・・・」
エルフーンの怒りが最高潮に来ようとした瞬間、ふと、彼女はある噂を思い出し、言葉を切った。
それは、使用人のポケモンが話している単なる世間話だったのだが、あまりの夢話だったため、エルフーンの記憶に深く残っていた。
「・・・一つだけあるかも」
「え? 何々!? 教えろよ!?」
「どこだかの大陸のどこかにいるポケモンは、どんな病気でも治すことができるらしいの」
「それ、本当か!? もしそれが本当ならお前の病気治るじゃん!」
「でも噂だよ? 本当にあるわけないよ」
「そんなもん、実際に確かめないと分からないだろ?」
ーーまぁ、そうだけど・・・
エルフーンは小さくため息をつく。
すると、サンダースは明るい声のまま、とんでもないことを言い出した。
「よし! なら俺がそのポケモンを見つけてやるよ!」
「え?」
エルフーンは思わずサンダースの方へ向いた。当の本人はやはり自信満々な笑みを浮かべている。
「だからさ。もしそのポケモンを見つけてさ、お前の病気が治ったらーーまたいっしょに外で遊ぼうぜ!」
「・・・」
サンダースは時々、彼女を励ます為に狂言を言うことがある。エルフーンは今回もまた同じ狂言だろうと思い、彼の気持ちを快く受け取った。
「うん。もし私の病気が治ったら、外で遊ぼうね」
「よっしゃぁ!! それじゃ、エルフーン!! すぐ見つけてやるから待ってろよぉ! ーーッ!! おわわわわわ!!」
サンダースが気持ちを入れるためか、勢いよく両前足をあげると、その拍子に自らが乗っていた枝がポキリと折れた。
そして、サンダースはエルフーンの視界から消えていった。
「ッ!! サンダース!」
エルフーンは思わず声をあげるが、ちょうど彼女の部屋の下から使用人であるポケモン達の声が聞こえてきた。

『あ! またお前性懲りもなく!』
『つーかどうやって入ってきた!』
『いやぁ、今回は穴掘ってきました』
『ああそうか。なら今度から地面をコンクリートに敷き詰めるか』
『それいいな』
『いやいやそれはやめて下さい!』
『っていうかお前、その折れた枝は何だ!!』
『お前・・・あとで弁償な』

ーーああ、またあとで私が助けないといけないな
サンダースの元気な声を確認すると、エルフーンはくすりと笑った。

〜〜

その日を境に、エルフーンはサンダースと会うことは無かった。
どうやら街からもいなくなったようで、街では悪ガキだったためそれなりに有名だった少年がどうしていなくなったのかについての噂が流れていた。
「あいつはきっと家出したんだ」
「病気になったんじゃないの?」
「あいつも男だ。自分探しの旅に出たんだよ」
「属に言う『神隠し』という奴で御座ろう」
「別の大陸にいるドンカラスっていう怖いポケモン知っているか? きっとそいつに連れ去られたんだ」
「実はあいつは火星人で、宇宙に帰って行ったんだ」
エルフーンはそんなポケモン達の噂を信じなかった。なぜなら、彼がいなくなったことに心当たりがあったからだ。
ーーきっと、私のせいだ
エルフーンは心の中で葛藤する。

どうしてあの時サンダースを止めなかったのか。

どうしてあの言葉を信用しなかったのか。

どうしてあんな約束をしてしまったのか。

エルフーンの中に様々な疑問が浮かぶ。
しばらくして、彼女の目にひとしずくの涙が頬を伝っていった。
ーーサンダースに、会いたい。
ーー今すぐこの家から出て、捜しに行きたい。
ーーだけど私は今、ガラスのとりかごの中だ。
ーー決してここから出ることができないんだ。
彼女は外へ出る勇気と病気への恐怖の狭間に閉じ込められていた。
それこそまさに、ガラスのとりかごの中にいるように。

〜〜

サンダースがエルフーンの前からいなくなってから数ヶ月経った。
最初はサンダースの話題で持ちきりだった街のポケモン達も、進展がないのでいつしか彼について何も話さなくなった。
エルフーンの自室から見える桜の木の花は芽吹き始めており、あと数日で開花するであろう。
誰もが楽しみになるはずの光景にエルフーンは哀しげな目で見つめていた。
ーー桜の花が咲きそう。
ーーもう、そんなに月日が経ったんだ。
ーーサンダース・・・本当にどこへ行ったの?
彼女はただ待ち続ける。
たとえ街のポケモン達が彼のことを忘れようとも。

その日の夜、エルフーンはいつも通りサンダースの無事を祈りながら眠りにつこうとすると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「エルフーン!!」
ーーあ・・・サンダースの声だ。
ーーッ!! サンダース!
懐かしい声に気づいたエルフーンはいつもの場所へ振り返る。
満開になりつつある桜の木の枝の上に、キズだらけになっているサンダースが数ヶ月前と変わらない笑顔で彼女を見つめていた。
「わりぃわりぃ! ちょっと遅れちまっ・・・た?」
気さくに話すサンダースに、エルフーンは静かに彼の元に近づきーーそのまま彼の胸元を掴んでゆさゆさと前後に揺らした。
「わわわわわわ!! 何ににににするんだよよよよよよ!!」
「一体どこに行ってたの!? こっちは心配したんだからバカバカバカバカバカバカバカバカーー」
「ああ、分かった! バカで良いから! バカで良いからとりあえずこれやめて! ちょっと気持ち悪くなってきた・・・おえっ」
数分後、ようやくエルフーンから解放されたサンダースはこれまでの経緯を説明した。
「ええっとだな。お前と別れたあと、俺はお前の言っていた噂がどこから来たのか色んなポケモンに聞き回って行ったんだ。そしたら、その噂はある山の洞窟に住んでいるポケモンから始まったってことを知ったんだ」

〜〜

「それで、その話は本当なのか?」
エルフーンと別れてから数ヶ月後、噂について調べていたサンダースはそのでどころであるポケモンのところまでついにたどり着いた。
暗い洞窟を照らす焚き火がゆらりと光る中、サンダースの目の前にいるポケモンーーラムパルドはこくりと頷いた。
「ああ、本当だ。少なくともそれぐらいの治癒能力を持つポケモンを私は見たことがある」
「そうか。それで、そいつ・・・ええっと、そいつの名前何だっけ?」
「スイクンだ」
「そう! スイクン! そのスイクンはどこにいたんだ?」
サンダースの質問に、ラムパルドはいぶかしげな目で見つめる。
「ここから先にある、森の中央にある綺麗な湖で見かけたが・・・まさかあそこに行くのか?」
「ああ、もちろん! ちょっと病気を治したい友達がいるんだ」
元気な声で言う少年に、ラムパルドは真剣な目で見つめた。
「・・・敢えて忠告するが、あの森に行くのはやめた方がいい」
「え? 何でよ?」
「あの森は危険なポケモンでいっぱいだぞ? もしかしたら生きて帰れないかもしれない」
ラムパルドの低い声に、サンダースはそれとは対象的な明るい声で答えた。
「あ〜それは大丈夫大丈夫。俺はそう簡単にしなないから」
「・・・根拠は?」
「勘」
あっけらかんに答えるサンダースにラムパルドはため息をつく。
「・・・お前の様なポケモンを久しぶりに見たよ」
「え? 俺みたいな奴少ないの?」
「お前のような命知らずがわんさかいたら生物は滅んでいるぞ」
皮肉に近い冗談を言うと、ラムパルドは苦笑しながらさらに一言言った。
「私も行こう」
「え? おっちゃんも行くの?」
「おっちゃんって・・・まぁいい。お前があそこに行ってしなれては罪悪感が湧くからな。私も行ってお前を護衛してやる」

〜〜

「そのあと、おっちゃんと一緒にその森に行って、そのスイクンを捜しに行ったんだよ。いやぁ、あのおっちゃん結構有名な探検隊のリーダーらしくてめちゃくちゃ強かったよ。不意打ちできたポケモンをバッタバッタと倒してたなぁ。ほんと」
「・・・もしかして、その怪我は?」
「うん、おっちゃんが護ってくれたけど敵の数が多くてな」
それを聞いたエルフーンは急いで手当てしようと、医療道具を探しに部屋を出ようとする。しかし、サンダースが言葉でそれを制した。
「あ! ちょっと待った! 俺の治療をする前に、お前に会わせたい奴がいるんだ!」
「え?」
そして、エルフーンは気づく。
サンダースの背後の影の暗がりが強くなっていることに。
「言っただろ? 俺はスイクンってポケモンを捜したって」
「ま、まさか・・・・」
エルフーンのか細い声に、サンダースの背後にいるポケモンは上品な声で応えた。
「初めまして、お嬢さん。ーー私は、スイクンと言います」

〜〜

数日後、エルフーンの屋敷の桜の木の花が満開になった。
花びらがちらちら舞う木の下で二匹のポケモンが散歩をしていた。サンダースとエルフーンである。
「いやぁ、良かったな。お前の病気が治って」
「うん。サンダースも傷が治って良かった」
「別に俺のはかすれ傷だったよ」

〜〜

エルフーンと対峙したスイクンはその後、彼女に水晶の様に輝く水を差し出した。
「信じられないと思うけどーーこの水を飲めばあなたは今の病気に強くなるわ。まぁ、治るかどうかはあなたの体力しだいね」
エルフーンは最初はためらったが、スイクンの言葉を信じて水を飲んだ。
「よし。これで私の仕事は終了ね。・・・あ、あと」
スイクンはそう言うとエルフーンに与えた水と同じものをサンダースの全身に浴びせた。
「ッ!! 冷たっ!」
「サンダース! 大丈夫!?」
エルフーンは急いでサンダースの元へ駆け寄った。
傷口にしみていないだろうか。そう思ったが、それどころかサンダースの傷がみるみるなくなっていくのが目に見えた。
「え!?!?!??????」
「おまけで治してあげたわ」
「え? ・・・え〜と、ありがとうございます」
状況を理解していないサンダースは目を白黒させながら感謝の言葉を述べた。
「礼には及ばないわ。それよりも、彼女を大切にしなさい」
そう言いながら、スイクンは水に溶け込むようにその場から消え去った。

〜〜

「そう言えば、よくスイクンさんを連れてこれたね。なんて言って連れてきたの?」
エルフーンの疑問に、サンダースは自信満々に答えた。
「簡単なことさ。俺は『あいつのガラスのとりかごをぶっ壊したい』って言ったんだよ」
「・・・ふ〜ん」
「何だよその反応は?」
「いや、別に」
ーーまぁ、サンダースらしいといえばらしいけど
エルフーンはそう考えながら心の中でくすりと笑った。
「まぁいいや。それよりさ! さっさと遊びに行こうぜ! 親父さんから許し得たんだろ?」
「うん。お父様、あなたのこと感謝してたわ。私の命の恩人とか言ってた」
「別にそんな大層なことしてないと思うけどなぁ。まぁいいや! とりあえず公園に行こうぜ! ここの桜程じゃないけど、綺麗な桜が沢山あったぜ!」
「え!? そんなの!? 早く行きましょう!」
エルフーンの元気な声に、サンダースは明るく笑いかける。
「ははは。お前の元気な声。久しぶりに聞いたよ」
「え? ・・・うん、そういえば」
「俺、お前の元気な声、結構好きだぞ?」
「ーーッ!!」
サンダースの言葉にエルフーンの顔が頬を中心に紅潮する。
何かを言おうと口をぱくぱくさせている彼女に、サンダースは
「!? どうした!? もしかしてまた病気になったのか!? 顔真っ赤だぞ!?」
と、慌てて言った。
サンダースの指摘にエルフーンはすかさず顔を逸らした。
「別に・・・何でもない。そんなことよりも早く公園に行きましょう」
小声で呟きながら歩き出したエルフーンに、首を傾げながらサンダースもついていく。

彼女ーーエルフーンはガラスのとりかごに閉じこもっていた。
しかし、親友の助けによってそのとりかごは砕け散った。
彼女はその親友に特別な想いを抱きながら外の世界を歩み始めた。



ふと、エルフーンは空を見る。



窓から見ていたのと同じ空はいつもより輝いていた。



まるで、砕け散ったガラスが反射しているかのように。
 
> ガラスの器 作:RJ
ガラスの器 作:RJ
ボクのソバにいるキミ・・・
ボクが小さい時から一緒にいるキミ・・・
ココはボクの居場所・・・
そのはずだったのに・・・

ボクが生まれた時、気付けばガラスのケースの中にいた。何もかもが分からない事だらけ、全てがコワくて見えていても触れられず、ここがドコかも分からない・・・ボクでさえも
ボクの心はこのガラスのケースよりも繊細で脆かった。傷つく事を恐れ、一歩を踏み出す勇気が無かったボクは臆病で自分の尻尾に灯る熱い炎でさえも怖かった。
周りは知らない子ばかりだった。それでもそんなボクに近付いてきた友達に最初は怯えながらも頼りになる物が少なかったソコでは友達のソバでしか安心できず段々と一緒に遊ぶようになっていった。
ある日、水色した友達と緑色した友達と遊んでいると白い服を着た人間によって小さなボールに入れられた、その時はされるがままで抵抗すら知らなかった。
ガラスのケースから出されたのは初めてだった。ボクにはガラス一枚挟んだ世界なんて関わらなくていい知らなくていい世界。でももしそのガラス一枚でさえ取り外されたら?
どうなるんだろう?何が起こるんだろう?不安でしょうがなかった。誰か助けてほしい!
そんなボクの入ったボールをまだ小さかったキミの手が掴んでくれた、温かい小さな手で。
・・・初めてキミに会った時、キミは笑っていた!ボクに会いたくて仕方がなかったとばかりに抱きしめてくる。ボクはただ戸惑っていた、何と無く傷つけたくなくて尻尾の炎を隠した。他の二匹の友達は出会った人間に嬉しそうにあいさつしていた。ボクもああしておけばよかったのかなぁ。
「博士!この子にします!何て言うんですか?」
「その子は炎タイプのヒトカゲじゃよ!その子は元気が良いぞ!ニックネームを付けてみんか?」
「キミはそうだな〜…ホカゲ!尻尾の炎を隠しているのが可愛いし!」
今になって思えばもう少しいい名前を付けてほしかった、尻尾を隠したばかりに。
その後、水色のとじゃれていた少年がボク達を戦わせようとしていた!
キミは受けて立った!ボクは水色の友達と向き合った。既に友達は身構えていた。
ボクはどうすればいいのか訳が分からなかった。だけどボクの後ろからひっかく攻撃を指示する声が響いてきた!たった一言でボクは体が動いた!この人間はボクにやれる事を教えてくれる!何をすればいいか教えてくれる!
その時からキミはボクのご主人様。
戦いの後初めてのバトルに勝利した瞬間だった!ただ少し友達に悪い事したかなと思った。
「チェッ!何だよお前のポケモンにすりゃよかったよ!」
水色のを選んだ少年は悔しそうに地団太を踏んでいた。ボクはご主人様に選ばれて本当に良かったと思った。ご主人様の話を聞くとどうやら今後は別々に旅をするらしい、せっかくできた友達と別れるのが残念でしばらく友達がパートナー達と去って行くのを見ていた。
そしてご主人様と様々な町や道路を練り歩いて世界の広さを知った!不安で満ちてあふれた淀んだガラスのようなボクの心はたちまち澄んでいった!ご主人様のソバなら何だってできる気がした!今までにない自信と誇りがつき、そのガラスは分厚くなっていった!
勝利すればお互いに喜び、時には負けて悔しがり、新たな仲間に出会っては共に旅し更に強くなった。
そんな時、ご主人様はかつてボクが一緒に遊んでいた友達と同じ種類を仲間に加えてくれた。どうやらご主人様はボクが旅立つ時、友達と別れるのを寂しそうにしているのを覚えていたらしく、苦労して仲間にしたらしかった。ボクはそんなご主人様の心遣いが嬉しくて思いっきり抱きついた!ご主人様も嬉しそうに笑っていた。
リザードに進化して体付きも変わっていっては仲間と競い合った。たまに苦戦して勝利するたびに強くなるのが分かった!更にジム戦など様々な事に挑戦していった。自分の弱点を仲間と補い合って勝ち進んでいく事に喜びを感じていた!
・・・でもその中でご主人様に一番大事にされていたのはボクだっていうのは密かな自慢だった。
やがてリザードンになり、大きな翼が生えてご主人様よりも体が大きくなったらご主人様はカッコいい!と言って、はしゃいで抱きついてきた!首に抱きついてきた小さく見えるご主人様にボクは嬉しいやら気恥ずかしいやらで火炎放射を浴びせてしまった!それでもご主人様はアチチ!と言いながら笑っていた。
ゴメンナサイ・・・
空を飛べるようになってご主人様の役に立てる事が増えたのは嬉しかった!知っている場所ならドコへでも連れて行った。バトルでも大いに活躍し、誰よりも一番に信頼されていた!ヒトカゲの頃今にも割れそうだったガラスの心は今や仲間達を支えられる程にまで強固な物になっていった!
そうして大きな組織の野望を阻止する事に成功し、またポケモンバトルの最高峰である四天王達とバトルして勝利し、その時のチャンピオンだったのがかつての友達でボク達と頂点を目指して戦う事になったのには驚いた!チャンピオン殿堂入りの肩書をご主人様と仲間で一緒に苦労の末その栄光を手にいれた!
ご主人様はよくやった!と誇らしげに笑いかけてくれた!
他の何よりも幸せだった・・・
その後様々な場所へ行き、多彩な技やバトルの幅が広がっていった。
そんなある日ご主人様と人通りの少ない山の麓で修行していると、突如大きなポケモンが飛んできてご主人様を抱えて連れ去った!一瞬何が起こったか分からなかったが、気付いたら怒りでいてもたってもいられず直ぐにご主人様を追いかけていた。
ボクのご主人様を返せ!そんな咆哮と共にブラストバーンを喰らわせた!・・・つもりだった。そのポケモンはボクが攻撃したと分かるとこちらに向き直り、周りの空気を覆い尽くす今まで見たこともない大きな空気渦を喰らわされた!あまりの威力に攻撃が打ち消され、もろに急所に当たり翼がボロボロになり無様に落ちて行った。
「ホカゲ〜〜〜〜!!・・・」
その言葉だけが薄れるボクの意識に響いていたご主人様の声だった・・・
気が付くとボクは体中が痛んで、空は夕闇に淀んでいた。
ああ、ボクは負けたんだ・・・ご主人様をどこぞの知らない奴に連れ去られ、助け出す事も出来ずに・・・
ボクのガラスが音を立てて崩れ去っていくのが分かった。ヒビ割れる鈍い音と鋭く軋み砕けて行く破片の数々を体中に感じていた。強さや自信や誇り、大切な仲間とご主人様、ボクの居場所・・・いきなり何もかも奪われ、自分の存在を粉々に打ち崩されて立ち上がる事が出来なかった。尻尾の炎は弱弱しく煙を出しながら揺らいでいた。
やがて煙に気付いた山男達がボクを見つけ、近くのポケモンセンターに連れて行ってくれた。治療用のガラスのケースに入れられ、介抱されて体が回復したが心のガラスは元に戻ってくれそうになかった。どの破片がドコとくっ付ければいいのか分からなかったのだ。
その夜どうしようもない気持ちを当てつけるようにガラスのケースを打ち砕き、ポケモンセンターから逃げ出した。
どこへ行けばいい?ボクに何ができるんだ?・・・
そしてリザードンはかつてヒトカゲだった頃いた研究所の近くまできました。ここならご主人様の事について何か分かると思ったから。ですが、博士はポケモンの研究に勤しんでおり、ご主人様の行方を知っていそうになかった。仕方なくご主人様の家に行ってみたが、ママさんはいつも通りに過ごしていた。
ご主人様に何が起こったのか知らないのかなぁ、ボクはママさんを呼ぼうとして、ハッと躊躇った。
もしご主人様に何かあったと知ったら何をどう伝えればいいのだろう。見た事無いポケモンに連れ去られたご主人様を助けられなかったボクをどう思うのだろう?そんな風に迷っているとママさんと目が合いました!ママさんは喜んで迎え入れてくれた。居心地悪そうにしているボクにママさんはご主人様がいない事を少し残念そうにしていましたが、
「便りが無いのは元気な証拠!でもたまには顔を出すように言っておいてくれないかしら?」
そう優しく話かけてくれた事が嬉しくて、力強く頷き大きく翼を広げ飛び立った!
この世界でもう傷つくのは怖くない。誰も分かってくれなくてもいい!でもせめてもう一度ご主人様の下に、ボクに笑いかけてくれたご主人様の場所を誰か・・・
その後あちこちで彷徨う強力なリザードンの噂がたちました。ある者は勝負し、ある者は捕まえようとし、またある場所では追い出されたりしました。けれど誰の物にもならず、その強力な技であらゆる攻撃を跳ね返すリザードンに挑戦する者は段々減っていきました。

やがて月日は流れ、ドラゴンの集まる土地に修行と情報収集している時にたまたま現チャンピオン達がその地を訪れていました。チャンピオンはボクの事を見ると懐かしそうな顔をしていました。ボクは訝しく思いましたが、チャンピオン達の話に耳を傾けました。
「・・・あのリザードンかつてボクを打ち負かしたトレーナーのリザードンに似ているな!私も彼にならってリザードンを育てているぞ!彼らのような絆を持てるか自信ないがね!そう言えば最近ここで一番高い山の奥で彼に会ったような気がしたよ!・・・」
それを聞いてボクは喜びやら切なさやらがない交ぜになり、全身が震えだしました!確証はない、だけどどうしようもない胸騒ぎがする!今すぐに会いたい!会って確かめたい!
そこからはもう山を目指して飛び立っていました。
天辺が雪で白く彩られた山、ここにいるかもしれないボクの探していた人
早速踏み入れようとするとそこにはたくさんの強力なポケモン達が潜んでいました!どうやらこの山にはドンファンやバンギラスなど相当強いポケモン達が住んでいるようです。でもボクはどうしてもこの奥へ行ってみたいんだ!会わなければいけない人がいるんだよ!そう吠えるとたくさんの猛者達の中を突っ込んでいきました!!

・・・多くの猛者達の倒しながらも崖を乗り越え、だんだん周りに雪がチラつき始める場所まで登りつめました。まるでヒビ割れたガラスのようにいつ壊れてもおかしくない体を引きずるように進んでいましたが、この奥にあの人が・・・ご主人様がいるかもしれない!ただそれだけの希望がボクを暗い山の奥へと歩ませていく。尻尾の炎の灯は消えかけていました。
すると、目の前にぼんやりと人影が見えました!引きずる体を一瞬だけ止め、その姿を確認します。その後ろ姿に見覚えがありました!懐かしくそして温かな気持ちが満ちていきます。
ああ、ご主人様!ボクです、ホカゲです!やっと会えました!!
ボクが吠えると彼はゆっくりと振り返り、昔と同じように嬉しそうに笑いかけました!

ボクのガラスの器は安堵で満ち溢れてこぼれていきました。
 
> ガラス色の終末 作:戯村影木
ガラス色の終末 作:戯村影木
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「本当に、ずっと一緒にいられるといいな」
 リリアはそう言った。彼女が出来る意思表示は、もはや言葉を紡ぐことだけだった。彼女が受けられる意思表示は、言葉を聴くことだけだった。
「ずっと一緒だよ」
 僕は、何度も覚悟を決めた言葉を、改めて口にした。ずっと一緒、という、何の拘束力もない言葉は、しかし、疑いの気持ちのない僕の心から放たれ、真実の約束となって、リリアの耳に届く。
「リュー、最後に、お願いがあるんだけど」
「なんだよ改まって」
「キスして欲しい」
 今更そんなこと、と僕は思う。そして、僕も今更、そんなことに気付く。言葉以外にも、まだ伝えられることはあったのだ。けれど、キスをしてしまえば、もう言葉は交わせない。だから、お互いにとって初めてのその行為は、最期の合図に決めていたのだと、またすぐに気付いてしまう。もうこれ以上交わす言葉はないという、リリアの意思表示なのだと、ついに気付いてしまう。
「もう、さよならだから」
「ずっと一緒にいるんだろ?」
「うん、そうだったね」
 リリアは穏やかに言って、ついに口を噤んだ。
 僕はリリアの、まだ人間である場所に、唇を重ねた。
 もう、言葉を交わす必要はない。
 僕は、リリアの記憶が、この初めての口付けのまま、永遠に止まってしまうことを祈る。
 ――そして、温度のなくなった唇から離れ、あまりに美しくなってしまったリリアの姿に、涙を流した。

 7

 最近リリアの様子がおかしい。
 もっともリリアがおかしいのは今に始まったことではないのだが、ここ最近……特に一ヶ月くらい、様子がおかしい。あんまり僕にちょっかいを出さなくなったし、まだ秋も始まったばかりだというのに手袋を離さないし、あれだけ渇望し、半年に及ぶバイトの末ようやく手に入れた新型の端末(透明素材、折りたたみ式、全面タッチパネル、投影装置完備)を手放して、一世紀以上前に流行ったボタン式の携帯端末を利用している始末だ。
 おかしい。
 何がどうと言われても微妙なのだが、なんだか全体的におかしい。
 かといって、なんとなく自分から話しかけるのもタイミングが掴めず、ずるずると一ヶ月が経過していた。しかし流石に一ヶ月もまともな会話をしていないと、腐れ縁相手として気になるものだ。
 だから僕は思いきって、リリアに話しかけてみることにした。高等部の授業日程が終わった金曜日の午後。一緒に帰るから待っているように指令メールを出した。
 主従関係にあるわけではないが、リリアは僕が何かを命じると素直に従う犬のような存在だ。だからそんな相手の様子がおかしいと、こちらとしても気が気ではない。それがただの言い訳であるということは、言っている僕が一番よく分かっている。
「あ、リュー、こっちだよ」
 正門の所で、リリアは大人しく待機していた。なんだ、会ってみれば大して変わったところは見られない。目に見える問題点は、やはりリリアは寒くもないのに手袋をしていて、時代遅れのボタン式端末を操作しているというところくらいなものだった。
「久しぶり」
「だね」
「じゃあ、たまには一緒に帰るか」
「うん。久しぶりだね」
「なんでリリアも言うんだ」
「久しぶりだなあ、と思って」
 訊ねたいことはたくさんあったが、どれ一つとして気軽に訊ねられる類のものではなかった。例えば男女関係についてのことだったりしたのだが、訊ねられるわけがない。
 対するリリアと言えば、どうでも良い世間話を矢継ぎ早にしてくる。心なしか嬉しそうで、それでいてどこか本音が隠れているような様子だった。
「リューは最近どうだった? 何か楽しいことあった?」
「いや……別にないな。普通だよ、普通」
「そうなんだ。楽しまないとだめだよ、短き青春なんだから。友達と青春を謳歌したり、可愛い彼女作ったりさ、そういう……ほら、ね」
 その発言に至って、ようやく僕は違和感を覚える。
 僕の思い上がりでなければ、リリアと僕はお互いに何となくお互いのことを意識している、なんと言うか、ありがちでいて実際には珍しいような関係だった。
 なのに、リリアは僕に、彼女がどうの、という話題を提供してくるではないか。
 それはあれなのか。いい加減告白してくれという意味の発言なのだろうか。それとも、リリアはリリアで彼氏を作ったという意味なのだろうか。だとしたら由々しき問題だろう。聞き捨てならない。
「……あのさあ、リリア、何かあった?」
「んー……どうして?」
「なんか、様子が変だからさ」
「そうかな? ……そう見えないようにしてたんだけど」
「何があったんだよ」
 僕は我慢出来ずに訊ねる。
 リリアは立ち止まり、沈黙を利用する。
 ――そして、たっぷり時間を置いたあと、僕を見ないままで言う。
「……リューさ、ガラス細工症候群って、知ってる?」

 6

 それは、生半可な覚悟で臨んで良い話題ではなかった。
 ガラス細工症候群。
 身体が末端からガラス化していき、最終的には全身がガラスになってしまうという、奇病。癌への治療が確立され、物理的な即死以外であればほとんどすべての病気への対抗策が取られた現代医学に、再び脅威をもたらした原因不明の症状。
 もろにファンタジーのような病気である。故に、医学どころか、科学ですら扱えない分野に位置している。漠然と、現代社会が生み出した悲劇だというところまでは分かっている。摂取するものだとか、日常的に触れるものだとか、そういうものが原因で、ガラス化する。けれど、どういう条件で、どういう対象が、どうしてそうなってしまうのかは分からない。
 だから、ガラス細工症候群になったということは、
 簡単に言えば、近々死ぬ。
 そういうことだった。
「……」
 絶句する僕を優しく扱うように、リリアは何も言わずに立ち去った。僕は呼び止めることも出来なかった。ただ呆然と立ち尽くす。だって、何も言えないじゃないか。僕がこの場で、考えなしに言うセリフは、全て、意味を成さない。
 リリアの手袋の意味を考える。
 リリアのガラス化は、手から始まったのかもしれない。ガラス化した各部位は、しばらくは稼働するという。ガラスというのは非常に粘度の高い液体だという話をどこかで聞いたことがある。外部からの影響はほとんど受けないが、それがことガラス化した本人の意志であれば、動かすことが出来る。もっとも、ガラス化が完全に行き渡ってしまうと、それも出来なくなるらしい。だから、患者は視覚的に、自分の死が迫るのを待ち受けなければならない。
 リリアは手袋をここ最近常備していた。
 つまりリリアが手袋をし始めた頃には既に、ガラス化は始まっていたということだろう。
 携帯端末についても筋が通る。全面タッチパネルのものは、リリアは利用出来ないのだ。ガラスではパネルは反応しない。ガラスの指で扱うのであれば、物理キーでなければならない。
 そうした変化は、もしかしたら、リリアの周りに溢れていたのかもしれない。それに気付けず、ただ漠然と、リリアの様子がおかしい、とだけ思っていなかった自分に嫌気が差した。
 だからといって、
 じゃあ、僕に何が出来たといのだ。
「……」
 もう一度、何かを言いかけて、やめた。
 理不尽で、絶望的な、恐怖。
 それ以外の何物でもないのだ。
 ガラスは、美しい。
 美しいものは、それ故に、残忍で、冷酷なのだ。

 5

 今から医者になろうと思うほど、僕は無謀ではなかった。
 けれど、それに代わる目的をすぐに見つけられるほど、僕は優秀な人間でもなかった。
 そんな出来の悪い自問自答で、時間はいたずらに過ぎた。

 4

 僕は弱い人間で、とても臆病だった。だから、リリアにもう一度声を掛けようと決意するまで、とても時間がかかった。実に、一週間が経過していた。症状に悩む本人が毎日学校に行っているのに、僕は一週間学校を休んだ。いつもはうるさいくらいに不良行為を許さぬ母親は、その一週間僕に小言を一切言わなかった。それだけ僕が弱って見えたのか、それとも事情を知っていたのか。
 とにかく僕は、一週間後、またリリアを呼び出した。
 リリアは変わらぬ様子で、また正門の前にいた。相変わらずの手袋と携帯端末。
「よう」
「リュー、ちゃんと学校に来ないとだめだよ」
 僕は覚悟を決めたつもりだった。
 ガラス細工症候群は感染症ではない。
 リリアと一緒にいることで、僕がどうこうなるわけではない。保身のためではなく、リリア自身の気持ちを考えてのことだ。僕が彼女と一緒にいても、彼女が負い目を感じることはない。ならば、僕はここに――リリアの隣にいても、問題はないはずだった。いや、いなければならないのだ。本来であれば、一週間前から、ここにいなければならなかった。僕はいつでも行動が遅い。手遅れという言葉を身を持って体感することで、その遅さに気付いた。
「じゃ、帰ろうかー」
 暢気に言うリリアの手を、僕は唐突に握る。
 とても硬く、冷たい手だった。
「ひょう」
「ひょう、じゃないだろ。ほら、行くぞ」
 ガラス化した部位に触れられるのは、もしかしたらとても嫌なことだったかもしれない。けれど僕はそれをしなければならなかった。同情なんかではない。今から僕に出来ることなんて、多分ほとんどない。病気は治せない。夢も叶えてやれない。大人にもしてやれない。だからせめて、僕の自意識過剰だったとしても、それがリリアが本当に望んでいることではないとしたって、隣にいようと思った。
「どうしたの?」
「別に……」
「私がこうなっちゃったから?」
「まあ、それもいい機会だよな」
 これから先、後ろ向きな発言は一切しないと、僕は決めていた。
「だからさ、付き合おうぜ」

 3

 茶化されたり馬鹿にされたりする覚悟だったのだが、リリアは予想に反して泣いた。そして、僕に抱きついた。全てが予想外のことだったが、理想的だった。
 抱き締め返すと、腕のほとんどがガラス化してしまっていることに気付いた。背中や胸は、まだ温かい。その温もりを、僕は必死に確かめた。これは、失われてしまう温もりなんだ。だから、忘れてはならない温もりなんだ。
「うれしいな」
 リリアはくぐもった声で言う。
「うれしいな……」
「もっと早く言っとくべきだったんだよ、俺は。いつも遅いんだよな、こういうの」
「十分早いよ……まだ、こうやって、ぎゅってしたり出来るし」
 その言葉は、随分と覚悟のこもったものだった。きっと、僕の何倍もの時間、リリアは悩んで、乗り越えたのだろう。その時間を知ることは、僕には出来ない。僕のこの物語は、事実を知った瞬間から始まって、それより前には戻れない。
 それより前に、どんなに長い物語があったとしても、僕はそれを理解してやれない。
「これからさ、楽しいことしような」
「うん……」
 だったらその覚悟を決めたリリアに、何が出来るだろう。生まれ、生き、死んで行くことにさえ意味を持たせられるなら、たったそれだけでも、良いんじゃないだろうか。
 そんなことは、本当は誰にとっても平等なことだ。別に正解があるわけではないけれど、ただ生まれて、ただ死んで行くだけでは、割に合わないくらい、人生は悲運に満ちていて、唐突な悲劇に見舞われる。
「リリアがしたいことを、たくさんしよう」
「うん」
「だからさ、デートに行こう」
「今から?」
「そんで、飯も食おう」
「今からなの?」
「ああ」
 どうして僕は――どうして今までの僕は、未来は永遠にあると勘違いしていたのだろう。自分が知らぬうちに、自動的に訪れる幕切れがあるのに、そしてそれは何の覚悟もしなうちから訪れるのに、どうして明日があると思ってしまったのだろう。
 間延びする今日を信仰したのだろう。
 そんな今日はもう終わってしまったのに。
「今日やりたいことを、今日のうちにしよう」
 そして悔いのない一日を終えて、リリアと一緒に感じたかったのだ。
 美しく終わって行く夜と、真っ新な朝を。

 2

 僕とリリアは一緒にいることを選んだ。
 リリアは何度も悩んだのだという。僕を拘束すべきではないということを。自分の望みを捨てるべきだということを。これから死ぬと分かっている人間は、何も望むべきではないのだと思ったらしい。
 馬鹿げている。
 みんな死ぬんだ。
 それは哀しいことでも、残酷なことでもない。ただの事実だ。みんな死ぬ。ただそれだけのこと。平等だということだ。望むことにも、それを叶えることにも、死は平等にある。
 僕とリリアは、それからの時間を、共に過ごした。秋が始まって、僕の誕生日があった。リリアは僕にマフラーを編んでくれた。ガラス化が始まった時から、密かに編んでいたそうだ。ずっと使ってね、と彼女は言った。確認するまでもないことを、僕らは言葉で確認する必要があった。
 冬が訪れて、クリスマスに、僕たちはもっとも恋人らしいことをした。外で一緒にご飯を食べて、買い物に出かけて、イルミネーションを見た。僕はリリアに手袋を買った。彼女は大袈裟に喜んで、また泣いた。人は、死ぬまでに流せる涙の量が決まっているのかもしれない。終わりが近づくにつれて、リリアは泣く頻度が増えた。
 年の瀬に、二人でまた出かけた。一年の継ぎ目を一緒に過ごして、初めて、その日のうちに家に帰らなかった。誰も僕たちを咎めなかった。咎めることなんて出来なかったし、咎められても、従う気なんてさらさらなかった。
 冬季休暇のうちに、僕たちはもっと近づいた。
 僕は、今のお互いの関係に不満なんてなかったけれど、僕よりももっと終わりに近いリリアは、色々と考えてしまったようだ。誰もいない僕の家に来て、二人で部屋に隠れて、リリアは服を脱いだ。
 僕たちは美しい関係を強いられていた。
 リリアは、もう既に、腰から下がガラスになっていた。だから、今時高校生なら当たり前にしてしまうような付き合いも、物理的な問題で、出来ずにいた。腕も、肩まで透明になっている。透き通るようなガラス細工に、人間の肌。そのアンバランスさは、結晶化する寸前の、尊い、生命の姿だった。
「……おっぱい」
 リリアが唐突に発したのは、緊迫した空気を壊す言葉だった。
「……なんだよ」
「さわりたいんでしょ」どうせ、男の子って、とでも言うように、リリアは言う。「ほら、今のうちだよ」
「からかうなよ」
 リリアの胸は比較的大きかった。
 意識し始めたのは中学生の頃だっただろうか。自由奔放なリリアの性格に比例するように、伸び伸びと成長していった乳房。
「私たち、我慢するような間柄じゃないでしょ」
 リリアは投げ捨てるように言う。
 恐らく、欲望や、好奇心ではない。
 でも、リリアはさわって欲しいのだ。
 経験出来ることを、出来るうちにしたい。
 いつお互いが終わってしまうか分からないから。
 もしかしたら、僕の方が先に死んでしまうのかもしれないから。
 ただ、さわって欲しいのだ。
「なんか……照れるな」
「今さらー?」と、リリアは照れながら言う。「まあ、ほら、お好きにどうぞ」
 僕とリリアは、お互いに触れ合った。リリアは手ではなく、唇で、僕の身体を確かめた。温度を感じる機能は、四肢にはもう残っていないようだった。
 僕たちがしていたのは、怖ろしく美しい行為だった。お互いの人間性を確かめるように触れ合って、それを感じ、それを認め合った。もちろんやましい気持ちが一切なかったかと言えば嘘になるけれど、油断すると泣いてしまいそうなくらいに、尊い行為だった。
 触れ合う間も、僕とリリアは色んなことを話した。彼女を抱き留めている間も、他愛もない話をした。冷たい彼女の腕。冷たい脚。それらに触れ、暖かい彼女の胸に抱かれ、色んなことを話した。
「よく話題が尽きないよな」
 僕が問いかけると、リリアは不思議そうに言った。
「今はまだ、お互いに話せるんだから、今のうちに確かめ合いたいな。誤解も不安も全部なくなって、そうしたら、話せなくなっても、ずっと信じていられると思う」
 それは僕が考えも及ばなかった理論だった。
 けれどきっと間違いではないのだ。
 言葉でわかり合えるうちに、信じ合うために必要である言葉を消費しておけば、答えを望む必要はなくなる。たった一度のやりとりで、そのあと一生信じ合えれば。
「なあ、リリア」
「はいはい。何ですか」
「ずっと、一緒にいたいな」
 リリアはまた、残りの涙を消費した。

 1

 春を待たずに、リリアのガラス化は終わりの目の前までやってきていた。
 首の下までガラス化が進み、四肢を動かすのが大変になってきた。不自由というよりは、単純に時間がかかるようだ。食事を口に運ぶだけでも、一分以上時間が掛かってしまう。もう、自分の脚で歩くことさえままならなくなってきていた。
 リリアは学校を辞めた。僕も学校には行かなくなった。リリアは不満を口にしていたが、同時に、嬉しそうだった。実際に、嬉しい、と口にも出した。嬉しいけれど、僕が卒業出来なくなったら困る、と、思ったことをそのまま口にした。僕はただ、大丈夫だよ、と言うだけだった。
 それからは、ただ穏やかな時間が過ぎた。
 悲劇なんて感じさせない、凪の時間だった。このまま、この一瞬が永遠になってしまうことを強く望んだ。そしてリリアの笑顔を見て、その永遠が続くことを願った。
「あ、リュー、こっちに来て」
 リリアの言葉は、最期を予感させる色をしていた。
 僕は最期が訪れるその瞬間まで、リリアの家で暮らすことにした。リリアはもう眠れなくなった。睡眠は取れても、身体を横に出来ない。だから僕はリリアのベッドで寝た。食事も僕が食べさせた。だから、いつだって、リリアの呼びかけに、すぐに答えられた。
 次の瞬間に突然襲い来るかもしれない終わりと、ちゃんと向き合えるように。
「どうした?」
「あのね、見えなくなってきちゃった」
 リリアの正面に立つ。眼球が、とても薄く、淡く、透き通っているのが分かった。首や口よりも、目から先にガラス化するのか、と、妙に感心してしまった。
「ねえリュー、笑って」
「ん……こうか?」
「へたくそだなあ」リリアは笑いながら言う。
「なんだよ。じゃあこうか?」
「自然でいいのに」
「自然ね」
 そう言った時の僕は、きっと本当の笑顔を作れていたのだろう。リリアは嘆かない。リリアは悲しまない。いつだって笑っている。もしその笑顔を作れたのが僕なら、どんなに嬉しいだろう。
「私はね、ずっと、今のリューの笑った顔を刻み込んで生きて行く」
「今の顔で良かったのか?」
「うん。あ……」
 リリアの瞳から、光が消える。
 義眼のようなガラス玉が、僕を映す。
「見えなくなっちゃった」
「ちゃんと笑えて良かったよ」僕は本当は泣きたかったのかもしれない。「もっと練習しとくんだったな」
「そんなことないよ。私には、かっこいい、一番好きな顔だから、どんな顔でも、別に……」
「照れること言うなよ」
「ねえリュー」
 深刻そうに、リリアは言う。
 何かを予感させる響きだった。
 僕はただ黙って、次の言葉を待つ。
「私が動けなくなったら、私のこと、忘れてね。ちゃんと、普通の人を好きになってね。楽しく過ごしてね。それで……時々、私のこと、思い出してね」
「難しいこと言うなあ」
 僕はもう決めていた。
 これからどうやって生きて行くかを。
「俺はずっとリリアが好きだよ。リリアだけだ」
「嬉しいけど……でもさ、リューはこれからずっと生きて行くんだよ。私たちが生きてきた人生よりも、もっと長い時間を生きて行くんだよ」
「じゃあさ、リリアと俺の立場が逆で、俺よりカッコイイやつが現れたら、リリアは突然俺のこと忘れて、そいつのこと好きになれるのかよ」
「ならないよ!」
「俺だって無理だよ」
 リリアの頬に触れる。まだ、温かい頬。
 温もりを感じられる。
「ずっと一緒だからな」
 リリアの瞳は、まだ涙を流すことが出来た。僕の指に触れた涙を、舐め取る。生きている実感があった。
 内部がガラス化を始めたら、最期の合図。それは最初の頃に覚えて、ずっと忘れないことだった。リリアはもうすぐに動けなくなる。ガラス細工のように、尊い存在になってしまう。
 リリアは、僕が買った手袋をしていた。服はもう身につけていなかったけれど、それだけはずっと身につけていたいと言った。手は祈るように、組み合わさっている。もう、手袋が外れてしまうことがないように、という意思表示だった。
「お母さんたち、呼ばなくていいからね」
「わかった」
 リリアも、もう終わりが来ることを理解していた。
 僕はただ、リリアの頬に触れる。
 そして、終わりが訪れた。
 
> Fake 作:カエル師匠
Fake 作:カエル師匠
 ガラス越しの景色は自分の目で見るよりもきれいだ。
 そこにあることすら感じさせないほど磨かれたガラス、はたまた脂と埃の膜を張ったガラス、いろんな色をちりばめて荘厳さを主張するガラス、すりガラス、飲み物を抱いたガラス、丸いガラス――。枚挙にいとまもないほど世界はガラスで満ちあふれている。そしてその数だけ世界は縁取られていく。
 ああ、なんて美しいのだろう。
 ぼくはうっとりと外を眺めた。お気に入りは喫茶店の薄汚れた窓ガラスだった。長い年月の間にヤニに侵されて、透明とはほど遠い茶色がかった姿になってしまっている。しかし、そこが良い。ここから見る街の様子はまるで胃空間で、車のライトや街灯がぼんやりと広がって裸眼では決して見えない風景を与えてくれる。それだけでなく有機物がもつ一種の醜い、生への貪欲な願望すら、ガラスを通せば無機物の清らかさで覆い隠されるのだ。凍えるような寒空の下を足早に進む人々、花火のような明かり、途切れることなく続く車の流れ。まるで一枚の名画である。題名をつけるならばくすぶった街だろうか。
 からんからん。
 鐘が軽やかに鳴り、客が訪れたことを知らせる。ふうっと冷たい風が足をなでた。入ってきたのは背のやけに低いやつでコートの襟を立てて首を竦めキャスケットを目深に被っているため、顔は窺いしれない。それでもせき込んだ声は低くかすれた男のものだったから、性別だけはわかった。男は喫茶店のオヤジにコーヒーを注文すると、他に客がいないというのにわざわざぼくの座っているテーブル席に腰を降ろした。対面すると思っていたより背は低くなかった。
「こんばんは」
 黄色くて不潔な歯をむき出しにして男が笑う。たばこと口臭のまざった、とんでもなく不快な息が鼻をつく。吐き気がした。
「あ、あなた、アール・フォレストの、かた……ですか」
「ええ、ええ、そうですとも。わたくしアール・フォレスト営業部のスドウと申します」
 スドウと名乗った男は慇懃に、かつ棒読みで続ける。
「弊社は生きているガラス工芸をお客様に最安値でお届けしております。生きていると申しましても本当に命を得ているわけではございません。まるで今にも動き出しそうなガラスのポケモンをご提供させていただきます。検品には細心の注意を払っておりますが、万が一不良などございましたら良品とのお取り換えを無償でおこなわせていただきますので、なんなりとお申し付けください」
 そこまで一気に言い放ち、スドウは提げていたアタッシュケースを丁重な手つきで机へ置いた。ごくりと息を飲む。留め具が外される音がやけに大きく聞こえる。
 ――めまいがした。
 ぼくは昔からガラス細工を集めるが好きで、特にポケモンを扱った工芸品を愛好している。つるりとした体のポケモンたちは、その滑らかな姿でぼくを魅了した。時に雄大で重厚で、またある時には愛らしく軽やかで、そして常に美しい。ただ、それなりの出来映えを期待すれば、それなりの現金が必要になる。有名な工芸師の作品など安月給のぼくには到底手が届く品ではない。しかたなく、大量生産されたガラスのポケモンで羨望をなだめていた。
 そんな中でアール・フォレストという会社をみつけたのは偶然でしかなかった。運命だとか必然だとか、そういう風には思えない。本当に偶然だったのだ。
 その日ぼくは、いつものようにネットサーフィンをしてガラスのポケモンたちを眺めていた。サムネイルのポケモンたちは一様に粗造りで、安い。安いといってもたいてい五千円からなのだが、それを下ると大きさも品質も希望を満たしていないことが多い。ずらりと並んだ商品をかいくぐっていく。そのなかでひとつ、やけに酷評をされて値段が下落しているガラス細工を見つけた。興味を持ってクリックすると、すぐに写真が展開される。映し出されたガラスポケモンは驚くべき精巧さと表情を兼ね備えていた。ぼくはしばし自失し、画面の向こうを見つめたまま感動に打ちのめされてしまった。あの衝撃をなんと表現すればいいのかわからない。
 ガラスでありながら、そのネイティはどう見ても生きていた。量産しやすいように簡略化されているわけでもなく、どこか遠くに投げかけるような視線や、毛先の細やかさまで完璧に再現していた。それはぼくが喉から手が出るほどほしかった匠の作品よりもリアルで、そして異様なほど安かったのである。下落する前の値段も出来のよさからすれば破格といえるものであった。ぼくは素直に喜ぶと同時に、なぜこれほどの品が星ふたつという評価を甘受することになったのか疑問を持った。この電子市場サイトは、購入者が次の購入者のために商品に対する批評をつけるというシステムが搭載されている。たまに良品を悪辣な言葉でおとしめる利用者や、欠陥品を良品だと偽る利用者がいる。その類なのではないかと半ば期待して評価を見てみた。
 酷評のほとんどがリアルすぎて気持ち悪いといった一方的な避難や、ネイティの表情が苦しんでいるように見えて不吉な感じがする、という苦情で埋まっていた。良い評価はリアルで安いのがいい、というものが大半であった。たしかに写真からリアルだと判断できるほどの完成度であれば、気持ち悪いと称する人も出てくるだろう。苦しんでいるかどうかはぼくには判断しかねる。これは個人の完成でしかないのだし、そもそもポケモンに顕著な表情などある方が珍しいのではないか。
 とにかくぼくは興奮した。
 この値段でこの造作。買うしかない。
 数日後、丹念な梱包で守られたガラスのネイティが届いた。思っていたとおりの素晴らしい作品で、ぼくは寝食を忘れるほど夢中になってしまった。色具合も一級品、質の高さは五つ星である。ほぼ原寸台ということもあって迫真感が異様に高まっている。羽のグラデーションもさることながら、瞳などは黒真珠をはめたように煌めいていて筆舌に尽くしがたい。土台のガラスもしっかりとしていて、とてもあのような値段で買えたとは思えなかった。
 ぼくはネイティをガラスケースに入れて他のコレクションよりずっと輝かしい位置に置いてやり、すぐにパソコンへとかじりついた。先日の履歴をたどれば、ガラスのネイティを販売していた業者がわかるはずだ。他のポケモンも扱っているに違いないという当て込みがぼくを突き動かし、どんどんページを開いていく。
「出品者アール・フォレスト」
 それが出会いだった。
 ぼくはアール・フォレストが出品している他のガラスポケモンを片っ端から注文していった。スボミー、オニスズメ、キャタピー、ビードル、ナゾノクサ、ピチュー、ヒマナッツ――。どれもこれもあり得ないほどの一品だ。そしてどれにも信じられないほど酷評がつきまとっていた。だけどぼくはものともしないで買いあさり、アール・フォレストの商品をすべてそろえてしまっていた。
 こうなると欲望がすっかり満たされたにも関わらず、新たにわき出てくる物欲を押さえるのが難しくなってくる。他社の製品をいくら買っても、アール・フォレストにはかなわないという気持ちがせり上がってきて楽しくないし、この質でこの値段はおかしいという思いばかりが頭を占めてしまう。
 気がつけば、ぼくはアール・フォレストのとりこになってしまっていた。
 愕然とした。元々、ガラスフェチであるという自覚はあったのだが、寝ても覚めてもあのネイティやスボミーたちのことばかり考えてしまうのは普通ではなかった。よくわからない寒さが走る。恐い。けれど、しあわせでもある。完全に欲望を充たせばこの恐さもなくなるんじゃないのか。そう思うとまさしくそうだとしか認識できなくなった。
 アール・フォレストから接触があったのはそんな、もやもやとした充足されない毎日を送っていた時だった。
「生粋のガラス愛好家様とお見受けいたしました。差し出がましいようですが、まだ市販していない商品をお客様にだけご提供させていただきたくお電話さしあげました」
 事務的な女性の声が電話口でそう告げた瞬間、ぼくの目の前は大きく揺れ動いた。
 売られていない作品が、手に入る!
 世界中の空気が一瞬で澄んだものに変わったような感覚に襲われ、地球の自転を体感したと錯覚した。天地がひっくり返ったってしあわせだと言えるくらい心は浮つく。
 もちろん二つ返事で承諾し、ぼくは指定された場所で営業の人を待つことになったのである。そこがこの喫茶店で、営業の人というのがスドウであった。醜く、汚らわしい男と面を合わせるのは苦痛でしかないが、やつが持ってきたアタッシュケースからは神秘的な雰囲気すら漂っている。きっとこの中に、と想像するだけで気が遠くなる。
 すべての留め具が外された。徐々に蓋が持ち上げられていく。一秒一秒がいやに長く感じられる。脂汗が全身から吹き出してくる。心臓がのどをせり上がってきそうだ。脈打つ音が口の中いっぱいに広がっていく。
「ああ……」
 大量の綿に保護された光沢質の表面は、ぼくに官能的な快感をもたらした。
 そこにいたのは、時間のはざまに閉じこめられたように動きを止めたキレイハナだった。頭部を飾る二房の花、踊り子の衣装を連想させるたっぷりとした葉、くりくりとしたつぶらな瞳、そして空へ上げられた小さな両の手。どこをとっても申し分ない。今までの作品よりも仕上がりが向上しているようにも見える。
 スドウが何か理解できない騒音を口から吐き出し続けるが、ぼくの頭には部屋のどこに彼女を飾ろうかという考えしかない。折れそうなほど繊細な葉の重なりには感嘆の息がもれるばかりだ。無性に触りたくなって震える腕を伸ばす。あと少しの距離でキレイハナは箱の中に閉じこめられた。スドウのにやにや笑いがますます広がっている。
「お客様、どうでしょうか。お気に召していただけましたでしょうか」
 舌打ちしそうになるのを寸でのところで抑え、ぼくは肯定をしめした。
「お値段なのですがこちら少々値が張りましてねえ。いえいえもちろん勉強させていただきますが、わたくしどもも精一杯削れるところまで削っていてですねつらいものがありまして、はあ、まあ、ネット通販のものよりお高くなっております」
 そう言ってスドウが提示してきた金額はたしかに高かった。もし現物を見る前に値段を知っていれば購入を渋っただろう。だけどあのキレイハナの美しいことと言ったら! 逃してしまえばきっと後悔する。日々を悔やんで過ごすくらいなら多少の金を失ってでも、平穏と美を手にした方が数倍、いや数万倍ましではないか。迷うなど正気の沙汰ではない。
 ぼくは決意もあらたに、売買契約書のようなものにサインし、彼女と引き替えるための札を数枚スドウに渡した。スドウは卑屈な笑いをもらしながら金をしまい込み、代わりにアタッシュケースと薄いパンフレットのようなものを差し出す。淡い水色の表紙には水晶でできた森が広がり、中心部にはローマ字のRが幻想的な字体で控えめに描かれている。どうやら製品カタログのようだ。
「そちらはネット通販で取り扱っていない弊社の製品カタログでございます。その中の品でしたらご注文後すぐに発送いたします。その、申し訳ありませんがこちらも少々……」
「いえ、大丈夫です。そういうものですよね」
「いやあ! そう言っていただけるとありがたい」
 スドウがずるずるコーヒーをすする。
 ぼくはそっけない灰色のアタッシュケースを撫でた。この中にあのキレイハナがいるのだと思うだけで、目の前の醜男にも耐えられる。
「そういえば、お客様はポケモントレーナー様でいらっしゃられますか。いやなに、先ほどお腰にモンスターボールをお提げになっているのをちらりと拝見したものですから、ちょっとばかし気になりましてねえ」
「ポケモントレーナーっていうほど大層なものじゃないですけど……」
「どのようなポケモンをお持ちで?」
「チリーンを一匹だけ」
「チリーンですか! ほほお」
 スドウの視線がねっとりと、チリーンの入っているボールへ注がれる。前言撤回だ。いくらガラスのキレイハナがぼくを慰めてくれてもこの男の不愉快さは緩和されないし、いますぐにでもこの場を立ち去りたい。
「あのお。ぼく、そろそろ」
「ああ。どうぞどうぞ。お忙しいところすみませんねえ。お客さま、本日はどうもありがとうございました。またごひいきに」
「はあ」
 会計を済ませ、一度だけ振り返る。スドウはなにやらポケギアで熱心に電話をしているようだった。もう二度と会いたくないな、と思いながら店を出た。息が白くにごった。



 数ヶ月が経った。
 ぼくの部屋はみっしりとガラスのポケモンたちで埋め尽くされている。ガラスケースに安置されたガラスのポケモン、その間を縫うようにしてぼくのチリーンが飛び回っていた。チリーンは風鈴ポケモンと呼ばれるだけあって、容姿だけでなく鳴き声も夏の風物詩と酷似している。動くたびにちりんちりんと涼やかな、季節はずれの音がこだまする。
 いつもなら耳を楽しませてくれるはずの声も、最近のぼくにはうっとうしくて仕方がない。食事と睡眠をろくにとっていないせいだろう。気分も最悪だった。音を遮断しようとソファーに寝転がったまま、クッションを手繰りよせて顔に押しつける。音が鈍くなった。少し心が安まる。チリーンも主人に構ってもらえないとわかったのか、徐々に鳴き声をフェードアウトさせていった。
 しばしの静寂。ぼくは胃の痛みをこらえながら、なんとか眠ろうと努力する。少し寝たらバイトに行かなければならない。アール・フォレストの商品を買うためにぼくはシフトを大幅に増やした。そして食事の回数をできるだけ減らした。それでようやく月に二個ほど、新作のガラス細工が手に入る。極限の生活だけど、ガラスポケモンのためを思えば苦にはならなかった。
 クッションを頭の下へ持っていく。見上げる天井は暗く、くすぶっている。チリーンがぼくをのぞき込んで、控えめにちりん、と鳴いた。そうして甘えるようにすり寄ってきた。やめろと言っても聞かない。どちらかといえば素直に従う性格なのに、きょうに限ってやけにしつこい。
 すり寄ってくるチリーンを苛立ちまぎれにはねのけるも、チリーンは遊んでもらっているつもりなのか何度も何度もぼくの頬に体を当てる。
「おい! いい加減にしろよ!」
 頭にかっと血が上って、起き上がりざまに思わず強く払いのけてしまった。はっとした時にはもう遅く、チリーンの軽い体は強く吹き飛んで、あのキレイハナのケースにぶち当たっていた。ケースがぐらつく。ぼくは慌ててケースを支えに行こうとしたけれど、あちこちに散らばったゴミを避けている間にケースは不自然なほどゆっくりと落下しはじめた。ガラスの砕け散る瞬間に時間は急激にもとの速さを取り戻したようだった。
 がしゃーん、だったかそれとも、ぱりーん、だったのか。あまり覚えていない。とんでもなく大きな音がして、透明だったガラスは割れる瞬間だけ白くなった。中に入れていたキレイハナは、見るも無惨な姿に変わり果てている。花が欠け、顔が半分割れて、手が両方とも無くなった。葉のスカートは粉砕されていた。ぼくの頭はぞっとするほどまっ白になっていく。なにも考えられない。よたよたと退いて、ソファーに身を投げる。
 また買い直せばいいなんて、その時は思い浮かばなかった。しばらくしてポケギアが鳴って、ようやくどれだけ時間が経っていたのかわかったくらいだ。発信先はきょうバイトに行くはずだった飲食店からだった。時計を見れば、出勤時間はとっくに過ぎている。ぼくは怒鳴り声を予期しておそるおそる通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、もしもし? どうしたの、無断欠勤なんて珍しいじゃないの」
「はあ、すみません。ちょっと気分が悪くて」
「気分が悪いなら悪るいで連絡くらいくれなきゃこっちも困るのよねえ。他の子に入ってもらうにしてもせめて何時間か前に言ってもらわないと人手足りなくなるでしょう。あんた最近ぼうっとしてたし、やる気ないなら辞めてくれてもいいのよ、うちとしちゃあ」
「あ、いえ、やる気はあります」
 ここの時給はそれほど高くはないものの、ただでまかないがでる。今クビにされたらぼくは収入を断たれるだけではなく、数少ない食事すら取り上げられるのだ。
「今回だけは見逃してあげるけど、今度こんなことしたらすぐに辞めてもらうからね。それじゃあ」
 ぶつっと素っ気なく電話が切られる。
 ぼくはポケギアをソファーに叩きつけた。胸がむかむかする。
 何かが部屋の片隅で震えた。ぼくは視界に入ったそれに何気なく目をやり、そして後悔した。チリーンが怯えている。ぼくの一挙手に体をわななかせ、隠れるように物陰に体を押し込んでいる。とはいえ、この部屋にチリーンが隠れられるような場所はないので丸見えだ。怒らないでくれ、責めないでくれという哀願がやけに癪にさわった。
「なんだよ……おまえまでぼくを責めるのかよ。そもそもおまえがしつこくしなかったらキレイハナが壊れることも、ぼくがバイトすっぽかすこともなかったんだぞ! わかってんのかよ。おい。なんとか言えよ!」
 チリーンは帯状のしっぽを体に巻き付けて、ただただ震えている。無性に腹が立つ。そうだ、新しくキレイハナを注文しなくては。そうしてこの苛立ちを鎮めよう。
 ぼくはパンフレットを取り出して、ポケギアを握りしめた。勝手しったるとはこのことで、アール・フォレストに事情を伝えるとすぐにスドウが出た。あの汚い男は電話越しでも人を不快にさせる力があるようで、ぼくはやつの第一声を耳にしただけでため息をつきたくなった。
「いつもありがとうございます、スドウでございます。お客様、事情はうちのものから聞かせていただきました。災難でございましたねえ。ガラス製品は壊れやすいのが難点でして、我が社もなんとか耐久性に優れたものを作ろうと日夜研究開発を重ねているのですがいかんせん難しい課題でして。ところでキレイハナの再注文ということでしたが……大変申し上げにくいのですがこちら値段が以前より高騰していましてねえ」
 ざっとこれくらいしますよ――スドウが言いにくそうに口にした値段はぼくを徹底的に地獄へ叩き落とした。
 そんなもの易々と買えっこない!
「どうしてそんな、急に値段が上がったんですか」
「それがうちも経営不振でしてね。新作もなかなかできないし、ネット通販の方も返品が多くって商売あがったりなんですよお。キレイハナは元手も割高で採算がとれないってんで社長が値段設定を上げろってうるさくて。申し訳ありませんねえ」
「……そう、ですか」
「でもですね、お客様、いい話がありますよ。お客様のそのいたずらチリーンちゃん、うちにしばらく預けてみませんか。もちろん責任を持ってお預かりいたしますし、報酬にキレイハナとうちの製品数点をお贈りいたします。どうです、ご検討ねがえませんか」
 スドウ曰く、アール・フォレストはポケモンをデッサンしてから鋳型を作成し、そこにガラスを流し込んでガラスにんぎょうを作っているらしい。チリーンなら見た目も可愛らしいし、これから夏にかけて売ればきっと目玉商品になるだろうということであった。なるほど、入念なデッサンがあれほど完璧な工芸品生み出しているのか。
 ぼくはもちろん、すぐに返事をした。
「ぼくのチリーンなんかで良ければ、ぜひ使ってやってください!」
「本当ですか! いやあ、助かります。ではさっそく、こちらにチリーンを転送していただけますか。きっと製造部の方も大喜びですよ!」
 ぼくは粉々に砕けたガラスを踏みつぶし、チリーンに歩み寄った。怯えた目とかち合う。それをみないようにして、モンスターボールの開閉ボタンを押すと、チリーンは粒子となって吸い込まれた。
 転送システムはポケモンセンターに必ず常備されている設備だ。ぼくは急いでポケモンセンターへ向かう。少しだけチリーンが可哀想に思えて、信号待ちの間にボールを目の高さまで持ち上げた。
「ごめんな、ちょっとの間だけ向こうでがんばってくれよ」
 チリーンが中でうなずいた気がした。



 ガラスのチコリータが届いた。同封されていた手紙にはチリーンはすぐに見つけだすので心配しないでください、といったような文言が無機質に書かれていた。
 ちりん、と風鈴が鳴る。青空を背景に鳴るそれは、どこかチリーンを彷彿させるような赤い模様が入っている。
 ぼくのチリーンがいなくなったと初めに聞いたのは、あの日から三日たった夕方のことだった。スドウの語り口があまりに淡々としたものだったから、ぼくは現実だとすぐには信じられなかった。どうやら向こうの不手際で、チリーンを入れていたゲージの鍵が上手く施錠されていなかったらしい。朝、世話をしていた社員が見つけ、しばらく方々を探し回ったのだがまったく見つからなかったそうだ。
 すみませんねえ、とスドウは謝っているふうには到底思えない声音でそう言った。ぼくはチリーンを失った実感を持てなかった。スドウもそうなのだろう。彼からすれば書類上のポケモンで、しかも相手は契約すら交わしていないボランティアにすぎない。もしぼくがアール・フォレストを訴えたところで証拠もなにもないから、立件のしようがないのだ。
 冬が終わり、春になった。
 ぼくは未だにアール・フォレストを利用している。ポケモンを逃がしてしまった会社だというのに、中毒者のようにひたすら購買を続けている。バカだと自分でもわかっている。それでも止められなかった。
 ちりん、ちりん。
 そうだ。一度アール・フォレストに行ってみよう。
 もしかしたらチリーンはぼくのところへ帰ろうとして、道に迷って帰れなくなったのかもしれない。ぼくが近くに行けばきっとチリーンはぼくを見つけられるし、ぼくもチリーンがわかるはずだ。どうして今まで思いつかなかったんだろう。とてもいい案だ。
 そう思うと居てもたっていられなくなり、ぼくは鞄とポケギアをひっつかんで家を飛び出した。家を出るとさわやかな春の日差しがぼくを出迎えてくれた。じりじりと肌を焦がす太陽と、ぬるい空気ばかり運ぶ風が恨めしい。ああ、駅までどれくらい歩けばいいのだろう。
 アール・フォレストは港町クチバにあるらしい。ここからだと四時間はかかる。電車賃くらいは財布に入っているから、まあ、心配はいらないか。駅につくとちょうど目当ての電車が来るところだった。あわてて駆け込む。駆け込み乗車はお止めくださいというアナウンスに、思わず顔が火照った。
 電車に揺られている間、ぼくはずっと胸にためこんできた懺悔を反芻していた。チリーンはぼくに捨てられたと思いこんだのではないだろうか。あの時、抱きしめもせずに無感動に引き渡したのだ、そういうふうに考えてしまってもおかしくはない。もしそうなのだとしたら、チリーンが逃げてしまったのもうなずける。ぼくが全部悪いのだ。寂しがっていたチリーンに当たって、頭ごなしに怒鳴りつけて、あげく自分の私利私欲のために譲り渡した。チリーンが傷つくのも当然のことだ。
 クチバはぼくが想像していたよりも活気にあふれる町だった。アール・フォレストの住所を見るとどうやら港の方にあるらしく、どんどん海が近くなってくる。潮の香りもしてきた。広々とした森林公園を抜けるとぱっと青い海が眼前いっぱいに広がって、その傍にはたくさんの倉庫がずらりと並んでいた。どっしりと構えた姿の割に、潮風に長く当たっていたせいか寂れた雰囲気が漂っている。どうやらこの倉庫のひとつがアール・フォレストらしい。倉庫を会社代わりに使うとはなかなかこじゃれている。
「このなかから見つけるのって案外大変なんじゃあ……」
 スドウにでも連絡して、迎えを出してもらえばよかった。
 途方に暮れながらもひとつずつ覗いていく。貨物の積み卸しを手伝っているワンリキーやゴーリキーたちが人間と一緒に働いている、ということが多かった。覗いていることを咎められるのではないかとびくついていたぼくだったが、いつの間にか気にせずに堂々と覗いたり、あまつや倉庫の中へ入ったりするようになった。人の出入りが多い分、こそこそとしていなければ見咎められることはないみたいだ。
「ガラスポケモンの鋳型だけどさあ」
 不意に若い男の声が聞こえてぼくは足を止めた。どうやらこの黒塗りの倉庫から聞こえてきているらしい。そっと聞き耳を立てる。
「エスパータイプ何匹かで金縛りにして型にはめるらしいぜ。そうしたら型をわざわざ高い金かけて作らなくていいし、すげーリアルなのができるんだってよ」
「まじで? でもそれって違法じゃん。つーかさすがにそんなことするわけねえだろ」
「まじだって。おれこないだ現場覗いたんだけどよお」
「うわ、それスドウさんにばれたら首どころじゃねーぞおまえ。よくやるよな」
 スドウ。その名前に体がかすかに震える。
「まあな。でさ、作業場あるだろ、あそこにポケモンが檻に入れて並べられててさ。スドウさんがにやにやしながらユンゲラーとかに金縛り命令するわけ。そしたらポケモンがよ、こう、ちょっと苦しそうにしながら固まるんだよ。それをそのまま鋳型用のやつに押し込んで、生きたまま固めて中身が溶けるまで炉で――」
「やめろって! 気色悪い。つうかさ、おれらは上のそういうのに首つっこまない契約だろ。なんかあった時に巻き込まれてもしらないぜ」
 生きたまま、鋳型にされて――。
 そんなバカな! それじゃあぼくのチリーンは行方不明になったんじゃなくて、スドウに生きたまま焼き殺されてしまったのか!? あのチリーンが、型にされて、そしてあの精巧すぎるほど精巧なガラスのポケモンに――?
 ふざけるな、そんなはずがない。そんなのおかしい、それならぼくの部屋にあるあのガラス細工たちは生きたポケモンから作られたっていうのか。そんなことがあるわけがない、そんなものがあってはいけない、そんな、そんな。
「うわああああああ!!」
 チリーンを探さないと、チリーンを見つけて家に帰るんだ。そうすればきっとこんなの嘘だって笑い飛ばせるにきまってるそうだそうだそうだ!
 森。森だ。森が広がっている。
 ちりん、ちりん。
 ガラスの擦れあう音だ。
 おかしい、葉が、幹が、枝が、ぜんぶガラスになっている。どういうことだ。光の乱反射、七色に満ちる。ぐるぐると回る。ここから逃げないと。世界が無限に拡大する。あっちにもこっちにもガラス、ガラス、ガラス!
 ぼくの足元にあの粉々に砕けたキレイハナがいる。
「どうして私を壊したの。痛いわ、痛いわ、どうして助けてくれないの。ここは熱いあついあつい」
 これは幻覚だ。幻覚に違いない、そんなはずはない、生きている。生きてしゃべっている。手を伸ばそうとしている。無い手を伸ばしている。
 ガラスの森から逃げないとぼくは狂ってしまう!
 ネイティ、オニスズメ、ピチュー、ロゼリア、ハネッコ、ぼくが買ったガラスのポケモンたちが悲鳴を上げている。きいきいと耳障りな悲鳴を上げ続けている。紅蓮の炎に焼かれ、無機質なガラスに変えられていく。ぼくのつま先もじわじわと消えだしてきた。どうすればいい、どうすれば。
 きらりと視界の端でガラスではない何かが光った。あれは水か? それともこの狂った森から抜け出すための出口なのだろうか。
 おや、チリーンがいる。
 なんだそこにいたのかだめじゃないかしんぱいさせちゃあ。ぼくがわるかっただからもどってきてくれ。いえにかえったらあのきもちのわるいがらすのぽけもんはすべてすててしまうよ。だからゆるしてくれ。
 チリーンが笑う。
 ぼくはやっとチリーンを抱きしめられた。




 クチバ港で男性の遺体が発見された。近くを通りかかった男性が気づきユンゲラーとともに救助したが、搬送先の病院で死亡が確認された。原因は水死。男性は身元を証明できるようなものは所持していなかった。クチバ署は身元の特定を進めている。遺体はチリーンのガラス人形を抱きしめる形で湾内に浮いていた。同署は自殺とみて捜査を進める方針だ。

 四月十日の新聞より抜粋。
 
> 灰かぶり 作:ものかき
灰かぶり 作:ものかき
 実家からの連絡を受けたときから俺の帰省は確かに始まっていたはずだった。だが、新幹線の窓の先、遠方で降り注ぐ火山灰を見たときに俺は初めてこう実感したのだ。ああ、帰ってきたんだな、と。
 実に十七年ぶりの生まれ故郷だ。俺はプラットホームに降り立ち、辺りをふと見渡してみる。新幹線は席の大半が埋まっていたにもかかわらず、ここへ降り立つ者は俺以外にほとんどいなかった。この光景もまた十七年前と変わらない。いや、むしろさらに過疎化しただろうか。そんなことを考えているうちに、いつの間にかなめらかなフォルムをした鉄の箱は、残りの乗客を次の目的地へ運ぶために遠ざかっていた。
 風に運ばれた灰色の砂が足下をざらつかせる。火山灰の名残だ。都会には劣るものの比較的開発された駅周辺を歩けば、それだけでも十分にハジツゲの町並みを知ることができるだろう。だが、火山灰をまきちらす山の麓――言うなれば本物のハジツゲの町並みまでは、さらに車で三時間を要する。

「兄さん、こっち」
 改札を出た矢先に、片手に車の鍵を持ちながらユリが小走りでこちらへ寄ってきた。十七年も会っていなかったはずなのだが、よくもまぁ俺のことがわかったものだ。
「よく俺だと気づいたな」
「兄さんこそ。よく私だって気づいたじゃない? 知らない美人がいきなり近づいてきたとは思わなかった?」
「俺が妹を間違えるか」
「それと同じよ」
 妹の言葉には妙な説得力があった。

 俺がいない間に、ユリはいつの間にか免許を取得していたようだった。白いバンの助手席に乗り込んだ俺は、妹の運転に任せて起伏の激しい帰路を三時間かけて渡る。ユリの話では、親父は相変わらずなようだった。妹が一人で俺を迎えにいくことを頑なに反対し、俺が行く、と言い張っていたらしい。しかし、もう親父には往復六時間の運転をする体力も集中力もない。ついでに言うと車の中でじっとする忍耐もなくなっているだろうから、ここはユリに任せておいて正解だと思う。
 窓の外を見る度にだんだんと、ハジツゲの火山がほかの景色を圧迫するように近づいてくる。ユリの話によると、ここ数日に何回か噴火も確認されたらしく、家の周辺には豊富な火山灰がとれているという。
 正直、俺にはこの火山灰がうっとうしくて仕方がなかった。いや、火山灰だけではない。火山灰を落とすために先ほどから視界の端をちらつくワイパーも、片道三時間で悲鳴を上げる腰も。強いて言えば、俺は故郷のものすべてがうっとうしかった。今回の連絡が特別なものでなければ、俺はこのへんぴな田舎町に帰ってくることなんかしなかったはずだ。

 ◆

 灰かぶりの知らせを聞いたのは、今から三日前のことだった。いつも通りの仕事が終わり、イスの背にかけっぱなしになっていた背広からポケナビを取り出すと、実家からの不在着信が二十件以上にも及んでいた。故郷を去り十七年。実家からの連絡を一切拒絶していたさすがの俺も、これには一種の予感を感じて折り返し連絡をしてみた。受話器からはのっけから親父の怒鳴り声だ。今すぐ帰ってこい、灰かぶりが死にそうだ、と。
 なんというか、歯に衣着せぬ物言いは親父の長所であり短所で、場合によっては吉と出ることも凶と出ることもあったが、あのタイミングでは間違いなく吉だ。誰のどんな訴えよりも、親父のあの一言は俺の重い尻を飛び上がらせるに十分な威力を持っていた。
 それからは事の経過がめまぐるしすぎてよく覚えていない。気がつけば仕事場に連絡を取り、有給休暇を申請し、新幹線のシートを予約していた。忙しさの関係で休暇が取れるのが三日後、と言われたのがもどかしかった。あんな気持ちは、後にも先にもあの時しかなかった。

 ◆

 ユリの運転は安定していた。運転は運転手の性格を反映するのだろうか。少なくとも親父の運転では、俺は三時間も持たなかっただろう。
 白いバンは滑り込むように、白壁でできた工房裏の駐車場に停車した。親父の工房と実家は少し離れているのだが、駐車場はこちらしか存在しない。俺とユリは同時に車から降り立つ。
 火山灰だ。プラットホームで地面をざらつかせていた量とは比べる気すら起こさせない積もり具合だった。俺の歩いた後にはくっきりと足跡が残っている。俺は自身の足跡を、ふと灰かぶりが踏みしめてできた足跡の形と比較していた。記憶が一瞬だけ少年時代に戻った気がする。懐かしい。俺は不覚にも火山灰に、そしてその足跡に、故郷への懐かしさを感じた。
「まっすぐ家に行くでしょ?」
 妹の発言は、果たして俺の心情を察してのものだろうか。俺は足跡から視線を外さずに、ほとんど何も考えずに「いや」と答えていた。
「工房の中……見てみようかな」

 ◆

 俺の親父はガラス細工職人だ。ひとむかし前のドラマによく出てくるような、常時顔にしわを寄せ、言葉が端的で、融通が利かない、典型的な頑固親父気質であった。そんな職人の元に長男として生まれたのだから、必然的に親父は俺がガラス細工職人となり、工房を継ぐものだと思っていたようだ。物心ついたときから、かまどで熱せられた暑苦しい工房内へ俺をつれていき、溶けた状態のガラスに空気を吹き込む作業をさせられた。もちろん、その作業は大人でもうまくできるものではない。ましてや俺なんかが、たかが数十回の練習で成功しうる所行ではなかった。
 ガラス細工職人の遺伝は、どちらかというと妹の方に傾いているようだった。俺の四つ年下であるユリは、俺が初めてガラスにさわったときよりももっと幼いうちから、父親の教えをどんどん吸収し、工房に入ってから数年たった頃には、俺の周囲では妹が親父の後見者だろうと囁かれている始末だ。
 そんな俺は、裏でそんなことを言われていることを根に持つはずがなかった。気がつけば、ガラス細工以外で何か夢中になれることを探していた。そこで白羽の矢がたったのがポケモントレーナーだった。
 チャンネル数が少ないせいで情報がぐっと制限されるハジツゲのローカルテレビでも、ポケモンバトルやコンテストの様子はたびたび中継されることが多かった。勝利の瞬間のために育て上げられたお互いのポケモンが、火花を散らしながら熱い戦いを繰り広げる様は、比較的ハジツゲの溌剌な男の子に人気が高かった。それは俺も例外ではなく、いつの間にか夢中になってテレビにかじりついていた。だがそのせいで父親に怠け者だと言われ、食らったげんこつの数も少なくない。
 だが、俺の好奇心は画面の中だけではとどまらなかった。実際に、自分のポケモンを持ってみたい。そして、戦わせてみたい。田舎者の少年少女が誰しも抱くその些細な夢を、俺は現実のものにしようと頭を巡らせた。
 フレンドリーショップへ行き、こつこつとためたお小遣いをはたいてモンスターボールを数個買い込む。そして工房から密かにビードロをくすねて、灰の積もった草むらに飛び込んだのがつい数日前のことのように思い出される。

 ◆

 工房内はがらんとしていた。俺が幼かった頃は、旅に役立つ道具を手に入れようとトレーナーが工房内をひしめいていた記憶が強かったのだが。ハジツゲの過疎化は思ったよりも深刻かもしれない。
 工房の展示館をさらに奥へ進むと、いよいよガラスづくりのための本格的な工房が姿を見せる。どうやら職人たちは休憩中なのかほとんど出払っているようだった。火山灰にまみれた机の上には、作りかけのガラス細工が無造作におかれている。その横の机には整頓された完成品がおかれていた。机によってその職人の性格が現れるのだろうか。
 昔と何もかも変わっていない。机に手を乗せると、わずかな火山灰がふんわりと空気中を舞う。
 ハジツゲの伝統工芸であるガラス細工は、すべてこの火山灰が原料となっている。そしてこの火山灰は、農作物を豊かにしてハジツゲを農村に育て上げただけではなく、町全体にガラス工芸という恩恵を授けた。この工房も例外無く、火山灰とは切っても切れない縁で結ばれている。
 そしてもう一つ、この工房に無くてはならないものが机の上におかれている。ストローのように細長いガラス棒に、底が平らな風鈴を無理矢理くっつけたような形の美しい工芸品。黄色、赤色、青色、白色、黒色……さまざまな光彩を放つガラス細工、ビードロだ。
「久しぶりでしょ?」
 いつの間にか、ユリが俺の後ろに立って含みのある笑みを浮かべていた。そして、その手には黒く光るビードロを手に持っている。
「久しぶりに吹いてみる?」
「……いや」
 しばらく、俺は妹の手に持ったガラスのおもちゃ――黒いビードロを見つめていた。しかし、俺はその申し出を辞退していた。なぜ断ったのか、たぶんそれは俺のちっぽけなプライドが邪魔したのだろう。
 はじめから、ガラスよりももろくて粉々に砕かれているなけなしのプライドだ。

 ◆

 幼かったあのころ、俺が工房から持ち出したのも確か黒いビードロだった。火山灰の力がそうさせるか否かはわからないが、ビードロの放つ音がポケモンの体に影響を及ぼすことはこの町の誰もが知っていることだった。
 だが、町の常識を心得ている俺も、都会の人間であれば誰もが知っている、ポケモンの捕まえ方については全く知らなかった。つまるところ俺はあのとき、ポケモンを捕まえるためには、ポケモン同士で戦わせて弱らせなければならないことを知らなかったのだ。
 ビードロの中には使うとポケモンをおびき寄せられるものもあるのだが、そうして現れたポケモンをモンスターボールで捕まえればいい。そんな浅はかな考えで俺はポケモンの捕獲に挑戦しようとしていた。今だから言えるが、あのころは若かった。
 草むらへ走る俺のポケットは、いくらかのモンスターボールでいびつに膨れていた。そして両手には黒いビードロを、絶対に落としたりして割らないように大切に持って走った。
 適当なところで立ち止まり、持っていたビードロを見る。今から、これを使って野生のポケモンをおびき寄せる。これからしようとすることは、ガラス工房でのどんな作業よりもわくわくした。そしてそのために今手に持っているこのビードロは、どんな工芸品よりもきらきらと輝いていた。
 さあ。
高鳴る鼓動は聞いて聞かぬ振りをし、ビードロの先端を口に近づける。そして、ゆっくりと息を吹き込んだ。

 ◆

 俺はかまどの横で斜めにたたずんでいた木の椅子に腰掛ける。肺にたまっているよどんだ空気を、ため息として吐き出す。かまどの方を向いている右側の頬だけが妙に暖かい。この空間が懐かしく、それ故に気が重い。
 俺は一度、この故郷を捨てている。
 俺は背広のポケットから煙草を取り出した。箱の底を叩き、一本だけ取り出して口にくわえた。ビードロの先端をくわえる代わり、と口に出して言うのはナンセンスか。だが俺はビードロの代役の先端に火を付けることはしなかった。白状してしまうと、そのときの妹がものすごい形相だったからだ。
「兄さん」
「すまん」
 ユリは、昔から煙草の煙が嫌いだ。あの親父がそれまで続けていた煙草の習慣を、幼かった娘の一言でぱったりやめたぐらいだ。
「……灰かぶりは?」
「家よ。数日前はポケモンセンターにいたんだけど……」
 そう言ってユリは手に持っている黒いビードロを弄んだ。
「もう治療しても意味ないから家にいさせてあげてください、って」
「そうか……」
 もうそんなに月日が経っていたのか。いや、灰かぶりにとっては、俺が思っている以上にさらに長い時間が経過していたのかもしれない。人間とポケモンでは、その体に流れる時間は一緒ではないのだから。医者が言うには、灰かぶりの種族の寿命は人間の三分の一ほどだと言う。
「だから、ねぇ、兄さん。できればもう家にいきましょうよ。灰かぶりに会ってあげて」

 ◆

 何度ビードロを鳴らしても、野生のポケモンは一匹も現れることはなかった。俺以外に人っ子一人いない空間。そこにぺこん、ぺこんと間抜けな音が響きわたる。早く野生のポケモンを捕まえたい。そのことしか頭になかった俺は、いくらガラスのおもちゃを鳴らしてもいっこうに揺れない草むらにしびれを切らしていた。
 今思うとなんと滑稽な話だろう。これは起こるべくして起こった状況だったというのに。
 確かにビードロの中には、吹けば野生のポケモンをおびき寄せることのできるものもある。だが、あのとき俺が鳴らしていた黒いビードロは、野生のポケモンを遠ざける効力しか持っていなかったのだ。吹けば吹くほど、草むらが静まり返るのは当然の結果だ。
 もちろんこのことを言えば、「ガラス細工職人の息子がそんなことも知らなかったのかと」言われるのは目に見えていたので、まだ誰にも言っていない。
「なんだよ、これ……」
 何にも知らなかった当時の俺は、野生のポケモンがいっこうに現れないイライラをビードロに押しつけた。いっそのことそれを地面に叩きつけて割ってやりたい勢いだった。それでもどうにかビードロを割らずにすんだのは、ガラス細工職人の息子としてのちっぽけなプライドがあったからだろうか。
 あーあ、と俺は草むらに仰向けに寝ころんだ。火山灰が服や髪につくのはお構いなしだ。ハジツゲの少年少女は火山灰まみれになるのが当たり前なのだから。
 照りつける太陽に、黒光りするビードロを透かしてみる。見事な装飾、見事な照り具合に俺は訳の分からぬ怒りをさらに募らせる。どうして俺は、ガラス細工職人の息子なんだ。そうじゃなかったら、ガラス細工づくりで親父に怒鳴られることも、才能が無いと周りから小声でそしられることもなかったのに。どうして、ガラス細工職人の息子はガラス細工職人にならなければいけないのか。
 俺は、寝ころんだままの状態できらきらと輝くビードロに再び息を吹き込んでみた。当然俺の心情とは真逆のふざけた音しか出ない。
 と、そのとき、俺の頭上の草むらがガサガサと揺れた。まさか、このタイミングで草むらが揺れるとは思っていなかったので俺は慌てて飛び起きる。
 ついに来たか? ポケモンか? どんな奴だ? まさか、自分の体の何倍も大きい奴だったらどうしよう……?
 ポケモンを捕まえる、と勇み足で草むらに踏み込んだのはいいものの、実際にその場に居合わせてみると緊張という言葉が易しいものでさえ思えてくる。心臓の鼓動も、聞かぬふりをする余裕さえもうない。そして、俺の心の準備すらできていないままに、そいつは草むらから現れた。
 そのときの様子を擬態語にするなら、ひょっこりという言葉がふさわしい。

 ◆

 俺の実家は、観光地区の工房から歩いて十分ほどの住宅街にあった。観光地区の建造物はそのほとんどが白壁でできていたが、住宅街にある家々は他の町並みと全く変わらない。ただ、ほんの少しの古風さを残しているだけだ。
 がらがら、とユリが家の引き戸を開ける。
「ただいま」
 引き戸の音か、ユリの声か。そのどちらかに気づいて、居間から廊下に現れたのはお袋だった。俺の家の近くではあまり見かけない割烹着に身を包んだお袋は、最後に見たときよりも白いものの数が増えたように見える。
「あらぁ、お帰り!」
 すべての語幹に力を込めて、お袋は俺の元へ駆け寄った。十七年ぶりの母の姿。本来なら感動ものの再会になるはずだ。
「あんた、ちょっとみない間に老けたわねぇ。お父さんにそっくりになっちゃって」
 その言葉ですべての感動が吹き飛んだ。

 居間に親父はいなかった。どうやらまだ工房から戻ってきていないようで、密かに胸をなで下ろす自分がいることがやるせなくて仕方がない。
「灰かぶりは?」
「昔使ってたあんたの部屋よ」
 お袋が台所から叫ぶ。
「まさか、ひとりなのか?」
「今日は母さんがついてたわよ。私が兄さんを迎えに行ったから」
 ユリは眉をひそめてそう返した。どうやら知らぬ間に、少しばかり咎めるような口調になってしまったようだ。
「そうか……すまん」
 馬鹿な。一番に咎められるとしたら間違いなく俺だというのに。
「ちょっと様子を見てくる」
 あぐらの姿勢を崩して立ち上がる。本当は、真っ先にそうすべきだった。あいつの親は俺だ。だが俺の足についている枷が重すぎて、それだけのことをするのに十七年もかかっていた。

 俺の部屋は廊下の一番奥にあった。角を曲がると古風な襖の扉が俺を待ち受けている。取っ手のくぼみに手をかけるが、どうもその手が震えている。灰かぶりがもうすぐ死ぬなんて信じたくなかった。
 いや、ここでもし躊躇ったとしても突きつけられた現実を先延ばしにするだけだ。俺は意を決して、襖をからりと開けた。

 ◆

 草むらからひょっこりと現れたのは、俺がさきほど想像していたような“自分の体の何倍もあるポケモン”などではなかった。肌色の体、鮮やかな赤色のぶち模様。だが、そのどちらも火山灰のくすんだ色に染まっている。
「……パッチールだ」
 無知な俺でも、現れたポケモンの名前ぐらいは知っていた。ふらふらと予測不能な動きをし、ごく稀に気性の荒い者は強烈なパンチをお見舞いしてくるポケモン、パッチール。外で遊ぶ子供に親が必ず「パッチールには気を付けろ」と言い聞かせるほど、ハジツゲではポピュラーなポケモンだ。町外れの草むらにはこれでもかと言うほど『パッチール出没注意!』の看板が立てられているほどだ。
 俺は身構えた。もしかしたら目の前にいるこいつもまた、ふらふらと近づいていつ強烈なパンチをお見舞いしてくるかわからない。無意識にビードロをくわえていた。
「……ぱちぃ?」
 だが、パッチールはいつまで経っても攻撃してくる素振りを見せなかった。いやそれどころか、手を口に当て、何か物欲しそうに俺の顔をずっと見つめている。
「な、なんだよ……」
 ビードロをくわえながらしゃべったので、ガラスの底が吐息で白く染まった。
「ぱ、ぱちぃ! ぱちぃ!」
「うわぁあ、こっちくんなぁ!」
 パッチールがふらふらと近づいてきて、俺の顔に向かってぴょんぴょんと手を伸ばしてきた。わけが分からなかった。“フラフラダンス”をされたわけでもないのに俺は混乱していた。
 俺の頭にあったのは、とにかくビードロを吹きながら逃げることだけであった。なぜそうしたかと言われれば深い理由もなく、ただ口にくわえていたので鳴らしていただけなのだが……。
 ぺこん、ぺこんと相変わらず状況に似合わぬ間抜けな音を響かせるビードロ。すると、後ろをついてくるパッチールはその音が鳴るたびにきゃっきゃっと悲鳴を上げた。そのとき、俺にはどうもその悲鳴が歓声のように聞こえてならなかった。
 まさかと思い、俺は立ち止まる。あがった息を整えながらビードロを近くの草むらに、割らないように投げ込んでみた。するとどうだろう、パッチールはまるでフリスビーを取ってこいと指示されたハーデリアのように、草むらに飛び込んで黒いビードロを拾い上げて、あろう事か再び俺の元へ戻ってきたのである。草むらをかき分けてきたので、その体は灰まみれだ。そして彼は、「はい」と言わんばかりに俺へビードロを突っ返してきた。
「なんだこいつ……」
 その一連の仕草はかわいいものなのだろうが、俺は妙に人なつこいパッチールへ恐怖すら感じた。俺はおっかなびっくり、そいつからビードロを受け取る。
「なに……? 吹けばいいの?」
 試しに俺がそういってみると、パッチールはこくりとうなずく。人の言葉が通じるんだこいつ、と俺はそのとき思った。
  黒いビードロの先端についた灰を払い、口に近づける。そして、ゆっくりと息を吹き込む。
ぺこん。ガラスの底が鳴る音とともに、パッチールが手を叩きながら歓声を上げた。
「は、はは……なんなんだこいつ……」
 俺は、ビードロの音がどうしてそんなに楽しがっているのかがわからなかった。ぺこん、と間の抜けたガラスの音がするだけだ。こんな味気ない音がそこまで好きだというのなら、工房に来ればいやでも聞くことができる。
「お前……これが好きか?」
 こくん。パッチールがうなずく。ポケモンと会話をしているなんて、なんだか妙な気分だ。
「じゃ、じゃあ俺と来いよ……。あ、そういえばモンスターボールもあるし……あれ?」
 ポケットに手を突っ込んでみると、あれだけ大量に買い込んだボールは、後二つしか残っていなかった。どうやら、先ほど逃げるために走った衝撃で、ほとんどを落としてしまったようだった。
 ま、いっか。
 俺は二つのボールのうちの一つを手にとって、手のひらの大きさに調節した後、ボタンをパッチールのおでこにくっつけた。彼は赤い光となってぱっくりと割れたモンスターボールの中に収集される。
 パッチールは一切の抵抗らしきものもせず、あまりにも呆気なくボールの中に収まってしまった。

 ◆

 からりと襖を開ける。薄暗い部屋の中、勉強机の上には使わなくなった参考書がほこりをかぶっている。その部屋の真ん中に、ユリが赤ん坊の時に使っていた布団が敷いてあるのだが。
 部屋の中は、もぬけの殻だった。
「お、おい、灰かぶりはどこいった?」
 俺は部屋の中から廊下に向かって叫んだ。
「えぇ? そこで寝ているでしょ?」
「いないんだよ!」
 お袋の間延びした声がもどかしくて仕方がない。俺は部屋の中をひっくり返す勢いで探し回った。まさか、いくら灰かぶりにしたってかくれんぼを楽しむ年齢はとうの昔に過ぎ去ったはずだ。
 遅れて、ユリとお袋がなだれ込んできた。二人もようやく事態の重大さを飲み込めたようだ。
「いた!?」
「いや……」
 灰かぶりが失踪した。いや、まだ決めつけるのは早い。そう断定する前に家の中すべてを探す必要がある。
 俺は部屋から飛び出して家の捜索を始めた。その姿はなんて大人げなかったことだろう。しかしそんなことはかまっていられなかった。あの老衰した体で外へ出たりしたら、いったいどこでぶっ倒れるかしれたものではない!
 がらり、と玄関の戸が開く音がした。絶好か最悪か。とんでもないタイミングで帰ってきたのは言うまでもなく親父だ。お袋が小走りに玄関へ向かう。しばらくの間、小さな会話が続いていたが唐突に「なにッ」という親父の怒鳴り声が家中に響きわたった。
「灰かぶりが消えただとッ」
「お、落ち着いてくださいお父さん」
「これが落ち着いていられるか、探せ、わしは工房の奴らに声をかけるッ」
 息子に顔を見せたらどうか、というお袋の言葉はすでに完全に親父の耳に届いていないようだった。それもそうだ。十七年間姿を見せなかった親不孝な息子と、十七年間家で過ごしてきた灰かぶりを天秤に掛ければどちらが傾くかなど考えてみるまでもない。まもなく引き戸が乱暴に閉じられる音が鳴る。それを聞き届けた俺は玄関へ行き、靴を履いて外へ飛び出した。

 ◆

 俺は捕まえたパッチールに、灰かぶりという名前を付けた。理由はごく単純で、捕まえるときに彼が全身に火山灰をかぶっていたからだ。
 俺は灰かぶりを入れたボールを密かに家へ持ち帰った。家族には内緒にしているつもりだった。家にポケモンを持ち込むことをまさか許してもらえるとは思っていなかったからだ。だが、どうにもパッチールという一匹のポケモンを家族に内緒で育てるということは物理的に不可能だった。
 俺は工房へ行き、心臓がはちきれるのではないかというほどの緊張を押し込みながら、灰かぶりをモンスターボールから出して親父に見せた。ポケモンを捕まえていたという息子のいきなりの告白に、親父が怒鳴らないわけがない。そして案の定、パッチールを見た親父は俺へ雷を落とそうと息を吸い込んだ。
 しかし、結果的に言うと親父が怒鳴ることはなかった。
 ボールから出て、初めての工房の様子を見た灰かぶりは、表情のわかりにくい目をその時ばかりはきらきらさせていた。そして、手元にあった形も大きさの様々なビードロの一つ一つを、俺の元へと持ってきて吹いてくれとせがむのだ。
 この光景を見た親父――ガラス細工職人である親父が、どうして俺と灰かぶりのことを怒鳴ることができるだろうか。その日親父は、お袋とユリに「俺が灰かぶりを持つことを許す」と言った。
 灰かぶりは、思った以上に家族になじむのが早かった。例えるなら、布に染み入る水のようだった。そうなったのは多分、彼がポケモンながら工房とガラス細工が大好きだったからに違いない。職人になるために幼いながら正式に工房へと入った妹と一緒に熱したガラスへ息を吹き込み、親父の作ったビロードを持って町をかけ回って俺へと吹いてくれとせがむ。フラフラとした足取りながら、お袋の家事の手伝いも少しずつだがするようになっていた。
 俺などとは大違いだった。家に来て数週間の灰かぶりが、生まれて九年近い俺以上に家族の一員となっていた。
 その反動だろうか。灰かぶりを捕まえてからと言うもの、俺の中で芽生えたある一つの感情がだんだんと成長してきているのを自覚していた。それは、俺がトレーナーとして旅をしたい、という願望だ。
 そもそもポケモンを捕まえに草むらには入ったのは、テレビの中で繰り広げられるバトルを俺自身で実現させたいがためだったはずだ。俺はちっぽけな、町ともいいがたいこの町で、ましてやガラス職人として生きていくのはまっぴらごめんだった。ポケモンを戦わせ、トレーナーとして各地を回り、あわよくばチャンピオンになってやろうとまで考えていた。そしてその感情は、十歳になり正式にポケモンと共に旅をするのが許される年齢になるとさらに強くなった。
 だがそもそも、親父がそれを許すなどとは毛頭思っていなかった。だから、俺が灰かぶりと一緒に旅立つと言った時に親父から怒鳴られようが、殴られようがかまわなかった。本気だったかはわからないが、勘当すると言われたときでも俺はかまわないと思った。
 俺は親父にこれまでにないほど怒鳴られたその日のうちに、お世辞にも万端とはいえない旅支度をすませて、灰かぶりと一緒にハジツゲを飛び出した。もう二度と、ハジツゲに戻ってくるつもりはなかった。初めから未練も何もない田舎町だ。
 灰かぶりは、旅へ行くときでさえも親父の作った黒いビードロを手から離さなかった。
どうして、どうしてこいつは息子の俺なんかよりも“息子”らしいことをするんだ。
 悔しい、悔しい、悔しい!
 そのときの俺は、そんな感情がはちきれんばかりに胸を支配していた。
「そんなもん置いて行けよぉ!」
 俺は泣きじゃくった。自分でもよくわからない。涙で顔をグショグショにしながら、灰かぶりから黒いビードロをひったくった。彼は、ビードロを俺に奪われる最後まで必死に抵抗した。その顔も、涙でグショグショに濡れていたような気がする。
 俺はそんな灰かぶりの目の前で、黒いビードロを地面へ叩きつけて粉々にした。

 ◆

 灰かぶりがなぜいなくなったか、その理由を何となくわかる気がした。俺は何一つ、灰かぶりのためにしてきたことなどなかった。灰かぶりが“家族の一員”になったあのときからあいつは、親父のビードロで遊び、妹とガラスをいじっている方が生き生きしていた。逆に、数年間とは言えそんな生活から引き離し、バトルを無理強いしていた俺のことを、果たして会いたいと思うだろうか。だから、俺が帰ってくることをお袋たちの会話から察した灰かぶりは、今日になっていきなり姿を消したのだ。その行為がたとえ、残り少ない寿命をさらに縮めることになろうとも。
 なぜだ。なぜなんだ灰かぶり。十七年たった今、俺のことが許せなくなってしまったのか。
 お前はいったい、どこにいるんだ。
「兄さん!」
 ユリが俺の後を追いかけて来た。そうだ、俺は家を飛び出したんだった。
「落ち着いて探しましょ。今工房に人を集めてるから。灰かぶりの足ではそう遠くまで行っていないはずだから、場所を分担してから探しても遅くはないはずよ」
「……なあ、ユリ」
「なに」
 俺は、息をあがらせながら冷静に説得するユリの言葉を遮った。妹は抑揚のない声で返す。
「灰かぶりは、俺に会いたくないんじゃないか?」

 ◆

 トレーナーとしての自身の力に限界を感じ始めたのは、旅を始めて七、八年ほど経ったときだっただろうか。
 一方、灰かぶりのバトルの才能はというとこれがからっきしであった。旅を始めたときから、灰かぶりはフラフラとした足取りで相手を翻弄しているようにも見える。しかし自分が攻撃するときになると、必ずその足取りのせいで何かにつまずくのだ。灰かぶりはバトルというバトルで勝てた試しがなかった。
 だが、俺がトレーナーとしての限界を感じたのは、決して灰かぶりのせいだけではない。大抵のトレーナーなら遅かれ早かれ感じること――そう、俺にはその界隈で頂点に上り詰めるだけの“才能”がなかった。
 トレーナーとしてこれから食いっぷちを稼ぐめどが無くなった今、俺たちはこのままトレーナーを続けるか、別の道を行くべきかという岐路に立たされた。
 灰かぶりは、きっとハジツゲへ帰りたがっているだろうということはわかっていた。しかし、ここでもまた俺のちっぽけなプライドが、それを提案することを躊躇わせた。
 今更帰ったところで、いったい誰が俺のことを歓迎してくれるだろうか。生まれ故郷を、ガラス細工を、ののしり続けている自分のことを。
 いや、だが。
 俺は、足元で人の往来を恐る恐る目で追っている灰かぶりを、そして腰のベルトに付けた五匹のポケモンを見た。
 こいつらは、俺の勝手な夢を八年間も一緒につきあってくれた。だが、故郷に戻りたくないという俺のわがままで、そんなこいつらのこれからを棒に振りたくはない。こいつにには、こいつらをもっと必要としてくれる場所があるのではないだろうか?
 そうだ。まともに就職して、まともに金を稼ごう。今のままでは六匹全員を育てながら自分も食っていく技量も、予算も、ましてや気力も残されていない。そして何より、灰かぶり自身がハジツゲに戻りたがっている。
 そうだ、自分のためではない。灰かぶりのためになら、俺はハジツゲに戻ることができる。

 ハジツゲに帰った俺を待っていたのは、八年も経って熟練したガラス細工職人へ成長し、そして女性としても一回り大きく成長しているユリ。手ぶらで帰ってきた俺へ万感の込めたまなざしを送るお袋。そして、「なぜ帰ってきたのか」という親父の辛辣な台詞だった。今さら口に出して言うことでもないが、親父は俺のことをもう息子だとは思っていなかった。
 町へ一歩踏み出すと、地元の住民は俺のことを様々な色の眼鏡で眺めた。純粋に俺の帰りを喜んでくれる者がいるかと思えば、あれだけ一流のトレーナーになると豪語しておきながら、やはりハジツゲの人間にそんなことは無理だったかという者もいた。だが、その大半は夢破れたどこにでもいる負け犬の顔を見る眼差しだったことは確かだ。
 灰かぶりは俺の予想した通り、ガラス細工の町ハジツゲに帰ってくることができて心なしか生き生きしているように見えた。俺と旅をしてバトルをしているときよりも、ずっと。
 どうにも、俺にはハジツゲの住民から注がれるそのまなざしが窮屈でならなかった。いや、“窮屈”という言葉で片づけるにはもっともっと複雑な糸が心に混ざっていた。だが、早くこの町から去ってしまいたいという、消えてしまいたいという願望からすればまさに今、この空間は窮屈でしかならなかった。
 俺の年齢が、就職活動をするのに間に合っている年齢なのは不幸中の幸いだった。俺は就職活動を始めたとき、わざと地元の企業へのエントリーは一つも出さずに、他の場所で一人暮らしをしながら働く決意もついていた。ついでに、そこへ腰を据えた暁には今度こそ、二度とハジツゲへは戻らない。
 窮屈なこの町から抜け出せるのなら、別に仕事の種類はどれでもよかった。一番早く俺を受け入れてくれた会社に入社し、手続きの合間に、五匹のポケモンたちは信頼できるトレーナーやブリーダーに譲った。
 灰かぶりだけは、ハジツゲの家族の元に置いてやろうと思っていた。あいつはあの町が好きだ。ガラス細工が好きだ。工房が好きだ。そしてなにより、ハジツゲの人々が好きだ。会社勤めの俺へついて行き毎日を腐らせるより、ここに残って文字通り火山灰と戯れている方がきっとあいつのためにいい。
 俺は灰かぶりの入ったモンスターボールを、町で一番信頼することができる妹のユリへと託しハジツゲを去った。
卑怯だということはわかっている。「あいつのため」と言いつつ、俺は灰かぶりのことすべてを家族へ押しつけてしまっているだけだ。灰かぶりが次にモンスターボールからでたときは、俺の姿はどこにもないだろう。その理由の説明もユリがしなければならない。あいつには酷なことを強いた。俺はどこまでもふがいない兄だ。
 だけど、これもすべて灰かぶりのためなんだ。

 ◆

「灰かぶりは、俺に会いたくないんじゃないのか?」
 その言葉は、俺が発したとは思えないほど、するりと、自然と口からその言葉が声として発せられた。ああ、俺は、こんなことをいつの間に考えていたのか。
 ユリは顔立ち綺麗だ。だが、それ故に彼女がある表情を露わにするととても威圧感がある。
「兄さん」
 ユリは俺に一言だけそう言って、俺に一歩近づいた。そしてその後、一瞬俺の視界がフラッシュした。その後に、左頬にくるジンとした痛み。その一瞬でなにが起こったのかわからなかったが、視界が回復した後にユリの右の平手を見て、ようやく事態を察した。
 いわゆるビンタというやつを、あの温厚なユリから食らったということを。
「兄さんは、なにもわかってない」
 そして彼女は、静かにそう声を絞り出した。
「兄さんは、灰かぶりのことをなにもわかっていない。自分のパートナーのことなのに、ぜんぜんわかってないッ」
「いったいなにがわかっていないんだ。現にあいつはどこかへ消えたじゃないか……」
 それがなによりもそれを証明している。あいつは、俺の前から姿を消した。会いたくないに決まっている。
「兄さんは、いつも自分のことばっかりだね。灰かぶりのため、灰かぶりのためとか言って、いつも自分の都合のいい方に進むんだから。灰かぶりがかわいそう!」
 ユリ、どうしてお前までそんな顔をする。そんな目で俺を見る? 俺がいったいなにをした? 俺は……灰かぶりにとっていいと思ったことをしてきたはずなんだ!
 灰かぶりはハジツゲが好きだった。だからトレーナーの夢をあきらめ、この町に戻ってきた。俺が就職を決めたときも、あいつはこの町においてきたんだ。それも全部、あいつのためを思ってのことだ。それに……。
「兄さんは……灰かぶりに嫉妬してるの? だから、ハジツゲから出ていったの?」
「違う!」
「じゃあ、どうして灰かぶりをハジツゲに置いていったりしたのよ!」
「あいつは――」
 喉からうまく思いを吐き出せない。
 わかっている。すべてわかっている。俺は自分の気持ちに正直になれなかっただけだ。すべて、ユリの言う通りなんだ。
  俺は、あいつに嫉妬していた。どうしてあいつは俺より、家族にもハジツゲの町の人々とも馴染むことができたんだ? どうして俺よりガラス細工が好きなんだ? どうして、俺が黒いビードロを割っても、好きでもないバトルをさせても俺に逆らわない? 灰かぶり、お前はきっと、俺がお前を置いて行くことをモンスターボールの中で知っていたんだろう? それでもどうしてお前は、俺を怒ったりしなかったんだ?
 どうして、どうして、どうして……。
 俺は灰かぶりのようになりたくて、だけどあいつになることがどうしてもできなくて。だから俺は、無意識のうちに灰かぶりの居場所を奪っていた。
 どうせ俺はガラス職人などなれない。だから、自分の夢を叶えたいという大義名分で灰かぶりをガラス細工から引き剥がした。そして俺がトレーナーとしての限界を感じると、灰かぶりがハジツゲに戻りたいから、というもっともの理由でのうのうと故郷へ帰ってきた。そして、それでも俺についてくる灰かぶりを見て俺は、自分の情けなさから逃げるために、就職にかこつけてあいつを置いて逃げた。
 俺がもしまだトレーナーだとしたら、灰かぶりはなんて最低なトレーナーを持ったことだろう。
「――あいつは……! こんなふがいない俺のことなど、会いたいと思うはずがないだろう……!」
 思わない。思うはずがない。俺だってそんな奴がいたら会いたくない。顔も見たくない。
 そんな俺の顔を、ユリは目を細めて見ていた。だが妹の顔は、俺が灰かぶりにひどいことをしたことに対して責めている顔ではなかった。彼女が俺のなにを責めているのかわからない。そして再びユリが口を開いたとき、その声は先ほどよりも幾分かトーンが下がっていた。
「灰かぶりは、どうしていつもビードロを持ち歩いているかわかる?」
 俺は首を横に振った。ただあいつがガラス細工を好きだからだと思ったが、そう言う勇気が起こらなかった。それほど、俺は灰かぶりのトレーナーとしての自信を喪失していた。
 すると、ユリはまるで俺の心を読んだかのように自身も首をゆるゆると横に振った。
「灰かぶりは、ただガラス細工が好きでビードロを持ち歩いているわけではないの……ビードロを吹いている、兄さんのことが好きだからよ」
「灰かぶりが……俺を……?」
「灰かぶりは昔から、ビードロを吹いてくれと兄さんばっかり追いかけてせがんでいた。でも、兄さんがハジツゲを離れてから、一度だって私や父さんへビードロを吹いてくれと灰かぶりが頼んだことはなかったわ」
「灰かぶり……」
 俺はてっきり、灰かぶりはビードロの音が好きで俺に吹いてくれとせがんでいると思っていた。
 だが、それは違うというのか。
「灰かぶりはね、兄さんがいなくなってもずっと、毎日のように兄さんの帰りを待っていたわ。時間がたって、灰かぶりが老いて、自分の足で歩くことが困難になっても、灰かぶりはずっと、兄さんを待ち続けていたわ」
 あいつは、まだこんな俺のことを……。
 膝に力が入らなかった。いや、それどころか、関節という関節から力が抜けた。立っているのが精一杯だった。ユリはそんな俺の二の腕をそれぞれ両側の手でつかんだ。そして弱く揺さぶった。
「それでも兄さんは、灰かぶりが自分と会いたくないかもなんて言うの? 今、灰かぶりと一緒にいてあげなきゃいけないのは誰?」
 気づけばまた俺は駆け出していた。迎えに行かなくては。すぐに、灰かぶりを。あいつはきっとどこかで待っている。今の俺にはそれしか浮かばなかった。
 どこにいるのかなんて見当もつかない。だが俺は直感に近い感覚で、ある一点へ向かって駆け出している。
 俺と灰かぶりの、始まりの場所へ。

 ◆

 会社勤めを始めた俺は、それこそ最初の方はそれなりに満足した生活を送っていた。どこへ行ってもガラス細工職人の息子と言われることもない。今まで精神をすり減らしながら行っていた六匹のポケモンの世話もなく、ある程度自分のための時間を作ることができた。もちろん実家にいるときと違って親父に怒鳴られることも、お袋に小言を言われることも、工房で作業するユリの姿を見て複雑な心境になることもない。
 だが、どうだろう。
 会社の同僚や上司、後輩に出身地を聞かれるたびに俺はハジツゲの名を出さなければならない。そしてそれを聞いたたいていの人間は、田舎だと鼻で笑うか、あいまいに笑みを浮かべているかしかしなかった。そのたびに俺は皮肉にも心にガラスの破片が刺さったかのような痛みを感じる。
 どうしてだ。俺はハジツゲが嫌いだ。あの町を捨てたというのにどうして小さなガラスの破片ごときに痛みを感じなければならない?
 そしてなにより変わったこと。それは休日の過ごし方だ。
 トレーナー時代にはそもそも休日なんてものは存在せず、いつでもポケモンたちに囲まれて過ごしてきた。いや、トレーナーになる以前にも、俺は休日になればいつだって灰かぶりと遊びに行って、文字通り火山灰まみれになって家に帰ってきたものだ。
 なのにこれはどういうことだろう。いざ自分のための時間を確保したかと思えば、そばに誰もいない寂しさを感じることになろうとは。
もちろん会社でできた知り合いもいる。だが、ハジツゲの名を鼻で笑った者たちのことはいまいち信用がならなかった。
 そして俺はいつの間にか、灰かぶりと過ごした日々ばかりを頭に思い浮かべていた。そして、休日が憂鬱になっていた。会社での仕事が楽しいと言われればそうでもなかったが、少なくともデスクで作業をしている間は何も考えずに済んだ。考える時間がほしくなかった。そうしたら、灰かぶりと過ごした日々を思い出してしまうから。もちろん灰かぶりとの記憶は楽しいことばかりではなかった。だが今となっては、辛く苦い日々ももう思い出として笑い飛ばせるほどには年を取っていた。
 だが、それでも故郷に戻る決心はつかなかったのは、やはり俺のちっぽけなプライドのせいだったのだろうか。
 俺は、ユリに言われて気が付いた。
 結局、俺には灰かぶりが必要なんじゃないか――。

 ◆

 火山灰まみれの草むらは静まり返っていた。だが、水面へ小さな石を投じるかのように、静寂を静かに揺らす音が響いている。間違いない。あの音は紛れもなくビードロの音だ。
 俺を導いているのかもしれない。自分はここだと訴えているのかもしれない。死期が近づき、もう歩くのさえつらいはずだというのに、ビードロの音は絶えず聞こえてくる。
 どこだ。どこにいるんだ。俺は鼻の穴に火山灰の粒子が入り込むこともお構いなしに大きく息を吸い込んだ。
「灰かぶり!」
 ビードロの音が少しずつだが大きくなっていく。草むらをかき分けて、時に立ち止まり、また俺とあいつを繋ぐ音色に耳を澄ます。
「灰かぶり!」
 会いたい。俺はいつだって自分のことばかりだった。自分のことしか考えてなかった。十七年前までは灰かぶりを嫉妬していた。だが今なら、脳裏に浮かぶのは灰かぶりの姿ばかりだ。ビードロを吹いてくれとせがむ姿、工房でユリとガラスを作る姿、バトルで負けてなく姿、滅多にない勝利に俺と一緒に喜ぶ姿、久々の故郷を懐かしむ姿……。
 十数年間の俺の人生で、灰かぶりは間違いなく俺のそばにいた。そして、俺がハジツゲを離れていた時も、あいつはいつも待っていてくれた。俺が帰ってきたときに灰かぶりがいなかったのはきっと、死ぬ前に俺と一緒にここへ来たかったからだ。
 いつの間にか心にぽっかりと穴が開いたのは俺の方だった。いつの間にか灰かぶりを必要としていたのは、俺の方だったんだ。
「灰かぶり!」
 もうすぐだ。灰かぶり。もうすぐお前に会える。俺は視界が開けるまで、その姿が見えるまで、草むらをかき分け続けた。
 そして確かに灰かぶりは、俺と出会った場所と全く同じ場所にいた。

 ぶち模様の入った毛と肌は、張りを無くしてしわが目立っていた。耳はだらんと垂れ下がっていて、ピンとたてる力もないらしい。だがあいつは息を切らした俺を見て、めいいっぱいの笑顔でこちらに近づいてきた。そして、俺の胸に飛び込む。
「ぱちぃ! ぱちぃ……!」
「灰かぶりッ!」
 俺は、灰かぶりを強く抱きしめた。もう二度と、二度と離さない。もう二度と、お前を置いてどこかへ行ったりするものか。
 自分の感情に収拾がつかなかった。俺は、なんて馬鹿だったんだ。会えてうれしい。俺はここにずっといるから。だから、どこにも行かないでくれ。天国にもどこにも行かないでくれ。死なないでくれ。そんな感情が回りに回って、それが涙となって灰まみれな俺の頬をつたって、滴が灰色に染まった。
 こんなに気持ちがあふれているのに、どうして口からはくぐもった嗚咽しか出せないのだろう。
 灰かぶりは、どれだけ年が経っても俺のことを待っていてくれた。俺が灰かぶりに嫉妬し、居場所を奪い、ハジツゲに置いて行っても、お前は十七年間、待っていてくれたんだな……。どうして、俺はこんなにそばにいるパートナーの優しさに気付けなかったのだろう。
「灰かぶり……!」
 灰かぶりが生きていられるのは、これから数日、いや、数時間かもしれない。だが、俺は十七年間ぽっかりと空いていた心の穴を、その残りの時間で埋たかった。そして、埋めてやりたかった。もう昔のように、俺のためではなく。今まで待っていてくれた、灰かぶりのために。
 これは俺のわがままかもしれない。だが、灰かぶりが俺と一緒にいることを望んでいるのなら、彼が好きなことを精いっぱいしてあげたいと思っている。
 しばらくして、抱きしめられていた灰かぶりが俺に黒いビードロを差し出した。それを持つ腕は震えていて今にも落としそうだった。
 俺は黙ってそれを受け取った。吸い口に付いた火山灰を払い、小さく息を吹き込む。
 ぺこん、と。間の抜けたガラスの音に、灰かぶりが笑った。
 
> タマムシブルース2013 作:照風めめ
タマムシブルース2013 作:照風めめ
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 全身から噴き出す汗がどんどんと冷ややかなそれに変わっていく。
 焦りと不安と恐怖と嫉妬が綯い交ぜになり、直接妖しい光でも受けたわけではないにも関わらず混乱状態に陥りそうだ。
 目の前の光景を受け入れられない。いや、受け入れたくない。
 あいつが使うキノガッサはあいつ以上に俺の方が知っている。使うワザ、得意な間合い、性格、個性、好きな食べ物、お気に入りの時間。
 だというのにあいつの指示を聞いているキノガッサは、俺の知っているキノガッサとは一線を画している。どうしてあいつの方が俺よりも巧く使いこなせているんだ。
 そんなことを考えているうちに、俺の最後のポケモンにキノガッサが華麗にスカイアッパーをぶちかます。
 やめろ。嘘だ。頼む。勘弁してくれ。嘘だろ。嘘だよな。嘘であってくれよ。
 これまで何度大きな壁が立ちはだかっても不屈の闘志で耐え抜いた。
 それはもちろんこれからも続くだろう。不器用な俺はそうするしかないと思っていた。
 でも、そうじゃなかった。
 頭の中で、ガラスを叩き割ったような破砕音が響く。心が平静を保てなくなり、足腰にすら力が入れられない。叩き割られたガラスの破片が全て降り注いでくるかのような、そんな心地だった。
 あいつが心配そうにこちらに駆け寄ってくる。
 やめてくれ。
 お前が優しくすればするほど、俺はどこまでも惨めで小さくなってしまう。優しさは時として刃物や銃器よりも立派な凶器になる。悪意なき凶器は、心の重心をいとも容易く崩してしまい、崖からしとやかに突き落とすだろう。
 あいつのひんやりした手が俺の腕を支える。
 目が合った。
 綺麗に出来たあいつの顔が、困惑と不安に歪む。
 あいつの紫の瞳に、涙を流しながら変な笑みを浮かべていた俺は、一体どういう風に映っていただろう。
 そのとき「俺」は、一度死んだ。



 1


 カントー地方の中心部、タマムシシティに訪れたのは、丁度桜が咲き始める頃だった。
 人が溢れ、あちこちから放出される声の波に、田舎町出身で旅をしてきた僕はすぐにでも滅入りそうになった。
 そんな折り、旅をする上で多くの情報が集まるカフェテラスの誰でも掲示物が貼れる掲示板に、奇妙な張り紙が一つ。
『高レートでポケモンバトルしてくださる人を募集しています。国立公園の一番大きな桜の木の下で』
 他の張り紙がカラフルに描かれ、一時的に旅に同伴してくれる人を募集するのが半数を占めるのに対し、これは真っ白な紙にボールペンで走り書きされているだけだ。
「兄ちゃん、そいつが気になるのか?」
 背後から筋骨隆々でタンクトップというたくましい風貌の男が声をかけてきた。どうやら彼もこの張り紙に惹かれ、実際に戦ってきたのだという。
「こんな雑なチラシからは想像出来ねえが、めちゃくちゃ美人さんで、見とれてしまった、ってのもあった。でもな。それ抜きでも勝てる気がしなかった。ジムバッヂを四個持っていてそれなりに自信はあったが、四天王とやり合えるような実力を持っていやがる。兄ちゃんもなかなかやり手そうに見えるが、悪いことは言わない。それはやめておけ」
「……。そんなに強いんですか」
「俺も腰を抜かしちまった。お陰で凹んでここ二日はバトルしてねえ」
 僕のジムバッヂは今六個。あとはこの街とトキワタウンのバッヂを手に入れられれば僕は四天王に挑むチャンスを手に入れられる。負けたとしてもそれはそれで今後の勉強にもなるはずだ。
「おい、まさか……」
「そのまさかさ。負けたとしても授業料と思えば」
「その授業料が洒落になってないんだよ」
「いくらかかるんだい?」
 気のせいか、最初に声をかけられたときよりこの男が小さくなっているように見える。そんな彼は、右手を僕のそばに持ち上げ、三本だけ指を広げた。
「……三千円?」
 どことなく血の気が引けた彼が、弱々しい声で僕の言葉を弾き飛ばす。
「三万円だ」



 2


 桜の木がたくさん植えられている国立公園。方々に腕を伸ばした彼らが今、白みの帯びた可愛らしい花を精一杯咲かせている。
 最初は広いこの公園から彼女を探し出せるか不安だったが、いざ来てみればすぐ分かった。噴水のある広場の一つ向こうの丘の上。桜色の長い髪を柔らかい春の風に靡かせ、どことなく遠くを見つめている紫の瞳。もしもカメラがあるのなら、その光景を永遠の形にして残してしまいたくなるくらいに彼女は美しい。
 確かにさっきの彼も、勝負の最中だとしても見とれてしまうだろう。僕の貧弱なボキャブラリーとイマジネーションだけではどれだけ時間を重ねても、彼女の魅力を十二分に伝えることは出来ない。
 しかしそれには怯むまい。自分の心の中のスイッチを、OFFからONへ切り替える。
 その瞬間に花見客の声も、美しく咲き誇る桜の木々の姿も、僕の感覚器官からシャットアウトされる。そう、ただ目に映るのは彼女の姿だけだ。
「カフェテラスのチラシを見て来たんだけど、お手合わせ願えるかな」
「は、はい!」
 聞いた話とは違う、おっとりとした様子に少し面食らったが、何をしてくるかは分からない。全神経に最高級の緊張感を与えさせ、腰のベルトにつけてあるボールに手を伸ばす。



 3


 人の厚意は素直に受け取るべきものだった。
『悪いことは言わない。それはやめておけ』
 彼の言葉が脳裏をよぎる。完敗だった。力の差が歴然としすぎて、後学に役立てようにもそれ以前のレベルだった。
 彼女のキノガッサの華麗なフットワークに手も足も出なかった。自分の実力を過信していたわけでは無かったが、一匹も倒せずに負けたのは初めてだ。
 折れかけた心をどうにか支える。
「君、本当に強いね」
「ありがとうございます……。わたし、これくらいしか出来ることがなくて」
 彼女のこの控えめでおっとりとした気質は、バトルのときでも同じような感じで、声も大きくなくまごついているのに、まるで指揮者がタクトを振るような正確無比で美しい勝負をしてみせる。
 そんな彼女と戦うほどに、僕はポケモントレーナーとしても。そして一人の女性としても興味を惹かれてしまった。そのときに衝動的に一つの欲望が生まれる。彼女のことをもっと知りたい。
「良ければ名前を教えてくれないかな」
「な、名前ですか? あ、えっと……」
「気を悪くしたらごめんよ。無理に答えてくれなくてもいいから」
「あ、いえ、大丈夫です。……サクラ。わたしの名前はサクラです」
 そう言って、彼女は少しだけ恥ずかしそうに俯く。その動作も何をとっても愛おしくなる。
「サクラ、か。良い名前だね」
「わたし、桜が好きなので……」
 そう言って、風に煽られる髪を撫でつける。
「……ところでどうしてこんなに高いレートでポケモンバトルを続けているんだい」
 彼女は怒られたかのように体をびくつかせると、より一層蚊の鳴くような小さい声で何かしらを呟いた。
「え?」
「……お、お金がどうしても必要なんです」



 4


 場所を変え、タマムシシティの繁華街にある適当な喫茶店に入る。会計は僕が持つから、とやや強引に押しつけた。彼女は終始申し訳なさそうな顔をしていたが、先の話を聞いていて払わせる男がいるか。
 バトルをしていたときの彼女とは打って変わって別人のようだった。頭(こうべ)は常に垂れていて、紅茶の入ったマグカップを見つめ、弱々しく断続的な言葉を紡ぐ。
 そうしてしばらく話を聞くうちに、だいたいの要領は掴めてきた。
「――べ、別にわたし、誰かにお金を借りようだとかそういう訳じゃなくて……。わたし、出来ることって言ったら、これ(ポケモンバトル)くらいしか……、なくて」
 徐々にフェードアウトしていきそうな彼女の声音を聞いていると胸が締め付けられる思いだ。
「前までは……、兄とその、旅をしていたんですけど兄が病気になってからは兄の側を離れたくなくて……」
「そりゃそうだ。お兄さんをほっとく訳にもいかないからね」
「だからこうして、あの公園にお邪魔させて、もらってるんです。……あ、決して大変だとかそういうことは私全然思ってなくて!」
「まあ確かにここがカントー地方で一番人が集まる場所だしね。ジムもあるからトレーナーも来るし、交通の要所でもあるし。……でも、正直な所アレが長続きするとは思えない」
「えっ……?」
「目立ち過ぎているんだ。悪い意味で。……三万っていうレートはやっぱ目立ちすぎる。人が多いから返って噂が広まりやすい。現に僕も、一度は君の所に行くのを止められた」
「……」
 どんどんとしおれていく彼女の姿を見ていると、なんとかしてやりたい、助けてあげたいという気持ちになってくる。
「だからこそ、僕に出来ることがあればなんでも言ってよ」
「え、そんな……。他の人には迷惑かけられないし……」
「君の方が僕よりも慣れてるかもしれないけど、これでも僕も小金を稼ぐ術は持ってる。僕でよければ力にならせてくれ」
 熱のこもった僕の弁に気圧されたか、彼女はようやく首を縦に振った。
「よし、交渉成立だ。よろしくね」
「ありがとうございます……! 何かとご迷惑をかけるとは思いますが……」
「いいよいいよ。僕がふっかけたことなんだから。むしろ僕が迷惑にならないかどうか」
「そんなことはないですよ!」
 サクラは一瞬だけ目を丸くして驚いた顔を見せると、やがて穏やかな優しい微笑みを作る。
 一撃必殺だ。僕の心のヒットポイントはその笑顔一撃で瀕死状態だ。
 メロメロ状態を通り越した何かが僕の体の中から弾けそうだ。
 だからこそ、彼女の笑顔をもっと見ていたい。守りたい。そのためなら旅を少し足止めしてでも厭わない。
「どうしたんですか?」
 何秒惚けていたのか、自分でも数え忘れた頃にサクラが問いかけてくる。
「いや、笑顔もいいね。って」
「そ、そうですか? こんなに人に親切にしてもらったの、すごい久しぶりで……」
 すっと目を細めた彼女の紫の瞳孔には、どことない切なさが一瞬だけよぎっていった。



 5


 サクラとフータはホウエン地方のハジツゲタウンで出会った。当時のフータは今のように頬がこけておらず、健康的な体と、大きな夢を抱えた青々しい青年だった。
 フータはキノココを相棒にして、ホウエン地方のチャンピオンを目指さんとするその姿が羨ましく、サクラはフータの仲間になった。
 しかし、フータはあまりバトルのセンスに恵まれてはいなかった。
 ジムバッヂを手に入れることに、他人の二、三倍は時間がかかった。
 それでも、なんとかしてもがいて足掻いて、転んでも這い上がろうとするそんなフータのことがサクラは好きだった。
 内心、フータも悩んでいただろう。いつまで経ってもどれだけ努力しても伴わない実力。たまに泣き崩れている姿をサクラは事あるごとに見ていた。
 そして、あの日をきっかけにフータの心は粉砕されたガラスのように、粉々になってしまった――。
 あの人に優しくされたから、久しぶりにあの頃の事を思い出してしまった。
 タマムシシティの小さな古い貸しアパートの一室の扉の前。サクラは目尻をワンピースの袖でトントン、と軽く叩いてから、鍵のかけられていない扉を開けた。
「ただいま」
  ひどいアルコールの臭いとヤニの臭いが狭い部屋に充満している。サクラは「兄」の了承を得る前に、灰皿や袋菓子、ガラス瓶が転がった足下に注意を払いつつ、勝手に部屋の窓を開けて換気する。
 はじめの頃に比べて、アルコールと煙草の数が増えている。前々からやめてほしいと頼んでも、どこ吹く風で意味をなさない。
 おかえり、も無いまま、安っぽいベッドに寝転んだ「兄」もといフータは、左手の手のひらをひらひらとさせる。
 いつも通りの金をせびるポーズだ。サクラは泣きそうな自分を抑えて、財布から今日の稼ぎを抜いてフータの手のひらに乗せた。
「……今日は六万か。最近稼ぎ落ちてるな」
 窓を開けたことに対してもフータが文句を呟いたが、サクラはそれを聞かぬフリをした。
「ねえ、いつまでこんなことするつもりなの?」
「やることねーんだもん」
「それにお酒も煙草も増えてるし」
「『病気』の俺には最適な薬なんだよ。……にしても稼ぎ落ちてんぞ」
「……。もうわたしと相手してくれる人ほとんどいないんだから仕方ないよ」
「じゃあ例の張り紙に、『兄が病気なんでお金が必要なんです』とか書き直すか?」
 フータは乾いた笑いだけが、一室に響き渡る。そう言っておきながら、本人は不機嫌そうな声音をしていた。
 きっと本人も自分のしていることが良いこととは思っていないだろう。でも、サクラからすれば思っている思っていないは問題ではなかった。やり続けるか、止めるか。それすらはっきりしない態度がサクラをより困らせていた。
「にしても今日は少し表情が明るいな。何かあったのか」
 どうしてこの男は未だにこんな所にだけ目ざといのだろう。正直、彼の事を言うか一瞬躊躇った。でもわたしはフータのもので、こんな男だけど恩もあるし抗うことも出来ない。
 頭の中でごめんなさい、と彼の顔を浮かべながら呟く。
「……どっちにしろこのままじゃお金が稼げなくなるけど、今日親切な人にあって小金の稼ぎ方を教えてくれるって」
「男か?」
「……うん」
「十中八九そいつお前に惚れてるよ」
 その言葉を聞いた瞬間、少しだけ胸に小さな灯りが点って、消えた。チクチク痛むようで、暖かいような。前にもきっとにたようなことがあったような気がするけど、もう思い出せない。
「すごいわたしに優しくしてくれて、同情とかもしてくれて」
「下心見え見えだな」
「それで、いろいろ話をしてたら一度フータにも挨拶しておきたいって。お見舞いって」
「お見舞い?」
「断るに断れなくて……」
「マジかよ……。めんどくせえな」
「ご、ごめんなさい……」
「そうなったもんは仕方ねえよ。適当に誤魔化すぞ。……いや、逆に考えればその男もそれだけ本気ってことだよな。……となると絞れるだけ金絞る。これだ」
「絞るって……」
「適当になんか言って金せびんだよ。そんである程度稼いだら雲隠れだ。コガネシティにでもいこうぜ」
「コガネに行ったら今度こそ……」
「分かってるって。もうこんな暮らし飽きたし、今度こそ、な。これで最後だから」
 何も分かってない癖に。
 嘘じゃないから、と言うフータの見え見えの嘘になんて答えればいいか分からない。
 サクラは今にも泣いてしまいそうだった。
 優しかったフータが、こんな風になってしまうとは昔は考えられなかった。
 出来るなら逃げ出してしまいたい。全部吹っ切って、風になって、出来るなら……そう。今日あったあの人の側に行ってしまいたい。
 でも、サクラにはそれが出来ない。
 サクラはフータのモノだった。それは昔からずっとそうだった。でもそれ以上に、フータをこんな風にしてしまった原因がサクラにあったから、後ろめたさからフータをほっぽってしまう訳には行かなかった。



 6


 翌日の夕方、サクラに連れられて一人の男がやってきた。年は俺と同じくらいか。なかなかサマになってる好青年という感じで、なんだか昔の自分を見ているようで少し嫌な気分になった。
「どうも、シンヤです。わざわざ手間をかけさせてすみません」
「フータです。えっと、……サクラがお世話になっているようで」
「いえいえ。こちらこそ彼女のバトルの腕前には勉強になりますよ」
「ははっ」
 部屋を朝から換気して、消臭剤を至る所にかけた甲斐があって、ヤニの臭いは体感的にほとんど無くなった。質素な服に着替え、ベッドに上体だけを起こした体勢。不養生な生活で少しこけた頬はさながら健康とは言い難いだろう。念のために声のトーンを下げる。不定期に咳を繰り返し、少しだけ眉を潜めたりとすれば、ただ浮かれているだけのこの男は騙されてくれるだろう。
「とりあえず、簡素ですがお土産の品です。良ければどうぞ」
「あ、ああ。ありがとう」
 シンヤがきのみが入ったバスケットをテーブルに置こうとすると、サクラがそれを受け取って「細かく切ってくるね」と台所の方へ消えていった。馬鹿、俺をこいつと二人っきりにするんじゃねえ。声にならない文句が顔に出ないように、咳をして誤魔化してなんとか取り繕う。ほんと馬鹿みたいだ。
「ご加減の方はいかがですか?」
「はは、見ての通りさ」
「どうやら難しい病気と聞いたんですが」
 少しの受け答えで分かる。ちょっとした受け答えに矛盾があれば、そこを突き崩せる能がある。というか単純にキレ者そうだ。
 それに、サクラが一体どういう風に何を話したかが分からない以上、話に食い違いがないようにするしかない。だったら後手に回らずに先手を打つ。
「サクラからはどう聞きましたか」
「外出もままならない、とは」
「ええ、まあ。お陰で寝たきりで、身の回りのこともサクラに任せっきりになってて。申し訳ないと思いつつもね……」
 サクラめ、変に気が回るところがあいつの欠点だ。こいつと二人っきりじゃ間がもたない。出来ることなら今すぐ窓をぶち破ってでも外に出たいくらいだ。うまいこと言葉をかわさないとだめだ。
「あー、えっと……。サクラがいろいろとご迷惑をかけたようで」
「そんなことはないですよ。むしろずかずかと踏み込んでしまって僕の方が申し訳ない」
「いやいや。こちらとしては大助かりですよ。本当なら俺がサクラを支えてあげないといけないんですけどね。あいつも好きであんなハイレートをふっかけてる訳じゃないだろうから、なおさら心が痛みます。何一つ出来ない自分が」
「……でも仕方ないですよ」
「それは、まあ、そうなんですけど。病気が治れば苦労かけた分だけなんとかしてやりたいんですけどね」
「完治出来るんですか?」
「可能性はあるみたいです。……ただ、入院費と手術費が高くてちょっと」
「僕は具体的な値段のことは分からないんですが……。それでも、僕で力になれることがあるならなんでも言ってください。出来ることは少ないかもしれませんが」
 こいつは驚いた。お人好しもここまでこればおめでたい。どうやら間接的に、俺に気に入られたいのだろうか。そうだとすれば、こいつを利用するチャンスは何度かあるだろう。ちゃんと考えれば、こいつはちょっとしたATMになりうる。
 少し話を聞いたところ、こいつは手持ちのエテボースを使って物拾いをさせ、それを売って小金を稼いでいるらしい。そういってポケットから出したのは、それなりに大きな真珠だ。なるほど。悪くない。
「本当になんといってお礼すればいいか……。縁もゆかりもない方に」
「そんな! 人間なんて弱いもんですから、だからこそ助け合わないと。サクラさんとの出会いはまさしくその訓示です」
 二ヶ月前後。そんだけあればコガネに逃げて家を借りるお金は出せるはずだ。ついでにスロットを回す分も出てくるだろう。
 どうせこいつとサクラは一緒になれない。それは俺以上にサクラも分かっている。見ず知らずの男の純情を踏みにじる趣味はないが、もうなんでもいい。早くこのしょぼい芝居を終わらせたい。
 ようやくサクラが戻ってきた。大きな器には色とりどりのきのみが盛りつけられている。
 俺の前を通ったサクラの右腕からは、強烈な果実の匂いがした。



 7


 あいつが「お見舞い」に来てから二週間強が経過した。
 サクラの表情や言葉が明るくなっていくにつれて、俺は酒とタバコの量が増えた。サクラが明るくなる原因は一つしかない。あのシンヤって野郎のせいだ。
 何か会話があると、そのたびにあの男の名前が出てくる。きっと、というか間違いなくあいつは俺より遙かに良い奴だろう。少しずつサクラの心が俺から離れていってるのはすぐに察せれた。嫉妬、というよりは困惑。そんな感情がぐるぐると、日を追う度に強くなる。
 それをどうにかする手段は俺には無かったから、逃げるしか無かった。立ち向かうことを忘れて逃げることだけを学んだ俺には、選択肢はあってないような物だった。
 止まらない。一体何連鎖してるんだ。この台の設定は狂ってるだろ。時間の感覚が吹き飛びそうになる。
 忘れかけていた興奮が、胸の中に転がり込んでくる。そうだ。興奮ってこんなんだったんだ。
 タマムシシティのゲームセンターのスロットから、溢れんばかりのコインが吐き出される。コインを入れる大きなケースが一つ、一つ、また一つと重ねられていく。
 どうだ。俺、バトルの才能はないけどこっちの才能はあるかもしれない。ははっ! ……いくら虚栄心を張ったところで心の穴が埋まることはない。古傷のように、定期的にズキズキと胸を抉る。
 俺はどうしてこんなことをしているんだ。くそっ!
 コインが吐き出される度に、それに反比例して心は深く深く沈んでいく。きっとこれは何かの罰なのか。
 そんな折り、突如背後に誰かの気配を感じる。まさか、サクラにバレたか。振り返った瞬間。

 強い衝撃が右頬を襲い、体が少し宙を舞う。コインケースに背をぶつけ、コインがじゃらじゃらと賑やかな音を立てて辺りに散らばる。
 久しぶりの強烈な痛みに耐えきれない。情けない呻き声をあげながら、顔を上げる。
「あんたみたいな最低なトレーナーにあったのは初めてだ」
 そこには、怒りで拳を震わせながら立っていたシンヤの姿があった。



 8


 ホウエン地方のジムバッヂを五個集めた。その頃からトレーナーとしての限界を感じていた。
 本当はもっと前から感じていたけれど、それを感じるのが怖かった。だからそれを感じないように、感じることを忘れるくらいにひたすら努力を積み重ねた。
 そして一人で努力をするのに限界を感じた頃、俺は手持ちのメタモンにあるお願いをした。
 ハジツゲ周辺で出会ったこのメタモンは、明らかに他のメタモンとは別次元だった。非常に高度な知識を有し、自らの喉の機関を変形させることで人の言葉を介すことが出来た。それどころか、人間に変身して、あたかも普通の一人の人として「いる」ことが出来た。
 俺はそのメタモンにトレーナーに変身をしてもらい、自らのポケモンを半分渡して模擬試合を行った。やはりただ自分で特訓するだけでは光が見えない。初めて戦う素人の、しかもポケモンが相手とはいえ模擬形式で試合をするときっといい。具体的に何がいいかはあんまり分かっていなかったが、それでもプラスになると考えていた。
 ところがどうだ。まるっきり手が出なかった。自分のポケモンが相手なんだから、手の内をすべて知っている。しかもそれを指揮しているのは、ポケモンバトル未経験の素人どころかポケモンだ! そんなポケモンに何一つ出来ず負けた俺は一体なんなんだ。
 希望で溢れていた未来にヒビが入る。ヒビはあっという間に希望を覆い、粉々にする。
 そのとき、ポケモントレーナーとしての俺は死んだ。
 メタモンもそれに遠慮してか、控えめな性格がより控えめになっていった。やめてくれその遠慮。同情とか。余計に俺が惨めになるだろ。でも、そんなことを言ったところでどうにかなるものではないのは分かる。だから、トレーナーを諦めた。
 そして最初にぶつかった問題は、お金だった。
 バイトして、お金を稼ぐ。でも大きな目標を失った俺は、どんなバイトも長続きしなかった。すぐに働く意義を失ってしまう。そんな俺を見かねたメタモンは、人間に変身して自分からもバイトをした。せめてもの俺への配慮だろう。正直助かった。そして、これは使えると思った。
 メタモンでも金を稼げるなら、いっそ一発大きい稼ぎ方をやらせよう。そう思ったのがあのハイレートのポケモンバトルだった。毎日毎日健気に出かけ、お金を持って帰ってくる。それが当たり前になってしまっていて、俺は何にも見えていなかった。
 ポケモンセンターのガラス越し、治療室に移されたサクラもといメタモンが賢明の治療を受けている。
 シンヤに連れられて、初めて事の大きさを理解した。当たり前のことをようやく理解し、放心した。頭の中がかき混ぜられたようにぐっちゃぐちゃになった。処理できず、思わず涙が溢れると、もう一発ぶたれた。この男は見た目や言動と違って随分荒々しい事をする。
 実はこの男は、サクラがメタモンであることは当の前から知っていたらしい。それでも俺の家であんなことを言ったのは、サクラに惚れてた半分、そこまで健気にトレーナーを救おうとするポケモンに心を打たれた半分だという。
 メタモンが倒れてから、シンヤは街中俺を捜したようだ。そこで俺を見つけたのがゲームセンターなんだから、殴りたいのも無理はない。いいや、むしろ殴るだけでそれ以上何もしない分、人間としても器の違いを感じる。
「サクラは……。メタモンは無事なのか?」
「命に別状はない。けど、過労で全身の細胞がダメージを受けているらしい。今までのように変身し続けた状態でいるのは困難、要は少しだけ後遺症が残るって聞いたよ」
 シンヤが俺を見つめる。怒りと、憎悪、そして悲しさの眼差しだ。あのときのメタモンの瞳と、少しだけ被った。も、もうこりごりだ。俺はこれ以上何も失いたくないし、絶望もしたくない。まるであの日に還ったような、そんな心地だ。俺はまた同じ事を繰り返すのか。
「ごめんな……」
 馬鹿みたいにガラスに張り付いて、涙と鼻水をすり付けながら呪文のように何度も呟く。このガラスが忌々しい。これが無ければメタモンのすぐそばにいてやれた。薄くて分厚いこの壁が、俺をあらゆるものから遠ざけていく。今度はシンヤもぶたずに、何もせずじっと立っていた。
 人間なんて弱いもんですから。シンヤの言葉が甦る。でも人間、いつまでも弱いままではいられなかった。



 9


「本当にいいのかい」
「ああ。言い訳ばっかり並べて何もしなかった罰があたったんだ」
 そう言って、シンヤにモンスターボールを押しつける。少しくらい躊躇して押し返してもらっても良いところだったのに、シンヤはあっさりとそれを受け取った。
「今の俺が側にいても、何もしてやれることはないしまた甘えて同じ事を繰り返すかもしれないから」
 メタモン、いや、サクラは何も言わないまま涙を流す。まだ退院したばかりなのに、人間に変身している。無理はよせ、と言ったが、折角だからと言ってはねのけられた。俺も泣きたかったが、ここ数日で涙はすべて出し切ってしまったようで、出てくる気配は感じられなかった。
 変身した状態で連続していられるのは、たった二時間が限界になったようだ。ほぼ一日ずっと変身し続けられたことを考えると、かなり衰弱している。それが俺のせいだというのは今更なことで、問題はその先だ。
「だから、信頼できるあんたにメタモンを任せる。いつか俺が、ポケモントレーナーかただの会社員かは分からないけど、もう一度メタモンを向かい入れられるような人間になるまでは」
「分かった」
 正直シンヤのことが未だに好きにはなれなかったが、それでもこいつは信頼出来る。
 きっと更生するなんて言っておきながら、あいつがそばにいるときっとまた頼ってしまうだろう。そんな弱い自分と決別するためには、全てを最初からやり直さなければいけないと思った。きっとシンヤもそれを察して、サクラを引き取ったんだろう。
 それからとりとめのないことを一つ二つと話をした。
 シンヤは次のジムに向かうため、もうそろそろ出発すると言った。すると、サクラが少し寂しそうな顔をした。
 最後に、サクラが今までありがとうと言ってきた。感謝されるようなことはしていないし、むしろ最悪なことばかりした。それなのに、そんなことを言われて。おう。なんて一つ返事しか出来ない自分がほとほと馬鹿らしい。ごめんな。とも言った。何度目のことだろう。分からない。それでもサクラは首を軽く左右に振った。
 そろそろ行こうか、と言うシンヤの言葉に頷いて、皆席を立つ。シンヤと手をつなぐサクラは、幸せそうで寂しそうだ。
 最後に一つ二つ簡単な別れを告げて、彼らは歩きだした。
 そして姿が見えなくなるまで夢中で見送って、独りになったことに今更気づいた。寂しくて、想像以上に辛くて心が痛かったけど、そんなことに構うものか。俺は今から新しい俺になるんだ。ならないといけないんだ。
 もう一度メタモンと会うために、俺は俺だけの途方もしれない道を行く。
 
> あの空を目指して 作:ホープ
あの空を目指して 作:ホープ
 僕はずっと自分の体が大嫌いだった。
 人間が通ることもほとんどないような険しい山。頂は一年を通して雪を被っている。そんな背の高い山の中腹あたりにある原っぱに、僕らの集落はあった。みんなで協力して木の実をとってきたり、寒いときはみんなで体を寄せ合いながら仲良く暮らしている。
 ここに住んでいるみんなは大きな耳と瞳に、体と同じくらいのふさふさの尻尾、そして灰色の体毛を身にまとっている。朝なんかはお互いに尻尾で相手の体を撫でたりしているようだ。体毛は丈夫で、極度のストレスでも抜け落ちるようなことはない。僕もみんなと同じような瞳、耳、尻尾をもっているけど、一つだけ違うことがあった。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
「あっ」
 隠すつもりもないであろう悪意が、僕の体を押し倒す。そこにいたのは僕と同い年で同じ形のポケモン二匹。その目には軽蔑の色が刻まれていた。何か悪口を言われるのが嫌で、僕はすぐ彼らに向けた視線を地面へと戻す。
「あーあ、手が汚れちゃったよ」
「水を飲むついでに川で洗えば大丈夫でしょ」
「はは、それもそうだな」
 悪びれる様子もなく彼らは僕から遠ざかっていく。こんな仕打ちも、小馬鹿にしたような笑い声も、僕はもう慣れてしまった。この程度では涙すら出てこない。
 二匹の声が聞こえなくなったのを確認してから立ち上がって、体についた土の汚れを尻尾で叩き落とす。そのせわしなく動く尻尾とちょっと汚れている体を見ていると、やっぱり僕はみんなと違って特別なんだと思い知らされた。
 僕の体毛は灰色ではない。生まれたときからこうで、別に何か特別なことをしたわけでもないのにこの色だった。お父さんが理解のあるポケモンだったから僕は今生きていられるけど、もし気味悪がられたら生まれたばかりの頃に僕は死んでいた。今考えればその方が幸せだったかもしれないけど。
 そして、僕はみんなから忌み嫌われている。大人たちからは白い目で見られ、同い年の子供たちからは暴力、悪口を受ける日々。僕は何もしていないのに、ただみんなと毛の色が違うというだけでこんな仕打ちを受けてきた。
 ご飯の木の実だって、集落の食料集めを担っているポケモンは僕の分だけとってこない。この集落のみんなに、僕のことは含まれていないからだ。
 小さい頃はお父さんがとってきてくれていたけど、いつまでもそれに頼っているわけにもいかないから、最近は自分で木の実をとりに行っていた。
 今もそれに向かう途中だ。普通の子供ならおやつを食べているような時間に、僕は一匹で誰も入らないような急斜面にある森の中へ踏み入っていく。この時間帯なら誰にも顔を合わせることはない。昼間に安堵できる唯一の時間だった。

 木の実を何個か口に入れてお腹を満たし、夜に食べる分を一つ右手に抱えて集落に戻る。僕を育ててくれたお父さんやお母さんには心配をかけたくないから、僕は集落に戻らなければいけない。
 森を抜けると、西の空はもう真っ赤になっていた。東の空からは漆黒が迫る。それが混ざり合った空の真上は、僕の体毛と同じような色をしていた。同じような、少し暗い桃色。僕の大嫌いな色だ。
 ほのかに赤く染められた原っぱを歩く。足音を立てないように、見つからないようにうつむきながら進む。他のポケモンとは会いたくない。
 そのときだった。一つ、二つと縦に長く伸びた影がうつむいた視界に映ったのは。はっとして顔を持ち上げると、何匹かはわからないくらいたくさんのポケモンがいた。もちろん、みんな僕と同じ形をしている。それは集落にいるポケモン全員のようにも思えた。
 僕は歩みを止め、もう一度視線を下に向ける。僕と彼らの間には彼らの伸びた影しかない。その影の一つが、一歩前に出る。影の持ち主であるポケモンの顔を見ると、そこには信じたくない光景が広がっていた。。
 体中が赤く腫れていて、顔には爪で引っ掻かれたような切り傷がいくつも広がっているそれの瞳には生気がなく、そのポケモンを僕のお父さんだと理解するのには数秒の時間がかかった。
 お父さんは一歩、また一歩と僕の方へ近寄ってくる。お父さんが僕に何かをしようとしているのは明白だった。得体の知れない恐怖、嫌悪感がこみ上げてくる。
 手を伸ばせば、尻尾を伸ばせば僕の体に触れられるというところで、僕のお父さんは足を動かすのをやめた。そして、口をかすかに動かす。言葉は聞こえなかった。けれど、何かとても辛いことを吐き出しているように聞こえて、さっきの恐怖がどんどんと大きくなっていく。
「ここから、出て行け」
 今度はしっかりと聞こえた。聞こえた。意味はわからなかった。わかりたくなかった。放心したまま動かない僕。後ろの観衆がざわざわと騒ぎ立てる。お父さんの後ろにある夕日が激しく揺れていた。
「この集落にいると邪魔なんだ! どっか行ってくれ!」
 信じられないその言葉は、顔面への鈍い痛みで本当のことだと思い知らされた。お父さんの尻尾が顔に叩きつけられた衝撃で、僕は原っぱに身を打ち付ける。肺を圧迫されて息が少し漏れた。でもまだ信じたくなくて、僕はお父さんの顔を見る。
――そこには、隠しきれないほどの悪意が滲んでいた。
 そして悟る。僕はもうここに居る必要なんてないんだって。
 僕は駆け出す。叩きつけられた姿勢から後ろ足に力を入れて、森の暗闇を目指した。多少バランスが崩れたって、無様な姿を観衆に晒したって、手を地面につけて僕は一目散に走り抜ける。
 後ろから聞こえる沸き立つみんなの歓声、夕日を浴びて伸びる僕の影、ぼやけた視界に映っては消える大嫌いな色の手。流れ落ちる涙を拭うことすらできないで、僕はただ走った。

 急斜面の森で体を枝に引っ掛けても、木の葉にぶつかって擦り傷を作ろうとも、僕は足を止めなかった。止めたらきっとその場に崩れてしまう。そんな確信に似た予感があったから。
 もう息を吐き出すのも吸うのも辛い。転がるように進む体に鞭打って、あと少しあと少しと言いながら、僕は感情が溢れて止まらなくなるそのときを先延ばしにした。
 山を駆け下りて斜面が緩くなってきたのを感じると、僕は身を隠すのにちょうど良さそうな茂みを見つけて隠れる。ぜえぜえと息が上がっている。体中が燃えたように熱かった。
 息は全然整わないのに、涙が止まることはない。もう何がなんだかわからなかった。思い出すだけで胸がはち切れそうになる。
 お父さんの鋭い言葉は、僕の心をズタズタに引き裂くのには十分だった。唯一の心の拠り所だった家族にすら僕は見捨てられたんだ。例えそれが暴力によって無理やり紡ぎ出された言葉だったとしても、それはお父さんが僕よりも自分と家族の安全を優先したという事実になる。僕が邪魔者だったのは知っているけど、直接ぶつけられたその真実は、思っていたものよりもずっと痛かった。まだ残っていた心の脆い部分を抉るように、その事実は僕に強くのしかかる。
 お父さん、お母さんだけは信じていたのに。きっと僕を守ってくれると思っていたのに。
 ああ、僕はなんで生きているのだろう。どうして、僕は特別な体で生まれたのだろう。
 僕はもう外敵に見つかって殺されてもいいから、大声で泣きたかった。でもそんな泣き喚く力だって残ってなくて。結局漏れるのは嗚咽だけ。
 茂みの外にもこの押し殺した声はきっと聞こえている。でも食べられるなんて気にする必要はない。僕が死んで悲しむポケモンは、もうどこを探したっていないんだ。そう、世界中どこを探しても。

 どのくらい時間が経過したのだろう。少し冷静になって泣き腫らした目を開けると、地面はぐっしょりと湿っていて、僕はまだこんなにも泣けたのかと逆に驚いた。涙なんてとうに枯れてしまったと思っていたから。
 宵は深まる。茂みの中からでも空のてっぺんに月が浮かんでいるのがわかった。白色の輝かしくも少し鈍い光が、僕と同族のポケモンたちの体毛に似ている。
 胸がぽっかりと空いてしまったようで、僕はもう悔しさも憎しみも怒りも感じない。ただただ、大きすぎる悲しみの海が全てを失った胸を満たしていた。
 何もしたくない、動きたくない。仰向けになって大の字に転がった。茂みの枝が僕の体をつつく。痛かった。
 全身を気だるさに包まれていたからだろう、遠鳴りに聞こえる誰かの鋭い悲鳴を聞いたって、体を動かす気にはなれない。何回も悲鳴を上げながらそれが近づいてきても、僕はそのままの姿勢を保っていた。
「みぃっ!」
 だから、それがこの茂みに飛び込んできてもそんなに大きな反応を返すことはない。悲鳴を上げたのは飛び込んできたポケモンの方だ。僕はちょっとそのポケモンの方を向いただけ。
 背中は草のような緑でしっかりと覆われており、上から見下ろしただけではただの雑草と混じってしまうくらいに草らしい姿をしている。両耳の横にちょこんとついた赤色の花、そしてお月様よりも真っ白で綺麗な顔の肌。そのポケモンは僕の方を少し見ると、また可愛らしい声を上げながら縮こまってしまった。許して、と懇願しているようにも見える。何に恐れているのだろう。僕なんかを恐れる必要なんかないのに。
――寝転んでいる僕の真上を何かが通過した。風を作り出し、それが僕の毛を撫でる。今までで一番の悲鳴がそのポケモンの体から放たれていた。
 次の瞬間、そのポケモンは消えた。代わりにあるのはそれとそっくりな鈍い色の彫刻だけ。
 つまり、考えられることはひとつだけだった。僕はすぐそれに気づいたけれど、でも、こんなこと、認めたくない。認めない。
「はっ、ようやくあたってくれたか」
 後ろ――先ほどの何かが放たれた方――から少しにやけを含む嘲笑が聞こえる。その声に込められた悪意は、集落のポケモンが僕に向けていたものと何ら代わり映えしなかった。瞳にもきっと化物のような醜い感情の色が浮かんでいるのだろう。
 彫刻はどうも悲鳴を上げているように見えて、見ていたくなかった。そこにいたポケモンがどうなったのかを考えるのが怖くなって、僕はそれから目を背けるように立ち上がる。自然に声の主と顔を合わせることとなった。
「ほう、色違いのチラーミィか。これもついでだ」
 その人間は腕につけた装置を僕に向ける。瞳には、悪意なんて篭っていなかった。何も感じていない。僕らが木の実を取るときと同じ目をしていた。ただの作業としか認識していないときの瞳。
 光線が放たれた。きっとこれを受けたら僕の意識は途切れるだろう。至近距離で放たれたそれを避けるなんて僕には難しくて。
 ただ、色違いという言葉が僕の耳を貫いて離さなかった。



――目を開けると、よくわからない世界に僕は身を置かれていた。どうしてこんなところにいるのだろう。
「写真撮れました」
 目の前にあった黒色は、黒い服を着た人間だったようだ。そいつがそこをどくと、一面は真っ白な世界になっている。真っ白? いや、灰色。この色は集落のポケモンの色によく似ていた。
 人がいるのだからまずは茂みか何かに隠れるべきだ、という本能が今更起きてきたようで、脳が体に命令を下す。でもそれとは裏腹に、足が足音を立てることも、腕が地に付くこともない。
「了解。戻せ」
 何も分からず、思い出せないまま――。



 次に目が覚めたところでは、黒い棒が等間隔で僕を囲っていた。体も動かせるようで、足を地につけているという感覚がある。そよぐ風を感じて辺りを見渡してみると、ここは僕がよく知っている自然の世界だった。黒い棒の隙間から覗く世界は、僕の知っているそれとは少し違ったけれども、ここにあるものが自然であることに変わりはない。風はそよぎ、草花は生い茂っている。花は規則的に植えられていて、とても綺麗だ。
「注文していた品は用意した。檻の中を確認しろ」
 体が宙に浮いたかのような錯覚を受けたあと、僕の足に少し強い衝撃が走った。どしん、と辺りに少しうるさい音が響く。視界はいつもの高さに戻っていた。
 憎たらしくて、吐き気を催すような顔をした男が僕に近づいてきた。怖くて、僕は後ろに後ずさる。黒い棒に当たると、僕は観念したかのようにその場に座り込んだ。
「確かに注文したのはこれだ。ご苦労さん。金はそこのアタッシュケースの中に入っている。そっちも確認してくれ」
 僕の後ろにいた男はアタッシュケースを開くために、僕の傍から離れていく。その男が中に入っている大量の紙切れを確認すると、彼はそれを持ってまた戻ってきた。気色の悪い男は僕の目の前に立って、何かを選別するような眼差しで僕を見つめていた。
「取引成立だ。そこのチラーミィは好きにするがいい」
 アタッシュケースを持った男が軽やかに地面を蹴り飛ばしていく。その後、目の前の男が獲物を捕まえたかのような瞳をしたから、僕はあの人間から別の人間に渡されたのだと確信した。ただの紙切れと交換して。そんな事実を聞いたって、思った以上の悲しみはやって来なかった。
 小さな頃から蔑まれ、親以外に甘えられず、僕は集落の仲間外れにされていた。この頃はまだ涙が溢れて止まらなくて。信頼していた親にさえ捨てられ、その夜のうちに僕は人間に捕まり、今は売り物として下品な笑い声を上げる男の前に差し出されている。僕が受け止め切れる悲しみはもう限界を突破してしまったようで。
 もう僕の胸は悲しみの海すらも枯渇して、なくなってしまった。残ったのはぽっかりと空いた大きな穴だけ。
 そんな心じゃ、僕は何も感じない。怖くない。悲しくない。怒れない。ああ、下品な声が響き渡る。僕はこんな男にすら物として扱われてしまうのだろう。でも、感情のなくなった僕にとって、その事実は至極当然のように思えた。
「さあ、こいつをどこに飾ろうかな」
 視界が高くなって、地面に押し付けられる感触を味わう。空を仰いでみたら上は真っ黒な空で、その空はジャンプすれば届きそうなほど近かった。

 辺りにあるもの全てが高級そうに黒光りしている。四足の木でできた座りやすそうなものや、ものを置くのに便利に見えるものたち全てが。床には幾何学的な模様が刻まれていた。どこを見渡しても繊細で優雅なものしか置いていなく、だからこそ、この台の上にあるそれがとても目立った。
「ガラスのショーケース。気に入ってくれたかな? ここが君のお部屋」
 そのショーケースと呼ばれたものは四方も天井も透明な壁で囲まれており、僕を隠してくれるような障害物は見当たらなくて、その中はどうにも狭そうで。そこに入ったときが僕の最期なんだって直感的に理解した。そう分かっても、無駄に足掻くつもりはない。死ねるならもうそれでいい。
 また足に大きな衝撃、でも視界はそこまで低くならなかった。ガラスのショーケースと同じ台に置かれたようだ。しばらくすると、あの男が目の前に現れた。醜悪で、醜くて、僕を物としか見ていない瞳を持ったその男が。
 にやり、と吐き気を催すような笑みを浮かべるそいつの右手には、何か小型の機械が握られていた。
 男の顔を見るのが嫌で耐え切れなくなって、そっぽを向こうと思ったとき、男が手に持った機械の摘みを回す。それに呼応するように僕の体に異変が起こった。足が、腰が、手が、動かなくなっている。首も動かせなくなっていて、何が起こったのかを確認しようにも下を向けなかった。
「石化装置ってちゃんと使えるんだな。意外」
 男は怪訝な顔をしながら手に持った機械を眺めている。僕はそれを見つめることしかできなかった。ただ、動けない置物のように。実際に僕は動けない置物だ。
 男は僕の目の前にある黒い棒でできた扉を開けた。視界が一気に良好になる。そのせいで、男の右手には機械の他に、直線になっている花飾りが握られていることに気がついた。ちょうど僕の首くらいの長さをしている。
「抵抗するなよ。まあ、できないだろうがな」
 だんだんと僕の方に汚らわしい手をを近づけてくる。じわり、じわりと獲物に近づく肉食のポケモンのように。
 ここまで接近されて、僕は久しぶりに逃げたいと感じた。どうしようもなく腹から湧いてくる恐怖を全身で味わった。でも僕は何もできない。できない。できない。
 男の手が口の少し下に触れた。その下にも触れているようだけど、ありがたいことに感触は何も伝わってこない。
 しばらくして、首元で何かの金属がぴったりとはまる音がする。それはやけに大きく聞こえた。まるで僕が物に成り下がったことを嘲笑うように。首輪、似合っているぞと男は呟く。それで僕はこれが首輪なのだということを理解した。
「それじゃ、おうちには自分で入ってもらおうかな」
 男はまた手元の機械の摘みを回す。ふっと体から力が抜けるような脱力感。耐えられずにその場に座り込んでしまう。首に取り付けられた首輪の表面は花飾りなのに、首に接している部分は石のように硬くて冷たい。少しだけ圧迫されるから、意識しないと息が吸えないような気がする。
「ほら、この奥にあるガラスのショーケースに自分から入ってくれ」
 確かに、この扉をまたいで、少し進んだ先には無機質なショーケースが置いてあった。あれに入れば、僕はもう完全に物となる。ポケモンでいられるのは、僕がそれに入るまでの間だけ。僕は親に従う子供のように足を踏み出した。
 一歩。僕は少しポケモンから離れ、扉を跨ぐ。一歩。一歩。今の僕は歩くことしかできない。歩くことで、僕はポケモンから離れ、物にならないといけない。
「もう少しだぞ」
 男の憎たらしい声が痛いほど耳を貫く。周りに置いてあるものは、男と同じように目障りで消えて欲しいほど、黒く光って自己主張をしていた。
 一歩。ポケモンよりも物に近くなる。
 下を向くと僕の桃色の足が視界に映り込んだ。
 この足の色だって、体だって、本来なら灰色の体毛で生まれるはずだった。もうそんなことはどうでもいいけど。でも、できることなら灰色に生まれたかった。
 一歩。
 また前を向くと、この嫌な空気が充満した世界はぼやけて見える。そう、尽きたはずの涙が溢れていた。
 一歩。
 僕が他のポケモンのように生きるだなんて願いはとうの昔に諦めているつもりだった。でも、諦めきれてなかった。
 一歩。
 もう一歩踏み出せば、僕のポケモンとしての命は終わる。最期が差し迫っていた。でも、まだ死にたくなかった。
 最期の一歩はまだ踏み出さずに、僕は止まった。今まで言葉で表せなくて、声にならなくて、胸の底に沈んでいた願いが今、見つかったから。
――もっと普通に生きたい!
 胸を満たすほどたくさんの悲しみを全部流してやっと、見つけた。
 空を見上げる。幾何学的な空も、少し頑張れば届きそうなほど近かった。もっと遠いところにある空を見たい。でも今駆け出さないと、僕はずっとこの小さな空の下にいないといけなくなる。
 覚悟を決めろ!
 意を決して、僕は男の方を向いた。男はちょっと驚いた目をしたように見える。無様でも、格好悪くても一生懸命に駆け抜けて、あの空を目指すんだ。
 思い切り走り抜け、男が手に持っている機械にめがけ飛び跳ね、尻尾を使ってそれを叩き落とす。叩き落とそうとした寸前に、僕の体の自由が効かなくなっていって、あれ、あれ。

 次に体が動いたときには、僕はガラス越しの世界しか見えなくなっていた。物となった。
 胸に残った最後の願いすらもどこかにいってしまったようで、僕は不思議と悲しくない。ただ、ガラス越しに見る世界はとても滲んでいた。



 いたい。いたい。くびがいたい。――。もういやだ。わらいたくない。くるしい。くるしい。やめて。いたいの。やめて。――。ごめんなさいごめんなさい。いわれたとおりにするから。ゆるして。ゆるして。いらないの。くるしい。くるしい。――。ほんとうにいたいの。たすけて。いや。わらいたくない。ごめんなさいごめんなさい……。
 いや、いや、いや。――。くるしい。いたい。ゆるして。ぼくがわるいの。ぼくがわるいの。わるいこをゆるして。ゆるして。おねがい。ゆるして。なんでもするから。たすけて。――。いたい。いや。ごめんなさいごめんなさい……。
 ごめんなさいごめんなさい。ごしゅじんのいうとおりにします。――。いたい。――。くるしい。――。がんばります。――。ごめんなさいごめんなさい……。
 ごしゅじんさま。――。――。――。――。



 無機質な朝が来た。太陽が昇り始めているのが二枚のガラスを通して見える。一枚は窓。もう一枚は目の前にあるショーケース。ぎいと、重苦しい音を出しながら扉が開いた。
「おはよう。早いね」
 ご主人様だ。その姿が瞳に映るのと同時に、ご主人様の声がガラス越しに響いた。
 コツコツと、靴の音を響かせながらガラスのショーケースに近づいてくる。僕は精一杯の笑顔を近づいてくるご主人様に向けた。より可愛らしく、より気に入ってもらえるように。
「今日も可愛いよ」
 そうすれば、ご主人様も笑顔を返してくれる。怖いことは何も起こらない。僕が悪い子にならなければ、恐ろしいことは起こらないのだ。
「今日はお客さんが来るからね。そのときもこの調子で頼むよ、チラーミィ」
 ご主人様の問いかけに、僕は可愛らしげに頷いた。

 ご主人様のお客様は、太陽が東の空から見えなくなる頃にやってくる。お昼時と呼ばれる時間で、ダイニングルームでお食事をとってからこの部屋にやってくるらしい。
 でも、僕は気を抜けない。いつご主人様が現れるかわからないからだ。もしご主人様がこの部屋に来たときにちょうど座り込んでいたらどうだろう。きっと恐ろしい目に遭ってしまう。僕は常に可愛く、置物のようにしていないとだめなのだ。
「ここに色違いのチラーミィがいるけど、あまりガラスにペタペタ触らないでね。おじさんとのお約束だよ」
「うん! 約束する!」
 いつものご主人様の声と、それに答える小さな男の子の声がドア越しに聞こえてくる。きっとそろそろ入ってくるんだ。気持ちを整えて笑顔にならなくちゃ。
 がたんと、ドアノブが引かれて扉が開く。僕はそこを注視した。ご主人様に手を引かれて、まだ背の小さい男の子が目をキラキラと輝かせながら部屋を見渡している。そして僕と目が合うと、より一層瞳の輝きを強めて僕の方に駆け寄ってきた。
「わあ! 本物だあ!」
 彼は僕の入っているガラスのショーケース前までやってくる。遠くで見るよりも彼の身長は低かった。うんと背伸びをして、僕の目と同じ高さまで自分の視線を上げてくれる。僕はいつもご主人様に向ける笑顔を、今日は彼に振りまいた。
「可愛い……。花の首飾りもいいなあ」
 ぽつりと彼が呟く。ご主人様はそうだろう、そうだろうと彼に同調していた。
「花の首飾りは特注品なんだ。特別なんだぞ?」
 昔の僕だったら、きっと首飾りという単語が出ただけで泣き叫んで暴れまわっていた。そう考えると今の僕はとても成長しているように思える。
「ねえおじさん。もうちょっと見ててもいい?」
「ああ、構わない。おじさんは向こうの部屋にいるから、好きなだけ見ておいで」
 ご主人様は僕と彼に手を振って部屋から退出する。
 この部屋には彼一人だけとなった。僕は物だから、人やポケモンとしては数えない。
「えへへ、二人きりだ」
 だから、彼のこの言葉の意味を僕には理解できなかった。首をかしげてわからない、という意思表示をする。彼はそんなことお構いなしのようで、自分の話を続けていた。
「僕の友達も紹介するね」
 彼はガラスのショーケースから数歩離れ、半分ずつ赤と白で塗られた球体を取り出す。真ん中についているボタンを押すとその球体が少し大きくなって、彼の手では少し握り辛そうなものになった。
「ゾロア! 出てきて!」
 球体が開き、そこから光線が発射される。それが少しずつポケモンの輪郭を描いていった。まず、四本足で体を支え、ふさふさとしてそうな尻尾と体より少し小さい程度の頭がそれぞれ形作られる。その頭からピンと尖った耳と、耳の間にクリームのような毛が構成されたら、そのポケモンに色がついていった。
 黒を基調とした毛に、ところどころアクセントのように生えている赤い毛。目元などは赤色で、瞳の水色を際立たせていた。ゾロア、というポケモンらしい。
「こいつはゾロア、よろしくね」
 なるほど、二人きりというのは彼とこのゾロアを数えて二人なのか。それなら納得だ。
 ゾロアはこういう環境に慣れていないのか、キョロキョロと辺りを見渡している。目に映るもの全てに興味を持っているような感じだった。
「ゾロア、ほら、そこのチラーミィが見えるか?」
 彼はゾロアを肩に乗せ、僕の方にまた近づいた。ゾロアの吸い込まれそうな水色の瞳に、どこか懐かしい感触を覚える。
 僕はもう一度二人に向かって微笑みかけた。彼は笑い返してくれる。ゾロアは少し怪訝そうな水色の瞳で僕を見つめていた。
「ん? ゾロアは可愛いと思わない?」
 彼もその瞳に気がついたようだ。肩に乗っけたゾロアに声をかける。もちろん、ポケモンの声が人間に届くことはまずない。それでも声をかけてもらえるゾロアは、幸せ者だと思った。
 ゾロアは何も言わない。ただ僕のことを見つめているだけ。水色の瞳はやはり吸い込まれそうだった。彼もそんなゾロアに構うのは時間の無駄だと思ったのか、また僕の方に首を戻す。
「ねえねえ、くるくる回ってみてよ!」
 僕は笑みを浮かべて彼のお願いに頷くと、くるり、くるりその場で何回か回転してみせた。くる、くる、くるり。
「すごいなあ。尻尾も耳も綺麗だね!」
 彼がおだてるものだから、僕はつい調子に乗って何回も何回も回る、回る。平衡感覚がだんだんと狂ってきて、僕は尻餅をついてしまった。座り込んでいても、まだまだ頭がくらくらする。
 立っていなきゃいけない。
 脊髄がそう命令する。僕はもう一度立ち上がると、少し申し訳なさそうな顔を作って彼の方を向いた。
「いいよいいよ。変なことお願いしてごめんね」
――ああ、彼はなんて優しいのだろう! ご主人様だったら、きっと怒鳴られるくらいじゃ済まなかった。
 ゾロアは、相も変わらず僕に怪訝な瞳を向けている。何かをいぶかしく思っているように。

 彼は何時間も飽きないで僕を見つめてくれた。ご主人様は数十分で僕から離れるから、こんな長時間見られ続けるのは初めてのことだ。
「僕ね、一週間おじさんの家に泊めてもらうんだ。だから、毎日君に会いにくるよ!」
 僕はそれを聞いていつもと寸分変わらない笑顔で頷く。彼もそれに応えてくれる。つまり、問題は起こらない。
「それじゃ、ゾロアも一緒に戻ろう?」
 ゾロアは彼の手が届きそうになるとパッと彼の肩を飛び出し、床に着地して彼と向かい合う姿勢をとった。ぐるぐると低く小さな声で唸っているように見える。
「あー、はいはい。わかったよ。でも僕は先に戻るからね。またあとで迎えに来るよ」
 彼はもうこういうことに慣れっこのようだった。きっと、このゾロアは自分の気持ちを伝えるのが下手なのだろう。
 一人でドアノブをひねって、彼はこの部屋から出ていく。これで今度こそ、この部屋はゾロア一匹しかいない部屋となった。
「この部屋は君一匹だけだね」
 僕は何となしにゾロアに声をかける。この声は可愛さで飾らなかった。だから、この疲れて今にも倒れてしまいそうな声が、今の本当の声。
 ゾロアが彼の肩から降りたから、僕はゾロアのことを目視できなくなった。それはゾロアも同じなようで、少し離れて彼は僕の視界に入る。瞳からは先程までの怪訝そうな色なんて微塵も感じなくて、むしろ心配しているような、そんな優しい色が瞳に映っていた。
「オマエ、悲しくないのか? 自分のことを一匹とも数えないなんて……」
 ゾロアは初めて口を開く。その声はガラスによってくぐもっているが、ちゃんと聞こえた。
「うん。僕は物だから」
 即答。この言葉を使うのにだって、もうなんの抵抗もない。昔は物になんて絶対になりたくなかったけど、今はこの方がいいと思えるくらいになっていた。
 微妙な沈黙が間に流れる。ゾロアには出ていくという選択肢だってあるのに、彼はそれを選ぶような素振りを見せなかった。
「……辛いことがあったんだな」
 そうとだけ言うと、ゾロアは視線を僕から外した。だからといって外に行くわけでもなく、部屋の窓から外を眺めているだけ。その姿は昔どこかで望んでいた優しい父のようだった。
 しばらく、誰も動かないで時が過ぎ去る。それは初めて感じる平凡な時間のようだった。

 ゾロアたちは本当に、毎日毎日会いに来てくれる。僕は無理やりこねくり回して作った笑顔を振りまくだけだったけど、彼の笑顔は本物だ。本物の笑顔だなんて生まれてから一度も見たことはないけれど、多分これがそうなのだろう。
 彼が会いに来てくれる時間は日に日に短くなっていった。それはそうだ。さすがにずっと同じリアクションしかしない物と遊ぶのは苦痛だろうから。
 でも、ゾロアは違う。ゾロアは毎日彼が迎えに来るまで、一日目と同じ時間だけ僕の傍にいてくれた。そんな日が続く度に、僕は昔のちょっとした平凡な記憶を取り戻していく。
 二日目は家族と共に過ごしたちょっぴり幸せな時間を。
 三日目は森の中で一匹、木の実を集めていた時間を。本当に些細なことしかなかったけれど、今の僕と比べてみると、その頃の僕はまだ感情があって、とても幸せそうに見えた。
 三日目の夜。僕は何とも言えない感情が湧き上がるのを感じていた。過去のことを思い出すごとに、目の前のガラスが恨めしくなって、壊したくなって。でも叩けば怖いことがあるから、そんなことはできなかった。力弱く手をガラスに当てることくらいしか、今の僕にはできない。
 四日目。僕はゾロアを見て、その姿と優しかったお父さんの姿を重ねた。少しだけ言葉を交わす。ゾロアは優しく応えてくれた。
 五日目。僕はゾロアともっともっとお話をした。僕は色違いについてぽつり、ぽつりと話す。それを聞いても、ゾロアは僕のことをポケモンだって言ってくれた。僕のことをポケモンと認めてくれたのは彼が三番目だ。お父さん、お母さんに続いて、三番目。彼はにこやかに笑いながら、オマエだってポケモンさと、そう言って認めてくれたのだ。嬉しいと心から感じる。 
 その夜、僕は眠れなかった。枯れたはずの涙が止まらない。床を汚すとご主人様に恐ろしいことをされるから、涙は全部腕で拭って落とさないようにした。
 涙を流すと、苦しいときの記憶も蘇る。同じポケモンに軽蔑されていた記憶。お父さんの悪意の詰まった顔。石化されて、動けなくなったときの深い悲しみ。首筋が赤く腫れたときの記憶。全てなくしてしまいたいけれど、脳裏に焼きついてしまって剥がれることはなさそうだった。
 ゾロアと話していると、そんな苦しい記憶がたくさんあっても、もう一度ポケモンに戻りたいって思えてくる。
 そして、六日目の今日。ゾロアと過ごす日は明日で最後となる。

「チラーミィ」
 不意にゾロアが改まって僕の名を呼ぶ。僕は、何、と短く言葉を返した。
「オマエは、物として命を終えてもいいのか? もう、青い空の下に出られなくても、いいのか?」
 ゾロアのこの口調は優しかったお父さんにそっくりだ。
「……僕はもういいの。全部、無理なことだから」
 嘘だ。本当はずっと夢見てる。この薄いガラスを打ち破って、その外へ出ることを。
「オレは嫌だ。こんなガラスの檻に閉じ込める人間、そしてそれを見て喜ぶ人間の姿を見るのは」
 驚いた。純粋に、そのゾロアの言葉は僕のご主人様とゾロアのご主人様をけなしているようにしか聞こえないからだ。僕なら怖くて絶対に言えないようなこと。でも、ゾロアはさらに続ける。
「これはオレの勝手に他ならない。だが、もう一度考えてみてくれ。オマエは、もう一度ポケモンになりたいのか? このまま物として生を終えても悔いはないのか?」
 ゾロアの眼差しはいつになく真剣だった。その瞳はやはり吸い込まれそうな水色の瞳で、僕が目指していた青色の広大な空を凝縮したかのようだった。
「ポケモンになりたいなら、オレに一つ任せてみないか」
「ううん、物のままでいい」
 思ったことをうまく言葉にできなくて。口から飛び出したのは見え見えの嘘。ゾロアもそれは分かっているようで、はぁ、と一つため息をついた。
「素直じゃないんだな」
 そうとだけ言って、彼はまた窓から外を見つめる。僕が本当の答えを言うまでこうするつもりなのは目に見えていた。
――怖い。
 ゾロアの言うとおりにして、もしポケモンになりきれなかったら。以前の恐怖が蘇る。首筋が疼く。あの音が聞こえる。
「それって絶対ポケモンになれる?」
「五分五分。正直賭けみたいなもんだ」
 ゾロアが軽く笑うように返してくるそれは、一番聞きたくない答えだった。もしもの想像だけが頭の中を駆け巡り、僕にその選択を踏みとどまるよう説得してくる。物のままでいいって、もう期待しちゃいけないって。
 僕は、どうしたらいい? 怖い。こわい。痛い。いたい。そんな気持ちだけがぶくぶくと膨れ上がって、もう手のつけようがないほどにその恐怖心は肥大化していた。
 選択するのが怖い。ゾロアに本当のことを言うのを躊躇う。水色の瞳が恐ろしい。
 だって、失敗したら二度とゾロアに会えないのだ。
 でも、物のままでも、この先ずっとゾロアには会えない。
 一緒にいたい。ゾロアと一緒にいたい。それは僕の中で、唯一信じられる気持ちだった。ほかはまやかしだ。信じるな。僕が信じるのはゾロアだけだ。なら、もう選ぶ道は一つしかなかった。前を向く。ゾロアはもう窓じゃなくて僕の方に向き直っていた。ゾロアが僕を見上げて、僕がゾロアを見下げる。
「ポケモンになりたいのなら」
 一際はっきりとした声が響く。僕は次に続く言葉を待って固唾を飲み込んだ。
「明日。オレとこの屋敷を脱出しよう」
 僕は今の自分にできる本物の笑顔で、うんと頷いた。彼はにっこりと包容力のある笑顔を浮かべて頷き返す。
 あの水色の空を目指して、二匹で駆け出すんだ。



 決行の日、僕はいつもより早い時間に目を覚ました。まだ二枚のガラス越しにも太陽は映らない。そんな早朝。
 目の前にあるガラスに手で触れてみる。薄くて、冷たくて、透明で。そんな物に僕は閉じ込められていたのだと思うと、少し悔しくもあった。
 ぎい、と静かな部屋ではとうるさく聞こえる扉の音が響く。そこにいたのは、あの男の子によく似ている子だった。似ているようだけど、どこか違う。ゾロアがこの前話していた、人間に化けることができるとはきっとこういうことなのだろう。
「ほら、迎えに来たよ」
 彼はそう言って、右手に持った鍵を振り回しながらこちらにやってきた。それはこのガラスのショーケースについている扉の鍵だ。僕が食事やシャワーで外に出るときに鍵の種類を確認して、ご主人様の目を盗んでそれを奪ってきたのだ。その努力が、僕の胸に嬉しさを浮かび上がらせる。
 ゾロアは後ろに回り込んで、かちゃりとガラスのショーケースの鍵を外した。僕は今、この瞬間、あの空を目指して脱出するチャンスを得たのだ。
「さあ、一緒に行こう。見つかっちゃう前に」
 逸る気持ちを押し付けて、僕は慎重にガラスの檻を飛び越えた。音は立てていない。もう胸の動悸が止まらなくて、今すぐにでもはじけてしまいそうだ。
 僕は人間に化けたゾロアに抱きかかえられて、長くの時間を過ごした部屋とお別れする。未練なんてなかった。ここには、怖くて、恐ろしい記憶しか残っていない。離れられるのなら、早く、とにかく早く離れたい。
 扉は開けたままだった。閉じれば音がするのだから当然の判断だろう。もちろん扉を開けたまま、僕らはこの部屋を出ていく。
 ゾロアは足音を立てないように慎重に、しかしなるべく早く廊下を進んでいた。
 廊下を見渡す。ご主人様の趣味は廊下にも反映されていた。高級そうな床のレッドカーペット、窓に取り付けられた純白のカーテン。上を見上げれば、意味のよくわからない紋様が刻まれている。
「さっさと逃げ出そう。誰の目にもつかない、遠く離れたところへ」
 ゾロアの腕の中は、数える程しか経験できなかった温もりで溢れていた。今の僕は、きっと嘘偽りなく幸せだ。
 廊下はまだ続いていく。やけに長い廊下は見つかってしまうのではないかという不安ばかりを大きくさせていった。だから声だって出せやしないし、息をする音さえ殺したくなる。首輪の装飾が掠れる音でさえ煩わしいと思えた。
 やっと出口らしい大きな扉が見える。これを超えれば僕はまたあの美しいの空の下に出ることができるのだ。でも、確率が五分五分だと言っていた割にはやけにあっさりと脱出できたことに少し不安を感じる。
 それも今となっては些細なこと。僕の胸の内は失った感情は嬉しさを筆頭に、どんどん組み直されていくようだった。
 ゾロアが最後の扉を開く。重苦しい音と引き換えに、僕らは自由を手にした。感動はあまりしない。でも、表現し得ない喜びが胸を温めていくのはしっかりと実感できた。
 僕らは、本当に、本物の自由を手にしたのだ。

 外に出て茂みに入ると、ゾロアは光に包まれながらポケモンの姿に戻っていく。屋敷の塀を飛び越え、すぐのところで僕らは今休憩していた。
 空を仰ぐと、広々としている夜空がうんと体を伸ばしていた。僕もそれを見て、真似るように体をうんと伸ばす。東の空からだんだんと赤色に染まっていく。もう少しで朝日が見れるのだろう。
「これからどうしよう」
 ゾロアが呟く。僕の答えは決まっていた。
「一緒にどっかに行こう。一緒に美味しい木の実を食べよう。一緒にたくさんの場所に出かけよう。一緒に水色の空の下で暮らそう。……ほら、こんなにたくさんやりたいことがあるよ」
 僕の方を見てゾロアがそうだね、ってにこやかに笑う。僕もつられて笑顔になった。
「オマエ、今幸せそうな顔してるな」
「そう?」
「おう。今までみたいな作り物じゃない顔をしてる」
 ゾロアには僕が笑顔を作っていたこともお見通しだったようだ。もう何もかもが見透かされているような気さえする。
「まったく。ゾロアにはかなわないなあ」
 他愛もない、平凡な会話。それが僕にとっては初めての経験で、とっても楽しくって。
 ゾロアの頬を尻尾でくすぐってみた。柔らかい皮膚の感触が伝わってくる。こうやって家族以外のポケモンと触れ合うのも、僕は初めてだ。こんな平凡なことも、僕はまだ体験できていなかったんだ。
 ゾロアと一緒になら、どこへだって行けるように思える。今はくすぐったくて身を悶えさせているけど、僕はゾロアがいなかったらこんなこともできなかったんだ。感謝しないといけない。
 一緒にいるから、もうこれからは僕の体の色なんかどうでもいい。僕は、僕だからだ。ゾロアはそう認めてくれる。
 朝日が東の空から顔を出す。はっきりと太陽の暖かさを感じる朝がやってきた。いつもならこの頃にご主人様――いや、あいつが起きてきて僕の体を眺めるんだ。思い出すだけで嫌になってくる。僕はどうしてあんなに長い期間、それに耐えていられたのだろう。
「ゾロア」
 尻尾でくすぐるのをやめて、僕は真剣な眼差しになった。ゾロアはまだ笑い声を上げていたけど、僕が真剣になっているとわかると、すぐにゾロアも真剣になる。
「ありが――」
――。
――――。
――――――。
――――――――。
――――――――――。――――――――――。――――――――――。
――意識は、絶えた。


 僕の桃色の体を見て嘆き悲しむゾロアを、僕はあの水色の空から見守っていた。何が起こったかなんて単純明快。僕は死んだ。あの首輪のせいで。
 ゾロアの言葉が僕の魂に反響する。死の間際に聞き取った、やりたいことがあったんだろという言葉が。
 そう、これから僕はゾロアと共に平凡に暮らしたかった。
 もっと一緒にいたかった。
 ありがとうって、言いたかった。
 でも、死んだ僕にはもう全部無理なことで。
 どうして僕は特別だったのだろう。平凡なことをして、平凡に生きたかっただけなのに。ただ、他のポケモンと同じように生きたかっただけなのに。
 だから、僕は死んでもなお、僕を特別にした自分の体が大嫌いだった。
 
> ガラスを割る反発。それを防ぐ葛藤。 作:逆行
ガラスを割る反発。それを防ぐ葛藤。 作:逆行
 この、なんか、妙な、息苦しい、難解な、疲れる空間が、嫌になったのは、いつからだろう。
 恐らく、最初から嫌だった。嫌だったけど、そのことに、今まで自分で気付かなかった。そんな状況に陥っていたのかも。私の思考は固定されていた。あるいは限定されていた。
 学校がこんなにも嫌いな人は、私だけだろうか。
 学校は、私達を抑圧してくる。みんなと同じ制服を着させられ、似たような髪型になるよう指導される。更に先生達がめいめいに、自分の考えを押し付けてくる。その考えに従わないと、何度でもそれを唱えてくる。
 それだけならまだいい。問題はここから。先生達は、私達を抑圧しておきながら、それでいて、自由に伸び伸び生きろと言ってくる。自分の考えを持てと言ってくる。ふざけるな。自由にさせないのは、そっちじゃないか。矛盾もいい所だ。
 こんなことを垂らしてみると、先生達は何と言ってくるか。それも大体分かる。彼らの普段の言動から、割と安易に想像が付く。
『人はね、完全に自由な環境では、持っている力を発揮出来無いんだ。色々制約があるからこそ、人は能力を最大限に引き出せる。だからね、学校という環境には、幾つものルールが有るんだよ。其のルールの中で君達は行動し、そして考え方や生き方を見つけなさいと言っているんだ』
 こういう意見に付いては、うん、私は、上手いこと反論できない。けれども何か、モヤモヤが残る。引っ掛かるものがある。それは確か。しかし、そのモヤモヤを上手く、言葉に表わせない。悔しいけど、まだ子供だから、頭が追い付かない。論理的思考力というものが、恐らく不十分なのだろう。
 だけど、ちゃんと反論できる頃には、私もすっかり大きくなって、大人の色に染まってしまっていて、この意見に反論する気が、欠片も起きなくなるのかもしれない。だから、幼さが残る今のうちに、何とか反論できるようにしたい。でも、できない。やっぱり難しい。

 ……と、ここまで私なりに、ずいぶんと突っ張ってみたはいいものの、結局大人達の意見を論破することができず、私は途中で勢いがなくなって、ひどく情けない状態になってしまった。はい、いきなり痛々しくてすいません。すいませんすいませんすいません。
 このように私達は、大人達に反論したくても、反論できないことがある。そうして悔しさやモヤモヤした気持ちが蓄積していく。その気持ちを消化するために、不良になる人がいるんだと、私は思う。何とかして反発したい。反論ができないなら、反発をすればいい。
 うん、それも一つも手だと思う。私もその手を使いたい。私だって、悔しさやモヤモヤした気持ちに、堪えきれなくなることがある。時には泣きたくなることもある。だから思い切って、不良になってしまおうかと、度々思うことがある。
 でも、それはできない。私には、それはできない。だって怖いから。悪い子だと思われるのが、堪らなく恐ろしいから。それに、急に変わった私を見て、いったい何があったんだと思われるのも怖い。じろじろ見られる視線も怖い。そんな、自意識過剰な恐怖心。自分でも本当に情けない。でも、本音はこうなんだ。情けないけど、どうしようもないんだ。
 今日、学校のガラスが割れた。放課後、隣の教室から割れる音がした。何人かが見に行ったけど、私は見に行かなかった。なぜなら私は、今日ガラスが割れること、そして誰が割ったのかを、あらかじめ知っていたからだ。ガラスを割った張本人は、今私の隣にいる。その人は明美という名前で、うちの学校の不良の一人だ。
 彼女は反発の意思を込め、ガラスを割った。後にくるしっぺ返しにも怯えず、(私から見たら)正々堂々と行動した。それに比べて私は、心の中では反発したい、ガラスを割りたいという意思があるくせに、いざやるとなると、怖気づいてとてもできない。だから不良以下だ、私は。行動が伴わないのは、一番の格下だ。もちろん、思ってなければいいよ。心の中まで純粋で、逆らおうなんで微塵も思わないで、それでガラスを割らないのは、何の問題もない。というか、それが一番理想だ。けれど私は、思ってるくせにやらない。心が歪んでるくせにやらない。
 不良は反論できない人の逃げ道。その逃げ道からも逃げている私は、いったい何なのだろう。

「長いよ」
 突如私の耳に声が届いた。言ったのは例の、ガラスの割った明美だ。考えごとをそこで止めて、明美の方を見た時、彼女は呆れ顔になっていた。
「あ、ごめん」
「長過ぎるよ、本当に。いつまで考えごとしてんの。まだかなーまだかなーって、私ずっと待ってたんだよ。私何回も読んだのに、全然反応しなかったんだよ、君は」
「どうもー葛藤大量生産です!」
「誉めてねえよ!」
 私は考えごとをすると、よく止まらなくなってしまう。そのまま深く深く考えて、そして周りの音が聞こえなくなる。今のように声をかけられても、気付かないことが結構ある。私のこのくせは有名で、学校中に知れ渡っていた。おかげで私は、「葛藤のメタボリック症候群」などと言う異名が付いた。むしろ痩せてるのに。
「私何話してたか覚えてる?」
 長時間メイクを施したであろう浅黒い肌と、凶器のように鋭く光る金髪も相まって、明美の声はひどく鋭利に感じられる。私はたまにびくっとしてしまう。
「加藤がうざいとか」
「偉い、良く覚えてた! アイツうぜーんだよ。髪の色おかしいとか靴下が変だとかさ。あいつハゲだから私の髪に嫉妬してんの。まじうける。あいつ今頃ガラスの掃除してる!」
「ハハッ、うざいよね、加藤」
 私はいつのまにか、人に好かれるための技術を身に着けていた。誰かが嫌いな人を、一緒になって嫌う。これをすんなりできるようになった。明美と話をする時には、先生の悪口を一緒になって言う。もちろん、先生は呼び捨てで呼ぶ。おかげで私は、不良達からいじめられたりすることもない。いじられることはあるけど、基本的には仲良くやっている。そして私は、成績も結構良くて、表面上は素直を演じているから、先生からもえげつないほど気に入られている。
 不良と先生、両方から好かれるのは難しいのに、私は難なくそれができている。それも、嫌われたくないという気持ちが強いからだ。
 その後、私と明美は話を続けた。明美が話して、私が同調して、それが長々と続いた。私は早く帰りたかった。しかし、そろそろ帰るね、って言うタイミングがなかなか掴めない。私はそれすらも言えないのだ。


 ようやく話が終わり、私は帰宅した。自分の部屋に行く途中、母に晩御飯何がいい? と聞かれた。私は何でもいいと答えた。すると、何でもいいじゃ分かんない、と返された。私は少し困る。本当に何でもいいのだから、これ以外に答えようがない。何か適当に答えとこうか。しかし、なんかそれも恥ずかしい。結局私は黙りこむ。その間に母は、台所に行ってしまった。母の機嫌を少し悪くした。胸がチクリと痛んだ。
 部屋に入って、パソコンを開いた。いつもの呟きサイトにログインした。学校へ行っている間のタイムラインをざっと眺める。授業中に呟ける人はいないから、タイムラインの流れは遅い。そんな中、大量に呟いている人が一人。ポケモントレーナーで、学校に行っていない、あの人だけは頻繁に呟いていた。『ポケモン捕まえたなう』とか、『RTされた分だけ手持ち晒す』とか、そういった事を呟いていた。どの呟きも、トレーナーの生活感がありありと現れていた。 
 私は、この人みたいになりたいと思っていた。すなわち、トレーナーになりたいと思っていた。
 トレーナーになりたいと思う理由は、二つあった。
 一つは、至極純粋無垢な理由。私はポケモンが好きだから。ポケモンと一緒に生活してみたいといつも思っていた。ポケモンの種族名は全て覚えていた。そのポケモンが覚える技も、ほとんど記憶していた。
 授業中も時折、ポケモンのことを考えていた。世界史で瀕死のガリア人が出てきて、ポケモンのことを思い出し、数学でラプラスの定理が出てきて、例の水タイプを思い出し、化学で『電気と静電気の違いは何ですか』と先生に聞かれ、『タイプと特性の違いです』と心の中で答えたりとかしていた。
 もう一つ、理由があった。こっちの理由は、結構複雑だ。

 この世界には二種類の町がある。トレーナーとして旅立つことに肯定的な町と、否定的な町だ。私の町は後者だった。ただし、どちらかと言うと、だ。みんなそんなおおっぴらに、トレーナーになるななるなと、声に出しているわけではない。しかし、胸の内では、嫌悪感を抱いている。トレーナーという存在を、心の中では毛嫌いしている。そんな感じ。
 胸の内で思っているだけでなく、さり気なく態度で示すこともある。先生達はトレーナーの話を滅多にしない。たまに、トレーナーを皮肉るような発言もすることがある。誰かがトレーナーに関する質問をすると、『私はパジャマ替わりに着てます』って、冗談で誤魔化す先生もいた。ポケモンに関係のある授業はあったが、トレーナーとして旅をするための知識を教える授業はなかった。学習指導要領として、必修で定められていたのにも関わらずに。後にこのことが問題となり、夏休みに補修をやることになった。
 ある人の親は、テレビでトレーナーが出ると、チャンネルを変えることはしないけど、テレビのボリュームを五段階くらい落とすらしい。他の家はどうなのかと聞く。どこの家も、トレーナーの話題は出さないと言う。
 住民の様子がこうであるから、当然町の様子もそれに合わせる。ポケモンセンターは昔あったけど、いつの間にか無くなってしまった。今ではそこにしまむらが立っている。フレンドリィショップは一応あるけど、定員が全然フレンドリィじゃない。そして品揃えが最高に悪い。ほとんど便箋しか置いてない。
 なぜみんな嫌いなのか。理由は分からない。昔の風習が残っているのか。そんな風習あったのか。
 とにかくこの町の人達は、トレーナーが嫌いだった。私の父と母も例に漏れず、トレーナーが嫌いだった。嫌いだけど、決して口に出しては言わない。要するに、腫物を扱うような感じになっていた。
 自分のことを棚に上げるけど、思ってるなら声に出して言えばいいのに。やっかいな人達だ。
 そんな町に住んでいるから“こそ”、私は反発したいと強く感じ、トレーナーになってしまえと思うようになったのだ。これが、二つ目の理由。うん、実に複雑だ。
 私は反発心がどこまでも強かった。しかし私は、同時に臆病だった。私には、ガラスを割るのが恐ろしい。トレーナーになりたくても、なる勇気がなかった。だって、確実に嫌われるから。親に怒鳴られるかもしれないし。
 本当なら、十歳で旅に出れば良かったんだろうなあ。その頃だったら、周りの目は気にしなかっただろうし。少数ながらトレーナーになった人はいるから、流れに乗って行けるし。でもぶっちゃけ、十歳で旅なんて私は無理だと思う。なぜできる人がいるのか、不思議でしょうがない。私なんか、初めて一人で電車に乗ったのが、十一歳の時だったし、一人で旅なんかできるわけがない。十五才になった今でギリギリだと感じる。でも今からだと、トレーナーになりづらい。だらだらと五年も学校へ行って、その後にトレーナになるのは、「こいつ将来のことちゃんと計画してんのか」って言われそう。理系クラスに行ったのに、文系の大学を受験するような感じ。そんな理由で、ただでさえなりづらいのに、余計なり辛くなってる。

 ………………。

 …………。

 ……。

 またやってしまった。私は考え込みすぎだ。葛藤を大量生産し過ぎだ。呟きサイトの書き込みから、どんだけ思考を飛躍させてんだろう。時間の無駄遣いにもほどがある。いつの間にか外暗くなってるし。パソコンも付けっぱなしだし。
 葛藤が長いのも問題だ。葛藤して答えが出るならいいけど、答えなんて出たことはなかった。大概は、ずっと悩みっぱなしだった。悩めば悩むほど、悩みは深刻になっていく。何の意味もない作業になる。私は葛藤なんかせずに、スパッと決められるようにならないといけない。

 
 母の晩御飯を告げる声がした。下に降りた。席に座り御飯を食べ始めた。我が家では基本的に食事中はテレビを付けない。だから誰も話さないと、リビングに沈黙が走る。人はみんな沈黙が嫌いだ。私も沈黙は大嫌いだ。沈黙になると、背筋がぞくぞくしてくる。思わずその場から逃げたくなる。
 そんな恐ろしい状態にならないよう、集団では常にしゃべり続ける役目を、誰かが担わなくてはいけない。我が家ではその役目を、私が担ってる。暗黙の了解で。子供である私が、一番空気を読んでいる。
 しかし、今日は珍しく、父が率先して話していた。おかげで私は、あまり話さずに済んだ。会社で良いことでもあったのか。やたらと機嫌の良い父は、アルコールの力も相まって、どんどん口から言葉が湧き出る。
 そして、父はやらかした。勢い余って父は、タブーな話題を出してしまった。
「同僚の子供が、四月からトレーナーになるらしい」
 一瞬だけ、母が顔を驚きの色に染めた。次にふーんと言いながら若干下を向いた。何か言いたそうな目をしていた。
「なかなか積極的なんだなあ。あの家は」
 言いながら父は、口をもごもご動かした。片手で頭を掻いた。母の様子を見て、しまったって思っている筈だ。
「一人で旅するんだもんね。大変よね、いろいろ」
 母は少し嫌味っぽく言った。そして沢庵を箸で掴んだ。
 そこから誰も話さない。リビングに沈黙が走る。沢庵を噛む音だけが響く。あ、これはやばい。この空気の重さは尋常じゃない。学年集会で普段大人しい先生が、みんながうるさいのに切れて怒鳴った時に匹敵する空気の重さだ。
 私の食べるペースが速くなった。早く自分の部屋に戻りたい。米を噛みながら、父親を恨む。全く、勢い付いたからといって、何やってんだろうか。だから私に任せて置けばいいのに。
 実は私は密かに、暴露する覚悟をしていた。トレーナーになりたいと、ぶちまけてしまおうと思っていた。で、父がトレーナーの話題を出した。その後の空気で、あーこれは駄目だ、となった。普通の空気でも言いにくいのに、この状況で言えるわけがない。
 仕方がない。今日は無理だ。言うのは明日にしよう。私はそう決意した。……けど、明日私は言うのだろうか。なんか明日も、言うのは明日にしようって思いそうだ。そうしてどんどん引き伸ばして、一年くらい経ってしまいそう。じゃあいつ言うか? 今でしょ! いや、でも、この空気じゃ。
 全く私は。反発する度胸がないなら、最初からやろうとしなきゃいいのに。ガラスを割る勇気がないなら、最初から割ろうとしなきゃいいのに。打つ気のない銃は、地面に置いた方がいい。


一週間後。
 うん、やっぱりこうなった。未だに暴露をしていない。
 明日にしよう明日にしようと引き伸ばし続け、遂に一週間が経ってしまった。部屋の窓から外を見る。近くの公園に植えてある桜の木が、私に焦りをひしひしと感じさせる。旅立つなら三月中じゃないといけない。桜が咲き終わってからでは遅い。新学期が始まる前の方が行きやすい。
 明日こそは、明日こそは絶対に言おう。言わなきゃ駄目だ。


 一週間後。
 どうして私はこう何だ。なぜ言えない。私はあらゆることに怯え過ぎだ。反発したい気持ちがあるのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思うのに、割る勇気がない。やるやる詐欺の名人芸。もはや笑えてくるレベル。
 自分を嘲るのはよそう。それならさっさとガラスを割れ。桜の蕾はじきに膨らむ。早くしないと間に合わない。じゃあいつ割るか。今でしょ。……でも。
 その”でも”っていうのいらない。私は葛藤に努力値を振り過ぎなんだよ。たまには何も考えないで突っ走ろよ。クズが。
 駄目だ。自己険悪何かしても、何の意味もない。少し部屋を掃除しよう。一度気分を入れ替えよう。
 私は机の中から掃除を始めた。ここが一番汚い。燃えるゴミの袋に入れていいのか、それとも本と同じように重ねて縛らなきゃいけないのか分からず、使い終わったノートがたくさん溜まっている。
 ノートを引き出しから出し、とりあえず重ねていった。それがほとんど終わった時、奥の方から、表紙が破れているノートを見つけた。あっと思った。昔の記憶が、突如として降ってきた。
 ノートの中身を確認する。やっぱりそうだった。これは、私が昔書いた小説だった。
 私は昔趣味で、小説を書いていた。何か良く分からないけど、小説を書くのが好きだった。頭の中にあるのをインプットするのが、なぜだか心地良かった。
 ノートには六作の短編が書かれていた。恐る恐る、最初から読んでみた。字が汚過ぎたけど、何とか読めた。そうして読んでいるうちに、書いていた頃の記憶が次々と蘇ってきた。
 ブラックで残酷。そんな話を書くのが好きだった。私はポケモンを使用した、残虐な話ばかり書いていた。リザードンで町を燃やしたり、ストライクで人を切り刻んだり、やりたい放題やっていた。お前本当にポケモン好きか? と疑われそうなことを書いていた。もちろん、ポケモンは好きだ。それは胸を張って言える。ではなぜ、黒い話ばかり書いていたのか。そういう変態性癖もなかったし。もっと明るい平和な話を書くべきではなかったか。
 やっぱり私は、昔から反発の意思が強かったのだ。世の中に反発したい。逆らいたい。その気持ちが強いから、黒い話ばかり書いていた。やらかし精神が尋常じゃなかった。
 ここに書かれた小説は、誰にも見せなかった。一度ネットの掲示板にでも、投稿しようかと考えたことはあった。しかし、結局投稿しなかった。私は恐れていた。こんな黒い話を書いている作者は、きっと性格も黒いんだろうと思われたくなかった。
 表面上はまじめ、純粋を装っていて、心中では反発の意思を抱いていることは、絶対に内緒にしないといけない。私は内緒にするために、ノートの表紙を破っていた。このノートを、授業用のノートだと勘違いして学校に持っていって、知らないうちに誰かに盗み見され、そして周りに言いふらされることを、警戒していた。表紙を破っていれば、間違えて持っていくこともない。人に好かれるための技術を身に着けていない当時の私は、学校でひどくいじめられていて、かばんの中とか平気で荒らされていたから、盗み見される可能性は十分あった。

 私はどんどん読み進めた。二つの意味で黒歴史であるそれは、私の頬を時折赤く染めた。
 全部読み終わった時、ひどく情けなくなった。今日までこの気持ちを、引き出しの奥にしまっておいた自分を情けなく思った。
 反発したい気持ちがあるのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思うのに、割る勇気がない。
 私はそれを、今度こそ打開する。
 私は決めた。
 たった今、はっきりと決意した。
 明日こそ言おう。トレーナーになりたいと言おう。恐らく駄目だって言われる。うん、それでいい。そう言われればいいんだ。とにかく、言うことが大事なんだ。ガラスを割ろうとすることが、必要なんだ。 

 一週間後。
 どうして私はこう何だろう。何このオチ。良い加減にしなよ。どんだけ引っ張る気だよ。桜の蕾も膨らんできてるよ。早く行動しなさいよ。
 絶対に、今日言おう。自分に言い聞かせ、ベッドから起き上がる。即、私は旅立つための準備をした。決意が歪まないように、あらかじめ準備しておこうと思ったのだ。
 早朝七時。まだ親は寝ている。今のうちだ。音をなるべく立てないよう、こっそりと準備をしよう。
 ……違う! ばれていいんだよ。堂々とやればいいんだよ。どうせ後で言うんだから。駄目だ。私の中で気持ちの矛盾が発生している。
 今できる準備は全て終えた。その後、親に言うべき内容を紙に書いた。それを暗記しようとした。
 不安しかなかった。私の言動が原因で、誰かの心が激しく揺れる。それが堪らなく恐ろしい。思わず体が震えてしまう。
 それでも、無理矢理にでも、言わないといけない。恐らく、駄目って言われるだろう。うんそれでいい。言われればいい。そしたら諦めが付く。決着も付く。
 
 
 ああ! 何で私はこう何だろう! もう夜の九時になってしまった。
 座ってテレビを見てる父。その隣に座ってる私。はい、後は口を開くだけ! 早く言え早く言え。自分を必死に追い立てる。私は遂に口を開けた。父の前で、さっき自分の部屋で、何度も復唱した文を、一字一句間違えずに、落ち着いて、丁寧に、言った。
 言った。私はようやく伝えられた!
 父は一瞬、戸惑った顔をした。それだけで、私の心臓は少し縮む。そして、父は、一呼吸置いてから、言った。
「好きにすればいいよ」
 それは、私が一番言って欲しくない、言葉だった。
「いいの?」
「お前はお前のやりたいようにすればいい」
 次の瞬間、あの嫌な、沈黙が走った。背筋が凍り付く。思わずその場から逃げたくなる。
「好きにすればいい。父さんは何も言わん。お前の人生だ。自分で決めろ」
 呼吸が荒くなるのを、必死で堪えた。私は気付いてしまった。父の口元が、微かに歪んでいることに。その表情は、私の脳裏に鮮明に焼き付いた。
 好きにすればいい。本当にそう思っているのだろうか、って疑ってしまう私は、人を信用しなさ過ぎなのだろうか。何て言ったらいいんだろう、この怖さ。母に晩御飯何がいいと聞かれて、何でも良いとしか答えられない時にも、これと同じ種類の恐怖を感じた。何もない空間に、地図を渡されて放り出されるような。自由なようで、縛られている絶望感。これなら駄目って言われた方が、まだ良かった。安心できるから。
「私もそう思うわ。もう子供じゃないんだから、自分で道を決めなきゃ駄目よ」
 母は微笑みながら言った。でも少しその言葉は、嫌味っぽく聞こえた。
駄目なら駄目って、良いなら良いって、はっきり言ってよ! 怒ってるなら怒ってよ! 私のことを殴ってよ! 私の手を無理矢理引っ張ってよ!
 これ以上、私を怖がらせないで。
 そして、誰もしゃべらなくなった。もはや沈黙は凶器となり、私の胸を思いっきり刺してきた。

 沈黙に堪えきれず、部屋に戻った。頭を抱えて自分を責めた。自己険悪の渦に取り囲まれた。
 せっかく決意したのに。もう悩まないって決めたのに。史上最悪のヘタレですか私は。反発したいと思うのにやらない。ガラスを割る気があるのに割らない。ずいぶんとタチの悪いヘタレだ。何これ。いつまでも甘えてんじゃないよ。好きにすれば良いって言われたんだからむしろ喜べよ。
 懊悩としている私の耳に、うっすらと、唸るような声が聞こえてきた。父の声だ。
「何やってんだよ。お前がちゃんと叱らないからだろ」
「私はちゃんと叱ってたわよ」
「じゃあ何で、あいつはトレーナーになりたい何で言うようになったんだ。最初は冗談かと思ったよ。でも、あいつの目を見たら違ったんだよ」
「あなたがこの間、トレーナーの話をしたからじゃないの」
「何でそれぐらいで気持ちが変わるんだよ。おかしいだろ。やっぱり、お前の教育が悪いんだろ」
「何で全部私のせいなの」
 娘に聞こえないよう、大きい声を出さないように気を配る喧噪は、じわじわ私の心を握り潰してきた。
 全部、聞こえて、いるんだよ。
 ああ、やっぱり! やっぱりやっぱりやっぱり! 
 だから、言えば良いのに。面を向かって言えば良いのに。言えばちゃんと従うから。
 私は耳を塞いだ。声は聞こえなくなった。けれど、さっきの会話が頭の中を駆け巡る。何度でも私を刺してくる。

 助けて。








 今日は桜が満開だった。桜の蕾は見事に開き、棒立ちの木を飾っている。春の生暖かい風に吹かれて、淡い桃色の花びらが華麗に舞い、私はそれに包まれながら歩く。
 空は晴れない。比較的雲量が多く、太陽がほとんど隠れていた。雨が降りそうで降らない、執拗に黒ずんだ中央の雲がうっとうしい。
 ポッポ達が気持ち良さそうに空を飛ぶ。たとえ雲量が多くても、捕まえる人がいない町の空は、さぞかし居心地が良いことだろう。

 この先を真っ直ぐ進む。すると町から抜ける。草むらを通らずに、次の町に行ける道を教えてもらった。そこを通っていく。そしてその町の博士、ではなく、その助手の人が出張で来ているので、その人からポケモンを受け取る。そこでようやっと、私のトレーナーとしての生活が始まる。

 もう振り返らないと決意した。決して前向きな決意ではなく、振り返ってしまうと、後悔するかもしれないからそれで。
 旅立とうかどうか、直前まで悩み続けていた。悩んで葛藤して、答えが出なくて、最終的に、このまま家にいても居辛いし、どうせ辛いなら予定通り旅立った方が良い、というふうに無理矢理結論付けた。家から出る時は辛かった。親と真面に、目を合わすことすらできなかった。気まずいを通り越していた。元気良く旅立つ娘を演じようとしたけど、ちょっと無理だった。
 私は振り返らず、歩いた。歩きながら、ふと思う。私がトレーナーになったことを知って、学校のみんなは何て思うのだろう。何て感じるのだろう。
 もしかしたら、ばれてる? 私が反発の意思を持ってることが、ばれてる? それはまずい。誰か一人にでもばれていたら、みんなに言いふらされる! 私の思考が、見透かされる。私の正体が、暴かれてしまう。

 私は我に帰った。私ったらまた葛藤してる。散々葛藤したのに、まだやるつもりか。体が振り返らなくても、気持ちが振り返っていては仕方がない。考えるのは止めよう。心を無にしよう。

 私はまた歩き始めた。歩きながら、ふと思う。私の親は今この時間、何て思っているのだろう。こんな娘、産まなきゃ良かったって、思っているかもしれない。どうしよう。私帰る場所がない。
 やっぱり私は、止めた方がいいか。親に嫌われてまで、旅に出る必要なんかない。でも、やっぱり行きたい。昔からの夢だったし、反発もしたいし。臆病な自分を振り切りたいし。でも……怖い。
 
 私は我に帰った。おかしい。私の葛藤が終わらない。なんで。どうして。

 私は本当に反発したいのだろうか。もしかしたら、もっと別の、動機があるんじゃないだろうか。ただたんに、学校が嫌いだから、学校に行きたくないから、じゃないのか動機。いや、それは違う。確かに学校は嫌いだったけど、直接的な動機はそれじゃない。私は反発がしたいんだ!
 
 ああもう! 何でまだ終わらないの! くど過ぎるよ! しつこいよ! これ以上引っ張らなくていいから。もう葛藤のHPとっくに切れてる! ただのわるあがきになってる!
 
『あんたには失望したわ。あんたこと仲間だと思ってたのに、この八方美人が。死ねよ。ポケモンに殺されて死ねよ。っていうかあんたがトレーナなんかになれるわけないでしょ。そんなんでポケモンに信頼されると思ってるの。馬鹿じゃないの』
 明美の声が脳内に突如として再生され、私は思わずびくっとしてしまった。あの鋭利な声は私の鼓膜を突き破り、心臓までも突き破ってくる勢いだ。
 うるさいうるさい。明美は関係ないでしょ。何を偉そうに。私のことは私が決める。関係ない関係ない。

 もうわざと引き伸ばしてるでしょ! 私はわざと葛藤を長くして、旅立つのを遅らせようとしてるんだ。もしかしたら親が来て、喰い止めてくれるんじゃないかと、密かに期待しているんだ。馬鹿じゃないの。喰い止められたら、トレーナーになれないじゃん。
 とにかく! もう葛藤止めろ。

 反発したいと思うのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思っているのに、割る勇気がない。私はとんだ矛盾を抱えている。

 それ散々悩んだやつだから! もういいよ! 私はそろそろいい加減にした方がいい。さっさと腹をすえるべきだ。これ以上悩んだって、何の意味もない。何の答えも出ない。

 私は甘いんだよ! 反発したい気持ちなんかで、トレーナーになるなよ。軽率にもほどがあるぞ。いいか、トレーナーっていうのは大変なんだ。そんな軽い気持ちで旅立ったら、この先絶対後悔するからな!

 十分悩んだ! 十分葛藤した! だから全然軽率じゃない! ようやく町から出たよ! 早く行こう! 足止まってるよ! 早く早く早く!

 私は何をやっているの。反発なんかしてどうするの。そんな中二病は今すぐ止めろ。もっと健全な道は行けばいいのに。何でわざわざ横道を通ろうとするの。意味が分からない。

 駄目だ。全然消えない。葛藤する私が、全然消えていかない。どうして私はこう何だ。ガラスを割ると決めたのに、心から強く決心したのに、やっぱりまだ悩んでいる。嫌われるのが怖いんだ。怒られるのが怖いんだ。この臆病者! 仕方ないなあ、私は。
 
 そもそも私は、誰に向かって反発しようとしているんだろう。学校? 親? 世の中? 分からない。何も分かってないんだ私は。自分のことも。何もかも。

 まだ終わらないのか。本当に仕方がないなあ、私は。でも、私は、そうやって生きていくしかないんだ。葛藤して葛藤して、導き出した答えさえも疑って、更に悩んで、そうして出した答えを半信半疑で信じて、そして一歩ずつ、いや0.1歩ずつ、無理矢理進んでいくしかないんだ。
 これから旅をしていくうえで、色々悩むことがあるんだろう。私のことだから、目の前にガラスが現れる度に、私を批判するたくさんの声が聞こえてきて、そしてひどく葛藤するんだろう。それを考えると本当に苦しい。絶望しか感じない。
 私は本当に情けない。反発をする勇気がなくて、それでも反発がしたくなって、しかしできないで葛藤して、結局答えが出ないまま、振り切れないまま次に進む。私は愚かなのだろう。私はなんて駄目な生き物なんだろう。それでも、これから、私はずっと付き合うよ。どうも、葛藤大量生産です。
 
 反発することは正しいのだろうか。何が正しいのか分からない。そもそも、正しいことなんてあるのだろうか。分からない。私は何も分からない。 
 私はこれでいいのだろうか。反発なんかしていいのだろうか。自分の意思で決めたことだ。……でも。
 
> ガラス職人 作:プラネット
ガラス職人 作:プラネット
 男が手を動かす。作業服を身に纏い、不精髭が似合う男。外見だけで言うなれば、四十代であろう。
 そんな男が手にするのは一本の棒。その先端にあるドロドロの液体を見つめて、彼は自分の仲間――ポケモンに指示を促す。
「ブーバー、そのまま火力を上げてくれ」
 ひふきポケモンのブーバーに指示を仰ぎ、ブーバーが火力を調整するように炎を吐く。それに合わせるように男は棒を回転させていく。そしてすぐさま、棒を炎から遠ざけると、
「ヒヤッキー、頼む」
 ほうすいポケモンのヒヤッキーがその言葉を受け、棒の先端に向けて水鉄砲を放つ。一瞬にして、先端は冷却し、固形化する。だが、冷却した固形物を見た男は納得がいかない面持ちで棒を床に叩きつけて固形物を破壊した。
「駄目だな、こりゃ」
 男はため息をつくように、独り言を零す。既に時間は迫っているのだ。これ以上、悩む時間はない。急いで『依頼品』を完成させねばならない。
 彼はガラス工芸職人なのだから。

 しかし、その男も元より職人だったわけではない。
 寧ろ彼はその年になるまで定職にも就けないいわゆるフリーター、という奴だった。ポケモンフードといった生活用品を販売するショップのバイトを長年経験する一支店の店長。だが、そんな生活に飽き飽きしていた。そこへ職人として働いていた父が倒れたという一報が入ったのだ。男は急いで駆けつけた。
 だが、父は仕事が残っていると入院せざる得ない状況でも職場に戻ろうとしたのだ。一流の職人として依頼された仕事は完璧にこなす。そんな父の背を見た男が、父にこう言い放った。
「なら、その仕事を俺にさせてくれ」
 勿論、大激怒された。男自身もなぜそんな事を口にしたのか分からない。ずっと父の背を見て育ったからだろうか。父同様に逃げたくなかっただろう。仕事から。
 だが、それ以上に父の容態はそこまで芳しくなかった。手術をしなければ命が危ういと医者には言われた。しかし、手術をすれば父の仕事はキャンセルしなければならなくなる。
 なら、自分がやるしかないだろうと。
 激怒する父を必死に説得して、一ヶ月依頼主に期限の延長を申し出た。依頼主は元から父と縁のあった人物だったようで、こちらの事情を聞くとすんなりと了承してくれた。だが、それ以上の延期はできないとも通告されてしまった。
 そこからは父と息子の猛特訓である。医者の許可を得て、息子の修行を父が手伝う。ブーバーとヒヤッキーは元々、父のポケモンだったのだが、トレーナーとして修行に出ていた事が幸いして、二匹は割と早い段階で男の指示を受けてくれた。
 しかし、肝心の技術面が深刻だった。作品と手術の期間を考えれば、特訓は出来て二週間。残りの二週間で、男は一人、依頼品の完成をさせなければならない。
 そしてその依頼品はワインボトルだ。運よく、透明のボトルで良かったため、そこまで深い技術は必要なかったものの、それでも必要不可欠と言わんばかりの技術は必要とされた。
 残り三日。男は未だ完成には至っていない。

 床一面には未完成と判断されたワインボトルが散々としている。そしてブーバーやヒヤッキーも、並ではない労力を強いられているせいか、息が絶え絶えだ。男は考える。父ならきっと、効率よく且つ、作業をテキパキ進められるのだろうと。しかし、自分は父とは違うのだ。技術も何もかもが父とは違って足りていない。
 なら、どうすればいいのだろうか。
 男は思案する。しかし、考えは纏まらない。とにかく、作業を再開した。
 だが、無駄になっていくのは時間と労力。そしてガラス作成の原材料。男のストレスはいよいよ頂点に達していた。うまくできない。どうしてだろうか。なぜこうも完成に至らない。そんな時、父の言葉を思い出した。
「作業する時は時間も見てやれ」
 時間。つまりは間合いという事だろうか。
 間合い。タイミング。男はそこでハッと気付いた。自分のテンポはもしかすると全て一段階遅いのでないかと。だから、完成には至らず中途半端にドロドロになってしまうのではないかと。
 僅かな希望に賭けて男が作業を再開した。
「ブーバー、ヒヤッキー、悪いがもう少し力を貸してくれ」
 二匹は快く頷いてくれた。男が再び作業を再開する。
 タイミングは一瞬だ。
 男のタイミングよりワンテンポ早く全ての動作を行う。そこに全意識を集中させていく。一回の出し入れ、冷却で作品は完成しない。何度も炎の中へガラスを入れ、調整し、冷却する作業を続ける。
 形が整い始めてきた。もう少しだ。男はようやくコツを掴めた気がした。

 作品は完成した。手術が無事に成功した父に男は完成品を見せると、父はまたも大激怒だ。まだまだ甘いと。だが、こうも口にした。
「よくやったな」
「親父には敵わない」
「よく言う」
 男はある一つの決意を自らの親に相談する形で問いかけた。
「この職人芸、後を俺が継いでいいか?」
「願い下げだ。どうせ本気じゃないんだろう、好きにしろ」
 父はフン、と鼻を鳴らすように顔を背ける。『好きにしろ』という言葉は構わない、という意味だ。口癖というやつである。
「よろしく頼む、親父」
「せめて師匠と言え!」
 男のガラス職人の道が始まる。あの時の疑問を口にするなら、きっとこうだろう。

 自分も結局のところ、職人なのだからと。
 
> そこはまるでヨスガのようで 作:来来坊(風)
そこはまるでヨスガのようで 作:来来坊(風)
 警察官のイケズは本来ならその休日を妹の趣味であるポフィン作りを手伝うことで潰すはずだった。最もイケズはポフィン作りなど毛ほどの興味もないのであるが「力がある男の人のほうが、混ぜ続けられるでしょ」と妹に言われてしまっては仕方がない、最近コンテストに嵌り始めている妹にイケズはあまり逆らえなかった。
 木の実を集めて、不似合いなエプロンをして、さあ始まりだと言う時に、電話が鳴った。タイミングが良いのか分からないなと呟きながらそれを取ると、まだ自分が新人であった頃、随分と良くしてくれた先輩からであった。
 今では国際警察の構成員でコードネームハンサムと呼ばれている先輩は、随分と真剣に切り出した。
『イケズ、久しぶりで悪いんだが少し頼まれてくれるか?』
「ええ、僕に出来ること出れば何でもしましょう」
 その気持ちに偽りは無かった、事実そのくらいの事を先輩にはされているし。この先輩からの頼みとあれば妹だってさほど機嫌を損ねず送り出してくれるだろう。
『実はエヌがヨスガに現れたと言う情報が入ったんだが、あいにく今俺はホウエンに居る。すまないが俺の変わりに軽くで良いから聞き込みをしてくれないか。警察であるお前なら市民も快く協力してくれるだろう』
 エヌ、と聞いてイケズは一つ唾を飲み込んだ。エヌとは何年か前にイッシュ地方で暗躍した組織である『プラズマ団』の『王様』であり、首謀者のゲーチスと幹部の七賢者が保護された後も逃走を続けている凶悪犯である。
 警官と言う立場にありながら、イケズはそのような大犯罪者は自分と関わりがないと思っていた、しかしここに来て自分のふるさとであり勤務地でもあるヨスガにエヌが現れたとなると気が張り詰める。
「分かりました。しかし先輩もいずれ来るのでしょう?」
『当然だ、エヌを追い詰めるまでは殺されても死なないつもりだ』
 電話を切り、畏まった口調だった兄に対して少し緊張した面持ちで「誰だったの?」と問う妹に、電話の相手があの先輩だったことと、申し訳ないがポフィン作りに付き合えそうにない事を伝えたイケズは、こんな物つけていられるかとエプロンを外すと、ポフィンの完成を夢見てみながら寝床にいるであろう相棒のガーディを呼んだ。


 『長身でグリーンの髪を後ろでまとめた早口の男』制服に着替えたイケズはヨスガの市民にその特徴を伝え、目撃情報を聞いて回ったが、エヌの姿を見たものはいなかった。田舎町であればエヌのような格好は目立ったであろうが、電子メーカーのキャンペーンボーイであるピエロが昼間から堂々と闊歩するこの賑やかな町では彼の姿も紛れるのだろうか。
 日が傾いて、もう町を一周しようかというころになっても、たった一つの目撃情報も得る事はできなかった。こりゃガセネタ掴まされたかな、とイケズは頭を掻いたが。その時ふと西にある建物が頭に浮かんだ。
 いぶんかのたてもの、その建築物は一応は様々な人々が行き交うヨスガシティの象徴とされていたものの、殆どの住人が興味を持っておらず、イケズも子供時代に何度か悪戯で入ったくらいで、物心付いてからは入ろうとすら思っていなかった場所だった。
 まあ、一応、行ってみる価値はあるかも知れない、軽い気持ちでそう思い、イケズはその方向へ足を向けた。


 何度見ても、いぶんかのたてものは陽気で華やかな町、ヨスガには似合わない厳(おごそ)かな外見をしていた。煌びやかな装飾でゴテゴテさせてはいるものの、どことなく寂しくて、見ているこっちが複雑な心境になる。
 扉を押して、一歩踏み込む、赤い長椅子がずらっと並び、正面にある剣を持った若者のステンドグラスが、赤みがかかった日の光に着色をしている。
 扉を閉めると、ぞくり、強烈な違和感に背筋が凍った。
 先程までは聞こえていた、歓声、子供の無邪気な笑い、感嘆、大人が何かに感心する声、大人が我を忘れて笑う声、そういうものが一気に耳に届かなくなった。たてものの中を支配するのは、無音、無音。
 イケズは窮屈でたまらなくなって、扉を開いた。再び聞こえる絶え間ない声にほっとする。
 心を落ち着かせ、今度こそは扉を閉める。ヨスガで育ったイケズにとって、無音こそが落ち着かないものだった。
 この時間帯は何も開かれていないのだろうか、見渡す限り長いすに座っているのは最前列の女性一人だけだった。
 女性は、あたふたと扉を開け閉めしていた警察官に微笑むと、再び正面に向き直り、ステンドグラスを眺めていた。
 イケズは落ち着けと自分に言い聞かせながら、女性の隣に歩みを進め、椅子に座った。
「失礼ですが、今、お時間よろしいですか?」
 こちらを向いた女性に、イケズは一つ息を呑んだ。程々に大きい目に鼻筋通った、端麗な顔つきだった。それでいて艶やかな長髪は大人しいながらもその女性の魅力を引き出している。よく見ればその服装も白がベースの派手さのない物だ。
「ええ、よろしくてよ」
 いかんいかん、警察官が市民にうつつを抜かしてどうする、と頭の中で自分を叱責し、イケズは続ける。
「エヌという人物の目撃情報を求めています。『長身でグリーンの髪を後ろでまとめた早口の男』に心当たりはありませんか?」
「エヌという人物を知ってはいますが、見てはいませんね」
 またか、とイケズは落胆した。どうやら先輩はガセネタをつかまされたらしい。久しぶりに先輩と食事を共にできるかと思ったがどうやら駄目なようだ。
 そうですか、と席を立とうとするイケズに女は続いて言った。
「だけど、きっとここに現れるでしょうね」
 無音なだけに、その声はたてものの中を随分と響きまわってイケズの耳に届いた。始めは意味が分からず、考えをめぐらせたが、やはりよく分からなかった。
「ええと、それはどうしてでしょう?」
「彼のやったこと、存じています。そして彼のやった事は決して人とポケモンの道から外れたことでは無いからです」
 ますます意味が分からない。
「あのステンドグラス」
 女は正面にある巨大なステンドグラスを指差した。右側では剣を持った若者が立っており、左側では折れた剣を握り締めた若者が何かに許しを乞うている。
「あれはトバリの神話なんです。剣を持ってポケモンを狩っていた若者は、逆にポケモンに諭され、その剣を折ると言うもなんですけどね」
 イケズには馴染みのない神話だった。もといそもそもイケズは神話に馴染みなど無い。
「この建物を作った人は、真っ先にこのステンドグラスを設計したそうなんです。それほど思い入れのあるもなんでしょうね」
 一息ついて。
「ところで、ステンドグラスって何の為にあるのかご存知ですか?」
 不意な質問に虚を付かれたが、イケズはそれを知っていた、何年か前にはやった日常生活では先ず役に立たない知識を紹介するテレビ番組で知っていたのだ。
「ええ、文字が読めない人にも神話を伝えるためでしょう?」
「ふふ、正解です」
 笑う女に、イケズは悪い気がしない。
「でも、本当にそれだけですか? 他に理由は?」
 繰り返す質問に、イケズは頭をひねる。
「さあ、綺麗だからですかね」
「そうですね、確かに綺麗」
 女はうっとりとステンドグラスを眺める。イケズもそれに続いた。
 幾許か時間が過ぎて、女が「私は」と切り出す。
「私は、ポケモンにも伝えるためなのではないかと思います。ポケモンだって文字が読めないですから」
 はあ、なるほど、とイケズは答えた。確かにありえる話だが、別にだから何だと言った感じだ。
「そういうこと、考えたことありますか?」
「さあ、あまり」
「あなた、ポケモンは持っていますか?」
 ええ、とボールを取り出す。
「警察官ですから。ガーディをね」
「あなたは、そのポケモンを愛していますか?」
 気恥ずかしい質問だ。
「そりゃまあ、愛しているか居ないかで言えば愛している方でしょう」
「それはどうして?」
 気付けば、女から笑顔は消えていた。
「そりゃ、相棒だからです。強くて、いざと言う時に市民を守れる」
 それなら、と女。
「それなら、強くないポケモンを、愛せますか?」
 ん、と言葉を詰まらせる。
「美しくないポケモンを愛せますか? 賢くないポケモンを愛せますか? 何も無いポケモンを愛せますか?」
 急な質問に答えが出ない、そんなこと考えたことが無かった。
「人と、ポケモンは対等で、助け合う存在。それはトバリの神話も、シンオウの神話もそうなんです」
 女は続ける。
「でも、今の人たちはそれを忘れているんです。自分の都合が悪かったら愛すのを辞め、勝手に自分達のほうが上だと決めて、ポケモンの優しさに漬け込んで増長している」
 そんなことは無い、とイケズは否定しようとした。しかし、上手い言葉が浮かばなかった。
「トバリの神話と一緒、剣を持った若者がポケモンを狩っているんです。エヌの起こした事は確かに犯罪かもしれませんが、その動機は理にかなっているし、人々がポケモンをそうやって扱い続ける限りいつでも起りかねないことです」
 ううん、イケズは唸った。そりゃもちろん、ガーディを愛せるかと聞かれれば、先程のように愛せると言えるだろう。しかし、弱いポケモン。市民を守ることが出来ないかもしれないポケモンを愛せるかと問われれば返答には困る。
「私は、人とポケモンは助け合うことができる存在だと信じています。この建物を作った人だってそう、だからステンドグラスでポケモンに語りかけているんです」
「しかしですね、それとエヌとどういう関係があるんですか?」
 涼しい顔で女は答える。
「私はジョウトの出身なんです。私は体に不自由なところがあったので、ポケモンの力を借りていました。今だってそうです」
 そう言って女が右足を二回ほど叩くと、ももから下の部分がぐにゃりと変形し、二つの目と口が現れた。メタモンだ、メタモンを不自由な場所に化かせるという治療法を聴いた事はあったが見るのは初めてだったので、少し言葉を失う。
「だから私は世間とのズレをずっと感じていました。そして旅行の途中に行き着いたのがここなんです」
 もう一度ステンドグラスを見て。
「私だけでは無く、ここにいる人達の半分は別の地方から来ています。誰もここに来る事を目的にはしていなかったのに、まるで吸い寄せられるようにここに行き着くんです」
 イケズは妙に納得した、確かに、そのような事を考えたことの無い自分はこの場所に違和感を覚える。
「エヌもきっと、いつかここに来ます。確信をもってそう言えます」
 凛とした、女の表情。



 ひどく疲れた。
 イケズが家に帰ったのは日が落ちて直ぐだったが、直ぐにでも布団に潜り込んでしまいたい気分だった。
 妹が、顔色が悪いが大丈夫かと心配したが、大丈夫と答えた。
 そういえば、妹はコンテストに凝っていたが、妹は美しく無いポケモン、可愛くないポケモンを愛せるのだろうか。身内の人間だからきっと愛すだろうと高を括るが自信は無い。
 ガーディーをボールから出して、一つ撫でてから部屋に入る、その時ハッハと息をしていたガーディの口の隙間から見えた牙、その気になれば自分の腕の肉なんて簡単に食いちぎることが出来そうな牙が気分を複雑にした。
 ああ、そうだ、寝る前に先輩に電話をしなければならないのだ。イケズは思い出して、小型のディスプレイに手を伸ばしたが、やめた。
 なんといえば良いのだろう「その情報は恐らくガセネタですが、エヌは間違いなくこの町に現れます」といえば良いのだろうか、よく分からない、もう寝てしまおう。
 横になって目を瞑る。
『ポケモンの優しさに漬け込んで増長している』
 女の言葉が頭を回った。
 ああ、そういえば、ステンドグラスの意味を聞かれたときも『ポケモンのため』などという発想はでてこなかった、それはつまり自然とポケモンを下に見ていたのだろうか。
 あの時、イケズは女に対して『すこし、おかしい』と感じた。
 しかし、こうやって冷静になって考えれば考えるほど、彼女こそが正しい様に思うのだ。
 つまりそれは、自分を含むこの世界の大多数が『すこし、おかしい』事になってしまって。
 やがてイケズはその問答の答えを明日、もしくは明後日、もしくはそれよりずっと後に導き出すことをあいまいに誓って、まどろみに意識を預けた。
 
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