> ガラスを割る反発。それを防ぐ葛藤。 作:逆行
ガラスを割る反発。それを防ぐ葛藤。 作:逆行
 この、なんか、妙な、息苦しい、難解な、疲れる空間が、嫌になったのは、いつからだろう。
 恐らく、最初から嫌だった。嫌だったけど、そのことに、今まで自分で気付かなかった。そんな状況に陥っていたのかも。私の思考は固定されていた。あるいは限定されていた。
 学校がこんなにも嫌いな人は、私だけだろうか。
 学校は、私達を抑圧してくる。みんなと同じ制服を着させられ、似たような髪型になるよう指導される。更に先生達がめいめいに、自分の考えを押し付けてくる。その考えに従わないと、何度でもそれを唱えてくる。
 それだけならまだいい。問題はここから。先生達は、私達を抑圧しておきながら、それでいて、自由に伸び伸び生きろと言ってくる。自分の考えを持てと言ってくる。ふざけるな。自由にさせないのは、そっちじゃないか。矛盾もいい所だ。
 こんなことを垂らしてみると、先生達は何と言ってくるか。それも大体分かる。彼らの普段の言動から、割と安易に想像が付く。
『人はね、完全に自由な環境では、持っている力を発揮出来無いんだ。色々制約があるからこそ、人は能力を最大限に引き出せる。だからね、学校という環境には、幾つものルールが有るんだよ。其のルールの中で君達は行動し、そして考え方や生き方を見つけなさいと言っているんだ』
 こういう意見に付いては、うん、私は、上手いこと反論できない。けれども何か、モヤモヤが残る。引っ掛かるものがある。それは確か。しかし、そのモヤモヤを上手く、言葉に表わせない。悔しいけど、まだ子供だから、頭が追い付かない。論理的思考力というものが、恐らく不十分なのだろう。
 だけど、ちゃんと反論できる頃には、私もすっかり大きくなって、大人の色に染まってしまっていて、この意見に反論する気が、欠片も起きなくなるのかもしれない。だから、幼さが残る今のうちに、何とか反論できるようにしたい。でも、できない。やっぱり難しい。

 ……と、ここまで私なりに、ずいぶんと突っ張ってみたはいいものの、結局大人達の意見を論破することができず、私は途中で勢いがなくなって、ひどく情けない状態になってしまった。はい、いきなり痛々しくてすいません。すいませんすいませんすいません。
 このように私達は、大人達に反論したくても、反論できないことがある。そうして悔しさやモヤモヤした気持ちが蓄積していく。その気持ちを消化するために、不良になる人がいるんだと、私は思う。何とかして反発したい。反論ができないなら、反発をすればいい。
 うん、それも一つも手だと思う。私もその手を使いたい。私だって、悔しさやモヤモヤした気持ちに、堪えきれなくなることがある。時には泣きたくなることもある。だから思い切って、不良になってしまおうかと、度々思うことがある。
 でも、それはできない。私には、それはできない。だって怖いから。悪い子だと思われるのが、堪らなく恐ろしいから。それに、急に変わった私を見て、いったい何があったんだと思われるのも怖い。じろじろ見られる視線も怖い。そんな、自意識過剰な恐怖心。自分でも本当に情けない。でも、本音はこうなんだ。情けないけど、どうしようもないんだ。
 今日、学校のガラスが割れた。放課後、隣の教室から割れる音がした。何人かが見に行ったけど、私は見に行かなかった。なぜなら私は、今日ガラスが割れること、そして誰が割ったのかを、あらかじめ知っていたからだ。ガラスを割った張本人は、今私の隣にいる。その人は明美という名前で、うちの学校の不良の一人だ。
 彼女は反発の意思を込め、ガラスを割った。後にくるしっぺ返しにも怯えず、(私から見たら)正々堂々と行動した。それに比べて私は、心の中では反発したい、ガラスを割りたいという意思があるくせに、いざやるとなると、怖気づいてとてもできない。だから不良以下だ、私は。行動が伴わないのは、一番の格下だ。もちろん、思ってなければいいよ。心の中まで純粋で、逆らおうなんで微塵も思わないで、それでガラスを割らないのは、何の問題もない。というか、それが一番理想だ。けれど私は、思ってるくせにやらない。心が歪んでるくせにやらない。
 不良は反論できない人の逃げ道。その逃げ道からも逃げている私は、いったい何なのだろう。

「長いよ」
 突如私の耳に声が届いた。言ったのは例の、ガラスの割った明美だ。考えごとをそこで止めて、明美の方を見た時、彼女は呆れ顔になっていた。
「あ、ごめん」
「長過ぎるよ、本当に。いつまで考えごとしてんの。まだかなーまだかなーって、私ずっと待ってたんだよ。私何回も読んだのに、全然反応しなかったんだよ、君は」
「どうもー葛藤大量生産です!」
「誉めてねえよ!」
 私は考えごとをすると、よく止まらなくなってしまう。そのまま深く深く考えて、そして周りの音が聞こえなくなる。今のように声をかけられても、気付かないことが結構ある。私のこのくせは有名で、学校中に知れ渡っていた。おかげで私は、「葛藤のメタボリック症候群」などと言う異名が付いた。むしろ痩せてるのに。
「私何話してたか覚えてる?」
 長時間メイクを施したであろう浅黒い肌と、凶器のように鋭く光る金髪も相まって、明美の声はひどく鋭利に感じられる。私はたまにびくっとしてしまう。
「加藤がうざいとか」
「偉い、良く覚えてた! アイツうぜーんだよ。髪の色おかしいとか靴下が変だとかさ。あいつハゲだから私の髪に嫉妬してんの。まじうける。あいつ今頃ガラスの掃除してる!」
「ハハッ、うざいよね、加藤」
 私はいつのまにか、人に好かれるための技術を身に着けていた。誰かが嫌いな人を、一緒になって嫌う。これをすんなりできるようになった。明美と話をする時には、先生の悪口を一緒になって言う。もちろん、先生は呼び捨てで呼ぶ。おかげで私は、不良達からいじめられたりすることもない。いじられることはあるけど、基本的には仲良くやっている。そして私は、成績も結構良くて、表面上は素直を演じているから、先生からもえげつないほど気に入られている。
 不良と先生、両方から好かれるのは難しいのに、私は難なくそれができている。それも、嫌われたくないという気持ちが強いからだ。
 その後、私と明美は話を続けた。明美が話して、私が同調して、それが長々と続いた。私は早く帰りたかった。しかし、そろそろ帰るね、って言うタイミングがなかなか掴めない。私はそれすらも言えないのだ。


 ようやく話が終わり、私は帰宅した。自分の部屋に行く途中、母に晩御飯何がいい? と聞かれた。私は何でもいいと答えた。すると、何でもいいじゃ分かんない、と返された。私は少し困る。本当に何でもいいのだから、これ以外に答えようがない。何か適当に答えとこうか。しかし、なんかそれも恥ずかしい。結局私は黙りこむ。その間に母は、台所に行ってしまった。母の機嫌を少し悪くした。胸がチクリと痛んだ。
 部屋に入って、パソコンを開いた。いつもの呟きサイトにログインした。学校へ行っている間のタイムラインをざっと眺める。授業中に呟ける人はいないから、タイムラインの流れは遅い。そんな中、大量に呟いている人が一人。ポケモントレーナーで、学校に行っていない、あの人だけは頻繁に呟いていた。『ポケモン捕まえたなう』とか、『RTされた分だけ手持ち晒す』とか、そういった事を呟いていた。どの呟きも、トレーナーの生活感がありありと現れていた。 
 私は、この人みたいになりたいと思っていた。すなわち、トレーナーになりたいと思っていた。
 トレーナーになりたいと思う理由は、二つあった。
 一つは、至極純粋無垢な理由。私はポケモンが好きだから。ポケモンと一緒に生活してみたいといつも思っていた。ポケモンの種族名は全て覚えていた。そのポケモンが覚える技も、ほとんど記憶していた。
 授業中も時折、ポケモンのことを考えていた。世界史で瀕死のガリア人が出てきて、ポケモンのことを思い出し、数学でラプラスの定理が出てきて、例の水タイプを思い出し、化学で『電気と静電気の違いは何ですか』と先生に聞かれ、『タイプと特性の違いです』と心の中で答えたりとかしていた。
 もう一つ、理由があった。こっちの理由は、結構複雑だ。

 この世界には二種類の町がある。トレーナーとして旅立つことに肯定的な町と、否定的な町だ。私の町は後者だった。ただし、どちらかと言うと、だ。みんなそんなおおっぴらに、トレーナーになるななるなと、声に出しているわけではない。しかし、胸の内では、嫌悪感を抱いている。トレーナーという存在を、心の中では毛嫌いしている。そんな感じ。
 胸の内で思っているだけでなく、さり気なく態度で示すこともある。先生達はトレーナーの話を滅多にしない。たまに、トレーナーを皮肉るような発言もすることがある。誰かがトレーナーに関する質問をすると、『私はパジャマ替わりに着てます』って、冗談で誤魔化す先生もいた。ポケモンに関係のある授業はあったが、トレーナーとして旅をするための知識を教える授業はなかった。学習指導要領として、必修で定められていたのにも関わらずに。後にこのことが問題となり、夏休みに補修をやることになった。
 ある人の親は、テレビでトレーナーが出ると、チャンネルを変えることはしないけど、テレビのボリュームを五段階くらい落とすらしい。他の家はどうなのかと聞く。どこの家も、トレーナーの話題は出さないと言う。
 住民の様子がこうであるから、当然町の様子もそれに合わせる。ポケモンセンターは昔あったけど、いつの間にか無くなってしまった。今ではそこにしまむらが立っている。フレンドリィショップは一応あるけど、定員が全然フレンドリィじゃない。そして品揃えが最高に悪い。ほとんど便箋しか置いてない。
 なぜみんな嫌いなのか。理由は分からない。昔の風習が残っているのか。そんな風習あったのか。
 とにかくこの町の人達は、トレーナーが嫌いだった。私の父と母も例に漏れず、トレーナーが嫌いだった。嫌いだけど、決して口に出しては言わない。要するに、腫物を扱うような感じになっていた。
 自分のことを棚に上げるけど、思ってるなら声に出して言えばいいのに。やっかいな人達だ。
 そんな町に住んでいるから“こそ”、私は反発したいと強く感じ、トレーナーになってしまえと思うようになったのだ。これが、二つ目の理由。うん、実に複雑だ。
 私は反発心がどこまでも強かった。しかし私は、同時に臆病だった。私には、ガラスを割るのが恐ろしい。トレーナーになりたくても、なる勇気がなかった。だって、確実に嫌われるから。親に怒鳴られるかもしれないし。
 本当なら、十歳で旅に出れば良かったんだろうなあ。その頃だったら、周りの目は気にしなかっただろうし。少数ながらトレーナーになった人はいるから、流れに乗って行けるし。でもぶっちゃけ、十歳で旅なんて私は無理だと思う。なぜできる人がいるのか、不思議でしょうがない。私なんか、初めて一人で電車に乗ったのが、十一歳の時だったし、一人で旅なんかできるわけがない。十五才になった今でギリギリだと感じる。でも今からだと、トレーナーになりづらい。だらだらと五年も学校へ行って、その後にトレーナになるのは、「こいつ将来のことちゃんと計画してんのか」って言われそう。理系クラスに行ったのに、文系の大学を受験するような感じ。そんな理由で、ただでさえなりづらいのに、余計なり辛くなってる。

 ………………。

 …………。

 ……。

 またやってしまった。私は考え込みすぎだ。葛藤を大量生産し過ぎだ。呟きサイトの書き込みから、どんだけ思考を飛躍させてんだろう。時間の無駄遣いにもほどがある。いつの間にか外暗くなってるし。パソコンも付けっぱなしだし。
 葛藤が長いのも問題だ。葛藤して答えが出るならいいけど、答えなんて出たことはなかった。大概は、ずっと悩みっぱなしだった。悩めば悩むほど、悩みは深刻になっていく。何の意味もない作業になる。私は葛藤なんかせずに、スパッと決められるようにならないといけない。

 
 母の晩御飯を告げる声がした。下に降りた。席に座り御飯を食べ始めた。我が家では基本的に食事中はテレビを付けない。だから誰も話さないと、リビングに沈黙が走る。人はみんな沈黙が嫌いだ。私も沈黙は大嫌いだ。沈黙になると、背筋がぞくぞくしてくる。思わずその場から逃げたくなる。
 そんな恐ろしい状態にならないよう、集団では常にしゃべり続ける役目を、誰かが担わなくてはいけない。我が家ではその役目を、私が担ってる。暗黙の了解で。子供である私が、一番空気を読んでいる。
 しかし、今日は珍しく、父が率先して話していた。おかげで私は、あまり話さずに済んだ。会社で良いことでもあったのか。やたらと機嫌の良い父は、アルコールの力も相まって、どんどん口から言葉が湧き出る。
 そして、父はやらかした。勢い余って父は、タブーな話題を出してしまった。
「同僚の子供が、四月からトレーナーになるらしい」
 一瞬だけ、母が顔を驚きの色に染めた。次にふーんと言いながら若干下を向いた。何か言いたそうな目をしていた。
「なかなか積極的なんだなあ。あの家は」
 言いながら父は、口をもごもご動かした。片手で頭を掻いた。母の様子を見て、しまったって思っている筈だ。
「一人で旅するんだもんね。大変よね、いろいろ」
 母は少し嫌味っぽく言った。そして沢庵を箸で掴んだ。
 そこから誰も話さない。リビングに沈黙が走る。沢庵を噛む音だけが響く。あ、これはやばい。この空気の重さは尋常じゃない。学年集会で普段大人しい先生が、みんながうるさいのに切れて怒鳴った時に匹敵する空気の重さだ。
 私の食べるペースが速くなった。早く自分の部屋に戻りたい。米を噛みながら、父親を恨む。全く、勢い付いたからといって、何やってんだろうか。だから私に任せて置けばいいのに。
 実は私は密かに、暴露する覚悟をしていた。トレーナーになりたいと、ぶちまけてしまおうと思っていた。で、父がトレーナーの話題を出した。その後の空気で、あーこれは駄目だ、となった。普通の空気でも言いにくいのに、この状況で言えるわけがない。
 仕方がない。今日は無理だ。言うのは明日にしよう。私はそう決意した。……けど、明日私は言うのだろうか。なんか明日も、言うのは明日にしようって思いそうだ。そうしてどんどん引き伸ばして、一年くらい経ってしまいそう。じゃあいつ言うか? 今でしょ! いや、でも、この空気じゃ。
 全く私は。反発する度胸がないなら、最初からやろうとしなきゃいいのに。ガラスを割る勇気がないなら、最初から割ろうとしなきゃいいのに。打つ気のない銃は、地面に置いた方がいい。


一週間後。
 うん、やっぱりこうなった。未だに暴露をしていない。
 明日にしよう明日にしようと引き伸ばし続け、遂に一週間が経ってしまった。部屋の窓から外を見る。近くの公園に植えてある桜の木が、私に焦りをひしひしと感じさせる。旅立つなら三月中じゃないといけない。桜が咲き終わってからでは遅い。新学期が始まる前の方が行きやすい。
 明日こそは、明日こそは絶対に言おう。言わなきゃ駄目だ。


 一週間後。
 どうして私はこう何だ。なぜ言えない。私はあらゆることに怯え過ぎだ。反発したい気持ちがあるのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思うのに、割る勇気がない。やるやる詐欺の名人芸。もはや笑えてくるレベル。
 自分を嘲るのはよそう。それならさっさとガラスを割れ。桜の蕾はじきに膨らむ。早くしないと間に合わない。じゃあいつ割るか。今でしょ。……でも。
 その”でも”っていうのいらない。私は葛藤に努力値を振り過ぎなんだよ。たまには何も考えないで突っ走ろよ。クズが。
 駄目だ。自己険悪何かしても、何の意味もない。少し部屋を掃除しよう。一度気分を入れ替えよう。
 私は机の中から掃除を始めた。ここが一番汚い。燃えるゴミの袋に入れていいのか、それとも本と同じように重ねて縛らなきゃいけないのか分からず、使い終わったノートがたくさん溜まっている。
 ノートを引き出しから出し、とりあえず重ねていった。それがほとんど終わった時、奥の方から、表紙が破れているノートを見つけた。あっと思った。昔の記憶が、突如として降ってきた。
 ノートの中身を確認する。やっぱりそうだった。これは、私が昔書いた小説だった。
 私は昔趣味で、小説を書いていた。何か良く分からないけど、小説を書くのが好きだった。頭の中にあるのをインプットするのが、なぜだか心地良かった。
 ノートには六作の短編が書かれていた。恐る恐る、最初から読んでみた。字が汚過ぎたけど、何とか読めた。そうして読んでいるうちに、書いていた頃の記憶が次々と蘇ってきた。
 ブラックで残酷。そんな話を書くのが好きだった。私はポケモンを使用した、残虐な話ばかり書いていた。リザードンで町を燃やしたり、ストライクで人を切り刻んだり、やりたい放題やっていた。お前本当にポケモン好きか? と疑われそうなことを書いていた。もちろん、ポケモンは好きだ。それは胸を張って言える。ではなぜ、黒い話ばかり書いていたのか。そういう変態性癖もなかったし。もっと明るい平和な話を書くべきではなかったか。
 やっぱり私は、昔から反発の意思が強かったのだ。世の中に反発したい。逆らいたい。その気持ちが強いから、黒い話ばかり書いていた。やらかし精神が尋常じゃなかった。
 ここに書かれた小説は、誰にも見せなかった。一度ネットの掲示板にでも、投稿しようかと考えたことはあった。しかし、結局投稿しなかった。私は恐れていた。こんな黒い話を書いている作者は、きっと性格も黒いんだろうと思われたくなかった。
 表面上はまじめ、純粋を装っていて、心中では反発の意思を抱いていることは、絶対に内緒にしないといけない。私は内緒にするために、ノートの表紙を破っていた。このノートを、授業用のノートだと勘違いして学校に持っていって、知らないうちに誰かに盗み見され、そして周りに言いふらされることを、警戒していた。表紙を破っていれば、間違えて持っていくこともない。人に好かれるための技術を身に着けていない当時の私は、学校でひどくいじめられていて、かばんの中とか平気で荒らされていたから、盗み見される可能性は十分あった。

 私はどんどん読み進めた。二つの意味で黒歴史であるそれは、私の頬を時折赤く染めた。
 全部読み終わった時、ひどく情けなくなった。今日までこの気持ちを、引き出しの奥にしまっておいた自分を情けなく思った。
 反発したい気持ちがあるのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思うのに、割る勇気がない。
 私はそれを、今度こそ打開する。
 私は決めた。
 たった今、はっきりと決意した。
 明日こそ言おう。トレーナーになりたいと言おう。恐らく駄目だって言われる。うん、それでいい。そう言われればいいんだ。とにかく、言うことが大事なんだ。ガラスを割ろうとすることが、必要なんだ。 

 一週間後。
 どうして私はこう何だろう。何このオチ。良い加減にしなよ。どんだけ引っ張る気だよ。桜の蕾も膨らんできてるよ。早く行動しなさいよ。
 絶対に、今日言おう。自分に言い聞かせ、ベッドから起き上がる。即、私は旅立つための準備をした。決意が歪まないように、あらかじめ準備しておこうと思ったのだ。
 早朝七時。まだ親は寝ている。今のうちだ。音をなるべく立てないよう、こっそりと準備をしよう。
 ……違う! ばれていいんだよ。堂々とやればいいんだよ。どうせ後で言うんだから。駄目だ。私の中で気持ちの矛盾が発生している。
 今できる準備は全て終えた。その後、親に言うべき内容を紙に書いた。それを暗記しようとした。
 不安しかなかった。私の言動が原因で、誰かの心が激しく揺れる。それが堪らなく恐ろしい。思わず体が震えてしまう。
 それでも、無理矢理にでも、言わないといけない。恐らく、駄目って言われるだろう。うんそれでいい。言われればいい。そしたら諦めが付く。決着も付く。
 
 
 ああ! 何で私はこう何だろう! もう夜の九時になってしまった。
 座ってテレビを見てる父。その隣に座ってる私。はい、後は口を開くだけ! 早く言え早く言え。自分を必死に追い立てる。私は遂に口を開けた。父の前で、さっき自分の部屋で、何度も復唱した文を、一字一句間違えずに、落ち着いて、丁寧に、言った。
 言った。私はようやく伝えられた!
 父は一瞬、戸惑った顔をした。それだけで、私の心臓は少し縮む。そして、父は、一呼吸置いてから、言った。
「好きにすればいいよ」
 それは、私が一番言って欲しくない、言葉だった。
「いいの?」
「お前はお前のやりたいようにすればいい」
 次の瞬間、あの嫌な、沈黙が走った。背筋が凍り付く。思わずその場から逃げたくなる。
「好きにすればいい。父さんは何も言わん。お前の人生だ。自分で決めろ」
 呼吸が荒くなるのを、必死で堪えた。私は気付いてしまった。父の口元が、微かに歪んでいることに。その表情は、私の脳裏に鮮明に焼き付いた。
 好きにすればいい。本当にそう思っているのだろうか、って疑ってしまう私は、人を信用しなさ過ぎなのだろうか。何て言ったらいいんだろう、この怖さ。母に晩御飯何がいいと聞かれて、何でも良いとしか答えられない時にも、これと同じ種類の恐怖を感じた。何もない空間に、地図を渡されて放り出されるような。自由なようで、縛られている絶望感。これなら駄目って言われた方が、まだ良かった。安心できるから。
「私もそう思うわ。もう子供じゃないんだから、自分で道を決めなきゃ駄目よ」
 母は微笑みながら言った。でも少しその言葉は、嫌味っぽく聞こえた。
駄目なら駄目って、良いなら良いって、はっきり言ってよ! 怒ってるなら怒ってよ! 私のことを殴ってよ! 私の手を無理矢理引っ張ってよ!
 これ以上、私を怖がらせないで。
 そして、誰もしゃべらなくなった。もはや沈黙は凶器となり、私の胸を思いっきり刺してきた。

 沈黙に堪えきれず、部屋に戻った。頭を抱えて自分を責めた。自己険悪の渦に取り囲まれた。
 せっかく決意したのに。もう悩まないって決めたのに。史上最悪のヘタレですか私は。反発したいと思うのにやらない。ガラスを割る気があるのに割らない。ずいぶんとタチの悪いヘタレだ。何これ。いつまでも甘えてんじゃないよ。好きにすれば良いって言われたんだからむしろ喜べよ。
 懊悩としている私の耳に、うっすらと、唸るような声が聞こえてきた。父の声だ。
「何やってんだよ。お前がちゃんと叱らないからだろ」
「私はちゃんと叱ってたわよ」
「じゃあ何で、あいつはトレーナーになりたい何で言うようになったんだ。最初は冗談かと思ったよ。でも、あいつの目を見たら違ったんだよ」
「あなたがこの間、トレーナーの話をしたからじゃないの」
「何でそれぐらいで気持ちが変わるんだよ。おかしいだろ。やっぱり、お前の教育が悪いんだろ」
「何で全部私のせいなの」
 娘に聞こえないよう、大きい声を出さないように気を配る喧噪は、じわじわ私の心を握り潰してきた。
 全部、聞こえて、いるんだよ。
 ああ、やっぱり! やっぱりやっぱりやっぱり! 
 だから、言えば良いのに。面を向かって言えば良いのに。言えばちゃんと従うから。
 私は耳を塞いだ。声は聞こえなくなった。けれど、さっきの会話が頭の中を駆け巡る。何度でも私を刺してくる。

 助けて。








 今日は桜が満開だった。桜の蕾は見事に開き、棒立ちの木を飾っている。春の生暖かい風に吹かれて、淡い桃色の花びらが華麗に舞い、私はそれに包まれながら歩く。
 空は晴れない。比較的雲量が多く、太陽がほとんど隠れていた。雨が降りそうで降らない、執拗に黒ずんだ中央の雲がうっとうしい。
 ポッポ達が気持ち良さそうに空を飛ぶ。たとえ雲量が多くても、捕まえる人がいない町の空は、さぞかし居心地が良いことだろう。

 この先を真っ直ぐ進む。すると町から抜ける。草むらを通らずに、次の町に行ける道を教えてもらった。そこを通っていく。そしてその町の博士、ではなく、その助手の人が出張で来ているので、その人からポケモンを受け取る。そこでようやっと、私のトレーナーとしての生活が始まる。

 もう振り返らないと決意した。決して前向きな決意ではなく、振り返ってしまうと、後悔するかもしれないからそれで。
 旅立とうかどうか、直前まで悩み続けていた。悩んで葛藤して、答えが出なくて、最終的に、このまま家にいても居辛いし、どうせ辛いなら予定通り旅立った方が良い、というふうに無理矢理結論付けた。家から出る時は辛かった。親と真面に、目を合わすことすらできなかった。気まずいを通り越していた。元気良く旅立つ娘を演じようとしたけど、ちょっと無理だった。
 私は振り返らず、歩いた。歩きながら、ふと思う。私がトレーナーになったことを知って、学校のみんなは何て思うのだろう。何て感じるのだろう。
 もしかしたら、ばれてる? 私が反発の意思を持ってることが、ばれてる? それはまずい。誰か一人にでもばれていたら、みんなに言いふらされる! 私の思考が、見透かされる。私の正体が、暴かれてしまう。

 私は我に帰った。私ったらまた葛藤してる。散々葛藤したのに、まだやるつもりか。体が振り返らなくても、気持ちが振り返っていては仕方がない。考えるのは止めよう。心を無にしよう。

 私はまた歩き始めた。歩きながら、ふと思う。私の親は今この時間、何て思っているのだろう。こんな娘、産まなきゃ良かったって、思っているかもしれない。どうしよう。私帰る場所がない。
 やっぱり私は、止めた方がいいか。親に嫌われてまで、旅に出る必要なんかない。でも、やっぱり行きたい。昔からの夢だったし、反発もしたいし。臆病な自分を振り切りたいし。でも……怖い。
 
 私は我に帰った。おかしい。私の葛藤が終わらない。なんで。どうして。

 私は本当に反発したいのだろうか。もしかしたら、もっと別の、動機があるんじゃないだろうか。ただたんに、学校が嫌いだから、学校に行きたくないから、じゃないのか動機。いや、それは違う。確かに学校は嫌いだったけど、直接的な動機はそれじゃない。私は反発がしたいんだ!
 
 ああもう! 何でまだ終わらないの! くど過ぎるよ! しつこいよ! これ以上引っ張らなくていいから。もう葛藤のHPとっくに切れてる! ただのわるあがきになってる!
 
『あんたには失望したわ。あんたこと仲間だと思ってたのに、この八方美人が。死ねよ。ポケモンに殺されて死ねよ。っていうかあんたがトレーナなんかになれるわけないでしょ。そんなんでポケモンに信頼されると思ってるの。馬鹿じゃないの』
 明美の声が脳内に突如として再生され、私は思わずびくっとしてしまった。あの鋭利な声は私の鼓膜を突き破り、心臓までも突き破ってくる勢いだ。
 うるさいうるさい。明美は関係ないでしょ。何を偉そうに。私のことは私が決める。関係ない関係ない。

 もうわざと引き伸ばしてるでしょ! 私はわざと葛藤を長くして、旅立つのを遅らせようとしてるんだ。もしかしたら親が来て、喰い止めてくれるんじゃないかと、密かに期待しているんだ。馬鹿じゃないの。喰い止められたら、トレーナーになれないじゃん。
 とにかく! もう葛藤止めろ。

 反発したいと思うのに、反発する度胸がない。ガラスを割りたいと思っているのに、割る勇気がない。私はとんだ矛盾を抱えている。

 それ散々悩んだやつだから! もういいよ! 私はそろそろいい加減にした方がいい。さっさと腹をすえるべきだ。これ以上悩んだって、何の意味もない。何の答えも出ない。

 私は甘いんだよ! 反発したい気持ちなんかで、トレーナーになるなよ。軽率にもほどがあるぞ。いいか、トレーナーっていうのは大変なんだ。そんな軽い気持ちで旅立ったら、この先絶対後悔するからな!

 十分悩んだ! 十分葛藤した! だから全然軽率じゃない! ようやく町から出たよ! 早く行こう! 足止まってるよ! 早く早く早く!

 私は何をやっているの。反発なんかしてどうするの。そんな中二病は今すぐ止めろ。もっと健全な道は行けばいいのに。何でわざわざ横道を通ろうとするの。意味が分からない。

 駄目だ。全然消えない。葛藤する私が、全然消えていかない。どうして私はこう何だ。ガラスを割ると決めたのに、心から強く決心したのに、やっぱりまだ悩んでいる。嫌われるのが怖いんだ。怒られるのが怖いんだ。この臆病者! 仕方ないなあ、私は。
 
 そもそも私は、誰に向かって反発しようとしているんだろう。学校? 親? 世の中? 分からない。何も分かってないんだ私は。自分のことも。何もかも。

 まだ終わらないのか。本当に仕方がないなあ、私は。でも、私は、そうやって生きていくしかないんだ。葛藤して葛藤して、導き出した答えさえも疑って、更に悩んで、そうして出した答えを半信半疑で信じて、そして一歩ずつ、いや0.1歩ずつ、無理矢理進んでいくしかないんだ。
 これから旅をしていくうえで、色々悩むことがあるんだろう。私のことだから、目の前にガラスが現れる度に、私を批判するたくさんの声が聞こえてきて、そしてひどく葛藤するんだろう。それを考えると本当に苦しい。絶望しか感じない。
 私は本当に情けない。反発をする勇気がなくて、それでも反発がしたくなって、しかしできないで葛藤して、結局答えが出ないまま、振り切れないまま次に進む。私は愚かなのだろう。私はなんて駄目な生き物なんだろう。それでも、これから、私はずっと付き合うよ。どうも、葛藤大量生産です。
 
 反発することは正しいのだろうか。何が正しいのか分からない。そもそも、正しいことなんてあるのだろうか。分からない。私は何も分からない。 
 私はこれでいいのだろうか。反発なんかしていいのだろうか。自分の意思で決めたことだ。……でも。
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