> あの空を目指して 作:ホープ
あの空を目指して 作:ホープ
 僕はずっと自分の体が大嫌いだった。
 人間が通ることもほとんどないような険しい山。頂は一年を通して雪を被っている。そんな背の高い山の中腹あたりにある原っぱに、僕らの集落はあった。みんなで協力して木の実をとってきたり、寒いときはみんなで体を寄せ合いながら仲良く暮らしている。
 ここに住んでいるみんなは大きな耳と瞳に、体と同じくらいのふさふさの尻尾、そして灰色の体毛を身にまとっている。朝なんかはお互いに尻尾で相手の体を撫でたりしているようだ。体毛は丈夫で、極度のストレスでも抜け落ちるようなことはない。僕もみんなと同じような瞳、耳、尻尾をもっているけど、一つだけ違うことがあった。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
「あっ」
 隠すつもりもないであろう悪意が、僕の体を押し倒す。そこにいたのは僕と同い年で同じ形のポケモン二匹。その目には軽蔑の色が刻まれていた。何か悪口を言われるのが嫌で、僕はすぐ彼らに向けた視線を地面へと戻す。
「あーあ、手が汚れちゃったよ」
「水を飲むついでに川で洗えば大丈夫でしょ」
「はは、それもそうだな」
 悪びれる様子もなく彼らは僕から遠ざかっていく。こんな仕打ちも、小馬鹿にしたような笑い声も、僕はもう慣れてしまった。この程度では涙すら出てこない。
 二匹の声が聞こえなくなったのを確認してから立ち上がって、体についた土の汚れを尻尾で叩き落とす。そのせわしなく動く尻尾とちょっと汚れている体を見ていると、やっぱり僕はみんなと違って特別なんだと思い知らされた。
 僕の体毛は灰色ではない。生まれたときからこうで、別に何か特別なことをしたわけでもないのにこの色だった。お父さんが理解のあるポケモンだったから僕は今生きていられるけど、もし気味悪がられたら生まれたばかりの頃に僕は死んでいた。今考えればその方が幸せだったかもしれないけど。
 そして、僕はみんなから忌み嫌われている。大人たちからは白い目で見られ、同い年の子供たちからは暴力、悪口を受ける日々。僕は何もしていないのに、ただみんなと毛の色が違うというだけでこんな仕打ちを受けてきた。
 ご飯の木の実だって、集落の食料集めを担っているポケモンは僕の分だけとってこない。この集落のみんなに、僕のことは含まれていないからだ。
 小さい頃はお父さんがとってきてくれていたけど、いつまでもそれに頼っているわけにもいかないから、最近は自分で木の実をとりに行っていた。
 今もそれに向かう途中だ。普通の子供ならおやつを食べているような時間に、僕は一匹で誰も入らないような急斜面にある森の中へ踏み入っていく。この時間帯なら誰にも顔を合わせることはない。昼間に安堵できる唯一の時間だった。

 木の実を何個か口に入れてお腹を満たし、夜に食べる分を一つ右手に抱えて集落に戻る。僕を育ててくれたお父さんやお母さんには心配をかけたくないから、僕は集落に戻らなければいけない。
 森を抜けると、西の空はもう真っ赤になっていた。東の空からは漆黒が迫る。それが混ざり合った空の真上は、僕の体毛と同じような色をしていた。同じような、少し暗い桃色。僕の大嫌いな色だ。
 ほのかに赤く染められた原っぱを歩く。足音を立てないように、見つからないようにうつむきながら進む。他のポケモンとは会いたくない。
 そのときだった。一つ、二つと縦に長く伸びた影がうつむいた視界に映ったのは。はっとして顔を持ち上げると、何匹かはわからないくらいたくさんのポケモンがいた。もちろん、みんな僕と同じ形をしている。それは集落にいるポケモン全員のようにも思えた。
 僕は歩みを止め、もう一度視線を下に向ける。僕と彼らの間には彼らの伸びた影しかない。その影の一つが、一歩前に出る。影の持ち主であるポケモンの顔を見ると、そこには信じたくない光景が広がっていた。。
 体中が赤く腫れていて、顔には爪で引っ掻かれたような切り傷がいくつも広がっているそれの瞳には生気がなく、そのポケモンを僕のお父さんだと理解するのには数秒の時間がかかった。
 お父さんは一歩、また一歩と僕の方へ近寄ってくる。お父さんが僕に何かをしようとしているのは明白だった。得体の知れない恐怖、嫌悪感がこみ上げてくる。
 手を伸ばせば、尻尾を伸ばせば僕の体に触れられるというところで、僕のお父さんは足を動かすのをやめた。そして、口をかすかに動かす。言葉は聞こえなかった。けれど、何かとても辛いことを吐き出しているように聞こえて、さっきの恐怖がどんどんと大きくなっていく。
「ここから、出て行け」
 今度はしっかりと聞こえた。聞こえた。意味はわからなかった。わかりたくなかった。放心したまま動かない僕。後ろの観衆がざわざわと騒ぎ立てる。お父さんの後ろにある夕日が激しく揺れていた。
「この集落にいると邪魔なんだ! どっか行ってくれ!」
 信じられないその言葉は、顔面への鈍い痛みで本当のことだと思い知らされた。お父さんの尻尾が顔に叩きつけられた衝撃で、僕は原っぱに身を打ち付ける。肺を圧迫されて息が少し漏れた。でもまだ信じたくなくて、僕はお父さんの顔を見る。
――そこには、隠しきれないほどの悪意が滲んでいた。
 そして悟る。僕はもうここに居る必要なんてないんだって。
 僕は駆け出す。叩きつけられた姿勢から後ろ足に力を入れて、森の暗闇を目指した。多少バランスが崩れたって、無様な姿を観衆に晒したって、手を地面につけて僕は一目散に走り抜ける。
 後ろから聞こえる沸き立つみんなの歓声、夕日を浴びて伸びる僕の影、ぼやけた視界に映っては消える大嫌いな色の手。流れ落ちる涙を拭うことすらできないで、僕はただ走った。

 急斜面の森で体を枝に引っ掛けても、木の葉にぶつかって擦り傷を作ろうとも、僕は足を止めなかった。止めたらきっとその場に崩れてしまう。そんな確信に似た予感があったから。
 もう息を吐き出すのも吸うのも辛い。転がるように進む体に鞭打って、あと少しあと少しと言いながら、僕は感情が溢れて止まらなくなるそのときを先延ばしにした。
 山を駆け下りて斜面が緩くなってきたのを感じると、僕は身を隠すのにちょうど良さそうな茂みを見つけて隠れる。ぜえぜえと息が上がっている。体中が燃えたように熱かった。
 息は全然整わないのに、涙が止まることはない。もう何がなんだかわからなかった。思い出すだけで胸がはち切れそうになる。
 お父さんの鋭い言葉は、僕の心をズタズタに引き裂くのには十分だった。唯一の心の拠り所だった家族にすら僕は見捨てられたんだ。例えそれが暴力によって無理やり紡ぎ出された言葉だったとしても、それはお父さんが僕よりも自分と家族の安全を優先したという事実になる。僕が邪魔者だったのは知っているけど、直接ぶつけられたその真実は、思っていたものよりもずっと痛かった。まだ残っていた心の脆い部分を抉るように、その事実は僕に強くのしかかる。
 お父さん、お母さんだけは信じていたのに。きっと僕を守ってくれると思っていたのに。
 ああ、僕はなんで生きているのだろう。どうして、僕は特別な体で生まれたのだろう。
 僕はもう外敵に見つかって殺されてもいいから、大声で泣きたかった。でもそんな泣き喚く力だって残ってなくて。結局漏れるのは嗚咽だけ。
 茂みの外にもこの押し殺した声はきっと聞こえている。でも食べられるなんて気にする必要はない。僕が死んで悲しむポケモンは、もうどこを探したっていないんだ。そう、世界中どこを探しても。

 どのくらい時間が経過したのだろう。少し冷静になって泣き腫らした目を開けると、地面はぐっしょりと湿っていて、僕はまだこんなにも泣けたのかと逆に驚いた。涙なんてとうに枯れてしまったと思っていたから。
 宵は深まる。茂みの中からでも空のてっぺんに月が浮かんでいるのがわかった。白色の輝かしくも少し鈍い光が、僕と同族のポケモンたちの体毛に似ている。
 胸がぽっかりと空いてしまったようで、僕はもう悔しさも憎しみも怒りも感じない。ただただ、大きすぎる悲しみの海が全てを失った胸を満たしていた。
 何もしたくない、動きたくない。仰向けになって大の字に転がった。茂みの枝が僕の体をつつく。痛かった。
 全身を気だるさに包まれていたからだろう、遠鳴りに聞こえる誰かの鋭い悲鳴を聞いたって、体を動かす気にはなれない。何回も悲鳴を上げながらそれが近づいてきても、僕はそのままの姿勢を保っていた。
「みぃっ!」
 だから、それがこの茂みに飛び込んできてもそんなに大きな反応を返すことはない。悲鳴を上げたのは飛び込んできたポケモンの方だ。僕はちょっとそのポケモンの方を向いただけ。
 背中は草のような緑でしっかりと覆われており、上から見下ろしただけではただの雑草と混じってしまうくらいに草らしい姿をしている。両耳の横にちょこんとついた赤色の花、そしてお月様よりも真っ白で綺麗な顔の肌。そのポケモンは僕の方を少し見ると、また可愛らしい声を上げながら縮こまってしまった。許して、と懇願しているようにも見える。何に恐れているのだろう。僕なんかを恐れる必要なんかないのに。
――寝転んでいる僕の真上を何かが通過した。風を作り出し、それが僕の毛を撫でる。今までで一番の悲鳴がそのポケモンの体から放たれていた。
 次の瞬間、そのポケモンは消えた。代わりにあるのはそれとそっくりな鈍い色の彫刻だけ。
 つまり、考えられることはひとつだけだった。僕はすぐそれに気づいたけれど、でも、こんなこと、認めたくない。認めない。
「はっ、ようやくあたってくれたか」
 後ろ――先ほどの何かが放たれた方――から少しにやけを含む嘲笑が聞こえる。その声に込められた悪意は、集落のポケモンが僕に向けていたものと何ら代わり映えしなかった。瞳にもきっと化物のような醜い感情の色が浮かんでいるのだろう。
 彫刻はどうも悲鳴を上げているように見えて、見ていたくなかった。そこにいたポケモンがどうなったのかを考えるのが怖くなって、僕はそれから目を背けるように立ち上がる。自然に声の主と顔を合わせることとなった。
「ほう、色違いのチラーミィか。これもついでだ」
 その人間は腕につけた装置を僕に向ける。瞳には、悪意なんて篭っていなかった。何も感じていない。僕らが木の実を取るときと同じ目をしていた。ただの作業としか認識していないときの瞳。
 光線が放たれた。きっとこれを受けたら僕の意識は途切れるだろう。至近距離で放たれたそれを避けるなんて僕には難しくて。
 ただ、色違いという言葉が僕の耳を貫いて離さなかった。



――目を開けると、よくわからない世界に僕は身を置かれていた。どうしてこんなところにいるのだろう。
「写真撮れました」
 目の前にあった黒色は、黒い服を着た人間だったようだ。そいつがそこをどくと、一面は真っ白な世界になっている。真っ白? いや、灰色。この色は集落のポケモンの色によく似ていた。
 人がいるのだからまずは茂みか何かに隠れるべきだ、という本能が今更起きてきたようで、脳が体に命令を下す。でもそれとは裏腹に、足が足音を立てることも、腕が地に付くこともない。
「了解。戻せ」
 何も分からず、思い出せないまま――。



 次に目が覚めたところでは、黒い棒が等間隔で僕を囲っていた。体も動かせるようで、足を地につけているという感覚がある。そよぐ風を感じて辺りを見渡してみると、ここは僕がよく知っている自然の世界だった。黒い棒の隙間から覗く世界は、僕の知っているそれとは少し違ったけれども、ここにあるものが自然であることに変わりはない。風はそよぎ、草花は生い茂っている。花は規則的に植えられていて、とても綺麗だ。
「注文していた品は用意した。檻の中を確認しろ」
 体が宙に浮いたかのような錯覚を受けたあと、僕の足に少し強い衝撃が走った。どしん、と辺りに少しうるさい音が響く。視界はいつもの高さに戻っていた。
 憎たらしくて、吐き気を催すような顔をした男が僕に近づいてきた。怖くて、僕は後ろに後ずさる。黒い棒に当たると、僕は観念したかのようにその場に座り込んだ。
「確かに注文したのはこれだ。ご苦労さん。金はそこのアタッシュケースの中に入っている。そっちも確認してくれ」
 僕の後ろにいた男はアタッシュケースを開くために、僕の傍から離れていく。その男が中に入っている大量の紙切れを確認すると、彼はそれを持ってまた戻ってきた。気色の悪い男は僕の目の前に立って、何かを選別するような眼差しで僕を見つめていた。
「取引成立だ。そこのチラーミィは好きにするがいい」
 アタッシュケースを持った男が軽やかに地面を蹴り飛ばしていく。その後、目の前の男が獲物を捕まえたかのような瞳をしたから、僕はあの人間から別の人間に渡されたのだと確信した。ただの紙切れと交換して。そんな事実を聞いたって、思った以上の悲しみはやって来なかった。
 小さな頃から蔑まれ、親以外に甘えられず、僕は集落の仲間外れにされていた。この頃はまだ涙が溢れて止まらなくて。信頼していた親にさえ捨てられ、その夜のうちに僕は人間に捕まり、今は売り物として下品な笑い声を上げる男の前に差し出されている。僕が受け止め切れる悲しみはもう限界を突破してしまったようで。
 もう僕の胸は悲しみの海すらも枯渇して、なくなってしまった。残ったのはぽっかりと空いた大きな穴だけ。
 そんな心じゃ、僕は何も感じない。怖くない。悲しくない。怒れない。ああ、下品な声が響き渡る。僕はこんな男にすら物として扱われてしまうのだろう。でも、感情のなくなった僕にとって、その事実は至極当然のように思えた。
「さあ、こいつをどこに飾ろうかな」
 視界が高くなって、地面に押し付けられる感触を味わう。空を仰いでみたら上は真っ黒な空で、その空はジャンプすれば届きそうなほど近かった。

 辺りにあるもの全てが高級そうに黒光りしている。四足の木でできた座りやすそうなものや、ものを置くのに便利に見えるものたち全てが。床には幾何学的な模様が刻まれていた。どこを見渡しても繊細で優雅なものしか置いていなく、だからこそ、この台の上にあるそれがとても目立った。
「ガラスのショーケース。気に入ってくれたかな? ここが君のお部屋」
 そのショーケースと呼ばれたものは四方も天井も透明な壁で囲まれており、僕を隠してくれるような障害物は見当たらなくて、その中はどうにも狭そうで。そこに入ったときが僕の最期なんだって直感的に理解した。そう分かっても、無駄に足掻くつもりはない。死ねるならもうそれでいい。
 また足に大きな衝撃、でも視界はそこまで低くならなかった。ガラスのショーケースと同じ台に置かれたようだ。しばらくすると、あの男が目の前に現れた。醜悪で、醜くて、僕を物としか見ていない瞳を持ったその男が。
 にやり、と吐き気を催すような笑みを浮かべるそいつの右手には、何か小型の機械が握られていた。
 男の顔を見るのが嫌で耐え切れなくなって、そっぽを向こうと思ったとき、男が手に持った機械の摘みを回す。それに呼応するように僕の体に異変が起こった。足が、腰が、手が、動かなくなっている。首も動かせなくなっていて、何が起こったのかを確認しようにも下を向けなかった。
「石化装置ってちゃんと使えるんだな。意外」
 男は怪訝な顔をしながら手に持った機械を眺めている。僕はそれを見つめることしかできなかった。ただ、動けない置物のように。実際に僕は動けない置物だ。
 男は僕の目の前にある黒い棒でできた扉を開けた。視界が一気に良好になる。そのせいで、男の右手には機械の他に、直線になっている花飾りが握られていることに気がついた。ちょうど僕の首くらいの長さをしている。
「抵抗するなよ。まあ、できないだろうがな」
 だんだんと僕の方に汚らわしい手をを近づけてくる。じわり、じわりと獲物に近づく肉食のポケモンのように。
 ここまで接近されて、僕は久しぶりに逃げたいと感じた。どうしようもなく腹から湧いてくる恐怖を全身で味わった。でも僕は何もできない。できない。できない。
 男の手が口の少し下に触れた。その下にも触れているようだけど、ありがたいことに感触は何も伝わってこない。
 しばらくして、首元で何かの金属がぴったりとはまる音がする。それはやけに大きく聞こえた。まるで僕が物に成り下がったことを嘲笑うように。首輪、似合っているぞと男は呟く。それで僕はこれが首輪なのだということを理解した。
「それじゃ、おうちには自分で入ってもらおうかな」
 男はまた手元の機械の摘みを回す。ふっと体から力が抜けるような脱力感。耐えられずにその場に座り込んでしまう。首に取り付けられた首輪の表面は花飾りなのに、首に接している部分は石のように硬くて冷たい。少しだけ圧迫されるから、意識しないと息が吸えないような気がする。
「ほら、この奥にあるガラスのショーケースに自分から入ってくれ」
 確かに、この扉をまたいで、少し進んだ先には無機質なショーケースが置いてあった。あれに入れば、僕はもう完全に物となる。ポケモンでいられるのは、僕がそれに入るまでの間だけ。僕は親に従う子供のように足を踏み出した。
 一歩。僕は少しポケモンから離れ、扉を跨ぐ。一歩。一歩。今の僕は歩くことしかできない。歩くことで、僕はポケモンから離れ、物にならないといけない。
「もう少しだぞ」
 男の憎たらしい声が痛いほど耳を貫く。周りに置いてあるものは、男と同じように目障りで消えて欲しいほど、黒く光って自己主張をしていた。
 一歩。ポケモンよりも物に近くなる。
 下を向くと僕の桃色の足が視界に映り込んだ。
 この足の色だって、体だって、本来なら灰色の体毛で生まれるはずだった。もうそんなことはどうでもいいけど。でも、できることなら灰色に生まれたかった。
 一歩。
 また前を向くと、この嫌な空気が充満した世界はぼやけて見える。そう、尽きたはずの涙が溢れていた。
 一歩。
 僕が他のポケモンのように生きるだなんて願いはとうの昔に諦めているつもりだった。でも、諦めきれてなかった。
 一歩。
 もう一歩踏み出せば、僕のポケモンとしての命は終わる。最期が差し迫っていた。でも、まだ死にたくなかった。
 最期の一歩はまだ踏み出さずに、僕は止まった。今まで言葉で表せなくて、声にならなくて、胸の底に沈んでいた願いが今、見つかったから。
――もっと普通に生きたい!
 胸を満たすほどたくさんの悲しみを全部流してやっと、見つけた。
 空を見上げる。幾何学的な空も、少し頑張れば届きそうなほど近かった。もっと遠いところにある空を見たい。でも今駆け出さないと、僕はずっとこの小さな空の下にいないといけなくなる。
 覚悟を決めろ!
 意を決して、僕は男の方を向いた。男はちょっと驚いた目をしたように見える。無様でも、格好悪くても一生懸命に駆け抜けて、あの空を目指すんだ。
 思い切り走り抜け、男が手に持っている機械にめがけ飛び跳ね、尻尾を使ってそれを叩き落とす。叩き落とそうとした寸前に、僕の体の自由が効かなくなっていって、あれ、あれ。

 次に体が動いたときには、僕はガラス越しの世界しか見えなくなっていた。物となった。
 胸に残った最後の願いすらもどこかにいってしまったようで、僕は不思議と悲しくない。ただ、ガラス越しに見る世界はとても滲んでいた。



 いたい。いたい。くびがいたい。――。もういやだ。わらいたくない。くるしい。くるしい。やめて。いたいの。やめて。――。ごめんなさいごめんなさい。いわれたとおりにするから。ゆるして。ゆるして。いらないの。くるしい。くるしい。――。ほんとうにいたいの。たすけて。いや。わらいたくない。ごめんなさいごめんなさい……。
 いや、いや、いや。――。くるしい。いたい。ゆるして。ぼくがわるいの。ぼくがわるいの。わるいこをゆるして。ゆるして。おねがい。ゆるして。なんでもするから。たすけて。――。いたい。いや。ごめんなさいごめんなさい……。
 ごめんなさいごめんなさい。ごしゅじんのいうとおりにします。――。いたい。――。くるしい。――。がんばります。――。ごめんなさいごめんなさい……。
 ごしゅじんさま。――。――。――。――。



 無機質な朝が来た。太陽が昇り始めているのが二枚のガラスを通して見える。一枚は窓。もう一枚は目の前にあるショーケース。ぎいと、重苦しい音を出しながら扉が開いた。
「おはよう。早いね」
 ご主人様だ。その姿が瞳に映るのと同時に、ご主人様の声がガラス越しに響いた。
 コツコツと、靴の音を響かせながらガラスのショーケースに近づいてくる。僕は精一杯の笑顔を近づいてくるご主人様に向けた。より可愛らしく、より気に入ってもらえるように。
「今日も可愛いよ」
 そうすれば、ご主人様も笑顔を返してくれる。怖いことは何も起こらない。僕が悪い子にならなければ、恐ろしいことは起こらないのだ。
「今日はお客さんが来るからね。そのときもこの調子で頼むよ、チラーミィ」
 ご主人様の問いかけに、僕は可愛らしげに頷いた。

 ご主人様のお客様は、太陽が東の空から見えなくなる頃にやってくる。お昼時と呼ばれる時間で、ダイニングルームでお食事をとってからこの部屋にやってくるらしい。
 でも、僕は気を抜けない。いつご主人様が現れるかわからないからだ。もしご主人様がこの部屋に来たときにちょうど座り込んでいたらどうだろう。きっと恐ろしい目に遭ってしまう。僕は常に可愛く、置物のようにしていないとだめなのだ。
「ここに色違いのチラーミィがいるけど、あまりガラスにペタペタ触らないでね。おじさんとのお約束だよ」
「うん! 約束する!」
 いつものご主人様の声と、それに答える小さな男の子の声がドア越しに聞こえてくる。きっとそろそろ入ってくるんだ。気持ちを整えて笑顔にならなくちゃ。
 がたんと、ドアノブが引かれて扉が開く。僕はそこを注視した。ご主人様に手を引かれて、まだ背の小さい男の子が目をキラキラと輝かせながら部屋を見渡している。そして僕と目が合うと、より一層瞳の輝きを強めて僕の方に駆け寄ってきた。
「わあ! 本物だあ!」
 彼は僕の入っているガラスのショーケース前までやってくる。遠くで見るよりも彼の身長は低かった。うんと背伸びをして、僕の目と同じ高さまで自分の視線を上げてくれる。僕はいつもご主人様に向ける笑顔を、今日は彼に振りまいた。
「可愛い……。花の首飾りもいいなあ」
 ぽつりと彼が呟く。ご主人様はそうだろう、そうだろうと彼に同調していた。
「花の首飾りは特注品なんだ。特別なんだぞ?」
 昔の僕だったら、きっと首飾りという単語が出ただけで泣き叫んで暴れまわっていた。そう考えると今の僕はとても成長しているように思える。
「ねえおじさん。もうちょっと見ててもいい?」
「ああ、構わない。おじさんは向こうの部屋にいるから、好きなだけ見ておいで」
 ご主人様は僕と彼に手を振って部屋から退出する。
 この部屋には彼一人だけとなった。僕は物だから、人やポケモンとしては数えない。
「えへへ、二人きりだ」
 だから、彼のこの言葉の意味を僕には理解できなかった。首をかしげてわからない、という意思表示をする。彼はそんなことお構いなしのようで、自分の話を続けていた。
「僕の友達も紹介するね」
 彼はガラスのショーケースから数歩離れ、半分ずつ赤と白で塗られた球体を取り出す。真ん中についているボタンを押すとその球体が少し大きくなって、彼の手では少し握り辛そうなものになった。
「ゾロア! 出てきて!」
 球体が開き、そこから光線が発射される。それが少しずつポケモンの輪郭を描いていった。まず、四本足で体を支え、ふさふさとしてそうな尻尾と体より少し小さい程度の頭がそれぞれ形作られる。その頭からピンと尖った耳と、耳の間にクリームのような毛が構成されたら、そのポケモンに色がついていった。
 黒を基調とした毛に、ところどころアクセントのように生えている赤い毛。目元などは赤色で、瞳の水色を際立たせていた。ゾロア、というポケモンらしい。
「こいつはゾロア、よろしくね」
 なるほど、二人きりというのは彼とこのゾロアを数えて二人なのか。それなら納得だ。
 ゾロアはこういう環境に慣れていないのか、キョロキョロと辺りを見渡している。目に映るもの全てに興味を持っているような感じだった。
「ゾロア、ほら、そこのチラーミィが見えるか?」
 彼はゾロアを肩に乗せ、僕の方にまた近づいた。ゾロアの吸い込まれそうな水色の瞳に、どこか懐かしい感触を覚える。
 僕はもう一度二人に向かって微笑みかけた。彼は笑い返してくれる。ゾロアは少し怪訝そうな水色の瞳で僕を見つめていた。
「ん? ゾロアは可愛いと思わない?」
 彼もその瞳に気がついたようだ。肩に乗っけたゾロアに声をかける。もちろん、ポケモンの声が人間に届くことはまずない。それでも声をかけてもらえるゾロアは、幸せ者だと思った。
 ゾロアは何も言わない。ただ僕のことを見つめているだけ。水色の瞳はやはり吸い込まれそうだった。彼もそんなゾロアに構うのは時間の無駄だと思ったのか、また僕の方に首を戻す。
「ねえねえ、くるくる回ってみてよ!」
 僕は笑みを浮かべて彼のお願いに頷くと、くるり、くるりその場で何回か回転してみせた。くる、くる、くるり。
「すごいなあ。尻尾も耳も綺麗だね!」
 彼がおだてるものだから、僕はつい調子に乗って何回も何回も回る、回る。平衡感覚がだんだんと狂ってきて、僕は尻餅をついてしまった。座り込んでいても、まだまだ頭がくらくらする。
 立っていなきゃいけない。
 脊髄がそう命令する。僕はもう一度立ち上がると、少し申し訳なさそうな顔を作って彼の方を向いた。
「いいよいいよ。変なことお願いしてごめんね」
――ああ、彼はなんて優しいのだろう! ご主人様だったら、きっと怒鳴られるくらいじゃ済まなかった。
 ゾロアは、相も変わらず僕に怪訝な瞳を向けている。何かをいぶかしく思っているように。

 彼は何時間も飽きないで僕を見つめてくれた。ご主人様は数十分で僕から離れるから、こんな長時間見られ続けるのは初めてのことだ。
「僕ね、一週間おじさんの家に泊めてもらうんだ。だから、毎日君に会いにくるよ!」
 僕はそれを聞いていつもと寸分変わらない笑顔で頷く。彼もそれに応えてくれる。つまり、問題は起こらない。
「それじゃ、ゾロアも一緒に戻ろう?」
 ゾロアは彼の手が届きそうになるとパッと彼の肩を飛び出し、床に着地して彼と向かい合う姿勢をとった。ぐるぐると低く小さな声で唸っているように見える。
「あー、はいはい。わかったよ。でも僕は先に戻るからね。またあとで迎えに来るよ」
 彼はもうこういうことに慣れっこのようだった。きっと、このゾロアは自分の気持ちを伝えるのが下手なのだろう。
 一人でドアノブをひねって、彼はこの部屋から出ていく。これで今度こそ、この部屋はゾロア一匹しかいない部屋となった。
「この部屋は君一匹だけだね」
 僕は何となしにゾロアに声をかける。この声は可愛さで飾らなかった。だから、この疲れて今にも倒れてしまいそうな声が、今の本当の声。
 ゾロアが彼の肩から降りたから、僕はゾロアのことを目視できなくなった。それはゾロアも同じなようで、少し離れて彼は僕の視界に入る。瞳からは先程までの怪訝そうな色なんて微塵も感じなくて、むしろ心配しているような、そんな優しい色が瞳に映っていた。
「オマエ、悲しくないのか? 自分のことを一匹とも数えないなんて……」
 ゾロアは初めて口を開く。その声はガラスによってくぐもっているが、ちゃんと聞こえた。
「うん。僕は物だから」
 即答。この言葉を使うのにだって、もうなんの抵抗もない。昔は物になんて絶対になりたくなかったけど、今はこの方がいいと思えるくらいになっていた。
 微妙な沈黙が間に流れる。ゾロアには出ていくという選択肢だってあるのに、彼はそれを選ぶような素振りを見せなかった。
「……辛いことがあったんだな」
 そうとだけ言うと、ゾロアは視線を僕から外した。だからといって外に行くわけでもなく、部屋の窓から外を眺めているだけ。その姿は昔どこかで望んでいた優しい父のようだった。
 しばらく、誰も動かないで時が過ぎ去る。それは初めて感じる平凡な時間のようだった。

 ゾロアたちは本当に、毎日毎日会いに来てくれる。僕は無理やりこねくり回して作った笑顔を振りまくだけだったけど、彼の笑顔は本物だ。本物の笑顔だなんて生まれてから一度も見たことはないけれど、多分これがそうなのだろう。
 彼が会いに来てくれる時間は日に日に短くなっていった。それはそうだ。さすがにずっと同じリアクションしかしない物と遊ぶのは苦痛だろうから。
 でも、ゾロアは違う。ゾロアは毎日彼が迎えに来るまで、一日目と同じ時間だけ僕の傍にいてくれた。そんな日が続く度に、僕は昔のちょっとした平凡な記憶を取り戻していく。
 二日目は家族と共に過ごしたちょっぴり幸せな時間を。
 三日目は森の中で一匹、木の実を集めていた時間を。本当に些細なことしかなかったけれど、今の僕と比べてみると、その頃の僕はまだ感情があって、とても幸せそうに見えた。
 三日目の夜。僕は何とも言えない感情が湧き上がるのを感じていた。過去のことを思い出すごとに、目の前のガラスが恨めしくなって、壊したくなって。でも叩けば怖いことがあるから、そんなことはできなかった。力弱く手をガラスに当てることくらいしか、今の僕にはできない。
 四日目。僕はゾロアを見て、その姿と優しかったお父さんの姿を重ねた。少しだけ言葉を交わす。ゾロアは優しく応えてくれた。
 五日目。僕はゾロアともっともっとお話をした。僕は色違いについてぽつり、ぽつりと話す。それを聞いても、ゾロアは僕のことをポケモンだって言ってくれた。僕のことをポケモンと認めてくれたのは彼が三番目だ。お父さん、お母さんに続いて、三番目。彼はにこやかに笑いながら、オマエだってポケモンさと、そう言って認めてくれたのだ。嬉しいと心から感じる。 
 その夜、僕は眠れなかった。枯れたはずの涙が止まらない。床を汚すとご主人様に恐ろしいことをされるから、涙は全部腕で拭って落とさないようにした。
 涙を流すと、苦しいときの記憶も蘇る。同じポケモンに軽蔑されていた記憶。お父さんの悪意の詰まった顔。石化されて、動けなくなったときの深い悲しみ。首筋が赤く腫れたときの記憶。全てなくしてしまいたいけれど、脳裏に焼きついてしまって剥がれることはなさそうだった。
 ゾロアと話していると、そんな苦しい記憶がたくさんあっても、もう一度ポケモンに戻りたいって思えてくる。
 そして、六日目の今日。ゾロアと過ごす日は明日で最後となる。

「チラーミィ」
 不意にゾロアが改まって僕の名を呼ぶ。僕は、何、と短く言葉を返した。
「オマエは、物として命を終えてもいいのか? もう、青い空の下に出られなくても、いいのか?」
 ゾロアのこの口調は優しかったお父さんにそっくりだ。
「……僕はもういいの。全部、無理なことだから」
 嘘だ。本当はずっと夢見てる。この薄いガラスを打ち破って、その外へ出ることを。
「オレは嫌だ。こんなガラスの檻に閉じ込める人間、そしてそれを見て喜ぶ人間の姿を見るのは」
 驚いた。純粋に、そのゾロアの言葉は僕のご主人様とゾロアのご主人様をけなしているようにしか聞こえないからだ。僕なら怖くて絶対に言えないようなこと。でも、ゾロアはさらに続ける。
「これはオレの勝手に他ならない。だが、もう一度考えてみてくれ。オマエは、もう一度ポケモンになりたいのか? このまま物として生を終えても悔いはないのか?」
 ゾロアの眼差しはいつになく真剣だった。その瞳はやはり吸い込まれそうな水色の瞳で、僕が目指していた青色の広大な空を凝縮したかのようだった。
「ポケモンになりたいなら、オレに一つ任せてみないか」
「ううん、物のままでいい」
 思ったことをうまく言葉にできなくて。口から飛び出したのは見え見えの嘘。ゾロアもそれは分かっているようで、はぁ、と一つため息をついた。
「素直じゃないんだな」
 そうとだけ言って、彼はまた窓から外を見つめる。僕が本当の答えを言うまでこうするつもりなのは目に見えていた。
――怖い。
 ゾロアの言うとおりにして、もしポケモンになりきれなかったら。以前の恐怖が蘇る。首筋が疼く。あの音が聞こえる。
「それって絶対ポケモンになれる?」
「五分五分。正直賭けみたいなもんだ」
 ゾロアが軽く笑うように返してくるそれは、一番聞きたくない答えだった。もしもの想像だけが頭の中を駆け巡り、僕にその選択を踏みとどまるよう説得してくる。物のままでいいって、もう期待しちゃいけないって。
 僕は、どうしたらいい? 怖い。こわい。痛い。いたい。そんな気持ちだけがぶくぶくと膨れ上がって、もう手のつけようがないほどにその恐怖心は肥大化していた。
 選択するのが怖い。ゾロアに本当のことを言うのを躊躇う。水色の瞳が恐ろしい。
 だって、失敗したら二度とゾロアに会えないのだ。
 でも、物のままでも、この先ずっとゾロアには会えない。
 一緒にいたい。ゾロアと一緒にいたい。それは僕の中で、唯一信じられる気持ちだった。ほかはまやかしだ。信じるな。僕が信じるのはゾロアだけだ。なら、もう選ぶ道は一つしかなかった。前を向く。ゾロアはもう窓じゃなくて僕の方に向き直っていた。ゾロアが僕を見上げて、僕がゾロアを見下げる。
「ポケモンになりたいのなら」
 一際はっきりとした声が響く。僕は次に続く言葉を待って固唾を飲み込んだ。
「明日。オレとこの屋敷を脱出しよう」
 僕は今の自分にできる本物の笑顔で、うんと頷いた。彼はにっこりと包容力のある笑顔を浮かべて頷き返す。
 あの水色の空を目指して、二匹で駆け出すんだ。



 決行の日、僕はいつもより早い時間に目を覚ました。まだ二枚のガラス越しにも太陽は映らない。そんな早朝。
 目の前にあるガラスに手で触れてみる。薄くて、冷たくて、透明で。そんな物に僕は閉じ込められていたのだと思うと、少し悔しくもあった。
 ぎい、と静かな部屋ではとうるさく聞こえる扉の音が響く。そこにいたのは、あの男の子によく似ている子だった。似ているようだけど、どこか違う。ゾロアがこの前話していた、人間に化けることができるとはきっとこういうことなのだろう。
「ほら、迎えに来たよ」
 彼はそう言って、右手に持った鍵を振り回しながらこちらにやってきた。それはこのガラスのショーケースについている扉の鍵だ。僕が食事やシャワーで外に出るときに鍵の種類を確認して、ご主人様の目を盗んでそれを奪ってきたのだ。その努力が、僕の胸に嬉しさを浮かび上がらせる。
 ゾロアは後ろに回り込んで、かちゃりとガラスのショーケースの鍵を外した。僕は今、この瞬間、あの空を目指して脱出するチャンスを得たのだ。
「さあ、一緒に行こう。見つかっちゃう前に」
 逸る気持ちを押し付けて、僕は慎重にガラスの檻を飛び越えた。音は立てていない。もう胸の動悸が止まらなくて、今すぐにでもはじけてしまいそうだ。
 僕は人間に化けたゾロアに抱きかかえられて、長くの時間を過ごした部屋とお別れする。未練なんてなかった。ここには、怖くて、恐ろしい記憶しか残っていない。離れられるのなら、早く、とにかく早く離れたい。
 扉は開けたままだった。閉じれば音がするのだから当然の判断だろう。もちろん扉を開けたまま、僕らはこの部屋を出ていく。
 ゾロアは足音を立てないように慎重に、しかしなるべく早く廊下を進んでいた。
 廊下を見渡す。ご主人様の趣味は廊下にも反映されていた。高級そうな床のレッドカーペット、窓に取り付けられた純白のカーテン。上を見上げれば、意味のよくわからない紋様が刻まれている。
「さっさと逃げ出そう。誰の目にもつかない、遠く離れたところへ」
 ゾロアの腕の中は、数える程しか経験できなかった温もりで溢れていた。今の僕は、きっと嘘偽りなく幸せだ。
 廊下はまだ続いていく。やけに長い廊下は見つかってしまうのではないかという不安ばかりを大きくさせていった。だから声だって出せやしないし、息をする音さえ殺したくなる。首輪の装飾が掠れる音でさえ煩わしいと思えた。
 やっと出口らしい大きな扉が見える。これを超えれば僕はまたあの美しいの空の下に出ることができるのだ。でも、確率が五分五分だと言っていた割にはやけにあっさりと脱出できたことに少し不安を感じる。
 それも今となっては些細なこと。僕の胸の内は失った感情は嬉しさを筆頭に、どんどん組み直されていくようだった。
 ゾロアが最後の扉を開く。重苦しい音と引き換えに、僕らは自由を手にした。感動はあまりしない。でも、表現し得ない喜びが胸を温めていくのはしっかりと実感できた。
 僕らは、本当に、本物の自由を手にしたのだ。

 外に出て茂みに入ると、ゾロアは光に包まれながらポケモンの姿に戻っていく。屋敷の塀を飛び越え、すぐのところで僕らは今休憩していた。
 空を仰ぐと、広々としている夜空がうんと体を伸ばしていた。僕もそれを見て、真似るように体をうんと伸ばす。東の空からだんだんと赤色に染まっていく。もう少しで朝日が見れるのだろう。
「これからどうしよう」
 ゾロアが呟く。僕の答えは決まっていた。
「一緒にどっかに行こう。一緒に美味しい木の実を食べよう。一緒にたくさんの場所に出かけよう。一緒に水色の空の下で暮らそう。……ほら、こんなにたくさんやりたいことがあるよ」
 僕の方を見てゾロアがそうだね、ってにこやかに笑う。僕もつられて笑顔になった。
「オマエ、今幸せそうな顔してるな」
「そう?」
「おう。今までみたいな作り物じゃない顔をしてる」
 ゾロアには僕が笑顔を作っていたこともお見通しだったようだ。もう何もかもが見透かされているような気さえする。
「まったく。ゾロアにはかなわないなあ」
 他愛もない、平凡な会話。それが僕にとっては初めての経験で、とっても楽しくって。
 ゾロアの頬を尻尾でくすぐってみた。柔らかい皮膚の感触が伝わってくる。こうやって家族以外のポケモンと触れ合うのも、僕は初めてだ。こんな平凡なことも、僕はまだ体験できていなかったんだ。
 ゾロアと一緒になら、どこへだって行けるように思える。今はくすぐったくて身を悶えさせているけど、僕はゾロアがいなかったらこんなこともできなかったんだ。感謝しないといけない。
 一緒にいるから、もうこれからは僕の体の色なんかどうでもいい。僕は、僕だからだ。ゾロアはそう認めてくれる。
 朝日が東の空から顔を出す。はっきりと太陽の暖かさを感じる朝がやってきた。いつもならこの頃にご主人様――いや、あいつが起きてきて僕の体を眺めるんだ。思い出すだけで嫌になってくる。僕はどうしてあんなに長い期間、それに耐えていられたのだろう。
「ゾロア」
 尻尾でくすぐるのをやめて、僕は真剣な眼差しになった。ゾロアはまだ笑い声を上げていたけど、僕が真剣になっているとわかると、すぐにゾロアも真剣になる。
「ありが――」
――。
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――意識は、絶えた。


 僕の桃色の体を見て嘆き悲しむゾロアを、僕はあの水色の空から見守っていた。何が起こったかなんて単純明快。僕は死んだ。あの首輪のせいで。
 ゾロアの言葉が僕の魂に反響する。死の間際に聞き取った、やりたいことがあったんだろという言葉が。
 そう、これから僕はゾロアと共に平凡に暮らしたかった。
 もっと一緒にいたかった。
 ありがとうって、言いたかった。
 でも、死んだ僕にはもう全部無理なことで。
 どうして僕は特別だったのだろう。平凡なことをして、平凡に生きたかっただけなのに。ただ、他のポケモンと同じように生きたかっただけなのに。
 だから、僕は死んでもなお、僕を特別にした自分の体が大嫌いだった。
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