> 灰かぶり 作:ものかき
灰かぶり 作:ものかき
 実家からの連絡を受けたときから俺の帰省は確かに始まっていたはずだった。だが、新幹線の窓の先、遠方で降り注ぐ火山灰を見たときに俺は初めてこう実感したのだ。ああ、帰ってきたんだな、と。
 実に十七年ぶりの生まれ故郷だ。俺はプラットホームに降り立ち、辺りをふと見渡してみる。新幹線は席の大半が埋まっていたにもかかわらず、ここへ降り立つ者は俺以外にほとんどいなかった。この光景もまた十七年前と変わらない。いや、むしろさらに過疎化しただろうか。そんなことを考えているうちに、いつの間にかなめらかなフォルムをした鉄の箱は、残りの乗客を次の目的地へ運ぶために遠ざかっていた。
 風に運ばれた灰色の砂が足下をざらつかせる。火山灰の名残だ。都会には劣るものの比較的開発された駅周辺を歩けば、それだけでも十分にハジツゲの町並みを知ることができるだろう。だが、火山灰をまきちらす山の麓――言うなれば本物のハジツゲの町並みまでは、さらに車で三時間を要する。

「兄さん、こっち」
 改札を出た矢先に、片手に車の鍵を持ちながらユリが小走りでこちらへ寄ってきた。十七年も会っていなかったはずなのだが、よくもまぁ俺のことがわかったものだ。
「よく俺だと気づいたな」
「兄さんこそ。よく私だって気づいたじゃない? 知らない美人がいきなり近づいてきたとは思わなかった?」
「俺が妹を間違えるか」
「それと同じよ」
 妹の言葉には妙な説得力があった。

 俺がいない間に、ユリはいつの間にか免許を取得していたようだった。白いバンの助手席に乗り込んだ俺は、妹の運転に任せて起伏の激しい帰路を三時間かけて渡る。ユリの話では、親父は相変わらずなようだった。妹が一人で俺を迎えにいくことを頑なに反対し、俺が行く、と言い張っていたらしい。しかし、もう親父には往復六時間の運転をする体力も集中力もない。ついでに言うと車の中でじっとする忍耐もなくなっているだろうから、ここはユリに任せておいて正解だと思う。
 窓の外を見る度にだんだんと、ハジツゲの火山がほかの景色を圧迫するように近づいてくる。ユリの話によると、ここ数日に何回か噴火も確認されたらしく、家の周辺には豊富な火山灰がとれているという。
 正直、俺にはこの火山灰がうっとうしくて仕方がなかった。いや、火山灰だけではない。火山灰を落とすために先ほどから視界の端をちらつくワイパーも、片道三時間で悲鳴を上げる腰も。強いて言えば、俺は故郷のものすべてがうっとうしかった。今回の連絡が特別なものでなければ、俺はこのへんぴな田舎町に帰ってくることなんかしなかったはずだ。

 ◆

 灰かぶりの知らせを聞いたのは、今から三日前のことだった。いつも通りの仕事が終わり、イスの背にかけっぱなしになっていた背広からポケナビを取り出すと、実家からの不在着信が二十件以上にも及んでいた。故郷を去り十七年。実家からの連絡を一切拒絶していたさすがの俺も、これには一種の予感を感じて折り返し連絡をしてみた。受話器からはのっけから親父の怒鳴り声だ。今すぐ帰ってこい、灰かぶりが死にそうだ、と。
 なんというか、歯に衣着せぬ物言いは親父の長所であり短所で、場合によっては吉と出ることも凶と出ることもあったが、あのタイミングでは間違いなく吉だ。誰のどんな訴えよりも、親父のあの一言は俺の重い尻を飛び上がらせるに十分な威力を持っていた。
 それからは事の経過がめまぐるしすぎてよく覚えていない。気がつけば仕事場に連絡を取り、有給休暇を申請し、新幹線のシートを予約していた。忙しさの関係で休暇が取れるのが三日後、と言われたのがもどかしかった。あんな気持ちは、後にも先にもあの時しかなかった。

 ◆

 ユリの運転は安定していた。運転は運転手の性格を反映するのだろうか。少なくとも親父の運転では、俺は三時間も持たなかっただろう。
 白いバンは滑り込むように、白壁でできた工房裏の駐車場に停車した。親父の工房と実家は少し離れているのだが、駐車場はこちらしか存在しない。俺とユリは同時に車から降り立つ。
 火山灰だ。プラットホームで地面をざらつかせていた量とは比べる気すら起こさせない積もり具合だった。俺の歩いた後にはくっきりと足跡が残っている。俺は自身の足跡を、ふと灰かぶりが踏みしめてできた足跡の形と比較していた。記憶が一瞬だけ少年時代に戻った気がする。懐かしい。俺は不覚にも火山灰に、そしてその足跡に、故郷への懐かしさを感じた。
「まっすぐ家に行くでしょ?」
 妹の発言は、果たして俺の心情を察してのものだろうか。俺は足跡から視線を外さずに、ほとんど何も考えずに「いや」と答えていた。
「工房の中……見てみようかな」

 ◆

 俺の親父はガラス細工職人だ。ひとむかし前のドラマによく出てくるような、常時顔にしわを寄せ、言葉が端的で、融通が利かない、典型的な頑固親父気質であった。そんな職人の元に長男として生まれたのだから、必然的に親父は俺がガラス細工職人となり、工房を継ぐものだと思っていたようだ。物心ついたときから、かまどで熱せられた暑苦しい工房内へ俺をつれていき、溶けた状態のガラスに空気を吹き込む作業をさせられた。もちろん、その作業は大人でもうまくできるものではない。ましてや俺なんかが、たかが数十回の練習で成功しうる所行ではなかった。
 ガラス細工職人の遺伝は、どちらかというと妹の方に傾いているようだった。俺の四つ年下であるユリは、俺が初めてガラスにさわったときよりももっと幼いうちから、父親の教えをどんどん吸収し、工房に入ってから数年たった頃には、俺の周囲では妹が親父の後見者だろうと囁かれている始末だ。
 そんな俺は、裏でそんなことを言われていることを根に持つはずがなかった。気がつけば、ガラス細工以外で何か夢中になれることを探していた。そこで白羽の矢がたったのがポケモントレーナーだった。
 チャンネル数が少ないせいで情報がぐっと制限されるハジツゲのローカルテレビでも、ポケモンバトルやコンテストの様子はたびたび中継されることが多かった。勝利の瞬間のために育て上げられたお互いのポケモンが、火花を散らしながら熱い戦いを繰り広げる様は、比較的ハジツゲの溌剌な男の子に人気が高かった。それは俺も例外ではなく、いつの間にか夢中になってテレビにかじりついていた。だがそのせいで父親に怠け者だと言われ、食らったげんこつの数も少なくない。
 だが、俺の好奇心は画面の中だけではとどまらなかった。実際に、自分のポケモンを持ってみたい。そして、戦わせてみたい。田舎者の少年少女が誰しも抱くその些細な夢を、俺は現実のものにしようと頭を巡らせた。
 フレンドリーショップへ行き、こつこつとためたお小遣いをはたいてモンスターボールを数個買い込む。そして工房から密かにビードロをくすねて、灰の積もった草むらに飛び込んだのがつい数日前のことのように思い出される。

 ◆

 工房内はがらんとしていた。俺が幼かった頃は、旅に役立つ道具を手に入れようとトレーナーが工房内をひしめいていた記憶が強かったのだが。ハジツゲの過疎化は思ったよりも深刻かもしれない。
 工房の展示館をさらに奥へ進むと、いよいよガラスづくりのための本格的な工房が姿を見せる。どうやら職人たちは休憩中なのかほとんど出払っているようだった。火山灰にまみれた机の上には、作りかけのガラス細工が無造作におかれている。その横の机には整頓された完成品がおかれていた。机によってその職人の性格が現れるのだろうか。
 昔と何もかも変わっていない。机に手を乗せると、わずかな火山灰がふんわりと空気中を舞う。
 ハジツゲの伝統工芸であるガラス細工は、すべてこの火山灰が原料となっている。そしてこの火山灰は、農作物を豊かにしてハジツゲを農村に育て上げただけではなく、町全体にガラス工芸という恩恵を授けた。この工房も例外無く、火山灰とは切っても切れない縁で結ばれている。
 そしてもう一つ、この工房に無くてはならないものが机の上におかれている。ストローのように細長いガラス棒に、底が平らな風鈴を無理矢理くっつけたような形の美しい工芸品。黄色、赤色、青色、白色、黒色……さまざまな光彩を放つガラス細工、ビードロだ。
「久しぶりでしょ?」
 いつの間にか、ユリが俺の後ろに立って含みのある笑みを浮かべていた。そして、その手には黒く光るビードロを手に持っている。
「久しぶりに吹いてみる?」
「……いや」
 しばらく、俺は妹の手に持ったガラスのおもちゃ――黒いビードロを見つめていた。しかし、俺はその申し出を辞退していた。なぜ断ったのか、たぶんそれは俺のちっぽけなプライドが邪魔したのだろう。
 はじめから、ガラスよりももろくて粉々に砕かれているなけなしのプライドだ。

 ◆

 幼かったあのころ、俺が工房から持ち出したのも確か黒いビードロだった。火山灰の力がそうさせるか否かはわからないが、ビードロの放つ音がポケモンの体に影響を及ぼすことはこの町の誰もが知っていることだった。
 だが、町の常識を心得ている俺も、都会の人間であれば誰もが知っている、ポケモンの捕まえ方については全く知らなかった。つまるところ俺はあのとき、ポケモンを捕まえるためには、ポケモン同士で戦わせて弱らせなければならないことを知らなかったのだ。
 ビードロの中には使うとポケモンをおびき寄せられるものもあるのだが、そうして現れたポケモンをモンスターボールで捕まえればいい。そんな浅はかな考えで俺はポケモンの捕獲に挑戦しようとしていた。今だから言えるが、あのころは若かった。
 草むらへ走る俺のポケットは、いくらかのモンスターボールでいびつに膨れていた。そして両手には黒いビードロを、絶対に落としたりして割らないように大切に持って走った。
 適当なところで立ち止まり、持っていたビードロを見る。今から、これを使って野生のポケモンをおびき寄せる。これからしようとすることは、ガラス工房でのどんな作業よりもわくわくした。そしてそのために今手に持っているこのビードロは、どんな工芸品よりもきらきらと輝いていた。
 さあ。
高鳴る鼓動は聞いて聞かぬ振りをし、ビードロの先端を口に近づける。そして、ゆっくりと息を吹き込んだ。

 ◆

 俺はかまどの横で斜めにたたずんでいた木の椅子に腰掛ける。肺にたまっているよどんだ空気を、ため息として吐き出す。かまどの方を向いている右側の頬だけが妙に暖かい。この空間が懐かしく、それ故に気が重い。
 俺は一度、この故郷を捨てている。
 俺は背広のポケットから煙草を取り出した。箱の底を叩き、一本だけ取り出して口にくわえた。ビードロの先端をくわえる代わり、と口に出して言うのはナンセンスか。だが俺はビードロの代役の先端に火を付けることはしなかった。白状してしまうと、そのときの妹がものすごい形相だったからだ。
「兄さん」
「すまん」
 ユリは、昔から煙草の煙が嫌いだ。あの親父がそれまで続けていた煙草の習慣を、幼かった娘の一言でぱったりやめたぐらいだ。
「……灰かぶりは?」
「家よ。数日前はポケモンセンターにいたんだけど……」
 そう言ってユリは手に持っている黒いビードロを弄んだ。
「もう治療しても意味ないから家にいさせてあげてください、って」
「そうか……」
 もうそんなに月日が経っていたのか。いや、灰かぶりにとっては、俺が思っている以上にさらに長い時間が経過していたのかもしれない。人間とポケモンでは、その体に流れる時間は一緒ではないのだから。医者が言うには、灰かぶりの種族の寿命は人間の三分の一ほどだと言う。
「だから、ねぇ、兄さん。できればもう家にいきましょうよ。灰かぶりに会ってあげて」

 ◆

 何度ビードロを鳴らしても、野生のポケモンは一匹も現れることはなかった。俺以外に人っ子一人いない空間。そこにぺこん、ぺこんと間抜けな音が響きわたる。早く野生のポケモンを捕まえたい。そのことしか頭になかった俺は、いくらガラスのおもちゃを鳴らしてもいっこうに揺れない草むらにしびれを切らしていた。
 今思うとなんと滑稽な話だろう。これは起こるべくして起こった状況だったというのに。
 確かにビードロの中には、吹けば野生のポケモンをおびき寄せることのできるものもある。だが、あのとき俺が鳴らしていた黒いビードロは、野生のポケモンを遠ざける効力しか持っていなかったのだ。吹けば吹くほど、草むらが静まり返るのは当然の結果だ。
 もちろんこのことを言えば、「ガラス細工職人の息子がそんなことも知らなかったのかと」言われるのは目に見えていたので、まだ誰にも言っていない。
「なんだよ、これ……」
 何にも知らなかった当時の俺は、野生のポケモンがいっこうに現れないイライラをビードロに押しつけた。いっそのことそれを地面に叩きつけて割ってやりたい勢いだった。それでもどうにかビードロを割らずにすんだのは、ガラス細工職人の息子としてのちっぽけなプライドがあったからだろうか。
 あーあ、と俺は草むらに仰向けに寝ころんだ。火山灰が服や髪につくのはお構いなしだ。ハジツゲの少年少女は火山灰まみれになるのが当たり前なのだから。
 照りつける太陽に、黒光りするビードロを透かしてみる。見事な装飾、見事な照り具合に俺は訳の分からぬ怒りをさらに募らせる。どうして俺は、ガラス細工職人の息子なんだ。そうじゃなかったら、ガラス細工づくりで親父に怒鳴られることも、才能が無いと周りから小声でそしられることもなかったのに。どうして、ガラス細工職人の息子はガラス細工職人にならなければいけないのか。
 俺は、寝ころんだままの状態できらきらと輝くビードロに再び息を吹き込んでみた。当然俺の心情とは真逆のふざけた音しか出ない。
 と、そのとき、俺の頭上の草むらがガサガサと揺れた。まさか、このタイミングで草むらが揺れるとは思っていなかったので俺は慌てて飛び起きる。
 ついに来たか? ポケモンか? どんな奴だ? まさか、自分の体の何倍も大きい奴だったらどうしよう……?
 ポケモンを捕まえる、と勇み足で草むらに踏み込んだのはいいものの、実際にその場に居合わせてみると緊張という言葉が易しいものでさえ思えてくる。心臓の鼓動も、聞かぬふりをする余裕さえもうない。そして、俺の心の準備すらできていないままに、そいつは草むらから現れた。
 そのときの様子を擬態語にするなら、ひょっこりという言葉がふさわしい。

 ◆

 俺の実家は、観光地区の工房から歩いて十分ほどの住宅街にあった。観光地区の建造物はそのほとんどが白壁でできていたが、住宅街にある家々は他の町並みと全く変わらない。ただ、ほんの少しの古風さを残しているだけだ。
 がらがら、とユリが家の引き戸を開ける。
「ただいま」
 引き戸の音か、ユリの声か。そのどちらかに気づいて、居間から廊下に現れたのはお袋だった。俺の家の近くではあまり見かけない割烹着に身を包んだお袋は、最後に見たときよりも白いものの数が増えたように見える。
「あらぁ、お帰り!」
 すべての語幹に力を込めて、お袋は俺の元へ駆け寄った。十七年ぶりの母の姿。本来なら感動ものの再会になるはずだ。
「あんた、ちょっとみない間に老けたわねぇ。お父さんにそっくりになっちゃって」
 その言葉ですべての感動が吹き飛んだ。

 居間に親父はいなかった。どうやらまだ工房から戻ってきていないようで、密かに胸をなで下ろす自分がいることがやるせなくて仕方がない。
「灰かぶりは?」
「昔使ってたあんたの部屋よ」
 お袋が台所から叫ぶ。
「まさか、ひとりなのか?」
「今日は母さんがついてたわよ。私が兄さんを迎えに行ったから」
 ユリは眉をひそめてそう返した。どうやら知らぬ間に、少しばかり咎めるような口調になってしまったようだ。
「そうか……すまん」
 馬鹿な。一番に咎められるとしたら間違いなく俺だというのに。
「ちょっと様子を見てくる」
 あぐらの姿勢を崩して立ち上がる。本当は、真っ先にそうすべきだった。あいつの親は俺だ。だが俺の足についている枷が重すぎて、それだけのことをするのに十七年もかかっていた。

 俺の部屋は廊下の一番奥にあった。角を曲がると古風な襖の扉が俺を待ち受けている。取っ手のくぼみに手をかけるが、どうもその手が震えている。灰かぶりがもうすぐ死ぬなんて信じたくなかった。
 いや、ここでもし躊躇ったとしても突きつけられた現実を先延ばしにするだけだ。俺は意を決して、襖をからりと開けた。

 ◆

 草むらからひょっこりと現れたのは、俺がさきほど想像していたような“自分の体の何倍もあるポケモン”などではなかった。肌色の体、鮮やかな赤色のぶち模様。だが、そのどちらも火山灰のくすんだ色に染まっている。
「……パッチールだ」
 無知な俺でも、現れたポケモンの名前ぐらいは知っていた。ふらふらと予測不能な動きをし、ごく稀に気性の荒い者は強烈なパンチをお見舞いしてくるポケモン、パッチール。外で遊ぶ子供に親が必ず「パッチールには気を付けろ」と言い聞かせるほど、ハジツゲではポピュラーなポケモンだ。町外れの草むらにはこれでもかと言うほど『パッチール出没注意!』の看板が立てられているほどだ。
 俺は身構えた。もしかしたら目の前にいるこいつもまた、ふらふらと近づいていつ強烈なパンチをお見舞いしてくるかわからない。無意識にビードロをくわえていた。
「……ぱちぃ?」
 だが、パッチールはいつまで経っても攻撃してくる素振りを見せなかった。いやそれどころか、手を口に当て、何か物欲しそうに俺の顔をずっと見つめている。
「な、なんだよ……」
 ビードロをくわえながらしゃべったので、ガラスの底が吐息で白く染まった。
「ぱ、ぱちぃ! ぱちぃ!」
「うわぁあ、こっちくんなぁ!」
 パッチールがふらふらと近づいてきて、俺の顔に向かってぴょんぴょんと手を伸ばしてきた。わけが分からなかった。“フラフラダンス”をされたわけでもないのに俺は混乱していた。
 俺の頭にあったのは、とにかくビードロを吹きながら逃げることだけであった。なぜそうしたかと言われれば深い理由もなく、ただ口にくわえていたので鳴らしていただけなのだが……。
 ぺこん、ぺこんと相変わらず状況に似合わぬ間抜けな音を響かせるビードロ。すると、後ろをついてくるパッチールはその音が鳴るたびにきゃっきゃっと悲鳴を上げた。そのとき、俺にはどうもその悲鳴が歓声のように聞こえてならなかった。
 まさかと思い、俺は立ち止まる。あがった息を整えながらビードロを近くの草むらに、割らないように投げ込んでみた。するとどうだろう、パッチールはまるでフリスビーを取ってこいと指示されたハーデリアのように、草むらに飛び込んで黒いビードロを拾い上げて、あろう事か再び俺の元へ戻ってきたのである。草むらをかき分けてきたので、その体は灰まみれだ。そして彼は、「はい」と言わんばかりに俺へビードロを突っ返してきた。
「なんだこいつ……」
 その一連の仕草はかわいいものなのだろうが、俺は妙に人なつこいパッチールへ恐怖すら感じた。俺はおっかなびっくり、そいつからビードロを受け取る。
「なに……? 吹けばいいの?」
 試しに俺がそういってみると、パッチールはこくりとうなずく。人の言葉が通じるんだこいつ、と俺はそのとき思った。
  黒いビードロの先端についた灰を払い、口に近づける。そして、ゆっくりと息を吹き込む。
ぺこん。ガラスの底が鳴る音とともに、パッチールが手を叩きながら歓声を上げた。
「は、はは……なんなんだこいつ……」
 俺は、ビードロの音がどうしてそんなに楽しがっているのかがわからなかった。ぺこん、と間の抜けたガラスの音がするだけだ。こんな味気ない音がそこまで好きだというのなら、工房に来ればいやでも聞くことができる。
「お前……これが好きか?」
 こくん。パッチールがうなずく。ポケモンと会話をしているなんて、なんだか妙な気分だ。
「じゃ、じゃあ俺と来いよ……。あ、そういえばモンスターボールもあるし……あれ?」
 ポケットに手を突っ込んでみると、あれだけ大量に買い込んだボールは、後二つしか残っていなかった。どうやら、先ほど逃げるために走った衝撃で、ほとんどを落としてしまったようだった。
 ま、いっか。
 俺は二つのボールのうちの一つを手にとって、手のひらの大きさに調節した後、ボタンをパッチールのおでこにくっつけた。彼は赤い光となってぱっくりと割れたモンスターボールの中に収集される。
 パッチールは一切の抵抗らしきものもせず、あまりにも呆気なくボールの中に収まってしまった。

 ◆

 からりと襖を開ける。薄暗い部屋の中、勉強机の上には使わなくなった参考書がほこりをかぶっている。その部屋の真ん中に、ユリが赤ん坊の時に使っていた布団が敷いてあるのだが。
 部屋の中は、もぬけの殻だった。
「お、おい、灰かぶりはどこいった?」
 俺は部屋の中から廊下に向かって叫んだ。
「えぇ? そこで寝ているでしょ?」
「いないんだよ!」
 お袋の間延びした声がもどかしくて仕方がない。俺は部屋の中をひっくり返す勢いで探し回った。まさか、いくら灰かぶりにしたってかくれんぼを楽しむ年齢はとうの昔に過ぎ去ったはずだ。
 遅れて、ユリとお袋がなだれ込んできた。二人もようやく事態の重大さを飲み込めたようだ。
「いた!?」
「いや……」
 灰かぶりが失踪した。いや、まだ決めつけるのは早い。そう断定する前に家の中すべてを探す必要がある。
 俺は部屋から飛び出して家の捜索を始めた。その姿はなんて大人げなかったことだろう。しかしそんなことはかまっていられなかった。あの老衰した体で外へ出たりしたら、いったいどこでぶっ倒れるかしれたものではない!
 がらり、と玄関の戸が開く音がした。絶好か最悪か。とんでもないタイミングで帰ってきたのは言うまでもなく親父だ。お袋が小走りに玄関へ向かう。しばらくの間、小さな会話が続いていたが唐突に「なにッ」という親父の怒鳴り声が家中に響きわたった。
「灰かぶりが消えただとッ」
「お、落ち着いてくださいお父さん」
「これが落ち着いていられるか、探せ、わしは工房の奴らに声をかけるッ」
 息子に顔を見せたらどうか、というお袋の言葉はすでに完全に親父の耳に届いていないようだった。それもそうだ。十七年間姿を見せなかった親不孝な息子と、十七年間家で過ごしてきた灰かぶりを天秤に掛ければどちらが傾くかなど考えてみるまでもない。まもなく引き戸が乱暴に閉じられる音が鳴る。それを聞き届けた俺は玄関へ行き、靴を履いて外へ飛び出した。

 ◆

 俺は捕まえたパッチールに、灰かぶりという名前を付けた。理由はごく単純で、捕まえるときに彼が全身に火山灰をかぶっていたからだ。
 俺は灰かぶりを入れたボールを密かに家へ持ち帰った。家族には内緒にしているつもりだった。家にポケモンを持ち込むことをまさか許してもらえるとは思っていなかったからだ。だが、どうにもパッチールという一匹のポケモンを家族に内緒で育てるということは物理的に不可能だった。
 俺は工房へ行き、心臓がはちきれるのではないかというほどの緊張を押し込みながら、灰かぶりをモンスターボールから出して親父に見せた。ポケモンを捕まえていたという息子のいきなりの告白に、親父が怒鳴らないわけがない。そして案の定、パッチールを見た親父は俺へ雷を落とそうと息を吸い込んだ。
 しかし、結果的に言うと親父が怒鳴ることはなかった。
 ボールから出て、初めての工房の様子を見た灰かぶりは、表情のわかりにくい目をその時ばかりはきらきらさせていた。そして、手元にあった形も大きさの様々なビードロの一つ一つを、俺の元へと持ってきて吹いてくれとせがむのだ。
 この光景を見た親父――ガラス細工職人である親父が、どうして俺と灰かぶりのことを怒鳴ることができるだろうか。その日親父は、お袋とユリに「俺が灰かぶりを持つことを許す」と言った。
 灰かぶりは、思った以上に家族になじむのが早かった。例えるなら、布に染み入る水のようだった。そうなったのは多分、彼がポケモンながら工房とガラス細工が大好きだったからに違いない。職人になるために幼いながら正式に工房へと入った妹と一緒に熱したガラスへ息を吹き込み、親父の作ったビロードを持って町をかけ回って俺へと吹いてくれとせがむ。フラフラとした足取りながら、お袋の家事の手伝いも少しずつだがするようになっていた。
 俺などとは大違いだった。家に来て数週間の灰かぶりが、生まれて九年近い俺以上に家族の一員となっていた。
 その反動だろうか。灰かぶりを捕まえてからと言うもの、俺の中で芽生えたある一つの感情がだんだんと成長してきているのを自覚していた。それは、俺がトレーナーとして旅をしたい、という願望だ。
 そもそもポケモンを捕まえに草むらには入ったのは、テレビの中で繰り広げられるバトルを俺自身で実現させたいがためだったはずだ。俺はちっぽけな、町ともいいがたいこの町で、ましてやガラス職人として生きていくのはまっぴらごめんだった。ポケモンを戦わせ、トレーナーとして各地を回り、あわよくばチャンピオンになってやろうとまで考えていた。そしてその感情は、十歳になり正式にポケモンと共に旅をするのが許される年齢になるとさらに強くなった。
 だがそもそも、親父がそれを許すなどとは毛頭思っていなかった。だから、俺が灰かぶりと一緒に旅立つと言った時に親父から怒鳴られようが、殴られようがかまわなかった。本気だったかはわからないが、勘当すると言われたときでも俺はかまわないと思った。
 俺は親父にこれまでにないほど怒鳴られたその日のうちに、お世辞にも万端とはいえない旅支度をすませて、灰かぶりと一緒にハジツゲを飛び出した。もう二度と、ハジツゲに戻ってくるつもりはなかった。初めから未練も何もない田舎町だ。
 灰かぶりは、旅へ行くときでさえも親父の作った黒いビードロを手から離さなかった。
どうして、どうしてこいつは息子の俺なんかよりも“息子”らしいことをするんだ。
 悔しい、悔しい、悔しい!
 そのときの俺は、そんな感情がはちきれんばかりに胸を支配していた。
「そんなもん置いて行けよぉ!」
 俺は泣きじゃくった。自分でもよくわからない。涙で顔をグショグショにしながら、灰かぶりから黒いビードロをひったくった。彼は、ビードロを俺に奪われる最後まで必死に抵抗した。その顔も、涙でグショグショに濡れていたような気がする。
 俺はそんな灰かぶりの目の前で、黒いビードロを地面へ叩きつけて粉々にした。

 ◆

 灰かぶりがなぜいなくなったか、その理由を何となくわかる気がした。俺は何一つ、灰かぶりのためにしてきたことなどなかった。灰かぶりが“家族の一員”になったあのときからあいつは、親父のビードロで遊び、妹とガラスをいじっている方が生き生きしていた。逆に、数年間とは言えそんな生活から引き離し、バトルを無理強いしていた俺のことを、果たして会いたいと思うだろうか。だから、俺が帰ってくることをお袋たちの会話から察した灰かぶりは、今日になっていきなり姿を消したのだ。その行為がたとえ、残り少ない寿命をさらに縮めることになろうとも。
 なぜだ。なぜなんだ灰かぶり。十七年たった今、俺のことが許せなくなってしまったのか。
 お前はいったい、どこにいるんだ。
「兄さん!」
 ユリが俺の後を追いかけて来た。そうだ、俺は家を飛び出したんだった。
「落ち着いて探しましょ。今工房に人を集めてるから。灰かぶりの足ではそう遠くまで行っていないはずだから、場所を分担してから探しても遅くはないはずよ」
「……なあ、ユリ」
「なに」
 俺は、息をあがらせながら冷静に説得するユリの言葉を遮った。妹は抑揚のない声で返す。
「灰かぶりは、俺に会いたくないんじゃないか?」

 ◆

 トレーナーとしての自身の力に限界を感じ始めたのは、旅を始めて七、八年ほど経ったときだっただろうか。
 一方、灰かぶりのバトルの才能はというとこれがからっきしであった。旅を始めたときから、灰かぶりはフラフラとした足取りで相手を翻弄しているようにも見える。しかし自分が攻撃するときになると、必ずその足取りのせいで何かにつまずくのだ。灰かぶりはバトルというバトルで勝てた試しがなかった。
 だが、俺がトレーナーとしての限界を感じたのは、決して灰かぶりのせいだけではない。大抵のトレーナーなら遅かれ早かれ感じること――そう、俺にはその界隈で頂点に上り詰めるだけの“才能”がなかった。
 トレーナーとしてこれから食いっぷちを稼ぐめどが無くなった今、俺たちはこのままトレーナーを続けるか、別の道を行くべきかという岐路に立たされた。
 灰かぶりは、きっとハジツゲへ帰りたがっているだろうということはわかっていた。しかし、ここでもまた俺のちっぽけなプライドが、それを提案することを躊躇わせた。
 今更帰ったところで、いったい誰が俺のことを歓迎してくれるだろうか。生まれ故郷を、ガラス細工を、ののしり続けている自分のことを。
 いや、だが。
 俺は、足元で人の往来を恐る恐る目で追っている灰かぶりを、そして腰のベルトに付けた五匹のポケモンを見た。
 こいつらは、俺の勝手な夢を八年間も一緒につきあってくれた。だが、故郷に戻りたくないという俺のわがままで、そんなこいつらのこれからを棒に振りたくはない。こいつにには、こいつらをもっと必要としてくれる場所があるのではないだろうか?
 そうだ。まともに就職して、まともに金を稼ごう。今のままでは六匹全員を育てながら自分も食っていく技量も、予算も、ましてや気力も残されていない。そして何より、灰かぶり自身がハジツゲに戻りたがっている。
 そうだ、自分のためではない。灰かぶりのためになら、俺はハジツゲに戻ることができる。

 ハジツゲに帰った俺を待っていたのは、八年も経って熟練したガラス細工職人へ成長し、そして女性としても一回り大きく成長しているユリ。手ぶらで帰ってきた俺へ万感の込めたまなざしを送るお袋。そして、「なぜ帰ってきたのか」という親父の辛辣な台詞だった。今さら口に出して言うことでもないが、親父は俺のことをもう息子だとは思っていなかった。
 町へ一歩踏み出すと、地元の住民は俺のことを様々な色の眼鏡で眺めた。純粋に俺の帰りを喜んでくれる者がいるかと思えば、あれだけ一流のトレーナーになると豪語しておきながら、やはりハジツゲの人間にそんなことは無理だったかという者もいた。だが、その大半は夢破れたどこにでもいる負け犬の顔を見る眼差しだったことは確かだ。
 灰かぶりは俺の予想した通り、ガラス細工の町ハジツゲに帰ってくることができて心なしか生き生きしているように見えた。俺と旅をしてバトルをしているときよりも、ずっと。
 どうにも、俺にはハジツゲの住民から注がれるそのまなざしが窮屈でならなかった。いや、“窮屈”という言葉で片づけるにはもっともっと複雑な糸が心に混ざっていた。だが、早くこの町から去ってしまいたいという、消えてしまいたいという願望からすればまさに今、この空間は窮屈でしかならなかった。
 俺の年齢が、就職活動をするのに間に合っている年齢なのは不幸中の幸いだった。俺は就職活動を始めたとき、わざと地元の企業へのエントリーは一つも出さずに、他の場所で一人暮らしをしながら働く決意もついていた。ついでに、そこへ腰を据えた暁には今度こそ、二度とハジツゲへは戻らない。
 窮屈なこの町から抜け出せるのなら、別に仕事の種類はどれでもよかった。一番早く俺を受け入れてくれた会社に入社し、手続きの合間に、五匹のポケモンたちは信頼できるトレーナーやブリーダーに譲った。
 灰かぶりだけは、ハジツゲの家族の元に置いてやろうと思っていた。あいつはあの町が好きだ。ガラス細工が好きだ。工房が好きだ。そしてなにより、ハジツゲの人々が好きだ。会社勤めの俺へついて行き毎日を腐らせるより、ここに残って文字通り火山灰と戯れている方がきっとあいつのためにいい。
 俺は灰かぶりの入ったモンスターボールを、町で一番信頼することができる妹のユリへと託しハジツゲを去った。
卑怯だということはわかっている。「あいつのため」と言いつつ、俺は灰かぶりのことすべてを家族へ押しつけてしまっているだけだ。灰かぶりが次にモンスターボールからでたときは、俺の姿はどこにもないだろう。その理由の説明もユリがしなければならない。あいつには酷なことを強いた。俺はどこまでもふがいない兄だ。
 だけど、これもすべて灰かぶりのためなんだ。

 ◆

「灰かぶりは、俺に会いたくないんじゃないのか?」
 その言葉は、俺が発したとは思えないほど、するりと、自然と口からその言葉が声として発せられた。ああ、俺は、こんなことをいつの間に考えていたのか。
 ユリは顔立ち綺麗だ。だが、それ故に彼女がある表情を露わにするととても威圧感がある。
「兄さん」
 ユリは俺に一言だけそう言って、俺に一歩近づいた。そしてその後、一瞬俺の視界がフラッシュした。その後に、左頬にくるジンとした痛み。その一瞬でなにが起こったのかわからなかったが、視界が回復した後にユリの右の平手を見て、ようやく事態を察した。
 いわゆるビンタというやつを、あの温厚なユリから食らったということを。
「兄さんは、なにもわかってない」
 そして彼女は、静かにそう声を絞り出した。
「兄さんは、灰かぶりのことをなにもわかっていない。自分のパートナーのことなのに、ぜんぜんわかってないッ」
「いったいなにがわかっていないんだ。現にあいつはどこかへ消えたじゃないか……」
 それがなによりもそれを証明している。あいつは、俺の前から姿を消した。会いたくないに決まっている。
「兄さんは、いつも自分のことばっかりだね。灰かぶりのため、灰かぶりのためとか言って、いつも自分の都合のいい方に進むんだから。灰かぶりがかわいそう!」
 ユリ、どうしてお前までそんな顔をする。そんな目で俺を見る? 俺がいったいなにをした? 俺は……灰かぶりにとっていいと思ったことをしてきたはずなんだ!
 灰かぶりはハジツゲが好きだった。だからトレーナーの夢をあきらめ、この町に戻ってきた。俺が就職を決めたときも、あいつはこの町においてきたんだ。それも全部、あいつのためを思ってのことだ。それに……。
「兄さんは……灰かぶりに嫉妬してるの? だから、ハジツゲから出ていったの?」
「違う!」
「じゃあ、どうして灰かぶりをハジツゲに置いていったりしたのよ!」
「あいつは――」
 喉からうまく思いを吐き出せない。
 わかっている。すべてわかっている。俺は自分の気持ちに正直になれなかっただけだ。すべて、ユリの言う通りなんだ。
  俺は、あいつに嫉妬していた。どうしてあいつは俺より、家族にもハジツゲの町の人々とも馴染むことができたんだ? どうして俺よりガラス細工が好きなんだ? どうして、俺が黒いビードロを割っても、好きでもないバトルをさせても俺に逆らわない? 灰かぶり、お前はきっと、俺がお前を置いて行くことをモンスターボールの中で知っていたんだろう? それでもどうしてお前は、俺を怒ったりしなかったんだ?
 どうして、どうして、どうして……。
 俺は灰かぶりのようになりたくて、だけどあいつになることがどうしてもできなくて。だから俺は、無意識のうちに灰かぶりの居場所を奪っていた。
 どうせ俺はガラス職人などなれない。だから、自分の夢を叶えたいという大義名分で灰かぶりをガラス細工から引き剥がした。そして俺がトレーナーとしての限界を感じると、灰かぶりがハジツゲに戻りたいから、というもっともの理由でのうのうと故郷へ帰ってきた。そして、それでも俺についてくる灰かぶりを見て俺は、自分の情けなさから逃げるために、就職にかこつけてあいつを置いて逃げた。
 俺がもしまだトレーナーだとしたら、灰かぶりはなんて最低なトレーナーを持ったことだろう。
「――あいつは……! こんなふがいない俺のことなど、会いたいと思うはずがないだろう……!」
 思わない。思うはずがない。俺だってそんな奴がいたら会いたくない。顔も見たくない。
 そんな俺の顔を、ユリは目を細めて見ていた。だが妹の顔は、俺が灰かぶりにひどいことをしたことに対して責めている顔ではなかった。彼女が俺のなにを責めているのかわからない。そして再びユリが口を開いたとき、その声は先ほどよりも幾分かトーンが下がっていた。
「灰かぶりは、どうしていつもビードロを持ち歩いているかわかる?」
 俺は首を横に振った。ただあいつがガラス細工を好きだからだと思ったが、そう言う勇気が起こらなかった。それほど、俺は灰かぶりのトレーナーとしての自信を喪失していた。
 すると、ユリはまるで俺の心を読んだかのように自身も首をゆるゆると横に振った。
「灰かぶりは、ただガラス細工が好きでビードロを持ち歩いているわけではないの……ビードロを吹いている、兄さんのことが好きだからよ」
「灰かぶりが……俺を……?」
「灰かぶりは昔から、ビードロを吹いてくれと兄さんばっかり追いかけてせがんでいた。でも、兄さんがハジツゲを離れてから、一度だって私や父さんへビードロを吹いてくれと灰かぶりが頼んだことはなかったわ」
「灰かぶり……」
 俺はてっきり、灰かぶりはビードロの音が好きで俺に吹いてくれとせがんでいると思っていた。
 だが、それは違うというのか。
「灰かぶりはね、兄さんがいなくなってもずっと、毎日のように兄さんの帰りを待っていたわ。時間がたって、灰かぶりが老いて、自分の足で歩くことが困難になっても、灰かぶりはずっと、兄さんを待ち続けていたわ」
 あいつは、まだこんな俺のことを……。
 膝に力が入らなかった。いや、それどころか、関節という関節から力が抜けた。立っているのが精一杯だった。ユリはそんな俺の二の腕をそれぞれ両側の手でつかんだ。そして弱く揺さぶった。
「それでも兄さんは、灰かぶりが自分と会いたくないかもなんて言うの? 今、灰かぶりと一緒にいてあげなきゃいけないのは誰?」
 気づけばまた俺は駆け出していた。迎えに行かなくては。すぐに、灰かぶりを。あいつはきっとどこかで待っている。今の俺にはそれしか浮かばなかった。
 どこにいるのかなんて見当もつかない。だが俺は直感に近い感覚で、ある一点へ向かって駆け出している。
 俺と灰かぶりの、始まりの場所へ。

 ◆

 会社勤めを始めた俺は、それこそ最初の方はそれなりに満足した生活を送っていた。どこへ行ってもガラス細工職人の息子と言われることもない。今まで精神をすり減らしながら行っていた六匹のポケモンの世話もなく、ある程度自分のための時間を作ることができた。もちろん実家にいるときと違って親父に怒鳴られることも、お袋に小言を言われることも、工房で作業するユリの姿を見て複雑な心境になることもない。
 だが、どうだろう。
 会社の同僚や上司、後輩に出身地を聞かれるたびに俺はハジツゲの名を出さなければならない。そしてそれを聞いたたいていの人間は、田舎だと鼻で笑うか、あいまいに笑みを浮かべているかしかしなかった。そのたびに俺は皮肉にも心にガラスの破片が刺さったかのような痛みを感じる。
 どうしてだ。俺はハジツゲが嫌いだ。あの町を捨てたというのにどうして小さなガラスの破片ごときに痛みを感じなければならない?
 そしてなにより変わったこと。それは休日の過ごし方だ。
 トレーナー時代にはそもそも休日なんてものは存在せず、いつでもポケモンたちに囲まれて過ごしてきた。いや、トレーナーになる以前にも、俺は休日になればいつだって灰かぶりと遊びに行って、文字通り火山灰まみれになって家に帰ってきたものだ。
 なのにこれはどういうことだろう。いざ自分のための時間を確保したかと思えば、そばに誰もいない寂しさを感じることになろうとは。
もちろん会社でできた知り合いもいる。だが、ハジツゲの名を鼻で笑った者たちのことはいまいち信用がならなかった。
 そして俺はいつの間にか、灰かぶりと過ごした日々ばかりを頭に思い浮かべていた。そして、休日が憂鬱になっていた。会社での仕事が楽しいと言われればそうでもなかったが、少なくともデスクで作業をしている間は何も考えずに済んだ。考える時間がほしくなかった。そうしたら、灰かぶりと過ごした日々を思い出してしまうから。もちろん灰かぶりとの記憶は楽しいことばかりではなかった。だが今となっては、辛く苦い日々ももう思い出として笑い飛ばせるほどには年を取っていた。
 だが、それでも故郷に戻る決心はつかなかったのは、やはり俺のちっぽけなプライドのせいだったのだろうか。
 俺は、ユリに言われて気が付いた。
 結局、俺には灰かぶりが必要なんじゃないか――。

 ◆

 火山灰まみれの草むらは静まり返っていた。だが、水面へ小さな石を投じるかのように、静寂を静かに揺らす音が響いている。間違いない。あの音は紛れもなくビードロの音だ。
 俺を導いているのかもしれない。自分はここだと訴えているのかもしれない。死期が近づき、もう歩くのさえつらいはずだというのに、ビードロの音は絶えず聞こえてくる。
 どこだ。どこにいるんだ。俺は鼻の穴に火山灰の粒子が入り込むこともお構いなしに大きく息を吸い込んだ。
「灰かぶり!」
 ビードロの音が少しずつだが大きくなっていく。草むらをかき分けて、時に立ち止まり、また俺とあいつを繋ぐ音色に耳を澄ます。
「灰かぶり!」
 会いたい。俺はいつだって自分のことばかりだった。自分のことしか考えてなかった。十七年前までは灰かぶりを嫉妬していた。だが今なら、脳裏に浮かぶのは灰かぶりの姿ばかりだ。ビードロを吹いてくれとせがむ姿、工房でユリとガラスを作る姿、バトルで負けてなく姿、滅多にない勝利に俺と一緒に喜ぶ姿、久々の故郷を懐かしむ姿……。
 十数年間の俺の人生で、灰かぶりは間違いなく俺のそばにいた。そして、俺がハジツゲを離れていた時も、あいつはいつも待っていてくれた。俺が帰ってきたときに灰かぶりがいなかったのはきっと、死ぬ前に俺と一緒にここへ来たかったからだ。
 いつの間にか心にぽっかりと穴が開いたのは俺の方だった。いつの間にか灰かぶりを必要としていたのは、俺の方だったんだ。
「灰かぶり!」
 もうすぐだ。灰かぶり。もうすぐお前に会える。俺は視界が開けるまで、その姿が見えるまで、草むらをかき分け続けた。
 そして確かに灰かぶりは、俺と出会った場所と全く同じ場所にいた。

 ぶち模様の入った毛と肌は、張りを無くしてしわが目立っていた。耳はだらんと垂れ下がっていて、ピンとたてる力もないらしい。だがあいつは息を切らした俺を見て、めいいっぱいの笑顔でこちらに近づいてきた。そして、俺の胸に飛び込む。
「ぱちぃ! ぱちぃ……!」
「灰かぶりッ!」
 俺は、灰かぶりを強く抱きしめた。もう二度と、二度と離さない。もう二度と、お前を置いてどこかへ行ったりするものか。
 自分の感情に収拾がつかなかった。俺は、なんて馬鹿だったんだ。会えてうれしい。俺はここにずっといるから。だから、どこにも行かないでくれ。天国にもどこにも行かないでくれ。死なないでくれ。そんな感情が回りに回って、それが涙となって灰まみれな俺の頬をつたって、滴が灰色に染まった。
 こんなに気持ちがあふれているのに、どうして口からはくぐもった嗚咽しか出せないのだろう。
 灰かぶりは、どれだけ年が経っても俺のことを待っていてくれた。俺が灰かぶりに嫉妬し、居場所を奪い、ハジツゲに置いて行っても、お前は十七年間、待っていてくれたんだな……。どうして、俺はこんなにそばにいるパートナーの優しさに気付けなかったのだろう。
「灰かぶり……!」
 灰かぶりが生きていられるのは、これから数日、いや、数時間かもしれない。だが、俺は十七年間ぽっかりと空いていた心の穴を、その残りの時間で埋たかった。そして、埋めてやりたかった。もう昔のように、俺のためではなく。今まで待っていてくれた、灰かぶりのために。
 これは俺のわがままかもしれない。だが、灰かぶりが俺と一緒にいることを望んでいるのなら、彼が好きなことを精いっぱいしてあげたいと思っている。
 しばらくして、抱きしめられていた灰かぶりが俺に黒いビードロを差し出した。それを持つ腕は震えていて今にも落としそうだった。
 俺は黙ってそれを受け取った。吸い口に付いた火山灰を払い、小さく息を吹き込む。
 ぺこん、と。間の抜けたガラスの音に、灰かぶりが笑った。
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