> ため息と一緒に毒を吐く 作:一葉
ため息と一緒に毒を吐く 作:一葉

「はい?」
 すっとんきょうな言葉が返ってきた。だからもう一度、一字一句違わずに繰り返す。
「自転車が、盗まれたの」
「あー……」
 彼は掛ける言葉を探して視線を彷徨わせる。その挙げ句、彼の口から出た言葉は「災難だったね」なんて当たり障りのないものだった。
 災難だった、なんて他人事な言葉だろう。彼にとっては他人事だ。恋人であろうと自分ではない、盗まれた自転車も自分の物ではない。そんなつもりではない、とわかっていても苛立たしい。
「自転車が盗まれたの、とても悲しいわ」
「うん、そうだね」
 そうだね。そうだね、それだけですか、そうですか。自転車が盗まれた事にも腹が立つが、目の前のとんちんかんにも腹が立つ。恋人が自転車を盗まれて怒り心頭です。そうだね、問一、だったらどうするべきでしょう。どうせ、取り返す、なんて出来る訳がないのだから、選択肢はあまり多くは無いと思う。
「……とりあえず、気晴らしにでも行こうか」
 思い切り睨み付けてやったら少しは伝わった。でも出来ればもう一言欲しい。だから「甘いものが食べたい」と伝えた。
「……わかった、奢るよ」
 ようやく観念したようだ、彼の奢りにまで漕ぎ付けた。なんか私が強欲で守銭奴みたいじゃないか。自分の自転車が盗まれて苛々するし、少しは凹んでいる。だから彼氏さんに甘やかしてもらいたいだけで、決してタダ飯が食べたい訳ではない。
「で、どこ行こうか?」
「駅前のケーキ屋さん」
「……結構遠いな」
 結構遠い、そんな事はない。自転車なら三十分もあれば到着する、自転車ならば。
「運転、お願いね」

 私の自転車がないので、当然二人乗りする事になる。男の子みたいに荷台に跨って乗った方が安定するのだろうけど、そうすると結構大きく足を開かなければいけないのが恥ずかしくて、横向きに腰を掛ける。そして体を安定させる為彼の腰に手を回すのだけど、これが意外と細くてムカついた。
 彼は痩せ形だ、まるでもやしのようにひょろい。それなのによく食べる、でも太らない。私は太り易いから甘いものは出来るだけ我慢している、よく流されるけれど。必死に我慢して運動も少しして今の体重と体型を維持している乙女を前に、よく食べてよく寝て運動あまりしないけど太らないなんて、私に、全世界の女の子に対する挑戦だとしか思えない。脇腹にグーでパンチしてやろうかと思ったけれど、自転車で転ばれても大変だから止める。私はケガしたくない。
「でもなんで盗まれたの?」
 なんで盗まれたのとは随分な質問だ。なんで盗んだ、だったらきっと明確な答えもあるだろうに、好き好んで盗まれた訳ではないので、なんで盗まれたと聞かれても返答など出来るはずもない。朝コンビニに寄った時に鍵を掛け忘れて、ちょっと少年サンデーを立ち読みしている間に盗まれたなんて事は、彼の質問とは全く関係ないはずだ。
「もうその話は終わり、今はもう私の頭にはスイーツの事しかないの、美味しいスイーツで嫌な事は忘れるの」
「……まぁそうだね」
 嫌な事は忘れるに限る、と思っていたら「ケーキ一つでさっぱり忘れてくれるような性格なら、僕も楽だったんだけどね」なんて呟いてきた。今度ばかりは後ろ頭にチョップを入れてやった。もちろん加減はする、転ばれたら私が大変なので。
「まさか自分がそんな潔い性格だと思ってるつもり?」
 言われるまでもなく答えはノーだ。自他共に認める程執念深い。だからと言って、それを他人に指摘されても気にしない訳ではない。
「今の一言で深く傷付いたの、具体的にはウインドウショッピングで冷かして回りたいくらい傷付いたの」
「……わかった、付き合うよ」
 やった、と心の中で呟く。ついでにガッツポーズもとってみる。自分で思っている通り執念深い私は、自分で思っていた以上に甘えん坊だったようで、彼が仕方なさそうに応えた一言が予想以上に嬉しかった。
「奢り?」
「っ、あのね、僕の経済状況も少しは考えてくれると助かるんだけど、ケーキ一つで勘弁してくれないかな」
「レモンタルトとコーヒーで手を打つわ」
「……わかった」
 少し間が合った。きっとレモンタルトとコーヒーの値段を思い出し、財布の中身と会議していたに違いない。そもそもウインドウショッピングに奢りも何もない事をわかっているんだろうか、冷やかすだけで何も買うつもりはないのだから。
 割と他愛もない話が続いた。彼はすぐに余計な事を言う、だからその度に後ろ頭を小衝いてやった。その数六回だ、如何に彼が一言多いかがわかる。自転車で転ばれたら困るから手加減はしているけれど、もしかしたら私のストレスを発散させようとやってるんだろうか。一々腹が立つから逆効果のような気もするけど、でも自転車の事は少しだけ気が紛れたような気がした。
 やっぱり甘えてる。そう思ったのは嫌な気分ではなかった。

 甘さは控え目だが酸っぱ過ぎず、さっぱりとした味わいが自慢のレモンタルト。サクサクのビスケット生地にとろけるようなレモンクリーム。とろけるような、は過小評価だ。口に入れた瞬間に溶けて消えてしまうほど滑らかで、口いっぱいにほのかな甘味が残る。コーヒーと言ったけどあれは嘘、レモンタルトにはコーヒーより紅茶が合う。お値段はコーヒーよりも割高だけど、ケーキを引き立てるように厳選された紅茶の数々はどれをとっても絶品なのだ。別にコーヒーが美味しくない訳ではないけれど。
「……食べてる時だけは幸せそうだよね」
 彼が呟いた。失礼だ、それでは私が食いしん坊キャラみたいではないか。
「そんなことは、ない」
 断言する。だけど「口元弛んでいる」との指摘には返す言葉もなかった。女の子は甘いものを食べてる時が一番幸せな時間なのだ、異論など認めない。
「でも、食べてる時だけ、ではない」
 例えば、女の子が三番目に幸せな瞬間。
「可愛いものを見てる時も幸せそうだと思う」
 猫とか、子猫とか、とら猫とか……
「あぁ、そうだね」
 何かを思い出したのかクスクスと彼が笑った。むぅ、墓穴を掘った気分だ。猫に夢中になって色々とやらかした事は両手で数えきれない程になる。どんな失態を思い出されたのか検討もつかないくらいだった。
「……忘れて」
 じゃないとグーで殴って記憶を飛ばすしかなくなる。
「忘れてと言われて忘れられるような記憶でもないかな、インパクトが強過ぎた」
 一体何を思い出した? 知りたい気もするけど知るのは恐ろしくて聞けない。それよりも、だ。
「忘れろ」
 すっと握りこぶしを作ってみせる。一刻も早く記憶の消去が必要だ。それには武力行使も辞さない、今は自転車に二人乗りじゃないから私に危険もないし。
「わかった、もったいないけど忘れよう、暴力反対」
 どうせ忘れる気など無いんだろうけど、本当に覚えているのか確かめる方法もないので諦める。忘れると言った以上それをネタにする事はないだろうし。ネタにしたらその時はグーで怒突き倒してやれば良い。
「さて、ケーキも食べ終わったし、この後はどうしようか」
「……」
 考えていなかった。帰ると自転車を盗まれた事ばかり考えてしまいそうで、まだ帰りたくない気分ではあるが、特に目的もない。ウインドウショッピングと言っても見たい物すら決めていなかった。
 何かないかと窓の外へ視線を彷徨わせる。
「……あの自転車」
 不意に何台か並んで信号待ちをしている一台に目が留まる。見覚えのあるピンクのフレーム、後輪に付いた白いボンボンは二つ連なっている。鍵に付けてあるキーホルダーは青い首長竜にも似ていた。
「私のだ」
 思わず席を立った。駆け出して外へ飛び出る。信号が変わった。走りだされたら追い付けない、思い切り叫ぶ。
「自転車泥棒!」
 振り向いた。信号待ちの自転車が一斉に振り向いた。事態を掴めず停車したままの自転車、きっとこれが正しい反応。だけど、一人だけ、私の姿を見るやいなや、慌てるようにペダルを踏み、立ち漕ぎで逃げていく。逃がすものか、土下座でも足りない、しっかりと警察に突き出して当然自転車も返して貰う。
 彼の自転車に飛び乗ると、ガチャリと言う音がした。当然だけど鍵が掛かっていた。走って追い掛けるか、彼から鍵を奪ってくるか、迷っている内に私の自転車は見知らぬ誰かを乗せたまま、どこかへ消えてしまっていた。

「どうしたのいきなり?」
 今頃遅れて彼が出てくる。
「私の自転車、だった」
 間違いない、フレームの色も、後輪に付いているボンボンも、鍵に付いていたあのキーホルダーも、絶対に私の物だった。
「見間違えじゃなくて?」
「泥棒って言ったの、こっちを見て慌てて逃げたの」
 私達は学校帰りにそのまま来ているから当然制服のままだ。ならば、私がどこの高校の生徒か一目でわかっただろう。私が自転車を盗まれたコンビニは、高校のすぐそばのコンビニで、うちの学校の生徒が立ち寄る事で有名だ。確率として、通学の時間に盗めば、当然その自転車はうちの高校の生徒の物である可能性が非常に高くなる。だから逃げたのだ。私の姿、制服を見て。
「もっと早く来てくれたら追い掛けられた」
 せめて自転車があれば追い付けたかも知れないのに。
「ごめんね、でもレジでお金を払ってたんだ」
 そういえば、まだお金を払ってないのに出て来た事を思い出した。
「奢りだから大丈夫」
 とは言ったものの、せっかくの気分が台無しだった。レモンタルトのほのかな甘味がどこかに消えてしまった、さっぱりとした酸味ももう思い出せない。
 自転車を盗まれただけでも腹が立つのに、レモンタルトの至福な一時さえ邪魔をされた。怒り心頭を通り過ぎて笑みがこぼれてくるくらいだ。クスクスと含み笑いを漏らすと、彼があからさまに引いていた。
「落ち着こう、別にひゃくまんえんもするって訳じゃないんだし」
 そうね、引換券も貰った記憶はない。安物の自転車には違いないのだけど、それとこれとは別の問題だ。私の自転車を盗んで、私に悲しい想いをさせた、当面の問題はこの一つだ。

「……そうだ」
 思い出したように彼が言う。顔もよく覚えられなかった自転車泥棒にどう復讐してやるか考えていたところだと言うのに。
「小鳩屋寄っていこう」

 小鳩屋はこの近くにある大きなデパートだ。七階建てのそのデパートは、特に目立った特徴もなく世間一般的なデパートと変わりはない。一つ特徴をあげるとすれば、良くイベントを開催している事くらいだ。先月開催していた「世界のわんにゃん展」には三度足を運んだ。仕方なかったのだ、世界中から可愛いわんにゃんが揃う祭典、女の子として見逃す事は出来なかった。もちろん、彼には黙って行った。思わず取り乱すかもしれない、実際あまりの可愛さに少し取り乱した。さすがに彼氏に見せたい姿ではない。
「先月のわんにゃん展には来てたんだって?」
 なのに何故知っている。
「先輩が見掛けたって言ってた、ずいぶんはしゃいでる子がいたって」
「……忘れて」
「らしくて可愛いと思うよ」
 お褒め戴きましてありがとう。
「でも忘れろ」
「そうだね、善処しよう」
 やっぱり彼の返事は忘れるつもりなど更々ないようだった。猫とスイーツに関しては少し自重しよう、せめて知り合いに見られていないか気を配れるようにしよう。
 今日は厄日だ。自転車は盗まれるし、スイーツだけではなく猫にも制限が掛かるなんて。しかし、スイーツの制限を緩和すれば体重が眼もあてられなくなるし、にゃんこによる癒しを制限すれば甘いものに走りたくなってしまう。にゃんこは肥えると言うリスクもなく、日頃の悲しみから救ってくれる唯一の手段だったと言うのに、これから私はいったいどうしたら良いんだろう。
「あのね、聞いてるかな?」
 呼び掛けられて我に帰る。ずいぶんと話し掛けていたらしく、いつの間にか彼は真正面に立って私の顔を覗き込んでいた。
「ごめんなさい、ちょっと考え事していたの」
「エレベーター、来たよ」
「……うん」
 それならもっと早く教えて欲しい。他にエレベーター利用者がいなかったから良かったけど、開いているエレベーターの前でぼーっとつっ立っていたら迷惑極まりない。
 二人でエレベーターに乗り込むと、彼は六階のボタンを押した。六階、玩具売場やゲームコーナーがある階だ。
「今、何かやってるの?」
「そうだね、着いてからのお楽しみ、と言うのはどうかな?」
 ケチだ、それくらい教えてくれたっていいのに。仕方がないからエレベーターの到着まで待つ。六階までの間が保たない、彼がお楽しみなんて言うから聞き辛いし、他の話題なんてぽっと出てこない。何も考える事がないとすぐに自転車の事を考えてしまうから、六階でどんなイベントをやっているのか想像してみる。玩具売場だから、なんて考えていたらもう到着してしまった。
 正解は……
「ポケモン?」
 エレベーターが開くと、真っ先に眼に飛び込んできたのは詰み上がったポケモンのぬいぐるみだった。ツタージャ、ポカブ、ミジュマル、イッシュ地方の始まりのポケモン、御三家で出来たぬいぐるみタワー。
「正確には、ポケモンぬいぐるみフェアだね」
 彼は「好きだよね」と笑った。確かにポケモンは好きだ。新作の予約が始まったので抜かり無く予約してきた。特に水ポケモン、ラプラスの耳とか可愛いと思う。
 だからと言って、ポケモンのぬいぐるみに浮かれて自転車を盗まれた怒りを忘れられるほど子供っぽくはないつもりだ。この悲しみを塗り潰したければ、この世すべての猫でも連れてこい、と。猫まみれどころか、物理的に猫に押し潰されそうだと思ったので、せめてこの近辺だけにしておこうと思う。この町内すべての猫でも連れてこい、だ。
「こっちこっち」
 虎猫の肉球をぷにぷにしているところで、現実に呼び戻された。我ながら現実と見間違うほどリアルな妄想だった。少し残念、しかしこんな事では猫制限など到底不可能なのかもしれない。頭の中の猫達も名残惜しいが、呼ばれたので彼の後を付いていく。
「一応今回のイベントの目玉商品、看板商品だったかな?」
 彼がそう説明した。思わず言葉を失う。ネットでは見たこともあるけれど、実物を見るのは初めてだった。
 水色の身体、トゲトゲの甲羅、そしてつぶらな瞳。
「……ラプラス」
 ラプラスのおっきなぬいぐるみ、その高さ、なんと三十センチ、そのお値段の高さ、なんと八千五百円。
 思わず手に取ってみた。さすが最高級ラプラス、その手触りは低反発枕のようで、抱き締めたくなる衝動に襲われた。むしろ抱き締めた。抱いて寝たら最高だろう、そんな感触だった。
 チラリと彼を見る。だが彼は即行で目を逸らした。横顔が八千五百円は無理だ、と語っている、わかってたけど。逆にこんなに高い物を買ってもらったりしたらこっちが困ってしまう。ケーキを奢ってもらうくらいがちょうど良い、それくらいなら私もたまにジュースを奢ったり、たまにお菓子を作ったりで差し引きゼロだ。
「ねぇ、このラプラス触り心地がすごく良い」
「そうだね」
 触ってみて、と彼にラプラスの頭を押し付ける。ぽんと頭に乗せた手が軽くラプラスを撫でる。その様子を見ていたら、彼が怪訝そうに眉をひそめた。

「どうしたの?」
「なんでもない」
 思わず目を逸らしてしまった。顔もたぶん赤くなっている。彼は不思議そうにしていたが、それはわからなくても良い。
「だ、抱いて寝たら気持ち良いと思うの」
「うん? 確かに抱き心地は良さそうだね」
 突拍子もない、と言うほどでも無かったが少し不自然な話の振り方だった。ラプラスの頭を撫でる手を見たとき、ふと、あんな風に私の頭も撫でて欲しい、なんて血迷った事を考えてしまった。いくら何でも恥ずかしすぎて、彼の顔も直視出来ない。
 これは忘れよう、なにか別の事を考えよう。隣に飾ってあるぬいぐるみセレクションでも、逆隣にある等身大ピカチュウドールでもなんでも良かった。なのに、何故か、よりにもよって何故か、自転車が盗まれた事を思い出してしまった。
 女の子の幸せな時間第二位、好きな人と一緒にいる時間も台無しになるまさかのどんでん返しだった。ほら、自分の自転車がないから帰りは送ってもらえる、彼は歩いて帰れなんて言う人じゃない。ついでに家に寄って貰っても良い。そうだ、自転車が返ってくるか、買い替えるまで迎えに来てくれるかもしれない、私の家から学校までは少し距離があるから、頼めば遠回りになるけどきっと来てくれる。彼の細いウエストにぎゅっと抱き付いてみても良いかもしれない。きっと恥ずかしがるけど、離れろとは言わない。それからそれから……
 ダメだ、もう考えないようにしようと思うほど、逆に意識してしまう。自転車が盗まれた、私の自転車が盗まれた。
「……喉渇いたから、なにか飲み物買ってくる、ケーキのお礼、奢るよ、何が良い?」
 口にして、不自然だ、と思った。あまりに突然だ、きっと態度もおかしかった、うまく笑えてもいなかった。でも顔を合わせていたらもっとボロが出る。「いつもコーラだよね、コーラで良い?」「あぁ、うん」短い会話で強引に押し切り、彼から離れる。
「ちょっと待っててね」
 彼から逃げる。少し距離を取った所で振り向くと、律儀に待っていてくれたのか、追ってくる様子はなかった。
 追ってきて欲しかったのだろうか。自分勝手だ、でも心配して付いてきてくれたらきっと嬉しい。ささくれだった心も少し落ち着く。
「……待っててって言ったの、私か」
 やっぱり来ない彼に悪態を付き、自動販売機を探して歩く。自分でもわかるくらい様子もおかしかった、だったら少しくらい心配して付いてきてくれてもいいじゃない。本当は喉も渇いていない、見つからなかった事にして戻ろうか、と思っていたら自動販売機を見つけてしまった。いつもならコーヒーなのだけどペットボトルの物がなかったからコーラとオレンジジュースを一つずつ。そしてオレンジジュースに一口口を付けると、彼を置いてきた場所に戻った。

 ちょっと待っててね、と伝えた。飲み物を買いに行った時間はそんなに長くない、ちょっとのはずだ。なのに、彼はそこにいなかった。私を置いて先に帰った、とは考えられない。だけどいない、周りを見渡してもいない。腹が立つ。待っててと言ったのに。あぁもう、なんで待っててくれないの? 追ってきて欲しいと思ったら律儀に待っている、そう思ったのに自分だけ何処かへ行ってしまった。腹が立つ、苛立たしい、ムカつく。
 置いて帰ってやる。歩いて帰れば一時間以上掛かる、構うものか。日が暮れる、物騒な事件なんて聞かないけれど、今日に限って起きれば良い。そうなったら全部彼のせい、私を一人にした彼のせい、あぁ、自分から一人になったんだっけ? もうやだ、嫌な事ばかり考えてしまう。泣いたら戻ってきてくれるかな、今日はいつもよりきっとワガママだったから、戻ってきてくれないかもしれない。甘えん坊なのは少しだけ認める、でも弱気なのは私らしくない。なのに、なのに……
「あ、早かったね」
 後ろから彼の声がした。随分とあっさりとした声だ。人にこんな寂しい想いをさせて、あ、だ。怒鳴ってやりたかった、思い切り叩いてやりたかった、それ以上に抱きしめて欲しかったのは、嫌な事があって情緒不安定だからだ。だから、抱き付いてもきっと許されるに違いない。
 そう思って振り向いたら、顔からそれに突っ込んだ。
「あ、ごめん」
 紙袋で頬を少し引っ掻いた。それは我慢する、抱き付くタイミングを完全に逃した、この寂しい気持ちはどうしたら良いのか。
「……それ、なんなの?」
 彼がぶつかった拍子に落とした紙袋を拾い上げる。さっきまで紙袋なんて持っていなかったはずだ。だから、私が飲み物を買いに行ったそのちょっとの間に、彼が何処からか用意した物と言うことになる。
「うん、まぁ、そうだね、おっきなラプラスは無理だけど、ちょっと元気出してくれたらいいなって」
「……」
 頭の中が真っ白だった。それは、つまり……
「くれるの?」
「僕がぬいぐるみ持っていても仕方がないと思うよ」
 中身はぬいぐるみなんだ。悲しくて、寂しくて、苦しくて、泣きそうだったのに、今は、嬉しくて泣きそうだった。
「……ありがと、中、見てもいい?」
「どうぞ」
 おっきなラプラスは無理だけどって言ったから、きっと小さなラプラスだろうか。自転車の鍵に付けていたラプラスのキーホルダー、もしかしたら彼がくれたものだって覚えていてくれたのかもしれない。中を見たら涙腺が崩壊する、彼はきっと慌てる、頭を撫でてくれるかもしれない。今日はもう甘え過ぎている、だから、これ以上どれだけ甘えても恥ずかしくはない。だから……

 結果から言うと涙腺崩壊は免れた。ついでに感動も何処かへ飛んで行った。紙袋の中にいた物、茶色くて不思議な顔をした物体。なんとも形容し難いそれの名前を私は知っている。
「……あの、なんで……マッギョなの?」
「え、可愛いから」
 台無しだった。なんかもう、全部台無しだった。ラプラス、ラプラスのはずだった。絶対ラプラスが入っているべきだった。百歩譲ってシャワーズ、ポッチャマでもいい、ミジュマルはダメだ、スイクンでも許せる、シチュエーションを思えばラブカスでもいい。でも、マッギョは、ダメだ。マッギョだけは、絶対に、ダメだ。そもそもマッギョは水ポケモンではない。
「この顔、癒されると思うんだけど」
「……」
 返事に困った。予想外なんてレベルを通り越していて返答のしようがなかった。
「あれ、ダメかな?」
「……うん」
 あぁ、なんだろうこのやり場のない気持ち。それからマッギョのマヌケな顔。深く、深く、ため息を吐く。なんか、もうどうでも良い気がしてきた。自転車を盗まれた事には腹が立つけれど、そればかり考えているのも馬鹿らしく思えてくる。これ、癒されてるって言うのかな、なんか違う気がする。
 ふと、適切な言葉が浮かんだ。きっとため息と一緒に抜けていったに違いない。

「毒気を抜かれたみたい」


 
> ポイズンガールは終わらない 作:月光
ポイズンガールは終わらない 作:月光

 シッポウシティ……それが私のいる街の名前。百年前の倉庫をそのまま再利用していると言えば聞こえはいいが、単に予算がないだけじゃないのだろうか。
 この街のジムリーダーであるアロエさんはパッとしない博物館の館長の奥さん、要するに金銭感覚が庶民並み。必要以上に金を使わない。
 別にそれならそれで良いのだけれど最近はイッシュ地方全体の就職状況や経済状況がよろしくないのは承知のはず、要らない機材と土地と労働力が余っているのだからもう少しどうにかならないものかしらね。
 カフェの窓から見える外の景色を眺めつつ、経済雑誌を読む私は漠然とそんなことを考えていた。よく見てみれば空が曇っているわね、午後の天気は雨かな。
 未来の自然環境を察知する力でも持っているのか、マメパトやハトーボーがヤグルマの森へと帰って行く姿が見える。私も彼らみたいに、本能で生きていければ嬉しいんだけど……

「ちょっとアミカ! 何で私のライブに来なかったの!?」
「ん? あぁ、なんだホミカか。ライブも何も、ただ公園で爆音響かせてるだけじゃない。アレはライブって言わない、騒音公害って言うのよ」

 現実問題こいつの音楽は聞けたもんじゃない。ベースのホミカが自己主張し過ぎるせいで低音が目立ちまくり、理性を吹っ飛ばすどころか醒めて来てより具現化する。
 残念なことに彼女はベーシストをしているよりもポケモンバトルの方がしっかりセンスがあるのよね。適材適所、ホミカの才能ならジムリーダーにもなれる可能性があるのに、不運なことに音タイプなんてポケモンは存在しない。
 確かカントー地方にはマチス、シンオウ地方にはデンジ、ここイッシュ地方にはカミツレが電気タイプのジムリーダーとしているわね。
 こいつなら多分将来的にジムリーダーやるなら電気タイプになるんだろうけど、それだとかなり競争率が激しい戦いになりそう。あーいやいや、そもそもこいつがバンドを組む可能性だってあるわ。
 でも絶対にジムリーダーになった方がホミカのためだと思うんだけどな。人間って自分のことは自分が一番知っているとか思うらしいけど、大多数の人間はそんなの無理。他者の判断方が基本正しい。
 人は周りの物を見て自分の価値を判断する。周りを見て周りの価値を判断する。なのに、自分自身のことを知り尽くしたつもりになって、本当は全然知らない人間が沢山いる。

「ホミカはそのタイプかなぁ」
「な、何よ。何の話?」
「別に。それより何の用があって私に会いに来たの? ポイズンガールはお嫌いなんでしょ。それとも、文句を言うためだけに会いに来たのかしら」

 ポイズンガール、この呼び方にも慣れて今では自分でも自虐的に使ったりはしている。
 私は毒タイプのポケモンが大好きだから、持っているポケモンはペンドラー。毒のことなら何でも知っているつもりで、尊敬する人はカントー地方の四天王の一人、キョウさん。
 いつかは弟子入りしようと思っているが、如何せんイッシュ地方からでは距離が遠い。引き取ってもらった家から疎まれる私に、今の両親が金を出すはずがない。

「相変わらず毒々しく陰険だよねアミカって。何でさ、親戚なのにそんなに余所余所しいわけ」
「親戚と言ってもホミカのお父さんのお兄さんの結婚相手の妹の結婚相手の弟さんの娘よ、私は。血縁的には七次も離れているし、殆ど赤の他人じゃない」

 どうしようもない私を引き取ってくれたのはホミカの家族。他の近い親戚は尽く私の受け入れを断って、盥回しにされてイッシュ地方まで転がり込んだ。
 当たり前である。私の両親は自殺したのだ、毒を使って。いや、一般的なニュースではそのように扱われているが真実は違う。
 私が殺したのだ。両親の結婚記念日にケーキを作って、ちょっとした毒のスパイスを使って、本当なら大丈夫なはずだった。知らなかっただけ、父さんと母さんがあの毒に異常なまでに弱かったことを。
 世間は私を疑った。親戚も私を疑った。当たり前、疑われて当たり前。だけど私は言えなかった。怖かったから、そして私は今、空っぽだ。虚無を生きている。

「そんなことはどうでもいいのよ! 血縁とかは、心に響く音楽とは関係ない!」

 だったら言わないでよ、紛らわしいわね。

「私はアミカに私の音楽を聞いてほしいの。だってアミカ、何かいつも……寂しそうだからさ」
「私は別に寂しくもないし、今の生活に不満があるわけでもない。貴方の様に情熱を捧げられる趣味もないし、ジムリーダーになれるような素質もない」
「ジムリーダー? 何それ」
「ホミカはポケモンバトルの才能がある。私はそう思っているわよ、貴方がどうかは知らないけど。私にはそれがない。だから……ね、そゆことよ」
「夢がないなー本当に、毎日何考えて生きてるのよ。そもそも私がジムリーダーになると何かいいことあるわけ? ないでしょ」
「あるわよ。ホミカが今、一番望んでいることに繋がるわ。ジムリーダーと言えばバトルが強い、バトルが強いと人気者、人気者ならば人が来る。必然的にホミカのライブに人が来る。どう、簡単な方程式でしょ」
「そ、それ本当なの!? ぬうう、そっかそっか、そういう方法もあるのか。分かった、私はバトルでも人の理性を吹っ飛ばせるようになる! じゃあねアミカ、次のライブは来てよ!」
「騒音じゃなければね、少なくとも今のままじゃ行く気にならないわ」

 さっきまでの不機嫌が不思議なほどに無くなってまあ、清々しく出て行くこと。まったくもう、その安直さと素直さが少し羨ましい。
 ホミカは気付いていないのね、あの子にはポケモンバトルの才能がある。私だって小さい頃は夢見なかったわけじゃないけど、私にはどう頑張っても届かない領域だった。
 それを自覚した時に気が付いた。人には向き不向きがあり、可能と不可能がある。自分に可能なことと不可能なことを知って初めて、人は自分を知るのだと。
 不運にもそれは私の両親が教えてくれた。ただの毒ならば中和して解毒できる自信があったけど、極度のアレルギー反応を示してしまったらもう手がつけられない。助からない。私には、助けられない。
 同じように引き取られてホミカを初めて見たときに、私は分かった。彼女こそがジムリーダーになれる存在、私はなれない存在。だから、別のことをしようと。

「柄にもなく熟考しちゃったわね。いくら考えたって、知識以上のことを想像することは私には不可能。だってもう、心が死んでいるんだから」

 正直な話、私はあまり生きていることに執着していない。考えることが億劫になって、思い出せば吐き気が混沌とする迷路に迷い込んで、私を意識の闇へと誘って行く。
 だから私は放棄したのだ。普通の人が望むであろう『一生懸命生きること』を、『夢を持って生きること』を。私は投げ出して、逃げ出した。
 そんなことを考えながらストローを啜ったら中身が出て来ない。見るとカフェオレはもうなく、カラカラとプラスチック製のカップの中を、若干凸凹した氷が犇めき合って蠢いている。
 私の心はこの氷と同じね。冷たくて、凹凸は滑らかで刺激が無く、欲を失い透明になってしまった哀れな残骸。あら、私としたことが少し詩的な表現になっちゃったわ。

「濡れるのも嫌だし帰ろうかしらね。家にいても良いことはないけど、長居したら店側に悪いって……傘? あぁ、ホミカの奴、忘れて行ったのね」

 そう言えば店に入って来た時は右手に傘を持っていたけど、出て行く時は何も持っていなかった気がしないでもない。
 午後も公園でライブをいつもやってたっけ……届けてあげるかな。雑誌を本棚に戻して準備完了、お金はテーブルの上に置いておけば厄介なレジをしなくて良いのがこの店のチェックポイントよね。セキュリティ上問題ある気がするけど。
 外に出て空を確認すると鉛色の部分がさらに重苦しくなって、これはいよいよ大雨の気配がして来た。残念だけど、午後のホミカのライブは中止ね。
 巡回バスに乗っておよそ十分、歩いても三十分、カフェから公園は意外と近い。途中でホミカとすれ違うかとも思って道を確認していたけど、どうやら彼女もバスを使った様だ。見つからなかった。
 あの子は濡れると幽霊みたいになる。ただでさえ幼い体形をしているのに、鬱陶しそうな前髪が額に張り付いて幽鬼を思わせるのだ。見た目がアレなのもライブに人が来ない原因の一つではないかと私は推測する。

 ふと思った。本当に何の前触れもないんだけど、思った。何で私は、ホミカのことになるとこんなに積極的になるのだろうか。
 絶望の淵に立たされてれ、突き落とされた私を引き取ってくれたのは確かにホミカの家族だが、私は彼らに何の恩義も感じていなければ悪意も感じていない。
 彼らは世間体と家族内優先順位の序列に引き摺られて、自分達の都合で私を引き取ったに過ぎないのだ。だから私を疎ましく思う。
 尤も、別にそんなことは私の知ったことではない。だから私も彼らには関心を抱かない。私を疎ましく思ってくれればそれで良い、それで気が晴れるならいくらでも疎んでもらっても構わない。どうせ心がないのだから。
 だけどホミカは違う。あの子は空っぽの私の心に気付いているのかいないのか、いつも前向きで笑顔で努力して、まだまだ下手だけど持ち前のライブで必死に私を元気付けようとしてくれている。
 これが偽善から来るものなら、きっとそれこそ私は悪意と殺意を思えたはず。だけどそんな気持ちは全くない。
 そうか、私はまだまだ私を知っていなかった。こんな些細なことでも人は気付くことが出来るのね。私は……ホミカが好きなんだ。私には無いものを沢山持っている彼女を、私は好きなのね。

「どうして気付かなかったんだろう。そう言えば、去年の今日は私に『誕生日ケーキ作ったよ』って言って、塩だらけの岩塩ケーキ持って来たっけ……ふふふって、なんだ、私もまだ笑えたんだ」

 醒め切った心のどこにこんな熱が残っていたのか知らないけど、少なくとも私は、カフェオレの中に残った氷よりは温かい心を持っているようだ。
 バスを降りればすぐ目の前には公園がある。きっと騒音を響かせる準備をしているんだろうな。でもまあ、たまには良いよね、騒音も。

「ん? うわ、ポイズンガールが来た!」
「嘘ぉ!? ホミカのライブを騒音と断じて止まないあの冷徹機械毒女が来るなんて、この世の終わりだ! シッポウシティが壊滅するぞ!」
「……アンタら、普段から私のことをそう言う目で見てたんだ。今度から宿題は地力で解決することね」

 ここの子どもが学校から出された宿題を、ホミカを通して私に聞いていることぐらいは知っている。あの子は人が良過ぎるのよ、少しは利用されていることを怒りなさい。

「傘届けたら帰ってあげるわよ。それで、ホミカはどこに行ったのかしら。もう着いているんでしょ、ステージ裏?」
「それがね、『ジムリーダーになる準備して来るから今日の私のライブの番は飛ばして』って言って帰っちゃったよ。ヤグルマの森に行くんだって」
「全く、本当に行動が早いわね。それが彼女の良いところなん……だ……けど……ちょっと待って、どこに行ったって言ったのかしら」
「ヤ、ヤグルマの森だけど」
「この時期に、このタイミングで……あの馬鹿! 何で私に一言も言わないのよ!」

 走り出していた。このままじゃホミカが危ない。今この時期にヤグルマの森に行ってはいけないことぐらい、普通の大人なら知っていること。
 だけど彼女は大人じゃない。まだ子ども、私より小さいくせに私よりアクティブ。いくら夢のためとはいえ短絡的過ぎる。握った傘が握力で折れてしまうんじゃないかと思った、そんな力無いけど。
 バスはさっき出てしまった。それに巡回型だからどうしても回り道が増えて遠回り。体力に自信がある方じゃないけど、今はそんなこと言っていられない。
 クールで冷徹キャラの私が――別に狙ってはいなかったけど――こんなに走るなんて、いつ以来のことかしら。色々なことに疲れ果てていて、体力がとにかく酷く訛っている。
 息が苦しい。肺が痛い。転びそうになる。それに加えて鉛色の空は耐えかねた痛みに涙を流すかのように、大粒の雨を落とし出した。寒さが加わって、手が悴みながら走り続けた。
 途中で転んでしまった。服が泥だらけになる。膝を擦り剥いた、だけど止まるわけにはいかない。もう失いたくない、私の心に宿った熱を。大事な人を。

「ホミカ……はぁ……はぁ……絶対……はぁ……無事でいて!」

 すれ違う人々に変な目で見られながら、時にはポイズンガールと言うことで避けられながら、私はただひたすらに走り続けた。
 私のペンドラーは酷く雨を嫌う。冷たいし体中が痛くなるのだから当然だ。だから私は雨の日にこの子を出さないことにしていたけど、今はもうそんなことを言っている余裕がない。

「お願いペンドラー、貴方のことも私は投げ出していた……はぁ……はぁ……都合が良いと思うかもしれない。けど! 貴方の力を、私に貸して!」

 モンスターボールをこんなに勢い良く投げるのって、いつ以来? 何となくで一緒に生きて来たペンドラーをこんなに頼りにして出したのは、何年前?
 出て来たペンドラーは何も言わなかった。ただ黙って背中をこっちに向けて、後ろ脚を曲げてくれた。
 早く乗れ――そう言っているように瞳は訴えかけている。ホミカは毒タイプのポケモンがあまり好きではないらしく、私がペンドラーと適当に遊んだり接していると、決まって距離を取る癖があった。
 だからペンドラーはホミカのことが嫌いだと思っていた。いや、もしかしたら実際に嫌いなのかもしれない。ひょっとしたらそれを通り越して、私が大多数の人間に抱くように無関心かも。
 それでも背中に乗せてくれる。私をホミカの所まで、連れて行ってくれる。走り出したペンドラーは早くて、私は必死に胴体に掴まった。

「この時期のヤグルマの森はホイーガやペンドラーの産卵、スピアーやドクケイルみたいに遠くの地方からも毒ポケモンが来る。十分な準備がないと、自殺に行くようなもの」

 体に打ち付ける雨が痛かったけど、景色が一瞬にして暗くなると同時に肌を打つ雨が急激に弱くなり、変わりに四方八方からの騒音がその量を増した。
 ヤグルマの森はその生い茂る木々の葉で雨と光を遮っていたがそれでも地面は泥濘が酷く、長距離をダッシュして疲れているペンドラーをボールに戻して私は走り出す。

「ご苦労様、後で私のへそくり使って最高級のポケモンフーズ買ってあげる。ここから先は、私に任せて!」

 そもそも頼ったのが私なのだから任せてって言うのも変な気がするけど、今はどうでも良い。ホミカの無事、今の私にはそれ以外の何もいらない。必要無い。
 とは言えこれだけ広大な森の中で探している人を速攻で見つけるなんて奇跡に等しいレベル、でもまだ子どものホミカが本道を外れて脇道に入ってくとは思えない。必ず、近くにいるはず。

「ホミカ、返事して! どこにいるの!?」
「きゃあああああ!」

 聞こえた! 悲鳴だけど聞こえて良かった。
 草むらを掻き分けて少し脇道にそれたところにホミカがいた。思っていたようにホイーガやスピアー、ドクケイルとついでにアリアドスまで参加している。
 たった一人の子ども相手でも自然は容赦がない。悲鳴を上げて倒れたのか、うつ伏せになったままホミカが動かない。

「失わない……失う訳には、もういかない! ペンドラー、ホミカの周りの奴らを薙ぎ払って!」

 本日二度目、雨の中のにごめんね。
 長い体を丸めたペンドラーはタイヤの様になってホミカを囲む集団に突っ込み、ポケモンバトルをしない私のポケモンが久しぶりに『ハードローラー』なんて豪快な技を使った。
 空白が出来る。ホミカの周りに纏わりついていた虫達が居なくなったのを確認してから体の様子を見たけど、一目で分かる……これは、酷過ぎる。
 スピアーの毒針にドクケイルの毒の粉、アリアドスの毒糸にホイーガの吐き出す純粋な毒。体中がとにかく毒だらけ、こんな状態になったらもう普通の毒消しじゃまず確実に対応できない。
 何でよ。何でホミカがこんな目に遭わないといけないのよ。そもそも何でアンタはこんなところに来たのよ、手持ちのポケモンなんてまだヨーテリーだけじゃない、何やってるのよ!
 仰向けにした彼女の表情はやはりと言うべきか青ざめている。今の私も相当青ざめてると思うけど、それとは比較にならない程に彼女の状態は酷い。
 毒針を全て抜く。毒の粉を全て素手で払う。知ったことではない、後で手が腫れるぐらいだ。表皮に付着した毒も手で叩き落とす。死んじゃ駄目、絶対に死んじゃ駄目!

「死なないでよホミカ、絶対に死なせない。貴方が死んだら……私は……また、一人に……」
「アミカ……?」

 返事をした!? よかった、意識があるだけまだ良かった。意識が無い状態ほど幸先不明で不安なことなんてない。

「どうして、何でこんな無茶したのよ! どんなに才能あったって、どんなに夢があったって……死んだら、そこで終わりなのよ!」
「泣い……てるの? アミ……カ……」
「当たり前でしょう! 後で覚悟してなさいよ、家で二十四時間説教するわ! アンタが隠し持っているロックバンドの写真集も没収する! やらなきゃいけないことがたくさんあるの! だから、死んじゃ……だめだよぉ……」
「驚かせ……たかったの。私が……一人でポケモン……捕まえってこと……見せたくて。だって今日は……アミカの、誕生日……でしょ?」

 ……え? そう言えばそうだった、さっき電車の中で思い出していたばかりじゃない。そうよ、今日は私の誕生日だった。祝ってくれるのって、決まってホミカばかりだったっけ。
 そんな大切なことを忘れて、私が毎年毎年忘れてることをホミカはたった一人で覚えていてくれていて。
 私は馬鹿よ。今日の今日まで無意識ではホミカのことを大切に思っていたくせに、悲劇気取って自分の心に自分で蓋して、彼女に近づこうと努力すらしなかったくせに。
 ホミカをこんなにしたのは、私じゃないの! 死なせない、絶対に死なせない! 誰が言ったか知らないけど、私はポイズンガール……こと毒に関して、私の右に出るものなんていない。
 例えそれがキョウさんでもアンズさんでも、私は毒に関して譲ってはいけないの。目の前の大切な少女一人助けられないで、そんなことは語れない。

「安心してホミカ。私は貴方を絶対に助けるよ、なんて言ったってポイズンガール……毒女だからね。品の無い言い方だけど、今は素直に認めるわ。私に任せて、私を信じて!」
「うん……私ね……別に毒タイプ……嫌いじゃ……な……」

 意識が弱くなってる。落ち着いて、考え抜くのよ。いつも常備している毒消しはあくまで単体の毒に対してしか効果を発揮しない。
 スピアーの毒針とアリアドスの毒糸、まずこれらは通常の毒消しでも問題ないわ。問題はドクケイルの毒の粉、一般にはあまり知られていないけどこれには麻痺の作用も若干含まれている。しかも他の毒と交わることで効果が増す。
 毒消しの量は通常の一倍強、麻痺治しも同時に若干量調合する必要があるわね。ただホイーガの毒はまた別モノ、配合量を少し減らさないと駄目。
 集中するの、私! ドクケイルの毒の粉は皮膚も荒らすから、軟膏も盛り込んだ方が良いわね。後は右手と左足に毒針……え? あれ、私の右手と左足に、毒針?

「そ、そりゃそうよね。ペンドラーが頑張ってくれても、穴はできる」

 振り向いた先では未だに戦っているペンドラーが心配そうに私を見たけど、私は首を左右に振って無視を促した。気にしていたら、ペンドラーまで危機に陥る。
 首筋に激痛が走る。ドクケイルの毒の粉が服のスキマを狙って襲い掛かるが、雨のおかげで半分近くは流れてくれた。服に染み込む分で駆け引き零だけど、全体的に見れば良い方ね。
 アリアドスの毒糸が左腕に絡まって身動きが取れなかったのを、ペンドラーが気を利かせて切断してくれた。左腕がドククラゲに刺された様に痺れるけど、今はその方が良い。
 嘗めてもらっては困る。私はポイズンガール、毒を以て毒を制す。私の体を蝕む毒は、むしろ先ほど以上に私を冷静にしてくれる。
 感じて思い出したがアリアドスの毒にもそれなりに麻痺の効果があり、酸を盛り込んでいるのか炎症にも似た症状があるように感じられた。火傷治し入れるべきかもしれない。
 ホイーガの毒はただの毒ではない。『どくどく』による猛毒、他の毒の作用をさらに引き出している可能性は十分にある。全てを計算に入れて、作るんだ。調合するんだ!

「アミカ……寒い、暗いよ……」
「そりゃ雨が降ってるから寒いわよ! 森の中なんだから暗いわよ! そんなこと気にしてんじゃないの。全く傘を忘れるなんて、ホミカは本当にドジね!」
「あはは……そっか、傘……あの時忘れたんだ。不思議、理性が……ぶっ飛んで来た……」
「馬鹿! 阿呆! 濡れ幽霊! とにかく私を見なさい! 普段の元気はどうしたのよ! 私にライブを聞かせてくれるんでしょ!?」
「ライ……ブ……聞いて……くれるの?」
「当たり前じゃない! 私は、雑音だらけだけど一生懸命なアンタのライブ……結構、好きなんだよ」

 最初は本当に雑音でしかなかった。人の部屋まで押し掛けてはいきなりベースの低音だけ響かせて勝手に熱狂して、非常識極まる子どもだと思った。
 でもそれは違った。ホミカはホミカなりに私を励まそうとしてくれていた。まだ小さくて数学もパソコンも出来ない癖に、私より背も小さくて年下の癖に。
 私より小さいその手は、私よりずっと大きなものを持っていて、私よりずっと大きな可能性に満ちている。だから死なせてはいけないの。私の勝手な願いだけど、ホミカには幸せになってほしい! 夢を掴んでほしい!
 雨のせいで調合が上手くいかないと思ったけど、自分でも不気味なぐらいに上手くいってる。後は数種類の毒を中和剤として入れればそれで終わ……あ、あれ、目が!?
 視界が霞んでる。雨じゃない。これは、ホイーガの毒! 顔に掛かったのね、何でこんなときに!? 耳もなんだか聞こえにくい、鼻も……駄目!

「何でよ、最後の最後で何でッ!? あーもう、噛んだ。血の味って鉄臭くて嫌な……そうだ、味覚が生きてるならまだ行ける!」

 毒の瓶は私の体の一部、ラベルを見ないと中身は分からないけど腰の後ろに差していることは覚えてる。後はその毒を……な、舐めるしかない。
 中和剤用と言っても毒は毒。今以上に私は毒まみれ、いくらポイズンガールでも毒はやっぱり苦しいの。だけど、毒にだって味はある。幸いなことに、無味無臭の毒は今回必要無い。
 片っ端から舐めた。酷く舌がビリビリと痺れたけど、問題ない。中和剤だと思われる毒を見つけたら、それを霞んだ視界で慎重に混ぜる。
 落ち着いて……落ち着いて……落ち着いて……私なら出来る。私は毒の天才、ホミカとは違うけど、これは私の領域。
 最後の毒を入れて、完成した! まずはこれをホミカの皮膚に、雨で効果が薄れないように木の下に移動したいけど、贅沢は言っていられない。
 表皮用でもあるけどこれは飲めるようにも作っておいた。後はこれをホミカに飲ませれば、きっと大丈夫。お願い、目を覚まして!

「お願い……神様……創造神、アルセウス……ホミカを……ホミカを、助けて……」
「アミカ? あ、あれ。私……何で倒れてるの?」

 目を覚ました! 良かった、速攻性重視だったけど、ちゃんと効いたわね。私はやっぱり……ポイズンガール。毒に関して、私は誰にも負けない。
 私が今作った特別製の毒消し、学会に発表すればきっと高評価もらえちゃうわね。特許もありかも。
 ホミカの皮膚の色も良くなってきたし、視界がぼやけてるけど顔色も良くなった様に見える。安心したら、今度は私が眠くなって来ちゃったか。
 仕方ないもんね、毒だもん。毒を以て毒を制すって、ははは、そんな馬鹿なことあるわけないじゃない。人間毒をこれだけ喰らっておいて、制するなんて出来るわけないじゃないのよ。
 何で私は後先考えず、ホミカのこと助けたんだろ。無視してれば、他の大人に頼ってれば、少なくとも私がこうなることはなかったのに。そう思うでしょ、誰だって。

「ホミカ! 返事をしろ! どこだ!?」
「お父さんの声! お、お父さん! ここ、ここだよ! 早く助けて、アミカが! アミカが……死んじゃうよ!」

 あぁ、大人達が来たのね。さすがに耳悪くなっても、これだけ耳元で叫ばれたら分かるわよ。
 よかった、ホミカが助かって……あれ、何で泣くの? 助かったんだよ? 嬉しくないの?

「なん……で……?」
「馬鹿! 何で、何でアミカがそんなにならないといけないの!? 嫌だよぉ……ねえ、死なないでよぉ……」

 そっか、今度は私が死にそうなんだ。失敗したな、ホミカ助けることだけ考えてたから自分の分の毒消し作ってないわ。他の人に作れるわけないし。
 まあ良いか。どうせ私は生きてても大したことしないんだし、ホミカが生きていてくれなければ、私の心は今度こそ死んでいたわけでしょ。
 だからこれで良かったのよ。もちろん死ぬのは怖いわ、でもそれ以上に残念。ホミカのライブを聞けなくて、ホミカがジムリーダーになる姿が見えなくて、ホミカの笑顔が……もう、見れなくて。
 赤の他人みたいな関係を勝手に作ってたけど、私はホミカが大好き。本当の妹みたいで、可愛くて、自分の意志を貫ける子。大丈夫、ホミカなら大丈夫。
 泣かないで。私は別に、後悔はしていない。むしろ感謝している。考えてみれば、私は誰かに愛されたかった。
 両親を間違えて毒で殺してしまったのも、構って欲しかったから。関心を持ってほしかったから。私の両親もホミカの両親も、誰も彼も私に大した関心を向けず、自分達の世界から私を排他し続け、私は拒絶され続けた。
 ホミカ、貴方と出会えたことはこれ以上ないほどの奇跡なの。毒ってのは私にとって毒にも薬にもならないものだったけど、最後の最後で、私は毒に救われたのね。

「泣くな……ホミカ……」
「アミカ! よかった! 今お父さん達が来るから、きっと助かるから! だから、助かるよ! 大丈夫だよ!」
「ねえ、顔良く見せてよ……」

 そんな泣き顔、アンタには似合わないって。あぁもう、最後の最後までその前髪が鬱陶しいって思っちゃうな。可愛い顔なのに、台無しじゃん。
 動け、私の両手。どうせ最後の仕事なんだから、口より楽な仕事なんだから、動きなさいっての。
 私の後ろ髪の髪留め。ついてる二つの珠が紫色に濃い水色、これってなんて言う名前の色だっけ? あーいやいや、今はそんなのどうでも良い。どうでも良いけど、なんか毒っぽいなぁ。
 ホミカはもしかしたら嫌がるかもしれない。さっきは意識が朦朧としてて本心を言った可能性は大きいけど、私を心配させまいと意地張っただけかもしれないしさ。
 動いて私の上半身。無駄に発育した胸は今は要らないから、もう少し……ほら、やっぱりだ。ホミカの前髪、上げた方が断然可愛いわね。

「こ、これってアミカが大切にしてる髪留めでしょ。な、何で今なの? ねえ」
「ほら……やっぱり……ホミ……上げ……が……」
「アミカ! 嫌だ! 目をもっと開けてよ! 私を見てよ! ライブを聞いてよ!」
「ねえ、ホミ……カ……お願い……聞いてくれ……る?」
「うん! 聞くよ! 何でも聞く! だから、死なないでってば!」

 私は死ぬ。だけど、私は私の生きた意味ぐらいは残したい。それと欲を言ってはアレだけど、ホミカに忘れられたくない。

「ジムリーダーになった……らさ……毒タイプ……使って……くれない?」
「アミカだってなれるよ! いま私見てたもん! アミカのペンドラー、凄い強いじゃない! だからそれは、アミカが――」
「あぁ、そうだった……」

 まだ、口に出してなかったっけ?

「ホミカ……大好き……だよ……」
「ア、アミカ? ねえ、嘘でしょ? ねえ……アミカ!?」

 私の世界は、ここで終わる。だけど私は、私の存在は、この世界に残り続ける。
 知ってるでしょ、毒ってしぶといのよ。私の毒は、アミカがきっと引き継いでくれるはずだから、まだまだこれから。
 もう雨の冷たさも感じない。ホミカが何を言ってるのかも分からない。彼女の顔は、もう見えない。
 見えなくて良い。ホミカが泣く顔なんて、もう見たくない。
 大人達が来てるからもう大丈夫でしょう。ホミカは生きて、きっとジムリーダーになる。私は、信じている。



 そう、終わらない



 ポイズンガールは……終わらない……



 
> ポイズンガールは終わらない(裏) 作:月光
ポイズンガールは終わらない(裏) 作:月光

 ふと空を見上げると、鉛色の雲がどんどん重苦しそうな色に変わりつつある。雨が降りそうだ。念のため傘を持って来たけど、どうやらその判断は正解だったみたい。
 今日は大切な人の誕生日。毎年毎年その張本人は忘れてるみたいだけど、私は忘れるわけにはいかない。だって、私は彼女が好きだから。
 一人っ子でどんなに一生懸命頑張っても、褒めてくれるのは決まっていつもお父さんとお母さん。友達が頑張るとやっぱり友達のお父さんとお母さんが褒めてるけど、姉妹同士の笑顔が私にはとても羨ましかった。
 そんなときにお父さんのかなり遠い親戚だけど、私よりも年上の女の人が私の家にやって来た。両親が死んじゃって、色々と辛いことが沢山あって巡り合えた偶然。
 私はとても嬉しかった。でも彼女の心はどこかいつも悲しそうで、私が必死にライブに誘っても、彼女は見向きもしてくれない。
 今日も今日とて彼女はお気に入りでもさしてない喫茶店でカフェオレを飲みながら、のんびり良く分からない雑誌を見つつ空の景色を眺めていた。
 だけどそんなことはどうでもいいの。私が彼女に会いに来たのは、今日の午前中のライブは私の今までのライブの中でも会心の出来栄えだったのに、誘ったのに見に来てくれなかったことへのクレーム。

「ちょっとアミカ! 何で私のライブに来なかったの!?」
「ん? あぁ、なんだホミカか。ライブも何も、ただ公園で爆音響かせてるだけじゃない。アレはライブって言わない、騒音公害って言うのよ」

 直球も直球、私がどれだけ一生懸命ライブを行ったとしてもアミカの答えは毎回コレ。とりあえず私の刺激的な音楽を騒音として処理して、会話を終わらせようとする。
 二三言葉を交わしただけでアミカはまた私の顔を見ているにも関わらず、どこか浮いているような、捉え所のない虚ろな瞳で私を見ていた。
 本当にいつも何を考えているのか分からない。大方今夜晩御飯は何かなーって考えているだろうけど、今夜は私の作った特製ケーキを食べてもらう。去年の様に塩漬けの失敗はしないわよ。
 もしかしたら去年のケーキが印象的過ぎて、今年のケーキが大惨事にならないか心配しているのかな? それならそれでアミカが誕生日を覚えたってことで嬉しいんだけど。

「ホミカはそのタイプかなぁ」
「な、何よ。何の話?」

 全然関係ないこと考えてたみたい。はい、私の予感外れました。何よ、笑いたければ笑えば良いじゃない!

「別に。それより何の用があって私に会いに来たの? ポイズンガールはお嫌いなんでしょ。それとも、文句を言うためだけに会いに来たのかしら」

 ポイズンガール……誰が言い始めたのかは知らないけど、シッポウシティの子どもたちの間、ついでに大人たちの間でも、もはや彼女の通り名は完全に定着した。
 それもこれもアミカが元々毒について異常に詳しいことに加えて、両親を彼女が毒殺したなんて根も葉もない好い加減な噂話のせい。
 今でこそ本人も大して気にせず――むしろ何故か好んで使ってる気がしないでもないけど――反応しているけど、それでも最初の頃はやっぱり、ちょっとショックを受けてたみたいだった。
 だからって何もそこまで言うことないじゃない。それに私は別に毒タイプが嫌いと言う訳じゃない、ただちょっと怖いだけ。だって毒って危険だし、痛そうなんだもん。

「相変わらず毒々しく陰険だよねアミカって。何でさ、親戚なのにそんなに余所余所しいわけ」
「親戚と言ってもホミカのお父さんのお兄さんの結婚相手の妹の結婚相手の弟さんの娘よ、私は。血縁的には七次も離れているし、殆ど赤の他人じゃない」

 手を払ってからアミカはまた明後日の方向を向いちゃう。本当に彼女は他人行儀、どうしてそんなに他人に無関心で生きていけるのか、本当に不思議。
 でも大切なのは血縁なんかじゃない。そもそも音楽は大衆に向けて発信するものって、好きなギタリストが言ってた! だから、私は皆に、アミカに向けてライブをするの。

「そんなことはどうでもいいのよ! 血縁とかは、心に響く音楽とは関係ない!」

 あ、今絶対に『だったら言うな、紛らわしい』って感じの顔した! 絶対にした!

「私はアミカに私の音楽を聞いてほしいの。だってアミカ、何かいつも……寂しそうだからさ」
「私は別に寂しくもないし、今の生活に不満があるわけでもない。貴方の様に情熱を捧げられる趣味もないし、ジムリーダーになれるような素質もない」
「ジムリーダー? 何それ」

 さすがにジムリーダーと言う存在は私だって知っているし、ポケモンバトルだって私はするんだから彼らが凄い存在だって言うことも知っている。
 私が聞きたいのはジムリーダーがどういう存在なのかではなく、どうして私がジムリーダーになれるような素質があると言う話しになったのかってことに対して。

「ホミカはポケモンバトルの才能がある。私はそう思っているわよ、貴方がどうかは知らないけど。私にはそれがない。だから……ね、そゆことよ」

 相変わらずどうでも良いところでだけ察しが良いアミカは私の言葉の意味を汲み取ってくれたらしく、『ジムリーダーも知らないの? 馬鹿じゃない』みたいなことは言わない。
 その洞察力の百分の一でも良いから私がアミカに向けて発信しているライブに耳を傾けて欲しいけど、多分口で言っても彼女は分かってくれないと思う。
 そもそもアミカは毒のことに関してはその辺の子どもはもちろん、シッポウシティに住んでいる科学者の人達にすら知識と経験で上回る絶対的な才能を持っているのに、それを使わないなんて勿体無さすぎるよ。
 私は確かに音楽が大好きだけど、アミカの様に勉強が目立ってできるわけでもないし、冷静に物事を見ることが出来るわけでもない。
 昔アミカから教えてもらった諺。確か、隣の芝生は尖って見える……だっけ? なんか違う……そっか! 『青く見える』だ。
 今の状態はきっとそう、それに近い。アミカは本心か冗談か知らないけど私の様に情熱を費やせる趣味を持って無くて、私はアミカの様に頭が良くなかったり落ちついていられない。

「夢がないなー本当に、毎日何考えて生きてるのよ。そもそも私がジムリーダーになると何かいいことあるわけ? ないでしょ」

 頭で考えるより先に口で言葉が出ちゃった。アミカが他人行儀過ぎたからちょっと棘のある言い方になったけど、やっぱりアミカは無表情。

「あるわよ。ホミカが今、一番望んでいることに繋がるわ。ジムリーダーと言えばバトルが強い、バトルが強いと人気者、人気者ならば人が来る。必然的にホミカのライブに人が来る。どう、簡単な方程式でしょ」

 理性が吹っ飛んだ。そうか、ジムリーダーになるってことは人気者になって、人気者になればライブを聞きに来てくれる人も増える!
 そうだよ! 何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろ、やっぱりアミカは頭が良い!

「そ、それ本当なの!? ぬうう、そっかそっか、そういう方法もあるのか。分かった、私はバトルでも人の理性を吹っ飛ばせるようになる! じゃあねアミカ、次のライブは来てよ!」
「騒音じゃなければね、少なくとも今のままじゃ行く気にならないわ」

 それは『時間が経てば聞きに行く』と捉えても良いはずね。やった、アミカが私のライブを聞きに来ることはこれで決定したも同然よ。
 ならば善は急げ。ジムリーダーになるためにはポケモンを育てなければならない。さすがに手持ちのヨーテリーだけじゃ心許ないから、あと数匹は揃えて仲間にするべき。
 丁度目の前に止まっていた巡回バスに飛び乗って、一直線にいつもライブをしている公園を目指す。
 鉛色の空がさらに曇って来てさすがに心配になって手元を確認したら、どこで忘れたのか傘が無い。あれ、公園に忘れた? それとも喫茶店に忘れた?
 今はどうでもいいや。雨に振られても音楽が出来なくなるわけじゃない。
 巡回バスでたったの十分、既に定例の子どもたち特製ライブステージが作られているけど、午後はこのステージには上がれそうもないかな。

「お待たせ!」
「おっ、ようやく来たなホミカ。お前の番は三番目だけど、最初の方がもう準備終わってるから急いだ方が――」
「ごめんね、ジムリーダーになる準備して来るから今日の私のライブの番は飛ばして!」
「ちょ、ちょっとホミカ! どこ行くの!?」
「ヤグルマの森! 毒タイプのポケモンを手持ちにすれば、アミカともっと仲良くできるかなって思って!」

 大人の人たちが話していたけど、この時期のヤグルマの森は普段より毒タイプのポケモンが豊富に揃って、普段は見ることが出来ないようなポケモンもいるらしい。
 スピアーとかアリアドスとかはジョウト地方から来たアミカにとっては別に珍しくもないポケモンなのかもしれないけど、イッシュ地方では期間限定のステージのようなもの。ここで行かない手はないよ!
 普通の巡回バスで行くには少し時間が掛かるけど、この時間帯になるとヤグルマの森方面に向かうトラックが何台かいる。
 私は小柄な方だから乗り込んでもバレはしない。こうして何度かヤグルマの森の方まで出掛けこともあるし、森に入っても大通りを大して外れなければ迷うことだってない。
 適当なトラックを見つけて……乗り込む! 心臓がドキドキするけど、バレてないみたいね。直通トラックだから数十分も掛からないわ。早く到着しないかな。

「アミカ、喜んでくれるかな。きっと喜んでくれるよね? だって、私だったら嬉しいもん」

 古臭い街並みが徐々に遠ざかり、木々と草花に囲まれた景色が眼前に広がったけど、こうも天気が悪いんじゃ色取り取りの景色も魅力が半減。
 ジムリーダーになればきっとこれだけ広大な場所に大きなステージを構えて、何千何万人の人達の前でベースを弾いて、たっくさんの人の理性を天国の上まで吹っ飛ばせるんだ!
 その最前列にはアミカが立っていて、今まで見せたことも無いような笑顔で私を見上げて、私の音楽に心揺らされて感動する。
 寂しそうにしているアミカだけど、他人行儀なアミカだけど、何だかんだで私の話しにはちゃんと付き合ってくれるのよね。だから私も、彼女に近づく努力をするの。
 そんな明るい未来を想像してたのに、とうとう溜まりに溜まった雨が降り出した。傘を持って無いから、帰りは濡れながら走って帰ることになるんだろうな。

「さて、あのカーブで減速する時に……とりゃあ!」

 飛び出し成功! まだ雨がそれほど強くないし、さっさと森の中に入って雨風をやり過ごそうっと。
 太陽の光が分厚い雲で遮られてるせいで、ただでさえ暗い森はさらに暗く見えて、鳥ポケモンたちの鳴き声も混じってより一層怖く感じられる。うぅ、体中の震えが酷い。
 兎に角まずは行動あるのみ! あまり森の奥深くに行くと強いポケモンが出る確率が高いから、大通りの外れぐらいで良いかな。

「えへへ、何から捕まえようかなーフンフフンフフーン♪ っと、あそこに見えるはフシデかな? 確かアミカはペンドラー持ってたはず、お揃いになれる! よーし、今すぐゲッ……ト……」

 えっ、ちょっと待って。フシデって団体行動するポケモンだったっけ? 一匹だと思ってのに、目の前の数……な、何これ? なんで、なんでホイーガまであんなに沢山いるの!?
 フシデ達だけじゃない。スピアーやアリアドスが沢山って、多過ぎるよ!? しかもなんか良く分からないモルフォンのようなガーメイルのようなポケモンまでいるし、何で皆こんな見るからに気が立ってるわけ!
 聞いて無い、こんなの知らないよ私! 普段より多くの毒タイプのポケモンが生息する時期なのは知ってたけど、こんな沢山いてしかも殺気立ってるなんて教えてもらってないよ。
 た、戦うしかない。でも私はまだヨーテリーしか持って無いし、アミカはポケモンバトルのセンスがあるって言ってくれたけど、さすがに目の前のポケモンは数が多過ぎる。
 そう言えば結構な頻度でヤグルマの森に毒ポケモンの調査とか言って行くはずのアミカが最近は余りこの森に来なかったのは、これだけ大量の毒ポケモンがいるのを知っていたから?
 嫌だ、こんな沢山の毒タイプのポケモンと戦えるわけない。下手したら私、死んじゃうよ。嫌だ、絶対に嫌だよ!
 逃げようとして振り返ったら、もう後ろにはスピアーの群れとホイーガの群れが私を囲んでいた。どうして、私が何をしたって言うの。私はただ、アミカが喜ぶ姿が見たかっただけなのに……

「誰か……誰か助けて!」

 死にたくない一心で私は走り出した。だけど逃げられるわけがない。横から突っ込んで来たホイーガに簡単に弾き飛ばされて、地面に倒れて服が泥だらけになっちゃった。
 右手と右足に激痛が走った。スピアーの放った毒針が何本も私の手足に刺さって、リアルに死の恐怖を感じて走り出そうとしたら、今度は左足が後ろから引っ張られる。
 アリアドスの毒が染み込んだ糸、まるで熱で暴走した楽器の機材を直接当てられたかのように熱い。しかもなんだか体全体が痺れて来て、虚ろに見上げると目の前には、あのモルフォンのようなガーメイルのようなポケモンが撒き散らす毒の粉。
 体中が痛い。痺れる。焼ける。アミカはこれを知っていたんだ、だからこの時期のヤグルマの森に近づこうとはせず、私にも興味を抱かせないよう何も言わなかったんだ。まさか、私がこうすること知ってて、黙ってたわけないよね。
 どんどん体の感覚が失われている中で、一際激しい痛みが襲い掛かって来た。ホイーガが放った毒……悲鳴を上げた……気がする……意識が、遠退く……

「ペンドラー、ホミカの周りの奴らを薙ぎ払って!」

 声が聞こえた。聞き覚えがあるけど、こんなに激しくて情熱的な声は初めて聞いた。視界の端に、アミカが居た。何でか知らないけど、凄い慌ててる。
 私の体に刺さった毒針や振りかかった毒の粉をアミカは素手で強引に払って、必死になって私の体の様子を眺めてからその顔が青ざめた。

「死なないでよホミカ、絶対に死なせない。貴方が死んだら……私は……また、一人に……」
「アミカ……?」

 どうしてそんなに震えてるの? どうしてそんなに悲しそうな顔してるの? 何でそんなに、泣いてるの?

「どうして、何でこんな無茶したのよ! どんなに才能あったって、どんなに夢があったって……死んだら、そこで終わりなのよ!」
「泣い……てるの? アミ……カ……」
「当たり前でしょう! 後で覚悟してなさいよ、家で二十四時間説教するわ! アンタが隠し持っているロックバンドの写真集も没収する! やらなきゃいけないことがたくさんあるの! だから、死んじゃ……だめだよぉ……」

 初めて見た。アミカがこんなに私のことを直視して、こんなに大きな声で叫んで、こんなに感情を剥き出しにしたのを、私は今日ここで、初めて見た。
 さすがに二十四時間の説教は嫌だなぁ。それに何で私がお気に入りのロックバンドの写真集を机の中に隠してるって知ってるわけ、没収なんてされたら私の理性どころか良識までぶっ飛んじゃうよ。
 今日だけは、大目に見て欲しいかも。だって今日は、アミカの誕生日だし……ってそっか、アミカ、忘れてるんだね。多分。

「驚かせ……たかったの。私が……一人でポケモン……捕まえってこと……見せたくて。だって今日は……アミカの、誕生日……でしょ?」

 ほら、やっぱり今思い出したような顔した。本当にアミカってば、自分のことですら無関心なんだから。
 ちょっとの間黙っていたかと思うと、アミカの表情が突然なんか逞しくなった。こう言うのなんて言うんだっけ? 勇ましい?

「安心してホミカ。私は貴方を絶対に助けるよ、なんて言ったってポイズンガール……毒女だからね。品の無い言い方だけど、今は素直に認めるわ。私に任せて、私を信じて!」
「うん……私ね……別に毒タイプ……嫌いじゃ……な……」

 そう言えばアミカって、私が毒タイプのポケモンが嫌いだって思ってるところあったよね。喫茶店の時だってそう言う感じのこと言って来たけど、私は全然嫌いじゃないよ。
 毒タイプは怖いし、痛い。それはやっぱり、今でも思ってる。周りを毒タイプの虫ポケモンばかりに囲まれて、いつまた襲い掛かって来るか分かったもんじゃない。
 目の前が暗い。アミカが必死で何かをやってるのは分かるけど、何をやってるのか分からない。どうしよう、体中が寒い。別に冬でもないのに、雪が降ってるわけでもないのに、体中が寒いよ。
 まるで洞窟に閉じ込められたみたいね……嫌だ、寂しいよ。ねえ、アミカ……

「アミカ……寒い、暗いよ……」
「そりゃ雨が降ってるから寒いわよ! 森の中なんだから暗いわよ! そんなこと気にしてんじゃないの。全く傘を忘れるなんて、ホミカは本当にドジね!」

 声が聞こえた。大きな声で、やっぱり怒鳴ってる。近くで怒鳴ってるはずなのに、まるで遠くから聞こえてくるみたいに音量は小さい。

「あはは……そっか、傘……あの時忘れたんだ。不思議、理性が……ぶっ飛んで来た……」
「馬鹿! 阿呆! 濡れ幽霊! とにかく私を見なさい! 普段の元気はどうしたのよ! 私にライブを聞かせてくれるんでしょ!?」
「ライ……ブ……聞いて……くれるの?」

 なんか色々と酷いこと言われた気がするけど、どれもこれも、アミカが私を元気付けようとして言ってくれていることぐらいは分かる。
 そんなことはどうでも良い。あのアミカが、私のライブを聞いてくれようとしている。アレだけ騒音騒音って言ってたのに、私の勝手な行動だったのに。

「当たり前じゃない! 私は、雑音だらけだけど一生懸命なアンタのライブ……結構、好きなんだよ」

 だったら今すぐ聞かせてあげる!――そう言いたいけど、今の私じゃ、アミカを楽しくさせて理性を吹っ飛ばすことはできそうもない。
 でも大丈夫。アミカが私を助けるって言ってくれた。絶対に助けるって、だから私はアミカを信じる。
 海の底みたいに暗くて、雪山のように寒い。一つ一つ消えて行く体の感覚がまるで闇の中から伸びて来る手の様で、アミカが来なかったら私は、絶対にもう死んでいた。
 きっとアミカが私を助けてくれる。そしたら私は、アミカをライブに誘うの。絶対絶対、アミカが心の底から満足するような音楽を奏でて見せるんだから。
 暗闇の中に浮かんで来たイメージ。いつもの公園だけど聞いてくれる人が沢山いて、最前列にはアミカの姿が見える。夢のような光景が、この先に待っている。

「お願い……神様……創造神、アルセウス……ホミカを……ホミカを、助けて……」

 その瞬間に、光が戻って来た。体中の痛みは完全ではないけど一気に抜けて行って、失っていた体の火照りが脈を打ち始める。
 毒がなくなってる。アミカの言った通りだ、本当に助けてくれた! 信じてた、アミカなら絶対に助けてくれるって!
 まだまだ雨が強いけど、アミカが私の忘れた傘を持って来てくれてるはず。さっさとこんな怖いところをオサラバして、いつもの公園でアミカと一緒に午後のライブに飛び入り参加!
 早くアミカと一緒に……その手を握ろうとして、私は気が付いた。倒れていた私が起き上がるのと引き換えに、今度はアミカが……倒れてた……

「アミカ? あ、あれ。私……何で倒れてるの?」

 嘘でしょ、なんかの冗談でしょ? たまたま今日は色々とテンションが上がってたから、私をからかってるだけだよね? 嘘だよね、こんなの嘘だよね!?
 顔色が青ざめてる。手と足にスピアーの毒針が沢山刺さって、顔や背中には毒の液や毒の粉、アリアドスの毒糸にやられたのか左腕が真っ赤に腫れて皮膚が爛れていた。
 まるで私の毒を全てアミカが引き受けたかの様に、私と彼女の状態が逆転してる。後ろではペンドラーが必死に戦っているけど、私とペンドラーだけじゃアミカを護れない。
 どうしてよ!? 私を助けてアミカが倒れたんじゃ、意味無いじゃん! どうしよう、どうすればいいの? 私は毒のこと、全然分からないのに……

「ホミカ! 返事をしろ! どこだ!?」
「お父さんの声! お、お父さん! ここ、ここだよ! 早く助けて、アミカが! アミカが……死んじゃうよ!」

 森の奥から聞こえたお父さんの声に、私は縋る様な想いで必死に叫んだ。ハトーボーやウォーグルが飛んで来て、私達を囲んでいたスピアーやホイーガーを牽制して遠ざけて行く。
 お願い。死なないでアミカ……私が音楽を必死で頑張ったのは、アミカと一緒に大空まで吹っ飛ぶぐらいにハイテンションになりたかったからなんだよ。だから……死なないでよ……

「なん……で……?」
「馬鹿! 何で、何でアミカがそんなにならないといけないの!? 嫌だよぉ……ねえ、死なないでよぉ……」
「泣くな……ホミカ……」

 まだしっかりと意識がある! よかった、確かアミカが昔少しだけ言ってた気がする。意識が無いよりは、意識がある方が断然助かる確率が高いって!

「アミカ! よかった! 今お父さん達が来るから、きっと助かるから! だから、助かるよ! 大丈夫だよ!」
「ねえ、顔良く見せてよ……」

 凄く泣いてたらしい。涙でゆがむ視界の中でアミカは弱々しく自分の髪をいじり、大切にしていた髪留めを外して私の頭に手を伸ばした。
 普段から前髪が顔に掛かり過ぎてどうのこうの、濡れると幽霊みたいだのと言われてた。そんな私の前髪をアミカは上の方で束ねて、持っていた髪飾りで一か所にまとめる。

「こ、これってアミカが大切にしてる髪留めでしょ。な、何で今なの? ねえ」
「ほら……やっぱり……ホミ……上げ……が……」
「アミカ! 嫌だ! 目をもっと開けてよ! 私を見てよ! ライブを聞いてよ!」
「ねえ、ホミ……カ……お願い……聞いてくれ……る?」
「うん! 聞くよ! 何でも聞く! だから、死なないでってば!」

 本当に何でも聞く! また私が毒に侵されたって構わない! だからアミカは死んじゃ駄目! 絶対に死んじゃ駄目なの!

「ジムリーダーになった……らさ……毒タイプ……使って……くれない?」
「アミカだってなれるよ! いま私見てたもん! アミカのペンドラー、凄い強いじゃない! だからそれは、アミカが――」
「あぁ、そうだった……」

 言葉を遮られた。アミカの手が震えながら私の顔に近づいて来るけど、もう何も見えてないのか、その手が私の横をただ虚しく通り過ぎて行く。
 知らず知らずの間に、私はアミカの手を力強く握っていた。普通なら痛いぐらい強く握ったのに、アミカの表情は変わらない。
 握っているはずの手はまるで鉄パイプでも握ってるかのように人の熱を感じない上に、人の手を握っているのとは何か違う、無機物を持ってるかのように酷く重かった。
 私は分かってしまった。アミカは分かっていた。助からない。助けられない。でも私はその事実を認めたくなかった。
 お父さん達が来たのか、後ろの茂みが揺れる。私は絶対に振り向かない。例え後ろにいるのが危険な毒タイプでも、人を呪い殺すゴーストタイプでも、凶悪なドラゴンタイプでも、私は絶対に振り返らない。
 目の前のアミカが私を見ている。だから私はアミカを見る。神様、私はアミカに助けてもらった。私もアミカを助けたい! 一度で良い、人生に一回で良い! お願い、助けて……

「ホミカ……大好き……だよ……」

 初めて言われた。アミカが私の家に来てから、今日この瞬間まで、彼女が私のことを『好き』だと言ってくれたのは、今日が最初で、そして……最後になった。
 握っていた手が崩れ落ちる。アミカの瞳から光が消えた。消え入るような呼吸が聞こえなくなった。アミカが……死んだ……

「ア、アミカ? ねえ、嘘でしょ? ねえ……アミカ!?」

 分かっている。私がいくら叫んだところで、私がいくらアミカの体にしがみ付いて泣いたところで、アミカが私の名前を読んでくれることはもうない。
 何気ない日常はもう戻って来ない。簡単なおしゃべりもできない。アミカをライブに誘って騒音と言われるやり取りも、もう出来ない。アミカにライブを聞かせることは……



 あのあと、大人達がやって来た。虫ポケモン達を追い払ってくれたおかげで私は無傷だったけど、毒を受けたことに変わりはないから病院に連れて行かれた。
 大した日数も掛からずに私は退院を許されて、今は普段通りの日常にいる。私がどんな毒を受けたのか医者に教えたら、『そんな状態では数分放置されただけで、普通は絶対に助からない』と教えてくれた。
 毒の知識でアミカの右に出る者はいない。私は思い知らされた。アミカが死に際に私に頼んだ『願い』がどれほど途方も無い目標で、どれだけ長く険しい道のりなのかを。
 こんなことを考えている今でも、私はずっと現実から逃げる術を抱いてしまっていた。
 本当はアミカは生きていて、私を驚かせようとしているだけなんだ。もしくはこれは夢で、目が覚めると目の前でアミカが私のお気に入りのバンドの写真集を没収しようとしてたり、二十四時間説教を始めようとしてたり……
 そんなあるはずのないと分かっている希望や妄想は、全て壊される。私の足は自然とシッポウシティの外れにある墓地に向かっていて、気がつけば……アミカのお墓の前に立っていた。

「……アミカ、言ってたよね。私のライブを聞きたいって」

 こんなところで話したって、アミカに聞こえていないことぐらいは子どもの私でも知っている。でも、言っておきたかった。

「私はジムリーダーになって、ベーシストとしてもイッシュで一番になって見せる。イッシュ全土に私のロックを奏でて、皆の理性をぶっ飛ばして見せる。どこにいるか分からないけど、アミカにもきっと届けるから……待っててね、必ず届けるから……」

 持ってたお花を供えて、私は帰ることにした。あまり長くこの場所にいると、また泣いちゃいそうだから。



――頑張れ、ずっと待ってる……



「えっ?」

 声が聞こえた気がした。振り返ってみるけど、当然ながら誰も居ない。でも確かに、私にはアミカの声が聞こえた。
 ただの気のせい? 妄想の産物? 幻聴? そんな不確かなものじゃない、私には確かに聞こえたの。
 私は胸に手を当てて、大きく深呼吸をして前を見た。シッポウシティへと続く長い道のり、その先に見える古びた倉庫と建物の屋根、空を真っ赤に照らす太陽。
 先ほどまで泣きそうになっていたのに、今は勇気と喜びが私の心の中を走り回っている。眼を見開けば、こんなにもしっかりと道が見えるんだ!

「必ず届ける。その時まで、のんびりしててよ。アミカ」





 欠伸をしてソファーから上半身を起き上がらせる。何年も前の出来事を随分とリアルに夢見ながら、私は寝ぼけ眼を擦って脇に置いてあるベースの様子を確かめる。
 本日も絶好調。アミカの持ってたペンドラーに因んで、私のベースはペンドラーの形にしている。そう言えばペンドラー、いつの間にかどこかに消えてしまっていた。

「どこ行っちゃったんだろうね、たまには私のライブを聞きに来てくれて良いのにっと、挑戦者来てるの?」

 ポケモンバトルが繰り広げられてる音が聞こえる。最後のジムトレーナーを破ったのか、一人の少女が私の立っているステージの前までやって来た。
 ちなみに今の私が居るのはシッポウシティではなく、ここ数年で大きく開拓が進んだ全く別の街だから、探してくれていても見つからないって可能性がなくはないけど。

「ふぅん、見た感じ新人トレーナーだね。とんとん拍子でここまで来るなんて、これは久しぶりに白熱したライブが出来そうね」

 見ててねアミカ。もう少し時間が掛かるだろうけど、きっと届けて見せるから。

「いくよ! アンタの理性、ブッ飛ばすから!!」



 
> 夢追い人の代償 作:夜月光介
夢追い人の代償 作:夜月光介

−ポケモン全国図鑑568−

 ゴミぶくろが さんぎょうはいきぶつと かがくへんかを おこした ことで ポケモンとして うまれかわった。


 ボクがボクであると言う事を最初に認識したのは腐臭漂うゴミ捨て場からだった。
 周囲に誰もいない暗がりにたった1人でいたボクに声をかけてくれる者は誰もいない。
 時折ボクと違う姿をした二本の足で歩く者達が色々な物を捨てていくだけで、ボクに気付きもしなかった。
 たまに気付かれても悲鳴を上げて逃げ出されるか、悪態をつかれ捨てていく物を投げ付けられたりするだけで、近付いてもくれない。
 ボクは、孤独だった――

 常に日が差さない暗がりがボクの場所で、世界の全て。
 日が差している場所には沢山の二本足で歩く者達がいたけれど、傷付く事が怖くて外に出る事が出来なかった。
 ココがボクの生きていく場所。例え拒絶されようとも、居場所はあるのだと慰めにならない慰めを自分にかけて、何もしない日々を過ごす。
 そんな日々を送っていた時に、ボクは彼女と出会った。
 何時もの様にただ何もせずにいた時、明るい大通りの方から二本足で歩く小さな者がやってきて、通り過ぎようとする。
『待って!』
 ボクの声は多分正しくは伝わらなかっただろうけど、ボクを認識して近付いてきた。
「貴方も、私と同じなの?」
 ボクには何を言っているのかが解らなかったけど、ボクと同じで哀しそうな顔をしているなと思った。
 何かを取り出して、ボクに投げ付ける。不思議と避けようとは思わなかった。それは拒絶では無いと思ったから。

 カナエは人間の女の子だった。
 人間と言う生き物、ポケモンと言う生き物、ボクがいた場所、ボクが今いる場所。
 全てカナエがボクに教えてくれた。カナエは博識でボクが質問をすると何でも答えてくれる。
『ボクはポケモン?』
「そう、貴方はポケモン。ヤブクロンって言う、ゴミ袋から生まれたポケモンなの」
 人とポケモンの成り立ち、沢山の建物がある街、ポケモントレーナー、あるいはブリーダー……
 カナエは物知りではあったけれど、ボクと同じで皆から少し距離を置かれている女の子だった。
「私が羨ましいのよ、きっと」
 そう言ってカナエは何時も笑うけど、ボクから見ればとても羨ましい生活とは思えない。
 朝から夜まで勉強、勉強、勉強……学校でも塾でも自宅でも、殆ど休まずに勉強を続けている。
 本来ならボクみたいに友達や、仲間が欲しいと思うだろうに学校や塾では教師、家庭では親が常にカナエの事を監視していた。
「お前は他の有象無象の連中とは血統が違うんだ。立派な人間になる為に頑張らないとな」
 カナエのお父さんは何時もそんな事を言って彼女を机の前に立たせる。
 カナエのお父さんは街一番の大企業の社長で、奥さんはもういないのだそうだ。
 息子に恵まれなかった為に一人娘にかける期待が大きく、その為にカナエは苦しいとも哀しいとも言えずにただ耐えている。
 ボクはカナエと一緒にいて、彼女がボクと同じ孤独を抱えている事を感じていた。

 ある日カナエはボクと一緒に塾から家に帰るまでの僅かな時間を使って野試合を始めた。
 ボクの他にもカナエにはポケモンのパートナーがいて、ボクや他の仲間達と一緒に街のトレーナー達と対決する。
 最初は上手く戦えなかったボクも、必要とされる事が嬉しかったし、何よりもカナエの笑顔が見たくて必死に訓練を続けた。
 ボクは大きくなって力も強くなり、頼れる仲間として他のカナエのパートナーとも親しくなり、連勝を重ねる。
 何時しかカナエの噂は街全体に広がり、親に隠し続ける事が出来なくなってしまった。
『この街で最近勝ち続けてる女の子のトレーナーがいるらしい』
『扱いが難しいどくタイプのポケモンを使って勝ってるんだから、将来有望なトレーナーだろうな』
 そんな言葉が聞こえてくるのはカナエにとってもボクにとっても嬉しい事だったけど、彼女の父親には危険な噂でしか無い。
「お前にはそんなつまらん事をしている暇は無いハズだ。優秀な人間になる為の時間を無駄に浪費するつもりか」
 噂を聞きつけたカナエのお父さんは彼女を呼び出して激しく叱責し、言い分も聞かずに座敷牢の様な部屋に閉じ込めた。
「暫くその中で勉強しながら、反省しなさい」
 お父さんがいなくなった後、ボクはカナエと一緒にこれからの人生をどう生きるかと言う事に関して、真剣に考えなければいけないと思った。
「自由が欲しいの。人との触れ合いを捨ててまで、お金や地位なんて欲しく無い。生まれ変わりたい」
 涙を流してボクに訴えかけてくるカナエの姿を見て、ボクは今度はこちらが彼女を助ける番だと思い声をかける。
『だったら、逃げればいいんだ。この世界は頑張れば頑張っただけ報われる。自分のやりたい事できっと成功する事が出来るよ』
 ボク自身も変わりたかった。単なるパートナーとしてでは無く、彼女の人生を変える程の大きな存在に。
 翌日従順な振りをして部屋から出たカナエは長い時間をかけて父親に悟られる事が無い様細心の注意を払いながら旅の準備を始める。
 この世界に生まれてきたのならば誰もが憧れ、追い続けるトレーナーと言う職業……頂点を目指す為だった。

 ボクもカナエも孤独を感じ合う者同士惹かれあって、孤独から逃れ自由になる為に一緒に行動する様になった。
 お互いの利害は一致していて、ボクとカナエが目指す夢の為にはどちらが欠けてもいけない事が解っていた。
「明日、一緒に行きましょう」
 塾の帰りに僕を連れ歩きながらカナエがそっと僕に呟いてくれた時、心からボクは嬉しくなった。
 ゴミ捨て場にいる事しか出来なかったボクが、勉強を強いられそういう人生しか送れなかったカナエが、一緒に自由な旅を始められる。
 彼女のお父さんは哀しむかもしれないけれど、でもこの世界に生まれてきたからには自由の翼を広げて生きてみたい。
 ボク達は全て上手くいくと信じて疑わなかった。家に帰るなり彼女のお父さんに呼び出されるまでは。
「掃除婦がお前の部屋でコレを見つけた。随分大きなリュックだが……お前は何処へ行くつもりだ?」
 カナエのお父さんが座っている椅子も机も最高級品で、僕達が呼び出された部屋は紛れも無く彼女が嫌っていた権力と金に彩られていた。
「……私は自由になりたいの。自分の生きたい様に生きて、自分の目標を目指したい。1度きりの人生だから」
 企みが露見してしまった事でリュックが没収されるのを理解していたカナエは、涙を流しながら訴える。
「1度きりの人生だからこそ、石橋を渡らねばならぬ事が何故解らんのだ。お前には輝ける未来が待っている。
 良い生活をして、上流階級の者達と付き合って何不自由無く暮らせると言うのに、それを捨てる馬鹿が何処にいる?」
「ココにいるわ」
 確固たる決意のもと放たれた言葉に、カナエのお父さんは一瞬たじろいだ。
「自分の望んだ未来も描けない人生なんて死んでいるのと何が違うの。私はトレーナーとして世界を見てみたい。
 私の実力がどれだけ通用するのか知りたいの。生き方を選べない人生なんて嫌!」
 決意の重さを知っても尚、彼女のお父さんは説得を止めはしない。
「……カナエ、お前は今年で何歳になる?」
「16よ。旅に出るのが遅過ぎる位だわ」
 お父さんは感情のままに話すのでは無く、諭す様な口調に変えた。
「死んだ母さんの事について今まで話してこなかったのは、自分の恩着せがましい様な部分を知られたくなかったからだ。
 だがお前がそれ程意地を張るのならば、母さんの人生を話しておかなければなるまい」
 傍らでただ2人のやり取りを見ている事しか出来なかったボクは自分の無力さが心底情けなかった。
 出る幕は無く、割って入る事等到底出来ない。2人がそれぞれ抱えているものはボクより遥かに大きいものだった。
「お前の母さんはお前よりも小さい頃にトレーナーとして世界を巡り、自分の実力を示そうとしたが挫折した。
 世界の実力者と母さんとの間に立ちはだかる壁はあまりにも大きく、突破する事はとても出来なかったのだ。
 トレーナーは弱ければ無職のバックパッカーでしか無い。父さんと初めて出会った時の母さんの服はボロボロでとても人と話せる様な格好をしていなかった。
 父さんはそれでも母さんの容姿に一目惚れして結婚したのだ。母さんにとっては逆玉の輿の様なもので、贅沢な暮らしが送れる様になった」
 ボクはカナエの横顔を見たけれど、彼女の表情は決して変わってはいなかった。
「父さんが真面目な暮らしを送り必死に働いたからこそ、お前を今日まで育てる事が出来た。不慮の事故で母さんを失う前、私は何度も母さんに聞いたものだ。
 夢追い人だった頃の生活と今の生活。どちらが幸せかとね。母さんは何時もこう言ってくれた。夢だけじゃ生きていけないわと」
 カナエのお父さんの気持ちも解る様な気がする。今まで彼女の夢を阻もうとする悪い人としか思っていなかったボクにとっては衝撃的な話だった。
「今、お前は大事な時期を迎えているんだ。高校を無事に卒業して大学で懸命に勉強すれば、私のコネもあるから優秀な人材として就職する事が出来る。
 だが一時の夢の為に高校を中退してその先はどうなる。お前の履歴には何も残らんのだぞ。成功の道は限りなく狭く、厳しい道のりだ。
 それは私が母さんから聞いているからよく知っている。名誉と金を捨てて、針の穴よりも小さい奇跡に全てを賭けるなぞ愚かな事だとは思わんか?」
 普通の人にとってその天秤のどちらを選ぶべきかは明らかだった。1度トレーナーとしての道を選んでしまえば、もう後戻りは出来ない。
 また勉強をし直すと言っても高校を中退すれば山より高い大学の壁を突破しなければならないのだ。無理である事は明白だった。
『……ボクはお父さんの気持ちもよく解るよ。確率と言う点で言えばお父さんの言い分はもっともなものだと思う』
 カナエは驚いた顔をしてボクの方を見る。お父さんは僕とカナエの顔を見ながら1度頷いただけだった。
『でもボクは、最終的な判断はカナエに委ねる。ボクはカナエがどんな判断をしてもそれに従うし、一生ついていくよ』
 カナエはボクの方を見て微笑むと、お父さんの顔をしっかりと見据えながら自分の思いを告げた。


 あの時から2年の月日が経過した。
 ボクとカナエは自分達を閉じ込めていた籠であった街を飛び出し、イッシュ地方までも飛び出して現在はカントーで研鑽を続けている。
 強豪トレーナー揃いのカントーを選んだのは父親の助けを借りないと言う確固たる意思表示の為でもあり、また狭い世界しか見る事が出来なかったボクに世界の広さを教える為でもあった。
「じゃあ、今日も頑張ろう!」
 ボク達はバックパッカー同然の旅をよく2年間も続けてこれたものだと思う。1日の稼ぎは全てバトルでまかなう為勝てないと新しい服を買う事すら出来ない。
 何時もジムの宿舎を借りながら寝泊りをして移動を続ける。旅烏なので家にも全く帰っていない。孤独を感じる時もあっただろう。
「ダストダス、今日は勝って美味しいものを食べれたらいいね!」
 バッチは何個か集めたが途中で止まってしまい、今では野試合をしながらその日暮らしを続けている状態だった。
 それでもカナエは縛られていた時には見せなかった笑顔を何時もボクに見せてくれる。その笑顔だけでボクは救われる気がするのだ。
「正直、何時までもこんな暮らしを続けていけるワケが無いって言うのは私も解っているの。
 でも、ある程度の力はあるからポケモン関係の職業に就けれたらいいなって思ってる。今はまだ夢を諦めきれてないけどね」
 今になってボクは思う。本当はカナエにも未練はあったんじゃないかと。それでもボクを籠から出す為にこの道を選んだのでは無いかと思うのだ。
 怖くてとても聞けないけれど、その可能性もあるとボクは思っている。でも、ボクもカナエも楽しく生きている。それで良いんだろう……きっと。
「行こうか!」
 決して光り輝いてはいないけれど、何処までも広がる青空の下にある道をボク達は進んでいく。これからもずっと。


−○年×月△日の新聞記事−

 ライモンシティの有名な実業家であるマキノ氏が自宅で首を吊り自殺していた事が判明した。
 早朝にマキノ氏の自宅を訪れた家政婦が彼を発見。病院に搬送されたが間もなく死亡が確認された。
 マキノ氏は有名大学を卒業後建設会社で頭角を現し『建設界のドン』と呼ばれた程の人物で、彼の死により多くの著名人が衝撃を受けている。
 自宅からは彼の筆跡である事が明らかとなった遺書が発見され、トレーナーとして旅立った1人娘が離れた事により孤独となった胸の内が書かれていた。
 遺産は全て唯一の血縁者となった娘に讓ると遺書に書かれており、現在警察は所在が掴めていない彼の1人娘を捜索していると言う。


 
> フェアトレード 作:リング
フェアトレード 作:リング

 今日はいつも通りの日常だが、ただ一つ違いがあるとすれば、今日の農業経済学の授業は教授が出張により休みであることか。
 かといって、授業を休みにするわけでもなく、代理として元教え子だというビジネスマンの講義を聞き、それを1枚のレポートにまとめることが課題として出される。
 急行せずにきちんと授業を行ってくれた教授は中々責任感が強いと感じて、自分は少し交換を持った。授業に臨むにあたって自分はルーズリーフから一枚取出し、シャープペンシルと消しゴム、4色のボールペンをスタンバイして講義に臨む。受験もせずに1年バイトのために浪人して、自分で働いた金でこの大学に来たんだ、きっちり一字一句聞き逃さんようにしないと過去の自分に土下座物だ。どんな形の授業であれ、頑張らないと。
 現れたのは、山吹色に黒の縦線が入った明るい色のスーツを着こなす青年であった。年の頃は20代の後半ほどであろうか、自分から見て10歳ほどは年上だろう。
 黒や紺などの暗い色のスーツが多い中で、こんな明るいスーツを着ているとは変わり者だ。

「さて、皆さんこんにちは。ヨモギ教授出張のため、今日の講義を代理で務めさせていただきます、大木アサギと申します。今日は、よろしくお願いしますね」
 よろしくお願いします、と続いた声は小さかった。自分以外の皆は何を恥ずかしがっているのだろうかと思いながら、自分は前へ目を向ける。
「さて、皆さん。皆さんに今日話すのは、フェアトレードについてです。フェアトレードとは、読んで字の如く、公正な取引と言う意味でして……要するに、先進国に溢れるに日用品や嗜好品などの原産国での立場の弱い労働者を救うためにあるものです。
 さて、本格的に話に入る前に皆さんには、まずこのCMをご覧になっていただけますか?」
 教授の代理人であるアサギは、携帯出来る立体のホログラム装置を机の上に置く。上方にレンズがついた立方体箱にあるスイッチを起動してから、数秒操作をすると、虚空に平面画像が浮かび上がる。
 どうやら大学では一般的なホログラム装置の、平面画像のスライドや動画を映し出す気らしい。そのCMの内容は要約すると、この石鹸は従来の物よりも分解されやすい物質を使っているから、下水道に流しても汚染が少ないというものである。また、肌にも優しいのだとか。しかし、画像がちょっと古いところを見ると、少々昔のCMなのだろうか。
 最初の映像では、ヒンバスが漂う湖だった場所が、ミロカロスが優雅に踊る湖に様変わりするのだから劇的なビフォアーアフターである。そんなにうまくは行くまいと私は思うのだが。

「いい商品ですね。皆さんはそう思いませんか?」
 と、話を振ってアサギは挙手をさせる。いまどき、地球に優しいなんて触れ込みはありきたりだし、肌へ優しいなんてのも今時セールスポイントにすらなりやしない。
 一応、このCMは口だけは達者だから、CMで言っていることが本当ならばいい商品だと、私は手を上げる。
「では、手を挙げた人はどうしてそう思いましたか?」
 そう話を振られた時、自分はついつい「えーと……」なんて声を上げてしまう。それで最前列に座ってたりなんかしていたので、当然のように『どうぞ』なんて指名される。
「……いや、言っていることが全部本当なら、いい商品だと思いますが。でも、ありきたりな謳い文句に、都合のいいことばかりの表現。それに、使用感の感想だって、右下に小さく『効果の感じ方には個人差があります』でしたっけ? あんなものも書いていますし……
 そもそも、以前別の授業で聞いたんですが、綿花のように口に入れない植物は農薬をガンガン使うそうじゃないですか。石鹸肌に使いますが、口に入れるわけではないですし……その原料は……一体」
 自分は思ったことを口にする。すると、アサギはその発言がいたく気に入ったらしい。
「素晴らしいですね」
 というのが、アサギの第一声であった。
「そうです。私が言いたかったことを言ってくれちゃいましたね。商品としてありきたりな謳い文句だとか、使用感の個人差などについては、この際気にしないとしても……この石鹸の原料であるヤシの実の生産環境はひどいものでね。
 このヤシの実は、食用に使われることもあるけれど、これは完全に石鹸用に使うものだから農薬は使い放題というわけだ……そちらの金髪で深緑の服を着た方が言うとおりにですね」
 金髪で深緑の服。当然自分しかいないわけだから、私の言う通りと彼は言いたいわけだ。
「農薬を使い放題ですので、本来は何千倍という単位で薄めるはずの農薬を。大した希釈もせずにガンガン使っちゃってます。それで呼吸器や皮膚に影響があるのはもちろんの事、癌に掛ったり指などが変形することもあります。これが、そのスライドです」
 グロテスク、というわけではないが変形した指の写真や、侵された肺のレントゲン写真やら、えげつない映像が流れる。そのスライドを背景にしたまま、アサギは喋りはじめた。

「私は、こういった労働環境を改善しようと世界中を飛び回り、現地政府の援助を受けながら中売人や農場の地主。そして、小売り、卸売りの企業への交渉やアドバイスを行っています。その過程で、確実に話題に上がるのが……この生産ピラミッドの最低下層にいる人たち。農場などの労働者に対する賃金。つまり、金です。
 早い話が、フェアトレードというものは労働者に対して妥当な賃金を与えられるようにするためにあるものなんです。もちろん、先程の農薬や、怪我した時の保証などの問題も含めていろいろ改善しますがね」
 結論から言えばそうなのかもしれないが、大胆な物言いである。

「例えばこの石鹸の例であれば、我々が購入している石鹸の売り上げが直接労働者に届けば、生活するのに十分な賃金が行き渡るのですが……しかし、現実はそうもいきません。まず、農場の所有者から中買業者が原料を買い取ります。それを原料を加工する業者に引き渡し、それを海外へ輸出するために業者を仲介し、それに関税が掛かった上で、さらに加工されたものを包装する会社があって、それをさらに卸売し、さらにそこからスーパーやコンビニなどの小売店で販売する。
 この過程で、同じだけの原料が加工料金、運送料金、税金などで何度も何度も割増しされていくうちに、手元に届く値段となるわけです……それぞれ仲介していく業者が利益を出すためには、段階を踏むごとに値上がりしていくのは確かに仕方のないことなのですが……それをやりすぎてしまえば、安い値段で家庭に石鹸を届けるためには、最下層の人たちに犠牲になってもらうしかありません。労働環境が整わないために、排水や煤塵などの処理をまともに行えず、環境汚染を引き起こしてしまうところもあります。
 ヤシの実を樹から落とす時に、それがぶつかって死ぬ人もいます。ヘルメットがあれば多少は違うのでしょうがね、それすらもない。
 綿百パーセントを謳うジーンズの生産現場では、それこそヒンバスすら住めないような染料の色に染まった池なんて何度も見てきました……ベトベトンは放流したら、喜んで汚染された水の汚れを取りこんでいましたよ。
 先ほどの石鹸もそうです。地球に優しいと言いながら、生産の現場では人や土壌に害毒をばらまいています。言葉には説得力がなく、『言っておるだけ』というのがふさわしい」
 言いながら、アサギはスライドショーを早送りして、ジーンズを染める現場を見せる。労働者たちはゴム手袋でもして作業するべき色のような水に、素手、素足で四肢を浸けている。そして、カメラを別の場所に向ければ、排水は赤い池を作っていた。青いジーンズを作るのに、どこかで赤い何かを使う必要があるんだな、なんて暢気な思考と共に、こんな色の水はヤバイんじゃないかと言う思考が遅れてやってきた。
 そう思っている間にも、アサギの話は続く。

「しかし、労働者の賃金を上げようとなると、今度は商品の値段を上げなくてはなりません。つまるところ、価格競争では勝てなくなってしまいます……だから、ここでフェアトレードという事を売りにする。それが、フェアトレードの存在意義です。
 皆さんは、生きているうちにどこかで何かに募金をした経験があると思います。そういう風に、人間には少なからず良心というものがありますね? このフェアトレードというのは、そういった皆さんの良心に訴えかけることで購買意欲をそそり、価格競争の逆流に立ち向かうことを狙いとした商品です。
 『この商品はフェアトレードですよ』。『だから、これを買えば貧困層の人が助かります』『だから買ってください』と、売り出すのです。労働環境を改善した商品は当然高くなりますが、生産者の笑顔も含めての商品価値となるわけですね。
 フェアトレードの例として、例えば労働環境や生産過程を改善された綿花なら『オーガニックコットン』と呼ばれます。当然オーガニックコットンによって作られたジーンズやシャツは割り高です。ですが、労働者の健康や幸福が守られるなら……と、普及を目標にしている人もいますし、そうすることで助かる人がいます。
 そして私も、綿花や、それ以外の品でも公正な取引が行われること目標とする人の一人です。コーヒー、カカオ、ヤシの実、タバコ、綿花、サトウキビなど、他の工芸作物についても、無視はしません。
 ついつい前ふりが長くなってしまいましたが、これからフェアトレードの仕組みや、認証制度についてお話いたします」
 長かった前ふりを終えて、演説のようだった語気の強い授業は鳴りを潜め、退屈(と思う人の多い)授業となった。フェアトレードは、難しいことはよくわからなくとも、買うだけで出来る国際協力だ。まぁ、そのための流通ルートを開拓するのは自分で難しいことを覚え、考え、実践しなきゃいけず、流通ルートや認証制度の勉強には皆さん消極的らしいし、その事が分かっているアサギさんの授業は熱意が少々萎えたようなテンションの下がり具合だ。
 授業中に騒ぐような輩はいないから授業としての体裁は整っているが、授業風景はいつも通りといった感じだ。真面目に聞いてノートを取るのは、自分を含めて三割程度だろうか。せっかくお金を払って大学に来たというのにもったいない。

 真面目に聞いていると、彼は色々危ない目にもあったらしい。発展途上国という事で普通に犯罪に巻き込まれた話なんかも合ったが、労働者の賃金の値上げや農薬の使用法の改善について熱意をもって話していると、商売の邪魔だと思われ暴力を振るわれることもあったんだとか。
 ベトベトンを持っているのは、ベトベトンが喜んでいる映像を見せて『汚染されているという』事実を客観的に示すためでもあるが、同時に護衛の役割もあるのだという。野性のポケモンに襲われた時など役に立ったためしはあるが、それも数の前には無意味で数日ほど拉致監禁されて脅されたこともあると、アサギはことも無げに言っていた。
 そんな目にあっても日夜いろんな場所を駆け巡っているという事は、よほどの熱意でもなければ出来る事ではあるまい。自分のように、護身術やポケモン使役術に心得があっても怖いだろうに、無茶する人である。
 そして、それだけの熱意と理由があるのだろう。誰かを救いたいという理由と、熱意が。
「ちょっと、憧れちゃうな……」
 今まで流されるだけの人生だったのを打破しようと大学に入ったけれど、結局具体的に何を為すべきかを定めていない自分とは違う輝きがある。
 おこがましいかもしれないけれど、自分も手伝うとか、手助けできればなんて私は思う。今日はこの授業が終わったら、3コマ目の授業がないため4コマ目まで暇である。この授業が終わったら、もうちょっと踏み込んだ話を聞いてみるのもいいかもしれない。


 
> 毒を前に、進め 作:海 【○】
毒を前に、進め 作:海 【○】

 隙間からやってくる穏やかな風もあってまさに春の麗らかな陽気といったところか。しかし今俺が対面している状況は昼下がりにお茶を飲みたくなるようなリラックスした雰囲気ではなく、緊張で頭が真っ白となってしまった俺にとっては修羅場とでも言うべき場面であった。
 俺の目の前にいる人は一人のお爺さんだ。
「――というわけで、この子をしばらく預けたいのです。宜しいですか?」
 お爺さんが尋ねてくる。宜しいも何もない、引き受ける他に道はないのだ。
「はい……」
 なんだか言葉が震えている気がする。我ながら情けない。
「では、宜しくお願いしますね」
 お爺さんはにっこりと笑って席を立つ。慌てて俺も立つと、相手は余裕を持った物腰で会釈をした。それに対してほぼ直角の礼を返すと、二人は扉を開けてその場を後にした。
部屋に残された俺はただ呆気にとられるだけだった。あっという間に進んでいった会話の内容を改めて追い、そしてふと現実に返ってテーブルの上に置かれた一つのモンスターボールを見下ろす。それはお爺さんがここに残していったものだ。隣には数枚の紙があり、まだ深く目を通していない文字の羅列が並んでいる。
俺は一つ溜息をついた。緊張で強張った体は緩んできたが、代わりに訪れてきたのは孤独が身に染みる時に似た不安。
加奈子さん、早く戻ってこないだろうか……。
ぼんやりと俺はここの育て屋の経営者であり、自身の先生といえる人の帰りを待ち望んだ。

 数分経った後、からんという鈴の音と共に扉の開く音がして、俺ははっと顔を上げた。
「あっれ己一くんこんなところで何やってんの? そこは私の席じゃんね。はいどいたどいた。あとこれ片づけて」
 言い切るか言い切らないかのところで両手に持っていた大きな茶色の紙袋を放り投げてくる。もちろん、俺に。突然のことながら日常だしその攻撃がやってくるのは分かっていた。何度受け取ってきたと思ってんだ、立ち上がって器用にそれを受け止める。けど今日の荷物は固いものが入っているようでそれが腕に圧し掛かりさすがに痛みが走る。
「……加奈子さん、そろそろ荷物投げるのやめましょうよ」
「んー、なにそれ」
 清々しいほどのシカトを繰り出し、こちらに歩み寄ってきてテーブル上のモンスターボールを手に取り次に紙面に目を通す。
「へえ、あたしが居ない間にお客さんが来たの。それも難しい子が来たね」
 加奈子さんは顎に手を軽く当てて考えている素振りを見せる。
 俺は加奈子さんの荷物をソファの上に一度置くと、肩を落とす。
「はい……だから接し方がよくわからなくて……」
「分かるけど、たまにこんな人も来るのよ。良い経験さ」
「わざわざ加奈子さんが居ない時に来なくても……」
「うだうだ言ってもしょうがないじゃない。あんたはあたしが居るより一人で居た方が自分で考えるから成長するし。はい、これ」
 直後、加奈子さんは手に持っていたものを僕の方にそっと放り投げる。慌てて受け取ったそれは、一つのモンスターボール。
 しかし突然押し付けられたかのように思われ俺は思わず加奈子さんの方を怪訝な目で見つめる。その表情はにこにこと笑っていて、さばさばとした彼女がそうやって笑うのは何か意味あってのことだと俺は分かっていた。
「あの、加奈子さん?」
「あんたもあたしの助手は飽きたでしょ。一度自分だけで育てなよ」
 予想の範囲内、いや、予想のど真ん中を射抜いた。
ここ最近加奈子さんは俺一人に育成を任せることを含んだ発言をするようになっていた。そのたび俺は流してきたが、いつかは来る現実というものがやってきた。
それでも俺は拒否を示そうと顔をあからさまにしかめる。
「初めから俺一人で、ですか? 急ですって」
「急じゃないわよお。前からそろそろって言ってたじゃない」
 そうですけど、と言おうとしたところで、それにと加奈子さんは付け加える。
「己一くんって受身なところあるじゃない。もっと自分で考えて行動していかないと」
 真っ直ぐに向かれた視線が突き刺さり、心に小さな痛みを残す。何も言い返すことができずに、俺は手元のボールに目を落とした。光を反射して照るボールの中を外側から見ることはできないが、中からは見えているだろうか。この手の中のポケモンは俺の第一印象をどう持つのだろうか。
「じゃあ、頑張ってね。あたしはタマゴの様子を見てくるから」
 加奈子さんは軽く手を振りながら、玄関側とは反対の裏口の方から外へと出て行った。扉が開いた途端に隙間から零れてきた風をすっと吸い込む。不安とは別の理由でも高鳴る心臓の鼓動を抑える。
掌に収まっている生き物の名前は、ドガース。
確かに、難しい子、だ。



一般に毒タイプのポケモンはあまり手持ちにするのに好まれていないのが現状だ。
俺自身もトレーナーとして過ごしていた頃に毒タイプのポケモンを持ったことはないし、加奈子さんに弟子入りしてからも殆ど見たことはない。
 元々気性が荒いポケモンも多く、やはり扱いづらいというのが誰も声を揃える。
今回託されたドガースは扱いづらいポケモンの中でもなかなか上位に当たるポケモンだろうと俺は思う。今、加奈子さんの持つ大量の蔵書をあさって情報を集めるまでそれは仮定でしかなかったが、それが明らかに真実であることが分かってきた。
人間の生み出した廃棄物質から生まれたポケモン――ある図鑑でビジュアルと共に載せられた文の羅列の始めには、そう書かれていた。
兵器工場の毒ガス貯蔵倉庫で最初に発見され、薄い膜のような体の内側には猛毒のガスが目一杯に詰め込まれている。まさに毒入りの風船のようなものだ。ただの風船なら良いものを、体のあちこちの穴からガスは当然吹き出すし、時には小さな刺激でも大爆発を起こすときた。そして匂いも天下一品なことでよく知られているようだ。なぜこのようなポケモンをお金持ちが持っていたのだろう。まあ道楽か何かで手に入れてみたら予想以上に扱いが難しく手に負えなくなり、育て屋に押し付けたという流れは容易に想定できる。
俺は今手に持っている分厚い本を閉じた。同時に大きな溜息をついた。これは扱いが難しいなんてものじゃない、もしかして、もしかしなくても相当危険な仕事なのではないだろうか。
机に山積みになった本の隣には、まだ開けていないボールがある。調べれば調べるほどにマイナスな情報しか出てこない。それが一層不安を煽る。ボールを開くというその簡単な動作をする勇気すら出てこない。
お客さんからもらった書面をもう一度読む。行動の履歴も載っているがやはり爆発騒動もあったようだ。気にかかるのはそういった行動の詳細が四か月程前を境に途切れていることだ。要は、その頃から日の目を見ていないのだろう。文字通り臭いものには蓋をしたということだ。
ドガースの気持ちも汲めるが、人間側の気持ちも理解できるというのが、また難しいところだな。
 また一つ溜息をついてしまう。
とりあえず相手のことを知らなきゃ始まらないと思ったのに、結局止まったままじゃないか。こんな重い役をわざわざ最初に回さなくてもいいのに。思わず加奈子さんのことを恨めしく思ってしまう。
少し気分転換でもしよう。
ゆっくりと椅子から立ち上がって肩を伸ばす。大きく鳴る音が書庫に響き、埃っぽい窓を思いっきり開ける。
眼前いっぱいには若々しい草原が広がっている景色がある。柔らかな青い空と、黄色や白といった可愛らしい色合いの花もちらちらと見える草原の中で、あらゆるポケモン達が走り回ったり昼寝をしたりしている。小さな池の傍で丸いお腹を上に向けて気持ち良さそうに寝ているコダックの姿が丁度目に入り、思わずにやけてしまう。池から顔を出したハスブレロがその様子を発見し悪戯に笑うと、忍び足ならぬ忍び泳ぎでコダックに近い位置までやってきて、その黄色く丸いお腹の上で手を小刻みに這わせる。瞬間コダックは安眠からぱっと解放され、悲鳴と共に地面から数センチ跳びあがった。ハスブレロは手を叩いて笑うと池の中に逃げるように潜る。コダックは睡眠妨害に腹を立ててすぐに追いかけて行った。ハスブレロは悪戯好きでのんびり屋のコダックは良い標的である。
 のんびりとした時間だ。ここに流れる空気はゆったりとしていて、同じくゆっくりマイペースな俺には合っている。できるならずっとこうして浸っていたいのに。
「おや、サボりとはやりますなあ己一くん」
 妙に纏わりつくような声色で寄ってきたのは、加奈子さんだ。ここは加奈子さん一人が経営しているから当然といえば当然だけど。
 苦笑いで流すと、彼女の隣にいる黒い毛並の気高い様相をしたグラエナにすぐに気が付いた。
 他でもない、そのグラエナはその進化前であるポチエナの頃からずっと一緒だった俺のパートナーともいえるポケモンだ。ただかっこいい外見とは裏腹にその名前はヒナだ。
「ヒナー久々だな。足の具合はどうだ?」
 窓から身を乗り出し、その頭を思いっきり撫でてやる。ヒナは気持ち良さそうに笑い、上機嫌に尻尾をぶんぶんと振っている。まったく可愛いやつだなあ。もっとなでてやる。
「順調よ。今はリハビリに散歩しているの」
 喋れないヒナの代わりに加奈子さんが教えてくれる。
 ヒナは俺が転向して以来、育て屋のポケモン達の世話役の一端を担っている。ただ数週間前にポケモン同士の喧嘩を止めようとした際に、噛みつかれたために大量出血するほどの怪我を負った。
トレーナー時代は些細なことでもすぐに落ち込んでしまう俺の傍にいつもいてくれた。目立ったことはしないけれど、落ち込んでいるときには隣にくっついて離れなかった。時には叱咤し、不甲斐ない俺を励ましたその心には頭が上がらない。
「ところでドガースくんはなんとかなりそう? まあ、その様子だと手こずってるみたいだけど」
 話を戻され俺は肩を落とす。
「まだ、ボールから出せてもいなくて。俺ドガースのことなんて全然知らないからまず本を読んでどんなポケモンなのか調べたんですけど、なんか逆に落ち込んだ、というか……」
 ああ、情けない、加奈子さんやヒナの前でこうやってすぐに落ち込んでしまう。
「まあドガースはねえ、どうしても疎外されてきたし、作者もそりゃあ危険な部分を指摘するわね。危ないところが特徴だし」
「俺、うまくやれる気がしないですよ」
「でも、本とかメモに書いてあることが全てじゃないから。ポケモン自体を見なきゃ、なんにも、なーんにも、意味ないからね。ここ重要。はいヒント終了」
「ええっ」
「言ったじゃないもっと自分で考えろって。あたしじゃなくて本でもなくて、自分がやりな」
 さばさばと加奈子さんは言い切って、ヒナに声をかける。ヒナは名残惜しそうに俺を見たが、加奈子さんの歩みに沿ってゆっくりと歩き始める。その歩き方はぎこちなく痛々しい。でもヒナは痛みに耐えて頑張っている。俺もやっぱり頑張らなくちゃいけないんだ。
振り返って机上のボールを手に取る。
頭の中に周辺の地図を描き、先程読んでいた本を一つともらった書類とペンを合わせて持ち、書庫から直接外に出られる扉へと向かい、その場を後にする。
全身に受ける自然の息吹に心を落ち着かせる余裕は特に無く、少し速いスピードで歩く。
 広大な土地を数分横断すると、鬱蒼と茂る林の傍までやってくる。林は林で虫タイプを初めとして別のポケモンがいるが入口付近はいつも空いている。
歩幅を徐々に小さくしていき、地面にボール以外の持ってきた物を落とす。そしてドガースの入ったそれを改めて見つめる。
廃棄物質から生まれ兵器工場の毒ガス貯蔵倉庫で発見され体内には猛毒のガスを溜め込みそのおかげで臭くちょっとの刺激で大爆発を起こす――。
短時間で得た情報が脳内を駆け巡る。
 ふぅと息を吐く。一人緊張が走る中で開閉スイッチをついに、押した。
ボールが開き、中から眩しい光が跳びだし空中で形作られていく。そして見た目が完全に形成される前に何よりも真っ先に鼻に異臭が飛び込んできた。臭い、臭いなんてもんじゃない、酷い匂いだ! 随分と放っておいた生ごみの匂いと似ているけれどそれより一段階臭い。思わずむせ返った。
 目がきんと痺れて歪む視界の中で、黄土色の煙が広がる。その更に内側に、紫色の球体が浮かんでいた。図鑑で見た写真と一致する。
目を瞑りながら腕で僅かな風を起こしてガスを払う。
涙が止まらないがようやくガスが風に乗って消えていき、問題児と対峙する。
 目を擦って改めて見ると、少し間の抜けたような顔つきが俺を待っていた。口から小さく低い鳴き声が漏れる。
こいつが……ドガースか。
 
そこで、ふっと視界が暗転した。




 気が付いて視界にまず入ったのは、オレンジ色の天井だった。
目の開いた俺の顔を突然生温かい舌が舐めてきた。それがヒナの仕業だと気付くのにそう時間がかからなかった。
切なそうに鳴くヒナの頭を撫でようと体を横に動かすと、額に乗っていたらしい湿ったタオルが床に落ちる。ヒナもオレンジ色になっていた。そうしてその色が太陽の光であることに気が付く。
 どうやら応接間のソファに寝ていたようだけど、記憶は曖昧に霧がかかっていて、はっきりと思い出せない。それにしても頭が痛い。殴られてるみたいだ。それに体がやたらと怠い。
ヒナが早歩きでその場を離れるのを見届けると、ゆっくりと上半身を起こす。その瞬間胃からせりあがるような吐き気が襲い掛かってきた。思わず体を畳むが、口から出てくるのは唾液のみ。
深呼吸を繰り返すと新鮮な空気が循環し、少し気分が良くなる。
 ソファに背中を預けて虚空を眺めていると、だんだんと数時間前の出来事が蘇ってくる。
そうだ、ドガース……。
ドガースがボールから出てきて、一緒に跳びだしてきた毒ガスを思いっきり吸ったせいで倒れたんだ、きっと。それで夕方の今の今まで気を失っていたんだ……。
 その時部屋の中に固い足音がやってくる。顔を上げると安堵の表情を浮かべた加奈子さんがいた。その隣には先程まで一緒にいたヒナの姿もある。
「良かった。さすがに顔を真っ青にして気を失ってるのを見た時には、どうしようかと思ったわ」
 加奈子さんは言いながら、半透明の白いジュースのようなものが入ったコップをテーブルに置く。
「モモンの実のジュースよ。大分薄めてあるけど、きつくなければ飲みなさい」
 ああ、なんだか加奈子さんがやたらと優しい。別人みたいじゃないか。
「……じゃあ、遠慮なく」
 軽く会釈をしてからコップを手に取りゆっくりと飲んでいく。確かに薄味だが今の自分には丁度良かった。ほんのりとした甘さが口の中に広がっていく。
「そういえば、ドガースは?」
「散歩中。他の鳥ポケモンが様子を見てくれてる」
「……そうですか」
 とんでもないスタートを切ってしまった。まともにスキンシップも取れずにこっちが倒れるだなんて。
「どうせ自分の傍でボールから出したんでしょ? あんだけ用心して本も読んだのに、そういうとこがまだまだ甘いわよね。とりあえず危険なポケモンは少し距離を置いて様子見なきゃ。それを怠ったせいで毒ガスをまともに吸い込んで気絶、目覚めたから良いけどほんとなら笑いごとですまないから」
 次々と出てくる加奈子さんらしい毒の効いた節。しかしその表情はいつになく真剣で厳しいものだった。
俺は流すようにへたへたと笑うこともできず、ただ俯いて己を恥じるしかなかった。
「でも、仕事を投げ出しちゃだめだからね」
 叱られている子供のように、黙って頷いた。
「このドガースの世話は、しっかりやりな。きっといろんなことが見えると思う」
 無防備な心に、彼女の剣のような言葉が突き刺さっていく。
 完全に黙り込んだ俺を見かねたのか、加奈子さんは浅い溜息をついた。
「もう今日はいいよ。ゆっくり体を休ませな」
 軽く俺の肩を叩いて、ソファの背もたれにかけてあった薄い布団をかけてくれる。その後もう一度外に出ていき、部屋の中には俺とヒナだけが残された。
 時間をかけるほど、加奈子さんの言葉が重く深く沈んでいく。裏が無い性格だからこそ真っ直ぐに届いてきた。向いてると思っていないというのも本心だろう。実際、俺もバトルの道を避けて選んだという消極的な道だから言い返すこともできない。
才能とかそういう眩しいものはきっと自分には無い。何をやっても中途半端で空回りして、落ち込んでの繰り返し。何も昔から変わっていない。
 と、ヒナが突然ソファの上に飛び乗り、隣に寝そべるように座り込む。ポチエナの時に比べ随分と大きくなった体であるが故にソファが一段と狭くなる。さらさらとした毛並が触れ、生き物独特の香りが鼻をくすぐる。甘えるように上半身を寄せてくる。グラエナらしい勇ましい様子は欠片もない。でもヒナがまた、隣で励まそうとしてくれているのだということはすぐに分かった。
「ありがとう、俺、明日からもう少し頑張ってみるよ」
 呟くと、ヒナの喉が低く鳴った。
その日は随分と深く、眠ることができた。



 時は巡り、朝がまたやってくる。
 再びドガース入りのボールと毒消しの錠剤を手に、またあの林の入口へと足先を向けた。
木漏れ日の下、俺はボールを見つめる。昨日の失敗と加奈子さんの言葉を思い返し、ボールを少し遠くへと投げる。物理的に少し離れた場所でボールは開きドガースが出てくる。そして昨日と違う点に瞬時に気が付いた。昨日は視界が眩むほどの量だった毒ガスなのに、今日は少しも出ていないのだ。
なぜだろう? 本の内容を思い出してもその理由は出てこない。
 でもこれで少しは臭さが薄れるし、昨日より安全に向き合えそうだ。勿論、油断は禁物だけど。それにしても少し遠い。数メートルの差がある状態で話したとして、ドガースに届くだろうか?
「え、っと……改めて初めまして、己一です」
 他人行儀の言葉を並べると、ドガースは体を斜めに傾け目を細める。人間でいえば首を傾げているような心情が伺える、気がする。
「その、昨日は折角出したのにすぐに倒れてごめん……って、ええっ!」
 いやいやいやそんな、ドガース俺の方とは反対側に行こうとしてるんですが!
つまり完全に無視なんですが!
「待って待って待ってちょーっとでいいから会話ってやつをしようよ、ああー飛んで行かないでほんと」
 ふわふわと風船が動いていく。慌てて数メートルの差を埋めてドガースの傍に寄り無理やり止めようと手を伸ばした。その瞬間、ドガースの体の穴からガスが噴き出す。思わず顔をさっと避け体を引いてしまう。
 だめだ、これじゃいけない。もっとドガースを身近で知らなきゃ。思いが走り、息を止めた状態でドガースに触れた。思っていたより柔らかい体で、力を入れれば割れてしまいそうだった。
 しかしその時指先に跳ね返すような力が加わり、直後ドガースの体内が白く光るのが分かった。それが意味するところを、昨日の情報から簡単に予測することができた。
 さすがにまずい、そう思ってドガースから離れて思いっきり体を伏せた。数秒後、ドガースの体全体が光る。
直後、大きな破裂音と共に小規模ながら爆発が起こった。
爆風が体を吹き飛ばさんと襲い掛かる。
びんびんと震える鼓膜。震えを越して響く、痺れるような痛み。
一瞬の出来事に呆気にとられ、巻き上がる灰色の煙が晴れていくのを待つ。草原は抉られ、それほど大きくなかったとはいえ大きな威力を発揮させていた。
そして煙の中心には地面に目を回した状態で倒れているドガースの姿があった。気のせいか体は少ししぼんでおり、また浮かび上がる気力ももう無いようだ。
少しの刺激でも、爆発を起こす。
確かにそう書いてあったけど、ちょっと触っただけでも爆発するなんて、いくらなんでも繊細で神経質すぎるだろ。それじゃあどうやって接していけば良いというんだ。
とりあえず、完全にのびているドガースの傍に寄り、座り込む。爆発がドガース自身の意思と関係なく起こるのだとしたら、今触ったらまた爆発が起こる。
どうしたらいいんだ。
どうやって接していけば良いというんだ。
尋ねようにもドガースは気を失っていて、ただただ途方にくれるだけだった。



三十分も経たないうちに、ドガースは目を覚まし、ゆっくりと浮遊をし始める。ふらついているけど、意外と大丈夫そうだ。柔らかな体だけど、案外丈夫なのかもしれない。
それでも浮いていられるのは地上十センチ程の高さで、相当の体力を消費したのは目に見えている。
「無理はしなくていいよ、……もっと休んでおけばいいって」
 とりあえず、声をかけてみた。ドガースは恐る恐るといった風に俺の方に視線を向ける。ガスが少し漂っている、それに怪訝な目をしていて明らかに警戒している。思い込みでそう見えるだけだろうか、警戒しているのは俺も同じなのだから。
 結局お互いに近づくこともできず、それからしばらく沈黙が続いた。
 今は力を失っていて休んでいるけれど、元気があればさっきのように空へと飛んでいくだろう。昨日も鳥ポケモンと一緒にこの辺りを回っていたというし、空が好きなのだろうか。確かに昨日も今日も散歩には絶好の機会だけど。
 今は、何を考えているんだろうか。まだ殆ど会話していない俺のことを、どう思っているんだろう?
 よく見ると、ドガースはずっと向こうの方を見つめていた。
「……広いとこだろ? ここら一帯は、全部加奈子さんの土地なんだ」
 ドガースは俺の方を見る気配はない。それでも、独り言のような会話を投げかけ続けてみることにする。
「加奈子さんっていうのはこの育て屋の経営者で、元々は親族の……確かおじいちゃんだったかな、その人のものだったんだけど、亡くなられて長く放置されていて、寂れていたんだけど、加奈子さんがここをもらったんだ。今の景色じゃそんなの想像できないだろ。俺だって信じてないよ」
 一人勝手に笑う。ドガースの表情は固いままだ。空しくなるけど、ここで引き下がるわけにもいかない。
お互いに警戒を解いていかなくちゃ、始まらない。
「俺は前にトレーナーやってて当たり前みたいな感じで旅もしてた。でもバトルに勝てなくて落ち込んでばかり。バトルの息つく間もないスピードについていけなかったんだよ。俺、マイペースだから。これからどうしたらいいのかも分からなくなっていた時に、ここの近くに来て、そしたら突然加奈子さんがすごい顔でやってきてさ、逃げ出したポケモンを追いかけるのを捕まえてほしいって言うんだ。懐かしいな」
 ただの思い出話になってる。これでドガースのなんの気を引き付けようっていうんだ。でも他に話題がでてこない。
「加奈子さんってけっこう性格は男っぽいとこある人なんだけど、もう初めて会ったときからもそうなんだよ。俺もヒナももう走らされまくってさ、あれはほんとに疲れた。でも人に頼まれることってあんまり無かったし、ちゃんとやったよ」
 息が切れて心臓がはちきれそうになっても走り回った。逃げ出すようなポケモンはすばしっこいものが殆どで、勝ち目の無い鬼ごっこをしているような気分だった。
 加奈子さんも加奈子さんでジャージ姿で走り、ポケモンを使ってなんとか事態を収拾させた。
ジャージで髪もぼっさぼさで勿論化粧もしてないのに、加奈子さんがありがとうって言ってくれた時に、ああ、充実してる人の顔ってこんな感じなんだと直感した。
「そう、それで加奈子さんとちょっと話したりして育て屋のポケモンを見たりして、なんかここに俺の探してる答えがあるかもしれないなんて、思ったんだ……クサいけどさ」
 ドガース相手に何を話してるんだ。
思わず自分に笑ってしまってちらりと横目で見ると、ドガースがこちらに目線を移していた。
 ……焦らないでいこう。
 ここはバトルの世界じゃない。息つく間もないスピードは存在しないんだ。ドガースのペースに合わせていくんだ。



「ドガース、これ」
 言いながらドガースの前に、ピンク色の真四角の固形物がいくつも入った器を出す。ドガースは目を細め不安そうにそれを見つめる。
器の中身はポロックだ。ホウエン地方から発信したポケモン専用のおやつで、これはモモンの実を原料としている。この間ドガースが他のポケモンたちとモモンの実をおいしそうに食べていた姿を見てヒントを得たのだ。毒タイプなのに解毒の効果があるモモンの実を好むなんて変な話だけど、単純に甘いものが好きなのだと踏めば、このポロックもきっと好きだと思う。
ドガースが育て屋にやってきてから一週間が経つ昼下がり。一週間で俺はドガースと特別な関わりを持ったわけじゃない。挨拶と簡単な会話だけで、基本的には環境に慣れさせることに専念させた。
「食べてみなよ、……美味いから」
 あぐらをかいてドガースが来るのを待つ。
「俺には少し甘いけどさ、ほら」
 言いながら俺は先にポロックを一粒拾い、口の中に放り入れて噛み砕いてみせる。深みのある甘さが一気に口の中で弾けて浸透する。やっぱりちょっと甘すぎ。
 その様子を終始見るドガースに向かって、仕上げのように最後に笑った。
「美味いよ」
 もう一つポロックを手にとり、ドガースの目の前に差し出した。さすがに手で直接あげるのは、警戒が完全に解けない今では早いだろうか。
 ドガースは固まったまま動かない。やっぱりまだ早いか。仕方なくドガースのすぐ傍の地面にそっと置く。興味津々といった風にポロックを見つめ、そしてゆっくりとその体が下に沈み始めた。じっとポロックを見つめ、次の瞬間ぱっと口を開けると一気に飲み込んだ。
 あっという間の出来事に思わず笑みがこぼれる。
 ドガースは味を確かめるようにしばらく難しげな表情をしていたが、自然と幸せそうに目が上向きの三日月型となり、低い声が漏れた。
「ほらもっと食べなよ。俺も食べる」
 ドガースはポロックに対する警戒心は取れたのだろう、一転して自ら進んで食べ始める。
合わせて俺もまた一つ食べる。ああ、甘い。俺はこれくらいにしておこうかな。ドガースに食べさせてあげた方が余程良いか。
 ふぅ、と手を地面につけて空を見上げる。なかなか空を見上げる余裕もしばらく無かったけど、改めて見ると空は大きい。よくドガースは空を泳いでいる。いつも見るたびに羨ましくなる光景だ。
「やあ己一くん、匂いには慣れた?」
 突然声をかけられ背後を見ると、加奈子さんがこちらに歩いてきているところだった。一緒にいるのはヒナではなく、珍しくコダックだった。
「なんとか、慣れました」
「そう、そりゃ良かった。この子はまだ無理みたいだけど」
 加奈子さんは苦笑しながらコダックに視線を落とす。確かにコダックは明らかに嫌そうな顔をして、大きな口の根本を抑えている。目にも涙がうっすらと溜まっているのが分かった。
「でも、ここは育て屋だから、これからが本番だからね」
「分かってます。ところで、この時間にコダックといるなんて珍しいですね」
 俺の言葉に加奈子さんは静かに頷いた。その表情に一瞬影が差したが、すぐに払うように小さく微笑んだ。そしてコダックの頭を優しく撫でながら、そっと口を開く。
「この子、明日飼い主が迎えにくることになったの」
 あまりに淡々と彼女の口から出てきた言葉に、一瞬息が詰まる。
絶句する様子がそのまま表情に出たのだろう、俺の顔を見て加奈子さんは笑みを深くした。
「良い悪戯相手がいなくなって、ハスブレロが寂しがるだろうね」
 ただ、平坦に感情を隠すように話す。


「覚えてる技は『えんまく』に『ヘドロこうげき』、ああ、やっぱり『じばく』も覚えてるんだ。自分の意思でいつでも爆発できちゃうといえばそうなのか……『くろいきり』もか、へえー」
 床に座りもらった書類の内容を読む。
今いるのは家に隣接した小さな屋内の広場だ。柔らかな砂が敷かれ、夜に何らかの訓練をしたり雨天時の炎ポケモンの遊び場になったり、使われ方は様々だ。
このドガースは夜になると何故か元気を失う。夜というよりは暗い場所をあまり好んでいないようで、今のように明かりがついたこの空間では何の問題もなくふわふわと浮遊している。ただ、窓や扉といった外へつながる場所へは近づこうとしていないのが観察していると分かる。
ボールに入れて休ませても良かったけど、もう少し様子を見ていたいという思いがあって今もこうして一緒にいる。
ヒナが部屋の隅で寝転がり、大きく欠伸をした。今は日が沈み外はすっかり暗くなった時間帯であり、眠気がやってくるのも当然の話。ヒナは見た目は夜に強そうだけど人間と同じ体内時計を持っているようだ。
窓の外から夜行性の虫ポケモンのささやかな鳴き声が聞こえてくる。
文字から目を離し、ふと加奈子さんが昼間に言ったことを思い出す。コダックは明日ここを出ていく。ドガースもいずれは出ていくのだろうか。育て屋に留まることは多分、幸せなことではない。それは文字通り人間に捨てられることを指すからだ。だからポケモン達は引き取られるべきであり、その時元気な状態で見送ることができるようにするのが育て屋の役目なんだ。分かっている。
 そう、分かっている……。
 ――あっ。
「忘れてた、夜になったのにケンタロス達を戻してない! うわ、ヒナ、ちょっと留守番頼む」
 少しここから遠く、一回り大きな柵に囲まれたエリアにいるケンタロスをはじめとする力強いポケモンを、夜になる前にボールに入れるのが毎日の仕事の一つだ。
 これを忘れると加奈子さんから雷が落とされる。それは避けなければ。
ヒナが返事をしたのを聞き届けると、急いでこの建物から出る。その瞬間小雨が降っているのに気付く。視界が暗いのに加えて雨だなんて、本当についてない。ヒナを連れて行きたいけど、まだ足は完治していないし仕方がない。とにかく、急がなければ。
決心して雨の中を走る。足元が滑りやすくなってる。あたりがぱっと光り、雷までやってきていることがわかった。
 そしてこの間に大事件が起ころうとしていることなど、この時に分かっているはずがなかった。



 びしょ濡れの俺を迎えたのは、慌ててタオルを用意してくれた加奈子さんだけではなかった。
 タオルで髪を拭いているときに玄関の扉をゆっくりと開き足をふらつかせてやってきたのは、なんとヒナだった。
「ヒナ!」
 思わず悲鳴のような声をあげてしゃがみ込む。ヒナは俺の体までやってくると力尽きたように倒れこんでくる。舌がだらりと口から出て、鋭い目は弱弱しさだけがおぼろげに光っていた。雨に濡れているせいでまるでボロ雑巾のようだった。そして体から昇ってくる雨で消しきれない匂いは嗅いだ覚えのあるものだ。ヒナの体臭ではないそれは、ドガースから漂う独特の悪臭だった。
「ちょっとどいて!」
 鬼のような形相で加奈子さんが俺をヒナから引きはがすと、ヒナの容体を診る。ようやく落ち着いてきたと思った心臓のテンポが再び速くなっていく。耳元で刻んでいるようにやたらと大きく感じた。
 加奈子さんは立ち上がり睨みつけるように俺の方を見た。
「ドガースはどうしたの!」
「え……」
「絶対に離れないようにしてって言ったでしょう! これ、あの毒ガスにやられてる。ヒナは私がなんとかするから、あんたは早くドガースのところへ行きな!」
 加奈子さんの迫力に負けて半ば追い出されるように玄関を出ると、訳が分からないままに屋内広場へと走る。雨は強いが隣だからすぐに辿り着く。
 ヒナが通った跡なのだろう、扉が少し開いている。そこに近づいた瞬間に分かった。視界には分からないが真っ先に鼻が感知する。毒ガスが蔓延し、ここまで溢れている。見れば、中は何故か真っ暗で中の様子を見ることもできない。もしかして、雷で停電でも起きたのか?
 不規則な呼吸の音が体内に響く。茫然と体が竦んだまま動かない。もしこれで爆発でも起こせば、一体どうなってしまうんだ。ここら一帯が焼け野原になってしまうんじゃないか。
 そんな最悪の状況が脳裏を駆ける。
昼間を始め、ドガースの心に近づけたような気がして油断していた。どんなに懐かれようと、毒タイプを持つ危険なポケモンであることは変わらないのだ。
ドガースをボールに戻して一緒に行動すれば良かった。ここに置き去りにしたのがまずかった。
どうしたらいいんだ。
 どうしたらいいんだ……。
考えようとしても頭が回転しない。停止したまま当然何も浮かんでこない。こうしている間にも時間は過ぎていくだけ。
暗闇の中、容赦なく降り注ぐ雨をただ身に受けるだけだった。

どれだけの時間が経ったか分からないが、気を失っていたように茫然としていた俺にかかる雨がふと止んだ。振り返ると、ビニール傘をさし懐中電灯を持った加奈子さんが憐れみに似た感情を浮かべた顔つきでじっと見つめてきていた。
 そしてゆっくりと屋内広場を見て、その目を細める。
「……もう、手に負えない状態か」
 低い声が雨の中でもはっきりと聞こえてくる。
それに同意したくなかったけど、いつの間にか静かに頷いていた。
「あたしが悪かったよ。まだ未熟なあんたに押し付けたのがミスだった。すぐにでも、毒対処の専門を呼ぶよ」
「毒対処……」
「被害が広がる前になんとかしないと。自爆する可能性も十分ある。もう、あたしたち育て屋がなんとかできる次元じゃない、わかるでしょ?」
 どうして加奈子さんはなだめるように言うんだろう。そして俺は、加奈子さんの言うことを理解しながらどうして否定したい心があるんだ。
 バトルじゃなくても息つく間もなく状況は一変する。それに追いつけなかったなんて言い訳は、もう通用しない。
「でも、毒対処の専門って……そうしたら、ドガースはどうなるんですか?」
「観察対象になって別のところに引き取られる」
 コダックの時と同じように、淡々と加奈子さんは話す。けど、その表情は少し歪んでいた。
「でも、きっともう、戻れない」
「戻れない?」
 思わず聞き返した。加奈子さんは小さく頷いた。
「ドガースの履歴に、ここ四か月程の記録は無かったでしょ、それについて飼い主に電話で尋ねたの。そしたら、家であった爆発事件がけっこう大きなものだったらしくて、危険なポケモンとして一度施設に預けられたの。ただしばらく様子を見ている限りドガースはおとなしくて特に問題が見られず、飼い主の元へ戻された。でも飼い主はそれを喜ぶはずがなくて、厄介払いがしたくて、それでうちに話がきた」
 加奈子さんは少し早口で話していく。その状況をすぐに噛み砕くことができなくて、いや信じたくなくて、加奈子さんから目を逸らす。
一呼吸を置いてから、また彼女は話し出す。
「……わかる? このドガースが大きな問題を起こしたのは二度目なのよ。もう、後には引けない」
「そんな、あいつ確かに危ないけど、けっこう良いやつで、ようやく仲良くなってきたところで」
「その油断がこの事態を招いたってこと、忘れないで」
 思わず押し黙るしかなかった。
けどその一方で、頭の中が急速に冷えていくのが分かった。止まっていた思考が不思議と回りだして、周りの音が遠くなっていく。加奈子さんの顔もおぼろげになって、自分の世界に入り込む。
もっとドガースを理解してやるべきだったんじゃないか。
もっと行動を思い出せば、その性格が見えて分かり合えるんじゃないか。
「……あいつは、寂しがってるだけです、怖がってるだけです」
 言葉が出てきて、繋がっていく。
「爆発事件がどうして起こったのかわかりませんけど、ドガースが突然自爆したんじゃない。あいつはそんなことをしちゃいけないって分かってる。だから今だって爆発しないでいる。四か月施設でおとなしかったのは、自分を反省したからです。でも戻ってきてすぐにここに連れてこられて飼い主から捨てられたようなもので、ストレスもあって寂しさもあってで毒ガスを出し続けて、それで初めて会ったときにあれだけのガスが出てきた。でもその後ガスが少なくなったのは、ここでポケモン達と触れ合ったり自由に動くことができたから。要はストレスが薄くなったから。暗闇を怖がるのは、一人でいるのを怖がってるから。あいつは何も悪くない。施設に入れてこれからまた拘束する方がよっぽど危険です」
「そんなの、ただの仮定じゃない」
「そうですけど、少なくとも、加奈子さんより俺はドガースのことを分かってる」
 加奈子さんは真っ直ぐに強気な目で睨みつけてくる。でもここで折れるわけにはいかなかった。それはなんとなく、なんとなくなんて弱いけれど、駄目なんだ。
「……じゃあ、何か良い案でもあるというの」
 最早脅すような口調だ。でも加奈子さんの言いたいこともわかる。加奈子さんは今まで俺よりずっとたくさんのポケモンを見てきて、別れも経験してきた。寂しくてもポケモンを手離し、危険な状態には瞬時に対応する。そこには加奈子さんなりの、預けられたポケモン達を第一とした思考が見える。
 なら、今俺がこうして反抗しているのは間違ったことなのか?
わからない。
 でも俺は今の俺なりに、ドガースのためにやれることがないか考えたいんだ。
「俺が中に入ります」
 加奈子さんの目が明らかに丸くなった。
「入口の傍に電灯を点けるスイッチがあるからまずそれを押して電気をつけます。そこからドガースにサインをして、俺がいるってなんとか分からせます。迎えにいってやるんです。それで、『くろいきり』を指示します」
「『くろいきり』?」
「はい。ステータス変化を元に戻す技で有名ですけど……昔読んだ本に、状態異常を回復させる効果もあると書いてあったんです」
「それ、データが古いんじゃない? それにあまりに危険そんな賭けには出られないわ」
「そもそもは俺が油断したせいです。多少の無茶は覚悟しなきゃ」
「無茶じゃない、大馬鹿野郎っていうのよ、そういうのは!」
 荒々しい叫びにも似た怒号に、思わずひるんでしまう。でも今更引き下がれない。
「俺はやれます、鳥ポケモンに風を起こさせて周りのガスを追いやれば大丈夫です」
「どうしてそうやっておかしな考えが出てくるの。あんた忘れたの、こないだも毒ガスを吸って気絶したのよ。今度はそれですまないかも、死ぬかもしれないんだよ……この馬鹿!」
 瞬間、頬に拳が飛び込んできて激痛が走り、なすすべなくその場に倒れこんだ。地面の泥が顔について、きたない。そんなことよりまさか殴ってくるなんて。
 思わず加奈子さんの方を凝視すると、彼女の肩は大きく上下していて、表情は皺が寄って大きく歪んでいた。
「どうして……どうして」
 先程までのヒステリックともとれる声色とは裏腹に、今にも消えそうな炎の如く小さな声で彼女は呟く。時折鼻水をすするような音もする。目は充血して、いつもの強気な面影は見当たらなかった。
 でも俺の気持ちはもう、一本の道筋を辿っていた。
「……俺は、ドガースとこんな形で別れたくないです。いつかは別れがくるだろうけど……でも、こんなのは嫌なんです。ドガースを助けなきゃ。今だって絶対、誰かが来るのを待ってるんです」
 ゆっくりと立ち上がって加奈子さんと向き合う。彼女の目は既に針のような鋭さが無い。優位なのは俺だと思う。俺は、折れない。
 数秒間沈黙が続き、加奈子さんは視線を地面に落とし、懐中電灯を黙って俺に差し出した。それを静かに受け取ると、加奈子さんはいつも腰に巻いているウェストポーチから数個のモンスターボールを三つと青い小さなカプセルを出した。カプセルの方は見覚えがある、毒消しの効果があるものだ。
「ピジョンとオオスバメが二匹入っている。なるべく迅速に済ませてよ」
 いつもの口調に加えて彼女の瞳に強さが戻ってきた。腹をくくったのだろうけど、それにしても、よく認めてくれたな。許してくれなくてもいくつもりだったけど。
 彼女の持つ諸々の物を受け取る。それから、と加奈子さんは思い出したように付け加え、ポケットからまた一つ別のボールを出す。傷だらけのそれがなんなのか、何故かすぐに分かった。ヒナが入っているボールだ。
「お守りというわけじゃないけど、あんたはヒナが居た方がきっと安心できるでしょ」
「……けっこう、考えてくれるんですね」
「どうして、間違ってることなのに止められないんだろうね」
 重く疲れ切った表情が印象に残る。俺はこの状況にもかかわらず、急にへらりと口元だけ小さく笑ってみせた。
「今まで受身だった俺が、ようやく自分で考えてしかも強情になってるせいじゃないですか」
「やるならさっさと行って。いつ自爆してもおかしくないんだから」
 追い払うような背中の押し方だ。
少し震えている足を俺はぱんと思いっきり叩いて、呼吸を整える。そしてもらったボールからピジョンとオオスバメを出す。雨の中でも貫くような甲高い声が辺りに響いた。その元気強さに勇気をもらい、扉の方を見た。ヒナのボールを握りしめる。大馬鹿野郎の俺についてくれる人やポケモンがいる。ドガースにも俺や他のポケモンがついている。
 地面を思いっきり蹴る。加奈子さんの傘から跳び出して、再び雨に打たれる。そんなのどうでもいい。走り、少し大きな両扉に両手をかける。もう止まっている場合じゃない、扉を開いた瞬間すぐに後方に下がって、大きく口を開けた。
「かぜおこし!」
 手で方向を示すと三匹は指示通り俺の前にやってくると翼を大きく羽ばたかせ扉の中に風を送る。ガスが大量に漏れ出る前に風で押し返す。数秒後風に乗るようにそこに飛び込む。三匹も追うように中へと入っていく。
 暗闇の空間に入ってすぐの右手の壁に手を叩きつけた。もう何度も使ってきた位置だ、体が覚えている。スイッチを押し、屋内広場の天井のいくつもの明かりが次々に点いていく。そうして今の現状がさらけ出されていく。
 そうして実際の光景を目の当たりにして、想像と少し違うことに気が付いた。
ガスは、上にだけ固まっている?
下、つまり俺の立っている高さから数メートルほど上までは大した量のガスはない。けれど高い天井の方に向かっていくと、見覚えのある黄土色の煙がもくもくと広がっている。
ドガースの出す毒ガスはそういえば空気よりも軽い。だからガスを溜め込んだドガースも空中に浮くんだった。
 これなら意外と安全にいけるかもしれない。
「かぜおこしストップ!」
 従順に三匹は強い羽ばたきを止める。風をやたらと起こした方が空気が循環し危険だとみた。
「ドガース、いるんだろ! 落ち着け、もう明かりはついた! 俺はここにいる!」
 力の限り叫び、呼びかけを続ける。返事はしない。十中八九あのガスの中にいる。距離はそう遠いわけじゃない。声は届くはずだ。
「迎えにきたよ! 早く帰ろう!」
 言いながら俺はポケットに入れておいたポロックを数個出した。ピンク色の小さなもの。モモンの実を原料とした、ドガースの大好物。
「ドガース! 気付けええええええええっ!」
 喉が割れんばかりに叫び、手の中のポロックを渾身の力を込めて上に向かって投げた。一直線にガスの中へと飛び込んでいく。気付け、気付け、気付け、気付け! 頼む、気付いてくれドガース。迎えにきたんだ!
 荒い呼吸、念のためにもらった毒消しを唾を使って飲む。ポロックが数個空中から落ちてきた。ドガースは気付いたのか、気付いていないのか、返事はない。
もう一度声をかけようと一気に息を吸ったとき、遠いガスの中からゆっくりと紫色の球体が一つ、出てきたのが目に映った。
ドガースだ。
顔が歪んでる。なんか食べてる。ポロックを食べてる。あいつ、気付いたんだ。
俺はドガースに向かって手を振る。ドガースはいつもののんびりとしたスピードではなく一直線に飛び込んでくる。すぐに俺のところにたどり着く。風のおかげで忘れていた強烈な臭さがすぐ手元にやってくる。でも、何故か我慢できるようになっていた。
だけどこれで終わるわけじゃない。俺はドガースを真剣な表情で見ると、ドガースも空気を察知したのかかたい顔立ちに変わる。
「すまないドガース、一仕事してくれ、くろいきりだ!」
 がらがらの声の後に、ドガースは再び上へと昇り体にあるいくつもの穴から黄土色の毒ガスではなく、黒い気体を噴射した。瞬く間にそれは充満していく。電気が薄れるほどの視界の中で、俺はドガースの名を呼びながら声をかけ続けた。霧があって視界が暗かろうとドガースは孤独じゃない。夜の中でも一人じゃない。少なくとも、俺がいる。
 黒い霧が毒ガスを包み込んでいく。不思議と匂いが薄まっていった。




 時が経ち、騒動の夜は明け朝が訪れていた。
 今、加奈子さんが呼んだ専門家とやらに周辺の毒ガスの濃度をチェックしてもらっているところだ。黒い霧の効果は意外とあったようで、咄嗟の判断は運良く吉と出たわけだ。
「大馬鹿野郎」
 加奈子さんはその言葉を繰り返し俺に浴びせた。そして、もう当分仕事を任せないとまで言った。まだまだ見習いだ、と。まったくその通りだと思う。
一番毒の被害を受けたヒナも、しばらくは安全なボールの中で休みながら時々外に出すことで養生している。加奈子さんの迅速な対応のおかげで命に別状はなかったようだ。ちなみに今はボールから出て、俺のとなりに寝転がっている。
ただ、全てがうまくいったかというとそういうわけではない。
 調査が進んでいる一方で、応接間にて俺と加奈子さんはスーツに身を包んだ四十代の男性と話を進めている。ただ加奈子さんに釘をさされているため俺が話すことは一切無く、ただその場にいるだけだった。男性は書類を机に整理した後に、一つのボールを手に取った。それはドガースの入ったものだった。
「では、少し様子を見させてもらいますので」
「よろしくお願いします」
 男性が立ち上がるのとほぼ同時に加奈子さんも立ち上がり、営業スマイルとでも言おうか、晴れやかともいえる笑顔を振りまいて男性を送る。俺も心にたまる歯がゆさを押し込めて軽く礼をした。
 男性が部屋を出て行ってから、俺はようやく加奈子さんと対峙する。
「本当に、ドガースは戻ってくるんですよね?」
「そういう風に話を合わせたじゃない。毒ガスの検査は念のためであって、ドガースが暴走したなんて言ってない。毒ガスの結果が出るのもすぐじゃないし、あっちが少しドガースを疑ってるだけ。おとなしくしてくれれば数日で戻ってくるわ」
「本当に、本当にですよね」
「ちゃんと正式な契約までしたもの、大した異常ないんだからすぐに帰ってくる。ドガースにも言っておいたんでしょ、数日我慢するようにって」
「そうですけど……」
「やっぱりあたしが全部応対して正解だったわ」
 少し呆れたように加奈子さんは溜息をつく。そしてソファに勢いよく倒れこみ、その上で思い切り伸びをした。
「ああ、疲れた」
 まったくその通り。体中が重く気怠い。でも毒ガスにあてられたような違和感は今のところなく、我ながらなんて強運だろうか。あんなの冷静に考えれば、いや冷静に考えなくても誰もが分かるくらい無茶苦茶な行動だ。
「……ポケモンと向き合うって、大変でしょ」
 ソファで体勢を崩したまま、加奈子さんは言う。
「己一くんを見てると、ちょっと前のあたしを思い出すよ。一匹一匹と丁寧すぎるほど会話して向き合って、無茶なこともたくさんやったしさ。だから止められなかったのかな」
 柔らかな雰囲気の目はどこを見つめているのだろう。思い返して、俺くらいの年代の出来事を見ているのだろうか。
「ドガースと向き合って、どんなことが見えた?」
 俺もソファに座り、ヒナの頭を撫でながら思い出す。いつも落ち込んでばかりで、ヒナに励まされる日々。ポケモンのために何もできない無力な自分。トレーナーをやめてここに入ってからも明確なものは見えてこなくて、なんとなくに加奈子さんの助手として毎日を過ごしていた。
ドガースのお世話でいろんなことが見えてくると思う――。
加奈子さんは、毒ガスで気絶した日にそう俺に言った。
この育て屋の厳しさがまず第一に挙げられる。もちろんドガースの今回の騒動は滅多にないことだと思うけど、形を変えてハプニングは多々あるだろう。でもポケモンと時間をかければ向き合えること、理解できること、それで前に共に進めること、多くを得ることができる。そして、俺はポケモンのために動くことができる、そのことが確信できた。少しだけ自信が持てた。その過程でたくさんの支えがあった。加奈子さんやヒナがいてくれたから俺は倒れても前を向けた。
でもそんなこと、恥ずかしいから声に出すのはやめておこう。
「……いろんなことが、見えましたよ」
 茶化すように言うと、加奈子さんは生意気だ、と笑った。


 
> リフレッシュ 作:となみ
リフレッシュ 作:となみ

 いつも隣でにこにこ笑っている彼が、いつも以上にうらやましく思えた。
 あたしの持っていないその笑顔が、今日はとびっきり、しあわせそうに見えたから。

「あたしってさ。どうしていつも、こんなにうまくいかないんだろうね」

 海辺の白砂に腰かけて、あたしは一気に吐き出した。今ならこの海が全部受け止めてくれそうな気がしたから。ため息がいっしょになって、それはそれはやるせない沈んだ青色の言葉になった。隣には珊瑚色をしたサニーゴが一匹。さっきの言葉にはもうひとつ理由がある。このサニーゴも、おんなじように黙って笑顔で聞いてくれると思ったから。

 仕事を放って定時退社。積み残しはあったけど、こんな日まで残業なんてしたくなかった。
 ポケモンを育てながら会社に勤めるあたしはただのオフィスレディー。今日も今日とて失敗をやらかした、入社二か月目の新卒研修生。今の研修はカスタマーセンターでの電話対応だ。この会社はポケモンのために専用の衣服だったり食べ物だったりを幅広く扱っているから、お客さまのクレームもその分だけ数多い。なのによりによって、今日のあたしはお客さまがお怒りのその電話口でミスを重ねたわけで。

 夕暮れ間近のコガネの海は、「さよなら」の「さ」の字を口にしようとしている太陽に照らされて金色に輝いていた。風は穏やかだったけれど水面はさざなみを湛えていて、揺れるたびに絶えずちらちらと光を振りまいた。
 あたしのぼやきに、とげとげ角のパートナーはあたしの顔を見上げる。笑っていた。口元を上げてにこにこと。それは決してからかいや嘲笑ではなくて、「どうしたの」、そう慰めながら聞いてくれているかのような笑顔だった。

 隣のこの子はミ・アミーゴ、つりざおに釣られたマイ・サニーゴ。名前はサン。中学生のころ、今と同じこの浜辺で釣りをしていたらまんまと食いついてきた。それ以来あたしとサンはずっといっしょ。だからこの子はあたしの気持ちをよく分かってくれている。いつでも笑顔を絶やさないから、こっちからは彼の気持ちを読んであげられないこともあるけれど。

 水面から躍り出た瞬間から、サンは笑っていたような気がする。そんなサンには、くりくりおめめ、とげとげの角。手の少し下にはところどころにお砂糖をまぶしたみたいな白の模様が点々とあって、さらに下の方は白一色。青海と白砂がコントラストをなすのと同じように対になった色味が愛らしかった。かわいいな、どうしようかな。迷っていたあたしのポシェットにはポケモンフーズが入っていて、ためしにそれを手に取って差し出してみたら、ぱあっと笑顔を咲かせておいしそうに食べてくれた。嬉しくて仕方がなかったのでお持ち帰りして、それから今日まで至るあたしとサンとの長い関係。
 あの日と変わらない笑顔にうながされるように、再び思いをめぐらせてとうとうと語りだす。


 重ねたミスは散々なものだった。お客さまのお名前を控え忘れて聞き返す、問われたことひとつに精一杯で他に思考が回らない、保留ボタンを押す前にうっかり大きな息を吐いてしまった、――思うにあんな最大級に災害級の対応は自分自身ありえないと思うし、あってはならない。分かっているから、余計に辛いんだ。

 程なくしてかかってきた電話に、あたしの教育係の上司がしきりに詫びていた。「先ほどの、……」という声が聞こえて覚えた胸騒ぎは、案の定的中した。
「キミがした対応にお叱りの言葉をいただいたよ、延々とね」
――上司が苦笑いしながら何気なく口にした言葉が、今でも耳から離れない。


「サン。あたしさ、今日も失敗しちゃったんだ。そのこと、気にしてて」


 あたしが苦笑いすると、サンは砂にちいさな足跡をぽちぽちと残しながら、あたしのさらに近くに寄り添ってくれた。あたしを覗きこむ黒の瞳は宝石のように曇りなく美しい。その瞳にぱちりと視線を合わせるだけで、心が安らいだ。

「分かってるんだけどさ、今よりも、これからのことが不安で」

 安らぎながらも、瞳はほどほどに現実を見据えている。この国じゃあ「仏の顔も三度まで」。既に二度は慈悲の糸にすくい上げられたあたしに許された猶予はせいぜいあと一度。次は許されないと思うと喉元が絞まって、日ごろから情けない声がさらに情けなくなる。
 苦情処理係が原因で苦情が来たなんて笑っても笑い飛ばせない。電話口でどころか、そもそも誰かにあんなに毒づかれたのは初めてだった。周りにはどんな目で見られていたのだろう。一人前になる前から、あいつは無能なヤツだと手を上げられてはいまいか。ガラスのうつわのようなこの心はひびだらけ、いつ割れたっておかしくない。――サンには、決してそんなそぶりは見せないけれど。

「ねえ、サン。あたし、どうしたら引きずらないで前に進めるのかな」

 いつまでも引きずってちゃダメだ。上司も「はじめのうちは誰だって失敗するさ」と励ましてくれるし、分かっているつもりだ。でも、あたしが失敗を重ねて上司の足を引っ張っているという事実が、しつこくあたしを苛む。しかもそれは毒液を湛えた棘のように、ちくりと刺さっては抜けないまま、あたしの心を、体を蝕んでいく。次に失敗をしたら? もういい加減見限られるんじゃないか? 尾を引いた不安が夢の向こうでも、そのまた向こうでも駆け巡る。――今のあたしは、失敗をするのがたまらなく怖い。

 するとサンは、そこらに落ちていたらしい細い流木の枝をくわえて、砂のキャンバスに何か描きつけはじめた。しゅるりしゅるりと砂の上を滑る枝の先を、あたしは置いていかれないように目で追い掛ける。しゅる、しゅると筆のように枝は躍り、サンはそれから何度か頷いて、くわえた枝を放り投げた。

「……笑顔……?」

 仕上がったらしい絵は大雑把だけど、確かに女性の絵。目を細め口元を緩ませて、降り注ぐ日差しのようににっこりと笑っている。どことなくあたしの顔立ちに似ているような気がした。唯一あたしと違うのは、今のあたしよりもずっとまばゆい笑顔を浮かべた、その表情だけ。
 あたしの呟きにサンは何度も頷いた。さにっ、さにっ。しきりに声を上げる。「えがおがたりないよー」、何度も絵の方を手で指し示す姿はそう言っているように見えた。そうして彼は、突然いくつもの角を光らせた。

「……あっ、それ……!」

 角の先に灯る光は、黄金色の海よりもまばゆく宝石のように光っている。間違いなくこれは“ワザ”を使っている証だった。けれど“みずでっぽう”を撃つわけでもなければ“でんこうせっか”でどこかへ突っ込んでいくわけでもない。あたしが思いつくワザは、ひとつしかなかった。

 あれは今でも忘れない、中学三年生の夏休みだ。「受験前の息抜きに」、都合のいい口実を見つけて汗臭い虫取り少年の友達とポケモンバトルをしたときのこと。彼が繰り出した手持ちはアリアドス、女の子が持つにはちょっぴり毒々しいあの蜘蛛のようなポケモンだ。サンの体力をじっくり奪っていこうと思ったのだろう、彼が真っ先に命じたワザは“どくどく”だった。あたしはただただ狼狽えた。アイテムは使ってはいけないことになっていたし、かといってサンを即座に引っ込める決断ができない。慌てふためくあたしの顔から血の気が引いていくのが分かった、そんなとき。
 サンの角の先が、きらめいた。ポケモンが進化するときのようなまばゆい白の光が、魔法の杖の先のようにサンの角に灯っていたのだ。そしてその光がふっと消えたとき、毒を負ったはずの彼はけろっとしていた。あたしは目を見張った。少しも辛そうに見えない。そのときのあたしは、サンの身に何が起こっていたのか理解していなかった。

 ――“リフレッシュ”。
 戦いのあとに知ったことだけれど、体を休めて回復に体力を割くことで、自分の負った“まひ”や“やけど”、そして“どく”といった状態異常を取り去ることができるワザだ。“どくどく”から立ち直ったサンは獅子奮迅の勢いでアリアドスをなぎ倒して、……結局そのバトルでは負けてしまったけれど、あたしの中に鮮烈な記憶として今でも鮮やかに残っている。

「リフレッシュ……」

 その鮮やかな記憶が、口を突く言葉になってあたしを諭す。
 あたしは何も分かっちゃあいなかった。あたしにだって引きずらないで進む方法くらいある。未来のことなら今から手を打てる。だからあたしは、笑っていればいいんだ――

 サンだって、いつもこんなにヒマワリのような笑顔を浮かべているように見えるけど、本当はどこかで要らないものを抱え込んでしまっているに違いないんだ。だからこそ、サンはあたしのそばでずっと笑っているのかもしれない。あたしはふと、もう十年近くも連れ添ってきた愛おしいパートナーのことにはじめて気が付いた。

 気付かせてくれたサンを見やる。でも彼はこっちを見ていなかった。また砂のキャンバスの上に、流麗な線を描きつけている。今度のそれはハートマークをまっさかさまにしたような輪郭線。葉っぱのような形をしたものが、その下に左右ひとつずつ。ひと悩みして、ひらめいた。

「これ、……モモン?」

 あたしの言葉にサンは頷いた。さにさにっ、と声を上げながら、サンは手の先でなんども砂に描かれたモモンを指さして、それから大きく口を開けてもぐもぐと食べるようなしぐさをしてみせた。「いいからたべなよ」、そう言っている気がした。

「あはは、ありがと、サン。いただきます」

 サンのプレゼントなんて久しぶりだなあ、と思いながらその好意に手を差しのべたら、それよりも早く打ち寄せた白波が絵に描いたモモンを真砂ごとさらっていった。ざざーん。汐の香りを運びながら去りゆく波の音。唖然とするあたし。波の消えた場所にはまっさらなキャンバスだけ。ぽかんとした顔のまま横に目をやったら、なぜかサンまでこちらを見つめてぽかんとしていた。その呆然とした顔の間抜けなこと。きっと彼もそう思ったのかもしれない、誰もいない海岸にひとりと一匹の笑い声が盛大に響いた。

 サンはきっと気まぐれにモモンを描いたわけじゃない。モモンは毒消しのきのみだ。それを食べてすっきりしなよだなんて、気が利いている。あたしはモモンを気分の上ですら食べ損ねてしまったけれど、一瞬、なんだかあの棘の毒の痛みを忘れていたように思う。笑顔を止めることのできないでいる、今この瞬間も。それは外でもなく、彼の――

「あたしも、サンみたいにいつでも悪いコトを吹き飛ばせちゃったらなあ」

 あの日サンが見せたあのワザがたまらなくうらやましかった。あたしはサンのようなワザは使えないし、こんなにきらきらした笑顔で毎日を過ごせない。それにあいにく、あたしの悩みはモモンでどうにかなるようなものじゃない(あたしが食い道楽なのはさておき、ね)。「あたしだって、“リフレッシュ”を使ってみたいよ」と付け加えたら、彼はくすくす笑った。そうして一度視線を落として、それからもう一度あたしを見上げた。

 差し出した手をぽんと自分の胸元に当ててから、サンは瞳を閉じてにこっと笑ったまま上を向いた。「えっへん、ボクがそばにいるからだいじょうぶだよ、えっへん。」――そんな誇らしげな声さえ聞こえてきそうな、胸張りのつもりらしいポージング。頼りに思うけれど、自然に笑いがこぼれてしまう。こぼれてしまうけれど、本当に頼りになる、あたしのちいさなパートナー。

 夕陽が大きな声で「ら」の字を叫んで、今日のこの日に別れを告げて帰っていく。あたしも、今日のあたしとはこの海辺でオサラバだ。サンと今夜を過ごすのはいつものあたしじゃない。今日の彼にもらったいっぱいの笑顔のおかげで、悩みごとなんてきれいさっぱりなくなったあたしだけだ。


「あたしにはいらないか、そんなワザ。――あたしにはサンがいるもんね」


 いらないよ、そんなワザ。もう一度心の中で呟いた。
 だって、いつもそばで、太陽が生まれ変わったみたいな笑顔があたしの未来を照らしているから。


 今日は眠ったはずの陽光が、あたしの足元できらりと輝いた。


 
> パンドラの匣 作:透
パンドラの匣 作:透

「グダグダと、くだらない事偉そうにぬかしてんじゃないよ…」
 マルコのいるボールからは、声の主の様子を直接伺う事はできない。だが、種族特有の切れ上がった金色の目に険の宿る様、全身を覆う紫の体毛が静かに膨れ上がる様はありありと思い描けた。
「この…」
 長い尾が揺らめく。鎌を象るかのような先端が、白い光を放つ。
「タコ!!」
乾いた音とともに、宙に紅い花が点々と咲いた。

「君のポケモンと話がしたい」
 あの若草色の髪をした男が思いもかけぬ場所でふらりと現れ、突拍子もない言葉をかけてくるのは今に始まった事ではない。マルコたちポケモンも、トレーナーであるトウコも皆いつものようなポケモンバトルが始まるものと覚悟した。後味が悪い事この上ないバトル。
戦っている間は良い。目の前の敵の出方を伺い、それにどう向かっていくか、それだけを考えれば良い。持てる力を揮うのは楽しい。だが、その後が問題だ。
 あの男が手持ちとして繰り出すポケモンの顔ぶれは毎回異なる。自分の事をトレーナーと呼び、連れているポケモンもモンスターボールに入ってはいる。だが、本心ではそのように「あるべき」事、そう「あらなければならない」事に嫌悪を感じていたのだろう。
 奴にとって、ポケモンバトルとは「ポケモンを一方的な都合で傷つける」ものだ。人間は命令を下すだけで、傷を負うのは全てポケモンたちだ。草叢での野生ポケモン相手のバトルも、人間が一方的に棲家に侵入し、住人達を痛めつける自分勝手な所業だ。そのような見方も決してありえなくはない。
 住み慣れた場所での気ままな生活から、無理矢理引き離されて、人間の命令を聞いて戦う。己の思うままに生きる自由を当たり前のように手にしてきた側からすれば、確かに不本意なことだろう。
 それが「わかる」から、戦いを終えたポケモンたちは野に帰す。元の「日常」に戻してやる。人間が、部屋を整理して物をあるべき場所にしまうように。その過程で「不要」と見なして捨てる物もある。例えば多く買いすぎてしまった薬。スペースを圧迫するモンスターボールはまとめて売って、もっと性能の良い物に買いかえた方が良いかもしれない。
 トウコもリュックを整理しながら、よくそんな事を言う。ため込むとキリがない、と幼馴染に指摘されたこともあると何時か漏らしていた。
 必要なもの。不必要なもの。
 それらを分けるのは、結局のところ選ぶ側の恣意だ。
 己のあるべき姿。いるべき場所。
 それらの答えが一つと決めたのは、一体誰なのか。

 あの男の言い分によれば、トレーナーつきのポケモンたちは憐れむべき存在という事になるらしい。本来なら、モンスターボールにも縛られず、人間の手の入らない自然の中で自由に暮らす。それがあるべき姿なのだそうだ。
 だが、マルコには生憎野生で暮らした経験がないから、理解にはひと手間かかる。
タマゴから孵った場所も、カノコタウンの研究所だった。まず目に入ってきたのは白い高い天井だった。隣を見ると、一足先に生まれたツタージャが短い腕を組んだり解いたりを繰り返していた。暫くすると、軽い足音と共にここの主だという明るい色の髪をした女が現れて、これからの事を説明してくれた。
彼ら3匹がここにいるのは、これからトレーナーとなる子供たちの最初のパートナーになるためである、と。
 一緒に旅をして広い世界を見に行く。外でなら、思いっきり技をふるう事だってできる。この研究所周辺にはチラーミィやミネズミなど小型のポケモンと互いしかいないが、外ならもっと他のポケモンとも出会える。バトルをしてトレーニングを積めば、今の自分よりも遥かに大きな相手と渡り合う事だってきっとできる。
 その日の夕方から夜にかけて、最後に孵ったポカブも交え、彼らは各々のやりたい事について語り明かした。
「草叢を思いきり駆けまわってみたい」
「海に行きたい」
「強い技を覚えて思いきり、ぶっぱなしてみたい」
「彼女を作りたい」
 彼ら三匹にとって、人間のパートナーを持つという未来は明るい光に満ちた素敵なものだった。
 そしてそれから数日後、ついにその日が来た。集まった子供は三人。最初にトウコがボールの一つを手に取り、後の二人がそれに続いた。
「よろしく、マルコ」
「ミジュ?」
「あなたの名前。気に入ってくれた?」
 彼女の青い目を覗き込めば、小さく自分の姿が映っていた。
「ミジュジュ?」
 マルコ。
 ポケモンである彼には、トウコと同じようにはそれを発音できない。
「アタシね、初めてのパートナーはミジュマルが良いってずっと思ってたんだ。名前も何にしようかずっと考えてて、昨日やっと3つくらいに絞れたところだったの」
 ミジュマルという種族なら、この世界には他にもいるだろう。種族名で呼ばれるとしても別に異存はない。だが。
「ミジュ〜」
だが、「マルコ」は、今ここにいる彼のために用意されたものだ。彼だけのもの。自分のもの。そう思うだけで、腹部のホタチをつけている部分がこそばゆくなってきた。なんだか落ち着かなくなって、顔を隠すように彼女の胸に顔を押し付けたら、笑いながら頭を撫でてくれた。

 あの日は、もう一つの誕生日と言って差支えがない。
 トウコのことは、母親のようなものだとも思っている。
 嫌いになるわけがない。離れて生きるなど、考えられない。

―君のポケモンの声を聞かせてもらおう。
 あの男と初めて会った時の事を思い出したら、腹が立ってきた。
―僕にはポケモンの声が聞こえる。彼らの言っている事がわかる。
―はいはい、さいですか。
 その時は、そう返した。
 頭を占めていたのは、男に対する、自分でも理由のよくわからない嫌悪と拒否の感情だった。
 馴れ馴れしい態度。対話をする意志が存在するかも疑わしくなる早口。左右両端を完璧に同じ角度に持ち上げて作った「微笑み」。茫洋とした目は、話しかけた相手を見ているようでいて、その実何も見ていない。訝しく思って覗き込めば、聞き取るのがやっとの早口でもって混沌の奥底へと連れて行き、玩び、砕こうとする。だが、そこに悪意があるわけではない。
 嫌だ。
 全身に鳥肌が立つのを感じた。
 こんな奴、放っておいて早くどこかに行こう。
 トウコにそう伝えようとした。
 しかし、男の方が早かった。
―君のポケモンの声、彼の声を聞かせてもらうよ。
 指が鉤爪のような硬さと冷たさをもって持ち上がり、指差す。静かな声の奥深くで、苛立ちの爆ぜる音がした。

 生理的な嫌悪。そして恐怖。
 それら二つをあの男に対して抱いていたのだと、今なら認められる。
 あの男が、初めて会った時から嫌いだった。
 ポケモンは「トモダチ」であると言って親しげな表情を作り、近づいてきた。
「お前の事は何もかもわかっている」と言いたげな風情は、マルコにとっては神経を逆撫でするものでしかなかった。

『…お前が何をわかっていたと言うんだい?』
低い声が言い募るのが聞こえる。
『そもそも、お前が何かを理解できた例なんてあるの?』
 そう、敢えて言うなら、この男の「理解」は、目の前の存在を分解し、あるいは無理矢理にでも結合し、己の中の公式に全ての要素を収める事だった。
―モンスターボールに入っている限り、ポケモンは完璧な存在になれない。
 確かにトウコがいなければ、「マルコ」という存在は成り立たない。確かに、この世に生まれた時点で、既に彼の進むべき方向は人間の手で決められていた。自然の中で生存競争にさらされるポケモンたちのように、己の力だけを頼みにする生き方など身に着くはずもなかった。
 だが、それが何だ。
 トウコと出会った。名前をもらった。支え合いながら、旅をしてきた。そして今、ここにこうして有る。誇りに思いこそすれ、卑下したり他の生き方を羨んだりはしない。
―ポケモンは人間から自由になるべきなんだ。
 喧しい、と今のマルコなら間髪入れずに返すだろう。
 でも、あの時の、未熟で自分というものについて知らない事の方が多く、考える機会も持ってこなかった自分は、どうすれば良いのかわからず、ただ立ちすくむだけだった。そして、相手はその隙を決して逃がしはしなかった。

「もっと」
 怖かった。
「もっと聞かせてくれ」
 トレーナーの命令に従い、攻撃してくるチョロネコの爪の向こうに、見えた別の何か。
『そぉれっ!』
 長い尾に鼻を叩かれて怯んだ隙に、回し蹴りが入る。一発一発の威力は軽いが、如何せんスピードに対応できない。反撃しようにも隙がなく、焦りばかりが募る。先ほど足を引っかけて転ばされた時の擦り傷がじくじくと傷む。
 起き上がり、目の前の敵を睨みつける。
『手ごたえのない奴…』
 チョロネコは腰に手を当て、足を組んだり解いたりを繰り返しながら、こちらを見ていた。
『このままじゃ、あたしの勝ちだよ?ねえ』
 意地悪く、目を細め、歌うように呟く。
『おまる』
 そのたった一つの単語で、全身を支配していた恐怖は、瞬時に怒りにとって代わられた。
 許さない。
ホタチに触れると、全身に力と熱とが満ち始めるのを感じた。
許さない。
よくも俺の名前を。俺の名前を馬鹿にするのは、つけてくれたトウコを馬鹿にするのも同じだ。
許さない。
「マルコ?」
「ミジュ!」
 コイツだけは許さん。俺だけではなく、トウコを馬鹿にしやがったこの猫だけは。
「わかった。行こうか」
 ああ。
同じ負けるにしても、一発殴らなければ気が済まない。

 おまる。
 今でもあの件は思い返すだけで腸が煮えくり返りそうになる。一度、詳しい事情も知らないままに、その呼び名を使った仲間を反射的にアシガタナで殴った事もあった。
どうも自分はキレやすい性質らしい。すぐに頭が熱くなる。口よりも先に手が出る。厄介だとは思う。
最近は、仲間の死角からの「ふいうち」で不発に終わる事もある。その後にちょっとした説教を食らう。自分なりに自制を覚えてきたつもりだと反論すると、レパルダスは鼻で笑った。
『よく言うよ。筋肉お馬鹿が』
『おい…』
『あれ、駄目?』
 当たり前だ。
『あたしはお前を尊敬してつけたつもりなんだけど?』
 どこがだ。
 第一、尊敬される要素が自分には見当たらない。むしろ、自分は彼女にひどい事ばかりをしてきた。
 彼女が、あの男の「トモダチ」だったから。それだけで十分な理由になった。
 カラクサタウンからサンヨウシティへと向かう草叢から、まるで幽鬼のような足取りで現れた理由については、考えようともしなかった。あの男と別れ、その代替品にトウコを、マルコにとってもう一人の「母親」を選んだとしか見えなかった。
 許せなかった。苛立ちと怒りは、全てイザベラに向かった。些細な事柄が起爆剤となって、取っ組み合いに発展した。生傷のできない日はなかった。彼女が声を失くしていた事も、喧嘩を激化させる一因になった。彼女の後頭部には今でも小さな傷が残っている。注意して見なければわからない程のものだが、その周辺に目をやるとやはり存在を無視できない。
 
「君のポケモンと話をさせて欲しい」
 あの男の申し出に、トウコが腰のボールに目をやった時、イザベラは無言のまま前足を伸ばし、ボールを揺らし始めた。
『ベラ姐…』
奥歯を噛みしめ、壁の一点を見つめ、ひたすら殴りつける。その鬼気迫る様子に隣のボールにいた仲間が怯えと焦りの混じった声をあげた。何とかしてくれ、とマルコにも必死で訴えてきた。
だが、何ができるというのか。
他の仲間では、十中八九相手のペースに巻き込まれる。マルコではひと騒動起こしかねない。いや、きっとそうなるだろう。しかもここはジムの前だ。
となると、選択肢は一つしかない。
 
 あの男は、まさか用済みになって逃がした「トモダチ」がこうして現れるなど、「トモダチ」と呼び心を通わせたと信じた存在に詰られるなど、想像もしなかっただろう。そして、イザベラにとっては、奥深くに押し込め封じてきた過去のしがらみを、開ける事を禁じてきたパンドラの匣を解き放つきっかけになってしまった。自分の中に巣食い、彼女を毒し続けてきた過去を。


 
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