> リフレッシュ 作:となみ
リフレッシュ 作:となみ

 いつも隣でにこにこ笑っている彼が、いつも以上にうらやましく思えた。
 あたしの持っていないその笑顔が、今日はとびっきり、しあわせそうに見えたから。

「あたしってさ。どうしていつも、こんなにうまくいかないんだろうね」

 海辺の白砂に腰かけて、あたしは一気に吐き出した。今ならこの海が全部受け止めてくれそうな気がしたから。ため息がいっしょになって、それはそれはやるせない沈んだ青色の言葉になった。隣には珊瑚色をしたサニーゴが一匹。さっきの言葉にはもうひとつ理由がある。このサニーゴも、おんなじように黙って笑顔で聞いてくれると思ったから。

 仕事を放って定時退社。積み残しはあったけど、こんな日まで残業なんてしたくなかった。
 ポケモンを育てながら会社に勤めるあたしはただのオフィスレディー。今日も今日とて失敗をやらかした、入社二か月目の新卒研修生。今の研修はカスタマーセンターでの電話対応だ。この会社はポケモンのために専用の衣服だったり食べ物だったりを幅広く扱っているから、お客さまのクレームもその分だけ数多い。なのによりによって、今日のあたしはお客さまがお怒りのその電話口でミスを重ねたわけで。

 夕暮れ間近のコガネの海は、「さよなら」の「さ」の字を口にしようとしている太陽に照らされて金色に輝いていた。風は穏やかだったけれど水面はさざなみを湛えていて、揺れるたびに絶えずちらちらと光を振りまいた。
 あたしのぼやきに、とげとげ角のパートナーはあたしの顔を見上げる。笑っていた。口元を上げてにこにこと。それは決してからかいや嘲笑ではなくて、「どうしたの」、そう慰めながら聞いてくれているかのような笑顔だった。

 隣のこの子はミ・アミーゴ、つりざおに釣られたマイ・サニーゴ。名前はサン。中学生のころ、今と同じこの浜辺で釣りをしていたらまんまと食いついてきた。それ以来あたしとサンはずっといっしょ。だからこの子はあたしの気持ちをよく分かってくれている。いつでも笑顔を絶やさないから、こっちからは彼の気持ちを読んであげられないこともあるけれど。

 水面から躍り出た瞬間から、サンは笑っていたような気がする。そんなサンには、くりくりおめめ、とげとげの角。手の少し下にはところどころにお砂糖をまぶしたみたいな白の模様が点々とあって、さらに下の方は白一色。青海と白砂がコントラストをなすのと同じように対になった色味が愛らしかった。かわいいな、どうしようかな。迷っていたあたしのポシェットにはポケモンフーズが入っていて、ためしにそれを手に取って差し出してみたら、ぱあっと笑顔を咲かせておいしそうに食べてくれた。嬉しくて仕方がなかったのでお持ち帰りして、それから今日まで至るあたしとサンとの長い関係。
 あの日と変わらない笑顔にうながされるように、再び思いをめぐらせてとうとうと語りだす。


 重ねたミスは散々なものだった。お客さまのお名前を控え忘れて聞き返す、問われたことひとつに精一杯で他に思考が回らない、保留ボタンを押す前にうっかり大きな息を吐いてしまった、――思うにあんな最大級に災害級の対応は自分自身ありえないと思うし、あってはならない。分かっているから、余計に辛いんだ。

 程なくしてかかってきた電話に、あたしの教育係の上司がしきりに詫びていた。「先ほどの、……」という声が聞こえて覚えた胸騒ぎは、案の定的中した。
「キミがした対応にお叱りの言葉をいただいたよ、延々とね」
――上司が苦笑いしながら何気なく口にした言葉が、今でも耳から離れない。


「サン。あたしさ、今日も失敗しちゃったんだ。そのこと、気にしてて」


 あたしが苦笑いすると、サンは砂にちいさな足跡をぽちぽちと残しながら、あたしのさらに近くに寄り添ってくれた。あたしを覗きこむ黒の瞳は宝石のように曇りなく美しい。その瞳にぱちりと視線を合わせるだけで、心が安らいだ。

「分かってるんだけどさ、今よりも、これからのことが不安で」

 安らぎながらも、瞳はほどほどに現実を見据えている。この国じゃあ「仏の顔も三度まで」。既に二度は慈悲の糸にすくい上げられたあたしに許された猶予はせいぜいあと一度。次は許されないと思うと喉元が絞まって、日ごろから情けない声がさらに情けなくなる。
 苦情処理係が原因で苦情が来たなんて笑っても笑い飛ばせない。電話口でどころか、そもそも誰かにあんなに毒づかれたのは初めてだった。周りにはどんな目で見られていたのだろう。一人前になる前から、あいつは無能なヤツだと手を上げられてはいまいか。ガラスのうつわのようなこの心はひびだらけ、いつ割れたっておかしくない。――サンには、決してそんなそぶりは見せないけれど。

「ねえ、サン。あたし、どうしたら引きずらないで前に進めるのかな」

 いつまでも引きずってちゃダメだ。上司も「はじめのうちは誰だって失敗するさ」と励ましてくれるし、分かっているつもりだ。でも、あたしが失敗を重ねて上司の足を引っ張っているという事実が、しつこくあたしを苛む。しかもそれは毒液を湛えた棘のように、ちくりと刺さっては抜けないまま、あたしの心を、体を蝕んでいく。次に失敗をしたら? もういい加減見限られるんじゃないか? 尾を引いた不安が夢の向こうでも、そのまた向こうでも駆け巡る。――今のあたしは、失敗をするのがたまらなく怖い。

 するとサンは、そこらに落ちていたらしい細い流木の枝をくわえて、砂のキャンバスに何か描きつけはじめた。しゅるりしゅるりと砂の上を滑る枝の先を、あたしは置いていかれないように目で追い掛ける。しゅる、しゅると筆のように枝は躍り、サンはそれから何度か頷いて、くわえた枝を放り投げた。

「……笑顔……?」

 仕上がったらしい絵は大雑把だけど、確かに女性の絵。目を細め口元を緩ませて、降り注ぐ日差しのようににっこりと笑っている。どことなくあたしの顔立ちに似ているような気がした。唯一あたしと違うのは、今のあたしよりもずっとまばゆい笑顔を浮かべた、その表情だけ。
 あたしの呟きにサンは何度も頷いた。さにっ、さにっ。しきりに声を上げる。「えがおがたりないよー」、何度も絵の方を手で指し示す姿はそう言っているように見えた。そうして彼は、突然いくつもの角を光らせた。

「……あっ、それ……!」

 角の先に灯る光は、黄金色の海よりもまばゆく宝石のように光っている。間違いなくこれは“ワザ”を使っている証だった。けれど“みずでっぽう”を撃つわけでもなければ“でんこうせっか”でどこかへ突っ込んでいくわけでもない。あたしが思いつくワザは、ひとつしかなかった。

 あれは今でも忘れない、中学三年生の夏休みだ。「受験前の息抜きに」、都合のいい口実を見つけて汗臭い虫取り少年の友達とポケモンバトルをしたときのこと。彼が繰り出した手持ちはアリアドス、女の子が持つにはちょっぴり毒々しいあの蜘蛛のようなポケモンだ。サンの体力をじっくり奪っていこうと思ったのだろう、彼が真っ先に命じたワザは“どくどく”だった。あたしはただただ狼狽えた。アイテムは使ってはいけないことになっていたし、かといってサンを即座に引っ込める決断ができない。慌てふためくあたしの顔から血の気が引いていくのが分かった、そんなとき。
 サンの角の先が、きらめいた。ポケモンが進化するときのようなまばゆい白の光が、魔法の杖の先のようにサンの角に灯っていたのだ。そしてその光がふっと消えたとき、毒を負ったはずの彼はけろっとしていた。あたしは目を見張った。少しも辛そうに見えない。そのときのあたしは、サンの身に何が起こっていたのか理解していなかった。

 ――“リフレッシュ”。
 戦いのあとに知ったことだけれど、体を休めて回復に体力を割くことで、自分の負った“まひ”や“やけど”、そして“どく”といった状態異常を取り去ることができるワザだ。“どくどく”から立ち直ったサンは獅子奮迅の勢いでアリアドスをなぎ倒して、……結局そのバトルでは負けてしまったけれど、あたしの中に鮮烈な記憶として今でも鮮やかに残っている。

「リフレッシュ……」

 その鮮やかな記憶が、口を突く言葉になってあたしを諭す。
 あたしは何も分かっちゃあいなかった。あたしにだって引きずらないで進む方法くらいある。未来のことなら今から手を打てる。だからあたしは、笑っていればいいんだ――

 サンだって、いつもこんなにヒマワリのような笑顔を浮かべているように見えるけど、本当はどこかで要らないものを抱え込んでしまっているに違いないんだ。だからこそ、サンはあたしのそばでずっと笑っているのかもしれない。あたしはふと、もう十年近くも連れ添ってきた愛おしいパートナーのことにはじめて気が付いた。

 気付かせてくれたサンを見やる。でも彼はこっちを見ていなかった。また砂のキャンバスの上に、流麗な線を描きつけている。今度のそれはハートマークをまっさかさまにしたような輪郭線。葉っぱのような形をしたものが、その下に左右ひとつずつ。ひと悩みして、ひらめいた。

「これ、……モモン?」

 あたしの言葉にサンは頷いた。さにさにっ、と声を上げながら、サンは手の先でなんども砂に描かれたモモンを指さして、それから大きく口を開けてもぐもぐと食べるようなしぐさをしてみせた。「いいからたべなよ」、そう言っている気がした。

「あはは、ありがと、サン。いただきます」

 サンのプレゼントなんて久しぶりだなあ、と思いながらその好意に手を差しのべたら、それよりも早く打ち寄せた白波が絵に描いたモモンを真砂ごとさらっていった。ざざーん。汐の香りを運びながら去りゆく波の音。唖然とするあたし。波の消えた場所にはまっさらなキャンバスだけ。ぽかんとした顔のまま横に目をやったら、なぜかサンまでこちらを見つめてぽかんとしていた。その呆然とした顔の間抜けなこと。きっと彼もそう思ったのかもしれない、誰もいない海岸にひとりと一匹の笑い声が盛大に響いた。

 サンはきっと気まぐれにモモンを描いたわけじゃない。モモンは毒消しのきのみだ。それを食べてすっきりしなよだなんて、気が利いている。あたしはモモンを気分の上ですら食べ損ねてしまったけれど、一瞬、なんだかあの棘の毒の痛みを忘れていたように思う。笑顔を止めることのできないでいる、今この瞬間も。それは外でもなく、彼の――

「あたしも、サンみたいにいつでも悪いコトを吹き飛ばせちゃったらなあ」

 あの日サンが見せたあのワザがたまらなくうらやましかった。あたしはサンのようなワザは使えないし、こんなにきらきらした笑顔で毎日を過ごせない。それにあいにく、あたしの悩みはモモンでどうにかなるようなものじゃない(あたしが食い道楽なのはさておき、ね)。「あたしだって、“リフレッシュ”を使ってみたいよ」と付け加えたら、彼はくすくす笑った。そうして一度視線を落として、それからもう一度あたしを見上げた。

 差し出した手をぽんと自分の胸元に当ててから、サンは瞳を閉じてにこっと笑ったまま上を向いた。「えっへん、ボクがそばにいるからだいじょうぶだよ、えっへん。」――そんな誇らしげな声さえ聞こえてきそうな、胸張りのつもりらしいポージング。頼りに思うけれど、自然に笑いがこぼれてしまう。こぼれてしまうけれど、本当に頼りになる、あたしのちいさなパートナー。

 夕陽が大きな声で「ら」の字を叫んで、今日のこの日に別れを告げて帰っていく。あたしも、今日のあたしとはこの海辺でオサラバだ。サンと今夜を過ごすのはいつものあたしじゃない。今日の彼にもらったいっぱいの笑顔のおかげで、悩みごとなんてきれいさっぱりなくなったあたしだけだ。


「あたしにはいらないか、そんなワザ。――あたしにはサンがいるもんね」


 いらないよ、そんなワザ。もう一度心の中で呟いた。
 だって、いつもそばで、太陽が生まれ変わったみたいな笑顔があたしの未来を照らしているから。


 今日は眠ったはずの陽光が、あたしの足元できらりと輝いた。


NiconicoPHP