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フェアトレード 作:リング

 今日はいつも通りの日常だが、ただ一つ違いがあるとすれば、今日の農業経済学の授業は教授が出張により休みであることか。
 かといって、授業を休みにするわけでもなく、代理として元教え子だというビジネスマンの講義を聞き、それを1枚のレポートにまとめることが課題として出される。
 急行せずにきちんと授業を行ってくれた教授は中々責任感が強いと感じて、自分は少し交換を持った。授業に臨むにあたって自分はルーズリーフから一枚取出し、シャープペンシルと消しゴム、4色のボールペンをスタンバイして講義に臨む。受験もせずに1年バイトのために浪人して、自分で働いた金でこの大学に来たんだ、きっちり一字一句聞き逃さんようにしないと過去の自分に土下座物だ。どんな形の授業であれ、頑張らないと。
 現れたのは、山吹色に黒の縦線が入った明るい色のスーツを着こなす青年であった。年の頃は20代の後半ほどであろうか、自分から見て10歳ほどは年上だろう。
 黒や紺などの暗い色のスーツが多い中で、こんな明るいスーツを着ているとは変わり者だ。

「さて、皆さんこんにちは。ヨモギ教授出張のため、今日の講義を代理で務めさせていただきます、大木アサギと申します。今日は、よろしくお願いしますね」
 よろしくお願いします、と続いた声は小さかった。自分以外の皆は何を恥ずかしがっているのだろうかと思いながら、自分は前へ目を向ける。
「さて、皆さん。皆さんに今日話すのは、フェアトレードについてです。フェアトレードとは、読んで字の如く、公正な取引と言う意味でして……要するに、先進国に溢れるに日用品や嗜好品などの原産国での立場の弱い労働者を救うためにあるものです。
 さて、本格的に話に入る前に皆さんには、まずこのCMをご覧になっていただけますか?」
 教授の代理人であるアサギは、携帯出来る立体のホログラム装置を机の上に置く。上方にレンズがついた立方体箱にあるスイッチを起動してから、数秒操作をすると、虚空に平面画像が浮かび上がる。
 どうやら大学では一般的なホログラム装置の、平面画像のスライドや動画を映し出す気らしい。そのCMの内容は要約すると、この石鹸は従来の物よりも分解されやすい物質を使っているから、下水道に流しても汚染が少ないというものである。また、肌にも優しいのだとか。しかし、画像がちょっと古いところを見ると、少々昔のCMなのだろうか。
 最初の映像では、ヒンバスが漂う湖だった場所が、ミロカロスが優雅に踊る湖に様変わりするのだから劇的なビフォアーアフターである。そんなにうまくは行くまいと私は思うのだが。

「いい商品ですね。皆さんはそう思いませんか?」
 と、話を振ってアサギは挙手をさせる。いまどき、地球に優しいなんて触れ込みはありきたりだし、肌へ優しいなんてのも今時セールスポイントにすらなりやしない。
 一応、このCMは口だけは達者だから、CMで言っていることが本当ならばいい商品だと、私は手を上げる。
「では、手を挙げた人はどうしてそう思いましたか?」
 そう話を振られた時、自分はついつい「えーと……」なんて声を上げてしまう。それで最前列に座ってたりなんかしていたので、当然のように『どうぞ』なんて指名される。
「……いや、言っていることが全部本当なら、いい商品だと思いますが。でも、ありきたりな謳い文句に、都合のいいことばかりの表現。それに、使用感の感想だって、右下に小さく『効果の感じ方には個人差があります』でしたっけ? あんなものも書いていますし……
 そもそも、以前別の授業で聞いたんですが、綿花のように口に入れない植物は農薬をガンガン使うそうじゃないですか。石鹸肌に使いますが、口に入れるわけではないですし……その原料は……一体」
 自分は思ったことを口にする。すると、アサギはその発言がいたく気に入ったらしい。
「素晴らしいですね」
 というのが、アサギの第一声であった。
「そうです。私が言いたかったことを言ってくれちゃいましたね。商品としてありきたりな謳い文句だとか、使用感の個人差などについては、この際気にしないとしても……この石鹸の原料であるヤシの実の生産環境はひどいものでね。
 このヤシの実は、食用に使われることもあるけれど、これは完全に石鹸用に使うものだから農薬は使い放題というわけだ……そちらの金髪で深緑の服を着た方が言うとおりにですね」
 金髪で深緑の服。当然自分しかいないわけだから、私の言う通りと彼は言いたいわけだ。
「農薬を使い放題ですので、本来は何千倍という単位で薄めるはずの農薬を。大した希釈もせずにガンガン使っちゃってます。それで呼吸器や皮膚に影響があるのはもちろんの事、癌に掛ったり指などが変形することもあります。これが、そのスライドです」
 グロテスク、というわけではないが変形した指の写真や、侵された肺のレントゲン写真やら、えげつない映像が流れる。そのスライドを背景にしたまま、アサギは喋りはじめた。

「私は、こういった労働環境を改善しようと世界中を飛び回り、現地政府の援助を受けながら中売人や農場の地主。そして、小売り、卸売りの企業への交渉やアドバイスを行っています。その過程で、確実に話題に上がるのが……この生産ピラミッドの最低下層にいる人たち。農場などの労働者に対する賃金。つまり、金です。
 早い話が、フェアトレードというものは労働者に対して妥当な賃金を与えられるようにするためにあるものなんです。もちろん、先程の農薬や、怪我した時の保証などの問題も含めていろいろ改善しますがね」
 結論から言えばそうなのかもしれないが、大胆な物言いである。

「例えばこの石鹸の例であれば、我々が購入している石鹸の売り上げが直接労働者に届けば、生活するのに十分な賃金が行き渡るのですが……しかし、現実はそうもいきません。まず、農場の所有者から中買業者が原料を買い取ります。それを原料を加工する業者に引き渡し、それを海外へ輸出するために業者を仲介し、それに関税が掛かった上で、さらに加工されたものを包装する会社があって、それをさらに卸売し、さらにそこからスーパーやコンビニなどの小売店で販売する。
 この過程で、同じだけの原料が加工料金、運送料金、税金などで何度も何度も割増しされていくうちに、手元に届く値段となるわけです……それぞれ仲介していく業者が利益を出すためには、段階を踏むごとに値上がりしていくのは確かに仕方のないことなのですが……それをやりすぎてしまえば、安い値段で家庭に石鹸を届けるためには、最下層の人たちに犠牲になってもらうしかありません。労働環境が整わないために、排水や煤塵などの処理をまともに行えず、環境汚染を引き起こしてしまうところもあります。
 ヤシの実を樹から落とす時に、それがぶつかって死ぬ人もいます。ヘルメットがあれば多少は違うのでしょうがね、それすらもない。
 綿百パーセントを謳うジーンズの生産現場では、それこそヒンバスすら住めないような染料の色に染まった池なんて何度も見てきました……ベトベトンは放流したら、喜んで汚染された水の汚れを取りこんでいましたよ。
 先ほどの石鹸もそうです。地球に優しいと言いながら、生産の現場では人や土壌に害毒をばらまいています。言葉には説得力がなく、『言っておるだけ』というのがふさわしい」
 言いながら、アサギはスライドショーを早送りして、ジーンズを染める現場を見せる。労働者たちはゴム手袋でもして作業するべき色のような水に、素手、素足で四肢を浸けている。そして、カメラを別の場所に向ければ、排水は赤い池を作っていた。青いジーンズを作るのに、どこかで赤い何かを使う必要があるんだな、なんて暢気な思考と共に、こんな色の水はヤバイんじゃないかと言う思考が遅れてやってきた。
 そう思っている間にも、アサギの話は続く。

「しかし、労働者の賃金を上げようとなると、今度は商品の値段を上げなくてはなりません。つまるところ、価格競争では勝てなくなってしまいます……だから、ここでフェアトレードという事を売りにする。それが、フェアトレードの存在意義です。
 皆さんは、生きているうちにどこかで何かに募金をした経験があると思います。そういう風に、人間には少なからず良心というものがありますね? このフェアトレードというのは、そういった皆さんの良心に訴えかけることで購買意欲をそそり、価格競争の逆流に立ち向かうことを狙いとした商品です。
 『この商品はフェアトレードですよ』。『だから、これを買えば貧困層の人が助かります』『だから買ってください』と、売り出すのです。労働環境を改善した商品は当然高くなりますが、生産者の笑顔も含めての商品価値となるわけですね。
 フェアトレードの例として、例えば労働環境や生産過程を改善された綿花なら『オーガニックコットン』と呼ばれます。当然オーガニックコットンによって作られたジーンズやシャツは割り高です。ですが、労働者の健康や幸福が守られるなら……と、普及を目標にしている人もいますし、そうすることで助かる人がいます。
 そして私も、綿花や、それ以外の品でも公正な取引が行われること目標とする人の一人です。コーヒー、カカオ、ヤシの実、タバコ、綿花、サトウキビなど、他の工芸作物についても、無視はしません。
 ついつい前ふりが長くなってしまいましたが、これからフェアトレードの仕組みや、認証制度についてお話いたします」
 長かった前ふりを終えて、演説のようだった語気の強い授業は鳴りを潜め、退屈(と思う人の多い)授業となった。フェアトレードは、難しいことはよくわからなくとも、買うだけで出来る国際協力だ。まぁ、そのための流通ルートを開拓するのは自分で難しいことを覚え、考え、実践しなきゃいけず、流通ルートや認証制度の勉強には皆さん消極的らしいし、その事が分かっているアサギさんの授業は熱意が少々萎えたようなテンションの下がり具合だ。
 授業中に騒ぐような輩はいないから授業としての体裁は整っているが、授業風景はいつも通りといった感じだ。真面目に聞いてノートを取るのは、自分を含めて三割程度だろうか。せっかくお金を払って大学に来たというのにもったいない。

 真面目に聞いていると、彼は色々危ない目にもあったらしい。発展途上国という事で普通に犯罪に巻き込まれた話なんかも合ったが、労働者の賃金の値上げや農薬の使用法の改善について熱意をもって話していると、商売の邪魔だと思われ暴力を振るわれることもあったんだとか。
 ベトベトンを持っているのは、ベトベトンが喜んでいる映像を見せて『汚染されているという』事実を客観的に示すためでもあるが、同時に護衛の役割もあるのだという。野性のポケモンに襲われた時など役に立ったためしはあるが、それも数の前には無意味で数日ほど拉致監禁されて脅されたこともあると、アサギはことも無げに言っていた。
 そんな目にあっても日夜いろんな場所を駆け巡っているという事は、よほどの熱意でもなければ出来る事ではあるまい。自分のように、護身術やポケモン使役術に心得があっても怖いだろうに、無茶する人である。
 そして、それだけの熱意と理由があるのだろう。誰かを救いたいという理由と、熱意が。
「ちょっと、憧れちゃうな……」
 今まで流されるだけの人生だったのを打破しようと大学に入ったけれど、結局具体的に何を為すべきかを定めていない自分とは違う輝きがある。
 おこがましいかもしれないけれど、自分も手伝うとか、手助けできればなんて私は思う。今日はこの授業が終わったら、3コマ目の授業がないため4コマ目まで暇である。この授業が終わったら、もうちょっと踏み込んだ話を聞いてみるのもいいかもしれない。


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