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「助け」の手 作:美容室

ジャイアントホール

極低温の地で眠り、全てを凍らせる力を持つドラゴンがいた。

その強大な氷の力は、己の強靭な身体さえでも制御できず、身体ごと凍って深い眠りについている。

黒い鱗を纏い、幾多もの凝結した氷の結晶を体表のあちこちに携え、その様子はまるで氷山の一角を身につけているよう。

その氷の龍は、強大な氷の力を鼓舞する事も蹂躙することもなく、ジャイアントホールと呼ばれる空洞で、人に見つかる事なく、静かに停まっているという。

長い歴史の中で、このポケモンが人との接触がなかったのは、人気(ひとけ)のない静かな洞窟にあった唯一の氷柱を、巨大な身体を氷結させたドラゴンポケモンとは誰しも思わなかった為である。

故に、伝説と呼ばれる由縁がなく、伝承等や言い伝えも全く無かった。という訳ではない。

電気の力を纏う黒いドラゴン、ゼクロム。

火炎の力を持つ白いドラゴン、レシラム。

その双方のドラゴンの伝説が、古くからイッシュの地に存在した。

2体の龍が相対し対立する時、雷が広がり、炎が降り注ぐ。

イッシュの人々は、天災を伝説のドラゴンポケモンの2体に例え、その強大な力を伝説のポケモンとして崇め、伝承された。

・・・・しかし。

この伝承には矛盾がひとつあった。

.

イッシュ地方にて起こったプラズマ団による事件。『ポケモン解放』と立教し、ゼクロム・レシラムを捕らえて世界を危機にひんした事件があった。

それは、とある一人の年端のいかない若いトレーナーによる活躍で、事件は解決した。イッシュの伝説のドラゴンポケモンを手中に収める程の実力は、イッシュの新たなチャンピオンとして認可される程。

かくして、伝説のポケモンは、トレーナーの手に渡った。

・・・・・では何故、再びイッシュの地にて、雷が轟き、炎が襲う事態が起こるのか。

.

・・・・・答えは、

イッシュに生息する、もう一体の龍にある・・・。







「ウヒョヒョヒョ。壮観だな、いつ見ても。」

ホウエン地方という、南に位置する温暖地域にある、活火山のふもとに、俺達は拠点を張っている。エントツ山と呼ばれるホウエン唯一の活火山。周りの地域では広域にわたり、断続的な火山灰の被害を被っている。その火山は観光地にもなっており、ホウエンで1、2を競う標高の山を体感しようと、各地の旅行客や登山やトレーナーが足を運ぶ。山道や歩道の舗装整備、ロープウェイの設立等、人為的な保安がなされている。

そんな一目が増すようになった火山のふもとにて、俺達の組織は、穴をつくり、通路を掘り、基地をつくった。

正直に言うと暑苦しい。火口に溶岩が溜まっている現役の活火山の中に基地をつくると、蒸気が立ち込め、壁や床は摂氏百を越え、おまけに硫黄の臭いが鼻を突き刺す。この硫黄にやられて倒れた団員が何人も続出している。

流れる汗も、暑さで乾くような過酷な環境を、何故拠点にしたのかは、理由があった。それは、基地といっても仮設であり、常に根城にして活動する訳ではないから。

そして最大の理由は・・・。

「・・・グラードン、か。」

エントツ山の深部。周りの分子をすべて蒸発させるようなマグマが溢れ出す。ここまでくるとさすがに俺達も改装はできない。生命の侵入を拒むような地には、広大な溶岩の池、長い溶岩の河口。岩の裂目から黄色い閃光が光る。
そのマグマの池の真ん中に佇む、古代ポケモン『グラードン』は、俺達に気付く事なく、我関せずというように眠り続けている。その泰然としたオーラに、俺は『伝説』と呼ばれる由縁を再考する。
高台からその由々しき姿を見ていた俺と、隣にいるホムラという男。

「お前がマグマ団に入ってどれだけ経つ?」

「・・・半年です。」

「ウヒョヒョ!半年で幹部かよ!羨ましい限りだぜ。俺が長年チマチマしてんのがアホらしいってか!?」

隣で奇怪で特徴的な笑い方をする男は、マグマ団創立の時から、リーダーと共にいた。甲高い笑い声には、聞く者を見下すかのような印象を与える。が、まあ当人は自覚はないだろう。

「・・・そろそろ、定例です。」

「ウヒョヒョ、話逸らしやがって。」

俺達は、眠るグラードンの見張りを下っ端の警戒員に任せ、その場をあとにする。基地内の通路は、床は地面のままだが、壁にはパイプやパネルが取り付けられている。硫黄除去のファンが最近作られた。

歩くと道が舗装されたエリアに入った。重役以外の立ち入りを禁じるエリアだ。
・・・・俺がマグマ団に入ったのは半年前、持ち前の格闘センスとパワー、ポケモンバトルの実力を買われて、一躍幹部となった。その他にも、マグマ団に入団する人材を数十人提供した事により、組織の活動力は増大した。

俺とホムラはある部屋に入る。

「遅いぞ。早く席につけ。」

マグマ団リーダー、マツブサがテーブルの中央に座っていた。

俺達は頭を下げて所定の位置につく。

「・・・さて。グラードンの居場所はとらえた。資料によれば、グラードンを目覚めさせつつ、操作する事が可能な『紅色の玉』。場所は既に解っている。行動開始の見通しを早目にしたい。アクア団の動きもある。それまでに準備を整えろ。・・・では、各自報告。」

マツブサが、テーブルに座っている研究員に目配せし、各自資料を読み上げていく。

この組織の最終目的は、大陸の拡大。そのために、ホウエンに伝わる伝説のポケモン、グラードンの力を使い、人の住む土地を増やす。

リーダーのマツブサやホムラを始め、彼らは昔かつて、都市開発に従事している委員だったが、土地の高騰や貿易停滞等の問題を抱え、海を埋め立てて大陸棚を増加する案を持ち出したが、環境保全派の人間に妨害されて廃止。その後委員を下ろされた。彼らのやる事は私怨である。自らの考えを否定された悔いを憎しみに変えたのだ。

マツブサ達は有志を集め、陸地の素晴らしさを説きながら組織力を高めた。

・・・現段階では、海域を増やそうとするアクア団を警戒しつつ、グラードンの復活に勤しむ。

第二工程、天気研究所の占拠、トクサネ宇宙センターの占拠、アクア団の活動牽制及び壊滅。

課題はまだまだ山積み。グラードンの発見で浮足が立つかと思えば、意外にもマツブサは冷静だった。

「(・・・もう少し粘るか。)」

俺はそう思った。

定例が終わり、各自席を立つ。

「ヤシロ。」

マツブサが俺を呼ぶ。

「何でしょう、リーダー。」

「定例の間、辛辣な表情を浮かべていたが、どうした?」

マツブサは俺を見据えた。

・・・その洞察力は流石としか言いようがない。変にだまくらかすのも悪影響だ、・・・・少し揺さぶるか。

「・・・いえ、少し考え事を。」

「我々マグマに関する事であろうな。」


マツブサがしかめる。現在マグマ団は、活動が著しく厳しい状況だ。よって慎重性が問われるようになった。アクア団の件もあるが、最近子供のトレーナーが現れて、マグマ団の妨害をしていると報告がある。デボンからの『かいえん2号』の潜水艇設計図の奪取がうまくいかなかったのは、その子供が要因である。マツブサの機嫌も悪くなるわけだ。

「はい。海を画期的に埋め立てる案を考えています・・・・が、なかなか理論的に問題も多いので。」

「ふむ、興味深いな。話してみろ。」

「いえ、大した事ではありません。そこまで正確に考えが纏まっているわけではないので・・・。また纏まったらお話しても宜しいですか?」

「・・・・いいだろう。さあ、行け。」

俺達は部屋を出た。

「・・・ウヒョ。お前が言ってんのって、こないだの『寒暖エネルギー説』か?」

・・・ホムラには少し話していた。

「ああ、だが、大々的にうまくはいかないだろう。」

「ウヒョヒョ。理屈の話なら面白いぜ?地球上を無理矢理冷やして、マントルの温度を上げて活火山を活発に活動させる。発想はガキだが、永久に循環するしよ。噴火して陸が増えて、火山灰で地球が冷えて、また噴火。・・・話しゃよかったじゃねえか?」

ホムラはあざ笑った。

「そのうち話すさ・・・・。(そのうち・・・な。)」

.

20日後。

第三工程を終えた。

内容は、『紅色の玉』の奪取。

アクア団の動きが活発になり、先手を打とうとしたが、おくりび山にて鉢合わせし、『藍色の玉』を強奪された。

グラードンの宿敵、カイオーガは海を広げる力を持つ。そのカイオーガの力を操る『藍色の玉』を盗んで破壊する計画は見事に失敗。だが、『紅色の玉』は手に入れたからイーブンだ。

グラードン復活を翌日に控えた日だった。その日の定例に足を運ぶ。部屋に入り、所定の席に着いた。

マツブサがいつもより柔和な表情で話しはじめる。

「・・・時は満ちた。計画よりも早めになってしまったが、アクア団に先手を打たれる前にコチラから仕掛ける。・・・我々の最終目的は、『グラードンの復活』だ。力の制御・操作は課題が多い。グラードンを手中にする必要はない。グラードンをホウエンの地に放つのだ。そうすれば自然と力を発揮する事だろう。

・・・各自、ラストスパートをかけて準備を整えろ!アクア団を潰すぞ!我々を嘲笑ってきた奴らを見返す時だ!」

マツブサが怒号をあげた。その声色から、高揚が伝わってきた。

「・・・リーダー。」

俺は挙手をした。ここしかない。

「この間話した考案の件で。」

「おお、そうだったな。話してみろ。」

「はい。・・・この案は、グラードンの力の保険といったところでしょうか。グラードンの火山と地面の力を用いれば、簡単に海は枯れ果てるでしょう。しかし、グラードンの復活の度に出てくるのがカイオーガです。過去の資料や記録、古文書を確認してみても、必ず2体双方が出てきます。どちらか一体という事はありません。理由は断定出来ませんが、世界の均衡を保つためのシステム上と関係があるかと。


万一に備えておくべきだと俺は思います。そこで、このホウエンを始め、あたりの活火山の造山帯に、冷却拠点を置こうと考えています。」

「冷却拠点だと?」

「このあたりで活動している火山は、このフエン山のみです。

そこで、氷タイプのポケモンを捕獲し、ホウエンの海のどこかで集中的に寒波を生成します。次第に海が凍り、気候に変化が生じ、あたりは霰に見回れます。」

「それが陸地拡大と何の関係がある?」

「海から冷やした方が、より地表を冷やせます。温度は、より恒温を保とうと、冷めた部分を温め、熱い部分を冷まします。

地球の核やマントルは凄まじい高温です。急激に地表を冷やす事で、それに応じたエネルギーが集まります。そのエネルギーの影響を受けて、休止している山が活動を再開する可能性があるわけです。ホウエンでいえばおくりひ山やルネ、さらに海底火山も多いですから少なくとも。」

「ふむ・・・。冷やせば温度を上げようと、マグマを吹き出すという訳か。」

マツブサが神妙に思考している。

・・・もう一息だ。

「そのエネルギーは、復活したグラードンにも影響するかと思われます。海が凍ればカイオーガも戦闘に不利になります。

・・・以上が俺の考案です。如何でしょう?」

マツブサは顎に手を置いている。

「具体的な拠点は?」

「まだ未定ですが、マントル上にしようと考えています。」

「氷ポケモンというと、大変な数になるのでは?」

「遠方の地にアテがあります。この保険をつくる為には、少し時間と労力がいります。しかし、成功すれば、確実に陸上拡大に結びつくかと。」

研究員とのやり取りが続く。

・・・俺はマツブサの反応を見た。

「・・・保険、か。確かに必要事項だ。・・・いいだろう。ヤシロ、やってみろ。」

・・・・・・。

「・・ありがとうございます。少しの間、組織を離れる事になりますが。」

「構わん。ヤシロはよくやってくれた。後方支援隊として指揮をとってくれ。グラードンは我々に任せろ。」

俺はこのあと、必要な具体的な費用や人員を提案し、承諾を得た。

俺は部屋を出て、自室に向かった。

自室の簡易ベッドに腰を下ろした。

「・・・・・・・さて。」

・・・・・・行くか、イッシュに。









『助ける』とはなんなのか?

意味をいうなら、人に対して力になる、人を救済する等に当て嵌まる。俺はあの日、紛争地域の爆撃に巻き込まれ、両親が死に、俺は重傷を負った。痛みも感じない程の火傷を負いながら、重たい身体を引きずりつつ、戦禍から逃れようとした。
立ち込める砂塵。照りつける暑い太陽。遠方から聞こえる銃撃の音。ポケモンの雄叫び。燃える炎。人々の叫び。

俺は、自分自身の運命を呪った。
俺は何もしていない。生活の為、家計を支える為に、店頭販売をしていた。貧しくて治安の悪い街だったが、それが日常だった。それを一変に覆すようなクーデター。反政府の過激派によるテロ活動。理由はよくわからないが、多分不平等条約の問題や、宗教間の亀裂が原因だろう。

死に逝く身体を鉄板のように焼けたアスファルトに身を預けながら、俺は意識を投げ捨てた。

・・・くだらない生涯を過ごしたと回顧した。まだ12歳だった。親は爆撃に焼かれて、仮設学校に行っていた時の友達は銃で撃たれ、毎日俺の店に来てくれた女の子もポケモンに噛まれて死んだ。

故に、自分だけ何故助けられたのか、未だに受け止められないでいる。

意識を取り戻した時、俺は地区外の病院のベッドにいた。体中は包帯で巻かれ、腕や足はギブスでまかれ、点滴がついていた。
今の自分の状態を、何度もありえないと否定した。俺は死を選んだ。だが俺は生きている。それは何故だ。

「気づいたか?」


ベッドの横のイスに座って話しかけてきた男。筋肉質で剛健な体格に、あちこち汚れた白い胴着。泰然とした雰囲気から、強いオーラをかもしだしていた。

それが、俺とシバとの出会いだった。

「・・・なぜ、助けたんだ?」

俺は喉の痛みを堪えながら尋ねた。

「おいおい、俺に見殺しをしろというのか?」

シバは苦笑する。

「・・・そうじゃない、オレは、死のうとしたんだ。・・・だがアンタはなぜ俺を助けたんだ?・・・なぜ、オレだけ?」

自分で何度考えてもわからない疑問。目の前の男の真意が不明だった。俺は男の答えを待った。

「何を言ってる、人を助けるのは当たり前だろう。」

シバは言った。
からっきし質問の答えになっていなかった。俺は益々、『助ける』という意義に疑問を深めてしまった。

シバは、世界各地を旅しながら、武者修業をしている。格闘家という職業だそうだ。稼ぎは、ポケモンを闘わせてファイトマネーで賄うそうだ。
怪我が治った俺は、シバについていく事となった。いや、無理矢理連れていかれたといった方が正しいな。

シバは、各地の人の助けになり、ポケモンの助けになる活動をしていた。慈善活動というやつだ。
俺は長年、シバの側で付き添いながら、過酷な旅を続けた。毎日鍛練を行い、護身術、格闘術、筋力をつけて、体力を上げて、日々自分自身を追い詰める厳しい日課を共にした。

シバ曰く、鍛練をするのは力を強くする為ではなく、心を鍛える為だと常々言っていた。

「自分の為にか?」

俺は、白い胴着に付着した汗や泥を拭いながら、シバに聞いた。

「それもあるが、人と人が繋がっていく為にも、力が要るんだ。」

人はひとりでは生きてはいけないと言いたいのだろう。だが、ここでいうシバの言葉は、人を助ければ自分に返るという意味合いではない。『情けは人の為ならず』という諺があるが、格闘家として人を助ける事は、少々異なる意義があるようだ。

だから、俺はわからないでいた。

なぜ俺は、この男に助けられたのか。

「・・・シバ。」

「ん?」

「もう、5年になるな。シバに助けられて。」

「ああ、そうだな。」

「・・・未だにわからない、何故俺を助けてくれたのか。何故俺を連れていったのか。教えてくれないか。」

「・・・・・ふむ、ヤシロはあの時死にたがっていたと言ったよな。」

「ん、ああ。」

「俺はそういう風には見えなかった。荒れた道路に疼くまっていたお前は、一生懸命に生に執着していた。・・・・・ヤシロ、助ける助けられるのに理由は要らない。お前が小さい時は、親がお前を守ってくれていたはずだ。
人が困っている、誰かが泣いている、見ず知らずの者が死にかけている、人はな、支え合わなくては生きてはいけない。
・・・・・だが、いつの時代でも、生きる事を投げ捨てる人間がたくさんいる。・・・『心』の問題なんだ。力溢れて『心』なき者は暴力をふるい、力なく『心』なき者は押し潰されてしまう。
体裁だけ助けるのはただの情けだ。だが俺達が必死に鍛練をし、一生懸命に生き、技を磨き、『心』を鍛えていく事で、本当の意味で助けが生まれる。

・・・それが、ヤシロを助けた理由だよ、だいたいはな。」

「・・・・・・・・。」

シバは、人間として、また格闘家として俺を助けたという事だろうか。

だが、まだよく解らないでいた。

シバが何故俺を助けたのか。

助ける意義を、本当の意味で理解したい。

俺もシバのように生きれば、きっと『助ける』理由がわかるかもしれない。

だから、俺は格闘家となった。シバ式和桐(わどう)流。俺が17になり、今は一人で慈善活動をしている。

シバは、カントーで四天王に復帰していて忙しいようだ。・・・小耳にはさんだが、娘が出来たとか言っていたな。

今度カントーに顔を出してみるか。

俺はポケモンを持ち、胴着を着て、世界各地へと旅を続けた。


『こちらシンオウ地方のキッサキから中継でお伝えしています!今私は中継車の中にいるんですが、御覧のように全く前が見えません!雪が霰が霙がフロントガラスを叩きます!凄い風です!先程までシンオウ北部には避難命令が出されていましたが、政府の発令により、外に出るのは非常に危険な状態な為、外出禁止の命令が下されました!え〜現在外出禁止と発令されております!まだ外にいる人は、非常に危険ですので!速やかに近くの建物へと避難してください!・・・・・たった今入りました情報によりますと、水道被害を受けた件数が1029件へとのぼりました!千を越えています!突然の大吹雪に兼ね、氷点下の気候となった現在、キッサキを中心に水道の凍結の被害が出されています!その他、道路の凍結により、玉突きや衝突による事故が多発しています!警察は、キッサキ市内の車両交通を規制し、全般的に車を停めるよう命令を出しています!キッサキ市民の皆さんは、車を動かさないで下さい!滑走の恐れがあります!絶対に動かさないで下さい!』

中継と画面の右上にラップされ、それほど若くない女子アナウンサーが、声を張りながらテレビに映っていた。
その小さなテレビを見上げるように居酒屋にいる仕事帰りの男達はざわざわと見ていた。
季節は夏。
いくらシンオウ地方が雪国だとしても、テレビから見える光景を、異常と呼ぶ以外にない。

カントーのヤマブキの駅前通りの小さな居酒屋。酒とタバコの臭いが鼻をさす。しかし、その場にいる皆は、片手ビールに小さなテレビに釘付けになるようにかじりついていた。

「おい!雪が降ってるぜ!」

ガラガラと戸を開けた、工事現場帰りの男が居酒屋に入ってきた。

「なんだなんだ!?」

その場にいた男達は外を見た。

夏の夕方はまだ明るく、茜色の空が美しい。そんな趣のある情景を隠すような薄暗い雲が広がっていた。そしてシンシンと小さな雪が微量ながら降っている。

「・・・どうなってんだ?おりゃまだ、2杯しか飲んでねぇぜ?」
「は、は、ハックシーー!!さ、寒い!」
「なんだ!?急に寒く?」
「おい親父!なに冷房つけてやがる!とっとと暖房にしやがれ!」

・・・季節は夏。異常はシンオウのみではなかった。

『ザ、ザーーー・・・オウ地方は大吹雪に見舞われ、外に出られない状態が続いております。寒風が凄まじい勢いで吹き付けており、平均風速9メートルを記録しております!気象グループは原因を追求していますが、今のところ解っておりません!気象グループの発表によりますと、シンオウの他にも、カントー、ジョウト、ホウエン、イッシュ、オレンジ諸島等、中央大陸の活火山造山帯を中心に被害が予想され、シンオウのような気候が広がると予想されています。この気候の特徴としましては、北方の大陸の寒帯とほぼ同じで、氷点下の空気が北から強い風となって気温を下げていきます!現在異常な寒冷前線が広がっており、予想によりますと、中央大陸全土に広がるまで8日と発表がありました!地域のみなさんは、水分の確保、避難の準備、保温対策を進めて下さい!異常な寒帯気候になれば、水道が凍結する恐れがあります!・・・・・こちらはジョウトコガネラジオからお伝えしています!只今入りました新しい情報によりますと、先程まで、ホウエンで起きていた異常気象と関係が強い可能性があると気象グループから発表がありました!ホウエンの海域を中心に断続的に起�
3$C$F$$$?43$P$D$d9??e$N1F6A$+$i!"5$8uJQF0$NF0$-$,$"$k$H8+$FDI5f$,?J$s$G$$$^$9!#:#$N=j$OCGDj$G$-$^$;$s$,!"=8CfE*$J>e>:5$N.$H2<9_5$N.$N1F6A$K$h$j!"%b%s%9!<%s$KJQ2=$,@8$8$?0Y!"KL6K$N4(5$$,Mp5$N.$H$J$C$?$H2>@b$,N)$?$l$F$$$^$9!#$7$+$7!"%l!<%@!<$r3NG'$9$k$H!"6ICOE*$K5$29Dc2<$,5/$3$C$F$*$j!"%b%s%9!<%s$NB>$KA0C{$,$"$k$+D4$Y$r!&!&!&!&%6!"%6%6!
ジョウトのアサギシティの海から、薄暗い雲が近づいてくる。すべての空を包み込むような巨大な雲の層。
まるで、今海間見える茜色の空が、この先見れないかもしれないという予感をさせた。

海をみながらラジオを聞いていた少女は、ポケギアを切り、港町に戻る。

その少女は再びポケギアの電源をつけ、歩きながら電話をかけた。

『・・・・なんだ?』

「あ!ラック!?久しぶりーー!!」

『・・・俺は何だと聞いてんだ。』

「ラック、今どこ?寒くて風邪ひいてない?」

『・・・・・ラジオの話か。俺はホウエンにいる。・・・そっちはどうなんだ?』

「あ。心配してくれてるんだ〜♪」

『アホか。誰がお前なんか。』

「こっちはまだ大丈夫!でも段々雲が近づいてるから・・・・クシュン!」

『・・・・・お前、まさかこの状況で泳いでたのか?』

「えへへへ〜♪だって依頼だもん♪」

『バカだろ。風邪ひけ。』

「えへへ〜♪」

『褒めてねぇ。』








歩けば歩くほど、人がごった返す。
建物の間の通りは、テントを張って商売に精をだす者が列をずらりとつくっていた。
皆、破れた服やローブ、ボロボロの靴を履きながら歩く姿を見て、治安の悪さが予想できる。まあ、俺もボロい胴着だからひとのことは言えないが。

・・・コロコロ・・・。

俺の足に何かが当たった。

サッカーボールだ。

どの方向から転がってきたのか、辺りを見回すと、黒い肌の小さな少年が手を振っていた。俺は蹴ってボールを返してやった。

ガッシャアアアン!!

・・・あ。

「コラアア!商品が台なしだああ!」

生まれて初めてのパスは、少年の方向へ真っ直ぐ軌道を描くはずだった。が、現実には右に大きく飛び、スピードはないが高速で回転しながらそのボールは、店の棚に突っ込んだ。

・・・俺は頭を何度も下げて、金を払って割れた陶器のような商品を受け取る。

あの少年が一部始終、腹を抱えて笑っていた。

「がはははは!兄ちゃん、おっかしぃ!」

自分の膝をバンバンと叩きながら笑いを抑えようとする。

「・・・るさいぞ。ホラ。」

俺はサッカーボールを渡した。

「兄ちゃん、芸道人?」

俺の服をまじまじと見ながら言う少年。

「ま、そんなもんだ。」

格闘家というのは伏せておいた。まあ、シバが自分から格闘家を名乗るなと言ってたし、というか、この格好で気づけ。

「変なの。ま、いーや。遊ぼうぜ!俺ひとりで退屈だったんだ!」

少年が俺の手を引っ張り、グングンとこの場から離れていく。・・・意外と力があるな、細身な手足で。

俺と少年は、しばらく広場でサッカーをした。ゆっくりだったら俺にでもパスは出来た。しかし、わざわざ他人を捕まえてサッカーに誘うのか・・・。

「友達は忙しいのか?」

俺はパスをしながら聞いた。

「いや、みんな病気で死んだよ。」

パスを片足で受け止める少年。

「・・・そうか。」

くだらない事を聞いた。後悔の念が立ち込める。

「いいよいいよ!気にすんな!行くぜ、バナナシュッ!!」

少年は俺を宥めて笑顔になり、シュートを出す。

ドン・・・パシィ!


綺麗な曲がるシュートだった。足では止められない高さだった。俺は跳躍して手で弾き落とした。

「おお!やるぅ!」

「だが、ハンドだ。」

「あれ?PKだぜ?」

「・・・パスワークじゃないのか?」

「どっちでもいいじゃん!へへ!」

・・・俺達は、日が暮れるまでサッカーをした。その間その少年は、本当に楽しそうな表情をしていた。

「俺さ、サッカー選手になるんだ!」

サッカーボールをリフティングしながら、目の前の少年、ラルクは言った。

「ポジションはオフェンス!とりあえず練習しまくって、相手のカットをトラップでかわし、そして最高のMFにサイド!そしてロングパスがゴール前に来て、来て、俺が!ヘディング!!ィシューー!!」

自演しながら夢を語るラルクは、本当に輝かしく思えた。

ラルクは、ボールを俺に投げて渡した。

「ヤシロー。ありがとな、今までで一番楽しかったよ。」

ニッと笑ったラルクは、歩いて帰っていく。

・・・・?

俺はラルクを追いかけた。

「おい、ボール。」

ラルクにボールを手渡すが、ラルクは手で遮る。

「いいよ、ヤシロにやる。」

ラルクの表情に、曇りがうつった。
・・・なぜだ?サッカーが好きなはずだろう?さっきまでの抑揚とした表情が消え、今では愛想笑いだ。

「ボールがなけりゃ、サッカーできないぞ。」

俺は言う。

「病気なんだ、俺。もうすぐ死ぬ。」

・・・衝動が駆け巡った。

「白血病みたいなやつでさ、一年ないんだって。」

苦笑いなのが見て取るようにわかる。

「・・・骨髄のドナーはないのか。」

「ドナーって何?」

ラルクの格好は、ハエがたかるボサボサの頭に、黄ばんだ緑のTシャツ。ジーンズをちぎったかのような半ズボン。
医者にかかわる金もないのがわかる。

「へへ、ヤシロ。俺さ、友達とサッカーなんてした事ねぇよ。」

ラルクは言った。

「だってさ、仲良くなってから死んだら辛いじゃんお互い。俺が病気だって知ったら、絶対に気ぃ遣うって。ヤダもん俺。」

「・・・健康体そのものに見えるがな。・・・・・だから旅人とかを誘ってたのか。」
「・・・ん。ゴメンな。」

「そうじゃない。」

俺はボールを半ば無理矢理押し付ける。

「何故諦めるんだ、しかも今更。」

サッカーをして、サッカーを語っていた時の無邪気な笑顔を見れば、どれだけラルクがサッカーが好きか、誰にでもわかる。

病気では確かに大人になる頃には命を落としているのかもしれない。というか、普通なら今ごろ絶望に苛まれて落ち込んでても可笑しくない。白血病だと知ってなおサッカーボールを持っていたラルクが、何故今俺にボールを渡すのか?

「・・・本当に楽しかったんだ、サッカー。ヤシロと一緒にやれて。俺、今までボールがあれば壁とか使えばサッカーできると思ってた・・・。
・・・でもさ、サッカーは人がいなきゃ出来ないね。ヤシロとやって解った。・・・・・だから、ヤシロにあげる。じゃあね。」
ラルクは走ってその場を去る。

・・・・・俺は、ラルクを助けてやりたい。

しかしどうすればいい?
病気を治す為に金を稼ぐ?いや、骨髄を移植する相手がいなければ話にならない。なら行って励ますか?いや、それは悪手だろう、ラルクには重荷にしかならない。

・・・・・・・・・・。

ラルクは俺から逃げるように走りつづけ、姿が見えなくなりかける。

「ラルク!!!」

俺は大きく張り叫んだ。

ラルクが止まった。夕焼けの逆光でよく見えないが、きっと俺の声に気付いている。

・・・・・・夢なんだろう?

「俺はしばらくこの街にいる!!だからまた明日来い!!相手してくれ!!」

俺は手に持ったボールを落とし、ゴールキックを放った。

ドンッ!!

俺の初めてのゴールキックは、高く放物線を描き、そして。

・・・・・パリィィィン!!

「こらあああ!!誰だウチの窓を割ったのは!!?」

・・・・・・・。

・・・・・・・少しはカッコつけさせろ。

俺はその住まいの方に頭を下げて、弁償金を払い、ボールをぶつけられた。

「がっははははは!」

隣にはラルクが、膝を叩いて爆笑していた。

「・・・・・//」

俺は、ラルクにボールを渡す。

すると、すんなりボールを受けた。

「ははは。しょうがないか。ヤシロ下手くそだしな。また明日サッカーやろう!」

そしてラルクは走りながら帰路を辿った。
ラルクの表情は、さっきとは比べものにならない。希望に満ち溢れた、幼げで明るい子供の顔をしていた。

・・・・・よくわからないが、きっと俺はラルクを助けてやれたような気がした。・・・有料だが。

.

しかし。

ラルクは死んだ。

.

俺はラルクの家を探し、街を走り回る。

そしてラルクの住まいに駆けつけた。

父らしき人物がひとり、ひっそりと泣いていた。

「・・あ、あんたは?」

涙を拭いながら、ラルクの父は聞いてきた。

「俺は・・・。」

友達か?知り合いか?
・・・・・いや。

「俺は、ラルクと今日、サッカーをする約束をしていました。」

「・・・・・・そうか。」

俺は、ある部屋に案内された。そこは小さな倉庫で、中には農具や掃除用具などが壁に立て掛けられ、ホコリが舞っていた。その部屋の中央に、一辺70センチくらいの木の箱が置いてあった。

俺は蓋を開けた。

・・・・開けなければよかったと、そう思った。

半年前、ラルクが急に倒れ、頭痛を訴えながら意識を失った。ラルクの父はなけなしの金をはたいて病院に連れていった。
余命一年。その言葉は両者にとって重すぎた。しかし、ラルクはサッカーをする事で気を紛らせていたのだろう。無理をして笑顔を取り繕うラルクは、父に心配をかけまいとしていたのだろう。父は胸を痛めた。

しかし、信じがたい出来事が降りかかる。ラルクを一度診てもらった病院に、街一番の有権者が来た。息子の心臓が病気らしい。院内の子供のリストに、ラルクの名前が明記されてあったのをいい事に、ラルクの心臓を差し出せと言ってきた。
ラルクは余命1年。白血病以外は健康体である。一方にとっては吉報で、一方にとっては最悪だった。

有権者には逆らうな。それがこの街で生きる為のルールでもあった。

ラルクの遺体の左胸には穴が空いていて、塞いだ跡もなかった。

俺とラルクが約束したその日。

その日は、ラルクが死ぬ日だったのだ。

昨日、ラルクはどんな気持ちで俺にボールを託したのか。

そして俺は、何故つき返すような軽はずみな行動をしたのか。

頭がグルグルと輪廻する。

俺はラルクの遺体の入った蓋を閉めた。

部屋の外へ出る。

父が、俺にあるものを渡してきた。

・・・俺が昨日ラルクに渡した、サッカーボールだった。

「ラルクからです、ヤシロさんへと。」

父は、俺を家から閉め出した。


家の前で呆然と立ち尽くしてしまう。

手に持ったサッカーボール。

投げ捨ててやろうか?

そう思ってボールを睨むように一瞥する。

・・・・・ボールに、何か書いてあった。

ミミズのような文字で、大きくマジックでこう書かれていた。

.

『ちゃんとゴールしろよな!ヤシロ!』

.

・・・・・俺は・・・・・・どうすればよかったんだ・・・。

俺は泣いた。大声で泣き叫んだ。

俺は・・・助けることが出来なかった。

助けたつもりでいた自分が・・・腹立だしかった。

.

.

.

その後も世界を廻って旅を続けた。

いろいろな人と出会った。

さまざまなポケモンと出会った。

彼らは、必死に生きていた。

そして、そんな彼らを迫害する人間がいた。

俺は、そういった奴らから彼らを助けてやりたかった。

・・・・・だが、旅をする度に辛さが募った。

学院で虐められている子の自殺を止めた事があった。俺はなんとか生きて欲しいと、武道を教えた。身の守り方、闘い方、力のつけ方等。そして最後に、『俺が教えた事は絶対に使うな』と教えた。「なぜ?」と聞いてきたから俺は、『武道は喧嘩の為にあるんじゃない。負けない心をつくる為にある』と教えた。

その子は、学院の登校を再開した。最初なんとか耐える事が出来た。

しかし、虐めは終わらなかった。

周りはポケモンを使い始めた。野生のポケモンと偽って、その子を影から襲った。その子は、正当防衛でポケモンを追い払った。

『ポケモン虐待』『暴力男』『反トレーナー』

そんなあだ名がついた。

その子は屋上から飛び降りて死んだ。

彼が机の中に残しておいた遺書には、こう書いてあった。

.

【ごめんなさい。武道を正しく使えなくて、暴力にしてしまって、ごめんなさい。ごめんなさい。】

.

・・・・・俺は、助ける意味を知りたい。

.

.

.

.

俺は28歳になった。

シバが四天王の座を辞して、2年が経っている。
理由は解っている、俺を探す為だ。

俺は、シバが受け持っていた道場に向かい、そこの道場生を集めて回った。
シバは、道場をつくっているが指導はしていないのは知っている。だから、体裁上そいつらは、シバの弟子の俺に肖ろうとついて来た。

・・・そして、ジョウトのシロガネヤマにて。

シバと対峙した。

「・・・ヤシロ。」

シバが言った。

「・・・・・10年ぶりです。」

「マグマ団に入るというのは本当か!?」

俺の言葉を遮るように、シバは言った。

「・・・ええ。しっかり考えて、決めたことです。」

「・・・マグマ団は、ポケモンを悪用し、自分達の都合のいいように好き勝手する組織だ。認めるわけにいくか!」

・・・・・人間なんて、どいつもこいつも都合がよけりゃいいのさ。

「・・・シバ師範。」

「・・・・・。」

「俺は、『助ける』事とはどういう事かを知りたくて、世界を旅してきました。そして、シバ師範が、俺を助けてくれた時の、貴方の気持ちを理解したくて、世界中の人やポケモンを『助け』てきました。

・・・・・結果、駄目でした。」

「なに?」

シバが顔をしかめる。

「シバ師範、貴方は俺に生き方を教えてくれました。お陰で俺はこうやってこの場に立っていられます。
・・・・・貴方の言う通り、人は一人では生きてはいけません。誰かが支えてやらなくてはなりません。」

「・・・・・。」

寡黙にシバは真剣に聞く。

「死にゆく子に手を差し延べ、落ち込んだ子に希望を与え、俺は繰り返し繰り返し、懸命に生きてきました。

・・・しかし、俺は気づきました。・・・俺達は、勝手で残酷な生き物だと。

天は二物を与えずといいます。人間には知能を、ポケモンには力を与えました。人間は知能で繁殖してきました。文明も、文化も、秩序も、そして心も。・・・故に、俺達人間は当たり前だと思っています。交錯した社会が、飽食の社会が、貧しい社会が。

・・・・・真面目に生きていく子供達が、バカを見て死んでいく。

・・・・・俺は、俺はそんな彼らを助ける方法を思いつきました。」

・・・人はみな生き物だ。ポケモンも、動物もしかり。

助け合って生きてゆかなくてはならない。

繰り返される訴訟や戦争。

反発する意志。

すべては、人間が自分勝手につくった社会やルールが間違っている。

なら、それを取り除こう。

俺は、これ以上生まれてくる子供達を苦しめたくない。

0からやり直そう。

かつて、地球上からひとつの有機物が、生命が生まれた時へと。



「俺は、地球上の全生命体を絶滅させる。」



「な!!!?」

シバは驚愕した。

「俺は本気だ。」

「・・・・・・ヤシロ。・・・お前は一度考えたら、最後までやる奴だ。・・・いまさらどうこう言うまい。」

シバは体から闘志を吹き出す。

俺を睨みつけるように言い放った。

「ヤシロ、お前は間違っている!俺が止めてやる!お前を助けてやる!」

シバが構えた!

「・・・・・助けるか・・。」

俺は、ドグロック、ニョロボン、エビワラー、バオンブー、カイリキーをボールから出した。

シバは、イワーク、サワムラー、エビワラー、カイリキー、カポエラーを繰り出した。

「考え直せ、ヤシロ!」

「・・・マグマ団には入る。既に貴方の門下生はマグマ団に送り込んだ。

・・・お前ら!俺に気合い玉だ!!」

「ドク!」
「ニョロ!」
「エビ!」
「リッキーー!」
「バオーーー!」

俺のポケモン5体は、気合い玉を発動し、各自パワーを右手に集め。

ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォンンンン!!!

俺に集中放火した。

「な!!ヤシロ!!正気か!!?」

シバは目の前の惨状に驚きを隠せない。弟子のヤシロがポケモンを出し、気合い玉を命じたと思えば、ポケモン達は躊躇いもなくヤシロを攻撃した。

・・・だが、疑問が生じる。
5つの格闘ポケモンのパワーがぶつかれば、その反動は凄まじいはず。

故にシバは身震いした。

なぜ、反動の爆風が生じないのか。

そしてなぜ、ヤシロから凄まじいほどの闘気が溢れてくるのか。

気合い玉の光が消えた。

中からヤシロが出てきた。

「・・・ヤ、ヤシロ・・!?」

シバは言葉を失う。俺の黒い髪は、さっきと変わって白髪になり、顔や胸板の肌が綺麗に光る。顔立ちもすっきりしていて、精練された身体がシバの目の前にあった。

「シバ。一対一だ。」

「・・・・・よかろう!」

シバは気を発した。

「《観空大(かんくうだい)》!!!」

シバは技名を放ち、俺に突っ込んだ!

そして、俺の目の前で消えた。

「・・・。」

俺は気配を探る。

俺は首を下げた。

ブゥゥオオワン!

骨を切断するような蹴りが、ヤシロの背後から襲うが、空振りに終わる。

「がぐっ・・・!」

俺はシバの首と水月(みぞ)を突き、捕らえた。

「終わりだ。」

ボキィ・・・・!

シバは地面に叩きつけられ、何度も転がる。

シバは息絶え絶えに、顔を青くした。
首を折られた。

俺はシバにトドメを刺す。

「・・・師範、いままで、ありがとうございました。・・・・・さようなら。」

ズボッ・・・!!!

.

.

.

プルルルル・・・!

発信機から通信が入る。

俺は通信を繋げた。

『ヤシロ!貴様!どういうつもりだ!』

マツブサの怒号が聞こえた。

「・・・何か?」

『ぐっ・・・今どこにいる!』

「空の柱です。」

平然と答えた。

『・・・なんだと・・・、ヤシロ、謀ったか?』

「ええ。」

『・・・・・この異常な吹雪に冷気。まがいもない貴様の仕業だな。何をしたんだ!』

「お疲れ様でした。あと、人材提供や費用援助、非常に助かりました。」

俺は通信機を切る。その通信機を空の柱の屋上から投げ捨てた。放物線を描いて落ちた通信機は、途中で氷づけになって粉砕した。

・・・ブリザードを生成したか。

目の前にいる巨大なポケモン、キュレムは、かつてレックウザが眠っていた場所で眠りについている。

現在、空の柱の周りには氷と風のバリケードを張り巡らせ、一切の生命の侵入を拒む。もし触れれば、さっきの通信機のようになるからだ。

俺はラジオをつけた。

『ザ・・ザザ・・・ホ、ホウエン全土にお住まいのみなさん!現在キナギタウンから東北へと、ブリザードが発生しています!大変危険ですので、近隣にいる人は、直ちに避難して下さい!ホウエン全土に、強風、大雪、雪崩、凍傷警報が発生しています!みなさんは速やかに建物内に避難して下さい!気象グループから、大変寒い天候が予想されています!保温の対策を・・・ザ・サザ・・・・!』

俺はラジオを切った。

来ていたマグマ団の服を脱ぐ。

周りから立ち込める寒気。

その発端が俺達だ。かつて氷河期により地球上の恐竜や植物が死んだ。

・・・自然の力に飲まれて、安らかに死んでくれ。

それが、俺が出来る最後の救済だ。

息を吐けば、曇るように真っ白い煙りが現れ、風とともに消える。

普通の人間ならば、凍りついて死ぬ気温だ。

今の俺は同期状態。ポケモンの気合い玉からパワーを貰い、代謝を高めている。

・・・まあ、そんな芸当できるのは俺くらいだが。

完全に孤立した世界が此処にはあった。

隣ではキュレムが寝ている。

・・・・・外では、地球上は急速に気温が下がっている。

火山も噴火するだろう。

まあ、その火山灰の影響で、太陽の力も無力化する。

・・・俺はようやく、人の為に助けになれたのだと、心から思った。

これから、全てが無に還った時、どのような『種』が生まれるのか。

それが、互いに支え合える『種』である事を祈る。

.

.

.

「ヤシロオオオオォォォォ!!!」

・・・しかし、『種』は潰しても。

『根』はまだ残っていた。

.

.

.

――――――――『ポケモン世界を歩こう3』side story―――――――― to be continue





マグマ団専用の飛行艇にのり、俺と団員下っ端はイッシュへと降り立つ。

団員はみな、俺が集めた元道場生ばかりを連れて来た。

「行くぞ。」

雪の積もる静寂な台地。

俺は目の前の断崖絶壁に向かって、カイリキーを出す。

「岩砕き!」

俺の指さす場所は粉砕され、大きな穴が空いた。

「おぉ!こんなところに!」
「ヤシロさん?ここに何があるんです?」
「なんだここは?」

団員が思い思いに言葉を発する。

「皆、ついて来い。」

俺が先導して、穴に入り、洞窟を進んだ。

.

ここで出てくる野生のポケモンは手強かった。部下に戦わせ、戦力を消費しながら、最奥部へと進んでいく。

「ヤシロさん。この先に何があるんです?」
下っ端が聞いてきた。

「それは見てのお楽しみだ。」

面白げもなく俺は返した。

「ひょっとして、行方不明のシバさんかな?」
「バカかお前、こんな寒い洞窟にいるわけないだろう。きっと、どっかの山奥で鍛練してるのさ。」
「シバさんもシバさんだぜ。4年も姿くらましちまって、引きこもってたほうがあの人は割が会うぜ。」
「ぎゃはははは!」

・・・・・・・・・。

最奥部についた。
ここまでかなり時間がかかったが、後は俺の仕事だ。

「・・・下がってろ。」

俺は部下を後退させた。

俺は、ポケモンを5体出した。

「気合い玉だ。」

ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォォォォンンンン!!!!

同期状態に入った。

後ろではザワザワとざわめく声が聞こえる。

俺は目の前の泉に目を向けた。

すると、突然吹雪が襲いかかる。

「「「「「うわわわあああ・・・!」」」」」

吹雪に晒された部下は、逃げるのに間に合わずに半数凍りついてしまう。

すると、洞窟の高い天井から、ソレは現れた。

ズシンと、地響きがなった。

『人間!ワシに何様だ!』

黒い氷のドラゴンは、威嚇しながら俺を見据えた。

「俺に力を貸して欲しい。」

悪びれもなく俺は言う。

『ほざけ!!』

キュレムの凍える世界!!

洞窟中が氷点下の空間になる!

部下は慌ててその場から逃げ出した。

俺は依然とキュレムを見たままだ。

『・・・ワシの技が効かぬとは・・・答えよ、人間から超逸した能力を身につけたか若しくはその遺伝を持つものか。どうだ!?』

「・・・・・格闘ポケモンの力を借りた。それだけだ。」

『格闘・・・気合いエネルギーか。不可能だ。人間とポケモンは相成れぬ存在。エネルギーの同調ならびに共用など。』

「確かめるか?」

『・・・・・・・フン。』

キュレムの絶対零度!!

カキィ・・・・・・・ィ・・ン・・!!

洞窟にある全てのモノが凍りついた。キュレム以外の森羅万象、全てを停止させた。

キュレムは驚愕した。

キュレムの眼下には、以前と変わらず、俺は居座っていた。

服とかは・・凍ってしまったが、身体は平気だ。・・・それでも、かなりの力だ。キュレム。

『・・・貴様、何故動ける?』

「ふん。」

ビュッ!

俺はキュレムの胴体へと潜りこんだ!

『(速い!)』

俺は掌底を腹に思い切り当てた。

ズガアアアアァァァァ!!

『がっっはぁぁぁ・・・!?』

キュレムは宙に投げ出された。

トンッ!

俺は追い撃ちをかけて跳躍し、キュレムに近づく!

俺は回し蹴りを放つ!

ドゴォォオオオ!!!

『うぐっ・・・・!!』

そのままキュレムは泉に落ちた。凍った泉に落ちたキュレムは、水の表面が割れた破片が刺さり、痛々しい。

キュレムはゆっくりと起き上がった。

俺は地面に着地する。

『・・・・・』

「・・・・・」

互いに見つめあう。

そして、キュレムが口を開いた。

『・・・・・ワシの負けだ。何が望みだ?』


 
> 勇気のタネ 作:月光
勇気のタネ 作:月光

 平凡な人生を過ごしていた。小学校は地元の市立、中学校も地元の県立、高校は成績が特別良くも悪くもなかったから中ぐらいのところ。
 夢ならあった。あるにはあった。父親の影響だろうか、物心ついた時には既に小説家を目指したいと思うようになっていた……らしい。
 尤も父親は主に評論家として本を書いていたので厳密には小説家とは言わないが、若い頃は机に向かい、時が流れればパソコンに向かって自分の想いを現実に書き起こすそのスタイルに、どこか憧れを持った。
 数学と理科の成績は壊滅的――そもそも理解できる方が可笑しいよ――でも、国語と世界史は大好きと言える。日本史は同じ名前が続いて飽きる。許せるのはペリーとザビエルぐらい。
 一応勉強はしていたはずだった。そんな私が髪を染めて、威圧的な言葉を使い始めて、入学当初は屑と蔑んでいた連中と一緒にいる今の現状は、どこから始まってしまったのか。

「でさー、山下沢の禿げの頭に墨付けたて髪生やしてやったらさ、感動したのか体震わせてやがんの! あはは、傑作よね!」
「あいつの授業つまんねーし加齢臭するし、そもそも山下か山沢かどっちかにしろっての、紛らわしんだよねあいつの名字」

 もはや恒例となりつつある授業サボっての屋上でのお喋り、うちの学校は何故か屋上へ扉に鍵は掛けられていない。普通の学校は掛けられてるって聞いたけど、ありゃ嘘か?
 目の前の馬鹿みたいにテンションが高い馬鹿二人を見ながら私と言えば、喋るのが面倒臭いから煙草加えて手摺に寄り掛かってる。
 何もやる気が起きない。いつからだろう、私はいつから屑になったのだろう。そんなの分かり切っている、目の前で夢が呆気なく死んでいったとき。

「今度あいつのロッカーから金でも奪っちゃおうよ。ねえ苗華もやるでしょ」
「っだらね、ロッカーからとか言わず帰り道に本人からぶんどっちまえよ。二三発入れて脅せばどうせ差し出すだろ、あいつ根性ないし」
「わーお、流石は苗華、エグイねー容赦無いねー。そこに痺れるけど別に憧れはしない」

 なら言うなよ。

「しなくていーし……さて、私ちょっと用事あるから帰る」
「まだ授業終わってないけど、一応保健室行って早退扱いにした方が良くね? さすがに学校側五月蠅いと思うよ」
「知らないよ、別に大丈夫でしょ。じゃあな」
「男? あーもしかして男ですかい苗華さん。そりゃ学校なんて来てる場合じゃないよねー」
「ちげーよ、次言ったら鼻の穴から指突っ込んで子宮突き破るよ」
「おー怖い怖い」

 馬鹿の相手は疲れる。どうせ今さら成績とか授業態度とか気にしたって、何も変わらない。そっちは変わらないけど、やらなきゃいけないことはある。
 静かな校舎、授業中なんだから当たり前。静かな校門、さすがに昼過ぎての初っ端授業からサボって帰ろうとする生徒を監視する先生なんていない。

 私の夢は終わった。目の前で父親がトラックに撥ねられて死んだ去年から、私の中にあった何かが壊れて、夢の種は芽吹く前から腐って消えた。
 そもそも冷静に考えてみれば何を私は馬鹿みたいに小説家になろうと思ったのか、趣味で小説書いて掲示板に投稿していたのか。
 父親が死んだのは勿論ショックだったが、同時に自分の夢が全く確立されていない脆い基盤の上に成り立っていることが分かって、全てがどうでも良くなって放り投げた気がする。
 私は達観している。達観している気になっているだけかもしれない。人間なんてどうせ死ぬのに、一生懸命頑張ることに何の意味があるの。
 昔は考える必要すらなかったことなのに、最近そんなことを思ってしまう。思わずにはいられない。私の夢の種は、どこに消えてしまったのだろう、どこかに落ちているのかな。

 そんなことを考える余裕も今の私にはない。父親の代わりに働いていた母さんだが、元々体が強くなかったせいで体調は日に日に悪くなり、先日ついに倒れてしまった。
 医者によればしばらく休養が必要だとのこと。だから私が返って色々と家事をやらないといけないのだが、正直なところ凄く申し訳なく思っている。
 ただでさえ父親が死んでショックを受けているはずなのに、心労を押し殺して私を養ってくれていて、その娘が出来の悪い馬鹿共と絡んでいるのを見て、落胆しない両親なんていない。
 母さんが倒れるまで、そんなことにすら私は気付けなかった。調子に乗って染めてしまったこの金髪が、今はとても鬱陶しく感じる。ついでに耳のピアスも。

「やっぱり、ぶん殴られる覚悟で言うしかないかな」

 これ以上心配かけるわけにはいかない。これは意地だ。父親を失って夢を失って、母さんを心労でぶっ倒れさせる程の馬鹿だけど、私にだって意地はある。
 勉強するしかない。勉強して良い大学に行って、自立して少しでも母さんに楽をさせてあげたい。思い切り授業サボってる癖に今さら何言ってんだよって話だけど、別に良いよね。ただ……

「怖い……」
「ちょっとちょっと、そこの金髪サボり女子高生! そう、お前だよお前」

 声を掛けられた。語調から言ってその辺のチャラけた不良かと思って振り向いてみれば、カラフルなスーツにシルクハット、割と若い男だけどこれだけ見れば何ともシュール。
 これだけで完結していればただの馬鹿だが生憎その男の前には銀色の台に大きな布、近くには箱など様々な道具が転がっている。
 なるほどなるほど、こいつは所謂マジシャンだ。こんな人気の少ない川辺で練習なのか本番なのかは知らないが、あまりにも客が来なさ過ぎて自分の方から私に声を掛けて来たってところか。
 早く帰って家事をしたいから構っている余裕なんてなかったのだが、考えてみれば私はこいつの言う通りサボり女子高生、あまりに早く帰っては逆に母さんに心配を掛けるかも。
 それにこう言っちゃなんだけど、私って意外とこう言うの好きなんだよね。小さい時は父親が良くタネがばればれの手品を良くやってくれたっけ。

「客、全然いないんだね」
「おーっと開口一番に辛辣なことを言うねお前は。こう言うのはアレだけど、授業は受けておいた方が良いぞ」
「今日は午前授業なの。だから早く帰る、それだけよ」
「嘘は良くないな、朝から俺はここで準備をしていたけど、結構な生徒が通っていた。本当に午前授業ならもっと沢山の学生が帰路についてるはずだ」
「ふーん、マジシャンだけあって洞察力はあるんだね。じゃあ数時間後の学生を相手に商売してれば、じゃあね」

 マジシャンの癖に一言多いのよ、構っても仕方ないし別のところで時間を潰そう。

「待て待て待て! なに、お前は手品が嫌いなのか? 百円、いや十円でもいい、とりあえず見て行ってくれ」
「ただなら良いよ。私、そんなにお金持って無いの」
「なんだよ残念だな。まあ他の客が来るまでの練習ぐらいにはなるか、よしわかった! ただで良い、その代わりに俺の手品がどうだったか、感想は聞かせてもらうぞ」
「それぐらいなら良いよ。で、何を見せてくれるわけ。まさか在り来たりな帽子から鳩なんてやらないよね」
「な、何故分かった……」
「マジかよ……」

 いや、まさかそんなに驚かれるとは思ってなかった。え、なに? マジシャンって言うのは客が何も知らない馬鹿の集まりだとでも思ってるの?
 阿呆みたいに驚愕してるけどすぐに咳き込みして表情が戻ると、台の上に足元から取り出した木製の箱を乗せる。何の変哲もないただの箱、これなら少し期待が出来るかも。

「さて、それでは不肖ながら、わたくしミスターマリッコによる手品を始めさせていただきます! ほーら拍手拍手」
「うわー、すっげーパチモン臭い名前なんだけど。何よマリッコって、ミスターマリックのパクリじゃん」
「い、今時の子は知らない物だと思っていたが、意外とあのおっさんは若い子にも有名なんだな。ま、まあいいじゃないか名前なんて。重要なのは手品の質さ」
「この分じゃ、手品の質も期待できないんだけど」
「……相変わらず、一言多い糞ガキだ」
「何か言った?」

 今明らかに『糞ガキ』って聞こえたんだけど。なんか、気のせいかもしれないけど、こいつと私って……どこかで会ったことある?

「いえいえ、滅相もございません。それでは始めますよ。まずはこの箱を見て下さい! 御覧の通り、『タネも仕掛けもございます』!」
「……はぁ?」
「いやだから、見ての通り『タネも仕掛けもございます』って言ったの。今からこの箱を宙に浮かせますよ、見てて下さい。古臭いけど、ワンツースリー!」
「う、浮いた……て言うか、『タネも仕掛けも』もあったらそりゃ浮くでしょ! 何よこれ、私を馬鹿にしてるわけ!?」
「そんなことはない。じゃあ君、この手品のタネと仕掛けがどこにあるか分かる?」
「わ、分かるわけないじゃない。そもそもマジシャンってそう言うのを分から無くするものでしょ、私が見抜けるわけが無いでしょ」
「その通り! 手品師って決まって『タネも仕掛けもない』って言うけどさ、本当はあるんだよ。だから俺は手っ取り早く言っちゃうことにした、でも客はタネも仕掛けも分からない。面白いでしょ」
「面白いのはアンタだけじゃん。でもまあ、アンタが凄いってのは分かった。だから早く他も見せてよ、当然タダで」

 ちょっと小馬鹿にされた気がするけど、やっぱりマジックって見てると面白い。それに何だかこいつ、『タネも仕掛けもございます』なんて、ちょっと面白いじゃん。
 その後もマリッコ――しかし本当にパチモン臭い名前ね――は色々なマジックを披露してくれた。先ほど言った様に帽子から鳥が飛び出して来た。うんまあ、何でか鴉だったけどね。
 人通りが少ないとは言え、不思議なほどに人が来なかった。終始観客は私だけ、ありえないことだけどもしかしてこれもマジックだったりして。
 最初は期待していなかったけどマジックの技術は驚くほど高くて、本当にこいつがどんな方法でマジックをしているのかさっぱり分からない。自然過ぎて、糸口さえ。
 全ての演目が終了したのかマリッコが丁寧に礼をして、私は思わず笑いながら拍手をしてしまっていた。
 笑うなんて久しぶり。父親が死んで母さんがあまり家に居なくなって、会話すら全くかわさなくなって、こんな気持ち……久しぶり。

「あれ、泣くほど感動してくれた? いやー、タダでも披露した甲斐があったわー!」
「え? あ、あれ……」

 目頭の辺りを擦ってみると確かに濡れていた。どうやら私は泣いていたらしい。その事実に気付いた直後から視界が歪んで、世界が一気に現実を失った。
 さすがにいつまでも泣いてると格好悪い。直ぐに涙を拭って顔を上げると、マリッコは真剣な顔つきになって私を見ていた。こうして見ると悪くない男なのに、なんか勿体無い。

「俺の手品を見て感動してくれたのは嬉しい。だけど、その涙の理由はそれだけじゃないだろう」
「別にアンタには関係ないでしょ。マジックは楽しかったよ、さよなら」
「だから何でそうやって帰りたがる! 俺はこう見えてこの商売やる前は学校のカウンセラーだったんだ、相談に乗れると思うぜ。保健室の先生より赤の他人の方が相談し易いだろ」
「アンタがカウンセラー? むしろ適当にプリントだけ配って自分は教科書の豆知識だけ見て満足してそうな、どうしようもない国語の教師みたいに見えるけど」
「悪い、カウンセラーなんて大嘘。でも俺は流れの手品師、ここに長く居ることは無いから必然的に近くの奴に秘密が漏れることもない。話してみろって」

 何で他人のことなのに突っ込んで来るのよ。そりゃ悪い奴じゃないんだろうけどさ、赤の他人に話して解決するなら苦労は無いわよ。

「今さ、『赤の他人に話してなんになるんだ。そんなんで解決すりゃ苦労は無い』って思っただろ」
「……思ってないよ」
「じゃあつまり俺のカウンセリングを受ける気になったってことだな! さぁ、話してみろ」

 しまった、一本取られた。

「もしかして人の心が読めるわけ?」
「読めるわけないじゃないか。ところで、カウンセラーの仕事ってなんだか分かるか」
「んなの、困ってることの解決でしょ」
「違うな、カウンセラーの役割は徹底的に話しを聞くことだ。ネタばれになっちゃったけどさ、まずは叫べ。お前の心の内を、馬鹿みたいに曝け出せ」
「うわ、なんか変態っぽいんだけど。言っておくけど、なんか変なことしたら通報するからね」
「不安や困ったことがない人間なんていない。俺は今までそう言う奴を何人も見て来たんだ、安心して暴露しろ」

 相変わらずの変態チックな言い方だけど、不思議にもこいつは信用できる気がする。赤の他人を信用するって、変な話かもしれないけど……
 私は話した。私の今置かれている状態、私は一体何を夢見ていたのか、どうしてその気持ちを失ってしまったのか。私自身も分からないことをただひたすら話した。
 父親が亡くなったこと、母さんが倒れたこと。これ以上母さんに迷惑をかけたくない。心配を掛けたくない。
 いつの間にか、また泣いていたらしい。目の前が歪む。世界が歪む。体が暑い。鼻を啜る。一度話しだしたら止まらない。不思議なほどに止まらない。
 誰か来たら恥ずかしくて死んでしまうかも。でも誰も来ない。歪む世界の中で、マリッコがちゃんとこっちを見ているのを確認した。



 喋って喋って喋って喋って喋って喋って喋って喋って喋った!



 私は息を切らしていた。涙を流して紅潮して、全てを吐き出した私が最初に感じたのは……胸につかえていた何かが、零れ落ちたような感覚だった。
 目の前のマリッコは黙って聞いてくれた。こいつの言う通りだ。癪だけど、叫んだだけで幾分か心が落ち着いた気がする。
 これだけでさっきまでの不安とイライラが少しは無くなった。多分今の私の眼は充血してるんだろうけどな。と言うか、マリッコいつまで黙ってるの? いつまで私を見てるわけ?
 何でよ。何でそこまで分かっちゃうのよ。そうだよ、私はただ単に話しただけ。それなのに何でこいつは、私の不安が分かるのよ。止めてよ……甘えちゃうじゃん。

「私は、もうお母さんに心配は掛けたくない。気持ちの面でも、お金の面でも。だけど私は、夢を持ちたい。また追いたい!」
「だけど不安が残っている。自暴自棄になったせいで陥った、今の環境から抜け出しにくいってわけだ。そりゃそうだ、不良グループだからな」
「虫が良いかもしれないけど、私はちゃんと勉強したい。今のままじゃ、私はきっと屑のまま終わる。それは嫌だ。絶対に」
「女子高生、お前名前は?」
「苗華、芽吹苗華」
「良い名前じゃないか、考えてくれた父親に感謝することだな。苗華、お前はもう自分の状況を理解している。自分のやりたいことも分かっている。お前に足りない物は一つだけ」
「一つだけ?」

 一つだけ……多分、それは……

「勇気だ。世の中の事柄ってのは大抵勇気と責任、機転が働けば乗り越えられるものだ。今のお前に必要なのは勇気」
「そんなの分かってる。分かってるよ……でも……」
「今行動を起こさなければ、お前の中のタネは永遠に芽吹かない」

 芽吹かない? 永遠に?! 嫌だ、絶対に嫌だ!
 世界が揺れている気がする。優しかったマリッコの視線を直視できない。こいつは、何でこんなに芯があるのよ。
 
「分かった、俺が手品を見せてやる」
「はぁ?」
「俺は今まさに、お前の中に勇気のタネを仕込んだ。それはお前の勇気に反応し、一気に開花させる。勇気を持て。そうすればそれが助けてくれる」
「何言ってんのか訳分からないけど、ありがとう。アンタに会えてよかった。でもまあそんな種が、本当にあればなぁ……」
「あーいたいた! 苗華、ちょっと来いよ」

 嫌な声が聞こえた気がする。無視したいがするわけにもいかない。
 振り返ってみれば案の定、さっきまで人っ子一人いなかったはずなのにいつの間にか正午の二人を合わせてざっと七人の不良面子。
 色々あって腐ってたとは言え、何で私はこんな奴らとつるんじゃったのかなぁ。男三人はチャラ男だし。

「これからよ、職員室忍び込んで金目のもん貰っちゃおうってんだけどよ、お前も来るよな、とーぜんさ」
「来ないって分けないよなー苗華ちゃん? 最近なんか付き合い悪いけど、まさかグループ抜けたいなんて思ってないっしょ。あんだけ面倒見てやったのによ」

 お前らに見られた面倒なんて殆どなかったと思うけどね。とは言えどうしよう、断りたいけど相手が七人じゃ……断ったら、絶対殴られたり虐められる。

「わ、私は……」
「断りたければ断ればいい。行きたければ行けばいい。だがな苗華、さっきも言った通りだ。腐った土壌で逞しく育つのはあくまで物理的な植物、お前の心は永遠に芽吹かない」
「あんだよおっさん、関係ねーんだからすっこんでろよ。てかなんだそのキショイ格好? マジシャンか? だったら客にへつらって頭から鳩でも出してろよターコ」
「タコの頭から鳩は出ないだろ。何言ってんだお前は、高校生なのにそんなことも分からないのか」
「ッチ、この爺……ぶっ殺してやりてーけど今はほっといてやるよ。どうなんだよ苗華? 来るよな、てか来ないなんてことねーよな」

 行きたくない。もう関わりたくない。でも行かないと私は……誰か、助けて……

「苗華、もしお前が誰かに助けを求めているなら。そりゃ甘えだ。自分でやったことだろうが、自分のケツぐらい自分で拭け。誰かに助けてもらって解決したんじゃ、お前はこれからも誰かに甘える。腹をくくれ、こんなのは人生の一瞬だ!」
「マリッコ……うん、ありがとう。リョウ、私は行かない。今後一切、アンタらの不純な活動には付き合わない。もう誘わないで。私は……正しく生きる」
「フーン、あんだけ一緒に楽しんでおきながら自分は見切り付けてドロップアウトかよ。そこまで清々しく断られると冷静になり過ぎて、いっそ血管ぶち切れてその面原型無くなるぐらいボコボコニしたくなっちまうよ!」
「あぐぅ!」

 殴られた……まぁ、当たり前だけど。こいつらそう言う奴だし。あたしが入って数ヵ月後に抜けた言って行った奴が居たけど、そんときゃ私もデコピン程度だけど混ざってたっけ。
 確か全治三カ月ぐらいだったかな、そいつ。私の場合はどれぐらいだろう。半年ぐらいなら良い方かも。違うよ、軽いか重いかじゃない。こんなことをすることに、されることに問題があるんだよ。
 凄く痛い。気の弱い方だった里香と綾奈と正久は遠巻きに見てるだけだけど、他四人が寄ってたかって私一人を殴って蹴って……
 酷いったらないね。私って今まで、こんなことに参加してたんだよね、形だけでも。こんなにされてどうなるか分からないけど、またやられるかもしれないけど、何でかな……気分に良いや。
 別にマゾってわけじゃない。あ、口の中切った。ただなんだろう、本当に自分のやりたいことを、言いたいことを言った時は清々しい。私一人じゃ、きっと無理だった。

「何笑ってんだよこのブス! 止めて欲しけりゃ今すぐ土下座して靴でも舐めろや豚が!」
「あー学生さん、豚は別に靴は舐めないぞ。そもそもありゃ清潔な生き物だ、それに最近ペットとしても人気があって可愛らしいじゃな――」
「うるせーなオメーはさっきからいらねー雑学垂れやがってよ! お前ら、ブスはまた後でやるとして、こいつもやるぞ」
「でもさリョウちゃん、一般人はマズくね? 警察行かれたら厄介っしょ」
「こいつだって携帯なり名刺ぐらい持ってんだろ。ボコって奪って名前や住所抑えりゃ、また何度でもボコれる。つまり、こいつは通報できなくなる。通報したら何度でもやっちゃうよー俺ら」
「昔の学生も血気盛んだったけど、最近の学生も負けず劣らず血気盛んで良いことだな。ゆとり教育でゆとってると思ったのに」
「テメ、ガチで殺してやろうかコラ!」
「マリ……アンタは、逃げ……」

 やば、リョウの奴ナイフなんて持ってたの? こいつらは一般人でも容赦なくやるし、本当に殺されちゃうかもしれない。だってマリッコ、見るからに貧弱そうでヨナヨナしてるもん。
 もう嫌だ。私のせいで誰かに迷惑をかけるのは。特にこいつは何の関係もない赤の他人なのに、一円にもならない私の話しを聞いてくれた。勇気をくれた。背中を押してくれた!
 だからここは私とこいつらだけでケジメをつけないと駄目! 殴られ過ぎてもう何か体の感覚無くなって来てるけど、動いてよ私の体。せめて、こいつだけは助けさせて。

「困ったな、俺は喧嘩が得意な方じゃない。仕方ないから、手品で相手をしてやるよ」
「くだらねーショー見てる時間も暇もねーんだよ俺らは。そうだな、まずはそのフザケタ帽子と髪の毛と頭皮辺りをザクザクいこっか。頭に真っ赤なバラが咲くぜ」
「さーて、これからミスターマリッコによる手品を始めます! ご注目ご注目! この手品、『タネも仕掛けもございません』!」

 ……あれ、『タネも仕掛けもございます』ってのがアンタの定型句じゃなかったっけ?
 ってそんなこと気にしてる時じゃないのよ。早く逃げろって、私の責任増やさないで、お願いだから。

「まずは手始めに、そうですね……リョウさんと言いましたか、貴方以外のお方の記憶を消させていただきましょう」
「はぁ、何言ってんだお前。電波なサイコさんかよ。アハハハ、聞いたかお前ら。記憶消すってよ!」
「嘘八百で乗り切ろうとしてんのバレバレー必死過ぎワロスーって感じー。マジでキモイんですけどーリョウちん早くそいつ刻んじゃってよー」
「正真正銘『タネも仕掛けもない』手品、さあ私の持つこのハンカチを良く見ていて下さい……とか言っている間に、実は消えてます」
「なんもおきねーじゃん。うわマジキモイこいつ、電波過ぎてうぜぇし。お前ら、さっさとこいつ殺して苗華のリンチ再開すんぞ」
「誰よアンタ、て言うかいつからあたしらと一緒にいたわけ? うわキモ、話しかけないでよ。てか私達もこんなところで何してんだろうね。帰ろ皆、教頭に見つかるとうっせ―から」
「ちょ、ちょっと待てよ葉菜、テメー何勝手に俺に見切り付けてんだよ!? 待てって、おいコラ!」

 嘘、本当に……帰って行った? リョウはこのグループのリーダーなのに、本当に皆、ここに何をしに来たのか、リョウが誰なのか分かってないみたいだった。
 どんなに叫んでも誰も戻って来ない。それどころかあいつらは表面上あからさまにリョウを排他する視線を向けて、さっきまで私が受けていた視線を、今度はリョウ自身が受けている。
 マリッコって本当に、人の記憶を操れるって言うの? ちょっと待って。じゃあ私が絞り出した勇気も、こいつの力なの?
 聞きたい。本当にそうなら、私は絶対にこいつを許さない。体中が痛いけど、私はどうしても今すぐ確かめたいの。私の尊厳、意地は……私が守るんだから!

「さて、記憶が無くなると言うのは恐ろしい。先ほどまでの自分が無くなって、存在が否定される。お前が今まで他者にして来たことだな。良いか、糞ガキ」
「ちょ、軽い冗談じゃねーかよ。そんな、一般人殺すなんて日本で出来るわけねーじゃん。ば、馬鹿じゃねーのお前」
「出来るさ。極論で言えば、消しゴムでだって人は殺せる。何個も喉に詰まらせれば良い。素手なら死ぬまで殴れば良い。そして俺は、お前の記憶を殺すこともできる。いいか、今後も苗華に絡むようなら……お前の精神年齢赤ん坊まで下げてやるよ」
「イカれてやがるこいつ! つ、付き合ってられねーよ!」
「重ね重ね言うがこれからは精々質素に、俺の目を避けて慎ましく生きて行くことだな。記憶を失いたくなければな」

 リョウは性質が悪いことにボクシング部を引退した実力派の不良だったのに、貧弱そうなマリッコがあいつを追い払うなんて……正直、想像出来なかった。
 でも今はそんなことはどうでも良いよ。私が知りたいのは、さっきまでの私の決意が……本物だったのか、偽物だったのかってことだけ。

「おい、無理するなよ。骨折は無いようだが、内出血が激しいぞ」
「聞きたいことがある。さっきの私の勇気は、偽物だったのか? 私を……私の記憶を……操ったの?」
「はぁ? お前馬鹿か、人間の記憶なんて素手の人間が操れるわけねーだろ」
「だ、だって目の前で現実に――」
「あいつらもお前と同じだ、心の底では何かを感じていたみたいだ。リョウってガキにも付き合いきれないところがあったんだろ。一人当たり三十万円でな、芝居を打ってもらうことにしたんだ」
「そうなんだ……あ、あはは、心配して損しちゃったよ。ってちょっと待って。その言い方だと、アンタは今日の出来事を予想してたってこと? なんで、その、私を助けてくれたの?」
「……隠しても意味無いか。お前の亡くなった父親、俺の伯父さんなんだよ。お前とも……そうだな、十年ぐらい前に会ってたと思うぞ」

 十年前、まだ小学生になって間もない時か。さすがにちょっと覚えてないかも。
 でもどこかで会ったことがあると思ったのは間違いじゃなかったのね。そう言えばうちのお父さん、車とかバイクが苦手だったから親戚の家に行くってことは殆どなかった。
 どう言う理由で手品師なんてやってるか知らないけど、この人は偶然か必然かここに来て、私を助けてくれたのね。
 正直、なんか色々と納得いかないところは多い。こんな漫画や小説みたいな展開が実際に起きるなんて、実は夢じゃないの?
 頬を抓ろうとしたけど全身の痛みの方がリアルに現実を教えてくれる。安堵が緊張を上回ったのか、途端に足が笑って膝が地面に着いちゃった。

「そっか、親戚だったんだね。ごめん、名前忘れちゃった」
「昇陽、芽吹昇陽だ。ちなみに手品の基礎はお前の親父に教えてもらった、あの人の手品は正直上手じゃなかったけどさ、アレが俺の原点だ」
「あっ、名前で思い出した! 『考えてくれた父親に感謝しろ』って、普通は『両親に感謝しろ』って言うよね。そっか、昇陽は私の名前を考えたのが父さんって分かってたのよね」
「あの時は思わず口が滑ったと思ったが、バレなくてよかったよ。昔と同じで鈍くて助かったけど」
「に、鈍いって言うな! でも、ありがとう昇陽。格好良かったぞ、金の力だけど」
「だから一言余計なんだよお前は! しかし女子高生に言われると中々気分が良いな、親戚じゃなかったら彼女にしちゃうところだ」

 さすがにその発言は……ちょっと、引く。さすがに近親相姦とかそういうのは、ない。

「おい、何で少しずつ離れるんだよ」
「だってさ、久しぶりに会った親戚がロリコンだったらショックでしょ。私のことも少しは考えてよ」
「ロリコンじゃねーよ」
「……ねえ、昇陽の手品には『タネも仕掛けもある』んだよね?」
「当たり前だ。『タネも仕掛けもない』手品なんてこの世にあるもんか。て言うか、あってたまるかっての。そりゃ手品じゃなくて魔法だ」
「納得。私、家事があるからそろそろ行くね。昇陽は、まだしばらくはこの辺にいるのかな」
「確かに俺は親戚だが、あくまで流れの手品師だ。明日には別の場所、明後日にはさらに別の場所、一ヶ月後には地球の裏側にいるかもしれない。だけどまあ、たまに顔を出すよ」
「うん、分かった……それとさ、最後に教えて。私は、自分で勇気を出せたんだよね。操られてなんて……ないよね」

 やっと学生が帰路につき始めて客が増える時間だって言うのに、昇陽は台車に機材を載せて場所を変える準備をしようとしてた。ひょっとして、私が見に来ると思って恥ずかしがってる?
 振り向いた昇陽の表情は一瞬『何言ってんだこいつ?』って言いたそうな顔だったけど、すぐに微笑みに変えてくれた。どうしよう、ちょっと……マジでカッコいいかも。

「勿論、『タネも仕掛けもございません』」


 
> 颯爽と吹き抜ける涼風 作:鏡花水月
颯爽と吹き抜ける涼風 作:鏡花水月

 人間からすれば、色違いのピジョットはかなり珍しいようだ。俺の存在が、そのことを証明している。俺は人間に捕まるのが嫌だったから、やつらからずっと逃げ続けてきた。やつらが変な球からポケモンを出して追いかけても、俺の攻撃で一発KOだった。そんな風に、俺は自分しか持っていない金色の羽を振り撒きながら、人間からゆうゆうと逃げ回っていた。そんな姿を見た人間たちから、俺は“涼風”という渾名をつけられているそうだ。これは、知り合いの鳥ポケモンから聞いた噂だが、そのお陰でポケモンたちからも涼風と呼ばれるようになってしまった。人間からつけられた渾名なんぞ俺にとっては無用の長物でしかないが、妙にかっこいい響きでしかもその由来もかっこいいとくれば俺はこの名前をどうすればいいのか迷ってしまう。
 俺はキャタピー一匹を食べ終えると、小さな木立を抜けて人間どもが生活を営んでいる場所に飛んできた。“街”と呼ばれる場所だと聞く。ところどころに生えていて、黒い線をつないでいる柱の上に降り立った。そこで少しの間羽繕いをするだけのつもりだったが、叫び声一つ、俺の平穏を見事に破ってくれた。どうやら骨のある人間どもが俺を見つけてくれたらしい。俺は颯爽と飛び立ち、逃走にはいった。
『見つけたぞ、涼風! 追いかけろエアームド!』
「キシャァァッ!」
 背後から人間の声が聞こえたかと思うと、鉄色の鳥が迫ってきた。鋼タイプのくせに相当スピードには自信があるようで、気付いたときには俺の背後にぴたりとつけてきていた。確かに早いけど、甘いな。
 俺は電光石火で、エアームドを振り払おうとした。雲が頭上を通り越していく。そこでエアームドも負けじとスピードアップしたが、やはり俺からじりじりと引き離されていった。
「待ちやがれぇっ!」
「んなこと言われて素直に待つ馬鹿はいねえだろうよ!」
 と叫びあったところで、俺は上に方向転換。そして百八十度後ろを向いて元来た道を辿り始めた。エアームドの姿は見えなかったが、きっと翻弄されて抑制力を失って、下に落ちているところだろう。……ん?
 目の前から緋色の龍が飛んできた。リザードン、か。そのリザードンの上には、俺を捕まえようとしている人間が球を携えて乗っていた。逃げようと後ろを振り返ったら、視界には落っこちたと思っていたエアームドが。あの野郎、まだ追っかけてたのか……。
『観念しろ、涼風! 火炎放射っ!』
「うおああああ!」
 リザードンは雄叫び一つ、炎を吐きだした。まずい! 俺は下に潜り込むと、やつの黄色がかった白の腹へ突撃した。間一髪、いや、一髪でも多すぎるという判断だった。炎は俺の翼の先端を焦がさない程度にかすめるとエアームドに直撃した。ざまーみろ、と俺は調子に乗った。エアームドは落ちていく途中で、人間の球に吸い込まれていった。
『エアームドッ!』
あろうことか、そのまま逃げ去ればいいものを俺はそのままリザードンに突っ込んでいった。つばめ返しで切りつけようとして、ドラゴンクローで返り討ちにされた。右翼の付け根に広がる痛みをこらえて、やつと同じ高度まで上がるとエアスラッシュを打った。
――――人間が従えているポケモンは、なかなか実力があったようだ。
「はん、そんな攻撃くらいじゃ痛かねえよ!」
 リザードンはエアスラッシュを頭から受け止めた。なのに、額がかち割れるどころか傷一つなく弾かれてしまった。
「ふん、石頭の阿呆か」
 俺はそんな捨て台詞を吐き捨てると、背中を見せた。その辺を彷徨い歩きながら食って生きてる俺に、プライドとかそんなもんはありゃしない。逃げるが勝ちってやつだ。
「阿呆はおまえだろーがよ。俺のご主人はお前を捕まえようってのに、ぬけぬけと突っかかってきやがって!」
『リザードン、龍の怒り!』
 人間が何か叫んだかと思うと、俺の背中に衝撃が走った。リザードンを完全に殲滅しようと後ろを振り向いても良かったのだが、今の状態では勝てそうになかったからスピードをあげて逃げることに専念した。電光石火でスピードを上げて、そのままの勢いで飛び続けた。痛みとダメージで速度は下がっているだろうけど、相手はただでさえ重たそうなガタイで、人間を乗せている。いつの間にか眼下には果ての無さそうな樹海が広がっていた。追いつけは出来ないだろうと考え、全力で少しの間飛んだあと、後ろを振り向いた。
「……ちっ」
 リザードンは着実に、しかも結構速くこっちに近づいてきている。下は森だったから、高度を下げて、相手を森の中にぶちこんでやろうと思った。一旦入ってしまえば、そのときはあの巨体のことだ。木々に引っ掛かって動けなくなるに違いない。
 だが、現実は甘いものではなかった。
『もう一度、龍の怒り!』
 空を切って、人間の声が届いてきた。少し後ろを見たところ、リザードンがさっきの技を放とうとしていた。あの距離から? 無理に決まってる!
「お前、甘く見るなよ」
 リザードンは物騒極まりない一言を漏らした瞬間、俺は龍の怒りが体にぶち当たるのを、その痛みを、体に浸透させた。翼はその機能を失って、俺は自分が仕掛けた罠に自分から掛かりにいってしまった。不幸中の幸いだったのか、木々に阻まれて、人間は俺を収納する球を投げることができなかったようだった。それでも、枝が体に引っ掛かって痛い。翼は半分折りたたまれた状態だというのに滑空は続き、ある木に衝突して俺はようやく止まった。
「いってぇ……」
 体の左側をぶつけたために、そこだけがうずうずと痛む。しばらく翼も足も放り出して寝そべっていた。やがて、さっきの戦闘で受けた傷を癒そうと、オレンの実かオボンの実でも探さねば、と立ちあがったところ、目の前に何かが落ちてきた。青い柑橘系の果物――――オレンの実? 何で俺が探しているものがこんなにタイムリーに出てくるんだ?
 俺は不審に思って上を見た。そこには、オレンの実と同色の生物がいた。頭に三つの綿毛の塊を付けている。ワタッコ? こんなところにも生息していたのか。密林とまではいかないが、なかなか深くて光もさほど差し込まないこんな中で暮らすのは楽じゃないだろうに。
「あなた、涼風さんですよね?」
「あァ?」
 俺は眉根を寄せて、その名を呼んだやつを見た。ワタッコの他にものを言いそうなやつはいないから、こいつに違いないだろうな。
「もしかして、また追われていたんですか?」
「黙れ」
 オレンの実をついばみながら、生意気な口を叩くワタッコの野郎を睨み据えた。
“鋭い目”という特性は視界を守るには役立っても相手をひるませるには及ばないらしく、ワタッコはいかんともしない表情を浮かべていた。くそっ、こいつもついばんでやろうか……!
「……」
 戦闘で傷ついた俺の体は、オレンの実の一つや二つでは足りないようだった。傷が癒えないのは構わないが、腹が減って仕方がない。
「あ、足りませんでしたかー? もうちょっと取ってきますね」
 のんきそうな声でワタッコは言うと、ぴょこんと跳ねながら茂みの中へ入っていった。
「能天気なやつだな、俺を狙っていた人間がその辺をうろついているかもしれないってのに」
 俺はオレンの実の残骸の種をくちばしで弄んでいた。さっきは苛立ちと殺意を覚えたが、話し相手がいなくなるとどうもつまらない……。ここに落ちてきたときよりはだいぶ楽になったから、その辺を散策してみた。ワタッコが消えていった方とは別の方角に行ってみると、数十秒で開けた土地に出た。開けた、とは言っても光が周囲よりは多く射しこんでくる程度で、やはり木々に覆われている。俺はその真ん中へ行くと、脚で穴を掘ってそこにオレンの種を植え付けた。
 元の場所に戻ってきてみると、ワタッコがすでに戻ってきていた。オレンの実はどこにあるのか、と思いきや奴の頭部から生えている綿毛の中に青い塊が幾つも埋まり込んでいた。
「お前、いくらなんでもその運び方は酷えよ……」
「あ、戻ってきた。何されてたんですか?」
「なんでもない」
 俺はぞんざいにこう答えると、右翼を前に出した。ワタッコは綿毛を揺らし、オレンの実を五つその上に乗せた。
「サンキュ」
「いえいえー。あ、私この辺に住んでるので、いつでも声かけて下さいね。タネっていう名前なんです」
「タネ? ……分かった、気が向けばまた来る」
 来たくてここに来たわけでもないし、用が済んじまえばとっとと立ち去ろうと思っていたのに、こう返事した俺は……。嘘を吐く性根じゃない。つまり、戻ってこようとは思っていたってわけだな。
 休息をとっていると、やがて夕闇が訪れて星が空で煌めきだした。俺はさっきの言葉を撤回し、明日になったらこの森を立ち去るつもりで眠り込んだ。優しくしてもらったのは久しぶりだな、と夢うつつに感じながら。

 すぐに立ち去ろう、と思っていたのに、いつの間にか長居してしまっていた。たんに一夜二夜過ごすなら話は別だが、今や両足の指に加え両翼の羽全てを使っても数えきれないくらいの夜をこの森の中で過ごしていた。どれくらい経ったのかは分からないが、少なくとも森に住むポケモンと流暢に話すくらいには。
「お前、ピジョンにしては防御力は高いみたいだな。だったらフェザーダンスなんざ使ってもあまり意味無いぞ」
「うっす、御指導ありがとうございました!」
 俺が涼風であると知ってか知らずか、はたまた色違いだから強いポケモンだと思われたのか、毎日森のポケモンが鍛錬として俺相手にバトルを挑みにくる。人間から狙われるような色違いのポケモンは群れから爪弾きに遭うと思っていたが、全くその逆だった。一度不思議に思って、タネに訊いてみた。
「だって、骨のある人間でも滅多にこんなところに立ち入りませんよ? 薄気味悪くて何もない場所なのに……」
 いくらなんでも、自分の住む場所をこんなに悪く言うだろうかと思ったが、鎌首をもたげたそんな疑問は無視した。
「珍しいポケモンや財宝を求めるような人間ですら来ないのか?」
「今の人間は命が何よりも大事なんですよ」
 タネのそんな言葉を訊いて、俺はこの森に入る前に俺を追った男のことを思い出した。俺が考えるような人間がそんな武骨なら、あいつはもう俺を捕まえているだろうな。この森には来ていないだろうし、来たとしてももう帰っているだろう。
 なんだ、こいつ。やけに悲しそうな表情をしてるな。
「おい、タネ」
「何ですか?」
 誰か、俺に親しくしてくれるようなポケモンがいたら訊こうと思いながら、今までずっと思っていなかった。
「お前、人間と暮らしたいと思ったことはあるか?」
 多分、生まれも育ちも野生(確証はないが)のタネははいとは答えないだろう。
「人間と、ですか? うーん……」
 ただ、俺は何故か無闇にいいえとは答えられない。もしかしたら、人間といる方が楽しいんじゃないかって今でも思う。かと思えば、やつらに虐げられて悲鳴を上げるポケモンだっている。俺は、仮に誰にも看取られずに無様に死んでいくとしてもあんな愚劣極まりない人間のこき使われ役として生きていくのだけは嫌だった。そんなのは生きてるっていわねえよ。
「付き合う相手を間違えなければ、楽しいんじゃないですか?」
 ……ほう。
 タネは、言葉を選んだようには見えなかった。こいつは人間の下にいたことがあるのか? そこまで強くもない、普通のワタッコのように見えるのだが。
「じゃあ、ポケモンが人間と一緒にいたくないって思うのは自然なことか?」
「……」
 タネは答えなかった。
「涼風さん!」
 ニョロゾが来て、俺は鍛錬の相手をすることになった。

 それから、また沢山の夜が過ぎていった。ここに是非とも留まっていたい、というわけではなかったが別の場所に行こうという気概も段々薄れていった。
 タネは、不思議なほど人間たちのことを知っていた。ポケモンを捕まえる不思議な球のことも知っていた。“モンスターボール”というその名前を、俺は彼女から聞いた。
「お前、何でそんなに人間どものことを知っているんだ?」
「一回だけ、町に来たことがあるんです」
 そう苦笑いするだけで、タネはそれ以上教えてくれなかった。よく考えれば、名前が付くポケモンというのも珍しい。俺みたいにそこいらで暴れまわって有名になるか、人間の手下となるかしか名前をつけられる方法はなかった筈だ。まさか、コイツ――――?
 いつだったか俺が種を植えたオレンの樹が誇らしく若葉を茂らせ、青い実をたわわに実らせていて、地面に落ちた果実も多くあった。運が良ければ、その果実の中の種子がまた遠くへ飛ばされて新しい樹となるだろう。
その樹の根本に、タネが来る筈がないと言っていた人間が一人座っていた。隣にはリザードンが控えている。俺は、そこで初めてタネの叫び声を聞いた。
「マスター!」
 人間は肩を跳ねあげてこちらを見た。それは奇しくも、俺をこの森に追いやったあの人間だった。
『タネ! それに……涼風!』
 人間は、長い間追いかけてきた俺が目の前にいることよりも、タネがいることに驚いていた。彼女は走っていき、その青い姿を人間の体にうずめた。俺は人間に近づこうとはせずにその場で成り行きを見守っていた。人間は愛おしげにタネを抱きしめて泣いていた。
『何処に行ってたんだ! ずっと探したんだぞ……』
 まさか、とは一瞬思ったがやっぱりな、という気持ちの方が強かった。自分の仲間を取り戻したあの人間は俺をどうするつもりだろうか。
 リザードンが、俺をじっと見つめていた。やつは俺のところまで歩いてくると、静かに話し始めた。
「貴方が涼風か。話すのは初めてだな」
 態度こそ堂々とした好青年だったが、いかんせん顔が厳つい。無意識的に技を放つ構えをとってしまった。
「随分と警戒されてるなぁ……。お前さ、俺たちに着いてくつもりはねえの?」
 何だと! 俺がそんなあからさまな誘いに乗るような馬鹿に見えるのか!
 逆上し、気付けば翼を上に振り上げていた。リザードンは難なくかわしたようで、一歩後ろに下がっていた。金色の羽が一枚、ひらりと舞い落ちる。残念ながら飛んだ軌跡に虹を残す伝説のポケモンの羽ではない。かわされたことに対し苛立ちこそ覚えたが、よく考えればエアスラッシュを額で受け止めるようなポケモンだったな。
「危ねえなあ」
『涼風』
 リザードンの横に人間が歩いてきた。傍にはタネもいる。
「涼風さん、お世話になりました」
 彼女は礼儀正しく頭を下げた。どうやら、タネはこの後人間に着いて行くらしい。この森は、彼女が件の人間から離れて迷子になったときに迷い込んだところでこんな森の奥地じゃあ迎えに来てくれる筈がないと諦めていたのだそうだ。こいつは、こんな森の奥地でもはぐれたポケモンを迎えに来るというのか。
『お前、俺たちに着いてくる気はないか? 一緒に来てくれないか?』
 残念ながら、まともに人間と接したことがない俺はこいつが何を言っているのか理解できなかった。タネに翻訳を仰いで、その言葉をじっと脳内で繰り返した。
 俺は人間の目を見た。“鋭い目”という特性を持っている筈なのに、何故か目を逸らしてしまった。タネと人間が再会してから、俺の中でこの人間に対するイメージが全く異なってしまった。
「ちょっと……考えさせてくれ」
 答えかねる質問を弄びながら、俺は来た道を戻っていった。人間は俺を追おうとはしなかった。かなりの距離を歩き、すぐに戻るには飛ぶしかないところまで来ていた。
「タネ……?」
 だが、彼女は俺に着いてきていた。金色に染まった俺を無垢な瞳に映す。
「……」
 俺が名前を呼んでも、何も言おうとしなかった。丁度よかったから、俺は言いたいことを全て言うことにした。
「お前、あの人間に会えて嬉しかったか?」
「……はい」
 小さい声だったが、滲み出るのは明確な意志だけで曖昧さは感じ取れなかった。俺はもう一つ、最早これは言いたいことじゃなくて訊きたいこと、だな。
「あの人間、なんのためにポケモンを連れているんだ?」
 今度は返事までに少しばかり時間がかかった。やがて、タネは二回、三回と息を漏らした。
「多分、私達と仲良くなりたいんだと思います。仲良くなって、世界中の皆に幸せになってもらいたいんだと……思います」
 人間とポケモンが仲良くなることが、何故世界中のやつらの幸せにつながるのか、と疑問に思ったが、そのときあの人間の誠実そうな瞳が脳裏に浮かんだ。今なら、その瞳の奥に何があったかも断言できる。人間も、良いワタッコを仲間にしたもんだな。こーりゃまいった、降参だ。
「お前は、タネじゃねえな」
「え?」
 何であのとき、大人しくあの人間に着いていこうと思わなかったのか後悔したが、あのときの俺は人間など微塵も信じていなかったことを同時に気付いていた。
「タネはあの人間だ。いつか、ラフレシアよりもでかい花を咲かせるよ。どんな花かは知らねえけどさ」
「は、はぁ……」
 ワタッコは、俺の意味するところを理解しかねているようで、首をかしげていた。俺は、まさに俺自身が種を植えたオレンの樹の幹に寄りかかっていたあの人間を頭に思い浮かべていた。
「で、俺はあの人間さえよければそのタネが芽吹いて花になるまで手助けしてやってもいい」
 人間に着いていくことがとても楽しいものかどうかは知らないが、こいつはどう見ても楽しそうじゃないか。
「……そ、それって」
「合格だ、人間。せいぜいこの涼風を楽しませてみろっ!」
 俺はそう言い、ワタッコを掴むと颯爽と翼を動かして将来の大きな花の元へ飛んで行った。


 
> 桜井さんのお花見 作:夜月光介
桜井さんのお花見 作:夜月光介

 それは、何時もと代わり映えの無い晴れた日の事だった。
「――初心の人、ふたつの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑の心あり。この文章の中に出てくる『等閑の心』とは何か」
 僕は古淵先生の言葉を耳にしながらも、窓の外に立っている桜井さんの事が気になって仕方が無い。
 他の生徒は教室で授業を受けているけれど、桜井さんはそうする事が出来ない理由がある。
「桜井、等閑の心とは一体どういう心の事か解るか」
 灰色に近い頭髪を掻きながら片耳に付いている無線インカムに意識を集中させた先生から目を離し、教室中の視線が外にいる桜井さんに集まった。
 皆と同じ教科書を手に持っている桜井さんが何かを言っているのが解る。古淵先生は微笑みながら頷いた。
「そうだ、なおざりの心。すなわちどうでもいいと思ってしまう心の事だな。
 この文では二本の矢を持ってしまうと二本目の矢があるから大丈夫だろうと思ってしまうから、初心者の場合自分を戒める為にも二本の矢は持つなと諭しているワケだ」
 外に立っている桜井さんに皆の視線が集まる。
「流石桜井、頭良いよな」
「でも、頭でっかちとも言えるぜ。見た目もそうだけど」
 桜井さんがこの場にいない事を良い事に軽い悪口を言う者もいた。校庭に立っている彼女の事は当然他のクラスや他の学年の生徒もよく知っている。
 恐らく学校内だけでは無くこの市内で彼女を知らない人はいないだろう。誰よりも知名度がある彼女は、誰よりもまた孤独だった。

『最初はちょっとした事だったんです。でもそれが大変な事になってしまうのですから難しいですよね、人生って』
 桜井さんの言葉が脳裏をよぎる。僕は彼女の言葉を頭の中に浮かべながら彼女の境遇に関して思いを巡らせた。
 彼女が普通の人とちょっと違う様になってしまったのはこの私立桜ヶ丘明星高校に入学するずっと前。
 当時まだ幼稚園児だった頃に起こった出来事からだと彼女は言っていた。
『先生が私達に種を抜いたさくらんぼを持ってきてくれたんですよ。先生の実家から沢山送られてきたみたいで。
 でも手作業で種を抜いたと言う事は当然不手際も有り得ますから、私が運悪く種が入っていたさくらんぼを引いちゃったんですよね』
 彼女は誤って種を飲み込んでしまい、その場は何も無かったけれど数日後に髪の毛が全て桜色に染まってしまった。
 さらに数ヶ月後には頭の頂辺から芽が出てきて、あっと言う間に成長して桜の木が生えてきてしまったらしい。
『芽の段階で抜こうとしたり、成長した後に切り株にしてしまおうとか両親も色々してくれたんですけど、全部駄目でした。
 痛くて痛くてどうしようも無かったんですよ。木が生えてきた事以外は体も普通なので今はそのままにしちゃってますね』
 桜井さんが校庭にいる理由はこの大きな桜の木にある。あまりにも大きいので教室に入って授業を受ける事が出来ないのだ。
 自宅ではお父さんがお金持ちなのでとても高い天井の家を作ってもらい生活しているのだが他の場所にはそうそう入る事が出来なかった。
 他の人の家、施設、電車にも車にも乗れない。勉強は出来るが体育関係は全て見学。彼女は孤独だった――

「毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へといふ。本村、この文章を今の言葉に変換して答えてみろ」
 考えを巡らせている時に突然指名された為、僕は慌てて立ち上がった。
「ハッはい。何時も仕損じる事が無い様に、一本の矢を射つ事に集中するべきだと言う事ですよね」
「そうだ。その矢が敵に当たらないと言う事は即ち敵の矢が自分に向かって飛んでくると言う事でもある。
 何時も神経を集中させて一本の矢を射つ事に臨まなければ戦いには勝てないと言う事だな。
 それにしても本村が授業に集中していないとは珍しいな。頼むから私の授業の時でもちゃんと集中してくれよ」
 古淵先生の軽いジョークに他のクラスメイトも笑って僕を野次ってくる。
「そうだよ委員長、満開の桜井さんを見てる暇があったら先生の話を聞いてろって」
 僕は赤くなりそうな顔を必死に抑えて再び席についた。他の人達も薄々僕の気持ちに気が付いているのだ。桜井さんの事が、とても気になっていると言う事に。

 放課後、僕は何時も桜井さんと一緒に下校する。帰る道は途中で分かれるが家の前まで送る事にしていた。
「桜井さんの桜も丁度今頃が見頃だね」
「そうなんですよ。家の中で風を避けるので散らずに済んでいます。でも、満開なのはもってあと数日かもしれませんね」
 今の所風も穏やかで付近の桜も見事な花を咲かせていた。だけど、僕の目には桜井さんの桜が一番綺麗に映っている。
 でも僕は恋に関しては臆病で、今まで彼女に自分の気持ちを伝える事がどうしても出来ないでいた。
 彼女の家の前でさよならを言い、帰ろうとしたその時、後ろから声をかけられる。
「有難うございます。本村君だけですよ、私とまともに話してくれる人は。これからも仲良くしてくださいね」
 僕の頬に涙が伝い、振り向く事が出来なかった。彼女を助けてあげたい。その為に何をするべきなのか。
 僕は桜井さんと他のクラスメイトに交流を持たせる為に何か企画をしなければならないと思った。

「古淵先生、何か良いアイディアはありませんか?」
 翌日、授業が終わった後で僕は担任でもある古淵先生に桜井さんの事について話を持ちかけた。
「そうだな、私も桜井が優秀な生徒であるにも関わらず避けられているのは良くない事だと思う。
 集団の中に紛れ込んだ異分子であると認識されて避けられるのなら、いっそ異なる所を利用して混じってしまえばいいんじゃないか」
 古淵先生はそう言うと教室の壁にかけられているカレンダーに目を向けた。僕の視線もそちらへ動く。
「明後日は日曜日だな。近くに広い公園があるから桜井の花見でもしようじゃないか。
 あそこなら徒歩でも充分行ける距離だし桜井が入れない様な場所じゃ無いからな。たまにはワイワイ騒いでみるのも一興だろう」
 黒縁眼鏡と口髭が似合う先生は僕に向かってそう言うと、校庭に立っている桜井さんを見て微笑んだ。
「あんなに綺麗な桜は都会ではなかなか見れないぞ。この辺は常緑樹ばかりが植えられているからな」
 確かに彼女が他の生徒と交わる事が出来れば、今の状況を改善出来るかもしれない。
 期待に胸を膨らませ、僕は全ての授業が終わった後、帰りの会での皆の反応に期待する事にした。

 そして当日、古淵先生と僕の呼びかけによって集まったクラスメイトは全体の八割にまで達した。
 用事があって来れない者を除いてもこれだけの仲間が集まってくれたのは心強い。何処でその話を聞いたのかお祭り感覚で参加した他のクラスの生徒も数名いた。
「皆も知ってる場所だと思うが、近くの公園まで歩くぞ。蓙を敷いて飲み食いする許可は取ってあるが、あんまり騒ぎ過ぎるなよ」
 全員に釘を刺しながら先頭に立って歩き始めた先生の後を僕や今日の主役である桜井さん、そして生徒達が続いて歩く。
「桜井さんの桜も今日まで散らずに済んだね」
「本当、先生から話を伺った時には今日までずっとドキドキしてましたよ。散ったら申し訳が立たないとずっと思ってました。
 何とか満開の状態を保ってくれて良かったです。それに、皆と色々お喋り出来る機会も今までありませんでしたから……」
 桜の事も心配だっただろうけれど、桜井さんとしてはこれ程大勢の人達と行動を共にするのは初めてだろう。
 桜井さん本人や御両親に頭を下げて通った今回の企画を、僕は何としても成功させなければならないと思っていた。
『うちの娘を見世物にする様な真似は、ちょっとねぇ』
 最初に僕と先生が直にその企画の話をした時、やはり明らかに御両親は乗り気では無かった。
『でも私、皆と話せる機会が持てるのなら、そうした方が良いと思うの。
 私がこういう頭だから上手くコミュニケーションを取れないできて、初めて巡ってきたチャンスだから逃したくない!』
 彼女本人の説得により最後は折れてくれたもののそこまでこぎつけるだけで数時間はかかってしまった。
 この企画は僕と桜井さんがもっと親密になれるチャンスでもある。女生徒と笑顔で話している彼女の姿はキラキラと輝いていた。

 高校から歩いて二十分程の距離にある広々とした公園には遊具らしい遊具は殆ど置かれておらず、少し盛り上がった一面の芝生になっている。
 ベンチが何個か置かれているが僕達は芝生に蓙を敷くと桜井さんを中心にして昼食の準備を始めた。
「おい、桜井の方にも蓙敷いてやれ。座っていいからな」
 靴を脱いで蓙に座った彼女に皆が作ってきたサンドイッチが手渡される。桜井さんは授業中には出来なかった雑談を存分に楽しんでいた。
「この公園桜が全然無いから、花恵ちゃんがいると美しさが際立つねー」
「先生、今日は無礼講ですよね」
「馬鹿、酒なんか持ってきてないだろうな。酒はあくまで成人している奴が飲むもんだ」
 古淵先生はそう言いながら自分が持参した日本酒を御猪口に移すとぐいっと飲み干す。
「ホラ、桜の花びらが酒が入った御猪口に落ちて綺麗だろう。上杉謙信は一生は一杯の酒の様なものだと言ったが、まさにそんなものなのかもしれん。
 美しい桜を見ながら奴さんも一杯やったんじゃないか。ま、後で全員が片付けなきゃいかんがな」
「えー、片付けなきゃいけないんですか?」
「当たり前だ。この公園の芝生に桜の花びらが落ちたままになってたら苦情が来るぞ」
 特に大騒ぎする事も無く花見は進行していった。どちらかと言えば桜井さんとの親交を深める為の企画だったのでそれが一番なのだろう。
 僕も皆の輪の中に入って会話を続けていた。

「そういやさ、お前って桜井さんと仲良いみたいだけど付き合ってるの?」
 唐突にクラスメイトにそんな事を聞かれ、僕は面食らった。桜井さんも顔を少し赤くしている。
「いやさ、俺達も桜井さんは綺麗だなって思ってたんだよ。でも会話する機会があんまり無いじゃん。
 それでいて大人しいから全然話す事が無くなっちまったんだよ。それでも本村は一緒に帰ってたりしたろ?」
「そうそう、私達も花恵ちゃんと話す機会があんまり無いからちょっと近寄り難くなっちゃって……
 今になってみればもっと色々話しておけば良かったわ。花恵ちゃんの方は本村君の事をどう思ってるの?」
 酒が入っているワケでも無いのに突っ込んだ質問をしてくる彼等に対して、僕と桜井さんは顔を赤くして俯く事しか出来なかった。
「わ、私は本村君の事は好きですけどまだそんな所には……」
「じゃあもう公然に付き合っちゃえば?本村君もその気はあるみたいだし」
「そうだよ。いっその事カップル成立しちゃえばいいじゃん。相思相愛なら尚更さ」
 男子生徒も女子生徒も無茶な事を押し付けてくる。すっかり顔を赤くしてしまった僕は何も言う事が出来ないでいた。
「コラコラあんまり本村と桜井を虐めるな」
 古淵先生が笑いながら助け舟を出してくれた。皆虐めているワケでは無いと言い訳しながらもその話を切り上げてくれる。
「私も恋の話は嫌いじゃ無いが……覚えておけよ。恋には勇気と覚悟が必要だ。支え合いが一番大事って事もな」

 風は穏やかだったけれど、満開の桜は散り時だったらしく帰る頃には沢山の花びらが落ちてしまい、片付けも大変だった。
 自分が出したゴミだからと桜井さんは懸命に箒で掃いていたが、僕やクラスメイト、先生も一致団結して協力し何とか全ての花びらを拾い集める。
「ちょっと寒くなってきたしそろそろ帰ろう。綺麗な桜も殆ど落ちてしまったが、また来年が楽しみだ」
 公園での現地解散だった為殆どのクラスメイトはバラバラになり、古淵先生と数名の生徒と共に僕達は家路を急ぐ事にした。
「夏休みになったら高校生活最後の夏だし遠出出来ると良いな。私の息子がトラックの免許を持ってるから荷台に桜井を乗せて運べばいい」
 古淵先生は早くも次の企画を考え始めている様子だったが、僕も桜井さんも先程の話がまだ少し気になっていた。
「なぁ本村、お前は大学行くの?」
「まだ、ハッキリとは決めてないけどその為の勉強はしてるよ」
「そっか。俺は卒業したら親父が手伝ってくれって言ってるんだよ。思いっきり遊べるのも多分今年までだな」
 周りの皆も桜井さんも僕も、結局は同じだった。子供から大人になる最初の扉、それが高校を卒業すると言う事なんだろう。
 まだ僕達は子供でいれるけれど、きっと来年はこうやって花見をする事は出来ない。そう考えると少し寂しかった。
「あの、さっきの話ですけど本村君は私の事……どう思ってるんですか?」
 他の生徒と距離が遠くなったのを見計らったのか、桜井さんは僕の近くに行き小声で僕に聞いてきた。
「好きだよ。でもまだ……そうやってハッキリ言うのは照れ臭いし先生が言ってた覚悟が足りないと思ってる」
「そうですか……奇遇ですね、私もそんな感じです」
 桜井さんは微笑むと、付け足す様にこう言ってくる。
「でも、貴方の事をヨウ君って呼んでもいいですか?」
 僕は頭を掻きながら笑って頷いた。


「皆、高校最後の夏休みだ。勉強も大事だが息抜きもちゃんとしろよ。遊べる時に遊んでおけ。メリハリをちゃんと付けろ」
 季節は移り変わって夏になった。夏休み前日の帰りの会では既に僕を含め多くの生徒達が期待感を隠せない。
「それと……前々から言っていたが桜井と一緒に海を見に行こう。まだ桜井は海を見た事が無いらしいからな」
 校庭に立っている桜井さんは外に立っている為に日焼けが目立ち、美しい青葉を木に沢山茂らせていた。
 皆も僕も彼女が笑顔でいる事に喜び、窓の近くに立って彼女に見える様に大きく手を振る。
 淡い恋も僕達の最後の夏休みも始まったばかり。眩しい太陽の下で佇む彼女の姿を想像しながら、僕は彼女の笑顔に応えてまた大きく手を振った。


 
> 希望の大地 作:きとかげ 【☆】
希望の大地 作:きとかげ 【☆】

 トモコはもう泣きそうだった。トモコを取り囲む老人たちの言うことが至極もっともで、自分に非があるのだから、謝りたかった。しかし、トモコの口は「申し訳ございません」「検討いたします」のふたつしか言えないのだ。
 だがそれが事態を好転させるとは思えなかった。老人たちの雰囲気は益々険悪になっていく。誰かのヌオーでさえも、とぼけ顔なのに今にもハイドロポンプをぶっ放しそうな殺気を放っていた。

「もうあかんわ」
 老人の誰かが言った。険悪な雰囲気がふっと緩んで、その僅かな隙にもトモコは溺れている間に息継ぎが出来たような安堵を感じた。
「お嬢ちゃんでは話にならん。会社の偉い人呼んでくれんか」
 その言葉をきっかけに、また険悪さが巻き返して轟々と唸る。「そや」「社長を出せ、社長を」――轟々の合間に嗚咽が聞こえて、誰だろうと思ったらトモコだった。気付いたらせき止めるものも何もない。トモコは一張羅のスーツにボタボタ涙を落とし始めた。「泣いたらええと思たんか。それで女を寄越したんか」険のある言い方に、トモコの涙は益々止まらなくなる。言っても言い足りない老人たちが益々言葉を募らせる。――「どうせきのみぐらい、工場で作ったらええわと思てんねんやろ」「お金払ろたら終いやと思てんのやろ」
 その一々が真っ当で、トモコは居場所をどんどん追われていく気がした。いやそもそものはじめから、トモコの居場所なんてなかったのだが、風船がペシャンと空気を吐き出して居場所を明け渡すように、トモコにもそうしろと周囲の空気が迫っている気がした。
 何故だろうとトモコは思う。化粧品で有名なKという会社に入って、女では珍しく研究課でバリバリやって、いずれは自分が作った口紅で世の女たちの唇を染め上げたいと思っていた。その最初の一歩だったはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。老人たちの怒号が、重なって響きあって、わんわんとトモコの耳を潰してくる……


「ここらへんでお茶でもしませんか」
 この場にそぐわない、脳天気な声がした。ひときわ若い男の声だ。老人たちが振り返り、彼を見る。トモコと同じくらい、青年に毛が生えたような、と言っては失礼だが、そんな年頃の男性が、集会所の無味乾燥なアルミの扉を開けた所でつっ立っていた。
 テツジ! と老人のひとりが怒鳴った。テツジは村の出身者なのあろう。しかし、日焼けしていない白い顔を見るに、普段から村にいるとは考えにくかった。この折に帰ってきたのだろうか。
 災厄の折に。それを思い出して、トモコの胸は忘れかけていた罪悪感でズキズキ痛んだ。
「カントーから帰ってきたと思たら、何を脳天気に」
「あんまり彼女に言うても、どうにもなりませんよ。僕も会社勤めやし分かるのやけど」
 うなぎのぼりに上がりかけた老人の声を、テツジはのんびりした調子でやんわり下す。
「それより、彼女お茶菓子持ってきてくれはったんでしょう。折角やしいただきましょう」
 言うなり、テツジは給湯室に引っ込んでしまった。残された老人たちは、毒気を抜かれたように静まりかえってしまった。

 気まずいお三時が終わり、「補償の話はまた後日ということで」と老人たちは三々五々帰っていった。集会所にはテツジとトモコ以外、誰も残らなかった。
 急に力が抜けてきて、トモコはぐったりパイプ椅子に沈み込んだ。テツジは黙々と、並びの崩れたパイプ椅子を片付けていた。
 その半分以上を片付け終わった頃、テツジはトモコに「帰りますか」と声をかけた。村の老人たちと喋る時とは違い、訛りの感じられない話し方だった。トモコは黙って頷き、立ち上がった。さして高くないヒールがガクガク震えた。
「大丈夫ですか」と差し伸べられた手を断って、トモコはひとりで立ち上がった。何とか歩けそうだった。
「送っていきますよ。ポケセンですか?」
 宿を尋ねた彼に頷いて、トモコは歩き出した。彼がさっと前に立って扉を開けてくれた。

 途端、深呼吸しているような春の空気が、トモコにどっとぶつかってきた。
 トモコは集会所の冷たい壁で体を支えた。彼が集会所の扉を閉めている。テツジは立ち止まったままのトモコの視線を探って、ああ、と納得したように声を上げた。

 村の中心を貫いて控えめな川が流れている。その川を避けて道が伸び、あちらこちらで交差しては、地を区切って果てまで伸びていく。道の白みたいな黄土色が区切る中には、

 何もなかった。完膚なきまでに、何もなかった。

 黒っぽい土なら存在するが、それだけでは何もないのと同じなのだ。何もない土の黒茶と、川の色と、農道の黄土色が、地の果てまで続いている。草一本ない。コラッタ一匹いない。
 それが、今のこの農村の姿だった。この農村にやってきた春は、紛れもなく沈黙していた。


 数日間、村のポケセンに泊まりっきりで、トモコは村の老人たちの相手をし続けた。
 補償金の話を何度もした。それが何年分の補償になるかという話を、何度も何度もした。新しい住居の話もした。そこに何年住む見通しになるかという話になると、いつも紛糾して、決裂して終わった。
 けれど、いつもいつも同じ所に立ち返ってくるのだ。
「仮にお金で済ますとしましょう」
「いつまでも給水車に来てもらうわけにもいかへんし、村も出るとしてですよ」
「畑を何年も放っておいたら、どないなりますか……」
 トモコが村にいた最後の二日間、老人たちも怒鳴る元気が失せてきたらしく、小さな声で祈るようにポツポツと喋るようになっていた。その祈りは誰に届くのか。きっと届かないだろう。老人たちがそこまで考えているようで、トモコはやるせなかった。
 最後の日、老人たちを集会所から見送って、トモコは中に戻った。老人たちの背中は、すっかり萎んだように見えた。トモコもすっかり、疲れ切っていた。パイプ椅子に腰を下ろすと、西日が直接入る窓から外を見た。何も決まらなかったという話を、会社に持って帰らなければならない。会社の人たちは、この惨状を見たら何か動いてくれるだろうか……
「もう、お帰りですか」
 テツジがトモコに声を掛けた。彼はいつも、集会所の隅で静かに座っていた。
「ええ」
 上の空でトモコは答える。窓枠に手をかけて立ち上がる。テツジが扉を開けて待っていた。
「送っていきますよ。ポケセンですか」
「いえ」
 もう列車で帰るんです、とトモコは蚊の鳴くような声で答えた。テツジは黙って頷いた。

 夕焼けに染まった村は、虚しかった。今頃は旬の来た作物が西日を跳ね返していただろうと思うと、ただただやるせなかった。トモコがどれだけ矢面に立っても、農村の人の心が氷河期の氷のその向こうよりも届きっこないと絶対に分かっているのが、腹立たしかった。
 こんな時でなければ、いい村だったろうに、というトモコの胸中はひょっとすると漏れていたのか。
「僕が帰る前はもっと綺麗でしたよ。果樹園にぱっと日が当たって、葉っぱが光って。木にひとつずつきのみが生ってて、太陽に照らされているのをひとつずつ、葉っぱの陰から見つけていくんですよ」
 テツジはく、と言葉を呑み込んだ。嫌味ではなかった。トモコは続きを聞きたかった。
「その時の光景、トモコさんにも見せてあげたかったなあ」
 トモコは暇を告げた。

 列車の窓からも、裸になった大地が見えた。それが切れてこちゃこちゃした街並みになるまで、トモコはずっと窓の外を見つめていた。ふと見ると、集会所の窓枠にかけた指が汚れていた。



 Xデーは突然やってきた。
 朝の水撒きを済ませ、朝餉を食べて畑に戻ると、農村の人々はすぐ異変に気付いた。
 果樹が見る見る内に枯れていくのだ。
 まるで、焚き木にでもされたかのようだった。まず葉がチリチリとなって焦げ落ち、次いで幹が小枝のようにパッキリ折れた。残った幹を引くと、根が音もなく千切れた。ちょうど実りであったクラボやチーゴは、ゴルバットに根こそぎ吸われたみたいに干からびていた。燃え滓を突いたかのように、果樹園はボロボロ崩れていった。
 誰かが走って隣の畑まで行った。そこでも同じことが起こっていた。その隣も、その隣も。やがて被害が村全域に広がっていると知れ渡った時、村人たちの目は川の上流に向いた。そこには、数年前に出来た化粧品の工場がある。村人は一致してあれが犯人だと決めつけた。そして、それは間違ってはいなかった。工場が、確かに毒水を流していたのだ。村人は工場に乗り込み、どうにか畑を元に戻してくれと嘆願した。
 工場の側は、過失は認めた。けれど、
「すぐに元に戻してくれ、っていうのは無理ですね」
 いつまでかかるんだ、と問うと、
「そうですねえ。安全基準を下回るまでなら、十年ぐらいは」
 老人たちの声が、ブウンと工場を震わせた。まるで地獄の亡者が反乱を起こしたようだ、と工場長は言ったそうだ。

 工場と村民では収拾がつかない。話は会社に上がり、代表として村に送られることになったのがトモコだった。
「はあ」とトモコはため息をついた。会社のあるタマムシには、いくらでもため息のつける居酒屋がごまんとある。そのひとつに入り浸って、さてどうしようか、どうすればいいかと当てのない考え事をしていた。
 いや、トモコにはまるっきり当てがないわけではなかった。しかし、その当てをどうするか、会社にどう話すかと思うと、また気が滅入った。
「はあ」とトモコは何度目かのため息をついた。村から戻ってからの、会社でのやりとりを思い返す度に胃が締め上げられた。結局、トモコがやったことはないも同然で、会社はただ体裁の為にトモコを送り込んだのだ。報告をした時の上司の態度は、石にでも話しているのかと思われる程凝り固まっていた。
「補償金は十年では足りないかと」
「十年もあれば新しい生活基盤も出来る。不要だ」
「補償金の見積もりが低すぎます」
「そんなもんだ。今時きのみなんて工場で出来る」
「早急に」
 トモコはここで力を入れた。
「汚染の除去に着手し、数年内に村に戻れるようにと」
「要らん」
 上司ははっきり言った。
「何故ですか」
「要らんものは要らん」
「理由を言わないと先方も納得してくれません!」
 トモコの言葉の最後の方は、ほとんど悲鳴になっていた。出来る限り早く村に戻り、畑を作ること。それが彼らの一番の望みなのに。
「会社にそんな義務はない」
 上司はその後も何やら言っていたが、トモコの耳には入らなかった。拒否された。それだけで十分だった。

 トモコは次の朝早くに出社した。
 自分の席に行き、サンプルを眺めた。K会社の研究課で唯一女だった自分の席。女性が職に就くのが珍しくないとは言え、やはり上の方は男性が多いし、それ故の気苦労もある。トモコの場合、研究課に女性がいないから余計に、だったかもしれない。村に事件が起こったのはトモコの提案した商品をラインに乗せた直後で、トモコに矢面に立てと言っているようなタイミングだった。「でも、それじゃ言い訳ね」とトモコは自嘲した。
 トモコは机を片付け、課長に辞表を出すと、他の社員が来る前にさっさと会社を去って行った。まずは旧友に会いに行く。まずはそこからだ。


「どないしたんですか、トモコさん」
 村で一番に出会ったのは、あれから少し日焼けしたテツジだった。これくらいの僥倖はあってもいい、とトモコは思った。これからどうせ、針の筵なのだから。
「実は、毒を取り除く方法を考えて」
「それなら、村の人呼んできましょうか?」
 踵を返したテツジを慌てて引き止めた。確証のない方法だ。村人の期待をかき立てて失望させたくない。それに、そんなことになったら、失点が大きい。村から追い出されれば、もうこの方法を試すことすら出来ない。
「薄い望みなんです。でもよければ、内輪で話だけでもさせてもらえませんか」
 テツジは、それならうちの家で、うちの家族と、と言って承知してくれた。しかし、実際行ってみると、かなりの人が集まっていた。
「なんや、姉ちゃんが会社と掛け合うて、毒を取り除く方法を持ってきてくれたんやと」
 まず、この誤解を解く所から始めなければならなかった。

「すぐに治らへんのやったらええわ」と、数人がさっさと家を辞した。それで既に、トモコは家がずいぶん広くなったように思えた。障子を開け放った木造屋は集会所よりは確かに広いのだが、それにしても妙に、スカスカ隙間風が吹き荒んでいるような感じがする。
「村を出て行った人が多いんですよ」とテツジが耳打ちした。
「会社が家用意する言うたはるけど、待てへん言うて」
 トモコは黙って頷くしかなかった。調査によると、工場の毒水は植物に有害で、多量に飲まなければ人体に影響はない、ということだったが、避けるのが人情というものだ。大体、調査だって怪しい、とトモコは思った。
「それで、取り除けるかもしれん方法とは、何です?」
 他の出席者に促されて、トモコは話を続けた。

「シェイミ、というポケモンがいるらしいんです。そのポケモンなら、毒を取り除けるかもしれないんです。……」


 話が終わる頃には、家にはテツジの家族と、あともう二家族しか残っていなかった。予想していたとはいえ、やはり胸が苦しかった。家が無闇に広く感じられるのも、今はありがたくなかった。
「それで、姉ちゃんは」
 テツジの肉親でない方の、老夫婦の夫の方が言った。
「つまり、こういうことか? そのいるか分からんシェイミというポケモンを呼び寄せる為に、畑を潰して花畑にしろと、そういうことやな?」
 全くその通りなので、トモコはそうですと蚊の鳴くような声で答えた。
「あほらし。おまけにそのシェイミがほんまに毒を除けるかどうかも分からんのやな?」
 また険悪になってきた夫を、「そこまで言わんと」と妻がたしなめた。トモコはただひたすら頭を下げていた。夫はまだ言い足りないらしく、トモコにさらに畳みかけた。
「そのグラなんちゃらを育てるのは、わしらの仕事か? 姉ちゃんや姉ちゃんの会社の人はしはらへんな、そんなこと」
「私がやります」
 はっきり、出来るだけ大きな声でトモコは言った。そのつもりだったが、トモコの声は老人に押し負けそうな勢いのない声だった。でも、トモコは続けた。
「どのみち、ここには住めなくなります。私は通いでも何でも残って、やり続けます」
「勝手にせい」
 老人はそう言って席を立った。ごめんなさいね、と頭を下げながら老いた妻がその後を追った。と、引き返してきてトモコにこう言った。
「すいませんね。もう何植えても育たへんものやから、気も腐ってるのよ。私らも疎開するから手伝えません」
 そして、目を宙に惑わせ、少し首を捻ってからこう付け加えた。
「うちの畑で良ければ、使ってください。でもさっき言うた通り、何にも育ちません。お花が育つまでに、また長いこと掛かると思うわ」
 そう言って、老婆は辞去した。

 トモコは老婆が去った方を、長いこと見つめていた。これで畑を使う許可が下りた、という喜びよりも、何だか訳の分からない悲しみの方が勝っていた。この悲しみはどこから来るのだろう、と思っている内に、テツジの家族以外でもうひとり残っていた老婆が腰を上げた。老婆は家の中でもヌオーを連れていた。
「ありがとうさん。面白い夢物語やったわ」
 その嫌味を言う為に残っていたとしか思えなかった。
 けれど、耐えなければならない。どうせ針の筵だ、とトモコは自分に言い聞かせた。そして、先の畑を使うのを許可した老婆が去って行った時と同じように、トモコは暗がりをじと見つめていた。

「さて」
 沈黙を破ったのは、テツジの父だった。他の老人連よりいくらか若い。年が近い分やりやすそうだと思ったのは一瞬で、彼は彼の世代の理論で来るに違いないと、トモコはまた気を持ち直さなければならなかった。
「ああは言ったけれど、ほんまにやりはるんですか」
「は、はい」
「ほんまにやりはるんですか」
「はい」
 思っていた質問ではなく、ただの確認が来たので戸惑う。トモコはやります、と答えながらも、テツジの父の疲れたような声が気に掛かった。そして、彼はこう言った。
「……やめなさい。農業はきついですよ。都会から出た娘さんに出来ることじゃない」
 テツジの父は、長く長く息を吐いた。
 慮っているのだ、とトモコは気付いた。これから、他人の畑を長く使うことになる。成果は出るかどうか分からない。グラシデアの種子を譲ってくれた旧友の言葉以外にはヒントもない。風当たりは強い。
 どうせ、途中で逃げるに決まっている。そう思われている。
 逃げません、と声を大にして言いたかった。しかし、果たして成し遂げられるかどうか、今のトモコにも自信がなかった。
「やめんでいい」
 はっとトモコは顔を上げた。テツジがいつの間にか隣にいて、父親と対峙していた。
「俺も手伝う。それでええやろ?」
 有無を言わせぬ調子でテツジが言った。しかし、テツジの父は疲れ切ったような声でこう答えた。
「好きにしなさい。……投げ出しても、責め立てたりしませんから」
 母さん、晩飯、と言いながらテツジの父は立ち上がり、障子で見えない向こうへフラフラ歩いて行った。トモコは気付いた。諦めているのだ。彼も、あの老夫婦も。
「飯、食うてく?」
 気遣うようなテツジの台詞は断って、トモコはまだ辛うじて開いているポケセンへ戻った。


 トモコが農作業を始めるのは、梅雨が明けてからになった。
「梅雨の雨で流したら、ちょっとは毒も薄まるかもしれん」とテツジが言ったのだ。本当は、村人たちの疎開が終わったらすぐにでも取り掛かろうと思っていたのだが、テツジにも一理あるのでトモコは引き下がった。それに、グラシデアはどんな気候で育つか、まだよく分かっていないのだ。梅雨みたいな特異な時節に植えるのは、どうにもまずい気がした。それに、どちらにせよ、疎開後でひと気がなくなってからなら構わなかった。好奇の目や罵倒に晒されて続けていく勇気は、どう見てもトモコにはなかった。
 ともかく、梅雨明けの雷が鳴った次の日から、トモコはグラシデアを育てることに決めた。

「なあ、長靴持ってる?」
 軍手にTシャツ、ジーンズ、スニーカーという格好で畑に降りようとしたトモコを、テツジが呼び止めた。
 集団疎開が終わって、トモコたちも移るよう言われたのだが、こうして我を張って残っている。トモコたちのように残っている人は少なかった。ポケセンも閉鎖だと言うし、これからは不便になる。今は無理を言って駅の詰所を借りているが、そろそろバラックでも建てねばなるまい。
 さて長靴である。
「持ってるよ?」
 言い終えてすぐ、自分が恐ろしく訛っていることに気が付いた。朱に交じったらしい。テツジはと言うと、自分の予想外のことが来た時の癖で、戸惑いを隠す為に後ろ頭をガリガリ掻いていた。
「そうじゃなくて」テツジは言い淀む。
「特別長靴というか、……えー、毒ポケモン育てる時に使うような、防毒のごついやつ。一応履いといた方がええと思て」
「本当? 軍手もそうした方がいい?」
 ああ、訛っている。イントネーションがどうもテツジ寄りになってしまう。
 テツジはコクコク頷きながら、母屋に入った。そして、程なく長靴を二足と軍手を一組持って現れた。
「あ、そうだ!」とトモコが叫んだ。
「グラシデアの種子は、まずポットに入れて育てるんだって。……ポットってある?」
「プランターならある」
「プランターかなあ?」
「鉢植えもある。ようけある」
「ポットって言われたんだけど」
 素人二人の船出は、不安材料に事欠かないようであった。

 ポットは畑を使っていいと言ってくれた老夫婦の家で見つけた。ありがたく使わせてもらう。黒い紙コップみたいな頼りないポットに畑の土を入れ、指先で穴を空け、大きめの砂粒みたいなグラシデアの種子を入れていく。トモコが連れているムウマにも手伝ってもらったが、いっかな役に立たなかった。テツジもポケモンを持っているようだが、「こういう仕事には向かないから」と言って出さなかった。やっている途中で日が暮れた。用水路から引いた水をぱっと撒き、続きは明日早くからということになった。
 夕餉はテツジの家で食べた。冷蔵庫に残った食材を使ってトモコが作った。簡単な食事だが、テツジは旨いと言って食べた。
「なあ、あれで良かったん?」
 夕餉の最中、テツジが尋ねる。トモコが「何が?」と聞き返すと、テツジは箸を止めて考えをまとめた。
「あれ、畑の土も川の水もそのままやろ。毒であかんようならんかなあ、って」
 トモコは白米を口に運びつつ、答えを考えた。旧友はグラシデアの種子をトモコに譲る時、色々言っていたっけ。
「毒は大丈夫なんだって」
 聞いているテツジの目が、思いがけず見開かれた。それでトモコはちょっと驚いてしまった。トモコもそれを旧友から聞いた時、驚いたのだけれど。
「他の植物が生えないような荒地でも、グラシデアだけは咲いて花畑になったっていう伝承があるんだって」
 旧友の受け売りなのだが、テツジが感心したように頷くのを見て、トモコは嬉しくなった。持つべきものは「クズみたいな種子やけど」と言いつつ後払いの約束で種子を大量に譲り、ついでに知識も惜しまず披露してくれる友だ。
「ただ」と言いかけてトモコは素早く算盤を弾いた。予想はしていたけれどやっぱり悪いことと、予想だにしてなくてやっぱり悪いことと、どちらを先に言うべきか。
 算盤勘定より、トモコの心情が勝った。予想できるけれど悪いことを先に言うことにした。
「ここらへんの気候だと育てるのは大変だろうって。南国でも北国でも育つ時は育つけど、どれが育つか野生種は分からない、って」
「園芸種は?」
 打てば響く鐘のようにテツジが返した。見ると、もうテツジの膳は空になっている。もっと作れば良かった、とトモコは後悔した。と同時に頭の中では友人から得た知識をまとめている。
 この地方では馴染みが薄いが、グラシデアはよく花屋に出回っている。当然、園芸用の品種もたくさんある。だが、
「園芸種は、そもそもビニールハウスの中で育てるからシェイミが寄ってこない」
「そうか」
 とはいえ、人の手による園芸種なら育てやすいだろう。友人から貰った中にもあるし、トモコも花屋を回って種子を買い求めた。
 気候が合いさえすれば、あるいは。
「おかわりない?」とテツジが尋ねた。トモコはいそいそとご飯をよそった。


 次の日、トモコは太陽も昇らない時間にテツジに叩き起こされた。
「まだ始発も来てないのに」
「そんなん待っとったら日ぃ暮れるがな」
 駅舎にトモコを置いて、テツジはさっさと畑に行ってしまった。トモコもさっさと起き上がろうとして、
「痛っ」
 腰に激痛が走った。これが筋肉痛だとばかり、足も棒のようになって動かない。トモコは固まった足腰をなだめすかし騙し騙し、テツジの畑の方へ向かった。杖がいるかもしれない、とトモコは真剣に考えた。

 黄土色の道を行く。どの家の畑も、相変わらず草一本見えなかった。毒を減らすのに十年。そう会社が言っていたのなら、本当は倍の二十年かかるだろう。そのまた倍の四十年ということも考慮に入れなければならない。見る見る内に植物を枯らしてしまえる毒が、そう簡単に薄まるとは思えないのだ。そう考えると、足元の防毒ブーツが急に得難い友人のように思われてきた。防毒の軍手も。グラシデアはいいかもしれないが、自分たちの方が先に参るかもしれない。ふと、トモコは腹に爆弾を抱えているような気がした。
 川のずっと上流に行ったのだろう、水汲みの桶を抱えたサイドンとすれ違ってなお歩き続け、やっとのことでグラシデアの畑についた。見れば、誰かいる。テツジかと思ったが、明らかに体躯が小さ過ぎる。
「何してるんですか!」
 思いがけず腹の底から出た大声に、人影はビクリと竦んでこちらを見た。ほっかむりの下のしわくちゃの顔は、見覚えのある人のものだった。グラシデアの話をした日、居残って嫌味を言った老婆だ。ヌオーは連れていなかったが。
 老婆はトモコを認めると、さっと立ち上がってさっと消えて行った。本物の山ん婆みたいな身のこなしだった。
 遅れてテツジが、彼のポケモンらしい紫の巨大サソリを連れてやってきた。トモコがさっきのことを訴えると、テツジは困ったように「ああ、そう」と言葉を濁した。
「多分、気になって来たんやと思うで。育ったらやっぱり嬉しいもんやし」
 そんなこと、私は泥棒かと思ったのに。けれど、口に出さなかった。トモコと違ってテツジはこの村の人なのだ。この村のことを承知しているのは、トモコよりテツジなのだ。
「今日もがんばろか。まだ種子もようけあるやろ」
 二人は黙々と作業した。次の日も、その次の日も、二人はグラシデアの種子を蒔き続けた。
 芽吹きますように。育ちますように。花が咲きますように。トモコは種子を蒔く度、祈り続けた。

 太陽は日に日に熱さを増すようだった。大地の焦茶色は太陽が焦がす所為だろうかとトモコは思った。
 大分生活にも慣れてきた。体はまだ辛いし、男のテツジの作業量には全く敵わない。しかし、朝起きて水撒き、テツジは水汲み、トモコは食事と用意と週一で町に出て買い出し、という生活のリズムが馴染んできたのを感じる。それが何故か嬉しかった。
 グラシデアの鉢は、まだ何の変化も見せなかった。暑さにやられたのか、毒にやられたのか。グラシデアは一部を除けば、寒さに強い品種の方が多い。秋蒔きにすべきだったか、いやそれとも、と迷っている内に、第一弾が姿を見せた。
 見つけたのはテツジでもトモコでもなく、村に残っていたお爺さんだった。テツジが「ヤマノの爺ちゃん」と呼ぶこの人は専ら山野で採集の暮らしをしているそうだ。採集に便利なのだろう、ジグザグマを三匹連れたその爺ちゃんが興味深い話を教えてくれた。
「そういえば、向こうのお山にも一時グラシデアの花畑があったなあ」
「どこですか、それ?」
 意気込んで聞いてみれば、爺ちゃんの若い自分、まだ十八か十九の時だと言う。爺ちゃんはまた山野に行ってしまった。その後を追うジグザグマたちは、揃いも揃って真っ直ぐ走っていた。
 あの花畑は残ってないだろうなあ、とテツジと二人、ちょっとがっかりして、それから笑った。
 グラシデアの芽生えはありふれた双葉だった。カイワレみたいなヒョロヒョロで、これからちゃんと育つか、心配になってしまった。
「それよか、まだ芽ぇ出てない奴の方が心配やな」
 夕餉の席で、テツジがポツリと呟いた。いよいよ暑さでやられたんかもしれん、と言う。
「まだ諦めるのは早いわ。一番の芽かて今日出たばっかやねんから」
「そやな。畑も最初育てんの大変やったって、親父が言うとった」
 おかわり、と言ってテツジが笑う。テツジを元気付けたつもりが、何だか自分まで元気付けられた気がした。

 テツジの心配は杞憂で、グラシデアの種子はその日をきっかけに、タガが外れたかのように次々と芽吹きはじめた。最初の方に芽吹いた種子も、ぐんぐん伸び始めている。カイワレみたいだと思った双葉はすぐ消え失せて、広い葉を次々と付け始めた。この頃にはもうトモコは駅の詰所から畑を借りた老夫婦の家に住まいを移しており、朝となく夕となくグラシデアの苗を見て回っていた。
 だから、真っ先に気付いたのだ。
「ちょっと!」
 トモコの声はいつの間にか、よく通るようになっていた。大声で咎められて、グラシデアを植えたポットにしゃがみ込んでいた人間が、慌てて顔を上げた。
 また、あの老婆だった。
「何してるんですか!」
 トモコには答えず、老婆はさっと逃げ失せた。トモコは慌てて老婆がしゃがみ込んでいた辺りに駆け寄った。
 ああ、と嗚咽とため息がないまぜになった空気が漏れた。焦茶をバックに、背丈を伸ばしていた若い緑が横倒しになっていた。黒いポットも転がっている。トモコは苗を立て、軍手で土をかいて畑に埋め直した。だめだろうな、という予感がした。

 水汲みから戻ってきたテツジに訴えると、テツジは暫く何事かを言い淀んで腐っていた。
 しかし、グラシデアの苗をいつになくクサクサした気持ちで見て回るトモコを見て決心がついたのか、口火を切った。
「あのマキノの婆ちゃんが言うててんけども」
 マキノ、というらしい。テツジは「えー」と不器用な間を置いた。
「そろそろ植え換えなあかん、と」
「植え換え、って?」
 テツジは頭の後ろをバリバリ掻いた。予想外のことが来て困った時の癖だ。
「せやから、もう畑の土にじかっぽに植えな、植物の根っこももう、ポットの中やと狭いから」
 あーっ、とトモコは声を上げた。トモコの目が真ん丸になっていた。植え換え。そういえば言われていたのに。
 慌ててスコップを母屋から探し当てた。テツジの教授を聞きつつ、十五センチになる苗をどんどん植え替えていく。作業の途中で、トモコは「もしかして」とテツジに聞いた。
「マキノさん、植え換えようとしてたの?」
「うん、そう」
 トモコは恥ずかしさで真っ赤になっていただろう。テツジは可笑しそうにしながらグラシデアの植え換えを続けていた。
 次の日、植え換えでしゃがみ続けて腰が辛いのを押して畑に行くと、テツジがずるをしていた。
 彼のポケモン、巨大サソリが巨大なハサミを使ってざっくばらんに地面にボコボコ穴を空けていたのだ。テツジは巨大サソリが穿った穴にグラシデアの苗を入れるだけ。
「横着やわ」と思わずトモコが言うと、テツジは笑って、農村に生きる人の知恵だと言った。
「ポケモンに頼めるとこは頼む。これ必須、な。ほんまは地面タイプとか水タイプの方がええねんけど」
「そういえばこの子、なんていうポケモンなん?」
 トモコが首を傾げて尋ねる。紫色の巨大サソリは紡錘形を数珠状に繋いだような姿をしている。サソリでなければ、柔軟性を手に入れたクレーンか、さもなくば戦車に見える。
「ドラピオン。サソリのポケモンや」
 なんだ、第一印象で合ってたんじゃないかとトモコは思った。ドラピオンのドラはグラシデアを巧みに避けつつ、植え換え用の穴を穿っていた。
「タイプは何やと思う?」
 植え換えをするテツジが、意地悪そうにニヤリと笑う。はじめて見る表情だった。
「何だろう」
 問題にするぐらいだから、難しいのだろう。テツジの言葉から地面でも水でもないらしいが、畑仕事を意気揚々と手伝っているから、次点の岩あたり。あとサソリだから虫だろうか。
「虫・岩」
「ハズレ、毒・悪でした」
「分からへんわ」
 トモコがそう言うと、テツジは何故か満面の笑みになった。
 ちまちまと穴を掘っていて、気付く。なるほど、毒タイプだから平気でこの畑にも出せるのだ。
 でも、例の毒水の内訳を知っているトモコとしては、少し落ち着かなかった。


 グラシデアは、そこが不毛の大地だとは思えない程順調に育った。全部が芽吹いたわけではなく、間引きや途中で枯れたのもあって、育ったのは最初に蒔いた種子の一割ぐらいしかない。それでも、最初でこんだけ育つんならグラシデアは丈夫な植物やとテツジは喜んでいた。
 一度、テツジの両親から連絡があったらしい。帰れるなら帰って畑を耕したいと言っていたそうだ。しかし、水が心配だ。テツジの両親はポケモンを連れていないから、上流まで水を汲みに行くのは骨になると言っていた。らしい。
 それと、訴訟の準備を始めたこと。その為、補償金の受け取りは拒否することにしたとも言っていたそうだ。予想できたこととはいえ、胸が痛んだ。テツジの両親はよくしてくれているが、自分は所詮よそ者なのだ。普段は人の少ない所にいるから分かりづらいだけで。
 もし、グラシデアがこのまま順調に育たなかったら、どうなるだろうとトモコは思った。他人の畑を実験台にして荒らすだけ荒らし、そのまま去って行った女とでも記憶されるだろうか。グラシデアが育っても、シェイミが来なかったら。シェイミが来ても、この地の毒を消せなかったら。
 トモコは早めに眠ることにした。悪い考えは凶事を引き寄せる。床に入るとムウマも寄り添ってきた。実体のないポケモンだと、こんな時抱けなくて不便ねと思いながら、間もなく夢のない眠りの中へ引き込まれていった。

 それから何日かして、風の強い日があった。雨戸を立てても家の外は夜中轟々唸り続けで、トモコは今日の風はずいぶん強いのだなと思った。
 次の朝、外は台風一過とはこのことだと言わんばかりの晴天がトモコを出迎えた。あるいは、本当に台風だったのかもしれない。大型はトモコたちの居場所を逸れ続けているが、小型がふとした弾みでこちらに寄ったのかもしれない。トモコは朝の水撒きに向かった。
 畑に近付くと、テツジが両手を振りながら駆け寄ってくる。
「トモコ、トモコ!」とずいぶんな慌てようだ。「とりあえずこっち来て」
 鷹揚なテツジのことである。これは只事ではないと、トモコも走って畑の中心部に向かった。そして、惨事を知った。
 まるで巨人が踏み荒らしていったようだった。みずみずしく、たくましく育っていたグラシデアたちは巨人のひと踏みで残らずやられていた。天に向かって伸びていた葉が、茎が、今は泥に塗れていた。テツジが黒いポットを集めていた。芽吹く見込みがなくて、もう中身を空けたものだったが、それでも隣の畑にまで飛んで散らばっているのは、ただ酷かった。
 トモコは指先で倒れた茎をつまんだ。地面に立てて、離す。また倒れた。あの苗も、この苗も、全部巨人が持って行ってしまった。
「テツジ」
 もう何も分からなくなって、トモコはただ名前を呼んだ。慰めてほしいのか、次善の案を考えてほしいのか、今はよく分からなかった。テツジはまだポットを拾い集めていた。彼の顔がこっちを向いた。

 ――きゅ、きゅうん。

 不意に、晴空に声が響いた。微かな声だが、トモコは聞き逃さなかった。
 空を仰ぐ。
 青一色の中に、ぽつねんと、見慣れない白っぽいポケモンがいた。
「シェイミ?」
 トモコが呟くと、白っぽいポケモンはクルリと空中で方向転換した。もう一度きゅうんと鳴いて、それがトモコにはイエスと言っているように聞こえた。
「シェイミ? 待って、待って!」
 シェイミらしきポケモンは、空に吸い込まれるように見えなくなった。テツジが「いたか」と言いながら駆け寄ってくる。
「いた。シェイミだった。でも、待ってくれなかった」
 テツジはちょっと躊躇してから、トモコの肩に手を置いた。
「シェイミじゃなかったんかもしれん。遠かったし、薄情やし」
 言われてみれば、確かに遠かったし、トモコはシェイミの正確な姿も知らない。台風のショックから持ち直すと、あれは鳥ポケモンの見間違いという気がしてきた。
「ありがとう、ちょっと落ち着いたわ」
 そやなあ、とテツジは言う。
「それから、これからどうするか考えよか」


「もう、やめへんか」
 台風後の後片付けをして、夕餉を食べている時だった。テツジの、いかにもテツジらしからぬ物言いに、トモコは思わず笑ってしまった。
「何をやめるの。お夕飯、もう作らんかったらテツジが困るのやない?」
「そやなくて」
 テツジが苛ついた調子で言った。
「トモコ、もうグラシデア育てんの、やめにせんか」
 突拍子もない通告だった。トモコは、何故それがテツジの口から出るのかが分からなかった。
「仕事はええんか」
 トモコに相槌も打たせず、テツジは言う。トモコが「そっちこそどうなん」と言うと、痛い所に刺さったらしく、テツジは顔をしかめた。
「トモコの仕事の方が大変やろう。難しそうやし。ずっとも休んでられへんやろ」
「もう辞めたよ。とっくの昔に」
 そうか、とテツジがぼやいた。今日は珍しく箸が進んでいない。変な味のものなんて作っていないはずだ。
「続けるよ」
 トモコはそう言って、ご飯をつつき始めた。暫くしてから膳を見る。やはりテツジの箸は進んでいなかった。
「親父とお袋が、秋口にこっちに戻るらしい」
 やっと漬物をつついたテツジが、ポツリと呟いた。水はドラピオンが汲むのだろうか。
「良かったね」とトモコは言った。
「せやから、無理して畑仕事せんでもいいよ。親父もお袋も乗り気やし」
「そんな」
「僕も続けるし」
 明らかにテツジの様子がおかしい。トモコはやっと気付くと、テツジの注意を引くように乱暴に椀を置いた。
 けれど、言葉が出てこない。
「すまんかった」
 結局テツジがそう言って、白米をかき込んだ。
 明日から、グラシデアの世話をすることは出来ない。


 トモコは秋蒔きに向けて、グラシデアの種子を探し始めた。しかし、花屋によっては扱っていなかったり、扱っていても高価だったりした。旧友の方も、秋の分は用意できないと連絡があった。グラシデアは秋から冬にかけて育てるのが主なのだそうだ。
 ならば、と大きな花屋に掛け合って大口の予約を入れてもらった。旧友に貰った種子も、春に使わなかったのがまだ半分程残っている。生育に向かない夏でもあれだけ育ったのだ、秋ならもっと育つ、と根拠の薄い自信を抱いていた。
 そして、シェイミについても調べた。こちらは全く収穫がなかった。スケッチを見ると、うさんくさい緑の毛玉のようなポケモンらしい。伝承はかなり多いのに目撃数になると極端に減る。シェイミが暮らすグラシデアの花畑の目撃例がまず少なく、花畑があってもシェイミが姿を現すとは限らない。幻のポケモンと銘打っている本もあって、そんなものかとひとまず得心した。

 台風の季節の終息を見計らって、村に戻った。ずいぶんと人が戻ってきていた。

 グラシデアが強毒の地でも育ったという噂を聞いて戻ったものらしい。その全員が自分のポケモンを連れていて、水汲みのことがどうしてもネックになるのだとトモコは思った。
 トモコが家を借りている老夫婦は戻ってこなかった。あちらも事情があるのだろう。また暫く、宿を借りることにした。

 日々は順調に過ぎていった。グラシデアの種子を植えるのも、少しだけ手際が良くなった。村に戻った人たちにグラシデアの育て方を教えながら作業する。種子の総数は、村民が自前で持ってきたものも含めて、中々馬鹿にならない数になっていた。それもすぐに植え終えてしまった。
 防毒ブーツや軍手が足りないだのといったトラブルはあったが、概ね順調に進んでいる、とトモコは思った。夏に植えた時が嘘のように、秋蒔きの種子はさっさと芽を出した。前程の感慨はないな、と思いつつ、トモコは安堵半分、失敗するかもという予想と諦め半分で畑を見ていた。
 そして、その視界の隅にはいつもテツジがいた。

「土地が戻らんかったら、グラシデアの農家に転職しよか」
 日々伸びていく緑を見ながら、誰かが冗談半分に言った。夕日に照らされる畑は、少しだけ荒野ではなくなっていた。
「せやけど腰きついで」
 誰かが答えた。数ヶ月畑から離れただけで、老人たちの筋力はずいぶん衰えたものと見えた。
「しかし、きのみは育たへんしなあ」
「毒が消えたらまた育てよか」
 老人たちが言う。ふと思い出したことがあって、トモコは彼らの会話に口を挟んだ。
「どっちにしろ、大変みたいですよ。グラシデアを育てると土地が痩せるみたいで」
 そんなん、オレンでも何でも一緒やわ、という人と、あんまり痩せても肥料代が馬鹿にならんな、という人に別れた。きのみ畑にするには何が大変なんや、と村人が聞く。
「グラシデアは他の植物を育ちにくくする性質があるらしくて、すぐに変えてもよう育たんらしいのです。土地を休ませた方がいいらしくて」
 彼らはトモコの講釈を熱心に聞いていた。そのままグラシデアの質問が続いて、どの肥料の割合が多いのかとか、どの品種が村に向いているかとか、トモコが答えられなくなってきた辺りで、村人のひとりが片手を上げた。
「テツジ、そんなとこで何やってんのや」
 トモコはぱっと振り返った。暗がりにドラピオンを連れたテツジが立っていた。暗くて表情は見えない。テツジはしどろもどろで何か言うと、ドラピオンをボールに戻して家へ駆けていってしまった。
 反射的にトモコも駆け出した。グラシデアの苗を蹴飛ばさないよう、ムウマを出して暗闇を照らしてもらう。ぎりぎり、テツジが玄関に入る前に捕まえた。テツジはトモコを振りほどこうとして、困った顔をした。
「なんで逃げるん」
「なんでって」
 テツジはまた口ごもった。トモコは黙って、テツジが逃げないよう、見張っていた。いざとなったらムウマに黒い眼差しを頼もうか、とさえ考えていた。
 たっぷり十分は黙った後、テツジはやっとのことで口を開いた。
「あれ、なんで黙ってたん」
「あれって」
「グラシデアの後は育てにくい、とか」
 言いたくなかったのだ。だがトモコはそれを誤魔化して、「言う時がなかってん」と答えた。テツジは、それ見たことか、とばかりに噛み付いた。
「言う時なんていつでもあったやないか。顔合わせたらグラシデアの話しかせんかったやないか」
「それは、」
 トモコは白旗を上げた。「ごめん」とだけ言って、後は何も言わなかった。テツジや村の人たちが自分のきのみ作りを愛していることは知っていたのだから。
「僕もごめん」
「それは何の」
 トモコに問い詰められて、テツジは「台風のこと」とボソボソ答えた。
「僕もまあ、疲れてて。とにかく謝る」
 もうええにしよ? とトモコは言った。ひと月も前のことで、これ以上どうこう言ったって仕方ない、と思った。テツジの方はずいぶん気にしていたらしく、ムウマのフラッシュに照らされた顔が明らかに安堵に変わった。
 気にしていたといえば。
「テツジは仕事どないなったん」
 案の定、テツジはビクリと肩を震わせた。それはその、と不明瞭なことを口走る。
「言いたくなかったら別にええわ」と言うと、「いややっぱり言う」と答えが返ってきた。
「実は、カントーで仕事してたんはちょっとだけで、後はずっと旅しとったんや」
 トモコは打ち明けられた事実が意外と軽かったので、思わず笑い声を立ててしまった。旅するポケモントレーナーなんて、コラッタ並に珍しくない。
「笑い事ちゃうで」とテツジは眉をひそめる。
「兄貴おってんけど、旅に出て行方不明になってん。それから両親とも旅というものに反対やねん」
 せやから黙っといてや、というテツジに、トモコは快くオーケーを出した。
 テツジが玄関を潜ると、家にぱっと明かりが灯った。早速ばれたらしかった。

 グラシデアは順調に育っていく。心なしか、夏の時よりも良く生長しているように思えた。
 緑は膝下程で伸びるのを止め、今度は台風の妨害も受けず、チラホラと紅色の蕾を付け始めた。蕾を見るのはトモコもはじめてだったので、素直に歓声を上げた。
「まだ終わりとちゃうで」と色んな人にたしなめられた。
「花がきちんと咲くかどうか。そこまでやらな」
 中には「順調にいきすぎて不安やわ」と言う人もいたが、トモコは聞き流した。出来る限りのことをやっている。花に栄養が行くよう、下の葉を何枚か取った。花と花の間隔は、シェイミが縄張りとするには少し広いが、確実に育てるにはこれが適正だ。上流の里山に手を入れ、下生えを取ってきて肥料作りもやった。

 後は花が咲くのを待つしかない。

「なあ、気持ちのええ丘があるんやけど、一緒に行かへんか」
 ある夜、テツジに誘われて、トモコは星明りの下をテクテク歩いて行った。

「ええ丘やろ」
 テツジに言われて、トモコは頷く。テツジの言う丘は、村から大分離れた場所にあって、普段はヤマノの領分で通っている所だった。毒の影響はなかったらしく、細い草が丘一面を覆っていた。テツジは両手を広げて丘に寝転んだ。
「ガキの頃によう来てん。野生のポケモンの住処からはうまいこと外れとるし、気持ちええし」
 トモコも真似して、寝転んでみた。草がクッションになってトモコの体を受け止めた。
「兄貴がおった時の話や」
 テツジが笑う。トモコも笑った。

 空にはたくさんの星があった。トモコは未だに、都会の空、黒に星ひとつふたつという感覚から離れられなかった。惜しげもなく砂粒みたいに星を撒いているのを見ると、心のどこかが物怖じしてしまうのだ。

「兄貴は物知りやったなあ。今思えばほとんど親か先生の受け売りやねんけどな」
 そう言って、テツジは昔話を始めた。
「前言うたっけ。収穫の終わった果樹園を巡ると、どの木にもひとつずつだけ実が付いてんねん」
 テツジは星空に手を上げた。風がぴゅうと吹いた。
「ポケモン用のきのみって、実を全部収穫したら枯れてしまうんや。工場で、機械仕掛けで作ってるようなのは全部取るらしいけど。ここのは違うで。一年育てたらきのみのええ、悪い、て分けて、ええ実のなる木は実を残して来年に残すんや」
 トモコは黙っている。テツジの言葉に耳をすませている。
「そうやって一年、次も実を付ける木が畑に残ってるんや。僕と兄貴は、いつも実が落ちひんかどうか見守っとった」
 今思うと無駄やったけどな。テツジは今きっと笑っている。
「葉をちょっとめくると、実がちゃんとそこに付いてんのや。そいで僕らはほっとする。木守りは、木の守り神はすごいなあって」
 今度はトモコの番だった。
「私のは旧友の聞き伝てやけど。
 シェイミって、グラシデアの花畑から花畑に渡んねんて。ひとつの花畑は三年くらいで枯れて、その時はシェイミたち、グラシデアの種子を持って飛び立つそうよ。その先に花畑が出来る。
 それで、花畑は三年はそこにあるらしいけど、手入れとか、せなあかんのやろね。シェイミの群れの一匹がそこに残って、三年間、グラシデアのお世話をするの。そのシェイミは花守りと呼ばれるそうよ」
 沈黙がふたりを覆った。心地の良い沈黙だった。星も、草も、全部ふたりの味方に思えた。

「帰ろうか」
 テツジがドラピオンを出した。

 帰り道、数珠のようで乗りづらいドラピオンに揺られながら、トモコが話す気になったのは何故だったのか。
「……化粧品作るのはね」
 ドラピオンが規則正しく土を蹴る音がした。
「毒ポケモンの毒を取って、そっから必要な成分だけ取ってきて作るの。せやから後の廃液は、人に使えへんものが凝縮して出来てる。これからどうなるか分からん」
 テツジはそうか、と言った。
 そうよ、そうなんよ、とトモコはか細い声で呟いた。


 数日後。
 トモコは空気が違う、と感じた。昨日までと同じ、蕾を付けたグラシデアの中にいるのに、昨日とは全く違うものをトモコは感じていた。
 しゃがみ込んでいたマキノの婆ちゃんが、それを裏付けるように首を横に振った。
 枯れていた。
 あともう少し、蕾が綻びるだけという所で、グラシデアは音もなく力尽きていた。
「毒が強すぎてんな」
 誰かが言った。それに同調する雰囲気が生まれる。丹精込めて育てたきのみを、チリチリに焦がして奪ってしまった、その猛毒を食らってここまで育っただけで、十分だ。誰かがそんなことを言った。
 来年、またやればいいと誰かが言った。来年、出来るだろうかとトモコは思った。グラシデアさえ首を折る猛毒を浴びているのは、結局自分らなのだ。それでなくても老人が多い。グラシデアが咲くまでに、何人生き残るのか。その後、また果樹園に戻せるかも危うい。それに、シェイミは来ないかもしれない。大地から毒を除くのに当てのない希望に縋り、命を削られるのは結局彼らなのだ。そして、その希望を振り撒いたのはトモコだった。

 トモコの指がグラシデアに触れた。天辺に三つ付いた蕾は、どれもなすがままにされ、力なく項垂れていた。
 いつの間にか、隣にテツジがいた。
「マキノさんの言う通り、夢物語やったんや。毒の方が強いんや。もう、何も育たんとみんな枯れてしまう」
 周囲に聞こえないよう、小さな声で話したはずの言葉は、周囲の誰にも聞こえているような気がした。
「大丈夫や」
 テツジがトモコの肩を抱いた。農業は気ぃ長いんやし一年二年なんて普通にかかるし、と喋りかけて口を噤んだ。そして、
「君の夢って、割りと好きやねん」
 と小さな声で言った。
「ありがとう」
 トモコは目を閉じて、テツジのシャツに額を押し付けた。テツジは空を見上げて、何も見ない振りをした。

 大地ではグラシデアの蕾が、ゆっくりと頭をもたげ始めていた。


 
> Skyme to the moon 作:乃響じゅん。
Skyme to the moon 作:乃響じゅん。

 道で倒れたおばあちゃんを負ぶってあげたら、種を一つ貰った。
 なんでも、幸せを呼ぶ種だそうだ。人の優しい気持ちを吸って成長するから、今なら埋めたらすぐに伸びる。育ててみたらいいと言われた。
 あなたに幸せが訪れますように。別れ際に、そう告げられた。


 種の成長は、想像以上に早かった。たった一晩で腰の高さにまで伸び、三日も経てば周囲で一番背の高い植物になった。伸びた植物は、木のようでもあり、蔦のようでもある。緑色の幹がうねりにうねって、空へと続いていく。
 更に三日経つと、とうとう空の雲に隠れて見えなくなってしまった。今日の雲は雨も降らさず、分厚く留まり続けた。
 次の日になると、今度は木の根元が細くなり始めた。幹が根っこから離れようとしている、そんな風に見えた。
 ふと見上げれば、昨日と全く同じ雲が空を漂っていた。雲の動きを、この木がロープのように地面に繋ぎ留めている。そんな気がした。
 私は幹に触れ、空を見上げた。種をくれたおばあちゃんは、幸せを呼ぶと言っていた。私はもしやと思い、この木を登ってみることにした。
 木がうねっているおかげで、足をかける場所にはこと困らない。一歩一歩、確かめるように進んでいく。
 半日かけて登りきると、そこは雲の上だった。

 太陽はとうに姿を隠し、満月が空に浮かぶ。雲の上はどうやら歩けるらしく、私は辺りを散策してみることにした。
 どこまで行っても、月明かりを照らす青白い風景が続いた。私は寝転び、仰向けになった。ここより高い所には雲は飛んでおらず、ただただ大きな月がきらきらと輝いている。
 よく見ると、小さな点が連なっていることに気付いた。かなり高い所にあるようで、目を凝らして辛うじて分かる程度だった。

 どすっ、と不意に何かが落ちる音がした。身体を起こして、確かめる。居所はすぐに分かった。白い風景のなかに、一点の緑色。恐る恐る、触れてみようとした。
 触れるより早く、緑色のそれは飛び上がった。ぷはぁっ、と吸い足りなかった空気をたっぷりと吸い込んだ。
 勢いに驚いて、私は飛び上がった。緑色の生き物が振り返ると、私と目が合った。ささっと私に近づくと、そいつは尻餅をついた私のひざに飛び乗った。
「ごめんね、びっくりしちゃったかな?」
 話を聞けば、これはシェイミという生き物らしい。仲間と一緒にいたが、風にあおられて落ちてしまったらしい。
「あたし、月へ行きたいの」
 シェイミは訥々と告げた。二人、月を見上げる。黒くかすかに見える点が、わずかながらさらに小さくなったような気がした。


 私はシェイミの望みを叶えてやることにした。
「月に行くとなると、ロケットかな。南の島に行けば、宇宙センターがある。ロケットに乗せて貰ったらいいんじゃないかな」
 私の提案に、シェイミは首を振る。
「あたしたちは自力で飛べるんだから、人間の手を借りる必要なんてないの」
 少し胸を張って、高飛車な口調でシェイミは説明を始めた。
 シェイミという生き物は(今でこそずんぐりむっくりだが)、グラシデアという種類の花を身につけると姿を変えるらしい。その姿になれば、空を飛べるようになるという。その姿を想像しようにも、うまくいかない。スマートなんだから、とシェイミは語った。
「グラシデアの花は、どこに咲くの?」
 私は聞いた。
「ソノオタウンってとこ。ここより大分北にある街で……ひんやりしたところよ。夏でも全然暑くないところかな」
「北か」
 シェイミがふと向いた方角に、目をやる。きっと彼女たちはそこからやって来たのだろう。季節が逆戻りしたような、冷たい風が吹いて流れた。夜はまだまだ寒い。

 いつのまにか雲は山にぶつかった。幸せを運ぶ種の木が地面から離れ、雲が動いていたようだ。夜が明けてから、私は山を降りた。
 シェイミを抱いて街中を歩いていると、シェイミはやたらと居心地悪そうにして、身を隠そうとする。上着の隙間に潜り込むと、シェイミは私にだけ聞こえる声で囁いた。
「あたし、たぶん追われてるかも」
 声を上げたかったが、内容が内容だけに押し殺した。背後をこっそり確認したが、怪しい人物は見当たらない。いつ何をされるか分からない緊張感が走る。足取りが自然と速くなった。
 私は車を借りた。調べてみれば、シンオウ地方のソノオタウンは電車も殆ど走らない田舎だ。近くに空港もない、車移動前提の街のようだ。目的地近くまで、シェイミを盗まれる心配をしなければいけないような状況は避けたい。レンタカーは高速用のカードも借りられ、現地で返却することも出来るようで、迷わずサインした。
「高速道路を飛ばすわ。休憩込みで大体三時間。渋滞もおそらく無いでしょう」
シートベルトを締めながら、私はシェイミに言った。
「免許持ってるの?」
「ゴールド免許三年目。ペーパーでもないから、安心して」
 私は車を発進させた。ブレーキのきつさに慣れない感覚を覚えるが、徐々に慣れてくる。身体にある程度馴染んだところで、話を切り出してみる。
「追われてるかもしれないって、それはあなたが珍しいポケモンだから?」
「うん」
 話を聞けば、シェイミが雲の上に落ちる原因となったに風は奇妙な動きをしたらしい。自分のバランスを崩すように、執拗に追いかけまわすようだった、とシェイミは語る。自然発生したものとは思い難い。
「あなたを空から落とした人物が、今私たちを追ってるかもしれない。そういうことね」
 私は戦慄した。思った以上に、深い溝に足を踏み入れているのかもしれないと覚悟を決めねばならなさそうだ。高速道路に入り、一気に加速する。エンジンが唸りを上げる。シェイミは身体がすくんでしまったようで、声が漏れる。すぐさま追い越し車線に入り、140キロぴったりまで速度を上げる。山の間に緩やかなカーブを描き、下り坂に入る。
「ちょっと飛ばし過ぎじゃない?」
「この辺は警察も張ってないし。今だけよ」
気楽な口調で言ってみたものの、胸がざわめくのを感じていた。シェイミが何に対して感じているのだろうか、不安そうな顔から確信を得ることは出来ない。ここは、話しておくべきだろうか。
私はバックミラーをちらと見やった。私の不安は確信に変わる。
「やっぱり、付けられてるわね」
「警察?」
「違うわよ。あんたがさっき言ってた追手ってやつ。まぁ、どっちも嫌な相手だけどね」
 私は左車線に戻り、スピードを落とす。ほどなくして、背後に三台、同様の動きを取る者がいた。 絶妙な車間距離だ、と私は舌打ちした。中の人物の顔まで窺い知ることは出来ない。
「二つ後ろの車、あなたの姿を悟られないように見れる?」
 やってみる、とシェイミは後部座席に移動した。だが、すぐに戻って来て、さすがに見えないと残念がった。
「やっぱり……残念ね」
 私はパーキングエリアへと向かう側道に入った。それを知ってか、追手の車も側道へ入った。休むこともままならない、とため息を漏らす。
 姿を隠しながらシェイミをつけ狙う連中。何をするのか知らないが、どうせろくな目的でないに違いない。絶対にそうはさせない。私がこの子を、月まで連れて行く。

 車を停め、シェイミを服の間に隠しながら外に出る。他人を装っているようで、三台の車が別々に止まっていた。下りる気配はない。
 軽い食事を取り、シェイミにも少し分けた。シェイミは案外雑食らしく、人の作ったものでも食べられるらしい。それでも、味が濃過ぎて美味しいとは思わないそうだが。主食は背中の緑で光合成した栄養分だそうだ。
 車に戻る途中、ふと声をかけられたことに気付いた。自分と同じ、二十代半ばほどの男だった。茶色のスーツに赤いネクタイ、控えめな茶髪を緩く流した、少し気弱そうな目付きの男が、そこに立っていた。右手には、紺色のハンカチが収まっている。左手の鞄には、何か大きな物体が入っているらしく、深く沈んでいた。
「あの、すみません。これ落としませんでしたか」
「ああ、私のですよ。どうもありがとう」
 私は素っ気なく答えた。ハンカチ自体は確かに私のものだが、今の私は神経質になっている。もしかしたら彼は追手の一人なのではないかという疑いが、今の態度に繋がっていた。
「あと、非常に申し訳ないのですが……」
「何ですか」
「車に乗せて頂いても宜しいでしょうか?」
 あまりに直接的過ぎる申し出に、賛成する気には全くなれなかった。
「悪いけど、他を当たって下さい。それじゃ」
 私は車のキーを立ち去ろうとした。
「待って下さい」
 男は泣きそうな顔をしながら、身の上を喋り出した。
「私、三原って言います。鞄の中身をソノオタウンまで届けなくちゃいけないんで、相方と二人高速を走らせてたんですが……信じて貰えないかもしれないですが、パーキングエリアに寄ってる途中に相方に置いていかれたんです。どうか途中まででいいんで、乗せては貰えないでしょうか」
 余りに必死な表情は、嘘をついているとも思いがたい。彼の告げた一つの単語が気になる。だが、彼が無関係ならば私達の都合に巻き込んでしまうことになる。
私は申し訳なく思いながら、少し頭を下げた。そのとき、誰かが怒りの声を上げた。
「うだうだ言ってないで、乗せてってくれたらいいんだよ! 優しくないな」
 彼の大きな鞄から、一匹の小さなポケモンが顔を出していた。どう見ても、これが喋ったとしか思えない。
「ば、ばか」
 三原は焦るように声を上げ、それを押し込もうとする。白い顔に緑の頭、顔についたピンクの花。彼の鞄の中に入っている生き物は、紛れもなくシェイミだった。三原は私の顔を見上げて、引きつるような笑みを浮かべた。

 高速を更に北上し、次々と車を追い抜いていく。大分街中から離れたようで、車の数が段々と減ってきた。それに加え、トラックの数も多くなっていく。バックミラーを確認すれば、やはり三台の車が張り付くように追ってくる。
「で、あなたがヒッチハイクしなきゃいけなくなった理由貰えませんかね」
 今までの旅路と違うのは、隣に一人の男を乗せ、シェイミがもう一匹増えたことだ。シェイミは、三原のシェイミと一緒に後部座席に収まっている。乗せて貰った安心感からか、三原は車を発進させた途端に馴れ馴れしい口調に変わった。どうやら彼は絵本作家で、私より二つほど年上らしい。皮肉を効かせた口調で、私は言った。
「長期休暇を貰っていてね。次回作の取材も兼ねて、友達と一緒にソノオタウンへ旅行しようとしたんだよ。そしたら、空からシェイミが降ってきて、窓ガラスに貼りついた」
「あの痛みは忘れられないね」
 三原のシェイミは憎々しげに呟いた。
「空を飛んでたら、突風が吹いてね。立て直そうと思っても、ずっと暴風に吹かれ続けて、落ちちゃった。まるでおれだけを狙ってたみたいだった」
 話を聞いていると、私が拾ったシェイミと良く似ていると思った。これは思った以上に深刻かもしれない、と自分の不遜な態度を戒め、私は言った。
「ただの突風じゃない、ってことね」
 三原は頷いた。
「友達は新聞記者だった。シェイミの話を聞いた途端、顔つきが変わったんだ。何か事件のにおいを嗅ぎ取ったんだろうな。僕の話も姿も、完全に忘れたように自分のことに集中していた。あのパーキングは外に出て少し歩けば駅があるから、そこから先に帰ってくれって言われたんだ。有無を言わさず、置いていかれた。本当はシェイミも彼と一緒にいた筈だったんだけど、こいつ、途中で窓から飛び出したらしいんだよ」
「あいつといても面白くなさそうだったからね」
 三原のシェイミはその一点張りを決め込んでるようだった。
「まぁ、こいつが僕と一緒に来るって決めた以上、ちゃんとソノオタウンまで届けてあげなくちゃ。そう思うんだよ」
 ちらと彼の顔を見やると、その目は真剣で、どこか楽しそうでもある。案外悪い人でもないのかな、と彼を思い直した。
「ところで、君はどうしてこのシェイミを?」
 三原は後ろを指差して、私の顔を見た。何と説明したらよいのだろう。
「……木に登ったら雲の上に出て、落ちてきたところで出会った、って言えばいいのかな」
「ジャックと豆の木みたいだな」
「巨人の城は無かったけどね」
「へぇ、すごいな……おっ、いい曲」
 ふと、彼がラジオの曲に反応した。
「Fly me to the moon。邦題は『私を月に連れてって』だっけ」
「そう。良く知ってるね。タイムリーな曲だと思わないかい」
「シェイミたちを連れて行くって意味ではそうかもね。でも生憎、火星とか木星の春を見に行けるほどロマンチックな気分には浸れないわ。どっちかって言うとHighway Starでも聞きたい気分ね。誰も前にいないし」
「ジャズにロックに。音楽にも詳しいんだね」
 彼は感心したように告げた。
「そんなこと。人並みよ」
 少し照れくさくなって、手元が寂しくなる。せめてマニュアルならよかったのに、と無いものねだりをしてみる。借りた車には、馬力も太いタイヤもありはしない。ラジオから流れるスタンダードに合わせて、鼻歌が聞こえる。三原のものかと思いきや、どうやらシェイミ達が歌っているらしい。
「似合わないわね」
 私は誰にともなく、呟いた。

 午後五時半になって、ようやくソノオタウンに到着した。山々に囲まれたのどかな風景なのだろうが、楽しむには少々暗い。太陽は既に沈みかけている。三原は携帯端末で情報を集めていた。
「ソノオタウンには自然公園があって、その奥にグラシデアの花畑があるらしい」
 言いながら、三原はカーナビに入力する。
 道中、三原の気づかいは細かいものだった。喉の渇きを感じ始めたころに、予備で持っていた水をくれたり、時々シェイミ達に体調を尋ねていた。カーナビの操作も手慣れたもので、あっという間にルートを割り出した。全ての準備は整えられた、そんな風に思う。
「良かった。今の時期なら、閉園時間は二時間伸びる。グラシデアの花は夜にも咲くらしいから、ライトアップもされるんだって。そのまま駐車場に向かって良さそうだ」
 私は彼の助言に従い、駐車場に車を停めた。降りた途端、少し気が抜けそうになった。お疲れ様、と彼は声をかける。
「早くこの子たちを群れに戻してあげないと」
 私は頷いた。三原のシェイミを鞄に入れ、見えないようにしてから、公園内を練り歩く。
「どっちへ行ったらいいのかしら」
「大分奥まで歩かなくちゃいけないみたいだな……こっちだ」
 彼の案内で、奥へと歩みを進める。
 空はとっぷりと日が暮れ、月と星が浮かんでいた。それでも園内は明るく、道を歩くのに不自由しない。こんな時間だと言うのに、歩く人も多く見られる。更に進むと、人だかりらしきものが見えた。柵で仕切られた向こう側を、皆一様に見つめている。私もそこに身体を乗り出した。そこには、ピンク色の花が一面に咲き乱れる風景があった。ライトアップに加え、丸い月が空に浮かんで、夜とは思えない光の動きを見せる。あまりの美しさに心を奪われ、思わずため息が出た。
「これがグラシデアの花畑か。すごいな」
 三原も興奮ぎみに告げる。思わず笑みがこぼれていた。
 ふと、三原は横にいる人物に気付いた。灰色のスーツを着た男の肩をぽんと叩き、慣れた口調で呼ぶ。
「一条」
 肩を叩かれた方は不意を突かれたようで、身体を震わせた。一条と呼ばれた彼は目を丸くして、驚きを隠せない様子だった。
「三原! どうしてここに」
「高速のパーキングで置いてく奴があるか普通? あの後シェイミがさ、俺のとこ戻って来ちゃったんだよ。どうにかしてソノオまで行かなきゃと思って、ヒッチハイク決め込んだんだよ」
 グラシデアの花畑の最前列を抜け出して、少し後ろに移動した。三原は私を呼び、一条に紹介した。私は頭を下げ、名前を名乗って挨拶した。
「この人が乗っけてくれたんだ。偶然彼女もソノオに向かう途中だったみたいでさ。一時はどうなることかと思ったよ。財布は一条の車に置き忘れて来ちゃうしさ」
「あぁ。悪い悪い。後で気がついたら、後部座席に財布だけ置かれてて、冷や汗が出たよ。完全に置いてけぼりにしたことはこの通りだ」
 一条は三原に手を合わせて頭を下げた。両手の間に長財布が挟まれており、三原はそれを抜きとって許してやる、と笑って告げた。
「なんだ。本当にどうしようもなかったのね」
 私は冗談っぽく言ってみた。
「そうなんだよ」
 彼は苦笑して、財布をポケットに入れた。
「ところで一条。ここで何の取材をするつもりなんだ?」
「ん? ああ。まぁ、このグラシデア畑のことについて調べて記事にするつもりさ。咲いてる期間もそんなにないしな。落ちてきたシェイミもちゃんと返さなきゃいけないな。窓から飛んだもんだから、どうしようかと思ったぜ。シェイミは無事だったのか?」
「元気だったよ。怪我とかしてなかったし」
「そうか、良かった」
 一条の笑みに、私は違和感を感じた。ただの安堵とは違う。心から喜んでいると言うより、何か別の都合で、怪我をされていたら困る、そんな印象だった。
 一条は茂みの方を指さした。
「ちょっと裏に入ろう。実は、ここに見えている以外にも花畑はあるんだ。そっちの方が奇麗なんだけど、一般客は入れない。そっちに入る許可が取れたんだ。付き添いって言えば通して貰えるよ。そこでシェイミ達を離したらいい。飛び立つ姿を写真に収めたら、今日の仕事は終わりだ」
「いいね。行こう行こう」
 三原は乗り気だった。
「あなたもどうですか?」
 一条は私に聞いた。一瞬迷ったが、行くしかない。そう思い直して、頷いた。

 茂みかと思った暗闇には、誰かが踏み固めて作った小道があった。足元は若干不安定だったが、一条が貸してくれた懐中電灯のお陰で転ばずに済んでいた。
 歩みを進めていくうちに、ふと木々が揺れる音が聞こえた。公園の明かりが遠ざかって行く。私達が今歩いているのは、一部の人達が特別に入れる優遇された場所とは程遠い。一歩でも足を踏み外せば落ちてしまいそうな、危ない橋のようなものだ。
「結構遠いな」
 三原が不満を口にした。
「もう少しもう少し」
 一条は笑った。
 更に進むと、湖が見えた。月が湖面に反射して奇麗に見えた。その岸にはグラシデアの花畑が広がっていた。
「さて、この辺りでシェイミ達を離そう」
 一条は告げた。私と三原は鞄の中からシェイミを下ろそうとする。三原のシェイミは全く降りてこようとしない。
「どうしたんだ。グラシデアの花畑についたぜ。仲間のところへ行けるんだ」
 ふと、三原は片手でしか鞄を掴んでいないことに気付いた。もう片方の手が後ろに回され、携帯をこちらに差し出すように握っている。一条の目を眩ませた、私へのメモということは、すぐに分かった。
「そうだよ。出て来なよ」
 私のシェイミも心配そうに声をかける。だが、恐らく演技だ。私は一条に悟られないように、三原の携帯を取った。電話画面が開いており、番号も既に入力されている。彼が私に何を求めているのか、一瞬にして理解した。だが、まだだ。この電話をかけるタイミングが、切り抜ける肝でもある。
「やだよ」
 三原のシェイミは、敵意をむき出しにして告げた。
「一条さんよ。何でこんな手前で降りなきゃいけないんだ?」
 歩き疲れた身で、何も考えていなければその思考に辿りつくことはなかっただろう。
「あの花畑はシェイミのものだ。私達人間は、ここで見守らせてもらうよ。すぐそこは湖だし、君達が飛んでいく姿を写真に収めるには絶好のチャンスだからね」
「とぼけんなよ」
 三原のシェイミは吐き捨てるように言った。
「アンタが三原を置いてった後、車の中で電話してた相手。あれは誰なんだ。アンタは元々、おれを何処へ連れてくつもりだったんだ?」
「電話? あぁ、あれのことか。本社に連絡を入れてたんだよ」
「嘘つけ! 俺達は耳がいいんでね。全部ちゃんと聞こえてたよ。俺のこと、海外に一千万で売り飛ばすつもりだったんだろう」
「俺がそんなことをするのかい。まさか、そんな悪人みたいなことはしないよ。今から我々人間三人、引き揚げたっていい」
 一条は言った。
「お前だけが引き上げたって、仲間がまだ隠れてるんだろ? 知ってんだよ」
「ほう」
 余裕の表情を浮かべる一条の手にモンスターボールが握られていた。いつの間にか、周囲に黒服の男が集まっている。胸に赤いRの文字をこしらえた集団。国で最も大きな力を持つポケモンマフィア。人間に危害を加えるように育てられたポケモンを完全に調教した集団。彼らにとってのポケモンは、ピストルに相当するほどの高度な育成法を持っている。下手を打てば、殺されると思った。
「じゃあ、逆らったらどうなるかも知ってるってわけだ」
 全員がボールを構えた。周囲を見回すが、逃げ場が見つからない。
「いや」
 三原はシェイミを抱き上げ、真っすぐに一条を見つめた。いや、見ているのは一条ではない。その後ろにいるものだ。
「逆らわないで、流れに乗るという方法もある」
 背後から、何かが弾ける音がした。一条が振り返る間もなく、それは彼の頭に直撃する。大分後になってから、それがシードフレアと呼ばれる技であることを知る。それを放った張本人が、その後ろでふわふわと浮いていた。
 白い身体に、細長い四肢。トナカイの角のような白い耳。緑色の頭部は、たてがみのようだ。首元から、赤い毛がたなびいている。
 初めて見るにも関わらず、それが私のシェイミだとすぐに気付いた。シェイミは口にグラシデアの花と私の携帯をくわえ、こっちに向かって飛行する。
「さあ、行こう」
 シェイミは、三原のシェイミにグラシデアの花を与えシェイミと同じ姿に変身させた。私は携帯を預かると、シェイミの足を掴んだ。その瞬間、身体がふうっと浮かんでいくのを感じた。地上があっと言う間に小さくなっていく。三原と彼のシェイミも、同じような体勢で上昇してきた。
 実は、自然公園に車を停めたときから私のシェイミは行動を共にしていなかった。独自にグラシデアの花を見つけ出し、携帯を持たせて連絡を取り合えるようにしていたのだ。

 だが、まだ脱出できたとは誰も思ってはいなかった。彼らの扱うポケモンの中には、空を飛ぶものもいる。案の定、翼を持った誰かが、私達を目がけて飛んできた。
「クロバットって呼ばれるポケモンだな」
 三原は言った。
「シェイミ、戦えるの?」
「任せなさいよ。足、絶対に離さないでね。どんなに強く握ってもいいから」
 クロバットのぎょろりとした瞳が、私達を捉えた。高速で羽ばたくと、とてつもなく強い風が身体を打ちつけた。思わず目を閉じる。手が滑ってしまいそうになり、両手でスカイミの足を掴む。恐らく、シェイミ達はこの風に翻弄されて落ちてきたのだろうと私は直感した。もし不意打ちだったのなら、きっと耐えきれまい。
 シェイミがシードフレアを放つ。緑色に光る種がクロバットを直撃し、クロバットは成す術もなく夜の闇に落ちて行った。
 その瞬間、自分の手が限界に近いことを悟った。握力が持たない。汗で滑ることも助長して、あと数秒もしないうちに落ちてしまうと思った。ずるずると、手がシェイミの後ろ脚の方へ滑り落ちて行く。
 その瞬間、三原が私の腕を掴んだ。
「もう少しだよ。頑張れ」
 彼はシェイミの身体を抱きかかえるようにして捕まっていた。
「あなたみたいにシェイミに捕まっておけばよかった」
 私は冗談を言うと、彼は少しだけ、笑みを浮かべた。
 地上に、パトカーのランプがチカチカと点滅している。一条らが逮捕されるのも、時間のうちだろう。

 シェイミが更に上昇すると、雲の上に出た。その雲の上に足を乗せると、ふかふかとした感触があった。乗れるようだ。
「これは凄いな」
 三原が驚いて、足で雲を突っついてみる。
「私がシェイミと出会ったのも、こんな感じの場所だったなぁ」
 私はしみじみと言った。へぇ、と彼は笑った。だが、どこかぎこちない笑みでもある。
「一条さんのこと?」
 私は聞いてみた。三原は頷く。
 一条が自分の素性を偽っていることは、何となく分かっていたという。ある日警察が家にやってきて、彼の素性を明かされた。にわかには信じられなかったが、大学を卒業してから一切音信不通になっていたのが気がかりだった。それが何故今回自分と会おうと思ったのか、その理由は定かではない。これから明らかになっていくことだろう。
「あいつとは、高校大学までの同級生だった。一時期仲も良かったんだ」
 月を見上げて、眩しそうに三原は佇んだ。
 シェイミがそう言えば見当たらないと思ったら、私達に背を向けて立っていた。二匹の距離は相当に近い。三原は私に顔を近づけて、ひそひそ話をする声で言った。
「ひょっとすると、そういう関係になっちゃったのかな」
「かもね」
 二匹の寄りそう後ろ姿を見つめていると、ふいに三原が『Fly me to the moon』を口ずさんだ。あの子たちには、きっとぴったりの歌だと思った。私もそれに合わせて、同じフレーズを歌った。空高い場所だからだろうか、いつもより月が大きく見えた。この星のこの場所に、春が訪れようとしている。それぞれの星に春があるとしたらどんな春なのだろうと、私はふと、そんなことを思った。


「ちょっとちょっと、三原さん! あなたの旦那さんの書いた本、とっても面白かったわよ〜! うちの息子にもしょっちゅうせがまれてね。もう参っちゃうくらい」
 近所に住む主婦仲間が、そんなことを告げる。
「ありがとう! 主人もきっと喜ぶわ」
 私は素直に喜んだ。
 あれから数年。三原……今の旦那は、私達の慣れ染めを絵本に起こした。それが百万部以上の売り上げたお陰で、旦那は一躍人気絵本作家の仲間入りを果たすことになった。
「ただいまー」
 私は家に帰ると、おかえり、との声が飛んでくる。仕事部屋でなく、リビングから。休憩中のようだ。
「ちょっと変わった封筒が入ってたんだけど。宛先は不明」
 私はポストに入っていた、白と緑の封筒を開けて見せる。中には、数枚の紙きれが封入されていた。
「……月にカメラってあるのかな」
「……あるんじゃない?」
 二匹の大きなシェイミと、五匹の小さなシェイミが写った写真を見て、私は微笑んだ。
 
> Good night, a good dream. 作:とらと
Good night, a good dream. 作:とらと

「すいみんのタネをくださいな」
 顔を上げると、そこには黄金色のポケモンが座っていた。
「七十ポケですよ」
「はい、どうも」
 手渡すのは黄色くて、小さなタネ。黄金のポケモンは九つの尻尾をふさりと揺らして、ありがとう、と笑った。その顔の向こうの空は紺碧に落ち、二匹の頭上も徐々に夕闇に冒されつつある。そろそろ店じまいの時間か。優美で上品に見えるのは専ら商売対象外だが、この彼が、本日は最後の客かもしれぬ。
「オニイサン、探検隊のポケモンで? そういう風には見えませんけど」
「いいえ」
「すいみんのタネなんて、別段旨くもないでしょうに。何に使うんで?」
 睡眠剤なら、粉の、もっと上質で安価な奴が、薬屋にも売ってるだろう。ちょっと引き止めて話したい気持ちもあって、商売としては不都合でもそんな雑談を振ってみた。探検に興じている連中が魔窟の最果てに息づいてるようなバケモンを眠らす道具なんかで、自分の眠気を誘うことなど狂気の沙汰。それを知らない非常識には、そこの獣はとても見えない。
 九尾の獣は、控えめに肩を竦める。
「コレを必要としてる友人がいるんです」
 斜陽の照らす狐の面は、穏やかな語り口とは対照的に、幾分火照ったようにも見えた。どうしても眠らせたい相手がいる、と。成程、何やら事情がありそうだ。しかし、それを無闇に詮索するのも粋ではなかろう。
「眠りって言うのはそう、我々ポケモンの三大欲求と言われるモンのひとつでありまして」
「ええ」
「ま、エライ学者サンのおっしゃってることなんざ、我々にはチンプンカンプンですがねぇ。食べること、眠ること。そして残ったもうひとつをお話しするには、幾分日がまだ高すぎる頃で――」
 ウフフッと黄金は微笑む。オニイサン、と呼んだが、その認識はよもや間違っていたかもしれぬ。
「それが満たされて、我々は生きる。満たされぬ人生など、生きた心地もしない。けれど食べること寝ること、これが満たされぬ時と言うのを、我々はなかなか体感できませんなぁ。空気のように当然にそこにあってから、阿呆な我々はそのありがたみを知らんのです」
 夕凪の刻で、風はなく。陽光に熱されていた大地も、のろのろと力を失っていく。
 微笑んだまま、黄金は揺れていた。美しい毛皮の衣は、しっとりと茜に濡れていた。その、炎のような赤の瞳は、じわじわと時の過ぎるにつれて、冷たい光を帯びていた。
「……これをもって、友人は、眠ることの尊さを覚えるでしょうか」
「そうだとええですなぁ」
 九尾の獣はくしゃりと笑う。
「店主、わたくしのこと、オニイサン、て呼びましたが。こう見えてわたくし、もう千年も生きているのよ」
 カクレオンは、ぺろっ、と長い舌を出した。
「ありゃ! こりゃあ失礼っ――」




 駆けずり回って、大声で笑って、泣いて、お腹いっぱいにご飯を食べて、太陽の匂いがする干し草のベッドで、昏々と眠りに落ちていく。
 ……そんな当然の幸福を、彼女は知っているだろうか。




 日が落ちきると、土は急速に温かみを失っていった。冷たい感触を足裏に確かめながら、黙々とキュウコンは歩いた。星空が回り始めた。月が昇り始めた。咥え、口に含んだ彼への贈り物を、ころころと舌で弄んで。ひややかな陸風が流れていく。目的の星の降る山頂は、もうすぐそこに近づいていた。
 ……眠りに落ちる、幸せ。そんなこともよかった。けれど、そんなことよりも、生きている事の充実さを、もっと噛みしめて欲しかった。彼女は自分なんぞよりずっとずうっと崇高な存在で、本来は手なんてきっと触れてはならぬ高貴なもので、生あるものどもの図々しい希望を叶える、私たちの賭ける『夢』みたいなもので。……けれど、彼女だって生きている。生きて、流れたはずの瞬くような短い時間を、もっと、自分のためにだって使って欲しかった。
 キュウコンが生まれたのだって、彼女のおかげだった。それを父母に聞かされてからずっと、こうして幾つもの久遠の年月を待ちわびて、ようやく与えられた報恩の機会。なのに、時間は短すぎた。その限られた時間の中で、彼女に課せられた身勝手な責務は、あまりに重すぎた。どうしようもなく膨大すぎた。
 彼女が目覚めてから、今日で八日目の晩。
 ――流星の降りそうな高台の頂に、今日も彼女はいた。小さな、赤子のような白い躰であった。星形の頭、ゆるりと地面に這う羽衣は、月夜に咲く幻の一輪花の如く淡い光を湛えていた。それが、本に夜空の星のようにか弱く儚く瞬いていた。時折ぱっと強く、徐々に弱く、消え入りそうなほどに細く、思い出したように強く、強く。……頭にぶら下がった、水色の、数えきれぬほどの短冊に、よろよろと両手を添える度に。何かに声を届けるように、輝く。そして、疲弊しきった表情だども、まだ他人の幸福を慈しむように、切なく微笑んで。
「……ジラーチ」
 呼べど、振り返ることはない。
「みんなのねがい、とどいている」
 ふわふわとして、幼い、浮ついた、掠れた声で彼女は言う。
「とどいているかな」
「届いているよ」
「かなっているかな」
「十分に、叶っている」
「ああ、それならしあわせだ。ぼくはとってもしあわせなんだ」
「……だから」
 もういいよ、と言う前に、彼女はふるふると首を振った。
 我儘が過ぎる人々の願いが、まだどれほど残っているのかキュウコンには分からない。ただ、ひとつひとつ確かめるように短冊に触れて、その哀れな願いを聞き入れようとする彼女に、口で分からせることは容易ではなく。また、このまま彼女が壊れていくのを、見届けることなんてできなかった。千年もむざむざと生きてきて、下手に暴力的な手段をとることしか、キュウコンはそれを止める術を得ることがとうとうできなかったのだ。
(……こんな方法でしか報いることができなくて、本当にごめんなさい)
 廃人のように願いを叶え続ける『ねがいごとポケモン』の背後で、キュウコンは起立し姿勢を正した。一度瞼を伏せ、微笑み、また目を開けた。頬の端に追いやっていた『すいみんのタネ』を、舌に乗せ、祈るような気持ちで唇に挟んだ。
 くつくつと、細かに彼女は笑っていた。キュウコンは目を細める。
「……おやすみなさい。よい夢を」



 願わくは。
 彼女の千年の眠りを、あたたかで柔らかな星のベッドが、ふっくらと優しく包み込まんことを――。





 
> 百日紅の木の側で 作:わたぬけ
百日紅の木の側で 作:わたぬけ

 館の前で車を停めると見えない力で弾き出されるように私は車を降りた。鍵をかけるのも忘れて。それだけ事は急を要していた。館の敷地を堅牢に守護する高い煉瓦塀。こんな時が訪れても尚、中の屋敷とその主を守るために一切を寄せ付けようとしない。私はその唯一の出入り口である正面の門へと走る。その時真下から突き上げるような衝撃で軽く上に飛ばされると、同時に大地がうなり声を上げて振盪した。思わず塀に寄りかかって収まるのを待つ。もう本当に時間がなかった。私は車を走らせてきた道とは反対側の方向へと視線を移した。目にはM町、いやこの裾野の地域全体を見下ろす巨大な存在が映っていた。その中腹よりも上辺り――七合目辺りだろうか――のあちこちから漫画などでよくある怒りの表現で目にするような白い煙が噴出している。
 気象庁が浅間山で江戸期の天明噴火以上の大規模噴火が発生するという警報を出したのは一週間のことだ。その二ヶ月も前から浅間山では周辺で小さな地震が起きたり、山頂で噴煙が確認されるなどの火山活動が見られていた。それらは時間が経過するとともに次第に激化の一途をたどり、警報が発表された直後にはこのM町や軽井沢、長野原などの浅間山の裾野に位置する地域一帯が火山灰に覆われるような噴火が発生した。それでも迫りくる大規模噴火に比べればこれはまだ軽いジャブにも満たないものらしい。特に火山や地震の研究をしたことはないのでよく分からないが、テレビや新聞、週刊誌等が伝えるところによると今回起こりつつある大噴火では山体崩壊を伴い、巨大な火砕流によって裾野一帯はイタリアのポンペイやヘルクラネウムのようになるとまるで洗脳するように繰り返していた。私の脳裏には二十五年前に長崎の島原市にある雲仙普賢岳で発生した火砕流のテレビ映像がよぎっていた。伝えるところによると今回起こる火砕流はあれさえ遥かに凌駕してしまうほどの規模になるとのことだった。そして今、私の眼前で浅間山がまさに来るべき大噴火を起こそうとしている。遠くの空では浅間山が噴火する決定的瞬間をカメラに収めようと、いくつものテレビ局の取材ヘリが自衛隊の救助ヘリに混ざって飛び交っていた。自衛隊や地元警察による道路封鎖をかいくぐり、その先にもまだ続く見張りに気づかれずにここまで来られたのはもはや奇跡としか言いようがない。
 ようやく揺れが小さくなっていくと、私は塀づたいに館の門を目指した。細い黒鉄を格子状に組み合わせた門は、いつもなら外部の者を一切寄せ付けぬように堅く閉ざされているはず。だのに、今その門の錠は外されており軽く外側に開かれ、まるで私を招いているようにさえ見える。私は未だ不気味な蠢動を続けている地に何とか踏ん張りながら、果たして門扉へたどり着き敷地との境を跨いだ。
 敷地に入った人物を迎えるのは全体の面積の半分近くを占める広大な庭園――のはずだった。私が記憶の中で知っている館の庭園はまず燃え上がるような花を咲かせた薔薇壇が人々を迎え、そこを抜けると館の正門へと続く扉に至るまで左右に季節に合わせた花々がそれぞれを主張しあったり、あるいは引き立てあったりして整然と並んでいた。そしてそれぞれの花々から漂う香りが空間の中で混ざり合い、庭園そのものが一輪の花となりその豊潤な香りが充満しているというものだった。隅に配置してある池には鯉や亀を住まわせ、時折水鳥が飛来することもあった。いつか佳代子が言っていたがある年には鴨の親子が住み付き、子供たちが成鳥へと育つまでの拠点となっていたこともあったそうだ。しかし庭園は今、そのころの様子を偲ぶ由もない。私が知っている頃には影すら見なかった雑草が背高く生え、花壇とそうでない地面との境がまるで分からない。しかもその雑草たちも度重なる噴火による降灰で真っ白になっており、葉を低く垂れ下げて今にも枯れてしまいそうだった。なんとなく眠り姫の眠る荊棘の城に乗り込む王子になったような気分だ。しかし一方は青々と生命の輝きを見せる荊棘と花の庭であるのに対し、こっちは生命の輝きはおろか今にも死に絶えてしまいそうな火山灰の庭。比べるまでもない。
 
――今ね、M町の本家の屋敷にいるの。
 佳代子が電話越しにそう言ったのは二日前のことだった。その時私は東京の勤務先で浅間山噴火への影響に対する対応に追われていた。次々と鳴り響く会社の電話に頭が割れそうな思いをし、ようやく束の間の休憩をもらった時、私はふと携帯電話になんとなく見覚えのある電話番号からの不在着信と留守電の録音が休憩に入る二十分前に入っていることに気づいた。留守電の主は佳代子だった。メッセージは一言――気づいたらすぐ電話して――だった。箕浦佳代子、私がどんなに忘れようとしても忘れることの出来ない二人の女の一人。どうして今になって彼女から? しかもこんな時に。 私は胸の底に黒い熱を抱えたような気持ちになりながら急いで人目のつかないところへ移動し、電話をかけた。着信音が三度鳴り、四度目が鳴っている途中で繋がった。
――もしもし、武男さんね。
――佳代子さん。いったいどうしたんです?
 質問に答えず、佳代子は先述した言葉を言った。
――今ね、M町の本家の屋敷にいるの。
 私はあっけにとられた。同時に頭の中が処理でぐるぐると回るのを感じた。
――まさか? どうしてそんなところに!?
 『そこは危険区域でもう避難が完了しているはずじゃないか』『浅間山が噴火するんですよ』『早くそこから離れるんだ』同時に思いついたそれらの言葉が、一気に喉から出ようとして結果何を言っているのか分からないような言葉が口から漏れる。その時受話器の向こうからそんな私の動転ぶりが可笑しかったのか小さな笑い声が吐息とともに聞こえてきた。
――来て。
 花が囁く。
――“あの日”のことで、武男さんがまだ思うことがあるのなら、来て。
 そして私が言葉を返す間もなく、さらにこう続け、電話は切れた。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 それからM町へ向けて出発するまでのことはよく覚えていない。とにかく来るべき浅間山の噴火への対応でてんてこ舞いだった会社に強引に有給を取ったことだけは確かだ。戻ってきたところで私の椅子は無くなっているかもしれない。警察あるいは自衛隊などに連絡して佳代子を保護してもらうことも考えなかったわけではない。しかし私はその時既に熱に浮かされたように思考がぼんやりとしてそのような選択肢を選ぶという発想すらなかった。いや、例え思いついたとしても結局はこうして彼女の元へと向かうという選択肢だけを残しただろう。私にそうさせたのは彼女の電話口での最後の言葉だった。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 この言葉を耳にするのは初めてではなかった。いや、この十年間片時も私の耳から離れない特別な言葉。私が生涯忘れたくても忘れることの出来ないであろう二人の女の内、佳代子ではないもう一方の女。佳代子の双子の妹、箕浦美代子。美代子もまた十年前、同じように電話で私をM町の館へ呼び出し、その言葉を最後に電話を切った。頭の中で再現される“あの日”の記憶。もう十年も前のことだというのに、ビデオカメラで片時も逃さず録画していたかのようにその記憶は鮮明で生々しい。
 
 私はひび割れて荒れ放題の屋敷へと続く石畳を歩くと、やがて左脇の方へと抜ける側道へと差し掛かった。その荒れ様は凄まじく、両脇から伸びる雑草によってほとんど獣道の様相を呈している。しかしよく見ると両脇の雑草が何かの力によって折れ曲がっていることに気づく。誰かがこの道を頻繁に行き来している。この側道の奥に佳代子が、そして美代子が私に「待っている」と言った百日紅の木がある。私は雑草をかき分け奥へと進んだ。枯れた草が棘のようになってチクチクと刺さり、積もっている火山灰が舞う。草の種が服にくっつき、被った火山灰によって服は真っ白になった。
 そしてもう長い間この側道を歩いたと思われた瞬間、草をかき分ける手が空を掴んだ。半ば高い枯れ草を支えのようにして進んでいた私は前のめりになり、さらに次の瞬間扉を開けたように視界が開けた。なんとか体勢を立て直し顔を上げた私を待っていたのは記憶の中に眠っているものと全く同じ庭園の一角だった。雑草が綺麗に刈り取られ、石畳の輝きは当時と全く遜色ない。土がうず高く盛られ小さな丘を形成している。周囲は円形状に取り囲むように青々とした生垣が植えられ、そして中央――丘の頂上――には一本の百日紅の木が枝を葉を天に伸ばしていた。この場所だけ時が止まっているようだった。火山灰も降り積もっていない。ここだけが、この空間だけがなにか見えない力で守られている、そんな気がした。生垣に沿うように花壇が置かれ、そこにはいつでも植えられる花を迎えていいように畝が作られている。花壇境のれんがの上には植木鉢がいくつも置かれ、そこには苗が芽吹いている。
 そして彼女はいた。並ぶ花壇の内の一つで、白いブラウスに麦わら帽子を被り、畝の前にしゃがんでスコップを持ち土いじりをしていた。私が一歩歩み寄ると、気づいたのか佳代子は顔を上げた。そしてお互い目が合うと彼女は薄く笑う。その瞬間、私は彼女に会って言おうと思っていた言葉を胸の内に沈めた。早く逃げるように促すつもりだった。だけど、その思いはまるで風船の空気が抜けるように萎えていく。代わりに私の口から出たのは浅間山の噴火なんて起こっていないかのように穏やかな言葉だった。
「遅くなったね」
「ううん、いいの。来てくれただけで嬉しい」
「何をしてたのかな」
 どうしてこんなにも落ち着いているのかよく分からない。もう間もなく浅間山が山体崩壊を伴う大噴火を起こそうとしているというのに。不思議なことにこの場所に来てからあれだけ断続的に続いていた地震も収まったような気がする。静かだった。あの頃と同じ花の香り、空気の流れ、太陽の日差し、そして百日紅の木。
「種を蒔いていたの」
「花のかい?」
「ええ。マリーゴールドの花よ」
「寺山修司の詩みたいだね」
「聞いたことあるわ。有名な詩人よね。なんて詩?」
「『種子』って詩に出てくるんだ。

  たとえ
  世界の終わりが明日だとしても
  種子をまくことができるか?

 ってね。それと彼は詩人じゃないよ。彼曰く『私の職業は寺山修司です』だそうだから」
「まあ」
 佳代子は可笑しそうに声を漏らす。
 すると彼女はおもむろにスコップを手放し、立ち上がった。そして私の視線と佳代子の視線とが宙でぶつかる。胸が高鳴り、呼吸が乱れるのを感じた。それから私たち二人はまるで申し合わせたように中央の百日紅の木へと互いに歩み寄った。“あの日”、佳代子の双子の妹美代子が死んでからの時間の隔たりなど無かったかのようだった。

 私が初めて箕浦姉妹と会ったのは大学の時だ。顔の広い寺田という友人のツテでまず姉の佳代子の知り合い、そして佳代子のツテでさらに妹の美代子と知り合った。二人は演劇サークルに入っていた。箕浦姉妹の美しさ、双子という物珍しさ、そして双子の設定を巧妙に使った舞台によって、当時の演劇部は人気という恩恵を受けることに成る。一方の私はと言うと特にどのサークルや同好会にも所属せず、大学内外に大人気だった箕浦姉妹とこっそり付き合っているということに小さな誇りを感じる程度だった。最終的に付き合うことになったのは後に紹介された妹の美代子の方だった。勝気でサバサバとしていて何にでも突っ込んでいくが、そそっかしくよく物を失くすタイプの佳代子に対して、美代子は内気で慎重で几帳面で何事にも石橋を叩いてから渡るというタイプだ。しかし一卵性双生児で顔も声も背丈も同じ、それに性格は真反対なのになぜか趣味や服装などのセンスは共通しているという不思議な姉妹だった。
――性格以外で君たちを見分けるにはどうすればいい?
 いつだったかそんな質問を美代子に投げかけたことがある。すると彼女は「そうねえ」と前置き、うーんと頭をひねる。
――前は利き手がそれぞれ左右違ったんだけど……あ、あたしが左利きね――でも小さい頃に矯正しちゃったしからなあ。
 結局出た結論は「あたしでも分からない」というものだった。
 大学を卒業する年の夏に私は初めて二人の実家、M町の屋敷に招かれた。屋敷には二人の母親と何人かの家政婦がいるだけで他の家族は見当たらなかった。何か事情があるんだなと思いつつも私はついにそれを訊くことはなかった。それから私はそれから何度も屋敷へと足を運んだ。庭園の花選びをしたり、一緒に畝を耕したり。そしてあの百日紅の木。双子にとってこの木は特別な木だった。話によるとこの木は双子が生まれた年にこの場所に植えられ、二人の成長とともにこの木もまた一緒に伸びていったとのことだった。
――言うなればあたしたちは双子じゃなくてこの木を入れて三つ子ね。
 そう私に言ったのは佳代子の方だった。
 それから私たちはそれぞれ社会人になり、私は東京の会社に就職した。佳代子が関西方面の会社に就職し、美代子だけはM町に残り町役場に務めることとなった。二人が互いに違う道を歩んだのはこれが初めてだという。それからも私はちょっと長い休みが取れたら美代子の元に通い続けた。近いうちに私達二人は結婚する。自他共にそう思っていた矢先、“あの日”を迎える。
 事の起こりは彼女からの電話だった。当時既に普及して久しい携帯電話に非通知からの電話がかかる。受話器を押し当てた私の耳に入ってきたのは、美代子の明らかに何か動揺している声。私が「どうかしたのか」と尋ねると彼女はその質問には答えず、こう囁いた。
――明日、来て。
 口から花が咲くような声。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 そうして私が物言う暇もなく電話は切れた。その翌日は幸い休みで、ただならぬ気配を察知した私はすぐに東京からM町に向けて車を飛ばした。どうして非通知だったのかを考えもせずに。酷い胸騒ぎがした。第六感とか以心伝心とかそういう言葉には眉唾を覚えていた私だったが、結果的に私はこの考えを改めさせられることとなる。道中私は佳代子に電話を入れた。今から考えれば高速道路を運転しながら携帯電話とはなんて危険な行為だったことだろう。「美代子が?!」よほど驚いたのか電話口の向こうの彼女の声は裏返っていた。
 やがてM町の屋敷に到着した私は屋敷の門には目もくれず、百日紅の木のある小さな丘へ向かった。夏の暑い盛りで炎天下で蒸し暑い上、蝉がジージーと体感温度をさらに上げてくれるような声を響かせていた。胸は激しく動機し、あまりの暑さのためか頭がくらくらした。足元の石畳はさっきまで雨が降っていたのか水たまりができていた。
 そしてついに丘を囲む生垣を抜けた時、私の目に飛び込んできたのは天に向かって高く枝を伸ばす百日紅の木とそれにもたれ掛かって座っている美代子。雪のように白いブラウスを着て顔を隠すように麦わら帽子を被っている。両手はだらんと地面につき、眠っているように顔をうつむかせている。私は最初、彼女そっくりな人形が置いてあるのかと思った。それくらいその時の光景は現実離れしているように思えた。恐る恐る近づき私は美代子の名を呼ぶ。しかし返事はない。そして私が彼女を正面から見ようと回り込んだ時、影に隠れていた部分が顕になった。脇腹から真っ赤な薔薇が咲いていた。少なくとも最初の瞬間私の目にはそう見えた。変だな、いつか薔薇はあまり好きじゃない、と言っていたのに。そんな明後日な方向へと思考を向けたのは一種の現実逃避だったのかもしれない。そして次に視界に入ったのは赤い薔薇からにょきりと生えている木の柄。瞬間私は現実に立ち返り、美代子の名を叫びながら駆け寄った。脇腹から咲いていた薔薇の正体は彼女の体内を巡るはずの血潮であり、それが雪のように白いブラウスを緋色に染めていた。私は彼女の体を揺さぶり必死に名前を叫んだ。しかし対する彼女は物を言うこともせず、ピクリとも動かず、既に石のように冷たくなっていた。そして私が揺さぶったことで微妙な均衡の元に座った体勢になっていた彼女の体が、ゴトリと横向きに倒れる。まぶたはまるで眠っているように閉じられ、やはり動く気配もなかった。それから頭がぼんやりと曇ってよく覚えていないが、気がつくと警察が来ていたところを見ると、あの後私はちゃんと警察に連絡したらしい。そして遅れて関西から私の道中での連絡を受けた佳代子がそして当時何人かのご婦人仲間を連れて旅行に行っていた母親が到着し、物言わぬ双子の妹の亡骸を前に互いに抱き合って泣き崩れていた。
 凶器の包丁は屋敷の台所に置いてあるものだった。ほどなく第一発見者である私が疑われ、警察の取調を受けた。しかし美代子の死亡推定時刻、私はまだ高速道路を飛ばしている最中だった。そのことが証明されたのは皮肉にもスピード違反を取り締まるオービス。死亡推定時刻とほぼ同時刻に私が夢中で高速道路を飛ばしかなりのスピード違反をしている姿がしっかりと残されていたのだ。撮影された地点はM町からまだ百キロ以上も離れた場所。いくらなんでも撮影された二分後には屋敷に到着して凶行に及んだとは考えられず、警察は私を規定速度の四十キロオーバーのスピード違反でみっちりと絞る代わりに事件の無実を認めた。
 それから事件がどうなったのか私は知らない。あのときの電話口での美代子の声が頭に焼き付き、悩ませた。そして逃げるようにして箕浦家から離れ、佳代子とは以来会ってなかった。

「何も言わないのね」
 佳代子はポツリと呟いた。そして百日紅の木にもたれかかって座り込む。その姿はちょうどあの日の美代子のように見えた。
「じゃあ訊こうか。事件はあの後どうなったんだい」
 佳代子はすうっと深呼吸して空を仰いだ。
「あなたの無実が証明された後、続いてあたしとママが疑われた。でもママは旅行先で仲間と行動を共にしていたのが証明されたからほどなく無実、でもあたしにはアリバイがなかった。武男さんからの電話を受けた後あたしもすぐにここに車を走らせたから誰もあたしのアリバイを証明できなかった。そのせいで結構しつこく疑われたけど程無く事故死が立証されたわ」
「事故死だって?!」
 私は思わず叫んだ。
「どうして? 脇腹を包丁で刺されてたんだぞ。どこをどう見たらあれが事故死だって言うんだ!」
 すると佳代子は視線を地面に落とした。遠くの方で爆発音が響く。やがて躊躇うようにして彼女は口を開いた。
「あの子は武男さん……あなたを殺すつもりだったのよ」
 あまりに意外過ぎるその一言に言葉を失った。佳代子は構わず続けた。
「あの時、ここに来る途中の道が濡れてたりしなかった?」
 そういえばと、私は回想する。確かに雨が降った気配もなくカンカン照りだったというのに、百日紅の丘へと続く石畳は打ち水でもしたように濡れていた。
「警察が調べた所、農薬が撒かれていたの。しかも薄めていない原液をね。あの子はあなたが来るのを見計らって道に農薬を撒いた。そして武男さんに気化したそれをここにたどり着く道すがらにたっぷり吸わせて、弱ったあなたを殺すつもりだったの。でも実際は計算違いだった。夏の日差しで農薬は予想以上に早く気化し、しかも風向きの不幸もあって農薬はあの子を襲った。気づいた時には手遅れであの子は昏倒して倒れた拍子に手に持っていた包丁が運悪く刃を上に向き、落ちてきたあの子の脇腹に刺さった。その痛みで一時的にあの子は覚醒し、最後の力を振り絞って百日紅の木の下まで這い、息を引き取った」
 佳代子は淀みなくそこまで言い切ると雑草の一本を抜き、それを眼前にやって眺めるとぽいと放った。
 あの時、私は百日紅の木の元へたどり着く道すがら頭がぼんやりして、美代子を見つけた直後は本当に頭ががんがんして記憶がぶつ切りになっていた。私は今までそれを熱に浮かされたかのように夢中になっていたのと、美代子の亡骸を前にしたショックのせいだとばかり思っていた。しかしあれはあの時道に撒かれていた農薬のせいだった。だが……。私は食い下がる。
「だが、どうして美代子が私を狙った? いったい、何の理由があって?」
 記憶をどうほじくり返そうと美代子が私を殺すに至る理由となることなど思いつかない。しかし私の思いを知ってか知らずか、佳代子はまた口を開いた。
「実はあの子、あたしやママにも内緒にしてたんだけど悪性の腫瘍を患ってね。もう長くなかったのよ」
 頭をガツンと混紡で殴られたかのような衝撃だった。
「病院のカルテにあの子の診察記録が残ってたの。もう余命いくばくもなかったみたい」
 私の心がついに白旗を上げた。もう何も言い挟む余地もない。美代子は腫瘍によって自分の余命がもう残り少ないことに絶望し、私との無理心中を計ったのだろう。私を殺し、自分も後を追う。彼女らしくないが、それだけの絶望に打ちのめされたのだろう。今日ここに来る途中、今更美代子のことでなにか新しい事実を知ろうとも決して驚くまい、そう心に決めていた。にもかかわらず、私は気がつくと足の力が抜けてへたり込んでいた。目線が百日紅にもたれ掛かって座っている佳代子と同じ高さになる。
「あの時美代子はこんなふうに最期まであなたを待ち続けたんでしょうね。ほんと馬鹿な子」
 あの時の美代子と同じように腰を下ろしている佳代子。その目には涙が光っている。頭の片隅でどことない違和感を感じながら私は立ち上がった。そして佳代子の手に私の手を差し出した。意外だったのか彼女は慌てて手をパタパタとさせると、ゆっくりと私の手に捕まった。引っ張りあげると佳代子は「ありがとう」とこぼした。
 そして私たちはともに百日紅の木を見上げた。枝からは妖艶ささえ感じる濃紅の花が咲いている。
 また遠くで大きな爆発音が響き、腹の底まで振動した。浅間山はやがてこの辺り一帯を火砕流と火山灰で覆い尽くしてしまうだろう。庭園の最後に残ったこの百日紅の丘も燃えるか、あるいは火山灰の下に沈むか。私たちは丘の周りの花壇にそって歩いている。いつの間にか私の胸は最後までここに残ろうという気持ちであふれていた。恐らく佳代子も、最初からそのつもりでここに来たんだろう。
「あたしのこと恨んでる? あなたを呼びださなきゃ、ここで死ぬこともなかったのに」
「そんなこと思わないさ。一緒に美代子のところへ行こう」
 しかしそんなことを言う私を何かが後ろ髪を引いている。さっきから頭の片隅で感じる違和感が取れない。一体これは何なのだろう? そのとき、どこからか低い羽音が近づいてきた。そして次の瞬間生垣の向こうからアシナガバチが一匹、私達めがけて飛んできた。「きゃ」と佳代子が叫び、腕をふるった。幸い蜂は私達を通り過ぎ、反対側の生垣の向こうへと遠ざかっていった。
「こんな時になっても蜂はしっかり働いているのね」
 私は何も答えない。その時、さっきから頭の中で引っかかっていた違和感の風船が破裂した。
 視線を地面に落とす。
「どうして佳代子は美代子が座った体勢で死んでいたって知ってるんだ?」
 何を言われたのか分からず、佳代子はきょとんとする。
「君はさっきこう言ったよね。『あの時美代子はこんなふうに最期まであなたを待ち続けたんでしょうね』って。その時の君のポーズは百日紅にもたれて座っている形だった。どうしてそうだと思ったんだ?」
 佳代子の顔から色が消えた。
「あの時、私は美代子に駆け寄って身体を揺さぶったんだ。そしてその拍子に彼女の身体は横向きに倒れた。警察が確認したのもその横向きに倒れた美代子の姿だ」
 佳代子が何かを言わんと口を開きかける。まるでさっきと立場が逆転したかのようだった。
「君は少なくとも、座った体勢で死んだ美代子を見たんだ」
 覆いかぶせるように私は言葉を続けた。何かが私を追い立てるように言葉が次から次へと口から放たれる。それは自分でも止めることが出来ない。
「ここから先はあくまで……あくまで私の憶測だから違うのなら素直にそう言って欲しい」
 そう前置く。佳代子は何も言わず表情を硬くしてこくりと頷いた。
「さっき君が見せた動作。私が手を差し出した時とアシナガバチがやってきた時。まず私が手を差し出した時、君は慌てて両の手をパタパタとさせたね。最初は照れているのかと思ったけど、次のアシナガバチが君に近づいた時違うと思った。君はアシナガバチを左手で振り払った。誰かから聞いた話なんだが、左利きから右利きへ矯正された人間でも咄嗟の動作は左が出ることがある。僕が何を言おうとしているか分かるね?」
 彼女は目線を逸らした。その目の奥に彼女を見つめる私の姿が映っている。
「君は佳代子じゃない、元々左利きだったのを右利きに矯正した美代子だ。そしてあの時死んだのは美代子じゃなくて、姉の佳代子の方なんだ」
 私たち二人を取り巻く空間が世界から隔絶されたかのように静まり返った。私はまっすぐ目の前に立つ双子の片割れを睨む。片時も目をそらさない。対する彼女は、自身を守るように堅く腕を組んで目線を逸らす。
「武男さんが何を言ってるのか分からないわ。それだけの根拠であたしを犯人呼ばわりするの?」
「根拠はまだあるよ」
 彼女は思わず目を見開く。
「まず十年前のあの日、僕はここにたどり着く道中に佳代子に電話したね。その時の彼女の電話の応対、やたらと慌ててたように感じた。美代子の名を呼ぶ声に至っては妙に上ずっていた。まるでその名を言い慣れてないかのように。自分の一人称を名前にしない人物は普段からいい慣れてない自分の名前を口走る時、微妙に小恥ずかしくなる。かくいう私もね。その時間は確か私がオービスに記録されたよりも後の時間だ。君は美代子……いや佳代子を殺した後、彼女の携帯電話に私から着信が入ったことに慌てたはずだ。電話に出ないことのない彼女だから下手に無視すると怪しまれるかもしれない。そうでなくとも、凶行に及んだ君は若干正しい判断ができなかったのかもしれない。そして佳代子になりすまして君が電話に出た」
「それもただの憶測でしょう? 証拠にはならないわ。それに忘れたの? 美代子は悪性の腫瘍持ちで余命短かったのよ。まさか病院のカルテをごまかしたわけじゃないでしょうに」
「これも只の憶測だが、ある時佳代子がこの屋敷に戻ってきた時、なにか体の調子が悪かった。だけどそそっかしい彼女はあろうことか保険証を失くしていた。そこで彼女は君に保険証を借りて診察を受けたんじゃないかな。だからカルテには佳代子ではなく、美代子の名前が記録された。一卵性双生児で親ですら時折間違えてしまう君達を、他人である医者が判断できるはずがない」
 そして――と私は更に言葉を畳み掛けた。
「君は死んだ佳代子に成り代わり今まで生きてきた。性格の違い以外は誰にも見分けがつかない君達を周りは誰も疑わなかった。そして性格の違いすら君は克服したんだ。演劇をやっていた経験を生かしてね」
 彼女は何も言わなかった。時間が止まっているようにすら感じる。
 やがて彼女は低く笑った。
「これ以上否定しても、どうせあたしが死体が座っていることを知ってたから言い逃れできないか。あなたの言う通り、あの時死んだのは佳代子姉さん。そしてあたしは死んだはずの箕浦美代子」
 美代子は溜め込んでいた澱んだ空気を絞り出した。
「どうして佳代子さんを殺したんだ。腫瘍で余命短かったあの人を」
「本当はね、佳代子姉さんも武男さん……あなたのことを好いていたの」
 そんなことを言われても、私の腹の中は不気味なほどに据わっていた。
「大学の頃からね。表向きはあたしと武男さんの恋愛を応援していたように振舞ってたけど、本人は自分の本当の気持をずっと抑えてた。社会人になってからもね。だけどある時ここに帰省していた姉さんは隊長を悪くしたんだけど、保険証を失くしてしまって代わりにあたしの保険証を貸したの。そしたら例の腫瘍が判明してもう半年も無い命だと宣告された。ママにはそのことを話さなかった。あたしだけに教えてくれた。あたしも最初は悲しくて姉さんがもうすぐ死んでしまうなんて信じられなかったし、そうなって欲しくなかった。そしてその時姉さんは初めて自分の本当の気持をあたしに教えてくれた。今までずっと隠してたけど、本当は自分も武男さんのことが好きだった、ってね。だから最初は姉さんの計画に協力した。あなたを電話で呼び出して、死ぬ前に本当の気持を伝えようってね。でも途中からなにか変だって気づいたわ。注文もしていないのに農薬が大量に届くし、何か姉さんはまだ何か隠しているような素振りを見せていた。それでもついに決行の日がやってきたわ」
 そこで彼女は一旦言葉を切った。
「まずあたしが当日の前夜、武男さんに電話をかける。予め翌日が休日だということを把握してね。ママに腫瘍のことを知られちゃいけないから、しばらく家を離れているという条件を見つけるのには苦労したわ。それで電話をかけた後はもう姉さんに任せる。今となっては信じられないけどあたしは姉さんに応援の言葉を送ってたわ。
 だけど翌日になると何かおかしかったわ。姉さんは急に百日紅の木へと続く道に農薬を撒き始めた。しかもあたしの目を誤魔化してね。そしてあの日は家に誰も居なかったから朝ごはんを作ろうと思ったの。そしたら包丁が一本失くなってた。昨日の夜まで確かにあったのに。そして既に百日紅の木の側で武男さんを待ってた姉さんに包丁を知らないかと問うと、その手に持ってるのよ。そして問いただしたわ、それでどうするつもりだって。そしたら姉さん、逆上してあたしを襲ってきた。揉み合いになったわ。二人とも既に気化し始めていた農薬を吸い込んでぼんやりとしながらね。気づいたら……姉さんの脇腹に包丁が刺さっていた。そしてあたしの左手は包丁の柄をしっかり握っていたの」
 観念したように再び美代子は百日紅の木にもたれかかって座った。私は美代子からかかってきた二つの電話の言葉を比べる。道理で全く似たような響きで一字一句違わなかったわけだ。同じ人物によって発せられた言葉だから。
「その直後、姉さんの携帯にあなたから着信が入った。努めて自然に振舞ったつもりだけどやっぱりバレちゃったか。もっとも当時のあなたも気が動転して気が付かなかったみたいだけど。そして血や指紋を拭きとって、代わりに姉さんが自分で事故で刺したように見せかけた。そしてあたしは一旦その場から離れ、警察が到着した後を見計らって現場につい今しがた到着したかのように見せかけた。佳代子姉さんがあなたを巻き込んで心中しようとしたこと、これだけは本当」
「どうして、自首しなかったんだ。警察にきちんと事情を説明すれば、罪を軽くしてもらえたかも知れなかったのに」
「姉さんはね、昔からあたしが先に始めたことを真似して、しかもあたしより上手くやってたわ。なんでもあたしより後に始めて、あたしが得るはずの栄光を奪い取ってた。本人はそんな自覚なかっただろうけどね。演劇だってそうよ。
 だから姉さんを殺してしまった時、姉さんによって自分の一生が振り回されっぱなしになることに我慢できなかった。だから今度は姉さんが得るはずだったもの自分が奪おう、そう考えたの。自分で言うのもなんだけど、狂ってるわね」
 私は一つだけ解けない疑問を口にした。
「どうしてわざわざ佳代子さんを百日紅にもたれさせたんだ。事故を装うには倒れたままにしたほうが自然だったはず。あんな無駄なことさえしなければ私も推理に確信を持つことができなかった」
 そのとき美代子は薄い笑いを浮かべた。
「さあ……。なんとなくだけど、罪悪感からかもね。あたしたちの三人目の姉妹よ、どうか姉さんをお願い……って」
 そして美代子は立ち上がった。
「さあ、どうする? もうすぐ浅間山が噴火するわ。火砕流が起きたらここは間違いなく飲み込まれる。あたしは結局罪悪感から逃れられなかった。今回の噴火で自分の運命を決めた。あたしはここで種を撒き続けるわ。さっきあなたが教えてくれた寺山修司の詩みたいにね」
 そうして彼女は再び花壇に向かい、スコップを手にとってバスケットに入れた種を畝に蒔き始める。
「あなたのこと、好きよ。今でも」
 その言葉を最後に彼女は何も言わなくなった。
 私はその場に立ち尽くす。彼女が向ける背中は既にこの地に根付いているように見えた。その時再び大きな大地の揺れが襲う。世界が蠢動する。自分は何をしにここに来たのだろう。奇妙な自問自答が浮かんではうたかたのごとく消えて行く。
 風が吹く。百日紅の枝と濃紅の花が揺れる。
 私は熱に浮かされたように空を仰ぎ、最初の一歩を踏み出した。


 
> 故郷 作:レイコ
故郷 作:レイコ

ハクタイの しんわ

むかしむかしの ことです
ひとと ぽけもんが いっしょにくらす ひろいゆたかな もりがありました
やがて ひとびとは もりをきりひらき そこにまちをつくりました
すみかを うしなった ぽけもんたちは みんなどこかへ うつりすんでしまいました
そして ときはながれ あるとき おおきなせんそうが おきました
たくさんの いのちが うしなわれました
まちは やけのはらとなり みるかげもなくなりました 
そこへ じしんのような あしおとを ひびかせて やってくるものが ありました
せなかに いっぽんのきをはやした たいりくぽけもんたちの きょだいな むれです
たいりくぽけもんたちは いちぶの すきもなく あらそいの あとちを うめつくし
あれはてた とちに みをゆだねて だいちと ひとつになりました
こうして もりは かつての こうだいな すがたを とりもどしました


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 草の要素が詰まった体は陽の光を充分に浴びてやっと活動的になるものだ。それが近頃は眠りも浅く、夜も明けぬうちに瞼が上がってしまうのはきっと歳のせいなのだろう。高い木の葉の間から漏れて差す星明かり。無音で通り過ぎた帚星があったように思う。彼は寝床から首だけじっと上向きに傾けて、日の出とともに肩身の狭くなっていく闇を見送るのが日課となっていた。
 だが今朝の目覚めはいつもと少し変わっていた。かさり、がさり、と乾いた音が未明の薄い意識に囁きかける。風もないのに葉擦れが起きる訳がない。彼は目を覚ました。
ぎくりとした。音は天蓋のように空を覆っている枝葉からではなく、なんと背中の上から聞こえくる。背中の甲羅に生やしてある一本の灌木を何かが荒らしているらしい。
 鼓動が速くなる。懐かしい感覚だ。
彼はこの森に住む生き物の中で最も巨大で最も高齢な、謂わば旧世紀の遺留品である。生存競争の第一線から身を引いてもその頑丈な体は年月に比例して堅さを極めていくようで、どんな荒くれ者も小島のような老体を一瞥しただけで立ち去ってしまい、身の危険を感じさせるような出来事と久しく縁が無くなっていた。

「誰かね。それはわしの木だよ」

 彼は朽ち木のように柔らかい物腰で尋ねた。しばらく食べ物を通す以外に喉を使っていなかったので、今聞いた自分の声がまるで別物のように感じられる。若い頃は樹皮のようにごつごつしかった声が随分角の取れたものだ。
 どんな僅かな言葉も聞き逃さないように、彼はじっと聞き耳を立てた。葉擦れの音が止まる。しかし答えはなかなか返ってこない。その代わり規則的な呼吸音が聞こえ始めた。背中の珍客は、灌木の葉に埋もれながら眠ってしまったようだ。
 さて、どうしたものか。枝葉に意思を届かせて振るい落とすことも出来る。だが、ここで辛抱強く相手の正体を探るのも一興かもしれない。何せ隠居生活は残酷なくらい暇なのだ。よし、見極めてやろうじゃないか。彼は相手が自然に目覚めるまで待つと決めた。どっちみち朝日を待つのと大差ないだろう。

 日が昇り、気温が高くなってくると背中の葉をかさかさ揺する音が再開された。思った通り動き出したようだ。
「おはよう」
 彼は明け方前に話しかけたのと同じ調子で挨拶した。返事はやはり無い。こちらの声が聞こえていないのだろうか。しかし、彼が一番気になったのは聞こえてくる音の質が少し変化したことだ。かさかさ、に加えて、ぎりぎり、とまるで何かを噛み切ったり縛ったりするような。予感を裏付けるように、鈍感ながらも神経の通った彼の枝葉が異常事態を告げている。
「お前さん、わしの葉を食べてるのか?」
 相手は何も言わない。口いっぱいに緑の繊維を頬張っている様子が目に浮かぶ。
彼がまだ幼くて頭に双葉が生えていた頃、鳥の形―カタチ―にその子葉の片割れをついばまれたことがある。あれは痛いというより恐かった。背中の灌木の葉を囓られるのも同様に痛くはないが、鼻先に息を吹きかけられているかのようなムズムズとした感触を得られるのが気になる。やはり振るい落としてしまおうか。そんな矢先、彼の耳は雨水が地面に垂れる音より早く、待ちに待った小さな声を拾い上げた。
 虫の啼き声だ。意味を持たない喃語とおぼしい。そうか。だから何も答え『られ』なかったのか。
背中の訪問者は、食欲と睡眠欲が活力の、生まれたての虫の赤ん坊。
厄介で、憎めない事実に直面してしまった。さて、どうしたものか。他所の木でも生きられるとして問題は振るい落とすことのほうだ。地面にぶつかった衝撃でころっと逝ってしまわないか。そんな命の奪い方をして良心が咎めないか。
仕方がない。食害は様子見だ。もう少しだけこのムズムズに付き合ってやろう。体が大きくなればより良い樹を求めて出て行くに違いないから。彼は気を取り直した。自分も朝食を採ろうと思った。いつものようにあの湖へ行って綺麗な水をたらふく飲んだら、水辺の花でも眺めながら光合成をして過ごそう。
大きな生き物たちが同じような経路を辿るうちに、そこはいつしか彼の体幅が楽々通れるほどの広い獣道が出来上がっていた。今日もその道を拝借して湖まで抜けると、起き抜けの太陽が早くも湖面を銀の粉をまぶしたように煌めかせていた。空では黒っぽい鳥のカタチが囀り、丸々とした鼠のカタチが水縁に打ち上げられた枯れ枝に白い前歯を立てており、耳先にふわふわの飾り毛がついた茶色い兔のカタチは美味しそうに青草をはんでいた。見た目は似ていないが彼と同じ草の力を持つカタチもたくさん来ていた。岸辺にいる花のカタチは赤と青の優雅に咲き誇る両手から誰が一番蠱惑的な香りを放てるかを競っているらしく、風も凪いでいるので辺りがうっとりするほど甘い香気で満たされている。
いつもと変わらない穏やかな朝の景色。その中でもとりわけ彼の中心視野を押さえていたのが、水面に儚くたゆたう一つのカタチだった。額には小さな角。くるりと巻いた耳。親近感の湧く灰色の甲羅。もたげた太い首は一瞬蛇の鎌首のように見えなくもない。青い皮膚は湖面が空の色を映した時によく溶け込んでいた。
この湖にあの甲羅のカタチが現れたのはそう遠い昔のことではなかった。当時、情報は足が付いたように森を駆け回り、あの見慣れないカタチが湖を独り占めする気ではないかと悪い噂も立った。彼は丸鼠のカタチ達が「人間の仕業だ。彼女は捨てられたのだ」と話しているのを聞いた。元はこの森の果てにある「海」という場所に住むカタチだということも。泳ぎに適したあの体では陸を行きたくとも行けないに違いない。以来、あの甲羅のカタチは誰と交わることもなく湖の真ん中で独り静かに暮らしている。
度々彼女は、全てを赤く染め上げる白日の終焉に身も凍るほど美しく哀調を帯びた調べを手向けた。二度と帰れない故郷を想っているのか。二度と会えない家族や仲間を偲んでいるのか。自分を捨てた人間を憎んでいるのだろうか。それとも今も愛しているのだろうか。
真意のほどは誰にも分からない。しかしあの甲羅のカタチの唄に耳を傾ける時、彼は自分の憂いが水気を絞り出されて昇華する心地になれた。彼もまた取り残された身空なのである。家族はすでに亡くし、冒険に憧れて森を出た仲間の消息はほとんど分からない。以前、旅から戻った数名が森の外で得た素晴らしい体験について語って聞かせてくれたことがある。あの眼の輝き、あの速い息遣い。いつ思い起こしても肌に熱い風が吹く。そして英雄達はみな口を揃えてこう締めくくる。どこで何をしていてもやはり故郷は忘れられない。だから帰ってきたのだと。
故郷に拘りを見せた仲間の胸中は、頭では理解できても深い部分で寄り添えた気がしなかった。じゃあ帰りたいと思いたくなくなるほどに荒れ果ててもか、と聞いてみると、ああきっとそのようなものだろうとあっけらかんとした答えが返ってきた。故郷を一歩も出たことのない若い彼はどうしても腑に落ちなかった。外界で山ほど珍しいものを見てきたくせに。本音を言うと彼は羨ましかったのだ。大胆不敵に外界に乗り出した仲間達の生き様が。若い時分の彼はとにかく自信のない男で勇敢な仲間達への劣等感で雁字搦めとなっていた。だから皆が旅に出る時は揃って逃げるように浸かり込んだ。幼い頃から慣れ親しんだ、平穏が一番の生活に。それが当たり前になりすぎて今さら有り難みを語られても実感は湧かなかったが、あの時は外界の引き立て役として故郷の名も大いに働いて聞こえた。それだけのことだった。
なのに。偉大な友は晩年まで愛し抜いた土に抱かれて、とうの昔に眠りについたというのに。自分はまだ生きて故郷の土を踏みしめている。皮肉な話だ。
湖に着いたのを境に背中の灌木を食い荒らす音は止んでいた。彼は子どもを持ったことがないので生まれ立ての頃というのは本当に喰っちゃ寝が仕事なのだと変に納得してしまう。それからこんな事を考えた。もしかすると、この虫の赤ん坊にとっては自分の背中が故郷になるのではないか。生まれ、そしてここで育つのだとしたら。そう思うと途端に心が侘びしくなる。自分にとっての故郷はこの森だ。こんなに広大な姿で在れる筈がない。仲間の亡骸を受け入れて未来への糧としたこの土地は、故郷とは、そう。命と想いも引き受ける永遠の器だ。しかし生きている限り、どう足掻いてもその時は訪れる。それならいっそ忘れられたほうが気も楽だ。元気に巣立ってくれればそれで良い。離れていく背中を閑かに見送りたい。だからその瞬間が叶うまで、自分も命を輝かそう。この子と一緒に、精一杯。
「いつか、行っておいで。そしてこの世界のどこかに、今度はお前の命の種を落としておいで」
もうじき夕暮れだ。日がな一日湖の畔で過ごしてしまった。さあ来た道を戻ろうか。甲羅のカタチが歌い出す前に。幼子にあの哀しい調べを聞かせるのは誤りなのだから。そして願わくばこの子にはあの旋律に魂を震わせることのない、正反対の余生を送って貰いたい。想うだけ切ない望郷の念など、これっぽちも抱かずに。


 
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