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百日紅の木の側で 作:わたぬけ

 館の前で車を停めると見えない力で弾き出されるように私は車を降りた。鍵をかけるのも忘れて。それだけ事は急を要していた。館の敷地を堅牢に守護する高い煉瓦塀。こんな時が訪れても尚、中の屋敷とその主を守るために一切を寄せ付けようとしない。私はその唯一の出入り口である正面の門へと走る。その時真下から突き上げるような衝撃で軽く上に飛ばされると、同時に大地がうなり声を上げて振盪した。思わず塀に寄りかかって収まるのを待つ。もう本当に時間がなかった。私は車を走らせてきた道とは反対側の方向へと視線を移した。目にはM町、いやこの裾野の地域全体を見下ろす巨大な存在が映っていた。その中腹よりも上辺り――七合目辺りだろうか――のあちこちから漫画などでよくある怒りの表現で目にするような白い煙が噴出している。
 気象庁が浅間山で江戸期の天明噴火以上の大規模噴火が発生するという警報を出したのは一週間のことだ。その二ヶ月も前から浅間山では周辺で小さな地震が起きたり、山頂で噴煙が確認されるなどの火山活動が見られていた。それらは時間が経過するとともに次第に激化の一途をたどり、警報が発表された直後にはこのM町や軽井沢、長野原などの浅間山の裾野に位置する地域一帯が火山灰に覆われるような噴火が発生した。それでも迫りくる大規模噴火に比べればこれはまだ軽いジャブにも満たないものらしい。特に火山や地震の研究をしたことはないのでよく分からないが、テレビや新聞、週刊誌等が伝えるところによると今回起こりつつある大噴火では山体崩壊を伴い、巨大な火砕流によって裾野一帯はイタリアのポンペイやヘルクラネウムのようになるとまるで洗脳するように繰り返していた。私の脳裏には二十五年前に長崎の島原市にある雲仙普賢岳で発生した火砕流のテレビ映像がよぎっていた。伝えるところによると今回起こる火砕流はあれさえ遥かに凌駕してしまうほどの規模になるとのことだった。そして今、私の眼前で浅間山がまさに来るべき大噴火を起こそうとしている。遠くの空では浅間山が噴火する決定的瞬間をカメラに収めようと、いくつものテレビ局の取材ヘリが自衛隊の救助ヘリに混ざって飛び交っていた。自衛隊や地元警察による道路封鎖をかいくぐり、その先にもまだ続く見張りに気づかれずにここまで来られたのはもはや奇跡としか言いようがない。
 ようやく揺れが小さくなっていくと、私は塀づたいに館の門を目指した。細い黒鉄を格子状に組み合わせた門は、いつもなら外部の者を一切寄せ付けぬように堅く閉ざされているはず。だのに、今その門の錠は外されており軽く外側に開かれ、まるで私を招いているようにさえ見える。私は未だ不気味な蠢動を続けている地に何とか踏ん張りながら、果たして門扉へたどり着き敷地との境を跨いだ。
 敷地に入った人物を迎えるのは全体の面積の半分近くを占める広大な庭園――のはずだった。私が記憶の中で知っている館の庭園はまず燃え上がるような花を咲かせた薔薇壇が人々を迎え、そこを抜けると館の正門へと続く扉に至るまで左右に季節に合わせた花々がそれぞれを主張しあったり、あるいは引き立てあったりして整然と並んでいた。そしてそれぞれの花々から漂う香りが空間の中で混ざり合い、庭園そのものが一輪の花となりその豊潤な香りが充満しているというものだった。隅に配置してある池には鯉や亀を住まわせ、時折水鳥が飛来することもあった。いつか佳代子が言っていたがある年には鴨の親子が住み付き、子供たちが成鳥へと育つまでの拠点となっていたこともあったそうだ。しかし庭園は今、そのころの様子を偲ぶ由もない。私が知っている頃には影すら見なかった雑草が背高く生え、花壇とそうでない地面との境がまるで分からない。しかもその雑草たちも度重なる噴火による降灰で真っ白になっており、葉を低く垂れ下げて今にも枯れてしまいそうだった。なんとなく眠り姫の眠る荊棘の城に乗り込む王子になったような気分だ。しかし一方は青々と生命の輝きを見せる荊棘と花の庭であるのに対し、こっちは生命の輝きはおろか今にも死に絶えてしまいそうな火山灰の庭。比べるまでもない。
 
――今ね、M町の本家の屋敷にいるの。
 佳代子が電話越しにそう言ったのは二日前のことだった。その時私は東京の勤務先で浅間山噴火への影響に対する対応に追われていた。次々と鳴り響く会社の電話に頭が割れそうな思いをし、ようやく束の間の休憩をもらった時、私はふと携帯電話になんとなく見覚えのある電話番号からの不在着信と留守電の録音が休憩に入る二十分前に入っていることに気づいた。留守電の主は佳代子だった。メッセージは一言――気づいたらすぐ電話して――だった。箕浦佳代子、私がどんなに忘れようとしても忘れることの出来ない二人の女の一人。どうして今になって彼女から? しかもこんな時に。 私は胸の底に黒い熱を抱えたような気持ちになりながら急いで人目のつかないところへ移動し、電話をかけた。着信音が三度鳴り、四度目が鳴っている途中で繋がった。
――もしもし、武男さんね。
――佳代子さん。いったいどうしたんです?
 質問に答えず、佳代子は先述した言葉を言った。
――今ね、M町の本家の屋敷にいるの。
 私はあっけにとられた。同時に頭の中が処理でぐるぐると回るのを感じた。
――まさか? どうしてそんなところに!?
 『そこは危険区域でもう避難が完了しているはずじゃないか』『浅間山が噴火するんですよ』『早くそこから離れるんだ』同時に思いついたそれらの言葉が、一気に喉から出ようとして結果何を言っているのか分からないような言葉が口から漏れる。その時受話器の向こうからそんな私の動転ぶりが可笑しかったのか小さな笑い声が吐息とともに聞こえてきた。
――来て。
 花が囁く。
――“あの日”のことで、武男さんがまだ思うことがあるのなら、来て。
 そして私が言葉を返す間もなく、さらにこう続け、電話は切れた。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 それからM町へ向けて出発するまでのことはよく覚えていない。とにかく来るべき浅間山の噴火への対応でてんてこ舞いだった会社に強引に有給を取ったことだけは確かだ。戻ってきたところで私の椅子は無くなっているかもしれない。警察あるいは自衛隊などに連絡して佳代子を保護してもらうことも考えなかったわけではない。しかし私はその時既に熱に浮かされたように思考がぼんやりとしてそのような選択肢を選ぶという発想すらなかった。いや、例え思いついたとしても結局はこうして彼女の元へと向かうという選択肢だけを残しただろう。私にそうさせたのは彼女の電話口での最後の言葉だった。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 この言葉を耳にするのは初めてではなかった。いや、この十年間片時も私の耳から離れない特別な言葉。私が生涯忘れたくても忘れることの出来ないであろう二人の女の内、佳代子ではないもう一方の女。佳代子の双子の妹、箕浦美代子。美代子もまた十年前、同じように電話で私をM町の館へ呼び出し、その言葉を最後に電話を切った。頭の中で再現される“あの日”の記憶。もう十年も前のことだというのに、ビデオカメラで片時も逃さず録画していたかのようにその記憶は鮮明で生々しい。
 
 私はひび割れて荒れ放題の屋敷へと続く石畳を歩くと、やがて左脇の方へと抜ける側道へと差し掛かった。その荒れ様は凄まじく、両脇から伸びる雑草によってほとんど獣道の様相を呈している。しかしよく見ると両脇の雑草が何かの力によって折れ曲がっていることに気づく。誰かがこの道を頻繁に行き来している。この側道の奥に佳代子が、そして美代子が私に「待っている」と言った百日紅の木がある。私は雑草をかき分け奥へと進んだ。枯れた草が棘のようになってチクチクと刺さり、積もっている火山灰が舞う。草の種が服にくっつき、被った火山灰によって服は真っ白になった。
 そしてもう長い間この側道を歩いたと思われた瞬間、草をかき分ける手が空を掴んだ。半ば高い枯れ草を支えのようにして進んでいた私は前のめりになり、さらに次の瞬間扉を開けたように視界が開けた。なんとか体勢を立て直し顔を上げた私を待っていたのは記憶の中に眠っているものと全く同じ庭園の一角だった。雑草が綺麗に刈り取られ、石畳の輝きは当時と全く遜色ない。土がうず高く盛られ小さな丘を形成している。周囲は円形状に取り囲むように青々とした生垣が植えられ、そして中央――丘の頂上――には一本の百日紅の木が枝を葉を天に伸ばしていた。この場所だけ時が止まっているようだった。火山灰も降り積もっていない。ここだけが、この空間だけがなにか見えない力で守られている、そんな気がした。生垣に沿うように花壇が置かれ、そこにはいつでも植えられる花を迎えていいように畝が作られている。花壇境のれんがの上には植木鉢がいくつも置かれ、そこには苗が芽吹いている。
 そして彼女はいた。並ぶ花壇の内の一つで、白いブラウスに麦わら帽子を被り、畝の前にしゃがんでスコップを持ち土いじりをしていた。私が一歩歩み寄ると、気づいたのか佳代子は顔を上げた。そしてお互い目が合うと彼女は薄く笑う。その瞬間、私は彼女に会って言おうと思っていた言葉を胸の内に沈めた。早く逃げるように促すつもりだった。だけど、その思いはまるで風船の空気が抜けるように萎えていく。代わりに私の口から出たのは浅間山の噴火なんて起こっていないかのように穏やかな言葉だった。
「遅くなったね」
「ううん、いいの。来てくれただけで嬉しい」
「何をしてたのかな」
 どうしてこんなにも落ち着いているのかよく分からない。もう間もなく浅間山が山体崩壊を伴う大噴火を起こそうとしているというのに。不思議なことにこの場所に来てからあれだけ断続的に続いていた地震も収まったような気がする。静かだった。あの頃と同じ花の香り、空気の流れ、太陽の日差し、そして百日紅の木。
「種を蒔いていたの」
「花のかい?」
「ええ。マリーゴールドの花よ」
「寺山修司の詩みたいだね」
「聞いたことあるわ。有名な詩人よね。なんて詩?」
「『種子』って詩に出てくるんだ。

  たとえ
  世界の終わりが明日だとしても
  種子をまくことができるか?

 ってね。それと彼は詩人じゃないよ。彼曰く『私の職業は寺山修司です』だそうだから」
「まあ」
 佳代子は可笑しそうに声を漏らす。
 すると彼女はおもむろにスコップを手放し、立ち上がった。そして私の視線と佳代子の視線とが宙でぶつかる。胸が高鳴り、呼吸が乱れるのを感じた。それから私たち二人はまるで申し合わせたように中央の百日紅の木へと互いに歩み寄った。“あの日”、佳代子の双子の妹美代子が死んでからの時間の隔たりなど無かったかのようだった。

 私が初めて箕浦姉妹と会ったのは大学の時だ。顔の広い寺田という友人のツテでまず姉の佳代子の知り合い、そして佳代子のツテでさらに妹の美代子と知り合った。二人は演劇サークルに入っていた。箕浦姉妹の美しさ、双子という物珍しさ、そして双子の設定を巧妙に使った舞台によって、当時の演劇部は人気という恩恵を受けることに成る。一方の私はと言うと特にどのサークルや同好会にも所属せず、大学内外に大人気だった箕浦姉妹とこっそり付き合っているということに小さな誇りを感じる程度だった。最終的に付き合うことになったのは後に紹介された妹の美代子の方だった。勝気でサバサバとしていて何にでも突っ込んでいくが、そそっかしくよく物を失くすタイプの佳代子に対して、美代子は内気で慎重で几帳面で何事にも石橋を叩いてから渡るというタイプだ。しかし一卵性双生児で顔も声も背丈も同じ、それに性格は真反対なのになぜか趣味や服装などのセンスは共通しているという不思議な姉妹だった。
――性格以外で君たちを見分けるにはどうすればいい?
 いつだったかそんな質問を美代子に投げかけたことがある。すると彼女は「そうねえ」と前置き、うーんと頭をひねる。
――前は利き手がそれぞれ左右違ったんだけど……あ、あたしが左利きね――でも小さい頃に矯正しちゃったしからなあ。
 結局出た結論は「あたしでも分からない」というものだった。
 大学を卒業する年の夏に私は初めて二人の実家、M町の屋敷に招かれた。屋敷には二人の母親と何人かの家政婦がいるだけで他の家族は見当たらなかった。何か事情があるんだなと思いつつも私はついにそれを訊くことはなかった。それから私はそれから何度も屋敷へと足を運んだ。庭園の花選びをしたり、一緒に畝を耕したり。そしてあの百日紅の木。双子にとってこの木は特別な木だった。話によるとこの木は双子が生まれた年にこの場所に植えられ、二人の成長とともにこの木もまた一緒に伸びていったとのことだった。
――言うなればあたしたちは双子じゃなくてこの木を入れて三つ子ね。
 そう私に言ったのは佳代子の方だった。
 それから私たちはそれぞれ社会人になり、私は東京の会社に就職した。佳代子が関西方面の会社に就職し、美代子だけはM町に残り町役場に務めることとなった。二人が互いに違う道を歩んだのはこれが初めてだという。それからも私はちょっと長い休みが取れたら美代子の元に通い続けた。近いうちに私達二人は結婚する。自他共にそう思っていた矢先、“あの日”を迎える。
 事の起こりは彼女からの電話だった。当時既に普及して久しい携帯電話に非通知からの電話がかかる。受話器を押し当てた私の耳に入ってきたのは、美代子の明らかに何か動揺している声。私が「どうかしたのか」と尋ねると彼女はその質問には答えず、こう囁いた。
――明日、来て。
 口から花が咲くような声。
――待ってるから。庭の奥の百日紅の木の側で。ずっと待ってるから。
 そうして私が物言う暇もなく電話は切れた。その翌日は幸い休みで、ただならぬ気配を察知した私はすぐに東京からM町に向けて車を飛ばした。どうして非通知だったのかを考えもせずに。酷い胸騒ぎがした。第六感とか以心伝心とかそういう言葉には眉唾を覚えていた私だったが、結果的に私はこの考えを改めさせられることとなる。道中私は佳代子に電話を入れた。今から考えれば高速道路を運転しながら携帯電話とはなんて危険な行為だったことだろう。「美代子が?!」よほど驚いたのか電話口の向こうの彼女の声は裏返っていた。
 やがてM町の屋敷に到着した私は屋敷の門には目もくれず、百日紅の木のある小さな丘へ向かった。夏の暑い盛りで炎天下で蒸し暑い上、蝉がジージーと体感温度をさらに上げてくれるような声を響かせていた。胸は激しく動機し、あまりの暑さのためか頭がくらくらした。足元の石畳はさっきまで雨が降っていたのか水たまりができていた。
 そしてついに丘を囲む生垣を抜けた時、私の目に飛び込んできたのは天に向かって高く枝を伸ばす百日紅の木とそれにもたれ掛かって座っている美代子。雪のように白いブラウスを着て顔を隠すように麦わら帽子を被っている。両手はだらんと地面につき、眠っているように顔をうつむかせている。私は最初、彼女そっくりな人形が置いてあるのかと思った。それくらいその時の光景は現実離れしているように思えた。恐る恐る近づき私は美代子の名を呼ぶ。しかし返事はない。そして私が彼女を正面から見ようと回り込んだ時、影に隠れていた部分が顕になった。脇腹から真っ赤な薔薇が咲いていた。少なくとも最初の瞬間私の目にはそう見えた。変だな、いつか薔薇はあまり好きじゃない、と言っていたのに。そんな明後日な方向へと思考を向けたのは一種の現実逃避だったのかもしれない。そして次に視界に入ったのは赤い薔薇からにょきりと生えている木の柄。瞬間私は現実に立ち返り、美代子の名を叫びながら駆け寄った。脇腹から咲いていた薔薇の正体は彼女の体内を巡るはずの血潮であり、それが雪のように白いブラウスを緋色に染めていた。私は彼女の体を揺さぶり必死に名前を叫んだ。しかし対する彼女は物を言うこともせず、ピクリとも動かず、既に石のように冷たくなっていた。そして私が揺さぶったことで微妙な均衡の元に座った体勢になっていた彼女の体が、ゴトリと横向きに倒れる。まぶたはまるで眠っているように閉じられ、やはり動く気配もなかった。それから頭がぼんやりと曇ってよく覚えていないが、気がつくと警察が来ていたところを見ると、あの後私はちゃんと警察に連絡したらしい。そして遅れて関西から私の道中での連絡を受けた佳代子がそして当時何人かのご婦人仲間を連れて旅行に行っていた母親が到着し、物言わぬ双子の妹の亡骸を前に互いに抱き合って泣き崩れていた。
 凶器の包丁は屋敷の台所に置いてあるものだった。ほどなく第一発見者である私が疑われ、警察の取調を受けた。しかし美代子の死亡推定時刻、私はまだ高速道路を飛ばしている最中だった。そのことが証明されたのは皮肉にもスピード違反を取り締まるオービス。死亡推定時刻とほぼ同時刻に私が夢中で高速道路を飛ばしかなりのスピード違反をしている姿がしっかりと残されていたのだ。撮影された地点はM町からまだ百キロ以上も離れた場所。いくらなんでも撮影された二分後には屋敷に到着して凶行に及んだとは考えられず、警察は私を規定速度の四十キロオーバーのスピード違反でみっちりと絞る代わりに事件の無実を認めた。
 それから事件がどうなったのか私は知らない。あのときの電話口での美代子の声が頭に焼き付き、悩ませた。そして逃げるようにして箕浦家から離れ、佳代子とは以来会ってなかった。

「何も言わないのね」
 佳代子はポツリと呟いた。そして百日紅の木にもたれかかって座り込む。その姿はちょうどあの日の美代子のように見えた。
「じゃあ訊こうか。事件はあの後どうなったんだい」
 佳代子はすうっと深呼吸して空を仰いだ。
「あなたの無実が証明された後、続いてあたしとママが疑われた。でもママは旅行先で仲間と行動を共にしていたのが証明されたからほどなく無実、でもあたしにはアリバイがなかった。武男さんからの電話を受けた後あたしもすぐにここに車を走らせたから誰もあたしのアリバイを証明できなかった。そのせいで結構しつこく疑われたけど程無く事故死が立証されたわ」
「事故死だって?!」
 私は思わず叫んだ。
「どうして? 脇腹を包丁で刺されてたんだぞ。どこをどう見たらあれが事故死だって言うんだ!」
 すると佳代子は視線を地面に落とした。遠くの方で爆発音が響く。やがて躊躇うようにして彼女は口を開いた。
「あの子は武男さん……あなたを殺すつもりだったのよ」
 あまりに意外過ぎるその一言に言葉を失った。佳代子は構わず続けた。
「あの時、ここに来る途中の道が濡れてたりしなかった?」
 そういえばと、私は回想する。確かに雨が降った気配もなくカンカン照りだったというのに、百日紅の丘へと続く石畳は打ち水でもしたように濡れていた。
「警察が調べた所、農薬が撒かれていたの。しかも薄めていない原液をね。あの子はあなたが来るのを見計らって道に農薬を撒いた。そして武男さんに気化したそれをここにたどり着く道すがらにたっぷり吸わせて、弱ったあなたを殺すつもりだったの。でも実際は計算違いだった。夏の日差しで農薬は予想以上に早く気化し、しかも風向きの不幸もあって農薬はあの子を襲った。気づいた時には手遅れであの子は昏倒して倒れた拍子に手に持っていた包丁が運悪く刃を上に向き、落ちてきたあの子の脇腹に刺さった。その痛みで一時的にあの子は覚醒し、最後の力を振り絞って百日紅の木の下まで這い、息を引き取った」
 佳代子は淀みなくそこまで言い切ると雑草の一本を抜き、それを眼前にやって眺めるとぽいと放った。
 あの時、私は百日紅の木の元へたどり着く道すがら頭がぼんやりして、美代子を見つけた直後は本当に頭ががんがんして記憶がぶつ切りになっていた。私は今までそれを熱に浮かされたかのように夢中になっていたのと、美代子の亡骸を前にしたショックのせいだとばかり思っていた。しかしあれはあの時道に撒かれていた農薬のせいだった。だが……。私は食い下がる。
「だが、どうして美代子が私を狙った? いったい、何の理由があって?」
 記憶をどうほじくり返そうと美代子が私を殺すに至る理由となることなど思いつかない。しかし私の思いを知ってか知らずか、佳代子はまた口を開いた。
「実はあの子、あたしやママにも内緒にしてたんだけど悪性の腫瘍を患ってね。もう長くなかったのよ」
 頭をガツンと混紡で殴られたかのような衝撃だった。
「病院のカルテにあの子の診察記録が残ってたの。もう余命いくばくもなかったみたい」
 私の心がついに白旗を上げた。もう何も言い挟む余地もない。美代子は腫瘍によって自分の余命がもう残り少ないことに絶望し、私との無理心中を計ったのだろう。私を殺し、自分も後を追う。彼女らしくないが、それだけの絶望に打ちのめされたのだろう。今日ここに来る途中、今更美代子のことでなにか新しい事実を知ろうとも決して驚くまい、そう心に決めていた。にもかかわらず、私は気がつくと足の力が抜けてへたり込んでいた。目線が百日紅にもたれ掛かって座っている佳代子と同じ高さになる。
「あの時美代子はこんなふうに最期まであなたを待ち続けたんでしょうね。ほんと馬鹿な子」
 あの時の美代子と同じように腰を下ろしている佳代子。その目には涙が光っている。頭の片隅でどことない違和感を感じながら私は立ち上がった。そして佳代子の手に私の手を差し出した。意外だったのか彼女は慌てて手をパタパタとさせると、ゆっくりと私の手に捕まった。引っ張りあげると佳代子は「ありがとう」とこぼした。
 そして私たちはともに百日紅の木を見上げた。枝からは妖艶ささえ感じる濃紅の花が咲いている。
 また遠くで大きな爆発音が響き、腹の底まで振動した。浅間山はやがてこの辺り一帯を火砕流と火山灰で覆い尽くしてしまうだろう。庭園の最後に残ったこの百日紅の丘も燃えるか、あるいは火山灰の下に沈むか。私たちは丘の周りの花壇にそって歩いている。いつの間にか私の胸は最後までここに残ろうという気持ちであふれていた。恐らく佳代子も、最初からそのつもりでここに来たんだろう。
「あたしのこと恨んでる? あなたを呼びださなきゃ、ここで死ぬこともなかったのに」
「そんなこと思わないさ。一緒に美代子のところへ行こう」
 しかしそんなことを言う私を何かが後ろ髪を引いている。さっきから頭の片隅で感じる違和感が取れない。一体これは何なのだろう? そのとき、どこからか低い羽音が近づいてきた。そして次の瞬間生垣の向こうからアシナガバチが一匹、私達めがけて飛んできた。「きゃ」と佳代子が叫び、腕をふるった。幸い蜂は私達を通り過ぎ、反対側の生垣の向こうへと遠ざかっていった。
「こんな時になっても蜂はしっかり働いているのね」
 私は何も答えない。その時、さっきから頭の中で引っかかっていた違和感の風船が破裂した。
 視線を地面に落とす。
「どうして佳代子は美代子が座った体勢で死んでいたって知ってるんだ?」
 何を言われたのか分からず、佳代子はきょとんとする。
「君はさっきこう言ったよね。『あの時美代子はこんなふうに最期まであなたを待ち続けたんでしょうね』って。その時の君のポーズは百日紅にもたれて座っている形だった。どうしてそうだと思ったんだ?」
 佳代子の顔から色が消えた。
「あの時、私は美代子に駆け寄って身体を揺さぶったんだ。そしてその拍子に彼女の身体は横向きに倒れた。警察が確認したのもその横向きに倒れた美代子の姿だ」
 佳代子が何かを言わんと口を開きかける。まるでさっきと立場が逆転したかのようだった。
「君は少なくとも、座った体勢で死んだ美代子を見たんだ」
 覆いかぶせるように私は言葉を続けた。何かが私を追い立てるように言葉が次から次へと口から放たれる。それは自分でも止めることが出来ない。
「ここから先はあくまで……あくまで私の憶測だから違うのなら素直にそう言って欲しい」
 そう前置く。佳代子は何も言わず表情を硬くしてこくりと頷いた。
「さっき君が見せた動作。私が手を差し出した時とアシナガバチがやってきた時。まず私が手を差し出した時、君は慌てて両の手をパタパタとさせたね。最初は照れているのかと思ったけど、次のアシナガバチが君に近づいた時違うと思った。君はアシナガバチを左手で振り払った。誰かから聞いた話なんだが、左利きから右利きへ矯正された人間でも咄嗟の動作は左が出ることがある。僕が何を言おうとしているか分かるね?」
 彼女は目線を逸らした。その目の奥に彼女を見つめる私の姿が映っている。
「君は佳代子じゃない、元々左利きだったのを右利きに矯正した美代子だ。そしてあの時死んだのは美代子じゃなくて、姉の佳代子の方なんだ」
 私たち二人を取り巻く空間が世界から隔絶されたかのように静まり返った。私はまっすぐ目の前に立つ双子の片割れを睨む。片時も目をそらさない。対する彼女は、自身を守るように堅く腕を組んで目線を逸らす。
「武男さんが何を言ってるのか分からないわ。それだけの根拠であたしを犯人呼ばわりするの?」
「根拠はまだあるよ」
 彼女は思わず目を見開く。
「まず十年前のあの日、僕はここにたどり着く道中に佳代子に電話したね。その時の彼女の電話の応対、やたらと慌ててたように感じた。美代子の名を呼ぶ声に至っては妙に上ずっていた。まるでその名を言い慣れてないかのように。自分の一人称を名前にしない人物は普段からいい慣れてない自分の名前を口走る時、微妙に小恥ずかしくなる。かくいう私もね。その時間は確か私がオービスに記録されたよりも後の時間だ。君は美代子……いや佳代子を殺した後、彼女の携帯電話に私から着信が入ったことに慌てたはずだ。電話に出ないことのない彼女だから下手に無視すると怪しまれるかもしれない。そうでなくとも、凶行に及んだ君は若干正しい判断ができなかったのかもしれない。そして佳代子になりすまして君が電話に出た」
「それもただの憶測でしょう? 証拠にはならないわ。それに忘れたの? 美代子は悪性の腫瘍持ちで余命短かったのよ。まさか病院のカルテをごまかしたわけじゃないでしょうに」
「これも只の憶測だが、ある時佳代子がこの屋敷に戻ってきた時、なにか体の調子が悪かった。だけどそそっかしい彼女はあろうことか保険証を失くしていた。そこで彼女は君に保険証を借りて診察を受けたんじゃないかな。だからカルテには佳代子ではなく、美代子の名前が記録された。一卵性双生児で親ですら時折間違えてしまう君達を、他人である医者が判断できるはずがない」
 そして――と私は更に言葉を畳み掛けた。
「君は死んだ佳代子に成り代わり今まで生きてきた。性格の違い以外は誰にも見分けがつかない君達を周りは誰も疑わなかった。そして性格の違いすら君は克服したんだ。演劇をやっていた経験を生かしてね」
 彼女は何も言わなかった。時間が止まっているようにすら感じる。
 やがて彼女は低く笑った。
「これ以上否定しても、どうせあたしが死体が座っていることを知ってたから言い逃れできないか。あなたの言う通り、あの時死んだのは佳代子姉さん。そしてあたしは死んだはずの箕浦美代子」
 美代子は溜め込んでいた澱んだ空気を絞り出した。
「どうして佳代子さんを殺したんだ。腫瘍で余命短かったあの人を」
「本当はね、佳代子姉さんも武男さん……あなたのことを好いていたの」
 そんなことを言われても、私の腹の中は不気味なほどに据わっていた。
「大学の頃からね。表向きはあたしと武男さんの恋愛を応援していたように振舞ってたけど、本人は自分の本当の気持をずっと抑えてた。社会人になってからもね。だけどある時ここに帰省していた姉さんは隊長を悪くしたんだけど、保険証を失くしてしまって代わりにあたしの保険証を貸したの。そしたら例の腫瘍が判明してもう半年も無い命だと宣告された。ママにはそのことを話さなかった。あたしだけに教えてくれた。あたしも最初は悲しくて姉さんがもうすぐ死んでしまうなんて信じられなかったし、そうなって欲しくなかった。そしてその時姉さんは初めて自分の本当の気持をあたしに教えてくれた。今までずっと隠してたけど、本当は自分も武男さんのことが好きだった、ってね。だから最初は姉さんの計画に協力した。あなたを電話で呼び出して、死ぬ前に本当の気持を伝えようってね。でも途中からなにか変だって気づいたわ。注文もしていないのに農薬が大量に届くし、何か姉さんはまだ何か隠しているような素振りを見せていた。それでもついに決行の日がやってきたわ」
 そこで彼女は一旦言葉を切った。
「まずあたしが当日の前夜、武男さんに電話をかける。予め翌日が休日だということを把握してね。ママに腫瘍のことを知られちゃいけないから、しばらく家を離れているという条件を見つけるのには苦労したわ。それで電話をかけた後はもう姉さんに任せる。今となっては信じられないけどあたしは姉さんに応援の言葉を送ってたわ。
 だけど翌日になると何かおかしかったわ。姉さんは急に百日紅の木へと続く道に農薬を撒き始めた。しかもあたしの目を誤魔化してね。そしてあの日は家に誰も居なかったから朝ごはんを作ろうと思ったの。そしたら包丁が一本失くなってた。昨日の夜まで確かにあったのに。そして既に百日紅の木の側で武男さんを待ってた姉さんに包丁を知らないかと問うと、その手に持ってるのよ。そして問いただしたわ、それでどうするつもりだって。そしたら姉さん、逆上してあたしを襲ってきた。揉み合いになったわ。二人とも既に気化し始めていた農薬を吸い込んでぼんやりとしながらね。気づいたら……姉さんの脇腹に包丁が刺さっていた。そしてあたしの左手は包丁の柄をしっかり握っていたの」
 観念したように再び美代子は百日紅の木にもたれかかって座った。私は美代子からかかってきた二つの電話の言葉を比べる。道理で全く似たような響きで一字一句違わなかったわけだ。同じ人物によって発せられた言葉だから。
「その直後、姉さんの携帯にあなたから着信が入った。努めて自然に振舞ったつもりだけどやっぱりバレちゃったか。もっとも当時のあなたも気が動転して気が付かなかったみたいだけど。そして血や指紋を拭きとって、代わりに姉さんが自分で事故で刺したように見せかけた。そしてあたしは一旦その場から離れ、警察が到着した後を見計らって現場につい今しがた到着したかのように見せかけた。佳代子姉さんがあなたを巻き込んで心中しようとしたこと、これだけは本当」
「どうして、自首しなかったんだ。警察にきちんと事情を説明すれば、罪を軽くしてもらえたかも知れなかったのに」
「姉さんはね、昔からあたしが先に始めたことを真似して、しかもあたしより上手くやってたわ。なんでもあたしより後に始めて、あたしが得るはずの栄光を奪い取ってた。本人はそんな自覚なかっただろうけどね。演劇だってそうよ。
 だから姉さんを殺してしまった時、姉さんによって自分の一生が振り回されっぱなしになることに我慢できなかった。だから今度は姉さんが得るはずだったもの自分が奪おう、そう考えたの。自分で言うのもなんだけど、狂ってるわね」
 私は一つだけ解けない疑問を口にした。
「どうしてわざわざ佳代子さんを百日紅にもたれさせたんだ。事故を装うには倒れたままにしたほうが自然だったはず。あんな無駄なことさえしなければ私も推理に確信を持つことができなかった」
 そのとき美代子は薄い笑いを浮かべた。
「さあ……。なんとなくだけど、罪悪感からかもね。あたしたちの三人目の姉妹よ、どうか姉さんをお願い……って」
 そして美代子は立ち上がった。
「さあ、どうする? もうすぐ浅間山が噴火するわ。火砕流が起きたらここは間違いなく飲み込まれる。あたしは結局罪悪感から逃れられなかった。今回の噴火で自分の運命を決めた。あたしはここで種を撒き続けるわ。さっきあなたが教えてくれた寺山修司の詩みたいにね」
 そうして彼女は再び花壇に向かい、スコップを手にとってバスケットに入れた種を畝に蒔き始める。
「あなたのこと、好きよ。今でも」
 その言葉を最後に彼女は何も言わなくなった。
 私はその場に立ち尽くす。彼女が向ける背中は既にこの地に根付いているように見えた。その時再び大きな大地の揺れが襲う。世界が蠢動する。自分は何をしにここに来たのだろう。奇妙な自問自答が浮かんではうたかたのごとく消えて行く。
 風が吹く。百日紅の枝と濃紅の花が揺れる。
 私は熱に浮かされたように空を仰ぎ、最初の一歩を踏み出した。


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