> 七賢人、ヴィオ 作:来来坊(風)
七賢人、ヴィオ 作:来来坊(風)
 私が始めてホドモエの冷凍コンテナに入ったのは、まだプラズマ団が存在していた頃。
 王であるN様の『友達』を守るため、私と八名の団員は冷凍コンテナの中で震えていた。N様の友達は氷タイプのポケモン、バニプッチ。気温の低い場所を好むそのポケモンのためだけに私達は冷凍コンテナに身を隠していたのだ。
 もちろん王であるN様がそうしろと指示した訳ではない。だが、冷凍コンテナ内に身を隠す事を王であるN様が止めた訳でもない。
 氷の部屋は年老いた私の身には辛く厳しいものだった。皮膚は切れ、歯が鳴り、目が霞む。それに、ボールの中に入っている私のポケモンにも良い環境ではない。私は死を覚悟しながらも王であるN様の『友達』を守った。
 寒さに震えながら私は考えた。今現在、王であるN様の友達であるこのバニプッチは幸せかもしれない。だが、私達はどうなのかと。私と八名の団員、そしてそれぞれが保持しているポケモンは幸せではない。この差はなんなのだ。王であるN様は自らの『友達』を非常に思っていらっしゃる、それは十分に分かっている。だが我々は? 王であるN様にとって私達はなんなのだ?
 それまで考えて、私は自らを戒めた。王であるN様を疑うなんてなんと愚かな事なのだろう。王であるN様は私などより遥か遠くにいらっしゃる方だ、あの方に間違いなど無い。寒さで思考力が落ちている。
「お前達、もっと私を包め、寒くて敵わんぞ」
 私は、自らの中に渦巻いている感情を団員にぶつける事で何とかしようとした。事実、寒かったというのもある。
 だが、そんな事をせずとも良かった。その直後の巻き起こった出来事のおかげで私はそのような事を考える暇など無くなったのだ。
「やれやれ、本当に隠れていたとは。寒いならメンドーだけど外まで案内するよ?」
 それが私達に向けられている言葉だというのはすぐに分かった。声がしたほうを見るとまだ幼い、めがねを掛けた少年と髪をまとめた少女。
 彼らが私達の敵であることはすでにプラズマ団員から聞いていた。
 腰のボールの触れる、王であるN様の友達はまだ其処にいた。
「今預かっているのは王の友達であるポケモン。こんなところで傷つける訳には行かぬ。お前達、こやつらを蹴散らせ」



 そして、今再び私は冷凍コンテナの最後部に居る。
 周りは氷だらけで寒さが私の体を刺すように攻める、寒さに呻いた事で口から漏れた白い息すら凍て付く様に感じる。
 王であるN様が『あの戦い』に敗北し、ゲーチス様が消えてしまわれた事で、私ヴィオを含む七賢者はイッシュの方々へ身を隠した。皆が私と同じことを考えているのならば、それは追われることを嫌ったからではない。誰にも邪魔されず、一人で考えたかったのだ。王であるN様の事、自分たち七賢者の事、理想の世界の事、この世の全ての事。全てがリセットされた今、一人で。
 身を隠すのならばもっと適した場所があったのかもしれない。だが、私はあえてそれを嫌った。
 この寒さ。この老体を亡き者にすることも可能かも知れぬこの寒さこそが、今の私の求めるものなのだと思った。
 空気を吸う、息を吐く、心臓が鼓動を刻む。それらは何でも無い事、それは一つの生命としてただ存在しているだけの事。それでは駄目、それでは生きていると言う感覚が無い、抜け殻なのだ、何かが入っていた空っぽの器。置物、何も考えない置物。空中にふわふわと浮いた存在、何にも触れられる事がないと言う事は、何にも触れる事が出来ないと言う事と同意義。
 楽しかろうと、苦しかろうと、生きていると言う実感は重要なのだ。否、生きているという実感が無ければ楽しみも苦しみも生まれぬ。何も無い、空中に浮いた抜け殻が何を感じる事が出来ようか。
 ゲーチス様は、間違いなく私に生きているという実感をくださった、その結果何をしたかったのか。そんな事はどうでも良い。少なくとも私が王であるN様に従い、お守りしていた頃には間違いなく私は生きていた。私にとって重要なのはそれだけだったのかも知れぬ。
 コンテナの壁は一面が凍りついていた、私は両の手のひらをそれに付ける。
 瞬く間に手のひらの感覚が無くなる、まるで手のひらだけすっぱりと無くなってしまったかのようだ。
 そして、余りの寒さにこれまで以上に体が震える。私は手を離した。
 そう、この震えこそ、この苦しみこそ、私が求めていた生きているという感覚。
 何故あの時、王であるN様を疑ったのか。それはあの寒さ、苦しみによってヴィオという人間がより強く自らの意識に現れたからに違いない。
 そして、王であり、私の生きているという実感そのものであったN様を失った事により、私はこの場所を求めた、この凍て付く氷の世界を求めた。生きているという実感が欲しいためだけに。
 自然と口端が釣り上がる、目頭が熱くなり、涙がこぼれる。だが、それすらも頬を伝う前に凍りついた。
 私は自らの境遇に気づいたのだ。なんと悲しく、愚かなのだろう。私はもはや通常の生活では生きているという実感を得られぬ、ただの抜け殻。
 腰に手を当て、つい最近まではモンスターボールがあった場所を弄る。ここに身を隠す前に私のポケモンは全て逃がした、彼らは全てこの氷の環境に適したポケモンたちではなかったのだ。
 彼らがいればまだ違っていたのだろうか。彼らと共にいればまだ私は生きていただろうか。王であるN様は「ポケモンを完全にしたい」とおっしゃった、未だにそれは高貴な考えだと思う。だが、それは本当にポケモンを開放する事でしか成し得ないのか。現にポケモンを手放した私は苦痛でしか生きている実感を得られない。現状の人とポケモンの関係ではポケモンは完全な存在になれないのだろうか。手放してしまった今、それすらも分からない。
 入り口のほうから、聴きなれない音がした。
 見ると、あの時の少女が其処にいた。何故ここに来たのだろう。妙な少女だ。
 少女は私の存在に驚いた風だったが、すぐに腰のボールに手を当ていつでもポケモンを繰り出せるようにしながら私に向かって歩を進める。
 無駄な心配だ、私はポケモンを持っていないし、そもそも彼女が私の敵であったのは王であるN様とゲーチス様の敵であったからだ。抜け殻の私にとって彼女の事などどうでも良い。
 それよりも、人と向き合うのは久しぶりだ。長らく動かしていなかった唇を動かすと微かに強く白い息が舞った。
 近づいてきる彼女を手で制し、私は言った。
「また ここに来たのか? 物好きなトレーナーよ。その好奇心に応じて少し語ってやるとするか」
 
> 凍てつく愛 作:道草
凍てつく愛 作:道草
目覚めた時、耐え難い寒気を吐き気を覚える。うっすらと開いたカーテンの合間から朝の日差しが一筋の光となって仄かに輝いている。
一戸建とはいえ、一部屋しかない家は無意味なまでに空間が大きく、暖房をつけても部屋全体が暖かくなるまで相当な時間と光熱費を要する。
四天王で稼いだ貯蓄を使って家のリフォームをすべきだったとカンナは毛布を頭から被って低くうなった。
ベッドのすぐ隣で横たわるゴンベ人形を掴んで放り投げ、彼女は小さな棚の取っ手に手を伸ばし、無造作な手つきで体温計を探る。
思いのほか自分の身体は水を吸った着物のように重くなった。ようやく先の細いプラスチック製の機器を手に取った。
汗でぐっしょりのシャツの襟ををめくり、脇に挟んだ。測るまでもなく体温計の値は平熱を大きく上回っていた。

―― こじらせちゃったみたい。

家の中はあらゆる大陸のデパートで見かけた縫い包みが所狭しと置かれていて、部屋の中央に立つと彼らの作り物の瞳が自分に集中する。
壁のジャンパーに手をかけ、羽織る。火照って寒気を感じる身体に厚着をしたところで寒気を防げるとは限らないが気休めにはなるだろう。
この辺境の島には医療所は設けられている筈がなく、診察を受けるにはクルーザに乗って本土の病院に向かうほかない。
玄関からドアを開けて外へ出ると真冬の冷気が顔へ吹き付けた。そして愕然とする。
いつも見る島の明方の光景が全く違っていた。影の向きが西と東で逆転している。寝起きでぼんやりした頭をめぐらせて、彼女は俄かに気付く。

朝だと思い込んでいたけど今は夕方だった。

私は半日ほどベッドの上で眠っていた。道理で一晩寝たにしては頭の中の時計が狂ったような感じがするわけだ。
この時間帯では本土に行っても病院が閉まっている。途方に暮れていると、見覚えのある顔の女性が彼女の前の芝生に立ち入ってきた。
幼い頃から世話になっている育て屋のお婆さんだ。穏やかな笑顔が一番似合うが、今は不安げな表情をしている。

  「あらあらカンナちゃん。今朝何度もノックしたのよ」
  「ごめんなさい、風邪でずっと寝込んでいたみたい」

育て屋のお婆さんはカンナが物心つく前からずっと世話になっていた。
ポケモンにも人間にも分け隔てなく面倒見が良く、とても柔和な人柄であったお婆さんは、カンナの事を成人した後も、四天王となった今も
『カンナちゃん』と愛称で呼び続けてくれた。格式ばった世界の中でずっと暮らしていると、今のような愛称で呼ばれる事が心地よくなってくるものだ。
ふっと笑みを浮かべたカンナは赤縁の眼鏡を治しながら答える。

  「大丈夫よ。丁度四天王の休暇中だから。不幸中の幸いね」
  「そんな事言いなさんな。無茶ばかりしてたら命取りよ」

命取りなんて単語が出てくるなんて…相変わらず大袈裟な事をいう人だとカンナは苦笑混じりに頷く。
するとお婆さんは何かを思い出したように皺くちゃの手をぽんと叩いて拍子を打った。

  「あ、そうそう思い出した。昨日カンナちゃんが赤い帽子の男の子と一緒に追い払った…その、何とか団という連中だっけ」

笑顔が急に引きつった。北東の洞窟にてあの少年と共闘した記憶がすぐ鮮明に蘇ってきた。
共闘した彼の名前はレッドという名前で、かつては聞き覚えのない街の出身で無名のトレーナーだった。
だが、警察のロケット団にまつわる事件の裏側では不思議と彼の名前が何度も登場し、ついにリーグにて彼女は彼に一度敗れた。
彼と彼のパートナーの絆の力は、向かい合って戦ったあの時も、向きを揃えて戦った昨日も変わらず凄まじい強さを誇っていた。  

お婆さん曰く、今レッドはロケット団の残党の討伐という目的で、遥か南に浮かぶ七島の草の根を掻き分けて連中を追っているらしい。
本当は彼女も追いたかった。追って自分の生まれ故郷を争うとした罪を懺悔させたかった。けどこんな時に限って身体が言うことをきいてくれない。

  「今日はゆっくりお休み。後で特性の卵粥作ってあげるから」
  「…うん」

帰路につくお婆さんを作り笑顔で送ったカンナだが、心の中は悔しさで溢れていた。
ふと前に居座る家を見やると、東に向かっていた影がさっきより伸びている。眠る気分じゃなかったが、カンナはしぶしぶ再び家に入った。



熱はさっきより輪をかけて酷くなり、実を覆う寒気がさっきよりも勢いを増してきた。息が更に熱を増している。
育て屋のお婆さんが卵粥を持ってきてくれた時は差ほどでもなかったのに夜が更けてくると途端に悪化した。
毛布の中に丸く包まれているのに真冬の雪山に閉ざされているような感覚…。今まで痛めつけてきた冷気というポケモンの武器が自分に降りかかっている。
そのような気さえしてくる。病気になると色々な事柄がマイナス思考となって現れる。あの話は本当だとカンナはつくづく思った。

着せられたような閉塞感は濡れ衣から鉛の鎧に様変わりし、汗だらけ服を着替えることも適わない。
自分のパートナーに助けてもらおうと棚の上のボールに手を伸ばそうにも、今の彼女の手持ちには両手を使って看病できる者は居ないことに気付いた。
頼みの綱のルージェラは昨日の戦いで負傷してしまい育て屋に一度預けている。ラプラスやパルシェンは賢い子だが少し難しい。ヤドランは正直言って問題外。

―― なんてことなの…

急に絶望感に襲われた彼女は、モンスターボールを手に取るのを諦め、そのまま腕の力を抜いた。
一瞬細い指の先にボールが当たって棚から転げ落ちたが、もう彼女は失神するかのように眠りについた。
最後に目に映った部屋中のぬいぐるみ達が心配そうに自分を眺めていた。



苦しい夜を越えて朝を迎え、ほぼ一日眠っていたカンナは目覚めた。外のピジョンの鳴き声や、島の住民の話し声が小さく聞こえてくる。今度こそ朝だ。
だが最初に目に映ったのは家の天井ではなく、乳白色で少し滑りのある不思議な物体が間近に広がっている。

  「…のわっ!?」

あまりの驚きに漫画のような言葉を発してしまった。慌てて声を上げるとその乳白色の物体はゆっくりと動き、頭上数センチで鳴き声をあげる。
ラプラスの下顎がアップで彼女の額に乗っかっていた事に気付くのに随分時間がかかった。
起き上がると昨晩のような寒気も吐き気も殆ど感じなくなっている。ベッドの前でラプラスは彼女の起床に嬉しそうに首を少し傾げた。
氷ポケモンのラプラスは季節に応じて変温するらしく、冬のこの時期なら彼女の氷嚢代わりにうってつけの体温だったのだろう。

  「ラプラス…一晩中看病してくれたのね」

その問いかけにこくりと頷くが、ラプラスはふらついている様子である。やはり寝不足なのだろう。
彼女は何も言わずそのラプラスを優しく抱いた。大きな体格であるラプラスには一部屋しかない一戸建ての家にぴったりのサイズだった。
リフォームしなくて良かった、とカンナは思った。
 
> 銀色の季節 作:一葉
銀色の季節 作:一葉
「寒い」
言い捨てた僕は、室内だと言うのに分厚いコートを羽織っていた。
シンオウ地方キッサキシティ、僕は今、この街に来ている。
雪国シンオウの中でも最北端に位置するこの街は、僕が想像していたよりもずっと寒かった。
一歩踏み出せば膝まで雪に埋まり、寄せられた雪がまるで壁のようにそそり立っている。
まさしく一面銀世界と言う奴だ。

そんな銀色の世界の寒さに耐え兼ね、慌てて飛び込んだポケモンセンター、そこは外に引けを取らないくらい寒かった。
「暖房が故障してしまったみたいなの、少し寒いけど我慢してね」
これは少しどころじゃない。
言ったジョーイさんはさすがと言うべきか、いつもの制服にカーディガン一枚と非常に寒そうな格好をしていた。
さすが雪国の育ち、いやこのジョーイさんがキッサキ出身かはわからないけど。
とにかく温暖なホウエン育ちの僕には耐えられなかった。
昼間はフレンドリィショップに避難していたが、夜になって閉店、仕方なくポケモンセンターに帰ってきたのだ。
最初は相棒、炎ポケモンのヒコザルを抱いて暖を取っていたのだが、窓の外の雪景色に誘われ飛び出していってしまった。
寒さに凍える主人を置き去りにして行くのだから質が悪い。
なんて薄情者だ。
そんなわけで、外で跳ね回るヒコザルを窓越しに眺めながら震えていたのだった、今ここ。

「あいつは寒くないのかねぇ」
「炎ポケモンは体温が高いですから、寒さには強いんですよ」
知ってる、だから湯タンポ代わりにちょうど良かったのだ。
「ジョーイさんは寒くないんですか?」
「えぇ、慣れてますから」
なんと逞しい。
僕なら何年この街で暮らしたって慣れる自信はない。
等と考えていたら……
「制服の下には腹巻き巻いてますし、これカイロ入れるポケットが付いていて暖かいんですよ、ストッキングは耐寒素材で血行を良くする効果もある……」
なんだ、慣れているのは寒さではなく寒さ対策か。
それなら真似できるかも知れないが、残念ながらお店はもう閉まっている、今夜は大人しく重ね着に重ね着を重ね、ダルマのようになって耐えるしかない。

そろそろ眠ろうとヒコザルを呼びに行く。
室内も寒かったのだが、やはり外は段違いに寒かった。
「おーい、ひー坊、帰ってこーい」
呼んでみたが返事はない。
夢中になると周りが見えなくなる奴だ、少し遠くまで行ってしまったのだろうか。
世話の焼ける奴だ、寒いから早く戻りたいと言うのに……
どちらに行ったのかと辺りを見渡す。
はて、昼間は雪の壁があったと思うが?
目を向けた先には、まるで乱雑に積み上げられたような雪の坂である。
そこは、ちょうどヒコザルが遊んでいた辺りだ。
「……おい?」
僕は一つの可能性を思い付いて雪山に駆け登る。
「まさか、埋まったのか! いるなら返事!」
遊んでいたヒコザルが、勢い余って雪の壁を崩してしまったのだ。
崩れた雪山も、いなくなったヒコザルも、すべて辻褄が合う。
「ジョーイさん! ジョーイさーん!」
ジョーイさんはただ事ではない叫び声にすぐに飛び出してきてくれた。
「ヒコザルが居なくなったんです、もしかしたらこの下かも知れない!」
「それは大変、すぐに助けなきゃ」
ジョーイさんは慌ててポケモンセンターに駆け込むと、二人のトレーナーを連れてきた。
「レントラー、探して! 見破るよ!」
女の子がレントラーを繰り出すと見破るを指示する。
眼光ポケモンのレントラーには、透視能力があるのだ。
レントラーが一声高く鳴く。
ヒコザルを見つけたのだ。
「行け、ドリュウズ、穴を掘るだ」
続けてもう一人の少年が繰り出したのはドリュウズだった。
ドリュウズはドリル状の腕を振り上げ……
「は? なに、これじゃあ穴を掘るじゃなくて雪を掘るだ? 雪穴でもなんでも穴は穴だろ、いいから掘れー!」
少年に叱責され慌てて雪を掘り進むドリュウズ。
そしてドリュウズは五秒も経たない内にヒコザルを抱え飛び出してきた。
「ひー坊、無事か?」
「大変、氷状態になってるわ」
僕達は急いでヒコザルをセンターに運び込む。
「急いでお湯を沸かして! 後毛布も!」
ジョーイさんがテキパキと他の職員達に指示を出していく。
だが、それを悠長にまっていられない。
少しでもヒコザルを温めようと、僕は素手でヒコザルを抱き締める。
ヒコザルの身体は驚くくらい冷たかった。
身体が凍り付いているのだから当たり前だ。
「こんな時に炎ポケモンが居れば……」
「炎ポケモン?」
少年が呟き、女の子が問い返す。
「炎タイプの技で温めるんだ、他にも火炎車とかは自分の状態異常氷を回復する効果も望める」
……。
「あ」
使えるじゃん、火炎車……

翌日、僕の両手は霜焼けになって、ヒコザルは雪を怖がるようになっていた。
 
> 道 作:海 【☆】
道 作:海 【☆】

 君はどうしてそんなに醜い姿をしているのか。
 どうしてそれでも生きようと思うのか。
 外界からの敵の侵入を許さない冷気が立ち込める中で、その海水はそれ以上に冷たい。その中で泳ぎ海中のプランクトンでも食べて何とか命を繋いでいるのか。君の兄弟はどうも数週間前には死んでしまったようだ。そう、寒さと虐めに堪えられなくなったんだ。食べられた者もいるのかな。ところが君は生きているね。ここに住む他の生物から虐げられていても泣き言の一つも漏らさずに生きているね。そういえば僕は君の声を一度も聞いたことが無いよ。いつも僕からの一方通行の会話だね。こんなのを会話と呼ぶのかな、教えてくれ。いや、そう言っても教えてくれないのだろうね。いいさ、段々もう慣れてきた。さて、何の話をしていたんだっけね。……ああそうだ、生きるのは辛いだろう。君の兄弟が死んでいったのが証明しているように、この氷海はきっと君にとって非常に生き辛い場所なのだろう。きっと元々は寒さには慣れない身体なのかも。いや、何も死ねと言っているわけじゃあないんだ。だけどここは絶えず様々な者が死んでいく所だ。その中で君のような力をそれほど持たない者が生き続けているのを僕は常々不思議に思っていたんだ。僕が言える事ではないけどね。今日はどうしてこんな話をしているのかというと、そうというのも僕の兄が昨日命を落としたからさ。兄はこの世界の中で強い存在だったんだ。まさに皇帝という身体をしていた。僕はこんなちょっと大きめの頼りないペンギンの姿をしているけどね、兄は違うんだ。もっと堂々としてる。いつものように食糧を求め海に潜ったまでは良かった。兄はちょっとすれば必ず食糧を口にくわえて戻ってきていたのに、昨日は半日ほど経っても帰ってこなかった。さすがに心配になって僕は海に潜り彼の安否を確認したところ、ここから十分程の距離の海底に死体が転がっていた。思わず目を逸らしてしまったさ。一瞬兄と分からなかった。もう身体の至るところが食いちぎられていて。僕が発見した時も大きなはさみを持った海中の生物がその身体を貪っていた。僕は無我夢中でその生物を自分の全ての力を使って追い払ったよ。正直、僕が追い払えたのは奇跡と言える。僕は兄と違い弱者だ。食糧も兄が取ってきてくれたものを分けてもらっていた。僕は逃げる事しかできないような臆病者だよ。それなのに追い払えたのさ。逆にいえば、僕が勝てるような相手に兄が負ける筈がない。何が死ぬ要因となったのか、今では確認しようがないことだけどね。こうして淡々と話していると、兄が死んだことなど夢のようだよ。いや、実際夢心地なんだ。兄は僕の手で海底に埋めたよ。兄は死んだよ。そう、死んだ。世の理に従って、敗者として死んだのさ。勝者は生き、敗者は死ぬ。獣が喰い合うのは日常だ。なあ、君が生きているということは君は勝者なのかなあ。君はあの大きなはさみの奴と対峙した時勝てるのかい。勝手な憶測だし失礼なものだけど、君は勝てないと思うんだ。だけど君は生きている。それは勝っているということだね。何だか不思議なものだ。力を持たなくとも生きていける君が不思議だ。そんな君にこうして毎日会いにやってくる僕も不思議な存在だ。不思議というより変なのかもしれない。少なくとも僕は、他の奴らのように君に氷のつぶてでも当ててやろうという気になれないよ。他と違うということは変だということだろうな。
 なあいつまで黙っているんだい。
 僕は君の声が聞いてみたいよ。
 君の声は綺麗なんじゃないかと思うんだ。他から虐げられる魚でありながらも、君は他に無い力を持っているように僕は感じるんだ。唯一無二の力だ。それは決して他を倒す力じゃない。そんな美しくない力じゃない。例えるならば暗闇にただ一点だけの小さな光。恐ろしいほどその闇が深かろうと一つの安定感を保ち続ける光だ。漆黒の闇よりもずっと恐ろしいほど美しい光だ。そんな力を君は持っているような気がするんだよ。




 やあ、今日は少し元気が無さそうだね。何か嫌なことでもあったのか、と言っても君は答えてくれないんだろうけどね。それにしても今日はなんて風が強い日なんだろうか。吹きつける雪が辛い。けど、ここは少し氷の小さな山に囲まれているから気持ち程は楽かな。表は凄まじい吹雪だよ。こうして呑気に一人外にいるのは僕くらいなものさ。大抵は小さな巣に集団で固まって暖をとっているよ。まあ、僕は少し寒いくらいが丁度良いよ。見栄を張っているわけではなくてね。ああ、君身体がやけに傷付いていないか。また誰かに攻撃を受けたのか。それなのにこうして外に出てきていてくれるのか。なんだかごめんね。でもありがとう。
  ……兄が死んでから随分と日が経った。まったく、自分の力の無さを痛感するばかりだ。食糧を確保するのに苦労してね。一応魚の捕り方ほどは教わっていたけど、僕は下手だったものだから。兄はそれを見ていられなくて結局私の分も一緒に捕ってくれていたというわけだ。本当に、僕は頼り切っていた。いなくなってから痛感する。僕の方がよっぽど弱者であるにも関わらず、どうして兄が死んで僕が生きているのか。明日にでも喰われてしまうのではないかと思ってしまう。兄でさえ死んだのだから。そんなことを、兄の亡き骸を頭に浮かべるたびに考える。その度僕は怖くなる。けれど運命というか、僕にその時が訪れたとしても納得だと同時に思ってしまうんだ。力の無い僕が生きていることは何だか不合理に思えてね。不思議な感覚がするんだ。君が生きているのも不思議だよ。どうやってそうして生きていられるのか。そうやってボロボロの状態になっても、懸命に生きようとするその姿が僕にはやけに眩しく見えるよ。僕はどうなんだろうなあ。早く死にたいのかな。
 ああ吹雪が辛くなってきた。波が酷いことになってきた。僕はそろそろ帰ることにするよ。君も波に呑まれて死ぬようなことは無いようにしてくれ。



 兄が死んでから数カ月経った頃。
 太陽が昇って少ししてから、僕はいつものようにあの魚の元へと向かった。食事は浅瀬に泳いでいた魚で済ませた。辺りはまだ薄暗く、そして静かだ。海も何だかいつもよりずっと静かのように感じる。耳の奥で微かになるような波の音だけが周りに浸る。目を閉じてみると、恐怖すら感じるほど安定した空気をピリピリと肌で感じる。風は吹いていない。強風がよく吹き荒れる此処にしては珍しいことだ。
 僕は少し下げていた頭をくいと上げると、まだ低い太陽の光を正面から見てしまい思わず目を背けた。それでも抗うようにゆっくりと視線を上げていくと、真っ白に輝く白い世界が広がっている。氷山も平らな道も全てが白い。ただ右方向に広がっている海に限っては青く黒い。青く黒いその色が彼方、見えない奥の世界に広がっている。向こう側には違う世界があるのだろうか、それともただ海が広がっているだけ? 僕は知らない。だけど知りたいと思う訳じゃない。ここで果てるのだとどこか心の中で決心している部分があった。兄と同じような道を進むのだろうと。
 僕はそうして考えているうちにまたいつもの場所へと辿りついた。あの魚が水面から顔を出している場所はすでに定位置となっている。まだ初めて会って間もない頃は特に決まってもいなかったけど、いつの間にかここになっていたのだ。
 けれど今日はまだいない。それもまた珍しいことだ。あの魚はこの頃には既にここに居る筈だ。心に一筋に不安がよぎり、数分後には僕は身体を海の中に沈めていた。全身に纏わりつく水圧。水面から差し込んでくる太陽の光が海中を照らす。海の中は勿論沈黙の世界で、生き物も殆どいない。僕はあの魚が普段どこに身を潜めているのかを知らない。陸の生き物は僕を含め大抵自分の領地を作るけれど、あの子はどうなのだろうか。僕は知らない。日光を手掛かりに僕は泳いでいくと、視界に数匹の魚の群れを発見した。思わず身体がぴくりと反応したがあの魚の姿は確認できない。僕は海底すれすれまで潜って悠々とそのまま泳ぎを進める。しかしそうしているうちに身体の動きが鈍くなっているのを感じた。この先は僕にとってトラウマとも言える場所だ。脳裏に浮かんだ映像は兄の死体。心が動きを止めようとしている。水圧以上にかかる胸の奥のブレーキが叫んでいる。
 行くな、行くな行くな行くなと。
 ――瞬間、暗転。
 視界が白く弾けて身体が吹き飛ばされた、と同時に後方に痛みが爆発した。土煙が辺りを覆い尽くす。内臓が破裂したのではないかと疑うほどの衝撃。なんだ、なにがおこった? 全身に痺れが走り、辛うじて歯を噛みしめて意識を保つ。が、撒き起こる煙が視野を狭め、殆ど何も見えない。やがて浮力に従い塵は水面へと消えていこうという時に、僕は獲物を捕えんとする獣の姿を目の当たりにした。それは記憶に新しい敵。恐らくこれから死ぬまで記憶から離れないであろう敵。実兄をその手にかけ、喰い荒した張本人。照る赤い甲冑を身に纏い、巨大な両腕のはさみを軽く振りまわしている。頑丈な身体つきを思わせ、そして異様に目立つ頭の五茫星が日光を受け眩しく光っている。僕は緊張に身体が震えた。目がぎょろりとこちらを向き、瞬間その足が動いた。はさみを振りあげ一瞬で間合いを詰めた。そのスピードはまさに目も止まらないものだ、だが僕は必死になりその右腕を硬化させていた。平らなその腕を金属の如く硬くする。兄が教えてくれた攻撃の一つで硬化した爪で相手を引っ掻くのが本来のやり方だが、今は防御するしかない。はさみを正面から受け止めるが、相手の攻撃力にかなう筈も無く、再び岩場に衝突する。口から赤い液体が噴出する。それが血であることは霞む意識の中で朦朧と理解した。攻撃は止まず、煙の中を貫くような至近距離からの怒涛の泡の軍隊が襲いかかった。遂に岩場を壊す。痺れと痛みが全身を貫く。自身が破裂してしまいそうだ。無数の泡の攻撃は海を揺らし、僕は空中へと泡の勢いで投げ出された。弾けるは水飛沫と血。その時僕は死を直感した。視界がぼやけている。敵がまた来ている。海面から顔を出し、跳び上がった。それは何となく分かってもけれど遠近が掴めない。防御しようにも身体は麻痺したように動かない。潮風が大きく吹いた時、波が叫ぶ。肉がはだけ、血が止まることなく噴き出している兄の姿が頭をよぎった。
 その瞬間、その赤い物体が視界から消えた。
 水面から跳び上がったのは、あの魚。普段の大人しい雰囲気からは想像できない目にも止まらぬ勢いのまま巨大ザリガニへと飛び込むと、横からの思いがけない攻撃に敵はよろめき海に落ちた。僕も海中に再びダイブすると、あの魚もまた海に潜っていた。僕は声を上げようとしたが、すぐに敵の気配に気付いた。邪魔されたと思ったのだろう、奴の標的は移る。あの子を捕えようと一気に海中を敵は猛進する。が、速いのはあの子も同じだ。むしろあの子の方が速い? 縦横無尽に泳ぎ回るあの子に追いつくことすらできず、敵は苛立ちを見せる。はさみを大きく広げるとその中が光り輝くのが分かった。見た事ある動作だ。あの時、そうだ、兄が喰われたあの日に見た。あの戦闘の光景が一気に跳び込んでくる。僕は痛みを堪えて勢いをつけて海中を突き抜けた。こんなに身体は痛んでいるのに、ダッシュをかけた途端全身に力がみなぎった。今まで受け続けたダメージを跳ねかえすようなそんな力。思い出す、あの時もそうだった。攻撃を受け続け明らかに力が及ばないはずの僕が勝てたのは、我慢を続けたその先に湧き出たこの力があったからだ。あの子が奴を引きつけてくれている今ならいけるはずだ!
 敵は僕の様子に気付いたように振り向いた。けれど僕はスピードを緩めず突っ込んだ。奴の固い甲羅に突撃する。速い攻撃の応酬である反動の衝撃が割れんばかりに自分にもかかった。そんなことはかまわない。そのまま敵を押し出し、海底へと突進する。固い海底へと敵の身体を押しこむと、展望を覆うほどの土煙が炸裂した。
 僕は間合いを取って少し浮かび上がる。土煙は黒くとぐろを巻いているが、中から敵が出てくるような様子は無い。倒したのだろうか、わからない。それが確信へと変わったのは煙が晴れ、奴が目を閉じてぐったりと海底のクレーターの中心に倒れているのを確認した瞬間だった。終わった。突然訪れた戦闘は終わった。……終わったんだ。その時僕に夢中になっていて忘れていた痛みが雪崩のように襲いかかってくる。安堵が心を支配し、身体の力は完全に抜けて水面へとゆっくり浮かんでいく。その暗くなっていく視界の中であの子の姿が見えた。慌てるように僕の元にやってくるその時、その小さな身体が突如眩い光を発し始めた。それは太陽よりも白く輝く光。避けるように僕は目を瞑る。それから闇の中、溶けるように僕の意識は彼方へと飛んでいった。




 どれほど時間が経ったのか分からない。僕は身体を動かそうとして痛みが走り、そっと瞼を開いた。冷えた空気が傷を刺し、こうして黙っているだけでも痛い。しかしその激痛を思わず覆すような光景があった。
 僕はその姿を眼前にした。
 冷たい氷の上から見上げるその姿は太陽の光を一身に受け、水面から高く凛と伸びていた。柔らかな白く長い身体は美しく輝いていて、顔の部分から垂れ下っている長い何かが風を受けてひらひらと泳いでいた。それは深い桃色に染色されていた。そしてその先にある黒い瞳が僕を見下ろしている。僕は相手が誰であるかを理解するのに時間を要した。急に脳が回転し始めて、記憶が呼び起こされる。兄を喰った生物と対峙し、あの魚も戦いに参加してそして。巡りめぐったその先に眩い光の光景が記憶を叩き、僕はハッとした。僕を見下ろしているこの龍の如き生き物は、この生き物の正体は、
「何が起こったんだ……?」
 僕はいつの間にか呟いていた。その声が届いたのだろう、相手は首を振ってその口を開いた。僕はその口が開き、その声を聞く時を待ち望んでいた。ずっと、ずっと。
「分かりません。よく分かりません。でも生きているみたいです」
 その声は水平線を走る風の如く滑らかで、凛とした響きを携えて僕の中に静かに溶けていく。綺麗な声だった。冷たく厳しい氷の世界にやけに響く美しい声だった。その時、僕はようやくあの魚は、今の目の前にいる龍が雌であることを直感する。それは確信とほぼ等しい直感だった。遠く霞んでいく空の色を背景に、彼女は少し身体を海に沈めて背を低くする。僕は身体の痛みを堪えながら慎重に立ち上がり、改めて彼女を見る。
 きれいだと僕が言葉を滑らせると、彼女は微笑んで感謝の弁を述べた。それから僕達は暫く言葉を交わすことなく互いを見つめ合った。そこに言葉はいらなかった。そもそも今までだってまともな会話などしてこなかったのだ、今更それに違和感を感じることもない。僕は彼女の緩やかな身体のラインを視線でなぞる。目を海に少し向けると尻尾が覗いていた。鮮やかな海の色と桃色のコントラストが艶やかで、しかし太く力強さも備えている。僕は頭に熱いものが湧き上がってくるのがわかった。彼女が美しいのは、単に色彩や滑らかな身体つきのおかげではない。僕は知っている。彼女が今まで他の生き物からどれだけ仕打ちを受けてきたかを。そして冷たい氷の現実に向かい合ってきたかを。その中で生き抜いてきたことを。必死に生き抜いてきたことを。彼女が必死に生きてきたその過程が、花開いた彼女の全てを照らしているのだ。
「綺麗だ」
 僕は同じことを時間を置いてから繰り返した。
「ありがとうございます」
 彼女もまた繰り返す。
「なんだか不思議な感じがするよ。君が急に身体が変わったことに僕は驚いている、でも驚いていないんだ。意味が分からないかもしれない。でもその言葉通りなんだよ。君がずっと生きていた姿は僕の心に不思議と響いて、そして直感したんだ。前に言ったかな、唯一無二の力を持っているんだって」
「闇に光る一点の光、恐ろしいくらいに安定した光、でしたっけ」
「ああ、そう、それだ。よく覚えているね」
「とてもよく覚えています。貴方は虐げられていた私の傍にずっと居てくださったのですから。貴方の話は考えさせられるものも聞いていて恥ずかしいものも多々あり、飽きる事はありませんでした。それに返事の一つでもすれば良かったのですが、私は身体以上に声が貧しいものでしたから。貴方に出会う前に、この世に生まれてから初めて発声した時に、低く掠れた声が出て周りの者には恐れられたほどです。以来私は殆ど声を出していません。時に声の出し方すら忘れてしまうほど。けれど貴方と出逢って何度声を出したいと思ったことでしょう。けれど私はあの醜い声を貴方に晒したくはなかったのです。貴方だからこそ余計に。怖かったのです。醜い外見であるにも関わらず貴方は傍にいてくださって、その温もりを失ってしまうことを私は恐れました。だから決して声は出しませんでした」
「そうかい、でも今はよく喋っているね。こんなに喋るなんて、とても今まで全く喋らなかったあの時と同じ存在とは思えないくらいだよ」
 冗談めいて僕は笑うと、彼女も同じように笑った。
「今まで話さなかった分爆発しているのかもしれませんね」
「そんなものなのかな。でも、綺麗な声だよ。できれば、その貧しい声とやらも聞きたかったけど」
「それは勘弁してください」
「僕はずっと待ってたんだ。君とこうして会話することを。君が言葉を発している、それだけでもなんだか奇跡に思える。本当はもっと前に会話をしたかったけど、まあ今となってはどうだっていいんだ。こうして生きて君と一緒にいられることこそが奇跡だ」
 そうですね、と彼女は相槌を打つ。
 これ以上の幸せがあろうか。身体の痛みは勿論消えていないけれど、不思議なことにこうして話しているとそれを忘れてしまう。
 少し沈黙が空いた後、彼女は不思議ですねと会話を切り出した。
「さっきまで死んでしまいそうだと思ったのに、貴方も私もこうして生きています」
「お互い諦めが悪いようだね」
「ふふ、それが長所かもしれませんよ。……貴方は常々言っていました、貴方も私も弱者だと。強者と弱者の混在するこの世界は弱者にとっては厳しいもの。けれど弱者である私達は生きている。強いものが生き、勝つという世界で、私達は弱いのに生きている。それは勝っているということなのか。私は考えてみました」
「……」
「でも私は逃げてきただけなのです。必死に逃げて逃げて、逃げてきました。逃げることに関しては誰よりも得意だと恥ずかしながら断言することができます。だから勝ってきたとはとても言い難いものがあります。世の理とは、勝者が生き、敗者が死ぬということなのでしょうか。強者が勝ち、弱者が負けるということが理でしょうか。私は……確かにそれは一つの真理であると思いますが、きっとそんな単純に世界はできていないと思います」
「そうかもしれない。けれど、少なくともこの氷の世界はきっと単純だよ。いつ生きるか死ぬか、分からない」
「それはどの世界も同じですよ、きっと。いつ生きるか死ぬか分からないとは極論です。その真理の前には、弱いも強いもありません。皆命は一つしか持っていませんから。でも、だからといって弱い者が負けるように世界はできているのですか? それが普通なのですか? でも私は逃げてきました。細々と生きてきました。逃げずに、群れを成し大群で敵に立ち向かう魚達もいます。小魚でも数百集まれば大魚の如く威嚇をすることが可能です。多くの弱い生き物は支え合って生きます。それを私は海に住んで目にしてきた。貴方も、お兄さんと生きてきたでしょう」
「それは」
「ご存じの通り私も兄弟がいました。けれど皆死んでしまいました。寒さに負けたもの、食べられたもの、皆死んでいく中で私は呆然と生きてきました。生きていればきっと何かがあると、死にたくはないと必死に逃げる中で貴方と出会い、そしてこうして身体に変化は訪れました。なんだかあっという間のことでちょっと追いつけてないですけどね。……私達は私達です。貴方のお兄さんは貴方のお兄さん。私の兄弟は私の兄弟。どう生き、どう死んでいくか、それはそれぞれで違うのです」
「……それぞれで違う」
「はい。弱者であっても、その生きていく道があるんです」
 どう生き、どう死んでいくかはそれぞれで違う。
 心の中で再び繰り返す。繰り返す。先の事など分からない、分からないけれど、弱者であろうと強者であろうとその先は変わらない。兄は死んだ。彼女の兄弟も死んだ。でも、僕等は生きている。兄は兄で、僕は僕だ。ただそれだけだ。何も不思議なことはなかったのだ。
 弱いもの同士は支え合って生きていくのだと彼女は言った。僕も兄と支え合い生きてきた。隣の席は今空白だ。ここを埋める誰かを僕は見つけなければならない。だけど誰に隣にいてもらおうか、僕の中で希望は既に固まっている。
「ねえ」僕は彼女に声をかける。
「はい」彼女も僕に応える。

「一緒に、生きよう」
 僕は右手を差し伸べた。

「僕は強かった兄が死んで、暫く一人で過ごしてきた。君も兄弟が皆死んでしまってからは一人で生きてきた。きっと僕が君に惹かれたのは、一人になりながらも生きていこうとする姿勢があったからだと思う。そしてそれからどう生きていくか、それを見ていたいから。でもきっと逃げていくのにも限界が訪れると思う。身体が大きくなって目立つようになれば、尚更。生きるのは辛いことだ。だからこそ、一緒にいたい」
 本気で逃げてきて生きてきた彼女の生きるその傍に僕はいたい。弱者が支え合って生きていくものだというのなら、逃げてきた僕等二人、共にこの氷の世界で生きよう。
 彼女は優しく微笑むと、その頭を僕の目線まで下ろす。高低差のあった目の高さがようやく水平になる。本当に美しい顔つきだ。それはまるで、氷に咲く花の如し。それから彼女はこくりと頷いた。了承の言葉は出てこなかったけれど、それだけで十分だった。
 空が透明に輝いている。その色は優しく、あまりにもこの世界には不似合いなものだったけれどとても綺麗な色だった。



 見ているだろうか、兄さん。
 僕は何故生きているのか、兄さんが死んで僕が生きていることをずっと疑問に思ってきた。死ぬべき存在なのだろうとすら思っていた。でも、兄さんの命は尽きても、僕の命はまだ燃えている。僕にはまだ道が続いている。弱い存在だけど、弱いなら弱いなりに生きていく道があるみたいだ。その先がどうなっているのか、僕は見にいってみるよ。もう大丈夫。今は一人じゃない、兄さんが居なくなって空いた隣はもう満たされた。
 僕は生きる。

 僕は僕として、生きていくよ。
 
> 人の下痢路を邪魔する奴は、 作:乃響じゅん
人の下痢路を邪魔する奴は、 作:乃響じゅん
 思春期というもの、ルールなんてくだらない、破ってみたい、と一度は思うことがあるだろう。
 例えば、学校の制服とか、スーツとか。何でこんな30度を超す暑い日にわざわざ汗をかくような服を着なきゃいけないのだ。世の中の社会人たちもそう思っているに違いない。私服で来れたら幾分か楽なのに。そう何度思ったか分からない。
 うだるような暑さの中で、午前中の授業をしのぎ切る。斜め前に座っているヤツの貧乏ゆすりが激し過ぎて、集中なんて出来そうにない。だめだ、精神の限界。顔を伏せ、訳の分からない先生の授業からドロップアウトする。
 制服のワイシャツのボタンはほぼすべて外され、赤いシャツがモロ出しになっている。

「だがしかし」
 思わず顔がにやける。昼休み、いつもの穴場、音楽室で友人数名と飯を食った後のことだ。この時のために、おれはある仕込みをしていた。
「ツザッキー、独り言気持ち悪い」
「お前たちもちょっとつっつけばいいじゃん?」
 俺は水筒を取り出して、友人に見せる。
「さっきお茶を俺くれって言ったくせに、水筒持ってんじゃねぇか」
 貰ったのは事実である。
 もちろん、この中身はお茶ではない。かと言って、炭酸水でもない。
「水筒だからと言って、お茶とは限らないだろ」
「じゃああれだろ? 熱湯だろ」
「いや違うよ」
「ツザッキーまじヒヤッキーだわ」
「……!?」
 ポケモンの第五作が出てから髪型が似ているというだけで何故かそんなことを言われるようになってしまった。一年前はギャル男と呼ばれていたのに、何の因果だろうか。ギャル男もヒヤッキーも否定はできない。
「何? 熱湯かけて欲しいの?」
 満面の笑顔で言うと、
「ヒヤ顔やめて怖い」
 と返された。
 勿体ぶってみたくて、友人の質問には答えない。その代わり、かばんの中からビニールに入った紙コップを取り出す。友人たちはこっちの様子を少し気にしながら、会話をつづけている。そして、俺は水筒のふたを開け、コップにその中身を注ぐ。
 ででーん。
 勘違いしないで頂きたい。誰かのケツがしばかれる訳ではない。
 水筒から、シャリシャリとした音がこぼれてくる。
 そう。中身はかき氷だ。
「……」
 思ったより仲間うちの反応が薄い。ドヤ顔したかったのに、予想外で少し凹む。
「……食う? シロップもあるけど」
 そして、かばんの中から、赤のボトル、黄色のボトル、青のボトル、紫のボトル、緑のボトル、選べる五種類の味を取り出す。
「お前ガチかよ」
 ここで、ようやくみんなの笑いを一つ取ることに成功した。お前何やってんだよ、と笑われることで、自分のプライドを満たすというのは常套手段。無意味なことは、ふとした弾みでしてみたくなる。 無論、自分で食べたかったのもあるが。
「じゃあヒヤ君レモン貰っていいっすか」
「150円になりまーす」
 手を出そうとした瞬間、頂きまーすと言って高速で食われてしまった。
「で、何で持ってきたの」
「食べたいからに決まってるじゃんか」
 超がつくほど真顔で言ったら、どんだけ食べたいんだよ、というツッコミが入る。内心ガッツポーズだ。食べたいからと言うのは、半分本当だ。理由の一つでしかない。もう一つの理由が何かと言われたら、笑いを取りに行くためだ。お前芸人になれよ、と言われる時もあるが、それもなんだか違う気がする。
 思った通り、水筒で入れたらなかなかとけないものだ。底に少しだけ溶けた水がたまる程度で済んだ。他の友人たちは食べないようなので、後は自分一人で食べる。
「うん、うまい」
 その後、友人の提案で全部の味のシロップをごちゃまぜにされて一気飲みさせられたりもした。味は濃かったが、暑さは多少吹き飛んだ。甘い。

 五時間目は体育のバスケだ。水泳という選択肢もあったが、友人達はみなバスケ派だったので、流されてバスケを選択した。
 楽しいのはいいが、6限の授業で水泳帰りのクラスメイトの涼しそうな顔をみると、若干の後悔が残る。先公は何故ロッカーにあるシャワーを使わせてくれないのか。一度も使われているところを見たことがない。
 シューズをキュッキュキュッキュ鳴らしながら、ボールを追いかけ、自分のポジションを考える。自分にボールが回ってきて、ここぞとばかりに一気に相手のゴールへと駆け抜ける。ゴールの下でレイアップ。
 ゴールのカベに当たって、すっと網をくぐり落ちる。ピー! とホイッスルが鳴り響く。周りから軽い拍手が湧きあがる。そしてまたコートに戻ろうと、振り返る。

 その時だった。

 何だろうか、この違和感は。
 身体がどことなく落ち着かない感じ。こんなに暑いのに、冷や汗が出てくる。
 試合はもう少しで終わる。走っているうちに違和感は消えるだろう。顔に出さないまま、コートに戻って試合を続けた。
 自分のチームは何とか勝利を収め、違和感もなくなっていた。と言うより、勝負に盛り上がっているうちに、忘れてしまっていたのだ。

「ありがとうございました」
 授業が終わって、礼をして着替える。うちの高校は、体育館から教室まで、やたらと遠い。普通は隣接してたりするようなものなのだが、全速力で走っても教室まで1分はかかる、そんなレベルの距離がある。
 みんなで話しながら着替えたりなんかしていたら、あっという間に次の授業まで残り1分、なんてことも少ない。仲間うちの連中は全く学習せず、チャイムが鳴るというのに小走りで移動する。あぁ、教室に入ったらまた怒られるんだろうか。先公は軽く注意するだけだから、それほどダメージは無く、別に構わないのだが。足取りは少し重たくなる。
「お前ら遅いぞ。次からは気をつけろ」
 とぶっきらぼうな先公の言葉。今から数Uの授業を始めます。起立、礼。
 体育の後に授業を入れるというのはどうなんだろうか。両手両足に乳酸が溜まって、頭もぼうっとしてくる。軽めの運動は脳にいいと言うが、体育の運動は「軽め」とは言い難い。
 学校の授業なんて無駄だらけだ。もっと色々やりようがあるのではないだろうか。それがどんなやりようかって? そりゃあ……
「……じゃあ宿題だったはずの問3の1〜3を黒板に写してもらおうか。今日は……滝沢、田中、それから……津崎ー」
 急に名前を呼ばれて目が覚める。と言うより、俺はどうやら眠りかけていたらしい。
 手に汗がにじむ。宿題なんてやった覚えがない。しかも基本から大分飛んだ応用問題で、今アドリブで解けと言われても難しいものがある。何となく意味は分かるが、何となくにしか分からない。
(あ!)
 奇跡が起きた。
 ノートを見たら、問題の答えが書いてある。そうだ、思い出した。俺にしては珍しくやる気を出したあの時だ。一通りちゃんと解き切ったのだ。すっかり忘れていた。
 よかった。ほっと胸をなで下ろした。
 しかし、状況は一変した。
 気を緩めた瞬間、腹に冷凍ビームが直撃したような衝撃が走った。
 しまった、と思った。体育の授業の時に感じた違和感。体調不良。まさか、こんなところで腹を壊すなんて。
 何とか我慢して、この場をやり過ごさねば。チョークを持つ手が震えている。きれいに書くなんてことは考えず、とにかく自分にとって無理な動きにならないように字を書く。
 やたらと他のクラスメイトの記入音が鮮明に聞こえる。チョークで書いた際に落ちるほんの少しの粉にまで、意識がいく。
 どうする? 書き終わってから、先公にトイレに行きたいと素直に伝えるべきか?
 俺は心の中で首を振った。
 クラスメイトの仲間うちは、俺をヒヤッキー呼ばわりしたりすることから分かるように、俺をやたらイジってくる。今行けば後で何を言われるか分からない。
 奴らに気付かれないように、授業が終わってからこっそり行くことにしよう。
 何とか文字を書き終わって、席につく。
「はい、それでは答え合わせでーす」
 マズい。先公が何を言っているかが聞きとれなくなってきた。
 精神は一瞬の油断も出来なかった。頭の中で思考を続ける。授業が終わったら、どのトイレに突入するか。最短ルートはどれか。まず、教室を出て、左に行く。走ってはさすがにメンツってものがある。
 二つ分の教室を抜けた先のトイレのドアを開ける。入り口は取っ手が無いから、それを掴んで強引に曲がることは出来ない。自力で足にブレーキをかけ、押す。
 ドアを必要以上に開いて、壁にぶつけたとしても、仕方がない。そこまで来たら、なりふり構っている場合ではない。
 細かいタイルを抜けて、洋式の方のドアを開ける。扉は全部で確か3つ。
 一つは洋式。一つは和式。一つは用具入れ。洋式はどれだったか……そうだ、手前の方だ。
 頭の中で思考錯誤するなかで、一つだけ間違いを犯していると言う事に、俺はこの時気付かなかった。

 時間よ早く過ぎてくれ。そう願って、壁にかかっている時計を見る。
(あれから全然経ってない……!)
 俺は茫然とした。口は半開きになって、傍から見ればきっと情けない顔だっただろう(その時はそんなことを考えている余裕は無かったが)。
 時間が過ぎて欲しいと言うときに限って、全く進んでくれない。人生生きていればそういうこともある。例えば、小学校の時に出場した市のドッジボール大会。待ち時間が退屈で退屈で仕方が無かった覚えがある。
 うっ、と、また便意の波が来る。これは冷凍ビームどころではない。ふぶきか。あるいはぜったいれいどか。
 何とか耐えしのいでくれ、俺の腹。
 机に突っ伏して、そのまま時間が過ぎて行くのを待った。

 チャイム。
「キリもいいし、今日の授業はここまでにします。終わります」
「きりーつ」
 委員長の声。立つということ自体がすでに刺激である。
「礼っ」
 ありがとうございました。
 元々みんなだらけた礼をするから、別段おかしく思われたりするようなことはないだろう。
 ウチの学校はHRを昼休み後に行うので、6限の授業が終わればもう帰ってもよいことになっている。せめてもの救いだ。
 焦るな、あまり教室内で走ってはいけない。今はみんな下校用の鞄を持って立ちあがっている。
 こんな時の為に、教科書の類は授業中すでにカバンの中にこっそり詰めていた。みんなが話をして教室に留まっているうちに、先に抜ければいいのだ。
 さあ、出る。出しに行く。授業中何度もシミュレートした通り、カバンを担いで教室を出て、左へ曲がる。押して開ける扉を押して、お手洗いへ直行する。

(何だよ……そんなのアリかよ)
 俺は絶望した。
 トイレのドアが、全て閉まっていた。先客。畜生、やられた!
 力が抜けそうになるところを、カバンを持つ手を握り締めて何とか我慢をキープする。
 何故この状況を想定しなかった、と自分に喝を入れる。
 しかし、腹を下している人間にとって、立った状態でじっと待つことは何よりの苦痛だ。どうする、等とは最早考えない。
 歯を食いしばって、トイレを出る。
「おーい、ヒヤくーん」
 後ろから友人の声。津崎からツザッキーに、ツザッキーからヒヤッキーに、そしてヒヤくんと呼ばれる俺は一体何なんだろうか。とてつもなく固い苦笑いを、友人に向ける。
「何か今日急いでるな。腹でも冷えたんじゃねーの?」
「……まぁ、そんなところだ」
「ヒヤくんマジヒヤッキーだな」
 と言ってドヤ顔をしてくる。どういう意味だかさっぱりわからない。いや、そんなことより俺はトイレに行きたいんだよ。
「それじゃ、またな」
 何とか声を振り絞り、手を振って友人と別れる。
 どうする……!? 正門に向かいながら、俺は必死にシミュレートを繰り返す。
 ここから確実にトイレにありつけるのは、残すところ職員トイレのみ。しかし、入って先生方に見つかってしまった時の気まずい雰囲気を味わうのは、恥ずかし過ぎる。
 俺が教師の事を先生方なんていうなんて、相当精神が参っているな。
 家までの距離はおよそ300m。これくらいなら、走っていけば何とかなるかもしれない。俺は覚悟を決め、走って我が家を目指した。

 俺は走った。ひたすら、アスファルトの道を走った。
 公園を抜け、見慣れた家の横を一軒、また一軒と過ぎて行く。オレンジ色の夕日が、妙に冷たく感じられる。
 下校する生徒が何人もいたが、そんな奴らは追い抜かす。呑気にペチャクチャ喋りながら帰ればいい。俺はトイレに行きたいんだよ。邪魔さえしなけりゃ。
 あとこの大きな道路を渡れば、我が家のあるマンションだ。本来はもう少し右にある信号を渡らなければいけないのだが、まっすぐ行くのが最短ルートなのだ。しかし。
「おいおい」
 いつになく、多くの車がスピードを出して抜けて行く。こんな時に限って。小さく足踏みをしながら、車の流れが途切れるのを待つ。
 7台、8台、9台……いくらなんでも多すぎる!
 本当に限界が近い。10台目の車には、申し訳ないが手を上げて渡らせてもらった。赤い車は急ブレーキして、クラクションを鳴らした。構っている暇はないので、俺は振り返らずに走り続ける。

「ハァ、ハァ」
 やっと着いた。我が家のあるマンション。エレベーターの上ボタンを押し、降りてくるのを待つ。ボタンの上の回数表示を見ると、今上の階へ上昇中だった。
(早く、早く降りて来い)
 せめて、今乗っている人が低い階の住人であってくれ。
 だが、俺の願いもむなしく、最上階の12階までしっかり上がって行った。頼むから、早く降りて来てくれ。何度も心の中で呟いた。
 数字が一つずつ、同じテンポで減って行く。7、6、5。
(よし、そのまま)
 今日はとことん思い通りにならない日らしい。エレベーターは5階で停止している。誰だか知らないが、早く降りてきてくれ。いよいよ本格的に尻を締めなければいけないレベルに達している。腸の内部ではもう抑えきれない。呼吸が乱れている。それは走り疲れただけじゃないことは間違いない。
「こんにちは〜」
 小さい子供を2人連れたお母さんが降りて来た。子供を抱えながらベビーカーを押すのに苦労している。重労働だ。
 俺は軽く会釈する。口を開ける元気でさえ、もう残っていない。
 7階、7階。7のボタンを探す。手が震える。少しでも意識を向けてしまってはいけない。もう少しの辛抱だ。
「あっ」
 押し間違えた。7の一個下についている、5階のボタンを押してしまったのだ。



 その弾みだった。腸の中で、絶望の音が聞こえた。ダムの決壊。じわれ。つのドリル。ぜったいれいど。
 終わった。
 それ以上の言葉は出てこなかった。
 悲しい気持ちはなかったのに、なぜか涙が溢れそうになった。
 扉が開かれた時、太陽の眩しさが目に直接入って、思わず目を閉じた。
 せめて、職員室トイレに入るとか、授業中に手を上げるとか、成り振り構わない行動を起こすことができたら。
「終わった……何もかも」

 ヒヤッキーは倒れた!
 ツザッキーはもう戦う術が残っていない!
 ツザッキーは目の前が真っ白になった
 
> 枷を -rock'n'roll is not dead- 作:とらと
枷を -rock'n'roll is not dead- 作:とらと
 おいらぁロックンロールだ、ロックってぇのはつまるとこ、誰にも囚われねぇってこった。おいらのフライト、誰ひとりとも邪魔はさせねぇ。ちぃと見てろ。電線と電線の隙間かいくぐってさぁ、ポッポやらマメパトやらがアホ面下げて地面つっついてる間に、真冬の風になって飛ぶぜ。曇天極寒、昨日の晩から雪ってやつがまとわりつくが、おいらの翼にゃ些細な事さ。おいてめぇ、邪魔だそこのけ、おいらが通るぞ。オラオラオラ。
 にしても今日はさみぃな。人間どもの住んでるとこも、雪の色に染められてやがる。哀れよ貧弱なモンさ、おいらぁ誰にも染められねぇ。でっけぇドンファンのいつもボケッと突っ立ってる辺りも白くて、チビの人間どもがキャッキャ群がってやがる。どれ遊んでやるか。おいらぁデカドンファンの禿げ色の頭の上に着地して、よう、とその目を覗きこむ。いつも通りの死んだ瞳だ、返事のひとつもよこさねぇ。まったく人間に飼われるってのは嫌だね。ばさっと翼を振るうと、頭の雪がぼてっと落ちて、くるっとチビ人間が振り向いた。飛び立つ。急降下、超旋回、フルスピード、必殺またくぐり、っとな! やつら雪を丸めて投げてきやがる。ヒョヒョイのヒョイと避けてやって、おいらぁ空へと舞い戻った。
 ぶらぶら飛びながら思う。ここんとこ生きにくい世の中だ。急にさみぃのもそうだが、ちょっと衝撃だったんは、木の上で相方とあったまってるときにさ、相方のダチが飛んできたとき。そいつ、おっかない足取りで枝につかまったんよ。真っ青な顔してさ。相方がどうしたのって問うんさ、そしたらそいつ、ひとつふたつ喘いで、そのままひっくり返って落ちちまった。
 おいらも相方も、心臓の凍る思いがしたね。何が起きたんか、まったく理解に苦しんだ。目下の人間どもの通り道の上で、そいつぴくりとも動かない。人間どもが何か囁き合って、そいつのこと気味悪がって、大仰に避けて通ったりする。汚ぇもん見る目でさ。汚物じゃねぇっつうの。おめぇらの鉄の塊に潰されたチョロ公より、よっぽど綺麗な死にざまだっつうの。やがて白い服着た人間やってきて、そいつを白地の袋につめてさ、ぎゅうぎゅう口縛って、あとになんか液体撒いてやがる。それからおいらたち見上げてなんか言い合ってんの。おいらぁ相方連れて森の方へ逃げた。相方、えんえん泣いてたね。おいらぁそいつを抱きしめて、悔しい思いに駆られてた。
 汚物扱いさ。昔っからそうだったが、特に前の冬か、その前の冬からだったかな、とにかく冬になると特別酷い。何フルがどうとかいうやつがなんかあるらしいが、おいらたちにゃ分かんねぇこった。その分かんねぇことで、なんだか知らず嫌な目で見られるってのは、いくら相手があの人間だからと言え、こっちも良い気はしねぇ。
 でもさ、だからってどうすることもできねぇわけで。おいらぁいつも通り、ぎゅんぎゅん空を行って、たまにちょっと吠えて、そんだけ。寒いも何フルも関係ねぇ。





 相方の待つ森の方へ戻る間に、ダチのレアスとそのツレが飛んできて、ちょいとと声かけてきた。
「オニオ、お前、早く森出ろ」
「なんでぇ急に」
「あそこは長く持たない。やばい病気がはびこってやがる」
「病気?」
 脳裏に焼きついた光景が、スローモーションで再生される。焦点の定まらない瞳、汗ばんで、痩せこけた頬、色つやの悪いばらついた翼が、ゆっくりと、ゆっくりと傾き、ギリギリの表情からふと力が抜けて、何か、どこか、少し、苦しみから解放されたような、そんな顔で。地獄の方向へ落ちていった、相方のダチの姿。
「そんなもんにおいらぁ負けねぇよ」
「勝ち負けの話じゃねぇ。とにかく遠くへ逃げるんだ」
「おいらぁここで生まれて、ここで一人前になったんだ。親父の骨もお袋の骨もここにある。出てなんていかねぇ」
「お前死にてぇのか」
「うるせぇ腑抜けが!」
 やめて、と叫ぶのは、ツレの女だった。女は控えておいらを見ながら、目ぇ潤ませて言いやがる。
「オニオさん。もしオニオさんが、アリスのこと、本当に大切に思うのなら……」
 その口元に、す、とレアスの翼が差し出される。なんだよ、言えよ、とおいらが言えども、レアスは諭すように何度か首振って、ツレ追い立ておいらの横を過ぎていく。
「達者でな。オニオ」
「このヘッポコ野郎!」
 聞こえたのか聞こえてねぇのか、およそ聞かねぇフリでもしたんだろうが、レアスはこっちの顔を見もしないまま行っちまった。
 ぺっと唾吐く。胸糞悪い。なんだってんだ、大事な大事な生まれ故郷を、どうして軽々しく捨てられる? 理解したくもねぇ、あんの薄情者なんぞ、二度と顔も見たくねぇ、さっさとおいらの前から失せろってんだ。
 くるりと空を切る。森の方へ。相方の待つ森の方へ。
 女が口にした相方の名。虫唾走るざわめき。うっとおしいもん振り払うように、おいらぁべしんと翼を打つ。
 おいらぁおいらで生きるんだ。誰にも邪魔させねぇさ。
 吹きつける風冷たく、おいらの毛の内から熱を奪っていった。





 嫌な予感が的中した。
 藁敷きのおいらの巣の中で、相方はゼェゼェ息せっていた。降り立つ、相方の奴羽音にうっすら目ぇ開ける。くちばしの間からちろと覗く舌が力無く下がっている。じっとり濡れた体毛。溝色に淀む瞳。認めたくねぇ、でも、目の前のそれが、いつだかの一羽の姿と重なりやがんだ。
「アリスどうした」
 声上ずらせ、一歩寄ろうとしたおいらに向かって、相方はふるふる首を振った。
「来ちゃダメ」
「何言うんだ、調子悪ぃんだろ」
「あんまり近づかないで」
「なんだっておめぇそんなこと……」
「オーちゃん、好きだから」
 びくりと震えが来た。
 相方の力無い微笑み。消え入りそうな声。死神に手ぇ引かれる相方。絶望の闇と現(うつつ)の狭間。その発する言葉の続きが、こんな、こんなに恐ろしく。
「あたし、よくない病気みたい」
 るせぇ言うな、その一言が、粟立つ胸に引っ掛かって出ていかない。
「傍にいるとね、オーちゃん、これ移っちゃうみたいだから、だから、あたしのことは」
 おいらぁその、ごちゃごちゃうるせぇくちばしに、無理やりおいらで栓をした。
 相方の目から滴が零れた。翼で強く抱きしめると、相方を蝕む悪い熱が嫌ってほど伝わってくる。小さく震える相方を、愛おしいその体を、おいらぁこれでもかってほど包み込んだ。
 顔離す。相方の喉から嗚咽が漏れる。まっすぐ見つめる、視線が交わる、その目はもう死んじゃいねぇ。大丈夫。大丈夫だ。
「アリス、腹減ったろ。今うまいビードル捕ってきてやる」
「オーちゃん」
「そこで寝てろ、無理すんじゃねぇぞ。すぐ戻るから。待ってろ」
「オーちゃん……」
「わぁったから、ちったぁ黙れ」
「ありが、とう」
 絞り出した音。そんな声で言うんじゃねぇ。顔も見れず、おいらぁ外へ翼を振るった。
「アリス。――おいらも好きだ」
 そうして飛んだ。一度だけ振り返った。相方は首伸ばしてた。おいらぁ頷いて、その場所を後にした。





 きっと今、おいらぁ世界で一番速く飛ぶ鳥だ。
 急げ。急げ急げ。低く垂れ込めた空の雲から、真っ白いもんが落ちてきやがる。だけど邪魔にも感じねぇ。寒さも痛さもねぇ。ただ翼動かす。ごうごう風切って、雪流れて。心にぽっかり空いた穴が、それ見んのが、怖くて、どうしようもなく怖くて、何かで埋めちまいたくて、なかったことにしたくて、おいらぁ無心に飛び続けた。
 思い出される、レアスのツレの言葉。アリスのこと大切に思うなら、何だって? あいつ置き去りにして遠くへ逃げろってか? んなことできるわけねぇ。苦しむあいつをほっとくなんて、できるわけねぇだろうが!
 近づいてくる。高度落とす。目下、森の中にぽっかり開いた銀の泉。滑り下りる。雪のカーテンの向こうに、怪物みたいなでっけぇポケモンと、水色の犬っぽいポケモンが、何やら見張りをしてやがる。あの泉の向こう、氷の膜で蓋された洞窟の奥まったぬくい場所に、ビードルたちの越冬スポットがあるこたぁ、ここらじゃ有名な話だった。
 水色がおいらの姿見て、怪物の方に何やら吠える。怪物の目がこっち向く。ぶっとい腕広げて、牽制するように、地鳴りみたいな声上げやがる。そんなもんで怯むかってんだ。フルスロットルで突っ込んでくるおいらに、先に動いたのは水色の方だった。
「弱い者いじめのオニスズメめ、ビードルたちを食べに来たな! そうはさせるかッ」
 正義ヅラの水色が、ヒュンヒュンと氷の塊を打ち出した。
 避けようとしたが、なかなか速ぇ、ずばっと左の腹に刺さって、おいらの体ぁグルグル回って降下した。墜落する、でもその勢いだ、負けちゃいねぇ。負ける訳にいかねぇ、その一心で翼振るった。急な方向転換、水色の犬っころはしかし冷静に、体引きながら氷の突風を吹いた。身が切れる。痛くない。おいらの五感は焼け消えていた。
 立て続けに怪物が動いた。強烈な冷気を纏ったハンマーみたいな右腕を、おいらに向かって叩き込んだ。吹っ飛ぶ。ずぶ、と雪に刺さる体。羽が重い。いいや気のせいだ。翼振るった。雪巻き込んで飛び上がった。腹の底から吠えた。二匹はたじろいだようで、しかしやはり水色はすぐさま、次の一手を繰り出した。
「ユキノオー、僕が決める!」
 そう言い、水色は深く息を吸い、猛烈に吐き出した。さっきのそれと違う。大量の雪を乗せた嵐のようなそれが、おいらの翼を煽り、飲み込んで、ぶわっと吹き飛ばした。
 体勢崩したなんてもんじゃなく、翼動かず、おいらぁそのままの流れで落下した。運悪く泉の中へ。どぼんと。体毛へ浸み入る泉の水が。氷のように鋭い水が。冷たいはずだが感じない。息苦しささえ。そんなものより。早く行かねぇと。沈んでいく。だめだ早く。光薄れる。意識も、ああ、しかし、でもだ、相方の、声が、好きだって、言葉が、おいらの、おいらのチンケな全筋肉を、強く激しく刺激する。
 負けらんねぇ。負けらんねぇ!
 オウアアァァァ、と奇声を上げながら、おいらぁ水中から飛び出して、目玉落としそうになってる二匹の間を抜け、漲る、親父から、お袋から学んだ必殺奥義が、全身に力走って、熱い、熱い、熱い! ひとつ弾丸のおいらの体が、洞窟入り口氷の壁を、ド派手に一瞬で蹴散らした。
 視界が真っ暗で、頭ぁ真っ白だった。おいらぁぼとりと墜落した。脳天の先の方から、甲高いうっとおしい鳴き声が、幾重にもビィビィ聞こえてきた。ビードルなのか? においも何も分かんねぇ。慌てた足音が近づいてくる。ああでも、情けねぇ、おいらぁ限界だった。ここまできたってぇのに、首も、翼も、何一つとも動かせねぇ。相方の顔が浮かんだ。元気なあいつの、優しい笑顔だった。幻かき消すように、誰かがおいらの尾羽を、ぐいと掴んで持ち上げた。
「グレイシア、こいつだ。動かない」
「ちょっと手焼いちゃったかな? でももうさすがに体力ゼロか。まったくさ、オニスズメってのは野蛮で困るね」
「ああ」
「他に食べるものもあるのに、なんでビードル食べたりするんだろうね?」
「外に放っておく」
「うんお願い、僕はチビたちの面倒みるよ」
 ずしずし足音と同じタイミングで、頭がぐわんぐわんと揺らされる。やかましい鳴き声が遠のいていく。そのうちにおいらぁ、ずぶ、とまた雪の中に刺さっていた。動けねぇ。やっと開いた瞳で見やると、ユキノオーとか呼ばれた怪物は、おいらのこと、同情するような目で眺めてやがる。
「……お互い、生きるためだ。許せよ」
 そうしてのしのしと去っていく背中に、おいらぁ何も言わなかった。
 いくらかの時間が過ぎ去った。いくらの時間が過ぎ去った?
 気がかりだ。相方のことばかり思い出す。出会った夕べのこと。並んで夜明かした。じゃれついて飛んだ森。あんときはなんでケンカしたんだっけか。星見上げ、顔見合わせて、笑いあって、初めて抱きしめた時の匂い。ああ。守りてぇんだ。おいらの身など気にせずに、てめぇのことだけ心配しやがれ。そう言いたい。言えるだけの器量が、けれどおいらにゃなかったのか。
 這いずってその場を離れた。飛び慣れた森も雪景色と、知らねぇ下からの眺めとで、どこ行ってんのかいまいち分からなかった。気だるさ。体の内側から、むくむく熱が膨らんでくる。嫌な感じだ。ぼんやりして気持ちが悪い。何にも縛られたくねぇと、常々思っていたが、おいらぁ今ぐずぐずに濡れて、空飛ぶことさえ叶わない。それでも、相方のこと笑わせられれば、それでちったぁよかったのに。
 しばらく這って、ついに倒れた場所がどこだか分からなかったが、雪はしんしん降り続けた。
 誰か来る。サクサク軽い二つの足音だ。でも動けねぇ。頭も回らねぇ。チラチラ瞼に光が映る。なんだ。空の方で、二つの声が交わし合う。
「また鳥の死体か。ついてねぇ」
「処理して帰るぞ、どうせまた来なきゃいけないんだ。ホラ手袋」
「消毒液はどこやった」
「こっちだ。よっと――うわっ、こいつ、まだ生きてる」
「嘘だろ! 最悪だな……」
「おい、どうするよ」
「で、でも……どうせすぐ死ぬだろ。袋入れろ、持って帰るぞ」
「まじかよ……」
「この天気だ、また来るよりマシだろうが」
 そうしておいらぁ、どさっと、何かの中に入れられた。
 狭い密封された袋の中だ。運ばれる。森が遠のく。痺れ。意識が。翼の端から凍てついていく。どうして。どうして自由に飛べない。なんで動けねぇ。凍っていく。邪魔できねぇ翼のはずだ。凍りついて、いく。なにが邪魔しやがんだ。どいてくれ。飛びたいんだ。相方が。相方は。どうしてる。雪に降られて凍えてるか。まだ、首を伸ばして、おいらの帰りを待ってるか。
 待たせて、ごめんな、と囁いた、声に、声にならないその声に。
 いつもの、笑顔が。
 いいよ、と返事を、くれた気がした。
 
> 天気が良いので死ぬことにした。 作:秋桜
天気が良いので死ぬことにした。 作:秋桜
 冷たく乾いた冬空の下で彼女が戦っている。
 ここ最近雨が降っていないが、今日もまた天は崩れる予定は無いようだ。それを雄弁に語るように雲一つ無い青空が見る者の心を圧倒するように広がっていた。
「一〇万ボルト!」
 少女の声が大きく響く。忙しなく動き続ける二つの影へと視線を動かせば、次の瞬間に状況が大きく変わった。
 少女の言下。影の一方である立派な黒い鬣(たてがみ)を靡(なび)かせた獣(ポケモン)が、その指示へと応えるように短く吠えた。そしてその逞しい四肢へと力を込めて地面を蹴る。
 牙を剥き、鋭い眼光を宿すレントラーの視線の先には彼女が。
 嗚呼、どうすれば良いのだろう。……指示を出せば良いのか。だとすれば何と?
 バチバチと爆ぜるような音と電気を発しながら迫る雷獣。
 彼女と雷獣が相対した次瞬、閃光が瞬いた。
 思わぬ目眩まし(フラッシュ)。それをまともに喰らったのか苦悶の声を漏らす彼女。その発生源であるレントラーは大地を削りながらその靭(しな)やかな肢体を躍動させて、彼女の背後を取った。
 彼女はまだ気がついていない。
「後ろ」
 だから。背に回りこんだ黒い雷獣が四肢を折り曲げて力を込め跳びかかる為に静止した、その刹那の間に僕はそう声に出していた。
 それは彼女に届いたらしい。指示とは言えぬ僕の粗末な言葉を受けた次の瞬間には、細身なその肢体が動き出す。
 赤と黄色の羽毛に覆われた彼女の両脚。強靭な脚力を有したそれの一本を軸にして旋回。
 鋭い風切音が響く。続いて鈍い打音。くぐもった獣の声。炎を宿した後ろ廻し蹴り(ブレイズキック)はレントラーの顔面を捉えていた。
 だが。
 閃光。次いでバチン、と音が大きく爆ぜる。一瞬痙攣するように身体を震わせ、蹴りを放った態勢のまま動きを止める彼女。
「ナイス! 追撃! 雷の牙!」
 手を叩いて喜ぶ、という言葉が相応しい少女の声。しかし続く言葉に油断は感じない。
 顔の体毛を焦がしながらも犬歯を剥き出し前傾姿勢を取る黒い獣の姿を見て理解する。痛打を喰らいながらもそれを耐え切り、至近距離からの電撃を彼女へと放ったのだと。
 ジムリーダーのポケモンでも防御の不得手な者だったら、一撃で沈めるだろう彼女の蹴りを真正面から喰らいながらも反撃するなんて、このレントラーは強い。……尤も、ジムリーダーなどとは戦ったこともないけれど。
 一歩も引かないこの雷獣はトレーナーである少女に愛されているのだろう。信頼されていて、信頼しているのだ。
 勝ち誇るかの様に咆哮するレントラーが、その牙に雷を宿し顎を大きく開いて肉薄する。
 ――嗚呼、けれど。
 その電撃を帯びた鋭い牙が彼女の細く引き締まった胴へと食い込むその直前。
 鳥の足の様に三叉に分かれた彼女の手。その手首から轟、と炎が噴出する。
 風を切りながら、ぐるりと身を翻す彼女。三本指の拳を覆う炎が火の粉を散らす。
 ガキン、とレントラーの顎が空を噛む。目を見開く雷獣。少女の息を飲む音も聞こえた気がする。
 そしてレントラーが次の動きに入る前に、振りかぶること無く放たれる炎を纏った彼女の拳。軽い所作とは裏腹に重い打音を響かせて振り抜かれる。
 横腹を殴られ呻き声を上げる雷獣。今度は攻撃を受けた刹那に反撃することは出来なかったようで、地面を転がる事はなかったが電撃が爆ぜる音も光も感じられない。
 そして彼女の攻撃は止まらない。
 態勢を整えたレントラーが向き直った。しかし、既に彼女の攻撃の初動は終わっている。
 流れるような挙動で、その長い足による蹴りが二度放たれる。
「あッ――」
 少女の唖然とした声が耳に入る。しかし僕の視線は地面と水平に飛んでいくレントラーを追っている。
 否(いや)。それを追う、疾駆する彼女の姿を僕は見ているのだ。凛々しく、美しく、何より雄々しいその姿を。
 止めの追撃を繰りだそうと、雷獣を追う彼女に情けや容赦などない。勿論、それは戦闘(バトル)の間だけで普段は何かと世話好きな仔でもあるけれども。相手の力の全てを受け止め、どれだけの実力差があろうとも自身の力の全てを振るい戦うのが彼女なのだ。だから相手が強くても向かっていくし、弱くとも徹底的に圧倒する。
 手加減を加えることは彼女の中では悪らしい。僕としては、相手が圧倒的に弱い場合は少しは手心を加えて欲しい気もするが、まぁ仕方ない。
 色々な意味で僕とは正反対の彼女を眺める事は、憧憬と劣等感とが綯(な)い交(ま)ぜになった重苦しい感情を生じさせる。彼女は強い。その強い彼女のトレーナーが僕なのはとても誇らしい。けれど。
「ッ――ワイルドボルト!!」
 思考は停止していなかったらしく呆然とはしていない。少女の叫びにも似た指示が飛ぶ。吹き飛ぶ雷獣はその声の直後身体を捻る。そして地面を削り土煙を巻き上げながら無理矢理に着地。次瞬には、その身を帯電させながら地面を蹴り走りだす。
 その先には彼女が。
 迎え撃つ意思を表すように更に加速するその姿は、燦爛(さんらん)と猛る炎でその身を覆って。
 万雷の如く猛々しい雷獣の咆哮。
 烈火の如き気迫を孕んだ彼女の咆哮。
 二つの哮り声が轟き混ざり、紫電と火の粉が軌跡を描いて空に散る。
 そして。
 途轍もなく重い衝撃音を響かせて一切の音は爆ぜて吹き飛んだ。
 朦々と土煙の舞う情景の中で、辛うじて見える二つのシルエット。どちらかが彼女で、どちらかがレントラーだ。どちらも動かない。声も発さない。
 そして、十数秒が過ぎ去った。僕も少女も、動くことも何か言葉を出すことも出来ずに見守り続けている。何時まで続くかわからない短いが永い濃密な時間。
 さや、と乾いた風が吹く。それが立ち込める土煙を僅かに散らした。赤と黒、二体の姿が僅かに覗く。
 その微風(そよかぜ)が、この息苦しいほどに停滞した時間を動かした。一刹那後、彫像のように静止していた二体の一方がぐらり、と倒れる。
 ――嗚呼。それは間違いなく……
 動き出した時間はしかしまだぎこちなく感じられ、その中でゆっくりと崩れ落ちるように倒れていくその姿は。
「ファング! ッ――」
 どさり、とその肢体が倒れ伏す。その頃には僕の感ずる時間は元のように流れており、少女が悲痛そうな声を発して駆け出すその姿を先程のようにゆっくりと粘性の液体の中を動くように認識することはなかった。
 地面へと伏したレントラー――ファングという名なのだろうか――へと駆け寄る少女。
 倒れたのはレントラー。ならば立っているのは必然的に――
 膝をついて話しかけながら身体の様子を診ている少女のその隣で、悠然と立つ彼女を見る。
 凛とした空気を身に纏う細身の長身。雪のように白い頭を飾る長い羽。炎のように鮮烈な身体を包む赤い羽毛。先程までの燃え盛るような荒々しさは鳴りを潜め、穏やかに佇むその姿。
 それを見て僕は思う。嗚呼、彼女は勝った。彼女は強いのだ。
「お疲れ様」
 そんな言葉をかけながら僕は歩き出す。
 近づく僕へとゆっくりと身体を向ける彼女。その硝子玉の様に澄んだ瞳が僕を捉えたその瞬間、ぞわりと肌が粟立った。
 一刹那後、足が動かなくなりそうになる。だが足を止めるわけにはいかない気がする。僕は彼女を恐怖しているわけでもないし、嫌悪しているわけでもないのだから。
 彼女の瞳を見てこうなることは別に今が初めてじゃない。ここ最近は常な気もする。だから、それを可能なかぎり表に出さないように抑えつけて僕は彼女へと近づいていく。自分の顔を見ることは出来ないが、多分引き攣らないで軽く笑みを浮かべて。
 怖くはない。嫌いでもない。では、それが何なのかと自問すれば、即答できる。こうなってから、散々悩んだのだから。
 ……わからない、のだ。
 改めて彼女へと視線を向ける。
 精悍とした顔つき。だが表情は読み取れない。人間のように、笑む事も無ければ困ったように眉根を寄せたり不機嫌に眉間に皺を浮かべたりも無い。
 その無表情の中で確かに意思の宿ったその瞳。しかしそこに映る感情が何なのか、喜怒哀楽のどれかなのすら僕には読み取れない。
 彼女が何を考えているかわからない。それが、僕がこうなるその理由。
 どうにか不審な挙動を見せずにすんだと思う。僕は彼女の隣へと辿り着いた。二〇センチメートルは背丈の高い彼女を見上げながら、何処か痛む所は無いか問いかける。
 無表情に、小さく首を振る彼女。僕が見ても大きな怪我は無いように見える。しかし万が一という事もあるのでこの後行く予定のポケモンセンターでまた診てもらうことにして、次に僕は倒れた雷獣と少女へと視線を向ける。……これ以上彼女を視線を合わせられなかった。
 呻き声を漏らしながらぐったりと倒れるレントラーに喋りかけながら、手に持った噴霧器式の傷薬の中身を吹きつけている少女。丁度治療が終わったのか、顔を上げたその子と目が合った。
「大丈夫?」
「あ、うん。まだ動けそうにはないけどポケセンで休めば大丈夫だと思う。骨も折れてないし」
 僕のかけた言葉にそう答え、「すぐ休ませてあげるから我慢してね」とレントラーをボールへと戻す少女。
「それにしても強いのね、貴方のバシャーモ。それだけ強いなら、バッジは何個持っているの?」
「ああ、持っていないんだ。ジムには挑戦したことがないから」
「嘘ッ!?」
 目を丸くして大声をあげられてしまった。
 各地方に八つあるジム。そこのトップであるジムリーダーに挑戦し、その実力が認められるとバッジという物が貰えるらしい。それを八つ全て集めるとポケモンバトルのメッカ、ポケモンリーグに無条件で挑戦が可能となる、らしい。あまり真面目にそういった話は聞いたことがないので詳しくはよく分からないけれど大体は合っているはず。
「本当だよ。それに、僕のポケモンは彼女しか居ないんだ」
 だから、様々なポケモン達と時には連戦することになるジム戦はしない。そう答える僕に、少女は茶色く短い髪を弄りながらこう呟いた。
「はぁ。そっかー、バッジ無くても強い人はいる。上には上が居るってことだねー。リーグチャンピオンの夢はまだまだ遠いー」
 両腕を空へと突き出して、天を仰ぐ少女。
「――でも諦めないッ!!」
 少しして、そう叫ぶ。嗚呼、この子は凄いな。
「君とレントラーも相当強かったけど、バッジは何個持っているの?」
「え? えへへ、五個ッ。あと少しで今期のポケモンリーグに挑戦出来るの!」
「ッ。凄いな。そして夢はチャンピオン?」
「そう! もっともっと私も皆も強くなって絶対に叶えるのッ」
 そう、輝くような笑顔で力説してくれた。嗚呼、この子は凄い。夢がある。それを実現しようと行動し、その結果として目標が夢幻(ゆめまぼろし)のような届かないものではなくなりかけている。
 僕のように何の目標も目的も無く、只流れるように無意味な旅を続けるのではない少女の姿が眩しくて、僕は視線を逸らした。
「君ならその夢、実現出来る気がするよ」
 面とは向かわずに僕が発した言葉を受けて「ありがとう」と嬉しそうにその子は応えると、腰の赤と白の球体から別のポケモンを繰り出した。
 閃光と共に飛び出た雄々しい大型の鳥ポケモンが、青い空を悠々と旋回する。
「ウィング! 近くのポケセンまで連れてってッ!!」
 手を振りながらそう叫ぶ少女。その声を聞き届けたウィングという名らしいムクホークは、勢い良く滑空すると彼女の両肩をその逞しい両脚で掴み、そのままバサリと浮き上がる。
 小柄な体躯の少女でなければ肩にあの鋭い爪が食い込んで痛そうだ。などと僕が空を飛ぶその子と猛禽を見て思っていると、
「じゃーねー! また逢えたらその時は負けないからッ!! じゃ、ウィング、よろしくね!」
 そう大きく手を振って空を行ってしまった。
「さて、僕達も行こうか」
 ふぅ、と息を吐きながら彼女の方を向き、言う。
 やはり何を考えているか分からない無表情で、小さく頷く彼女。
 嗚呼。わからないわからないわからない。
 しかし、彼女と僕はポケモンセンターへと向かい並んで歩いて行く。
 ――彼女は強い。それこそ、僕なんて必要の無いくらい。

        ‡‡‡‡‡‡‡

 空が赤く色づいた頃に、僕達はポケモンセンターへと到着した。
 既に彼女の検査と治療を済ませたので、僕らは利用者共用のソファに並んで座り同じく共用の机で早めの夕食を摂っている。
 献立はセンターに併設されたレストランからテイクアウトしてきたカレーと水。彼女には、彼女お気に入りのポケモンフーズ。何やら騒々しい客が居たのがお気に召さなかったのか、彼女が中で食べる事を拒否した結果、このテーブルとソファを占拠することとなった。まぁ、偶然そういう客が居たのでそう推理したけれど、実際彼女が何を考え拒否したのかはわからない。
 此処で食べるのも、泊まる為の部屋が満室でセンター内の何処かで寝なければならないので、場所を取っておくという面もあるのだけれど。
「ん? どうした?」
 カレーを頬張っていると、彼女の視線が突き刺さる。それが気になり、訊いてみる。
 訊かれた彼女はやはり何を考えてるか読み取れない無表情で、机の上に置かれたティッシュペーパーを三本指の手で器用に取り出す。そしてそのまま僕の方へとその手を伸ばすと、
「わ、何ッ」
 口元を拭った。ゴシゴシと念入りに。
 ……そんなに口元を汚していたのだろうか。
「……ありがと」
 なんだか子供扱いされた気になり釈然としないがお礼は言っておく。
 彼女は返事なのか呼吸音なのかわからないが小さく息を吐いて、汚れたティッシュを器用に畳みテーブルに置くと食事を再開してしまう。
 嗚呼、やはり何を思い、考えているかわからない。彼女とは僕が物心付く前からの付き合いだ。それこそ母のようでもあり、姉のようでもある近しい存在。嗚呼、しかし、何でこんなにもわからないのだろう。昔はもう少しわかっていたような気もするのに。
 そんな考えがループして、気分が落ち込む。好物のカレーを食べているのにあまり美味しく感じない。
 はぁ、と溜息が漏れる。
 それが聞こえたのか彼女の視線とクルル、という鳴き声が僕に向けられる。
「ああ、大丈夫。なんでもないよ」
 だから、笑みを貼り付けてそう答えた。



 陽はとっぷりと落ちて、星や月が輝いているのが窓越しに見える。
 ソファとテーブルのあるスペースに置かれた大型のテレビが、何処かのポケモンバトルの大会の特集を流しているのを僕達は観ていた。
 別の大会の録画映像などを交えながら注目のポケモントレーナーやそのポケモン達の紹介や解説などがその内容。
 画面の中でトレーナーの指示が飛ぶ。言下それに応じたポケモンが縦横無尽に駆け巡る。ハイレベルなポケモンバトルの姿がそこにはあった。
 贔屓目無しで見ても、テレビの中のポケモン達と彼女の動きを比べて遜色は無い。むしろ優っているとも感じられることもあった。
 嗚呼。けれど。僕はどうなのだろう。
 否(いや)。考えるまでもなく、比べるまでもなく、劣っている。
 テレビの中で知った風な解説者が「この指示は良くなかった」「指示が遅れたのがこのバトルの勝敗を――」などとつらつら喋っている。
 ポケモンバトルはポケモンが強いだけでは駄目らしい。状況を把握し、流れを読み、それを活かす指示をトレーナーが出さなければならないのだ。
 それを、僕は出来ない。常に変わり続ける状況など掴めず、流れなどまず感じることすら出来ない。それは僕が幼い頃に友人とバトルをしていた頃からわかってる。見当はずれな指示を出して、まだ雛だった彼女を傷つけたのだ。
 今も未だ、バトルの時になんと指示を出せば良いのかわからない。だが、彼女は強くなった。それこそ、僕の指示など要らない位に。
 嗚呼、心が、寒い。



 ソファを枕に毛布に包まれている今の時刻は何時だろう。携帯電話(ポケギア)で確認するのも面倒くさい。多分、深夜。
 隣で彼女は毛布を被って寝息を立てている。その横で、僕は眠れないでいた。
 僕の方を向いて目を瞑る彼女を横目に見ながら、何故彼女は僕と一緒に居るのか考える。しかしわからない。トレーナーとしては欠陥がある。何か特技があるわけでもない。只何となく各地を旅している、だけ。
 嗚呼、そんな屑みたいな僕に何故彼女は着いて来るのだろう。
 昼間の少女みたいにちゃんとしたトレーナーだったならば、僕も臆面なくチャンピオンが夢だと言えただろう。でも、違う。彼女ばかりに負担がかかるバトルしか僕はさせられない。だからそんなことは言えない。言いたくない。
 ポケモンを育てるブリーダーはどうだろう。否。無理だ。彼女以外のポケモンも、一緒に居る自分が全く想像できない。可愛いと思うし、格好良いと感じるけれども、他のポケモンも一緒に旅をするという気には何故かこれまでならなかった。だから、世話は出来るかもしれないが、愛情をもって接することは出来ない。それじゃあブリーダーとは言えない気がする。
 ならばポケモンの優美さを競うコンテストに出てみるのは……彼女がそういったのが苦手だから無理だ。
 ポケモンの関係の無い職に就く? 何をすればいい。わからないわからない。
 嗚呼、二〇年程生きてきて、僕は一体何がしたいのだろう。何が出来る? 何も出来ない。
 彼女は僕などと居て良いのだろうか。誰か優秀なトレーナーと一緒に居たほうが良いのじゃないか? それかいっそ野生に――
 頭の中が混濁していく。何故僕なんかが生きているのだろう。嗚呼、寒い。隣の彼女の高い体温で身体は冷えていないのに、心が冷たい。溶けない氷のように冷たく固まっている。
 などと考えて居たら窓から覗く空が白ばんできた。夜が明けたらしい。
 今日も、自分が矮小に思える位に広々とした空が広がっている。雲一つない。
 嗚呼。天気がいい。快晴だ。
 だから。
 死ぬことにした。
 死のう。それが一番良い選択な気がする。だけど、この場で死ぬのは良くないな。センターの職員にも迷惑だ。
 うん。外に出よう。
 彼女を起こさないように静かに立ち上がる。屋根がある以外は野宿とそう変わらないので服装は直ぐ外に出れる格好だ。コートは畳んでソファに置いて枕にしていた。それを着る。
「あれ、お出かけですか?」
 さぁ、出るか。と思った途端、小さな声で尋ねられた。
 夜勤の女医さんのようだ。「そのバシャーモは連れて行かないの?」と更に訊いてくる。
「ああ、はい。ちょっと眠れなくて気分転換に散歩しようかと思ったので」
 今から死にに行こうかと。などと言ったら阻止されるだろうのでそう小声で返す。
「あら、そうでしたか。寒いから気をつけてね」
「はい。ありがとうございます。しばらくしたら戻るので、彼女は起こさないであげてくださいね」
 僕が彼女を指して言うと「ええ。わかりました」と返した後、ふぁ、と欠伸しながら歩いて行く女医さん。その姿が離れてから、僕は自動ドアから外へと出た。死ぬために。
 彼女が気がつく前に死ななければ。そうしなければ多分彼女は阻止しに来るだろうから。

        ‡‡‡‡‡‡‡

 どれほどの距離を僕は来たのだろう。人目につかない場所を探していたら、辿り着いた此処は何処か山の中。既に陽は沈み、冷たい闇が辺りを包んでいる。
 あれほどに圧力を感じた空も、暗い色の雲に侵されて灰色の様相を見せている。嗚呼これはこれで、圧迫感や閉塞感を感じるので死ぬことを躊躇する必要は無い。だから、進む。
 いつからか、暗い灰色の空から吹きつけるように雪が降ってきていた。ざくりざくりと積もった新雪を踏みながら、止まること無く歩き続ける僕。手袋をしていても手が冷たく悴んで、痛みすら発するようになってきた。歩き尽くめの両脚も、棒のようで動かしづらい。
 幸いなことに彼女が追ってくる様子は無く、僕はこのまま死ねるだろう。僕という欠陥のある人間と一緒にいるという不幸な状況から彼女を開放することが出来るのだ。
 白い息を吐きながら、誰も居ない雪山の奥へ奥へと踏み入っていく。
 この、肺が爆ぜるように痛み、荒い呼吸によって喉が焼けつき、全身がバラバラになりそうな軋みをあげる、心地良い疲労感。身体が凍りつきそうなこの寒さも、僕の氷のような心の感じる寒さに比べれば何と心地の良いことか。
 さあ、このまま力尽きればそのまま僕は死ぬるだろう。
 だけども未だ、僕は力尽きないようだ。若干視界と意識は霞んできたが、未だ倒れこむ程じゃない。
「……ん?」
 歩き続けるその最中(さなか)、視界の端で何かが動いた。そちらに視線を動かすが、雲に遮られて僅かに注ぐ月明かりによって出来た樹木の陰しかない。
 気のせいか。
 また前を向き、歩く。ザクザクと雪を踏みしめて。それにしても、先ほどよりも冷たさが増した気がする。僕が雪を踏み歩く音しか聞こえない。その孤独感が体感の温度を下げるのだろうか。
 しばらくまた歩き続けたが、
「――ッ」
 否(いや)、やはり何かが居る。音も、姿も無いけれど何かが僕を見ている気配が感ぜられる。
 何も居ないように見える中で、視線だけが在る。そのことに全身に廃油を被せられたような気味の悪さを覚え、身を切る寒さとは違う悪寒が生じた。
 視線の感じる背後へと勢い良く振り返る。
 しかし、やはり何も居ない。
 僕の影が白い地面へと長く伸びているだけで――
 ……影とは、笑うものだっただろうか。僕の記憶では、笑うどころか顔にあたる部分はのっぺりとした黒が顔の輪郭を映すだけだったような気もするのだけれど。
 けれどもしかし、目の前の僕の影は裂けるように口を開き、ニタリと笑っていた。
 それを見たまま動けないでいると、その笑う僕の影はケタケタと声まで出して笑い始めた。
 そして次の瞬間には、ぬぅ、と浮かび上がる。二次元だった影が三次元の立体に。
 宙に浮かんで哄笑する僕の影。否(いや)、それは。
「ああ、ゲンガーだったのか」
 ゴーストタイプのポケモン、ゲンガーだった。山に迷った人の命を奪うなどと言われているポケモンだが、事実そうなのだろうか。
 ニタニタと粘ついた笑みを浮かべて僕を見据える亡霊に視線を向け続けていると、クスクスという笑い声が無音の銀世界に響き渡る。
 その声が聞こえた方へと視線を向けるとそこには振袖を着た童女のように小さな氷女が。
 嗚呼、こっちは凍てつく吐息を吹きかけて凍らせた獲物を何処かに飾っているなどと風説されるポケモン、ユキメノコ。
 そしてその隣には一ツ目の巨大な亡霊。ヨノワール。こいつも人を霊界に連れて行くなどと言われているゴーストポケモン。
 嗚呼。僕を獲物としたのだろうか。
 それならば、心の底から礼を言いたい。
「ああ、ありがとう。さぁ、抵抗はしないから」
 早く死なせてくれ。と彼らに言う。
 寒い。冷たい。身体はとうに冷え切って震えが止まらない。けれどそんなことはどうでもいい。この、凍りついた心の寒さから開放して欲しい。
 僕の言葉を受けた三匹は。
 影霊はゲラゲラと大笑し。
 氷霊はクスリ、と小さく微笑し。
 巨霊は無言のままその大きな両腕を前へと構えた。
 瞬いた刹那、眼前に現れたユキメノコの、ひゅう、と空気さえも凍らせる吐息が僕に纏わり付く。
 パキパキと、身体の芯まで凍りつくような感覚が僕を包み込む。
 続いて、ゲンガーが軽薄に笑いながら僕の目を覗き込んだ。怪しく光るその瞳を見た次瞬には僕の意識は微睡んでいく。
 嗚呼、そして、霞んだ視界にヨノワールが大きな拳を振りかぶり、僕へと振り下ろそうとする姿が。
 嗚呼。これで死ねる。
 ……けれど何故だろう。凍てついた身体よりも氷のように冷たい心の寒さが、未だ消えないのは。
 しかしそんなことは関係なく、巨霊の拳は僕を――
 刹那。赤い光が巨霊を貫いた。これは、オーバーヒート? 炎タイプ最高クラスの威力を誇る技が何故?
「ッ!?」
 ぐらりと傾く巨きな身体。
 次の刹那、火山の噴火にも匹敵する咆哮が轟いた。
 その方向へと目だけを向ければ、嗚呼、なんて事だろう。
 彼女が居た。
 手首どころか全身から劫火を噴き出しながら、無表情なその顔の、激情を湛えていることが一目で解る瞳でもってゴーストポケモン達を、そして僕を睨みつけてくる。
 嗚呼、来てしまったのか。
 けれど何故、あんなに寒かったのに彼女の姿を見たとたん、少し温かくなったのだろうか。
 睡眠不足と極度の疲労、そしてゲンガーの放った妖しい光と催眠術によって、僕はもう意識を保って――



「あー!! よかった見つかったんですねッ」
 少し、聞き覚えのある声で目が覚めた。なんだかとても暖かくて心地良い。
「ん……?」
 目を開ける。霞んだ視界に入ってくるのは――
「おわッ!?」
 彼女の顔だった。びっくりする程のドアップで僕を覗き込んでいた。
 嗚呼、すると、この心地良い暖かさは彼女の体温か。
「あはは。大丈夫ですか? 直ぐポケモンに運びますからね」
 そしてそう話しかけてくる少女の声。昨日の昼間に戦ったあの少女か?
「全く、こんなに懐いてる仔を置いてどっか行っちゃうなんて馬鹿ですか貴方は。『何が何だかわからない』って感じでパニック起こしてたんですからね。そのバシャーモちゃん!! 私のウェイブが居なかったら探し出せなくてそのまま凍死かゴーストポケモンに殺されちゃうところだったんですよ貴方は!!! 反省しなさい!!!!」
 彼女に抱きしめられたまま、少女の説教を聞く。
 どうやら同じポケモンセンターに居た少女の手持ちであるルカリオのウェイブとやらに僕を行方を探させたらしい。そして、彼女は僕を殺そうとしていたゴーストポケモンたちを蹴散らした、というわけか。
 ぎゅ、と力を込めて僕を抱きとめる彼女。
「ん? 『何が何だかわからない』感じで?」
「え? ああ、はい。もうホントパニックって感じでしたよ?」
 彼女の顔を覗き込む。
 目を合わせない彼女。
 嗚呼、わかった。恥ずかしがっている。
 ……。あれ、彼女のことが少しわかった。
 ……。
「あははははは!」
 嗚呼、わからない。けれど少しわかった。
 ならまだもう少しわかることが出来るかもしれない。
 そうすることがとりあえず今後の僕の目標とうことでどうだろう。
「ああ、ごめんね『ちゃちゃ』。もう居なくならないから」
 だからそう謝る。もう死のうなどとは考えないことにしよう。
 氷のように感じていた心も、彼女の体温ですっかり溶けてしまった気がする程に暖かかった。
 
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