> 天気が良いので死ぬことにした。 作:秋桜
天気が良いので死ぬことにした。 作:秋桜
 冷たく乾いた冬空の下で彼女が戦っている。
 ここ最近雨が降っていないが、今日もまた天は崩れる予定は無いようだ。それを雄弁に語るように雲一つ無い青空が見る者の心を圧倒するように広がっていた。
「一〇万ボルト!」
 少女の声が大きく響く。忙しなく動き続ける二つの影へと視線を動かせば、次の瞬間に状況が大きく変わった。
 少女の言下。影の一方である立派な黒い鬣(たてがみ)を靡(なび)かせた獣(ポケモン)が、その指示へと応えるように短く吠えた。そしてその逞しい四肢へと力を込めて地面を蹴る。
 牙を剥き、鋭い眼光を宿すレントラーの視線の先には彼女が。
 嗚呼、どうすれば良いのだろう。……指示を出せば良いのか。だとすれば何と?
 バチバチと爆ぜるような音と電気を発しながら迫る雷獣。
 彼女と雷獣が相対した次瞬、閃光が瞬いた。
 思わぬ目眩まし(フラッシュ)。それをまともに喰らったのか苦悶の声を漏らす彼女。その発生源であるレントラーは大地を削りながらその靭(しな)やかな肢体を躍動させて、彼女の背後を取った。
 彼女はまだ気がついていない。
「後ろ」
 だから。背に回りこんだ黒い雷獣が四肢を折り曲げて力を込め跳びかかる為に静止した、その刹那の間に僕はそう声に出していた。
 それは彼女に届いたらしい。指示とは言えぬ僕の粗末な言葉を受けた次の瞬間には、細身なその肢体が動き出す。
 赤と黄色の羽毛に覆われた彼女の両脚。強靭な脚力を有したそれの一本を軸にして旋回。
 鋭い風切音が響く。続いて鈍い打音。くぐもった獣の声。炎を宿した後ろ廻し蹴り(ブレイズキック)はレントラーの顔面を捉えていた。
 だが。
 閃光。次いでバチン、と音が大きく爆ぜる。一瞬痙攣するように身体を震わせ、蹴りを放った態勢のまま動きを止める彼女。
「ナイス! 追撃! 雷の牙!」
 手を叩いて喜ぶ、という言葉が相応しい少女の声。しかし続く言葉に油断は感じない。
 顔の体毛を焦がしながらも犬歯を剥き出し前傾姿勢を取る黒い獣の姿を見て理解する。痛打を喰らいながらもそれを耐え切り、至近距離からの電撃を彼女へと放ったのだと。
 ジムリーダーのポケモンでも防御の不得手な者だったら、一撃で沈めるだろう彼女の蹴りを真正面から喰らいながらも反撃するなんて、このレントラーは強い。……尤も、ジムリーダーなどとは戦ったこともないけれど。
 一歩も引かないこの雷獣はトレーナーである少女に愛されているのだろう。信頼されていて、信頼しているのだ。
 勝ち誇るかの様に咆哮するレントラーが、その牙に雷を宿し顎を大きく開いて肉薄する。
 ――嗚呼、けれど。
 その電撃を帯びた鋭い牙が彼女の細く引き締まった胴へと食い込むその直前。
 鳥の足の様に三叉に分かれた彼女の手。その手首から轟、と炎が噴出する。
 風を切りながら、ぐるりと身を翻す彼女。三本指の拳を覆う炎が火の粉を散らす。
 ガキン、とレントラーの顎が空を噛む。目を見開く雷獣。少女の息を飲む音も聞こえた気がする。
 そしてレントラーが次の動きに入る前に、振りかぶること無く放たれる炎を纏った彼女の拳。軽い所作とは裏腹に重い打音を響かせて振り抜かれる。
 横腹を殴られ呻き声を上げる雷獣。今度は攻撃を受けた刹那に反撃することは出来なかったようで、地面を転がる事はなかったが電撃が爆ぜる音も光も感じられない。
 そして彼女の攻撃は止まらない。
 態勢を整えたレントラーが向き直った。しかし、既に彼女の攻撃の初動は終わっている。
 流れるような挙動で、その長い足による蹴りが二度放たれる。
「あッ――」
 少女の唖然とした声が耳に入る。しかし僕の視線は地面と水平に飛んでいくレントラーを追っている。
 否(いや)。それを追う、疾駆する彼女の姿を僕は見ているのだ。凛々しく、美しく、何より雄々しいその姿を。
 止めの追撃を繰りだそうと、雷獣を追う彼女に情けや容赦などない。勿論、それは戦闘(バトル)の間だけで普段は何かと世話好きな仔でもあるけれども。相手の力の全てを受け止め、どれだけの実力差があろうとも自身の力の全てを振るい戦うのが彼女なのだ。だから相手が強くても向かっていくし、弱くとも徹底的に圧倒する。
 手加減を加えることは彼女の中では悪らしい。僕としては、相手が圧倒的に弱い場合は少しは手心を加えて欲しい気もするが、まぁ仕方ない。
 色々な意味で僕とは正反対の彼女を眺める事は、憧憬と劣等感とが綯(な)い交(ま)ぜになった重苦しい感情を生じさせる。彼女は強い。その強い彼女のトレーナーが僕なのはとても誇らしい。けれど。
「ッ――ワイルドボルト!!」
 思考は停止していなかったらしく呆然とはしていない。少女の叫びにも似た指示が飛ぶ。吹き飛ぶ雷獣はその声の直後身体を捻る。そして地面を削り土煙を巻き上げながら無理矢理に着地。次瞬には、その身を帯電させながら地面を蹴り走りだす。
 その先には彼女が。
 迎え撃つ意思を表すように更に加速するその姿は、燦爛(さんらん)と猛る炎でその身を覆って。
 万雷の如く猛々しい雷獣の咆哮。
 烈火の如き気迫を孕んだ彼女の咆哮。
 二つの哮り声が轟き混ざり、紫電と火の粉が軌跡を描いて空に散る。
 そして。
 途轍もなく重い衝撃音を響かせて一切の音は爆ぜて吹き飛んだ。
 朦々と土煙の舞う情景の中で、辛うじて見える二つのシルエット。どちらかが彼女で、どちらかがレントラーだ。どちらも動かない。声も発さない。
 そして、十数秒が過ぎ去った。僕も少女も、動くことも何か言葉を出すことも出来ずに見守り続けている。何時まで続くかわからない短いが永い濃密な時間。
 さや、と乾いた風が吹く。それが立ち込める土煙を僅かに散らした。赤と黒、二体の姿が僅かに覗く。
 その微風(そよかぜ)が、この息苦しいほどに停滞した時間を動かした。一刹那後、彫像のように静止していた二体の一方がぐらり、と倒れる。
 ――嗚呼。それは間違いなく……
 動き出した時間はしかしまだぎこちなく感じられ、その中でゆっくりと崩れ落ちるように倒れていくその姿は。
「ファング! ッ――」
 どさり、とその肢体が倒れ伏す。その頃には僕の感ずる時間は元のように流れており、少女が悲痛そうな声を発して駆け出すその姿を先程のようにゆっくりと粘性の液体の中を動くように認識することはなかった。
 地面へと伏したレントラー――ファングという名なのだろうか――へと駆け寄る少女。
 倒れたのはレントラー。ならば立っているのは必然的に――
 膝をついて話しかけながら身体の様子を診ている少女のその隣で、悠然と立つ彼女を見る。
 凛とした空気を身に纏う細身の長身。雪のように白い頭を飾る長い羽。炎のように鮮烈な身体を包む赤い羽毛。先程までの燃え盛るような荒々しさは鳴りを潜め、穏やかに佇むその姿。
 それを見て僕は思う。嗚呼、彼女は勝った。彼女は強いのだ。
「お疲れ様」
 そんな言葉をかけながら僕は歩き出す。
 近づく僕へとゆっくりと身体を向ける彼女。その硝子玉の様に澄んだ瞳が僕を捉えたその瞬間、ぞわりと肌が粟立った。
 一刹那後、足が動かなくなりそうになる。だが足を止めるわけにはいかない気がする。僕は彼女を恐怖しているわけでもないし、嫌悪しているわけでもないのだから。
 彼女の瞳を見てこうなることは別に今が初めてじゃない。ここ最近は常な気もする。だから、それを可能なかぎり表に出さないように抑えつけて僕は彼女へと近づいていく。自分の顔を見ることは出来ないが、多分引き攣らないで軽く笑みを浮かべて。
 怖くはない。嫌いでもない。では、それが何なのかと自問すれば、即答できる。こうなってから、散々悩んだのだから。
 ……わからない、のだ。
 改めて彼女へと視線を向ける。
 精悍とした顔つき。だが表情は読み取れない。人間のように、笑む事も無ければ困ったように眉根を寄せたり不機嫌に眉間に皺を浮かべたりも無い。
 その無表情の中で確かに意思の宿ったその瞳。しかしそこに映る感情が何なのか、喜怒哀楽のどれかなのすら僕には読み取れない。
 彼女が何を考えているかわからない。それが、僕がこうなるその理由。
 どうにか不審な挙動を見せずにすんだと思う。僕は彼女の隣へと辿り着いた。二〇センチメートルは背丈の高い彼女を見上げながら、何処か痛む所は無いか問いかける。
 無表情に、小さく首を振る彼女。僕が見ても大きな怪我は無いように見える。しかし万が一という事もあるのでこの後行く予定のポケモンセンターでまた診てもらうことにして、次に僕は倒れた雷獣と少女へと視線を向ける。……これ以上彼女を視線を合わせられなかった。
 呻き声を漏らしながらぐったりと倒れるレントラーに喋りかけながら、手に持った噴霧器式の傷薬の中身を吹きつけている少女。丁度治療が終わったのか、顔を上げたその子と目が合った。
「大丈夫?」
「あ、うん。まだ動けそうにはないけどポケセンで休めば大丈夫だと思う。骨も折れてないし」
 僕のかけた言葉にそう答え、「すぐ休ませてあげるから我慢してね」とレントラーをボールへと戻す少女。
「それにしても強いのね、貴方のバシャーモ。それだけ強いなら、バッジは何個持っているの?」
「ああ、持っていないんだ。ジムには挑戦したことがないから」
「嘘ッ!?」
 目を丸くして大声をあげられてしまった。
 各地方に八つあるジム。そこのトップであるジムリーダーに挑戦し、その実力が認められるとバッジという物が貰えるらしい。それを八つ全て集めるとポケモンバトルのメッカ、ポケモンリーグに無条件で挑戦が可能となる、らしい。あまり真面目にそういった話は聞いたことがないので詳しくはよく分からないけれど大体は合っているはず。
「本当だよ。それに、僕のポケモンは彼女しか居ないんだ」
 だから、様々なポケモン達と時には連戦することになるジム戦はしない。そう答える僕に、少女は茶色く短い髪を弄りながらこう呟いた。
「はぁ。そっかー、バッジ無くても強い人はいる。上には上が居るってことだねー。リーグチャンピオンの夢はまだまだ遠いー」
 両腕を空へと突き出して、天を仰ぐ少女。
「――でも諦めないッ!!」
 少しして、そう叫ぶ。嗚呼、この子は凄いな。
「君とレントラーも相当強かったけど、バッジは何個持っているの?」
「え? えへへ、五個ッ。あと少しで今期のポケモンリーグに挑戦出来るの!」
「ッ。凄いな。そして夢はチャンピオン?」
「そう! もっともっと私も皆も強くなって絶対に叶えるのッ」
 そう、輝くような笑顔で力説してくれた。嗚呼、この子は凄い。夢がある。それを実現しようと行動し、その結果として目標が夢幻(ゆめまぼろし)のような届かないものではなくなりかけている。
 僕のように何の目標も目的も無く、只流れるように無意味な旅を続けるのではない少女の姿が眩しくて、僕は視線を逸らした。
「君ならその夢、実現出来る気がするよ」
 面とは向かわずに僕が発した言葉を受けて「ありがとう」と嬉しそうにその子は応えると、腰の赤と白の球体から別のポケモンを繰り出した。
 閃光と共に飛び出た雄々しい大型の鳥ポケモンが、青い空を悠々と旋回する。
「ウィング! 近くのポケセンまで連れてってッ!!」
 手を振りながらそう叫ぶ少女。その声を聞き届けたウィングという名らしいムクホークは、勢い良く滑空すると彼女の両肩をその逞しい両脚で掴み、そのままバサリと浮き上がる。
 小柄な体躯の少女でなければ肩にあの鋭い爪が食い込んで痛そうだ。などと僕が空を飛ぶその子と猛禽を見て思っていると、
「じゃーねー! また逢えたらその時は負けないからッ!! じゃ、ウィング、よろしくね!」
 そう大きく手を振って空を行ってしまった。
「さて、僕達も行こうか」
 ふぅ、と息を吐きながら彼女の方を向き、言う。
 やはり何を考えているか分からない無表情で、小さく頷く彼女。
 嗚呼。わからないわからないわからない。
 しかし、彼女と僕はポケモンセンターへと向かい並んで歩いて行く。
 ――彼女は強い。それこそ、僕なんて必要の無いくらい。

        ‡‡‡‡‡‡‡

 空が赤く色づいた頃に、僕達はポケモンセンターへと到着した。
 既に彼女の検査と治療を済ませたので、僕らは利用者共用のソファに並んで座り同じく共用の机で早めの夕食を摂っている。
 献立はセンターに併設されたレストランからテイクアウトしてきたカレーと水。彼女には、彼女お気に入りのポケモンフーズ。何やら騒々しい客が居たのがお気に召さなかったのか、彼女が中で食べる事を拒否した結果、このテーブルとソファを占拠することとなった。まぁ、偶然そういう客が居たのでそう推理したけれど、実際彼女が何を考え拒否したのかはわからない。
 此処で食べるのも、泊まる為の部屋が満室でセンター内の何処かで寝なければならないので、場所を取っておくという面もあるのだけれど。
「ん? どうした?」
 カレーを頬張っていると、彼女の視線が突き刺さる。それが気になり、訊いてみる。
 訊かれた彼女はやはり何を考えてるか読み取れない無表情で、机の上に置かれたティッシュペーパーを三本指の手で器用に取り出す。そしてそのまま僕の方へとその手を伸ばすと、
「わ、何ッ」
 口元を拭った。ゴシゴシと念入りに。
 ……そんなに口元を汚していたのだろうか。
「……ありがと」
 なんだか子供扱いされた気になり釈然としないがお礼は言っておく。
 彼女は返事なのか呼吸音なのかわからないが小さく息を吐いて、汚れたティッシュを器用に畳みテーブルに置くと食事を再開してしまう。
 嗚呼、やはり何を思い、考えているかわからない。彼女とは僕が物心付く前からの付き合いだ。それこそ母のようでもあり、姉のようでもある近しい存在。嗚呼、しかし、何でこんなにもわからないのだろう。昔はもう少しわかっていたような気もするのに。
 そんな考えがループして、気分が落ち込む。好物のカレーを食べているのにあまり美味しく感じない。
 はぁ、と溜息が漏れる。
 それが聞こえたのか彼女の視線とクルル、という鳴き声が僕に向けられる。
「ああ、大丈夫。なんでもないよ」
 だから、笑みを貼り付けてそう答えた。



 陽はとっぷりと落ちて、星や月が輝いているのが窓越しに見える。
 ソファとテーブルのあるスペースに置かれた大型のテレビが、何処かのポケモンバトルの大会の特集を流しているのを僕達は観ていた。
 別の大会の録画映像などを交えながら注目のポケモントレーナーやそのポケモン達の紹介や解説などがその内容。
 画面の中でトレーナーの指示が飛ぶ。言下それに応じたポケモンが縦横無尽に駆け巡る。ハイレベルなポケモンバトルの姿がそこにはあった。
 贔屓目無しで見ても、テレビの中のポケモン達と彼女の動きを比べて遜色は無い。むしろ優っているとも感じられることもあった。
 嗚呼。けれど。僕はどうなのだろう。
 否(いや)。考えるまでもなく、比べるまでもなく、劣っている。
 テレビの中で知った風な解説者が「この指示は良くなかった」「指示が遅れたのがこのバトルの勝敗を――」などとつらつら喋っている。
 ポケモンバトルはポケモンが強いだけでは駄目らしい。状況を把握し、流れを読み、それを活かす指示をトレーナーが出さなければならないのだ。
 それを、僕は出来ない。常に変わり続ける状況など掴めず、流れなどまず感じることすら出来ない。それは僕が幼い頃に友人とバトルをしていた頃からわかってる。見当はずれな指示を出して、まだ雛だった彼女を傷つけたのだ。
 今も未だ、バトルの時になんと指示を出せば良いのかわからない。だが、彼女は強くなった。それこそ、僕の指示など要らない位に。
 嗚呼、心が、寒い。



 ソファを枕に毛布に包まれている今の時刻は何時だろう。携帯電話(ポケギア)で確認するのも面倒くさい。多分、深夜。
 隣で彼女は毛布を被って寝息を立てている。その横で、僕は眠れないでいた。
 僕の方を向いて目を瞑る彼女を横目に見ながら、何故彼女は僕と一緒に居るのか考える。しかしわからない。トレーナーとしては欠陥がある。何か特技があるわけでもない。只何となく各地を旅している、だけ。
 嗚呼、そんな屑みたいな僕に何故彼女は着いて来るのだろう。
 昼間の少女みたいにちゃんとしたトレーナーだったならば、僕も臆面なくチャンピオンが夢だと言えただろう。でも、違う。彼女ばかりに負担がかかるバトルしか僕はさせられない。だからそんなことは言えない。言いたくない。
 ポケモンを育てるブリーダーはどうだろう。否。無理だ。彼女以外のポケモンも、一緒に居る自分が全く想像できない。可愛いと思うし、格好良いと感じるけれども、他のポケモンも一緒に旅をするという気には何故かこれまでならなかった。だから、世話は出来るかもしれないが、愛情をもって接することは出来ない。それじゃあブリーダーとは言えない気がする。
 ならばポケモンの優美さを競うコンテストに出てみるのは……彼女がそういったのが苦手だから無理だ。
 ポケモンの関係の無い職に就く? 何をすればいい。わからないわからない。
 嗚呼、二〇年程生きてきて、僕は一体何がしたいのだろう。何が出来る? 何も出来ない。
 彼女は僕などと居て良いのだろうか。誰か優秀なトレーナーと一緒に居たほうが良いのじゃないか? それかいっそ野生に――
 頭の中が混濁していく。何故僕なんかが生きているのだろう。嗚呼、寒い。隣の彼女の高い体温で身体は冷えていないのに、心が冷たい。溶けない氷のように冷たく固まっている。
 などと考えて居たら窓から覗く空が白ばんできた。夜が明けたらしい。
 今日も、自分が矮小に思える位に広々とした空が広がっている。雲一つない。
 嗚呼。天気がいい。快晴だ。
 だから。
 死ぬことにした。
 死のう。それが一番良い選択な気がする。だけど、この場で死ぬのは良くないな。センターの職員にも迷惑だ。
 うん。外に出よう。
 彼女を起こさないように静かに立ち上がる。屋根がある以外は野宿とそう変わらないので服装は直ぐ外に出れる格好だ。コートは畳んでソファに置いて枕にしていた。それを着る。
「あれ、お出かけですか?」
 さぁ、出るか。と思った途端、小さな声で尋ねられた。
 夜勤の女医さんのようだ。「そのバシャーモは連れて行かないの?」と更に訊いてくる。
「ああ、はい。ちょっと眠れなくて気分転換に散歩しようかと思ったので」
 今から死にに行こうかと。などと言ったら阻止されるだろうのでそう小声で返す。
「あら、そうでしたか。寒いから気をつけてね」
「はい。ありがとうございます。しばらくしたら戻るので、彼女は起こさないであげてくださいね」
 僕が彼女を指して言うと「ええ。わかりました」と返した後、ふぁ、と欠伸しながら歩いて行く女医さん。その姿が離れてから、僕は自動ドアから外へと出た。死ぬために。
 彼女が気がつく前に死ななければ。そうしなければ多分彼女は阻止しに来るだろうから。

        ‡‡‡‡‡‡‡

 どれほどの距離を僕は来たのだろう。人目につかない場所を探していたら、辿り着いた此処は何処か山の中。既に陽は沈み、冷たい闇が辺りを包んでいる。
 あれほどに圧力を感じた空も、暗い色の雲に侵されて灰色の様相を見せている。嗚呼これはこれで、圧迫感や閉塞感を感じるので死ぬことを躊躇する必要は無い。だから、進む。
 いつからか、暗い灰色の空から吹きつけるように雪が降ってきていた。ざくりざくりと積もった新雪を踏みながら、止まること無く歩き続ける僕。手袋をしていても手が冷たく悴んで、痛みすら発するようになってきた。歩き尽くめの両脚も、棒のようで動かしづらい。
 幸いなことに彼女が追ってくる様子は無く、僕はこのまま死ねるだろう。僕という欠陥のある人間と一緒にいるという不幸な状況から彼女を開放することが出来るのだ。
 白い息を吐きながら、誰も居ない雪山の奥へ奥へと踏み入っていく。
 この、肺が爆ぜるように痛み、荒い呼吸によって喉が焼けつき、全身がバラバラになりそうな軋みをあげる、心地良い疲労感。身体が凍りつきそうなこの寒さも、僕の氷のような心の感じる寒さに比べれば何と心地の良いことか。
 さあ、このまま力尽きればそのまま僕は死ぬるだろう。
 だけども未だ、僕は力尽きないようだ。若干視界と意識は霞んできたが、未だ倒れこむ程じゃない。
「……ん?」
 歩き続けるその最中(さなか)、視界の端で何かが動いた。そちらに視線を動かすが、雲に遮られて僅かに注ぐ月明かりによって出来た樹木の陰しかない。
 気のせいか。
 また前を向き、歩く。ザクザクと雪を踏みしめて。それにしても、先ほどよりも冷たさが増した気がする。僕が雪を踏み歩く音しか聞こえない。その孤独感が体感の温度を下げるのだろうか。
 しばらくまた歩き続けたが、
「――ッ」
 否(いや)、やはり何かが居る。音も、姿も無いけれど何かが僕を見ている気配が感ぜられる。
 何も居ないように見える中で、視線だけが在る。そのことに全身に廃油を被せられたような気味の悪さを覚え、身を切る寒さとは違う悪寒が生じた。
 視線の感じる背後へと勢い良く振り返る。
 しかし、やはり何も居ない。
 僕の影が白い地面へと長く伸びているだけで――
 ……影とは、笑うものだっただろうか。僕の記憶では、笑うどころか顔にあたる部分はのっぺりとした黒が顔の輪郭を映すだけだったような気もするのだけれど。
 けれどもしかし、目の前の僕の影は裂けるように口を開き、ニタリと笑っていた。
 それを見たまま動けないでいると、その笑う僕の影はケタケタと声まで出して笑い始めた。
 そして次の瞬間には、ぬぅ、と浮かび上がる。二次元だった影が三次元の立体に。
 宙に浮かんで哄笑する僕の影。否(いや)、それは。
「ああ、ゲンガーだったのか」
 ゴーストタイプのポケモン、ゲンガーだった。山に迷った人の命を奪うなどと言われているポケモンだが、事実そうなのだろうか。
 ニタニタと粘ついた笑みを浮かべて僕を見据える亡霊に視線を向け続けていると、クスクスという笑い声が無音の銀世界に響き渡る。
 その声が聞こえた方へと視線を向けるとそこには振袖を着た童女のように小さな氷女が。
 嗚呼、こっちは凍てつく吐息を吹きかけて凍らせた獲物を何処かに飾っているなどと風説されるポケモン、ユキメノコ。
 そしてその隣には一ツ目の巨大な亡霊。ヨノワール。こいつも人を霊界に連れて行くなどと言われているゴーストポケモン。
 嗚呼。僕を獲物としたのだろうか。
 それならば、心の底から礼を言いたい。
「ああ、ありがとう。さぁ、抵抗はしないから」
 早く死なせてくれ。と彼らに言う。
 寒い。冷たい。身体はとうに冷え切って震えが止まらない。けれどそんなことはどうでもいい。この、凍りついた心の寒さから開放して欲しい。
 僕の言葉を受けた三匹は。
 影霊はゲラゲラと大笑し。
 氷霊はクスリ、と小さく微笑し。
 巨霊は無言のままその大きな両腕を前へと構えた。
 瞬いた刹那、眼前に現れたユキメノコの、ひゅう、と空気さえも凍らせる吐息が僕に纏わり付く。
 パキパキと、身体の芯まで凍りつくような感覚が僕を包み込む。
 続いて、ゲンガーが軽薄に笑いながら僕の目を覗き込んだ。怪しく光るその瞳を見た次瞬には僕の意識は微睡んでいく。
 嗚呼、そして、霞んだ視界にヨノワールが大きな拳を振りかぶり、僕へと振り下ろそうとする姿が。
 嗚呼。これで死ねる。
 ……けれど何故だろう。凍てついた身体よりも氷のように冷たい心の寒さが、未だ消えないのは。
 しかしそんなことは関係なく、巨霊の拳は僕を――
 刹那。赤い光が巨霊を貫いた。これは、オーバーヒート? 炎タイプ最高クラスの威力を誇る技が何故?
「ッ!?」
 ぐらりと傾く巨きな身体。
 次の刹那、火山の噴火にも匹敵する咆哮が轟いた。
 その方向へと目だけを向ければ、嗚呼、なんて事だろう。
 彼女が居た。
 手首どころか全身から劫火を噴き出しながら、無表情なその顔の、激情を湛えていることが一目で解る瞳でもってゴーストポケモン達を、そして僕を睨みつけてくる。
 嗚呼、来てしまったのか。
 けれど何故、あんなに寒かったのに彼女の姿を見たとたん、少し温かくなったのだろうか。
 睡眠不足と極度の疲労、そしてゲンガーの放った妖しい光と催眠術によって、僕はもう意識を保って――



「あー!! よかった見つかったんですねッ」
 少し、聞き覚えのある声で目が覚めた。なんだかとても暖かくて心地良い。
「ん……?」
 目を開ける。霞んだ視界に入ってくるのは――
「おわッ!?」
 彼女の顔だった。びっくりする程のドアップで僕を覗き込んでいた。
 嗚呼、すると、この心地良い暖かさは彼女の体温か。
「あはは。大丈夫ですか? 直ぐポケモンに運びますからね」
 そしてそう話しかけてくる少女の声。昨日の昼間に戦ったあの少女か?
「全く、こんなに懐いてる仔を置いてどっか行っちゃうなんて馬鹿ですか貴方は。『何が何だかわからない』って感じでパニック起こしてたんですからね。そのバシャーモちゃん!! 私のウェイブが居なかったら探し出せなくてそのまま凍死かゴーストポケモンに殺されちゃうところだったんですよ貴方は!!! 反省しなさい!!!!」
 彼女に抱きしめられたまま、少女の説教を聞く。
 どうやら同じポケモンセンターに居た少女の手持ちであるルカリオのウェイブとやらに僕を行方を探させたらしい。そして、彼女は僕を殺そうとしていたゴーストポケモンたちを蹴散らした、というわけか。
 ぎゅ、と力を込めて僕を抱きとめる彼女。
「ん? 『何が何だかわからない』感じで?」
「え? ああ、はい。もうホントパニックって感じでしたよ?」
 彼女の顔を覗き込む。
 目を合わせない彼女。
 嗚呼、わかった。恥ずかしがっている。
 ……。あれ、彼女のことが少しわかった。
 ……。
「あははははは!」
 嗚呼、わからない。けれど少しわかった。
 ならまだもう少しわかることが出来るかもしれない。
 そうすることがとりあえず今後の僕の目標とうことでどうだろう。
「ああ、ごめんね『ちゃちゃ』。もう居なくならないから」
 だからそう謝る。もう死のうなどとは考えないことにしよう。
 氷のように感じていた心も、彼女の体温ですっかり溶けてしまった気がする程に暖かかった。
NiconicoPHP