> 道 作:海 【☆】
道 作:海 【☆】

 君はどうしてそんなに醜い姿をしているのか。
 どうしてそれでも生きようと思うのか。
 外界からの敵の侵入を許さない冷気が立ち込める中で、その海水はそれ以上に冷たい。その中で泳ぎ海中のプランクトンでも食べて何とか命を繋いでいるのか。君の兄弟はどうも数週間前には死んでしまったようだ。そう、寒さと虐めに堪えられなくなったんだ。食べられた者もいるのかな。ところが君は生きているね。ここに住む他の生物から虐げられていても泣き言の一つも漏らさずに生きているね。そういえば僕は君の声を一度も聞いたことが無いよ。いつも僕からの一方通行の会話だね。こんなのを会話と呼ぶのかな、教えてくれ。いや、そう言っても教えてくれないのだろうね。いいさ、段々もう慣れてきた。さて、何の話をしていたんだっけね。……ああそうだ、生きるのは辛いだろう。君の兄弟が死んでいったのが証明しているように、この氷海はきっと君にとって非常に生き辛い場所なのだろう。きっと元々は寒さには慣れない身体なのかも。いや、何も死ねと言っているわけじゃあないんだ。だけどここは絶えず様々な者が死んでいく所だ。その中で君のような力をそれほど持たない者が生き続けているのを僕は常々不思議に思っていたんだ。僕が言える事ではないけどね。今日はどうしてこんな話をしているのかというと、そうというのも僕の兄が昨日命を落としたからさ。兄はこの世界の中で強い存在だったんだ。まさに皇帝という身体をしていた。僕はこんなちょっと大きめの頼りないペンギンの姿をしているけどね、兄は違うんだ。もっと堂々としてる。いつものように食糧を求め海に潜ったまでは良かった。兄はちょっとすれば必ず食糧を口にくわえて戻ってきていたのに、昨日は半日ほど経っても帰ってこなかった。さすがに心配になって僕は海に潜り彼の安否を確認したところ、ここから十分程の距離の海底に死体が転がっていた。思わず目を逸らしてしまったさ。一瞬兄と分からなかった。もう身体の至るところが食いちぎられていて。僕が発見した時も大きなはさみを持った海中の生物がその身体を貪っていた。僕は無我夢中でその生物を自分の全ての力を使って追い払ったよ。正直、僕が追い払えたのは奇跡と言える。僕は兄と違い弱者だ。食糧も兄が取ってきてくれたものを分けてもらっていた。僕は逃げる事しかできないような臆病者だよ。それなのに追い払えたのさ。逆にいえば、僕が勝てるような相手に兄が負ける筈がない。何が死ぬ要因となったのか、今では確認しようがないことだけどね。こうして淡々と話していると、兄が死んだことなど夢のようだよ。いや、実際夢心地なんだ。兄は僕の手で海底に埋めたよ。兄は死んだよ。そう、死んだ。世の理に従って、敗者として死んだのさ。勝者は生き、敗者は死ぬ。獣が喰い合うのは日常だ。なあ、君が生きているということは君は勝者なのかなあ。君はあの大きなはさみの奴と対峙した時勝てるのかい。勝手な憶測だし失礼なものだけど、君は勝てないと思うんだ。だけど君は生きている。それは勝っているということだね。何だか不思議なものだ。力を持たなくとも生きていける君が不思議だ。そんな君にこうして毎日会いにやってくる僕も不思議な存在だ。不思議というより変なのかもしれない。少なくとも僕は、他の奴らのように君に氷のつぶてでも当ててやろうという気になれないよ。他と違うということは変だということだろうな。
 なあいつまで黙っているんだい。
 僕は君の声が聞いてみたいよ。
 君の声は綺麗なんじゃないかと思うんだ。他から虐げられる魚でありながらも、君は他に無い力を持っているように僕は感じるんだ。唯一無二の力だ。それは決して他を倒す力じゃない。そんな美しくない力じゃない。例えるならば暗闇にただ一点だけの小さな光。恐ろしいほどその闇が深かろうと一つの安定感を保ち続ける光だ。漆黒の闇よりもずっと恐ろしいほど美しい光だ。そんな力を君は持っているような気がするんだよ。




 やあ、今日は少し元気が無さそうだね。何か嫌なことでもあったのか、と言っても君は答えてくれないんだろうけどね。それにしても今日はなんて風が強い日なんだろうか。吹きつける雪が辛い。けど、ここは少し氷の小さな山に囲まれているから気持ち程は楽かな。表は凄まじい吹雪だよ。こうして呑気に一人外にいるのは僕くらいなものさ。大抵は小さな巣に集団で固まって暖をとっているよ。まあ、僕は少し寒いくらいが丁度良いよ。見栄を張っているわけではなくてね。ああ、君身体がやけに傷付いていないか。また誰かに攻撃を受けたのか。それなのにこうして外に出てきていてくれるのか。なんだかごめんね。でもありがとう。
  ……兄が死んでから随分と日が経った。まったく、自分の力の無さを痛感するばかりだ。食糧を確保するのに苦労してね。一応魚の捕り方ほどは教わっていたけど、僕は下手だったものだから。兄はそれを見ていられなくて結局私の分も一緒に捕ってくれていたというわけだ。本当に、僕は頼り切っていた。いなくなってから痛感する。僕の方がよっぽど弱者であるにも関わらず、どうして兄が死んで僕が生きているのか。明日にでも喰われてしまうのではないかと思ってしまう。兄でさえ死んだのだから。そんなことを、兄の亡き骸を頭に浮かべるたびに考える。その度僕は怖くなる。けれど運命というか、僕にその時が訪れたとしても納得だと同時に思ってしまうんだ。力の無い僕が生きていることは何だか不合理に思えてね。不思議な感覚がするんだ。君が生きているのも不思議だよ。どうやってそうして生きていられるのか。そうやってボロボロの状態になっても、懸命に生きようとするその姿が僕にはやけに眩しく見えるよ。僕はどうなんだろうなあ。早く死にたいのかな。
 ああ吹雪が辛くなってきた。波が酷いことになってきた。僕はそろそろ帰ることにするよ。君も波に呑まれて死ぬようなことは無いようにしてくれ。



 兄が死んでから数カ月経った頃。
 太陽が昇って少ししてから、僕はいつものようにあの魚の元へと向かった。食事は浅瀬に泳いでいた魚で済ませた。辺りはまだ薄暗く、そして静かだ。海も何だかいつもよりずっと静かのように感じる。耳の奥で微かになるような波の音だけが周りに浸る。目を閉じてみると、恐怖すら感じるほど安定した空気をピリピリと肌で感じる。風は吹いていない。強風がよく吹き荒れる此処にしては珍しいことだ。
 僕は少し下げていた頭をくいと上げると、まだ低い太陽の光を正面から見てしまい思わず目を背けた。それでも抗うようにゆっくりと視線を上げていくと、真っ白に輝く白い世界が広がっている。氷山も平らな道も全てが白い。ただ右方向に広がっている海に限っては青く黒い。青く黒いその色が彼方、見えない奥の世界に広がっている。向こう側には違う世界があるのだろうか、それともただ海が広がっているだけ? 僕は知らない。だけど知りたいと思う訳じゃない。ここで果てるのだとどこか心の中で決心している部分があった。兄と同じような道を進むのだろうと。
 僕はそうして考えているうちにまたいつもの場所へと辿りついた。あの魚が水面から顔を出している場所はすでに定位置となっている。まだ初めて会って間もない頃は特に決まってもいなかったけど、いつの間にかここになっていたのだ。
 けれど今日はまだいない。それもまた珍しいことだ。あの魚はこの頃には既にここに居る筈だ。心に一筋に不安がよぎり、数分後には僕は身体を海の中に沈めていた。全身に纏わりつく水圧。水面から差し込んでくる太陽の光が海中を照らす。海の中は勿論沈黙の世界で、生き物も殆どいない。僕はあの魚が普段どこに身を潜めているのかを知らない。陸の生き物は僕を含め大抵自分の領地を作るけれど、あの子はどうなのだろうか。僕は知らない。日光を手掛かりに僕は泳いでいくと、視界に数匹の魚の群れを発見した。思わず身体がぴくりと反応したがあの魚の姿は確認できない。僕は海底すれすれまで潜って悠々とそのまま泳ぎを進める。しかしそうしているうちに身体の動きが鈍くなっているのを感じた。この先は僕にとってトラウマとも言える場所だ。脳裏に浮かんだ映像は兄の死体。心が動きを止めようとしている。水圧以上にかかる胸の奥のブレーキが叫んでいる。
 行くな、行くな行くな行くなと。
 ――瞬間、暗転。
 視界が白く弾けて身体が吹き飛ばされた、と同時に後方に痛みが爆発した。土煙が辺りを覆い尽くす。内臓が破裂したのではないかと疑うほどの衝撃。なんだ、なにがおこった? 全身に痺れが走り、辛うじて歯を噛みしめて意識を保つ。が、撒き起こる煙が視野を狭め、殆ど何も見えない。やがて浮力に従い塵は水面へと消えていこうという時に、僕は獲物を捕えんとする獣の姿を目の当たりにした。それは記憶に新しい敵。恐らくこれから死ぬまで記憶から離れないであろう敵。実兄をその手にかけ、喰い荒した張本人。照る赤い甲冑を身に纏い、巨大な両腕のはさみを軽く振りまわしている。頑丈な身体つきを思わせ、そして異様に目立つ頭の五茫星が日光を受け眩しく光っている。僕は緊張に身体が震えた。目がぎょろりとこちらを向き、瞬間その足が動いた。はさみを振りあげ一瞬で間合いを詰めた。そのスピードはまさに目も止まらないものだ、だが僕は必死になりその右腕を硬化させていた。平らなその腕を金属の如く硬くする。兄が教えてくれた攻撃の一つで硬化した爪で相手を引っ掻くのが本来のやり方だが、今は防御するしかない。はさみを正面から受け止めるが、相手の攻撃力にかなう筈も無く、再び岩場に衝突する。口から赤い液体が噴出する。それが血であることは霞む意識の中で朦朧と理解した。攻撃は止まず、煙の中を貫くような至近距離からの怒涛の泡の軍隊が襲いかかった。遂に岩場を壊す。痺れと痛みが全身を貫く。自身が破裂してしまいそうだ。無数の泡の攻撃は海を揺らし、僕は空中へと泡の勢いで投げ出された。弾けるは水飛沫と血。その時僕は死を直感した。視界がぼやけている。敵がまた来ている。海面から顔を出し、跳び上がった。それは何となく分かってもけれど遠近が掴めない。防御しようにも身体は麻痺したように動かない。潮風が大きく吹いた時、波が叫ぶ。肉がはだけ、血が止まることなく噴き出している兄の姿が頭をよぎった。
 その瞬間、その赤い物体が視界から消えた。
 水面から跳び上がったのは、あの魚。普段の大人しい雰囲気からは想像できない目にも止まらぬ勢いのまま巨大ザリガニへと飛び込むと、横からの思いがけない攻撃に敵はよろめき海に落ちた。僕も海中に再びダイブすると、あの魚もまた海に潜っていた。僕は声を上げようとしたが、すぐに敵の気配に気付いた。邪魔されたと思ったのだろう、奴の標的は移る。あの子を捕えようと一気に海中を敵は猛進する。が、速いのはあの子も同じだ。むしろあの子の方が速い? 縦横無尽に泳ぎ回るあの子に追いつくことすらできず、敵は苛立ちを見せる。はさみを大きく広げるとその中が光り輝くのが分かった。見た事ある動作だ。あの時、そうだ、兄が喰われたあの日に見た。あの戦闘の光景が一気に跳び込んでくる。僕は痛みを堪えて勢いをつけて海中を突き抜けた。こんなに身体は痛んでいるのに、ダッシュをかけた途端全身に力がみなぎった。今まで受け続けたダメージを跳ねかえすようなそんな力。思い出す、あの時もそうだった。攻撃を受け続け明らかに力が及ばないはずの僕が勝てたのは、我慢を続けたその先に湧き出たこの力があったからだ。あの子が奴を引きつけてくれている今ならいけるはずだ!
 敵は僕の様子に気付いたように振り向いた。けれど僕はスピードを緩めず突っ込んだ。奴の固い甲羅に突撃する。速い攻撃の応酬である反動の衝撃が割れんばかりに自分にもかかった。そんなことはかまわない。そのまま敵を押し出し、海底へと突進する。固い海底へと敵の身体を押しこむと、展望を覆うほどの土煙が炸裂した。
 僕は間合いを取って少し浮かび上がる。土煙は黒くとぐろを巻いているが、中から敵が出てくるような様子は無い。倒したのだろうか、わからない。それが確信へと変わったのは煙が晴れ、奴が目を閉じてぐったりと海底のクレーターの中心に倒れているのを確認した瞬間だった。終わった。突然訪れた戦闘は終わった。……終わったんだ。その時僕に夢中になっていて忘れていた痛みが雪崩のように襲いかかってくる。安堵が心を支配し、身体の力は完全に抜けて水面へとゆっくり浮かんでいく。その暗くなっていく視界の中であの子の姿が見えた。慌てるように僕の元にやってくるその時、その小さな身体が突如眩い光を発し始めた。それは太陽よりも白く輝く光。避けるように僕は目を瞑る。それから闇の中、溶けるように僕の意識は彼方へと飛んでいった。




 どれほど時間が経ったのか分からない。僕は身体を動かそうとして痛みが走り、そっと瞼を開いた。冷えた空気が傷を刺し、こうして黙っているだけでも痛い。しかしその激痛を思わず覆すような光景があった。
 僕はその姿を眼前にした。
 冷たい氷の上から見上げるその姿は太陽の光を一身に受け、水面から高く凛と伸びていた。柔らかな白く長い身体は美しく輝いていて、顔の部分から垂れ下っている長い何かが風を受けてひらひらと泳いでいた。それは深い桃色に染色されていた。そしてその先にある黒い瞳が僕を見下ろしている。僕は相手が誰であるかを理解するのに時間を要した。急に脳が回転し始めて、記憶が呼び起こされる。兄を喰った生物と対峙し、あの魚も戦いに参加してそして。巡りめぐったその先に眩い光の光景が記憶を叩き、僕はハッとした。僕を見下ろしているこの龍の如き生き物は、この生き物の正体は、
「何が起こったんだ……?」
 僕はいつの間にか呟いていた。その声が届いたのだろう、相手は首を振ってその口を開いた。僕はその口が開き、その声を聞く時を待ち望んでいた。ずっと、ずっと。
「分かりません。よく分かりません。でも生きているみたいです」
 その声は水平線を走る風の如く滑らかで、凛とした響きを携えて僕の中に静かに溶けていく。綺麗な声だった。冷たく厳しい氷の世界にやけに響く美しい声だった。その時、僕はようやくあの魚は、今の目の前にいる龍が雌であることを直感する。それは確信とほぼ等しい直感だった。遠く霞んでいく空の色を背景に、彼女は少し身体を海に沈めて背を低くする。僕は身体の痛みを堪えながら慎重に立ち上がり、改めて彼女を見る。
 きれいだと僕が言葉を滑らせると、彼女は微笑んで感謝の弁を述べた。それから僕達は暫く言葉を交わすことなく互いを見つめ合った。そこに言葉はいらなかった。そもそも今までだってまともな会話などしてこなかったのだ、今更それに違和感を感じることもない。僕は彼女の緩やかな身体のラインを視線でなぞる。目を海に少し向けると尻尾が覗いていた。鮮やかな海の色と桃色のコントラストが艶やかで、しかし太く力強さも備えている。僕は頭に熱いものが湧き上がってくるのがわかった。彼女が美しいのは、単に色彩や滑らかな身体つきのおかげではない。僕は知っている。彼女が今まで他の生き物からどれだけ仕打ちを受けてきたかを。そして冷たい氷の現実に向かい合ってきたかを。その中で生き抜いてきたことを。必死に生き抜いてきたことを。彼女が必死に生きてきたその過程が、花開いた彼女の全てを照らしているのだ。
「綺麗だ」
 僕は同じことを時間を置いてから繰り返した。
「ありがとうございます」
 彼女もまた繰り返す。
「なんだか不思議な感じがするよ。君が急に身体が変わったことに僕は驚いている、でも驚いていないんだ。意味が分からないかもしれない。でもその言葉通りなんだよ。君がずっと生きていた姿は僕の心に不思議と響いて、そして直感したんだ。前に言ったかな、唯一無二の力を持っているんだって」
「闇に光る一点の光、恐ろしいくらいに安定した光、でしたっけ」
「ああ、そう、それだ。よく覚えているね」
「とてもよく覚えています。貴方は虐げられていた私の傍にずっと居てくださったのですから。貴方の話は考えさせられるものも聞いていて恥ずかしいものも多々あり、飽きる事はありませんでした。それに返事の一つでもすれば良かったのですが、私は身体以上に声が貧しいものでしたから。貴方に出会う前に、この世に生まれてから初めて発声した時に、低く掠れた声が出て周りの者には恐れられたほどです。以来私は殆ど声を出していません。時に声の出し方すら忘れてしまうほど。けれど貴方と出逢って何度声を出したいと思ったことでしょう。けれど私はあの醜い声を貴方に晒したくはなかったのです。貴方だからこそ余計に。怖かったのです。醜い外見であるにも関わらず貴方は傍にいてくださって、その温もりを失ってしまうことを私は恐れました。だから決して声は出しませんでした」
「そうかい、でも今はよく喋っているね。こんなに喋るなんて、とても今まで全く喋らなかったあの時と同じ存在とは思えないくらいだよ」
 冗談めいて僕は笑うと、彼女も同じように笑った。
「今まで話さなかった分爆発しているのかもしれませんね」
「そんなものなのかな。でも、綺麗な声だよ。できれば、その貧しい声とやらも聞きたかったけど」
「それは勘弁してください」
「僕はずっと待ってたんだ。君とこうして会話することを。君が言葉を発している、それだけでもなんだか奇跡に思える。本当はもっと前に会話をしたかったけど、まあ今となってはどうだっていいんだ。こうして生きて君と一緒にいられることこそが奇跡だ」
 そうですね、と彼女は相槌を打つ。
 これ以上の幸せがあろうか。身体の痛みは勿論消えていないけれど、不思議なことにこうして話しているとそれを忘れてしまう。
 少し沈黙が空いた後、彼女は不思議ですねと会話を切り出した。
「さっきまで死んでしまいそうだと思ったのに、貴方も私もこうして生きています」
「お互い諦めが悪いようだね」
「ふふ、それが長所かもしれませんよ。……貴方は常々言っていました、貴方も私も弱者だと。強者と弱者の混在するこの世界は弱者にとっては厳しいもの。けれど弱者である私達は生きている。強いものが生き、勝つという世界で、私達は弱いのに生きている。それは勝っているということなのか。私は考えてみました」
「……」
「でも私は逃げてきただけなのです。必死に逃げて逃げて、逃げてきました。逃げることに関しては誰よりも得意だと恥ずかしながら断言することができます。だから勝ってきたとはとても言い難いものがあります。世の理とは、勝者が生き、敗者が死ぬということなのでしょうか。強者が勝ち、弱者が負けるということが理でしょうか。私は……確かにそれは一つの真理であると思いますが、きっとそんな単純に世界はできていないと思います」
「そうかもしれない。けれど、少なくともこの氷の世界はきっと単純だよ。いつ生きるか死ぬか、分からない」
「それはどの世界も同じですよ、きっと。いつ生きるか死ぬか分からないとは極論です。その真理の前には、弱いも強いもありません。皆命は一つしか持っていませんから。でも、だからといって弱い者が負けるように世界はできているのですか? それが普通なのですか? でも私は逃げてきました。細々と生きてきました。逃げずに、群れを成し大群で敵に立ち向かう魚達もいます。小魚でも数百集まれば大魚の如く威嚇をすることが可能です。多くの弱い生き物は支え合って生きます。それを私は海に住んで目にしてきた。貴方も、お兄さんと生きてきたでしょう」
「それは」
「ご存じの通り私も兄弟がいました。けれど皆死んでしまいました。寒さに負けたもの、食べられたもの、皆死んでいく中で私は呆然と生きてきました。生きていればきっと何かがあると、死にたくはないと必死に逃げる中で貴方と出会い、そしてこうして身体に変化は訪れました。なんだかあっという間のことでちょっと追いつけてないですけどね。……私達は私達です。貴方のお兄さんは貴方のお兄さん。私の兄弟は私の兄弟。どう生き、どう死んでいくか、それはそれぞれで違うのです」
「……それぞれで違う」
「はい。弱者であっても、その生きていく道があるんです」
 どう生き、どう死んでいくかはそれぞれで違う。
 心の中で再び繰り返す。繰り返す。先の事など分からない、分からないけれど、弱者であろうと強者であろうとその先は変わらない。兄は死んだ。彼女の兄弟も死んだ。でも、僕等は生きている。兄は兄で、僕は僕だ。ただそれだけだ。何も不思議なことはなかったのだ。
 弱いもの同士は支え合って生きていくのだと彼女は言った。僕も兄と支え合い生きてきた。隣の席は今空白だ。ここを埋める誰かを僕は見つけなければならない。だけど誰に隣にいてもらおうか、僕の中で希望は既に固まっている。
「ねえ」僕は彼女に声をかける。
「はい」彼女も僕に応える。

「一緒に、生きよう」
 僕は右手を差し伸べた。

「僕は強かった兄が死んで、暫く一人で過ごしてきた。君も兄弟が皆死んでしまってからは一人で生きてきた。きっと僕が君に惹かれたのは、一人になりながらも生きていこうとする姿勢があったからだと思う。そしてそれからどう生きていくか、それを見ていたいから。でもきっと逃げていくのにも限界が訪れると思う。身体が大きくなって目立つようになれば、尚更。生きるのは辛いことだ。だからこそ、一緒にいたい」
 本気で逃げてきて生きてきた彼女の生きるその傍に僕はいたい。弱者が支え合って生きていくものだというのなら、逃げてきた僕等二人、共にこの氷の世界で生きよう。
 彼女は優しく微笑むと、その頭を僕の目線まで下ろす。高低差のあった目の高さがようやく水平になる。本当に美しい顔つきだ。それはまるで、氷に咲く花の如し。それから彼女はこくりと頷いた。了承の言葉は出てこなかったけれど、それだけで十分だった。
 空が透明に輝いている。その色は優しく、あまりにもこの世界には不似合いなものだったけれどとても綺麗な色だった。



 見ているだろうか、兄さん。
 僕は何故生きているのか、兄さんが死んで僕が生きていることをずっと疑問に思ってきた。死ぬべき存在なのだろうとすら思っていた。でも、兄さんの命は尽きても、僕の命はまだ燃えている。僕にはまだ道が続いている。弱い存在だけど、弱いなら弱いなりに生きていく道があるみたいだ。その先がどうなっているのか、僕は見にいってみるよ。もう大丈夫。今は一人じゃない、兄さんが居なくなって空いた隣はもう満たされた。
 僕は生きる。

 僕は僕として、生きていくよ。
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