> リフレイン【あの日に戻れたら】 作:夜月光介
リフレイン【あの日に戻れたら】 作:夜月光介

 目覚まし時計の音を聞きながら、俺は布団から抜け出し時計のスイッチを切った。
 (もう、あれから3ヶ月になるんだよな……)
 毎朝起きた瞬間から感じ続けているどうしようも無い空虚な感覚。

 ――彼女が、もうこの世にいないと言う事。

 理解してはいるが納得なんて出来ていない。彼女は交通事故で帰らぬ人となった。
 加古屋未来……真っ直ぐで純粋で、何時も俺の話を笑いながら聞いてくれる相手。
「今まで隣にいるのが当たり前だったからな……」
 今年は受験が控えているのだが、そんな事を考えている余裕は今の俺には全く無い。
 とにかく、逃れたい――今の苦痛、絶望から逃れる事で頭の中は一杯だ。
 だが、未来がいた事を忘れられない俺がこの世にいる事。その事実が無くなってしまうのも嫌だった。
 結局俺は弱過ぎるのだ。諦める事も、忘れる事も出来はしない。目を瞑ればすぐに彼女の姿が思い浮かぶ。
 (未来……)
 俺は制服に着替えながら、彼女と初めて出会った時の事を思い出し始めていた。

 小学校1年の頃から未来とは仲が良かった。何をするにも一緒だった。
 成績も優秀でスポーツも女子陸上部ではトップクラスの実力を持ち、誰にでも好かれる性格。
 非の打ち所の無い彼女は男子生徒からも女子生徒からも慕われ、また頼りになる存在だ。
 そんな彼女が俺の事を好きになってくれた事、一緒にいてくれた事が嬉しかった。それなのに――

「静司、未来が……未来がトラックに撥ねられたって」

 友人がかけてきた電話の内容がとても信じられなくて、でも葬式では信じざるを得なかった。
 冷たくなった動かない彼女の顔を見て、涙をただ流し続けた事をよく覚えている。
 哀しさが溢れた時、人はあそこまで脆くなってしまうものなのだと言う事を知った。
 その後から俺はただ生きてきた。目的も無く、ただ漠然と空虚な毎日をこなすだけ。
 そこに幸せも無ければ喜びも無い。彼女との思い出だけが少しだけ俺を癒してくれる。
 しかし新しい幸せや喜びが無ければ全ては無意味だ。あの日まで自分は生きる屍だった――

 あの日、俺は何時もの様に学校の帰り道を歩いていた。夕暮れ時で自分の他には猫の子1匹姿を現さない、寂しい住宅街をただ歩く。
「ん……」
 ふと道端に落ちていた時計に目が止まった。普通の腕時計にしてはやたら文字盤が大きい、いびつな形をしている。
「なんだこれ。電卓機能もついてんのか?」
 俺は時計を拾い上げ、暫くその時計をいじくってみた。文字盤の下に1から9までのボタンが付いており、西暦から日付設定をする事も出来るらしい。
 壊れてはいない事を確認した後、俺は時間を合わせてみる事にした。
「西暦は2015年、5月の……」
 ゼロを押してから別の数字を押せば日付の入力が完了する。だがその時俺は手が滑り1日前の日付のボタンを押してしまった。
「なんだよ6日になっちまったじゃんか」
 こんな事にむきになっている自分が可笑くて、俺は笑った後溜息をつく。自分もまだ、笑う事は出来たのか。
 そう思っていた時、唐突に周囲が漆黒の闇に包まれ、それが数秒間続いた後また元に戻る。場所は同じ住宅街の中だ。
「何だ今のは!?」
 ワケが解らないまま帰宅した後、俺はテレビのニュースを見てさらに驚愕した。

『5月6日のニュースをお伝え致します』
「嘘だろ……」
 戻っている。間違いなく1日前のさっきと同じ時間に戻ったのだ。
 過去にも未来にも飛べる時計、そんな夢の様な時計が何故か俺の手に握られている。
 (助けに行ける。未来を救える!俺が交通事故さえ止めてしまえば彼女は助かるんだ!)
 その日は興奮して眠れなかった。事故が起きた時間と場所、大体の事は既に把握している。
 明日その時間の前に日付を合わせ、戻ってしまえば助ける事が出来るハズだった。
 (何でこんな凄い時計が道端に落ちてたのかは解らないがコレで解決だ、何もかも!)
 興奮のあまり眠る事も難しい。明日は学校に行かないつもりだった。どのみちそれがズル休みになる事は無い。

 自分の通っている高校から大分離れた場所にある交差点。人通りは少ないのだが交通量は非常に多かった。
 近くにある電柱には花束が置かれている。恐らく、誰かが未来の事を思って置いてくれたのだろう。
「全部無かった事にすればいい」
 この場所で日付を変更すれば3ヶ月前の2月3日に戻れるハズだった。事故は昼頃に起きたからその前の時間で待てば良い。
 (でもアイツは……どうしてあの日高校を休んでこんな所に来たんだろう?)
 明かされなかった謎だった。帰宅後に彼女の死を知ったのだがその日彼女が登校してこなかった事に不安を覚えた事を忘れはしない。
 (まぁ解るさ。全部解る。戻って未来を救って……話を聞けば良いじゃないか)
 一抹の不安を無理やり振り払いながら、俺は時を遡る事が出来る時計の日付を変更した。

 周囲が一瞬暗転し、そして元に戻る。怖気が走る程の寒さが突然俺を襲い、俺はセーターを着てこなかった事を後悔した。
「2月に戻ってきたんだ。間違い無く」
 時間は先程と同じ11時半。事故は12時近くに発生したハズだ。電柱に置かれていた花束も消えている。
 寒さに震えながら俺は電柱の影に身を潜めた。この場所に俺がいる事は本来おかしいハズなのだ。
 下手に彼女以外の人間に姿を見られて後々面倒が起こる事は避けたかった。待つのは当たり前だが本当に寒い。
 (晴れだから良かったけど、雨が降っていたら大変だったな。何も考えずに戻ってくるんじゃなかった……)
 そんな事を考えている間にその時間は近付きつつある。彼女の姿が遠くから見えてきた。俺は身を潜めてその機を窺う。
 未来は走ってきたらしく肩で息をしていた。辺りを見回し人がいないかどうか確認している様にも見える。
 交差点の信号が青から赤に変わった。この辺りの車道はスピードを出して通行している車が殆どだ。
 未来はその光景に怯えている様にも見えたが、何を思ったか突然車道に飛び出そうと走り出した。
「待てよ!」
「!?」
 咄嗟に俺は電柱の影から飛び出し、大声を出しながら車道に足を踏み出そうとした未来の腕を掴んで強引に歩道に戻した。
「静司、どうして……?高校に行ってたんじゃなかったの?」
「胸騒ぎがしてお前を探してたんだ。どうしてこんな……」
 事をするんだ、と言おうとした所で俺は言葉を止めてしまった。未来が大粒の涙を零しているのを見たからだ。
「引き止めて欲しくなかった。貴方にだけはこんな土壇場で会いたくなかったのに……」
 泣きじゃくる彼女を慰めつつ、俺は発作的に同じ行動を取らせない様に安全な場所へと誘導した。

 自分でも本当は解っていた。そうじゃないかと思いつつもそう思う事が怖かった。
 自殺――自ら飛び出して死んだ。強かった未来が、そんな道を選択してしまうなんて信じられなかったのだ。
「クラスの女友達と色々あって、周りも自分自身もすっかり嫌になって……消えてしまいたいと思ったの。
 止められたく無かったから誰もいない時間を選んだハズだったのに……」
 未来は詳しい事を俺には話してくれなかった。でも話してくれなくても良かった。全部無かった事に出来るのなら。
「未来、よく聞いてくれ。俺は……とても信じられないかもしれないが、時を遡ってお前を助けに来たんだ」
「えッ……」
 怪訝な顔をする彼女に対して、俺は大きな文字盤がついている腕時計を見せた。
「この時計で過去に戻れる。恐らくは未来にもだ。お前が経験した事はこれを使えば無かった事に出来る。
 何回だってやり直せるんだ。お前が死ぬ必要なんて無い。この時計さえあれば全部変わるんだよ!」
 彼女は涙を止め、俺から時計を受け取ると信じられないと言った表情で俺の顔を見た。
「やってみればいいさ。お前にとって嫌な出来事が起こる前まで戻って、そこからやり直せばいいんだ」
「……本当に、そんな事が出来るの?」
 震える手で彼女は文字盤の近くにある数字のボタンを押し、現在――2015年の2月3日では無くその半年程前にあたる2014年の7月1日を選択した。
「戻ってこいよ。俺は何時でもお前の味方だからな」
「有難う」
 その瞬間、彼女は俺の視界から姿を消した。

 そして、それから何年もの月日が過ぎた。俺達は大人になり結婚をして、幸せな毎日を送っている。
 過去彼女が体験した事については俺も深い詮索はしなかった。もう無かった事になっているハズの出来事だ。
 そんな事より彼女が生きていて、俺の側にいてくれるだけで俺は満足だった。
「静司、宅急便が届いたんだけど」
 未来の声を聞きながら、俺はその荷物を彼女から受け取り自分の部屋に持ち運ぶ。差出人は不明だったが宛名は俺の名前になっていた。
「なんだコレ」
 箱を開けると長ったらしい説明書と何のものか解らない沢山の部品。
 説明書には最初に、こんな事が書かれていた。

『この時計を完成させて、今貴方が持っている時計を『あの場所』に置いてきてください。未来の俺自身より』
 
> ミステリーサークル 作:来来坊(風)
ミステリーサークル 作:来来坊(風)
 俺の家の傍には手を付けられていない田畑がいくつかある。
 理由は良く分からないが、何十年も昔から手を付けられておらず、少し背の高い雑草が伸び放題。
 俺が物心付いたころから、その田畑をずっと監視している爺さんが居た、俺が物心付くころから爺さんなのだから今はもっと爺さんなのだろう。色こそ落ちているものの頭髪は元気で何処と無く力強い印象があった。
 どうやら俺が物心付く前からずっと田畑を監視していたらしく、近所の人によると朝早くにふらっと現れて、夜遅くにふらっと消えるらしい。特に職についている様子も無く、かといって衣類などは何時も綺麗で生活に困っている風でもなかった。
「坊主、ミステリーサークルって知ってるか?」
 昔、俺が勇気を振り絞って爺さんに話しかけた時、爺さんはチラリと俺を見て開口一番に俺にそう聞いた。
 ミステリーサークル、海外の麦畑などが円状に倒される現象で、もちろん見たことは無かったし、当時の俺はミステリーサークルなんて知らなかった。
 知らないと答えると、爺さんは俺にミステリーサークルとは何かを散々説明した後にまた田畑に目を向け、
「俺は昔この田んぼにミステリーサークルが出来るのを見た」
 と目を細めながら言った。
 まだ若かった俺は純粋に凄いと思った。今なら爺の戯言と鼻で笑うだろう。
「最も、俺が見たころはまだミステリーサークルなんて名前は無かったし、誰も信じちゃぁくれなかった。ミステリーサークルなんてハイカラな名前を知ったのはここ十年さ」
 俺は爺さんに『何故この田畑を監視しているのか』を聞いた。
「もう一度、見たいだけさ」
 途方も無い答えに、当時の俺は少し拍子抜けした。子供心ながらに大人は働かないと生活していけないことが分かっていたし、それなりの娯楽が必要であることもわかっていた。だから爺さんのその行動が理解できなかった。大体、それならビデオでもセットしておけばいいじゃないか。と爺さんに当時の俺の語彙の範囲内で伝えた。
「お前さんには分からないかもしれないが、ああいうのは生で見ないと意味が無いのさ」
 一呼吸おいて。
「俺が三十歳位のころの話だ、当時俺はそれなりに仕事が成功しててそれなりに大金を儲けていた。坊主、癌って知ってるか?」
 俺は『鳥の種類』と答えた、小学校の授業でそれについての小説を読んだばかりだった。
 爺さんはガハハと笑い。
「残念、零点だ。まぁいい、要するにもう少しで死んじまうってお医者さんに言われたんだ」
 なんとなく、怖かった。死と言う物が身近に無かった。もう少しで死ぬ、と言うことが現実に起こりうることにとてつもない不安を覚えた。
「俺はショックだった。ショックでヤケ酒……真夜中にお酒をがぶ飲みして家に帰ってたんだ。そのときだよ
 ふと見た田んぼの稲穂が次々と倒れて田んぼに模様を作ってた。俺はとても怖かったが、見とれたね。酔って幻覚を見たとか、とうとうお迎えが来たのかとか思ったりもしたが何のことは無い、翌朝見てみるとやっぱり稲穂がなぎ倒されて模様が出来ていた。田んぼの持ち主はたいそう怒っていたがな」
 持っていたペットボトルに口をつけて。
「坊主は見たこと無いから馬鹿な事だろうと思うだろうが。あれは本当に素晴らしかった、この世のごちゃごちゃした事全てがどうでも良くなるほどに俺の常識から外れていた。どうしてももう一度見たかったんだ、もう一度同じ光景が見れるまで、死ねない。と思った」
 爺さんが言ったとおり、当時の俺、いや、今の俺でも分からない。当時の俺は馬鹿なことだと思った。
 爺さんは俺のほうを向いて両手を広げ。
「それから、この辺一帯の田畑を買った。毎日通った。どうしても見たかったんだ。それに見ろ、俺は生きてる。毎日のウォーキングが良かったのかどうかは知らないがね。いまだに医者は首をひねっとるよ」
 その時は、この爺さんは凄い人なんだと思った。自分の考えられる人間像からかけ離れていたし、何となく自分より凄いと思った。単調に生きている自分の周りの大人と比べ、かっこいいとすら思った。
 だが、それ以降自分が成長するに連れてあの爺さんは馬鹿馬鹿しいと思うようになった。ミステリーサークルが二人にイギリス人の悪戯だったと知って以降は尚更だった。
 だがあの爺さんは以前とあまり変わらなかった。少し変わった事と言えば登下校している生徒たちの監視役をしている事ぐらい。もちろんミステリーサークルなんて現れていない。



 ある日の真夜中、俺は誰かが叫んでいる声で目が覚めた。
 ひどく大きな声で叫んでいる、耳を澄ますとあの爺さんが昔と変わらぬ声で「坊主、坊主」と叫んでいた。
 何故近所の人間や自分の親などが起きないのか不思議でたまらなかったがひとまず体を起こして、家から出てみる事にした。
 家の近くで、爺さんが田畑を指差し「坊主、坊主」と叫んでいた。家から出た俺を見つけると。
「坊主、坊主! 早く来い!」
 と、俺を急かす。
 俺のことを覚えていた事に驚いたがそれ以上に爺さんの慌てように驚いた。長い事あの爺さんを見ているがあんな挙動をする人間ではない。
 ついに、頭がおかしくなったのかと思った。そして俺のその疑問は爺さんが放った次の台詞でさらに深いものとなる。
「早く来い! ミステリーサークルだ!」
 それを聞いた俺は駆け足で爺さんに近寄る。
 爺さんは俺の肩を片手で揺さぶると、田畑を指差した。
 路上の薄暗い照明で薄っすらとだけ草木が見えた。
「遂に、遂に見る事ができた。凄い、やはり凄い。坊主にも見えるだろう」
 爺さんは高く笑いながらそう言う。いや、笑いと言葉が混じる事もあったので良く聞き取れないところもある。
 そして爺さんは、田畑に倒れこんだ。それまで元気だった人間が急に力なく倒れたので俺は動揺した。
「おい! 爺さん! どうしたんだよ!?」
 屈んで、爺さんの体を揺さぶる。その振動で爺さんの髪の毛がはらはらと抜け落ちる。
「救急車、救急車を呼ばないと」
 携帯を持って出なかった事を後悔しつつ、立ち上がり、もう一度田畑を見た。
 そこには何時もと何の代わりも無い田畑がただただ広がっていた。本当に何時もと変わりは無かった。爺さんが騒いでいるときも、何にも無い。ただの田畑だった。爺さんは幻覚を見たのだろうか。
 その思考をかき消すように、強烈な腐臭が鼻腔を付いた。
 その方向に顔を向けると。倒れた爺さん、ぐずぐずと音を立てながら爺さんの体がすさまじいスピードで腐敗していた。
 何にも無い風で爺さんの頭から毛が舞う。俺以外の誰が見たってこれは異常だ。
 どう考えても爺さんは死んでいる。救急車は呼ばないほうがいい、仮に呼んだとしてもこの状況をどうやって説明するのか。
 爺さんが骨だけになるまで、それほど時間はかからなかった。否、いまや骨までも土に返らんとしている。
 もしかすると、爺さんの体はとっくの昔に限界だったのではないだろうか、だが爺さんの『もう一度』と言う強い気持ちがそれを許さず、結果、幻覚を見せる事で……
 いや、それとも、俺が今見ているこれが幻覚なのでは、そもそも爺さんなど存在するのか。
 それだけ考えて、爺さんが居た場所を見た。もはや骨すらも残っておらず、着ていた衣服もどこかへ……
 あまりの事に何もなくなった俺の頭の中で、爺さんに対する最後の疑問がよぎった。
 爺さんは、幸せだったのだろうか。
 
> 不思議なあの子は素敵なこの子 作:乃響じゅん
不思議なあの子は素敵なこの子 作:乃響じゅん
 マサゴタウンのナナカマド研究所。ここがそう言う名前だと知ったのは、ずいぶん大人になってからのことだ。小さい頃のぼくにとっては、生まれて育ったところ、というだけだった。
 いろんなポケモンたちがいるけど、みんなぼくと同じくらいの年頃。
 お母さんやお父さんはいなかった。代わりに人間の研究員さんたちが、僕たちのことをずっと見てくれている。それから、お守りをしてくれるフローゼルおばちゃん。
「もう少ししたら君たちも大きくなって、トレーナーさんと一緒に冒険するんだ。こことはお別れだけど、きっと大丈夫。早く大きくなってね」
 人の言葉はずっと聞いているから何となく分かる。ある日、研究員のお姉さんは僕にそう言い聞かせてくれた。
 研究所の中のモンスターボールがぼくの部屋、ってことになる。朝になったら起きて、みんな外で遊ぶ。研究所を出れば公園みたいな広場があって、小さなポケモンたちが遊べるようになっている。砂場にジャングルジム、でっかい機関車、滑り台、なんだか登ってみたくなるオブジェ。
 一日中、ここの公園で遊んで、日が暮れたらごはんを食べて研究所のボールの中に帰る、そんな毎日を繰り返していた。
 ぼくもいつかは、ここを離れて、旅に出る。森までかな。山までかな。それとももっと、遠くかな。
 遠くに見える山を眺めて、たまに思いを馳せていた。

「なぁなぁ、これどこまででっかくなるかな」
 ヒコザルくんが嬉しそうに息を荒げて、砂場の山をぼくに見せた。木の枠で囲まれて、少しへこんだ砂場。その真ん中に、ちょっと分かるくらいの小さな山が作られた。乾いた周りの土と違って、掘り起こした黒い土だ。
「ポッチャマもでっかくするの、手伝ってよ」
 ヒコザルくんは指のある手で土の山を指して、ぼくに言う。
「いいよ」
 そう言って、ぼくはぺたぺたとヒコザルくんの後を追う。ヒコザルくんにはかなわない。ぼくはあんなに早く走れないから。
「じゃあ、おれはこっちの土を持ってくるから、ポッチャマはそっちな」
「うん、分かった」
 僕は頷いて、足元の土をかき集める。ぼくの手に指はないから、何かをすくったりするのはちょっとむずかしい。とりあえず、土を掘ってみる。後でどうすればいいかなんて、思いつかないけど。
「ふう」
 一息ついて、ふと顔を上げたら、知らない子が立っていた。水色の体に、大きな耳と、黄色い目。四本足なのは、友達のナエトルくんとちょっと似ているかもしれない。砂場のすみっこのほうで、こっちを見たり、目を逸らしてみたりしている。どうしたんだろう。
「おい、ちゃんと掘れよ」
「あ……う、うん」
 ヒコザルくんがきいきいと大声を上げる。ぼくは思わず気の抜けた返事をして、また掘り始めた。やっぱり、ヒコザルくんにはかなわない。怒ったら、うるさいんだもの。
 しばらく掘ったところで顔をあげると、まだあの子はそこに立っていた。そろそろと砂場に降りて、申し訳なさそうに脇でひとり、前足で砂に絵を描いて遊び始めた。
 ぼくの両手はいつのまにか止まっていた。気がついたらあの子のことをぼうっと見つめていた。
 フローゼルおばちゃんが優しい声で言い聞かせてくれたことがある。どんなときでも、みんなで仲良くやるんだよ。
 いま、それを思い出した。

「ねぇ」
 僕は声を上げてあげてみる。恥ずかしくって、声が上ずったかもしれないけど、しっかり息を吸い込んだ。
 あの子はこっちを向いてくれた。
「一緒に遊ぼうよ」
 心臓がどきどき言ってる。断られたらどうしよう、と思って、体が固まった。あの子の目を見て、動けなくなってしまった。
 でも、あの子の顔は、ぱぁっと明るくなって、
「うん」
 って返事をしてくれた。
 明るくて優しそうな声。こんな声なんだ。ぼくの胸の中まで明るくなっていった気がした。
「今ね、砂でおやま作ってるんだ。一緒に大きくするの、手伝ってよ」
「分かった。土掘るのは任せて」
 金色の目をぱっちり開いて、自信満々にあの子は言った。前足で土をかいて、山にかぶせていく。あっと言う間に、あの子の足元の土は随分深くまで掘られてしまった。
 あの子の体は全身水色だと思っていたけど、水色なのはお腹の辺りまでで、それより下は黒に近い灰色をしていた。ちょっと驚いて見とれていると、顔に土がべしんと当たって、ヒコザルくんが笑いだしそうになっていた。ぼくはちょっと不機嫌な顔をした。でも、土がシャワーのように掘り出されていく様子が面白くて、すぐにまたそっちに目を奪われた。
「すごい」
 一度に同じ方向から土をかぶせたから、少し縦長になっちゃったけど、それでも山は目に見えるほど大きくなった。
 前足を半分くらい真っ黒にしたあの子は、ふう、と一つため息をついて、しっぽをふっと揺らした。
「こんなもんかな」
 ぼくはくちばしをぽかんと開けて、その場に突っ立っていた。水色のあの子の姿が、どういうわけかきらきら輝いて見えた。
「すごいすごい! もっとやってよ」
 僕は自然と声を上げて、あの子に顔を近づけていた。
「いいよ、今度は……こっちからやろっかな」
 ちょっと場所を移動して、後ろを向いて前足で掘って行く。黒い土が宙を飛んで、ぼた雪のように砂山に積もっていく。
「わぁ」
 ぼく思わず声を漏らした。
 砂場のそばで、ボール遊びをしている子たちが騒いでいる。ちょっと近くの方で、おーい、俺も混ぜてくれよ、と言う声が聞こえた。ふと横を見ると、ヒコザルくんがいつのまにか、いなくなっていた。
 でも、水色のこの子と一緒にいたくて、気づいていないふりをした。

「あぁ、疲れた」
 四回ぐらい穴を掘ったところで、あの子も息が上がっちゃって、腰を下ろすしかないみたいだった。
「すごいよ、きみ! それ、どうやってるの?」
 ぼくは聞いた。水色の子はなんだか不思議そうな、でもちょっと誇らしげな顔をして、ぼくの方を見つめた。
「カンタンだよ。ほら、こうやってさ」
 山に背中を向けて頭を下げると、足元から土が飛び出してくる。ぼくも真似をして、後ろを向いて、頭を下げて両手の羽で土をすくって後ろで投げてみた。ぽいと軽い力で土は飛んでいくけど、あんなに早くはできない。
「ちがうよ、こうだよ」
 あの子がちょっと不機嫌な声で手本を見せてくれる。ぼくも力を入れて両手の羽を強く動かしてみるけど、やっぱり上手くいかない。
「だから、もうちょっと足を……」
「わぁ」
 あの子が喋ってる途中で、僕は大声を上げてしまった。あの子の後ろに、とても大きな、黒い毛に覆われたポケモンが立っていたから。
「コリンク」
「あ、ママ」
「もう、勝手にどっか行って。探したんだから」
 こんなにでっかいのが、この子のお母さん。それに、この子の名前、コリンクって言うんだ。
 僕はそんなことを考えて、お母さんのことを見つめるコリンクを見ていた。
「こんなに前足汚しちゃって、もう! ウチでキレイにしないと。帰るよ」
 コリンクのお母さんはコリンクの首根っこをくわえて連れて行こうとした。だけど、
「やだもん」
 とコリンクは首をぶるぶる振った。コリンクのお母さんは肩を落として、ため息をついた。
「そんなこと言っても、もう夕方だし、真っ暗になっちゃうよ」
 うー、と唸って、コリンクは下を向く。
「また明日もあるんだから、今日は帰る」
 コリンクのお母さんはそこまで言うと、コリンクも諦めたらしくて、しょげた顔で僕の方を見た。
「……バイバイ」
「バイバイ」
 半分反射的に、ぼくも同じ言葉を繰り返した。
「バイバイ、ちゃんと言えたね」
 コリンクのお母さんは、少し笑って、コリンクの首根っこをくわえて持ち上げようとする。
「ちょっと待って」
 コリンクはぼくの方に近寄って、前足を出した。
「ママが言ってた。ニンゲンの子供は、お別れする時ゆびきりげんまんって言うのをするんだよ」
「へぇ、どうやるの?」
 初めて聞いた。ぼくは興味しんしんで、コリンクに聞く。
「キミの指とわたしの指を合わせて」
 そこまで喋って、コリンクは言葉を止めた。ぼくの手に指はない。
「じゃあ、これでいいや」
 コリンクは笑って、手のひらと羽の先っぽを合わせる。ゆびきりと言うより、握手みたいになった。
「明日もきっと、会えますように。ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます! ゆびきった」
 コリンクは高らかに歌い上げて、僕の羽から前足を離す。コリンクのお母さんに帰ろう、と言って寄り添った。
「じゃあ、バイバイ」
 振り返って、またどこかへと歩いていく。たぶん、コリンクのおうちに帰るんだろう。ぼくは追いかけようとして、一歩だけ前に踏み出した。それから、すぐに諦めた。
「バイバイ」
 ぼくはもう一度呟いた。
 その時、胸の奥がじんわり熱くなってきた。どうしよう、とめられない。
 我慢したけど、涙が溜まって、ぽろん、ぽろん、と落ちていった。
「バイバイ」
 明日もきっと、会いたいな。

 夜ボールに入って眠る前、研究所に敷いてある毛布の上で、フローゼルおばちゃんに今日のことを話した。
「コリンクがうちに来てね、一緒にお山作ったんだ。すごいんだよ、穴掘るのすっごい早いんだよ」
 話してるうちに、ちょっと盛り上がってきてしまって、気付かないうちに手足をぶんぶん振り回していた。
「うんうん、そうかい」
 ゆったりした口調で、フローゼルおばちゃんは相槌を打って、頷いた。
「新しい友達が増えたんだねぇ」
 ぼくはなんだか誇らしい気持ちになった。
「でもね」
 フローゼルおばちゃんは小さな指を立てた。
「どんな時でも、みんなで仲良くやってほしいと、あたしは思うんだよ。ポッチャマ、その子と遊んでるとき、最初に遊んでたヒコザルはどうしてたのかな?」
 あ、と声を出しそうになった。ぼくは思い出して、しまった、と思い直した。
「……全然、なんにも」
「おかまいなし、だったんだろう」
 ぼくは頷いた。途中からヒコザルくんのことを完全に無視して、コリンクにばっかり夢中だった。ヒコザルくんに、なんてことをしてしまったんだろう、と自分を責めたい気持ちでいっぱいになった。フローゼルおばちゃんの手が、僕の頭を撫でた。あったかい手だな、と思った。とん、と軽く叩くと、またフローゼルおばちゃんは喋りだす。
「……明日、ヒコザルに会ったらちゃんと謝るんだよ。昨日はごめん、って。いいね」
「うん」
「さ、今日はもう遅いから、寝るんだ。おやすみ」
 背中をぽんと叩かれて、僕は自分のボールに戻った。
「おやすみ」

 朝になって、ヒコザルくんはぼくを見るなり、わざとらしく顔を背けた。やっぱり、昨日のこと、嫌だったんだろうな。
「ヒコザルくん」
 ヒコザルくんどこかへ行こうとする。たぶんぼくから遠ざかろうとしている。ぼくは構わずに続けた。
「昨日は、……ごめんね」
 悪いのは分かってるけど、何が悪いのかをはっきりと言葉に出来なくて、思ったより上手には言えなかった。
 ヒコザルくんはちょっとだけこっちを見て、視線を下に落としている。
「謝ってるんだから、許してあげなよ。男の子だろ?」
 黙っていると、横からフローゼルおばちゃんがヒコザルくんに言葉を投げかける。
 ぼくらはその場に止まって、ヒコザルくんの言葉を待つ。
「分かったよ。いいよ」
 暫くしてから、ちょっとぶっきらぼうに、ヒコザルくんはそう言ってくれた。
「もし今日、あのコリンクが来たとしても、仲良くできるかい?」
 フローゼルおばちゃんの言葉に、ちょっとうつむき加減になって、ヒコザル君は小さく頷いた。
 ほっ、と僕は一息ついて、公園の庭につながるテラス窓の方を見た。差し込む朝日があまりに眩し過ぎて、右の羽根で目を隠す。羽根で影を作って、外を見ると、一匹のポケモンの姿があった。
「おはよう!」
 光が強すぎるせいか、そう言ったあの子の姿は、とてもきらきらして見えた。

 新しく加わった友達は、すぐにみんなの輪の中心になった。とても明るくて、やんちゃだった。フローゼルおばちゃんや研究員の人を困らせるイタズラを思いついたりもする。ぼくもヒコザルくんも、だいたいはコリンクの味方になって、一緒にあれこれ企んだ。誰がやったのかなんてすぐばれちゃうけど、みんな懲りずにまた手を出す。だって、あのドキドキはやみつきになるから。
 コリンクは足も速くて、かけっこさせたらヒコザルくんよりも早い。かけっこでは一等賞だった。 あれから砂山づくりはずっと続けていて、ぼくらの仲のシンボルとしてずっと残しておいた。ぼくらの体なんてすっぽり入ってしまうくらい大きくなった。砂場中の砂という砂は、ひとところに集められて、もうこれ以上大きくならないんじゃないかと思った。
 ずっと一緒にいられたらいいな、と思うけど、夕方になったらコリンクのママが迎えに来て、ぼくらはぎこちなくゆびきりげんまんしてお別れをする。雨の日は来てくれなくて、次の日が待ち遠しかった。昔は好きだった雨も、あまり好きになれなくなってしまった。明日もきっと会えるかな、ってフローゼルおばちゃんに聞いたら、きっと会える、って言われて、ぼくは毎日眠りにつく。

 そんな楽しい日々が終わってしまうなんて、考えたことがなかった。
 終わりは突然やってきた。
 ある日、砂場の山のてっぺんがぱっくり割れて、半分以上崩れて無くなっていたのだ。
「え、なんで」
 朝一番、コリンクが呟いた。
 ショックで何も言えない。とっても大事にしてたのに。悲しさと、残念さが混じったようなものが、胸の奥からこみ上げて来て、それを押さえつけるのに精いっぱいだった。
「どうせ誰かがぶつかって、壊したんじゃないの」
 ヒコザルくんはぶっきらぼうに、軽く呟いて、顔を横に向けていた。まるでどうでもいいみたいに。
 振り返ったコリンクの形相は、凄まじかった。歯を食いしばって、きっとヒコザルくんをにらむ。
「何だよ」
 ヒコザルくんがその目線に気付いた時にはもう遅かった。
 コリンクが体当たりして、ヒコザルくんを押し倒す。
「何するんだ……っ」
 乱暴に、コリンクはヒコザルくんに乗っかって、ひっかこうとしたり、噛みつこうとしたりした。ヒコザル君は両手両足をばたばたさせて、何とかさせないようにしている。
「あんたが壊したのね! ばか! ばか!」
 ヒステリックな声を上げて、コリンクは攻撃する。
「壊してない!」
 ヒコザルくんのパンチが、コリンクに入る。後ろにのけぞった瞬間、ヒコザル君は体勢を立て直し、今度は思いっきりコリンクを殴りつけた。
「俺じゃないもん!」
 裏返る程の大声で、ヒコザル君は叫んだ。
 しばらく取っ組みあっている二匹を、ぼくは何もできずにただ見ていた。
「やめて……ふたりとも、やめてよ」
 声に出してみたけど、届くほどの力はない。泣きたいのか、怒りたいのか分からなくなって、ぼくは、とぼとぼと研究所のボールの中に戻った。
 それから、ヒコザルくんとコリンクのけんかがどうなったかは、ちゃんと見ていないから分からない。どうにでもなればいい、そんなやけっぱちな気持ちで、目をつぶった。

 うとうととし始めたその時、誰かがぼくをボールから出した。ボールの外に出ると、知らない男の子が、ぼくのことを見下ろして、笑っている。
「……それで、これがポッチャマだよ」
 研究員のおねえさんが、ぼくを指して紹介する。
 あぁ、そうか。この街から旅立つトレーナーは、ヒコザル、ナエトル、ポッチャマの三匹から一匹選んで最初のパートナーにする。ぼくは今、この男の子に選ばれてるんだな。
「どの子にする?」
 研究員さんが男の子に尋ねる。
「おれ、どれにするか決めてたんです。この子……ポッチャマにします」
 元気に、はっきりとした声で答えた。
「おめでとう、これで君も立派なポケモントレーナーね」
 はい、と研究員の方を向いて大きくうなずく。男の子はぼくを抱き上げ、目をまじまじと見た。ぼくも彼の目をじっと見た。これから、おれがいろんなところに連れてってやるよ。そう言われているような気がした。
「おれ、カズキ。これから一緒に頑張ろうぜ。よろしく」
 カズキはボールのスイッチをぼくに当て、中に戻した。いつも寝床として使っているボール。
「名前はどうする?」
 カズキはうーんと腕を組んで、少し前かがみになる。
「そうですね……あとで考えます。次の街に着くぐらいまでには決めようかな」
「そう」
 研究員さんはにこりと笑った。
「じゃあ、行ってきます」
「頑張ってね」
 一連のやりとりを見ていたけど、これから旅に出る実感なんて全くなかった。ボールの中は今までと全く変わらなかったからかもしれない。
 目の前に見えるあの山を越えて、街を抜けて、このシンオウ地方を駆け巡る。一体何があるのだろう、と期待に胸を膨らませる暇もなく、ぼくはこの子と一緒に街を出る事になってしまった。
 ゆびきりするの、すっかり忘れてたなぁ。
 寝起きのぼうっとした頭で、そんなことを考えていた。

 旅を始めてから、色んなものに出会った。
 コトブキシティみたいな目が回るくらいの大都会があるかと思えば、ソノオタウンみたいに一面に花が咲き乱れる町もあった。
 旅の途中で、仲間が増えた。みんなそれぞれ違う性格で、たまにけんかもしたりするけど、上手く取り持つのが僕の役目となった。正直僕自身バトルが得意っていうわけじゃないけど、でもメンバーからしたら「いてくれないと困る」存在らしい。よく分からないけど、みんなと一緒にいられるのは嬉しいし、いてもいいんだと自信が持てる。二度の進化を経験したけど、大きくなったのが図体だけじゃなければいいな、と思っている。
 エイチ湖のリゾートを抜けて、初めての海。カズキと一緒に歩いて、他のメンバーと一緒に水遊びしたときは楽しかった。砂山を作ろうという話になったとき、ふと、研究所の広場を思い出したりした。旅立つ前の記憶は、半分ぐらいはもう薄れている。赤ん坊の頃のことをちゃんと覚えていられないのは、脳細胞の生まれ変わるスピードがとても速いからだ。だから小さいころのことは、大事なことだけ残って後はどんどん忘れていってしまう。ミオシティの図書館で得た知識を、カズキは得意げに話していた。
 キッサキシティに向かうのは、骨が折れた。大雪になって、道中のポケモンセンターから一歩も外に出られない日が3日も続いた。出たら出たで、雪道に足を取られて中々先に進めない。そんな中、ぼくの体をそり代わりにして滑るなんてアイデアは、誰も思いつかなかっただろうな。
 旅の途中で、やがて気付いた。旅に出ると言う事は、今までの友だちとお別れをすることだ、ということに。もう、ヒコザルくんにも、コリンクにも、会うことはないのだ。時々そのことを考えて、どうしようもない暗い気持ちにとらわれた。


 そんな長い旅も、いよいよ終わりに近づいている。
 シンオウ地方の各地を巡り、ジムバッジを全て集めて、最後にトレーナーが集う場所。ポケモンリーグだ。

 午前中に一回戦を勝ち抜き、今日はもう予定はない。そんなトレーナーとポケモンのために、芝生のスペースが設けられている。
 そこを見ていたら、何となく研究所のことを思い出して、カズキに連れて行ってもらった。カズキは試合に気疲れしてしまったらしく、ベンチでぐっすり眠っている。
 そういえば、研究所の広場もこんな感じだったなぁ。辺りを見回して、そんなことを思う。遊具は無いけれど、色んなポケモンとトレーナーがいて、それぞれ別のことをしている。
 ふと右を見ると、一匹のレントラーが僕のそばに近寄ってきたことに気付いた。
「こんにちは。あなたも一回戦勝ったの?」
 首を傾げて尋ねてくる。声を聞くと、どうやらメスらしい。
「うん。とは言っても、僕はバトルしてないんだけどね」
 あはは、と笑ってみせる。彼女は首を軽く振って、にこりと微笑んだ。素敵な笑顔だと思った。
「バトルは一対一に見えても、一匹一匹がそれぞれ頑張らなきゃ勝てないものだからね。ここにまだいられるってことは、キミもきっと強いんだと思う」
「そうかな。……そうだといいな。ありがとう」
 僕は少し恥ずかしくて、はにかんだ。
「ところで、君はなんていうの……?」
 僕はレントラーに尋ねる。名前を聞きたかったのだが、ストレートに聞くのも乱暴な感じがしてはばかられる。濁しながらの言葉だったが、彼女は意味を汲み取ってくれたようだ。
「私? がおーねって言うの。マスターが付けてくれたんだ。キミは?」
 うっ、と言葉に詰まる。昔は良かったが、今は少し名乗りにくい。
「……ポコピー」
「ぷっ」
 ちょっと小声で言ったつもりだったけど、レントラーの大きな耳にはしっかり聞こえていたらしい。がおーねは噴き出して、顔を背けた。
「ご、ごめん」
「いやあ、いつものことだから」
 目をつぶって、肩を落とす。ポッチャマだった頃はいいけど、エンペルトのごつい体にこの名前は大したミスマッチだ。
「進化したての頃、うちのトレーナーに謝られたことがあったよ。『お前がこんなでっかくなるって知ってたら、もうちょっと別の名前考えてたのに』って。
 でも、今となってはポコピーでもいいと思ってる。だって、それで僕にあったポケモン達が笑って、僕に心を許してくれるんだもの。君も笑ってくれた」
 剣のようなつばさを広げて、おどけて話してみる。
「体まで張っちゃうとは、こりゃ一本取られました」
 がおーねは満面の笑みを浮かべた。笑ってしまえば、いがみ合った相手とも仲良くなれるきっかけになる。
「ポコピーって優しいんだね。小さい頃を思い出すよ」
「小さい頃?」
「うん、私が今のご主人にボールでゲットされる前の話ね。よくママのところを抜け出して、遊びに行く公園があったの。場所は……マサゴタウンだったかな。あの辺り。ヒコザルとか、ポッチャマとかと一緒に遊んでいたの。すごく仲が良かったんだけど、ヒコザルとけんかしちゃって、一緒にいたポッチャマは次の日からいなくなってた。そのあとすぐに、ヒコザルもいなくなってさ。そのまま結局けんか別れ。もう会えないって分かってたら、あんなことしなかったのになぁ」
 ため息をつくように、がおーねは言った。
 僕ははたと気がついた。もしかして、この子は。
「だから私、ポッチャマとかヒコザルとか、その進化系を見かけたら、話しかけてみることにしてるの。もしかしたら、あの時お別れしちゃった子たちと出会えるかもしれないから」
 なるほど、それで僕に話しかけてきたわけだ。
「それで、その子に会ったらどうするの?」
 僕は聞いた。
「そうだねぇ。まず、謝りたいと思う。ずっと楽しくやってたのに、勝手にかっとなって、全部台無しにしちゃったのは私だから」
 僕もがおーねも顔を広場の方に向けて、しばらく、沈黙していた。僕の目線はだんだん下に下がっていく。
 心臓の鳴りを抑えるのに必死だった。間違いない。がおーねはあの時のコリンクだ。まさか、こんなところで出会えるなんて。
 この子は気付いていないんだ。僕が言わなきゃ、この再会はきっと、なかったことになってしまう。
 少し遠くの方で、がおーねの名前を呼ぶ声が聞こえる。がおーねはそっちの方を向いて、立ち上がる。
「あ、そろそろ私行かなきゃ。ポコピー、話を聞いてくれてありがとう」
「う、うん」
 僕は小さな声でそうつぶやく。だめだ。と心の中で声がする。言うなら彼女が行ってしまう前、今しかない。
「あの……さ」
 がおーねは振り返った。なに、と優しい声。僕は顔をきっと上げて、がおーねの目を見据える。
「そのポッチャマ、僕なんだよ」
 僕は言った。
 がおーねは金色の目を見開き、その口は半開きになっていた。
 一言告白したら、胸の奥の方からするすると言葉が続けて出てきた。
「あの時ヒコザルくんとコリンクのケンカを止められなかったこと、ずっと後悔してた。どうしようもなくて、嫌な気持ちをずっと抱えてた。あの時、止められなくて、ごめん」
 本音だった。あんな別れ方なんて、僕の方こそしたくなかった。でも、時間はかかってしまったけど、もう一度会えたから、言いたいと思った。
 がおーねは真顔になって、僕の方に近づく。何をするかと思ったら、頭を僕のお腹に押し付けた。長く伸びた黒いたてがみはふさふさで、くすぐったくて温かい。
「ポコピーが謝ることないじゃない」
 下を向いているから顔は見えなかったけど、声が震えているのが分かった。
 僕はがおーねを傷つけないように、そっと両方の羽根でがおーねを包み込んだ。不器用な僕には、上手く包みこめてなんかないだろうけど、こうするしかないような気がした。すると、小さくむせび泣く声が聞こえた。

 がおーねのトレーナーが焦って迎えにくることはなかったから、まだ時間はあるらしい。しばらくして、がおーねは顔を上げた。
「あの砂山、夜の冷え込みで砂が乾燥して割れちゃったんだって。ヒコザルのせいなんかじゃなかった」
「ヒコザルにはまだ会えてないの?」
「うん。会ったらあの子にこそ謝りたいと思ってる」
「そっか」
 今頃、きっと立派なゴウカザルになっていることだろう。強気なヤツだから、トレーナーは苦労しているかもしれない。あいつにも、いつかまたもう一度会える日が来るといいな。
「それじゃあ、今度こそ、行くね。……その前に」
 がおーねは右の前足を出す。
「ゆびきりの代わり。また会えますようにって」
 ああ、昔も指きりしてたっけ。すっかり忘れていたけど、思い出した。
 人間みたいな指は無いけれど、僕らはかたい羽と大きな前足を通して約束できる。あの時と同じように、僕らはゆびきりをする。
「ポケモンリーグが終わったら、僕らはマサゴタウンに帰るつもり。全部終わったら、また会おう」
 今までにないぐらい、明るい気持ちがこみ上げて、大きな笑顔ができた。がおーねも同じ顔をして、大きく頷いた。
「私のご主人もマサゴタウン出身だからさ、帰ったら会いに行くよ。きっと」
 またね。
 僕は大きな羽根で、不器用に手を振った。
 
> 永遠少女 作:でりでり
永遠少女 作:でりでり
 嘘でしょどういうことよ何が起きてるの。いや、何が起きてるかは分かってる。吹っ飛んでいるんだ。それなりに体重があるはずのサイドンが、あの男のナゲキに空き缶を投げるかのように投げ飛ばされた。いや、投げ飛ばされただけでまだ終わっちゃいない。「なんとか着地してっ、サイドン!」甲高い声に応えるかのようにサイドンは重々しい音を立てながらきちんと足から地面に降り立ち、気合いで堪えた。その衝撃で突風が起き、私のやや長めの髪が煽られる。今は身だしなみなんてどうでもいい。そんなことよりもサイドンの対応能力は素晴らしい、perfect! しかしこれで勝負に勝ったわけじゃない。相手が驚いているスキを狙うんだ。「地均し!」サイドンが地面を踏みつけると激しい衝撃波が周囲を、ナゲキを襲う。ダメージを受けて動きが鈍ったところを追撃、 attackだ。「メガホーン!」自慢の大きな一本角を突きだし走り始めたサイドン。なのに、なのに、ナゲキはそれを待ってましたと言わんばかりにあえて角の一撃を受け止め、サイドンをがっちり掴み、当て身投げを放つ。disgusting! サイドンの防御力でもこれはもうダメだ。再び宙に浮かされたサイドンは、もう完全に身動き出来ず、派手な音を立てて地面に落っこちるとそのまま動けなくなった。「これで決まりだ。もういいだろ」男はナゲキをモンスターボールに戻すとこちらをチラと見て踵を返し、何も言わずにさっさと立ち去ってしまった。……。男の姿が見えなくなると、身体中の力が抜けに抜けてぺたんと座り込んでしまう。どうして。どうして、どうしてあの男に勝てない。視界が急に霞み、鼻水が止まらない。起き上がったサイドンが心配そうに見つめるなか、一人ただ咽び泣いた。

 ポケモンセンターの待ち合い室、サイドンの回復を待つ。もう涙の跡は残していない。やはりまたしてもあの男に勝てなかったか、と落ち着いた頭で先ほどのバトルを反芻する。あの男とは十八年程前に同じ故郷で出会い、育ち、同じスクールで学んだ。そしてスクールの頃から何度も何度もさっきのようにポケモンバトルを挑み続けた。しかし勝てたことはたった一度もなかった。悔しい。悔し過ぎる。恐らく私はあの男にはきっとひたすらじゃれついてくる仔犬くらいにしか思われてないだろう、一度も名前を呼ばれたことすらないのだから。「勝負よ!」と声高に叫んでもあっさりいなされ、そんな様子を周りに見られ笑われ貶されで、安い自尊心は傷つきヒビ入り粉砕されてしまった。なのにそれでもあの男にもう一度もう一度と挑み続けようとするのは、トバリのゲームコーナーで失敗した人間があと一万だけあと一万だけとしぶとく食い下がるのと同じようなものなのかもしれない。ああ嫌だなあ、そんなことをしなければそこそこのポケモントレーナーとして細々と暮らしながらなかなかの毎日を過ごせただろう。恋人を見つけどこかの街に住み着き子を産み平和に暮らせたかもしれない。なのにどこまでも旅をするあの男の足跡を踏み辿るかのように、旅する男を追いかけて挑むだけ。本当に嫌だなあ。こんなことをしている年月があればもっといろんなことを出来ただろう。でもここまで来てしまったんだ、こんなに時間を費やしてしまったんだ。引き下がれば終わらせれるのにそうしてしまうと今まで長い間頑張った自分を否定するだけになってしまう。青春を丸ごと懸けた戦いは何も成さずに終わってしまうのが、本当に一番嫌なことだなあ、と思った。

「どうしたのそんな不貞腐れた顔して」急に声がかかって振り返る。そこには緑のワンピースと柔和な笑みを纏った一人の大人びた女性がいた。彼女は私と同じ故郷及びスクール出身だ。旅をしている途中で恋人を見つけこの街に住み着きまだ子を産んではいないが平和に暮らしている。数少ない私の友人の一人でもある。彼女は私の隣の席に座った。ねぇ、と一言おいてから彼女が話しかけてくる。「まだ彼のこと追いかけてるの?」「……うん」彼女と会う度にいつも尋ねられる問いだ。この問いのあと、大抵彼女はそれを咎める。いっそどこかのジムリーダーになれだの恋人を見つけ安定した暮らしをしろだのと。だが今日は違った。「そっか、本当に好きねぇ」「え?」いつもはこの後の説教が、心配してもらえて嬉しいのと同時に若干うざったいのだが、どうしてか今回はにっこり笑いかけてくるだけだ。なんなんだろう。「ねぇ、最近思うんだぁ。一生を懸けて追い続けれる人がいるっていいことだって」「どういうこと?」「ロマンチックじゃない? ただ悔しいだけでこんなに頑張れないわよ」「……そうかなぁ」「そうそう。だって好きなんでしょ、彼のこと」「えっ、違うって!」「あははっ、照れちゃって」慌てて両手を彼女の方へ突きだし否定のジェスチャーを取る。「彼に自分のことを認めて欲しいんでしょ? 自分に振り向いて欲しいんでしょ?」「……」どうなのだろうか。少なくとも、あの男に恋心を抱いてるなんてことはないはず。でも勝って自分の強さを認めさせたいのは確かだ。「ところで××ちゃんがもしももう一度彼と戦って勝っちゃったら、その後はどうするの?」「えっ?」「何も考えてないの?」「う、うん」俯きながら肯定する。安定した生活を送る彼女に不安定な生活を送っている、と馬鹿にされてる感じがした。あの男を倒すという目標はあまりに高く広い壁過ぎて、その先の風景のことを何も見えていなかった。考えれば、あの男が突如旅を終えれば私の旅も終わってしまう。そしてあの男がポケモンバトルを辞めてしまえば私の今までの苦労が全て水泡だ。未来のビジョンなんて何も見えてなかったのだ。この街で落ち着いて暮らし始めた彼女はなんて計画的な大人だろう。あまりにも自分が子供過ぎる。なのに、彼女は「羨ましいなぁ」と私に言ってきた。「なんで?」「一途じゃない。彼の背中を追って走り続けるなんて、いかにも青春で羨ましいわ」「そういうものなのかな」「そういうものなの。さしずめ××ちゃんは永遠少女、ってとこね」「なぁによそれ」「もう二十歳過ぎなのに少女漫画の主人公みたいに一途だもん」「馬鹿にしてるのぉ?」「だぁからしてないって」二人して意味も分からず笑っていると、ジョーイさんがサイドンの入ったモンスターボールを持ってくる。「治療終わりましたよ、すっかり元気になりました」「ありがとうございます」モンスターボールを受け取ると、横にいた彼女がモンスターボールを見つめる。「どうかした?」「なんでもないよ。それよりさ、永遠少女の夢が叶うよういいモノあげちゃうんだから」

 彼女とポケモンセンターで出会ってから十日経ち、あの街から二つ先の街に着いた。あの男ももちろんこの街にいる。もう一度、勝負を挑む。彼女と話していろいろ考えた。ジムリーダーや、四天王などといった強豪トレーナーに勝っても満たされず、あそこまであの男に固執する理由は一体なんなのか。考えても出なかった答えはきっとあの男と戦えばわかるかもしれない。お昼が過ぎた頃、外を出歩くあの男にエンカウントを装ってたまたま会ったわね、と言ってから勝負を挑むのだ。もう何年もそうしているから、あの男も偶然なんて下手くそな嘘だと思っているだろう。それでも気恥ずかしいからいつもいつもそうしている。今回もそうやってたまたま出会ったフリをしてせっかくだから勝負しようと言ってやった。男はいつもみたいにまたお前か、とは言わなかったが、黙って頷いた。バトルが出来る程度の敷地に移動し、モンスターボールを手に握る。今度こそ勝つ。今回も使用ポケモン一匹の勝負だ。勝ってやる。そう意気込んだときだった。「聞いてくれ」こんな風に対戦前に話しかけられるのは初めてだった。「この勝負の後、俺は旅をやめる。これが最後の戦いだ」「えっ……?」唐突に通告された最終戦通告。意味がわからない、どうして。なんで。しかし男はお構い無しにポケモンを出す。「行くぞ、これが俺の旅の終着点だ! ラグラージ!」ラグラージは彼のエースポケモン。彼の言うよう最後にはふさわしいかもしれない。いまだ何が起きているのか処理出来ない私は、緊張によって現れた大量の手汗をかいた右手に握ったモンスターボールからドサイドンを放つ。「こないだのサイドン、進化したのか」前の街であの彼女に夢が叶うようにともらったモノ、それはプロテクターだった。十日前よりもより屈強に進化したドサイドンは、私の中でのけじめをつけるためのポケモンだ。「ドサイドン、地震!」大きい動作で地面を強く踏み鳴らすドサイドン、大地が揺れ身体が揺れ視界が揺れてラグラージの動きを制限させる。「怯むな。泥遊びからのマッドショットだ」地面をあっという間に泥に変換し、それをホースから水を放つよう打ちつける。ドサイドンは右手一つでマッドショットを受け止める。マッドショットに対応していて動けないドサイドンに、ワザを放ちながらもラグラージは近づいてくる。nasty! 狙いはこっちか。「地均し!」「ジャンプしろ!」ドサイドンが大きく右足を振り上げ、降ろし、地面を揺らす。が、泥と化しぬかるんだ地面に勢いよく足を突っ込んだがためにドサイドンは泥に足をとられてしまった。跳び上がったラグラージはそのままドサイドンに飛び掛かろうとしている。ラグラージは空中、空中にいれば自由な動きは出来ない。good! チャンスは今だ。「岩石砲!」ドサイドンの右手の穴から人間の頭くらいの岩がラグラージ目掛けとてつもない速度で発射、ヒット! wow! great! 素晴らしい! 相性が相性だがあんな攻撃を受ければただでは済まない。勝った! 吹っ飛ばされたラグラージは力なく地面に落下し消えた。消え……た? What happened? 状況を処理する前にドサイドンの背後から穴を掘るして出てきたラグラージがいた。まさか岩石砲をぶつけた相手は身代わり! なんて失態、岩石砲の反動で動けぬドサイドンに精一杯のハイドロポンプが。ドサイドンは背後からの攻撃に必死に耐えようとしたが堪えきれず膝から崩れKO。「また負けちゃった……」私もドサイドンよろしく膝から崩れ、うつむいた。これがこの男との最後の勝負、もう一度次のチャンスという訳にはいかないだろう。結局一度も勝つことがなかった。悔しい悔しい悔し過ぎてどうにかなりそうだ。その一方、戦って確信したことがある。どんな強敵と戦っても満たされることがなかった私の心、その理由が。私が戦ってきたどんなポケモンバトルの先にもいつもあの男がいた。たった一人、たった一人あの男が常に私の心の中にいた。ポケモンバトルをしていても常にあの男のことを考えていたし、ポケモンバトル以外のことをしてるときもあの男は今頃どうしているだろうかなどと思っていた。これが所謂恋だとかいうものなのか。こっちはこれほど想っているのに僅かな言葉しか交わされず無表情でバトルをし何も残さず去って行くあの男。彼女の言う通りだ。認めて欲しい。それもある。でもそれよりも振り向いて欲しかったのだとようやく自覚した。もっとその声が聞きたいのだ。もっともっとその動作を瞳を戦う姿を全部全部全部全部全部見ていたい。それを最後の最後、今になってようやく気が着いたのだ。「××」ふと名前を呼ばれた。顔を上げればすぐそこにあの男、手を差しのべてくれた。その手を握り、立ち上がる。彼の顔は目と鼻の先、何故だか急に胸うつ鼓動はアクセル踏み出す。彼の目を直視出来ず、右を向く。ヨーテリーを連れ散歩する老人が視界にinto。名前を呼ばれたのは初めてだが、こうしてこんな近くで彼の顔を見るのも初めてだ。「何よ……、いつもは負けたものには情けなしみたいな感じじゃない」「××、君に礼を言いたい」名前を呼ばれる度にどこかくすぐったい、嫌なようで嬉しいようで。感情の処理能力を越えた脳は溶けきったかのようで何も考えれない。改めて男の顔を向くと、いつになく真剣な眼差しだった。「君は俺を強くしてくれた。あの日スクールで俺が君に勝った後、君がもう一度とリベンジをしたお陰で俺は強くなるきっかけを得た」彼も緊張しているのか早口で口から溢れる言葉が噛みそうでやや危なっかしい。「ど、どういうこと?」「一度勝った相手には特に負けられないから、リベンジしにきた君に絶対負けたくなかった。君が何度も何度も挑んでくれたお陰で俺は負けられなくなり、強くなれた」「……」そんなことはどうでもよかった。貴方に旅をやめて欲しくない、今まで通り貴方の跡を追って戦いたい! そう言いたかったが、言ってはならないワガママかもしれない。開いた私の口からは、ただスースー息が漏れるだけ。でも嫌だ。もう跡を追っていけないのは嫌だ。一人にしないで欲しい。「君が強くなればなるほど俺もまた強くなれた、だからチャンピオンとして招かれるようになった」「え?」「今までの俺の活躍から、チャンピオンにならないかと誘いを受けた」「そ、それで旅をやめるの?」「ああ。だからこそこの勝負で俺は旅をやめる。今の俺は君がいてこそだ。だから……」彼は一旦咳払いして視線を反らし、再びこちらを直視する。「だから、俺と一緒に来て欲しい! 君なしでは俺は戦えない。俺が推薦すれば君は四天王にはなれるだろう、だから今度は俺と共に戦って欲しい!」嬉しいような、ズレているような。脳は再起動した。考えるだけ考えに考えて言葉を気持ちを口から心から伝えよう。「ごめんなさい」彼の顔が一瞬にして曇る。やめてほしい、そんな寂しい顔は見たくない。「でも!」強く声を張り上げる。下に向き始めた彼の視線が再び私を見る。「でも、私は貴方の元に行く。チャレンジャーとして、四天王を倒し、チャンピオンの貴方のとこまで! そしてもう一度戦うの! 私はずっと貴方を追い続けてきた。だからこそこれからも追い続けたいの」彼は思いもよらない返答にたじろいだが、ただ一つ頷いた。「必ずまた貴方と戦う。それまで絶対負けないでね」「約束するよ」彼は右手を差し出した。その右手に応え、互いに握手。彼の暖かい手が、心の奥までしみてとても心地よかった。リザードンに乗って飛び去った彼の背中を見送る。もう一度貴方と会ったとき、今度は私が気持ちを伝える番だ。
 
> 僕と君の二年間 作:とらと
僕と君の二年間 作:とらと
 インイングリッシュ、僕が一番好きな言葉は『ワンスモアプリーズ』だ。
 何が好きって、その便利なところである。そう言うと安っぽいというか、なんだか白々しい感じがするけれど、僕はとかくこのフレーズが大好きだ。ワンスモアプリーズ。その響きが、僕には時に魔法の呪文にさえ思えるのである。ワンスモアプリーズ。
 僕と英語との出会いは中学一年の時だと言えるであろう。西洋かぶれがDNAレベルで染みわたってしまった今日のニッポン、ひとたび街に繰り出せば横文字の雨あられに襲われるご時世であるからして、もちろん僕だって胎児の頃から英語のことは知っている。なんともなくカッコイイものであると、幼児の頃には気付いていたに違いない(これは僕が神童だったと言いたいのではなくて、近代現代の普通の子なら、たいがい誰もがそうであろう)。小学生の頃には絵を描くのに、とりわけマンガの主人公の服をデザインするのに、アルファベットを適当に並べて『ピブドゥングス!』等々謎の単語を創作したりしていた。当時の僕は特に『R』がお気に入りで、まぁそんな話はいいや。とにかく僕は中一の春、始めて本物のそれらと触れあうこととなったのである。ザッツアイアムゆとり世代、揶揄したいならすればいい。
 ここまで来れば気付いていただけるかもしれないが、僕は英語が苦手である。勉強科目としての話ではあるが、苦手というか嫌いである。嫌いというか大嫌いだ。僕の勉強嫌いの全ては英語に起因していると言っても過言ではない。まず話すのが嫌いである。あの英語独特の発音を先生に強要されるところが最悪だ。習いたての頃、クラス全員でRの巻き舌の練習をしている光景など失笑モノだった。すぐに僕はRが嫌いになった。また、書くのや読むのも苦手というか、正直よく分かっていない。なぜ、「僕は英語が嫌いだ」と素直に言わずに「僕は嫌いだ英語が」だなんてめんどくさい順番で言葉を並べているのか、全く理解に苦しむ。先生は日本語よりも英語の方がうんと簡単なんだと力説するけど、どう考えても日本語の方が音も形も圧倒的に美しく分かりやすい。日本国の識字率がそれを表しているではないか。こんな教育が許されていいはずがない。世界基準がジャパニーズに合わせるべきだ。
 当然聞くのも嫌いだ。だけども、僕がそれに対して他ほどの苦手意識を持たないのは、先に述べた魔法の言葉のおかげである。
 一年の春、何回目の授業だったであろうか、きっと片手で足りるくらいだ。先生が渾身の最終奥義でも繰り出すかのような表情で配布した『授業で役立つ英語』と銘打たれたプリントの中に、ひょうひょうとしてそいつはいた。キャッチアコールドとか、アイハブアクエスチョンとか、そんなメンツと肩を並べて、そいつは右列の下から五番目で己の出番を待っていた。先生が順番に発音し、生徒にリピートアフターミーさせて、一つずつ解説を加えていく。出番はすぐにやってきた。
「ワンスモアプリーズ」先生。
「ワンスモアプリーズ」生徒のやる気あるやつ。
「もう一度お願いします。先生や友達の言ったことが聞き取れなかったときに使います」
 その時、僕はその偉大さにちっとも気付かなかったと言ってもいいだろう。
 それから僕が彼の力に気付かされるまで、それほど時間はかからなかった。先生が僕に何か尋ねる。僕は慌ててプリントを見る。
「わ、わん、すもあ、ぷりーず」
 カタコトの英語。先生は笑顔を浮かべる。子供たちが未知なる外国語を使い始めるのが何とも嬉しいらしかった。もっと好きになってもらいたい、その一心で、先生は、今度はゆっくりはっきりと、同じ言葉を繰り返す。
 ゆっくりはっきりと。絵本を読み聞かせるように、馬鹿にしてるのかと思わせるくらいに、ネイティブが顔をピクピク引きつらせるほどに、ゆっくりしっかりはっきりと。
 そう、このフレーズの素晴らしさは、単に繰り返させるだけではなくて、その聞き取り難易度を著しく低下させるところにある。リスニングの楽なのは、リーディングよりも単語が簡単な傾向にあるからだろうけど、簡単な単語さえ普通には聞き取れない僕にとって、『ワンスモアプリーズ』はまさに天からの賜り物、授業で恥をかかないための救世主であった。定期テストなんていうのはできないと決まってるものだから、この際どうでもいい。
 正直に言うと、僕はワンスモアプリーズについてそれほど詳しくない。恥ずかしながら綴りも書けない。『ワン・スモア』だか『ワンス・モア』だかさえ知らない。『もう一度』に『一』が入っていることを考えれば『ワン』と『スモア』なんだろうが、ならば二度目をお願いする時には『ツー・スモア』になるんだと思うと、それは何となく間違っているような気がしてしまう。でも、耳だけ働かせるリスニング、口だけ動かすスピーキングにおいて、綴れるか否かなど大した問題にはならないではないか。意味が分かればそれでいいのだ。そして、それっぽいならなおのこと良い。ワンスモアプリーズのそれっぽさはなかなかのものだ。全然聞き取れていなくても、『アイドントアンダースタンド』より全然分かっている風である。最後に疑問符をいれて、『ワンスモアプリーズ?』と語尾を上げる感じにすると、更にアメリカンでナイスだ。できる男みたいだ。惚れる。そのうち彼女もできる。
 進級し二年になって、過去形がどうとかいう話になって、文法理解は困難を極めた。僕は日ごとに英語への嫌悪感を募らせていく。そんな中で、新しい先生が何気なく口にした言葉が、僕の心をぐわしと掴んだ。
 先生が指名して、生徒の一人がもごもごと何か言う。先生が教卓から身を乗り出す。
「パードゥン?」
 パードゥン? ぱーどぅん? Pa−Dwun?
 僕どころか、言われたその子も、かわいいあの子も、クラスの大半がぽかんとした。
 その時のショックは計り知れない。それはもう一つの魔法であった。それも、僕の覚えているそれよりも幾分端的で、数ランク強力な呪文である。僕は愕然とした。世界のすべてだと思っていたものはただのチンケな防壁で、それがみるみるうちに打ち崩されて、新たなるフィールドが彼方へ広がっていくように感じた。
 ワンスモアプリーズ? ――もう一度お願いします。
 パードゥン? ――もう一度お願いします。
 短い。その差は歴然であった。しかもちょっとカッコイイと来た。大人っぽい色気さえ滲み出ているように感じられた。
 でも、だからこそとも言えるけれど、僕はそれからも「ワンスモアプリーズ」の方を愛用し続けた。問題はその溢れる英語っぽさだった。当時の僕の中に、というかおそらくクラス中がそういう雰囲気だったのではないかと思うのだけど、英語を下手に英語らしく発音するのは、国語の音読を感情込めてするのと同じで、恥ずかしいことのように扱われていた。カタカナ英語が大多数であり、大多数こそが正義だったのだ。うまげに発音する輩の英語は、陰で嘲笑の的とされていた。そんな僕らにとって、与えられた新たな呪文は、存在そのものが『英語かぶれ』であり、少し高度すぎるスキルであった。たまに使っている人を見ると、それはなんだか「ませてる」みたいで、僕らは無意識にその単語を敬遠していた。
 二年生も終わりに差しかかった三学期のある日、英語の抜き打ちテストが始まった。
 その内容に僕らは辟易した。英会話のテストだというのだ。僕らはかねがねペーパーテストの畑の子であった。喋ることを求められても、それが『テスト』になることは極めて稀であった。テストという響きが僕らの表現を萎縮させた。英語コミュニケーションの授業イコール楽チンという等式を抱いている僕らにとって、正しく喋ることは至難の業であるように思われた。……そういえば、僕らの、僕らの、とさっきから言っているが、それを直接友達に確認した訳ではない。それでも、その発表を受けての教室のざわつきを見れば、皆が動揺していることは想像に難くなかった。
 出席番号一番の犠牲者を引きつれて、先生が嬉しそうに教室を出ていった。二番が青ざめている。一番との生死を分かつジャンケンに勝利した三十九番は、後ろ寄りの出席番号の生徒から賞賛の眼差しを浴びている。ちなみに僕の出席番号は三だった。順番待ちのために二番が名残惜しそうに教室を出ていく。一番の帰還が、すなわち僕への赤紙であった。僕はもうしばらくの後に、一番と立ち替わりに戦地へ赴いていく。ということは。ということはだ、ほんのちょっとの情報収集でさえ、ああ、ままならないのではないか ――ああ。あああ。パニック。頭真っ白。突然膝が震えだした。
 僕は唇を噛みながら、英語の教科書を開いた。その表紙の裏に挟まれた色褪せた再生紙を取り出す。折りたたまれたそれが、こんな時になかなか開かない。指が焦って言うことを聞かない。落ち着け。落ち着け落ち着け。半閉まりのドアの向こうに続く廊下に人影、まだ動くな動いてくれるな。四番と五番のゲラゲラ笑ってんのが煩わしい。押し寄せる恐怖に僕は思わず人差し指を舐める。親指とそれで挟んで擦ると、プリントはようやくその身を許してくれた。
 ガラリ。その日常音が、僕の戦場へのいざないであった。
 教室のざわめきが最高潮に達して、僕の混乱を更に助長する。一番がヘラヘラ笑いながら席に戻り、僕に向かって「行けよ」とアゴで言う。僕は立ち上がる。膝が。思わずプリントを握りしめる。ああ膝が。僕は歩きだした。きっとそれはぎこちない、初めて立ち上がった類人猿のような二足歩行になっていたに違いない。
 授業中の廊下は、気温も景色も寒々しいものだった。廊下のつきあたりに存在する家庭科室の前に、丸イスがひとつぽつんと置いてある。テスト会場はあの扉の向こうだ。
 通り過ぎる教室から響いてくるあんな声やこんな声をバックミュージックに、僕は静かに歩を進めた。しわの入ったプリントを開く。『授業で役立つ英語』と書かれたその紙の上で視線を滑らせ、右列の下から五番目と気持ちを合わせた。もうすぐ二年になる付き合いのそいつが、俺がいるから大丈夫だろ、と僕に微笑みかけてくる。
 ――『ワンスモアプリーズ』。
 そうだ、そう言えばいい。何度でも、聞き取れるまで聞きなおせばいいのだ。僕にはこいつがいる。こいつさえいれば、向かうところ敵なしだ。そもそも聞き取れないのは先生のせいだ。指導力に問題がある。更に言えば、先生の英語の発音に問題がある。立ち聞きしたところによれば、オーストラリアからの交換留学生であるライアン・ブレイドマンくんは言ったらしい。オーストレィリアでハ、先生みタイに強イ、エクセンッ(多分アクセントのことだと思う)つけマセーん! ――つまるところ、先生は英語が下手くそなのだ。それを文句も言わず、僕らは聞き取ってあげている。聞き返すのはそう、何も僕らの過失ではない。
 ついに家庭科室前につきあたった。丸イスに腰掛け、プリントに目を落とす。それが小刻みに震えている。ああ、寒いな。指先が一段と冷えるや。閉まりきった扉の向こうから、何やら声が聞こえてくる。すりガラス越しに二つの人影。僕は耳をそばだてる、その時、僕は僕の心臓が、異様な速さで鼓動していることに気付いた。ばくばく。ああ嘘だ。緊張なんてしていない。ばくばく。少し寒いから、そう、熱を生産しようとしてるんだ。気合いに燃えているのさ。ばくばく。ああもう、うるさいうるさい、静かにしやがれ。
 笑い声が聞こえた。人影が動いた。僕は反射的にものすごい勢いで立ち上がった。勢い余った。ふくらはぎに何か当たった。ヒヤリ? がんがぎゃん。無人の廊下に、倒れるイスの悲鳴が響いた。なんだこれ漫画か!
 からからと引き戸が開いて、二番が出てきて、転がっているイスを見て、晴れやかな顔で僕を見た。こいつくそ、なんだその、まるで「何もかも上手くいったぜ楽勝!」とでも言いたげなオーラを纏った表情は。青くなってたくせに。僕より中間悪かったくせに。
 ご丁寧にイスを直して、二番が廊下を去っていく。その背中を見やって、すると、僕の中になんだか、確信めいた感情がふつふつ沸き上がってきた――そう、この合戦、かなり余裕で僕の勝ちだ。当然だ。僕にはワンスモアプリーズがついている。二番にできて、僕にできないはずないじゃないか。
 僕は一歩踏み出した。膝の震えは武者震いだ。指が冷たいのはそうさ、心にその温度をくれているから。心臓の猛りが僕を鼓舞する、いざ征かん、僕に幸あれ。
 二番が開け放った引き戸を、僕が後ろ手に閉める。――さあ、楽しいイングリッシュの時間だ!
 家庭科室の長机の一角に、それと不似合いな英語科の先生が一人笑顔で座っている。手元にはクラス名簿らしきものと、伏せられた何枚かのプリントが置いてある。先生が手招いた。僕はそれに応じながら、右手の中の『授業で役立つ英語』プリントをポケットの中に突っ込んだ。
『簡単な会話文だけだから。ちょっと成績入るけど、まあ軽い気持ちでやればいいので』
 今や恋しきクラスルームでの先生の言葉が、ふと思い起こされる。
『そんでルールなんだけど、はい騒がない! コレ重要ね。家庭科室に入ったら、英語以外に使ったらダメです。日本語喋ったら減点だからね、気をつけてね』
 目の前の先生が、英語で何か言いながら、手近なイスを指し示した。僕はそれに座った。先生は名簿を一瞥すると、どうしようもなく嬉しそうな顔で話しかけてきた。
「ハロー、ユウスケ」
 僕は、言い淀んだ。
 先程までの根拠のない自信、もとい強がりが、一瞬にして蒸発した。
 そう、そこはもはや、いつもの家庭科室ではないのだ。英語のみに支配される、特別な情報空間。まさに未知の領域、人生における未踏の地であった。対峙する男は異国の野獣か、ともかく常識の通じる相手ではないのは確かだ。心から溢れんばかりに見えていたその笑顔も、だんだん貼り付けた能面のように思えてきた。
 ポケットに手をつっこむ。君がそこにいる。ならば僕は平気だ。
 ハロー、と返して、僕はこれ見よがしに、ハワイユー、と続けた。先生はニッコリと笑って、何か分からぬことを返した。この流れ。いつもの授業では、次に生徒はファインセンキューと返す。定石通りにやると、先生はウンウンと頷き、また訳の分らぬことを言った。第一関門突破だ。先駆け部隊を蹴散らした。なんだか自信が漲ってきた、よしいける、僕はいけるぞ!
 それからもテンプレ通りの会話が続く。僕はやや詰まりながらもそれに答える。
『今日は何月何日?』『今日は何曜日?』『今何時?』『ところで好きなスポーツは?』もちろんインイングリッシュ。
 僕が英語を返すたび、先生がウンウンと頷く。迷いのない動きで、名簿らしきものに何か書き込んでいく。僕は胸の中で、心臓がたぎるのを感じていた。
 ああ、僕ってやつは、自分の能力をあれほど卑下しておいて、なんて憎い男なんだろう。クラスのやつらも、成績の競争相手である僕の大失敗を祈っているはずだ。期待に答えられなくて申し訳ない、悪いがここまで痺れるほどに完璧だ!
 顔は火照って仕方ないが、気がつけば膝の震えは収まっていた。体がリラックスしているのを感じる。焦りから解放されていく。いい感じだ。このまま、最後まで、最後まで……
 ゴチャゴチャと外国語を唱えながら、先生が伏せてあったプリントを一枚差し出す。僕は迷いなくそれをひっくり返す。そこにイラストがあった。どこぞの教科書に載っていそうな可愛げのないイラストだ……イラ、ス、ト?
 先生が喋った。長い。僕は聞き取れなかった。
 立て続けに先生が喋った。何か違う音だ。僕は聞き取れなかった。
 ばくばく。心臓が踊り始める。な、なんだ? 今なんて? 先生はニコニコしてこちらを見ている。僕の解答を待っているのだ。つまり僕の喋る番だ。ばくばく。何か聞かれたらしい。何を? このイラストに関係あるのか? 僕はイラストに目をやる。ばくばく。うるさい心臓黙ってろ! ――それは、とある体育祭の一風景をデフォルメしたイラストであった。
 その時、僕の脳神経を鋭い電流が駆け廻った。突然の閃きに、思わず僕は視線を落とした。冬の制服の、右のポケット。そこに君。囁く声。焦んなよ、俺がいるだろ?
 僕は顔を上げた。先生は口角を上げ、きょろっと剥いた瞳で僕を見つめてくる。
「……ワンスモアプリーズ」
 それは、僕の唱えるのに許された、最高火力の魔法であった。
 先生は微笑みを浮かべる。それはまさしく天使のスマイル、でも見方によっては悪魔のうすら笑いだ。先生が肘をつき、身を乗り出す。僕はそのひび割れた唇を凝視した。
 今度はゆっくりはっきりと、設問が繰り返される。……ッ、ウェザー? なんだっけ、そうか天気だ! 体育祭の空は灰色の雲が垂れ込めている。曇りです。えぇっと。え、えぇと……
「イッツクラウディー!」
 イエス! 先生が拳を握った。僕も思わずガッツポーズを振る、いそうになるのをなんとか堪えた。ただ顔はにやけていたに違いない。ワンスモアプリーズの威力を、改めて思い知らされた瞬間であった。
 先生が何か言う。僕がワンスモアプリーズする。先生がもう一度繰り返す。ぼんやりと輪郭が見えてくる。イ……、ほわっ……、がーる、どぅーいんぐ、……? 女の子、いんぐ? 視線をイラストへ。女の子は走っている。「イッツランニング!」先生が頷く。
 先生が何か言う。僕がワンスモアプリーズする。先生がもう一度繰り返す。ぼんやりと輪郭が見えてくる。ふー……うぃずざぼーい? 男の子、うぃずざ……って何だっけ隣? 視線をイラストへ。そこには明らかに教師と思わしき人物。「イッツティーチャー!」先生が頷く。
 あぁなんと素晴らしきワンスモアプリーズ! こんな有能な相棒を僕に与えたもうたマイゴッドに感謝したい。なんだか英語ができてるみたいだ。二番の清々しい顔の表すところも分かるような気がする。英語って楽しいのかも。僕がそんな風に血迷った時、先生が手元の半ピラを見て、次の設問を繰り出した。
「――――――?」
 やはり聞き取れない。僕はすかさず呪文を唱える。
「ワンスモアプリーズ」
 先生は呆れたように笑って、もう一度繰り返した。
「――――――?」
 ぼんやりと輪郭が、輪郭が。あれ?
 見え、て……こない。
 ばくばく。煩わしいほど心臓が。膝が震えだした。見えてこない。先生が見ている。もはや偽りとしか思えない笑顔で。ばくばく。どうする。もう一度? もう一度、ワンスモアプリーズするか? あぁ、でも、『ちょっと成績入るけど』、この言葉が引っかかるのだ。何度も何度も繰り返せば、二度どころか三度も四度も聞かないといけないことを悟られれば。そりゃ成績は下がるに違いない。でも分からなかった。聞き取れなかった。ならばアイドントアンダースタンドとでも言えばいいのか。嫌だそんなのプライドが許さない。僕にだって、できないなりに譲れないものがあるのだ。ならばどうする? 僕は視線を落とす。右ポケットの中でしわくちゃになっているものを、ここに引っ張り出したかった。その折り目を、机の下でこっそり展開したかった。でも先生が見つめている。こんなにも見つめられている。一体どうすれば――突然、僕の視界に、ぽかんと口を開けたかわいいあの子の幻想が飛び込んできた。
 胸が高鳴った。頭に血が上ったとは、まさにこんな状態だろう。しかしこれはとんでもない裏切り行為なのではないか。劣悪非道な行いではないだろうか。先生は僕をどう見るだろう、そして何より君は? 脳内で擬人化されたそいつが笑いかけてくる。平気だよ、いっちまえ。ああ。君は、君ってやつは!
 僕は先生と視線を交わらせ、ぐっとヘソに力を入れて姿勢を正し、心を込めて、渾身の一言を発した。
「……パードゥン?」
 しばらく黙っていた僕の口から発せられた響きに、先生は少し驚いたようだった。
 パードゥン。それは、僕が避け続けてきた単語だった。英語臭すぎ、ませてるなどとはやし、使う輩を下に見た。しかし分かっていた。その内に秘めたる力を。パードゥンの持つ、潜在的なかっこよさも、漂う英語できてる感も。だからこそ僕は今、この禁忌を解放する。二度も繰り返させているという事実を少しでもくらますためには、パードゥンの力が必要であると信じたのだ。
 先生は一瞬の間ののち、口を開き、ゆっくりはっきりと、三度目の読み上げを実行した。ぼんやりと輪郭が、ついに、ついに見えてくる。ドゥー、……、……、テント、……? テント。ドゥーが来たときはあれだ、イエスかノーかだ。二者択一。僕は視線を落とす。その稚拙なイラストの中には、テントらしきものが連なって描かれていた。
「イエス、アイドゥー」
 先生は頷いた。ペンを走らせた。何か、肩の荷がストンと下りたような気分だった。乗り越えた……。疲労感が僕の心を融解する。およそ気の抜けた顔をしていたんだろう、先生はちらりと僕を見、それから次の設問へ移った。
「ハウメニーチェアズ――、キャリー――?」
 反射的に口を『ワンスモア』の『ワ』の形に開いたが、僕はそれを一度閉じざるを得なかった。
 思わず我が耳を疑った。……聞き取れた、のか?
 火照った脳味噌がぐちゃぐちゃとかき混ぜられるように、僕は混乱していた。聞き取れた。そんなことあるか? 現にあったではないか。そこで僕は分岐点に立たされた。聞き取れた言葉を信じて、すぐさま解答するか。念のため、ワンスモアプリーズを使うか。しかしそれは愚問であった。なぜなら、それまで、英語の支配を受けた魔法の教室の中央で、僕の戦況は悪化の一途を辿っていたから。なんとか砲撃を逃れたとはいえ、二回聞き返してしまったことは取り返しようのない事実だ。鋼のシールドで押し切られ、前線がどんどんと後退していく。本陣がざわついている。ばくばく。沈黙に響く僕の鼓動が、なんて重い。急ぎ策を練らなければ。この状況を打開するために。だとして選択は簡単だ。ハウメニー、いくつですか。チェアはイスだ。キャリーって何だ? 聞き取れなかったところは? でも、分からなくとも、質問の意味はやすやすと理解できるではないか。
『イスの数はいくつですか?』
 これだ。これに決まっている。聞き返し、減点を誘う必要性など、これっぽっちもないではないか!
 僕は呼吸を整えた。膝はもう震えていない。頭はそう、さっき火照ったとはいうものの、今は至極冷静だ。どこからか再び自信が湧き上がってくる。先生が目を輝かせて僕を見た。その期待に答えてやる。僕だってやるときはやるんだ。息を吸い、身を乗り出し、僕はゆっくりはっきりと、胸を張って解答した。
「ファイブ!」

 ニヤリ。
 先生がそんな風に笑った。

  ……そこから一体いくらのやりとりがあったのか、僕はよく覚えていない。真っ白だった。テストの途中だと言うのに、完全に燃え尽きてしまっていた。ふと気がついた時、先生はセンキューと言って、それからまた何か訳の分らぬことを言って、ドアの方を指差した。退出命令。テストは終わったのだ。
 僕は立ち上がった。激しい後悔で目の前が埋め尽くされていた。後悔後悔後悔。一歩とて動くことが叶わない。後悔後悔後悔後悔後悔。右ポケットがやたらと重い。ああ、もう一度、もう一度だけでも、やり直すことができれば。もう一回やりたい。あの設問だけでも、あのチェアの設問だけでも、やり直すことができさえすれば。僕はためらうことなく、ワンスモアプリーズを使うのに。僕はなんてバカなんだろう。先生の悪魔の含み笑いが脳裏にべったりと貼りついている。その後すらすらとペンを走らせる光景があまりに衝撃的すぎて。なんてこった、ああ、しかも、魔法の呪縛の部屋の外から、二番の声と四番の会話が聞こえてくるのだ。
「まじで、超簡単だから。ビビって損したって感じだわ」
「一番も言ってたな、皆も聞いた感じ楽勝だろって。まあ英会話とか楽に決まってるけど」
 ――あそこさえ、あそこさえもう一度することができれば、僕だって……!
 猛烈な後悔の念が僕を取り巻いている。なぜワンスモアプリーズと添い遂げることができなかったんだろう。なぜ気を抜いてしまったんだろう。なぜ悪魔の追撃を許してしまったんだろう。もう一度、やれさえすれば。僕は、僕は。もう一回聞くのに。ワンスモアプリーズするのに。
 突っ立っている僕に先生が怪訝な顔を向けてくる。僕の中で、『もう一度願望』の膨らみが臨界点を突破しようとしていた。そうだ、頼んでみればいい。今言わなければ、また僕はこれ以上の後悔に襲われるに違いない。言えばいいのだ。もう一度、と。唱えればいいのだ。魔法の呪文を。もう一度、お願いします。その呪文。僕を幾度も救ってくれた、頼もしすぎるその言葉を。
 ホアッツアップ? 先生が目の前に立つ僕を見上げる。意を決して、僕は手中の切り札を、先生に向けて突き付けた。
「ワンスモア、プリーズ?」
 先生はきょとんとした。
 廊下を行く足音と、間抜けに掠れた口笛が、のどかに空間を流れていった。
 先生は笑った。天使でも悪魔でもなく、ただちょっと小馬鹿にしたような、教師らしからぬ笑顔を浮かべた。そして言った。
「試験は終わりです、クラスに戻りなさい。そう言ったんだよ」

 魔法の、解けた瞬間であった。
 
> 君のいない海 作:レイコ 【★】
君のいない海 作:レイコ 【★】
 浅瀬の岩影ではじめて君の姿を見つけた時、岩の一部かと思った。
 外見なら背負った殻は綺麗に渦を巻いている方がいいし、目はまんまるでパッチリしてる方がいいし、青い触手はなるたけ長さがそろっている方がいい。
 ちょっと高望みかもしれないけれど、たぶん一族同士だと僕を見て同じことを考えるはずだからね。お相子、お相子。
 もちろん君に向かってこんな理想を語ったところで意味がない。なぜなら君と僕は別の種族だったから。つまり、それと分かるくらい見た目が全く違っていたから。君は僕のような渦巻きの殻なんて背負っていなかった。君の体はつぶれた半月型で下半分が真っ黒、上半分が茶色い甲羅そのものだった。君の目はなんと四つもあって、そのうち二つはちょんと甲羅についたまるで黒い砂粒のように小さい目。もう二つは下側の黒い部分についていて、丸くて赤くてちょっと不気味に輝いていた。触手だってそうだ。君は黄色い爪のような四本足では僕のようにくねらせることなど出来やしないだろう。

 要はあの時、見たこともない姿をした君に僕は好奇心をそそられたわけだ。

「やあ、こんにちは」

 僕は早速君のそばまで泳いでいって挨拶をした。表情はほとんど読み取れなかったけれど、突然ふらりと現れた僕に君は驚いたようだった。

「あの……はじめまして」

 あぁやっぱり女の子か、とそこまでは想定内だったんだけどな。
 別段可愛いとは思わなかった容姿から、どこから出すのかと思うような綺麗な声が返ってきたので実を言うと少し面喰らった。おまけに僕の周りにいる女といえば年齢問わず陽気な性格ばかりだったからこういう控えめな反応には慣れてなかったんだ。
 あれ。なんか邪魔しちゃったかな。そんなつもりじゃなかったのに、と僕はなんだか急に自分がものすごく軽薄な奴に思えてきて、無神経に話しかけたことが恥ずかしくなった。

 にしても困ったぞ。まごついたせいで会話の流れを不自然に止めてしまった。だけど僕を見る君の目は僕よりもっとずっと反応に困っている。
とにかくこの気まずい雰囲気を早くなんとかしないと。声をかけた側としてそれくらいの責任は果たさなきゃいけないと思ったんだ。

「えっと、はじめまして。僕は―――」
 名乗った後で、
「君はここで何してたの?」
 よし。完璧な繋ぎだ。
「私ですか? ……これといった理由は特にありません」
 ……うわぁ、なんかいきなり行き詰まったじゃないか。
 どうしよう。そんな風に返されても困る。一体どんな反応をすればいいっていうんだ。
「ほ、へ−、そうなんだ……」
 僕のバカ。こんな上ずった声じゃ取り繕ったのが見え見えじゃないか。
 だけど、君は。

「でも好きなんです、この浅瀬が」

 みゅっと瞑られた赤い瞳。うわぁいい笑顔。さっきまでの君の顔とは見違えるようだった。なんだか、なんだか変な気分だ。
理由がないのに変でしょう? と続けた君に僕は慌ててそんなことないと言い張った。変な気持ちなのは僕だ。あ、いや、そういうことなら僕だってこの浅瀬が好きだ。
 今日みたいに晴れた日は太陽の光が底の白い砂地まで届いて、水の中が明るく透き通るから随分遠くまでよく見える。そうするとむくむく好奇心が湧いて、もっとずっとその先に続く海に泳いでいきたくなるんだ。もちろんそれだけじゃないさ。この浅瀬を探索してるといつも色んな発見があって物凄く楽しい。それにここは食べ物が豊富だ。
 僕の長い説明を、君は口を挟まずに最後まで辛抱強く聞いてくれたっけ。

「ところで君はどこから来たの?」
「あ、はい……デコボコ入り江です」
「そりゃ遠いね。僕はこの近くのトゲトゲ洞窟に住んでるんだ」

 ちょっと慌てがちに話す僕。しっとりと語る君。互いの雰囲気に慣れてきたところでようやく会話も流れ出した。君の事。僕の事。この浅瀬の事。君の事。僕の事。きみの事。キミの事。そして気がつくとすっかり夕方になっていた。君は帰らなくちゃと言い出した。デコボコ入り江はここから遠いから無理もないと思った。だけどなんだか物足りない。せっかく君と仲良くなれたのに。
 このまま、さよならなんて言いたくない。もう一度会いたい。
 だから言った。
「楽しかったよ。今度いつ会えるかな?」
「では……また明日」
 その返事がたまらなく嬉しかった。あの時はそんなに自覚がなかったけど、今ではその意味がよく分かるよ。


 君と僕は“友達”になった。そうしてちょくちょく顔を合わせるようになった。
 今度いつ会おうか。と別れ際に切り出すのはいつも僕だった。
 横に並んでのんびりと泳ぐ日もあった。岩の数を数えて回ったこともあった。君が物凄く綺麗な石を見つけたことがあった。僕がおもしろい形の海草を見つけたこともあった。  

 きっとくだらないことで笑った。たぶんつまらないことで怒った。もしかしたら馬鹿馬鹿しいことで哀しんでいた。ひょっとしたら面白くないことも楽しかった。
 不思議だった。どんな些細なことも、一つ一つが君といれば輝いて見えたことが。
 君が僕より早く「今度いつ会えますか」と言ってくれたあの日。その理由がうっすらとわかったような気がした。


 ある日こんな事があった。天気が良かったのでなんとなく浅瀬に出掛けると、黒い岩の上に登っている君の半月型の後ろ姿が目に止まった。声をかけようとした途端、僕は君への挨拶の言葉をごくんと飲み下す羽目になった。
 突然岩陰から現れた知らない奴。そいつが親しげに君に話しかけている。驚いたことになんと君はそいつに微笑みを返し、とぷんと水に潜るとそいつと並んで浅瀬から深みへ向かい出したんだ。僕はまるで触手一に本残らず吸盤が生えたかのようにその場に釘付けになった。君がこの浅瀬で僕以外の誰かとあんな風に歩いている姿を今まで一度だって見たことなかったから。

 一体何者だろう。僕はどきどきしながら近くの岩に身を隠して、君と連れだって歩くそいつを観察することにした。そいつはこの辺の水中じゃ珍しい二足歩行をする奴だった。そのせいで背がぐんと高くて、ひょろりと細いくせに全身茶色い殻に覆われて頑丈そうに見えた。両手はそれぞれ切れ味の良さそうな鎌型で角度によってぎらりと輝いた。あれならどんな敵もばっさり一刀両断出来そうだった。ただしあの平ぺったくてでかい頭だけはいまいちだと思った。だけど馬鹿にしようものならあの鋭い眼で一睨みされるだろう。そうなれば僕を含めて大抵の奴は怖じ気づくに違いない。
 なのに、あんなに恐そうな奴とどうして楽しそうにしていられるんだい、君は。

 その瞬間、僕は自分が勝手に彼を悪者にしようとしていることに気がついた。
 僕は背負った殻ごと頭を左右に振ってねじ曲がった考えを吹き飛ばそうとした。違う、そうじゃない。あの君が。あの君が仲良く話せる相手だぞ。厳つい見た目と違ってきっと凄くいい奴に決まってる。よく見るとでかいのに君の歩幅に合わせてゆっくり歩いていたりしててさ。すごく親切じゃないか。なんでも見た目から勝手に決めつけるのは僕の悪いくせだ。
 ―――でも。
 ―――だけど。
 一見恐いそいつの鋭い目が君に向けられる度。大切なものを見るかのように優しくなるのがどうしてだか許せない。
「あの!」
 僕は岩陰から飛び出して叫んだ。子どもじみた行動なのは分かってる。でも君の笑顔もそいつの笑顔も、何もかも全部……
君とそいつは振り返って僕を見た。君は僕の名を呼んだ。顔にはいつものように優しい笑みが浮かべて。一方君の隣のそいつはなぜか僕を見てニヤリとした。
 そして。
「お前がそうか。俺の妹が世話になってるとかないとか」

 忘れもしない、あの言葉。
 結局あれ以降、僕は君のお兄さんに一度も頭が上がらなかったな。


 僕と君が“友達”じゃなくなった。それはある星の綺麗な夜のことだった。
 その日、いつも調子で浅瀬で一緒に過ごしていたらなぜか夕方になっても君は帰ると言い出さなかった。不思議に思ったけれど僕は少しでも長く君といる時間が欲しかったからあえて何も言わなかった。
 その間にも太陽は空を真っ赤に焼き尽くし、気が済んだ様子で水平線に隠れてしまった。そして薄い色から濃い色へ順に塗り重ねていくかのようにもどんどん夜が深まっていく。
 それでも君は僕の隣にいた。岩の上の僕らは顔を見合わせることもなく、横に並んだままじっとしていた。言葉も交わさなかった。
 ただ黙って、少しずつ増えていく星を見ていた。
 そのうちに夜空が星で溢れてしまいそうになった。
 さすがに気が引けて僕は君に声を掛けた。
「もう真っ暗だ……帰り、大丈夫?」
「……」
「……あのさ、送ってくよ」
 君は僕の方を向いた。僕も君の方を向いた。
君は僕の目をじっと見つめた。僕も君を見つめ返した。
 君の赤くて丸い目は暗い闇の中で仄かな光を放っていた。
 どんな星より綺麗に輝いて見えた。
「―――ありがとうございます」
 不意に名前を呼ばれ、礼を言われた。
「そんな、送ってくのなんて大したことじゃ……」
 照れてそっぽを向いた僕に君はしっかりとした声で続けた。
「いいえ。いつも、いつも……ありがとうございました」
 そんなにしょっちゅう感謝されるようなことしたかな。記憶にはなかった。
君と一緒にいるのが楽しかったし笑顔を見たかったから。嫌がることは絶対しないように気をつけていたけれど。
 そろりと振り返った僕は、
 君の目の端にきらりと光る雫を見てひっくり返りそうになった。

「ど、どうしたんだ!?」
 ななな、な、泣いてる! 泣いてる! 僕が泣かせたのか!?
「……このままでは……もう、あなたと会えなくなるのです」

 君の言葉の意味が分からなくて。頭の中が真っ白になった。

「ど…いうこと?」
「これ以上、あなたと親しくしてはいけないと……」
 そんなバカな……
「誰がそんな事言ったんだ!」
「一族の者達が……私の兄を除いて、皆あなたと会うことに反対しているのです」
 一体理由はなんなんだ。納得がいかない。
「どうしてだよ……」
「……異性と親密な関係を築くのは、同じ一族の者だけにしろと……」
「……! でも……僕と君は友―――」
「ただの友達……ですか?」

 すがるような君の瞳。“友達”。――――いい言葉だよな。
でも。

「……やっぱり、少し違う……かもしれない」
「私達は親友……でしょうか?」
…… ……
…… ……
…… ……
…… ……

「……ごめん。好き」
「……はい」

 辺りが暗くて本当に良かった。


 その数日後。運命の日がやって来た。君は一族を捨て僕と一緒に来ることを決めた。あの優しい君がこんな親不孝な決断をしたのは身を切られるような思いだったろう。あの時僕は有頂天になって気が回らなかった。ふたりで誰も知らない遠い海へ行こう。それしか考えていなかったんだ。
出発は夜だった。いつもの浅瀬で待ち合わせをした僕の元へ君がやって来た。驚いたことにあの背の高いお兄さんを連れて。
「ごめんなさい……兄にだけ打ち明けたのですが、見送るといって聞かなくて……」
「よお。お前ら駆け落ちするそうだな」
 僕はしれっと言ってのけたお兄さんになんと答えればいいのか分からなかった。
「あれだ、俺も似たような経験してっから……失敗したらぶっ飛ばすぞ」
「あ……はい」
 お兄さんはびくつく僕の殻を鎌で傷つけないようにそっと叩き、君には聞こえないように囁いた。
「まあなんだ、妹をよろしくな」



 深く、深く。出来るだけ深く。暗い海底をめざしたのには顔見知りに会うのを出来るだけ避けるためだった。僕は触手を君の爪のような足に巻き付けて、はぐれないようにして泳いでいった。聞いたことはあって実際見るのは初めてという場所をいくつも通り過ぎた。辺りはますます暗くなり、寂しい光景が延々と続く。途中ですれ違う者もぽつぽついたのについには誰もいなくなった。恐いくらい静かだ。
 やがて目の前に行く手を塞ぐ壁のような高い山が見えてきた。海底火山のようだ。ずっとこうして海底を辿ってきたというのに今から上を目指して泳ぐのも骨が折れる。さすがにあれを越えるのは根気がいりそうだったので、今夜はこれくらいにして明日この山を越えようと僕は君に持ちかけた。君が賛成したので僕らは山の麓に岩陰を見つけると身を寄せ合って眠った。

 しばらくして目が醒めた。でも朝が来たからじゃない。

 不気味な地鳴り。周りの水温がやけ高い。何か変だ。嫌な予感がした。ぐーらぐーらゆっさゆっさと大きく揺れ出す海底。振動に耐えきれなかった大地に次々と走る雷のような亀裂。君が僕にすがりつく。まさか火山が噴――――
 その瞬間、頭を内側から吹っ飛ばすような爆音がした。
上から下から右から左から押し寄せた岩石と土砂と熱水が何が何だか分からないうちに僕に襲いかかってぐるんぐるんと流れにまかせて回転する僕の体がいろんな障害物にどたんばたんとぶつかって鋭い何かが殻や触手は斬り付けて熱水が舐めるように目を焼いて耳を焼いて触手を焼いてどかんと何かにぶつかってただれた触手が千切れたような気がしてどこか知らないうちに遠くまで運ばれてでも回転は止まらなくて熱も下がらなくて痛みがなくなって意識が消えた。だけど最後まで君のことは離さなかった。

 忍び寄るように意識が戻った時、とにかく体が重かった。積もった土砂で身動きが出来なかったんだと思う。真っ暗だったのはなぜだろう。目が焼けてしまったからか、まだ夜だったからか、やっぱり土砂のせいだったのか。声を出そうとした。
 君の名前を呼ぼうとしたけどどんなに頑張っても無理だった。だけどせめて君の存在を確かめたかった。どこにいるのかはっきり分かるまで諦めたくなかった。かろうじて動く触手の一本を辺りに這わせた。こつん、と触手の先端が何か突き当たった。君の甲羅なのか、つるんとした岩なのか。期待と不安で胸が潰れそうだった。
 小さな小さな、消えそうな声が聞こえた。僕の目から血か涙か分からないものが溢れた。
 君が僕の名を呼んだんでくれた。やっぱり君だったんだ。傍にいるんだ。
 ごめん。でも僕は君の名を呼び返すことはできない。ごめん、ごめんよ。
 自分の体がみるみる末端から冷たくなっていく。この感覚を止めようにもどうすることもできなかった。傷の痛みは薄れていくと言うより、どんな痛みだったか忘れてしまった。どんなに気力を保とうとしても四方八方から意識が削りとられていく。意識の最後の片鱗が融けていく氷のように……

 僕はどこかへ行ってしまった。




 (――――かいのカセキにしますか?) 
 (――――こうらのカセキにしますか?)




 ……マブシイ。ナンダ。マブシイナンダ。マブシイッテナンダ。
アタタカイ。ナニ。カンジル。ミズ。ミドリイロ。ドコ。ダレ。ボク。キミ。
ココどこ。ここはドコ?
ここはどこ……?
「Yattazo,Seikouda! Omunaitogahukkatsusita!」
「Yarimasitane!Kasekiwoteikyousitekuretaanoshounennnisassokutsutaemashou!」
 だれ? なにをいってるの? みたことないいきものだ。
 このみどりのみずはなに? とうめいなかべはなに?
 あなたたちがぼくをとじこめたの? だしてよ。ぼくは……僕は――――

 海底火山の噴火に巻き込まれて、死んだはずなのに。

 ぶるぶるぶるぶる体が勝手に震え出した。嘘だ。嘘だろ。
 死んだんだぞ、僕は。なのに今、僕は生きてるとしか思えない。
 嘘だ。こんなのあり得ない。現実じゃない。
 じゃあここにいる僕は一体なんなんだ? やっぱり生き帰ったとしか考えられない。
 一体僕の身に何が起きたんだ? 僕が死んでからどれくらい経つんだ?

君は?

 君はどこだ? 僕がここにいるってことは君もどこかにいるんだろう?
 どこ? どこ! お願い、返事をしてくれ! どこにいるんだ!?
「Omunaitogaabaredashitazo! 」
「Daijoubuda.Sououchiochitsukusa.Doredore,Yoisho!」
 わっ、さ、触るな! お前達が僕と彼女を引き離したのか!? あの子をどこへやったんだ!

 連中は僕を捕まえた。抵抗しようにも体が上手く動かない。彼らは僕を緑色の水の中から引っ張り出すと今度は空っぽの四角い透明な入れ物へ移し替えた。
 僕がそこから目を皿のようにして君の姿を探したけれど、薄暗い部屋の中は緑の水でいっぱいの入れ物がずらりと並んでいる他に何も見つからなかった。
僕の入れられた箱が何かに乗せられて僕は箱ごとどこかへ連れて行かれた。喋っていたのも僕を連れ出したのも君のお兄さんのように二本足で歩く生き物だった。だけど君のお兄さんのように殻も無ければ鎌もなかった。
 薄暗い部屋を抜け出すとふわっと辺りが明るくなった。なぜか空が真っ白で小さな太陽がいくつも昇っていた。ここもやっぱり知らない場所だった。
 だけど嬉しいことがあった。白い壁に開いた四角い穴から見えたんだ。
 海が。真っ青な海が。きらきらと光る海が。
「Yaa,Omatase! Kasekiwohukugendekitayo!」
 僕は二本足の見知らぬ生き物に抱え上げられ箱から出された。そして向かい側にいる小柄な方の二本足へ手渡された。今まで白い奴らばかりだったのに対してその小柄な奴は赤い色をしていた。

 僕は死んだ。なのになぜか目覚めてしまった。だけど隣に君はいない。君がいないというのに僕は甦ってしまった。この先僕だけひとり生きてなんの意味があるのだろう。寂しいよ。苦しいよ。君がいないのに生きていかなければならないなんて。誰だ? 僕と君を引き離したのは誰なんだ?
 こんな事なら君の傍でずっと死んでいたかった。
 君の傍から離れることなくずっと眠っていたかった。
 今君はどこにいる? まだ眠っている? それとも僕のように目覚めている?
 ねぇ海が見えるよ。綺麗な海が。海は何も変わっていないよ。だけど君は隣にいないよ。
 そんなの嫌だ。会いたい。君に会いたい。
 もう一度会えたなら。もう二度と離さない。

 赤い奴は上半分が赤く下半分が灰色の玉のような物を掴み僕の殻に押し当てた。
 意識が遠ざかる最中、僕は誓った。どんなに時間がかかっても。どんな手を使っても。
 必ず行くよ。
 君のいる海へ。
 
> 春へ 作:ポーズ
春へ 作:ポーズ
 彼等は生まれた国を出て、海を越えて南へ向かう。南で長い冬を越し、春先になればまた自らの国へ帰ってゆく。
 そろそろまた旅に出るころね、と呟いた母の言葉を、子は聞き逃さなかった。
「たび……? 今度は、どこへいくの?」
「生まれた国へ帰るの。あなたは生まれたのが遅かったから、すぐこっち――この島へ来たでしょ? スバメやオオスバメにはこっちの夏は合わないから、涼しい国へ帰るのよ」
「ふうん。ねえ、花は咲いてるの?」
 子スバメは花が好きだった。ときに溌剌とした、ときに安らかな匂い、目が迷うほど色とりどりに咲いては散る花びら、雨に濡れてひっそりと花を閉じる様、光を受けて輝く露、何もかもが大好きだった。
「きっとね。さあ、早く支度しなさい!」
「はーい」
 子スバメは少し投げやりに言った。塒が慌ただしくなりつつあった。長い長い旅に向けて。


 その日、木の葉に落ちる露や屋根を伝う雫さえ凍てつく厳しさで寒気が街を覆った。明けようとしていた冬が、一日だけ最後の力を振るったようだった。
 人々は毛糸で厚く編まれた服を着込み、背を丸めて歩いている。鳥ポケモンたちは頭を丸め、丸裸の木に作られた巣の中で頭上の重い雲が去るのを待っている。地を走るポケモンたちはみな様々な巣にこもって、じっと身を潜めている。
 不意にマメパトの一匹が丸めた頭を空へ向けた。一匹のオオスバメが天高く羽ばたいていった。南から北へ、何十、何百ものスバメや彼等を先へ導くオオスバメが群れをなし重い雲を裂いて飛んでゆく。
 空を覆い尽くすほどの黒いその群れに、マメパトは必死で母を呼ぶ。すぐにハトーボーが飛んできて、空を見上げると言った。
「ああ、怖がらないで、あれはスバメたちの群れよ。彼等が帰ってくると、もうすぐ春がくるってことなの」

「あの辺りで羽を休めよう!」
 先頭を行く若いオオスバメの大きな鳴き声が上がった。下には川が広がり、海が遠く見えた。川の脇には人間が整備した河川敷がある。そこへ次々にスバメやオオスバメが降り立ち、各々毛づくろいをし合ったり川の水を飲んで体を休め、思い思いに過ごしていた。重い雲の下、何匹かは身を寄せ合って震えるものもいた。
 子スバメもオオスバメに寄り添って、体を震わせている一匹だった。
「お母さん、寒い……春なんじゃなかったの?」
「今日はフリーザーが降りてきているのかもしれないわ。きっと山に帰る前に街を見ておきたかったのね」
 河川敷も芝は枯れて、冷たい風に茶けた細い葉を揺らし、その中に見えないほど小さな芽がぽつぽつと潜んでいるのみだった。
「寒いよぅ……あの島はこんなに寒くなかったよぉ」
 オオスバメは首を傾げる。
「うーん、そのうち暖かくなるわ」
「うそだっ! 花も咲いてるって言ったくせに! なんにもないじゃないか!!」
 何もない河川敷を見回し、子スバメは声を荒げると、寄り添っていた母から離れて小さな翼を羽ばたかせると、空高く飛び上がった。
「あっ!」
 一匹が明後日の方向へ飛んでいったのに、オオスバメたちも気づいた。すぐに母が飛び立っていく。残りのオオスバメたちも二匹ほどを見張りに残すと、母を先にして子スバメを追いかけていった。

 川の流れと風の向きに逆らって羽を羽ばたかせる。すぐに河川敷を抜けて、暗い色をしたビルのある街を飛ぶ。ビルにぶつかりそうになりながらすり抜けて、スピードを上げて走る車を下に、遠く見える森へと嘴を向ける。相変わらず重い空の下で子スバメは懸命に飛んだが、羽が疲れて、静かな公園で速度を落とし一本の大樹に止まった。子スバメのほかには誰もない、ひときわ強い向かい風が吹くだけの錆びた公園だった。
 そこへオオスバメがやってくる。彼女もまた、息を弾ませている。
「ふん!」
 子スバメも母が追いかけてきたことに気づいたらしい、そっぽを向いてちょんちょんと跳ねながら枝の先へと歩いてゆく。枝の先には、丸く膨らんだ蕾がひとつ。
 子スバメはふてくされて、気の早いその蕾を嘴でつついた。オオスバメがそれを見て問いかける。
「それ、何だかわかる?」
「ふん……」
「それはね、花の蕾。これから暖かくなって春がくると、その蕾が開いて花が咲くの」
 蕾を見つめる。他の枝にも蕾があったが、この枝の蕾が一番大きくなっているらしい。固そうな皮の下に潜む花びらを思う。
 子スバメはまだそっぽを向きながら、小さな声で言った。
「じゃあ、もう一度お花を見れる?」
 オオスバメは大きく頷く。
「もちろんよ。だからみんなで毎年この国に来るの。もちろん体のこともあるけれど、春がきてこの国にもう一度花が咲くのを見るために。いいえ、この国に春が来る限り、何度でも、何度でもまた花が咲くわ」
 愛する故郷の美しい春。それを求めて、海を越えて危険を冒し帰ってくる鳥たち。本能とひとことでは片付かぬ彼等の想い。
「さあ、帰りましょう」
 オオスバメに促されても、少しだけ子スバメは動かなかった。
 空を見つめる。雲がわずかに明るくなり、太陽が丸く透けていた。春は本当にすぐそこなのかもしれなかった。
 
> 昔←→今 作:雫
昔←→今 作:雫
朝、空はまだ薄暗く、太陽も山から顔を出していない頃、俺は目を覚ました。
まだ眠いが、そこはいつものことだから仕方ない。頑張って起きよう。
のっそりと起き上がり、そのままの状態で出かける支度をする。ジャケットを羽織り、床の上に無造作に置いている鞄を手に取る。

俺―――崎本 智也は現在、絶賛無職中だ。ぼろぼろのアパートに一人暮らし、なんとも寂しい生活を送っている。
毎日自宅でネットやゲームをしていて、ほとんど外に出ない。脛をかじらない点以外はほぼニート同然だ。
そして一日に一回だけ外に出る、その時間が今。太陽が昇ってない朝。時間にすると大体5時とかそこらへんの時間帯である。
その時間にコンビニに寄り、一日分の食料を買ってくる。元々小食な為、食費は割と節約できる。

その帰りに、毎日とあるリサイクルショップによる。品物をみるのは当たり前 だが、
俺はたまに何か物を売って帰る。いらなくなったものや、昔持ってたお宝(ガラクタ程度)や、遊び飽きたゲーム諸々。
これが意外と高く売れるのだ。割と生活費などはこういうもので賄ってるケースが多い。
だから割と金には困ってない。いよいよ危なくなったらどこか働き口を探せばいい訳だし。


さて、今日も俺は、その薄暗い道をとぼとぼと歩いていた。
季節は、暦上は春といってもまだまだ冷たい風が吹き荒れている。19歳の俺にとっては……

……いや、20だ。あ、そうか。今日って俺の誕生日だったか。
近頃日付なんか意識してなかったから全然日にちが分からなくなってるな。危ない危ない。
兎に角、冷たい風は体にこたえる。
ジャケットを深く着て、空中に向かって白い息を吐く。ああ寒い。凍えるぜこの温度。
コンビニに着いた。少しだけ豪華なものを買っとこうか。やっぱ普通のでいいや。
くだらない自問自答を繰り返し、結局いつも買う質素な奴になった。

帰り道、いつものとあるリサイクルショップに差し掛かった。



「……うん?」




店頭に、一つのリモコンがある。


この店の店頭には、大体目玉商品や新しく入荷されたのを置くことになっている。
『入荷日にち 2011年 2月11日』……うん、昨日だ。じゃあきっと後者の方であろう。

しかし、
テレビなど無しに、リモコンだけ置くことってあるのか?
テレビも一緒に売らないと商品にならないだろうに。何故これだけなんだ?
仮に、誰かがリモコンだけ売ったとしても、普通に考えてリモコン単体で店が出すわけないと思う。
何か意図があってのことなんだろうか?
別にどうでもよかった筈なのに、なぜかそのリモコンが気になった。


「店長ー?」
俺は店に入るなり、カウンターでのんびりしている男に話しかけた。
男―――店長は、俺をみるなりいかにも優しそうな目つきを見せ、
「おー、智也君かい。」
といかにも優しそうな言葉をかけてきた。
聞いた話、この店長は5,6回くらい来たら非常にフレンドリーな態度をとってくれるんだそうだ。
「今日はどうしたの? 何か買ってくかい?」
俺はその質問に頷き、一つの商品を差し出す。
俺が手に持ってたもの、   

     ―――あのリモコンだ。

「これ、なんか気になった。」
それだけ言って、カウンターに無造作に置いた。

何故だか、一瞬店長の目つきが変わったような気がした。

「あぁ、これね。じゃあ金額は……」
「待った。その前に、」
俺の突然の待ったに店長は疑問符を浮かべる。

「……その前に、これに何の用途があるのか教えてほしいんだが。」
一番聞きたかった質問。ていうか聞いておかないと話にならない。
ただのリモコンだよ、といえば即効買うのをやめにするし、すごいリモコンだよ、といえば能力くらい聞いておきたい。

「……これねー。昨日入ってきたばかりだからよく知らないけど、なんでも、
  『人生やり直しリモコン』っていうらしいよ。」

「人生やり直し?」

……。

待て待て待て、此処はアニメとか小説とかの世界かよ。(小説の世界です)
人生やり直しって、なんかすごいファンタジーチックな名前だな。
そう言ってしまうと確かに店頭にあるのも分かるけど、いくらなんでも……。
「昨日此処に来た人が言ってたんだ、確か
『このリモコンは、人生やり直しリモコンっていって、使用者の人生を一度だけやり直すことができる。
 便利な道具でもあり、恐ろしい道具でもある。』
 って。」


……。

使用者の人生を……一度だけ……。


「……、これ、いくらだ?」
気がつくと、手が自然に財布へと伸びていた。



――――――――



「人生やり直し……ねぇ。」
さっきからそのことだけが頭の中でぐるぐるしている。当たり前といえば当たり前だ。
こんな現実離れしたことをいきなり聞かされて、しかもその「現物」を持っているのだから。

「これ」を買ったのは、他でもない。
やり直したい過去があるからだ。

自分で言うのもあれだが俺は元々、こんな生活を送る筈ではない人間、いわゆる優学生だった訳だ。
高校での成績はほぼトップに近く、割と現実でも充実していた。彼女だっていた。俗に言うリア充だった。
ある大学進学の時、楽勝と踏んでいた為、一つの大学しか志望していなかった。
それでも入らないとまずいので前日にはちゃんと勉強した。夜遅くまで徹夜もした。

そこまでは良かったのだ。



 ―――翌日、俺は立つことすら難しかった。
「インフルエンザ」 どうやら新型らしい。
絶望した。まさか、こんな日にかかるとは、思ってもみなかった。

その頃から、勉強というものが無駄のように思えてきた。一切手をつけない始末だ。
そのままずるずると引きずって現在の状態に至る、という訳だ。

できることなら、あの試験の前にいって、試験を受けるようにしたい。
思えば、インフルエンザ予防をしなかった自分も悪いのかもしれない。
だから今度はちゃんと「予防」して、ちゃんと試験に臨みたい。
そうすれば自分の人生もちょっと、いやかなり変わってきたかもしれない。
こんな堕落しきった生活じゃなく、ちゃんと整った環境で暮らせるかも知れない。
兎に角、どうにか今の生活を、変えたかった。

アパートについた。見慣れた風景。場合によってはもう見ることもないかもしれない。
俺は部屋に戻ると真っ先にそのリモコンを手に取った。
自慢じゃないが、こういう機械類は大体説明書を見ずに使いこなすことができる。
だからいつもの癖で、付属の説明書を見ずに早速本体の電源をつけた。

リモコンの上についていたモニターに
『イキタイ ネンガッピヲ センタクシテクダサイ ____ネン __ガツ __ニチ』
と映し出された。きっとボタン押し式だろう。
いつに飛ぼうか。受験前だから……多分2009年の2月1日くらいか。

俺は、淡々と数字を押して行った。もう後には引けない、決意したのだから絶対に止めない。
全てを押し終わった時、再び文字が浮かび上がった。
『2009ネン 02ガツ 01ニチデイイデスカ?』
確認する、うん、あってる。リモコンについてる「決定」ボタンを押す。

『イチドイドウスルトイッショウモドッテコレマセンガソレデモヨロシイデスカ?』

……。
一瞬ためらう。いや、もう行くと決めたんだ。もう後戻りできないのだ。
ゆっくりゆっくり、俺は「決定」ボタンを押す。

『ソレデハイドウヲカイシシマス』

その文字とともに、リモコンから強烈な光が発せられた。
そして俺の体はその光の中へと消えていった……。




――――――――




「う……ん。」

目を開ける。さっきまでの強い発行は消えていたが、まだ目がチカチカする。
でもさっき使ったリモコンは、この自分の手でしっかり持っているという感覚をはっきりと感じている。

この自分の……手で……。

「?」
ん?俺の手って、こんな小さかったか?
確かに昔は小さい小さいってよくからかわれてたが、今は……


「……。」


そうか。
俺は辺りを見回す。目のチカチカはもう消えていた。
今は朝。空は快晴。窓からの日光がまぶしくてたまらない。
此処は、どこかの部屋のようだ。少なくとも、今の俺の部屋ではない。
今 の俺の部屋ではない。

「昔の……俺の部屋。」

改めてリモコンを見る。
モニターには、『イドウガカンリョウシマシタ』とだけ映っていた。
昔の俺の部屋には、高校の頃よくやってたゲーム、当時流行っていた玩具などが多数あり、
机の上には所せましと参考書やノート等が並んでいた。
確かに、昔の俺の部屋と全く同じだ。
壁にかけてあったカレンダーを見る。2009年2月のカレンダー。
そのカレンダーの2日を大きな赤丸で囲まれていて、大きく『試験当日!!』と書かれている。
さらにその一週間前から赤いチェックマークが連なっている。
そしてそれには2月1日分だけがチェックされていない。

「本当に、タイムスリップしたのか……」

さすがに、それはないと思いたかった。
決定的な証拠は、俺の格好。どこからどうみても俺の高校時代の制服だった。

と、なると。
もし、もしもだ。
仮に、今日が2009年の、2月1日だったとする。
カレンダーと記憶からすると、恐らく明日が試験の日になるだろう。
その日、俺はインフルエンザになっている筈、なのだ。

「予防。が目的だったよな。確か」
そう、そうだ。
戻ったところで当日倒れたんじゃあ、この時代(?)に来た意味がない。
じゃあ、どうやって予防できる?
いや、もう原因は分かっている。
今日、俺は今から塾に行く予定になっている。
その時に、俺の友人が確か風邪をひいていた。
俺は、ソイツの看護、というか、心配でずっとそばにいた。
原因はそれしか考えられない。
ちなみに、俺の記憶では当日ソイツは普通に受験を終わらせた翌日、インフルになったらしい。
ソイツが俺に風邪を移したから発症が遅かった、なんて、恐ろしい話だ全く。

兎に角、どうすればいいのか?、というと、簡単な話。


ソイツに、近寄らなければいいだけのことだ。



塾、今日は特に試験前というだけあって、先生の熱気やらがすごい。すさまじい。
なんてのはちょっと前に同じ光景を見ていたので特に気にならなかった。

「智也クン、おはよう」

来た。この話の元凶だ。案の定、マスクをつけてのご登場。
彼は、『河合 宏樹』といい、俺の親友だ。
女子どもからは「かわいいヒロキ」だとか「ちっちゃくて萌える」とかもてはやされていて、
まぁ俗に言う「ショタ」という部類の男子だ。
確かに俺から見ても河合はまぁかわいいと思う。そういうシュミはないが。
俺もあんな風にもてはやされたいとか思ったことは、決して、ない。

っと話が逸れてしまったが、
要するにコイツから離れたらいいわけである。

「おぉ、河合。おはよう、ん?どしたそのマスク。風邪?」
あえて分からない風にして聞く。しかし完全にインフルエンザ予備軍である。
「あぁ、そうみたいなんだよねぇ。なんか朝から調子悪くて……」
完全にインフルエンザ予備軍の河合は言う。
此処で昔なら確か「そうなのか、気をつけろよ。」で終わってたはずだ。
此処でちょっと言葉を選んで……。
「……それって、やばくないか?明日本番なのに、熱で休んだら元も子もないだろう?」
俺はあせったような口調で言う。元も子もなかったのは俺の方だけどな。
「そうなんだけど、でも勉強しないと落ちちゃうし……。」
「勉強なら家でだってできる。それよりもまず自己管理の方が大切だろ?安静にして、明日に臨んだ方がよっぽどいいと思うぞ。」
「……。そうだね。帰ってから勉強するよ。体、大事だしね。」
勝った。よくわからんが勝った。

「うん、じゃまた、試験会場で会おうぜ。」
「分かった。じゃあね!」

俺は河合に別れを告げた。
河合は、俺に背を向けた後、小さいくしゃみを2発して帰っていった。かわいい。
……もう一度いうが、俺にはそういうシュミはない。断じて。

―――しかし、これでちゃんと受験できる。と思う。
まぁ明日まで待つしかないな。実はインフルエンザにかかってた。なんて間抜けな話は無しにて欲しいな。
結局、その日は一日勉強で終わらせていった。



――――――――


試験当日。目を覚ます。真っ先に飛び込んできた天井がいつもと何か違う。
……あぁ、そうか。俺、タイムスリップしたんだっけ。
昨日の夜は、いままでのことは夢であって、明日起きたら普通の生活に戻っていろ。と念じながら寝たが、
どうやら本当だったらしい。昔の俺の部屋がそれを物語っている。

だと、すれば。

俺は、まず体を起こす。特に異常はない。
手足を振り回す、うん。正常だ。どこも変なところはない。
次に、今まで俺が寝ていたベッドから離れ、床に立ってみる。
全然だるくない。歩いてもさほど気持ち悪くならない。
ということは。
俺はどこからか見つけた体温計を手に取り、体温を測った。

「……おぉ。」
36,3度。見事に平熱だ。
つまり、インフルエンザにはかかってない。ということになるか。




運命が、変わったのだ。






――――――――



2011年、2月11日。俺は毎日通る帰り道をぶらぶら歩いていた。
明日は俺の二十歳の誕生日。彼女とは離れてしまった為、一人で祝うことになるが、別に慣れているので特に問題はない。
鞄の中に入っている財布を引っ張りだし、残金をチェックする。―――そういえば、まだ一回も銀行って使ったことないな……。
親が昔もしものために振り込んでくれてたらしいが、暗証番号をまだ一度も確認したことがない。
そろそろ使っとかないとな。大学に通ってるとそろそろそんくらいの金は必要になってくるだろう。

俺は、あの後試験に合格し、無事希望の大学に行くことができた。
小さいアパートに一人で暮らせるように引っ越した。費用はまるごと親が出してくれた訳だが。
後で分かった話だが、河合は、結局当日に熱が出てしまい、受験できなかったらしい。
俺と同じ境遇なのか、と思うと悲しくなってくる。

いつしかリモコンの存在も薄れかかってきた。
もう、一つの思い出として封印されようとしていた





―――のだが。


「ッツ!」

突然、後ろから誰かとぶつかった。
割と思い切りぶつかった為、大きく前のめりに倒れてしまった。
俺は、何がおきたのか。はじめはあまりよく分からなかったが、少したってようやく理解できた。

鞄をとられた。

理解した途端、気付けば俺は走っていた。無論全速力で。
しかし、俺は走るのだけは専ら苦手で、昔から足は遅い方だ。

その誰かは、既に視界からずいぶん離れたところにいて、到底追いつける場所じゃない。
ダメだ。もう無理だ。諦めよう。
「畜生……っ」
あの中には大事なものとかいろいろ入ってたのに。どーすんだよこれから……。
そういえば銀行の暗証番号等々もあの鞄に入ってたような気がする。

「どうしようか……。」

と、とりあえず、自宅に戻ろう。
一応少しだけ金はある。食料もある。生活できる環境ではあるので、鞄が戻ってくるまでは十分凌げるだろう。
鞄においては後で盗難届けを出しておこう。
俺は、自宅に向けてとぼとぼと歩いて行った。




「……!」

なんてことだ……。
俺は部屋の中の光景を見て驚愕とする。こんなことって……あるのか。
いや、でもそんな大がかりなことできるはずがない。きっとできない。
見ると、部屋の窓が大きく開いている。ここから出したのか?全部?
いやいやいやいや。確かにこの窓の大きさだと全ての家具が出せるようにはなってるけど。
少なくとも、此処は4階だし。そこから落とせば全部壊れて……
……そういえば下にクッションみたいなのが置いてあった気がするな。ちょうどこの部屋の真下……。
でも……えぇ?これはさすがに無理じゃないのか。



     そんな、 部屋から家具を全部消す なんて。



とはいっても、消えたことには変わりない。
どーすんだこれから。これで事実上一文無しという形になってしまったのか。
大体なんでこんな目に遭わないといけないのだ。しかも一日に2回、大きな「事故」を。

とりあえず部屋を見渡してみる。元々家具があったところにたまっていた埃がものすごく空中に舞い上がっている。
残っているものはないのか。俺は部屋の隅々まで探すことにした。
全ての家具が無くなっているので、無駄に部屋が広く見える。
残っているものが少しでもあれば……


―――あった。

小型で、真っ黒。
表面に、なにかボタンのようなものが付いている。
他人からみると、これだけあっても意味ないんじゃあ?というようなものが残っていた



リモコンだ。



二年前の出来事がよみがえってくる。
そう、そうだ。
全ては、このリモコンがいけないのだ。
一時期は幸せな生活を送れたのだが、いつしかこのように堕落してしまう。
最初からこのようになる設定だったのだろうか?
きっとそうに違いない。なんて恐ろしいリモコンなんだ。
嗚呼、なんでこんなものを買ってしまったんだろう。

こんなもの、捨ててしまおう。
俺は、リモコンを持ったまま大きく振りかぶり、外に放り投げようとした。

……。

いや、捨てるくらいなら、売ってしまうほうが得かな。
事実上一文無しな訳だから、少しでも金の足しになった方がいいだろう。
問題なのは売るところ。でもまぁ、こういうのを売ってくれそうなところは、あの場所しかないだろう。
俺は、リモコンを持ったまま、外にかけ出した。




「此処……だな。」

着いた。
此処は、全く変わってないのか。
まぁ、当たり前か。俺が過去にいっただけで、此処が変わるんじゃあたまったもんじゃないからな。
にしても懐かしいな。軽く2年は経ってるよな。

俺は店の中に入る。
いつもと変わらない店内、品ぞろえは多少違うものの、なんとなく見覚えがあるものもちらほらと見える。
この懐かしさをもう少し味わっていたいが、今はそんなことを言ってられない。

「店長ー?」

奥の方に、昔見た店長がいる。
しかし店長は、こっちをみて無愛想な表情を見せる。
そうか……店長は俺のことを知らないのか。当たり前といえば当たり前か。

「えと、これを買ってほしいんだが。」
俺は店長の前にリモコンを差し出す。

「……これは?リモコンだけじゃ、買えませんが。」
店長は、怪訝そうな顔をしていう。


俺は、この店、「リサイクルショップ」に響くような強めな声で言った。








「……確かに、これだけじゃだれも買ってくれないかもしれないが、






 



  このリモコンは、人生やり直しリモコンっていって、使用者の人生を一度だけやり直すことができる。


       便利な道具でもあり、恐ろしい道具でもある。」










――――――――







―――このリモコンは、使用者がもう一度やり直したいという記憶に遡り、その出来事をもう一度繰り返すことができるリモコンです。
   使い方は、ナビの指示に従って本体に付属しているボタンで設定してください。

   !注意点!
   ・使用効果はお一人につき一度です。二度からの使用は使えませんのでお気を付けください
   ・当製品を使用するうえで、一部の人や場所、歴史が変わってしまう場合があります。
   ・望み通りの世界にならなくても此方側は一切の責任を問いません。ご了承ください。














―――此方側が故意に作ったシステムではございませんが、使用時になんらかの不幸が訪れるというケースが多々見られるようです。
   不幸が訪れた場合は、貴方の運が悪かったということですので。ご愁傷さまでした。

                                ※「人生やり直しリモコン」説明書より引用
 
> ダカラ・モシモ・モウイチド 作:一葉
ダカラ・モシモ・モウイチド 作:一葉
「もしもの話って嫌い?」
 なぜか僕はそう尋ねていた。なぜそんな事を尋ねたのか、少し後悔した。さっきから沈黙が続いていて聞こえるのは車のエンジン音だけ。居心地が悪かったのは事実だ。だけど、よりによってそんな事を聞く必要は無かったじゃないか。
 「今の無し」と言おうとしたが、その前に運転席に座っていた『シャーロット』が「あたしは嫌いじゃないよ」と答えた。助手席の『辻堂正義』が嫌そうに顔をしかめたが『シャーロット』は気にも留めない。
「だって夢があるじゃない」
 『シャーロット』はたぶん、ここにはない何かを見ていたんだと思う。それは僕にはわからないものだし、きっと知らなくて良いことなんだ。
「もしもがハッピーエンドだなんて限らない」
 僕の隣に座っていた『吉祥天女』が呟いた。「『ゼロ』だってわかってるでしょ」と。『ゼロ』とは僕の事だ。僕が使っているハンドルネームで、『シャーロット』も、『辻堂正義』も、『吉祥天女』も、当然だけどみんな本名じゃない。三人の本当の名前は知らないし、三人も僕の本名は知らない。ネットの中で知り合い、ネットの中で仲良くなった、友達と呼ぶには遠い関係。今日の集まりはとあるサイトで出会った人達の集まりなのだ。
「『吉祥さん』ってば夢がないねー」
 『シャーロット』は車を路肩に止めると座席越しに振り向いた。「もしもの話なんだから、好き勝手にハッピーにしちゃえばいいのよ」彼女はケラケラと気分良く笑う。
「現実は理想通りになんてならないんだから」
「『シャロ』」
 『辻堂正義』が彼女の発言を咎める。彼の叱責を受け、いつもはノー天気に振る舞っていた彼女も、さすがに失言だったと気付いた。「ごめん」と小さく呟き、彼女は前を向く。

 車は再発進したが、車内の空気は先程よりも重苦しいものになっている。つまり、これはそういう旅行なのだ。現実は理想通りにはならない。だから、僕達はここにいるのだ。
「……もし」
 沈黙を破る声に僕はそちらに目をやった。
「もしも何か願いが叶うなら、なにしたい?」
 『吉祥天女』がそう言った。正直意外だった。画面越しに付き合ってきた『吉祥天女』は、常に現実を見ていた。いや、僕達は誰も現実なんて見ていない、現実から目を背け、夢を見ていた。それでも『吉祥天女』だけは、夢も見ていなかった。だから、そんな彼女からもしもとか、願いとか、そんな言葉が出てきた事に本当に驚いた。
「……なんだろう」
「願いねぇ」
 僕と『辻堂正義』が答えに迷っていたからか、そのまま彼女が続ける。
「私ね、夢があったんだ」
 自嘲気味にだけど、その時になって初めて僕は『吉祥天女』の笑った顔を見た。「笑っていいから」と前置きして、彼女は語り始めた。

『吉祥天女』の場合……

 もし、一つだけ願いが叶うなら、会ってみたい人がいる。その人の名前は知らない。顔も、どんな人なのかも。それでも、一度で良いから会ってみたい。

 小学校の頃、国語の授業で作文を書く事になった。私はそれを白紙で提出して、先生にこっぴどく叱られた。一人立たせられ、クラスメイトが見ている中、やる気があるのか、とか、テンプレートな文句を並べられた。その先生は生徒達から鬼達磨――由来は鬼のような形相に達磨のように丸々と肥えた腹――と呼ばれ恐れられる人物だったから、クラスメイト達は黙ってそれを見ているだけだった。作文のテーマは両親。父親を尊敬しています、母親は優しいです、そんなありきたりな作文を書かせ、三日後の授業参観で読ませようと言うのだろう。クラスメイトは同情の視線を向けている。それが鬼達磨の仕打ちに対する同情なのか、私の境遇に対する同情なのかはわからなかった。
 これがその日最後の授業だったから、説教は授業時間が終わっても続いた。約二十分。クラスメイト達は沈黙したまま俯いて、机と睨めっこするように耐えている。下手に口を出して、鬼達磨の攻撃目標にされてはたまったものではない。三十分が過ぎようとした時点で、私に対する同情は消え失せ、敵害心が教室に溢れていく。巻き添えを食らって帰れないのは悪いと思うが、やっぱり私は悪くない。恨むのなら鬼達磨を恨んでほしい。
 それでももう十分も経つと、一人の勇気あるクラスメイトが手を挙げて進言する。「部活に遅れるので帰っても良いですか?」と。確かバスケ部の男子だったと思う。その日はバスケ部は休みのはずだ。逃げたな、そう思った。
 勇気ある一言のおかげで説教は中断し、授業も終了する。私もさっさと逃げてしまおうかと思ったが、その前に鬼達磨に捕まった。
「おまえは作文をでかすまで帰るな」
 渋々と席に着く私に、何人かのクラスメイトが視線を送る。目が口ほどに語っていた。曰く「ざまあみろ」だ。まだ数人のクラスメイトは同情の視線を向けていたが、圧倒的に侮蔑の感情で眺める人の方が多い。
 私は何も悪い事はしていない。わからないものを素直にわからないと答えただけだ。無知が悪い事であるとしたら、やはり悪いのは鬼達磨だ。
 私は鬼達磨に見張られ、ずっと作文を書いていた。書いていたと言うのはおかしい。原稿用紙はまだ白紙なのだから、作文と睨めっこしていたくらいが正しいだろう。
「なんでこんなことも出来ないんだ」
 何度も罵倒された。「先生はおまえと違って暇じゃない」「親の顔が見てみたい」私こそ鬼達磨と違って暇ではないし、親の顔も見せてやりたいくらいだ。
 結局、鬼達磨が並べた言葉を書き写し、作文は一応の完成を見せた。時刻は既に六時を回っている。解放されはしたが、目的のそれには間に合わないだろう。もう諦めるしかない。

 それを諦めた私は、商店街へ向かっていた。最近はあまり足を運ぶ事は無かった場所。昔は良く来ていた場所。
「おやまぁ、久し振りねぇ」
 八百屋のおばちゃんも魚屋のおじちゃんも快く迎えてくれる。それが少し心苦しく感じられた。
「おはなさんが亡くなってからあんまり来なくなったものねぇ」
 私は曖昧に返事をしてその話題を流そうとする。おはなさんとは私の祖母の事だ。名前は喜代子と言う。若い頃は華道の先生をしていたらしく、その名残で今でもおはなさんと呼ばれているらしい。父が生まれた際に引退し、華道の世界から身を退いたと聞いているのだが、華道自体は趣味として続け、私も祖母が花を活けている姿は何度も目にしていた。私はおばあちゃんっ子だったから、祖母が亡くなった時は悲しかったし、今でも思い出すのは辛い。だから、祖母との思い出が残るこの商店街を避けていたのだ。普段はスーパーのタイムセールに間に合わせるのだが、今日は時間を無駄にしてしまったから、もう仕方がない。
「オマケしておくね」
 八百屋のおばちゃんも魚屋のおじちゃんもそう言って多めに持たせてくれるものだから、ずいぶんと大荷物になってしまった。ありがたいのだろうけど、申し訳ない。おばちゃん達が良くしてくれるのは、私が祖母の、皆に慕われていたおはなさんの孫だからで、私自身は何もしていないのだ。その事を一度話したら、おばちゃんは「大きくなったらその分お返しして貰う」と冗談めかせて笑っていた。やっぱり納得いかない、申し訳ない思うのだけれど、その好意は受け取った。大人になったら、何倍も恩返しをしよう。おばちゃん達はそんな事考えていないし、期待もしていないかもしれないけれど、子供の私はそう誓った。

 誰もいない家に帰り、一人で夕飯の支度をする。祖母が死んでからは当たり前だった日常。一人きりの夕飯にはもう慣れてしまっていた。
「……お祖母ちゃんの味には出来ないなぁ」
 私の作れる料理はすべて祖母から教わったものだ。作り方もすべて祖母直伝のはずなのだが、祖母が作ってくれたあの味には程遠い。祖母の料理はもっと美味しかった。なんだか幸せになる味なのだ。なにが足りないのかと少し考えて見たが、わからなかった。少し考えてわかるくらいなら、とっくの昔に気付いている。だからこれは私一人ではわからない問題なのだろう。かと言って、その答えを知っているはずの祖母はもういない。もしかしたら、もう二度とわからないのかも知れないと、心のどこかで諦めていたのだと思う。

 翌日、当然ではあるが授業参観は行われた。去年の、一年生の一番最初の授業参観には祖母が来てくれた。だけど、次の参観日には腰を悪くしてしまい来れなかった。その次の時はもう、祖母は亡くなった後だった。初めての授業参観以来、私を見に来る保護者はいない。
 今年から担任になった鬼達磨にはそれはわからないであろう。わからないからといって、それを許せるかと言えば別だ。
 私は酷く傷付けられた。

「そんな事、小学生の、しかも低学年が考える事じゃないけれど……」
 『吉祥天女』はそこまで話すと、自嘲気味に笑った。
「当時は仕返し……のつもりだったのかな、あれはもう報復だった。私を傷付けた。一番嫌な所までズケズケと土足で踏み込んだ……踏み荒らした。それを私は許せなかったから……」
 僕には彼女の気持ちはわからなかった。家に帰れば母親が迎えてくれる。夜になれば父親も帰ってくる。弟だっているし、祖父母も健在だ。そんな僕に、彼女の気持ちなどわかるはずはないのだ。
「今思い出すと遣り過ぎだったのかもしれない、でも、その時の私にはそれしか出来なかった、それが、たぶん私に出来た精一杯の反抗……ううん、自己主張だった」

 順番に作文を発表していく。座席順に発表していたから、私の番はだいたい真ん中くらいだった。授業参観は三時間目から四時間目に掛けて行われる。早く進めば三時間目に私の番まで回ってくるかも知れないし、前の人が長引けば四時間目になるかもしれない。
 私がやるべき事を頭の中で何度もシミュレーションする。起きるべき事、それに対する対応。所詮小学生の稚拙な計画だったのかも知れないのだが、私にはそれが、映画の大怪盗の華麗な大犯罪と同じくらい緻密で完璧な作戦に思えた。
 やがて、三時間目の授業が残り数分を切った頃だった。私の番がやってきた。名前を呼ばれ「はい」と元気良く答えた。
「私の両親は……」
 そんなテンプレートな出だしから始まり、自分の両親がどれだけ素晴らしいか説く。母親は料理上手で美味しい手料理を作ってくれる。父親は仕事で疲れていても、自分の話を聞いてくれるし、休みの日には遊びに連れてってくれる。素晴らしい両親だ。きっとそんな両親はドラマかアニメの中にしか存在しない。理想だけで塗り固められた両親像。すべて鬼達磨に書かされたものだ。
 ここまではすべて鬼達磨のシナリオ。だけど、ここからは私のシナリオだ。鬼達磨に一泡吹かせる、私の反撃。
「そんな両親が本当にいたら、幸せだと思います」
 自分のシナリオになかったセリフに、鬼達磨が驚いていた。
「うちにはそんな両親はいません、全部鬼達磨に無理矢理書かせられました」
 クラスメイトはもちろん、父兄達からもどよめきが上がる。鬼達磨が止めようとしたけど、そんな物は無視する。
「鬼達磨とは、担任の永岡先生の事で、鬼のように厳しくて、達磨のように太っているから、みんな鬼達磨と呼びます」
 鬼達磨が怒声を上げた。でも私はそれを無視する。父兄達も抗議の声を上げる。だけど私はそれも無視した。無視して、作文を読み上げる。主張を声にする。
「実際には、料理を作ってくれる母親なんていません。私が生まれてすぐに『リコン』してしまいました。だから、お母さんの顔はわかりません。写真を見たこともありません。だから去年までは祖母がご飯を作ってくれていました。大好きなお祖母ちゃんです。でもお祖母ちゃんは去年死んでしまいました。だから、今はいつも自分でご飯を作っています」
 父兄達の喧騒の中、鬼達磨が絶句する。初めて知った、そんな顔だった。
「お父さんは仕事が忙しくて、いつも帰ってきません。色んなところにお仕事で出掛けていて、帰ってくるのは十日に一回くらいです。その時も疲れていて、すぐに眠ってしまいます。お父さんとちゃんと話したのはお祖母ちゃんが死んだ時が最後です。遊びに連れてってもらった事なんてありません。だけど我慢します。お父さんはお仕事を頑張ってます。寂しいけど我慢です」
 両親なんて、何も記憶に残っていない。そんな私がどうして両親についての作文を書けようか。
「鬼達磨に無理矢理書かせられた両親像も羨ましいと思います。でも、私のお父さんも、お母さんも一人だけです。そんな両親はいらないと思いました」

 チャイムと同時に鬼達磨は逃げ出して行った。何人かの父兄はそれを追って教室を出ていった。きっと職員室へ向かったのだ。職員室で大声で抗議するのだろう。そうなったら、鬼達磨はどうなるのだろうか。クビになってしまえばいい。あんな奴、いなくなってしまえばいいのだ。それが愉快に思えて、私は笑っていた。笑いながら、涙が出てきた。
 そのまま、四時間目は鬼達磨は戻って来なかった。勝手に発表会を続行し、授業を終える。
 翌日、鬼達磨は辞職した。ざまあみろと思った。

 さらにその翌日、鬼達磨は死んだ。

 事故、だと言っていた。誰も信じなかった。当然だ。車に撥ねられて死んだ。車道に飛び込んだのだ。きっと、自分で。その原因を作ったのは……きっと私なのだ。

 私が……殺した。


「その後は、ずっと虐められてた、あいつに関わると殺される、中学になっても、高校生になった今でも言われる、そんな時、お母さんがいたら、どうだったんだろうって……たまに考える」
 『吉祥天女』に母親がいたら、彼女は違う人生を歩めたのだろう。相変わらず父親は忙しいのかも知れない。でも、祖母と、母に囲まれすくすくと育つ。祖母が亡くなった時も、母が優しく抱き締めてくれたはずに違いない。そして、作文にはこんなことが書いてあるのだ。
『料理が下手で、すぐに鍋を焦がしちゃうから私が手伝ってあげます、そして私のことを誉めてくれます。そんなお母さんが大好きです』
 きっと、そんな幸せな世界があったに違いない。
「もし、もしも、一つだけ、願いが叶うなら……一回だけ、一回だけで良いから、お母さんに会ってみたいな」
 それが『吉祥天女』の願い。


「……そう……だな」
 『吉祥天女』の話が終わり、一番最初に口を開いたのは『辻堂正義』だった。彼にも願いがあるのだろうか。何時のことか忘れてしまったが「現実に夢なんてない、だから仮想に夢を求める」と口にしていたのを思い出した。現実に叶えたい夢があったのだ、彼には。でもそれは叶わなかった。きっとそうだ。

『辻堂正義』の場合……

 父親が野球好きであった。だから、俺は小さい頃から野球に触れる機会が多かった。小学校で野球部に入ったのも当然の流れだったし、中学でも続けた。高校でも野球部だった。
 その日は良く晴れた日だった。炎天下のうだる暑さの中、俺はピッチャーマウンドに立っていた。驚くかも知れないが、俺は高校時代エースピッチャーだったのだ。九回表ツーアウト一三塁、現在一点リード、ここを抑えれば俺達の勝利、そして甲子園出場が決定する。
「リラックスしていけー」
「勝てるよ勝てるよー」
 ベンチから聞こえてくる声援が、重いプレッシャーになっていた。中学からずっとバッテリーを組んでいる相棒がサインを出す。ストレート、低め。見送りのストライク。次もストレートの指示。ストライクゾーンギリギリに投げた速球に、バッターはわずかに反応したがバットを振らなかった。判定はボール。良く見ている。誰がが「取られてもすぐ取り返すから安心していけー」と不適切な声援を飛ばした……いや、声援なのかすら怪しい。確かにここで失点してまだ九回裏がある。だがそんな甘えは認められない。九回表、ここで勝負を着ける。
 サインはスライダー、俺の決め球の一つだ。と言っても俺が投げられる変化球など二種類しかないのだが。だからこそ、予選をエースとして勝ち抜いてきた俺の強力な武器とも言える。速球と比べても見劣りしない球速、いわゆる高速スライダーという奴だ。打てるものなら打ってみろ。一球入魂、残り二球で必ず決めると気合いを込め、渾身のスライダーを投げる。
「フッ!」
 鋭く呼気を吐き出し、バットを振る。ジャストミートの小気味良い打球音ではない。だが打球は弧を描きレフト線へ飛んでいく。必死に飛び付いた三塁手のブローブは、わずかに届かない。
「ファウルボール!」
 ボールが落ちたのは、ほんのわずかにファウルラインの外だった。俺はホッと胸を撫で下ろす想いだった。
 相棒の出したサインに首を振る。過程はどうあれ、結果を見ればツーストライク。次の一球が勝敗を分ける事になるのは間違いない。最後の一球、俺の切り札で勝負したかった。相棒もそれを理解し汲んでくれる。全力で投げる一球、俺の切り札……
「出ました、落ちるスライダー!」
 速球と変わらぬ速度から急激に変化するのは高速スライダーと同じ。違うのは変化の方向。本来横方向に滑るスライダーだが、バックスピンではなくジャイロ回転を加える事で、その軌道は横ではなく、縦に変化するのだ。
 だが、バッターもそれを読んでいた。この大会、幾度となくこの球を投げてきた。もはや二種のスライダーは今大会において俺の代名詞となっていたし、大会の特番でも取り扱われている。警戒されているのは当然だ。それでも、たとえ読まれたとしても、打てないから決め球なのだ。ジャイロ回転が生み出す不規則な変化は、時には左右のブレを生み、時にボールの落差を変える。そしてこの時は、バッターの予想を遥かに上回る落差を生み出していた。振り抜いたバットのさらに下、ストライクゾーンギリギリを貫く。
「ストライッ! バッターアウトッ!」
 その瞬間、運命が決まった。その宣言は、決着の合図。この激戦、制したのは俺達で、甲子園への切符を掴んだのも俺達なのだ。
「っいよっしゃぁー!」  俺の咆哮が球場に響いた瞬間、大歓声があがった。
「やったな相棒!」
「おうさ!」
 俺は相棒……正義と抱き合い、そのままベンチから飛び出してきたチームメイトにもみくちゃにされる。ワイワイと騒ぐ俺達が、たぶん一番輝いていた瞬間だった。


「マサヨシな、正義って書いて加々美正義」
「え、『正義』って『セイギ』って読むんじゃなかったんですか?」
 今までずっと『辻堂正義』を『セイギ』だと思っていた。なんとも失礼な話だが、どうやらそう読んでいたのは僕だけじゃなかったようで、『シャーロット』も『吉祥天女』も頷いてみせる。
「ん、あぁ、それで良いんだよ、マサヨシから取ってるのは確かだけど、俺はあいつじゃないから」
 そう言った『辻堂正義』の表情はやはり暗い。「つーかなんだ、おまえらさっきから『セイギ』『セイギ』読んどいて今更だぞ」と無理をして笑う。無理をしてると思った。『辻堂正義』と加々美正義、そこにどんな意味があるのかわからなかったけれど、きっと大切な意味があるのだと思った。だから、素直に彼の話を聞いた。


 俺達の甲子園出場は大きな話題になっていた。俺が通う高校では、甲子園出場など初めての快挙だったのだ。甲子園出場常連校を破っての出場だ。
 その日、俺達は遠征の為の買い物に出掛けていた。なんとか頑張って長い遠征にしたいものだと、その意気込みが必要な物を増やして行き、ついつい大荷物になってしまう。これで初戦敗退すぐに帰ってくる事になったら洒落にならん。やはりなんとか決勝まで残る、いや、優勝旗を持ち帰りたいものだ。
「せっかくこっちまで来たんだから少し遊んで行こうぜ、マサ」
「おー、いいねぇ、じゃあゲーセン寄ってかね? バーサスの新作入ったんだけどおまえもうやった?」
「マジ? もう入ったんだ、行こうぜ」
 あの日、勝利を決めた瞬間が、運命が決まった瞬間とだと思っていた。だけど、違った。この日の、何気ないこの選択が、運命を決めたのだ。

「せっかくだから俺はこっちの赤いのを使うぜ」
「出たな、速度が三倍」
  俺達はしばらく店内を巡り、ほどよく散財するとそろそろ切り上げて帰る事にした。「ちょっとトイレ」俺は正義に告げると、一人でトイレへ向かう。扉を開けると、そこにいた先客が一斉に俺を睨んだ。
「へ?」
 ゲームセンターの小さなトイレには不釣り合いな人数で、連れションと言うには些か大所帯ではないだろうか。その中の一人がいきなり俺の襟首を掴み上げた。
「間の悪い奴がいたもんだぜ」
 そいつはそのまま、俺の身体を強く引くと個室の一つに叩きつけた。そこにも先客がいる。下半身を露出した状態で両腕を縛られた大人しそうな少年は、脅えた表情をこちらへ向けていた。突然の出来事ではあったが、ここまで来ればさすがに俺でも理解出来る。恐喝とか、喝上げとか、そう言ったものだ。こういうのは普通入り口に見張りとかいて、誰も入って来ないようにしておくものじゃないのか? そんな事を考えてしまった俺は、やはりパニックに陥っていたのだろう、トイレに行ったら恐喝現場でしたなどとそう簡単に巡り合う状況でもない。
「どういう状況か、わかるよなぁ?」
 床に押さえ付けられたまま、さらに耳元で囁かれる。「わかってるなら自分がどうするべきかもわかるよな」と。つまり誰にも言わずに黙って金を出せ、と。それで済むのなら済ませてもらいたい。こちらは甲子園を控えた身なのだから、こんな事でケガなどして欠場など勘弁して欲しいし、暴力ざたで出場停止などもっての他だ。不良達の一人が俺を引き起こし、財布ごと掴み取ると、今度は思い切り突き飛ばされた。
「なんだ、あんまはいってねぇのな」
 財布をそのまま投げ捨てると、再び俺の手を掴み上げる。
「さて、ちくられても困るからな、適当にボコッておくか」
「待った、それはダメだ」
 思わず叫んだ。俺は甲子園に行くんだ。ケガなんてしてたまるか。
「あれ、こいつ、あれじゃね? 野球の」
 唐突に隅で見ていた不良が口にした。甲子園特番のインタビューを受けたのはつい先日の事である。
「ほう、そうなのか」
 風向きが変わったと思った。選手がケガをしたら大変だとか、当然わかってくれると。
「ちょうど良いじゃねぇか」
 不良の一人がそう言うと、思い切り俺の頬を殴り付けた。壁に叩きつけられた俺の胸を踏みつけ、唾を吐き掛ける。
「知ってるか、うちの高校な、決勝でてめーに負けてんだよ」
 グリグリと踏み付ける靴に、俺は表情を歪ませる。そんなのは逆恨みだ。試合で負けたのは仕方がないではないか。不良に顔を蹴り突けられ、俺は地面にうつ伏せに倒れた。さらに俺の右手を力一杯踏み付ける。何度も、何度も、何度も。

「何やってんだよ!」
 中々戻って来ない俺の様子を見に来た正義が大きな声を上げる。「なんだなんだ?」「何かあったのか?」正義の声に人が集まって来たのか、トイレの外から騒めきが聞こえてくる。
「ちっ、ずらかれ!」
 先頭の不良が思い切り正義を突き飛ばし、トイレから走り去って行く。さらに他の不良達が逃げていくと、トイレの外にいた野次馬が数人入れ代わりに入ってきた。
「……っ、くそぉ」
 何度も蹴り付けられ、踏み付けられた右手は、もはや感覚がない。これではボールを投げるどころか、ボールを掴む事すら出来ない。甲子園出場など絶望的だ。運命は、俺の夢を奪った。甲子園で優勝する、子供の頃からの夢を奪ったのだ。悔しくて、苦しくて、涙が溢れた。だけど、それは違ったんだ。運命が奪ったのは、俺の夢だけじゃなかったんだ。
「おい、大丈夫か!?」
 声が聞こえてきたのはトイレの外からだった。その時気付いた。正義がいないのだ。正義ならいの一番に俺を気遣うはずだった。あいつの性格は俺が良く知っている。上がらない腕を抱えるように立ち上がり、外を目指す。見たくない、そんな事はないと否定したい。
 だが、そこには予感した通りの光景が広がっていた。
「……正義?」
 俺が読んでも返事はない。不良に突き飛ばされた正義は、強か頭を壁に打ち付けてしまったのだ。何度も呼ぶ、何度も、何度も。だけど、返事は無かった、正義は答えなかった。
「救急車! 救急車ーっ!」
 誰かが叫ぶ中、俺は腕の痛みも忘れて立ち尽くしていた。奪われたのは、夢だけじゃなかった。運命は、未来も、奪った。

 この日、加々美正義は死んだ。


「当然甲子園には出られなくて、チームも一回戦敗退、それでもな、あいつの為にも、野球は続けようとは思ったんだ。続けようと思ったんだよ……」
 でも、と『辻堂正義』は続ける。
「二度とボールを投げるのは無理だって、二度とマウンドには立てないって……夢も、希望も、未来も、全部奪われた」
 知らなかった、知ってるはずがない、まさか『辻堂正義』にそんな過去があったなんて。そりゃあ、こんなサイトにいる人間なんだから、幸せな人生なんて送っていない。だけど、二人の過去は、『吉祥天女』も『辻堂正義』も、僕が想像していたよりも、ずっと辛い過去を背負っていたのだ。
「もし、一つだけ願いが叶うなら、もう一度だけでも良い、あいつと、もう一度、あのマウンドに立ちたい」
 夢を奪われる、それはどんな気持ちなんだろうか。俺にはわからない。夢なんて曖昧で、俺にはよくわからなかったから。


「じゃあ次はあたしかな」
 いつの間にか車を停車させ『シャーロット』が言った。「着いたのか?」と尋ねると『シャーロット』はブイサインで応じる。外は吹雪いているせいで外の様子はよくわからなかった。
「そうだ、そろそろ用意しとけよ」
 『辻堂正義』が言って、それを手渡す。「サンキュー」「ありがとう」各々それを受け取る。「はい、お茶」『吉祥天女』からお茶のペットボトルを受け取るとそれを口にした。ふと、これは今彼女が口を付けたものじゃないのかと思って慌てたが、『吉祥天女』はまったく気にした様子は無かったので、僕も意識しない事にする。
「でー、そろそろあたしの話始めてもいい?」
 『シャーロット』は自分に注目するように言うと、話を始めた。

 『シャーロット』の場合


 幸せの絶頂と言うものがあるとしたら、きっと自分はそこにいる。
 仕事はもうすぐ辞めるつもり、寿退社と言うものだ。そう、私はもうすぐ結婚するのだ。
 相手は大学時代に合コンで知り合った営業マン。顔良性格良、貯金もわりと溜め込んでいる有料物件、とまぁ、こんな第一印象だったんだけど、どうやら惚れられたらしくて向こうから交際を申し込まれた。正直に言うと、あまり趣味ではなかった。なんでも一人でこなしてしまうような優等生過ぎるイメージがあって、あたしには少し堅苦しそうに思えた。
 だけど、実際に付き合ってみると、彼が第一印象通りの男性ではないとわかった。なんでも一人でこなしてしまいそうどころか、間の抜けた人で目を離すのが少し不安なくらいだった。全然しっかりしてないし、家事とか壊滅的だし、気付いたらあたしが押し掛け女房よろしく面倒を見る形になっていた。そして大学を卒業した頃から彼の家に居着くようになり、いつの間にか完全に同居していた。
 もっとこう、俺様的なのが好みだと思っていたんだけど、と思うけど、今の生活もまんざらではなくて、むしろ気に入っている。悪くない。これ以上何かを望んだりなんてしたら、バチが当たってしまいそうで怖い。

 そんな生活に変化が起きたのは先日、あたしの友達の結婚式に出席した時からだった。綺麗なウェディングドレスを羨ましいと言った。そしたら彼は「やっぱりああいうのって憧れる?」なんて少し戸惑った様子で聞いてきた。当然だ。あたしだって女の子だ。二十代も半ば過ぎた女性が自分を女の子とか他人が聞けば歳を考えろと言われそうだが、彼はそんなことを気にする人ではない。彼は「そうだよなぁ」と頷くと、一人で考え込んでしまった。
 彼の事は好きだ。普段も良くしてくれる。でも一つだけ、不満があるとしたら、違う、不安があるとしたら、彼が一度もあたしの事をどう思ってるかを聞いたことが無いことだ。嫌われてはいないと思う。じゃないと同居なんて出来ない。だけど、一度も一言も、好きとか、愛してるとか、言ってもらった事がないと、やはり不安になるのだ。

「って感じなんだけどどうかな?」
 それを先輩に相談すると、先輩は少しうんざりした様子で笑った。
「あいつはそういう事を言えるタイプじゃないからねぇ」
 大学の先輩だった女性で、彼の同僚、つまり、あたしと彼を引き合わせてくれた人だ。だから、彼との付き合いはあたしより長いし、一緒に住んでるあたしが知らないような秘密まで知っていたりする。主に恥ずかしい方向の。
「でもでも、もう付き合って四年目だし、同居し始めて二年目なんだから、本当に好きなら好きの一言くらいあってもいいじゃない」
「ま、そーだねぇ」
「先輩なんかやる気ない」
 適当に流すように答えた先輩に私は口を尖らせる。こちらは真剣に悩んでいるのだからもう少し真面目に付き合って欲しい。
「そりゃあ同じ事何回も聞かされてるしねぇ、惚気られる身にもなってほしいよ」
 カラカラと空になったグラスの氷をかき回しながら言う。「うー」と頬を膨らませ訴えるたが「はいはい」とあっさり受け流される。
「だったらいっそ自分から仕掛けたらどうだい?」
「無理、絶対無理」
 あたしはテーブルに突っ伏して否定する。そんな恐ろしい事が出来るはずがない。せめて彼が一言好きだと言ってくれたならともかく、と、それでは自分から仕掛けたことにはならないか。
「なるようになるんじゃないのかい?」
 確かにそうかもしれないけど、それが進展しないから助けを求めてるのに……
「とりあえず頑張ってみる」
「おー、がんばれがんばれ」
 応えた先輩は、やっぱりやる気がなかった。そんなことより、と先輩が一冊の雑誌を開く。
「結婚式だったんだろ、なんだか羨ましくなってね」
 先輩が取り出したのはジュエリー雑誌だった。そんな珍しい物を持っていたものだから「買うの」の尋ねたら「見るだけ」と笑っていた。
「見るだけならただじゃないか、実際には確かに高くてそう簡単に帰るものじゃないけど、これくらいなら良いだろ?」
 そこで彼の話は打ち切って、あたしたちは雑誌を眺めながら空想の中でオシャレに浸るのだった。

 それからまた数日後の事だった。彼とのデートを翌日に控えたあたしは、買い物に出ていた。少しくらいオシャレして、可愛くなったら、彼も好きだとか言ってくれるのではないかと思ったのだ。
 そう言えばこの前、先輩と見た雑誌に載っていた店がこの辺りにあったはずだ。少し高かったけれど、気に入ったシルバーアクセサリーがあったのだ。似たようなデザインで安いものがあれば嬉しい、少し探して見ようと思って、その店へ向かった。
 場所は知らなかったけれど、店はすぐに見つかった。雑誌の写真と同じだったから間違いない。少しコジャレたお店で、あたしには場違いかもしれない。でも、せっかく来たのだから、少しだけでも見ていこう、見るだけならただなのだから、そう思ってあたしはお店に入った。
 少し落ち着かない気分で、あたしはその人を見つけた。先輩だ。先輩がいたのだ。見るだけと言っていたのだが、先輩もやはり欲しくなってしまったのだろうか。知り合いを見つけ安心したあたしは、先輩に声を掛けようと一歩踏み出す。踏み出して、そのまま凍り付いた。
 本当に、心臓が止まるかと思った。バクバクと暴れる心臓が胸を突き破ってしまいそうだった。だって、先輩には連れがいたのだ。それも、あたしもよく知っている姿だった。あたしがよく知っている姿だった。
 先輩の隣には、彼がいた。見間違えるはずがない、彼だった。なぜ、彼と先輩が一緒にいるのか。わからない。でも、一つだけわかった。先輩も、そして彼も、楽しそうだった。その様子があまりにも、楽しそうだったから、あたしは逃げるように店を飛び出していた。

 思い返すと、それは当然の話だったのかもしれない。先輩と彼は、会社の同僚で、あたしよりもずっと付き合いが長い。あたしが初めて彼と出会った合コンに、彼を誘ったのも先輩だった。先輩があたしを合コンに誘ったのだって、元は人数合わせとしてだったはずだ。そうだ、先輩があたしを誘う時に「好きな人がいるから手伝ってほしい」と言われたのだ。そして、その合コンで先輩が誰と話していたのか、そう、彼とだ。先輩は始めから彼が好きだったのだ。
 それだけじゃない。彼は一度もあたしに好きだと言ってくれなかった。それはきっとこういう事だったのだ。彼には他に好きな人がいたのだ。先輩が好きだったのだ。だから、私に好きだとは言わなかった。
 そう考えると、先輩に彼の事を相談した時の様子も説明がつく。先輩があんなに不機嫌だったのは、愛されてもいないあたしが彼に付きまとっていたからだ。そうに違いない。先輩があたしに雑誌を見せたのも、彼とのデートの下調べだったのだ。バカみたいではないか。あたし一人で浮かれていた。結婚式で彼の戸惑う様子が思い浮かぶ。戸惑うわけだ。好きでもない相手から結婚したいと言われているようなものなのだから。バカだ。本当にバカだ。なのに、なんで……
 まだ好きなのだろう。


 突然、隣に座っていた『吉祥天女』が僕にもたれかかってきた。こんな状況でもやっぱり、僕は男で、彼女は女の子、それも女子高生なのだからドキッとして慌ててた。そんな僕にはお構い無しに『吉祥天女』はすーすーと寝息をたてている。起こしてしまうのは可哀相で、僕は高まる鼓動を隠しながら平静に振る舞う。
「……あー、『吉祥』寝ちゃった?」
 『辻堂正義』が眠そうに目を擦りながら言った。「そろそろ点けたほうがいいかな?」と尋ねると『シャーロット』もやはり眠たそうに頷いた。
「話、最後まで保たないかも」
 そう『辻堂正義』が言うと、『シャーロット』は続きを語り始めた。


 彼は先輩が好きで、先輩も彼が好き。あたしが割り込む隙間なんてない。そう思っても、諦めるなんて出来ない。どうしてあたしじゃないんだろう。ずっと一緒にいた。一番近くにいると思っていた。こんなにも愛していた。一番あたしが彼を好きなのだ。あたしが一番彼を愛しているのだ。なのに、どうしてあたしじゃない? あたしが愛されるべきなのに。こんなに愛しているのだから、愛されるべきなのだ。先輩じゃなく、あたしが。
 気持ちがどんどん黒くなっていく。先輩が憎い、先輩がいなければ良かったのに。いなくなってしまえばいいのに……
 自分の考えが怖くなって、私はベッドに飛び込んだ。何も考えたくなくて頭から毛布を被る。それでも思考の暴走は止まらない。先輩が憎くてたまらない。もう嫌だ、誰かあたしを止めてほしい!
「ただいまー」
 そんな時、彼の声が聞こえた。あたしは慌てて飛び起きる。彼に会いたい、抱き締めて貰いたい、彼が本当に好きなのはあたしだと言ってもらいたい。
 帰宅した彼の胸に、私は泣き顔のまま飛び込む。突然どうしたのかと戸惑う彼。その彼から……先輩の匂いがした。気のせいかもしれない、そう思いたかった。でもそれは、先輩の香水に匂いだった。先輩の匂い、先輩の、先輩の……
「ねぇ、今日、どこに、行ってたの?」
「今日? 普通にまっすぐ帰ってきたよ」
 普段なら何気なく聞こえるはずの彼の言葉。でも私は知っている。今日、彼が、どこにいたのか。
「なんで……嘘吐くの?」
「え、嘘って?」
 なんのことだがわからないと言った風に彼は言う。しらをきる。
「今日……見たんだよ?」
 あのお店の場所や名前、時間帯まで指摘され、彼は言葉に詰まる。
「誰と……行ったのかな?」
「……一人でだよ」
 彼はまだ、嘘を吐く。
「どうして? ねぇ、どうして嘘吐くの? 本当のこと……言ってほしいな?」
「……なんでそんなことを」
「誤魔化さないで!」
 あたしは叫んで彼を突き飛ばした。玄関ドアに叩きつけられた彼は、強打した頭を軽く振る。その彼に馬乗りになると、首筋に唇を這わせ、呟く。
「見てたの」
「え?」
「全部見てたの、あなたが……あの女と楽しそうにしてるところも、全部」
 あたしの言葉に、彼は驚き目を見開く。もう隠せないと観念したのか「あ、あれは……」と目を反らした。
「あの女の匂いがする、どこまでしたの? 最後までやっちゃったの?」
「違うんだ、あれは……」
 なにが違うと言うのか。そんな言い訳など聞きたくない。素直に謝って、あたしだけを愛していると言って欲しかった。そうしたら許して上げたのに。言い訳ばかり。そんなに、あの女に毒されてしまったのか。
「かわいそう……」
 彼はまだ言い訳を続けようとしている。すべてあの女のせいだ。あの女が私の彼を穢したのだ。あの女が、あの女が、あの女があの女があの女があの女があの女が!
 彼があの女の名前を口にした。その瞬間、頭の中で何かが弾けた。あんな女の名前なんて言ったら彼が穢れてしまう。あんな女に触れたら彼が穢れてしまう。あんな女に、あんな女に!
「なんとか……しなきゃ……」
 早くしないと彼が穢されてしまう。その前に早く。あの女のバイ菌が彼を穢してしまう。だから今すぐなんとかしなきゃ。
「汚いところ……取り除かなくちゃ……」
 あたしは立ち上がると部屋の奥へ向かった。どうしたらいいかな、洗ってもきっと取れないよ? あいつのバイ菌はしぶといから。そうだよ。だから。あたしはそれに手を伸ばす。
「ちゃんと……取り除かないと……」
「どうしたんだよ、おまえ……ッ!」
 あたしを追ってきた彼。その胸に、包丁の鋭利な刃を突き立てる。全部、あいつに犯された場所、全部取り除く。

「ね、綺麗になったよ」
 満面の笑顔で、あたしは笑い掛ける。少しばかり小さくなった彼は応えない。
 あたしが彼を抱き上げた、その時、破れたスーツから、それが落ちた。真っ赤な小さい袋、彼の血で真っ赤になった袋、手のひらサイズの小さな包み、綺麗にリボンで塗装された小さな包み。開く。それは、見覚えのあるシルバーアクセサリーだった。そう、それは……
「あたしが欲しかった奴」
 あの日、先輩と二人で雑誌と睨めっこしながら言った言葉。「これ可愛い、良いなぁ」「こういうのが欲しいのかい?」先輩は何故かニヤニヤと笑っていた。
「嘘だ……」
 今になって、先輩が何故笑っていたのかわかった。今更になって気付いた。

「プレゼントに悩んでしまって……」
 きっとそんな事を言って相談を持ちかけたんだ。
「うまい具合に聞き出して見るよ」
 先輩は二つ返事で応えたに違いない。そして、普段は買わないジュエリー雑誌を持って、私を誘った。
「結婚式だったんだろ、なんだか羨ましくなってね」
 その言葉の裏には、次はあたし達が結婚式を挙げる番だとだろと言う意味があったのだ。その証拠に先輩は言った。
「なるようになるんじゃないのかい?」
 だって先輩は知っていたのだ。彼がこのプレゼントと共に、気持ちを伝えてくれると。わかっていたから、なるようになると言ったのだ。いや、なるようにしかならないと言いたかったのだ。それなのに、あたしは、あたしは、変な癇癪で……彼を……彼を……

 殺してしまった。


「もう一度……もう一度だけ……彼に……会い……た……」
 すべてを話し終えると『シャーロット』も静かに寝息をたて始めた。『辻堂正義』も既に眠ってしまった後だ。『吉祥天女』は先程から僕の肩を枕にして眠っている。皆、睡眠薬が良く効いているようだった。僕だけ、彼女の話を聞いていた為か、薬の効きが悪かったようだ。
 少し息苦しい気がする。それに気持ちも悪い。吐き気もする。一酸化炭素中毒の症状だろうか。
 そう、これは自殺旅行なのだ。とある自殺サイトで知り合った僕たちは、こうして集まり、事に及んだ。みんな、世界に絶望して、生きる事を諦めた。世界は理想通りになんていかないから、僕たちは集まったのだ。
 もう聴き手はいない。みんな眠ってしまった。そしてこのまま目を覚まさないのだろう。永遠に。だけど、僕は口を開く。僕の願いは……一つだけの願いは……。

 だけど、そんなものは思い浮かばなかった。みんな、みんな本当に苦しんでいたのだ。それに比べて僕はなんだろう。家族はみんな仲もいい。夢はまだわからないけど、きっと叶うと信じてる。好きとか、少し自信はないけれど、幼なじみとの仲も良好だ。それは、きっと幸せだったんだ。
 だけど、何故か虚しかった。平凡に生きて、平凡に死ぬ。それが虚しくて、生きる意味なんてないように思えて、だから、生きる事を辞めようとした。
 幸せだったから、幸せだってわからなかったんだ。死にたくない。もし、願いが叶うなら……
「生きたい」
 口に出すと、それは強い意思になった。『吉祥天女』をそっと座席に寄り掛からせると、生きるために僕は車の外に出た。
 車の外は地獄だった。
 忘れていた、ここは真冬の雪山だ。極寒の雪山なのだ。歩いて降りる? 無理だ、出来るわけがない。だが車には充満した一酸化炭素。車には入れない。
 どっちにしてもこのままでは死んでしまう。僕は駆け出した。方向もわからないけど、生きたくて駆け出した。
 まだ死にたくない。僕は死にたくない。朝、母親に起こされる。文句を言いながら弟と朝食を食べる。幼なじみと一緒に学校へ行き、授業は退屈だけど真面目に受ける。平凡だけど、幸せな一日に、僕は帰りたい。
 もう一度だけ、せめてもう一度だけ、この幸せな日々を手にしたかった。

 だけど、それは叶わない。今更になって効いてきた睡眠薬と、寒さが、僕の身体の自由を奪っていく。こんな雪山で眠ってしまったら、絶対に助からない。なんとか踏張った足が折れ、雪の中に倒れこむ。そのまま、僕は眠りに着いた。
 二度と覚めない眠りに。



 僕達は願う。

 もし、一つだけ、願いが叶うなら。

 僕達は幸せにはなれなかったから。

 だから、もしも、もう一度、生まれ変わってきたならば。

 その時こそは。

 僕達が。

 あたし達が。

 俺達が。

 私達が。

 どうか、幸せになれますように。



END
 
NiconicoPHP