> ダカラ・モシモ・モウイチド 作:一葉
ダカラ・モシモ・モウイチド 作:一葉
「もしもの話って嫌い?」
 なぜか僕はそう尋ねていた。なぜそんな事を尋ねたのか、少し後悔した。さっきから沈黙が続いていて聞こえるのは車のエンジン音だけ。居心地が悪かったのは事実だ。だけど、よりによってそんな事を聞く必要は無かったじゃないか。
 「今の無し」と言おうとしたが、その前に運転席に座っていた『シャーロット』が「あたしは嫌いじゃないよ」と答えた。助手席の『辻堂正義』が嫌そうに顔をしかめたが『シャーロット』は気にも留めない。
「だって夢があるじゃない」
 『シャーロット』はたぶん、ここにはない何かを見ていたんだと思う。それは僕にはわからないものだし、きっと知らなくて良いことなんだ。
「もしもがハッピーエンドだなんて限らない」
 僕の隣に座っていた『吉祥天女』が呟いた。「『ゼロ』だってわかってるでしょ」と。『ゼロ』とは僕の事だ。僕が使っているハンドルネームで、『シャーロット』も、『辻堂正義』も、『吉祥天女』も、当然だけどみんな本名じゃない。三人の本当の名前は知らないし、三人も僕の本名は知らない。ネットの中で知り合い、ネットの中で仲良くなった、友達と呼ぶには遠い関係。今日の集まりはとあるサイトで出会った人達の集まりなのだ。
「『吉祥さん』ってば夢がないねー」
 『シャーロット』は車を路肩に止めると座席越しに振り向いた。「もしもの話なんだから、好き勝手にハッピーにしちゃえばいいのよ」彼女はケラケラと気分良く笑う。
「現実は理想通りになんてならないんだから」
「『シャロ』」
 『辻堂正義』が彼女の発言を咎める。彼の叱責を受け、いつもはノー天気に振る舞っていた彼女も、さすがに失言だったと気付いた。「ごめん」と小さく呟き、彼女は前を向く。

 車は再発進したが、車内の空気は先程よりも重苦しいものになっている。つまり、これはそういう旅行なのだ。現実は理想通りにはならない。だから、僕達はここにいるのだ。
「……もし」
 沈黙を破る声に僕はそちらに目をやった。
「もしも何か願いが叶うなら、なにしたい?」
 『吉祥天女』がそう言った。正直意外だった。画面越しに付き合ってきた『吉祥天女』は、常に現実を見ていた。いや、僕達は誰も現実なんて見ていない、現実から目を背け、夢を見ていた。それでも『吉祥天女』だけは、夢も見ていなかった。だから、そんな彼女からもしもとか、願いとか、そんな言葉が出てきた事に本当に驚いた。
「……なんだろう」
「願いねぇ」
 僕と『辻堂正義』が答えに迷っていたからか、そのまま彼女が続ける。
「私ね、夢があったんだ」
 自嘲気味にだけど、その時になって初めて僕は『吉祥天女』の笑った顔を見た。「笑っていいから」と前置きして、彼女は語り始めた。

『吉祥天女』の場合……

 もし、一つだけ願いが叶うなら、会ってみたい人がいる。その人の名前は知らない。顔も、どんな人なのかも。それでも、一度で良いから会ってみたい。

 小学校の頃、国語の授業で作文を書く事になった。私はそれを白紙で提出して、先生にこっぴどく叱られた。一人立たせられ、クラスメイトが見ている中、やる気があるのか、とか、テンプレートな文句を並べられた。その先生は生徒達から鬼達磨――由来は鬼のような形相に達磨のように丸々と肥えた腹――と呼ばれ恐れられる人物だったから、クラスメイト達は黙ってそれを見ているだけだった。作文のテーマは両親。父親を尊敬しています、母親は優しいです、そんなありきたりな作文を書かせ、三日後の授業参観で読ませようと言うのだろう。クラスメイトは同情の視線を向けている。それが鬼達磨の仕打ちに対する同情なのか、私の境遇に対する同情なのかはわからなかった。
 これがその日最後の授業だったから、説教は授業時間が終わっても続いた。約二十分。クラスメイト達は沈黙したまま俯いて、机と睨めっこするように耐えている。下手に口を出して、鬼達磨の攻撃目標にされてはたまったものではない。三十分が過ぎようとした時点で、私に対する同情は消え失せ、敵害心が教室に溢れていく。巻き添えを食らって帰れないのは悪いと思うが、やっぱり私は悪くない。恨むのなら鬼達磨を恨んでほしい。
 それでももう十分も経つと、一人の勇気あるクラスメイトが手を挙げて進言する。「部活に遅れるので帰っても良いですか?」と。確かバスケ部の男子だったと思う。その日はバスケ部は休みのはずだ。逃げたな、そう思った。
 勇気ある一言のおかげで説教は中断し、授業も終了する。私もさっさと逃げてしまおうかと思ったが、その前に鬼達磨に捕まった。
「おまえは作文をでかすまで帰るな」
 渋々と席に着く私に、何人かのクラスメイトが視線を送る。目が口ほどに語っていた。曰く「ざまあみろ」だ。まだ数人のクラスメイトは同情の視線を向けていたが、圧倒的に侮蔑の感情で眺める人の方が多い。
 私は何も悪い事はしていない。わからないものを素直にわからないと答えただけだ。無知が悪い事であるとしたら、やはり悪いのは鬼達磨だ。
 私は鬼達磨に見張られ、ずっと作文を書いていた。書いていたと言うのはおかしい。原稿用紙はまだ白紙なのだから、作文と睨めっこしていたくらいが正しいだろう。
「なんでこんなことも出来ないんだ」
 何度も罵倒された。「先生はおまえと違って暇じゃない」「親の顔が見てみたい」私こそ鬼達磨と違って暇ではないし、親の顔も見せてやりたいくらいだ。
 結局、鬼達磨が並べた言葉を書き写し、作文は一応の完成を見せた。時刻は既に六時を回っている。解放されはしたが、目的のそれには間に合わないだろう。もう諦めるしかない。

 それを諦めた私は、商店街へ向かっていた。最近はあまり足を運ぶ事は無かった場所。昔は良く来ていた場所。
「おやまぁ、久し振りねぇ」
 八百屋のおばちゃんも魚屋のおじちゃんも快く迎えてくれる。それが少し心苦しく感じられた。
「おはなさんが亡くなってからあんまり来なくなったものねぇ」
 私は曖昧に返事をしてその話題を流そうとする。おはなさんとは私の祖母の事だ。名前は喜代子と言う。若い頃は華道の先生をしていたらしく、その名残で今でもおはなさんと呼ばれているらしい。父が生まれた際に引退し、華道の世界から身を退いたと聞いているのだが、華道自体は趣味として続け、私も祖母が花を活けている姿は何度も目にしていた。私はおばあちゃんっ子だったから、祖母が亡くなった時は悲しかったし、今でも思い出すのは辛い。だから、祖母との思い出が残るこの商店街を避けていたのだ。普段はスーパーのタイムセールに間に合わせるのだが、今日は時間を無駄にしてしまったから、もう仕方がない。
「オマケしておくね」
 八百屋のおばちゃんも魚屋のおじちゃんもそう言って多めに持たせてくれるものだから、ずいぶんと大荷物になってしまった。ありがたいのだろうけど、申し訳ない。おばちゃん達が良くしてくれるのは、私が祖母の、皆に慕われていたおはなさんの孫だからで、私自身は何もしていないのだ。その事を一度話したら、おばちゃんは「大きくなったらその分お返しして貰う」と冗談めかせて笑っていた。やっぱり納得いかない、申し訳ない思うのだけれど、その好意は受け取った。大人になったら、何倍も恩返しをしよう。おばちゃん達はそんな事考えていないし、期待もしていないかもしれないけれど、子供の私はそう誓った。

 誰もいない家に帰り、一人で夕飯の支度をする。祖母が死んでからは当たり前だった日常。一人きりの夕飯にはもう慣れてしまっていた。
「……お祖母ちゃんの味には出来ないなぁ」
 私の作れる料理はすべて祖母から教わったものだ。作り方もすべて祖母直伝のはずなのだが、祖母が作ってくれたあの味には程遠い。祖母の料理はもっと美味しかった。なんだか幸せになる味なのだ。なにが足りないのかと少し考えて見たが、わからなかった。少し考えてわかるくらいなら、とっくの昔に気付いている。だからこれは私一人ではわからない問題なのだろう。かと言って、その答えを知っているはずの祖母はもういない。もしかしたら、もう二度とわからないのかも知れないと、心のどこかで諦めていたのだと思う。

 翌日、当然ではあるが授業参観は行われた。去年の、一年生の一番最初の授業参観には祖母が来てくれた。だけど、次の参観日には腰を悪くしてしまい来れなかった。その次の時はもう、祖母は亡くなった後だった。初めての授業参観以来、私を見に来る保護者はいない。
 今年から担任になった鬼達磨にはそれはわからないであろう。わからないからといって、それを許せるかと言えば別だ。
 私は酷く傷付けられた。

「そんな事、小学生の、しかも低学年が考える事じゃないけれど……」
 『吉祥天女』はそこまで話すと、自嘲気味に笑った。
「当時は仕返し……のつもりだったのかな、あれはもう報復だった。私を傷付けた。一番嫌な所までズケズケと土足で踏み込んだ……踏み荒らした。それを私は許せなかったから……」
 僕には彼女の気持ちはわからなかった。家に帰れば母親が迎えてくれる。夜になれば父親も帰ってくる。弟だっているし、祖父母も健在だ。そんな僕に、彼女の気持ちなどわかるはずはないのだ。
「今思い出すと遣り過ぎだったのかもしれない、でも、その時の私にはそれしか出来なかった、それが、たぶん私に出来た精一杯の反抗……ううん、自己主張だった」

 順番に作文を発表していく。座席順に発表していたから、私の番はだいたい真ん中くらいだった。授業参観は三時間目から四時間目に掛けて行われる。早く進めば三時間目に私の番まで回ってくるかも知れないし、前の人が長引けば四時間目になるかもしれない。
 私がやるべき事を頭の中で何度もシミュレーションする。起きるべき事、それに対する対応。所詮小学生の稚拙な計画だったのかも知れないのだが、私にはそれが、映画の大怪盗の華麗な大犯罪と同じくらい緻密で完璧な作戦に思えた。
 やがて、三時間目の授業が残り数分を切った頃だった。私の番がやってきた。名前を呼ばれ「はい」と元気良く答えた。
「私の両親は……」
 そんなテンプレートな出だしから始まり、自分の両親がどれだけ素晴らしいか説く。母親は料理上手で美味しい手料理を作ってくれる。父親は仕事で疲れていても、自分の話を聞いてくれるし、休みの日には遊びに連れてってくれる。素晴らしい両親だ。きっとそんな両親はドラマかアニメの中にしか存在しない。理想だけで塗り固められた両親像。すべて鬼達磨に書かされたものだ。
 ここまではすべて鬼達磨のシナリオ。だけど、ここからは私のシナリオだ。鬼達磨に一泡吹かせる、私の反撃。
「そんな両親が本当にいたら、幸せだと思います」
 自分のシナリオになかったセリフに、鬼達磨が驚いていた。
「うちにはそんな両親はいません、全部鬼達磨に無理矢理書かせられました」
 クラスメイトはもちろん、父兄達からもどよめきが上がる。鬼達磨が止めようとしたけど、そんな物は無視する。
「鬼達磨とは、担任の永岡先生の事で、鬼のように厳しくて、達磨のように太っているから、みんな鬼達磨と呼びます」
 鬼達磨が怒声を上げた。でも私はそれを無視する。父兄達も抗議の声を上げる。だけど私はそれも無視した。無視して、作文を読み上げる。主張を声にする。
「実際には、料理を作ってくれる母親なんていません。私が生まれてすぐに『リコン』してしまいました。だから、お母さんの顔はわかりません。写真を見たこともありません。だから去年までは祖母がご飯を作ってくれていました。大好きなお祖母ちゃんです。でもお祖母ちゃんは去年死んでしまいました。だから、今はいつも自分でご飯を作っています」
 父兄達の喧騒の中、鬼達磨が絶句する。初めて知った、そんな顔だった。
「お父さんは仕事が忙しくて、いつも帰ってきません。色んなところにお仕事で出掛けていて、帰ってくるのは十日に一回くらいです。その時も疲れていて、すぐに眠ってしまいます。お父さんとちゃんと話したのはお祖母ちゃんが死んだ時が最後です。遊びに連れてってもらった事なんてありません。だけど我慢します。お父さんはお仕事を頑張ってます。寂しいけど我慢です」
 両親なんて、何も記憶に残っていない。そんな私がどうして両親についての作文を書けようか。
「鬼達磨に無理矢理書かせられた両親像も羨ましいと思います。でも、私のお父さんも、お母さんも一人だけです。そんな両親はいらないと思いました」

 チャイムと同時に鬼達磨は逃げ出して行った。何人かの父兄はそれを追って教室を出ていった。きっと職員室へ向かったのだ。職員室で大声で抗議するのだろう。そうなったら、鬼達磨はどうなるのだろうか。クビになってしまえばいい。あんな奴、いなくなってしまえばいいのだ。それが愉快に思えて、私は笑っていた。笑いながら、涙が出てきた。
 そのまま、四時間目は鬼達磨は戻って来なかった。勝手に発表会を続行し、授業を終える。
 翌日、鬼達磨は辞職した。ざまあみろと思った。

 さらにその翌日、鬼達磨は死んだ。

 事故、だと言っていた。誰も信じなかった。当然だ。車に撥ねられて死んだ。車道に飛び込んだのだ。きっと、自分で。その原因を作ったのは……きっと私なのだ。

 私が……殺した。


「その後は、ずっと虐められてた、あいつに関わると殺される、中学になっても、高校生になった今でも言われる、そんな時、お母さんがいたら、どうだったんだろうって……たまに考える」
 『吉祥天女』に母親がいたら、彼女は違う人生を歩めたのだろう。相変わらず父親は忙しいのかも知れない。でも、祖母と、母に囲まれすくすくと育つ。祖母が亡くなった時も、母が優しく抱き締めてくれたはずに違いない。そして、作文にはこんなことが書いてあるのだ。
『料理が下手で、すぐに鍋を焦がしちゃうから私が手伝ってあげます、そして私のことを誉めてくれます。そんなお母さんが大好きです』
 きっと、そんな幸せな世界があったに違いない。
「もし、もしも、一つだけ、願いが叶うなら……一回だけ、一回だけで良いから、お母さんに会ってみたいな」
 それが『吉祥天女』の願い。


「……そう……だな」
 『吉祥天女』の話が終わり、一番最初に口を開いたのは『辻堂正義』だった。彼にも願いがあるのだろうか。何時のことか忘れてしまったが「現実に夢なんてない、だから仮想に夢を求める」と口にしていたのを思い出した。現実に叶えたい夢があったのだ、彼には。でもそれは叶わなかった。きっとそうだ。

『辻堂正義』の場合……

 父親が野球好きであった。だから、俺は小さい頃から野球に触れる機会が多かった。小学校で野球部に入ったのも当然の流れだったし、中学でも続けた。高校でも野球部だった。
 その日は良く晴れた日だった。炎天下のうだる暑さの中、俺はピッチャーマウンドに立っていた。驚くかも知れないが、俺は高校時代エースピッチャーだったのだ。九回表ツーアウト一三塁、現在一点リード、ここを抑えれば俺達の勝利、そして甲子園出場が決定する。
「リラックスしていけー」
「勝てるよ勝てるよー」
 ベンチから聞こえてくる声援が、重いプレッシャーになっていた。中学からずっとバッテリーを組んでいる相棒がサインを出す。ストレート、低め。見送りのストライク。次もストレートの指示。ストライクゾーンギリギリに投げた速球に、バッターはわずかに反応したがバットを振らなかった。判定はボール。良く見ている。誰がが「取られてもすぐ取り返すから安心していけー」と不適切な声援を飛ばした……いや、声援なのかすら怪しい。確かにここで失点してまだ九回裏がある。だがそんな甘えは認められない。九回表、ここで勝負を着ける。
 サインはスライダー、俺の決め球の一つだ。と言っても俺が投げられる変化球など二種類しかないのだが。だからこそ、予選をエースとして勝ち抜いてきた俺の強力な武器とも言える。速球と比べても見劣りしない球速、いわゆる高速スライダーという奴だ。打てるものなら打ってみろ。一球入魂、残り二球で必ず決めると気合いを込め、渾身のスライダーを投げる。
「フッ!」
 鋭く呼気を吐き出し、バットを振る。ジャストミートの小気味良い打球音ではない。だが打球は弧を描きレフト線へ飛んでいく。必死に飛び付いた三塁手のブローブは、わずかに届かない。
「ファウルボール!」
 ボールが落ちたのは、ほんのわずかにファウルラインの外だった。俺はホッと胸を撫で下ろす想いだった。
 相棒の出したサインに首を振る。過程はどうあれ、結果を見ればツーストライク。次の一球が勝敗を分ける事になるのは間違いない。最後の一球、俺の切り札で勝負したかった。相棒もそれを理解し汲んでくれる。全力で投げる一球、俺の切り札……
「出ました、落ちるスライダー!」
 速球と変わらぬ速度から急激に変化するのは高速スライダーと同じ。違うのは変化の方向。本来横方向に滑るスライダーだが、バックスピンではなくジャイロ回転を加える事で、その軌道は横ではなく、縦に変化するのだ。
 だが、バッターもそれを読んでいた。この大会、幾度となくこの球を投げてきた。もはや二種のスライダーは今大会において俺の代名詞となっていたし、大会の特番でも取り扱われている。警戒されているのは当然だ。それでも、たとえ読まれたとしても、打てないから決め球なのだ。ジャイロ回転が生み出す不規則な変化は、時には左右のブレを生み、時にボールの落差を変える。そしてこの時は、バッターの予想を遥かに上回る落差を生み出していた。振り抜いたバットのさらに下、ストライクゾーンギリギリを貫く。
「ストライッ! バッターアウトッ!」
 その瞬間、運命が決まった。その宣言は、決着の合図。この激戦、制したのは俺達で、甲子園への切符を掴んだのも俺達なのだ。
「っいよっしゃぁー!」  俺の咆哮が球場に響いた瞬間、大歓声があがった。
「やったな相棒!」
「おうさ!」
 俺は相棒……正義と抱き合い、そのままベンチから飛び出してきたチームメイトにもみくちゃにされる。ワイワイと騒ぐ俺達が、たぶん一番輝いていた瞬間だった。


「マサヨシな、正義って書いて加々美正義」
「え、『正義』って『セイギ』って読むんじゃなかったんですか?」
 今までずっと『辻堂正義』を『セイギ』だと思っていた。なんとも失礼な話だが、どうやらそう読んでいたのは僕だけじゃなかったようで、『シャーロット』も『吉祥天女』も頷いてみせる。
「ん、あぁ、それで良いんだよ、マサヨシから取ってるのは確かだけど、俺はあいつじゃないから」
 そう言った『辻堂正義』の表情はやはり暗い。「つーかなんだ、おまえらさっきから『セイギ』『セイギ』読んどいて今更だぞ」と無理をして笑う。無理をしてると思った。『辻堂正義』と加々美正義、そこにどんな意味があるのかわからなかったけれど、きっと大切な意味があるのだと思った。だから、素直に彼の話を聞いた。


 俺達の甲子園出場は大きな話題になっていた。俺が通う高校では、甲子園出場など初めての快挙だったのだ。甲子園出場常連校を破っての出場だ。
 その日、俺達は遠征の為の買い物に出掛けていた。なんとか頑張って長い遠征にしたいものだと、その意気込みが必要な物を増やして行き、ついつい大荷物になってしまう。これで初戦敗退すぐに帰ってくる事になったら洒落にならん。やはりなんとか決勝まで残る、いや、優勝旗を持ち帰りたいものだ。
「せっかくこっちまで来たんだから少し遊んで行こうぜ、マサ」
「おー、いいねぇ、じゃあゲーセン寄ってかね? バーサスの新作入ったんだけどおまえもうやった?」
「マジ? もう入ったんだ、行こうぜ」
 あの日、勝利を決めた瞬間が、運命が決まった瞬間とだと思っていた。だけど、違った。この日の、何気ないこの選択が、運命を決めたのだ。

「せっかくだから俺はこっちの赤いのを使うぜ」
「出たな、速度が三倍」
  俺達はしばらく店内を巡り、ほどよく散財するとそろそろ切り上げて帰る事にした。「ちょっとトイレ」俺は正義に告げると、一人でトイレへ向かう。扉を開けると、そこにいた先客が一斉に俺を睨んだ。
「へ?」
 ゲームセンターの小さなトイレには不釣り合いな人数で、連れションと言うには些か大所帯ではないだろうか。その中の一人がいきなり俺の襟首を掴み上げた。
「間の悪い奴がいたもんだぜ」
 そいつはそのまま、俺の身体を強く引くと個室の一つに叩きつけた。そこにも先客がいる。下半身を露出した状態で両腕を縛られた大人しそうな少年は、脅えた表情をこちらへ向けていた。突然の出来事ではあったが、ここまで来ればさすがに俺でも理解出来る。恐喝とか、喝上げとか、そう言ったものだ。こういうのは普通入り口に見張りとかいて、誰も入って来ないようにしておくものじゃないのか? そんな事を考えてしまった俺は、やはりパニックに陥っていたのだろう、トイレに行ったら恐喝現場でしたなどとそう簡単に巡り合う状況でもない。
「どういう状況か、わかるよなぁ?」
 床に押さえ付けられたまま、さらに耳元で囁かれる。「わかってるなら自分がどうするべきかもわかるよな」と。つまり誰にも言わずに黙って金を出せ、と。それで済むのなら済ませてもらいたい。こちらは甲子園を控えた身なのだから、こんな事でケガなどして欠場など勘弁して欲しいし、暴力ざたで出場停止などもっての他だ。不良達の一人が俺を引き起こし、財布ごと掴み取ると、今度は思い切り突き飛ばされた。
「なんだ、あんまはいってねぇのな」
 財布をそのまま投げ捨てると、再び俺の手を掴み上げる。
「さて、ちくられても困るからな、適当にボコッておくか」
「待った、それはダメだ」
 思わず叫んだ。俺は甲子園に行くんだ。ケガなんてしてたまるか。
「あれ、こいつ、あれじゃね? 野球の」
 唐突に隅で見ていた不良が口にした。甲子園特番のインタビューを受けたのはつい先日の事である。
「ほう、そうなのか」
 風向きが変わったと思った。選手がケガをしたら大変だとか、当然わかってくれると。
「ちょうど良いじゃねぇか」
 不良の一人がそう言うと、思い切り俺の頬を殴り付けた。壁に叩きつけられた俺の胸を踏みつけ、唾を吐き掛ける。
「知ってるか、うちの高校な、決勝でてめーに負けてんだよ」
 グリグリと踏み付ける靴に、俺は表情を歪ませる。そんなのは逆恨みだ。試合で負けたのは仕方がないではないか。不良に顔を蹴り突けられ、俺は地面にうつ伏せに倒れた。さらに俺の右手を力一杯踏み付ける。何度も、何度も、何度も。

「何やってんだよ!」
 中々戻って来ない俺の様子を見に来た正義が大きな声を上げる。「なんだなんだ?」「何かあったのか?」正義の声に人が集まって来たのか、トイレの外から騒めきが聞こえてくる。
「ちっ、ずらかれ!」
 先頭の不良が思い切り正義を突き飛ばし、トイレから走り去って行く。さらに他の不良達が逃げていくと、トイレの外にいた野次馬が数人入れ代わりに入ってきた。
「……っ、くそぉ」
 何度も蹴り付けられ、踏み付けられた右手は、もはや感覚がない。これではボールを投げるどころか、ボールを掴む事すら出来ない。甲子園出場など絶望的だ。運命は、俺の夢を奪った。甲子園で優勝する、子供の頃からの夢を奪ったのだ。悔しくて、苦しくて、涙が溢れた。だけど、それは違ったんだ。運命が奪ったのは、俺の夢だけじゃなかったんだ。
「おい、大丈夫か!?」
 声が聞こえてきたのはトイレの外からだった。その時気付いた。正義がいないのだ。正義ならいの一番に俺を気遣うはずだった。あいつの性格は俺が良く知っている。上がらない腕を抱えるように立ち上がり、外を目指す。見たくない、そんな事はないと否定したい。
 だが、そこには予感した通りの光景が広がっていた。
「……正義?」
 俺が読んでも返事はない。不良に突き飛ばされた正義は、強か頭を壁に打ち付けてしまったのだ。何度も呼ぶ、何度も、何度も。だけど、返事は無かった、正義は答えなかった。
「救急車! 救急車ーっ!」
 誰かが叫ぶ中、俺は腕の痛みも忘れて立ち尽くしていた。奪われたのは、夢だけじゃなかった。運命は、未来も、奪った。

 この日、加々美正義は死んだ。


「当然甲子園には出られなくて、チームも一回戦敗退、それでもな、あいつの為にも、野球は続けようとは思ったんだ。続けようと思ったんだよ……」
 でも、と『辻堂正義』は続ける。
「二度とボールを投げるのは無理だって、二度とマウンドには立てないって……夢も、希望も、未来も、全部奪われた」
 知らなかった、知ってるはずがない、まさか『辻堂正義』にそんな過去があったなんて。そりゃあ、こんなサイトにいる人間なんだから、幸せな人生なんて送っていない。だけど、二人の過去は、『吉祥天女』も『辻堂正義』も、僕が想像していたよりも、ずっと辛い過去を背負っていたのだ。
「もし、一つだけ願いが叶うなら、もう一度だけでも良い、あいつと、もう一度、あのマウンドに立ちたい」
 夢を奪われる、それはどんな気持ちなんだろうか。俺にはわからない。夢なんて曖昧で、俺にはよくわからなかったから。


「じゃあ次はあたしかな」
 いつの間にか車を停車させ『シャーロット』が言った。「着いたのか?」と尋ねると『シャーロット』はブイサインで応じる。外は吹雪いているせいで外の様子はよくわからなかった。
「そうだ、そろそろ用意しとけよ」
 『辻堂正義』が言って、それを手渡す。「サンキュー」「ありがとう」各々それを受け取る。「はい、お茶」『吉祥天女』からお茶のペットボトルを受け取るとそれを口にした。ふと、これは今彼女が口を付けたものじゃないのかと思って慌てたが、『吉祥天女』はまったく気にした様子は無かったので、僕も意識しない事にする。
「でー、そろそろあたしの話始めてもいい?」
 『シャーロット』は自分に注目するように言うと、話を始めた。

 『シャーロット』の場合


 幸せの絶頂と言うものがあるとしたら、きっと自分はそこにいる。
 仕事はもうすぐ辞めるつもり、寿退社と言うものだ。そう、私はもうすぐ結婚するのだ。
 相手は大学時代に合コンで知り合った営業マン。顔良性格良、貯金もわりと溜め込んでいる有料物件、とまぁ、こんな第一印象だったんだけど、どうやら惚れられたらしくて向こうから交際を申し込まれた。正直に言うと、あまり趣味ではなかった。なんでも一人でこなしてしまうような優等生過ぎるイメージがあって、あたしには少し堅苦しそうに思えた。
 だけど、実際に付き合ってみると、彼が第一印象通りの男性ではないとわかった。なんでも一人でこなしてしまいそうどころか、間の抜けた人で目を離すのが少し不安なくらいだった。全然しっかりしてないし、家事とか壊滅的だし、気付いたらあたしが押し掛け女房よろしく面倒を見る形になっていた。そして大学を卒業した頃から彼の家に居着くようになり、いつの間にか完全に同居していた。
 もっとこう、俺様的なのが好みだと思っていたんだけど、と思うけど、今の生活もまんざらではなくて、むしろ気に入っている。悪くない。これ以上何かを望んだりなんてしたら、バチが当たってしまいそうで怖い。

 そんな生活に変化が起きたのは先日、あたしの友達の結婚式に出席した時からだった。綺麗なウェディングドレスを羨ましいと言った。そしたら彼は「やっぱりああいうのって憧れる?」なんて少し戸惑った様子で聞いてきた。当然だ。あたしだって女の子だ。二十代も半ば過ぎた女性が自分を女の子とか他人が聞けば歳を考えろと言われそうだが、彼はそんなことを気にする人ではない。彼は「そうだよなぁ」と頷くと、一人で考え込んでしまった。
 彼の事は好きだ。普段も良くしてくれる。でも一つだけ、不満があるとしたら、違う、不安があるとしたら、彼が一度もあたしの事をどう思ってるかを聞いたことが無いことだ。嫌われてはいないと思う。じゃないと同居なんて出来ない。だけど、一度も一言も、好きとか、愛してるとか、言ってもらった事がないと、やはり不安になるのだ。

「って感じなんだけどどうかな?」
 それを先輩に相談すると、先輩は少しうんざりした様子で笑った。
「あいつはそういう事を言えるタイプじゃないからねぇ」
 大学の先輩だった女性で、彼の同僚、つまり、あたしと彼を引き合わせてくれた人だ。だから、彼との付き合いはあたしより長いし、一緒に住んでるあたしが知らないような秘密まで知っていたりする。主に恥ずかしい方向の。
「でもでも、もう付き合って四年目だし、同居し始めて二年目なんだから、本当に好きなら好きの一言くらいあってもいいじゃない」
「ま、そーだねぇ」
「先輩なんかやる気ない」
 適当に流すように答えた先輩に私は口を尖らせる。こちらは真剣に悩んでいるのだからもう少し真面目に付き合って欲しい。
「そりゃあ同じ事何回も聞かされてるしねぇ、惚気られる身にもなってほしいよ」
 カラカラと空になったグラスの氷をかき回しながら言う。「うー」と頬を膨らませ訴えるたが「はいはい」とあっさり受け流される。
「だったらいっそ自分から仕掛けたらどうだい?」
「無理、絶対無理」
 あたしはテーブルに突っ伏して否定する。そんな恐ろしい事が出来るはずがない。せめて彼が一言好きだと言ってくれたならともかく、と、それでは自分から仕掛けたことにはならないか。
「なるようになるんじゃないのかい?」
 確かにそうかもしれないけど、それが進展しないから助けを求めてるのに……
「とりあえず頑張ってみる」
「おー、がんばれがんばれ」
 応えた先輩は、やっぱりやる気がなかった。そんなことより、と先輩が一冊の雑誌を開く。
「結婚式だったんだろ、なんだか羨ましくなってね」
 先輩が取り出したのはジュエリー雑誌だった。そんな珍しい物を持っていたものだから「買うの」の尋ねたら「見るだけ」と笑っていた。
「見るだけならただじゃないか、実際には確かに高くてそう簡単に帰るものじゃないけど、これくらいなら良いだろ?」
 そこで彼の話は打ち切って、あたしたちは雑誌を眺めながら空想の中でオシャレに浸るのだった。

 それからまた数日後の事だった。彼とのデートを翌日に控えたあたしは、買い物に出ていた。少しくらいオシャレして、可愛くなったら、彼も好きだとか言ってくれるのではないかと思ったのだ。
 そう言えばこの前、先輩と見た雑誌に載っていた店がこの辺りにあったはずだ。少し高かったけれど、気に入ったシルバーアクセサリーがあったのだ。似たようなデザインで安いものがあれば嬉しい、少し探して見ようと思って、その店へ向かった。
 場所は知らなかったけれど、店はすぐに見つかった。雑誌の写真と同じだったから間違いない。少しコジャレたお店で、あたしには場違いかもしれない。でも、せっかく来たのだから、少しだけでも見ていこう、見るだけならただなのだから、そう思ってあたしはお店に入った。
 少し落ち着かない気分で、あたしはその人を見つけた。先輩だ。先輩がいたのだ。見るだけと言っていたのだが、先輩もやはり欲しくなってしまったのだろうか。知り合いを見つけ安心したあたしは、先輩に声を掛けようと一歩踏み出す。踏み出して、そのまま凍り付いた。
 本当に、心臓が止まるかと思った。バクバクと暴れる心臓が胸を突き破ってしまいそうだった。だって、先輩には連れがいたのだ。それも、あたしもよく知っている姿だった。あたしがよく知っている姿だった。
 先輩の隣には、彼がいた。見間違えるはずがない、彼だった。なぜ、彼と先輩が一緒にいるのか。わからない。でも、一つだけわかった。先輩も、そして彼も、楽しそうだった。その様子があまりにも、楽しそうだったから、あたしは逃げるように店を飛び出していた。

 思い返すと、それは当然の話だったのかもしれない。先輩と彼は、会社の同僚で、あたしよりもずっと付き合いが長い。あたしが初めて彼と出会った合コンに、彼を誘ったのも先輩だった。先輩があたしを合コンに誘ったのだって、元は人数合わせとしてだったはずだ。そうだ、先輩があたしを誘う時に「好きな人がいるから手伝ってほしい」と言われたのだ。そして、その合コンで先輩が誰と話していたのか、そう、彼とだ。先輩は始めから彼が好きだったのだ。
 それだけじゃない。彼は一度もあたしに好きだと言ってくれなかった。それはきっとこういう事だったのだ。彼には他に好きな人がいたのだ。先輩が好きだったのだ。だから、私に好きだとは言わなかった。
 そう考えると、先輩に彼の事を相談した時の様子も説明がつく。先輩があんなに不機嫌だったのは、愛されてもいないあたしが彼に付きまとっていたからだ。そうに違いない。先輩があたしに雑誌を見せたのも、彼とのデートの下調べだったのだ。バカみたいではないか。あたし一人で浮かれていた。結婚式で彼の戸惑う様子が思い浮かぶ。戸惑うわけだ。好きでもない相手から結婚したいと言われているようなものなのだから。バカだ。本当にバカだ。なのに、なんで……
 まだ好きなのだろう。


 突然、隣に座っていた『吉祥天女』が僕にもたれかかってきた。こんな状況でもやっぱり、僕は男で、彼女は女の子、それも女子高生なのだからドキッとして慌ててた。そんな僕にはお構い無しに『吉祥天女』はすーすーと寝息をたてている。起こしてしまうのは可哀相で、僕は高まる鼓動を隠しながら平静に振る舞う。
「……あー、『吉祥』寝ちゃった?」
 『辻堂正義』が眠そうに目を擦りながら言った。「そろそろ点けたほうがいいかな?」と尋ねると『シャーロット』もやはり眠たそうに頷いた。
「話、最後まで保たないかも」
 そう『辻堂正義』が言うと、『シャーロット』は続きを語り始めた。


 彼は先輩が好きで、先輩も彼が好き。あたしが割り込む隙間なんてない。そう思っても、諦めるなんて出来ない。どうしてあたしじゃないんだろう。ずっと一緒にいた。一番近くにいると思っていた。こんなにも愛していた。一番あたしが彼を好きなのだ。あたしが一番彼を愛しているのだ。なのに、どうしてあたしじゃない? あたしが愛されるべきなのに。こんなに愛しているのだから、愛されるべきなのだ。先輩じゃなく、あたしが。
 気持ちがどんどん黒くなっていく。先輩が憎い、先輩がいなければ良かったのに。いなくなってしまえばいいのに……
 自分の考えが怖くなって、私はベッドに飛び込んだ。何も考えたくなくて頭から毛布を被る。それでも思考の暴走は止まらない。先輩が憎くてたまらない。もう嫌だ、誰かあたしを止めてほしい!
「ただいまー」
 そんな時、彼の声が聞こえた。あたしは慌てて飛び起きる。彼に会いたい、抱き締めて貰いたい、彼が本当に好きなのはあたしだと言ってもらいたい。
 帰宅した彼の胸に、私は泣き顔のまま飛び込む。突然どうしたのかと戸惑う彼。その彼から……先輩の匂いがした。気のせいかもしれない、そう思いたかった。でもそれは、先輩の香水に匂いだった。先輩の匂い、先輩の、先輩の……
「ねぇ、今日、どこに、行ってたの?」
「今日? 普通にまっすぐ帰ってきたよ」
 普段なら何気なく聞こえるはずの彼の言葉。でも私は知っている。今日、彼が、どこにいたのか。
「なんで……嘘吐くの?」
「え、嘘って?」
 なんのことだがわからないと言った風に彼は言う。しらをきる。
「今日……見たんだよ?」
 あのお店の場所や名前、時間帯まで指摘され、彼は言葉に詰まる。
「誰と……行ったのかな?」
「……一人でだよ」
 彼はまだ、嘘を吐く。
「どうして? ねぇ、どうして嘘吐くの? 本当のこと……言ってほしいな?」
「……なんでそんなことを」
「誤魔化さないで!」
 あたしは叫んで彼を突き飛ばした。玄関ドアに叩きつけられた彼は、強打した頭を軽く振る。その彼に馬乗りになると、首筋に唇を這わせ、呟く。
「見てたの」
「え?」
「全部見てたの、あなたが……あの女と楽しそうにしてるところも、全部」
 あたしの言葉に、彼は驚き目を見開く。もう隠せないと観念したのか「あ、あれは……」と目を反らした。
「あの女の匂いがする、どこまでしたの? 最後までやっちゃったの?」
「違うんだ、あれは……」
 なにが違うと言うのか。そんな言い訳など聞きたくない。素直に謝って、あたしだけを愛していると言って欲しかった。そうしたら許して上げたのに。言い訳ばかり。そんなに、あの女に毒されてしまったのか。
「かわいそう……」
 彼はまだ言い訳を続けようとしている。すべてあの女のせいだ。あの女が私の彼を穢したのだ。あの女が、あの女が、あの女があの女があの女があの女があの女が!
 彼があの女の名前を口にした。その瞬間、頭の中で何かが弾けた。あんな女の名前なんて言ったら彼が穢れてしまう。あんな女に触れたら彼が穢れてしまう。あんな女に、あんな女に!
「なんとか……しなきゃ……」
 早くしないと彼が穢されてしまう。その前に早く。あの女のバイ菌が彼を穢してしまう。だから今すぐなんとかしなきゃ。
「汚いところ……取り除かなくちゃ……」
 あたしは立ち上がると部屋の奥へ向かった。どうしたらいいかな、洗ってもきっと取れないよ? あいつのバイ菌はしぶといから。そうだよ。だから。あたしはそれに手を伸ばす。
「ちゃんと……取り除かないと……」
「どうしたんだよ、おまえ……ッ!」
 あたしを追ってきた彼。その胸に、包丁の鋭利な刃を突き立てる。全部、あいつに犯された場所、全部取り除く。

「ね、綺麗になったよ」
 満面の笑顔で、あたしは笑い掛ける。少しばかり小さくなった彼は応えない。
 あたしが彼を抱き上げた、その時、破れたスーツから、それが落ちた。真っ赤な小さい袋、彼の血で真っ赤になった袋、手のひらサイズの小さな包み、綺麗にリボンで塗装された小さな包み。開く。それは、見覚えのあるシルバーアクセサリーだった。そう、それは……
「あたしが欲しかった奴」
 あの日、先輩と二人で雑誌と睨めっこしながら言った言葉。「これ可愛い、良いなぁ」「こういうのが欲しいのかい?」先輩は何故かニヤニヤと笑っていた。
「嘘だ……」
 今になって、先輩が何故笑っていたのかわかった。今更になって気付いた。

「プレゼントに悩んでしまって……」
 きっとそんな事を言って相談を持ちかけたんだ。
「うまい具合に聞き出して見るよ」
 先輩は二つ返事で応えたに違いない。そして、普段は買わないジュエリー雑誌を持って、私を誘った。
「結婚式だったんだろ、なんだか羨ましくなってね」
 その言葉の裏には、次はあたし達が結婚式を挙げる番だとだろと言う意味があったのだ。その証拠に先輩は言った。
「なるようになるんじゃないのかい?」
 だって先輩は知っていたのだ。彼がこのプレゼントと共に、気持ちを伝えてくれると。わかっていたから、なるようになると言ったのだ。いや、なるようにしかならないと言いたかったのだ。それなのに、あたしは、あたしは、変な癇癪で……彼を……彼を……

 殺してしまった。


「もう一度……もう一度だけ……彼に……会い……た……」
 すべてを話し終えると『シャーロット』も静かに寝息をたて始めた。『辻堂正義』も既に眠ってしまった後だ。『吉祥天女』は先程から僕の肩を枕にして眠っている。皆、睡眠薬が良く効いているようだった。僕だけ、彼女の話を聞いていた為か、薬の効きが悪かったようだ。
 少し息苦しい気がする。それに気持ちも悪い。吐き気もする。一酸化炭素中毒の症状だろうか。
 そう、これは自殺旅行なのだ。とある自殺サイトで知り合った僕たちは、こうして集まり、事に及んだ。みんな、世界に絶望して、生きる事を諦めた。世界は理想通りになんていかないから、僕たちは集まったのだ。
 もう聴き手はいない。みんな眠ってしまった。そしてこのまま目を覚まさないのだろう。永遠に。だけど、僕は口を開く。僕の願いは……一つだけの願いは……。

 だけど、そんなものは思い浮かばなかった。みんな、みんな本当に苦しんでいたのだ。それに比べて僕はなんだろう。家族はみんな仲もいい。夢はまだわからないけど、きっと叶うと信じてる。好きとか、少し自信はないけれど、幼なじみとの仲も良好だ。それは、きっと幸せだったんだ。
 だけど、何故か虚しかった。平凡に生きて、平凡に死ぬ。それが虚しくて、生きる意味なんてないように思えて、だから、生きる事を辞めようとした。
 幸せだったから、幸せだってわからなかったんだ。死にたくない。もし、願いが叶うなら……
「生きたい」
 口に出すと、それは強い意思になった。『吉祥天女』をそっと座席に寄り掛からせると、生きるために僕は車の外に出た。
 車の外は地獄だった。
 忘れていた、ここは真冬の雪山だ。極寒の雪山なのだ。歩いて降りる? 無理だ、出来るわけがない。だが車には充満した一酸化炭素。車には入れない。
 どっちにしてもこのままでは死んでしまう。僕は駆け出した。方向もわからないけど、生きたくて駆け出した。
 まだ死にたくない。僕は死にたくない。朝、母親に起こされる。文句を言いながら弟と朝食を食べる。幼なじみと一緒に学校へ行き、授業は退屈だけど真面目に受ける。平凡だけど、幸せな一日に、僕は帰りたい。
 もう一度だけ、せめてもう一度だけ、この幸せな日々を手にしたかった。

 だけど、それは叶わない。今更になって効いてきた睡眠薬と、寒さが、僕の身体の自由を奪っていく。こんな雪山で眠ってしまったら、絶対に助からない。なんとか踏張った足が折れ、雪の中に倒れこむ。そのまま、僕は眠りに着いた。
 二度と覚めない眠りに。



 僕達は願う。

 もし、一つだけ、願いが叶うなら。

 僕達は幸せにはなれなかったから。

 だから、もしも、もう一度、生まれ変わってきたならば。

 その時こそは。

 僕達が。

 あたし達が。

 俺達が。

 私達が。

 どうか、幸せになれますように。



END
NiconicoPHP