> 最高の毒 作:夜月光介
最高の毒 作:夜月光介
 昨日の試合は、またもアンズさんの勝利で幕を閉じる事となってしまった。トレーナーとしてもっと上に行きたい。
 その思いだけで突っ走ってきた俺だったが、リーグまでの壁は予想を遥かに越える程厚かった。
「大丈夫。貴方はもっと上に行ける人間よ。頑張って!」
 試合の内容に関してはアンズさんに改善の余地があると言ってもらえたものの、正直何度も負けていると気持ちが萎えてくるのも確かな事だ。
『ココ何日も足止めが続いてますねマスター。ちょっと気分転換してみたらどうですか?』
 相棒であるザングースにそんな事を言われ、それも悪くないなと思った。気が付けばこの街に来てから連戦連敗の記憶しか無い。
 バトル以外何もしていないのだ。自分でも息抜きが必要かもしれないと思っていた。

 そらをとぶ要員のゴルバットの力を借りて、セキチクシティからマサキさんのいるハナダシティの郊外までやってきた。
「ポケモン転送装置の開発中に面白い発見をしたとかメールに書いてあったけど……」
 俺はそのメールを受け取った時ジムリーダーとの戦いに集中する為その誘いを蹴っていた。
 以来ずっと忘れたまま旅を続けていたのだが、息抜きの意味も兼ねて彼に会いに行きその発見は何か聞くつもりだ。
『あん時はタマムシシティでエリカさんと戦っていたハズですかね』
「ああ、彼女も強かったな。アンズさんはそれ以上だが……お、見えてきたぞ」

「いやぁ、久しぶりやねヒデユキ君!」
 ポケモンの転送装置開発者のマサキさんが俺を出迎えてくれた。何時も1人で怪しげな研究に没頭している人だ。
「この間メール貰ったんで来ちゃいました。なんか発見をしたとか……」
「ああそれな、ワイが偶然開発してもうた同化装置と関係があんねん。ポケモンと同化する事によって今まで謎のベールに包まれとったモンスターボールの中身に迫る!
 ……ちゅうワケやな。ワイ等はボールの扱いには長けとるけど内部の構造には詳しくないやろ?」
「なるほど」
「それを手軽に体験出来るんやからコレは一種のビジネスになるで……まぁ金の話はともかく、キミもちょっとやってみたいやろ。
 ワイが体を張って先に同化の後分離もしとるから心配あらへん。ちょっとした旅行みたいなモンや」
 マサキさんはそういうと部屋の中にある2つの大きなカプセル型の装置を指差した。
「元々はポケモン転送装置の実験で使っとったモンやけど、今は完全にポケモンと人間の同化・分離装置になっとるんや。
 ワイの後輩のニシキが完璧に転送装置を仕上げたモンやからコレを転送装置に修理する必要も無くなってしもうたし……」
 俺はザングースと顔を見合わせると、再びマサキさんの方を見た。
「うん、そのポケモンやったら人間型やし丁度ええわ。同化した後モンスターボールの中に入って好きなだけ中を満喫した後戻ってきて分離すれば問題無いで。
 ヒデユキ君は左の方に、ポケモンは右の方に入ってじっとしとるんやで。下手に動いたら危険やから……」
 危険ではあるが好奇心の方が勝り、俺はザングースと共に片方ずつカプセル型の装置に体を入れた。腰の部分に金具のロックがかかる。
「じゃあどっちともそのまま立ったままの姿勢を保っておくんやで。スイッチON!」
 マサキさんがスイッチを押すと俺は意識を失った……

 2つのカプセル型装置の中央にもう1つ巨大なカプセル型の装置がある。そこから俺は出てきた。
「お、成功やな。コレでモンスターボールの中に入れる様になるで」
 実験の失敗の後マサキさんが購入したと言う巨大な姿見用の鏡で見ると、確かに俺はザングースになっている。
『マスター、何だか妙な姿になっちまいましたね。俺とマスターの外見がごちゃまぜになった様な……』
 頭の中でザングースの声が聞こえた。ポケモンになった事で今まで聞く事の無かったザングース本人の声が理解出来る様になったのだろうか。
 体は同化したが分離の事もあるのだろう。意識は俺とザングースのものが分かれているらしい。
「じゃ、早速モンスターボールの中に入ってもらうわ。出たなったら何時でも呼んでや」
 マサキさんがモンスターボールの捕獲ボタンを押し、俺に向かってボールを投げつけた。特に抵抗する必要も無く、俺は吸い込まれていく……

 初めて見るモンスターボールの内部は意外と普通の小部屋だった。透明なガラスの壁で構成されている。
「へえ……結構広いな。ポケモン1匹が過ごすには結構快適かもしれない」
『俺達ポケモンにとっては快適な場所ですよ。冷暖房の管理も行なわれますしね。疲れたらそこで休めばいい』
 見渡してみると、部屋の隅にベッドまで置かれていた。ただ睡眠欲を満たす為だけのものだろう。回復は出来ない様だ。
『マサキさんはモンスターボールの中に色々物を送る手段を考え付いたって話ですが』
 部屋の中が光に包まれ、瞬きする間に本棚や机、パソコンが姿を現す。この分なら食事もとれるだろう。
「コレがモンスターボールの中とは驚いたな。ポケモンにならなければならないと言う制約はあるにせよ、まるで1人用の家じゃないか。
 人口の爆発が懸念されているが、この部屋ならモンスターボール1個分の場所しか取らない。暫く住んで住み心地を確認してみるとしよう」

 そこはまさに夢の様な空間だった。部屋に置かれたパソコンでマサキさんに要望を伝えれば、この空間に置けるものがどんどん追加されていく。
 食べ物は勿論、シャワールームやトイレまで完備。パソコンや本があるので暇潰しにも事欠かない。外部との連絡も取れるのでそこまで孤独感は感じない。
 何より意識の中に相棒がいるので会話も出来る。孤独感に苛まれる事無く日々を過ごす事が出来るのだ。
「普通の家だったら最低2000万円以上はかかるけど、モンスターボールなら200円だからなぁ。これからこの需要はどんどん伸びるかもしれないぞ。
 もしかしたら近い未来、こうやって暮らすトレーナーも増加していくかもしれない……」
 正直あまりの快適さにジムリーダーとの戦いの事もすっかり忘れていた。ココにいるだけで楽しいのだ。とても楽しい……


 マサキはモンスターボールを棚の上に置くと溜息をついた。
「コレで10人目や。モンスターボール依存症……この症状さえ治せれば需要がドカンと増えると思うんやけど」
 モンスターボール内部の部屋の快適さに魂を奪われそのまま住み着いてしまうトレーナーが既に10人となっている。
 マサキは自力でその症状を克服した為現在治療薬を開発している所だが、何時出来るかどうかは不透明だ。
「ヒデユキ君も数ヶ月位経てば戻ってくるやろ。多分……」
 そう言いながら1人目の依存者が入っているモンスターボールをマサキは見つめた。確か1年以上は経過しているハズだ。
 同化装置自体の発明は数年前の事だった。それからマサキ以外の克服する者がいないかとこうして実験を繰り返しているのだが……
「とにかく快適さっちゅうのは最高の『毒』やね」
 マサキは棚の下にもある沢山のモンスターボールを見ながら、その空のボールの中にある恐ろしい空間を感じて震えた。

『マスター、そろそろ出ませんか。旅をしなくちゃいけませんし』
「いや、当分の間はココにいるよ。快適って言うのは最高だね。ずっとココにいてもいいかもしれない」
 本人達にとってコレが天国なのか、それとも地獄なのかは解らない。
 
> 魔法のノート、あるいは不思議なトリックルーム 作:一葉
魔法のノート、あるいは不思議なトリックルーム 作:一葉
 当時の私は、窓の外から見える世界がすべてだった。先天的な心臓の病気。生まれた時から多分死ぬまで病院の中、それが私の人生だった。
 不遇だと思った事はあるが、他人を羨ましいと思った事はない。生きているのが辛い、苦しい、その生活しか私は知らないから、他の人がどう生きているのかなんて想像出来なかったし、他の人のように元気に過ごすと言うことも想像出来なかった。だから十歳まで生きれたのは御の字だ、なんて医者は言うけれど、そんなのは嘘。私は早く死にたかった。苦しくて苦しくて仕方がなかったから、辛くて辛くて耐えられなかったから、早く死んでしまいたいと思っていた。
 奇跡的に十歳まで生き延びた、と人は言う。だけれど、私からしてみれば、不幸にも生き長らえてしまった、が正しいと思った。そんな事を口に出せば、きっと母が悲しむ。だから口にしない。
 苦痛と絶望まみれの生を、作り笑いで生きていく。

 そんな生に一つ転機が訪れたのは十歳の秋の事。
 代り映えのしない窓の外の景色、遠くの山は徐々に紅葉が色づいて来ているらしいが、毎日眺めているせいで大きな変化には感じられない。数日間見ないようにして、それから目を向けてみれば劇的な変化に感じられるのだろうか。そんなやっぱり代り映えのしない私の世界を眺めていると、突然それは現れた。一冊のノート。当時は知らなかったが、コンビニでも売っているごく普通の大学ノートである。その時の私はそれが魔法のノートだと思った。なにせ、突然私の手の中に現れたのだ、なんの前触れもなく。代わりに手の中のみかんが一つ消えていたのは、後になって気付いた事だった。
 ノートを開くと、丸っこい小さな字でただ一言こう書いてあった。
『つまらなそうな顔してどうしたの?』
 病院暮らしだって文字は読める。生きて退院出来る可能性は無いのに、勉強はさせられる。ずっと無駄で無意味で無価値な作業と思っていたけれど、その時ほど勉強していて良かったと思った時はない。
 ボールペンが無かったからナースコールを鳴らした。「書くものが欲しいの」看護師さんはすぐにボールペンを持ってきてくれた。看護師さんは優しい、むちゃくちゃな事じゃなければなんでも聞いてくれる。どうせ私は死んでしまうから、とても良くしてくれている。
「あら、そのノートは?」 いつもの看護師さんが聞いてきたから、私は胸を張って答えた。
「魔法のノート」
 看護師さんは意味がわからずきょとんとしていたけれど、私は気にしない。だから、首を捻ったまま病室を出ていく看護師さんの事も、私は気にしない。
『病院は退屈、何もする事が無いもの』
 そう書き込んでノートを置く。魔法のノートの字よりもずっと汚ない字だった。面倒くさがって書く癖がついてしまっていたから、最初の頃の字は今見ると恥ずかしいくらい汚ない字だった。私がボールペンを置くと、今度はノートが消えて、代わりにみかんが一つ出現する。私が持っていたみかんだった。
 それから三十秒くらい経つと、またノートとみかんが入れ替わる。
『外に出掛けたりしないの?』
 外なんて生まれてから数える程しか出たことが無い。ずっとこの病室の中、つまり、私はそういう身体なのだ。
『身体が弱いから外出許可が出ないの』
 すぐに返事を書いて、ペンを置く。何度もそれを繰り返す。それは、とっても楽しくて、生きているんだって、少しだけ思えた。

 その日から、私と不思議な魔法の交換ノートは始まった。

『窓から見えるあの山、砲台山まで行ってきたよ、紅葉が綺麗だったからお土産』
 ノートの代わりに返ってきたのは綺麗なもみじ。
『折り紙を折ったわ、貴方は折り紙出来る?』
 ノートの代わりに送ってやるのは折り紙の鶴。

 不思議な不思議な交換ノート。相手がどこの誰なのかもわからない。不思議な力で交換されるノートが、どんな力で交換されているのか知りたくて、一度尋ねた事がある。
『このノートはどうやって行ったり来たりしているの?』
『ポケモンの技で交換してるよ』
『ポケモン! 私ラッキーしか見たことない!』
『そうなの? ポケモンなんて何処にでもいるよ』
『看護師さんが言ってたわ、野生のポケモンは病気を持っている事もあるから病院には近付けないようにしてるって、病室にポケモンを連れ込むのもえーせー的にダメだって、私も見てみたいな、いろんなポケモン』
 そんな事を書いたら、ノートに写真を挟んで送ってくれた。
『昨日出会ったポケモン、ヨーテリアで名前はテリーって言うよ』
 それからも毎日一枚、日記のようにその日出会ったポケモンの写真を送ってくれた。写真を送っていないポケモンに出会わなかった時は、風景の写真を送ってくれた。場所を聞いては母に買ってきて貰ったタウンマップに張り付けるのが楽しみになった。
『いろんな所でいろんなポケモンに会うんだ、羨ましい』
『病気が治ったら、きっといろんな場所に行けるようになるよ』
 治らないよ、とは書けなかったから『治ったら一緒に出掛けよう』と返した。約束した。
『それまでは私が貴方の見たい景色を写真で送ってあげる』
 彼女……性別を聞いたわけではないからこの時はまだ彼なのか彼女なのか知らなかったのだけれど、字の雰囲気から女の人だと思っていた、実際に女の人だったわけだけど……はそう書いて、それからもたくさんの写真をくれた。森に湖に滝に、お寺に、山に、海。たくさんの、本当にたくさんの写真をくれた。

 その頃だったと思う。生まれて初めて、生きていたいと思ったのは。いつしか私の夢になっていた。彼女と一緒に、遠くまで出掛ける事が。
 それまでは死ねない、そう思って、四年間生き延びた。その間も、不思議な交換ノートは一日たりとも欠かさなかった。私がノートを書ける状態じゃない時でも、絶対に一度は交換して、彼女は私を力付ける言葉を残してくれた。そんなノートはもう少しで三ケタに到達する。この頃になると、私の字もずいぶんと綺麗になっていた。彼女の字が可愛らしくて悔しかったから、少しだけ練習した。そのノートは全部私が綺麗に並べて取っている。何度も読み直して、その度に、生きていたいって、覚悟を決めたから。
『今度、また手術をする事になったわ』
『大丈夫なの?』
『分の悪い賭け、でも成功すれば、少しくらいなら外に出ても良いくらいまで回復するかもしれない』
 それはあくまでも一時的な話で、絶対に私の心臓は治ることはないのだけれど。
『私、貴方と一緒に出掛けたい、そのために命を掛けるわ、大丈夫、死なない、大切なお守りも持っていくから』
 そう手術の時はいつも持っていたお守り。殺菌消毒をした上で、ビニールに包んで、足に貼り付けて、無理を言って持たせてもらっている彼女の撮った写真。
『お守り? どんなの?』
 って聞かれたって絶対に教えてあげない、秘密のお守り。でも、そうだ。
『手術が成功して、一緒に出掛ける時に見せてあげる』
『手術、頑張って』
『うん』

 次の日、彼女からノートは返って来なかった。
 どうしてしまったのか、不安になった。精神状態が体調に悪影響を及ぼすことがある。彼女の不在は間違いなく私の精神を、そして肉体さえも蝕んでいた。
 手術前日を迎えた時だった。これ以上先送りにしても、体調が復調するとは限らない。見送るか、強行するか、どちらも危険な賭け。だから、私は可能性が高い方を選んだ。先送りにしても、残り時間が短くなるだけだと思ったから。
 翌日、手術へ向かう直前だった。
 彼女からノートが返ってきた。
『遅くなってごめんなさい、どんな病気でも治るって伝説のお守り、貴方の病気が治るようにって』
 そう言って返ってきたのは、真っ白な灰だった。
『伝説のポケモン、ホウオウが住んでいる伝説の塔、その塔の頂上には、ホウオウが生まれ変わる時に出る聖なる灰が積もっているって伝説があるの、ホウオウは灰の中から蘇るから、ホウオウの灰は命を強くするって言い伝えがあって』
『ホウオウって、あの絵本に登場するポケモン?』
『うん、貴方が病気に勝てるようにって、探して来たの、ごめんね』
『ううん、ありがとう、私、絶対に成功させて帰ってくるから』
 そう返して、手術に向かった。

 結果は……今、こうやってノートを書いてる通り、私は生きている、手術は成功だ。まだしばらく生き続けられる権利を勝ち取った。
 別に病気は治っていないし、私の心臓はいつ異常を来すかわからないのだから、ハッピーエンドめでたしめでたしと締めるのは少しだけ待ってもらえないだろうか。手術後の話をもう少し付き合ってもらいたい。

『リハビリなぅ、歩けるまで回復したよ』
『頑張ってるね、この調子この調子』
『この調子なら来月には一緒に出掛けられそう』
『うん、そうだね』
 それから、彼女とのノート交換の回数が少なくなった。
『本当に会うの? なんだか怖い』
『でも私は会いたいわ』
 そして、そんな会話が増えた。

 退院の日になって、彼女からノートが返ってきた。
『今までノートを交換してきた技、トリックって言うの、ポケモンの持ってる道具を、相手の道具と入れ換えるポケモンの技、騙しててごめんなさい、私、ポケモンなの、だから、会えない、さようなら』
 いつもの丸い字が、震えていた。涙で滲んでいた。さようならの文字が擦れていた。
「だから……なんだって言うのよ!」
 私はボールペンを握ると思い切りノートに殴り書いた。最初の頃のような汚ない文字。可愛らしさの欠片もない汚ない文字で感情をぶつける。そしてノートを閉じてトリックの時を待った。だけど、いつまで経ってもノートは私の手から消えなかった。
「……見てるんでしょ、どこかで」
 トリックという技が、自分が見えていないと使えない技なのかは知らないけれど、確信はあった。いつもそう、私がノートを書き終えテーブルに置く、それが交換の合図だった。彼女はそれを確認してトリックを使っていた。だから、私を見ていなきゃ出来ないはずなのだ。
「トリック!」
 きっと近くにいる彼女に届けと叫ぶ。
「一方的にさよならなんてふざけないでよ! 人には何も言わせず逃げ出すつもり!? 夢とか希望とか安売りして、今さら放り出すつもり!?」
 思い切り叫ぶ。看護師さんが何事かと駆け込んで来た。私は気にしないで叫ぶ。
「あなたに会いたくて、会うために、生きてきたのに!」
 私は肩で息をする。興奮し過ぎた、心臓がバクバクいっている。私の病気は心臓だ、激しい運動はもちろん、興奮するのもあまり良くない。看護師さんに宥められ、なんとか乱れた呼吸を鎮める。
 気付けば、ノートは消えていた。代わりに、折り紙の鶴が一羽、不恰好な鶴が一羽、そこにいた。私ならもっと綺麗に折る。だから、これは彼女が折った鶴。
 返信は……返ってこなかった。

 そして、私は退院する。何年か振りの病院の外。病室とは違う広い空の下。
 両親にエスコートされて歩く、その途中で、足を止めた。視線の先、大きな葉桜の下。彼女の手には、一冊のノートと、一枚の写真。
 飛び込んできたキルリアを、私は抱き留めた。




『そんなのずっと知ってた、あなたがくれた湖の写真、気付かなかったでしょ、見て、カメラを持ったポケモンが湖に反射して写ってる、あなたが写ってる一枚だけの写真、私のお守り、お願いだから、私の傍から居なくならないで』



 これで、私の話はお終い。彼女はどうしたのかって? うん、いるよ、今でもずっと隣に、ね。
 
> [[[tojikome]]] 作:コロポン
[[[tojikome]]] 作:コロポン
 研究者として、私は長く野生ポケモンの行動を観察してきた。学生時代から数えると今年で52年になる。その経験に裏付けられた実感から言うのだが、一部の野生ポケモンはその行動に関して、明らかに本能以上に優先するものをもっている。彼らは社会を形成し、規範を設定し、明らかに意識的な共生によって生活する。つまり、ある言い方をすれば、彼らは我々人間に相当近い段階の生を営んでいるのだ。
 必ずしも彼らに人間同様の科学や哲学の類があるとは言わない。しかしより基本的な意味での生――歓喜、悲哀、葛藤、鬱憤が生み出す一種のドラマにまみれた生――を「人間的」と呼ぶ限り、私のようなポケモン研究者は、研究対象であるポケモンたちのあまりにも「人間的」な行動によって愕然とさせられた経験が必ずあるものである。ここではそのうちのひとつを紹介しようと思う。

 私がまだ学生だった頃のある時期、我々の研究室はガルーラの育児に関する研究をしていた。周知のように、ガルーラの育児はポケモンの中ではかなり特徴的で、母が腹部の育児嚢(いくじのう)を子守り部屋として、その内側で子を一定期間守り育てるシステムが成立している。育児嚢の内側は暖かく、また母ガルーラの乳首が生えており乳を呑むことができる。子はこの、この上なく恵まれた「部屋」の中で、じゅうぶんに育つまで生活するのだ。この特殊な育児に関する研究はそれまで母ガルーラの攻撃性によって阻害されていたが、セキチクのサファリパーク内に放されているガルーラは野生のものより遥かに穏やかな性格を持つことが確認され、我々はこのポケモンの観察に取り掛かることが可能となったのだった。
 我々が研究対象にしたのは0歳〜3歳の子を持つ母ガルーラ(通常ガルーラの子は3歳近くになると袋から出て親離れする)で、そのうちの一体に我々が「ベティ」と名づけた母ガルーラがいた。ベティは研究当初、特別に注目すべき個体ではなかった。他の母と同じように餌を食べ、水を飲み、敵と戦い、子の育成に神経を注いだ。周りに比べて目立った存在ではなかったし、時には彼女を他から見分けるために我々は多少の努力を必要としもしたのである。我々が彼女の異常に気がついたのは、観察を続けて1年近くした時期になってからだった。彼女は子が親離れするはずの時期になっても、子を袋から出そうとはしなかったのだ。

 私はその様子を克明に覚えている。ベティの腹部は、巨大なスイカでも丸呑みしたかのように不自然に盛り上がり、時々そのふくらみはモソモソと動いていた。しかしベティは事も無げに、それ以外はまるでこれまでと同じように、普通の顔をして生きていた。腹部のふくらみを無視すれば彼女は、比較的穏やかな性格の、一般的な母ガルーラに見えたのである。
 袋の中で子は頻繁に動いた。時にはベティの腹の中で洗濯機が回っているのかと錯覚するほど、狂ったような動きを見せることもあった。紛れも無く、袋の中に押し込めようとする母に抵抗し、何とかして出ようとしていたのだった。それは窒息しかけた生物がもがくさまに似ていた。――この「部屋」は小さすぎる――このままでは窒息してしまう――何とかしてこの「部屋」の中から出なければ――そんな叫びを発しているようだったし、実際我々は幾度か袋の中から、悲鳴のような鳴き声を聞いた。しかし幾度、子が袋の中から這い出ようとしても、ベティはその度に上から子を押し戻すのである。子が特に強い抵抗を示し、いよいよ困った時は、ベティは子をはたいた。しかしそれは怒りや興奮に任せて殴っているというよりは、とても手のつけられない子供を仕様がなく叩くのに似ていた。つまりそこには、狂気の影は見られなかったのである。
 いずれにせよ子はこれまでと同じように、「部屋」の内側で生きざるを得なかった。しかし栄養が確保されている以上、袋の中とはいえ育ち盛りの子がこれからみるみるうちに大きくなってゆくことは明らかだった。

 ベティの異常を発見してから5ヵ月後、つまり子が3歳5ヶ月ほどに達した頃、我々はサファリパーク一帯に響き渡るような叫びを聞いた。それはガルーラの声だった。我々は道具一式を持ち、念のためサファリパークに勤めているハンターを伴って、ガルーラが生息している地域へと急ぎ向かった。
 鳴いているのはベティだった。彼女は前傾姿勢の状態で、グエェ、グエェと激しい痛みに耐えているような声を出していた。彼女の右腕は腹の袋を押さえ込んでいたが、その袋の内側で何かがこれまでに無いほどの激しい動きを見せていた。確認するまでもなく、内側で動いているのはベティの子であろう事は予想がついた。限界が来たのだ、と我々は目を見合わせた。
 母と子のせめぎ合いはしばし続いたが、子がひときわ激しく袋を揺さぶるとベティはバランスを崩して大きく背中から仰向けに倒れこみ、ドシンと地面を揺らして砂埃を立てた。それきりベティは、脳震盪でも起こしたのか、ピクリとも動かなくなった。その隙に子はついにベティの腹を、自らの「部屋」を食い破り、さらにピョンとジャンプをして地面に降り立った。
 子は奇形だった。いや、赤子として母の袋の中に生まれてきたそのときはおそらくそうではなかったであろうが、狭い袋の中に閉じ込められたことや母による暴行によってか、あちこちの骨が折れて奇妙な方向に曲がっていたし、身体に不自然な凹凸があった。そのせいで子は生まれたての子馬のように足をがくがく震わせていた。そのような危うげな歩みでありながら、子はどうにかしてベティから遠ざかろうと試みていた。3歩と歩まぬうちに転び、起き上がるのに軽い料理が一皿出来上がりそうな時間をかけた。そしてまた歩み出したところで、3歩もしないうちに転ぶのだった。
 ここで、サファリパークの女性飼育員の1人が子を保護しようと走り出した。もともとここの飼育員たちは何とかしてベティの子を保護しようとしていたのだが、ベティに邪魔されていつも失敗に終わっていたのだった。ベティが気を失っている隙に、彼女は行動に出たのだ。彼女が一直線に子へ向かい、手を伸ばした、その瞬間であった。
 ベティは突然、それまで動けずにいたとは思えない機敏さでその巨体を翻すように起こし、両腕を大きく広げて咆哮をした。そして信じられないほどのスピードで子と飼育員のほうへ走り、そのまま飼育員をその右腕で殴打した。飼育員は血の放物線を虚空に描いて10メートルほど吹っ飛び、嫌な音を立てて地面と激突した。我々のうちの何人かがとどろくような悲鳴を上げた。私はあまりのことに声を上げられず、ただ目だけは吸い寄せられるようにベティの行動を見ていた。
 ベティは相変わらずその震える足取りでベティから逃れようとする子を両腕で優しくすくい上げ、再びその腹の袋の中に押し込もうとした――しかしながら、袋は先に書いたように子によって真っ二つに裂かれていたので、ベティは子を彼女の腹の上で滑らせることしかできなかった。ベティは不思議そうな表情をして、自身の腹を滑る我が子を見やっていた。その時、突如ベティの右のこめかみから血が噴出した。我々に同伴したハンターの1人が、人間に危害を与えたガルーラを狙撃したのだ。ベティはしゃっくりかと思うような短い断末魔を上げると、そのまま横に倒れた。こうしてベティは死んだのだった。

 我々はこのすぐあとにガルーラの生態調査を終えて研究の報告書を書いたが、ベティについては一切触れることがなかった。何と言っても彼女の例はあまりに特殊だったし、一般的なガルーラ調査の報告書には入れる余地がなかったのだ。それに、何より当時我々の研究所ではベティの事件に関して、言葉ではまるで言い表せないような共通認識のようなものがあって、それが我々にベティに関する一切の話題を避けさせたのである。あの事件から数週間後にベティの子が死んだとか、ベティから攻撃を受けた女性飼育員が一命を取り留めたという連絡を受けた時も、我々は押し黙ったまま、誰も一言たりとも発しなかった。ましてやベティのことを掘り返そうとするものは誰一人いなかった。
 なぜ我々はベティの話題をここまで徹底的に避けたのだろうか? それは、彼女の行為があまりに「人間的」であったためだろう。彼女はその「人間的」な行為によって、「人間」たる我々自身の根源にあるおぞましい部分を、我々に包み隠さず曝け出したのである。我々は互いのおぞましい部分を直視し合うような行為を恐れたのだ。
 つまり――52年間ポケモンを見てきた経験から言うのだが――人間は根底においてベティと同様のものを持っている。そうではなかろうか? 人は「それ」をまるで地殻のように厚いフィルターで覆っていることを、時には自分でも忘れてしまうが、確かにその根底に忍ばせているのである。そして「それ」は自身の根底が脅かされてその地殻にヒビが入った時、たとえば深く傷ついた時や激しく人を愛した時、燃え盛るマグマとなって自らを焼くのである。ベティは、そうやって焼け死んだのだ。
 人間は「それ」の存在を認めたがらない。あるいは、それを「愛」として正当化し、肯定しようとする。しかしどうして、正当化などする必要があろう。「それ」は、決して人間にとってプラスにのみなるものではない。けれども、「それ」こそが人間を人間たらしめているものなのだ。その宇宙のように膨大なエネルギーこそが、人間を生かしているものなのだ……。



(「ポケットモンスターと人間」オーキド・ユキナリ著 より抜粋)
 
> 狭い部屋の中にいる 作:浅香 【☆】
狭い部屋の中にいる 作:浅香 【☆】
 ぼくが不登校になって三日が過ぎた頃。ガーディが一声鳴いた。別に珍しいことではないけれど、それから続けざまに何度も鳴いたので、いい加減うるさくなって、ぼくは二階の窓から庭を見下ろした。ぼくの部屋を見上げるガーディの横には、一人の男の子が立っていた。真っ白なシャツにカーキのボトムス。ライモンシティ・エレメンタリースクールの指定鞄を斜に掛ける。
 ぼくを見つけた彼は、よっ、と言って笑った。彼の笑顔を見たのは、これで二度目だった。トレーナーズスクールの校内戦。決勝を制して、校内チャンプに輝いた彼は、今と同じように爽やかに笑ってみせた。裏に努力とか苦労とか、汗や傷を感じさせないような、あっさりとした笑顔だったと思う。あまり覚えていない。なぜならぼくは、その笑顔を正視し続けることができなかったからだ。白んでぼやけて歪んだ視界。彼の目の前でぼくは膝をついた。涙がこぼれて、地面に染みを作ったとき、その理由を胸中で自問した。崩れた身体が呼び起こした問いかけは脆くて、会場の歓声に掻き消されてしまった。顔を上げてみると、大勢の観客がいるはずなのに、誰もぼくのことは見ていなかった。笑顔の彼を見て、歓声をあげて、それだけでぼくなんて関心の範疇ではなかった。そしてやっと気づく。ぼくは負けたのだ。他でもない、彼に。
 だからチャンプの座を引き下ろされたぼくが、彼に会わなければいけない理由なんてない。敗者は去るのみ。勝者は振り返る必要などない。
「降りてこいよ!」
 笑顔が語るのは純粋な好奇心や、友好の類でしかないのだろう。彼はぼくを友達と認識しているらしい。でも、それはおかしい。ぼくが彼と会い、話したのは、決勝戦の時が最初で最後だったはずだ。友達関係を築く機会はなかった。だったら裏があると考える方が普通だ。
 庭から手を振る彼を無視して、窓を閉める。「おい、返事くらいしろよ!」彼の声が聞こえたけれど、さらに無視を決め込んだ。
 カーテンを閉めると、もう何も言ってこなかった。

 ぼくは狭い部屋の中にいる。不登校であり、ひきこもりでもある。校内戦が終わって三日もしないうちに、ぼくは不登校を始めた。別にいじめがあったわけではない。むしろ、いじめがあってくれれば、もっと分かりやすく不登校になることができたのだ。何かを言い訳にすることのできない中途半端な状況は、ただただぼくを惨めにするばかりだ。
 校内戦が終わる前と後では、世界の見え方がまったく違っていた。
 校内戦が終わる前というのは、もちろんぼくがチャンプだったときのことだ。教室にいるだけで誰かが寄ってくる。育成の話、バトルの話。持ちかけられる相談に、ぼくは的確な答えを返していく。時折、自分の経験を織り交ぜて。
「ジンくん、わたしのゴチム、すごく弱いの。エモンガにも勝てなかったんだけど、どうすれば強くなるかな?」
「最初はどんなポケモンでもみんな弱いからね。わかるよ。エモンガに勝てないならヤグルマの森に行くのはどうかな。あそこでタブンネを倒すんだ。そうすればきっと、すぐに強くなる」
 女の子だって気軽に話しかけてくれた。もちろん女の子たちの話題には、いつもぼくの名前が挙がる。直接聞いたことはないけれど、そんな噂だ。障害なんて何もなかった。
 校内戦が終わると、ぼくは消えた。ぼくがどけた隙間に、笑顔の爽やかな彼が収まった。いつでもマトという名前が教室内で聞こえた。誰もぼくに関心を見せなくなった。ただ、それだけのことだった。
 それだけのことで、ぼくが見る世界は灰色に白んだ。初めてスクールを途中で抜け出した。誰も止めない。なぜなら誰も抜けだすぼくに気づかなかったから。いや、興味がなかったからだ。
 いつもなら座学の時間。歩く通学路に人は少なくて、時の流れがひどくゆっくりだった。音も色もない。ぼくの世界はそんなつまらないものだっただろうか。こんなに何もなかったのだろうか。いいや、違う。ぼくは校内チャンプだ。バトルの腕だったら誰にも負けない。でも、負けた。真実はいつでも目の前にあった。ぼくの世界は灰色で、何もなかった。

 ガーディの鳴き声に重ねて、マトの声が聞こえた。その声からすぐにマトという名前と、彼の笑顔が浮かんだことに少し驚く。ぼくは窓を開けた。
「降りてこいって!」
 もう三回目になる。彼は初めてぼくの部屋の下まで来た日から、連続で三日も通い続けた。三日というのは、タマゴが孵化してポケモンをバトルに出せるようになるくらいの期間はある。現在のチャンプであるはずの彼は、そんな貴重な時間を無駄にしてまで、ここに通っているのだ。そこに疑問を抱いた。
「なんだよ」
 無愛想なぼくに反して、彼は笑顔を崩さない。
「遊ぼうぜ。バトルじゃなくてもいい」
 実を言うと、ほとんど一週間になるひきこもりは、暇で暇でしょうがなかった。彼に負けた日から、ポケモンを育てる気にもならない。普段やっていることをやらなくなると、こんなにも暇になってしまうのかと思ったほどだ。だから気まぐれでしかない。ぼくが「いいよ」と返事をすると、彼は笑顔を一瞬だけ驚きの色に染めて、待ってるからすぐに準備して、と言った。ぼくは相づちを打って、窓を閉める。そうして閉じられたこの狭い部屋の中は、ぼくの真実を象徴しているかのようだった。机とか、箪笥とか、必要なものが最低限置かれているだけで、あとは何もない。鞄を持てば、そこに育成の道具は揃っていた。真実を隠すためによりどころにしてきたものは、こんなにも小さかったのだ。彼には分からないだろう。狭い部屋の中にいるぼくの気持ちなんて。

「バトルでいいよ」
 リベンジマッチをしたいわけじゃなかった。けれど、彼とはバトルしかしたことがない。語るにはバトル以外なかった。快い返事を聞いて、ぼくたちはライモンジムの横にある広場まで行って、ボールを出した。
 結果はぼくの負け。二度目の敗北だ。相変わらず努力を感じさせないような涼しい表情。実際のところ、彼がどんな育成の仕方をしてきたのかは、全く分からない。
「強いね。さすが校内チャンプ様だ」
 皮肉を込めてそう言ったはずなのに、彼はありがとうと言った。
「じゃあ、どうする? 次はミュージカルでも観に行く?」
「え、ミュージカル?」
 ひたすら育成とバトルに打ち込んできたぼくは、地元のミュージカルにすら行ったことがなかった。きっと同じような生活をしてきたはずのマトが、そんな誘いをしてきたことはぼくを驚かせる。
「あ、そろそろ夕方か。明日にしようか」
 ぼくが問い返したのは帰宅時間が近づいてきているから、そう勘違いしたらしい。彼は勝手に話を進めて、なぜか明日にはミュージカルを二人で観に行くことになった。どうせ学校に行くつもりはなかったし、ボールからポケモンを出すような気にもなれないし、いいかな、などと思いながらぼくは狭い部屋に帰る。観覧車が見えた。夕日を背にして、ぼくの狭い部屋を見下ろしている。

「ほら、可愛いだろ! 特にあのピンクのリボンとかさ! あと、あれ、なんていうの、火みたいに真っ赤なスカート」
「知らないけど」
「たぶんフレアスカートだ! 波打つ炎みたいだし、きっとそうだ、うわっ、やっぱり可愛いよなー」
 舞台で踊るロコンを見ながら、マトは声を抑えて盛り上がっていた。フレアスカートって、たぶんそんな由来じゃないんだけどなぁ。ぼくはそう思ったけれど言わないことにする。きっと名前の由来なんてどうでもいいのだ。物を指して可愛いと言えれば、それでいい。
「知ってる? モコちゃんって、ライモンスクールの生徒のポケモンらしいんだ。一度でいいから会ってみたいなー」
 そう言った爽やかな笑みを見て、ぼくは胸の奥底で何かが揺らいだような気がした。モコちゃんと呼ばれるミュージカルのアイドルがいて、そのロコンは自分と同じスクールに通っている。それを嬉しそうに言うのが校内チャンプなのだ。まるで生徒たちが校内チャンプに憧れを抱いて語るのと同じように、彼はモコちゃんの飼い主を想像する。ぼくにとっては不思議でならなかった。お前は校内チャンプじゃないか。憧れを抱く側の人間じゃない。憧れを抱かれる側の人間だ。いったい、どうしたっていうんだ。
 そんな思案顔のぼくを彼はのぞき込む。
「つまらない?」
「いや、そんなことないよ。なんか、意外だなと思って」
 その顔から笑みが薄れて、考えるような顔になる。
「おれが、モコちゃんを好きなこと? やっぱりイメージに合わないかなー。もちろんミリア姫も好きだけどね」
「ミリア姫?」
「知らないの? ほら、さっきのゴチミルだよ。あの子とモコちゃんがミュージカルの大人気アイドル。なんだ、知らないのか……」
「違うんだ。ぼくが意外だと思ったのは、校内チャンプなのに、ミュージカルのアイドルとかに憧れるのかって」
 マトは今までと違う表情で笑った。その笑みが何を表すのか、ぼくには分からない。
「当たり前だろ。校内チャンプなんて関係ないよ。ジンはそんなことを気にして校内チャンプをやってたのか」
 あぁ、と思った。その笑みは呆れた時に見せるものだったのだ。なんでそんなこと聞くんだよ、当たり前だろ。そういう笑み。ぼくはそんな笑い方をしたことがない。ぼくが校内チャンプとして聞かれることは、全てぼくだけが知っていることだったから。聞かれた人にちゃんと答えを返す。答えを知っているのはぼくだけ。でも、きっとぼくはずれていた。ずれているから、ずれていない皆の問いに答えられた。ぼくにはバトルや、育成というポケモンのことしかない。でも皆には、ミュージカルのことだってあったし、他にもぼくが知らない色んなことがあったのだ。ぼくはずれている。決定的に。
「ぼくには、バトルしかないんだ」
「じゃあ教えてやるよ。あ、でもモコちゃんはダメだからな。ミリア姫推しでよろしく」
 拍手に包まれて幕が降りていく。

 いいか、マトは切り出した。ミュージカルの醍醐味は自分だけのアイドルを見つけること。中には自分のポケモンを舞台に立たせる人もいるけれど、おれたちのようなバトル向けのポケモンを育ててるトレーナーは追っかけの方がちょうどいいんだ。彼は続ける。
 ミュージカルの後にはグッズ販売がある。舞台の写真とか、舞台で付けてたドレスアップ用のグッズとか。それらを集めるのはファンとしてそれなりのステータスになる。もちろん一番価値が高いのはブリーダーのサイン。ポケモンの足跡付きだと、さらに価値が高い。舞台の後でたまにブリーダーがロビーに居たりするから、その時を狙ってサインを貰いに行くのが普通。だから好きなポケモンのミュージカルはなるべく観に行くようにするんだ。
 彼は真顔で語った。ミュージックホールのロビーでグッズ販売をやっている。モコちゃんはやはり人気で、グッズを買うために列ができるほどだ。そういえば、クラスでもミュージカルの話をする人は結構いたような気がする。ぼくは興味がなかったから、あまり覚えていないけれど、男女問わず鞄に付けていたグッズは、ここで売っているものだったのかもしれない。
 グッズ販売のブースをのぞき込むと、色とりどりのグッズがあって、購買意欲をくすぐる。中でも青い首飾りがぼくの目を惹く。モコちゃんのグッズが多く並ぶ中で、その首飾りは隅っこに置かれて数も少なかった。ネコブの実に似た装飾品が三つ紐に通されている。
「あの首飾り、どのポケモンが付けてたの?」
「ん? ほら、そこに名前が書いてある。キイチゴだって。キイチゴ……あぁ、マラカッチかな。マラカッチ自体は派手なのに、なぜか地味に見えるやつ。気になる?」
 マラカッチがネコブの実のような装飾品を付けているところを想像する。確かにリボンやひらひらのスカートに比べれば地味に違いなかった。
「キイチゴの次の舞台っていつだろう」
「舞台のスケジュールは後ろ」
 エントランスのすぐ横を指さす。壁に掛けられたスケジュール表があり、明後日の舞台にキイチゴの名前があった。無性に見てみたいという感情が湧く。これが追っかけたいという感覚なのだろうか。
「明後日だね。じゃあ、明後日もう一度来るか? スクール終わってからでも最終公演に間に合うし、おれは大丈夫だけど」
 いいの? と言いかけて、ぼくは言葉を呑み込んだ。代わりの言葉を考えて言う。
「どうしてそこまで、ぼくのことを気にするんだ。ぼくは元チャンプで、君は現チャンプだぞ。しかも話したのは決勝戦のときだけだった」
「迷惑?」
「いや、そういうわけじゃなくてさ。なんでだろうって」
「それなら、いいじゃん。明日はおれも用事があるから来られないけど」
 好奇心なのか、嘲笑なのか。もしかしたら世間知らずなぼくを連れ回して、スクールでみんなに言いふらしているのかもしれない。可能性は十分にあったのだが、不登校のぼくが今さらそんなことを考える必要なんて欠片もなかった。
 ただ、マトにもクラスの皆にも、狭い部屋に閉じこもっていなければいけない気持ちなんて、理解できないんだろうな、そう思うだけだ。

 そういえば終業式だった。明日は終業式だ。外出する準備をしているぼくは、カレンダーを見て思い出した。校内戦は学期の終わりにやるものだから、校内戦が終わるともう、生徒たちは夏休み気分になるのだ。あと少しで夏休みになるのを今か今かと待っている。友達と予定を立てる横で、ぼくは育成の計画を立て始める。もちろん誘いなんて来ない。昔は誘われたこともあったけれど、ぼくがそのどれにも応じないことが分かってからは、誰も誘わなくなった。今年の夏休みの計画は白紙だ。なぜなら、校内チャンプになるという計画が破綻してしまったからだ。一つ予定が狂うと計画はなし崩しにだめになっていく。ぼくは校内チャンプにならなければいけなかった。なることのできないぼくは、自分じゃない誰かのようで、狭い部屋の中でじっとしていることしかできない――。
「なぁ、夏休みの予定とかあるの?」
 はずだった。校内チャンプになれなかったことで生じた白紙の計画。それは白紙でありながら、大した影響力を持っていて、狭い部屋に鍵をかけるというそれだけで計画になり得たものだった。それがさらに崩されようとしている。彼に計画を破綻させられるのは二度目なのだ。
「引きこもるつもりだったけど」
「正気? おれですらそれなりに予定立ててるのに、引きこもりかよ」
 ミュージカルホールに行く途中だった。マトとの関係は未だによく分からない。
「そういう気分なんだよ」
「おれに負けたから?」
「そうだよ。君に負けたからだ」
 ふぅん、彼は嬉しそうに唇を持ち上げた。
 ミュージカルホールに入って、一昨日買っておいたチケを切る。幕の下りた舞台の、すぐ正面の席に座る。モコちゃんとミリア姫のいない舞台は、一番良い席でも比較的に楽に入手することができた。恐らくそれだけじゃないだろう。今日の役者たちはあまり人気のあるほうじゃないのかもしれない。
 舞台の幕が上がった。確かに一昨日見た舞台と違って、あまり華やかではない。ドレスアップをしたエモンガ。その姿は可愛くないわけではないのだが、装飾品がどこか安っぽいし、子どもっぽい。シルクハットを被ったチラーミィ。チラーミィ自体は可愛いのだが、付けているグッズが良くない。素材を生かしきれていないように思う。飴玉の形をしたリボンで飾ったシママ。すっきりとした装飾はシンプルだ。ブリーダーの拘りが垣間見えるけれど、もう少し装飾したほうがいいような気もする。
「シママだな」
 いいや、違う。
 ネコブの実を象る装飾品。その三つの飾りを紐で結び、首から提げる。両手にはマラカスを持って、小さめの草冠を頭に乗せる。確かに派手な姿ではないマラカッチ。それでもぼくには、マラカッチのキイチゴが圧倒的なように思えた。地味で、目立たない。一昨日、ミュージカルホールを出た後にマトが、あの首飾りはオリジナルだな、と言っていたのを思い出した。きっと首飾りだけじゃなくて、草冠もオリジナルだ。自分のマラカッチにぴったりな衣装をブリーダーが想像して用意してるのだ。この子が舞台に立つとき、一番似合うものはなんだろう。リボンじゃない。シルクハットでもない。ステッキでもない。あぁ、これだ。きっとこの子には、この飾りが似合う。作ってしまおう。この子のために。そうした努力が垣間見える。地味だけど頑張り屋なのだ。
「な? キイチゴ、地味だろ?」
「地味だ。でも、ぼくのアイドルはキイチゴだ」
「まじ?」マトはあからさまな驚きを見せた。
 マラカスの音が鳴った。バックミュージックを引き立てるためのギミックとしては、これ以上にないくらいぴったりだ。地味ではあるが、この音がなければ、音楽の良さは半減する。不規則な音の連立。メジャーやマイナーの単純なダイアトニックの組み合わせを外れて、どこか民族的な音楽が流れる。この努力家の働きに気づいた観客はどれだけいるのだろう。多い数じゃなくていい。少なくていい。ぼくが気づいていればいい。キイチゴの魅力を独占できるなら、そっちのほうがいい。たぶんこの感覚が追っかけの感覚なのだろう。ぼくは舞台が終わったらネコブの首飾りを買うことに決めた。

 結局、舞台はシママの一番人気で終わった。やっぱりね、と誇らしげに言うマトに、それでもキイチゴが一番良かったよ、と返す。キイチゴは三番人気だった。
 グッズ販売のブースでネコブの首飾りを買おうとすると、販売員の女性に驚かれた。すぐに営業スマイルに戻して、嬉しそうにありがとうございます、と言うものだから、もしかしてキイチゴのブリーダーですか? と聞いてみたら、そうなのだと言う。サインを求めると快く承諾してくれた。綺麗な人だった。
「なんでキイチゴなの?」
 帰り道でマトが言う。
「努力してるなーと思って」
「そこが自分と重なったって?」
 ぼくは驚いて彼の横顔を見た。立ち止まると彼も立ち止まって、振り返って目が合う。
「努力してるだろ?」
「いや、ぼくにはそれしかないだけで」
「でも、努力じゃん」
 努力。そんな大それたことじゃない。ただ好きだから飽きもせず毎日、毎日――――。
「あぁ、そうか。ぼくは好きだったんだ。ポケモンを育成することが」
 遠くで夕日が傾く。観覧車が夕日を半分くらい隠している。
「やっと思い出したんだ」
 彼は決勝戦のあの日、ぼくに勝ったときのような表情で爽やかに笑った。
「いつ思い出すんだろうと思ってた。ジンってさ、いつも五番道路で修行してたよね」
 そうだ。ぼくはいつも五番道路に通っていた。多くの人が四番道路やリゾートデザート、ジムの横の広場などで鍛錬をする中、ぼくは五番道路の隠れ家のような草むらで修行していた。五番道路に人は多かったけれど、その草むらにはほとんど人が来なかった。そこで自分のポケモンたちを育てるのが好きだった。
「見てたんだ」
「たまにね。校内チャンプはこうやって修行してるんだなって思った。でも校内戦が終わってからは来ない日が何日か続いて、ジンは不登校になった。それから三日経っても来なかったから、家に行ったんだよ」
 結局のところ、ぼくは悔しかっただけなのかもしれない。毎日、育成をした。育成は好きだった。バトルも好きだ。育成の成果が出るときだから。そしてぼくは負けず嫌いだ。バトルで負けるというのは、ぼくの好きな育成を無駄だったんだと否定されたような気がする。だから勝ち続けなきゃいけなかった。それなのに、ぼくは負けた。他でもない彼に。
 次の日からぼくは、またひきこもりになった。

 狭い部屋の中にいる。ぼくは抜け出すことができない。庭からマトの声が聞こえたけれど無視をした。ごめん、と心の中で呟いて、なんでごめんなんて、そんな感情が湧いてくるのだろうと思った。少し親しくなったからか? それでもまだ何日も経っていない。彼が本当に考えていることなんて少しも分からない。彼はぼくの隠してきた日常を知っていて、その上、ぼくの地位を奪っていった人間だ。
 部屋を見渡す。ポールハンガーに、鞄と一緒にネコブの首飾りが掛かっている。キイチゴもそのブリーダーも努力家で、ぼくも努力家に違いはなかった。成功を知らないキイチゴのブリーダーは、譲らない姿勢でいつか大成することを夢見ている。ぼくは既に成功を知っていて、挫折を味わった後だった。ぼくにもキイチゴのような時期があったように思う。自分の好きなことを毎日繰り返し、いつかバトルで実を結ぶようにと、願いながら続ける。好きだから続けることができた。親にも周りの誰かにも、なんでそんなことを続けるのか、そう言われたこともあったような気がする。それでも続けた。その末に手に入れた校内チャンプの地位。三年間守り続けた地位だった。年上にも負けなかった。でも、四年目はなかった。どうせ、ミドルスクールにあがれば、遅かれ早かれ失ってしまう地位だっただろう。でもその時は納得できたかもしれない。ぼくが納得できないのは、同学年の、それも今までほとんど見かけることのなかったマトに負けたことが、悔しくて仕方なかった。彼も努力を続けていたのだろうか。狭い部屋から出られないぼくの気持ちを理解できるような、そんな時期があったのだろうか。
 カーテンの隙間から庭を覗き込む。ちょうどマトが帰ろうとして、背を向けているところだった。ぼくは部屋を出て、階段を駆け下りた。

 急いで家を出たのに、マトの姿はどこにもなかった。彼がいそうな場所を手当たり次第に探す。ミュージカルには居ないし、周辺の道路にも居なかった。
 呼吸が荒れている。久しぶりに走った気がした。五番道路に通っていた頃は、いつも走っていたのに。家に戻りたいとは思わなくて、ポケモンセンターの外壁に凭れて座る。夕日が落ちて、辺りは完全に真っ暗になった。
 ポケモンセンターの自動ドアの前は、電灯で照らされている。そこに来たのはマトだった。日が落ちてかなり時間が経ったころだと思う。暗くて気づかなかったのか、外壁には視線を向けないでポケモンセンターに入っていく。ぼくは息を殺して彼を待った。
 彼が出てきたのを確認すると、静かに尾行を開始する。向かったのはジムの横の広場だ。夜の広場は昼間と違って静かで、人はほとんどいなかった。彼はそこでポケモンを出して、育成を開始する。
 それが、現チャンプの秘密だった。
 昼間は人が多くて育成がしづらい。恐らく色んな場所を探してみたのだろう。五番道路の隠れ家的な草むらを見つけて、来てみたらたまたまぼくがいたのだ。それが校内チャンプだと気づいて、彼はたまに覗くようになった。昼間はそうやって過ごし、夜になって、人が居なくなった頃を見計らって育成を開始する。彼も陰の努力家だったのだ。こんな暗い場所で修行する。明るい場所を目指して。
 ぼくは気づかれないように音を殺して、静かに狭い部屋に帰った。

 夏休みに入って何日か過ぎた頃、再び彼がやってきた。呼び声に応えてぼくは下りていく。
「今日はさ、ミドルスクールの地方大会があるんだよね。スクール対抗のやつ。ただで観戦できるんだけど、行ってみない?」
 マトは無視されたことについて何も言わなかった。何もなかったかのように、前回合ったときと同じ調子で話す。
 大会はビッグスタジアムを借りて行われていた。各ミドルスクールの代表が出ているだけあって、バトルをしているポケモンは皆強かった。強いと思ったポケモンでも、対戦相手はさらに強く、一撃も与えられずに敗れてしまう試合があった。たかがエレメンタリースクールの校内チャンプになっただけで、自分はあまりにも自惚れていたのだということに気づく。ここまで差があるのか。ぼくは愕然とした。マトはにやりと笑った。
「やっぱり、強いな。ジンみたいに毎日努力を怠らないで、それをミドルスクールまでずっと続けているような人しか、代表にはなれないんだよな。そりゃ、強いわけだ」
「何言ってんだ。君だって毎日努力してるだろ」
 マトが笑みを潜めて見つめてくる。歓声にスタジアムが沸いた。互いに相手の表情を読み取るぼくと彼は、なぜ歓声が起こったのか分からない。意識は隣にいる相手に向いている。
「いつもジンと遊んでる。おれは努力なんてしてないよ」
「それは嘘だよ。ぼくと別れた後、夜になったらいつも広場に行ってた。そうだろう?」
「なんだよ、ばれてたのか」

 スタジアムを出ると、マトが唐突に「なぁ」と言った。
「一度、一緒に修行してみないか? どうせ夏休み暇だろ? ミュージカルに行ってさ、その後にあの隠れ家みたいな草むらに行くんだ。楽しそうだろ?」
 楽しいことに間違いはないだろうと思う。けれど、ここまできてもまだ、ぼくには疑問が残る。どうして彼は。
「どうして、君はぼくに付きまとうんだ」
「あれ、迷惑じゃないって言わなかったっけ?」
 そうじゃない。ぼくは言った。そうじゃなくて、動機は何なんだ。ぼくにはまったく理解ができない。元チャンプと現チャンプ。決勝戦で戦っただけの関係だというのに。
「おれさ、実は友達いなくて」
 ぼくたちの足は自然と五番道路の草むらに向かっている。
「きっとジンも同じなんじゃないかと思ったんだ。クラスメイトとは話をする。でもそれは上辺だけの付き合いで、実際は友だちなんかいない。育成とか、バトルとか、本気で切磋琢磨する友だちが欲しいんじゃないかって、思ってたんだ」
 そうなのだろうか。ぼくはそう思っていたのだろうか。校内チャンプだった頃は、現状に十分満足していた。でも引きずり下ろされた今、たしかにそうした相手がいないと動き出せなかった。一度挫折した世界に、一人で戻る気力がもはや沸いてこなかった。
「逆におれも聞きたい。なんでジンは、そんなこと気にするんだ。おれと友だちになるのが嫌なのか?」
 ぼくは歩きながら少し悩んだ。今まで考えてはいたけれど口にしてこなかったことを言うかどうか。そして、ぼくは結局言うことにした。
「君とか、クラスの皆には、狭い部屋の中に閉じこもる心情を理解できないんだと思った。ぼくは、挫折とか、そういう、なんていうかな、自分の心の奥底にあるものをぶっ壊されたんだよ。君とかは、その気持ちが理解できないと思ったんだ」
「たぶんそれ、アイデンティティーって言うんだろ」
「そう、きっとそれ。それが壊されたとき、ぼくは狭い部屋の中にいることを自覚したんだよ。世界には色がなくて、こんなにも狭いのかって。ぼくは今まで何をしてきたんだろうって」
「なんだ、そんなことか。なんだよ、ははは」
 マトは笑い出した。ぼくたちは五番道路の草むらに足を踏み入れ、ぼくはどうして笑うんだよ、と言った。勇気を出して告白したぼくは、腹が立って仕方がなかった。
「そんな小さなことで悩んでたのかよ」
「小さなこと? そんなわけないだろ! ぼくにはバトルしかなかった! ミュージカルとか、他にも色々な日常がある君とは違うんだよ!」
「それは、ジンが知らなかっただけだろ。いいか、おれだって部屋の中にいるんだ。狭い部屋の中に」
 馬鹿にされてるのだと思ったから、何か言おうとして彼の顔を見たら、珍しく真剣な顔をしていた。彼がこんなに真剣な表情をしているのを初めて見た。
「知ってる? イッシュ地方にいくつ部屋があるか」
 なんだそれは、と思った。どういう意味だろう。
「知らないよ」
「十五だよ。人によっては数え方が違うかもしれない。でも部屋があることに気づいた人は、みんな思うんだ。十五のうち、どの部屋も狭いんだって」
 なんで十五なんだろうと考えていると、彼は話を続けた。
「街の数だ。おれたちは、誰もが狭い部屋の中にいる。ジンとは何日か遊んだけど、そのどれもがライモンシティ、狭い部屋の中だけの出来事だろ?」
「それは、時間もお金もなかったから」
「そうだよ」
 彼がぼくの言葉に重ねる。
「だから出られないんだ。おれたちは狭い部屋から出られない。でもたまに、広い世界を垣間見ることがある。今日の大会みたいにさ。なぁ、悔しくないのか。ジンは狭い部屋の中で一番を取って、それで満足なのか」
 言葉を失った。ぼくは狭い部屋の中にいる。違う。違ったのだ。ぼくだけじゃない。ぼくたちは狭い部屋の中にいる。それがどうしようもなく正しくて、決定的で、今まで狭い部屋の中にある、さらに狭い自分の部屋に引きこもっていた自分は、何なのだろうと思った。内向的で、それこそ何も生み出さない。
「クラスのみんなは、ジンに関心がなくなったわけじゃないよ。みんなだって狭い部屋から出て行きたいんだ。だから、狭い部屋から出て行く足がかりになりそうな、校内チャンプに近寄っていく。みんなは校内チャンプに関心があるだけなんだ。狭い部屋から出て行くことに関心があるだけなんだ。無意識だから、それに気づいている人は少ないだろうけどね。そんな下心が見えてしまったら、友だちなんていないんだって思い知るだろ?」
 その時になって初めて気づいた。ぼくが彼に負けてしまった理由。それは単純に努力の差とか相性とか、そういう問題じゃない。彼は部屋の広さを知っていたし、とても小さな窓から、外の景色を眺めるということを知っていた。いつか出て行くのだと、そんな夢を持っていた。意思の強さが比較にならないほどった。そうして今、ぼくは部屋の広さを知った。ここはどうしようもなく狭いのだ。校内チャンプか、校内チャンプじゃないか、そんなこと、窓の外からしてみれば、まったくもってどうでもいいことだった。
「一緒に部屋の外に出よう。二人で修行しよう。もっと、強くなろう」
 彼の言葉にぼくは頷くことしかできなかった。その時、雨が降った。雫が二つ。草むらに消えた。空を見上げてみると、太陽が眩しかった。手で目を覆う。目頭に触れると、手が濡れた。ぼくは泣いていた。

 夏休みを毎日、彼と過ごす。彼というのは他でもないマトのことだ。育成、バトル、時にはミュージカル。彼はモコちゃんのブリーダーを見つけて、その子が可愛い女の子だと分かると、あっさり恋に落ちた。けれど恋に溺れるわけでもなく、ポケモンのことや将来のことになると、途端に真面目になって打ち込んだ。ぼくたちは夢を語る。チャンピオンになりたい。二人の夢が同じだったから、どっちが先になれるか競争しようということになった。
 そしてもう一つ。彼はモコちゃんのブリーダーと付き合うことを最近の目標にした。
 それを言う度に、ジンはどうなんだよ、と言ってくる。キイチゴのブリーダーは確かに綺麗な人だ。綺麗なお姉さん。でも、まあ、ぼくには無理だろう。もちろんそういう感情がないわけではないけれど、そういうのじゃないって、と返事をする。
「やったよ! サインだ! うわあああ、サインだ!」
 キイチゴとモコちゃんが一緒に出ている舞台が終わった帰り道のこと。舞台が終わった後、珍しく姿を現したモコちゃんのブリーダーを捕まえて、サインを貰った。夕日に染まった彼の横顔はすごく嬉しそうだった。彼の目標は着実に進展しているようだ。
 もちろん、夢の方も。
「ジン! 今度観覧車に乗ろうぜ! 二人で!」
「それは違うだろ! 恋人同士じゃないんだから!」
 ふざけ合って見上げた観覧車は夕日を背負っていた。大きな観覧車からはきっと、狭い部屋の外がよく見えるのだろう。そう考えると、乗ってみるのも悪くない気がした。

 ぼくたちは狭い部屋の中にいる。けれど、そのことに気づいたぼくらは、いつかきっと、真実の世界を目にするのだろう。
 
> しんせつポケモン 作:アニー
しんせつポケモン 作:アニー
「じゃあグレイシア、今日も留守番は頼んだ」
 主人はそう言って、私を今日も部屋に置き去りにしたまま、タマムシマンションの部屋を後にしてしまった。苛立ちを感じて、私は玄関の前で伏せる。無意味であることは分かっているけど、なぜかこうしてしまう。
 私はグレイシア。私がイーブイだった時、とある育て屋のお爺さんのもとを尋ねた青年、つまり今の主人に私をプレゼントした時から、この日々は始まった。
 何故お爺さんがその主人にプレゼントしたかと言うと、とある少女のトレーナーが、私の入ったタマゴはもういらないと言ったため、お爺さんがもらってしまったからだ。
 しかし結局、お爺さんは自分が持っててもしょうがないと思ったわけだ。
 ……そして、今の主人との生活が続いている。主人は社会人であり、毎日働きに出ている。それで私はそこには不要らしい。不満が募る。毎日毎日、部屋に閉じ込めてばかり。外を満喫させようとは決してしないのだ。
 最近外を味わったと言えば、シンオウ地方へ旅行に行った時ぐらい。そして次々に降り注ぐ雪の積もる場所で、私は進化をした。
 だが、進化をしてもそれっきり。部屋から出されることは一向にない。もっと外を満喫したいというのに、実にぞんざいな扱いだ。いつもいつも変わらない場所に居させられる。勝手に出ようにも、鍵は構造的に開けられない。
 モンスターボールの中でずっと過ごすよりはいいのかもしれない。しかしモンスターボールの中は案外快適だとも聞いた。それでも主人はモンスターボール一個のお金すら削って買わない。
 正式にはあの主人の手持ちにはなっていないということだ。まぁ、トレーナーじゃないから当然かもしれないが。
 とはいえ、テレビで見る限り、主人のような、ポケモンとはあまり関わりのない仕事をする人間でも、今の時代はトレーナー当然にポケモンを使ってバトルするそうではないか。

「ただいまっ!」
 夜になって、主人が帰ってきた。今日も元気らしい。私がかまって欲しくてそっぽ向いているのも無視して、せっせと着替える。
 主人は帰る前にどこかで夕食も入浴も済ませてしまうために、帰ってからは寝る以外特に何もしようとしない。
 私を完全に無視するわけではないらしく、主人は買ってきたらしいポケモンフーズを、専用の皿の中に入れる。
 
「今日はお前も一緒に寝るかー? 来いよ」
 珍しく主人は私を呼んだ。部屋の電気を消して、ベッドで寝ようとしているらしい。でも、私が希望するのはそんなことではない。聞こえないふりをする。
「ほら、来いよ」
 主人は私に近付いてきて、私をベッドに連れ入れた。だが、すぐにそこから出て行った。
「あれ、おっかしいな……。なついてないのか? 前はそんなんじゃなかったはずだが……
 散歩してあげようにも、そうする訳にはいかないしなあ」
 その最後の一言で思い出したことがある。以前、ロケット団だとかいう連中がこの町にやってきて騒動を起こした。町にいる人間のポケモンを奪い去ろうとしたのだ。
 忘れかけていたが、その時、私と主人はその現場にいた。だが何とかその事件は、どこかしらの少年がロケット団を一人一人倒していくことで終結した。
 私を部屋に閉じ込めるのは、その教訓だろうか。なんだか、やっぱりテレビで見るトレーナーとは考え方が違う。戦うポケモンに何かしら憧れがあり、自分もそうやって生きてみたいと思うが、主人はそうはしてくれなかった。モンスターボールを買わないことからも分かる。
 主人が幸せなら、それでいいかとも思えてきて、いつもより複雑な心情に駆られ、夜を過ごした。


 そんなある日である。いつも元気なはずの主人が、何も言わずに帰ってきた。それも、夕方に。
「もう、俺はおしまいだ……。どうするんだこの先……」
 主人は涙を流しながら鼻をすすり、ベッドの中に潜り込んだ。一体どうしたのだろうか……。
 あの元気な主人が……。何故、こんな……? 気になって、主人に近付く。
「おっ、お前……一緒にいてくれるのか? 前はアレだったのに……。可愛い奴だ」 
 いつの間に何をしているのだろう。何故私は目を閉じながら、泣く主人に付き添っているのだろう。親切してあげたい、という気持ちがあったのか。
「親切ポケモン、グレイシア……。進化しておいて良かったな。でも、理由はそれだけじゃないだろうな」
 そうか、私が親切ポケモンだからか。理由? それにより、心に眠る親切心が起きて、こうして体が主人に親切しようと、働くに違いない。ひんやりとした体が空気を冷やし、主人を包む。
「……そうか。俺がこの部屋に閉じ込めていたからか。そりゃ怒るよな。俺が悪かった。明日は連れてってやるよ。明日からまた帰るのは早くなるからさ」
 体から発する冷気の中の意志が、主人に伝わってくれたらしい。その主人の言葉によって、体から逆立つ感情が、ますます空気を冷やしていく。まるでクーラーのように。
 なお、主人が泣いていた理由は、彼女に振られたからだそうだ。だから主人は夜も遅く、風呂も夕食も外で済ませていたのだ。
 何だか理由を聞いて、それが気にいらなかった私は、なぜかまたすぐに不機嫌になってしまった……。
 
> 中々々 作:ねっこ
中々々 作:ねっこ
 朝でも夜でも、晴れでも曇りでも雨でも雪でも、僕の部屋は変わる事なく真っ暗闇のまま。
 この部屋に来て以来、ここから外に出た試しもない。僕自信が望んだ事ではあるけれど、こうも真っ暗闇が続くと退屈だ。
 時々、僕の主がご飯を渡してくれる。その時だけは、ほんの少し明るい外が見えるんだ。でも、直ぐにまた真っ暗に変わる。
 もちろん、助けてくれたことは感謝してる。仲間からはぐれていた僕を見つけて、僕の家に来ないか、って誘ってくれたときは嬉しかったけど。
 餌を探す必要もないし、敵に襲われる心配もない。この暗さと退屈さ以外は至って快適な場所だ。
 ただ、やっぱり外に出てみたい気はする。主はどうやらどこかへ行ったみたいだし、こんなチャンス滅多にないんだ。少しくらいなら。
 
「ほら、ご飯だよ」
 
 床に置かれたお皿の上には山盛りのポケモンフーズ。ご飯はくれるから良いんだけど、この薄暗い部屋じゃちょっと暇。
 できればやっぱり外に出て遊びたいところ。とはいっても、主人の言いつけを破ったらどうなってしまうやら。
 偶然主人が助けてくれなかったら、僕は動けないままであの草叢に横たわっていたんだろうか。
 罠だか何だか知らないけれど、悪戯にしても度が過ぎていた代物。足を挟まれていた僕に手を差し伸べてくれたのが今の主人。
 野性の頃に比べると随分と快適な生活にはなった、とはいえ。住むところには寧ろ不満が増えてしまった。
 せめてどこか走り回れるような広い場所が欲しいところ。種族柄あちこち歩き回りたくなってしまうのだから仕方ない。
 このまま待っていてもたぶんそんなチャンスは訪れないんじゃないだろうか。主人のいない間にいって戻ってくればばれないはず。
 ご飯を置いた後、主人は僕の部屋の戸を閉めてどこかへ出かけていった様子。部屋の外に響く音が小さくなって、消えた。
 僕は部屋の中に向かって、「行って来ます」と一言。そしていよいよ戸の隙間に前足を突っ込む。さあ、旅立ちの時だ。
 
「それじゃ、がんばってね」
 
 バタン、と閉められたこの部屋唯一の扉。二階と言ってもそれなりの高さ、窓から出ようとは流石に思わない。
 フローリングの廊下を歩く足音が遠のいていく。階段に差し掛かったのだろう、そのテンポがゆっくりになった。
 外はきらきらお日様の晴れ模様。こんな天気の良い日なんだから、死ぬことに、じゃなくて遊びに行きたい。
 けれど机には未だ山積みの宿題達。小学生だったときよりも多いんじゃないか。中学生になったんだから少しくらい減らしてくれたって。
 ぶつくさ言っても始まらない。椅子に腰掛けて、形だけでもとシャーペンを手に取る。山積みのドリル、さてどれから手を付けようか。
 数学、国語に理科社会。英語なんてもってのほか。どれも全く興味をそそらない。そりゃあ課題ってそういうものだけどさあ。
 邪魔者も今は下にいるみたいだし、この様子なら上手くすれば抜け出せるんじゃないか。今日一日課題をやらなくても、また明日があるさ。
 ご飯は少し前に終わってるし、このまま出て行っても問題ないはず。さてと、それじゃあ行って来ます!
 
 小さな部屋の外は、さっきよりも幾分か明るい広めの場所。さらにその奥には一筋の光が差す大きな出口らしき物が。
 あの先は何だろうか。仲間と一緒の間も見たことはない、明るい場所。ちょっと眩しいけれど、そこに向かって一直線。
 
 狭い部屋の外は、そこそこ明るくてそこそこ広い閉じられた空間。連れてこられたときは気を失ってたから、部屋の外を見るのは初めてだ。
 でもまだ走り回るのには狭い。どうせなら草原に行きたいんだけどな、と思っていたところに、脱出できそうな隙間が。行くしかないよね。
 
 ゆっくりゆっくりと階段を下りていく。見つかったら当然部屋に戻されちゃうから、ここは慎重に。音を立てないように、そーっと。
 カタッ、と固い者同士が軽くぶつかる音。小さな音に振り向くと、そこには見慣れた茶色の毛並みが、見慣れない場所に立っている。
 
「こら、出てくるなって言っただろ、早く戻って!」
 
 まさかご主人がまだこんな所にいたなんて。音が消えてから随分と経っていたから、もう大丈夫だと思っていたのに。
 渋々さっきの隙間を通って部屋に戻ろうとする僕。部屋の中には見慣れた黄色い小さな虫ポケモンが、見慣れない場所で動いている。
 
「な、お前、出ちゃ駄目だって言ったのに!」
 
 なんで急に主が戻ってきたんだろう。そもそも出て行くこと自体全然無かった気がするけど、まさかこんなに直ぐ戻ってくるなんて。
 けれども見つかったなら仕方ない。大人しく僕の部屋に戻ることにしよう。と、この広い外の一角が大きく動いた。何だろう、とそこを凝視していると。
 
 ヨーテリーが部屋で吠えるから慌てて戻ってみると、部屋の隅、僕がヨーテリーを隠していた押し入れの近くには、なんと別のポケモンが。
 黄色い小さなポケモン、確かバチュルとか言ったはず。そういえば屋根裏で見かけたとか何とか親が言ってた気はするけれど、確か全部追っ払ったんじゃ。
 さっきから僕と目を合わせてくれないヨーテリー。バチュルは僕に怯えている様子だ。待てよ、なんでバチュルはヨーテリーを怖がらないんだろう。
 まさかこいつ、バチュルを匿ってたんじゃないか。あの押し入れにはお誂え向きに小さな箱も押し込んであるし、隠す場所はいくらでも。
 
「ヨーテリー、お前、僕に隠れて……ったく、何やってるんだよ!」
 
 怒るのは後だ。とりあえず怯えるバチュルをヨーテリーと一緒に押し入れに隠さないと。ヨーテリーの声、聞かれてなければ良いんだけど。
 ヨーテリーに手を伸ばしたその瞬間、部屋のドアが一気に全開に。音で気がついて振り向くと、鬼が、じゃなくて鬼のような形相をした母さんが。
 
「あ、はは、は……」
 
 ヨーテリー、さっきはごめん。僕も人のこと、言えない、かな……。

END
 
> 歪み 作:来々坊(風)
歪み 作:来々坊(風)
 その崖からは煌びやかな海が遠くに見えた。
 その海はまるでガラス細工のように澄んでいて、遠くからでもその美しさが良くわかった。
 その崖から海を見るには森のとても複雑な道を抜けねばならぬので、その崖は俺だけの秘密の場所のようなもので、何時も俺以外の人間はいなかった。
 俺は物心付いた頃から、何か嫌なことがあるたびにこの崖に足を運んでいた。
 かなりの高さがあるその崖から飛び降りれば、ほぼ確実に命を絶つことが出来るだろう。だが、実際にその高さを目の当たりにすれば、たちまち足がすくんで、飛び降りる気など無くなってしまう。
 そうして俺はその崖の、海が見えない場所まで下がって、蹲って考え込む。
 何故俺がこのような目にあわなければならないのか、何故人生とはこうもややこしいのか。現実を隅に追いやって自らを呪うのだ。
 今日も嫌なことがあった俺は、命を断とうとその崖まで足を運び、死ぬのも嫌になって、蹲って自らを呪っていた。
 すると、背後から声がした。
「君は、こんな所で何をしているのかね?」
 声の方を見ると、身なりのいい中年の男がそこに居た。
 俺はとても驚いた。この場所に人が居るのを見たのはこれが初めてだったからだ。
 だが、その時俺は虫の居所が悪く、ついついぶっきらぼうに、
「あなたには関係ないでしょう」
 と答えた。
 紳士は、少し困った表情をしたが、やがて「そうか」とつぶやくと、崖の方に歩みを進めた。
 俺は一瞬、紳士が身を投げるのではないかと心配になった。自らが死のうとしていたのに、他人の死は受け入れられない。
 しかし、紳士は腰からモンスターボールを取り出し、中からポケモンを出現させた。
 そのポケモンは、俺の記憶が正しければスリーパー。
 紳士がスリーパーに何か二三言声をかけると、スリーパーは両手を挙げ、何かを念じ始めた。
 すると、崖の先に何か半透明で立方体の物が出現した。それはかなり大きく、旅行用のバスがそのまますっぽりと入ってしまいだ。
 それから何分か、紳士もスリーパーも行動を起こさなかった。俺は不思議になって、
「あんた、何してんだ?」
 と聞いてしまった。
 紳士はゆっくりとこっちに顔を向けて、にこやかな表情でそれに答えた。
「君が何をしているのか教えてくれたら答えてあげよう」
 その返答に、少しむっとしたが、直前に俺がとっていた行動を思い出し、少し恥ずかしくなって小さく笑いながら答える。
「別に何も、考え事を少し」
 死にたくなった、等とはとても言えない。
「そうか、確かにここは考え事に相応しい場所かもしれないな」
 紳士は穏やかにそう言うと、地面に落ちていた石ころを拾った。
 そうして少し考えて。
「私は、そうだな、神様に逆らっていると言えば良いのかもしれない」
 紳士の返答はかなり辺鄙で、俺はこの紳士の人柄が良くつかめない。
 かなり間抜けな顔をしていたのだろう、紳士はハハと笑い、「まぁ見たまえ」と持っていた石を立方体に向けて投げつけた。
 石は、立方体に入るとそれまでの勢いを失い、ゆっくりと進む。
「不思議だろう、私のスリーパーが繰り出しているトリックルームという技だ」
 トリックルームという技には聞き覚えがあった。
「遅いもの早く、早いものは遅くって言うあの」
「そうとも」
 しかし、トリックルームという技はバトル中などに効果を発揮するもので、どう考えても今何も無い場所でうつべき技ではない。
「何でそれをここで?」
 紳士はむっと、黙り込んでしまった。自分が伝えたい事をどうやって言葉にすれば良いのか考えているのだろう。
「私は、運命とか、定めとか、そう言うものが嫌いなのだよ。そうやって自然の流れに身を任せて、それをよしとしているのが嫌いだ。そんなものは行動を起こさない自分達を正当化しているに過ぎない、神などいるわけがない」
 紳士はここで一息つき、また立方体の方を見て。
「だから私は捻じ曲げてやっているのだ、運命とか、定めとか、そう言う不確定なものを」
 正直なところ、紳士の言っていることはあまり理解できなかった。
 かといってそのすべてが理解できないわけではない。
 俺が言葉を繋げないでいると、紳士は俺のほうを見て、
「君がもし何かに悩んだとして、それを運命とか、定めとか、自らの人生の所為にしては駄目だ、それでは一生自らで切り開けぬ、他人に利用されるだけで終わってしまう。こんな場所で考える前に行動したまえ」
 息が詰まるほど、鼓動が大きくなった。
 まるで心の中が見透かされているようだった。
 その言葉は、考えようによっては救いの言葉に聞こえ、考えようによっては激励の言葉にも聞こえた。
 俺は始めて会ったその紳士が、自分にとって救世主のような気がしたのだ。
 しかし、俺はすぐに気付いて心の中で笑う。その救世主そのものがそう言うものを否定しているのだ。イケナイ、イケナイ。
「あの」
 俺は地面から立ち上がって体を紳士の方に向ける。
「ありがとうございました!」
 そうして頭を下げて、俺はその場から去った。行動したのだ。





 その海は、日が落ちてもなお、月の光を浴びて煌いていた。
 その澄んだ海こそ、私の獲物が来る証拠。
 私の横には相棒のスリーパーと、スリープ、ムウマが居た。
 私は調べに調べ上げた、そうして、何度ものチャンスを確認に費やし、今日ここに獲物が来るという予想をほぼ確実なものにしていたのだ。
 掌に汗をかき、喉が渇く。
 緊張を紛らわすために先に居たあの少年との会話を思い出して笑う。
 偽りのつもりでつむいだあの言葉は、果たして本当にすべて偽りだろうか。
「神など、居ないか」
 少しばかりの恥ずかしさで、肩の力が抜けたとき。
 闇を切り裂く北風と共にトリックルームの中に獲物が入った。
 獲物はトリックルームに驚愕の表情を見せ、体をよじる。
「金縛り!」
 獲物がトリックルームに気付き、攻略する前に、スリープが金縛りを仕掛ける。
 トリックルームにのお陰で、動きが緩くなっている敵に、金縛りが成功する。
 いくらトリックルームとはいえ、動けぬものに速度は与えない。
 獲物は体を煌かせ、トリックルームを破壊しようとする。
「くろいまなざし!」
 普段ならば絶対に当たらぬが、動きを止めた獲物にムウマの黒いまなざしが成功する。
 何年もの間、この状況をシミュレートしていた。
 これでもう逃げられぬ、私の獲物はもはや相棒の作り出したトリックルームに私が許さぬ限り幽閉される。
 獲物の体毛は夜であるのにもかかわらず、月の光を受けてちょうど崖から見える海のように煌びやか。
 獲物の澄んだ目は、まるで悪を知らぬ、湧き水の優しさを宿している。
 あぁ、私の獲物。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、どれだけの痩せた土地に緑が生い茂るだろう。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、水をめぐるくだらない紛争、無意味な殺戮、独裁をどれだけ鎮めることが出来るだろう。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、水質汚濁に苦しむどれだけの生命が救われるだろう。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、私にどれだけの富が、金が集まるだろう。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、私にどれだけの名声が集まるだろう。
 水を清めるこのポケモンに力があれば、どれだけの人間が私を神だと崇めるだろう。どれだけの人間が私の思い通りに動くだろう、昼間のあの少年のように。
 あぁ、私の獲物。
 優しさに満ちたその目で、どれだけ私を睨もうと、私は怯みなどしない。
 あるいは私に慈悲の心があれば、また違った結末なのだろうが、そのような気持ち無いに等しい。
 相棒たちは消耗していた、三対一とはいえ伝説のポケモン相手だとこうなるのも仕方ないのだろう。
 震える手を押さえつけ、ボールを取り出す。
 あぁ、私は神になる。
「スイクン、我が物に」
 私は紫色のボールをゆっくりと投げた。
 
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