> 歪み 作:来々坊(風)
歪み 作:来々坊(風)
 その崖からは煌びやかな海が遠くに見えた。
 その海はまるでガラス細工のように澄んでいて、遠くからでもその美しさが良くわかった。
 その崖から海を見るには森のとても複雑な道を抜けねばならぬので、その崖は俺だけの秘密の場所のようなもので、何時も俺以外の人間はいなかった。
 俺は物心付いた頃から、何か嫌なことがあるたびにこの崖に足を運んでいた。
 かなりの高さがあるその崖から飛び降りれば、ほぼ確実に命を絶つことが出来るだろう。だが、実際にその高さを目の当たりにすれば、たちまち足がすくんで、飛び降りる気など無くなってしまう。
 そうして俺はその崖の、海が見えない場所まで下がって、蹲って考え込む。
 何故俺がこのような目にあわなければならないのか、何故人生とはこうもややこしいのか。現実を隅に追いやって自らを呪うのだ。
 今日も嫌なことがあった俺は、命を断とうとその崖まで足を運び、死ぬのも嫌になって、蹲って自らを呪っていた。
 すると、背後から声がした。
「君は、こんな所で何をしているのかね?」
 声の方を見ると、身なりのいい中年の男がそこに居た。
 俺はとても驚いた。この場所に人が居るのを見たのはこれが初めてだったからだ。
 だが、その時俺は虫の居所が悪く、ついついぶっきらぼうに、
「あなたには関係ないでしょう」
 と答えた。
 紳士は、少し困った表情をしたが、やがて「そうか」とつぶやくと、崖の方に歩みを進めた。
 俺は一瞬、紳士が身を投げるのではないかと心配になった。自らが死のうとしていたのに、他人の死は受け入れられない。
 しかし、紳士は腰からモンスターボールを取り出し、中からポケモンを出現させた。
 そのポケモンは、俺の記憶が正しければスリーパー。
 紳士がスリーパーに何か二三言声をかけると、スリーパーは両手を挙げ、何かを念じ始めた。
 すると、崖の先に何か半透明で立方体の物が出現した。それはかなり大きく、旅行用のバスがそのまますっぽりと入ってしまいだ。
 それから何分か、紳士もスリーパーも行動を起こさなかった。俺は不思議になって、
「あんた、何してんだ?」
 と聞いてしまった。
 紳士はゆっくりとこっちに顔を向けて、にこやかな表情でそれに答えた。
「君が何をしているのか教えてくれたら答えてあげよう」
 その返答に、少しむっとしたが、直前に俺がとっていた行動を思い出し、少し恥ずかしくなって小さく笑いながら答える。
「別に何も、考え事を少し」
 死にたくなった、等とはとても言えない。
「そうか、確かにここは考え事に相応しい場所かもしれないな」
 紳士は穏やかにそう言うと、地面に落ちていた石ころを拾った。
 そうして少し考えて。
「私は、そうだな、神様に逆らっていると言えば良いのかもしれない」
 紳士の返答はかなり辺鄙で、俺はこの紳士の人柄が良くつかめない。
 かなり間抜けな顔をしていたのだろう、紳士はハハと笑い、「まぁ見たまえ」と持っていた石を立方体に向けて投げつけた。
 石は、立方体に入るとそれまでの勢いを失い、ゆっくりと進む。
「不思議だろう、私のスリーパーが繰り出しているトリックルームという技だ」
 トリックルームという技には聞き覚えがあった。
「遅いもの早く、早いものは遅くって言うあの」
「そうとも」
 しかし、トリックルームという技はバトル中などに効果を発揮するもので、どう考えても今何も無い場所でうつべき技ではない。
「何でそれをここで?」
 紳士はむっと、黙り込んでしまった。自分が伝えたい事をどうやって言葉にすれば良いのか考えているのだろう。
「私は、運命とか、定めとか、そう言うものが嫌いなのだよ。そうやって自然の流れに身を任せて、それをよしとしているのが嫌いだ。そんなものは行動を起こさない自分達を正当化しているに過ぎない、神などいるわけがない」
 紳士はここで一息つき、また立方体の方を見て。
「だから私は捻じ曲げてやっているのだ、運命とか、定めとか、そう言う不確定なものを」
 正直なところ、紳士の言っていることはあまり理解できなかった。
 かといってそのすべてが理解できないわけではない。
 俺が言葉を繋げないでいると、紳士は俺のほうを見て、
「君がもし何かに悩んだとして、それを運命とか、定めとか、自らの人生の所為にしては駄目だ、それでは一生自らで切り開けぬ、他人に利用されるだけで終わってしまう。こんな場所で考える前に行動したまえ」
 息が詰まるほど、鼓動が大きくなった。
 まるで心の中が見透かされているようだった。
 その言葉は、考えようによっては救いの言葉に聞こえ、考えようによっては激励の言葉にも聞こえた。
 俺は始めて会ったその紳士が、自分にとって救世主のような気がしたのだ。
 しかし、俺はすぐに気付いて心の中で笑う。その救世主そのものがそう言うものを否定しているのだ。イケナイ、イケナイ。
「あの」
 俺は地面から立ち上がって体を紳士の方に向ける。
「ありがとうございました!」
 そうして頭を下げて、俺はその場から去った。行動したのだ。





 その海は、日が落ちてもなお、月の光を浴びて煌いていた。
 その澄んだ海こそ、私の獲物が来る証拠。
 私の横には相棒のスリーパーと、スリープ、ムウマが居た。
 私は調べに調べ上げた、そうして、何度ものチャンスを確認に費やし、今日ここに獲物が来るという予想をほぼ確実なものにしていたのだ。
 掌に汗をかき、喉が渇く。
 緊張を紛らわすために先に居たあの少年との会話を思い出して笑う。
 偽りのつもりでつむいだあの言葉は、果たして本当にすべて偽りだろうか。
「神など、居ないか」
 少しばかりの恥ずかしさで、肩の力が抜けたとき。
 闇を切り裂く北風と共にトリックルームの中に獲物が入った。
 獲物はトリックルームに驚愕の表情を見せ、体をよじる。
「金縛り!」
 獲物がトリックルームに気付き、攻略する前に、スリープが金縛りを仕掛ける。
 トリックルームにのお陰で、動きが緩くなっている敵に、金縛りが成功する。
 いくらトリックルームとはいえ、動けぬものに速度は与えない。
 獲物は体を煌かせ、トリックルームを破壊しようとする。
「くろいまなざし!」
 普段ならば絶対に当たらぬが、動きを止めた獲物にムウマの黒いまなざしが成功する。
 何年もの間、この状況をシミュレートしていた。
 これでもう逃げられぬ、私の獲物はもはや相棒の作り出したトリックルームに私が許さぬ限り幽閉される。
 獲物の体毛は夜であるのにもかかわらず、月の光を受けてちょうど崖から見える海のように煌びやか。
 獲物の澄んだ目は、まるで悪を知らぬ、湧き水の優しさを宿している。
 あぁ、私の獲物。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、どれだけの痩せた土地に緑が生い茂るだろう。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、水をめぐるくだらない紛争、無意味な殺戮、独裁をどれだけ鎮めることが出来るだろう。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、水質汚濁に苦しむどれだけの生命が救われるだろう。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、私にどれだけの富が、金が集まるだろう。
 水を清めるこのポケモンの力があれば、私にどれだけの名声が集まるだろう。
 水を清めるこのポケモンに力があれば、どれだけの人間が私を神だと崇めるだろう。どれだけの人間が私の思い通りに動くだろう、昼間のあの少年のように。
 あぁ、私の獲物。
 優しさに満ちたその目で、どれだけ私を睨もうと、私は怯みなどしない。
 あるいは私に慈悲の心があれば、また違った結末なのだろうが、そのような気持ち無いに等しい。
 相棒たちは消耗していた、三対一とはいえ伝説のポケモン相手だとこうなるのも仕方ないのだろう。
 震える手を押さえつけ、ボールを取り出す。
 あぁ、私は神になる。
「スイクン、我が物に」
 私は紫色のボールをゆっくりと投げた。
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