> 俺の名はゼロ 作:リング
俺の名はゼロ 作:リング
 俺の名前はゼロ。とある虫取り少年に、格好良いからとつけられた名前だ。
「よっしゃー!! ストラーイックゥ!! ってか、ストライクだけに!!」
 ある日眠っている最中に撃ち落とす攻撃を喰らう所から自分の最悪な一日は始まった。眠っているところへの不意打ち。それだけでもう、俺は動けない。寒いダジャレと共に為すすべなく捕まって、それから飼いポケ生活が始まった。


「あぁっ!! ゼロ……またやられちゃったよ……全く、本当にお前は役目ゼロだなぁ……」
 俺はスタミナがない。スタミナが減ってきたら交換して欲しいものだが、ポケモンバトルは交換にペナルティがかかってしまう。そのペナルティを嫌うご主人は、俺に疲れが襲いかかったところで、俺を交換してくれず、動きの鈍った俺は蹴散らされた。

 俺の名はゼロ、虫取り少年の手持ちとして戦うのはいいのだが、この少年はいささか腕が悪いように思えてならない。同族の中でも、俺はスタミナが持たない方だと言うのに、ご主人はと言えばごり押しを命じるばかり。
 俺だって素早さだけは同族にも負けるつもりは無いのだが、俺は本当にそれだけなのだ。力押し一辺倒の子供が指揮では、俺の能力は存分に生かせない。
 俺の名はゼロ、戦いに駆り出されてからというもの負けが込んでしまって、役立たずのお前には『役割ゼロ』というあだ名がちょうどいいと罵られるゼロ。全く、役立たずなのはどっちだと俺は言いたい。
 俺が場当たり的な支持しか出せないトレーナーには酷く失望して、本気で戦う気が起きないのは誰のせいだというのだ。
 一度くらい自由に、本気で戦ってみたいと、そんな思いを抱いて命令にそぐわない動きをすれば、主人は怒ってむくれてしまったこともある。
 その日は餌が目に見えて貧層だったので、俺はそんな主人に呆れ、その想いを今も保ち続けながら俺日々を過ごしていた。


 退屈な日々。毎日勝った負けたを繰り返しているご主人は、無能だとは思いつつも同年代の中ではいたって普通の腕前のようだ。
 内心、自分の好きなように戦いたいと思いつつも、緑色の保護色で草原に身を隠し、かくれんぼと奇襲を繰り返す俺の得意な戦いは人間たちのシングルバトルではありえないらしい。
 そんな事を言われても、俺は野生の時はそうやって狩って食って生きて来たのだ。今更戦闘スタイルは変えられない。
 今度ポケモンバトルに新しいルールが出来るならかくれんぼバトルなんてモノがあったっていいじゃないかと思うんだ。
 そんなモノはきっと一生出来ないのであろうが。
 あんまり主人の命令には従いたくないが、命令に従わないと露骨に悪い扱いがされるので(餌はきちんとくれるけれど)、今日も『従ってやるか、仕方ない』と思っていた。
 そんな、蝉もテッカニンも元気に鳴く今日この頃。
 思いがけず一度だけ、たった一度だけトレーナーの命令を無視して戦っても褒められるであろうチャンスが来た。


「なぁ、君の財布見せてくれない? 何、まずは見せるだけでいいさ。そこから先はあとで考える」
「え、あ……あの……」
 敵は、近所では有名な性質の悪いトレーナーだ。
 ポケモンを育てることはあまりしないが、公式ルールでは扱わない6匹以上のポケモンを繰り出し、物量で相手を脅して金をせびる。
 俗に言う、カツアゲと言う奴だ。敵は大量のポケモンをだして、遠くから主人に声をかける。
 どう見ても勝てるメンバーではないので、主人は黙って財布を差し出してしまった。
 それを、エアームドが足爪で掴んで敵の元へ。
「ふーん……名前はカズキ君ねぇ」
 トレーナーカードを見ながら敵はニヤついていた。主人の今にも泣きそうな顔、敵の虫酸が走る顔……虫だけに。
 その二つを見た時、俺は思わずモンスターボールから出た。自身も怖気づいてここから逃げるわけではない。
 ロクでもない主人だけれど、野生の時よりもいい餌が毎日食えるのだから、文句は言えないさ。
 そうじゃなかったら曲がりなりにも命令に従う事なんてしない。
 例え、役割ゼロと罵られても、なんだかんだ言ってこういう時くらいは恩返しをしないと罰が当たるってものさ。
「ぜ、ゼロ? お前の適う相手じゃないよ」
 主人が言うが、俺は問題ないと俺は首を振る。こういう命令違反なら主人も嫌な顔はしないはず。
 それに何より、こういうポケモンを持っただけで強くなったと思いこむ勘違い野郎を叩きのめしてやりたいのだ。
 俺は敵の大将首を取るために走り出した。それはそれは一瞬のこと。

 噛みつこうとしたポチエナの額にすれ違いざまのシザークロス。万が一目に当たっても失明しない程度には手加減している。
 大きく振りかぶったアサナンのパンチは、左鎌で円を描いて受け流しつつ、無視して突き進む。
 イジツブテが投げ付けて来た石は、大きな鎌で滑らせいなす。
 滑るようにいなされた石が横目を通り、背景へ変わった刹那の後、俺は飛び蹴りで顔面を強かに叩きつぶし、イシツブテを玉突き。
 浮遊していたイシツブテが吹っ飛ばされて、ボウリングのようにうしろのバタフリーに当たる。
 その程度では流石にバタフリーも落ちないが、銀色の風などを放とうにも味方が邪魔で撃てなそうだ。
 こうやって味方を盾にするのも、遠距離攻撃使いの役割破壊にはちょうどいい。
 そんな事よりも、石つぶてを蹴り飛ばすと同時に、俺は動きが一瞬だが止まってしまった。
 これ幸いと後ろから俺へ真っ直ぐに向かってきたアサナンに、鎌を地面に突き立て軸足代わりに逆立ちし、ギャロップやゼブライカの使う馬蹴りの要領で彼奴の鼻面を叩く。
 向かって来る勢いと蹴りの威力が合わさって、アサナンは綺麗に崩れ落ちた。
 このままじゃ負けるとでも思ったのか、相手は新たにフローゼルとコリンクを出して、フローゼルにアクアジェットを命じる。
 雑魚め。

 アクアジェットは全身が水流に包まれているゆえ、迎え撃って攻撃してもこちらから一方的にダメージを与えるのは難しい。
 まずは、バタフリーの影。直線的な軌道を持つアクアジェットなら、味方の影に隠れればまず当たらない。
 と言うより同士撃ちを恐れて当てられない。
 斜めにステップを踏んで僅かに軸をずらせば、ほら素通りだ。斜め右前に居たのはバタフリー。
 味方への誤射を恐れて、未だに特殊系の技は放てないようなので、攻めあぐねてボーっとしている間に、力一杯鎌を振り下ろして叩き伏せる。
 自身の翅と脚と、そしてバタフリー叩き伏せた鎌を足がかりに俺は大きくジャンプ。
 エアームドの顔を鎌で峰打ち気味に切り上げて、その頭上を飛び越えるのかもしくは跳び越えたというべきか。
 その先、エアームドの後ろにいた、コリンクのスパークは無視して飛び越えてやった。
 さて、最後の番人コリンクを越えれば邪魔者はいない。誰にも止められる事無く走り抜け、俺はついに相手トレーナーへ肉薄。
 トレーナーに体ごと飛びかかってを押し倒した後は、俺の自慢の巨大な鎌を首に押し当てて、有無を言わせない態度で降伏を命じた。
 振り返ってみれば、こいつのポケモンはまだ全員がピンピンしていて、誰ひとりとして倒れちゃいない。
 俺の無敵気分もどうやらここまでだ。

 実は俺、攻撃力が極端に弱い。攻撃したところで体制を崩れさせることは出来ても、普通に威力が弱くって敵は立ちあがって来てしまうのだ。
 そして、俺はスタミナもない。今こうして人間の首に鎌を当てているが、こんなノンストップの無酸素運動はこの程度の時間で限界だ。
 実際に戦ってみると分かるのだが、雑魚の雑魚には通じるがある程度強い相手には話にならないのだ。
 普通に(というよりは主人にとっての普通に)戦えば、最初優勢に見えてもその内にスタミナが切れて押し負ける。
 俺はゼロ、一人じゃあんまり役に立たない役割ゼロ。だけれど、せめてもう少し良い名前で呼んで欲しいものである。
 ね、今日は多少荒っぽいやり方だけれどカツアゲを阻止してあげたんだからさ?

 *

「お前、実はすげぇ奴なんだな……俺の指示がない方が強いじゃんか」
 相手のトレーナーカードを財布から奪い、警察にカツアゲ被害を訴えた後で主人はそう言ったが、実はそうでもない。
 まぎれも無く俺は弱い。攻撃力も防御力も紙のようなものだ。全力で動けるのも数十秒が限界だろう。
 その間にどれだけ敵を倒す事が出来るかと聞かれれば、あまり倒せるものではない。
 一応、主の言う通りシングルバトルではめっぽう役立たずなのだ。
 まぁ、強いて言うなら主人の指示が無い方が強いのは正解だけれど。
「首なんか振っちゃって……照れるなよ、お前は強いよ……いや、確かに一匹も倒せてなかったけれど、あの素早さ。
 俺、最高にドキドキしたたからさ……ゼロなんて呼んで悪かったよ」
 驚いた。主人は初めて俺のことを認めてくれた。そうして、小さな体でしっかりと俺を抱きしめてくれる。
 少し照れくさいけれど、頼られていると思うとなんだか嬉しかった。
「お前が居てくれなかったら、俺はなけなしの小遣い奪われていたし……本当にありがとう」
 そして、そのまま頬擦りまでされては、同じ雄としてどう反応すればいいのやら。
「でさ、思ったんだけれどさ……お前もっと強くなりたいだろ?」
 ひとしきり甘えられたあと、主人は俺に対してそう話しかける。当たり前だが、俺だって強くありたい。
 俺は、場を掻き乱して、雑魚の雑魚のそのまた雑魚の、ポケモンを持って強くなったと思い込んでいる馬鹿な人間を脅すくらいしか出来なかったのだから。
 出来れば、強大な力を持ったポケモンをバッタバッタカマキリと倒してみたいものだ。カマキリポケモンだけに。なんか俺、主人の寒いダジャレが伝染ってきたかな……?

 確かに今の主人のやり方だとどうしても自分の良さを活かせない気がする。
 野生じゃ強さよりも速さの方が重要だったからこれでもなんとかやっていけたけれど、バトルではダメダメなんだよね。
 バトルの強さと狩りの強さの違いが身にしみるなぁ
 だからと言って、俺は自分がどういう風に振る舞えばいいかもわからないからどうしようもない。
「なら、来週の日曜日にさ……近くのショッピングモールにポケモンソムリエが来るんだ。
 お前をどう育てるべきか、ちょっとアドバイスを貰おうかなって思うんだ……」
 はぁ、と生返事の代わりに俺は肩をすくめた。

 *

 そうして、話は妙な方向へ進んでいった。訪れた日曜にはショッピングモール利用者専用駐車場の近くに、ポケモンソムリエやら仮設バトルフィールドやら作られており、なんでもそれは興業の一種らしい。
 モンスターボールやら、ミュージカル用のグッズやら、ポケモン用のトレーニング用品やら、育て方の指南書やら。
 色々な物が野外の仮設テントの下で所狭しと販売されている。
 近くのホワイトフォレストからジムリーダーやジョーイさんも来ているらしく、さながらお祭り騒ぎと言うが正しいか。
 そんなショッピングモールに訪れていたのは、ささやかな化粧を施したディナードレス姿の女性。
 黒を基調とした彼女の姿は、ブースの中で椅子にたたずみ客を待つ姿、テイスティングに入る前に立ちあがり歩く動作。
 その両方がポケモンである俺にも分かるほど無駄がなく、気品にあふれている。
「それではカズキさんとポケモンのゼロ君、よろしくお願いします」
 主人の元で屈みこんで挨拶をした後、こちらに笑顔と視線を向けられた時は、不覚にも人間に倣って会釈を返してしまう。ソムリエだとかソムリエールとかいうものがよくわからない俺だが、主人はこの人をSランクだとか最高位のソムリエールだと言っていた。何を以って最高位というのは分からないが、この立ち居振る舞いがそういうことなのか。
 彼女は、俺の体を隅々まで調べた。鎌の様子や、全身の骨格。コツコツと指で叩いてその音に耳を傾けたり、翅の様子を見たり。
「うーん……この子からは疾風の如き素早いテイストを感じるわ……その代わり、腕も脚も細いのね。
 これはね、この子の全身の外骨格が極端に薄い証拠だわ。遺伝子の病気といっても差し支えないくらい……」
「が、外骨格?」
「うん、私たち人間なんかは筋肉が骨を包み込んでいるけれど、虫タイプのポケモンは多くが骨の代わりになるこの堅い表皮の鎧が筋肉を包み込んでいるの。
 その鎧が、この子は生まれつき極端に薄いのね……筋肉の量は標準的にあるんだけれど、この薄い骨格で本気で殴ったらきっと彼の腕は壊れちゃうわ。
 ほら、細い木の棒で岩とかを殴ったりすると木の棒が折れちゃうでしょう? それとおんなじ……」
「う、うん……」
「だから、この子は知らず知らずのうちに本気で攻撃を繰り出すことを躊躇していると思うの……
 それに鎌自体が軽いから、風船と石が同じスピードで向かってきても風船は痛くないように……体が軽いこの子の攻撃はきっと本気で放っても威力が低いわ。
 その分スピードは優れていると思うけれど……」
「た、確かにそうです……こいつ、加速する前のテッカニンよりも速くって……でも、攻撃に威力は足りないし、戦っていると最初っから全力で飛ばして、すぐにばてちゃうんだ」
「ふむ……この子は野生出身かしら?」
 うん、と主人が頷いた。
「では、生きるためには弱い相手だけを倒せば十分に食事を得られるわけですもんね。
 つがいをめぐって戦う時には困るかもしれないのだけれど、こうやって相手を逃がさない草原の狩人というのも非常に理にかなっているわ。
 この素早さに特化したあっさりとした癖のないテイスト、ピリリと辛いが、一過性で爽やかなだが、刺激的な後味。
 料理に用いるのであればそう、例えるのなら香り高いワサビのような。
 脂の乗った刺身や脂っこい肉へ掛けるソースに、アクセントをつける香辛料として最適な……
 そう、この子には絡み合わせる食材一つでその表情を大きく変えるわ。
 君たちくらいの年代だとシングルバトルが主流だろうけれど……ズバリ、この子はローテーションバトル向きよ!!」
「えぇ、アレですかぁ!?」
 どれだよ、俺は突っ込みたい。鎌でちょんちょんとつついて、どれだよ!? と答えを求めてみる。
 するとにっこりと笑ったソムリエールは、鑑定時間の関係もあってか、端折って教えてくれる。
「基本的にはシングルと同じだけれど、交代する際のペナルティを課さず、ポケモン同士のタッチで交代を行う新しいタイプのシングルバトルよ。う〜ん……なんというのかしら、プロレスのタッグマッチなんかに似ているのだけれどね……」
「その……ローテーションバトルなら……ゼロは活躍できるのでしょうか?」
「そう思いますが、やってみなければわからないと言うのが、一応の答えです。プティングの味は食べてみないとわからない。
 何事も、やってみないとわからないものなのですよ。だから案ずるより産むが易し。
 仮設のバトルフィールドにはローテーションバトル専門の指導員もいるから、覗いてみるといいわ」
「俺さ……ソムリエールさんの言う通りで、シングルバトルでこいつを使っていたんだけれどさ。
 こいつ……全然活躍できないから、役立たずの役目ゼロって罵っちゃったんだよな……」
 あらあら、とソムリエールは顔を曇らせる。
「それなら、尚更活躍の場を与えて褒めてあげませんと。そんな言い方をするとこの子じゃなくっても拗ねちゃいますよ?
 ポケモンは……愛情を持って育ててあげませんと」
 そう言って、ソムリエールが俺を撫でる手つきが主人よりもよっぽど優しい。それに、ソムリエールっていい匂いだ。主人も見習えばいいのに。
「はい……なので……俺、こいつのことをもっとよく知りたいんです……ソムリエールさんのテイスティングを信じて、これからローテーションバトルに向かってきます」
「頑張ってください! 貴方が良きトレーナーになりますよう、我らポケモンソムリエ協会一同、お祈りしております」
 こうして、『ともかく、やってみれば分かる』と言うことで、仮設バトルフィールドへ俺達は向かうことになったのだ。

 先客の戦いを観察してみると、ローテーションバトルというものは確かにソムリエールが説明した通り、タッチで交代できるというシステムである。
 ポケモン達が賢ければ主人の指示に頼らずとも交換でき、また交換する際に先攻を譲らなければいけないシングルバトルのペナルティも発生しないので、交換によるリスクは少ない。
 そう、素早く掻きまわしてすぐにバテてしまう俺は、交換ペナルティを恐れる主人に助け船を出してもらうことは叶わなかった。
 だけれど、これなら好きな時に休めて好きな時に出陣できる。あのソムリエール、なんと理にかなったテイスティングだろうか。
 街中で行われるバトルはシングルが主流。ローテーションバトルの試合なんて初体験である主人はジムリーダーや師範代の指導するローテーションバトルを見て戸惑っているが、俺は俄然やる気が出た。

 順番が回ってくる。制限時間は3分。特に勝敗はつけずに、体験することとジム教員の指導を受けることを重視している。
 こちらはヘラクロスのイッカクとハハコモリのママンが控えている。
 本当は4体使うのがローテーションバトルの公式ルールなのだが、ここはお遊びと言うこともあって3体のみ。
 相手は、ハーデリアに、イワークにズバットといった比較的簡単に手に入るポケモンを連れている。
 あまり相性は良くないが、なんとかなるといいのだが。
 ともかく先発は、俺が強く希望して俺と言う事に。
 仲間達もそれを了承してくれたので、深呼吸と共に精神を落ち着ける。
 このバトルで、俺はどれだけ頑張れるのか……主人がやりたいようにやってくれと言ってくれたんだ。こんなにワクワクすることは無い。
 試合開始の合図を聞いて、俺は一気に駆けだした。相手のポケモンはイワーク。
 ただでさえ俺には苦手な岩タイプの攻撃だ、しかも俺が得意とする物理攻撃にはめっぽう強いと来ている。難敵、としか言いようがない。
 しかし、動きが鈍いという弱点もある。その弱点を突くのは、やっぱり俺しかいないだろう。
 駆けだしたその瞬間から眼にもとまらない速度で、俺はイワークの関節を狙う。
 岩塊を繋ぎ合わせたような姿のイワークは、柔軟性を維持するために関節があり、そこだけは岩に守られていない。
 すれ違いざまに、大きく開いている関節を切る!! 風のように速く、剃刀のように鋭く。
 鋸を引くように、スライドさせた刃は一本の細い線を描く。遅れて払ってきた尻尾の攻撃を飛び越え、今度はさっきと違う関節が開いているので、下に構えた鎌で切り上げそこを切る。
 うっすらとした線しか描けないが、しかしながらそれは戦意を削ぐと同時に痛みで動きを鈍らせる。
 徐々にだが確実に戦力を奪うと言うのは快感だが、スタミナ不足で奪い続けることが出来ない自分は散々煮え湯を飲まされたものだ。
 噛みつこうと迫って来た顎を蹴り飛ばし、翅による推進力も加えて高速で敵の間合いから離脱。
 虚空に形成された岩を落とす攻撃は、避けに徹して相手に突撃し、避けようもない小さな岩塊のみを鎌で滑らし直撃を防ぐ。
 近距離過ぎて岩落しを中断されたその隙に、シザークロスを関節に。今回は2回切りつけたので傷は合計4本か。

 しかしながら、そろそろ呼吸が辛くなってきた。こういう時は、剣の舞から伝家の宝刀バトンタッチで後続、ママンに繋いでやろう。
 相手のイワークは自身の体から絞り出すように岩塊を雪崩の如く押し流す。
 大丈夫、俺のが速い。筋肉の脱力を意識して、翅をフル稼働させて俺は飛ぶ。
 脚ががくりと下がりそうなくらいの脱力から、一気に力を込めての跳躍。
 岩雪崩を避けながら、すれ違いざまの鋼の翼。鋼の刃となった翅で関節を切りつけた。
 まだ不完全だが、こちらは脱力からの攻撃で高い威力を叩きだすことのできる技、剣の舞を使っている。痛かろう。
 しかし、こっちの疲れも限界だ。俺は視界がぼやける直前の疲労を感じながら、俺は待ちかまえていたママンに鎌を触れ合わせた。
 まだ制限時間は2分40秒残っている。自分はノンストップの無呼吸運動では20秒しか持たないのかと思うと少し情けないが、明らかに動きの鈍ったイワークをママンがリーフブレードで圧倒している。
 イワークもまた、耐えかねじりじりと後退するのだが。
「おい、ママン!! 交代だ、退くんだ!!」
 ご主人が突然叫んだ。何事かと思って見てみれば、じりじりと下がったイワークはその巨体で長い尻尾を巧妙に隠しつつ、他のポケモンでは到底届かない距離から控えのズバットにタッチを、してしまった。
 ハハコモリは飛行タイプにめっぽう弱い。如何に彼が最終進化系であろうと、ズバットを相手にしては勝てる気がしなかった。
「あぁ……くそ、ここはゼロに任せろ」
 と、ご主人が言うが、それは正直なところ無理である。まだ、こっちは呼吸が整っていない。
 首を振ってダメだと伝えると、ご主人はママンに向き直って指示を飛ばす。
「今はまだダメみたいだ。ママン、ゼロが息を整えるまでなんとか耐えてくれ!!」
 ママン、振り向かずに頷いた。相手の虚度からは逐一目を離さず、攻撃を避けに徹しようと、前後左右に動きやすい重心の低い姿勢。
 放たれた相手の技は風起こし。飛行タイプの中では初歩の初歩の技であるが、油断は出来ない。
 ママンが纏った葉っぱの端っこが千切れる。頬を掠める風の刃が恐怖を誘う。
 まずい、ママンは完全に引け腰だ。だからと言って、同じく飛行に極めて弱いイッカクに任せるわけにもいかない。
 攻めあぐねるママン。迂闊に攻撃を支持しても、ズバットが使う風起こしのような範囲の広い攻撃は、その隙間をかいくぐりにくい。
 経験の豊富なポケモンならば、攻撃と攻撃の合間に攻める技や攻める技術の一つや二つ持っているが、しかして未熟なママンでは技も技術も基礎体力も、相性という壁を突破するには頼りない。
「頑張れ、耐えてくれ!! ママン!!」
 ご主人の声援も、具体的な指示は出せない。無論、彼の実力では出過ぎた真似をしない方がよっぽど助かると言うのが本音だが。
 あぁ、だが……ママンはよく頑張ってくれた。結局、風起こしのごり押しにやられてママンは目を回している。
 残り時間は1:36……十分に休ませてもらった。確かルール上交代したポケモンは10秒のホイッスルが鳴るまで交代してはいけないのだと言う。
 もしも、俺が相手するときにズバットが引くなら俺もすぐに退いてハーデリアをイッカクに任せるか、それともそのまま戦ってしまうか。

 否、その時になったらご主人と俺が考えればいいことだ。俺はゼロ。
 戦いの最中は止まりなんかしない、呼吸も停止も、油断も隙もゼロだ!!
 ノンストップで戦って、バテても仲間のフォローがシングルバトルよりも期待できる。
 こんな俺向きのバトルなら、勝ってこないと示しがつかない。ご主人からいい餌貰う為に、俺がやらずに誰がやる!!
 ご主人の命令よりも先に、ズバットが交代するよりも先に俺は飛び出した。
「ズバット、下がりながら超音波!!」
 音による攻撃、これは俺よりも速いぞ!! だが、攻撃しながら下がるなんて非効率的じゃないか。
 翅、脚、そして地面につくほど長い鎌。全てを総動員して駆け抜けるならば、俺のスピードはズバットの方向転換よりも、エコロケーションよりも速い。
 ズバットが俺を見失う。ズバットの聴覚が視覚代わりになるのは、あくまで超音波に対してのみ。
 ただの足音と翅音では、正確に位置を掴むことは難しいようだ。
 ズバットがようやく主人の命令を無視して退くことを意識し出した時にはもう遅い。
 奴が逃げるよりも俺が近づく方が早い、俺の脚のが速い、そして攻撃だって誰よりも迅い!!
 右腕で叩き落とす、相手のバランスが崩れたところで、左腕の鎌を地面に突き立てバランスをとり、返した右腕で切り上げる。
 完全に吹っ飛んだズバットが空中で体勢を立て直す前に、飛び上がりから翅で羽ばたき風を起こして、俺の味方側に吹き飛ばした。
 体制を立て直したズバットは、交代するために相手の主人の元へ向かってこようと羽ばたくが、そこは俺の飛び蹴りの前に阻止されてもらおう。
 飛び蹴りはかすった程度だ。しかし、上々だ。そろそろ息が苦しくなってきた俺だけれど、交換のタイミングはトレーナーの任意だけじゃない。
 俺たちの任意でだって交代可能なローテーションバトル、この自由な交換という感覚が楽しくてニヤニヤが止まらない。
 飛び蹴りの勢いそのままに、俺はイッカクとタッチ。さぁ、トドメは刺せなかったけれど、獲物は疲れているぞ。
 圧倒していた俺の方が若干疲れているけれど、そんな事はノープロブレムだ。
「え、えっと……イッカク、撃ちおとせ!!」
 主人がそう叫ぶ。だが、言われなくとも、イッカクはそうしていた。飛んで行った飛礫は、ズバットの翼に当たって落ちる。
 起きあがる前にイッカクは地面を思いっきり殴りつけて地震を起こした。効果は抜群、一撃KOだ。
「す、すごい……ゼロ、お前すごい!! すごいよ!!」
 トドメを差したのはイッカクだけれど、褒められたのは俺。やっぱり認めてもらえると言うのは嬉しいものだ。
 だが、もっとだ。そうまで褒められたからには期待にこたえてやらねば!!
「本当によくやったね、ゼロ……」
 主人は俺の鎌を両手で掴んでブンブンと上下に振る。うん、俺もやれば出来るって事が分かって嬉しかったよ。
「でも、まだ戦いは終わっていないから油断は出来ないね……もしもの時は頼むよ、ゼロ」
 分かっている。でも今回の戦いはもう全部イッカクの独壇場だろう。相手はハーデリア。
 彼女だって、得意なノーマルタイプにみすみす負けるような事はしないだろうから、見守るのが楽な仕事だ。

 結局、イッカクは勝ち残った。ハーデリアの仇打ちの威力に一瞬負けるかと思ったものの、彼女はなんとかこらえた。
 ヘラクロスはこらえてからが強いのだ。瀕死からメガホーンがハーデリアに突き刺さると、相手はあえなく崩れ落ちる。
 全く、いつ見てもほれぼれする女じゃないか。残ったイワークも起死回生のストレートパンチで見事に叩きのめしていた。
「よっしゃあ!! みんな最高だ!! 今日はここの即売会で良いポケフーズ買ってやるからな!! おやつの時間になったらみんなで一緒に食おうな!」
 そうして、主人も順当に機嫌がよくなり今日は上手い飯にありつくことになるのであった。
 同年代は、みんながみんなシングルバトルを主流に楽しんでいる。これからローテーションバトルをやる事があるのならあまり学校の友達は期待できないのかもしれない。でも、シングルバトルじゃあ、結局俺は役割ゼロで、役立たずのゼロのまま。
 今回、ローテーションバトルを見守っていたジムの師範代からは、色んなアドバイスを受けたものだ。
 イワークのタッチをみすみす見逃したのはいただけないから気をつけるように、だとか。
 ポケモンを休ませる役が必要ならば、『守る』を覚えた丈夫な壁役のポケモンがいた方がいいだとか。
 それらがあれば俺は活躍できるのだろうか? うん、出来ると信じよう。
 そのためにも、ご主人には俺に相応しいパートナーを捕まえてほしいものだ。

 そんなことを考えながらポケフーズを食べている間、ご主人が言ってくれたことが胸に響く。
「ゼロ、お前は……確かにシングルバトルじゃ対して役割を持てない、役立たずかもしれないけれど……考えてみりゃ『0』って数は、数字の最後につけるとその数を10倍にしてくれるんだよな。
 お前はさ、一人じゃ役に立たなくとも、使いようによっては仲間を10倍にだってしてやれるんだ……なぁ、ゼロ?
 ローテーションバトルは出来る機会が少ないけれどさ、これからは、お前のゼロって名前を誇りに思えるくらい俺も作戦立てるの頑張ってみる。
 今更、虫相手だけに虫が良いかもしれないけれどよろしくな……ゼロ」
 餌もくれる、褒めてくれる。こんな主によろしくされて、応えないなんて選択肢は無い。
「ん?」
 分かってる、と伝えたくって俺は肩を寄せて頷いて見せた。
「そう、ありがとう」
 その仕草できちんと理解してくれたのか、主人は俺に微笑んだ。よし、これからも頑張ろう。

 *

「よし、それじゃあ次はあの人と戦ってみよう」
 ご主人が指さす方向を見て、俺も仲間もうんと頷いた。
「今日の内に、俺もある程度指示出せるくらいにはローテーションを頑張らなくっちゃな。みんなで頑張ろう!!」
 短パンに半袖、ポニーテールに裸足。如何にもバトルガールと言う風な見た目のトレーナーと、俺はバトルをする事となった。彼女は恐らく格闘タイプのポケモンを使って来るのだろう。岩タイプの攻撃には気をつけなければならないが、俺の燕返しがよく刺さる相手だ。
 相性は悪くない。さぁ、バトル開始だ。

 相手はダゲキ、コジョフー、リオル……よし、全員格闘タイプ。岩攻撃さえ喰らわなければ楽勝だ。
「よし、先発頑張れゼロ!! 相手を蹴散らしてやれ」
 おう、ご主人!! 俺は試合開始の合図とともに早速駆けだし、相手の手前で鎌に空を切らせることで相手の攻撃を誘う。
 相手が攻撃を誘われた所で、素早く切り返して敵の胴を切り上げる。さぁ、燕返しは見事に決まった!! ここで更なる追撃を……
「えべしっ!!」
 コジョフーは腹と胸の継ぎ目を蹴り、そこを踏み台に胸と顔を蹴られ、宙返りから距離をとる。
 汚らしい奇声を上げながら、俺は吹っ飛んだ。
「コジョフーのサマーソルト……夏だけに」
 ご主人が呟く声が遠くに聞こえる。コジョフーの見事なアクロバット……こうかはばつぐんだ。主人の呟いた駄洒落が妙に寒い……
「そう言えばコジョフーの特性、精神力だったな……あちゃー……」
 俺はゼロ。精神力の特性の前には、役割ゼロの役立たず。ご主人、もう一つわかった事があります。
 俺はローテーションバトルは強いですが、怯まない相手はどんなバトルでもひたすら苦手です。


 end
 
> NonStop Run 作:夜月光介
NonStop Run 作:夜月光介
 昨晩から降っていた雪は止み、雪がまだ残る街中を1人の青年が走っていた。
 フードを被り、そのフードからは長い前髪が垂れている。
 ポケットの中にはミュージックプレイヤーが入っており、彼はイヤホンで音楽を聴きながら白い息を吐きつつ走り続けた。
『♪Nonstop run is necessary to keep not stopping and running……』
 イヤホンから流れてくる音楽の歌詞を呟きながら、彼は走る。ジョギングとは言え、走るスピードはかなりのものだ。
 昨晩吹き荒れていた風も止んでいたがまだ外は寒い。しかし彼は寒さも暑さも関係無かった。
 この孤独のジョギングをほぼ2年前から、夏の日も冬の日もかかす事無く続けてきたのだから……

「次、白山!」
 校庭のトラックを風の様に駆け抜け、白山一哉は100メートルを息も切らさず走り切った。
「タイムは?」
「10秒……59です。先生、信じられませんよ。一流アスリートレベルじゃないですか」
「ああ、日本の一流選手と肩を並べるだろう。それなのに、白山は県大会にも出場しないんだからなぁ」
 陸上部の顧問が残念そうに彼の方を見たが、彼は我関せずと言ったふうで黙ったままその場を離れる。
「うちの須藤の最高記録が11秒02。我が明星高校陸上部のエースは間違いなく白山なんだが、あいつは協力的じゃない。
 何時も何を考えてるんだが解らん奴だ。勿体無い話だと思わんか?須藤はそりゃ対人受けは良いが……」
 他の後輩部員達と談笑する余裕を見せる須藤尚之と白山一哉は全く対極に位置している人間だった。
 須藤は他の部員達に慕われている程人間関係が良かったが、白山はその風貌と無口な性格上気味悪がられる事が多く孤立していたのだ。

 下校途中の道でも、彼と一緒に帰る生徒はいなかった。女生徒も走るのが速いだけの男と言う認識で近付く事を避けている。
 しかし彼はそれを哀しんでいる様子も無かった。寧ろ孤独を望んでいるかの様に人との付き合いを拒む時すらあった程だ。
 黙々と歩き続ける彼の肩に触れる人間などいない。だが今日は何時もと様子が違っていた。
「ちょっといいかしら?」
 後ろから肩を叩かれ、不意をつかれた一哉は後ろを振り向く。彼の背後には2人の男と1人の女性の姿があった。
「あくまで任意なんだけど、私達についてきてもらいたいの」
 インテリ眼鏡をかけた美しい女性と、屈強な男達。女性の後ろにいる男が警察手帳を出し彼等の職業を明かした。
「……解りました」
 小さな声で彼はそう言うと、抵抗せず黙ったまま2人に連れられて警察署に向かう事となる。

「ちょっと、コレを見て欲しいんだけど」
 署内の取調室で女性はフリップを何枚か取り出し、一哉に見せる。
「ここ1週間連続で起こっている女性ばかりを狙った通り魔事件の犯行現場を表にしたものよ。
 被害者は軽症だけど腕や足をナイフで斬られているから立派な傷害罪。被害者は全員朝5時から6時までの間に襲われているの。
 犯行現場も被害者から事情聴取を受けて把握しているわ。この犯行現場を結んで円を描くと……」
 彼女が描いた円の中には彼が通っている高校と、自宅が入っている。
「犯人は被害者の証言によると大柄な男でフードを被った人物。こういう事件を起こす人間は自己顕示欲が強い場合が多いのよ。
 誰かに自分がココにいると言う事を知ってほしいと願う孤独な人物。孤独で朝5時から朝6時までのアリバイが存在せずこの円の中に自宅が含まれている人物……」
「……凄いお膳立てですね。まるで犯人は俺って示しているみたいじゃないですか」
 自嘲気味な笑いを漏らしながら、一哉は彼女の方を見た。彼女の方は全く笑ってはいない。
「確かに俺にはアリバイがありませんよ。朝5時から6時まで体力作りの為に走ってますからね。でもハッキリ言っておきますよ。
 冗談じゃない。俺は犯人じゃありません。俺は孤独が好きなんです。誰かに煩わされるのは嫌だから人と付き合うのを避けてるんです。
 そんな俺がどうして『自己顕示欲』の為に人を襲わなくちゃいけないんですか。意味が解らない」
「貴方がどう思おうと勝手だけど、私達は何も無い人間をココに連れてきたりはしないの」
 そういうと彼女は、机の上にビニール袋に入っているサバイバルナイフを置いた。血の跡なのか刃先が赤く染まっている。
「このサバイバルナイフは昨日発生した通り魔事件の直後に私達が草叢から発見したものよ、貴方の指紋が付着していたわ」
「馬鹿な!」
 普段滅多に声を荒げる事の無い一哉は、相手が警察の人間である事を知りつつも怒鳴りつける様な声を発した。
「俺はそんな事はしていない。俺にとって走る事は人生そのものだ。走り続ける事が全て……捕まれば俺はそれすら出来なくなる。
 それに犯人がワザワザそんなすぐに発見される様な場所にナイフを捨てていく事自体あまりにも不自然だろう!」
「指紋はさっき貴方が触ったコップから採取させてもらったわ。この話をする前に一致している事が確認されたの」
「馬鹿な……」
「ただし、私達も決定的な物的証拠が無い限り貴方を逮捕する事は出来ないわ。それに貴方以外の人間が犯人と言う可能性がゼロになったワケじゃない。
 私達は悪戯に人を傷付ける様な犯人がどうしても許せないの。解るでしょう?」
 一哉は確信した。決定的証拠が無いから逮捕出来ないのであって、あくまで警察の人間は自分を疑っていると言う事が解ったのだ。
 これ以上自分が犯人で無いと声高に主張する事は却って印象を悪くしかねない。一哉はそのまま黙り続け数十分後には解放された。

 自宅で彼は腕立て伏せをしながら、物思いに耽っていた。
 子供の頃から走る事が大好きで、走る事そのものに情熱を費やしてきた。一方人付き合いが極端に苦手で、顔もあまり端正な方では無い。
 他人から嘲笑を浴びるのが怖かった……人と関わりを持つからトラブルに巻き込まれるのであって、関わらなければ自分の趣味に没頭出来る。
 気味悪がられたが虐められる事は無かった。走る為に筋力を付けていたので弱いと思われる事は無かったのだ。
 (両親も俺より頭が良くて人当たりの良い弟に目をかけている。別にそれは悔しいと思う様な事じゃない。当たり前の事だ。
 だから俺はそういう事でいちいち目くじらを立てたりしなかったし、逆に無視してきた。だがこれだけは無視出来る事じゃない)
 自分にとって生き甲斐とは走る事であり、良いタイムを叩き出す事だった。勿論大会に出よう等と思った事は一度も無い。
 自己満足で充分だから走らせてほしいと言うのが一哉の純粋な気持ちであり、彼の一途な人生における目的だった。
「誰だか知らないが、この喧嘩は買わないといけない。俺の人生がかかっている」
 そう呟くと彼は腕立て伏せを終了し、シャワーを浴びる為風呂場の方へと向かった。

 翌日、彼は何時もの様に朝5時から家を出発し走り始めた。だが何時ものジョギングとは明らかにスピードが違う。
 (あの円の中で事件が起こるのなら、その範囲を走り回って犯人を見つけるしかない)
 一哉は自分で犯人を見つけるつもりだった。走りと体力に自信がある彼にしてみれば、この疑いは自分の手で晴らしておきたかったのだ。
「桃園さん、時間はピッタリです。白山一哉は5時丁度に家を出て走り始めました」
『見失わない様にして頂戴。車での追跡も準備が出来ているけれど、貴方も走って彼を尾行するのよ』
「了解」
 私服刑事も彼を現行犯逮捕する為に動き出す。警部補である桃園早苗の命令により、走りに自信のある部下が尾行を買って出たのだ。
 だが彼のスピードは私服刑事の想像を遥かに越えていた。アスリート並みの持久力と瞬発力を備える彼を追う形で尾行する事は困難を極める。

「そろそろ我々も動き出しましょうか」
「……ちょっと待って黒木君。あれは誰?」
 乗用車で待機していた2人の刑事は、不審な人物を目撃していた。白山一哉と全く同じ姿の前髪を垂らしたフードの男……
 背格好も全く同じであり、並べてみても遠目であれば見分けが付かないであろう。桃園は何かを感じ取った。
「あの男を追いかけるわよ」
「解りました」
 車は静かに動き出した。だがその動きに感付いたのか、フードの男はいきなり身を翻すと凄まじいスピードで逃げ始める。
「気付かれた!?」
「追うのよ、黒木君!」
 しかし車を出すスピードが遅かった為、2人は完全にフードの男を見失ってしまった。

 ポケットに手を突っ込んだまま走り続けるフードの男は車で追跡されていない事を確認すると、獲物を探してさらに走り続けた。
 早朝と言う事もあって人通りは非常に少ない。だが彼の目は道端で談笑している2人の女性の姿を捉えた。
 男はポケットからナイフを取り出そうと……
「そこまでだ!」
 その瞬間、ナイフを握り締めたままポケットに突っ込まれている右腕を一哉は掴むと、思い切り握力に任せて握り締めた。
 背後から腕を掴まれる等思ってもいなかったもう1人のフードの男は完全に不意をつかれ悲鳴を上げる。
 ポケットから取り出されたナイフは路上に転がり、異変に気付いた女性2人は既に逃げ出した後だった。
 抵抗を続ける犯人の頬を思い切り左手で叩くと、フードの男は地面に無様に転がり顔を晒す。
「須藤……」
 白山一哉と全く同じ格好をして犯行を行っていたのは陸上部のナンバー2、須藤尚之であった。
 気絶している彼に桃園達が近付き、手錠をかける。部下の1人が路上に転がったサバイバルナイフを拾い上げた。
「ごめんなさいね」
 桃園の謝罪の言葉も今の一哉には届いていない。何故彼がこんな事をしたのか彼には全く理解出来なかったのだ……

「……どうしてこんな事をしたんだ、須藤」
 手錠をかけられ乗用車に乗せられる所だった彼は、一哉の方を見てから桃園の方を見た。
「説明する時間を貰えますか」
「……仕方無いわね」
 桃園は2人の部下にしっかり捕まえておく様に命じると、先に乗用車の助手席の方に乗り込んだ。自分の予想が外れた事を悔しがっている様にも見える。
「……子供の頃から、俺には何でも出来ると思っていた。顔も良いし、仲間も増えるし、勉強もスポーツも優秀な成績だ。
 だがお前が陸上部のエースになった時に俺の完璧神話は崩壊した。お前みたいな友達もロクにいない顔も頭も平凡な奴が、俺を上回ったんだ!」
 熱に浮かされているかの様に、彼は言葉を続けた。その瞳には狂気が宿っている。
「俺にはそれが許せなかった。お前を失脚させる為にお前の日課に目を付けた。朝5時から6時までの間にお前の家の周辺でお前と同じ格好をして
 通り魔事件を起こせば、警察は間違いなくお前を疑う。とどめを刺す為にわざわざお前の指紋付きナイフまで用意してやったのに!」
「どうやって指紋を付けたんだ?」
 須藤尚之に手錠をかけた男性刑事が彼に質問をした。
「なぁに、普通にサバイバルナイフを握らせてやったんだよ。1年前にな。俺が高校にコッソリ持ってきたと言う名目で『お前もちょっと持ってみろよ』と半ば無理やり握らせてやったんだ。
 後は俺の指紋が付かない様にして犯行をそのナイフで行い草叢に捨てれば全てが上手くいく……ハズだった」
「……何故そんな事をした?」
「まだ解らないのか。俺は――」
「違う、お前は俺よりずっと幸せだったろう!人間関係にも恵まれていたし、成績も優秀だった!陸上部での記録だって俺に及ばなかっただけで優秀である事には変わりない。
 そんなお前が幸せを放棄してまで俺を陥れようとする意味が解らないって言ってるんだ!」
 一哉は涙を流していた。交流こそ全く無かったものの、彼は須藤を尊敬していたのだ。同じ走る事を生き甲斐とする仲間として……
 陥れられそうになった事よりも、彼がそんなつまらない事をしてもう走る事が出来なくなる事の方がショックだった。
「そろそろ良いだろう。車に乗れ」
 男性刑事が彼を車に乗せた。須藤もそれに従い、抵抗する事無く後部座席に腰を下ろす。
「お前の分まで走ってやるからな!また、一緒に走ろうぜ!!」
 須藤はその言葉に応える事は無かったが、その瞳には涙が光っていた。

「どういう風の吹き回しだ。あんなに県大会出場を拒んでいたお前が急に出ると言い出すなんて」
「あいつの分まで走ってやりたいんですよ。あいつが出てくるまでは、俺があいつの代わりに走ります」
 県大会に出場する意思を持っていた須藤尚之に代わり、白山一哉は陸上の県大会に出場する事を決めた。
 彼自身も変わった。人との付き合いを避けてきた一哉であったが、あの事件の後から積極的に後輩の面倒を見る様になったのだ。
 女友達も少しずつ増えてきた。両親の一哉を見る目も、前とは少しだけ変わっていっている様だ。
「白山先輩、アスリートの走りを見せてやってくださいね!」
「ああ、上手く走れればいいんだけどな」
 彼は人と交わり、嫌われる事を恐れていた。だが実際は、人を避けてきたからこそ嫌われていただけだったのだ。
 皮肉な事にそれを教えてくれたのは彼を犯罪者に仕立て上げようとした須藤尚之の行動だった。
「次、白山!」
「はい!」
 顧問の声に元気よく応えると、彼は勢い良く走り始める。今までは走り続ける事自体が彼の人生の意味だったが、今の彼にはその走りを応援してくれる仲間がいる。
 『仲間の為に走りたい』それは勿論彼を遠くで見ている須藤尚之の気持ちも背負って、走り続けたいと言う意味となった。

 昨晩から降っていた雪は止み、雪がまだ残る街中を1人の青年が走っていた。
 フードを被り、そのフードからは長い前髪が垂れている。
 ポケットの中にはミュージックプレイヤーが入っており、彼はイヤホンで音楽を聴きながら白い息を吐きつつ走り続けた。
『♪Nonstop run is necessary to keep not stopping and running……』
 イヤホンから流れてくる音楽の歌詞を呟きながら、彼は走る。ジョギングとは言え、走るスピードはかなりのものだ。
 昨晩吹き荒れていた風も止んでいたがまだ外は寒い。しかし彼は寒さも暑さも関係無かった。
 このジョギングは最早自分だけの為の走りでは無い。自分を支え続けてくれる皆の為の行為なのだがら……
 
> 愛の鳳仙花 作:浅香
愛の鳳仙花 作:浅香
 光の中にいる。わけもなくそんな直感が働いた。淡く優しげに包むような光の中で、自分は浮遊している。ずっと先に絶えず鋭い輝きを放つ何かがあって、そこに向かって吸い寄せられているのだと思った。流れていく景色もないのに、なぜか前に進んでいる感覚がある。それはきっと、微かに流れる光の粒子が、前後感覚を補完してくれるおかげであろう。止まらずに、自分の意思とは関係なしに、ひたすら先へ先へと進んでいる。思考はぼんやりとしていて、明確な状況判断ができない。
 感覚的には少しの時間が過ぎて、いつの間にやら暗さを伴って発光する赤い玉が横に見えた。並走するそれは、脳に直接響くような音で話しかけてくる。
「なぁ、お前もヒトモシかい」
 唐突な問いかけだったが、答えは明白。
「ぼくはヒトモシじゃない」
 すぐさま答えると、赤い玉は上下に揺れて笑い出した。
「はは、そりゃよかった! まったく、最近はミーハーばっかりでいかんね。お前までヒトモシだったら六匹目だった」
「なんのことだい? ぼくは――」
 ――ぼくは。
 何だっけ。自分を紹介しようとしたが、そもそも自分が何者なのかを思い出せなくて困惑する。ここはどこで、自分はいったい何なのか。もしかすると、自分も横にいる赤い玉のように、光の玉になっているのではないか?
 周りには光の粒子が流れるばかりだ。自分は前に流されるばかりで、何がどうなっているのかさっぱり分からない。
「なんのことだい? ハッ。解せぬ。解せぬねぇ」
 それから赤い玉は何度も解せぬ。解せぬ。と繰り返した。
「いいか。状況を確認しようじゃあないか。おれたちは今、転生競争の最中だ。おれたちは、死んだ。だから、生まれ変わる。ゴーストポケモンにな。ハッ。解せぬ。解せぬ」
 一つ、大きな光の粒子が流れていったかと思うと、赤い玉は声を大きくして「解せぬ!」と言った。
 本当に死んだのか? 恐怖がこみ上げてきて、流れに逆らおうとしたがそれは叶わなかった。ただ止まらずに流れるばかりだ。得体の知れない感情が募る。
「すると、ぼくは死んでしまったということかい」
「おいおい、勘弁してくれ。キオクソーシツってやつか? おれ、そういうの苦手なんだ」
 まったく、解せぬねぇ。などと言いながら赤い玉は説明をしてくれる。
 元々はポケモンだったが死んでしまい、ゴーストポケモンに生まれ変わるための転生競争に参加してしまっていること。なぜ競争なのか。それはゴーストポケモンにも人気のあるポケモンと、ないポケモンがいて、人気のあるポケモンには転生希望が殺到してしまうこと。そのため競争をして早い者順に好きなポケモンを選んでいく。人気の高いヒトモシあたりになると、上位を確保しないとまず無理なのであった。競争から漏れれば、当然転生は不可能になる。
「これは大変だ」
 呟いてみると大変さが薄らいだような気がした。実際はもの凄く大変だった。死んでしまった原因も、その事実も全く覚えていなかった。いつの間にか自分は死んでいて、生まれ変わるゴーストポケモンを選ばなければいけないという。
「タイヘン。タイヘン。タイヘンだなぁ」
 赤い玉は暢気に繰り返した。光の粒子が赤い玉にぶつかって、弾けるようにして散っていった。
「そうだ、お前、キオクソーシツなんだろ。だったら、下の川が見えるか」
 川。それを聞いて首を動かそうとしたら、確かに首がないことに気づく。それでも下を見ようと念じていると、視線は下に向いた。そこにはゆっくりと流れる川があった。水面に大きくうつる映像が、透き通った桃色の水と一緒に流れていく。
「見える。あれはなんだろう。映像が流れてるようにしか思えないんだけれど」
「見えたか。あれは思い出の川だ。流れている映像は思い出ってことになるなぁ」
 森の映像が流れていた。光の粒子が映像に纏わり付き、流れに呑まれてはすぐに離れていく。
 朝の日差しが眩しくて、木の枝を縫って差し込む陽光の下には、少女とピジョンが寄り添って目を閉じている。風が木の葉をさらった。幾枚かの葉っぱがピジョンの翼に貼り付くと、目を開けた女性が笑顔を振りまきながら葉っぱを取り去る。そんな映像。光の粒子と笑顔が重なったせいか、思い出であるはずなのに、どこか作り物めいて見えた。美しい思い出はそれだけ美化されて残るものなのだ。映像が流れていった。
「それで、何になりたいか決まったかい? たぶん、ヒトモシはもう無理だなぁ」
 わずかに思考を巡らせた。光の粒子が幾つも流れていってから、答えを出す。
「人間にはなれないのかな」
「おっと、これは大きく出たな」
 それから赤い玉は上下に揺れた。声を抑えて笑っている。
「悪い悪い。いいかい、人間になるには、愛の鳳仙花が必要なんだ」
「アイのホウセンカ?」
「おう。生前のパートナーに愛情を注がれたかっつーことだな。愛の鳳仙花は、人間になるときの爪になるんだ。おれにはよく分からんけど、人間には綺麗な指が必要なんだ。従って、綺麗な爪も必要になるんだよ」
 で、
「お前、持ってるのか? 愛の鳳仙花」
「持ってない」
「なんだよ!」
 赤い玉は叫び声をあげた。脳の中を金属質な音が駆け回るようだった。
「人間になりたいのに持ってないのか? ……あぁ、キオクソーシツか。だったら、ほら、今なら取ってこれるだろ。さっさと拾ってこい」
 光の粒子が流れていく。遙か前方には鋭い輝きを放つ何かがある。さっきから進んではいるものの、その距離は縮まっていないように思える。
「拾うって、どこから」
「思い出の中に決まっているだろう! 他にどこがあるんだ。えぇ? おれの懐の中に手ぇ突っ込んでも愛はないぜ!」
 なんだか深い言葉だと思った。しかし、今は深読みをする時ではない。思い出の中へ行くにはどうすればいいのか、聞くとまた激昂されるのだろう。ひたすらに念じてみると、視界はどんどん下に降りていった。光の粒子が上りながら後ろに流れていく。それから、映像を掴み、川の流れに飛び込む。

 暗かった。音ばかりが聞こえる。カタカタ。カタカタ。動いてるよ。ねぇ、動いてるよ。声が聞こえてから、自分が立ち上がろうとして姿勢を整えていることに気づいた。なんだか半分くらいの意思が操作されているような感覚だ。
 うまく立てない。それは意思が操作されていたからではなくて、単純に足場が悪いのだ。何か硬いものが周りを囲んでいて、身動きが取りにくい。動いて姿勢を直そうとしても囲いが邪魔をして立てず、いらいらが募りに募る。とうとう堪えきれなくなって思いっきり跳び上がった。頭を何かにぶつけたかと思えば、小気味のいい音が響いて、刺すような光に曝される。光が目に馴れてきてようやく、視界に景色が映り始める。そこには泣き笑いする男と女の姿がある。
「生まれた……。カケヤくん、生まれたよ!」
 女の人がそう言った。
「あなたの名前は、ミハネよ」
 美しい羽を持ったポケモン!
 彼女が跳び上がった拍子に切れた涙が宙を舞った。カケヤと呼ばれた男の人は、言葉を発する代わりに女の人を抱きしめた。そこは小さな部屋だった。窓の外には海が見える。

 森の中だった。日差しは強く、森の間を縫って射す。湿気が多くて、強い日差しにもさほど顔をしかめずにいられた。男の人と女の人が並んで歩き、自分はその上を歩みに合わせて飛んでいる。二人の足下には水たまりが点在し、そこには大きな木々と、見つめるポッポの姿が映っていた。
 自分はポッポだ。飛べるし、水たまりを見下ろせて、パートナーに合わせて速度をゆるめることができる。この二人をパートナーだと思えたのは、記憶の残り香が思い出に漂っていたからなのだろう。包み込む世界観がどうしようもない懐かしさを湧かせた。
「そろそろ着くよ。森の教会」
「うん。綺麗な場所だといいね。ミヅキの好きなセシナの花があると、なおいいのだけれど」
 それからしばらく歩くと、ステンドグラスにとどくほどの蔓を纏った教会が見えてくる。そこだけ周りに木はなく、雨を浴びたあとの教会は、陽光を受けて輝いて見えた。
「あ」
 教会の周りには白い花が咲いている。

 わしゃわしゃと頭を撫でられる。曲げた指で翼をなぞられる。心地よかった。笑顔の女の人がいて、トレーに乗った餌を与えてくれる。その薬指には指輪がはまっていた。お腹が少し膨らんでいるように見える。
 それから抱き上げられる。抱き上げたのは男の人で、彼の薬指にもまた、同じ指輪がはまっていた。窓ガラスに薄らと映った自分の姿は、ポッポではなくてピジョンだった。その影の向こうには広い海と、こぢんまりとした島が見える。
「お、今日はマボロシ島が見えるね」
「あ、ほんとだ。お花を買わなくちゃ」
 そこで思い出す。あの時の白い花はセシナの花だということを。彼女が好きな白い花。それを渡す相手には特別な愛情が注がれているのに違いない。
「どうしたんだい?」
 腕の中で一声鳴いてみせると、彼が声をかけてくる。
 愛の鳳仙花が欲しい。それがあれば、人間に転生することができるのだから。
 でも、と思う。愛の鳳仙花はたくさんの愛情を受けた証なのだ。ここは思い出の中。だとすれば、結果はとうの昔に出ている。愛の鳳仙花は、愛情で出来ていて、自分から求めて与えられるものではないのだ。
「きっと、ミハネも何か感じ取っているんだよ。だって、マボロシ島だもん」
 そう言って、お腹の大きい彼女は、どこか切なそうに微笑む。

 チイラの木のすぐ傍には、小さなお墓が二つ並んでいた。そこに白い花束を二つ、女の人がそっとお供えする。冷たい浜風がすっと通り過ぎていった。
「ミハネが生まれてから三度目かな。ここに来るのは」
「そうだね。もう三度目。時間の流れは本当に速いね」
 その言葉を聞いて、すぐに光の中を思い浮かべた。転生競争。光の粒子が流れていて、どう足掻いても後ろに戻ることはできない。だというのに、遙か向こうに見えた光の輝きには決して届かず、果てしない距離がそこにあるかのように思えた。あれは、時間の流れだったのではないだろうか。後戻りは許されず、何かに手を伸ばそうとしているのに、それが何かは分からないし、どんなに頑張っても距離は縮まらない。前後は一定の距離と空間に保たれて、進んでいるのにずっとその場を動くことができない。そんな、不思議な流れ。誰にも理解することはできないのに、誰もがその中にいて、ずっと流されているのだ。
「ほら、ミハネ、両親に挨拶をしよう」
 二つのお墓は両親のお墓だった。あぁ、と思う。
 時の流れに終わりはない。けれど、生にはいくらでも終わりが来る。

 窓の外は嵐だった。轟々と音を立てて、雨が屋根を叩く。窓ガラスに薄らと映ったピジョンは自分。愛の鳳仙花は、どこにあるのだろうか。悩む自分の顔が、人形めいて見える。
 雨の音に混じって呻き声が聞こえた。振り返って部屋の中を見渡す。玄関扉の向こうで風が暴れ、がたがたと扉を揺らしている。火の灯らない暖炉があって、中央のテーブルには花瓶。セシナの白い花が生けられている。
 もう一度聞こえた。隣の部屋からだ。扉は少しだけ開いている。
 窓の桟を蹴った。翼を広げて滑空する。わずかな隙間を通り抜けて、隣の部屋に入ると、そこには女の人がうずくまっていた。苦しそうに大きなお腹を抱えている。
「カケヤ……ミハネ……」
 小さな声を洩らした。ややもすれば雨の音に掻き消されてしまうような声で。それを聞き逃しはしなかった。
 すぐさま部屋を出る。風の音が一際大きくなった。玄関扉が耐えきれずに開け放たれる。その隙をついて、嵐の中に飛び出すと、背後では再び扉が大きな音を立てて閉まった。まるで魔法のようだ。身体を打つ雨が、失われていた記憶に染み渡って、形を成していく。
 覚えている。嵐の中、海を越えようとした自分を、覚えている。あの時もそうだ。あの時も玄関扉は魔法のように開き、自分を吐き出すと家を守るかのように閉まった。そうして自分は嵐の中、指名を果たして死んでいく。最初からそういう運命だったに違いない。扉が開くのも、閉まるのも、そうして自分が死んでいくのも。
 死ぬと分かっていながら、自分はあの日と同じ行動を止められない。そうしなければ、愛しい人が死んでしまうかもしれないのだ。それほど苦しそうに見えた。だから、死ぬと分かっていても、嵐の海の上を飛んでいく。
 遠雷が響き、豪雨が自分を追いかけてくる。どこまでも。どこまでも。
 死ぬまで。

 水たまりの中に突っ伏した。嵐は止んで、風の音と波の音が聞こえるようになった。もうほとんど動かない身体を無理やり動かして、這って進む。扉にたどり着いて、力のこもらない嘴で何度もつついた。こつこつ、こつこつ、力はこもらず、大きな音も出ない。目の前には血のように紅い何かがある。浮き世離れしたその物体に、最初は愛の鳳仙花だろうかと思ったが、木の枝の形をしていて、想像していたとおりではなくて落胆した。それでも何かが変わるならと、その非現実的な物体を嘴にくわえてみると、音もなく泡のように散ってしまった。
 だめだった。結局、自分は思い出しただけで終わった。そんな思いが駆け巡る。
 最後の力を振り絞って、もう一度、扉を叩く。
 意識は遠ざかっていく。完全に意識が途絶える寸前に、扉が開いた音を聞いたのは、希望や願望がもたらした幻聴だったのかもしれない。

 浮き上がっていく。光の粒子が流れていく。やはり、止まらずに流されていく。
「どうだい、目当ての物は見つかったかい」
 すぐに赤い玉が聞いてきたのだと分かった。輝きを放つ光が遙か向こうに見えて、いつの間にか横には赤い玉がいる。
「やっぱり、世の中そんなに上手く回っていないようだよ」
「そうか? おれにはそんなふうには見えないな」
「どういうことだい?」
「お前が持っているそいつは、紅い枝だろう? いいもの拾ったなぁ。そいつが人間になったときの、紅い糸になるらしいぞ」
 下を流れる桃色の川にだんだん橙色が混じってきた。光の粒子が見せた錯覚だろうかと思ったが、橙色はだんだんと浸食をはじめて、やがて完全に色が変わると、透き通った夕日の色になった。
「ハハッ、お前、なんにも知らないんだな、ハハッ」
 紅い糸を知らないことで、笑っているらしかった。
「それで、紅い糸って」
「ハハッ……はぁ。すまねぇ。おれも知らないんだ。なにせ、おれも転生競争の記憶があるっていう稀なゴーストポケモンから聞いた話なんでね」
 妙に詳しかったのは、そういうことだったのかと納得した。
「おっと、そろそろ生まれ変わりだな。夕日色の川が見えてきただろう。あれは、約束の川だ」
 夕日色の水と一緒に、映像が流れてくる。そこに映っていたのは、担架に乗せられて運ばれる女の人の姿だ。セシナの白い花が好きだと言った、ミヅキという名の女性。生前の自分にとって、とても大切だった人間の一人。
「あ、あの、映像は、何だい」
「ん? あぁ、約束の川に流れるのは、これから生まれ変わる先を映すんだよ」
 映像の中に目を走らせる。タマゴはどこにもない。
「タマゴがないんだ」
「タマゴ?」
「そうだよ。映像の中にタマゴがないんだよ」
「そりゃあ、ゴーストポケモンが堂々とタマゴから生まれたらいけないだろう。人知れずやり直しの人生を送るからこそのゴーストポケモンだ」
「そういうことじゃないんだ!」
 無機質な空間を通って、彼女を乗せた担架は白い部屋に入っていく。
 川の流れに乗って、赤い花がいくつも流れてきた。それが血のように見えて不吉だった。
「あれは、何だろう! ほら、あの赤い花だよ!」
「赤い花? ハッ、あるじゃねぇか、たぶんそれが愛の鳳仙花だ! お前はもうずっと前から手に入れてたんだよ!」
「本当かい? 血のように真っ赤なんだ。不吉なくらいだよ」
「不吉なんていっちゃあ、いけねぇ! 人間になるにはたくさんの血が必要なんだよ。これからお前は、人間に生まれ変わるんだ! 喜べ!」
 そうか、これが。これが、そうなのか。
 遙か遠くだと思っていた光がすぐそこに迫ってきていた。鋭い輝きはどんどん大きくなって、光の粒子は消えていった。
「ほら、生まれ変わりだ! それじゃあ、現世で会った時はよろしく頼むぜ!」
 赤い玉が一足先に掻き消える。ついに転生競争が終わろうとしていた。自分はちゃんと、生まれ変われるのだろうか。生まれ変わったとして、その先には。時の流れに終わりは来なくても、生の終わりはちゃんとあって、そして、死にも終わりがあるらしかった。それからまた、始まる。
 自分には愛の鳳仙花と、紅い枝がある。自分を導くように、紅い枝がするすると光の奥に伸びていった。
 やがて、鋭い光が弾ける。

 ――――あなたの名前は、ミハネよ。

 その言葉を聞いたのは二度目だった。
 それは思い出が作り出した幻聴か。それとも、約束を契るための言葉か。
 そうして、目を開けようとする。
 まぶたの裏で、愛の鳳仙花が咲いていた。
 
> Can't stop one's beat 作:でりでり
Can't stop one's beat 作:でりでり
「ふう……、やっと着いたな」
「じゃあヒロ、早くやろうよ!」
「オッケー、カズ! 今日は負けないぜ」
 土砂降りのあった次の日のことだった。二人の少年は町外れにある山の、やや傾斜のある場所でそれぞれ一匹ずつポケモンを従え、対峙する。
 彼らが住んでいた地方都市の中では、条令によって街中でポケモンバトルが出来ず、ポケモンバトルがどうしてもやりたい彼らは街から一時間離れた場所にある山へ向かわなければならない。
 行くのは遠いし、バトルを終えてくたくたになって帰るのも大変。それでもカズとヒロ、二人の少年はポケモンバトルが大好きで大好きで仕方がなかった。
 昨日も一昨日も、その前もずっと毎日のように行われていたこれが、いつまでも続いていくんだろうと二人は迷わず信じていた。
「ジュカイン、まずはリーフブレード!」
「守る! 膝元に来るよ!」
 素早い動きで間合いを一気に詰めたヒロのジュカインの的確な攻撃を、カズのオノノクスが淡い緑の膜をピンポイントで足元だけに張り、リーフブレイドを弾く。
「ドラゴンクローだ!」
 ワザが決まらず体勢を崩したジュカインに対し、空の右手を振りかぶり、鋭い角度から放たれるドラコンクローがジュカインをヒロの側まで飛ばした。
「ダメ押しで暇を与えないで!」
「木に飛び移って撹乱してやれ!」
 かろうじて受け身を取ったジュカインは、猪突猛進で突っ込んでくるオノノクスをすんでのところで上に跳躍してかわし、真後ろにある木の、枝に勢いよく飛び移る。一方で勢い余って止まれなくなったオノノクスは、ジュカインがいる大木に大きな一撃を喰らわせてしまった。
「あれ?」
「今のなんだ?」
 揺れ。オノノクスの大木への一撃と同時に、二人と二匹のいる地盤が揺らいだ。思わず皆の動きが固まり、それぞれ首を傾げたり辺りを見渡したりする。状況の把握が出来なかった一人と二匹とは違い、いち早く悪寒に気付いたヒロの決断は早かった。
「嫌な予感がするな……。カズ、今日は中止だ! 急いで山を降りるぞ!」
「え? あ、うん。分かった」
 互いにモンスターボールにポケモンを戻し、踵を返そうとしたとき。突然の山の唸りがしっかりと二人の耳に入った。ヒロの嫌な予感はズバリ当たったのだ。
「なっ! カズ、走れ!」
 オノノクスがダメ押しで攻撃した大木の根が持ち上がり、ゆっくりと倒れていく。言われた通り前を進んでいたカズは、後ろを振り返りながらヒロが倒れる大木を軽いフットワークで避けたことに安堵した。
 しかし、今度は大木の上の石や岩が崩れだす。大木という支えが無くなったことで、斜面が崩れ出していく。前日の土砂降りのせいで地盤が非常に緩くなっていたところに、オノノクスの一撃が微妙なバランスで保っていたこの斜面が崩れ出したのだ。
「うわあっ!」
 カズは再び背後から聞こえた声に、前に進みながら振り返れば。
 ヒロが踏み出した場所の土が崩れ、ヒロは転んでしまった。たまらずヒロはジュカインを繰り出して助けを求めようとしたが、ボールから放たれたジュカインの足場も登場と同時に崩れ、一人と一匹が下へ、下へと流されていく。
「ヒロッ! ヒローォ!」
 カズは自分のモンスターボールに触れるが、この状況を好転させるポケモンが手持ちにいないことに気付く。元より彼らはポケモンバトルをするのが本分であり、レスキューなんて出来る訳がない。
 もしも僕たちが空を飛べるポケモンを持っていれば――。
 込み上げてくる恐怖とパニックでカズは、ただ呆然と手を前に伸ばすだけで何も出来ず、やがて小さくなって見えなくなったヒロとジュカインをぼんやりと目で追うだけであった。
 土砂はさらに崩れ、大量の砂や石、岩が一人と一匹に続くように転がっていく。カズは更に一歩、二歩と下がり続け、かろうじて自分の身を本能的に守ろうとする。
 何分経ったか彼らには分からないが、カズが平静を取り戻したのは目の前の土砂がようやく落ち着いてからだった。
 ヒロとジュカインの姿は、もうどこにもない。
 広い山の中で、カズがたった一人だけ取り残されてしまった。






                          Can't stop one's beat







 ポケモンバトル世界大会開催――。
 大した観光地の無かったこの地方都市が、気候や風土の関係上認められて世界大会開催地となり、予想以上の賑わいを見せている。
 試合が行われる午後を避け、地元の人と観戦に来た人同士が夏の余暇を潰しあおうと街中でもあちこちでポケモンバトルが繰り広げられていた。
 今、ここではポケモンバトルは市が規定した特定の施設、通称『バトルエリア』ならば街中でも自由に出来るようになった。二年前までは町外れの山まで行く必要があったが、世界大会の会場となったことを受けて急速にそういった施設の開発が進んだのだった。
 母に頼まれたスーパーへの買い出しを終えて自宅に向かう道中、ぼんやりとあちこちで繰り広げられるそんな賑やかな様子を楽しげに眺める。
 突然どこからか放物線を描いて飛んで来たカメールが足元に落下し、思わず足が止まった。
「すみません! 大丈夫ですか!?」        目を回して倒れたカメールを向かえに駆けてきたトレーナーが、こちらに向かって腰を折って謝り、カメールをモンスターボールに戻して来た方向へ戻って行く。バトルエリアから大きく吹き飛ばされてしまったのだろう。フェンスで横を囲われているというのに、それでも飛ばされたのはかなり上に吹き飛ばされたという事だ。エリアに戻ったトレーナーは新しいモンスターボールからグライガーを繰り出し、ワイワイとバトルの続きを始まる。
「街中でポケモンバトル、かぁ」
 と、誰に向けてもなく呟くと、ズボンのポケットに入れていたモンスターボールがカタカタと揺れているような気がした。
「もしかしてお前もバトル、やりたいのかな?」
 返事、それに準じるリアクションは無い。きっと僕がポケモンバトルのド素人で、ポケモンバトルをする人間じゃないことを分かっているのだろう。
「ごめんな、バトルさせられなくて」
 ポケットから視線を外し、夕焼けの街を進む。街の中心部からやや離れた、計画的に建設された住宅街に我が家がある。普段は閑静だが、中心部はどこもバトルエリアが混んでいるため穴場を狙ったトレーナーがたまにうろうろしている。きっとこの夏だけなのかもしれないが。
「ただいまー。買ってきたよ」
「あら、お疲れ様」
 帰宅するなりキッチンに入り、買い物かごを脇に置く。労うように母さんが二、三度ありがとうと言う。
「料理に使うマヨネーズを買い忘れたんだけど、ほんとありがとうねぇ。もうこれでご飯すぐに出来るから、カズを呼んできてちょうだい」
「はいはい。また部屋に?」
「そうなのよ。あの子、いつになったら部屋から出てくれるのかしら」
「仕方ない、よ……」
「そうは言っても、もう中学生になったんだからいい加減ちゃんとしてくれないと困るのよ。さ、今手が離せないからお願い」
 ここで言い合っても仕方がない。世界大会団体戦、準決勝が中継されているテレビを切り、二階に上がって弟のカズの部屋の扉をノックする。
「カズ、ご飯だから出てこいよ」
「……分かった」
 やや小さい声が扉越しに聞こえ、弟の無愛想な態度に思わずため息をつく。
 ようやく開いた扉から、焼けずに白いままの肌の、沈んだような顔をしたカズがひっそりと出てくる。
「そうだ。カズ、明日のお墓参りの事だけど――」
「いい。一人で行く」
「……そんな暗い表情をしてたらヒロ君も喜ばないぞ、きっと」
「兄ちゃんには関係ないよ」
 何十日かぶりにカズと会話をかわそうとしたが、コミュニケーションも何もない。ベルトコンベアで流されるように先に階段を降りたカズを追って、重い足取りでダイニングに行く。
 こんなカズでも二年前までは明るく快活で、今みたいに部屋に閉じ籠って本ばかり読んでいる生活とは真逆、外に出て遊ぶのが大好きだった。それがこうも変わってしまった理由は分かる。
 幼馴染みで大親友のヒロ君とポケモンバトルの最中に、不運としか言いようの無い土砂崩れに遇い、カズは助かったもののヒロ君がそのまま還らぬ人になってしまったことにある。
 両親や、兄である僕。そしてヒロ君のご両親やヒロ君の捜索活動にあたったレスキュー隊員が何を言っても、カズはひたすら自分のオノノクスのワザ、ダメ押しが外れたせいで土砂崩れが起きた、つまりヒロは自分のせいで死んでしまったと、言って聞かなかった。
 やがて、カズはそれから大好きで止まなかったポケモンバトルを敬遠するようになる。さらに手持ちの全てのポケモンは逃がすか譲渡してしまう程。そこまでしなくても良かったのでは、とも事が事だけに言いづらかった。
 やはり、ポケモンバトルがトラウマとなっているのだろうか。
 両親と僕が話し合った結果、なるべくカズの前ではポケモンバトルの話をしないようにすることにした。
 情熱を注いだ大好きなモノを失ったカズからはみるみる生気が消え、学校(たまに無断で休む)と食事、風呂等でしか部屋から出さえしない。
 気持ちは分かる。いや、分かるというのは流石に驕りか、それでもいつまでもこのままという訳にはいかないだろう。
 ポケモンバトルで無くてもいい。また何か、カズを元気にさせ、熱中させるものがあれば……。
 まるで光を失ったカズの目には何が見えているのだろう。
 その後も食卓で一言も発することなく、食事を終えてすぐに部屋に戻るカズを見つめながら、うすぼんやりとそんなことを考えていた。



 夏の夜は暑い。夜に限らずとも当たり前のことだ。眠りが深い自負があったのに、余りの暑さのせいでまだ夜中三時というのに目が覚めた。汗でびっしょり濡れたTシャツを脱ぎ捨て、汗をタオルで軽く拭いてから新しいTシャツに着替えた。トイレにも行こう。思い立って、一人部屋から余り音を立てないように慎重に廊下に出る。
 寝ているだろうカズの部屋の前を、抜き足、差し足、忍者のごとくゆっくりと通ろうとしたとき、何か声がした。
 誰かと喋っている訳ではなさそうだが、何を言っているかは聞き取れない。それでもその声自体にはどこか聞き覚えがあるような。
 カズには悪いが部屋の扉に左耳をぴったりとあて、それが何かを探る。
『――ましたぁ! エレキブルの必殺パターンがアメリカ代表、Jey選手のメガヤンマに決まりました! 団体戦準決勝は白星発進です。試合全体を見ていかがでしたか』
『圧巻の一言に尽きますね。チャージドローで完全に流れを引き寄せました。やはり彼を一度でも彼のペースに持ち込ませると――』
 すぐに分かった。間違いない。これは今日の世界大会のテレビ中継だ。どうしてあんなに敬遠していたのにカズがポケモンバトルを観てるのか。
 意識がそっちに注意していたせいで、手が滑って扉の取っ手を押してしまったことに気付かず、異変を感じたときには倒れこむようにカズの部屋に入っていた。
「に、兄ちゃん!」
 慌ててテレビの電源を切ったカズだが、たぶんバレたということを分かっているのだろう。体は僕の方に向けているが、顔は俯き床だけを見ている。どこか観念したような雰囲気がある。僕の言葉を待っているのか。なんと言えばいいのだろう。
「……観たかったなら録画してこんな夜中に観なくてもご飯食べてる時間にリアルタイムで観れば良かったじゃないか」
 視線が右へ左へあっちこっちに動くだけで、カズは何も返して来ない。
「別にポケモンバトル観ることを怒ってる訳じゃない。こんな夜中にテレビ点けるのは良くないよ、って言ってるだけだ」
「ごめんなさい……」
 絞った雑巾から僅かに水が滴るように、か細い声が帰って来る。それから互いに二の句を失い、居心地の悪い気まずさが漂う。
 カズはどうかは分からない。たぶん僕が部屋から出ていくのを心待ちにしているのだろう。でも僕はカズに尋ねたいことばかりで、夜中の寝惚けた頭も相まってやや混乱してしまっている。
「カズ……。やっぱりポケモンバトルが好きなのか? それならそうと最初から言ってくれたら……」
「分かんないよ……」
「分からない?」
 予想外の答えに完全に虚を突かれた。分からない、どういうことなのか。現に今まで夜中に起きてまで中継の録画を見ていたじゃないか。
「ポケモンバトルの事を考えるのは嫌なのに、嫌なはずなのについ気になってこうして観ちゃう。またあの日の事が思い出しそうになるし、今でもたまに思い出しちゃうのに、観てるとつい胸の中が、何かこうよく分かんないけど沸き上がって来るような気がして」
 ようやく顔を上げたカズの目尻には涙が浮かんでいた。間もなくカズの黒目がぶれ、静かに顔をそれが伝う。
「僕ってポケモンバトルが好きなの? ねぇ、兄ちゃん!」
 すがるように泣き叫ぶカズに、なんて言ってやれば良いのか検討がつかない。軽率な言葉は余計にカズを傷つけ、困惑させるだろう。唇を舐めながら言葉が見つかるまで口元を遊ばせていると、どんどんカズの顔が歪んでいく。
「好きになっちゃ、いけないのに。またヒロみたいなことが、起きちゃうかもしれないのに!」
 ……結局カズが泣き疲れて眠るまで、僕は一言も発することが出来なかった。腫れた目を閉じたカズをベッドに寝かし、涙で濡れたフローリングをティッシュで拭きながら暗い思いに駆られる。
 ヒロ君のお通夜の時にも似たような事があった気がする。自分を追い詰めて自分の心を傷つけるカズに今みたいにいろいろと問われたとき、ロクな返事をしてやれなかった。
 もしも僕があそこで。そして今も、何か適切な言葉をかけてやれたらカズはここまで辛い思いをせずに済んだかもしれない。
 歳が五つも離れてるのに、何も出来ない最低の兄ちゃんでごめんな……。
 拭いたばかりのフローリングが、また湿る。



 浅い睡眠を取った翌朝。まだ深く眠るカズを置いて、一人で家を出る。
 朝からポケモンバトルで騒がしい通りを抜け、街の隅にある共同墓地に来た。近くで買った献花を携え、墓地の一角にある一つの墓の前で足を止めた。
 今日はヒロ君の命日、二年前のこの日、ここから見えるあの山で。あの山は事故のことを受けて、ハイキングコース以外の全てが立ち入り禁止になった。もしも二年前に今みたいに街中でもポケモンバトルが出来るんだったらヒロ君もこうはならなかっただろう。
 皮肉なもんだ。どうしてもっと早くこうしてくれなかったんだろう。そうすればカズだってこんなに苦しまずに済んだだろう。
「僕は……、どうすればいいんだろうなぁ」
 死人に口なし。答えが来るわけないなんて分かってる。分かっているけど、言わずにはいられなかった。
 新しい花を添え、墓に水を垂らし、真夏の日射しが強くならないうちに墓の回りの雑草を抜いていく。
 こうやっていると色々思い出す。元からやや内気なカズを、引っ張るように先導してくれたのがヒロ君だった。気の強いヒロ君のお陰でカズは明るくなり、他の友達も出来た。我が家で一緒にご飯を食べたこともある。うちとヒロ君の一家と共に遠出だってした。カズほどではないけれど、ヒロ君がこうなったことは僕だって十二分にショックだ。
 ヒロ君はカズにとっては太陽みたいな存在だったんだ。僕みたいなのよりもずっと頼りに、支えになっていた。
 ようやく雑草抜きを終えた僕の足元に見覚えのあるユニランが現れる。立ち上がれば、ヒロ君のお母さんが。お辞儀をする彼女につられ、僕も頭を下げる。
「去年も来てくださったのに、ありがとうございます。わざわざお墓の手入れまでしてくれて……」
「いえいえ。……それにそうでもしないとゴーストポケモンが集まって来るかもしれませんしね」
「ですね。……今日はカズ君とは一緒じゃなくて?」
「えぇ」
「そうですか。やっぱりまだ」
 やっぱり、とはカズが塞ぎこんでいる事についてだろう。静かに首を縦に振り、辺りをふわふわと楽しそうに漂うヒロ君のお母さんの手持ちであるユニランに目を移す。
「押し付けがましいんですが、私はカズ君にはポケモンバトルを続けていて欲しいんです。ヒロが叶えられなかった夢を追ってほしい、って」
 ヒロ君の夢、世界一強いポケモントレーナーになる。いつだったかは忘れたが、声高に空を指差して屈託のない笑顔でそう語っていた覚えがある。彼にはそう言っても周りが笑わない程のセンスがあった。その夢を、カズに……。
 彼女はバッグからモンスターボールを取り出すと、それを見たユニランが念力でモンスターボールを僕の手元に押し付ける。受けとれ、という意思を感じとり、ついつい両手で包み込むように手に取った。
「それをカズ君に渡してあげて欲しいんです。もし受け取るのを拒否したら、逃がすなり譲渡するなり、返してもらっても構いません」
「これは?」
「ヒロのパートナーの、ジュカインです。どうやらジュカインはモンスターボールに戻されていたようで無事で」
「でもどうしてこれをカズに」
「……最初はヒロの代わりと思って置いていたんですが、最近思うんです。この子は私なんかよりもカズ君の手元にいたほうが、カズ君にとってもこの子にとっても幸せだろう、って。それと――」
 穏やかで静かな笑みだったが、それでも彼女からは強い意志が伝わる。
「ヒロもきっと、また元気に明るくポケモンバトルしてくれるカズ君が見たいと思うんです」
 電撃が走るような衝撃が脳裏に走った。彼女に気圧されただけではないが、これはカズに渡さなきゃならない。そんな気がした。カズに何もしてやれなかった僕が唯一出来ること。後押ししてくれる。
「かっ、必ず渡します!」
 彼女に深くお辞儀をし、驚く彼女を放って急いで踵を返した。渡してどうなるかは分からない。でも、何もしなければ何にもならない。
 気付くのに時間がかかりすぎたが、カズを変えるためにはまず僕が変わらないと。僕がヒロ君に代わる支えになってやらないと。今こそ『情けない兄』を捨てないと。兄としての最低限の役目を。今なら、今しか!



「どこにいるんだ、カズ!」
 入れ違いになったのか、家に戻ってみればカズの姿は無かった。一人で墓参りに行ったということだけは分かる。それを頼りに来た道を引き返し、辺りを見渡しながらカズの姿を探してもどこにも見当たらない。
 家で待てばいいじゃないか。なんてのは考えた。でも、今急がないといけないような、早く渡さないとこの『熱』が失われそうな気がする。
 ただ渡すだけじゃダメなんだ。モンスターボールを渡すんじゃなく、ヒロ君、そのお母さん、僕の気持ちも共に添えてやらなきゃならない。沸き上がるこの爆発にも似た想いは、時間が進むにつれて薄くなってしまう。だから、急がないと。
 茹だるような暑さの中、汗だくになりながら駆け抜けていると、突然聞き覚えのある大きな声がした。
「や、やめろぉ!」
 車道を挟んで向こう側。同い年くらいの三人の男子に輪を囲まれるように、カズはいた。アスファルトに膝をつけ、男子のうちの一人に向かい、何もない宙空に右手を伸ばしている。
 状況をよく飲み込めなかったが、少なくともカズが良い状態でないことは分かる。
 立ち上がり、ひ弱な体躯で手を伸ばしていた男子に飛びかかろうとすると、控えていた残りの二人がカズを押さえ込んだ。
「返せっ、返せっ、返せぇ!」
「へぇ、これはそんなに大事な物なのか。だったら尚更タダで返したくはないな」
 そう言い跳ねる男子の手には、カズのエースキャップが見えた。読めたぞ、カズはあの男子に帽子を奪われて怒っているんだ。
 しかもあの帽子は元々はヒロ君からもらったもの。形見のそれを奪われて、心穏やかな訳がない。
 ここからヒロのいる場所にたどり着くには十メートル先の横断歩道まで向かわなければならない。時間がかかる。いくら手元にジュカインがいるからとはいえ車道を横断するなんて不可能だ。ポケモンの扱いがうまくない僕では間違いなく痛い目にあう。助太刀したいが到底厳しい。
 そうして僕があれこれ考えているうちに、例の男子は奪った帽子を被り、口の端を吊り上げて言った。
「どうしても返して欲しけりゃ俺とポケモンバトルだ。図書館の側のバトルエリアでシングルバトル。勿論ポケモンくらい持ってるよなぁ?」
 あの嫌らしい言い方。カズがポケモンを手放していることを知っているかのような。そういった明確な悪意を感じる。
「ダンさん良いんすか? そんな条件出してやって」
「あぁ? この俺がこんなもやしみたいなヤツに負ける訳ないだろ。奪うだけじゃアンフェアだから、せめてものお情けだ。……もっとも、そもそも来るかさえも怪しいけどな。いいか、三十分だけ待ってやる。それで来なかったら試合放棄とみなして俺の勝ちだ。分かったか? ……ふん、行くぞお前ら」
 二人の男子はカズの拘束をほどき、ダンと呼んだ男子の後に続いていく。投げ捨てられるように倒れたカズは、ゆっくりと立ち上がり、首を下げたままダンとは反対側へ進もうとしている。
 このタイミングで、ようやく横断歩道の信号が変わった。駆け出して、カズの名前を呼ぶ。驚いて振り返ったカズの顔は真っ赤になっていた。
「兄ちゃん……」
「今のやつら追いかけないのか」
「……追いかけたってどうしようもないじゃんか」
 ポケットから黙ってジュカインの入ったモンスターボールを突き出す。はっ、と顔を上げてカズは僕の顔を見たが、やがて視線と首が下がり、一歩二歩と後ろに後退する。
「いいよ」
「よくない」
「ほっといてよ!」
「本当にそれでいいのか?」
「うるさい!」
 カズは僕を振り切って逃げ出そうとしたが、こうなることは想像出来た。カズの右手首を掴み、離さない。
「離して!」
「このモンスターボールにはヒロ君のジュカインが入ってる。カズなら言うことを聞かせれるはずだ」
「僕は――」
「いつまでもそうやってるつもりか!」
 自分でもそこまで激しく言うつもりは無かったが、つい激しい剣幕で怒鳴ってしまうと流石のカズも固まり、抵抗をしなくなった。言うなら今しかない。
「そうやって逃げてばっかりしていると失うばかりだ。カズ、お前はまた同じ失敗を繰り返すつもりなのかい?」
「……」
「目の前で大事な物が消えていく。一つや二つだけじゃない。カズがそうしている限り、たくさんの物を失っていく」
「嫌だっ!」
「だったら立ち向かうんだ。そのための、鍛えた力だろう」
 強引にカズの右手にジュカインのモンスターボールを握らせる。そっと手を離せば、カズはモンスターボールをただじっと見つめた。
「ヒロ君が今のカズを見て喜ぶか?」
「……ううん」
「だったら尚更じゃないか。ダンとかいうあの子や、過去のトラウマを乗り越えるのは今だ。人は困難の度に変わらなきゃいけないんだよ」
「でも――」
「兄ちゃんがついてるから、安心しろ!」
 僕がいるからどう安心なのかは自分でも分からない。それでもやや明るくなったカズの顔を見ると、なんとかなりそうな気がする。ちゃんと支えになってやれるかもしれない。僕自身もちゃんと頼れない兄貴のヴェールをここで脱がないと。
「出来るか?」
「……頑張る」
「よし。そう来なくちゃ。……そうだカズ、これを」
 思い出したようにジュカインのモンスターボールがあったポケットと反対側から別のモンスターボールを取り出し、カズに手渡す。
「これは?」
「カズのオノノクスだ。カズが逃がした後も、自力でうちまで帰って来たから僕が世話してたんだ。オノノクスはきっと、カズがこうして立ち上がる時が来るのを信じてたんだ」
 大事にモンスターボールを両手で包み込んだカズの肩を優しく叩く。熱が、そっと伝わる。
「おっと。言われてた時間までもう少しだ。さあ、行くぞ!」
「う、うん!」



 図書館の側のバトルエリアに向かえば、言われた通りダンとその取り巻きの二人が待っていた。まさか本当に来るとは思わなかったのか、ダンはカズの姿を見ると驚いたように僅かに口を開いた。
「ふん、どうやら時間通りに来たようだな。だけどポケモンは持ってるのか?」
 カズはぎゅっと眉間に皺を寄せ、モンスターボール二つを見せつけるように突き出す。
「へぇ、二匹か。おい。ジャッジの用意をしろ」
「わ、分かりました」
 バトルエリアは公式大会さながらのポケモンバトルが出来る施設。しかし人間のジャッジはいない。オートジャッジと呼ばれるシステムが、公平に試合をジャッジする。試合形式を入力すれば後は勝手にやってくれる、魅力的なシステムだ。
『使用ポケモンは二匹のシングルバトル。道具の所持、使用は不可。入れ替えは自由、先に一匹でも戦闘不能になった方が敗北となります』
「カズ、負けるなよ」
「うん」
「ダンさんそんな奴やっちゃってください!」
「当たり前だ。さあ、始めるぞ!」
 対戦が始まればバトルエリアには戦う二人しか入れない。リフレクターや光の壁などと同様の特殊な素材で作られたフェンスで仕切られたギャラリー席から、やや遠巻きに見守って応援するしか出来ない。だからこそ精一杯応援してやる、それが僕の役目だ。
 両者が放るモンスターボールからは、それぞれコドラ。そしてオノノクス。オノノクスのような大型ポケモンが出るとはダン達も思っていなかったようだ。
「オノノクスとか本物初めて見た……」
「で、でけぇ」
「ばっ、馬鹿が。いくらポケモンが強そうだからといってそれだけでポケモンバトルは勝てない。行くぜコドラ。まずは嫌な音!」
 爪を立てたコドラが、自らの鋼の体を緩く引っ掻き鼓膜に妙な振動を起こす不快な音を奏でる。
 僕やカズもそうだが、例外なくオノノクスまで思わず耳を塞いでいると、がら空きになったボディ目掛けてコドラの突進がオノノクスの腹部にクリーンヒット。体勢は崩さなかったが後ずさってしまった。
「畳み掛けてやれ。アイアンテール!」
「みっ、右から来るよ、守って!」
 淡い緑の幕がオノノクスの右側だけに張られると、予想通りコドラが体を半回転させて振りかぶったアイアンテールは弾かれ、僅かによろける。カズはその一瞬のスキを逃さなかった。
「ドラゴンクロー!」
 右側に傾いたコドラを押し倒すように、左手でドラゴンクローをアッパーカートのように振り上げ、完全にコドラの重い体が持ち上がった。
 二年ぶりだというのにブランクを感じさせない。こっそり観ていたポケモンバトルの中継が役に立っているのか。その指示に従っているオノノクスも流石だ。
 そして今のように、相手の攻撃がどこからやってくるかに関する読みの上手さがカズの天性の才能だ。行ける、このままならもしかするかもしれない。
「そのままコドラにダメ押――」
 追撃の手筈のはずが、突然カズの指示が止まってしまう。その僅かな時間に、元の体勢に戻ったコドラが指示を待って戸惑うオノノクスに突進を食らわす。
「なんだ? まあいい、決めてやれ。諸刃の頭突き!」
 カズの様子が明らかにおかしい。後ろ姿しか僕のいる場所からは見えないが、手がプルプルと僅かに震えて下を向いている。
 まさか、と嫌な予感しか浮かばなかったが、トラウマをぶり返したのか? 守る、ドラゴンクロー、ダメ押しの三連コンボはカズの伝家の宝刀のはず。
 いや、そういえばカズはダメ押しが外れて土砂崩れが起きたと言っていたような――。
 とにもかくにもっ!
「カズ! 前だ前っ!」
 僕の叫びで我に返ったカズはパッと頭を上げる。ただただ真っ直ぐに猛突してくるコドラの攻撃を回避、防御不可だと判断したのかぶつかる寸前でオノノクスをボールに戻し、ワザをスカしたために急にブレーキをかけて不安定な動作のコドラの真上に、いつの間にか放られていたモンスターボールから新たなポケモンが飛び出していた。
「リーフブレード!」
 閃光と共に現れたジュカインは、高さを駆使して思い切り腕の刃を降り下ろす。コドラは急な攻撃に体を丸める程度しか対処出来ず、ほぼ完全なクリティカルヒットとなった。
「穴を掘る!」
 コドラの背中に着地したばかりのジュカインは間髪入れる暇なく、地中に飛び込むように潜っていく。コドラには地面タイプのワザが有効、良い采配だ。
 ダンもコドラもどこから、どのタイミングで来るのかと探るように辺りを探るが、ダンはやがてモンスターボールを左手に握る。交代させるつもりか。
「今だ!」
 足元から突き上げるようにジュカインが飛び出ると、コドラの体が持ち上がる。それを見てからダンはコドラを急いでモンスターボールに戻す。
 もし今のが最後まで決まっていれば、コドラは受身も取れないだろうからダメージの衝撃もより大きくなり、戦闘不能になっていたかもしれない。惜しい。
 チラと振り返るカズと目があった。やや困り顔になっていたが、僕が笑顔を見せるとカズも表情が柔らかくなった。いいぞ、やってやれ、カズ!
 にしてもダンはさっき構えていたはずの新しいボールを構えていない。どういうつもりなのか、どこにやったのか。
「やれ! 燕返し」
 唐突にジュカインの背後から黒い疾風が飛び出し、襲いかかる。あれはドンカラスだ。いつの間に。
 場に右往左往と目を配らせると、先程ジュカインの居た位置の付近に開かれた状態のモンスターボールが転がっている。
 さっきカズがオノノクスを戻してワザを交わしたテクニックが『チャージドロー』というのに対し、おそらく今彼がやったのは『バックブラスト』だろう。
 チャージドローは相手のワザをギリギリでポケモンを戻すことによって回避し、すぐさま別の角度から放ったポケモンがそのポケモンに攻撃を与える。少しでもポケモンを戻す、放つタイミングがずれて同時に二匹が場に出ている状態になるとシングルバトルでは反則扱いになるため、読みと動体視力、集中力が合わさってこそ出来るテクニック。
 バックブラストはあらかじめモンスターボールの開閉スイッチを緩め、何らかの手段でフィールドのどこかにボールを転がし、トレーナーの合図でポケモンが自分からボールから飛び出して相手の背後等を取るテクニックだ。モンスターボールが回収しづらいため入れ替えが出来なくなるケースの多い、捨て身の策。ダンはそこまでしてでも勝利をもぎ取りに来たということだ。おそらくジュカインが穴を掘ったときには決めていたのだろう。
 奇襲を取られ、完全に後手に回ってドンカラスの猛攻をなんとか避け、時には受け流して退けているジュカイン。だけどこのままじゃあ分が悪過ぎる。
「戻れ、ジュカイン」
「そのタイミングを待ってた! 追い討ちだ!」
 ジュカインがモンスターボールに戻される速度より早く回り込んだドンカラスが、翼を一振りしてジュカインを横に弾き飛ばす。投げられたサイコロのように転がったジュカインをもう一度戻そうとするカズだが、モンスターボールとジュカインの直線上の間にドンカラスが割り込んだせいで戻すことが出来ない。
「そう好きにはさせねぇよ。騙し討ちだ」
「あ、穴を掘って回避!」
 間一髪、ドンカラスのトドメになりうるかもしれない攻撃をなんとかかわしたジュカインは地中を伝ってカズの前方に戻り、ドンカラスと向かい合う。ドンカラスは何度か有効打をジュカインに決めているのに対し、ジュカインの方は一度シザークロスを決め、リーフブレードをかすらせるのが精一杯。
 いくらカズが(感じさせないとはいえ)ブランクなどを背負っているとはいえ、このダンという彼も相当だ。
 休む暇なく繰り広げられていたバトルに、手汗が止まらない。いつの間にやらバトルを嗅ぎ付けた野次馬も、黙って緊張の一戦に見入っていた。
「おい、あのちっこい方の坊主、ピンチなのに笑ってるぞ」
 観客の一人の声につられてカズの横顔をなんとか臨めば、ぎらついた目に笑う口元。
 やっぱり、カズはバトルをしている方が輝いてる。このジュカインを上手く扱っているサマを見れば、まるでヒロ君がそこにいるような……。
 そうか。ヒロ君は生きている。死んじゃいない。カズのあのバトルの中に、ヒロ君がいる。
 今のカズの姿こそがそれを証明している。カズもきっとそれをいつの間にか戦いの最中で気付いたんだ。ヒロ君はきっとカズと共に戦ってる。
 もう、トラウマを乗り越え最大の味方を見つけたカズに怖いものはない。
「今なら降参を認めてやるぜ。もうあと一撃でも食らえば倒れそうなジュカイン。だけどこの俺のドンカラスはまだ余裕。追い討ちがある限り交代はさせないし、元より草タイプに飛行タイプをぶつけている時点で俺が一つアドバンテージだ」
「……降参なんてしない。一つディスアドバンテージを背負っても、僕は君より二つアドバンテージがある!」
「何をぉ! トドメだ、騙し討ち!」
「フェンスに向かって走って」
 追いかけてくるドンカラスから逃れるように、バトルエリアを囲むフェンスにかけよるジュカイン。だけど端によれば端に行くだけ動ける範囲が狭まって不利になるはず、なぜそんなことを。
「僕のアドバンテージの一つは地の利だ! 三角飛びでドンカラスの背後を取って」
 フェンスに向かって跳んだジュカインは、フェンスを強く蹴ってその反動でドンカラスの背後に回る。対象を急に見失ったドンカラスはなんとか反撃を回避しようとするが、ワンテンポ遅かった。
「そして、もう一つは勇気だ!」
 打ち合わせや合図無くしても、阿吽の呼吸でジュカインがドンカラスにアクロバットを叩き込む。弾かれてすぐそばのフェンスに叩かれるようにぶつかり、予想以上にダメージが大きかったのか、目を回したドンカラスはそのまま力を失った。
「ば、馬鹿な……」
『ドンカラス戦闘不能。勝者は青コーナー』
「やった!」
 ついつい僕が大声で歓喜を口にすると、観客達がカズに。そして健闘したダンに向けて拍手を贈る。
 バックブラストでフィールドに転がしていたボールを拾い、ドンカラスを戻したダンは俯いたままカズに近付き、被っていたエースキャップをカズに返す。
「……悪かった」
 小さくそう言ったダンは踵を返そうとしたが、それよりも先に帽子を被り直したカズが右手を差し伸べた。
 首を傾げるダンに、カズは喜色満面で言う。
「握手」
「あ、あぁ」
 カズの細い手に、ダンの黒い手が交わると、ダンは苦笑いしながらもどこか嬉しそうな表情を見せていた。



「じゃあ行ってくる!」
「どこにさ」
「ダン君達と七丁目でやってる団体戦に出るんだ」
「そっか。それはいいけど今日は世界大会マルチバトルの決勝だぞ?」
「それまでには帰ってくるから。行ってきまーす」
 朝からバタバタと騒がしい光景を見せつけられ、いささか参るもののどこか嬉しいような。
「カズ、昨日から急に元気になったと思ったら、いつの間にやらまたバトルとか言い出して。ねぇ、一体昨日何があったの?」
 洗濯物を干し終えた母さんが、嬉しいようなめんどくさいような息を吐いて僕に尋ねる。
 何があった、一言で片付けるのは難しい。でも間違いなく言えることはある。
「カズがまた、未来に向かって走り出したんだ」
「はい? ちょっとどういうことなの?」
「僕も出掛けてくる」
「あ、待ちなさいって!」
 面倒な詰問を避けようと、慌てる母さんを振り切って家を出る。どこに行こうかなんてわからない。カズの応援に行ってやってもいいし、友達の家に行ってもいい。買い物に行ってもいいし、冒険に行ってもいい。
 どんなに不器用で、たまに道を間違ったり踏み外したりして何度転んでも、きっと必ず立ち上がれる。また走り出せる。
 何日何ヵ月何年迷っても、信じるものがある限りきっと光は見えてくる。
 どこまでも続く未来は、一人で閉じたりなんてしないから。
 さあ、今日はどうしよう。
 僕達の夏はまだまだ終わらない。
 
> 「こんにちは、電柱です。よろしくお願いします」 作:巳佑 【★】
「こんにちは、電柱です。よろしくお願いします」 作:巳佑 【★】
 どうも、電柱です。
 デンチュラさんという黄色い電気ビリビリな蜘蛛ポケモンではないですよ〜。
 家から出なくとも、窓から覗くことができる、ごく普通の灰色の電柱です。
 ここ花田町の三丁目、会社などのビルが集まっている中心街から離れている、人通りが比較的少ない一本道にポツリと立っています。
 
 ここから見える風景はいいですよ〜。
 空にはポッポやマメパトが飛んでいますし、地上には軒並みに家がこの一本道に沿って林立していて、赤い屋根や青い屋根と色とりどりなところが素敵だと思います、はい。
 あぁ、それとこの一本道を通っていく人やポケモンなどを観察するのも楽しいですね。
 え? 電柱のくせに何か人間くさい? まぁ……長い間ここに立っていましたからねぇ……色々な情報が入ってきたりするんですよ。物知りな電柱さんとでも思ってくれたら幸いです。
 
 
 ポッポさんやマメパトさん達が日の出を告げる声を上げている中、誰かがやってきました。
 身長は百七十後半でしょうか、黒いパーカーの服を着ていて、頭のフードを目深に被っている為に輪郭を覗くことができません。
 ……ん? 何か、手に持っていますね。ダンボール箱でしょうか……あれ? 張り紙みたいなものもありますね、どれどれ……。
『この子を拾って下さい』
 ダンボールの中には真実を知らない一匹のイーブイさんが丸くなって眠っていますね……。
 このお方に何か事情がおありなんでしょうか、というか事情がなければ捨てるなんてことはしないですよね。
 その人間の方は一本の電柱の前に――私の前に立つとしゃがみこんで例のダンボール箱を置きました。
「ごめんよ……本当に……」
 そんなしゃがれた声の後(声音から恐らく男性の方でしょう)その人間は走り去ってしまいました。
 振り返らずにただ一心腐乱に走っていき、やがてその背中は小さく、そして見なくなりました。
 ……地面には小さい黒い丸い跡、よっぽどの事情がやはりあの人にはあったのでしょう。
 しかし……困ったものですね、私は見ての通り電柱ですから何も出来ません。
 せめて、このイーブイさんが夢で遊び続けている間にどなた様かが拾ってくれると助かるのですが……。
 

 先程まで、天気が良かったはずだったのですが、いつの間にか雨雲さんが全力疾走してきたのでしょうか、あっという間に空は灰色の世界になりました。
 すると、ポツリポツリと地面が濡れていき――雨が降ってきました。
 ざぁざぁ降りです。
 これは通り雨でしょうか。
 あ、それよりもあのイーブイさんは一体どうしているのでしょうか。
「きゅう……きゅ……きゅう、きゅう……」
 このイーブイさん、いずれ大物になるかもしれません。
 まさかこの大雨に体を打たれても起きないとは……。
 しかし、問題がここで発生してしまいます。ダンボールの中には雨水が大量に入ってきて、このままだとイーブイが知らない間に溺れ死んでしまう可能性があります。
 どどどどどど、どうしましょう!? 
 電柱の私にできることなんて……って言っている場合ではありませんって、私!
「…………」
 軽く混乱状態になりそうだった私の前にいつの間にか一人の少年がいました。
 身長は百六十前半で黒いボサボサ髪、顔つきはいたって……こう言っては失礼かもしれませんが、やる気がないというかなんというか……。
 服は真っ黒の学ランを着ています。
 あぁ! 混乱状態で忘れていたものを思い出しました。
 ここから少々歩く場所にある中学校に通っている、確かユウキ君と呼ばれている少年です! 
 この少年ならなんとかしてくれるだろうと信じていると……ユウキ君はダンボールを取って、まずイーブイさんを取り出しダンボールに溜まっていた水を全部流し、そして再びイーブイさんを元に戻しますと――。
「……とりあえず……これで」
 ダンボールに水が入らないように、ビニール傘を私に立てかけますとユウキ君はそのまま雨に打たれながら走って行きました。
 あらら……連れて行くことはできないようですね、せめてイーブイさんを濡らさないようにしてはくれましたが、ユウキ君の方は大丈夫なのでしょうか? 風邪を引かれないといいのですが。 
 そして、イーブイさんの様子といえば――。
「きゅう……きゅ、きゅ♪ きゅうきゅう……♪ きゅう……」
 夢の中で楽しく遊んでいるようで、その寝顔の中にある口元がニヤっと上がっています。
 やはり、このイーブイさん、きっと大物になると思われるのは私の気のせいではなさそうなんですが。


 さて、激しい通り雨はいつの間にか降り止みまして、空には太陽が眩しい顔を覗かせています。
 すると、今まで寝息を立て続けていたイーブイさんが目を覚まし、眠そうに前脚で目をこすった後、辺りを見渡し始めました。
 恐らく、イーブイさんにとっては何も知らない土地、初めての場所、きっといつもいたところではないという不安感がイーブイさんの中に広がっているようで、その顔色が徐々に雲っていきます。
「きゅ〜い…………きゅ〜……きゅ〜きゅ〜」
 左を向いて一鳴き、右を向いて一鳴き……主の名前を呼んでいるのでしょうか?
「きゅ……きゅ、きゅ、きゅ〜い〜!!」
 あらら、遂にイーブイさんが声を上げて泣いてしまいました。
 ど、どうしましょうか? 私はただの動けない、声をあげることもできない電柱ですし――。
「おやおや……これはこれは、めんこいイーブイじゃのう」
 そう言いながら、しゃがみこんで、イーブイさんに穏やかな微笑みを向けていますのは……パーマがかかった白髪に、顔はたくさんのシワを刻み込んだ女性――確か、梅田さんというおばあさんです。
「ほほほ、そんなに泣かんでええ、泣かんでええ。よしよし」
「きゅ……きゅ……? きゅ〜、きゅ〜」
「ほほほ、よい子じゃな♪ よしよし」
「きゅい。きゅ……きゅいきゅい♪」
 梅田さんが抱き上げられて頭を撫でられたり、首を指でかいてもらったイーブイさんはあら不思議、泣き顔から一変、気持ち良さそうな顔になり、なんと梅田さんの胸に頭をすり寄せているではないですか!
「お主、行くところがないのならワシのところに来るかえ?」
「きゅい、きゅ……きゅい、きゅ〜い♪」
 イーブイさんは梅田さんに笑顔で一鳴きして応えます…………あ、れ? なんかあっという間に問題が解決しているのですが。
 こういうのはなんか警戒して反抗してくるイーブイさんから梅田さんが(大げさかもしれませんが)傷つきながらも信用を得て……よろしいのでしょうか、この展開……まぁ、結果オーライですし、それに越したことはないのですけど。
「それにしても……この電柱には何か運命的なものを感じるのう……ありがたや、ありがたや」
「きゅ〜い」
 ちょ!?
 なんかいきなり、梅田さんがイーブイさんを一旦、地面に置いたかと思えば、唐突に手を合わせて崇めるような行為を私にしてくるのですが!?
 イーブイさんも梅田さんの真似するよろしく頭を下げていますしっ。
「これは、感謝の気持ちですじゃ、ほれい」
 そう言って、梅田さんがダンボール箱の中に投げ入れたのは……これは……赤い毛糸玉、ですかね……?
「それじゃあ、行くかのう、イーブイ」
「きゅい♪」
 運命的なものって、そんなこと……って、ちょ!? ちょっと待って下さいよ!
 赤い毛糸玉をここに置かれても困りますよ〜! 
 ポイ捨てで訴えますよ〜!
 ……そんな私の主張など、もちろんどこ吹く風。梅田さんとイーブイさんは楽しそうな背中を見せながら去っていきました。


 さて、真上の太陽が傾き出して来た昼下がり、私こと電柱の手前にはダンボール箱と、その中に入っている赤い毛糸玉……なんとまぁ、シュールな光景なんでしょうか。
 この赤い毛糸玉をどなた様か回収してはくれないでしょうかと、考えていますと……おや、噂をすればなんとやら、誰かが来ましたね。
 えっと、確か……体格がよく背の高い青年がシゲさんで、小柄で肌を褐色に染めている女性がユイさんでしたね。
「おい、オスラン! メスラン! いい加減にケンカを止めないか!」
「メスラン〜ちょっと落ち着いてよ〜。そりゃあ、大事にしていた木の実を食べられたのはショックだけどさ〜」
 なにやらお困りの様子ですね……どうやら、彼らのパートナーである紫色の体をしたニドランオスと水色の体をしたニドランメスが仲違いを起こしてしまっているようです。
 オスランと呼ばれたニドランオスは相手に『にらみつける』を常に送っており、対するメスランと呼ばれたニドランメスは「くー! くー!」と攻撃性をたっぷりと含んだ鳴き声を上げています。
「……………」
「くぅー! くー! くー! くー! くぅ、くぅー!!」
 片や無言の睨み、もう片や激しい抗議。険悪なムードが消える気配など、どこにもありませんでした。
「全くさぁ……シゲの育て方が悪いんじゃね? さっさと謝ればスグに終わる問題じゃん」
「お、俺のせいにするのかよ!? だ、大体、ユイの方はどうなんだよ!? お前の方こそいつまでも食べ物のことでネチネチと……ペットは飼い主によく似るっていうことはまさにこのことだよな!」
「な、なんですって!?」
「大体お前は昔から――」
 オ、オスランさんとメスランさんの険悪なムードは飼い主であるシゲさんとユイさんにまで及んでしまったようです。
 昼下がりの一時、電柱の前では一組の人間のカップルとポケモンのカップルが火花をバチバチ燃やしあい、ケンカが繰り広げられています。
 そして、遂に怒りの臨界点が突破したのでしょうか、ユイさんが例のダンボール箱から、あの赤い毛糸玉を取り出すと「ふざけんなよ! こんにゃろお!!」と乱暴に言葉を吐きながら、シゲさんに投げつけました。
 ボスっと殴られたかのような音と同時に「イテッ!」とシゲさんの悲鳴が上がり、そしてシゲさんのお腹に当たった赤い毛糸玉は二人の足元で同じくケンカしていたオスランさんの頭に、可愛い跳ねる音に続いてメスランさんの頭にもぶつかりました。
 そして、地面に落ちた赤い毛糸玉はコロコロと軽やかに転がっていき……ようやく止まった頃には…………あの、その、皆さん黙ってしまったのですが。
 ………………もしかして、聞いたことがあるのですが、あの赤い毛糸玉はただの糸ではなくて、もしや。
 私がそう考えている間にもシゲさんとユイさん、オスランさんとメスランさんがお互い見つめあい続けていて、そして徐々に、各々の顔が赤く染まっていて……私の仮説が当たっていれば、その赤色は怒りの意味ではなく――。
「ユイ……悪かったな……その言い過ぎたよ」
「シゲ、いいのよ、別に。ワタシも悪かったわ……」
「……クゥ、クゥクゥ……クゥ」
「くぅ〜。くぅ……くぅくぅくぅ……くぅ」
 ……(一応)説明しておきましょうか。
 あの赤い毛糸玉の正体は『あかいいと』と言いまして、相手をメロメロに魅了することができるアイテムだと聞いたことがあります。
「ユイ、愛しているよ」「シゲ……チョー大好きっ」
「クゥ……クゥクゥクゥ」「くぅー!」
 シゲさんとユイさんが抱き合い、オスランさんとメスランさんがお互いの体をすり寄せ合いました。
 ……昼間から見せつけてくれますね、このカップル達。
 しかし、まぁ、なんでしょうか一言だけよろしいでしょうか?
 ベタな展開すぎません? これ。
 ……まぁ、何ごともなくケンカが終わり、結果オーライなのですが、こう目の前で見せつけられると、なんと言いますか、恥ずかしいというかなんというか……なんとなくなんですけど、こうモヤモヤした気持ちが膨らむと言いますか。
「それにしても……この電柱、縁結びかなんかあるんじゃないの」
「確かに、そうかもな」
 イチャイチャタイムが幾分続いた後、赤い毛糸玉――『あかいいと』を拾いながら、シゲさんとユイさんが口を開きました……って、ちょ!?
「このダンボール箱に、いやお賽銭箱にお金でも入れようっと」
「いくら入れる?」
「そうねぇ……」
 そう言いながら、ユイさんが可愛らしいチュリネ柄のサイフをポケットから取り出し、そしてダンボール箱に投げ入れましたのは――。
「ご縁がありますように!」
 お約束すぎます!
 それよりも私に向かって二礼二拍一礼されても困りますよ? 何も出て来ないですよ?
 ……と主張したいのに、できないこのもどかしさ、どうしてくれましょう。
 やがて、去っていく二人と二匹の背中は幸せそうでしたが、私のどうしようもない、もどかしさは去ってくれる気配はなさそうでした。


 昼下がりの時間も過ぎていき、やがて夕方になっていきますと、学校帰りの学生さんや、もう一花井戸端会議を咲かせようと婦人達が集まったりと、この一本道が再び賑やかさを増す時間帯でございます。
 ここから見える夕焼け空はまさに特権ですよ。広がる橙色の空に雲間から覗く夕日はまるで神秘的な光で惚れ惚れします。時間が更に経過していくと、夜へと近づいていくことを示す群青じみた色が空にかかり始め、見事なグラデーションを描いています。ここもまた惚れ惚れします。その幻想的とも言える空の中を飛んでいくヤミカラスなどの鳥ポケモン達……絵になりますねぇ。
 …………。
 ……。
 まぁ、せめて今だけはダンボール箱の中に鎮座している五円玉のことについては忘れましょう、そうしましょう……なんか泣きたい気分にかられるのは気のせいでしょうか。
 

 休息の時間といいますか、心休まる時間ともいいますか、とにかく平和な時間はあっという間に過ぎ去ってしまったと思ったのは夕日が落ち、この一本道に人がまた通らなくなる夜の時間帯のことでした。
 私の前に、白いフードを目深に被って表情を覗くことができない……あ、胸の方が膨らんでいるようなので女性ということは分かりましたが、それ以外は素性が全く分からない人で……どう見ても、また一波乱起きそうな予感しか伝わってこないのですが。
「おぉ!! これは五円玉! キラリ輝く五円玉! 金色の穴あきフォルムに稲穂を刻み込んだ見事な五円玉!!」
 やっぱり! と叫びたい一心でございます。
 その目深に被った白いフードのお姉さん……長いので白いお姉さんとしておきましょうか。その白いお姉さん拝むように頭を何度も上げたり下げたりしています。だ、だから! 私はただの電柱で神様的なご利益は何もないと何度思えば――。
「今日のラッキーアイテム、電柱にダンボールに五円玉!! まさしく、これだ! これに違いない! これの他にないのだ!」
 なんか話がうますぎやしませんか!? この展開!? というより、白いお姉さんのテンションがやかましい程に高いことは分かるのですが、話の核が全く見えてこないのは困りものです。
 しかし物言えぬ電柱という存在の私、そのような注文はできっこありません。さて困ったなと私が思っていると、白いお姉さんがポケットの中から一個の赤と白に染まったボール――モンスターボールを取り出しました。
「ふふふ、選ばれた勇者にしか開けないモンスターボール! 今、ここに! 来たれ勇者よ! そなたが世界を救うのだぁああ!」
 はい!? なんかいきなりスケールが広大な言葉が白いお姉さんから出てきたのですが!? 一体、何ごとなんですか!? 勇者って、世界を救うって、一体どこの世界の話をなされているのですか!?
「これで、我の使命は果たした。後は未来の勇者に託した……………………済まぬが五円玉はもらっていくぞ、これで定食代足りる……………………」
 なんか、最後の方に気になる呟きがあったような気がしますが、気のせいですか?
 とりあえず、ダンボール箱の中に件のモンスターボールを入れて、代わりに五円玉を取り出し、自分の懐に入れた白いお姉さんは去っていきました。その背中は嬉々としたもので、本当の目的はどちらなのでしょうかと小一時間程、問いたい気分です。
 それにしても……このモンスターボール、どうしましょうか? 仮に、仮にですよ? もしあの白いお姉さんの言う通り、世界を救う――つまり世界崩壊の危機みたいなことになったら、このモンスターボールが唯一の救世主ということになるんですよね……そんな物騒な話の始まりをここに置かれても正直、困ります。例えば、ここに勇者が現れて、救世主のポケモンと出逢うとして……その場で一波乱がありそうな感じがするじゃないですか!! お、お願いですからその騒動で私を折らないでくださいね。よろしくお願いしますよ、本当に!!


 夜も更にふけていき、所々の電灯が闇夜を少しばかり照らすこの一本道もなんだか寂しげな風景に変わる頃……茶色の髪をツインテールに縛り腰まで垂らしている身の丈が百四十台程の一人の少女が現れました。
 もうこの時点で嫌な予感しかしないのですが、どうしてくれましょう。いや、どうすることもできないのが現状です。一人の少女は徐々に私の方に近づいてきます。あぁ、何も起きませんように、起きませんように! そう願い続ける私、そして近づいてくる少女。
 少女が私の前まで来て、そのまま通り過ぎようと――。
「おや、お嬢さんが一体、こんなところで何をやっておいでかな?」
「ん?」
 私の前には一人の少女と、茶色と白い毛並みを持ったポケモンの一匹のイーブイさんがいました。
 あれ? 今、イーブイさんから人間の言葉が出ていませんでしたか? なんか、貴族っぽい感じの声音がイーブイさんの方から響いた気がするのですが……? 少女の目が丸くなっていく様子にイーブイさんの方がニヤリと口元を上げて――。
「ほわぁああ! 可愛い! 可愛いイーブイでありんすーー♪」
「ななな!? 何をする!? コラやめろぉぉお!!」
「もふもふな毛並みなのじゃ〜! もっふもふにしてやんよでありんす〜♪」
「や、やめろ! コラ! 変なところを触るでは……アハ、ハハハハハッ!」
「うきゅう〜♪ ポケセンはどこかと迷っておったでありんすが、まさかこんなところで生イーブイに逢えるとは! わっち感激でありんす〜!」
 なんだか可愛い声音だけど老獪なしゃべり方をする少女にいきなり抱き上げられたイーブイさんは、思いっきり撫でられていきます。しかし、イーブイさんの方もやられっぱなしというわけではなかったようで、力強く自分の身を少女から離しました。
「く、おのれ……我輩にここまでの仕打ちをやるとは……貴様」
「おおう!? イーブイがしゃべっているでありんす〜♪ しかもなんかキザっぽい感じでありんすな〜。うみゅう、是非ともゲットしたいでありんす〜」
 ……ポケモンがしゃべっていることには驚いたものの、他にはこれといって全く動揺を見せることなく、むしろ興奮しまくりの少女はポケットからモンスターボールを一個取り出しました。捕まえる気満々のようです……って、ポケモンがしゃべるという話は風の噂で聞いたことはありますが……まさか目の前で見ることになるとは……初めて見た私も興奮してって、そうじゃなくて! た、頼みますからドンパチやらないでくださいよ、お二方!
「我輩を捕まえるだと……? アハハ! 阿呆め、我輩は幼女に興味はない! そうそうに立ち去るがよい!」
「なら、捕まえたら、わっち色に染めてやるでありんす〜」
「ぐ……退く気はないのか。我輩が世界を滅ぼす魔王だということを聞いても、まだ捕まえる気が保てるかな?」
「野望に燃えとるイーブイさんでありんすな〜。まぁ、そういう野心家、わっち、嫌いではないでありんす……ということで捕まってくりゃれ?」
「やはりこの姿のせいか……おのれ……あのニンゲンめ、我輩をこんなところに閉じ込めおって、おかげで威厳が出てないではないか!!」 
 なおも全く動じない少女に遂に堪忍の袋が切れたのか、イーブイさんがそう愚痴を放ちますと、なんかイーブイさんの体から黒いオーラみたいなものが出てきます。なんでしょう、あのオーラ……まさか、魔王なんて言ってましたけど、嘘だって思っていましたけど、まさか本物ってことはないですよね? まさか――。
 直後、少女の後ろ百メートル先で爆発めいた音が鳴り響き、煙が立ちました。
「どうだ。この我輩の悪の波動は。怖いか? 恐ろしいか?」
 口元をニヤリと上げてその言葉を放った後、イーブイさん、いや魔王イーブイさんが高笑いをあげました。ああああ! 嫌な予感が的中してしまったのは的中しちゃったのですが、まさかの内容違いに驚きでいっぱいです。少女の方は後ろを向き、その爆発現場の方を見やると――。
「ほへ〜。中々やるでありんすなぁ。流石は自称魔王でありんす」
「本物の魔王だ!!」
 この少女、きっと大物になるような気がします。
「ほほほ。なんか騒がしいと思って来てみれば、イーブイ、ここにおったか」
 のほほんとそんなことを言いながら少女の隣に現れたのは、午前中にあの捨て子のイーブイさんを拾った梅田さんです……って今、なんか大事なことを言いましたよね!? あのイーブイさん、梅田さんが拾ったあのイーブイさんなんですか!?
「おいおい、なんだアレはユイ!?」「ワタシに言われても困るわよぉ、シゲ」
「くぅ!? くぅ、くぅくぅー」「……クゥ、クゥ」
 その後に慌てながらこちらに寄ってきたのは、シゲさんにユイさん、オスランさんにメスランさん。
「……なんか、すげえことになってる」
 続いて眠そうな顔をしながら髪をかいて現れたのはユウキ君です。
 な、なんでしょう。今日この電柱前で色々あった方々が集まったのですが……あははは、まさか本当に梅田さんが言うような運命的な電柱……って、そんな馬鹿な。
「く、貴様らは一体なんなんだ!?」
「なんなんだ……って言われても、なんつーか、こんな夜中に近所でドンパチやられたら迷惑ってこっちが言いたい気分なんだけど」
 うん、ユウキ君。君が一番、正論だよ。
「クソ……! あの男が下手な召喚術をしたせいで、こんな弱いヤツの体に! おまけに暫くは表に出て来られんかったし! 仮にも魔王であるこの我輩にこのような恥辱を……許せん!」
 あ、という言葉がそのまま出てきそうな感じで私はハッとしました。なるほど、今朝ここにイーブイさんを置いていった男の人は何かオカルト系なものに手を出し、魔王を出そうとして、それがイーブイさんの体の中に入ってしまった……そして、手につけられないと感じた男は泣く泣くイーブイさんを捨てることにした、といったところでしょうか? と言いたくても言えないのがもどかしいところですよね、本当に。
「こうなったら、手始めに貴様達を落としてやる! 覚悟しろ!!」
 そう言うや否や、魔王イーブイさんが身震いを始めたかと思うと、いきなり――。
「あぁ……魔王様、マジかっこいいんですけどぉ」
「やべ、魔王様、無礼をお許し下さい!」
「ほほほ、魔王様、さまさまじゃな」
「わっち、一生ついていくでありんす!」
「くぅ! くぅー!」
「……クゥ」
 ウィンク一つ、って、メロメロ攻撃ですか!?
 なんか、先程の悪の波動なるものを放つかと思ったのですが……まさかの予想外な技に私、唖然としています。まぁ、確かに今の容姿で考えるならその技はてき面だと思いますが……仮にも魔王としての威厳はどうなのかと小一時間程、問いたいのですが。
 それにしても、このメロメロ、同姓であるシゲさんやオスランさんにも効いているのですが、成程……魔王所以のカリスマ性というものは高いようです。
「ハハハ!! 我輩に跪き、平伏し、崇めるがいい!!」
「は、は〜」
 一見、イーブイさんに皆さん頭を下げているこの場面はシュールと言いますか、何と言いますか……。
「……メロメロっつっても、効果は一生じゃねぇし……なんかよく分からないけどさ……アンタ、アホだろ」
「なっ!?」 
 この場にいる殆どの皆さんが魔王イーブイさんに魅了されている中、ケンカを売る人が約一名――ユウキ君が面倒くさいと言いたげな顔で魔王イーブイさんを見やります。どうやら魔王イーブイさんのメロメロはユウキ君には効果がなかったようです。
「栄枯盛衰、諸行無常……そんな夢気分もいつかは泡のように消えるっつうの…………」
 何か悟ったような言葉を放ちながらユウキ君がポケットからモンスターボールを出すと、膨らんだ筋肉を蓄えた四つの腕を持つポケモン――カイリキーをこの場に出しました。
「カイリキー、メロメロになっている奴に『めざましビンタ』あのニドラン二匹と、老人には多少加減しとけ…………他はどうでもいいや」
「リキッ!!」
 この後、断末魔のような鳴き声が真夜中の空を裂くように響き渡りました……ユ、ユウキ君、容赦なさすぎです。梅田さんやオスランさんメスランさんはともかく、他の皆さんのほっぺたには見事な紅葉が刻み込まれています。あぁ……これは見ているだけで痛そう。皆さん、どうやら目が覚めたようで自分は一体何をやっていたのだろうかと目を丸くさせています。でも……確か『めざましビンタ』って眠っている相手を起こす技でしたよね? メロメロで魅了された者の目を覚ますという目的で使うというのは聞いたことがないのですが。
「く、おのれ! あくまで我輩に逆らおうというのか! この愚民め!!」
「……んなこと言われても、成り行き上しょうがないじゃん……それよりアンタ、魔王ってことは悪タイプとかあったりするのか?」
「ぬ?」
「悪タイプにノーマルタイプ……『ばくれつパンチ』かましたら……どうなるんだろうな?」
 指をポキポキ鳴らしているカイリキーの横でユウキ君がなんか恐ろしいことを呟いています。ユウキ君が魔王様を殺る気満々な気がするのは気のせい……ではなさそうですね。
「フッ 戯言はいい。喰らえ! 我輩の――」
「カイリキー、ばくれつパンチ」
 直後、「ぷぎゃうあぽぎゃうわう!?」とワケの分からない悲鳴と同時に重い殴打音が鳴り響き、魔王イーブイさんが上空に飛ばされました。効果抜群、これはあっけなく決まってしまったようです。
「た〜まや!」
「か〜ぎや!」
「ほほほ、可愛い花火が上がったものじゃのう〜」
 な、なんというマイペースな方々なんでしょうか。というより梅田さん! 仮にもあの魔王イーブイさんの現飼い主なんですから、魔王ですけど少しぐらい心配をしてあげてください……メスランさんとオスランさんも夜空を見上げて鳴いています。恐らく主人達の真似をしているかもですね。た〜まや、か〜ぎやってね。
 やがて魔王イーブイ様が落ちてきて、地面に叩きつけられますと、虫が潰れたような音――悲鳴を上げました。しかし流石は魔王スペックがあるのでしょうか、ダメージはあるものの命に別状はないようです。
「く……我輩の陰謀もここまでか……フッ煮るやり焼くなり好きにしろ」
 なんか諦めが早い魔王様なような気が……まぁ、引き際も肝心と言いますけど。一方、魔王イーブイさんのその言葉を聞いた少女の目がキラキラと輝き始めたかと思うと素早く魔王イーブイさんに駆け寄り、抱き上げます。
「じゃあ、わっちの手持ちになってくりゃれ? おばあさん! この子、わっちがもらってもいいでありんすか〜!?」
「ほほほ、もちろんじゃ♪ 可愛がってあげてのう」
「ありがとうでありんす〜! えへへ、よろしくでありんす! 今まで手持ちなしの旅であったけど、これからが楽しみでありんす〜!」
「こ、コラ! 確かに煮るやり焼くなり好きにしろとは言ったが、決して何でもしてもいいという意味では――」
「えへへ〜♪ まーおさん、まーおさん♪」
「勝手に名前を決めるなぁーー!!」
 魔王イーブイさん改め、まーおさんは嬉々としている少女に振り回されています。なんでしょう……緊迫とした場面は一瞬しかなかった闘いだったような、そしてこの名も有名ではない場所で今宵――。

「……ここで世界を救った、なんて話、信じてもらえねぇだろうな……チッ」

 ですよねー!  
 ユウキ君とは中々気が合いそうな感じがします。いや、本当に。

「今日はもう遅い。ポケモンセンターも閉まっておろう。わしの家で休んでいくがよい」
「わぁ! ありがとうでありんす。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうでありんすよ〜」
「シゲ〜。なんか終わったみたいだし? ワタシたちも帰ろうよ」
「あぁ、そうだなユイ」
「くぅくぅ!」
「クゥ」
 それぞれ、何ごともなかったかのように帰路へと歩いていきます。今宵、この電柱の前で世界を救ったと言ってもいいのですよ!? 皆さん! もう少しその辺について語っても……! という私の主張はもちろん声になること叶わず、徐々に皆さんの背中が小さくなっていきます。
「…………」
 あれ? 皆さん帰ったと思ったのですが……ユウキ君だけがまだ私の前に残っていました。も、もしかして私の想いが届いたとかそういう類の奇跡が起こったのでしょうか!?
「モンスターボール……これ、中身あるのかな……」
 面倒くさそうにユウキ君がダンボール箱から一個のモンスターボールを取り出しました。そういえば……あの白いお姉さんが言っていた勇者とか救世主って……先程の魔王イーブイさんに関係しているとかそういうことじゃないですよね……肝心の闘いの最中にまさかの空気化、なんて笑い話にもならないのですが。
 ユウキ君がカチっとモンスターボールの真ん中の開閉スイッチを押しますと、そこから光を放ちながら現れたのは筋肉の盛った黄土色の体に大きな赤い鼻のポケモンでした。
「へぇ……ローブシンか……」
「ん? ここはどこでござるか? そなたは勇者なのでござるか? そうでござるか?」
「……しゃべれるのか、最近のポケモンは。それになんか勇者って……またワケありポケモンかよ」
「は、そうだ! 魔王が何処にいるか分からないでござるか!? 少年よ!」
「あぁ、魔王なら――」 
 そう言ったところでユウキ君は一瞬、梅田さん達が去って行った道を見やると……面倒くさそうに頭をかきながら答えました。
「……もう死んだよ」

 今、ユウキ君が最高にカッコイイと思えたのは私の気のせいでしょうか。

「何!? あの魔王を我抜き……でござるか!?」
「……まぁ、そうだな」
「そんな馬鹿な……なら我は一体」
「時代ってもんじゃねぇの? 昔と今を一緒にされても困るし」
 ユウキ君がローブシンに手を伸ばし、声をかけます。 
「行くとこないなら……オレと一緒に来るか? 今、格闘ポケモンを集めて育ててるんだが、六匹集まって強くなったらジム挑戦の旅でも始めようかと思ってたんだけど……来るか?」
 ユウキ君にそのような夢があったとは! もしかして今朝イーブイさんを拾わなかったのは、そういう事情があって……? という考えは野暮でしたかね。すいません。
「うぅ、もう魔王がいない世界で我を必要としてくれるとは……! 我の背中! そなたに預けるでござる!」
「…………ま、アンタがやる気あんなら、それでいいよ。よろしくな」
 ここでユウキ君とローブシンがお互いに握手を交わしあいます。おぉ……! なんかこれから伝説が始まりそうな、素敵なシーンですね! 格闘無双で駆け抜けるユウキ君とローブシンさん達に期待大です!
「あ、そういえば気になってたんだけど」
「ん? なんでござるか?」
「ローブシンって、あのコンクリの棒を持ってるじゃん……アンタはそれを持ってないのか?」
「あぁ、それならば、永き闘いの終結を打ったときに壊れてしまったでござるよ」
 そう言うや否や、ローブシンは私に思いっきりパンチを繰り出して――って、え?
「いいコンクリでござるな。このコンクリ、我がもらうでござるよ!」
 メキッという亀裂音が一瞬鳴ったかと思いきや、あれ? 私、浮いている……いや、倒れてる!?
 私が横倒しされて、豪快な落下音と同時に煙が立ち上がり――。
「うむ。できたでござる!」
「はやっ」
 満足そうに言うローブシンさんの手の中には折られた電柱の一部分――私が、って意識はどうやらここにあるようです。あら不思議……じゃなくて! なんで折ってしまうんですか!? というより、魔王イーブイさんの件が終わり、ローブシンさんの件も丸く終わりめでたしめでたしじゃないんですか!? あぁ……私が折られたことによって、電線が切れちゃってますよぉ……言うまでもなく周りの電灯は消えうせ、ユウキ君はユウキ君でいつの間にか懐中電灯を出して明かりをつけていますし。近隣の皆様、本当にご迷惑おかけします。誠に申し訳ありませんです。うぅ……。 
「……これは早くズラかった方がいいな。ローブシン」
「なんでござるか?」
「…………次、いきなり電柱折ったら、クビな」
「ハッ……! 我としたことが……! つ、次からは気をつけるでござる!!」
 とりあえず、一旦、ローブシンさんを戻したユウキ君はその場を急いで去っていきます。ほほう、モンスターボールから外の世界が少し見えるようですね……これは助かります。それにしても……まだ魔王イーブイさんの方が可愛かったものだなと思うのは私だけでしょうか? うぅ……今日も最終的には平和、で終わるかと思っていた私が甘かったのですか、神様。あぁ、そうですか。そうなんですね! 
 …………。
 ……。
 すいません、なんかヤケになっていたようです。
 だって、もうここにはずっといましたから……動けないと言えども、声を上げてどなた様かとコミュニケーションを取ることもできなくとも、それでもここで見てきたもの、聞いてきたもの、電柱には電柱なりの色々な想い出が詰まっているんです。なんとここから伝説のポケモンと呼ばれている者が飛翔していく姿も拝めることができたんですよ! あの長くて綺麗な蒼い尾が風になびく姿、暁に生える蒼い翼……とても惹かれましたね、確かフリーザーさんという名前だったはず……今頃、どこを飛んでいるのでしょうかね?
 それと、ホウオウさんが飛んでいく姿も拝むことができたんですよ! あの通り過ぎた後に現れた虹がとても印象的でした。
 後は、梅雨時期になると喜んで現れるカラナクシさん達が私によじ登ってきたりするんですよ。時々、ドジを踏んで落下したりするカラナクシさんもいてハラハラしながら見守った記憶もあります。
 あ、そうそうこういうのもありましたね。ある日、一匹のトランセルさんとコクーンさんが私のところに止まっていましてね……雨が強い日も、風が強い日も離れまいとピッタリと私にくっついていたんですよ。あ、でも、ある日トランセルさんが落ちそうになったときがあって、それをコクーンさんが糸を吐いてキャッチしたんですよ! そこからまた二匹仲良く私のところで離れることなく隣同士でいて……そしてそれから数日後の朝日が昇る時間と共に二匹一緒に進化したんですよ! 朝日の光を受けながら、羽をはためかし二匹は恥ずかしそうに寄り添いながら、飛んで行っていきましたよ。さなぎの中からの進化の瞬間も素敵でしたが、あの顔を赤らめた初々しい感じも……とても素敵でしたね。
 
 ふぅ……ちょっと想い出にに浸りすぎていましたかね。
 もう、こうなってしまった以上、元に戻ることは叶わないのですが、諦めて、ローブシンさんと共に闘わせてもらうことにしますよ。頑丈さなら自信ありますから、私。そして……これからは色々な世界を見て回させてもらうことにしましょう……!
 ……それにしても、旅の途中であの魔王イーブイさんとあの少女に再会することがなければいいのですが……はてさて。再会したら一触即発は免れそうにないですよね、それが一番気がかりなんですが。
 まぁ、ともかく。旅はもう始まるのですから! 切り替えていきましょう! そうしましょう! 
 置いていかれないようにと、私はローブシンさんに掴まれながら、新たな世界に飛び込んでいきました。


 その後……言わずもがな私はユウキ君とローブシンさん、それとユウキ君の仲間達と共に旅をしました。ローブシンさんの闘い方はとても豪快で私も活躍させてもらいました。ただ豪快すぎて、思ったよりも一緒にいられる時間は短そうだなぁと感じました。旅の途中で道行くトレーナー相手に格闘無双をするユウキ君はとてもカッコよかったですよ! 指示も正確ですし、場を利用した闘い方もしびれましたね! このようにユウキ君はエスパータイプ使いや飛行タイプ使い、そしてゴーストタイプ使いにも屈することなく、次々とジムリーダー達との勝負に勝ち、リーグ戦にも出場を果たしベスト4などの好成績を残したこともありました。
 あ、そうそう。あのローブシンさんなんですが、恋に落ちたんですよ! 相手はユウキ君の手持ちの一匹であるコジョンドさん――白と紫の美しい毛並みを持っている可憐で強い大和撫子さんで、とても物腰の柔らかい姿にローブシンさんったらいつも顔を真っ赤にして、セリフも噛みまくりでしたね。そういえばユウキ君も感づいたのでしょうか、ダブルバトルでもローブシンさんとコジョンドさんをよく選んでいた気がします。最終的に無事、結ばれましたよ……二匹とも末永くお幸せに。
 え? 今、私はどうしているかって?
 あははは……やはりローブシンさんの闘い方があまりにも豪快でしたので、遂に折れちゃいました。
 草原広がる場所での対人戦のときに、ローブシンさんが放った渾身の一撃で見事にバラバラになってしまいましてね……まぁ、その一撃のおかげで勝負には勝てたのですが。
 その後、私は破片になって……その辺で転がっている石と変わらない姿に……って、あれ、不思議ですね。まだ意識が残っていましたか。もうてっきりなくなると思ったのですが……本当に世の中、不思議なことがあるものなんだと改めて思います。緑色の草の先に広がる青い空、その青い世界にゆっくりと流れる白い雲……はぁ……なんだかものすごい平和ですね。風もとても穏やかですし、このままここでのんびりするというのも悪くないですねぇ――。

「がう!?」
「ん? どないしたんや? ゾロア」 
「がう! がう!」
「なんや、綺麗な石を拾ったんかいな……ん? それ、もしかして『かわらずのいし』かいな」
「が〜う?」
「ん、あぁ、『かわらずのいし』っちゅうのは、それを持っていると進化できへんようになるんや」
「が〜う……」
「ゾロアちょうどええやんか、おんどれ、進化したくないみたいやし。それ持っていたらどうや?」 
「がう♪」
「どこかの街でペンダントにしてもらって、つけてもらおか」
「がう、がう♪」 
 
 ……いつの間にか、私は『かわらずのいし』になったのでしょうか? この地に何かしらそういう力とか影響とかあるのですかね。
 まぁ、そんな疑問はともかく――。

「ほな、いくで? ゾロア。 はよせんと街に着く前に日が暮れてまうわ」
「が〜う♪」
「おわ!? こら! いきなり頭に飛びつくなゆうてるやろ?」
「がう、がう♪」
「……ったく、甘えん坊さんやな……まぁ、ええわ。行くで?」
「がう♪」

『浪速伝説』と筆文字タッチで書かれた赤い半袖のシャツに黒いジーンズを履いている少年と、その少年のリーゼント頭に乗っかった狐ポケモンのゾロアに風が一つ吹き抜けていきます。

 ……やれやれ。
 まだまだ、騒動は終わりそうにないですね。
 けれど――。

「今日の晩飯はモモンジュースが待ってるで!」
「がう♪」

 なんだか今、楽しい気分です。


――続く――
 
> 矮小なスロウレイン 作:乃響じゅん
矮小なスロウレイン 作:乃響じゅん
 ふと誰かが肩を叩いた気がした。
 目を覚ましたい気分になれなかったし、どうせ気のせいだと思って目を開けずにいると、もう片方の肩も叩かれた。
 仕方なく目を開けると、そこにはよく知った男の顔があった。
「よう」
「チョウさん!」
 僕は素っ頓狂な声を上げて、彼の名前を呼んだ。
「久しぶりだな、坊主」
 彼は真っすぐに僕の目を見つめてあいさつした。
 ああ、本当に久しぶりだ。僕は涙が出そうになった。懐かしい人と再び会えた喜びだけではない。カンのいい彼なら、きっと分かっているだろう。

――――

「嫌だ! 俺はまだ生きていたい! まだ落ちたくないんだよぉぉ」
 島の端の道を歩いているとき、僕より少し年上くらいの男が暴れているのを目撃した。それを取り押さえているのは、紺色の制服に白いヘルメット。管制塔の奴らだ。こうやって暴れられたりしたときの為に、彼らは四人で行動することになっている。
「駄目だ。君の期日はとっくに過ぎてるんだ」
「残念だけど、ルールには従ってもらわなきゃ」
 管制塔の四人は、男の抵抗を少しでも和らげようと言葉を放つ。
 僕は見ていてひどく嫌な気分になったが、一連の騒動から目を離せなかった。
 僕達の住む世界はひどく小さかった。管制塔を中心に、半日もあれば外周をぐるりと回ってしまえるほどの小さな島。それが何の力も借りずに、ただぽっかりと青空の中に浮かんでいるのだ。その外側にあるものは、永遠に続く青と、それを申し訳程度に埋める小さな雲だけ。
 僕達は、管制塔内のカプセルから生まれ、それぞれに役割を与えられる。僕の場合、学生の役割だ。毎日講義棟に通い、何に使うわけでもない知識を先生から教わる。
 そして、各個人に定められた『期日』と呼ばれる日に、この浮遊島から飛び降り、永遠の空に身を投げ出さなければならない。そうやって僕たちは死を迎える。
 期日の知らせは四日前から。その間に飛び下りなければならない。あの男は、『期日』を迎えても飛び降りることが出来なかったのだろう。本来なら自分で飛び降りなければならないのだが、決心がつかずに期日を過ぎてしまえば、次の日に管制塔の奴らに強制的に突き落とされる。
 そういう事情があって、外周に柵を取り付けるなどと言うことは一切ない。
「ああぁぁっ……」
 えげつない悲痛の叫び。駆け寄って彼の様子を確認してみたかったが、管制塔の奴らに目をつけられてもいけないので、ぐっとこらえた。叫び声がだんだん小さく溶けていく。
 管制塔の四人組はしっかり落ちたことを確認し、引き返して行く。僕の両脇を二人ずつ挟んで、冷たい風のように通り過ぎて行った。

「リュウちゃん」
 島の中心へ向かう大通りを歩いていると、後ろから声をかけられた。見知った女の子の顔が、そこにあった。
「おはよう!」
「おはようツカサ」
「元気ないね」
「ちょっと朝から嫌なもの見ちゃってね」
 僕は先ほどの顛末をツカサに語る。
「そうなんだ。残念だったね、その人」
 うん、と僕は頷く。ツカサの顔が暗くなった。僕らは暫く、何も話さなかった。普段はもう少し、色々と喋るのだけれど。そんな気分になれないのは、それがいつか自分の身に降りかかることだからだろうか。
「早く学校行こっか。のんびり歩いてると、遅刻しちゃう」
 僕は無理にでも話題を変えようとした。しみったれた空気を吹き飛ばして、今だけを楽しんでしまいたかった。

「この世界の水は循環しているのです。海の水は蒸発して空にのぼり雲になり、雨となって地表に降り注いで、地面に降りた水は川となったり、地下に染み込んだ後にまた海へ帰っていくのです。……」
 どうだか。僕は講義で習うことが本当のことには思えなかった。辻褄も合うし、非常に緻密で合理的な世界。だけれど、僕らの住む世界の話ではないような気がしてならなかった。
 講義では植物の光合成について習ったが、そんなものは見たことがない。ここにあるのは白い石や金属、合成素材で出来た無機質な街。全て白で出来ていて、空の青によく似合うが、ただそれだけだった。
 講義終了のチャイムが鳴る。
「さー帰ろう」
「どっか寄ってく?」
 わいわいと各々が帰る準備をする。
 ツカサは女子の友達たちと一緒に楽しそうに話していた。あまり喋るわけでもないのに、自然と輪の内側にいる。僕はその様子を見やって、一人で帰る。帰りに誘ったことはない。彼女には彼女の世界があるし、僕には僕の世界がある。それに何より、そんなことをしたらまず間違いなくクラスメイトに冷やかされる。その視線には耐えきれる気がしない。
 帰り道にいつも寄る店がある。今日も、僕はそこに入った。
「こんにちは、チョウさん」
「おう、いらっしゃい」
 大通りの外側にあるちょっと古臭い菓子屋。ここで一日一回何かを買うことが、一つの楽しみでもあった。チョウさんはここの店主で、ぼさぼさの頭をしていた。昔は別の仕事をしていたと言うことらしいが、仕事を変えた人は今まで彼しか見たことがない。何かのはずみでその話を聞いた時、何だか自由奔放な感じがして、一層彼を好きになった。片付けるのが得意でないのか、内装はいつもごちゃごちゃで、どことなく暗い店内が更に薄暗く見えた。奥の方で何か作業をしていたチョウさんは、暗闇の中から出てきた。金属のパーツらしきものが見えた。
 アイスクリームを一つ、冷凍ケースから取り出して、僕はチョウさんに渡した。
「これください」
「あいよ。八十円ね」
「ところで、今奥で何作ってたの」
 もう一度、店の奥を覗こうとしてみたが、何も見えない。チョウさんは口元を歪ませるようにして笑った。
「まぁ、ちょっとしたもんだ」
「気になるなぁ」
「そうかい」
 おどけた相槌で返された。

 家に帰ってから、僕とツカサはもう一度会う。午後七時、いつもの公園で。日も暮れかかり、島は黄昏に包まれる。
 時計を見やると、すでに十五分遅れていた。今日も遅いな、と彼女を心配した。ここ二、三日そうなのだ。いつもはむしろ几帳面なほど正確な時間に待っていて、ルーズな僕をたしなめていたのに。
 とぼとぼと小さな歩みを見せて、ツカサは公園に現れた。ブランコから飛び降りて、僕は彼女のところに駆け寄った。
「やぁ」
 彼女は小さく手を上げて、力なく笑っていた。
「どうしたの」
 僕は聞いてみる。彼女の笑みは力尽き、項垂れていたからだ。
「いや、何でもないよ。大したことじゃないから」
 そう言う彼女の顔は、明らかに無理をしているのが分かった。
 二人で、ベンチに座った。いつもはもっと気楽に話せたはずなのに、今日は何故だろう。何も話を振れない。彼女の方を見られない。どうしようもないまま、日だけが暮れて行く。街灯が灯されて、視界の頼るあてがチェンジする。
「……あのね」
 彼女は口を開く。
「これ、来ちゃった」
 彼女はポケットから、一枚の小さな紙を取り出し、僕の手にそっと渡した。全身の血の気がさぁっと引いた。これって、まさか。
 この紙を開きたくはなかった。ここに書いてあることは、何よりも知りたくないことだと直感した。だが、僕は開いてしまった。
 四角い枠の中に、短い文章が一つ。
『コダマ ツカサ殿。あなたの期日が迫っております。下記の日時までに、飛び降りを実行して下さい。 ミズノト管制塔』
 そこに書かれているツカサの期日は、今日の夜八時。あと一時間もない。
 僕たちは何も言わなかった。ただ、紙をつまむ指先から汗が吹き出し、期日の紙を滲ませた。
「ずっと言おう言おうと思ってたんだけど、どうしても言えなかった」
 彼女は小さく呟いた。
 今まで、何度か人の紙を見たことがあったが、どれも大して心が揺れ動かなかった。だから、きっとそれほど恐れるほどのものじゃないと思っていた。少なくとも、自分は何の恐れもなくいけると思っていた。
 だけど、違った。それはきっと自分に関係のない他人だったからだ。実感出来なかっただけなのだ。いつかは我が身だとどれだけ心の中で呟いても、それは一切実感の伴わないただの言葉だったのだ。
 僕は何も言えなかった。ただ俯いて、呆けた顔をしていた。
 やがて、ふつふつと一つの感情が湧きあがってきた。こんなに唐突に、ツカサとの時間を終わらせたくなかった。何かしなければ。まだ彼女がここにいるうちに。
 期日の書かれた紙を半分に折りたたみ、文字が見えないようにして、僕はそれを破った。
「リュウ?」
 彼女が僕の名前を呼ぶ。僕はまっすぐ、彼女の顔を見た。
「ねぇツカサ」
 空はすっかり真っ暗だ。表を歩く人もいなくなり、公園の周りには僕らしかいない。
「一緒に逃げよう。こんなむごい決まりに縛られないように、どこまでも」

 誰もいない大通りを、二人で歩いていく。
「でも、逃げるって、どこへ行けばいいのかな」
「それは、まだ分からないけど。でも、期日までにはまだまる一日ある。今日はとりあえず帰って、何か考えを……」
 そこまで言ったところで、見知った男が目に入った。丁度、古臭い菓子屋の横を通り過ぎるところだった。チョウさんが、店の壁に寄り掛かって、腕を組みながら身長差のある僕らを見下ろしている。
「今、お悩みかい」
 チョウさんは言った。僕らは、立ち止まって彼を見つめた。何か言おうと思ったが、果たして本当のことを打ち明けてもいいものだろうかと迷う。
「その娘さんを連れ出そうってんだろ。手伝おうか」
 彼の顔に、ニヒルな笑みを浮かぶ。
「一応、逃げ隠れするなら方法はある。まぁ、中で話そうぜ。ここじゃ誰が聞いているか分からねぇからな」
 僕は頷き、菓子屋の中に入った。ツカサもその後をついて来る。
 元々薄暗い店内が、更に暗く感じられた。扉が閉められると、普段暮らしている世界と隔絶されてしまったような感じがした。
「あの、あなたは……?」
 ツカサはチョウさんに尋ねた。そういえば、ここに来る時はいつも一人だ。女の子が入るような風貌でもないし、来たことが無くても不思議はない。
「菓子屋やってるただのおっちゃんさ。ガキ達にはチョウって呼ばれてるけどな。ま、宜しく頼むぜ」
 屈託のない口調で、チョウさんは言った。
「さて、本題だが」
 店のレジを超えて、更に奥に入る。チョウさんの家の居間があり、土足で歩ける少しくぼんだスペースが周囲を囲んでいた。チョウさんはそこに腰かけた。
「逃げ隠れするなら、灯台もと暗しってやつだ。つまり、この島の地下に忍び込む」
「地下ですか?」
 僕はすっとんきょうな声を上げた。
「ああ、地下だ。お前達はこの地面の下に何があるか知ってるか」
 二人は首を振る。平坦な地面がずっと続くだけで、地下があるなんて考えたことがなかった。てっきり、そんなに厚みのない場所に立っているものだと思っていた。
「ライフライン……ですか。水道とか、電気とか」
 ツカサが先に答える。チョウさんは軽くツカサを指さす。
「ん、ほぼ正解だな。だがな、嬢ちゃん。この島が宙に浮いていたり、俺達を生み出すカプセルを保管したり、この島がこの空にぽつんと存在するために必要な全てが詰まってるんだ。地下は五階まであって、下に行けば行くほど狭くなる。重要な機能も増えていくが、使われていない部屋も多くなる」
「……なんでそんなことを、チョウさんが知ってるのさ」
 僕は尋ねた。チョウさんは頭の後ろをかいた。
「そりゃあ、まあ……な。しょうがねえ、この際隠しごとは無しだ」
 少し言うのを渋ったようだったが、両膝を打って口を開く。
「俺はもともと、その地下で働いてたんだよ。地下三階のカードキーの管理をしてた。だけど、地下の役割を割り振られた奴は、大体地上の光を見る事なく期日を迎える。自分達の作ったり管理したりしているものが、何の役に立つのか分からないまま、な。俺はそういうのが嫌だった。毎日毎日、管制塔の上層部の奴らに頼みこみに行ったよ。管制塔の人間の定期的な監視つきで、何とか上の世界で役割持たせてもらえた。暇だが、割と気に入ってるし、性にも合ってるしな」
 僕は地下の世界を想像した。ずっと暗闇の中なのか、あるいは電気がついているのか。ずっと上下左右閉じ込められた空間の中にいると、気が狂ってしまいそうな気がした。チョウさんの言い分も何だか分かる気がする。
「それで、だ。隠れる場所は、地下三階の資料倉庫。狭いが、逆に警備のチェックは薄いはずだ。地図を書いてやるから、お前達はそこを目指すんだ」
「目指すって言っても、まず地下の入り口の場所が分からないよ」
 チョウさんは少し悩むようなポーズを取った。本当は悩んでなんかいないことはすぐに分かった。
「本当なら、管制塔の中から地下行きのエレベーターが出てるんだが、お前さん達がそんなところを通して貰えるはずがない。だがな、裏ルートがあるんだよ」
 裏ルート、と聞き返した。
「それは、どこなの」
「こっちだ」
 チョウさんは、更に家の奥に案内する。外からは絶対に確認できない棚と壁の間に、床下収納スペースのような金属枠があった。
 チョウさんがそれを外すと、穴がどこまでも続いていた。深すぎて、底が見えない。梯子が取り付けられていて、降りられるようになっている。
「こいつが裏ルートさ。管制塔の奴らのやり方が気に食わねえのは俺も同じだからな。腹いせに地道に掘ってみたんだよ。一階で比較的人の少ない部屋に繋がっている。これを降りて、誰もいないタイミングを見て地下三階を目指せ。見つかるんじゃねぇぞ」
「チョウさん……」
 僕は胸がいっぱいになった。
「ありがとう」
「すまねぇな。俺のところで匿ってやれたら良かったんだが、管制塔の奴らの監視がある」
 僕は首を振った。
「でも、何で僕達が逃げようとしてるって分かったの」
 正直、一番の疑問はそれだった。
「坊主は御得意様だからな。見てたら何となく分かるのさ」
 カンってことか。チョウさんらしいと僕は思った。

 先に僕が梯子を降りた。懐中電灯で、下を照らしながら進む。カツ、カツと音が反響する。
 一番下まで着いて、ツカサが降りて来たのを確認すると、上に懐中電灯を二度点滅させた。無事に降りる事が出来たときにチョウさんに送る合図だ。
 下には、小さなはめ込み式の扉があった。しゃがまなくてはならないが、人が一人通るには十分なスペースがある。僕は穴を埋める板を音を立てないように取り除き、外の様子を覗きこんだ。話し声は聞こえない。
「どう?」
「誰もいないみたいだな。先に出るよ」
  身体を伸ばして外に出る。ツカサもその後に続いた。最後は身体を引っ張り上げて、起き上がるのを手伝った。
 こもった空気のにおいがする。いよいよ地下にやってきたのだ。ツカサがけほっと小さく咳をした。僕は辺りを見回した。ここも一種の倉庫のようだ。金属製の棚に、色とりどりのファイルケースが並べられている。僕らが出て来たのはちょうど入り口の扉から見えない場所で、上手く隠れていた。僕は入ってきた穴を塞ぎ直す。
 どうにかして、外の様子を探ることは出来ないだろうか。ドアの壁に耳をつけて音を聞こうとしたが、どうやら自動ドアだったらしく、扉が開いてしまった。
 一瞬焦ったが、どうやら外には誰もいないらしい。ゆるく湾曲した廊下が左右に伸びている。廊下は上に取り付けられた電球のせいで明るかった。僕は逆に監視されているんじゃないかという気がして、落ち着かない気分になった。
「右の階段、だっけ」
 ツカサがそう言った。左の通路の向こう側で、話し声が聞こえる。素早く動いた方がいい。足音を立てないように、慌てずに。
 右にはすぐ、下りる階段があった。地下二階、三階と降りた所で、階段は終わった。この先に、チョウさんの勧める避難場所がある。僕は地図を広げた。 しばらく真っ直ぐ行って、二つ目の交差路を左、更に進んで三つ目の交差路を左に。僕らは地図に書かれたルートをなぞる。
 二つ目の交差路を曲がるとき、僕らは見つかってしまった。
 地下で働いている人だろうか。青い服を着た背の高い男だった。心臓が破裂しそうになった。
「おっと、ごめんよ」
 彼は僕らを怪しまずに、素通りしようとした。そのまま通り過ぎようとしたが、そうは行かなかった。
「あれ、君達は……」
 彼が声をかけた。
「あまり見かけない恰好だね」
 心臓が爆発しそうになった。バレてしまったのか。もうおしまいだ、と思った。
「そうですか?」
 ツカサがとぼけた。
「もしかして、地上から?」
 感づかれている、と僕は思った。だが、ツカサの言葉は思いもしないものだった。
「ええ。地上の服がこっちに流れてるって聞いて、友達の友達のツテで貰ったんです。最近、そういうのあるって聞いてませんか?」
「え、そうなの?」
「私も良く知らないんですよ。もし分かってたら教えてあげたかったんですけれど……ごめんなさい」
「いやいや、いいんだ……そうなのか、知らなかったなぁ。良い情報をありがとう。あと三十分で消灯時間だし、君達も早く戻った方がいいよ。それじゃ」
 男は振り返って、足早に通り過ぎて行った。
 僕は緊張のあまり、しばらくその場に立ち止まって、彼の過ぎ去った方向を振り返っていた。
「リュウ、行くよ」
 ツカサが僕の手を引っ張る。よろよろと僕は歩きだした。助かった。一時的にとは言え、僕らは助かったのだ。
 それ以上、誰かに出会うことはなかったのが幸いだ。

「ここ?」
「そう……みたいだな」
 僕らは一つの扉の前に立った。この部屋が隠れるのに最適だとチョウさんが言った理由は三つ。一つは、人通りが比較的少ない道に面していること(先ほどすれ違ったことを考えると若干疑わしいが)。一つは、この部屋が古い生活用品の備蓄倉庫であり籠城を決め込みやすいこと、一つは、部屋に入るのに必要なのはカードキーではなくパスワードだということだ。もっと生活圏内に近い位置に生活用品の倉庫を作ったため、こちらの方はお祓い箱と言うわけだ。
「3、2、1、3、3、2、1」
 ボタンを押すと、ぴっ、と小さな音が鳴り、緑色のランプが光る。ドアが開いた。
「やっと着いたね」
「結構疲れたよ」
 僕は肩を落とした。
 部屋の中は、僕達が最初に入った倉庫と似たような構造をしていた。部屋は金属製の棚で仕切られていて、三列に分かれている。しかし、ファイルの代わりに段ボールが置いてあった。これが、例の日用品入りの段ボールなのだろう。
 部屋のドアを閉めると、内側からはボタン一つで出られるが、外からはまたパスワードを入力しなければいけないようになっているらしい。電気のスイッチを入れて、ドアを閉める。
 二人で段ボールを漁ると、さっきの男が来ていたような青い服が入っていた。僕らはそれに着替えた。布団も見つけたので、地面に並べた。僕らはそこに倒れ込んだ。
「しかし、びっくりしたよ。ツカサがあんなに機転がきく奴だったなんてさ」
「ウソでも何でも、はぐらかさなきゃって思ったから。とりあえず何とかなったけど」
 ツカサは腕の時計を見る。僕もそれにならって、時計を見る。
「……もう、過ぎちゃったね、期日」
 時刻は既に八時半。三十分のオーバーだ。僕は念のため、明かりを消した。僕の腕時計の画面だけが、静かにデジタルの光を放っている。
「うん」
 だけど、もう大丈夫。ここなら誰にも気付かれない。
 暫く、僕らは語り合った。今まであったこと、一緒に経験したこと。思い出はたくさんある。いつまでも、話が尽きることはなかった。そして、僕は気付いた。僕はきっと、ツカサのことが好きなのだ、と。

 やがてまどろみが訪れ、僕らは眠りに落ちた。

 自然と目が覚めたが、あまり起きた実感は無かった。目を開けても、真っ暗闇のままだったからだ。僕は時刻を確認する。九時。普段だったら遅刻してしまう時間だが、もう関係ない。ツカサはまだ眠っていた。昨日の疲れが溜まっていたのだろう。どうせ起きても何もすることは無いし、このまま寝かしておこうと思った。
 やがて、彼女の「おはよう」の声を聞いた。暗闇で見えないのをいいことに、僕は顔が崩れるほど笑った。どうだ、期日よ。ツカサはまだ生きているぞ。


 それから数日が経った頃のことだった。
「ねぇ、リュウちゃん。もうこんなこと、止めにしようよ」
 日に日に、ツカサの元気は無くなって、精神的に弱って来たのは目に見えていた。いつかこんなことを言いだすのではないかと、予想はしていた。
「最近私、考えるの。私が期日を破ってしまったことは、実はとんでもないことなんじゃないかって。期日には、実はちゃんとした意味があるんじゃないかって」
 膝を抱えて、顔を隠すツカサ。僕はため息をついた。
「籠城を続けるとこたえるもんだよ、ツカサ。もうちょっと、もうちょっとだけ頑張ろう」
 ツカサは首を振った。
「リュウちゃんは、生まれた日のことを覚えてる?」
「まぁ、一応」
 気がついたら、目を覚まして、水のような液体の中から自分が取り出された。管制塔の人間が、僕に名前と役割と住所を言いつけて、服を着せた。僕は歩いて、その家に入った。
「あれから、私達の身体は何も変わってないんだよ。授業で生き物は成長するって習ったじゃん。でも、私達は成長なんてしない。ずっとこのままだった」
 僕はハナから授業の話を信じていない。
「あんな話は嘘だ」
「嘘なんかじゃないわ。変わらないものなんて、この世界にあるわけがない。もう私には分かっちゃったのよ」
 段々語気を強めるツカサ。乱れていくツカサの言葉。こんなものは、見たことがない。
「私達の存在って、何? 何のために生きてるの? ねえ、教えてよ」
 顔を上げたツカサの顔は、完全に崩れていた。顔面がドロドロに溶け、目や口に黒い虚ろな穴が開いている。恐ろしい形相をこちらに向ける。僕は一歩後ずさった。

 その時、後ろから音が聞こえた。扉が開かれた音。振り返ると、見たことがある四人の男が僕を挟んで部屋の奥へと侵入する。彼らは、手袋をした手でツカサに手錠をかけ、身体を抱えた。
「ただちに島の淵まで連れていけ」
「何をするんだ」
 四人組のリーダー格が残りの三人に指示を出す。僕は叫んだ。
「私はウシオ。期日の管理を行っている。お前はなんだ」
 ウシオと名乗る男は、僕を睨んだ。僕はウシオを睨みつけた。
「期日なんてくそっくらえだ。ツカサと一緒にいられない世界なんて意味が無い。こんなルール、何のためにあるんだってんだ!」
 怒りのたけを、ウシオにぶちまける。こいつが期日なんて定めなければ、ツカサは身を投げ出すことで悩んだりしなくて済んだのに。
「この子の今の姿を見て、それが言えるのか」
 全身が溶けかかって、最早もとの形を成していない。ウシオは再び僕の方を向き直って、真実を話した。
「我々は、水から生まれ出た意識体だ。期日までにより多くの知識や経験を積むことによって、より価値の高い水となる。期日と言うのは、我々がこの姿かたちを留めておける時間の限界なのだ。期日にどうしようと、近いうちにその者は水に返る」
 僕は衝撃を受けた。じゃあ、僕がツカサにしたことって。
「期日に飛び下りる言うことは、こんな醜い姿を誰にも晒すことなく世界に命を返すこと。この子も、素直に飛び下りさせればいいものを」
「……嫌がってる奴を無理やり飛ばせるのもどうかと思うけどな。落ちて行く奴の悲鳴がどんなに辛そうか」
「そうはいかないのも事実だ。こうやって水に帰ってしまった者の身体に触れると連鎖反応を起こして水に返ってしまう。だから島には期日を過ぎた者の遺体を置いておけない。我々はこの制服があるから、何とかそうならずには済んでいるがな」
 僕はその場にへたり込んだ。全身の力が抜けて、目の前が何も見えなくなる。ウシオの行動は素早かった。僕の腕に手錠をかけ、引っ張った。何処へ連れて行くのかは知らないが抵抗する気にはなれなかった。
「……なんで、ここが分かったんだ」
「期日を超えて水に返ろうとしている者からは特殊な波動が出る。管制塔にはそれをキャッチする機器があるからな。浮遊島の何処にいようと一発で分かる」
 どのみち、僕達に逃げ場はなかった。そういうことか。チョウさん、僕のしたことは無意味だったんだよ。彼は知っていたのだろうか。いや、そんな風には見えなかった。
「期日を超えた者を匿うのは重罪だ。書類が受理されたのち、お前には罰を与えることになる。恐らく、期日を迎えずに飛び下りてもらうことになるだろうな。それまでの短い時間、お前は監視付きではあるが自由だ。これは我々からのせめてもの情けだ。せいぜい楽しんでおけ」
 ウシオはそう言った。

 管制塔の職員の防護服には水に返るのを止める作用があるのか、本人が頑張ったのか、ツカサの顔はほぼ元の顔に戻っていた。
 ツカサの身体を抱える一人と、周りに二人。そして、その後ろにウシオに連れられる僕。ツカサと話したかったが、四人組はさせなかった。
 エレベーターを昇り、また地上に戻る。その時、ウシオは僕の頭に黒い布を被せた。丁度昼ごろだった。行き交う人の数は多く、僕らは間違いなく見られている。
 一番外側まで来た時、布が外された。
「別れの言葉ぐらいは言わせてやる」
 ツカサを抱えていた男が、ツカサを下ろした。ツカサは何とか立っていた。
「ごめんね、リュウちゃん。私達がちゃんと期日のことを知ってたら、こんな風にはならなかったかもしれないのに」
 うなだれるツカサ。僕は何も言えず、ただ首を振る。
「私、もう駄目だよ。ドロドロになっちゃって、もう形を保てそうにない。そろそろ行くね。バイバイ、リュウちゃん。今だから言うけど、ずっとあなたのことが好きだったのよ」
 ふうっとツカサの身体が倒れる。僕は手を伸ばそうとしたが、四人組の誰かに止められた。そのまま、ツカサの身体は永遠の空に落ちて行った。
 僕は彼女の名前を叫んだ。最期の一瞬を見届けたくて、島の淵から顔を出した。真っ青だった。手を振るツカサの身体が、段々小さく、小さくなっていく。遠く離れていっているのか、それとも彼女の身体が消えていっているのか。彼女はいなくなった。

 僕の手錠が外された。
「お前の件について、上層部と審議をする。リュウ、お前は自宅待機だ。審議は二時間ほどで終わる。審議とは言っても、書類を提出すればほぼ終わりだからそれ程時間はかからないだろう。それまでお前は自由だ。ただし、監視はさせてもらう。残りの時間、大事に使え」
 ウシオは去って行った。
 僕はとぼとぼと歩いた。久しぶりに浴びた太陽だというのに、まだあの狭い部屋にいるような感じがした。何処へ行っても、僕にできる事なんてもう何も無いのだ。
 強いて言うならば、一つだけあるか。僕の足は自然と菓子屋に向かっていた。
「いらっしゃい……って坊主!」
 チョウさんは驚きの表情を隠せなかった。
「戻って来ちゃった」
「戻って来たって、お前……お嬢ちゃんはどうしたんだよ」
 僕はチョウさんに説明した。何とか隠れられたものの、彼女の身体に異変が起きたこと。結局四人組に捕まってしまったこと。期日に飛び降りなかった所で、どの道逃げ場はなかったということ。
「やっぱり、駄目だったか」
「駄目だったって、知ってたんですか。僕らが一体どういう存在か」
 チョウさんは頷く。
「坊主を見てると、そんな悲しい現実を覆してくれるような気がしたんだ。俺のわがままを押し付けちまった。すまねえ」
 チョウさんも後悔している。だけど、僕はそんな風にはなりたくなかった。ツカサとの逃避行を、無意味なものにしたくはなかった。あと二時間。僕は自分のやりたいことをやる。何一つ、後悔しないために。
「チョウさん」
 僕は小さくつぶやく。チョウさんの目に、僕の顔はどう映っているのだろう。
「この前作ってたモノ、見せて下さいよ」
チョウさんは目を見開いた。何を作っていたかは知らないが、少なくとも一般人に知られてはいけないようなシロモノであることは、察しがつく。僕はチョウさんがその正体を教えてくれるまで、じっと彼の瞳を見つめ続けた。
「あれは……いや、もうここまで来たら、お互い様だ。持って来てやる」
 チョウさんは裏手に回って、一つの小さな金属の箱を持ってきた。真ん中に小さな赤いスイッチがついている。
「爆弾だよ」
 虚ろな口調で語る。
「つい昨日、完成した。真ん中のスイッチを押すと、二十秒後に爆発して周囲に超高熱をまき散らす。これを管制塔の上層、俺達を生み出すカプセルがある辺りに投げ込んでやれば」
「もう二度と、僕らみたいなやつは生まれない」
 チョウさんは頷いた。僕はその爆弾を手に取った。
「俺は今まで、この島のシステムにずっと疑問を感じてた。出来れば俺がそれを使えればいいんだが、どうにも監視の目が厳しくて、使うタイミングを見出せない。坊主、お前がもしいいと言うなら、そいつを使ってやってくれ」
「ありがとう。さよなら、チョウさん」
 きっともう二度と会うことはないだろう、と思った。
「坊主」
 チョウさんと僕の目が合う。
「ありがとな」
 僕は少し笑った。その小さな爆弾をそっとポケットに入れ、菓子屋を出た。
 爆弾は、ずっしりと重たく、ポケットを沈み込ませた。この重さが、この島を滅ぼすのだ。そう思うと、僕は愉快で仕方が無かった。中央の管制塔に続く道を、真っすぐ歩いて行く。何人もの人とすれ違ったが、僕の姿を不思議に思う者は誰ひとりいなかった。
 さて、管制塔に着いた。僕はただひたすら高く伸びる塔を見上げた。青い空が重く圧し掛かってくる。
「くたばれ、管制塔。ツカサを、チョウさんを、僕を生んでしまったことを後悔するがいい」
 ポケットの中の赤いスイッチをぐっと押し込んだ。かちっ、と音がして、火の予感がした。ポケットから金属の箱を取り出すと同時に、上階のテラスらしき空間を目がけて思いっきり投げ飛ばした。爆弾は、下には落ちず、管制塔の上階に着陸した。
 くるりと踵を返し、歩いて行く。
 突然、後ろから腕を掴まれ、止められた。
「おい、今何を投げ入れた」
 強い口調で言う。振り返ると、管制塔の四人組の一人だった。だが、もう何も怖くはない。
「関係無いですよ。もう僕は飛び降りようと思うんです。こんな悲しい世界なんて、無い方がマシですから」
 突然、島全体が震動した。とてつもなく強い光と、熱線。そして、爆風。眩しくて何も見えない。吹き飛ばされそうだったが、管制塔の男に腕を掴まれてその場に留まる。熱と光が治まる頃、代わりにありとあらゆる方面から悲鳴と混乱の声が聞こえた。僕を掴んでいた男の手はいつのまにか離されていた。良く見たら、彼の姿そのものがなかった。焼け焦げた布の切れはしだけが、僅かに地面を黒く染めていた。
 僕は歩いた。叫び声を音楽にして。管制塔の方へ向かう奴らに逆行して、世界の淵へ。
「ツカサ、今からそっちへ行くよ」
 永遠の空へ、助走をつけて飛び込んだ。ひたすら白い雲と、青が続く世界へ。自分の身体を支えるものが一切ない自由落下の世界は、心臓が弾け飛びそうな感覚にひたすら耐える世界だった。仰向けになると、小さな浮遊塔は黒い煙を噴き出していた。その様が、段々小さくなっていき、やがて見えなくなった。

 浮遊塔の姿が見えなくなり、落ちている感覚が無くなってきた頃。僕はふと、自分の期日とは一体いつだったのだろうかと考える。管制塔から送られてくる紙ぐらいしか、それを知る術はないので考えたところで無駄なことだと言うのは分かっている。人によって、差はある。ツカサは、かなり早い方だったのかもしれない。まだ僕は意識がある。あの時のツカサのように、ドロドロになったりはしていない。ああ、ツカサ。出来る事なら、君にもう一度会いたい。思い出すのは、最後に手を振って笑った彼女の姿。あれで、きっと君に対する僕の気持ちも終わっていたんだ。でも、狭い島で、僕が何を変えられる? 何かを成したところで、どうなる? あまりにもちっぽけ過ぎて、くだらない。
 ふう、とため息をついて、寝よう、と思った。考えることさえ意味はないし、僕にはもう、ただ期日を待つことしかできないのだ。

――――

 久しぶりに落ちる冷たい感覚とは違うものを感じると思ったら、チョウさんの顔があった。チョウさんは僕の両肩を叩いて、目を覚まさせたのだ。
「どうしてチョウさんがこんなところに」
 僕は驚きを隠せなかった。僕が飛び下りてから、随分経っているはずなのに。
「爆弾の作り主だって事がバレて、お前さんを匿ったこともバレたからさ」
 やっぱり僕はチョウさんに迷惑をかけてしまったのか。僕みたいに、僕は自分で飛び下りてしまったけど、期日を迎えずに飛び下りる罰を受けてしまったのだ。
「そんな顔するなよ。管制塔は木端微塵。もう二度と俺達みたいな存在は生まれねぇさ。良かったじゃねぇか」
「本当に、良かったのかな」
「もうこんなところまで来ちまったんだ。関係ねえだろ」
「そうだね」
 僕は笑った。
「飛び下りてから、お前を探そうと思って必死だった。お前の期日は大分先らしいから、まだ水に返らずにいるかもしれねぇ。何とか空気抵抗を減らして、落ちる速度を上げてったら、ようやく間に合った訳だ」
「どうしてそこまで……」
「ま、それくらいしか楽しみがねぇからな」
 チョウさんは肩をすくめた。なるほど、確かにそうかもしれない。
 その時、チョウさんは右手で目の上を押さえつけて、痛そうな顔をした。
「あぁ、くそっ、悪りい、坊主。俺ももう限界みてぇだ」
 肩を押さえるチョウさんの手が、離れそうになる。僕は押さえつけようとした。チョウさんの期日が近いのだと、僕には分かった。チョウさんの身体が、水に返ろうとし始めている。
 彼に何か言葉をかけたい。だけれども、何一つ思いつかない。暫くずっと、声を出していなかったのだ。言葉が出て来ず、もどかしい。そうこうしているうちに、チョウさんの方が先に口を開いた。
「本当だったらお前を起こすべきじゃなかったのかもしれねぇな。きっともうとっくにお前は考えるのをやめていたんだろうに。悪かったな、坊主。だけど、俺はお前に会いたかったんだよ」
 僕は首を振った。涙が出そうになった。チョウさんの手が肩から離れ、彼の身体がどんどん透明な液体になって崩壊していく。
「最後に、坊主、お前の期日は――」
 そこまで言ったところで、チョウさんの身体は完全に消滅した。
 やめてくれよ、チョウさん、そんなことを言ったら、気になってしまうじゃないか。

 また再び、僕は思考の渦に巻き込まれる。一体自分の期日はいつだったのか。そこから、小さな浮遊塔のことに心が飛んでいく。もう僕らみたいな存在が生まれないのなら、それはとてもよかった。最期の一人が期日を迎えた時、浮遊塔の悲しい運命は終わるのだ。誰が何と言おうと、僕はあの島のシステムから逃げ出したかった。
 そう言えば、水は地面に落ちて海に流れ、また空に昇っていくと言う。もし、地面と言うのが本当にあったとしたら、僕の身体もその大きな流れの中に組み込まれていくのだろうか。そうだといいな、と思った。あの浮遊島以外の場所で、あわよくばツカサのそばで生まれ変わりたい。そういう幸せなことが起こればいいと、少しだけ願いを込めた。

 結局リュウがどこまで落ちて行ったのか、それを知る者は誰もいない。
 
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