> 矮小なスロウレイン 作:乃響じゅん
矮小なスロウレイン 作:乃響じゅん
 ふと誰かが肩を叩いた気がした。
 目を覚ましたい気分になれなかったし、どうせ気のせいだと思って目を開けずにいると、もう片方の肩も叩かれた。
 仕方なく目を開けると、そこにはよく知った男の顔があった。
「よう」
「チョウさん!」
 僕は素っ頓狂な声を上げて、彼の名前を呼んだ。
「久しぶりだな、坊主」
 彼は真っすぐに僕の目を見つめてあいさつした。
 ああ、本当に久しぶりだ。僕は涙が出そうになった。懐かしい人と再び会えた喜びだけではない。カンのいい彼なら、きっと分かっているだろう。

――――

「嫌だ! 俺はまだ生きていたい! まだ落ちたくないんだよぉぉ」
 島の端の道を歩いているとき、僕より少し年上くらいの男が暴れているのを目撃した。それを取り押さえているのは、紺色の制服に白いヘルメット。管制塔の奴らだ。こうやって暴れられたりしたときの為に、彼らは四人で行動することになっている。
「駄目だ。君の期日はとっくに過ぎてるんだ」
「残念だけど、ルールには従ってもらわなきゃ」
 管制塔の四人は、男の抵抗を少しでも和らげようと言葉を放つ。
 僕は見ていてひどく嫌な気分になったが、一連の騒動から目を離せなかった。
 僕達の住む世界はひどく小さかった。管制塔を中心に、半日もあれば外周をぐるりと回ってしまえるほどの小さな島。それが何の力も借りずに、ただぽっかりと青空の中に浮かんでいるのだ。その外側にあるものは、永遠に続く青と、それを申し訳程度に埋める小さな雲だけ。
 僕達は、管制塔内のカプセルから生まれ、それぞれに役割を与えられる。僕の場合、学生の役割だ。毎日講義棟に通い、何に使うわけでもない知識を先生から教わる。
 そして、各個人に定められた『期日』と呼ばれる日に、この浮遊島から飛び降り、永遠の空に身を投げ出さなければならない。そうやって僕たちは死を迎える。
 期日の知らせは四日前から。その間に飛び下りなければならない。あの男は、『期日』を迎えても飛び降りることが出来なかったのだろう。本来なら自分で飛び降りなければならないのだが、決心がつかずに期日を過ぎてしまえば、次の日に管制塔の奴らに強制的に突き落とされる。
 そういう事情があって、外周に柵を取り付けるなどと言うことは一切ない。
「ああぁぁっ……」
 えげつない悲痛の叫び。駆け寄って彼の様子を確認してみたかったが、管制塔の奴らに目をつけられてもいけないので、ぐっとこらえた。叫び声がだんだん小さく溶けていく。
 管制塔の四人組はしっかり落ちたことを確認し、引き返して行く。僕の両脇を二人ずつ挟んで、冷たい風のように通り過ぎて行った。

「リュウちゃん」
 島の中心へ向かう大通りを歩いていると、後ろから声をかけられた。見知った女の子の顔が、そこにあった。
「おはよう!」
「おはようツカサ」
「元気ないね」
「ちょっと朝から嫌なもの見ちゃってね」
 僕は先ほどの顛末をツカサに語る。
「そうなんだ。残念だったね、その人」
 うん、と僕は頷く。ツカサの顔が暗くなった。僕らは暫く、何も話さなかった。普段はもう少し、色々と喋るのだけれど。そんな気分になれないのは、それがいつか自分の身に降りかかることだからだろうか。
「早く学校行こっか。のんびり歩いてると、遅刻しちゃう」
 僕は無理にでも話題を変えようとした。しみったれた空気を吹き飛ばして、今だけを楽しんでしまいたかった。

「この世界の水は循環しているのです。海の水は蒸発して空にのぼり雲になり、雨となって地表に降り注いで、地面に降りた水は川となったり、地下に染み込んだ後にまた海へ帰っていくのです。……」
 どうだか。僕は講義で習うことが本当のことには思えなかった。辻褄も合うし、非常に緻密で合理的な世界。だけれど、僕らの住む世界の話ではないような気がしてならなかった。
 講義では植物の光合成について習ったが、そんなものは見たことがない。ここにあるのは白い石や金属、合成素材で出来た無機質な街。全て白で出来ていて、空の青によく似合うが、ただそれだけだった。
 講義終了のチャイムが鳴る。
「さー帰ろう」
「どっか寄ってく?」
 わいわいと各々が帰る準備をする。
 ツカサは女子の友達たちと一緒に楽しそうに話していた。あまり喋るわけでもないのに、自然と輪の内側にいる。僕はその様子を見やって、一人で帰る。帰りに誘ったことはない。彼女には彼女の世界があるし、僕には僕の世界がある。それに何より、そんなことをしたらまず間違いなくクラスメイトに冷やかされる。その視線には耐えきれる気がしない。
 帰り道にいつも寄る店がある。今日も、僕はそこに入った。
「こんにちは、チョウさん」
「おう、いらっしゃい」
 大通りの外側にあるちょっと古臭い菓子屋。ここで一日一回何かを買うことが、一つの楽しみでもあった。チョウさんはここの店主で、ぼさぼさの頭をしていた。昔は別の仕事をしていたと言うことらしいが、仕事を変えた人は今まで彼しか見たことがない。何かのはずみでその話を聞いた時、何だか自由奔放な感じがして、一層彼を好きになった。片付けるのが得意でないのか、内装はいつもごちゃごちゃで、どことなく暗い店内が更に薄暗く見えた。奥の方で何か作業をしていたチョウさんは、暗闇の中から出てきた。金属のパーツらしきものが見えた。
 アイスクリームを一つ、冷凍ケースから取り出して、僕はチョウさんに渡した。
「これください」
「あいよ。八十円ね」
「ところで、今奥で何作ってたの」
 もう一度、店の奥を覗こうとしてみたが、何も見えない。チョウさんは口元を歪ませるようにして笑った。
「まぁ、ちょっとしたもんだ」
「気になるなぁ」
「そうかい」
 おどけた相槌で返された。

 家に帰ってから、僕とツカサはもう一度会う。午後七時、いつもの公園で。日も暮れかかり、島は黄昏に包まれる。
 時計を見やると、すでに十五分遅れていた。今日も遅いな、と彼女を心配した。ここ二、三日そうなのだ。いつもはむしろ几帳面なほど正確な時間に待っていて、ルーズな僕をたしなめていたのに。
 とぼとぼと小さな歩みを見せて、ツカサは公園に現れた。ブランコから飛び降りて、僕は彼女のところに駆け寄った。
「やぁ」
 彼女は小さく手を上げて、力なく笑っていた。
「どうしたの」
 僕は聞いてみる。彼女の笑みは力尽き、項垂れていたからだ。
「いや、何でもないよ。大したことじゃないから」
 そう言う彼女の顔は、明らかに無理をしているのが分かった。
 二人で、ベンチに座った。いつもはもっと気楽に話せたはずなのに、今日は何故だろう。何も話を振れない。彼女の方を見られない。どうしようもないまま、日だけが暮れて行く。街灯が灯されて、視界の頼るあてがチェンジする。
「……あのね」
 彼女は口を開く。
「これ、来ちゃった」
 彼女はポケットから、一枚の小さな紙を取り出し、僕の手にそっと渡した。全身の血の気がさぁっと引いた。これって、まさか。
 この紙を開きたくはなかった。ここに書いてあることは、何よりも知りたくないことだと直感した。だが、僕は開いてしまった。
 四角い枠の中に、短い文章が一つ。
『コダマ ツカサ殿。あなたの期日が迫っております。下記の日時までに、飛び降りを実行して下さい。 ミズノト管制塔』
 そこに書かれているツカサの期日は、今日の夜八時。あと一時間もない。
 僕たちは何も言わなかった。ただ、紙をつまむ指先から汗が吹き出し、期日の紙を滲ませた。
「ずっと言おう言おうと思ってたんだけど、どうしても言えなかった」
 彼女は小さく呟いた。
 今まで、何度か人の紙を見たことがあったが、どれも大して心が揺れ動かなかった。だから、きっとそれほど恐れるほどのものじゃないと思っていた。少なくとも、自分は何の恐れもなくいけると思っていた。
 だけど、違った。それはきっと自分に関係のない他人だったからだ。実感出来なかっただけなのだ。いつかは我が身だとどれだけ心の中で呟いても、それは一切実感の伴わないただの言葉だったのだ。
 僕は何も言えなかった。ただ俯いて、呆けた顔をしていた。
 やがて、ふつふつと一つの感情が湧きあがってきた。こんなに唐突に、ツカサとの時間を終わらせたくなかった。何かしなければ。まだ彼女がここにいるうちに。
 期日の書かれた紙を半分に折りたたみ、文字が見えないようにして、僕はそれを破った。
「リュウ?」
 彼女が僕の名前を呼ぶ。僕はまっすぐ、彼女の顔を見た。
「ねぇツカサ」
 空はすっかり真っ暗だ。表を歩く人もいなくなり、公園の周りには僕らしかいない。
「一緒に逃げよう。こんなむごい決まりに縛られないように、どこまでも」

 誰もいない大通りを、二人で歩いていく。
「でも、逃げるって、どこへ行けばいいのかな」
「それは、まだ分からないけど。でも、期日までにはまだまる一日ある。今日はとりあえず帰って、何か考えを……」
 そこまで言ったところで、見知った男が目に入った。丁度、古臭い菓子屋の横を通り過ぎるところだった。チョウさんが、店の壁に寄り掛かって、腕を組みながら身長差のある僕らを見下ろしている。
「今、お悩みかい」
 チョウさんは言った。僕らは、立ち止まって彼を見つめた。何か言おうと思ったが、果たして本当のことを打ち明けてもいいものだろうかと迷う。
「その娘さんを連れ出そうってんだろ。手伝おうか」
 彼の顔に、ニヒルな笑みを浮かぶ。
「一応、逃げ隠れするなら方法はある。まぁ、中で話そうぜ。ここじゃ誰が聞いているか分からねぇからな」
 僕は頷き、菓子屋の中に入った。ツカサもその後をついて来る。
 元々薄暗い店内が、更に暗く感じられた。扉が閉められると、普段暮らしている世界と隔絶されてしまったような感じがした。
「あの、あなたは……?」
 ツカサはチョウさんに尋ねた。そういえば、ここに来る時はいつも一人だ。女の子が入るような風貌でもないし、来たことが無くても不思議はない。
「菓子屋やってるただのおっちゃんさ。ガキ達にはチョウって呼ばれてるけどな。ま、宜しく頼むぜ」
 屈託のない口調で、チョウさんは言った。
「さて、本題だが」
 店のレジを超えて、更に奥に入る。チョウさんの家の居間があり、土足で歩ける少しくぼんだスペースが周囲を囲んでいた。チョウさんはそこに腰かけた。
「逃げ隠れするなら、灯台もと暗しってやつだ。つまり、この島の地下に忍び込む」
「地下ですか?」
 僕はすっとんきょうな声を上げた。
「ああ、地下だ。お前達はこの地面の下に何があるか知ってるか」
 二人は首を振る。平坦な地面がずっと続くだけで、地下があるなんて考えたことがなかった。てっきり、そんなに厚みのない場所に立っているものだと思っていた。
「ライフライン……ですか。水道とか、電気とか」
 ツカサが先に答える。チョウさんは軽くツカサを指さす。
「ん、ほぼ正解だな。だがな、嬢ちゃん。この島が宙に浮いていたり、俺達を生み出すカプセルを保管したり、この島がこの空にぽつんと存在するために必要な全てが詰まってるんだ。地下は五階まであって、下に行けば行くほど狭くなる。重要な機能も増えていくが、使われていない部屋も多くなる」
「……なんでそんなことを、チョウさんが知ってるのさ」
 僕は尋ねた。チョウさんは頭の後ろをかいた。
「そりゃあ、まあ……な。しょうがねえ、この際隠しごとは無しだ」
 少し言うのを渋ったようだったが、両膝を打って口を開く。
「俺はもともと、その地下で働いてたんだよ。地下三階のカードキーの管理をしてた。だけど、地下の役割を割り振られた奴は、大体地上の光を見る事なく期日を迎える。自分達の作ったり管理したりしているものが、何の役に立つのか分からないまま、な。俺はそういうのが嫌だった。毎日毎日、管制塔の上層部の奴らに頼みこみに行ったよ。管制塔の人間の定期的な監視つきで、何とか上の世界で役割持たせてもらえた。暇だが、割と気に入ってるし、性にも合ってるしな」
 僕は地下の世界を想像した。ずっと暗闇の中なのか、あるいは電気がついているのか。ずっと上下左右閉じ込められた空間の中にいると、気が狂ってしまいそうな気がした。チョウさんの言い分も何だか分かる気がする。
「それで、だ。隠れる場所は、地下三階の資料倉庫。狭いが、逆に警備のチェックは薄いはずだ。地図を書いてやるから、お前達はそこを目指すんだ」
「目指すって言っても、まず地下の入り口の場所が分からないよ」
 チョウさんは少し悩むようなポーズを取った。本当は悩んでなんかいないことはすぐに分かった。
「本当なら、管制塔の中から地下行きのエレベーターが出てるんだが、お前さん達がそんなところを通して貰えるはずがない。だがな、裏ルートがあるんだよ」
 裏ルート、と聞き返した。
「それは、どこなの」
「こっちだ」
 チョウさんは、更に家の奥に案内する。外からは絶対に確認できない棚と壁の間に、床下収納スペースのような金属枠があった。
 チョウさんがそれを外すと、穴がどこまでも続いていた。深すぎて、底が見えない。梯子が取り付けられていて、降りられるようになっている。
「こいつが裏ルートさ。管制塔の奴らのやり方が気に食わねえのは俺も同じだからな。腹いせに地道に掘ってみたんだよ。一階で比較的人の少ない部屋に繋がっている。これを降りて、誰もいないタイミングを見て地下三階を目指せ。見つかるんじゃねぇぞ」
「チョウさん……」
 僕は胸がいっぱいになった。
「ありがとう」
「すまねぇな。俺のところで匿ってやれたら良かったんだが、管制塔の奴らの監視がある」
 僕は首を振った。
「でも、何で僕達が逃げようとしてるって分かったの」
 正直、一番の疑問はそれだった。
「坊主は御得意様だからな。見てたら何となく分かるのさ」
 カンってことか。チョウさんらしいと僕は思った。

 先に僕が梯子を降りた。懐中電灯で、下を照らしながら進む。カツ、カツと音が反響する。
 一番下まで着いて、ツカサが降りて来たのを確認すると、上に懐中電灯を二度点滅させた。無事に降りる事が出来たときにチョウさんに送る合図だ。
 下には、小さなはめ込み式の扉があった。しゃがまなくてはならないが、人が一人通るには十分なスペースがある。僕は穴を埋める板を音を立てないように取り除き、外の様子を覗きこんだ。話し声は聞こえない。
「どう?」
「誰もいないみたいだな。先に出るよ」
  身体を伸ばして外に出る。ツカサもその後に続いた。最後は身体を引っ張り上げて、起き上がるのを手伝った。
 こもった空気のにおいがする。いよいよ地下にやってきたのだ。ツカサがけほっと小さく咳をした。僕は辺りを見回した。ここも一種の倉庫のようだ。金属製の棚に、色とりどりのファイルケースが並べられている。僕らが出て来たのはちょうど入り口の扉から見えない場所で、上手く隠れていた。僕は入ってきた穴を塞ぎ直す。
 どうにかして、外の様子を探ることは出来ないだろうか。ドアの壁に耳をつけて音を聞こうとしたが、どうやら自動ドアだったらしく、扉が開いてしまった。
 一瞬焦ったが、どうやら外には誰もいないらしい。ゆるく湾曲した廊下が左右に伸びている。廊下は上に取り付けられた電球のせいで明るかった。僕は逆に監視されているんじゃないかという気がして、落ち着かない気分になった。
「右の階段、だっけ」
 ツカサがそう言った。左の通路の向こう側で、話し声が聞こえる。素早く動いた方がいい。足音を立てないように、慌てずに。
 右にはすぐ、下りる階段があった。地下二階、三階と降りた所で、階段は終わった。この先に、チョウさんの勧める避難場所がある。僕は地図を広げた。 しばらく真っ直ぐ行って、二つ目の交差路を左、更に進んで三つ目の交差路を左に。僕らは地図に書かれたルートをなぞる。
 二つ目の交差路を曲がるとき、僕らは見つかってしまった。
 地下で働いている人だろうか。青い服を着た背の高い男だった。心臓が破裂しそうになった。
「おっと、ごめんよ」
 彼は僕らを怪しまずに、素通りしようとした。そのまま通り過ぎようとしたが、そうは行かなかった。
「あれ、君達は……」
 彼が声をかけた。
「あまり見かけない恰好だね」
 心臓が爆発しそうになった。バレてしまったのか。もうおしまいだ、と思った。
「そうですか?」
 ツカサがとぼけた。
「もしかして、地上から?」
 感づかれている、と僕は思った。だが、ツカサの言葉は思いもしないものだった。
「ええ。地上の服がこっちに流れてるって聞いて、友達の友達のツテで貰ったんです。最近、そういうのあるって聞いてませんか?」
「え、そうなの?」
「私も良く知らないんですよ。もし分かってたら教えてあげたかったんですけれど……ごめんなさい」
「いやいや、いいんだ……そうなのか、知らなかったなぁ。良い情報をありがとう。あと三十分で消灯時間だし、君達も早く戻った方がいいよ。それじゃ」
 男は振り返って、足早に通り過ぎて行った。
 僕は緊張のあまり、しばらくその場に立ち止まって、彼の過ぎ去った方向を振り返っていた。
「リュウ、行くよ」
 ツカサが僕の手を引っ張る。よろよろと僕は歩きだした。助かった。一時的にとは言え、僕らは助かったのだ。
 それ以上、誰かに出会うことはなかったのが幸いだ。

「ここ?」
「そう……みたいだな」
 僕らは一つの扉の前に立った。この部屋が隠れるのに最適だとチョウさんが言った理由は三つ。一つは、人通りが比較的少ない道に面していること(先ほどすれ違ったことを考えると若干疑わしいが)。一つは、この部屋が古い生活用品の備蓄倉庫であり籠城を決め込みやすいこと、一つは、部屋に入るのに必要なのはカードキーではなくパスワードだということだ。もっと生活圏内に近い位置に生活用品の倉庫を作ったため、こちらの方はお祓い箱と言うわけだ。
「3、2、1、3、3、2、1」
 ボタンを押すと、ぴっ、と小さな音が鳴り、緑色のランプが光る。ドアが開いた。
「やっと着いたね」
「結構疲れたよ」
 僕は肩を落とした。
 部屋の中は、僕達が最初に入った倉庫と似たような構造をしていた。部屋は金属製の棚で仕切られていて、三列に分かれている。しかし、ファイルの代わりに段ボールが置いてあった。これが、例の日用品入りの段ボールなのだろう。
 部屋のドアを閉めると、内側からはボタン一つで出られるが、外からはまたパスワードを入力しなければいけないようになっているらしい。電気のスイッチを入れて、ドアを閉める。
 二人で段ボールを漁ると、さっきの男が来ていたような青い服が入っていた。僕らはそれに着替えた。布団も見つけたので、地面に並べた。僕らはそこに倒れ込んだ。
「しかし、びっくりしたよ。ツカサがあんなに機転がきく奴だったなんてさ」
「ウソでも何でも、はぐらかさなきゃって思ったから。とりあえず何とかなったけど」
 ツカサは腕の時計を見る。僕もそれにならって、時計を見る。
「……もう、過ぎちゃったね、期日」
 時刻は既に八時半。三十分のオーバーだ。僕は念のため、明かりを消した。僕の腕時計の画面だけが、静かにデジタルの光を放っている。
「うん」
 だけど、もう大丈夫。ここなら誰にも気付かれない。
 暫く、僕らは語り合った。今まであったこと、一緒に経験したこと。思い出はたくさんある。いつまでも、話が尽きることはなかった。そして、僕は気付いた。僕はきっと、ツカサのことが好きなのだ、と。

 やがてまどろみが訪れ、僕らは眠りに落ちた。

 自然と目が覚めたが、あまり起きた実感は無かった。目を開けても、真っ暗闇のままだったからだ。僕は時刻を確認する。九時。普段だったら遅刻してしまう時間だが、もう関係ない。ツカサはまだ眠っていた。昨日の疲れが溜まっていたのだろう。どうせ起きても何もすることは無いし、このまま寝かしておこうと思った。
 やがて、彼女の「おはよう」の声を聞いた。暗闇で見えないのをいいことに、僕は顔が崩れるほど笑った。どうだ、期日よ。ツカサはまだ生きているぞ。


 それから数日が経った頃のことだった。
「ねぇ、リュウちゃん。もうこんなこと、止めにしようよ」
 日に日に、ツカサの元気は無くなって、精神的に弱って来たのは目に見えていた。いつかこんなことを言いだすのではないかと、予想はしていた。
「最近私、考えるの。私が期日を破ってしまったことは、実はとんでもないことなんじゃないかって。期日には、実はちゃんとした意味があるんじゃないかって」
 膝を抱えて、顔を隠すツカサ。僕はため息をついた。
「籠城を続けるとこたえるもんだよ、ツカサ。もうちょっと、もうちょっとだけ頑張ろう」
 ツカサは首を振った。
「リュウちゃんは、生まれた日のことを覚えてる?」
「まぁ、一応」
 気がついたら、目を覚まして、水のような液体の中から自分が取り出された。管制塔の人間が、僕に名前と役割と住所を言いつけて、服を着せた。僕は歩いて、その家に入った。
「あれから、私達の身体は何も変わってないんだよ。授業で生き物は成長するって習ったじゃん。でも、私達は成長なんてしない。ずっとこのままだった」
 僕はハナから授業の話を信じていない。
「あんな話は嘘だ」
「嘘なんかじゃないわ。変わらないものなんて、この世界にあるわけがない。もう私には分かっちゃったのよ」
 段々語気を強めるツカサ。乱れていくツカサの言葉。こんなものは、見たことがない。
「私達の存在って、何? 何のために生きてるの? ねえ、教えてよ」
 顔を上げたツカサの顔は、完全に崩れていた。顔面がドロドロに溶け、目や口に黒い虚ろな穴が開いている。恐ろしい形相をこちらに向ける。僕は一歩後ずさった。

 その時、後ろから音が聞こえた。扉が開かれた音。振り返ると、見たことがある四人の男が僕を挟んで部屋の奥へと侵入する。彼らは、手袋をした手でツカサに手錠をかけ、身体を抱えた。
「ただちに島の淵まで連れていけ」
「何をするんだ」
 四人組のリーダー格が残りの三人に指示を出す。僕は叫んだ。
「私はウシオ。期日の管理を行っている。お前はなんだ」
 ウシオと名乗る男は、僕を睨んだ。僕はウシオを睨みつけた。
「期日なんてくそっくらえだ。ツカサと一緒にいられない世界なんて意味が無い。こんなルール、何のためにあるんだってんだ!」
 怒りのたけを、ウシオにぶちまける。こいつが期日なんて定めなければ、ツカサは身を投げ出すことで悩んだりしなくて済んだのに。
「この子の今の姿を見て、それが言えるのか」
 全身が溶けかかって、最早もとの形を成していない。ウシオは再び僕の方を向き直って、真実を話した。
「我々は、水から生まれ出た意識体だ。期日までにより多くの知識や経験を積むことによって、より価値の高い水となる。期日と言うのは、我々がこの姿かたちを留めておける時間の限界なのだ。期日にどうしようと、近いうちにその者は水に返る」
 僕は衝撃を受けた。じゃあ、僕がツカサにしたことって。
「期日に飛び下りる言うことは、こんな醜い姿を誰にも晒すことなく世界に命を返すこと。この子も、素直に飛び下りさせればいいものを」
「……嫌がってる奴を無理やり飛ばせるのもどうかと思うけどな。落ちて行く奴の悲鳴がどんなに辛そうか」
「そうはいかないのも事実だ。こうやって水に帰ってしまった者の身体に触れると連鎖反応を起こして水に返ってしまう。だから島には期日を過ぎた者の遺体を置いておけない。我々はこの制服があるから、何とかそうならずには済んでいるがな」
 僕はその場にへたり込んだ。全身の力が抜けて、目の前が何も見えなくなる。ウシオの行動は素早かった。僕の腕に手錠をかけ、引っ張った。何処へ連れて行くのかは知らないが抵抗する気にはなれなかった。
「……なんで、ここが分かったんだ」
「期日を超えて水に返ろうとしている者からは特殊な波動が出る。管制塔にはそれをキャッチする機器があるからな。浮遊島の何処にいようと一発で分かる」
 どのみち、僕達に逃げ場はなかった。そういうことか。チョウさん、僕のしたことは無意味だったんだよ。彼は知っていたのだろうか。いや、そんな風には見えなかった。
「期日を超えた者を匿うのは重罪だ。書類が受理されたのち、お前には罰を与えることになる。恐らく、期日を迎えずに飛び下りてもらうことになるだろうな。それまでの短い時間、お前は監視付きではあるが自由だ。これは我々からのせめてもの情けだ。せいぜい楽しんでおけ」
 ウシオはそう言った。

 管制塔の職員の防護服には水に返るのを止める作用があるのか、本人が頑張ったのか、ツカサの顔はほぼ元の顔に戻っていた。
 ツカサの身体を抱える一人と、周りに二人。そして、その後ろにウシオに連れられる僕。ツカサと話したかったが、四人組はさせなかった。
 エレベーターを昇り、また地上に戻る。その時、ウシオは僕の頭に黒い布を被せた。丁度昼ごろだった。行き交う人の数は多く、僕らは間違いなく見られている。
 一番外側まで来た時、布が外された。
「別れの言葉ぐらいは言わせてやる」
 ツカサを抱えていた男が、ツカサを下ろした。ツカサは何とか立っていた。
「ごめんね、リュウちゃん。私達がちゃんと期日のことを知ってたら、こんな風にはならなかったかもしれないのに」
 うなだれるツカサ。僕は何も言えず、ただ首を振る。
「私、もう駄目だよ。ドロドロになっちゃって、もう形を保てそうにない。そろそろ行くね。バイバイ、リュウちゃん。今だから言うけど、ずっとあなたのことが好きだったのよ」
 ふうっとツカサの身体が倒れる。僕は手を伸ばそうとしたが、四人組の誰かに止められた。そのまま、ツカサの身体は永遠の空に落ちて行った。
 僕は彼女の名前を叫んだ。最期の一瞬を見届けたくて、島の淵から顔を出した。真っ青だった。手を振るツカサの身体が、段々小さく、小さくなっていく。遠く離れていっているのか、それとも彼女の身体が消えていっているのか。彼女はいなくなった。

 僕の手錠が外された。
「お前の件について、上層部と審議をする。リュウ、お前は自宅待機だ。審議は二時間ほどで終わる。審議とは言っても、書類を提出すればほぼ終わりだからそれ程時間はかからないだろう。それまでお前は自由だ。ただし、監視はさせてもらう。残りの時間、大事に使え」
 ウシオは去って行った。
 僕はとぼとぼと歩いた。久しぶりに浴びた太陽だというのに、まだあの狭い部屋にいるような感じがした。何処へ行っても、僕にできる事なんてもう何も無いのだ。
 強いて言うならば、一つだけあるか。僕の足は自然と菓子屋に向かっていた。
「いらっしゃい……って坊主!」
 チョウさんは驚きの表情を隠せなかった。
「戻って来ちゃった」
「戻って来たって、お前……お嬢ちゃんはどうしたんだよ」
 僕はチョウさんに説明した。何とか隠れられたものの、彼女の身体に異変が起きたこと。結局四人組に捕まってしまったこと。期日に飛び降りなかった所で、どの道逃げ場はなかったということ。
「やっぱり、駄目だったか」
「駄目だったって、知ってたんですか。僕らが一体どういう存在か」
 チョウさんは頷く。
「坊主を見てると、そんな悲しい現実を覆してくれるような気がしたんだ。俺のわがままを押し付けちまった。すまねえ」
 チョウさんも後悔している。だけど、僕はそんな風にはなりたくなかった。ツカサとの逃避行を、無意味なものにしたくはなかった。あと二時間。僕は自分のやりたいことをやる。何一つ、後悔しないために。
「チョウさん」
 僕は小さくつぶやく。チョウさんの目に、僕の顔はどう映っているのだろう。
「この前作ってたモノ、見せて下さいよ」
チョウさんは目を見開いた。何を作っていたかは知らないが、少なくとも一般人に知られてはいけないようなシロモノであることは、察しがつく。僕はチョウさんがその正体を教えてくれるまで、じっと彼の瞳を見つめ続けた。
「あれは……いや、もうここまで来たら、お互い様だ。持って来てやる」
 チョウさんは裏手に回って、一つの小さな金属の箱を持ってきた。真ん中に小さな赤いスイッチがついている。
「爆弾だよ」
 虚ろな口調で語る。
「つい昨日、完成した。真ん中のスイッチを押すと、二十秒後に爆発して周囲に超高熱をまき散らす。これを管制塔の上層、俺達を生み出すカプセルがある辺りに投げ込んでやれば」
「もう二度と、僕らみたいなやつは生まれない」
 チョウさんは頷いた。僕はその爆弾を手に取った。
「俺は今まで、この島のシステムにずっと疑問を感じてた。出来れば俺がそれを使えればいいんだが、どうにも監視の目が厳しくて、使うタイミングを見出せない。坊主、お前がもしいいと言うなら、そいつを使ってやってくれ」
「ありがとう。さよなら、チョウさん」
 きっともう二度と会うことはないだろう、と思った。
「坊主」
 チョウさんと僕の目が合う。
「ありがとな」
 僕は少し笑った。その小さな爆弾をそっとポケットに入れ、菓子屋を出た。
 爆弾は、ずっしりと重たく、ポケットを沈み込ませた。この重さが、この島を滅ぼすのだ。そう思うと、僕は愉快で仕方が無かった。中央の管制塔に続く道を、真っすぐ歩いて行く。何人もの人とすれ違ったが、僕の姿を不思議に思う者は誰ひとりいなかった。
 さて、管制塔に着いた。僕はただひたすら高く伸びる塔を見上げた。青い空が重く圧し掛かってくる。
「くたばれ、管制塔。ツカサを、チョウさんを、僕を生んでしまったことを後悔するがいい」
 ポケットの中の赤いスイッチをぐっと押し込んだ。かちっ、と音がして、火の予感がした。ポケットから金属の箱を取り出すと同時に、上階のテラスらしき空間を目がけて思いっきり投げ飛ばした。爆弾は、下には落ちず、管制塔の上階に着陸した。
 くるりと踵を返し、歩いて行く。
 突然、後ろから腕を掴まれ、止められた。
「おい、今何を投げ入れた」
 強い口調で言う。振り返ると、管制塔の四人組の一人だった。だが、もう何も怖くはない。
「関係無いですよ。もう僕は飛び降りようと思うんです。こんな悲しい世界なんて、無い方がマシですから」
 突然、島全体が震動した。とてつもなく強い光と、熱線。そして、爆風。眩しくて何も見えない。吹き飛ばされそうだったが、管制塔の男に腕を掴まれてその場に留まる。熱と光が治まる頃、代わりにありとあらゆる方面から悲鳴と混乱の声が聞こえた。僕を掴んでいた男の手はいつのまにか離されていた。良く見たら、彼の姿そのものがなかった。焼け焦げた布の切れはしだけが、僅かに地面を黒く染めていた。
 僕は歩いた。叫び声を音楽にして。管制塔の方へ向かう奴らに逆行して、世界の淵へ。
「ツカサ、今からそっちへ行くよ」
 永遠の空へ、助走をつけて飛び込んだ。ひたすら白い雲と、青が続く世界へ。自分の身体を支えるものが一切ない自由落下の世界は、心臓が弾け飛びそうな感覚にひたすら耐える世界だった。仰向けになると、小さな浮遊塔は黒い煙を噴き出していた。その様が、段々小さくなっていき、やがて見えなくなった。

 浮遊塔の姿が見えなくなり、落ちている感覚が無くなってきた頃。僕はふと、自分の期日とは一体いつだったのだろうかと考える。管制塔から送られてくる紙ぐらいしか、それを知る術はないので考えたところで無駄なことだと言うのは分かっている。人によって、差はある。ツカサは、かなり早い方だったのかもしれない。まだ僕は意識がある。あの時のツカサのように、ドロドロになったりはしていない。ああ、ツカサ。出来る事なら、君にもう一度会いたい。思い出すのは、最後に手を振って笑った彼女の姿。あれで、きっと君に対する僕の気持ちも終わっていたんだ。でも、狭い島で、僕が何を変えられる? 何かを成したところで、どうなる? あまりにもちっぽけ過ぎて、くだらない。
 ふう、とため息をついて、寝よう、と思った。考えることさえ意味はないし、僕にはもう、ただ期日を待つことしかできないのだ。

――――

 久しぶりに落ちる冷たい感覚とは違うものを感じると思ったら、チョウさんの顔があった。チョウさんは僕の両肩を叩いて、目を覚まさせたのだ。
「どうしてチョウさんがこんなところに」
 僕は驚きを隠せなかった。僕が飛び下りてから、随分経っているはずなのに。
「爆弾の作り主だって事がバレて、お前さんを匿ったこともバレたからさ」
 やっぱり僕はチョウさんに迷惑をかけてしまったのか。僕みたいに、僕は自分で飛び下りてしまったけど、期日を迎えずに飛び下りる罰を受けてしまったのだ。
「そんな顔するなよ。管制塔は木端微塵。もう二度と俺達みたいな存在は生まれねぇさ。良かったじゃねぇか」
「本当に、良かったのかな」
「もうこんなところまで来ちまったんだ。関係ねえだろ」
「そうだね」
 僕は笑った。
「飛び下りてから、お前を探そうと思って必死だった。お前の期日は大分先らしいから、まだ水に返らずにいるかもしれねぇ。何とか空気抵抗を減らして、落ちる速度を上げてったら、ようやく間に合った訳だ」
「どうしてそこまで……」
「ま、それくらいしか楽しみがねぇからな」
 チョウさんは肩をすくめた。なるほど、確かにそうかもしれない。
 その時、チョウさんは右手で目の上を押さえつけて、痛そうな顔をした。
「あぁ、くそっ、悪りい、坊主。俺ももう限界みてぇだ」
 肩を押さえるチョウさんの手が、離れそうになる。僕は押さえつけようとした。チョウさんの期日が近いのだと、僕には分かった。チョウさんの身体が、水に返ろうとし始めている。
 彼に何か言葉をかけたい。だけれども、何一つ思いつかない。暫くずっと、声を出していなかったのだ。言葉が出て来ず、もどかしい。そうこうしているうちに、チョウさんの方が先に口を開いた。
「本当だったらお前を起こすべきじゃなかったのかもしれねぇな。きっともうとっくにお前は考えるのをやめていたんだろうに。悪かったな、坊主。だけど、俺はお前に会いたかったんだよ」
 僕は首を振った。涙が出そうになった。チョウさんの手が肩から離れ、彼の身体がどんどん透明な液体になって崩壊していく。
「最後に、坊主、お前の期日は――」
 そこまで言ったところで、チョウさんの身体は完全に消滅した。
 やめてくれよ、チョウさん、そんなことを言ったら、気になってしまうじゃないか。

 また再び、僕は思考の渦に巻き込まれる。一体自分の期日はいつだったのか。そこから、小さな浮遊塔のことに心が飛んでいく。もう僕らみたいな存在が生まれないのなら、それはとてもよかった。最期の一人が期日を迎えた時、浮遊塔の悲しい運命は終わるのだ。誰が何と言おうと、僕はあの島のシステムから逃げ出したかった。
 そう言えば、水は地面に落ちて海に流れ、また空に昇っていくと言う。もし、地面と言うのが本当にあったとしたら、僕の身体もその大きな流れの中に組み込まれていくのだろうか。そうだといいな、と思った。あの浮遊島以外の場所で、あわよくばツカサのそばで生まれ変わりたい。そういう幸せなことが起こればいいと、少しだけ願いを込めた。

 結局リュウがどこまで落ちて行ったのか、それを知る者は誰もいない。
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