> Can't stop one's beat 作:でりでり
Can't stop one's beat 作:でりでり
「ふう……、やっと着いたな」
「じゃあヒロ、早くやろうよ!」
「オッケー、カズ! 今日は負けないぜ」
 土砂降りのあった次の日のことだった。二人の少年は町外れにある山の、やや傾斜のある場所でそれぞれ一匹ずつポケモンを従え、対峙する。
 彼らが住んでいた地方都市の中では、条令によって街中でポケモンバトルが出来ず、ポケモンバトルがどうしてもやりたい彼らは街から一時間離れた場所にある山へ向かわなければならない。
 行くのは遠いし、バトルを終えてくたくたになって帰るのも大変。それでもカズとヒロ、二人の少年はポケモンバトルが大好きで大好きで仕方がなかった。
 昨日も一昨日も、その前もずっと毎日のように行われていたこれが、いつまでも続いていくんだろうと二人は迷わず信じていた。
「ジュカイン、まずはリーフブレード!」
「守る! 膝元に来るよ!」
 素早い動きで間合いを一気に詰めたヒロのジュカインの的確な攻撃を、カズのオノノクスが淡い緑の膜をピンポイントで足元だけに張り、リーフブレイドを弾く。
「ドラゴンクローだ!」
 ワザが決まらず体勢を崩したジュカインに対し、空の右手を振りかぶり、鋭い角度から放たれるドラコンクローがジュカインをヒロの側まで飛ばした。
「ダメ押しで暇を与えないで!」
「木に飛び移って撹乱してやれ!」
 かろうじて受け身を取ったジュカインは、猪突猛進で突っ込んでくるオノノクスをすんでのところで上に跳躍してかわし、真後ろにある木の、枝に勢いよく飛び移る。一方で勢い余って止まれなくなったオノノクスは、ジュカインがいる大木に大きな一撃を喰らわせてしまった。
「あれ?」
「今のなんだ?」
 揺れ。オノノクスの大木への一撃と同時に、二人と二匹のいる地盤が揺らいだ。思わず皆の動きが固まり、それぞれ首を傾げたり辺りを見渡したりする。状況の把握が出来なかった一人と二匹とは違い、いち早く悪寒に気付いたヒロの決断は早かった。
「嫌な予感がするな……。カズ、今日は中止だ! 急いで山を降りるぞ!」
「え? あ、うん。分かった」
 互いにモンスターボールにポケモンを戻し、踵を返そうとしたとき。突然の山の唸りがしっかりと二人の耳に入った。ヒロの嫌な予感はズバリ当たったのだ。
「なっ! カズ、走れ!」
 オノノクスがダメ押しで攻撃した大木の根が持ち上がり、ゆっくりと倒れていく。言われた通り前を進んでいたカズは、後ろを振り返りながらヒロが倒れる大木を軽いフットワークで避けたことに安堵した。
 しかし、今度は大木の上の石や岩が崩れだす。大木という支えが無くなったことで、斜面が崩れ出していく。前日の土砂降りのせいで地盤が非常に緩くなっていたところに、オノノクスの一撃が微妙なバランスで保っていたこの斜面が崩れ出したのだ。
「うわあっ!」
 カズは再び背後から聞こえた声に、前に進みながら振り返れば。
 ヒロが踏み出した場所の土が崩れ、ヒロは転んでしまった。たまらずヒロはジュカインを繰り出して助けを求めようとしたが、ボールから放たれたジュカインの足場も登場と同時に崩れ、一人と一匹が下へ、下へと流されていく。
「ヒロッ! ヒローォ!」
 カズは自分のモンスターボールに触れるが、この状況を好転させるポケモンが手持ちにいないことに気付く。元より彼らはポケモンバトルをするのが本分であり、レスキューなんて出来る訳がない。
 もしも僕たちが空を飛べるポケモンを持っていれば――。
 込み上げてくる恐怖とパニックでカズは、ただ呆然と手を前に伸ばすだけで何も出来ず、やがて小さくなって見えなくなったヒロとジュカインをぼんやりと目で追うだけであった。
 土砂はさらに崩れ、大量の砂や石、岩が一人と一匹に続くように転がっていく。カズは更に一歩、二歩と下がり続け、かろうじて自分の身を本能的に守ろうとする。
 何分経ったか彼らには分からないが、カズが平静を取り戻したのは目の前の土砂がようやく落ち着いてからだった。
 ヒロとジュカインの姿は、もうどこにもない。
 広い山の中で、カズがたった一人だけ取り残されてしまった。






                          Can't stop one's beat







 ポケモンバトル世界大会開催――。
 大した観光地の無かったこの地方都市が、気候や風土の関係上認められて世界大会開催地となり、予想以上の賑わいを見せている。
 試合が行われる午後を避け、地元の人と観戦に来た人同士が夏の余暇を潰しあおうと街中でもあちこちでポケモンバトルが繰り広げられていた。
 今、ここではポケモンバトルは市が規定した特定の施設、通称『バトルエリア』ならば街中でも自由に出来るようになった。二年前までは町外れの山まで行く必要があったが、世界大会の会場となったことを受けて急速にそういった施設の開発が進んだのだった。
 母に頼まれたスーパーへの買い出しを終えて自宅に向かう道中、ぼんやりとあちこちで繰り広げられるそんな賑やかな様子を楽しげに眺める。
 突然どこからか放物線を描いて飛んで来たカメールが足元に落下し、思わず足が止まった。
「すみません! 大丈夫ですか!?」        目を回して倒れたカメールを向かえに駆けてきたトレーナーが、こちらに向かって腰を折って謝り、カメールをモンスターボールに戻して来た方向へ戻って行く。バトルエリアから大きく吹き飛ばされてしまったのだろう。フェンスで横を囲われているというのに、それでも飛ばされたのはかなり上に吹き飛ばされたという事だ。エリアに戻ったトレーナーは新しいモンスターボールからグライガーを繰り出し、ワイワイとバトルの続きを始まる。
「街中でポケモンバトル、かぁ」
 と、誰に向けてもなく呟くと、ズボンのポケットに入れていたモンスターボールがカタカタと揺れているような気がした。
「もしかしてお前もバトル、やりたいのかな?」
 返事、それに準じるリアクションは無い。きっと僕がポケモンバトルのド素人で、ポケモンバトルをする人間じゃないことを分かっているのだろう。
「ごめんな、バトルさせられなくて」
 ポケットから視線を外し、夕焼けの街を進む。街の中心部からやや離れた、計画的に建設された住宅街に我が家がある。普段は閑静だが、中心部はどこもバトルエリアが混んでいるため穴場を狙ったトレーナーがたまにうろうろしている。きっとこの夏だけなのかもしれないが。
「ただいまー。買ってきたよ」
「あら、お疲れ様」
 帰宅するなりキッチンに入り、買い物かごを脇に置く。労うように母さんが二、三度ありがとうと言う。
「料理に使うマヨネーズを買い忘れたんだけど、ほんとありがとうねぇ。もうこれでご飯すぐに出来るから、カズを呼んできてちょうだい」
「はいはい。また部屋に?」
「そうなのよ。あの子、いつになったら部屋から出てくれるのかしら」
「仕方ない、よ……」
「そうは言っても、もう中学生になったんだからいい加減ちゃんとしてくれないと困るのよ。さ、今手が離せないからお願い」
 ここで言い合っても仕方がない。世界大会団体戦、準決勝が中継されているテレビを切り、二階に上がって弟のカズの部屋の扉をノックする。
「カズ、ご飯だから出てこいよ」
「……分かった」
 やや小さい声が扉越しに聞こえ、弟の無愛想な態度に思わずため息をつく。
 ようやく開いた扉から、焼けずに白いままの肌の、沈んだような顔をしたカズがひっそりと出てくる。
「そうだ。カズ、明日のお墓参りの事だけど――」
「いい。一人で行く」
「……そんな暗い表情をしてたらヒロ君も喜ばないぞ、きっと」
「兄ちゃんには関係ないよ」
 何十日かぶりにカズと会話をかわそうとしたが、コミュニケーションも何もない。ベルトコンベアで流されるように先に階段を降りたカズを追って、重い足取りでダイニングに行く。
 こんなカズでも二年前までは明るく快活で、今みたいに部屋に閉じ籠って本ばかり読んでいる生活とは真逆、外に出て遊ぶのが大好きだった。それがこうも変わってしまった理由は分かる。
 幼馴染みで大親友のヒロ君とポケモンバトルの最中に、不運としか言いようの無い土砂崩れに遇い、カズは助かったもののヒロ君がそのまま還らぬ人になってしまったことにある。
 両親や、兄である僕。そしてヒロ君のご両親やヒロ君の捜索活動にあたったレスキュー隊員が何を言っても、カズはひたすら自分のオノノクスのワザ、ダメ押しが外れたせいで土砂崩れが起きた、つまりヒロは自分のせいで死んでしまったと、言って聞かなかった。
 やがて、カズはそれから大好きで止まなかったポケモンバトルを敬遠するようになる。さらに手持ちの全てのポケモンは逃がすか譲渡してしまう程。そこまでしなくても良かったのでは、とも事が事だけに言いづらかった。
 やはり、ポケモンバトルがトラウマとなっているのだろうか。
 両親と僕が話し合った結果、なるべくカズの前ではポケモンバトルの話をしないようにすることにした。
 情熱を注いだ大好きなモノを失ったカズからはみるみる生気が消え、学校(たまに無断で休む)と食事、風呂等でしか部屋から出さえしない。
 気持ちは分かる。いや、分かるというのは流石に驕りか、それでもいつまでもこのままという訳にはいかないだろう。
 ポケモンバトルで無くてもいい。また何か、カズを元気にさせ、熱中させるものがあれば……。
 まるで光を失ったカズの目には何が見えているのだろう。
 その後も食卓で一言も発することなく、食事を終えてすぐに部屋に戻るカズを見つめながら、うすぼんやりとそんなことを考えていた。



 夏の夜は暑い。夜に限らずとも当たり前のことだ。眠りが深い自負があったのに、余りの暑さのせいでまだ夜中三時というのに目が覚めた。汗でびっしょり濡れたTシャツを脱ぎ捨て、汗をタオルで軽く拭いてから新しいTシャツに着替えた。トイレにも行こう。思い立って、一人部屋から余り音を立てないように慎重に廊下に出る。
 寝ているだろうカズの部屋の前を、抜き足、差し足、忍者のごとくゆっくりと通ろうとしたとき、何か声がした。
 誰かと喋っている訳ではなさそうだが、何を言っているかは聞き取れない。それでもその声自体にはどこか聞き覚えがあるような。
 カズには悪いが部屋の扉に左耳をぴったりとあて、それが何かを探る。
『――ましたぁ! エレキブルの必殺パターンがアメリカ代表、Jey選手のメガヤンマに決まりました! 団体戦準決勝は白星発進です。試合全体を見ていかがでしたか』
『圧巻の一言に尽きますね。チャージドローで完全に流れを引き寄せました。やはり彼を一度でも彼のペースに持ち込ませると――』
 すぐに分かった。間違いない。これは今日の世界大会のテレビ中継だ。どうしてあんなに敬遠していたのにカズがポケモンバトルを観てるのか。
 意識がそっちに注意していたせいで、手が滑って扉の取っ手を押してしまったことに気付かず、異変を感じたときには倒れこむようにカズの部屋に入っていた。
「に、兄ちゃん!」
 慌ててテレビの電源を切ったカズだが、たぶんバレたということを分かっているのだろう。体は僕の方に向けているが、顔は俯き床だけを見ている。どこか観念したような雰囲気がある。僕の言葉を待っているのか。なんと言えばいいのだろう。
「……観たかったなら録画してこんな夜中に観なくてもご飯食べてる時間にリアルタイムで観れば良かったじゃないか」
 視線が右へ左へあっちこっちに動くだけで、カズは何も返して来ない。
「別にポケモンバトル観ることを怒ってる訳じゃない。こんな夜中にテレビ点けるのは良くないよ、って言ってるだけだ」
「ごめんなさい……」
 絞った雑巾から僅かに水が滴るように、か細い声が帰って来る。それから互いに二の句を失い、居心地の悪い気まずさが漂う。
 カズはどうかは分からない。たぶん僕が部屋から出ていくのを心待ちにしているのだろう。でも僕はカズに尋ねたいことばかりで、夜中の寝惚けた頭も相まってやや混乱してしまっている。
「カズ……。やっぱりポケモンバトルが好きなのか? それならそうと最初から言ってくれたら……」
「分かんないよ……」
「分からない?」
 予想外の答えに完全に虚を突かれた。分からない、どういうことなのか。現に今まで夜中に起きてまで中継の録画を見ていたじゃないか。
「ポケモンバトルの事を考えるのは嫌なのに、嫌なはずなのについ気になってこうして観ちゃう。またあの日の事が思い出しそうになるし、今でもたまに思い出しちゃうのに、観てるとつい胸の中が、何かこうよく分かんないけど沸き上がって来るような気がして」
 ようやく顔を上げたカズの目尻には涙が浮かんでいた。間もなくカズの黒目がぶれ、静かに顔をそれが伝う。
「僕ってポケモンバトルが好きなの? ねぇ、兄ちゃん!」
 すがるように泣き叫ぶカズに、なんて言ってやれば良いのか検討がつかない。軽率な言葉は余計にカズを傷つけ、困惑させるだろう。唇を舐めながら言葉が見つかるまで口元を遊ばせていると、どんどんカズの顔が歪んでいく。
「好きになっちゃ、いけないのに。またヒロみたいなことが、起きちゃうかもしれないのに!」
 ……結局カズが泣き疲れて眠るまで、僕は一言も発することが出来なかった。腫れた目を閉じたカズをベッドに寝かし、涙で濡れたフローリングをティッシュで拭きながら暗い思いに駆られる。
 ヒロ君のお通夜の時にも似たような事があった気がする。自分を追い詰めて自分の心を傷つけるカズに今みたいにいろいろと問われたとき、ロクな返事をしてやれなかった。
 もしも僕があそこで。そして今も、何か適切な言葉をかけてやれたらカズはここまで辛い思いをせずに済んだかもしれない。
 歳が五つも離れてるのに、何も出来ない最低の兄ちゃんでごめんな……。
 拭いたばかりのフローリングが、また湿る。



 浅い睡眠を取った翌朝。まだ深く眠るカズを置いて、一人で家を出る。
 朝からポケモンバトルで騒がしい通りを抜け、街の隅にある共同墓地に来た。近くで買った献花を携え、墓地の一角にある一つの墓の前で足を止めた。
 今日はヒロ君の命日、二年前のこの日、ここから見えるあの山で。あの山は事故のことを受けて、ハイキングコース以外の全てが立ち入り禁止になった。もしも二年前に今みたいに街中でもポケモンバトルが出来るんだったらヒロ君もこうはならなかっただろう。
 皮肉なもんだ。どうしてもっと早くこうしてくれなかったんだろう。そうすればカズだってこんなに苦しまずに済んだだろう。
「僕は……、どうすればいいんだろうなぁ」
 死人に口なし。答えが来るわけないなんて分かってる。分かっているけど、言わずにはいられなかった。
 新しい花を添え、墓に水を垂らし、真夏の日射しが強くならないうちに墓の回りの雑草を抜いていく。
 こうやっていると色々思い出す。元からやや内気なカズを、引っ張るように先導してくれたのがヒロ君だった。気の強いヒロ君のお陰でカズは明るくなり、他の友達も出来た。我が家で一緒にご飯を食べたこともある。うちとヒロ君の一家と共に遠出だってした。カズほどではないけれど、ヒロ君がこうなったことは僕だって十二分にショックだ。
 ヒロ君はカズにとっては太陽みたいな存在だったんだ。僕みたいなのよりもずっと頼りに、支えになっていた。
 ようやく雑草抜きを終えた僕の足元に見覚えのあるユニランが現れる。立ち上がれば、ヒロ君のお母さんが。お辞儀をする彼女につられ、僕も頭を下げる。
「去年も来てくださったのに、ありがとうございます。わざわざお墓の手入れまでしてくれて……」
「いえいえ。……それにそうでもしないとゴーストポケモンが集まって来るかもしれませんしね」
「ですね。……今日はカズ君とは一緒じゃなくて?」
「えぇ」
「そうですか。やっぱりまだ」
 やっぱり、とはカズが塞ぎこんでいる事についてだろう。静かに首を縦に振り、辺りをふわふわと楽しそうに漂うヒロ君のお母さんの手持ちであるユニランに目を移す。
「押し付けがましいんですが、私はカズ君にはポケモンバトルを続けていて欲しいんです。ヒロが叶えられなかった夢を追ってほしい、って」
 ヒロ君の夢、世界一強いポケモントレーナーになる。いつだったかは忘れたが、声高に空を指差して屈託のない笑顔でそう語っていた覚えがある。彼にはそう言っても周りが笑わない程のセンスがあった。その夢を、カズに……。
 彼女はバッグからモンスターボールを取り出すと、それを見たユニランが念力でモンスターボールを僕の手元に押し付ける。受けとれ、という意思を感じとり、ついつい両手で包み込むように手に取った。
「それをカズ君に渡してあげて欲しいんです。もし受け取るのを拒否したら、逃がすなり譲渡するなり、返してもらっても構いません」
「これは?」
「ヒロのパートナーの、ジュカインです。どうやらジュカインはモンスターボールに戻されていたようで無事で」
「でもどうしてこれをカズに」
「……最初はヒロの代わりと思って置いていたんですが、最近思うんです。この子は私なんかよりもカズ君の手元にいたほうが、カズ君にとってもこの子にとっても幸せだろう、って。それと――」
 穏やかで静かな笑みだったが、それでも彼女からは強い意志が伝わる。
「ヒロもきっと、また元気に明るくポケモンバトルしてくれるカズ君が見たいと思うんです」
 電撃が走るような衝撃が脳裏に走った。彼女に気圧されただけではないが、これはカズに渡さなきゃならない。そんな気がした。カズに何もしてやれなかった僕が唯一出来ること。後押ししてくれる。
「かっ、必ず渡します!」
 彼女に深くお辞儀をし、驚く彼女を放って急いで踵を返した。渡してどうなるかは分からない。でも、何もしなければ何にもならない。
 気付くのに時間がかかりすぎたが、カズを変えるためにはまず僕が変わらないと。僕がヒロ君に代わる支えになってやらないと。今こそ『情けない兄』を捨てないと。兄としての最低限の役目を。今なら、今しか!



「どこにいるんだ、カズ!」
 入れ違いになったのか、家に戻ってみればカズの姿は無かった。一人で墓参りに行ったということだけは分かる。それを頼りに来た道を引き返し、辺りを見渡しながらカズの姿を探してもどこにも見当たらない。
 家で待てばいいじゃないか。なんてのは考えた。でも、今急がないといけないような、早く渡さないとこの『熱』が失われそうな気がする。
 ただ渡すだけじゃダメなんだ。モンスターボールを渡すんじゃなく、ヒロ君、そのお母さん、僕の気持ちも共に添えてやらなきゃならない。沸き上がるこの爆発にも似た想いは、時間が進むにつれて薄くなってしまう。だから、急がないと。
 茹だるような暑さの中、汗だくになりながら駆け抜けていると、突然聞き覚えのある大きな声がした。
「や、やめろぉ!」
 車道を挟んで向こう側。同い年くらいの三人の男子に輪を囲まれるように、カズはいた。アスファルトに膝をつけ、男子のうちの一人に向かい、何もない宙空に右手を伸ばしている。
 状況をよく飲み込めなかったが、少なくともカズが良い状態でないことは分かる。
 立ち上がり、ひ弱な体躯で手を伸ばしていた男子に飛びかかろうとすると、控えていた残りの二人がカズを押さえ込んだ。
「返せっ、返せっ、返せぇ!」
「へぇ、これはそんなに大事な物なのか。だったら尚更タダで返したくはないな」
 そう言い跳ねる男子の手には、カズのエースキャップが見えた。読めたぞ、カズはあの男子に帽子を奪われて怒っているんだ。
 しかもあの帽子は元々はヒロ君からもらったもの。形見のそれを奪われて、心穏やかな訳がない。
 ここからヒロのいる場所にたどり着くには十メートル先の横断歩道まで向かわなければならない。時間がかかる。いくら手元にジュカインがいるからとはいえ車道を横断するなんて不可能だ。ポケモンの扱いがうまくない僕では間違いなく痛い目にあう。助太刀したいが到底厳しい。
 そうして僕があれこれ考えているうちに、例の男子は奪った帽子を被り、口の端を吊り上げて言った。
「どうしても返して欲しけりゃ俺とポケモンバトルだ。図書館の側のバトルエリアでシングルバトル。勿論ポケモンくらい持ってるよなぁ?」
 あの嫌らしい言い方。カズがポケモンを手放していることを知っているかのような。そういった明確な悪意を感じる。
「ダンさん良いんすか? そんな条件出してやって」
「あぁ? この俺がこんなもやしみたいなヤツに負ける訳ないだろ。奪うだけじゃアンフェアだから、せめてものお情けだ。……もっとも、そもそも来るかさえも怪しいけどな。いいか、三十分だけ待ってやる。それで来なかったら試合放棄とみなして俺の勝ちだ。分かったか? ……ふん、行くぞお前ら」
 二人の男子はカズの拘束をほどき、ダンと呼んだ男子の後に続いていく。投げ捨てられるように倒れたカズは、ゆっくりと立ち上がり、首を下げたままダンとは反対側へ進もうとしている。
 このタイミングで、ようやく横断歩道の信号が変わった。駆け出して、カズの名前を呼ぶ。驚いて振り返ったカズの顔は真っ赤になっていた。
「兄ちゃん……」
「今のやつら追いかけないのか」
「……追いかけたってどうしようもないじゃんか」
 ポケットから黙ってジュカインの入ったモンスターボールを突き出す。はっ、と顔を上げてカズは僕の顔を見たが、やがて視線と首が下がり、一歩二歩と後ろに後退する。
「いいよ」
「よくない」
「ほっといてよ!」
「本当にそれでいいのか?」
「うるさい!」
 カズは僕を振り切って逃げ出そうとしたが、こうなることは想像出来た。カズの右手首を掴み、離さない。
「離して!」
「このモンスターボールにはヒロ君のジュカインが入ってる。カズなら言うことを聞かせれるはずだ」
「僕は――」
「いつまでもそうやってるつもりか!」
 自分でもそこまで激しく言うつもりは無かったが、つい激しい剣幕で怒鳴ってしまうと流石のカズも固まり、抵抗をしなくなった。言うなら今しかない。
「そうやって逃げてばっかりしていると失うばかりだ。カズ、お前はまた同じ失敗を繰り返すつもりなのかい?」
「……」
「目の前で大事な物が消えていく。一つや二つだけじゃない。カズがそうしている限り、たくさんの物を失っていく」
「嫌だっ!」
「だったら立ち向かうんだ。そのための、鍛えた力だろう」
 強引にカズの右手にジュカインのモンスターボールを握らせる。そっと手を離せば、カズはモンスターボールをただじっと見つめた。
「ヒロ君が今のカズを見て喜ぶか?」
「……ううん」
「だったら尚更じゃないか。ダンとかいうあの子や、過去のトラウマを乗り越えるのは今だ。人は困難の度に変わらなきゃいけないんだよ」
「でも――」
「兄ちゃんがついてるから、安心しろ!」
 僕がいるからどう安心なのかは自分でも分からない。それでもやや明るくなったカズの顔を見ると、なんとかなりそうな気がする。ちゃんと支えになってやれるかもしれない。僕自身もちゃんと頼れない兄貴のヴェールをここで脱がないと。
「出来るか?」
「……頑張る」
「よし。そう来なくちゃ。……そうだカズ、これを」
 思い出したようにジュカインのモンスターボールがあったポケットと反対側から別のモンスターボールを取り出し、カズに手渡す。
「これは?」
「カズのオノノクスだ。カズが逃がした後も、自力でうちまで帰って来たから僕が世話してたんだ。オノノクスはきっと、カズがこうして立ち上がる時が来るのを信じてたんだ」
 大事にモンスターボールを両手で包み込んだカズの肩を優しく叩く。熱が、そっと伝わる。
「おっと。言われてた時間までもう少しだ。さあ、行くぞ!」
「う、うん!」



 図書館の側のバトルエリアに向かえば、言われた通りダンとその取り巻きの二人が待っていた。まさか本当に来るとは思わなかったのか、ダンはカズの姿を見ると驚いたように僅かに口を開いた。
「ふん、どうやら時間通りに来たようだな。だけどポケモンは持ってるのか?」
 カズはぎゅっと眉間に皺を寄せ、モンスターボール二つを見せつけるように突き出す。
「へぇ、二匹か。おい。ジャッジの用意をしろ」
「わ、分かりました」
 バトルエリアは公式大会さながらのポケモンバトルが出来る施設。しかし人間のジャッジはいない。オートジャッジと呼ばれるシステムが、公平に試合をジャッジする。試合形式を入力すれば後は勝手にやってくれる、魅力的なシステムだ。
『使用ポケモンは二匹のシングルバトル。道具の所持、使用は不可。入れ替えは自由、先に一匹でも戦闘不能になった方が敗北となります』
「カズ、負けるなよ」
「うん」
「ダンさんそんな奴やっちゃってください!」
「当たり前だ。さあ、始めるぞ!」
 対戦が始まればバトルエリアには戦う二人しか入れない。リフレクターや光の壁などと同様の特殊な素材で作られたフェンスで仕切られたギャラリー席から、やや遠巻きに見守って応援するしか出来ない。だからこそ精一杯応援してやる、それが僕の役目だ。
 両者が放るモンスターボールからは、それぞれコドラ。そしてオノノクス。オノノクスのような大型ポケモンが出るとはダン達も思っていなかったようだ。
「オノノクスとか本物初めて見た……」
「で、でけぇ」
「ばっ、馬鹿が。いくらポケモンが強そうだからといってそれだけでポケモンバトルは勝てない。行くぜコドラ。まずは嫌な音!」
 爪を立てたコドラが、自らの鋼の体を緩く引っ掻き鼓膜に妙な振動を起こす不快な音を奏でる。
 僕やカズもそうだが、例外なくオノノクスまで思わず耳を塞いでいると、がら空きになったボディ目掛けてコドラの突進がオノノクスの腹部にクリーンヒット。体勢は崩さなかったが後ずさってしまった。
「畳み掛けてやれ。アイアンテール!」
「みっ、右から来るよ、守って!」
 淡い緑の幕がオノノクスの右側だけに張られると、予想通りコドラが体を半回転させて振りかぶったアイアンテールは弾かれ、僅かによろける。カズはその一瞬のスキを逃さなかった。
「ドラゴンクロー!」
 右側に傾いたコドラを押し倒すように、左手でドラゴンクローをアッパーカートのように振り上げ、完全にコドラの重い体が持ち上がった。
 二年ぶりだというのにブランクを感じさせない。こっそり観ていたポケモンバトルの中継が役に立っているのか。その指示に従っているオノノクスも流石だ。
 そして今のように、相手の攻撃がどこからやってくるかに関する読みの上手さがカズの天性の才能だ。行ける、このままならもしかするかもしれない。
「そのままコドラにダメ押――」
 追撃の手筈のはずが、突然カズの指示が止まってしまう。その僅かな時間に、元の体勢に戻ったコドラが指示を待って戸惑うオノノクスに突進を食らわす。
「なんだ? まあいい、決めてやれ。諸刃の頭突き!」
 カズの様子が明らかにおかしい。後ろ姿しか僕のいる場所からは見えないが、手がプルプルと僅かに震えて下を向いている。
 まさか、と嫌な予感しか浮かばなかったが、トラウマをぶり返したのか? 守る、ドラゴンクロー、ダメ押しの三連コンボはカズの伝家の宝刀のはず。
 いや、そういえばカズはダメ押しが外れて土砂崩れが起きたと言っていたような――。
 とにもかくにもっ!
「カズ! 前だ前っ!」
 僕の叫びで我に返ったカズはパッと頭を上げる。ただただ真っ直ぐに猛突してくるコドラの攻撃を回避、防御不可だと判断したのかぶつかる寸前でオノノクスをボールに戻し、ワザをスカしたために急にブレーキをかけて不安定な動作のコドラの真上に、いつの間にか放られていたモンスターボールから新たなポケモンが飛び出していた。
「リーフブレード!」
 閃光と共に現れたジュカインは、高さを駆使して思い切り腕の刃を降り下ろす。コドラは急な攻撃に体を丸める程度しか対処出来ず、ほぼ完全なクリティカルヒットとなった。
「穴を掘る!」
 コドラの背中に着地したばかりのジュカインは間髪入れる暇なく、地中に飛び込むように潜っていく。コドラには地面タイプのワザが有効、良い采配だ。
 ダンもコドラもどこから、どのタイミングで来るのかと探るように辺りを探るが、ダンはやがてモンスターボールを左手に握る。交代させるつもりか。
「今だ!」
 足元から突き上げるようにジュカインが飛び出ると、コドラの体が持ち上がる。それを見てからダンはコドラを急いでモンスターボールに戻す。
 もし今のが最後まで決まっていれば、コドラは受身も取れないだろうからダメージの衝撃もより大きくなり、戦闘不能になっていたかもしれない。惜しい。
 チラと振り返るカズと目があった。やや困り顔になっていたが、僕が笑顔を見せるとカズも表情が柔らかくなった。いいぞ、やってやれ、カズ!
 にしてもダンはさっき構えていたはずの新しいボールを構えていない。どういうつもりなのか、どこにやったのか。
「やれ! 燕返し」
 唐突にジュカインの背後から黒い疾風が飛び出し、襲いかかる。あれはドンカラスだ。いつの間に。
 場に右往左往と目を配らせると、先程ジュカインの居た位置の付近に開かれた状態のモンスターボールが転がっている。
 さっきカズがオノノクスを戻してワザを交わしたテクニックが『チャージドロー』というのに対し、おそらく今彼がやったのは『バックブラスト』だろう。
 チャージドローは相手のワザをギリギリでポケモンを戻すことによって回避し、すぐさま別の角度から放ったポケモンがそのポケモンに攻撃を与える。少しでもポケモンを戻す、放つタイミングがずれて同時に二匹が場に出ている状態になるとシングルバトルでは反則扱いになるため、読みと動体視力、集中力が合わさってこそ出来るテクニック。
 バックブラストはあらかじめモンスターボールの開閉スイッチを緩め、何らかの手段でフィールドのどこかにボールを転がし、トレーナーの合図でポケモンが自分からボールから飛び出して相手の背後等を取るテクニックだ。モンスターボールが回収しづらいため入れ替えが出来なくなるケースの多い、捨て身の策。ダンはそこまでしてでも勝利をもぎ取りに来たということだ。おそらくジュカインが穴を掘ったときには決めていたのだろう。
 奇襲を取られ、完全に後手に回ってドンカラスの猛攻をなんとか避け、時には受け流して退けているジュカイン。だけどこのままじゃあ分が悪過ぎる。
「戻れ、ジュカイン」
「そのタイミングを待ってた! 追い討ちだ!」
 ジュカインがモンスターボールに戻される速度より早く回り込んだドンカラスが、翼を一振りしてジュカインを横に弾き飛ばす。投げられたサイコロのように転がったジュカインをもう一度戻そうとするカズだが、モンスターボールとジュカインの直線上の間にドンカラスが割り込んだせいで戻すことが出来ない。
「そう好きにはさせねぇよ。騙し討ちだ」
「あ、穴を掘って回避!」
 間一髪、ドンカラスのトドメになりうるかもしれない攻撃をなんとかかわしたジュカインは地中を伝ってカズの前方に戻り、ドンカラスと向かい合う。ドンカラスは何度か有効打をジュカインに決めているのに対し、ジュカインの方は一度シザークロスを決め、リーフブレードをかすらせるのが精一杯。
 いくらカズが(感じさせないとはいえ)ブランクなどを背負っているとはいえ、このダンという彼も相当だ。
 休む暇なく繰り広げられていたバトルに、手汗が止まらない。いつの間にやらバトルを嗅ぎ付けた野次馬も、黙って緊張の一戦に見入っていた。
「おい、あのちっこい方の坊主、ピンチなのに笑ってるぞ」
 観客の一人の声につられてカズの横顔をなんとか臨めば、ぎらついた目に笑う口元。
 やっぱり、カズはバトルをしている方が輝いてる。このジュカインを上手く扱っているサマを見れば、まるでヒロ君がそこにいるような……。
 そうか。ヒロ君は生きている。死んじゃいない。カズのあのバトルの中に、ヒロ君がいる。
 今のカズの姿こそがそれを証明している。カズもきっとそれをいつの間にか戦いの最中で気付いたんだ。ヒロ君はきっとカズと共に戦ってる。
 もう、トラウマを乗り越え最大の味方を見つけたカズに怖いものはない。
「今なら降参を認めてやるぜ。もうあと一撃でも食らえば倒れそうなジュカイン。だけどこの俺のドンカラスはまだ余裕。追い討ちがある限り交代はさせないし、元より草タイプに飛行タイプをぶつけている時点で俺が一つアドバンテージだ」
「……降参なんてしない。一つディスアドバンテージを背負っても、僕は君より二つアドバンテージがある!」
「何をぉ! トドメだ、騙し討ち!」
「フェンスに向かって走って」
 追いかけてくるドンカラスから逃れるように、バトルエリアを囲むフェンスにかけよるジュカイン。だけど端によれば端に行くだけ動ける範囲が狭まって不利になるはず、なぜそんなことを。
「僕のアドバンテージの一つは地の利だ! 三角飛びでドンカラスの背後を取って」
 フェンスに向かって跳んだジュカインは、フェンスを強く蹴ってその反動でドンカラスの背後に回る。対象を急に見失ったドンカラスはなんとか反撃を回避しようとするが、ワンテンポ遅かった。
「そして、もう一つは勇気だ!」
 打ち合わせや合図無くしても、阿吽の呼吸でジュカインがドンカラスにアクロバットを叩き込む。弾かれてすぐそばのフェンスに叩かれるようにぶつかり、予想以上にダメージが大きかったのか、目を回したドンカラスはそのまま力を失った。
「ば、馬鹿な……」
『ドンカラス戦闘不能。勝者は青コーナー』
「やった!」
 ついつい僕が大声で歓喜を口にすると、観客達がカズに。そして健闘したダンに向けて拍手を贈る。
 バックブラストでフィールドに転がしていたボールを拾い、ドンカラスを戻したダンは俯いたままカズに近付き、被っていたエースキャップをカズに返す。
「……悪かった」
 小さくそう言ったダンは踵を返そうとしたが、それよりも先に帽子を被り直したカズが右手を差し伸べた。
 首を傾げるダンに、カズは喜色満面で言う。
「握手」
「あ、あぁ」
 カズの細い手に、ダンの黒い手が交わると、ダンは苦笑いしながらもどこか嬉しそうな表情を見せていた。



「じゃあ行ってくる!」
「どこにさ」
「ダン君達と七丁目でやってる団体戦に出るんだ」
「そっか。それはいいけど今日は世界大会マルチバトルの決勝だぞ?」
「それまでには帰ってくるから。行ってきまーす」
 朝からバタバタと騒がしい光景を見せつけられ、いささか参るもののどこか嬉しいような。
「カズ、昨日から急に元気になったと思ったら、いつの間にやらまたバトルとか言い出して。ねぇ、一体昨日何があったの?」
 洗濯物を干し終えた母さんが、嬉しいようなめんどくさいような息を吐いて僕に尋ねる。
 何があった、一言で片付けるのは難しい。でも間違いなく言えることはある。
「カズがまた、未来に向かって走り出したんだ」
「はい? ちょっとどういうことなの?」
「僕も出掛けてくる」
「あ、待ちなさいって!」
 面倒な詰問を避けようと、慌てる母さんを振り切って家を出る。どこに行こうかなんてわからない。カズの応援に行ってやってもいいし、友達の家に行ってもいい。買い物に行ってもいいし、冒険に行ってもいい。
 どんなに不器用で、たまに道を間違ったり踏み外したりして何度転んでも、きっと必ず立ち上がれる。また走り出せる。
 何日何ヵ月何年迷っても、信じるものがある限りきっと光は見えてくる。
 どこまでも続く未来は、一人で閉じたりなんてしないから。
 さあ、今日はどうしよう。
 僕達の夏はまだまだ終わらない。
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