> ばいばい、 作:¥0
ばいばい、 作:¥0
 遠くの方から、僕の名前を呼ぶ小さな声が聞こえる。
 気のせいだったのかもしれない。あまりに小さな声だったから。けれど僕はその声に引かれるように空を泳ぐ。太陽がまばゆく光り、空はこれ以上無い程鮮やかに青い。どこまでも突きぬけていきそうだ。爽やかで、心を強く叩くその青の下を僕は真っ直ぐ飛んでいく。嗚呼、何と気持ちの良い飛行だろうか。飛ぶことで風を受けるこの感覚は慣れたものだが、いつもより冷たく身体中に少し痛いほど突き刺さる。それがなんとも心地良い。こんな高い位置で僕は未だかつて飛んだことがない。何しろ辺りに散っている真っ白い雲さえ掴めてしまいそうな高さなのだ。下に視線を落としてみると、世界の小ささに感嘆の溜息すら零れそうになる。気分は膨らみ高揚し、少しだけくるりと回ってみたりしながら、方向は変えずに突き進んだ。
 こんな上空に僕以外の誰かがいるはずもなく、少し身体を前に傾けて下降体勢に入る。
 また耳に一つ紡がれた声が聞こえてきた。――いや、声じゃない。これは音だ、鐘の音だ。静寂の広がる中で遠方の空にまで突き抜ける、優しく強く洗練された音。幾度も幾度も鳴り響き、その度に僕の心は静かに洗われる。遥かなる空に心が躍ったが、それをそっと撫でるように静めていく。初めて聞いた音なのにどこか懐かしく胸が締め付けられる。
 少し目下の景色が細やかに分かるようになってきた頃、一際高い真っ白な塔が目に止まった。それこそ空に突き抜けんばかりの高さだ。一層大きくなる音を耳に入れる。間違いない、音はあの塔からやってきてる。そうと分かった途端に僕は大きく広げていた翼を少し畳んでスピードをあげる。受ける風が一層強くなる。
 更に塔に近づく。塔の上に視線を向けてみると、そこに誰かいることがようやく確認できた。女の子がいる。その正面にある鐘を鳴らしている。
 あの女の子は僕の知っている人だ。根拠は無いけど反射的に分かった。鐘がまた一つ鳴る。一層分厚い波動となって音は僕にかかり、世界中の隅まで届けとばかりに響き渡る。
 僕はだんだんとブレーキをかけていき、そのうちに停止する。ぎりぎり女の子の様子が分かるほどの距離がある。そして鐘の創り出す世界に浸り彼女の表情を上空から伺おうとする。けれど彼女は俯いていて顔色など全く分からない。僕は気になって更に近づく。あっという間に飛んでいき、一分もしないうちに彼女の隣にまでやってきていた。ゆっくりと羽ばたいて床に久々に足を下ろすと、改めて彼女の顔を見た。瞬間、僕は息を呑んだ。
 涙が一滴二滴と頬から零れ落ちている。
 大きな目は充血していて、鼻水も少しだけ覗いている。けれど僕の存在にまるで気付いていないのか、気にする様子は全く無い。拭こうともせずに嗚咽を数回しゃくりあげる。ショートカットの黒色の髪は少し強い風に流れる。青を基調とした軽やかな服装は爽やかだけれど、元気娘を彷彿させるような見た目とは裏腹になんと暗く哀しい表情をしているのだろう。
 僕は彼女の少しずつ変わる皺の動きさえも目に焼き付けんとばかりに凝視していた。その時、ふっと脳裏に記憶が走り込んでくる。僕の物心がついた頃から今の瞬間までの道がモノクロでまず甦り、すぐに一気に朝日に照らされたように色づいて映像となる。たくさんの思い出が眩く光る。僕の視線で描かれたスケッチブックの上にはいくつもの笑顔があって、それらの多くは今目の前に居る人と重なっている。ああ、君はやっぱり僕の知っている人。無限に奥まで続いていく大空よりも、好物のチーゴの実よりも、今迄会ってきた人全員よりも、誰よりも何よりも大切なひと。
 風が大きく吹いてきて、短い彼女の髪もなびく。垂れていた前髪が払われておでこが露わになり、泣き顔が太陽に照らされる。僕はふと彼女の足元に視線を落とすと、乾いているはずの床に大きな円を描いたしみができていた。
 もう一度彼女の顔を見る。
 ねえ、気付いて。
 僕は君の隣に、いつものように君の隣にいるよ。
 鐘の声が僕を叩く。それは、君の声が遠い空には聞こえないから代わりのように僕を呼んだ声だったんじゃないかと思う。そして思わず戻ってきてしまったんだ、懐かしさに惹かれて。
「ヒナ」
 彼女の口から僅かな声が出てきたのを僕は聞き逃さなかった。本当に懐かしい、最後にそうやって呼ばれたのはいつ頃だったのだろう。はっきりと思い出すことはできないけれど、今彼女が僕の名前を呼んだという事実が今はかけがえのないくらい大切なこと。単純だと思う、こんなことだけで嬉しくなるだなんて。でも同時に哀しくなる。僕は試しに彼女の名前も呼んでみた。ああやっぱり気付く様子は欠片ほども無い。胸が苦しくなるけれど心臓の鼓動は自分でも分からない。分からないのでは無くて、心臓はすでに息をしていないのだ。
 僕はもう、彼女と全く同じ世界にはいない。
 僕が高い空を飛んだことないのはずっと彼女と共に旅をしていたからだ。陸を歩く彼女の傍を離れないようにしていた。今、こんな風に死に別れることで彼女の元から解き放たれた。見た事の無いような空の世界に心は存分に踊ったけれど、その要因は彼女から離れたからだったんだ。僕の身は軽くなって自由を手に入れた。自由という言葉の響きは妙に心地良いのに、その代償を考えると皮肉に思える。
 記憶を呼び起こしてみると、僕はどうも病死だったようだ。何度も嘔吐し、決して下がらない高熱に押し込まれていたら、いつの間にかもう飛べないと思っていた空を飛んでいた。解放感に満ちた飛行の舞台はこれ以上のものは無いほど楽しかった。全く何も知らずに何も思い出せずに、お気楽なものだ。
 いつの間にやらもう大分鐘の音は小さくなっていた。美しくしんみりとした重い余韻が上空に残っている。いつ音が本当に消えてしまったのかあやふやなのは静寂の中で僕の心に響き続けているからだろう。

 カナ。

 僕はもう一度名前を呼んだ。
 その時横風が僕の背後から吹いてきた。偶然にしてはできすぎている風がやってきて、彼女は初めて大きく首を回すと風の在り処を探るように僕の方を見た。
 久方ぶりに真正面から彼女の顔を見る。その視界に僕の姿は決して入っていないと分かっているけれど、まるで僕の存在に気がついてくれたように思えて身を硬直させる。本当に涙が溢れていてぐしゃぐしゃでひどい顔だった。可愛い顔が台無しだなんてくさい台詞だけれどそれがぴったりとパズルのように当てはまっている。お願いだ、泣かないで。色んな人を明るくさせる力がある君の笑った顔も戦いに負けて悔しい顔も仲良くなった人と別れる時の寂しい顔も全部僕は知っているけれど、やっぱり笑顔が一番なんだ。僕だけの記憶のスケッチブックの最後のページに泣き顔を描くことになるなんて、そんなのちょっとあんまりだよ。曲の一番最初と一番最後が同じ音で締めくくるように僕は色を塗りたいんだ。
 彼女はしばらく呆然と空を見つめていた。
 ふと彼女は目を瞑り、白いショルダーバッグからピンク色の彼女お気に入りのタオルを取り出す。それに顔を埋めると鼻をかむ音が聞こえてきた。荘厳な雰囲気とはまるでかけ離れている。また顔を再び現すと、涙は拭かれて鼻水は除かれ少しだけ綺麗になった。
「ヒナ」
 その声はまた今にも涙が出てきそうだ。僕は一歩彼女に近づいた。その額に僕の額を合わせて彼女の体温を感じたい。強くそれを願うのにもう叶わない。なんで病気になってしまったのだろう。僕以外の仲間は皆生きているのにどうして僕だけ? どうして仲間内の誰よりも長く一緒にいる僕が一番最初に死んでしまったのさ。運命の悪戯というのは随分と意地悪だな。
 彼女は数歩踏み出した。もう動きを止めてしまった鐘に触れる。鐘は彼女の華奢な身体には重たいだろう、それをゆっくりとひいて、少しだけ震えながら鐘を前方に押し出した。向こう側へ鐘が放られた時、はっと目覚めるような音が大きく鳴り響いた。今までで一番大きく一番僕の中に響いた。繰り返す音の波が揺れる僕を落ち着かせる。何故だろう、この音は魔法のように僕を引きこんで離さない。荘重な鐘本体の音を彼女の優しさが包み込んで僕を抱く。
「ヒナ……ありがとう」
 鐘の音の中で彼女の声ははっきりと聞こえた。
 もう一度タオルに顔をうずめて今度は先程よりずっと長く固まっていた。小さくなっていく嗚咽。鼻をかむ勢いも弱まってくる。少しずつでも彼女の心は落ち着いてきているんだろう。
 ありがとうだなんて、僕の台詞だよ。僕はそんなに強くなかったけど決して僕を手持ちから外そうとしなかったね。今迄君の隣にいることは当たり前だったのに、今はこうして隣に居ることは不思議なことに感じられるんだ。できるならこれからも共に旅をしていたいけど、でも分かったんだ。君がこの鐘を鳴らしたのは、僕を呼び戻す為じゃ無くて、僕の心を癒すためなんだろう? 証拠に僕の気持ちは哀しいけれど不思議なほどに落ち着いている。もう君の元から離れる決意はできたさ。今度はもっと高いところまで行くんだ。空を突きぬけ、無限の宇宙へと飛びだして小さな星となろう。僕は宇宙と一つになって、君の旅を見守ることにするよ。そんな決心はついたけれど、やっぱりちょっと寂しいんだ。だから再び羽ばたくことを躊躇ってしまう。
 彼女はタオルを折りたたみ鞄に無理矢理詰め込むと顔を上げ、太陽を見た。どこまでも青い空から風がやってくる。風は彼女の頬にある涙の跡を乾かす。
「ありがとう、もう、大丈夫だから」
 さっきよりもずっとはっきりと言い放った。
 鐘が鳴るのを止め、余韻に浸った後に彼女はちょっと哀しそうに微笑んで鐘に背を向けた。
 僕に向けられた君からの言葉は僕の中にしんと沁み込む。深く深く、どこまでも深く。きっとすぐに彼女はまた笑ってくれる。もう前を向いて進み始めたから。それをまた見る前に僕は行くことにしよう。スケッチブックの最後のページには君が僕に向けて送った言葉と鐘の音を描こう。最後には抽象画というのも良いかもしれないよ。君が僕にくれた最後の贈り物なんだから、ここで幕を引こう。
 彼女の足音はどんどん遠くなっていき、階段を降りていくと遂に姿は見えなくなった。
 少し溜息を吐くと、僕は大きな翼を広げた。未だに僕の耳には鐘の音が響いている。これからもずっと消えることなく、余韻として響き続けるだろう。
 ゆっくりと羽ばたき始める。地上から足が離れた。さあ、もう一度空へ向かおう。見た事の無い高みへ自由の証としてどこまでも。どんなに遠くにいこうと僕から彼女の姿が離れることは無い。だから、もう何も怖くないよ。
 真っ白な塔を後にし、僕は太陽が待っている遥か上空へと飛び立った。

 ありがとう、僕ももう大丈夫だよ。君が僕の背中を押してくれたから、もう大丈夫なんだ。
 ばいばい、カナ。
 大好きだよ。
 
> Once Again Sound of That Bell... 〜 あの鐘をもう一度…… 〜 作:月光
Once Again Sound of That Bell... 〜 あの鐘をもう一度…… 〜 作:月光
 タワーオブヘブン……フキヨセシティから若干北東に位置し、そこには大量のポケモンたちがその生涯を終えて安らかに眠りに付いている。
 あの鐘の音はガラス細工同士で叩き合ったかのようなとても澄んでいる音を放ち、子どもの頃に聞く度聴く度、遊んでいる最中だと言うのによく聞き入ってしまっていた。
 かつてはそんなガキだった俺は今、そのタワーオブヘブンの屋上にいる。
 俺が……『あいつ』が……大好きだったこの鐘を打ち鳴らすために、この右手でロープを握りながら……





 そんなフキヨセシティを俺が飛び出したのは二年前、切っ掛けは他の人からしたら些細なことかもしれないが、俺にとっては重要なことだ。
 現在タワーオブヘブンは墓地が増え過ぎたため場所が無くなってしまい、北東に数十キロ離れた場所にタワーオブヘブンのの数倍の大きさを持つセカンドタワーオブヘブンが建設された。
 元々墓地なのだからそれ自体別にどうでもいいのだが、二つ目のタワーオブヘブンの屋上には鐘が設置されておらず、代わりに幻のポケモンの銅像が建っているだけ。
 さらにタワーオブヘブンの管理が行き届いて無かったためか次第に強力なゴーストタイプのポケモンが蔓延りだし、建物自体の耐久性は問題は今のところ無いが、イッシュの中でも高ランクの危険スポットになっている。
 たった十数年の間にタワーオブヘブンの鐘の音は失われ、現在ではその鐘の音を聞くことはほとんどない。
 数年前まではチャンピオンであったアデクと言う人物が一年に一度鐘の音を鳴らしていたのだが、新しいチャンピオンはそのようなことはしていない。
 だからと言ってそのチャンピオンを恨んだり、憤りを感じたいはしない。俺はガキじゃないからな。

 二年前、フキヨセを飛び出し旅に出て、俺はイッシュの様々な景色と出会い、多くの人と出会い、多くのポケモンと出会った。
 最初は『あいつ』のために飛び出したのだが、結果的に俺の人生はかなり充実した。
 そう、『あいつ』こそが俺が二年前にフキヨセシティを飛び出し、長い旅に出て、そして再びここに戻って来た俺だけの些細な理由。
 現在のタワーオブヘブンはその危険難易度の関係からポケモンリーグで上位の成績を収めたトレーナーしか入ることが許されず、仮に好成績を収めてもこんな辺鄙なところにわざわざ来る人なんて皆無だ。
 だから俺は旅に出てポケモンリーグに出場し、ベストスリーになってタワーオブヘブンに入ることが認められるだけの実力を身に付けた。
 一年目はベストエイト入りどころか初戦で敗退してしまったが、その時の経験を糧として二年目はこの結果。
 俺はただ『あいつ』に聞かせてやりたかったんだ。俺にとって大切な存在である『あいつ』が、昔から大好きだった……タワーオブヘブンのあの鐘を。

 フキヨセシティについた俺はまず花屋へと向かって花を買って、その後で地元から少し離れたスーパーで『あいつ』が大好きだったメロンを買ってやった。
 地元の人間が普段無意識に思っている以上に地元は狭い上にネットワークが強い、これも旅をしていて行く先行く先で感じたこと。
 これからサプライズをプレゼントしようって言うのに地元で買ったんじゃ俺が病院に着くよりも早くあいつの耳に入ってしまう可能性があった、今日は『あいつ』の誕生日でもあるから下手は打てない。
 ポケモンリーグからフキヨセシティはかなり離れているが、俺はかなり無茶振りをして何とか間に合うよう三日で帰って来た。
 走りたい気持ちを抑えながら病院の廊下を落ち着いたようにみせて歩きながら『あいつ』の部屋のドアを開けた時、『あいつ』は……

 ……もういなかった



 病院の人に聞いたところ、『あいつ』は三日前に息を引き取ったらしい。
 そう、俺が連絡した時はまだ顔色も良くて笑っていたのに、その後すぐに体調を崩して、そのまま死んでしまったのだとか。
 持っていた花も果物もどこに置いたか落したか知らないが持って無かった俺は、電話する時間も惜しくて自分の家に向かって走った。
 本来なら帰って来た俺を歓迎でもしてくれる場面かもしれないが、待っていたのはただただ悲しい空気。
 『あいつ』の葬式は次の日に行われた。本来ならさらに三日後に行われる予定だったのだが俺が帰ってきたから予定が早まった。
 現実的な話になるが、遺体の保管というのはかなりお金がかかるため少しでも早く葬式をした方が生きている人間にとっても死者に取っても良いことなんだろう。
 多分俺は泣いていたのだと思う。『あいつ』にもう会えないことが悲しいのか……それとも、『あいつ』の願いを叶えられなかった俺自に絶望を感じているからか。
 恐らくは、両方だろうな。

 全ては滞りなく終わりを迎え、俺は三日間ほど何をしたのか覚えておらず、ただ上の空で日々を過ごしていた。
 俺は現実を受け入れられずにいたのだと思う。誰だってそうだと思わないか。三日前まで電話越しでとはいえ笑って話していた奴が、帰って来たらい無くなってるなんて。
 ふらふらな足取りで歩き続けていた俺は、気が付いたら『あいつ』の部屋に来ていた。
 まだ本格的に片付けられていない『あいつ』の部屋はとても綺麗で、きっといつ帰って来てもいいように掃除されていたのだろう。
 病院にあった『あいつ』の私物はそれほど多くなかったため一緒に火葬されなかった物以外は机の上にまとめられており、俺はおもむろにおいてあった日記を手に取った。
 三年分は書くことができるほど馬鹿でかい日記帳、元々余り力が無かった『あいつ』が持つにしてはかなり不釣り合い。
 俺は最初から読んだ。三分の二がしっかりと書き込まれた、『あいつ』の日記を。

 そこに綴られていたのは、小説や漫画のキャラのように気丈な主人公の様なものではない。
 時には嬉しいことを、時には悲しいことを、その日に起こった何でも無いことを、まるで一つ一つを特別なものであるかのように書き込んでいる普通の日記。
 泣いたときもあったのか自分の未来を書く時のあいつのページは滲んでいて、悲しいことだけどそんな『あいつ』の姿が頭に鮮明に浮かんだ。
 読んでいて気付いた。俺は『あいつ』の気持ちを分かってやっているつもりでいて、かなり思い違いをしていたんだ。
 俺はタワーオブヘブンの鐘を鳴らすことが『あいつ』の願いだと思ってひたすら頑張って、『あいつ』にまた笑ってほしくて必死に旅をしていた。
 この行動はもちろん俺自身の気持ちを起点に動いたものだったが、『あいつ』の利己的な願いもあると思っていた。
 だが『あいつ』は、『あいつ』は心のどこかで『あいつ』に依存していた俺のことを心配していた。『あいつ』の方が辛い思いをしているのに、それでも俺を気に掛けていた。
 『あいつ』がいなくなっても俺が自分の足で歩み続けられるよう、『あいつ』がいなくなっても大丈夫なように……

 なんだか、とても申し訳ない気持ちでいっぱいになった

 今さらながら涙が流れて来た。
 俺は……『あいつ』のために何をしてやれていたのだろうか?
 日記を見ている限り、『あいつ』は俺が活躍するのを喜んで、俺が旅の話を聞かせてやるのを楽しみにしていてくれていたみたいだ。
 だから何だ? 結局俺は『あいつ』に助けられっぱなしで何一つ返すことが出来ずに『あいつ』は逝ってしまった。
 目頭が熱い。ページをめくりながら俺は嗚咽を漏らして、申し訳ないが日記を汚してしまった。あっち行ったら『あいつ』には謝らないといけない。
 俺は『あいつ』がどんな気持ちで日記を書いていたのか想像しながら読み、読む度に小さく笑ったり、また泣いたり。

 何時間が経っただろう。
 『あいつ』の部屋の時計を見ると日時が一年半前で止まっていた。
 どうして『あいつ』の時間は止めてやることが出来なかったのか……時間さえ止まれば、『あいつ』はまだ生きていたのに。
 体感覚が信用できないので携帯電話を取り出して時間を確かめると、大凡三時間。
 結局俺は何がしたかったのだろう。三時間ただ日記読んでしかもかなりページ汚して、俺が『あいつ』にしてやれたことなんて……
 最後のページを読んだ。それと同時に、日記を握り締めて俺は走り出した。
 俺が『あいつ』にしてやれたことが、してやれることが無い……だって?
 昔からそうだったがどうも俺はネガティブで悲観的な面があって、『あいつ』に心配ばかりかけていた。
 安心しろ。お前の願いは、絶対に届かせる。



 家を飛び出した俺はウォーグルの背中に乗って北東に向かい、数十分後にようやく目的地に辿り着いた。
 タワーオブヘブン……入口にはポケモン協会専属の警備兵がいて止められそうになったが、先日のポケモンリーグでベストスリー入りを果たした証であるブロンズライセンスを叩きつけてやった。
 強行突破することもできたが荒事はあまり好きではないし、こんなところで問題を起こしていたんじゃ『あいつ』に顔向けできない。
 入ると同時に重苦しい空気と負の感情が一気に俺の中に流れ込み、確かにこれは普通のトレーナーが入ることが出来るような状態ではないのがすぐに分かった。
 鐘を鳴らすだけなら屋上から近づけば……とも考えたが上空に行けばいくほど風が強固になり、ゴーストタイプのポケモンが容赦なく襲って来るのだ。あいつら身体が無いから強風があまり関係無いらしい。
 とは言え立ち止まるわけにはいかず、時間が勿体無いのでウォーグルとペンドラーとダイケンキのトリプル形式で一気に屋上を目指す。
 確かに強い野生のポケモンではあるがポケモンリーグでベストスリーに入った俺からすれば所詮は野生、うぬぼれるわけではないが大会で戦った相手の方が遥かに強い。

 戦って戦って……一時間後、ようやく俺は屋上への階段を登り切った。
 不思議な光景だった。タワーの中も外もゴーストポケモンたちで跋扈していたのに、この屋上だけはまるで台風の中心の様な穏やかさを感じるのだ。
 周りを見ればゴーストポケモンたちがタワーを取り囲んでいるのが見えるが、まるで見えない壁に阻まれているかのように屋上の俺を襲って来れないでいる。
 いや、襲って来れないのではない。俺の感はよく外れるが、多分これは間違っていない。
 彼らは待っているのだ……俺がこの鐘を鳴らすのを、それが俺の事情を酌んでくれたからなのか彼らの事情からなのかは考えるまでも無いことだ。
 俺はポケモンたちをボールに戻し、ゴーストポケモンたちに見守られながら一歩一歩鐘へと近づき、ロープを手に取った。






 俺はリュックから日記を取り出し、もう一度最後のページを確認する。
 確かに旅に出ることや『あいつ』に依存しないで俺がこの先もやっていけるように配慮してくれたのは、俺のことを心配してくれた『あいつ』の優しさだ。
 だが最後のページになってようやくみせてくれた。
 最初から分かっていた、だけど俺の旅の口実だと決めつけちまっていた、利己的な『あいつ』の願い……

『もう一度、一度だけでいい……あの鐘の音を聞きたい。できるなら、一緒に……』

 セカンドタワーオブヘブンはその広さからポケモンだけではなく人の墓地があり、当然『あいつ』の墓地もある。
 天国まで届くと言われるタワーオブヘブンの鐘なら、高々数十キロの距離なんてあってないようなものだ。
 大丈夫さ。一緒に聞ける。出来ないわけないさ。ここをどこだと思ってる。天国へすら続く、タワーオブヘブンなんだぞ。



 安心しろ……

 俺はもう『お前』がいないと何もできないような奴じゃない……

 『お前』のおかげで道は見えた……

 だから……これ以上心配してくれなくて大丈夫だ……

 ゆっくりと眠ってさ、待っててくれよ……



 長年整備されて無かったが、ぶっ壊れるんじゃないかと思うぐらいに俺は思い切りタワーのロープを引っ張り、鐘が鈍くゆっくりと動き出す。
 そして聞こえた来た。昔と何一つ変わることが無い、心の底から感動を覚えるほど澄み切った、あの鐘の音色。
 美し過ぎる鐘の音……まるで数時間もそこにいたような気持ちになりながら最後まで俺はその音色に耳を傾け、全てが終わり、息をついた。
 これで『あいつ』の願いは叶ったのだろうか。ちゃんと聞いていてくれただろうか。心配だが、俺が出来ることはこれで全て。

 帰ろう――そう思い踵を返し、俺は階段へ差し掛かると同時にもう一度だけ、あの美しい鐘を見る。
 別に何か思うところがあったわけではないが、もしかしたら……もしかしたら『あいつ』がいたりしないかとも思ったのだが、やっぱり何も無い。
 当たり前過ぎて、また現実的な気分に引き戻された感じだ。
 感動的な小説やゲームならここで『あいつ』の声が聞こえて来るんだろうけど、現実は現実、死人に口無し。
 だけどそれでいい。態々天国からこんなところまであいつに降りて来てもらっちゃ疲れさせてしまう。
 それにこう言ってはなんだが先ほどから誰かに見られている気がしてならないわけで、仮に『あいつ』だったとしてもそう言ったホラー現象は俺はちょっとパス。怖くて仕方ないから。
 付け加えて先ほど鐘の方を振り向いたとき誰かがいたような気がしたのだが、それも仮に『あいつ』だったとしてもパス。何度も言うがホラーは苦手だ。
 
 もう一度ここで振り向いたらなんか俺もまで天国に連れて行かれそうな悪寒がする。
 いかんいかんホラーゲームみたいになって来た。とは言えこのまま納得せず帰ると言うのも俺の心が納得しないし、『あいつ』に申し訳が立たない。
 なけなしの勇気を振り絞って俺が思い切って後ろを振り向くと……当たり前だが、誰もいなかった。
 安堵の溜息をついて正面を振り向くと……当然だが誰もいねーよ。
 そもそも何を考えてるんだ俺は。『あいつ』が悪霊にでもなって出て来ると思ったのか? 『あいつ』がそんな奴じゃないってのはよく分かってるだろうが。
 馬鹿馬鹿しい。疲れたから帰って寝よう。
 だけどもし俺に見えないだけでお前が見てるってんなら、さっきも言ったが安心してくれ。



 来年も再来年も、必ず鳴らしてやる……あの、鐘の音を……
 
> 鐘の唄 作:夜月光介
鐘の唄 作:夜月光介
 歳の頃は15か16と言った所だろうか。1人の青年がタワーオブヘブンを訪れていた。
 慣れた手つきで自転車に鍵をかけ、入り口の方へと目を向ける。
「もう5年になるのか……」
 彼は誰に言うでもなくそう呟くと、照りつける太陽が眩しい青空を見上げた。

 5年前に自分のパートナーであるポケモンを失ってから、彼は自分がポケモントレーナーである事を放棄していた。
 自分の相棒がいないまま戦いを続ける事に対する虚無感が彼を包み込み、我慢できなくなった彼は普通に働く道を選ぶ事になる。
 そして1年に1度はこの場所を訪れ、相棒の冥福を祈る事にしているのだった。
 (ポケモンの寿命は人間より遥かに長い。だが死は必ず訪れる)
 祖父の代から受け継がれてきたパートナーであったポケモンも、当時からあまり体調は優れていなかった。

「エリア、あまり無理しないでいいぞ。お前にもしもの事があったら大変だ」
『いいえ、マスターの為に……私最後まで頑張りたいんです。自分でも、そんなに長くない事は解っていますから。
 それでもマスターの祖父の代から私は忠義を貫いてきました。戦って恩を返す事が私の全てです!』
 見た目は歳を取らないポケモンも、ゆっくりと体は蝕まれ、遂には驚異的な回復力も失ってしまう。
 彼の相棒であるサーナイトも例外では無かった。初めて彼が父親から受け継いだ8歳の頃はまだ治癒力がそこまで鈍くなかったが、
2年後には頻繁に息を切らす様になり、最終的には息を引き取ってしまった。
 (アイツは丁度人間で言えば150年以上は生きた事になるだろう……俺の祖父がまだ子供だった頃からパートナーとして活躍し、
親父も世話になった……祖父が捕まえた時には既にサーナイトだったそうだから、その時から結構歳だった事になるかな)
 青年は洞窟の様に冷えている建物の中へと足を踏み入れた。初夏の日差しが照りつけているにも関わらずこの場所は魂が集う場所の為、
1年中ひんやりとした空気が漂っている。青年は3階にある相棒の墓に手を合わせる為階段を上がっていった。

 どの階もポケモンの墓が立ち並ぶ部屋となっており、深い海の色をしている壁が安らかに眠ってくれと願っている様にも思える。
 青年は迷う事無く自分の相棒の墓の前に立つと手を合わせ祈りを捧げた。
 (お前の為に出来る事は、もう俺の為に生きて俺の為に死ぬ……そんな関係をポケモンに強要しない事だけだった。
 だから捨てたよ……トレーナーとしての道を。もう失う事に怯えるのが嫌なんだ。ゆっくり休んでくれよな……)
 花を供え、線香に火を付け柄杓で墓に水をかける。それぞれの行程を静かに、噛み締める様に行なうと青年はこの下に眠っている友の事を想った。
「貴方も、大切な人を失ったんですか?」
 不意に声をかけられ振り向くと、そこには肩まで伸びた長い黒髪を持つ女性が立っていた。
「ええ。もう亡くなってから5年になります」
「そうですか……お互い、相手を失うと言う事は辛いものですね」
 女性は暫く俯いていたが、もう一度青年の顔を見据えて手招きをした。
「私はアリア。タワーオブヘブンに大切な人がいるワケではありませんが、あの場所で鐘を鳴らしたくなったんです。
 貴方も一緒に来てみませんか?」
 青年は屋上にある鐘の事は知っていたが、実際に登って形を確認した事は無かった。
 そのまま彼女と共に階段を上がり、屋上に到着する。爽やかな風が頬に当たった。
「随分と良い風が吹いてますね」
「……私は人生のパートナーを失いました。人間もポケモンも、魂は同じ様に彷徨い続けるのでしょうか?
 人が、そしてポケモンが死んだ後の事なんてそれまで全く考えた事が無かったのですが……」
 アリアと名乗った女性は彼女の背丈程もある大きな鐘に手を触れた。
「貴方は……ポケモンが死んだ後の世界はあると思いますか?」
「さぁ……どうなんでしょうね。俺は俺に出来る事をやるだけですよ。あいつの為にしてやれる事と言ったらこうしてこの場所に来て、祈ってやる事位しか出来ませんが」
 かつての自分のパートナーと似た名前を持つ女性を見つめながら、彼はゆっくりと鐘の方へ近付いていく。
 そして2人で同時に鐘に手をかけ、ブランコの要領で勢い良く鐘を動かし美しい音色を響かせた。

 澄んだ鐘の音が辺り一帯に響き渡る。それはまるで誰かを送り出す様な、葬送曲の旋律の様に感じられた。
「綺麗な音ですね……」
「でも、何処かとても哀しい音色の様な気がします」
 青年はその音が止むまでじっと目を瞑り、耳をすませている様だった。
「そういえば、貴方の御名前を聞いていませんでしたね」
「ええ、自己紹介が遅れましたね。俺はシュウと言います。フキヨセの方で航空貨物の運搬をやってるんですが、忙しい時が一番楽ですね……
 嫌な事を思い出さなくて済みますから。忘れちゃいけない事ですけど、気が滅入る時の方が多いんで」
「近くに住んでいらっしゃったんですね。私はソウリュウから来ました。彼の墓は街にあるんですが、この鐘の音が気になって」
 2人はそれぞれの思い出に耽り、沈黙を続けていたがやがてどちらとも無く歩き始めた。

 入り口から外に出ると、再び太陽が眩しい青空が広がる。青年は自転車に跨ると、女性に別れの挨拶をした。
「また何時か、機会があれば」
「ええ、私もまたこっちに来る事があるかもしれません。その時には街の方にも出向いてみようと思っています」
 一期一会の出会いならば、別れに対して辛い事はあまり無い。しかし青年は今生の別れを経験している。
 その辛さは時が経つにつれてどんどんと大きくなっていくものだった。
 (時が忘れさせてくれるだなんて、嘘だよな……忘れるワケが無いじゃないか)
 自宅へと急ぐ彼の耳に、また美しい鐘の音が聞こえてくる。

 人の哀しみの数だけ、鐘の音は聞こえてくるのだろう。今日もまた、大切な相手を失った者達が鐘を鳴らすのだ。
 
> 無音の世界 作:風見鶏
無音の世界 作:風見鶏
 ココハ タワーオブヘブン……
 タマシイガ ネムル バショ……



 俺がタワーオブヘブンを訪れたとき、一階にいた警備員が機械のようにそう告げた。昔の話だ。機械というよりは、人間という殻の中に何か得体のしれない存在が乗り移ったふうだったかもしれない。そいつを見た瞬間、俺はタワーオブヘブンとはこういうものか、と思ったものだ。
 薄暗くて気味の悪い場所だというのに、この場所は魂を鎮めるための場所だという。なんでも頂上の鐘がそうした力を持っているのだそうだ。フキヨセのジムリーダー、フウロが言うことには、鳴らす人の心根が音色に反映されるのだとか。それはおもしろいと思った俺はすぐさまに行動を起こした。
 鳴らしてみてもいいだろうか、その申し出にフウロは快諾した。
 おとなしい野生のポケモンたちと戯れながら、頂上を目指し、辿り着いた場所は浮遊感の漂う神秘的な場所だった。奥には大きな鐘が静かに存在している。
 心臓の高鳴りを抑えながら鐘に近づき、厳かな心持で俺は確かに鐘を鳴らした。
 音は鳴らない。
 鳴らない理由について、ジムまで戻ってフウロに問い詰めてもよかっただろう。しかし俺は鳴らないくせに揺れ続ける鐘を目の前にして、一歩たりとも動くことができなかった。脳裏にはフウロの言葉がよぎる。
 ――鳴らす人の心根が音色に反映される。
 だとしたら俺の心根には、音色をかき消してしまうような何があったというのだろうか。あるいは、何もなくただ真空が広がっているだけなのだろうか。疑問符に答えを見つけることなどできない。俺は自分の心根など見ることができないのだから。
 仕方なしに俺はジムまで戻った。良い場所でした、そう一言だけ感想を述べて去るつもりだった。それが旅人である俺の最低限やるべきことだと思っていた。
 けれど言い出すより先に、フウロのほうが口を開いた。
「鐘の音はどうでしたか」
 その表情は愛想笑いすら浮かべることなく、タワーオブヘブンにいた警備員のようにどこか機械めいていて、内に秘めた感情を汲み取るなどということはできなかった。
「良い音色でした」
 タワーオブヘブンについての感想を述べる代わりに、聞かれたものだから鐘についての感想を述べた。実際は音色など聞いていない。良い音色でした、それはつまり自分の心根が清らかであると言っているのだ。俺は言った後で失言であると気づいた。
「いいのよ、無理しなくて。アタシに聴こえなかった鐘の音が、あなたにだけ聴こえるはずがないんだもの」
 フウロはすべてを見抜いていた。俺はこれより先の言葉を次ぐことができなかった。
 鐘の音が聴こえない――その不可思議な現象が意味するところはなんだろう。
 頂上までの道に生息していたポケモンたちに敗れ、鐘まで辿り着けなかったと思われただろうか、まさかそんなことはあるまい。鳴らしたはずなのに音が出なかった、多くの人々の音色を聴いてきたフウロにはそれくらいの推測もできただろう。
 俺は冷たい人間か? 心はからっぽか?
 旅の目的に一つの問題が加わった瞬間であった。


 鐘が鳴らなかった理由は、未だに分かっていない。
 もし原因を何かに無理やり見出すとするのならば、俺が記憶喪失であるということくらいだ。そもそもの旅の目的は、自分の記憶を取り戻すことにある。タワーオブヘブンは完全に寄り道のつもりだった。背の高いタワーの姿を見て、失われた記憶の欠片が表層に浮かび上がらないことからも、寄り道になることは分かり切っていたことだ。それが蓋を開けてみれば結果は全く違うものになった。フキヨセを出てからの俺は、あらゆることを鐘が鳴らなかった理由に結びつけるようになってしまった。記憶を探すのよりも、鳴らない理由を探すようになったのだ。
 だから両方とも進展しないまま、俺はイッシュ地方を一周してしまい、最近は専らヒウンシティに居つくようになった。これだけの人がいるのならば、いつか俺を知っている者が現れてもおかしくはない、そんな期待をこめてのことだ。
 しかしそんな受け身の姿勢では、本当にやることがなくなり、声が出なくなってしまうくらいの暇を持て余すのだ。暇を潰すためにヒウンシティを歩き通し、辿り着いたのは裏路地にあった怪しげな喫茶店。日の光が入らない陰気な路地では、荒くれ者たちが水を得たサメハダーになって泳ぎ回っているというのに、喫茶店の扉は結界が貼ってあるかのように綺麗なままを保っている。
 俺は荒くれどもに睨まれながら、ゆっくりと扉を開く。外の世界とは空気を異にしていて、別の世界に足を踏み入れたような錯覚を覚えた。
 ギターの音色が聴こえる。タワーオブヘブンにある鐘が鳴ったら、この音色よりも美しい響きになるのだろうか。まだ聴かない記憶に想いを馳せながら、ギターの音に耳を傾ける。
「一杯どうですか」
 喫茶店のマスターが言った。俺はコーヒーをブラックで頼んで、カウンターの椅子に腰をかける。
 しばらくすると湯気を上らせるコーヒーが出てきて、俺はその黒い液体を見つめた。
「何か悩み事があるようですね。私でよかったら聞きますが、どうですか?」
 悩み事といってしまえばそれまでだが、俺が抱えているのは人生の命題とも呼ぶべき問題だった。それを話すよりも先に、まずは聞くことがある。
「なんで悩み事があると思ったんだ?」
 マスターは洗練された動作でコーヒーカップを拭いている。その手が少しだけ止まった。
「こんな陰気な場所に来る人が、悩み事の一つも抱えていないとは思えないでしょう? 事実、私どもの店にいらっしゃるお客様はそうした方ばかりですから」
 なるほど。納得して、ブラックコーヒーに口をつけた。口にするに丁度いい温度の液体が喉を通っていく。ほぅとため息が出て、俺はいくらか落ち着いた気持ちになった。
 タワーオブヘブンの鐘を知ってるか――。
 俺は鳴らない鐘がこれまでにどんな影響を及ぼしてきたかを話し始めた。俺の旅はこいつに出会ってから全く違う道行になってしまったのだと。
 

 そうして話し終えるとき、舞台の歌い手に合わせるバックサウンドのようにギターの音色は引いていった。俺は話しているあいだ、舞台の上に立っているかのように感じていた。この場所がそれほどの雰囲気を保ち、かつギターを弾いている男が相当な実力であったからだろう。
「ちょっといいかな、兄さん」
 ギターの奏者が口を開いた。
「記憶がないって言ったね? それに、タワーオブヘブンの鐘が鳴らなかったとも」
 俺は頷いて、先を促した。
「恐らく私がやっても同じ結果になるだろう」
 奏者は黒いメガネで両目を隠したまま、けらけらと表情を出さずに口元だけで笑った。
「つまり、どういうことだ?」
「私も君と同じだったのさ。記憶がない。鐘は鳴らない。その時フウロは心配そうな顔をしていたさ。けれど、ある場所に行って思い出した。記憶がないことも、鐘が鳴らない理由も、すべて思い出した」
 その言葉に食いつかんとする、はやる気を抑えようとした俺はコーヒーを一口飲んで、ため息をしてから口を開く。
「その場所はどこなんだ」
 奏者も持っていたギターをスタンドに立てかけ、椅子に座ったまま手を組んで前かがみになる。暗いメガネの隙間から小さな目が見えた。その目が俺を捉えている。
「いいのか? 記憶を取り戻し、鐘が鳴らない理由を知ったとしても、君にいいことは何一つないかもしれないぞ」
 それでもいいと、俺はすぐさま返事をした。
 奏者はけらけらと笑って、しばらくしてからようやく話を始める。
「デスマスっていうポケモンを知っているか? デスマスは実におもしろいやつなんだ。何が面白いかって、それは見てみれば分かる。だから君が行くべき場所は、デスマスがいるところ――古代の城だ」


 言われたとおりに古代の城に足を運んだ。広がっている砂漠を見たときは思わずため息が出てしまったが、歩き出してみるとそんなに苦ではなかった。時おり吹いてくる風が細かい砂を運んできて、それが身体のあちこちを叩いていったが、長い間歩き続けた旅の辛さに比べれば大したことはない。
 しばらく歩くと石像やら古い建物が見えてきて、案外あっさりと古代の城に辿り着くことができた。行きやすいこともあってか、砂漠に佇む遺跡は観光地にもなっているらしい。家族連れの観光客だったり、興味深く城を見て回る人が多くいた。その中でもデスマスを見るために訪れたという者は俺くらいだろう。それも単純な興味ではなく、自分の記憶について探るのが目的だ。
 一階は観光客やらトレーナーの小さな人ごみがあったので、俺は地下に続く石造りの階段を降りた。
 いきなり目に入ってきたのは、マスクを持った全身真っ黒のポケモン。
 ――デスマスは実におもしろいやつなんだ。
 ギターの奏者はそう言っていた。何がおもしろいポケモンか。俺はデスマスの姿を見た瞬間、全身に電気が走ったように思えた。鋭利な感覚が脳天から突き抜け、首から上を火照らせた。
 デスマスは、持っているマスクを見て、涙を流していた。
 顔という顔のない真っ黒なそいつは、まるでマスクが本当の顔であるかのように、顔が刻まれたマスクは細部までしっかりと造られている。周囲を見渡して、他のデスマスを見てもそれは同じであるが、マスクに浮かぶ顔はどれも違っている。
 人間が決して同じ顔をしていないのと、同じように――。
 心臓が早鐘を打っている。薄暗い砂の城で、俺は記憶の欠片の一端を見ているように思うのだ。何がそう思わせるのか、分からない。あと少し。あと少しの何かがあれば、俺は――。
 旅だ。イッシュ地方を巡った旅。道中で立ち寄ったタワーオブヘブン。魂を鎮める場所。頂上にあったのは鳴らない鐘。無音の世界で俺が感じたものは何か。俺は冷たい人間か。心が空っぽなのか。
 ――鳴らす人の心根が音色に反映される。
 あの時フウロはそう言った。俺は今、見つけてはいけない答えを拾い上げようとしている。まさかそんなことはないだろうと、考えることさえしなかったその答えが、俺の眼前に突き付けられている。
 鳴らす人の心根が音色に。それなら、音色にならなかった俺の心根は。無音の音色が作り出した世界。それが俺の世界だとしたら。もしそうなら、

 ――俺は、人間か?
 
 破砕音を聞いた。その音は俺の中で響いているものだろうかと思ったが、それは違う。泣いていたデスマスが慟哭をまき散らしている。持っていたマスクが欠片になって、その場に散っている。血の涙を流したデスマスが吠えていた。顔のない真っ黒な表情を悲痛に歪ませ、顔に当てた両手を震わせながら。
 嘆きに反して、デスマスは光に包まれていく。暖かな光だ。
 砂の城の中で叫び声は響かない。それでも届いた叫び声が俺の胸を突く。
 マスクが割れた――つまり、それは進化の兆しだ。
 デスマスの持っているマスクが表すもの、それは人間だったときの自分の顔。生前の自分。進化はそれと決別をし、完全なポケモンへと生まれ変わる儀式。そんな知識が俺の頭の中を駆け巡る。同時に脳裏を飛び交う映像。
 真っ黒な両手。砂の壁。石の階段。俺を包み込む光。足元には――。
 俺の顔が掘り込まれた精微なマスク。
 ポケモンになることを拒んだ。俺は人間でいたかったのだ。ポケモンになんかなりたくなかった。旅を続けていたかった。包み込む光の温度に、俺は一切の優しさを感じなかった。
 不意に叫んでいたデスマスの声が止んだ。そこに居たのは進化したポケモンの姿だった。デスカーンが雄叫びを上げて、去っていった。足元のマスクは砂をかぶり、やがて消えていく運命にある。
 こうして一人の人間が死ぬ。
 あの光は、進化の光ではない。死が人間を迎えるために差し向けた光だ。死の光だった。
 思い出したすべての記憶は、確かに俺を幸福になんかしてくれなかった。
 分かったことはただ一つ。

 俺は死んでいた。


 再びタワーオブヘブンを訪れた。そこには相変わらず機械のような警備員がいる。こいつもデスマスだったのだろうか。
 頂上に辿り着き、鐘を揺らしてみたけれど、そこに生まれたのは無音の世界だった。
 音色は響かなくて、俺の心に生まれるものは何もない。
「鐘の音はどうですか」
 後ろからフウロの声が聞こえた。
「無音だ。無音の世界だ」
 俺は答えて、言葉を続ける。
「頼みがあるんだ」
 振り返ってフウロの心配そうな瞳を見つめる。
「俺の代わりに、この鐘を鳴らしてくれ」
 フウロは笑って答える。
「無理ですよ。アタシだって、デスマスなんですもの」
「それは嘘だな。笑顔の綺麗なあんたが、死んでいるはずないじゃないか」
 そうしてまた笑う。
「もちろん冗談です。鳴らしてあげましょう。あなたのために」
 
 タワーオブヘブンの鐘が鳴った。無音の世界は光に包まれていく。
 俺は目を閉じた。やはり、タワーオブヘブンなのだ。俺が旅の途中に辿り着いた場所は、決して寄り道なんかではなかった。ここが、俺の行きつく場所だったのだ。
 光は暖かだった。
 頬が緩む。俺は生まれて初めて笑ったような気がした。

 そして、俺の旅は終わった。

 
 
 ココハ タワーオブヘブン……
 タマシイガ ネムル バショ……
 
> みそか成長記 作:乃響じゅん
みそか成長記 作:乃響じゅん
 祥子はふわふわ中毒だった。
 それと言うのも、小さい頃に迷子だった詩子を助けてくれたシルクハットの青年が、大量のふわふわをプレゼントしてくれたのである。それ以来、祥子はふわふわが無いと生きていけない身体になってしまった。
 大学生になって光の街で一人暮らしを始める。初めて足を踏み入れた時には、ふわふわの少なさに愕然としたが、いざ暮らしてみると意外とそうでもないことが分かった。例えば、生協のエントランス。例えば、ビルの曲がり角。あちこちに散らばるふわふわを見つけては、それを拾って生活をしていた。
 そんな暮らしを続けて一年弱、雪の降らない街に鐘が鳴る。ぼーん、……。ぼーん、……。除夜の鐘の音だ。祥子の地元では、住職でなくても先着百七人(最後の一回は住職が突く)に突かせてもらえたが、この街ではどうだろう。少し買い出しに出かけただけだったが、それ以外に用事もなかったのでお寺の方へと足を運んだ。
 結局、鐘を突かせてもらうことはなく、ただ火を焚いて周りでわいわいとご近所さんが喋っているだけだった。奇麗、と火の粉の先に見とれていたが、ここにはふわふわがそれほど見当たらず、祥子はがっくりと肩を落とした。
 その帰り道、道端にふわふわが落ちていた。行きは見当たらなかったのに。ふわふわの塊は、てんてんと路地裏に続いていた。祥子は一つ一つ丁寧に拾いながら、跡を辿っていく。
 そして、祥子は溢れる笑みを両手でふさぐことになる。小さな段ボールの中から、今までに考えられない量のふわふわが! 胸のどきどきが抑えきれず、逸る足を抑えきれず、祥子は一瞬でも早く段ボールの中を覗きたい衝動に駆られた。
 大量のふわふわに囲まれて、一つのタマゴが眠っていた。ただ生まれる一瞬の為に、ひたすら内へ内へとエネルギーを循環させるタマゴ。見た目は全く動かないが、掌から伝わる温もりが、実態を教えてくれた。
 段ボール箱の側面をよく見てみると、「拾ってください」と書いてあった。そう、それじゃあお言葉に甘えて。祥子はタマゴを抱えて、一直線に我が家へ向かった。

 家に着いた瞬間、タマゴは割れた。上部だけが割れて頭が飛び出す。その後、タマゴから手足が生えてきた。
 祥子はその生き物と目が合った。高い声で鳴いて、つぶらな瞳で見上げてくる。かわいいと思ったのと同時に、不思議な予感があった。この子は、ふわふわを呼び寄せ、生みだす資質がある。その根拠は、段ボールに溢れたふわふわだ。もしかして、あのふわふわの多くはこの子が生み出したのではないか。背中がぞくぞくした。一人暮らしでペットを飼うのも悪くない。
 トゲピー。それが、この子の種族の名前だ。大みそかの深夜に出会ったと言う事で、祥子はトゲピーをみそかと名付けた。
 トゲピーの育て方を調べる正月を送っているうちに、みそかはトゲチックに進化した。
 ポケモンって、こんなに早く進化するものなのだろうか。赤ん坊から見違えて、一気に青年のような顔つきになったみそかは、祥子の目により可愛らしく映った。ただの赤ん坊よりも、智慧のある可愛らしさ。ほれぼれする。
 再び大学が始まり、祥子は謝りながら家にみそかを置いて出ていった。みそかをあまり一人ぼっちにしすぎるのも忍びなく、可能な限り早く帰ってくるようにした。遊んでやると、無条件に喜んだ。その顔を見ると、ふっと口角が上がってしまうのだった。
 そんな生活も、夏が始まるときに終わってしまった。そろそろ新しいバイトを考えないとなぁ。その一言がきっかけだったのだろうと、祥子は後になって考える。
 七月、テスト間際。家に帰ってみると、みそかの姿がない。祥子はいてもたってもいられなくなって、ありとあらゆる物陰を探した。おかしい、今までこんなことはなかった。ベランダの鍵が空いている訳でもない。家の鍵もきちんと締まっていた。じゃあなんでいないの? 祥子は泣きたくなった。
 家を出て、辺りを走り回ってみたが、やはりみそかの姿らしきものはどこにもなかった。夜十二時を回ったところで、急に足が重くなり、真っ暗な闇の中をとぼとぼと歩いて、ベッドに倒れ込んだ。
 テスト期間中、みそかのいない悲しみに暮れながら勉学に励んだ。暗い気持ちがうまいこと集中力に切り替わってくれたおかげで、無事テストを乗り切ることができた。
 夏休みが始まって、祥子はバイト三昧の日々を送った。稼ぎが無かった時期は、親に生活費を肩代わりしてもらっていた。その後れを取り戻さなければ。と言いつつ、それほど精神的に疲れ過ぎない仕事を選んだのは、ふわふわを探しに出かける時間が必要だったからだ。ふわふわを見つけるには、集中力が要る。こんなとき、みそかがいればもっとたくさんふわふわを見つけられたのだろうか。

 九月、再び学校が始まる直前。バイトが終わって自分のアパートに帰ると、今までずっと姿を消していたみそかが廊下に立っているではないか。
 祥子は十二メートル離れた位置からみそかの名前を呟いた。にも拘わらずみそかは祥子の声に振り向いた。それはそれはとても慌てた様子で、翼を動かさず飛ぶ不思議な浮遊術を使って扉を開き、その中に逃げ込んで、扉が大きな音を立てて閉まった。祥子は締め出しを食らったような気分になったが、良く見るとその扉は祥子の家ではなく、一つ右隣の家だった。
 ドアノブを捻ってみようとしたが、既に鍵をかけられて、入ることは出来なかった。
 インターホンを鳴らそうと思ったが、今日はもう夜も更け、ためらわれた。安堵と疑問が混ざった不思議な気持ちで、眠りについた。
 次の日、再びみそかがいるはずの扉の前に来ると、表札に「みそか」の文字があった。小学生の女の子が、自分の部屋のドアに貼る名前のような、かわいらしいデザインで。
 みそかはここに住んでいるのだろうか。深呼吸ののち、思い切ってインターホンを鳴らしてみる。
 がちゃ、とは鳴るが、声は聞こえない。祥子は自分の名前を名乗って、みそかに出てきてもらうようお願いした。暫く無言のまま時間が流れ、やがてホンは切れた。
 もう少し待つと、ドアがそっと開いた。出てきたのは、みそかだった。本当なら祥子のひざ上ぐらいの身長しかないのに、浮いているせいで祥子の胸ほどの目線となったみそかが、祥子を見上げている。
 入ってもいいかと聞くと、みそかはゆっくりと頷いた。
 中の様子を見れば、隣の住人がみそかを拾って飼っていたのではないか、という疑念はあっという間に吹き飛んだ。
 子供の遊び部屋のような空間だった。カラフルなスポンジのジグソーパズルのマット。木で組まれた漕げない三輪車。赤、青、緑のビビッドなボックスの引き出し。線路のミニチュアが散乱している。
 どこに腰を下ろしていいか分からない祥子に、水入りのプラスチックのコップを手渡すみそか。マットの上に散乱した線路は、幾つかが繋げられていた。丁度、運動場のトラックのような円を描こうとしている。だが、それを無事一周させるには明らかにパーツが足りない。それを見るみそかの目が、妙に悩ましげなのが目についた。
 一体何をしようとしているのか気になったが、聞いたとしてもそれを教えてもらう術がない。祥子がみそかにできることはないかと考えたとき、ふとこの線路のパーツに見覚えがあることに気付いた。祥子は近所のおもちゃ屋に走り、同じものがないかどうかを探した。しかし、それらしきものは見当たらない。
 それからと言うもの、祥子は大学生活の合間を縫って、線路のパーツの売っている店を探した。
 インターホンを押せば、みそかは間違いなく応じてくれた。みそかの部屋は時々、レイアウトが少し変わっていたり、中のおもちゃが増えていたりしていた。十二月になる頃には、既にものの置き場と言うものが完全に消滅していた。ようやく、祥子も線路のパーツを売っている店を見つけて、買ってくる事が出来た。

 そして大みそか。

 厳密には違うが、祥子はこの日をみそかの誕生日として祝ってあげたかった。ケーキを買って、ロウソクも一本だけつけた。みそかの家のチャイムを鳴らす。
 誕生日おめでとう、と言うと、みそかはとてつもない気持ちになって、狭い部屋じゅうを飛び回って喜んだ。祥子の顔は自然とほころんだ。
 クリームのケーキに、一本ロウソクを刺して、部屋の明かりを消そうとする。すると、みそかは首を振り、祥子を止めた。そして、完成したトラック上の線路の上に電車を走らせる。ジージーとモーターが回転する音が辺りを包み、子供の頃に返ったような気持ちになる。みそかはそれを二台、三台と等間隔に走らせた。みそかはこれでOKの合図を出す。
 線路の真ん中にケーキを置き、いよいよロウソクに灯を点ける。部屋の明かりを消して、たった一本のロウソクが部屋をぼんやりと照らした。
 祥子は不思議な現象に気がついた。ぽつ、ぽつと全方向の壁をすり抜けて、ふわふわが部屋に集まってくる。そのたびにロウソクの灯は強さを増し、部屋に集まるふわふわの数は加速度的に増えていく。
 除夜の鐘が遠くで聞こえる。ぼーん、……。ぼーん、……。その音さえもこの部屋は渦をまいてエネルギーの一部にしてしまうような感じがした。
 そして。
 みそかはロウソクの灯を思いっきり吹き消した。
 ぶわぁっ、とエネルギーの渦が外へと広がっていく。部屋をあれほど埋め尽くしていたふわふわも、風になったエネルギーが吹き飛ばしてしまって、中心にはもうない。
 吹き荒れるエネルギーの中でふと気がつけば、線路で囲んだトラックの中は別の時空間と繋がっているようだった。覗いてみれば、海が見え、山が見え、街が見え。かなり高いところを、高速で飛んでいるようだった。右へ左へ、回転しながらランダムに方向を変えて。祥子はめまいがしそうだった。
 みそかは祥子の腕を掴んで、浮いた。そして、線路で囲んだ別の時空間の中へと、祥子を引っ張り込む。みそかのあまりの急降下に、祥子はためらう暇もなかった。

 みそかの腕を取りながら、祥子は地球のはるか三千メートル上から落下していく。
 空は淡い紫と桃色に染められ、雲がまばらに散らばっている。
 全身に風を受けながら、空の明るい方に顔を上げた。わたしは今、すごく高いところから日の出を見ようとしているんだ。
 不思議と怖くはなかった。みそかがしっかり掴んでいてくれるから。
 ふいに、上から叫び声が聞こえた気がした。ふわふわが空中に満ちてくる。祥子は仰向けになって、その声の正体を捉えようとした。
 何かが二人より遥かに早いスピードで落ちてくる。スーツを着た、若い男の人だった。彼の身体からは大量のふわふわが放出されていて、それがまるで彗星のように尾を引いている。
 彗星の彼は祥子と同じ高さになり、祥子の方を向いて笑った。風で何も音が聞こえないはずなのに、なぜか彼の声だけは鮮明に聞こえる。彼は、石を取るんだ、と言った。指差した下の方を見ると、ケーキが重力に負けて崩れていき、中から光り輝く石が現れる。祥子は必死に手を伸ばした。やがて追いついて、その石を手に取る。掌にすっぽりとおさまるサイズの、緑色と黄色の中間のような石。それをまじまじと見ていると、みそかが手にとって、それを丸のみにした。
 みそかの身体が、急に光り出す。その光が眩し過ぎて、祥子は腕で目を覆う。後ろに少し吹き飛ばされていたらしく、彗星の彼が祥子の身体を受け止める。祥子は身体の中が熱く、柔らかくなるような感じを味わった。こんなこと、初めて。もしかして、彼はふわふわそのもの? 紅潮した顔は、彗星の尾のふわふわにうまく紛れた。
 みそかの身体は変化して、真っ白い鳥のような姿になった。トゲチックの進化系、トゲキッス。この空中を制するための身体だ、と祥子は思った。さあ、乗ろう、と彗星の彼は言う。祥子の身体を抱えて、少し下方で待つみそかの背中へ。
 身体が、ふうぅっと浮き上がるような感覚を味わう。ずっと落ちていたせいだ。みそかは地球と平行に、まっすぐ飛び続けている。朝日の方向に向かって飛び続け、穏やかな風を浴びる。
 日の出。最初の数秒は、目を凝らした。巨大なダイヤモンドの指輪が、地球の形に現れる。奇麗、と思ったと同時に、大量のふわふわが祥子の目に飛び込んだ。
 すごい! 祥子は声を上げた。みそかと彗星の彼に、ありがとうとお礼を言った。
 暫く、三人は太陽の昇る様子を眺めていた。最初に口を開いたのは、彗星の彼だった。
 彼は、自分は流星中毒なのだと言った。満天の星空を流れる大量の流星を見てからと言うもの、今までずっとそうなのだという。ある日どこかで祥子とすれ違った時に、瞳に大量の流星を見て、忘れられない存在になったのだった。
 彼には人よりたくさんの流星が見えている。祥子と同じように。
 何だか分かり合えるような気がして、祥子は彼を見つめた。彗星の彼も、同じように見つめた。

 一月一日の朝日の中、トゲキッスに乗った中毒者たちは密やかなキスをする。



 おわり
 
> 夢の野原 作:雫
夢の野原 作:雫
 チャイムが鳴る。あいつはやっぱりもどってこない。
 
 お昼後の五時間目。この時間は昼飯を食べた後だとか、休憩でめいっぱい遊んだ後だとかで睡魔が襲って来、授業に集中できなくなる時間だ。無論、俺もその中の一人で、いつも俺の頭の中のムンナと戦っている。
 中3の9月にもなって居眠りなんかする余裕はない。ないのだがどうしても、こう……眠くなってくる。うん、眠くなってきた。
 しかし、居眠りよりもっと厄介な方が……
「……今日も夏弥は遅刻か?」
 朦朧とした意識の中、教科担当の先生の声が聞こえる。
 荒谷 夏弥。クラスのほうでは割と物静かな方であり、成績も安定している。とても、目立たない存在。そして、俺の親友。
 その親友が、最近、5時間目の初めには毎回遅刻してくる。
 1分や2分ではない。おおよそ15分だ。普通に遅い。
 なんでも、昼休みになると突然行方をくらませていなくなるらしい。先生がいくら探しても無駄で、決まって15分くらいで帰ってくるというのだ。
 ちなみに俺が何を言っても無駄だ。何も話してくれない。
 どこにいってるのか、職員の中で会議になったこともあったらしい。しかし結果は無駄足だった。

 と、突然教室のドアが開く。
「スイマセン、遅れました。」
 例の夏弥だ。彼はそれとなく息切れていて、なんとなく疲れているようだ。
 まぁまぁ悪気があるようで。じゃあ早く帰ってこい。という話になるが。
「……早く席に座りなさい。」
 あ、ちなみにこの件は、もう先生には何を言っても無駄だと思われているから最近はなんにも言われてない。兎に角不思議な失踪なのだ。
 さて、そこから何事もなかったかのように授業が始まる。やばい、瞼が閉じてきた。
「慎ちゃん」
 いきなり後ろから小声で囁いてきた。夏弥だ。俺の席は夏弥の席の丁度前にあるので、こういう時のノート見せてもらい人は大体俺になる。両サイドに見せてもらえばいいのに……。
「なるべく早く頼むな。」
「ありがと。」
 俺がノートを貸す。そこには綺麗とも汚いともいえない俺の字がぎっしり書いてあるが、夏弥が読めるからokらしい。
 どーせ15分だし、書いてある内容はそれほど多くない。たった数分でノートが帰ってきた。
「……あッ、また……!」
 ノートにポケモンの落書きが施されている。ポケモンはプルリルだ。
 後ろを振り返ると夏弥が「えへっ」と笑っていた。

 しかしいいプルりルである。



 放課後、帰宅部の俺はそそくさと教室を出る。
 部活に出る集団が明るくて怖い。個人的に俺は集団より2人か3人でつるむ方が好きだ。
「慎ちゃん」
 夏弥が話しかけてくる、ちなみに彼は元バスケ部現帰宅部であり、そのため帰りは良く二人で帰っている。
「おう、んじゃあ帰るか。」
 
 帰り道。夏弥との会話が弾む。いろんな話をするが、例の失踪の話はしない。
 彼の前ではその話はご法度なのだ。発狂……ではないが軽く空気が気まずくなる。
「にしても、あの場で落書きはやめろよー」
 落書き。いいプルリルだったけどノートなので止めてほしい。ついこの前、一度だけ同じことがあったが、2度目とあらば、だ。
「最近プルリルがお気に入りでねー。良く描いてるんだよねー。」
「だからってノートに、……まぁウマかったけどさ」
 確かにプルリルかわいいけど。
「じゃあ、この前のミュウ、あれもお気に入り?」
 以前描いたポケモンはミュウだった。あれもいいミュウだった。


「あれは……


……うん、お気に入りだよ。」
 
 一瞬、空気が固まった気がした。
「……そうなのか。……でも、やっぱ落書きはよくないぜ。」
「そうだね、今度からはやらないよ。」
 夏弥のテンションがちょっと下がった気がする。なんでだ?
 ミュウが……なにかなのか?お気に入りじゃないとか。じゃあなんで描いた? いやまぁきっと何か考え事でもしてたんだろう。ミュウも基本関係ないし。
「……あー、そういやさ。」
 話を変えてみる。夏弥の表情に次第に笑顔が戻り始める。
 夏弥、たまにそういう不思議なところがあるんだよなぁ。失踪事件だって謎に包まれたままだし、さっきのミュウといい、プルリルといい……いや、プルリルは関係ないか。
 俺と彼は、そこで別れて家に帰った。

 
 次の日、学校。俺も、彼も、いつも通り登校する。
 普通にかわす挨拶。いつもの授業。そして5時間目のいつもの失踪。
 全てが終わって今日も一日が終わる。
 今日は、全ての部活がない日らしい。帰宅部の俺達には知ったこっちゃないが。
「……あ。」
 下校する寸前の時、教室に筆箱を忘れていたのを思い出した。
「どした?」
 夏弥が俺の顔を覗いてくる。
「ごめん、教室に忘れ物したからちょっと取ってくるわ。」
「? じゃあ僕も行くよ。」
 夏弥がついてくる。まぁそこでポツンと待たせるのはあれだし、ついてこさせてもいいか。
 
 俺たちは教室についた。教室は案の定、誰もいない。
 早速俺の席に向かう。……あったあった。俺のシンプルでなんの味気のない筆箱だ。
「さて、用も済んだことだし帰るか……ってあれ?」
 
 夏弥がいない。
 さっきまで一緒にいた筈だよな? 教室に入るまでは確かに此処に……
 ……そういえばさっき、なんか目が泳いでいたような……。
「おーい、夏弥ー?」
 叫ぶ、返事はない。どこ行ったんだぁ……?
 とりあえず、一旦教室から出る。もしかしたら、もう帰ってるのかも?
「夏弥ぁ……?どこにいっ」



 目の前に、ピンク色の風。
 

「ちょっと、どこいくんだ、よ……」
 それを追いかける人、夏弥。


「……。」


 ……確かいつぞやかノートにいいミュウを落書きしてたっけ。
 (プルリルもだったけど)そのミュウは、ものすごく生き生きしてて、まるで本物を見ているようだったっけ。
 そのことを聞いたら、確かなんか変な反応したっけ。

 ミュウが、此処にいる。
 ものすごく意味が分からないけど、ミュウがいる。
 CG? 人形? でもものすごく動いてる。笑ってる。

「……え? 夏弥、これって……」
「……ミュウ」
「……。うん。まぁミュウだよね。」
「ミュウ。」
 ミュウなのは分かってるんだけど。
「……えっと、……なんでミュウが、ここにいる?」
 ピンク色の体が、宙に浮かんでる。楽しそうだ。
「……話せば、長くなる。」
 確かに、長くなりそうだ。ミュウとか、そういう以前に……ポケモン?
 ポケモン? なんでポケモン? ポケモンとか、ゲームとか、そういう世界のキャラクターだよな?
 おかしすぎる。いろいろと。
「……誰にも、言わないでね。」
 夏弥がそっと囁く。確かに、言うと大騒ぎになるだろう。
 彼も、そういう大人数でわいわいやるのは嫌いな派だ。むしろ俺よりもっと。
 いや、それよりまず、学校にポケモンがいる。とかいってしまうと、学校だけじゃない。ネットなどから広がって、全国的に問題になるんじゃないか?いや、きっとなる。
「……分かった。言わない。」
「……宜しく。」
 彼の真上には、いまだミュウが元気そうにくるくると回っている。

「ねぇ、慎二君。」
「んー?」
 友達に呼ばれる。
 俺の名前。慎二。最近は慎ちゃんと呼ばれることが多いから、名前で呼ばれることが懐かしく思える。
「……夏弥君となんかあったの?」
「ん、別に。」
 実際はいろいろとありまくったんだが。絶対に人に言うわけにはいかない。
「えー? 絶対なんかあったでしょ。」
「ない。」
 とにかく防衛しなければならない。この秘密だけは。
 なんとしても。


昼休み開始のチャイムが、鳴る。
 夏弥が、そそくさと外に出る。 俺も、そのあとについていく。
 昨日ミュウがいる場所はなんとなく割り当てた。なんとなくだけど。
 昨日、ミュウが飛んで行くのはなんとなく見えたからそこらへんを探せば見つかる筈だ。

 案の定、夏弥の姿を見失った。
 でも確かここら辺の筈だ。ここらにミュウは降りてった。
『みゅみゅっ』
「!」
 あれは、多分ミュウの声だ。
 俺は声のした方に向かう。

「うわあ……。」
 そこは、綺麗な、野原のような所だった。何故いままで見つからなかったのだろうか。
「夏弥……」
「あ……っ。慎ちゃん……。」
 見つけた。夏弥と、ミュウが、元気よく遊んでいた。
 ものすごく楽しそうだ。あんな笑顔初めてみたかも知れない。
「誰にも言って、ないよね?」
「……あぁ。」
 心配しながらも、ちょっと満足そうだ。
「夏弥は、毎日此処にいるのか?」
「うん。」
「……楽しいのか?」
「うんっ、楽しいよ。」
 おお元気がいい。いつにも増して元気がいいなぁ。
「そうか。楽しいか。それはいい。けど、せめてチャイムが鳴るまでには帰ってこような?」
 俺は今、誰もが探せなかった場所にいるのだ。もし、後にも先にも夏弥以外の人間が此処に入るのは自分だけなのかもしれない。
 注意せざるを得ない。そんな状況に俺はいるのだ。
「……分かってる。」
「分かってるのか? 現に何回遅刻したと思ってんだ?」
「それは……、ほっといてよ。そんなコト。」
 ? 態度が変わった?
「ほっといて……、って、そう言われても……」

「!」

 学校中に休憩終了のチャイムが鳴り響く。

「……あ、やばい。次移動教室だった。」
 早く帰らないと、遅刻になってしまう。
「ほ、ほら。夏弥も早く帰ろうぜ?」
「……うん。」
 ……いや、夏弥は一向に帰る気配がない。頭の上でミュウが回っているのにも気づいてないようだ。
「――、あー、じゃあ先に帰っとくから。あとから絶対来いよ!」
 俺は、そそくさとその場を去った。
 彼の瞳は、最後まで虚ろであった。

「……で、夏弥を探してたら遅刻しましたー。か?」
 先生があきれたように言う。ホントは夏弥に会ったのだが、そんなことは言えない。
「あ、ハイ。そーっス。」
「……、『ミイラ取りがミイラになる』か。まぁいい。座れ。」
 俺は自分の席に座った。
 夏弥……いつ戻ってくるかなぁ。今、授業が始まって大体3分くらいだから、あと10分ちょっとで戻ってくるか?
 俺はとりあえず、夏弥を待ってみることにした。



 チャイムが鳴る。あいつはやっぱりもどってこない。




 





 数日後、彼の遊んでいた野原に、花が添えられていた。
 もともと心臓の病があったらしく、心身の不安も相まって、心筋梗塞になったらしい。
 俺は、そのことで泣き、何故もっと早く気付かなかったのかと悔やんだが、よく考えると、ミュウがいた、ということはそういうことなのかもしれない、と考えた。
 もしかしたら、ミュウは彼のイメージだったのかもしれないし、もしかしたら全てが夢だったのかもしれない。
 しかし、彼のみた夢は、とても温かなものだった。

 この野原は、彼の「夢の野原」であった。

「!」
 休み時間時間終了を告げるチャイムがなった。
 もう帰らないとな。そう思いその野原を後にする。

どこかでミュウの鳴き声がした。
 
> きらきら 作:とらと 【★】
きらきら 作:とらと 【★】
 冒険の予感がした。
 船着き場の護岸ブロックの上に立ちながら、ゾロアはじっと海を見ていた。大きな月に照らされた滑らかな海の真ん中に、悠然と船がやってくる。屋台に売っているきらきらのジュエルボックスをいくつもいくつも重ねたような輝きは子供ながらに見事と思えた。まるで広い海の全てを、あの船がごっそり従えているみたいだ。
 白波立てて近づいてくる豪華船に背を向けて、ゾロアはぴょんぴょんとブロックの上を跳ねて行く。夜目が利くから別にいいのだけれど、そうでなくても十分に明るく、足元の見える夜だった。友達のヘイガニが顔を覗かせ、やや、すごいのが来てるね、と言った。皆に報告しなくっちゃ、と返してゾロアははにかみ笑いした。そうしてすぐに駆け出した。
 堤防をのぼりきってコンクリートの上をぺちぺち走る。ふいに世界が暗みを増した。お月さまが雲に隠されていく、と空を仰ぐでもなくゾロアは思った。月明かりがなくとも、あの船のライトのお陰だろうか、やっぱり十分明るい夜だった。
 けれど、月が隠れたからこそ、見つけることができたのだろう。遠くちらっと何かが光った。あれ、とゾロアは目を細める。星屑のように小さなピンク色の瞬き。発光しているのではない。翻る何かが反射しているのだ。
 ゾロアは地面蹴る足の力を強める。ピンクの輪郭が見え始める。それを追い立てる、いくつかの獣の姿も。たてがみを切る風が不穏な熱気を帯びていく。唸り声。続く悲鳴。ただごとじゃない。意図して、ぴんとした体の緊張をほどく。逆立つ毛並みの興奮を静める。冷静に、冷静に。閉じる瞼の裏にひとり、大きな人間の背中を思い浮かべながら――イリュージョン、と呟くと、あっと言う間にちいさなゾロアは大男へと化けていた。
 おおおお、と腹の底から叫び散らすと、きゃうんと獣たちが委縮した。長く逞しい四肢を振りかざし、人間は獣とピンクに割って入った。ムーランド一匹、ハーデリア三匹。その首輪に光る『紋』に見覚えがあり、ゾロアは思わず身震いを起こした。それはゾロアだけじゃない、この国に住んでいる生き物ならおよそ誰もが、畏怖を抱く強烈な紋だ。大男の委縮するのを見、ムーランドはくっと険しい表情で姿勢を立て直した。
 さてピンクはその隙に護岸ブロックの方へダッシュしていく。視界の端にそれを認めて、目の前に飛び掛かってきたハーデリアのいくつかを、すんでのところでゾロアに戻ってひょいひょいと駆けてかわしてみせた。何か吠え立てたいかり顔のムーランドの額へ、ていっ、とゾロアは蹴りを一発。クリーンヒット! よろめいたムーランドを踏み台に、体翻してすぐさまピンクを追う。闇色の体だ、夜目の利かない相手ならば、少し離れればこちらのもの。
「――ヒメ! ヒメ!」
 狂ったうに喚いているムーランドの声の中に、ボォォッ、と地響きのような音が鳴った。豪華船の汽笛だ。
 ブロックの隙間と隙間で、ヘイガニの好奇の視線を受けながら、ピンクはぷるぷる震えいていた。よく見ればピンクは服の色で、本体のほうは泥に汚れたねずみ色。服を着たポケモンなんて珍しいよね、というヘイガニの興奮した声を聞いて、あの首輪の『紋』を思い返し、ゾロアはなんだかとんでもないことになっちゃったな、という気がしてきた。しかし乗りかかった船ってやつだ。皆だってそうして、いつもゾロアを助けれくれた。
 もう動けそうにもないピンク、改めねずみ色をヨイショっと背負って、ゾロアはもう一度駆け出した。波打ち立てるブロックの上を先程より幾分重い足取りでぴょんぴょん行って、誰も見ていないことを確認すると、そこの合間の深い穴へと飛び込んだ。





「――あーさー! 朝だよっ朝! アッサァーホラ起きろネボスケみんな起・き・ろォー!」
「やかましいわアホインコ!」
 そんな騒々しいやり取りに耳をやられて、ピンク、改めねずみ色――改め、泥汚れのチラーミィは、ぱっちり目を覚ました。
 そしてばっちり目があった。しげしげ寝顔を覗きこんでいたゾロアは、急に瞼を上げたチラーミィの黒目を見て、はぅっ、と鳴いて大げさに体を引いた。それから顔を真っ赤にして、わいわい言いながらどこかへ走り去った。その間にも、インコじゃない! インコじゃない! という甲高いBGMが狭い小屋の中に流れ続けている。唯一の窓のあちらとこちらで、やかましいペラップとやかましいヤミラミが睨みをきかせていた。
 チラーミィは額を擦った。こんなに賑やかな寝起きは、もしかしなくても初めてだろう。
 かび色の布団を除けながら起き上がると、ベッドの脇に自分のピンク色のドレスが、驚いたことに深緑のゴミ袋と一緒に置いてあって、チラーミィはむっと嫌な気持ちに……あ、いや、よく見ると違う。ポケモンだ。昨日のバトルでほつれて破れてぼろぼろのドレスを、ゴミ袋のポケモンが繕おうとしている。
「あ、おはようヒメちゃん。……えっと、あのね、せっかくきれいなドレスだったから、直してあげようと思って。こう見えて裁縫は得意だから」
 可愛らしい声でそう言って微笑むヤブクロンに意表をつかれて、チラーミィはしばらく何も言えなかった。
 インコじゃない! インコじゃない! じゃかぁしいッいい加減にしぃや! インコじゃない! インコじゃない! あとアホじゃない!
「……あげるよ」
「え?」
「そのドレス。ぼくには似合わないから」
「本当!?」
 ヤブクロンは飛び上がって、胡麻のような瞳をきらりと輝かせた。同時にぷぅんと生ぐさい匂いが鼻をつくのがなんだか可笑しくて、喜んでもらえたのも嬉しくって、チラーミィはくすくす笑ってしまった。
 窓辺で言い争っていた二匹が二匹のやりとりに気がついて、ようよう口を閉じて振り向く。二匹はにやっとした。鳥と人型とでも、にやつく顔はよく似ている。
「おぉ、おはようヒメちゃん。気分はどないや」
「オハヨウ! 気分はどう? 気分はどう?」
 同時に同じことを言いながらお互い押し合うようにしてずんずん近づいてくるヤミラミとペラップの様子がまた可笑しくて、チラーミィはけらけら笑って肩を揺らした。
「ねぇ、その『ヒメちゃん』って、ぼくのこと?」
 一様に、三匹が左へ首を傾げた。
 その時、窓の向かいにひとつある扉が吹き飛ぶ勢いで開かれた。
「ゾラが教えたんだよ!」
 駆けこんできたちいさなゾロアは、遠慮なしベッドへ飛び乗ってせわしく耳をぴょこぴょこさせながら持ってきたオレンのみを手渡し、やはり気分はどうかと問うた。受け取りながら、悪くないよ、とチラーミィが返すと、残りのポケモンたちは顔を見合わせて再びにやっと笑った。仲の良さそうな連中だ。生まれてからずっと、チラーミィにそんな友達はいなかった。どことなく雑な、もっと言うなら安っぽい味わいのきのみをしゃくしゃく食みながら、チラーミィにはその、通じ合ってるみたいな『にやっ』が少し羨ましくもあった。
「だって、あのムーランドたちに、ヒメ、って呼ばれてたの、ゾラ聞いたよ」
「あー……まぁ、それ以外にあだ名で呼ばれたこともないし、いいけどさ」
「ヒメちゃんって名前、すっごくかわいい!」
 そう言ってまたしても跳ねだしたヤブクロンを見やって、ゾロアは楽しそうに耳を震わせた。匂いが気になるのはチラーミィくらいらしかった。
「この子はヤブクロンのブクちゃん。そんでこっちが、」
 ベッドから飛び降り、ヤミラミとペラップの周りを忙しく駆けまわって、
「ヤミラミのヤッさんと、ペラップのぺらーり!」
「よろしく頼むわ」
「ぺらーり、ヨロシクッ!」
 最後にっ、とベッドにぼふんと舞い戻って、ゾロアは貴族がするような恭しい敬礼をした。
「わたしはゾロア。ゾラって呼ばれてるよ。ゾロアゾロアゾロァゾロァゾラァゾラゾラ、なぁんてねっ」
 そうしてくるくる回り始めるゾロア――ゾラの前で、ヒメはすくっと立ち上がった。ベッドから下りて身震いすると、泥やら何やらが床に削げ落ちた。追い回されたこの体、汚れているが外傷はない。そう、大事にされているんだ。自分が置かれている状況を思えば、なんだってできる。歌って踊るゾロアを横目に、ヒメの中にふつふつと熱い感情がこみあげていた。流れる血潮のひとかけらにまで染みついた、強い強い秘密の思いだ。
「ゾラ、きみに頼みたいことがあるんだ」
「なぁに?」
 動きを止め、ベッドから見下ろしてくるゾラに、ヒメは思いっきり明るい口調で言ってのけた。
「一緒に、鐘を鳴らして欲しい!」
 ヒメが思ったよりもその言葉は、随分とスムーズに滑り出した。
 ゾラが小首を傾げる。ヒメの突然の申し出に、残る三匹も不思議そうな目をしていた。
「鐘、って?」
「街の真ん中にある塔の鐘だよ。ぼくのマスターが教えてくれたの。昔から人間に伝わる有名な童話にあるんだけど、あの鐘を鳴らすと、街じゅうのみんなが幸せになれるらしいんだ!」
「うわぁっそりゃ凄いね!」
 途端目を輝かせ始めたゾラに、でしょでしょ、とヒメが畳み掛ける。それにブクも興味深そうに頷いていたけれど、ヤッさんとぺらーりの二匹は、互いの顔を見合わせて首を捻っていた。
「大事な鐘だから誰でも鳴らせるわけじゃなくって、塔には厳重な警備が敷いてあるんだ。でも、生きてるうちに一回は鳴らしてみたいなぁって思っててね。ゾラのイリュージョンがあれば、きっと忍び込めるよ!」
「う、うーん、ゾラにできるかなぁ?」
「ははぁ、泣き虫のゾラにぁ、絶対無理無理」
「ムリムリ絶対ムリムリ!」
 後ろからはやし立てる二匹に、ゾラはくるんと尻尾を揺らして振り向いた。
「泣き虫じゃないもん!」
「無理なもんか! それどころか、ゾラにしかできないんだからっ」
 ヒメはぽんとゾラの背中を叩くと、両手を高く振り上げた。
「そうと決まれば、さっそくしゅっぱーつ!」





 その日、ラストゥレーヌのどんぐり通りは、いつも以上に魅力的だった。
 こんなにたくさんの屋台が連なっているのをゾラは今まで見たことがない。ゾラは屋台というのが好きで、落ちた小銭をこっそり拾っては、人の子に化け出店をうろつくのがいつものゾラの楽しみだった。屋台はゾラにこの上ないワクワク感を与えてくれる。型抜き、的当て、水風船。ほくほくのポテトは塩辛いけど好物で、ちょっと大銭が転がり込んできた日にはりんご飴やらオモシロお面やらを皆に自慢してみせた。例のきらきらのジュエルボックスのお店が目につくとあれが急に欲しくなって、ゾラはそわそわ首を回した。店だけでなく、大小の人足もやけに多い。どんぐり通りとあって潰れどんぐりばかりが見えるけれど、きっとお金もたくさん落ちてるはずだ。
「ねぇねぇヒメちゃん、今日はなんだか、街の全部がきらきらしているみたい!」
 前を行っていたヒメは振り向いて、へぇ、そうなんだぁ、とがやがや騒音に負けない大声を張った。
 うんそうだねって返事が聞けると思っていたからゾラは少しあれっとなったけれど、そんなふわんとした不思議はすぐにぱちんと消えてしまった。そのくらいにヒメははきはきした気性のポケモンだった。
「ゾラって、女の子?」
「うん? そ、そうだけど……」
 頷きながら、改めて確認されるとなんだか恥ずかしい心地がした。確かにゾラは女の子だ。でも、うんと女の子らしいヤブクロンのブクが一緒にいるから、やんちゃなゾラは仲間内ではあんまり女の子扱いされていない。
 ゾラがむずむずしている間にも、ヒメはどんぐり並木の雑踏をずんずん進んでいく。次々襲い来る人間の靴を避けながら、ゾラは慌ててねずみ色の背中を追いかけた。
「ヒメちゃんは女の子だよね?」
 その問いに、ひょっこりとヒメが振り返り、まん丸の瞳でしげしげゾラのことを眺めた。よくなかったかな、とゾラは見つめ返しながら耳を垂れた。なぜだかヒメは自分のことを『ぼく』って言う。でも、着ていたピンクのドレスもそうだし、名前もそうだけど、何より顔立ちや匂いが女の子のそれなのだ。気分を損ねたのかと思いきや、ヒメは小首を傾げてニッコリと笑った。
「うん、でもぼく、男に生まれればよかったな」
 そうしてまた前へと進み始める。ゾロアもてこてこ付いていく。なんでか、聞いてもいいのかなぁ。ゾロアがまたむずむずしている間に、ふわっと焦げたソースの香ばしいのが鼻っちょをくすぐって、二匹は揃って右へならった。それから互いが互いを見合わせて、いたずらっぽくくつくつ笑った。きっと聞いても大丈夫だ。二匹は並んで歩き始める。
「どうして?」
「何が?」
「男に生まれればよかった、って思ってること」
「うーん、じゃあゾラは、女の子でよかったって思ってる?」
 こくんとゾラが頷くのを見ると、ふふんとヒメは鼻を鳴らした。額の癖っ毛をぴょこんと揺らし、耳をぷるぷるさせ、箒のしっぽをぴんと立てると、
「だって、――男の子だったら、こんなこともできる!」
 そう声高く宣言して、力いっぱい地面を蹴った。
 屋台の頭を越えるほど高くジャンプして、すとんっ、と着地したのは、人間の女の頭だった。一拍の後、どんぐり通りをヒャアアアと悲鳴が貫いた。真っ青になった人間の上で対してヒメはけたけた笑って、周りの人間が伸ばした腕をするりにょろりとかいくぐって跳躍、今度は子供の腕へと飛び移り、その衝撃で小さな手から食べかけのやきそばがどさっと落ちた。ウワァッと言って泣きだす子供、つられて大きくなる騒ぎ。ヒメはそこからくるくる回りながらダイブした。落下点のゴミ箱がどじゃっとひっくり返った。そのまま人の群れへと突っ込んでいくのを、ゾラは訳も分からず追いかけた。転がりまわるように人の股の間をすり抜けては飛び逃げては笑い、ついにはヒャッホウと叫びながら屋台の中へ突撃した。どしゃーん、と売り台が倒れて、そこからたくさんのきらきらが飛び散った。あぁっもしかしてあれは、あぁ、あのジュエルボックスのお店じゃないか! 足元に転がってきた可愛らしいきらきらのひとつ、拾ってしまえって悪タイプの本能がうずっと来た瞬間に、ゾラははっと顔を上げた。怒鳴りつける店主、何事かと囲い込む人波の向こうに、濃紺色の帽子が見える。その帽子の真ん中に光る、紋。あの、恐ろしい紋――
「ヒメちゃん護衛兵!」
 ブルーシートの店内を高速でんぐり返しで行き来していたヒメは、ゾラの早口におうっと返事して、瞬く間に路上へ滑り出てカミナリさまのような速さでその場を乗り切った。何が何だか分からない。もう頭は完全にオーバーヒート、ついていくので精一杯だ。ぜぇぜぇ言いながら走るゾロアの耳から、けたたましい人々の怒声はだんだん遠のいていって、代わりにヒメのアッハッハという笑い声が痛快に鼓膜をくすぐった。
「あぁ幸せっ、こんなに楽しいの初めてだよ!」
 その言葉を聞くと、呆れとかそういう感情は、ゾラの中から吹き飛んでしまった。
 二匹はしばらく駆け続けて、途中公園の銅像に寄りかかって休憩した。ヘビのようなサカナのような変ちくりんな銅像が、精悍な目つきで二匹を見下ろしていた。公園の真ん中には大きな噴水の泉があるが、そこに遊んでいる人間の子供たちは今日はいつもより少ない。皆お祭りに出かけているのだろう。そこまで歩いていって溜まった水をぺろぺろ舐め、喉の渇きを潤した。
 ちょっと疲れてしまったのか、二匹ともぼんやりとしばらく水底を眺めていた。今は静かに波打つみなもに、光の泳ぐ噴水の底。所々水色とピンクのウロコ模様のお洒落な底面がきらきらしてきれいで、ゾラはこいつがお気に入りだ。この噴水の秘密のことをヒメに話してしまおうかな、という気が少し起きたけれど、それはやっぱり船着き場で一緒に暮らしてる四匹の仲間だけでの内緒だったから、その気はすぐに失せてしまった。
 運動した熱にぼうっとふやけているゾラの横で、街はこんなに賑やかなんだねぇ、とヒメはしみじみ呟く。その時ゾラの頭に、あの、『今日はなんだか、街の全部がきらきらしているみたい!』『へぇ、そうなんだぁ』のやりとりの不思議の答えが、にわかに浮かび上がってきた――ヒメ、この街のこと、多分詳しくは知らないんだ。
「今日はでも、なんだか賑やかすぎるなぁ」
「そうなの?」
「何のお祭りがあるのかな……あっ」
 きょとんとするヒメの前で、ゾラはぴーんと尻尾を伸ばした。
「そうだ、思い出した! 結婚式があるんだ。この国の王女さまと、海の向こうのナントカって国の国王さま! そのお祝いで、こんなに盛り上がってるんだね」
 ブクがするみたいにその場でぴょんぴょん跳ねながら、ゾラは想像を膨らませた。ラストゥレーヌの王女の顔は、ゾラも写真で見て知っている。ふわっと優しいパーマのかかった金髪の、ふっくらした顔つきの美しい少女だ。一匹のポケモンを大事に育てていると言う、心の豊かな人だとも。そんな王女さまが、女王さまのお目付けでその、ナントカって国に嫁入りすることになった話は、ゾラたちみたいな野良のポケモンでも誰しも祝辞を述べあうくらい有名なことだった。そういえば、昨晩見た、あのきらきらを乗せた大きな船。あれはきっと、どこぞの国王さまが王女さまを迎えに来たのに違いない。ゾラだって女の子だ、きらきらと豪華な結婚式のことを思うと、もう高揚感で爆発して飛んでいってしまいそうだった。
「あぁ、いいなぁ、結婚式! きっとパレードが見れるよ。王女さまのウエディングドレス、きれいなんだろうなぁ。あっ、パーティーがあるなら、お料理のお零れがあるのかな! おいしいものが食べれるかも。ねぇ、楽しみだねヒメちゃ……」
 その時、ゾラは、ヒメの顔がみるみるうちに暗くなっていくのに気付いた。
「……ヒメちゃん?」
 ゾラは首を傾げた。
 突如、黙りこくっていた噴水の筒が、中央から脇の小さいのから一斉にぷしゃーと水を吹き出した。わっと二匹は驚いて、一緒にどてんと尻餅をついた。見る人の子の誰もいない中、噴水はさも愉快そうにくるくる円を描きながら、形のないオブジェを描き続ける。
 太陽の光を一身に集めてから水面へ飛び込んでいく水玉たちを、二匹はじっと見て、先にぴょこんと立ち上がったのはヒメの方だった。ヒメは水玉に負けないきらめいた笑顔を見せた。
「さぁっ、そんなことはいいから、早く鐘を鳴らしにいこう!」
 踊る噴水に背を向けてヒメは一匹走りだす。あっ、待ってよ、とゾラは慌てて追いかけた。今日はとことん振り回されてる感じ、でも別にゾラはそんなこの日が嫌いじゃない。冒険の予感がした。このお転婆のチラーミィから、ただならぬ冒険の予感がしたのだ。
 ヒメとゾラは狭い路地裏を駆け抜ける。細い坂道を上がっていく。





 あれが、鐘。――国の中央にほど近い民家の赤い屋根の上から、二匹は城を臨んでいた。
 気がつけば、どこまでも広がる空と海とは、黄昏の空気に蕩けつつある。くっきりしたオレンジの光陰の筋雲が、夕焼けをすうっと飾っている。
 ラストゥレーヌは国全体がひっくり返した浅いお椀みたいな小山の形になっていて、そのてっぺんに王さまの住む城があった。いくつかそびえる高いのの、一番手前に見える塔。とんがった屋根の下の空間に、大きな大きな鐘がぶら下がって、夕陽にぴかっと反射していた。遊んでたら遅くなっちゃったね、とヒメはへへっと笑った。見るもの全てがオモシロイと言わんばかりにあっちこっちと連れ回されて、ゾラは精神的にはともかく、体の方はどっぷり海に沈んだみたいに隅から隅まで疲れていた。
「……本当に、ゾラの力で忍びこめるのかなぁ……」
 だからこそぽつりと零したのは本当に弱気になったのもあったし、今日のところはよしておこうよ、というのも暗に含めていたけど、ヒメはそんなのはお構いなしにぶんぶん首を振った。
「大丈夫! 怖がるなって、ゾラならきっと行けるよ」
 ヒメはぼんっとゾラの背を叩く。疲れの色なんてちっとも見えない。本当に、びっくりするほどお転婆なチラーミィだ。自分のやんちゃなんて全然敵わないや――ゾラはそんなことを言おうとして、ヒメの方を見上げた。
 茜色に染められたチラーミィの頬は、そうでなくてもどことなく上気していた。おしゃべりな口はその時きゅっと結ばれてた。鼻先はつんと上を向いていて、一点の乱れもなく。大きな瞳は炎のような光を湛えて、まっすぐ城を見つめていた。
 今日一日で何度も、嫌じゃないけどついていけないな、と彼女に向けたゾラの思いも、その表情を見たときだけは静まって、ゾラは胸をどんと突かれたような心地がした。
「……あの鐘さえ鳴らせば。ぼくらは幸せになれるんだ」
 ヒメは潜めて呟いた。
 その時だった。ずん、と大げさな足音が聞こえて、二匹ははっと振り返った。屋根の甍の向かい側に、精悍なハーデリアが三匹、そして大きなムーランドが真ん中に、こちらを睨んでいる。その首輪に光る、あの紋――名誉あるラストゥレーヌ警護団の紋章。ゾラは息をのんだ。ヒメがくそっと悪態をつく。ムーランドの眉間に刻まれた皺が深まった。
 それは間違いなく、昨夜ヒメを追いかけていたポケモンたちだ。
「……もう終わりにしませんか、ヒメ。こんな無意味なこと」
 ムーランドの声は重々しく、じんと空気を震わせる。
 無意味なこと、とヒメが反復する。ムーランドはじりじりと間をつめ、ついに甍を乗り越えた。ハーデリアたちがそれに続く。ヒメとゾラとは摺り足で下がり、屋根の端まで追い詰められる。ゾラは目だけ動かして下を見た。少し低い位置に別の家屋の屋根がある。そこからなら入り組んだ路地に逃げ込めそうだ。
「身勝手だとは思われませんか。アザレアさまの気持ちも、少しはお考えになってください。……明日には、あなたの生涯でおよそ一番大切な、『進化の儀』が控えている。王女が嫁ぐ上で無視のできないしきたりだ。ヒメがいらっしゃらなければ、明日の結婚式がどうなってしまうか、そのくらいは分かるでしょうに」
 ヒメは何も言わなかった。ひたすら唇を噛みしめていた。ぴりぴりした緊張がゾラにまで伝わってきて、でもそれよりゾラには、ムーランドの言ったことで、頭の中がごちゃごちゃしてきた。アザレアさま、と言えば。ゾラたちみたいな野良のポケモンでも、誰もがきれいな人と口を揃えることができる、ラストゥレーヌの王女の名だ。
「ヒメ。――姫さま。姫さまの判断に、我が国の、ラストゥレーヌの行方が掛かっておるのですぞ」
 そのアザレア王女さまは、一匹のポケモンを大事に育てていると言う。
 ゾラはヒメを見た。ヒメはぶるぶる震えていた。背後には、明日の結婚式の準備に沸き立っているであろうこの国で一番大きな建物が、その北塔の荘厳な鐘が、ヒメをじっと見つめている。
 動かない『姫』に、ムーランドは息をついた。
「……それに、あんな鐘を鳴らしたところで……」
「――うるさいッ、バカムー!」
 ヒメはそう叫ぶと、ゾラの首根っこを掴んでその屋根から飛び降りた。





 積み上げられた雑貨の影からおずおずと、ピンクのドレスを着たゴミ袋がやってきた。
「に、似合うかな?」
 頬を真っ赤に染め、胡麻の瞳を若干潤ませながら恥ずかしそうに聞くヤブクロンに、しかし誰もが一瞥をくれただけで、視線を元へと戻してしまった。ブクはしゅんとした様子で、申し訳なさそうにそこに座った。
 ベッドの頭の端と足の端に、汚れもぶれのゾロアとチラーミィが一匹ずつ、むすっとした顔で丸まっている。
 ヤミラミのヤッさんは仕方なしと言うように立ち上がって、右手の何やら古ぼけた絵本を仰いでみせた。
「遥か昔、ラストゥレーヌの北の塔には、それはそれは醜い容姿の化けモンが捉えらておりました。化けモンは街の連中から酷い迫害を受けておりました。ある朝、化けモンは恨みつらみをとことん乗せて塔の鐘を打ち鳴らし、その音は国全体を不穏の響きで包みました。その翌日、ラストゥレーヌの全土には天地をひっくり返すような大嵐が襲いかかり、幾千の尊い命が失われてしまったのです。その鐘は『呪いの鐘』と呼ばれ、その響きは不吉の前触れとして今でも恐れられております……悪いけどな、その童話、調べさせてもろうたわ」
 ヤッさんはびしっ、と絵本でヒメを指し示した。
「何が『みんなを幸せにする鐘』や! とんだデマカセやないかい」
「……知らなかった」
「一国の姫君なら、知らん訳あらへんやろ」
 怒らないでよ、と控えめな声でヤッさんをなだめて、ブクが立ち上がった。窓の外に浮かぶ大きな月と船の明かりに、ドレスがちらちら閃いた。
「ちゃんと聞こうよ、理由。……そこまでして、結婚をやめさせたかったの?」
 優しく問いかけるブクの声にも、ヒメは顔を上げようとしない。
 ふいにゾラが振り向いた。唇を尖らせた不細工な顔でじっとねずみ色の背中を見つめて、それからのっそり起き上がると、とん、とベッドから飛び降りた。
「進化の儀が嫌だったんでしょ?」
 ヒメの尻尾がぴく、と揺れた。難しい表情でそれを見ているゾラに、ブクがおどおどと尋ねる。
「なに、それ?」
「ムーランドが言ってたんだ。ゾラも聞いたことあるよ。ラストゥレーヌの王女さまは、一匹ずつ血統書つきのチラーミィを連れていて、結婚するとき、白く光る石をあててチラーミィを進化させるって決まりがある。明日の結婚式で、ヒメは無理矢理進化させられるのが嫌だったんだ。ゾラに嘘ついてまで不吉の鐘を鳴らそうとしたの、それだからでしょ」
 いつだってやんちゃで明るかったゾラがそんなふうに声を低めるから、ブクも、ヤッさんも、黙って続きを待っていた。
「……ヒメ。ゾラ、何よりも、ヒメに嘘つかれたのが、一番悲しいよ」
 ようやっとヒメは顔を上げた。大きな黒い瞳には、今にも溢れそうなほど涙が溜まって揺れていた。
「……ぼくは、ぼくはただ……」
 ガタンッ、とその声を遮るように窓が開け放たれて、飛んできたペラップがくちばしから何か放り落した。
「号外! 号外! 号外だよー!」
 一緒に滑り込んできた夜風はいつも以上に冷たくて、ぺらーりの持ってきた新聞もひんやりと凍えていた。ヤッさんが拾い上げ、広げたそれを、ひったくるようにヒメがもぎ取った。
「なにすんねんっ……」
 突っ込みでも入れようと振り上げた右手を、しかしヤッさんは引っ込めることしかできなかった。――ついに我慢ならず、大きな瞳から、ひとつふたつと涙の滴が零れ落ちた。
「王女サマの結婚式は、アッシターのアーサー七時からー!」
 カラフルな翼ばたつかせて騒ぎ立てるぺらーりに、うるさいっ、とブクが『はたく』を決めた。ぺしーん。それからしばらく、船着き場の小屋はしんとしていた。ぽたたっ、と水滴の落ちる音がして、くしゃっと新聞の潰れる音がして、それからヒメは嗚咽を漏らした。ひっぐ、ひっぐと、押し殺した泣き声が聞こえた。絶え間なく寄せる波の音が、大きく小さく響いていた。
 新聞の大見出しの下には、寄り添う王女と異国の国王が、幸せそうに微笑んでいる。
「……ぼくより、こんなことの方が、大事だって言うのかよ!」
 そうしてヒメは新聞をべしんと床に叩きつけた。ブクがびくりと震えた。ヒメはそこにしゃがみこんで、呻くようにすすり泣いた。ヤッさんとぺらーりが、困ったように顔を見合わせた。
 いつしかゾラも、奥歯噛みしめ、膝の震えるのをひたすら必死にこらえていた。じんわり視界が滲んできた。でもぶんぶんと頭を振った。ずずっと鼻水を吸った。たんっと前足を鳴らした。こんなときだからこそ、自分が奮い立っていないと、だめだ。
 開いた窓の向こうに、豪華船のきらきらがある。その後ろに、月はまだ、力強く輝いている。次の朝の七時なんて、残された時間は十分だった。
「――ヒメたちは幸せになるんでしょ!」
 ゾラのその、上ずった声に。
 ヒメは力強く頷いた。





 夜明け前。
 船着き場付近の土手を巡回していたハーデリアたちは、護岸ブロックの合間から、何かポケモンが飛び出して来るのを視認した。
 三匹のハーデリア隊は目配せを送りあう。白んだ月の明かりを反射してちらちらと光るドレスは、美しく気高いピンク色。あのような発色の洋服なんて、人間のものでも一般の民には手が届かない。三匹は綿密に連携を取りながら、囲い込むようにピンクの光を追っていく。
 この場所に姫が現れるのはムーランド隊長の予想通りだ、さすがに女王直々の護衛犬というだけはある。しかし想定外だったのは、姫が城とは逆の方向へと走りはじめたことだった。それが何故だか、彼らには分からない。風に流されてくる生臭いごみの匂いの理由も、彼らにはちっとも分からない。けれどそんなことはどうでもいい。とにかく姫を捉え、式に間に合うよう城へお連れすること、それが彼らの使命なのだ。
 だから彼らは、ピンク色のドレスを着たポケモンを捉えて、その胡麻の瞳を拝んだ時、マグマのように煮えたぎっていた使命感が急速に固まっていくのを実感した。
「やぁっ、変なところ触らないでくださいっ!」
 頭の『結び目』を掴まれながら、ヒメのドレスを着たブクは可愛らしい悲鳴を上げた。


 ここでも夜目が功を奏した。真っ暗闇の街中をゾラの迷いない先導を受けて、ヒメは昼間の公園へと辿りついた。
 どこにヒメを追う連中が潜んでいるか分からない。二匹は息を殺しながら噴水の方へと近づいた。同じようにどこからか忍び寄ってきたヤッさんが、掌のものを二匹へ見せる。暗くてヒメにはよく見えなかったが、それは雑踏に踏み潰されたいくつものどんぐりであった。
「『主(ぬし)』は、どんぐりの実の匂いに引き寄せられるんや」
 極力まで潜めた声で言いながら、ヤミラミはそれを噴水の泉の方へとぽいぽい放った。ちゃぷんちゃぷんと音を立てて、月を映した水面が揺れる。その底の、月明かりでしっとりと輝くお洒落なウロコ模様へどんぐりの一つが達した時――猛烈なスピードでウロコ模様が動き始めた。ぎゃあっとヒメが大声を上げて、ヤッさんとゾラは慌ててそれを押さえつけた。
 ヒメの大声よりももっと大きな水音をざぱぁんと派手におっ立てて、ぬらりと長い何かが泉の底からせり上がってくる。凛とした赤い瞳と耳のたれ、濡れてつやつや光る水色とピンクのウロコ模様があまりにも美しいその大きなミロカロスは、はむはむどんぐりを食べながら、まーたお前ら、こんな時間に何か用、と大して美しくもない声で言った。
「主、いつもいつもすまんけど扉を開けてくれへんか」
「なぁんで」
「このチビたち、城に用事があんねん」
「ふむ……」
 ミロカロスは完全に怯えきっているヒメとぺこりとお辞儀するゾラを見て、めんどくさそうに尻尾を上げた。泉の本物の底にはめ込まれるようにされていた尻尾のあった所には、何やら赤い突起が見える。次にミロカロスがめんどくさそうに尻尾を振り下ろすと、ざぱんっ、がちっ、と音がして、次にごごごご、と地鳴りがして……ミロカロスがめんどくさそうに底の模様の一部へと戻っていった頃、腰の抜けていたヒメはようよう起き上がることができた。そして促されて振り向いて、もう一度腰を抜かしかけた。
 昼間寄りかかって休憩していた、ヘビのようなサカナのような変ちくりんの銅像が横にスライドしていて、その下にいかにもと言うような隠し階段が続いていた。


 こんな簡単に忍び込めるなんて、なんて杜撰な管理体制のお城に住んでいたのだろう、と、ヒメはせわしく人の動き回る厨房を見下ろしながら呆れている。
 大きめの通気ダクトにぎゅうぎゅうになりながら、三匹はじっと機会を窺っていた。無理矢理腕を動かして顎を撫でながら、ヤッさんがぼそぼそ言った。
「これは計算違いやったわ……結婚式前やから、いつもより厨房にぎょうさん人間がおる。このままじゃ式が始まるまでに中に入られへん」
「いつもって、いつもぼくのお城に忍び込んでたの、ヤッさん」
「そりゃあ、まぁ……せやかてオレだけちゃうで。そこのアホギツネも、アホインコもゴミ袋も同罪や」
 ヒメはゾラをじろっとねめつけて、ゾラはぺたっと耳を垂れた。
 広々した厨房には、さすがにお城の御馳走とあって、生唾を飲み込みたくなるゴージャスな匂いが充満している。それを見まわして、ヤッさんはふむ、と頷いた。そして振り向いた。その宝石のような瞳が、ぎらっと悪タイプらしい光を放った。
「アホギツネ、それからアホネズミ」
「ぼくはネズミじゃないっ」
「じゃあただのアホや。そこのアホゥ共、俺がまず先に出て連中を引きつけるから、その隙にこっそり中へ行きぃや」
 アニキ分のお手本のような彼の言葉に、二匹はじんわり感動すら覚えた。
 ウィィィィィィィッ! と奇声を発しながら、ヤッさんがダクトから飛び降りた。シェフたちの目という目が全て、その紫の影を追った。がちゃんぱりーんと皿やらなんやらの割れる音があちこちから響き始めて、各所火の手さえ上がり始めた。あっという間に厨房は怒号と混乱の嵐に包まれた。さすが、ヤッさんのアニキだ! 小声で言うと共にゾラはダクトを飛び出し、ヒメが降りてくるのと合流すると、そそくさと厨房を抜けていった。
 それを見て、ここぞとばかりに、ヤッさんは瞳をこれ以上ないほど輝かせ、運び出されようとしていた料理の群れへと顔面から突っ込んだ。
「――んんっ、うまい!」
 満面の笑顔で叫んだヤミラミの首根っこに、人間の手が次々と襲いかかった。


 イリュージョン、と呟くと、あっという間にちいさなゾロアは人間の姿へ変貌した。ふわっと優しいパーマのかかった金髪の、ふっくらした顔つきの美しい少女だ。ヒメはうわぁっと感嘆して手を叩いた。
「凄い、よく似てる!」
「ほ、本当に? ばれないかな?」
「大丈夫、ぼくから見てもアザレアそっくりだよっ」
 二匹――改め一人と一匹は、急いで物影を飛び出した。この場所で生まれ育ってきたヒメだから、城内の地理にはとことん詳しい。式直前のはずのアザレア王女の慌てて走っていく姿と、お尋ね者となっていたはずのチラーミィの普段より汚れた姿を見て、すれ違う人すれ違う人いちいち皆が振り向いたが、それもどうだっていいことだった。脇目もくれずに絨毯を駆けた。人々がせかせかしている。式の始まりが近づいているのだ。
 堂々城を通り抜け、中庭へと飛び出したヒメは、ゾラへとひとつの塔を指し示した。
「あれだよ、あれが、鐘の塔」
 ゾラの、人の形の瞳が見上げる。あの屋根から見たときはそうとも思わなかったのに、真下からだと随分高い。鐘の姿も隠れて見えない。――辿りつけるのだろうか。心臓が高鳴り始める。だめだ、落ち着け。ゾラは王女アザレアだ。冷静に、冷静に……。集中力を高める暗示をかけ始めたその時、ずん、と大げさな足音が聞こえた。
 分かっていた、と言うように、ヒメはゆっくりと振り返った。ゾラもそれを推し測り、王女たる気風をめいいっぱい取り繕って背中の方を顧みた。
 たった一匹、けれど、縮みあがるような最上級の威厳をまとったムーランドが、二匹をじっと見つめていた。
「……わたしの前で、匂いまでごまかせると思いなさんな」
 ずし、ずし、と踏みしめるような足音を立てながら、ムーランドが近づいてくる。二匹は今度は引かなかった。一歩として引かなかった。
「姫さま。もうすぐ儀式の時間ですぞ」
 ただ、重々しく言い放つムーランドの厳かな瞳を、炎の熱で見返していた。
「あなたは、あなたの主(あるじ)の婚姻を台無しにするおつもりか」
「アザレアの、婚姻?」
 ハッ、とヒメは笑った――その時ふいに、彼女を取り巻く雰囲気が一変する。内心ゾラは驚いた。それをめちゃくちゃにするためのヒメの覚悟も執念も、ゾラは知っているつもりだった。けれど、今ヒメが選んだ剣は、違う。男に生まれたかったな、とぼやいた彼女の、小さな一匹のものではない。先祖代々ラストゥレーヌに仕えてきた、姫の血の受け継ぐ『誇り』のような、確固たる力を持つ何か。
「国と国との婚姻、ではなくて?」
 急に高圧的になったヒメに、ぐっ、とムーランドは芝を踏みつけた。
 ひゅうひゅうと風が駆け抜けた。遠く微かに群衆のざわめきが聞こえた。式は間近だ。人も集まってきている。
「姫さまともあろうものが何をおっしゃるか。我々はラストゥレーヌ家への忠義をもって――」
「忠義? それのどこが? 国の望まない結婚を押し進めることが? 笑わせないで!」
 臣下がするよりさらに強く、ヒメは青芝を踏みしめる。
「あれはとんだ男じゃない。女王さまを良いように口車に乗せて無理矢理アザレアを手に入れて、いずれラストゥレーヌの執権を奪おうとしている。アザレアだって分かっている、分かってて結婚を嫌がってた、ムーだってあの男の傍に、アザレアの傍にだっていたのに、すぐに分かったはずでしょう! 女王さまは間違っている。このままじゃラストゥレーヌは終わるのよ!」
「し、しかし……我が護衛団は女王さま直属の部隊であり、その命令に背くなどということは……」
「分かっててこんなことをするなんて、恥を知りなさい!」
 あまりの威圧に、クンッ、とムーランドが引いた。
 ヒメは二三歩前へ踏み出した。黒く大きな瞳は、淀みない光を宿していた。その場に居合わせた誰よりも、誰よりも小さなチラーミィが、大きく両手を広げ、誰よりも声高く、城を背負って宣誓した。
「ラストゥレーヌの名において! ――わたくしは。これ以上、あいつの好きにはさせないわ」
 空はいつの間にか明らみ、青白い朝の光が、小山の国を包み始めている。





 何万という観衆の見守る中、王城のバルコニーへ、王女とその夫となる異国の王とが姿を現した。
 人とポケモンで埋めつくされた会場には、煮沸寸前の恐ろしい熱気が渦巻いている。それは芯からの祝福ムードか、外国へ嫁いでいく王女を惜しむ声なのか分からない。ともかく、全身全霊を持ってその結婚を良しとしないという態度を取っているのは、今のところ、護衛兵に摘まんでこられた二匹のポケモンだけだった。
「あっ、ヤッさん! 捕まっちゃったの」
「ブク、お前もか。無事そうでなによりや」
 護衛の方もそんな野良ポケモンに構っている暇はないようで、二匹をぽいっと茂みの方へ放り投げると、人混みの方へと紛れていった。
 例のドレスを奪われたところで相変わらず生ごみ臭のブクと、厨房の件(くだん)でおいしい料理の匂いが染みついたヤッさんは、二匹してバルコニーのプリンスとプリンセスを見上げる。手を振っている彼らの笑顔は、ヒメの話を聞いた今となっては、男の方は嫌らしい『わるだくみ』の顔にしか見えなかったし、王女の方は、悲しみを努めて押し隠している、そんな風にも見てとれた。ゾラとヒメちゃん大丈夫かな、とか細い声で鳴くブクに対して、ヤッさんは口をもぐもぐさせながら、うまくやってるとえぇけど、と低くぼやいた。
 至る所に備え付けられた大型のスピーカーから、マイクの雑音が聞こえ始める。会場がだんだんと静まっていく。結婚式、はじまっちゃうよ。今にも泣き出しそうなブクに被さるように、スピーカーから誰かの声が聞こえ始めた。
『えー、ご静粛に、ご静粛に。ラストゥレーヌ国民の皆々様、今日という、このめでたき日に、アッ、チョッ、なっ、コラ! こいつ、このインコッ、あぁっ、やめな……』
 国を挙げての祭典での、そんな信じられないハプニングに、にわかに会場がざわつき始める。誰かの声がフェードアウトしていくにつれ、騒々しい羽ばたきの音と、甲高い鳴き声が、スピーカーから発信されはじめた。インコじゃなーい! インコじゃなーい!
 ブクは思わずぴょんぴょん跳ねた。ヤッさんはガッツポーズを決めて、あんのアホインコ! と叫び上げた。
 鳥足にがっちりマイクを掴んだぺらーりが、悠々と会場高く飛び立っていく。





 北の塔入り口に控えていた門兵を、ムーの巨体が『たいあたり』一撃で吹き飛ばした。
 ゾラとヒメとがあ然としている前で、ムーは卒倒した門兵の腰の鍵束をいとも簡単に食いちぎると、それをヒメの手の中に落としてみせた。ありがとう、と二匹礼を言うと、ムーはただむすっとしたまま背を向けて、城の方へとのっそりのっそり歩いていく。それだけで、彼の気持ちは十分だ。ヒメは鍵を順にいくつか差しこんで門を開け、早くと急かして飛び込んだ。ゾラもゾロアの姿に戻って、全力の四足歩行で駆け出した。
 螺旋の石造りの階段を、ただひたすら登っていく。壁に設けられたいくつもの小窓から見える景色がぐるぐる回っていく。そこから薄暗い屋内へ鋭い光が差し込んでいる。だんだん世界が高くなる。ふいに、イソゲ、イソゲ、と甲高い声がした。流れていく窓辺の中を、なんとぺらーりが追いかけてきている! 二匹を見ながら塔の周りを飛び回っているのだ。おぉッ、まかせて、と二匹は苦しい呼吸で、その声援に必死に応えた。突如、グゲェッ、と潰れたような悲鳴が聞こえて、いかついムクホークに取り押さえられたぺらーりが視界を後ろに流れていった。
 急に広い空間に出た。迷うまでもなく一本道だが、突然目の前に、大きな網を構えた門兵のなりの人間が現れた。待ってたぞォ、と嬉しそうにほくそ笑みながら、人間は大仰な動作で網を振り下ろした――ふいに人間の視界の中で、狙うべきチラーミィが二匹になった。え、と言う間に、彼の横を二匹ともどもが駆け抜けていく。片方はもちろんイリュージョンしたゾラだったのだけれど、その階の最後に鉄柵に阻まれた上への階段を見つけて、そっくりの二匹は同じ動作で柵の下をくぐり抜けた。すんでのところで門兵の手が尻尾を掴み損ねた。彼は鉄柵に頭をぶつけて、仰向けにそこへひっくり返った。
 二匹はためらわず駆け続けた。上へ。上へ。上へ。上へ。ひたすら石段蹴り飛ばす。のぼれ。のぼれ。のぼれ。のぼれ。十分には取れなかった昨日の疲れの残りもあって、四肢がじんじん痛み始める。あの屋根の上にいる時、ゾラにはヒメが随分元気そうに見えていたけれど、普段ゾラの何倍もぐうたらしているヒメだから、本当は全身泥人形みたいに動かなかった。けれど鳴らしたかった。鐘を。民のために。国の未来のために。ううん、本当は、そんなことはどうだってよくて、何よりも誰よりも、たったひとりの愛するパートナーのために。呪いと言われるあの鐘で。本当に本当に、ヒメは幸せにしたかった。
 隣にゾラがいた。ぜぇぜぇひぃひぃ言いながら、がんばれ、がんばれ、と呻いていた。ヒメは何も返せなかった。だんだん酸素足らずに混濁してぐちゃぐちゃになる意識の中に、色鮮やかに昨夜の光景が浮かび上がった。
 船着き場の小屋の中。幸せになるんでしょ、とゾラは言った。幸せになりたかった。なりたかったし、アザレアにだけはどうしても、幸せになってほしかった。悪い異国の王のこと、騙された王女さまのこと、素直に事の顛末を話せば、ちいさなゾロアは溜め息をついて、どうして本当のことを言ってくれなかったの、と聞いてきた。ヒメはなんだか恥ずかしくなって、独り言みたいな声を返した。本当のことを言ったら、協力してくれないでしょ。
 すると、ゾラと、ブクとヤッさんとぺらーりは、互いの顔を見合わせて、けらけらけらと笑うのだ。
「そんなことないよ。飼い主のために城を飛び出し、危険を冒してまで警鐘を鳴らそうとする勇ましすぎるお姫さま! こんなに応援したくなる事って、他にないよっ」
「乗りかかった船ってヤツや」
 皆がそんな風に言った。皆がヒメの肩を叩いた。ゾラははにかみながら、なぜだかちょっと泣きながら、尻尾を振って抱きついてきた。
「ヒメが心を開いてくれれば、皆ヒメに協力しちゃうんだからっ」
 ブクがぴょんぴょん跳ねた。ヤッさんが鼻を鳴らした。ぺらーりがばさばさ羽ばたいた。
「――ヒメはもう、大事な仲間だよ!」
 そうして皆、にやっと笑って。ヒメは、ちょっとぽかんとして、それからにやっと笑い返して。
 すると、声までこらえきれなくなって、ヒメはわんわん泣いたのだ。
 生まれてからずっと、ヒメにそんな友達はいなかった。アザレアのことは大好きだ。撫でてもらうのが好きだった。良い子にしてれば、たくさん頭を撫でてくれた。けれど、自分のちいさな胸の中に、どこまでも駆け抜けたくなるような野良っぽい衝動が、こっそり隠れてうずいていること、ヒメはずっと分かっていた。優雅に紅茶を啜る友達もよかった。けれど、引っ掻きあいっこするような友達も欲しかった。泥んこになって笑いあえるような友達も欲しかった。だから、通じ合ってるみたいな『にやっ』が、本当に本当に羨ましかった。
 はしれ。はしれ。はしれ。はしれ。今ヒメはひとりぼっちじゃない。一緒に走ってくれる仲間がいる。あがれ。あがれ。あがれ。あがれ。応援してくれる皆がいる。確かに変な奴らだけれど、励ましてくれる友達がいる。
 こんなにも簡単なことだった。ただ、ありのままの心を、素直に伝えるだけでよかった。気取らずに、嘯かずに、思った通りに言えばよかった。そうすれば、皆が力になってくれる。あのカタブツのムーだって命令に背いてくれた。それなら、もっと多くの人に、届けることもできるはず。
 階段の向こうに強い光が見えてきた。足の裏がこんなにも痛い。蹴るたびに噛みつかれるような引き裂かれるような衝撃が走る。心臓もばくばく早打ちしてる。喉の前と後ろが張り付くみたいだ。蹴りあげる。また一段。蹴りあげる。段を捉える間隔が消え失せていく。蹴りあげろ。溢れ来る光に突っ込んでいく。蹴る。飛んでいるのかも。蹴る。蹴る。呼吸が言う事を聞かない。空気を喉が押し返す。でも一歩。跳べ。跳ぶんだ。見えてくる。朝日を弾く鈍い光の球。呪いの鐘。希望の朝の鐘。前足が震える。泳ぐように蹴った。颯のように跳んだ。その光の中へひとつ下がっている、あの一本の綱めがけて。ゾラが吠えた。ヒメも似たように、吠えた。

 出来うる限り、心のままに。めいいっぱいの気持ちを乗せて。
 鐘を、鳴らしたい――!

 二匹がいっぺんにしがみついて、力いっぱい引っ張り下ろした。
 鐘が揺れた。ぶぅんと大きく左に揺れ、ひとつめの音が響き渡った。それに連動するように、隣の鐘が左に揺れた。その隣の鐘が揺れた。綱が引っ張り上げられる力に耐えきれずに二匹はぶわっと空を飛んだ。重力にならって落ちるのに、二匹の重みでまた綱が引かれた。先程より強く。そしてぶわっと空を飛ぶ。その上の鐘が、またその上の鐘が、次々と力強い音を奏で始めた。その響きは幾重にも幾重にも折り重なって、あまりにも賑やかな、荘厳だけど愉快な、複雑だけど単純な、強くて優しくて怖くてきれいで逞しい眩しい響きとなって――





 結婚式会場だった場所を、二匹は鐘付き堂の高台から見下ろしていた。
 結果として二匹が引き起こしたのは、空前絶後の大混乱だった。こんなめでたい日に『呪いの鐘』が鳴らされて、街は本当にどうにかなってしまったかのような騒ぎに包まれていた。でも、それはどちらかというと、『お祭り騒ぎ』に近い、ような。結局のところアザレアの結婚を快く思っていなかった王女さまファンは、国に数知れず潜んでいたのだ。
 とんでもないことになっちゃったな、と、ゾラは最初にヒメと会った時のように思っていた。朝日に何が煌めいているのか、街全体が本当にきらきら光ってみえる。大きなジュエルボックスを思い起こした。いいや、ジュエルボックスよりも、ずっとずぅっと良いきらきらだ。冒険の予感、間違ってなかったな、と他人事のようなふんわりした心地で考えながら、ゾラは朝の賑やかな街並みを見下ろしていた。
「……結婚、どうなったのかなぁ」
 うつ伏せになって肘をつき、足をぶらぶら揺らしながら同じように街を見下ろしているヒメは、小さくそんなことを言った。ゾラはヒメにぎゅっと寄り添うようにした。朝風はまだ冷たいけれど、全身はぎしぎし痛いけれど、それぞれ隣の体温は、ぽかぽかしてて気持ちいい。
「きっといいようになるよ。ヒメはがんばったもの!」
 ヒメはふとゾラの顔を見て、しばらくしげしげ眺めて、それから、にやっといたずらな笑顔になった。
「ゾラって、本当に泣き虫なんだね!」
 え、と返して、ゾラははっと顔を拭う。訳の分からない涙が、次から次へと溢れてきた。
 うえぇぇなんでぇ、と困惑するようなわめき声で鳴いているゾラの横で、ヒメはけらけら笑って、ぴょんと飛び上がった。皆のところへ行こっ、とやはり疲れの色などなかったように階段のほうへ走っていくヒメに、待ってよぉ、と声だけかけて、ゾラもよろよろと立ち上がる。
 でっかい朝日が、ラストゥレーヌの空を昇りはじめた。
 
> ダルマッカの為に鐘は鳴る 作:一葉
ダルマッカの為に鐘は鳴る 作:一葉
 空が広く見えるのは、きっと、視界に映る建物(モノ)が何もないからなのだろう。
 平べったい小さなこの町では、空を遮る物なんて何もなかった。だから、空を見上げれば、視界に映るのは青と白のコントラスト、それからたまに空を横切っていくマメパトの群れくらいのものだ。
 何もない町だった。旅人達は訪れるではなく過ぎ去っていく、この町はいつも目的地ではなく通過点だ。食事処も宿もいつも賑わっているが、そこに馴染みの顔などいない。たまに「また寄ってみたよ」なんて言う客もいたが、次の日には町を去り、次に立ち寄るのは数ヶ月後か、数年後かだ。その頃には店主も旅人も互いの顔など忘れている。

 そんな小さな町に異変が起きたのは、そのポケモンが街に居着いて二年目の事だった。
 町の北部にある高台の広場に集まっていた三匹のポケモンは、その様子をじっと眺めていた。
 広場に集まった人間達。数台の大型車両に積み込まれた資材は何の為の物であろうか。人間達が何をしているのか興味があったのだが、大きな車両は彼らから見て巨大な化け物にしか見えず、近付く事も出来ずに眺めていたのだ。

 なにをしているんだろう、と一匹のダルマッカが呟いた。他の二匹のダルマッカも興味津々であったが、その様子を近くまで確かめに行く勇気はなく、三匹は顔を見合わせる。
「ダルマッカ達も気になるのね」
 いつの間にか現れた女の子が、そう笑った。宿屋の娘で今年八歳になるその女の子は、ダルマッカ達がこの街に来て初めて気を許した人物であった。
 この町に住む数少ない子供である彼女は、初めて見たダルマッカに、怖がらずに手を差し伸べた。そして、自分のお菓子をわけ与えた。たったそれだけの事であったが、それだけの事でダルマッカ達は女の子を信用したのだ。無邪気な笑顔が、ダルマッカ達に女の子が敵ではないと認めさせたのだ。それ以来、ダルマッカ達はこの町に住み着いている。

「あれはなんなのって? ダルマッカ達はわかんないわよね」
 女の子は言う、あれはね、時計塔を作っているの。もちろんダルマッカ達に時計塔などと言ってもわかるはずもなく、丸い身体を傾げ疑問符を浮かべていた。ダルマッカ達は問い掛ける。広場は無くなってしまうの?
 女の子にはダルマッカ達の言葉はわからない。だから、楽しみなのと笑い返した。

 ダルマッカ達が初めて女の子に出会ったのは、この高台の広場だった。ダルマッカ達がいつも遊んでいたのも、この広場。ずっとずっと、この広場で過ごしてきたのだ。

 ソノ広場ガ無クナル?

 時計塔ッテ何ナノ?

 僕達ハ何処ヘ行ケバ良イノ?

 ダルマッカ達の不安をよそに、女の子は期待に胸を膨らませて言った。
「時計塔のてっぺんにおっきな鐘が付くの、明日には届くの、楽しみなの」
 何もないこの街の新しい観光名所。ただの中継地点に過ぎなかったこの街に、訪れる目的を与えてくれるもの。この女の子ならずとも、街に住む人間ならば誰もが時計塔の完成を待ち望んでいた。

 大キナ鐘?

 ソレガ無イトイケナイノ?

 ソレガ無クナッチャエバ良イノ?


 翌日になって事件は起きた。建築用重機が何者かによって破壊されたのだ。犯行は強力な炎タイプの技で行われた可能性が高い事以外に、犯人の手掛かりとなるものは残されていなかった。
 女の子は、事件の話を聞いてすぐに広場へ駆け出していた。ダルマッカ達はいつも広場にいる。犯行現場となった広場にいるのだ。事件に巻き込まれてケガをしているかも知れない。
 息を切らしながら広場へ付くと、そこには既に人集りが出来ていた。警察と工事関係者、そして何人かの野次馬の姿。女の子はその中にダルマッカの姿を探す。
 見つからない。それは安心して良いのか、不安に思うべきなのか、幼い女の子にはわからなかった。
 駆け出す、どこへ? わからない、ダルマッカ達のところへ、どこにいるの? わからない!
 思わず泣き出した女の子に、野次馬の一人が駆け寄り優しく声を掛ける。「ダルマッカはどこなの?」と啜り泣く女の子の問いに答えられる者など、いない。
 ねぇ、どこ? 応えて! 返事をして! お願いだよ! 女の子の祈りに、彼らは応えない。
 そして泣きじゃくる女の子を、宿の女将が迎えに来ると、女の子は泣き付かれて眠ってしまった。眠ってしまった女の子にはもう何も聞こえない。

 目醒めたのは、もう日が傾いた頃だった。
「ダルマッカ……探さなきゃ……」
 女将に着替えさせられたパジャマのまま、女の子は部屋を出る。すれ違った仲居に声を掛けられたが、それにすら気付かず少女は歩いていく。
 どこへ? ダルマッカ達の下へ。
 夕方のまだ人通りの多い時間、パジャマ姿で駆ける女の子に道行く人は何事かと振り返るが、それ以上気に留める事はしない。
 高台の広場へ続く階段の前で、女の子は立ち止まった。意味がわからない。それは至極当然の事であったが、まだ幼い女の子には何故そんな事になっているのか理解出来なかった。
 立ち入り禁止。広場への階段はロープが張られ、中央には看板が一つ鎮座していた。
 工事車両の破壊は立派な事件であり、犯罪である。犯人の目的が時計塔建設の中止であれば、再び広場で事件が起きる可能性も高い。調査のためと安全のため、広場が立ち入り禁止になったのは当たり前の事だ。
 だが、女の子は納得出来ない。ロープをくぐり抜け、階段を駆け上る。だが、すぐに警備に当たっていた警官が女の子に気付き、その前に立ちふさがった。
「ダルマッカを探してるの、ここにいるはずなの」
 ここしかない、ここにいるはず、ここしかダルマッカ達の居場所はなかったから、いつだってここにいた、だから今だってここにいる、きっといてくれる。
 支離滅裂に訴える女の子は、警官を押し退け、無理矢理通ろうとしたが、小さな身体で屈強な大人に勝てるわけがない。簡単に抱き上げられるともう女の子には為す術がなかった。
「放して! 行かなきゃいけないの!」
 じたばたと藻掻くが、足掻けば足掻くほど警官は女の子を放すわけにはいかなくなる。なんとか落ち着かせようと警官は声を掛けるが、女の子には届かない。
 その様子を傍から見れば、まるで女の子が襲われているようにも見えただろう。相手が警官で、そこが立ち入り禁止の区画であったから、人が見ればある程度の状況は理解出来たかも知れないが、彼らにそれは出来なかった。
 突然降った火の粉が警官の背を焼いた。制服に焦げ目が付く程度で熱さは感じなかったであろうが、突然の攻撃に警官は驚き、女の子を抱える手を弛めてしまった。
 逃げ出そうとする女の子を庇うように一匹のダルマッカが飛び出す。ダルマッカが警官に再び火の粉を浴びせると、もう一匹のダルマッカが現れ、女の子の手を引いて駆け出した。

 ダルマッカの低い身長で手を掴まれていたため、女の子は数度転びそうになりながら大通りを東へ抜ける。町外れまで走った所で、ようやくダルマッカは足を止めた。女の子は荒い呼吸でダルマッカを見つめる。良かった、無事だった。安堵に溢れる涙を拭いもせず、ダルマッカの身体を抱き締める。やがてもう一匹のダルマッカも追い付いて来た。三匹目は……来なかった。
「……もう一人は……どう……したの?」
 恐る恐る女の子は尋ねた。声が震える。安堵が不安に、歓喜が絶望に代わる。 ダルマッカがいない、一匹足りない、どこにもいない、見つからない、見つからない、見つからない!
 感情の波が女の子を飲み込む。限界だった。どうしようもない悲しみに、涙が溢れそうになったその時だった。
 ダルマッカが女の子の手を引く。もう一匹のダルマッカが街の外を指差す。言葉はわからなくても、女の子をその先へ呼んでいるのはわかった。女の子は頷く。ボロボロの心で、ダルマッカが誘うままに歩きだす。

 その先で、それを見た。
 横転した車両。倒れたまま動かない作業服姿の男性と、その彼に呼び掛ける男性。炎上するトレーラーのコンテナには大きな穴が開いていた。
 意味が解らない、理解できない。これは何? 何が起きたの? なにが起きているの?
 答えは横転した車両の中から帰ってきた。ポケモンの襲撃。微かに聞こえてきた声は確かにそう行っていた。耳を澄ましてその声を拾う。燃え盛るトレーラーと鈍い金属音のせいで音が聞き取れない。それでも、幾つかの単語が女の子にも聞こえた。

 「大鐘」と「ヒヒダルマ」

 女の子は知っていた。このポケモンはダルマッカ。その進化形はヒヒダルマ。初めて会った時に調べたから覚えている。どんな事が好きなのか、どんな食べ物を食べるのか、ダルマッカ達ともっと友達になりたかったからたくさん調べた。ダルマッカの進化形はヒヒダルマ。そのヒヒダルマが……暴れている。いなくなった一匹と、それを結び付けるのはきっと簡単だった。
 同時に気付く。ダルマッカ達は、ヒヒダルマを止めて欲しくて、女の子を連れてきたのだと。
 ダルマッカが再び女の子の手を引いた。森の方、響いて来る金属音。その先へ。

 赤い巨獣。丸々とした巨体にはダルマッカの面影を感じられたが、発達した両腕はダルマッカのものとはいえ桁違いに力強い。その力強い腕を、馬乗りになったそれに叩きつける。その度に鈍い金属音が響き、両の腕から血が滲む。それでもその行為を辞めようとしない。
 ヒヒダルマが何を叩いているのか、女の子はもう少しヒヒダルマに近付くとそれが何なのか解った。
 大鐘。ヒヒダルマは大鐘を叩いていたのだ。両腕が壊れてでも、この大鐘をどうにかしたかったのだ。

 コノ鐘ガアルカラ広場ガ無クナルノ?

 コノ鐘ガアルカラ僕タチハ追イ出サレルノ?

 コノ鐘ガ無クナレバイイノ?

「やめて……」
 女の子が震える声で呟く。
「もうやめて……」
 それでも、ヒヒダルマは大鐘を叩く事をやめない。
「やめてよ!」
 女の子の悲鳴に、ようやくヒヒダルマはその存在に気付いた。驚いて両腕を振り上げたまま、ヒヒダルマが硬直する。
「帰ろうよ、ヒヒダルマ」 そう言って両手を差し伸べた。ヒヒダルマも、女の子に手を伸ばす。でも駄目だった。その手は掴めない。この鐘が無くならなければ広場は、ヒヒダルマ達の居場所は無くなってしまう。だから、この大鐘を壊さなければいけないのだ。
 ヒヒダルマの全身が炎に包まれて行く。身体を身を焦がす程の炎で覆い突進する炎タイプ最大級の大技フレアドライブだ。
 女の子の悲痛な叫びを振り切るように、ヒヒダルマが地面を蹴った。

 突如割り込んできた一体のポケモンが、ヒヒダルマの渾身の拳を額で受け止めた。橙と黒の稲妻のような縞模様の毛皮。雄々しいたてがみはまるで王者の風格を漂わせており、凛々しい眼差しからは絵本のヒーローのような力強さを感じさせる。遠い地で伝説にすらなったポケモンの一種、ウインディ。
 女の子を追ってきたのか、事件の通報を受けやってきたのか、先ほど広場へ続く階段で出会った警官がヒヒダルマを指差し何か指示を出すと、ウインディはヒヒダルマの懐に飛び込み、強力な体当たりから後ろ足での見事な連撃をお見舞いした。
 だが、その一撃はヒヒダルマを倒すには至らない。先制で受けたフレアドライブのダメージが大きく、ウインディのインファイトは本来の威力を発揮できなかったのだ。大きくふらついたウインディの隙を逃さず、ヒヒダルマがその大きな腕をウインディの側頭部に叩きつけた。アームハンマーの強力な一撃をまともに受けたウインディはそのまま地面に崩れ落ちる。
 ヒヒダルマは倒れたウインディを一瞥すると、視線を大鐘に戻した。倒れなかったまでもダメージは大きい。もう一度のフレアドライブは使えないとなると、大鐘の破壊はもう叶わないであろう。
 破壊を諦めたヒヒダルマは、大鐘を掴むとそれを森の奥へと引き摺って行く。その先にあるのは大きな崖、その下を流れるのがこの地方最大級の大きな河だ。そこに投げ込んでしまえば簡単には拾い上げられないであろう。
「待ってほしいの、ヒヒダルマ」
 女の子が懇願するが、ヒヒダルマはそれを聞き入れない。この鐘がある限り広場は無くなる、そう考えているヒヒダルマは聞き入れるわけにはいかないのだ。
 ヒヒダルマは広場を、思い出を守りたい一心で、傷付いた身体に鞭を打ち鐘を運ぶ。
「お願いなの、ヒヒダルマ」
 それでも女の子は願う。この大鐘は町の希望、それを奪ったら、ヒヒダルマはもうこの町にはいられなくなってしまう。追い出されるか、もしかしたら殺されてしまうかもしれない。
 女の子はヒヒダルマ達を、未来を守るためにヒヒダルマを止めようと説得する。
 それでもヒヒダルマは止まらなかった。ヒヒダルマは崖縁に立つと、大鐘を両手で持ち上げた。
「ダメなの! お願いだからやめてよ、ヒヒダルマ!」
 女の子の願いも虚しく、手は離される。

 咄嗟に伸ばした女の子の手が、大鐘を掴んだ。小さな女の子、いや、人間の力で持ち上がる物ではない。大鐘に引き摺られるようにして、女の子の身体が宙に落ちる。

 その寸前でヒヒダルマは女の子の身体を掴み上げた。大切に抱きかかえられた女の子は、尚も大鐘に手を伸ばそうと藻掻いている。
 その時になって、ヒヒダルマは自分が大変な事をしたのだと気付く。だが、片腕に女の子を抱え、片手では大鐘を支えられない。それ以前にもうヒヒダルマの手はもう届かない。自分の力ではもう間に合わない。河の流れも速い、水の中に落ちてしまえば、引き上げるのは不可能だ。それ以上に、先程の戦いで身体は限界だった。意識が遠退く。大鐘をなんとかしなければ、その想いが微睡みに融けていく。

「だめぇー!」
 女の子の叫びが、水音に紛れて消えた。

 盛大に上がった水柱に、女の子は項垂れた。間に合わなかった、止められなかった。
「え?」
 女の子は瞳に映ったそれに、目を疑った。大鐘が浮いている。川は鐘が沈むには充分な深さがあるはずだ。大鐘は、確かに水面に浮いていたのだ。
「これって……!?」
 驚いてヒヒダルマの顔を振り向き、また、驚愕する。ヒヒダルマがまるで石像のように変化していたのだ。ダルマッカについて調べた女の子も、ヒヒダルマについてはあまり知らなかった。
 ダルマモード。体力を失ったヒヒダルマが体力を温存し、肉体の回復に努める為の休眠モードとも呼ばれる姿である。そしてこの姿の特徴は、身体を封じる代わりに、精神を研ぎ澄まし強力なエスパータイプの技を使用出来る事なのだ。ダルマモードの強力なサイコキネシスで、大鐘が水没する寸前で食い止めたのだ。
「……ヒヒダルマ」
 ヒヒダルマはそのままサイコキネシスで大鐘を引き上げると、そのまま力尽きたように眠りについた。完全な休眠モードに入ったのだ。


 ヒヒダルマが目を覚ました時、すべては終わった後だった。通常、町や人間を襲ったポケモンは殺処分となる。ヒヒダルマがそれを免れたのは、この地方のある法律のおかげであった。
 ポケモン保護法第十三条ポケモン棲息地開拓についての項目。
 女の子達も、ダルマッカ達も、その法律の事はわからなかった。ただわかったのは、ヒヒダルマが助かった事、そして……
「完成したら時計塔の中にみんなが住めるようになるの」
 野生のポケモンを追い出す事は出来ない、法律で禁止されている。その為、計画自体が中止されかけたのだが、時計塔の中にヒヒダルマ達の居住スペースを作る事で再開された。
 その時計塔の周りにはたくさんの人が集まっていた。今日が、時計塔の完成式なのだ。もうすぐ正午、十二時を指す。そして、十二時の鐘と同時に、時計が動き出すのだ。

「もうすぐなの」
 女の子は笑う。ダルマッカ達も笑う。ヒヒダルマも、笑っていた。


 もうすぐ鳴るよ、鐘が鳴るよ。

 鐘が鳴るよ、どんな音?

 ゴーンって大きな音?

 リンゴーンって澄んだ音?

 カランコロンて愉快な音?


 誰もが、これから刻まれる新しい時間を待ち侘びて、笑っていた。


 鳴るよ、鳴るよ。

 鐘が鳴るよ。


END
 
> ハガネイロ 作:dodo
ハガネイロ 作:dodo
 鍛冶屋の跡取り息子である事と、技術に幼い頃から触れられていたことから俺は、鍛冶屋の中という限定された範囲で『天才』だった。
 自画自賛というわけではない。周囲がそう認め、その期待の視線に答えるためにも己自身が『天才』であるということを自覚する必要があった。


 ―――と、『天才』の頃ならば淡々と述べられただろう。
今の俺は『天才』ではない。『鍛冶屋の中で』という限界を超えようとして、もっと広い世界へ名を馳せようとして……失敗した。
 小さなミスを犯し、時間と共に大きくなったそれがある時、臨界点を超えて爆発した。
気がついたときは、俺は病院のベットの上に寝ていた。

 それまで、当然のように答えてきたはずの期待をその時、初めて裏切った。

 何も出来ないベットの上で『天才』という言葉の重みが、のしかかってくる。

 お見舞いに来る人が期待の視線を向けるたびに首を絞められているかのように苦しくなった。

―――体が震えた。


 入院した病院のベットの上で寝て起きての繰り返し、何も出来ず何もしない日の中で、俺は自身が段々と腐っていくのを感じているだけだった。

 そんな折、このままではいけないと感じたのであろう主治医の先生が俺に同じような境遇の少女を紹介してきた。
 彼女は将来を有望視されていたトレーナーだった。
同じ境遇であるはずなのに、彼女もまた周囲の期待を裏切ったことに負い目を感じているはずなのに……
 笑うのだ。俺には出来ない、純粋な光を放つような笑顔。太陽のような笑顔で……


―*―*―*―


 全ての部屋の色を白に統一した無機質な病室。よく言えば、清潔感にあふれている病室の中で、本を読んでいる顔の白い少女の隣に座り、他にすることも特になかったので俺は彼女の手持ちである青い体毛を持つポケモンの尻尾をいじって遊んでいた。
 ふいに少女がパタンと読んでいた本を閉じてこちらに顔を向けて微笑んだ。

「ねぇ、知ってる?」

 突然、少女に声をかけられて少し驚いた。え?―――と、思わず声を出してしまった。

「昔の人は、ポケモンの殻とかを使っていろんな道具を作ったんだって」
「へぇ、それはすごい」

 得意げに語る彼女に、俺は適当な合いの手をうった。ふと彼女が手に持っている本に目をやるとそこには『驚愕! 古代の人々の知恵!』というなんとも奇妙なタイトルがデカデカと張り付いていた。
 またそんな奇天烈な雑誌を読んで……と、俺は渋い顔をしたが彼女はその雑誌を大事そうに抱え込む。

「いろんな道具があるんだけど、その中にはね。
 大きな鐘があって、旅立つ人を見送る際に鳴らすんだって。
 力強さと迷いを振り払うような真っ白な二つの音色が響きあって、旅人の道筋を明るく照らす……」

 遠くの出来事に思いを伏せるように彼女は目を伏せ一息つく。

「私も旅をしている間に、一度は聞きたかったなぁ」

 昔の自分に思いを馳せるようにそうつぶやいて、彼女は視線を窓の外へと向けた。

「また、旅に出て聞きに行けばいいじゃないか」

 そう当然のことのようにつぶやく俺に、寂しそうとも辛そうともとれる苦い笑いを彼女は浮かべた。

「残念なことに、今はその鐘は壊れてなくなってしまったらしいの」

 彼女のそんなくらい顔を見たくなかった俺は、どうにかして場を盛り上げようとして―――

「じゃあさ、そのポケモンの鐘を俺が再現してやるよ!」

 ―――気がついたら、そう叫んでいた。

「ほ、ホントに?!」

 彼女は表情を輝かせて、俺の方に振り返った。
入院してから久方ぶりに味わう、誰かに期待されるという感覚―――プレッシャー。
その重圧に、少し押されて肩が震えた。

「任せとけ! なんたって俺は『天才』らしいからな!」

 俺は肩の震えを隠すように拳を胸に叩きつけ、半分意地の入った啖呵を切った。

「うん、期待してる」

 彼女はいつもの笑顔を俺の方に向けた。太陽みたいな、まぶしい笑顔だった。
その笑顔がうれしくて、その笑顔を向けられているのが恥ずかしくて、つい彼女の顔から目を背けて下を向いてしまった。

「だからさ……お前もさっさと体を治して、出来た鐘の音を聞きに来いよな!」

「うん。 ありがとう……」

 という、彼女の柔らかい言葉が届いた。
まるで、遠くまで響く鐘の音のように残響を残して胸の中に響いていくのを感じた。



―*―1―*―



 湿った空気が漂う、森の奥まったところにある洞窟。そこは、少し有名な鋼タイプのポケモンが多く生息している洞窟だ。
 灰色で無骨な岩によって構成された洞窟の入り口は、俺にはまるで巨大な岩蛇ポケモンが口を開けて、入ってくる餌を待ち構えている姿のように見えた。

 ―――足が、震える。

 無駄なポケモンとの遭遇を防ぐためバックの中から、金色の缶スプレー『ゴールドスプレー』を取り出す。普段旅という物をしていない俺にはこの手のアイテムの事は良くわからなかったから効力の長さに期待して、一番高い物を購入した。
 ゴールドスプレーを丁寧に全身に噴出する。スプレーが目にはいらないように瞑っていた瞳を、開き松明に火をつける。
 深呼吸を一つし落ち着かせると、俺は巨大な口の中に身を放り込む勢いで、駆け出した。


―*―2―*―


 ちょうど5本目のゴールドスプレーの効力が切れたところで、洞窟の大きく開けた場所に出た。
 ポケモンが通ったのであろうか、縦に貫通した穴から日の光が漏れている。
松明の火を消して、細部を確認するとおあつらえ向きに湧き水のたまり場が近くにある。

「運がいい。なんておあつらえ向きな場所なんだ」

 必要な水を確保でき、なおかつ明るいというこれ以上ない条件のそろった場所を身をつけることが出来、とりあえず安堵する。

「ここからが勝負だ」

 バックの中から、鞴や鍛冶屋はしなどの必要な道具を取り出す。普通より大きい特注の入れ槌を握り締めると、腹のそこから力がわきあがるのを感じた。
体の中を巡る血液が通常の流れから、鍛冶場に立ったときのソレに変わる感覚を実感し、―――、よしっと息を吐いた。

 バックの中から、金色の缶とは違う鉛色のスプレーを取り出す。フレンドリィショップの店員から無理を言って購入した物だ。効果は、虫除けスプレー類のそれにすこし似ていて異なる。
 このスプレーの効果は、『一定以上の水準に達したポケモンを呼び込む』という物だ。
ベテラントレーナーがいくつかの条件を満たした上で使用することの出来るこの代物は当然のことながら一般トレーナーにも劣る俺が通常、目にすることも手にすることもできないものであったが、店員のおかげで何とか手にすることが出来た。
 このスプレーを渡す際の店員の渋い顔が、脳裏をよぎった。

―――、手が震える。

「すみません」

 無理を強いたことに謝罪し、スプレーを噴出させた。



――――、効果はすぐに現れた。


―*―3―*―


 金属と金属をかさねてこすったときに響く音と同じようなザラザラした咆哮が洞窟の壁という壁に反響して、洞窟全体が震える。
 冷たい鉄の棒を背中にさしたように背筋がゾッとする。
咆哮がやむのと同時に、洞窟の壁を粉砕し、咆哮を上げたポケモンが飛び出してきた。
 固い岩盤を軽々と粉砕する巨大でしゃくれた顎。地中に長いことにいたことで圧縮され鋼鉄の輝きを放つ、無骨な体をもつそれは、ハガネールと呼ばれるポケモンだった。
しかし……

「で、でかい……」

 街の中で、トレーナーが連れていたのを見たことがあったがそれをはるかにしのぐ大きさだ。
 金属音を混じらせる咆哮が響き、巨体がうねる。

「―――っ!」

 舌打ちと同時に、上へ跳ぶ。刹那、鋼鉄の塊が下を薙いで通り過ぎていく。
跳ぶのが一瞬遅れていたらと思うと冷や汗があふれ出した。
奥歯をかみ締め、相手に気後れしないように、仕返しとばかりに手に持っていた槌を振り下ろす。
鋼鉄同士が、かみ合い火花を散らした。そして、音が洞窟内に響いた。

 頭の中が、真っ白になった。

ハガネールの放つ金属がこすれるような咆哮からはまるで想像することの出来ない、澄んだ美しい響き。
 あふれ出ていた冷や汗の全てがはじけ飛び、それまであった恐怖心を一瞬で振り払うほどの生命力にあふれた力強い響き。
 二つの響きが洞窟の中で反響し、何度も何度も俺の体を打つ。

 残響の余韻が終わると、俺は体が熱くなるのを感じた。体の中に流れる血に火がついたような錯覚を覚える。

「お前に決めた」

 自分でも驚くほど冷静な声をハガネールに投げかけ、腰からモンスターボールを取り出す。
軽い炸裂音と共に、関取のような巨体とそんな体の半分を占める両の手を持つポケモン、ハリテヤマが飛び出した。
 新たな敵の出現を察知したハガネールは、今度は鋼の体をしならせ、横になぎ払うように振るった。
 それと同時に、鋼の尾が輝きを放ちはじめる。『アイアンテール』の発現を感じる。

「『発勁』!」

 俺の指示と同時に、ハリテヤマはアイアンテールの薙ぎ払いに合わせて、体を滑らせるように移動し、ハガネールの体に平手を打った。

 衝撃波が、あたりに振りまかれる。ハリテヤマの体を支える地面が陥没し、ハガネールの巨体が中に浮いた。
 それによって外れた巨大なアイアンテールが、頭上を通り過ぎた。

「……くそっ!」

 悪態をつく私の声に反応してハガネールはにやりと笑い、次の攻撃を放つ為に体をうならせ始める。
 カウンターのようにして放った、タイプ相性を考慮した一撃もハガネールの硬さの前にはまるで無力。
追加効果として狙った麻痺もあの巨体の前ではまるで効力がないようだ。

「なら、次だ!」

 格闘タイプの技の効果がないならと、ハリテヤマをモンスターボールに戻し次のポケモン、マグマの体と岩の殻を持つマグカルゴに交代する。

「『火炎放射』」

 指示を飛ばすと、マグカルゴの口から火が噴出される。オレンジ色の炎がハガネールに向かって伸びる。
 しかし、ハガネールはその巨体には似合わない速度で体をうねらせ炎を回避する。

「捉えきれないか……なら、『岩石封じ』だ!」

 俺が指示を出すと同時に、マグカルゴがうなずき洞窟の岩に力を送る。
瞬間、地面から岩が飛び出しハガネールの四方を塞ぐ様にしてハガネールの巨体を岩戸の中に閉じ込めた。
 勝利の確信を確かに感じ、このまま一気に詰めるためマグカルゴに指示を出す。

「『オー……?!」

 俺の指示に合わせてマグカルゴが技を放とうとすると、岩戸の一枚が爆発した。
崩れる岩肌から、わずかに白銀色に輝くエネルギー弾の残光がこぼれた。

「……っ、『ジャイロボール』か」

 完全にはまった状態から、抜け出され焦りを感じる。自分の立てた戦術が真っ向から否定され、ザワザワと背中がかゆくなる。
岩戸から抜け出したハガネールが、ニタリと気味の悪い笑みを浮かべた。
その笑みを合図に、吹き飛んだはずの恐怖心が再度、顔をのぞかせた。


ハガネールが巨大な尾を持ち上げる―――
 
  体がまるで釘を刺されたかのように動かない。

重々しい、鋼の尾が高々と掲げられた―――

  やっぱり自分には無理だった。という考えが頭の中を駆ける。

そして、金属のこすれる不協和音と共に、振り下ろされた―――

  走馬灯のように、見えた彼女の笑顔。



  約束を果せなかったことが、たまらなく悔しかった。


…………………………
……………………
………………
…………

「あれ?」

 いつまで経っても来ない終わりに、恐る恐る目を開けて現状を確認する。
 目の前にポケモンが立っていた。
 ウサギのような長い耳、ボンボンのような丸尻尾、青と白の体毛、タマゴみたいな楕円形の体のポケモン―――、マリルリが立っていた。
 驚くべき『馬鹿力』を発揮し、ハガネールの巨体な尻尾を悠々と持ち上げている。
マリルリは、こちらの視線に気づくとふっと笑って見せた。
 そんな小さな雄姿を見せ付けられ、恐怖心がまたどこかに消えてしまった。

「まだ、諦めるにははやいってか?」

 そうつぶやくと、マリルリはフンっと息を吐いて持っていた尻尾を放り投げた。
負けてられないなと、気持ちを奮い立たせる。
 ハガネールの方へと視線を向けると、白銀色のエネルギー弾をチャージしはじめていた。
マリルリの馬鹿力を受けて、戦い方を近接型から遠距離型へと変更したのだろう。

「悠長にチャージなんてさせてやるか!マリルリ!」

 俺が指示を出すより早くマリルリは動いていた。砕けた岩戸の岩を持ち上げると次々と投げつけ始める。どうやら、俺の作戦もお見通しらしい。
 ハガネールはジャイロボールを放って応戦するが、岩をよけながら放った為、見当違いの方向へと外れていく。
 マリルリは『馬鹿力』を使った岩投げでけん制しつつハガネールへと近づいていく。
マリルリとハガネールの距離が縮まった瞬間、ハガネールの目がカッと開かれ、尻尾が振るわれた。
今まで、岩をよけながら力をためていたのであろう、その薙ぎ払いはコレまでにない早さだった。
 激突の轟音と共に、砂塵が舞った。

「マリルリ!」

 俺の口から悲鳴に近い声が上がった。あの速度であの質量の攻撃を受けては先ほどのハリテヤマでさえ吹き飛んでしまうだろう。
ただでさえ体の大きさが違う、マリルリが受けてはひとたまりもないはずだった。

 舞っていた砂塵が晴れて、尻尾と激突したマリルリの姿を映す。マリルリの体が、まるで砂のように散っていった。
 焦り覚えたが、それが杞憂だということに気がついた。
尻尾と激突したのは本体がHPを削ることによって作ることの出来る攻撃を誘導するための偽者。
散っていったマリルリは本体が作り上げた『身代わり』だった。
マリルリ本体は、身代わりが受けたことによって勢いの落ちた巨大な尻尾をしっかりと掴んでいた。
 そして、その尻尾を振り回し始めた。
その小さな体躯に、どれほどの力があるのだろうか?
ジャイアントスイングかけられているかのように振り回されハガネールの巨体がゆっくりと宙に浮いていく。
 巨体を宙に浮かせられたハガネールは成すすべなくまわされ続ける。
そしてその速度が限界まで達したとき、マリルリは気合の掛け声と共にハガネールを放り投げた。
放り投げた先にあるのは、先ほどマグカルゴが作り上げた岩戸の箱、ハガネールによって砕かれたはずの岩戸はマリルリによって投げつけられた岩によってすでに修復されている。
このまま、あの箱の中に閉じ込めてしまえばこちらの勝利が確定する。

 筈だったが、飛んで行くハガネールの軌道が少しずれていた。
 どんなに力のあるヤツでも、何かしらのミスは起こす。それはポケモンであっても例外ではないらしい。
手持ちのポケモンが犯した小さなミス。ならここは、トレーナーとして俺が修正する。

「間に合え!」

 叫びに近い声を張り上げ、モンスターボールを投げる。モンスターボールが飛んでいくハガネールに追いつくと軽い破裂音と共にハリテヤマが、出現した。

「ハリテヤマ! 岩戸の中に『叩き落とせ』」

 俺が指示を飛ばすと同時に、ハリテヤマは両手を組みハガネールの平たい額に振り下ろした。
ハリテヤマの技が激突したことにより、軌道が修正されハガネールの巨体が岩戸の箱の中に納まった。

そして、箱の中には俺の指示を待つマグカルゴがいる!

「マグカルゴ、『オーバーヒート』!!」

 これこそが、俺の作戦。そして、ここからが俺にとって本当の始まりだった。
持っている槌にさらに力をこめた。


―*―4―*―

技の発動と同時に岩戸の箱から、巨大な火柱が上がる。
岩戸の箱が炉のような役割を果し、内部の熱量を爆発的に拡大させる。拡大された熱が、ハガネールの体を構成する鉱石を溶かし始めたのだろう、命の終わりを示すかのような絶叫が炉の中から響いてきた。
炉の中でハガネールが熱から逃れようとのた打ち回る。
炉の中からは飛び出したハガネールの眉間に俺は容赦なくマリルリの『馬鹿力』と共に槌を振り下ろす。
怒気に満ちた咆哮があがる。その瞳は、恨みに満ちていてにらまれた瞬間背筋が凍った。
命を奪う手が震える。
だがそれでも、と俺は意識を奮い立たせる。


 真っ白な病室で交わした約束と、彼女の笑顔が脳裏をよぎった。それだけで震えがとまった。

「うらんでもらってかまわない」

 自分でも驚くほど冷たい声が喉から漏れた。マリルリに目を合わせてうなずく。
もう一度、槌が振う。音が響く。鈍い音が響く。

「のろってくれてかまわない」

 ハリテヤマが、広げてあった道具から鞴を取り出し全力で扱い空気を入れていく。
その度に、炉の熱が上がりハガネールが末期の絶叫を上げる。

「これが自分のエゴだって事は解ってる」

 マグカルゴが、原始の力を使って力なくうなだれるハガネールを持ち上げる。
それにあわせて、マリルリと槌を振るう。
グニャグニャと、ハガネールであった物が変形していく。

「その命は使わせていただく!!」

 命を持った生物を別のモノに変える。
初めての感覚も初めてのことに対する戸惑いも命を扱う恐怖も全て、赤銅色のソレに溶かし込んでいく。
だから、迷いなく槌を振るい続けた。


―*―5―*―


 はたから見れば、狂行とも思える作業を終え。ついにそれは完成した。
岩蛇ポケモンの意匠を象った模様。通常の鐘の青銅色とは違う、白金色の光沢を放つ、白い梵鐘が出来上がった。


 この鐘の音が届けばいいな。

 あの約束が、この鐘を叩くことで果されるといいな。

 即席で作り上げた台に鐘を吊るしながら、そんな希望を心の中で祈った。
そして、吊るした鐘に向かって撞木を振るった。
梵鐘の重い音とは違った。明瞭な響きが、体の疲れを癒していく。
あの恨みに満ちたハガネールの表情からもっとドロドロとした音が出るのかと心配したがそんな事は杞憂だったようだ。
 鳴らすたびに、体に響く感覚が鋼を打つ感覚と似ていることに気がついた。
ハガネの音色が世界にひびいた。

「願わくば、この音色が君に届きますように」


―*―*―*―


 気がつけば私は真っ黒な泥の上に浮いていた。
本能とでも言うのか、直感的に私はこの世界は恨みや辛み何かを呪った黒々とした感情が固まって出来上がった泥なのだということを理解した。
 彼とあんな約束をしておきながら、結局私は約束を果すことが出来なかった。
それがとても、恨めしい……―――

 そこまで考えて、ふっと私は肩の力を抜いた。
 なるほど、最後まで生きることにしがみ付いていた私には……最後の最後で生きることが出来ないことを呪ってしまった私とってここは当然、沈むべき泥ということだ。
 やりきれない気持ちにうなだれると、体が黒い世界に少し沈んだ。
冷たい泥が、服の隙間から入り込み体を覆っていく。
気持ち悪いが、抵抗しようにも体がまるで蛇に巻きつかれているかのように動かない。
 意識が、泥と同調するように黒く塗りつぶされていく。
 力が徐々に抜けていき、感覚が消えていく。
 体がズブズブと黒い泥に取り込まれていく。
 感情もソレに合わせて泥に取り込まれていく。

「こんなことなら……」

 最後に恨み言を口にしようとして、―――……



……―――気がついた。


「……音がする」

 すでに耳は黒い泥に沈んでしまって塞がれてしまっているはずなのに、確かに音が聞こえた。
脳の裏側からしっかりと染み渡るように響いて来る。―――、鐘の音。
この世界に似つかわしくない、白い音。
金属と金属が共鳴する澄んだ音が、頭の中を真っ白にする。
生命力を象徴するかのような力強い響きが、黒々とした感情を一瞬で振り払った。
 二つの響きが頭の中で反響し、何度も何度も私の体を打つ。
金属の冷たさと、出来立ての鋼の熱さの両方を取り込んだような不思議な音色。

――――わかる。
 この鐘は、命を燃やして作られたものなんだ。作り手も命を燃やして造った物。
だから、こんなにも不思議な音色なんだ。

 残響の余韻が終わると、私は体が軽くなるのを感じた。
気がつけば、今まで私を取り込もうとしていた黒い泥はどこにもなく、白濁とした世界の上に立たされていた。
 この音色は、きっと彼が作り出した物なんだろう。彼は、ちゃんと約束を果してくれたのだ。
そうだ。だから、ちゃんと言わなくちゃ。彼の姿が見えなくても、私の最後の言葉は決まっている。

「うん。ありがとう……―――」

 鋼の音色に答えるように、わたしはつぶやいた。





END
 
> アラブルアブソル、主人ト離レテ、ブル ブル ブル 作:dodo
アラブルアブソル、主人ト離レテ、ブル ブル ブル 作:dodo
 私の名前は、アブソル。ニックネームは、まだない……
 はやくつけてほしいのだが、ポッと出の田舎モノのご主人にはそんなセンスはないようだ。
まったくと息を吐き、目の前をふらふらと歩いているご主人の背中に視線を送ってみる。

視線に気づいたのかご主人がこちらを振り向いた。
若干の期待が私の胸を突く。
が、何を勘違いしたのかご主人はニコリと微笑んで、私の頭をやさしく撫でる。
ご主人の手のリストバンドに飾られた鈴が、私の頭を撫でるたびに、チリンチリンと小気味良く鳴る。

別にかまってほしかった訳ではなかったけれど……、まあいいか


 気持ちのいい時間は、意外とあっけなく終わった。ドンッという鈍い音共にご主人に男がぶつかった。
 よろめく、ご主人。男は誤りもせず、いそいそと人ごみの中に消えていく。
確かにご主人は、田舎者の能天気者だが人にぶつかっておいて誤らないとは、この町の人間はなんて失礼なんだろうか。
 煮えたぎる怒りを視線にこめて男の消えた人ごみをにらみ付けた。

私が災いを呼び込むポケモンとたいていの人間は知っている。
故に私がにらみつけた事で、人ごみがザワッと音を立てて後ろに引く。

そんなに過剰に反応しなくてもいいのに……

 周りの反応にすっかり気分を悪くした私は、ご主人に行動を急かそうとして視線を送った。

と、そこで気がついた。
 つい先ほどまでご主人が居たであろう場所に、ご主人の姿はなく。
忙しく左右を行きかう人々の山しかなかった。
 ゴミのような人しか居ない町でご主人と離れ、私は一人……もとい一匹になってしまったのだ。


 うぇあー・まい・ますたー……?

 言葉の変わりに、湿った泣き声が喉から漏れた。


―*―*―*―


 ―――、ココハドコ? ワタシハタワシ?!


……はっ、何てことだ。マスターとあまりに突然、離別に気が動転してしまって、何か変なことを口走ってしまった気がする!

 とはいえ、マスターから離れてすでに、二時間が経とうとしている。
私のアブソルという容姿はかなり目立つはずだ、先ほどから周囲の視線が痛いのでそれだけはわかる。
 この視線から逃れるためにも、マスター……早く私を見つけてください。

 頭を垂れて、トボトボと歩いているとチリンと小気味良い音が草陰から、聞こえてきた。
青天の霹靂とまではいかないが、そのいつもの鈴の音が聞こえたとき、全身の神経に電流が走ったかのような錯覚を覚えた。

 なんだ、こんなところに居たのか、まったくちょっと目を離すとすぐどこかへ行って迷ってしまうのだから、マスターには困った物だ。

 困らされたお礼に、脅かしてやろうと草むらから飛び出した瞬間、バシンとつめたい何かが私の鼻っ柱を叩いた。

 な、なんだぁ〜。こいつはぁ〜!!

 という言葉のかわりに、鳴き声が響く。
 飛び掛った先に居たのは、マスターではなかった。

そして、そいつはすごく似ていた。
以前マスターが見せてくれた、宇宙関連の雑誌に載っていた『ユーホォー』ってやつにすごく似ていた。
 全体の色が驚きの白さ! 頭のてっぺんから、黄色い窓みたいなでっぱりが飛び出している。
極めつけはあれだ、下に向かって光をたらしているかのようにへこんだお腹からベロンと、何に使うかがわからない吹き出しが垂れている。

 突然のことに混乱していると、『ユーホォー』がぐるりと回転した。白い部分にある黄色い窓がこちらを覗き込んだ。どうやらそこが顔らしい。
 困惑しているこちらを尻目に『ユーホォー』は口が開く。

「チリーン」

 鳴き声(?)のような物を上げ、そいつは空中で体を左右に振る。
チリンチリンとマスターのと同じような小気味良い鈴の音が響く。

 私は、開いた口が塞がらなかった。
頭の中で久しく働いていなかった野性というものが、カラカラと滑車を回し始めた。
本能に近い何かが、警鐘をガンガンと鳴らす。

 コイツはやばい!!

という思考が、頭から全身に稲妻のように駆け巡る。
 ウツボットが甘い香りによってえさであるハエを捕らえるように、ランターンが提灯を疑似餌にして小魚を捕らえるように、こいつは音を使って獲物を捕らえるのであろう。
 つまり今の私はマスターの鈴の音を疑似餌に使われ、まんまとコイツの罠にかかってしまったというわけだ。

 うわぁーっと軽く、自暴自棄になって私は『ユーホォー』に飛び掛った。
罠にかかってしまったときは、どうにかして相手の注意をそらして逃げるんだ。とマスターが、得意げに語っていたのを思い出したからだ。
 だが、結果として浅はかな行為であったとしかいえなかった。
私の突進を予測していたのか『ユーホォー』はゆらりと宙を舞って、攻撃をかわす。
しかも、腹から垂れた吹き出しを私の首筋に絡めてきた。

 きゅぅっと、首が絞まった。
な、何てことだ。こちらの攻撃を予測し、さらに罠を張り巡らせるとは、コイツかなり出来る!!

 食われてたまるかと、必死になって暴れる。
体重がこちらの上のためか、『ユーホォー』もぐららぐらぐらと揺れる。
コレはたまらんと、『ユーホォー』が首の拘束を緩めた瞬間を狙って、私は『ユーホォー』の吹き出しに『噛み付く』を繰り出した。

「くぁwせdrftgyふじこlp!!?」

 と、噛み付かれた『ユーホォー』から奇妙な叫び声があがる。
しめた! 3割の確立で発生する補助効果、『ひるみ』が発動したのだ。


 『ユーホォー』の拘束から、まんまと逃れた私は、これ幸いにとその場を全力で逃げ出した。


―*―*―*―


 冷静になって考えてみると、先ほどのは『ユーホォー』ではなかったのかもしれない。
マスターが、見せてくれた写真はもっと楕円形でニビ色だったような気がする。

 てんぱると状況を冷静に把握できなくなるは私の短所だと、マスターから何度も注意されていることだ。
 もっと生じせねばと、そんな考えていると見慣れた赤い屋根が見えてきた。

 ポケモンセンター、全国を旅するトレーナーにとって各町の拠点となる重要な場所であり、さまざまな人々が集う場所……
 そこまで思い出して、思いついた。ここで待っていれば、マスターも来るのではないだろうか?!
おおー、こんな天才的なことを思いつく自分が恐ろしい……

 浮き足立ったテンションで、私はポケモンセンターの自動ドアをくぐった。

……予想の斜め上を行く、人の量だ。
マスターがいるとして、一体どこにいるのだろうか?

 ポケモンセンターの中をぐるりと回って、あまり人のいない赤い扉の前に腰を下ろした。
人ごみの流れを見る。マスターと思わしき人影はどこにも見当たらない。
 手持ちぶさたを紛らわすため、上を見上げると、赤い扉の上に丸い枠が飾られていた。

ああ、これ知っています。

 確かこの枠の中にあるボタンを押すと、人がたくさん集まってくるのだ。
身を乗り上げ、枠の中にあるボタンに目をやる。

『強く押す』

 コレくらいの文字ならば、ポケモンの私でも読めるのだ。

と、そこで再び電流が走った。

 このボタンを押せば、マスターは来るのではないのだろうか?
『強く押す』とも書いてあるし……

 特に考えることもなく私はボタンを強く、押した。




 空気が、炸裂したかと思った。
ビリビリと私の前にある扉を中心に全身の毛が逆立つほどの警鐘が鳴り響く。
 ポケモンセンターの中の人々がざわざわと、騒ぎはじめる。
誰かが「火事だー!!」と叫んだ。それを切り口に、人々が絶叫を上げた。
出口に向かって、次々と飛び出していく……

 あれ? 私、もしかしてとんでもないことした?


―*―*―*―


 ポケモンセンターから、飛び出すように逃げ出して気がついたら、私は町外れまできていた。
 もうこんな街、嫌だ。
街の中では、いやな目で見られるし『ユーホォー』には絡まれるし、ポケモンセンターでは騒ぎが起きるしとにかく、疲れる町だった。

 マスター、早く見つけてー!!

と言葉に出したかったが、出てきたのはなんとも情けない鳴き声だった。
 泣き叫ぶ私の耳にチリンと心地よい、音が響いた。
また『ユーホォー』が追いかけてきたのかと思いドキリとし、背筋が凍ったが優しい手が私の頭を撫でた。

 手の伸びてくる方を見ると、そこには安堵したようなご主人の顔が浮かんでいた。
ご主人はかなり走っていたのか、額から汗が流れ出し肩で息をしていた。

 私を放って置くなんて、許されないんだから!

 と、言葉にしたかったが私はポケモンだから喋れないので、横についている鎌のような角で、グリグリと押し付けた。

 ぐっと、ご主人の腹から声が漏れた。
なだめるように、頭を撫でご主人は私の首に手を回した。
 カランと、綺麗な音が響いて私の首に金色の鐘がついていた。

「コレを買いに行ってたんだ。心配かけてごめんね」

 とご主人は優しい声をかけ、私の瞼の涙を拭う。
それだけで、うれしくなって、舞い上がってしまって、私はご主人にしがみ付いた。


 もう、一生ついていきます!!



 そういう感情を全て込めて……





END
 
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