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ハガネイロ 作:dodo
 鍛冶屋の跡取り息子である事と、技術に幼い頃から触れられていたことから俺は、鍛冶屋の中という限定された範囲で『天才』だった。
 自画自賛というわけではない。周囲がそう認め、その期待の視線に答えるためにも己自身が『天才』であるということを自覚する必要があった。


 ―――と、『天才』の頃ならば淡々と述べられただろう。
今の俺は『天才』ではない。『鍛冶屋の中で』という限界を超えようとして、もっと広い世界へ名を馳せようとして……失敗した。
 小さなミスを犯し、時間と共に大きくなったそれがある時、臨界点を超えて爆発した。
気がついたときは、俺は病院のベットの上に寝ていた。

 それまで、当然のように答えてきたはずの期待をその時、初めて裏切った。

 何も出来ないベットの上で『天才』という言葉の重みが、のしかかってくる。

 お見舞いに来る人が期待の視線を向けるたびに首を絞められているかのように苦しくなった。

―――体が震えた。


 入院した病院のベットの上で寝て起きての繰り返し、何も出来ず何もしない日の中で、俺は自身が段々と腐っていくのを感じているだけだった。

 そんな折、このままではいけないと感じたのであろう主治医の先生が俺に同じような境遇の少女を紹介してきた。
 彼女は将来を有望視されていたトレーナーだった。
同じ境遇であるはずなのに、彼女もまた周囲の期待を裏切ったことに負い目を感じているはずなのに……
 笑うのだ。俺には出来ない、純粋な光を放つような笑顔。太陽のような笑顔で……


―*―*―*―


 全ての部屋の色を白に統一した無機質な病室。よく言えば、清潔感にあふれている病室の中で、本を読んでいる顔の白い少女の隣に座り、他にすることも特になかったので俺は彼女の手持ちである青い体毛を持つポケモンの尻尾をいじって遊んでいた。
 ふいに少女がパタンと読んでいた本を閉じてこちらに顔を向けて微笑んだ。

「ねぇ、知ってる?」

 突然、少女に声をかけられて少し驚いた。え?―――と、思わず声を出してしまった。

「昔の人は、ポケモンの殻とかを使っていろんな道具を作ったんだって」
「へぇ、それはすごい」

 得意げに語る彼女に、俺は適当な合いの手をうった。ふと彼女が手に持っている本に目をやるとそこには『驚愕! 古代の人々の知恵!』というなんとも奇妙なタイトルがデカデカと張り付いていた。
 またそんな奇天烈な雑誌を読んで……と、俺は渋い顔をしたが彼女はその雑誌を大事そうに抱え込む。

「いろんな道具があるんだけど、その中にはね。
 大きな鐘があって、旅立つ人を見送る際に鳴らすんだって。
 力強さと迷いを振り払うような真っ白な二つの音色が響きあって、旅人の道筋を明るく照らす……」

 遠くの出来事に思いを伏せるように彼女は目を伏せ一息つく。

「私も旅をしている間に、一度は聞きたかったなぁ」

 昔の自分に思いを馳せるようにそうつぶやいて、彼女は視線を窓の外へと向けた。

「また、旅に出て聞きに行けばいいじゃないか」

 そう当然のことのようにつぶやく俺に、寂しそうとも辛そうともとれる苦い笑いを彼女は浮かべた。

「残念なことに、今はその鐘は壊れてなくなってしまったらしいの」

 彼女のそんなくらい顔を見たくなかった俺は、どうにかして場を盛り上げようとして―――

「じゃあさ、そのポケモンの鐘を俺が再現してやるよ!」

 ―――気がついたら、そう叫んでいた。

「ほ、ホントに?!」

 彼女は表情を輝かせて、俺の方に振り返った。
入院してから久方ぶりに味わう、誰かに期待されるという感覚―――プレッシャー。
その重圧に、少し押されて肩が震えた。

「任せとけ! なんたって俺は『天才』らしいからな!」

 俺は肩の震えを隠すように拳を胸に叩きつけ、半分意地の入った啖呵を切った。

「うん、期待してる」

 彼女はいつもの笑顔を俺の方に向けた。太陽みたいな、まぶしい笑顔だった。
その笑顔がうれしくて、その笑顔を向けられているのが恥ずかしくて、つい彼女の顔から目を背けて下を向いてしまった。

「だからさ……お前もさっさと体を治して、出来た鐘の音を聞きに来いよな!」

「うん。 ありがとう……」

 という、彼女の柔らかい言葉が届いた。
まるで、遠くまで響く鐘の音のように残響を残して胸の中に響いていくのを感じた。



―*―1―*―



 湿った空気が漂う、森の奥まったところにある洞窟。そこは、少し有名な鋼タイプのポケモンが多く生息している洞窟だ。
 灰色で無骨な岩によって構成された洞窟の入り口は、俺にはまるで巨大な岩蛇ポケモンが口を開けて、入ってくる餌を待ち構えている姿のように見えた。

 ―――足が、震える。

 無駄なポケモンとの遭遇を防ぐためバックの中から、金色の缶スプレー『ゴールドスプレー』を取り出す。普段旅という物をしていない俺にはこの手のアイテムの事は良くわからなかったから効力の長さに期待して、一番高い物を購入した。
 ゴールドスプレーを丁寧に全身に噴出する。スプレーが目にはいらないように瞑っていた瞳を、開き松明に火をつける。
 深呼吸を一つし落ち着かせると、俺は巨大な口の中に身を放り込む勢いで、駆け出した。


―*―2―*―


 ちょうど5本目のゴールドスプレーの効力が切れたところで、洞窟の大きく開けた場所に出た。
 ポケモンが通ったのであろうか、縦に貫通した穴から日の光が漏れている。
松明の火を消して、細部を確認するとおあつらえ向きに湧き水のたまり場が近くにある。

「運がいい。なんておあつらえ向きな場所なんだ」

 必要な水を確保でき、なおかつ明るいというこれ以上ない条件のそろった場所を身をつけることが出来、とりあえず安堵する。

「ここからが勝負だ」

 バックの中から、鞴や鍛冶屋はしなどの必要な道具を取り出す。普通より大きい特注の入れ槌を握り締めると、腹のそこから力がわきあがるのを感じた。
体の中を巡る血液が通常の流れから、鍛冶場に立ったときのソレに変わる感覚を実感し、―――、よしっと息を吐いた。

 バックの中から、金色の缶とは違う鉛色のスプレーを取り出す。フレンドリィショップの店員から無理を言って購入した物だ。効果は、虫除けスプレー類のそれにすこし似ていて異なる。
 このスプレーの効果は、『一定以上の水準に達したポケモンを呼び込む』という物だ。
ベテラントレーナーがいくつかの条件を満たした上で使用することの出来るこの代物は当然のことながら一般トレーナーにも劣る俺が通常、目にすることも手にすることもできないものであったが、店員のおかげで何とか手にすることが出来た。
 このスプレーを渡す際の店員の渋い顔が、脳裏をよぎった。

―――、手が震える。

「すみません」

 無理を強いたことに謝罪し、スプレーを噴出させた。



――――、効果はすぐに現れた。


―*―3―*―


 金属と金属をかさねてこすったときに響く音と同じようなザラザラした咆哮が洞窟の壁という壁に反響して、洞窟全体が震える。
 冷たい鉄の棒を背中にさしたように背筋がゾッとする。
咆哮がやむのと同時に、洞窟の壁を粉砕し、咆哮を上げたポケモンが飛び出してきた。
 固い岩盤を軽々と粉砕する巨大でしゃくれた顎。地中に長いことにいたことで圧縮され鋼鉄の輝きを放つ、無骨な体をもつそれは、ハガネールと呼ばれるポケモンだった。
しかし……

「で、でかい……」

 街の中で、トレーナーが連れていたのを見たことがあったがそれをはるかにしのぐ大きさだ。
 金属音を混じらせる咆哮が響き、巨体がうねる。

「―――っ!」

 舌打ちと同時に、上へ跳ぶ。刹那、鋼鉄の塊が下を薙いで通り過ぎていく。
跳ぶのが一瞬遅れていたらと思うと冷や汗があふれ出した。
奥歯をかみ締め、相手に気後れしないように、仕返しとばかりに手に持っていた槌を振り下ろす。
鋼鉄同士が、かみ合い火花を散らした。そして、音が洞窟内に響いた。

 頭の中が、真っ白になった。

ハガネールの放つ金属がこすれるような咆哮からはまるで想像することの出来ない、澄んだ美しい響き。
 あふれ出ていた冷や汗の全てがはじけ飛び、それまであった恐怖心を一瞬で振り払うほどの生命力にあふれた力強い響き。
 二つの響きが洞窟の中で反響し、何度も何度も俺の体を打つ。

 残響の余韻が終わると、俺は体が熱くなるのを感じた。体の中に流れる血に火がついたような錯覚を覚える。

「お前に決めた」

 自分でも驚くほど冷静な声をハガネールに投げかけ、腰からモンスターボールを取り出す。
軽い炸裂音と共に、関取のような巨体とそんな体の半分を占める両の手を持つポケモン、ハリテヤマが飛び出した。
 新たな敵の出現を察知したハガネールは、今度は鋼の体をしならせ、横になぎ払うように振るった。
 それと同時に、鋼の尾が輝きを放ちはじめる。『アイアンテール』の発現を感じる。

「『発勁』!」

 俺の指示と同時に、ハリテヤマはアイアンテールの薙ぎ払いに合わせて、体を滑らせるように移動し、ハガネールの体に平手を打った。

 衝撃波が、あたりに振りまかれる。ハリテヤマの体を支える地面が陥没し、ハガネールの巨体が中に浮いた。
 それによって外れた巨大なアイアンテールが、頭上を通り過ぎた。

「……くそっ!」

 悪態をつく私の声に反応してハガネールはにやりと笑い、次の攻撃を放つ為に体をうならせ始める。
 カウンターのようにして放った、タイプ相性を考慮した一撃もハガネールの硬さの前にはまるで無力。
追加効果として狙った麻痺もあの巨体の前ではまるで効力がないようだ。

「なら、次だ!」

 格闘タイプの技の効果がないならと、ハリテヤマをモンスターボールに戻し次のポケモン、マグマの体と岩の殻を持つマグカルゴに交代する。

「『火炎放射』」

 指示を飛ばすと、マグカルゴの口から火が噴出される。オレンジ色の炎がハガネールに向かって伸びる。
 しかし、ハガネールはその巨体には似合わない速度で体をうねらせ炎を回避する。

「捉えきれないか……なら、『岩石封じ』だ!」

 俺が指示を出すと同時に、マグカルゴがうなずき洞窟の岩に力を送る。
瞬間、地面から岩が飛び出しハガネールの四方を塞ぐ様にしてハガネールの巨体を岩戸の中に閉じ込めた。
 勝利の確信を確かに感じ、このまま一気に詰めるためマグカルゴに指示を出す。

「『オー……?!」

 俺の指示に合わせてマグカルゴが技を放とうとすると、岩戸の一枚が爆発した。
崩れる岩肌から、わずかに白銀色に輝くエネルギー弾の残光がこぼれた。

「……っ、『ジャイロボール』か」

 完全にはまった状態から、抜け出され焦りを感じる。自分の立てた戦術が真っ向から否定され、ザワザワと背中がかゆくなる。
岩戸から抜け出したハガネールが、ニタリと気味の悪い笑みを浮かべた。
その笑みを合図に、吹き飛んだはずの恐怖心が再度、顔をのぞかせた。


ハガネールが巨大な尾を持ち上げる―――
 
  体がまるで釘を刺されたかのように動かない。

重々しい、鋼の尾が高々と掲げられた―――

  やっぱり自分には無理だった。という考えが頭の中を駆ける。

そして、金属のこすれる不協和音と共に、振り下ろされた―――

  走馬灯のように、見えた彼女の笑顔。



  約束を果せなかったことが、たまらなく悔しかった。


…………………………
……………………
………………
…………

「あれ?」

 いつまで経っても来ない終わりに、恐る恐る目を開けて現状を確認する。
 目の前にポケモンが立っていた。
 ウサギのような長い耳、ボンボンのような丸尻尾、青と白の体毛、タマゴみたいな楕円形の体のポケモン―――、マリルリが立っていた。
 驚くべき『馬鹿力』を発揮し、ハガネールの巨体な尻尾を悠々と持ち上げている。
マリルリは、こちらの視線に気づくとふっと笑って見せた。
 そんな小さな雄姿を見せ付けられ、恐怖心がまたどこかに消えてしまった。

「まだ、諦めるにははやいってか?」

 そうつぶやくと、マリルリはフンっと息を吐いて持っていた尻尾を放り投げた。
負けてられないなと、気持ちを奮い立たせる。
 ハガネールの方へと視線を向けると、白銀色のエネルギー弾をチャージしはじめていた。
マリルリの馬鹿力を受けて、戦い方を近接型から遠距離型へと変更したのだろう。

「悠長にチャージなんてさせてやるか!マリルリ!」

 俺が指示を出すより早くマリルリは動いていた。砕けた岩戸の岩を持ち上げると次々と投げつけ始める。どうやら、俺の作戦もお見通しらしい。
 ハガネールはジャイロボールを放って応戦するが、岩をよけながら放った為、見当違いの方向へと外れていく。
 マリルリは『馬鹿力』を使った岩投げでけん制しつつハガネールへと近づいていく。
マリルリとハガネールの距離が縮まった瞬間、ハガネールの目がカッと開かれ、尻尾が振るわれた。
今まで、岩をよけながら力をためていたのであろう、その薙ぎ払いはコレまでにない早さだった。
 激突の轟音と共に、砂塵が舞った。

「マリルリ!」

 俺の口から悲鳴に近い声が上がった。あの速度であの質量の攻撃を受けては先ほどのハリテヤマでさえ吹き飛んでしまうだろう。
ただでさえ体の大きさが違う、マリルリが受けてはひとたまりもないはずだった。

 舞っていた砂塵が晴れて、尻尾と激突したマリルリの姿を映す。マリルリの体が、まるで砂のように散っていった。
 焦り覚えたが、それが杞憂だということに気がついた。
尻尾と激突したのは本体がHPを削ることによって作ることの出来る攻撃を誘導するための偽者。
散っていったマリルリは本体が作り上げた『身代わり』だった。
マリルリ本体は、身代わりが受けたことによって勢いの落ちた巨大な尻尾をしっかりと掴んでいた。
 そして、その尻尾を振り回し始めた。
その小さな体躯に、どれほどの力があるのだろうか?
ジャイアントスイングかけられているかのように振り回されハガネールの巨体がゆっくりと宙に浮いていく。
 巨体を宙に浮かせられたハガネールは成すすべなくまわされ続ける。
そしてその速度が限界まで達したとき、マリルリは気合の掛け声と共にハガネールを放り投げた。
放り投げた先にあるのは、先ほどマグカルゴが作り上げた岩戸の箱、ハガネールによって砕かれたはずの岩戸はマリルリによって投げつけられた岩によってすでに修復されている。
このまま、あの箱の中に閉じ込めてしまえばこちらの勝利が確定する。

 筈だったが、飛んで行くハガネールの軌道が少しずれていた。
 どんなに力のあるヤツでも、何かしらのミスは起こす。それはポケモンであっても例外ではないらしい。
手持ちのポケモンが犯した小さなミス。ならここは、トレーナーとして俺が修正する。

「間に合え!」

 叫びに近い声を張り上げ、モンスターボールを投げる。モンスターボールが飛んでいくハガネールに追いつくと軽い破裂音と共にハリテヤマが、出現した。

「ハリテヤマ! 岩戸の中に『叩き落とせ』」

 俺が指示を飛ばすと同時に、ハリテヤマは両手を組みハガネールの平たい額に振り下ろした。
ハリテヤマの技が激突したことにより、軌道が修正されハガネールの巨体が岩戸の箱の中に納まった。

そして、箱の中には俺の指示を待つマグカルゴがいる!

「マグカルゴ、『オーバーヒート』!!」

 これこそが、俺の作戦。そして、ここからが俺にとって本当の始まりだった。
持っている槌にさらに力をこめた。


―*―4―*―

技の発動と同時に岩戸の箱から、巨大な火柱が上がる。
岩戸の箱が炉のような役割を果し、内部の熱量を爆発的に拡大させる。拡大された熱が、ハガネールの体を構成する鉱石を溶かし始めたのだろう、命の終わりを示すかのような絶叫が炉の中から響いてきた。
炉の中でハガネールが熱から逃れようとのた打ち回る。
炉の中からは飛び出したハガネールの眉間に俺は容赦なくマリルリの『馬鹿力』と共に槌を振り下ろす。
怒気に満ちた咆哮があがる。その瞳は、恨みに満ちていてにらまれた瞬間背筋が凍った。
命を奪う手が震える。
だがそれでも、と俺は意識を奮い立たせる。


 真っ白な病室で交わした約束と、彼女の笑顔が脳裏をよぎった。それだけで震えがとまった。

「うらんでもらってかまわない」

 自分でも驚くほど冷たい声が喉から漏れた。マリルリに目を合わせてうなずく。
もう一度、槌が振う。音が響く。鈍い音が響く。

「のろってくれてかまわない」

 ハリテヤマが、広げてあった道具から鞴を取り出し全力で扱い空気を入れていく。
その度に、炉の熱が上がりハガネールが末期の絶叫を上げる。

「これが自分のエゴだって事は解ってる」

 マグカルゴが、原始の力を使って力なくうなだれるハガネールを持ち上げる。
それにあわせて、マリルリと槌を振るう。
グニャグニャと、ハガネールであった物が変形していく。

「その命は使わせていただく!!」

 命を持った生物を別のモノに変える。
初めての感覚も初めてのことに対する戸惑いも命を扱う恐怖も全て、赤銅色のソレに溶かし込んでいく。
だから、迷いなく槌を振るい続けた。


―*―5―*―


 はたから見れば、狂行とも思える作業を終え。ついにそれは完成した。
岩蛇ポケモンの意匠を象った模様。通常の鐘の青銅色とは違う、白金色の光沢を放つ、白い梵鐘が出来上がった。


 この鐘の音が届けばいいな。

 あの約束が、この鐘を叩くことで果されるといいな。

 即席で作り上げた台に鐘を吊るしながら、そんな希望を心の中で祈った。
そして、吊るした鐘に向かって撞木を振るった。
梵鐘の重い音とは違った。明瞭な響きが、体の疲れを癒していく。
あの恨みに満ちたハガネールの表情からもっとドロドロとした音が出るのかと心配したがそんな事は杞憂だったようだ。
 鳴らすたびに、体に響く感覚が鋼を打つ感覚と似ていることに気がついた。
ハガネの音色が世界にひびいた。

「願わくば、この音色が君に届きますように」


―*―*―*―


 気がつけば私は真っ黒な泥の上に浮いていた。
本能とでも言うのか、直感的に私はこの世界は恨みや辛み何かを呪った黒々とした感情が固まって出来上がった泥なのだということを理解した。
 彼とあんな約束をしておきながら、結局私は約束を果すことが出来なかった。
それがとても、恨めしい……―――

 そこまで考えて、ふっと私は肩の力を抜いた。
 なるほど、最後まで生きることにしがみ付いていた私には……最後の最後で生きることが出来ないことを呪ってしまった私とってここは当然、沈むべき泥ということだ。
 やりきれない気持ちにうなだれると、体が黒い世界に少し沈んだ。
冷たい泥が、服の隙間から入り込み体を覆っていく。
気持ち悪いが、抵抗しようにも体がまるで蛇に巻きつかれているかのように動かない。
 意識が、泥と同調するように黒く塗りつぶされていく。
 力が徐々に抜けていき、感覚が消えていく。
 体がズブズブと黒い泥に取り込まれていく。
 感情もソレに合わせて泥に取り込まれていく。

「こんなことなら……」

 最後に恨み言を口にしようとして、―――……



……―――気がついた。


「……音がする」

 すでに耳は黒い泥に沈んでしまって塞がれてしまっているはずなのに、確かに音が聞こえた。
脳の裏側からしっかりと染み渡るように響いて来る。―――、鐘の音。
この世界に似つかわしくない、白い音。
金属と金属が共鳴する澄んだ音が、頭の中を真っ白にする。
生命力を象徴するかのような力強い響きが、黒々とした感情を一瞬で振り払った。
 二つの響きが頭の中で反響し、何度も何度も私の体を打つ。
金属の冷たさと、出来立ての鋼の熱さの両方を取り込んだような不思議な音色。

――――わかる。
 この鐘は、命を燃やして作られたものなんだ。作り手も命を燃やして造った物。
だから、こんなにも不思議な音色なんだ。

 残響の余韻が終わると、私は体が軽くなるのを感じた。
気がつけば、今まで私を取り込もうとしていた黒い泥はどこにもなく、白濁とした世界の上に立たされていた。
 この音色は、きっと彼が作り出した物なんだろう。彼は、ちゃんと約束を果してくれたのだ。
そうだ。だから、ちゃんと言わなくちゃ。彼の姿が見えなくても、私の最後の言葉は決まっている。

「うん。ありがとう……―――」

 鋼の音色に答えるように、わたしはつぶやいた。





END
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