> 無音の世界 作:風見鶏
無音の世界 作:風見鶏
 ココハ タワーオブヘブン……
 タマシイガ ネムル バショ……



 俺がタワーオブヘブンを訪れたとき、一階にいた警備員が機械のようにそう告げた。昔の話だ。機械というよりは、人間という殻の中に何か得体のしれない存在が乗り移ったふうだったかもしれない。そいつを見た瞬間、俺はタワーオブヘブンとはこういうものか、と思ったものだ。
 薄暗くて気味の悪い場所だというのに、この場所は魂を鎮めるための場所だという。なんでも頂上の鐘がそうした力を持っているのだそうだ。フキヨセのジムリーダー、フウロが言うことには、鳴らす人の心根が音色に反映されるのだとか。それはおもしろいと思った俺はすぐさまに行動を起こした。
 鳴らしてみてもいいだろうか、その申し出にフウロは快諾した。
 おとなしい野生のポケモンたちと戯れながら、頂上を目指し、辿り着いた場所は浮遊感の漂う神秘的な場所だった。奥には大きな鐘が静かに存在している。
 心臓の高鳴りを抑えながら鐘に近づき、厳かな心持で俺は確かに鐘を鳴らした。
 音は鳴らない。
 鳴らない理由について、ジムまで戻ってフウロに問い詰めてもよかっただろう。しかし俺は鳴らないくせに揺れ続ける鐘を目の前にして、一歩たりとも動くことができなかった。脳裏にはフウロの言葉がよぎる。
 ――鳴らす人の心根が音色に反映される。
 だとしたら俺の心根には、音色をかき消してしまうような何があったというのだろうか。あるいは、何もなくただ真空が広がっているだけなのだろうか。疑問符に答えを見つけることなどできない。俺は自分の心根など見ることができないのだから。
 仕方なしに俺はジムまで戻った。良い場所でした、そう一言だけ感想を述べて去るつもりだった。それが旅人である俺の最低限やるべきことだと思っていた。
 けれど言い出すより先に、フウロのほうが口を開いた。
「鐘の音はどうでしたか」
 その表情は愛想笑いすら浮かべることなく、タワーオブヘブンにいた警備員のようにどこか機械めいていて、内に秘めた感情を汲み取るなどということはできなかった。
「良い音色でした」
 タワーオブヘブンについての感想を述べる代わりに、聞かれたものだから鐘についての感想を述べた。実際は音色など聞いていない。良い音色でした、それはつまり自分の心根が清らかであると言っているのだ。俺は言った後で失言であると気づいた。
「いいのよ、無理しなくて。アタシに聴こえなかった鐘の音が、あなたにだけ聴こえるはずがないんだもの」
 フウロはすべてを見抜いていた。俺はこれより先の言葉を次ぐことができなかった。
 鐘の音が聴こえない――その不可思議な現象が意味するところはなんだろう。
 頂上までの道に生息していたポケモンたちに敗れ、鐘まで辿り着けなかったと思われただろうか、まさかそんなことはあるまい。鳴らしたはずなのに音が出なかった、多くの人々の音色を聴いてきたフウロにはそれくらいの推測もできただろう。
 俺は冷たい人間か? 心はからっぽか?
 旅の目的に一つの問題が加わった瞬間であった。


 鐘が鳴らなかった理由は、未だに分かっていない。
 もし原因を何かに無理やり見出すとするのならば、俺が記憶喪失であるということくらいだ。そもそもの旅の目的は、自分の記憶を取り戻すことにある。タワーオブヘブンは完全に寄り道のつもりだった。背の高いタワーの姿を見て、失われた記憶の欠片が表層に浮かび上がらないことからも、寄り道になることは分かり切っていたことだ。それが蓋を開けてみれば結果は全く違うものになった。フキヨセを出てからの俺は、あらゆることを鐘が鳴らなかった理由に結びつけるようになってしまった。記憶を探すのよりも、鳴らない理由を探すようになったのだ。
 だから両方とも進展しないまま、俺はイッシュ地方を一周してしまい、最近は専らヒウンシティに居つくようになった。これだけの人がいるのならば、いつか俺を知っている者が現れてもおかしくはない、そんな期待をこめてのことだ。
 しかしそんな受け身の姿勢では、本当にやることがなくなり、声が出なくなってしまうくらいの暇を持て余すのだ。暇を潰すためにヒウンシティを歩き通し、辿り着いたのは裏路地にあった怪しげな喫茶店。日の光が入らない陰気な路地では、荒くれ者たちが水を得たサメハダーになって泳ぎ回っているというのに、喫茶店の扉は結界が貼ってあるかのように綺麗なままを保っている。
 俺は荒くれどもに睨まれながら、ゆっくりと扉を開く。外の世界とは空気を異にしていて、別の世界に足を踏み入れたような錯覚を覚えた。
 ギターの音色が聴こえる。タワーオブヘブンにある鐘が鳴ったら、この音色よりも美しい響きになるのだろうか。まだ聴かない記憶に想いを馳せながら、ギターの音に耳を傾ける。
「一杯どうですか」
 喫茶店のマスターが言った。俺はコーヒーをブラックで頼んで、カウンターの椅子に腰をかける。
 しばらくすると湯気を上らせるコーヒーが出てきて、俺はその黒い液体を見つめた。
「何か悩み事があるようですね。私でよかったら聞きますが、どうですか?」
 悩み事といってしまえばそれまでだが、俺が抱えているのは人生の命題とも呼ぶべき問題だった。それを話すよりも先に、まずは聞くことがある。
「なんで悩み事があると思ったんだ?」
 マスターは洗練された動作でコーヒーカップを拭いている。その手が少しだけ止まった。
「こんな陰気な場所に来る人が、悩み事の一つも抱えていないとは思えないでしょう? 事実、私どもの店にいらっしゃるお客様はそうした方ばかりですから」
 なるほど。納得して、ブラックコーヒーに口をつけた。口にするに丁度いい温度の液体が喉を通っていく。ほぅとため息が出て、俺はいくらか落ち着いた気持ちになった。
 タワーオブヘブンの鐘を知ってるか――。
 俺は鳴らない鐘がこれまでにどんな影響を及ぼしてきたかを話し始めた。俺の旅はこいつに出会ってから全く違う道行になってしまったのだと。
 

 そうして話し終えるとき、舞台の歌い手に合わせるバックサウンドのようにギターの音色は引いていった。俺は話しているあいだ、舞台の上に立っているかのように感じていた。この場所がそれほどの雰囲気を保ち、かつギターを弾いている男が相当な実力であったからだろう。
「ちょっといいかな、兄さん」
 ギターの奏者が口を開いた。
「記憶がないって言ったね? それに、タワーオブヘブンの鐘が鳴らなかったとも」
 俺は頷いて、先を促した。
「恐らく私がやっても同じ結果になるだろう」
 奏者は黒いメガネで両目を隠したまま、けらけらと表情を出さずに口元だけで笑った。
「つまり、どういうことだ?」
「私も君と同じだったのさ。記憶がない。鐘は鳴らない。その時フウロは心配そうな顔をしていたさ。けれど、ある場所に行って思い出した。記憶がないことも、鐘が鳴らない理由も、すべて思い出した」
 その言葉に食いつかんとする、はやる気を抑えようとした俺はコーヒーを一口飲んで、ため息をしてから口を開く。
「その場所はどこなんだ」
 奏者も持っていたギターをスタンドに立てかけ、椅子に座ったまま手を組んで前かがみになる。暗いメガネの隙間から小さな目が見えた。その目が俺を捉えている。
「いいのか? 記憶を取り戻し、鐘が鳴らない理由を知ったとしても、君にいいことは何一つないかもしれないぞ」
 それでもいいと、俺はすぐさま返事をした。
 奏者はけらけらと笑って、しばらくしてからようやく話を始める。
「デスマスっていうポケモンを知っているか? デスマスは実におもしろいやつなんだ。何が面白いかって、それは見てみれば分かる。だから君が行くべき場所は、デスマスがいるところ――古代の城だ」


 言われたとおりに古代の城に足を運んだ。広がっている砂漠を見たときは思わずため息が出てしまったが、歩き出してみるとそんなに苦ではなかった。時おり吹いてくる風が細かい砂を運んできて、それが身体のあちこちを叩いていったが、長い間歩き続けた旅の辛さに比べれば大したことはない。
 しばらく歩くと石像やら古い建物が見えてきて、案外あっさりと古代の城に辿り着くことができた。行きやすいこともあってか、砂漠に佇む遺跡は観光地にもなっているらしい。家族連れの観光客だったり、興味深く城を見て回る人が多くいた。その中でもデスマスを見るために訪れたという者は俺くらいだろう。それも単純な興味ではなく、自分の記憶について探るのが目的だ。
 一階は観光客やらトレーナーの小さな人ごみがあったので、俺は地下に続く石造りの階段を降りた。
 いきなり目に入ってきたのは、マスクを持った全身真っ黒のポケモン。
 ――デスマスは実におもしろいやつなんだ。
 ギターの奏者はそう言っていた。何がおもしろいポケモンか。俺はデスマスの姿を見た瞬間、全身に電気が走ったように思えた。鋭利な感覚が脳天から突き抜け、首から上を火照らせた。
 デスマスは、持っているマスクを見て、涙を流していた。
 顔という顔のない真っ黒なそいつは、まるでマスクが本当の顔であるかのように、顔が刻まれたマスクは細部までしっかりと造られている。周囲を見渡して、他のデスマスを見てもそれは同じであるが、マスクに浮かぶ顔はどれも違っている。
 人間が決して同じ顔をしていないのと、同じように――。
 心臓が早鐘を打っている。薄暗い砂の城で、俺は記憶の欠片の一端を見ているように思うのだ。何がそう思わせるのか、分からない。あと少し。あと少しの何かがあれば、俺は――。
 旅だ。イッシュ地方を巡った旅。道中で立ち寄ったタワーオブヘブン。魂を鎮める場所。頂上にあったのは鳴らない鐘。無音の世界で俺が感じたものは何か。俺は冷たい人間か。心が空っぽなのか。
 ――鳴らす人の心根が音色に反映される。
 あの時フウロはそう言った。俺は今、見つけてはいけない答えを拾い上げようとしている。まさかそんなことはないだろうと、考えることさえしなかったその答えが、俺の眼前に突き付けられている。
 鳴らす人の心根が音色に。それなら、音色にならなかった俺の心根は。無音の音色が作り出した世界。それが俺の世界だとしたら。もしそうなら、

 ――俺は、人間か?
 
 破砕音を聞いた。その音は俺の中で響いているものだろうかと思ったが、それは違う。泣いていたデスマスが慟哭をまき散らしている。持っていたマスクが欠片になって、その場に散っている。血の涙を流したデスマスが吠えていた。顔のない真っ黒な表情を悲痛に歪ませ、顔に当てた両手を震わせながら。
 嘆きに反して、デスマスは光に包まれていく。暖かな光だ。
 砂の城の中で叫び声は響かない。それでも届いた叫び声が俺の胸を突く。
 マスクが割れた――つまり、それは進化の兆しだ。
 デスマスの持っているマスクが表すもの、それは人間だったときの自分の顔。生前の自分。進化はそれと決別をし、完全なポケモンへと生まれ変わる儀式。そんな知識が俺の頭の中を駆け巡る。同時に脳裏を飛び交う映像。
 真っ黒な両手。砂の壁。石の階段。俺を包み込む光。足元には――。
 俺の顔が掘り込まれた精微なマスク。
 ポケモンになることを拒んだ。俺は人間でいたかったのだ。ポケモンになんかなりたくなかった。旅を続けていたかった。包み込む光の温度に、俺は一切の優しさを感じなかった。
 不意に叫んでいたデスマスの声が止んだ。そこに居たのは進化したポケモンの姿だった。デスカーンが雄叫びを上げて、去っていった。足元のマスクは砂をかぶり、やがて消えていく運命にある。
 こうして一人の人間が死ぬ。
 あの光は、進化の光ではない。死が人間を迎えるために差し向けた光だ。死の光だった。
 思い出したすべての記憶は、確かに俺を幸福になんかしてくれなかった。
 分かったことはただ一つ。

 俺は死んでいた。


 再びタワーオブヘブンを訪れた。そこには相変わらず機械のような警備員がいる。こいつもデスマスだったのだろうか。
 頂上に辿り着き、鐘を揺らしてみたけれど、そこに生まれたのは無音の世界だった。
 音色は響かなくて、俺の心に生まれるものは何もない。
「鐘の音はどうですか」
 後ろからフウロの声が聞こえた。
「無音だ。無音の世界だ」
 俺は答えて、言葉を続ける。
「頼みがあるんだ」
 振り返ってフウロの心配そうな瞳を見つめる。
「俺の代わりに、この鐘を鳴らしてくれ」
 フウロは笑って答える。
「無理ですよ。アタシだって、デスマスなんですもの」
「それは嘘だな。笑顔の綺麗なあんたが、死んでいるはずないじゃないか」
 そうしてまた笑う。
「もちろん冗談です。鳴らしてあげましょう。あなたのために」
 
 タワーオブヘブンの鐘が鳴った。無音の世界は光に包まれていく。
 俺は目を閉じた。やはり、タワーオブヘブンなのだ。俺が旅の途中に辿り着いた場所は、決して寄り道なんかではなかった。ここが、俺の行きつく場所だったのだ。
 光は暖かだった。
 頬が緩む。俺は生まれて初めて笑ったような気がした。

 そして、俺の旅は終わった。

 
 
 ココハ タワーオブヘブン……
 タマシイガ ネムル バショ……
NiconicoPHP