> シンクロケーシィ 作:風見鶏
シンクロケーシィ 作:風見鶏
 最近はポッチャマのシールが流行っている。
 たぶんパンかなんかのおまけに付いているシールだと思う。布っぽい肌触りのざらざらしたシールで、それをケータイの裏側に貼るのが、あたしたちのグループでのトレンドだ。
 ――グループ。
 くだらないと思うだろうか。思うとしたらそれはどんな人が思うのだろう。きっと人付き合いが苦手で、周りの人間を見下しているような人だ。かく言うあたしは非常にくだらないと思う。
 人はグループになった瞬間、個人ではなくなる。グループの意思によって色んな決定が成される。グループと違う意見を持ったら修正されるし、もし修正されなければ排除される。とても排他的な集団。
「みっちー、放課後どするー」
 ほとんど放課後ではあるけれど、まだ清掃の時間だ。話しかけてきたチカは、二時間メイクの浅黒い肌に凶器のように鋭く光る金髪をしている。制服のスカートはほとんど下着が見えてしまうくらいに短くて、指定のソックスはキャラクターもののくるぶしになっている。サンダルを履きだしてもおかしくない勢いだ。右手から放れることのないケータイの裏側には、怒ったポッチャマのシールが貼ってある。
 それでもチカはあたしと同じグループに属している。自然とそこに属する人間も同じような外見になる。あたしもそうだ。気持ち悪い髪と、めちゃくちゃなメイクに、だらしない服装。ケータイはポッチャマ仕様だ。ショッキングピンクに可愛くほほえむポッチャマのギャップがお気に入り。
「またオケとかー?」
 オケというのは、言わずと知れたカラオケの略語。正直なところ、こういう略語とか若者言葉みたいなものは好きじゃない。なんだか共通の言葉を作って仲間意識に浸りたいだけみたいな感じで。だからプリクラで丸っこく書かれた「絆」とか「仲間」とか「うちら」みたいな言葉は大嫌いだ。
「オケだるくなーい? うちら――」
 教室の戸が勢いよく開け放たれた。チカがあたしの嫌いな言葉を吐こうとしたとき、教室に勢いよく駆け込んでくる女の子。あたしたちのグループのうちの一人。よっしー。よしみ、だから、よっしー。
「ねーぇ、ゆうこが別れたんだってー! まじ泣いちゃって、だるいからうち慰めに行ってくんねー」
「あ、ちょい待ってみ」チカが止める。
「みっちー、うちらも行く?」
「また掃除サボるの? 怒られるよ?」
 チカがあからさまに嫌そうな顔をした。
「ゆうこと掃除、どっちが大事? うちら仲間じゃん」
 うちら、仲間。吐き気がする。なんでもかんでもグループのために尽くさなきゃいけないなんて、うんざりだ。馬鹿みたい。別れたって、一か月に何回別れれば気が済むんだ。どう考えたって人の恋沙汰よりも掃除のほうが大切だ。一週間しか付き合わないで別れるジェットコースターみたいな恋と、将来のために従事する習慣。こいつらはどっちが大事かも分からないのだろうか。十年たったその時に、残っているのはどっちだ?
「ごめん、ゆうこのほうが大事」
 あたしには言い出す勇気なんてないのだ。ハブられたら独りだ。ハブるっていうのは、省くから生まれた言葉だと思う。仲間外れにするっていう意味なんだって。独りは嫌だ。寂しいし、視線が辛いし、なんてたって惨めだ。だからあたしはいつでも従うしかなかったのだ。
「でもやっぱり、さすがに掃除もしなきゃだから、先行ってて。すぐ行くから」
 そうしてポッチャマのケータイをかざし、ひらひらと振る。あとで連絡するからっていうジェスチャー。チカとよっしーはだるそうに返事をして教室から出て行った。
 教室に残ったのはあたし一人。他の清掃員はみんなサボった。それがほとんど日常だった。
 あたしは箒を握りなおした。


 ピロティ―でゆうこが泣いている。掃除が終わってからすぐに連絡をしたら、そう返ってきた。
 掃除していた教室は三階で、ピロティ―は体育館の横にあるから行くまでに結構な時間がかかる。走ればそんなことはないけれど、たかだか一週間しか付き合わずに別れるような恋愛に付き合ってなんかいられない。あたしはゆっくり歩きだした。
 ケータイを取り出す。ポッチャマがほほえんでいる。ポッチャマに罪はないけれど、このシールを見ると、仲間とか絆とか、聞くだけで寒気がするような陳腐な言葉ばかり思い浮かんでしまう。
 あたしはポケモンが好きだ。あたしだけじゃない。グループのメンバーはだいたいみんなポケモンが好きだ。ネイルとかハンドクリームでぎとぎとに加工された手を使って、汚いものをつまむかのような手つきでDSを操っている。楽しさの基準はゲームの中じゃなくて、リアルに持ち出される。
 あのポケモンがかわいいとか、このポケモンのグッズがほしいとか。
 決して四天王に勝ちたいから強いポケモンが欲しいとか、そうしたゲーム内の欲求には結びつかなかった。
 あたしは純粋にチャンピオンに勝ちたいと思うし、色違いのポケモンが欲しいと思うし、珍しい木の実を育てようと思ってゲームをやっている。何もかもがグループと逸していて、あたしの意思は集団の中に埋もれていた。
 もう、こんなことやめたいんだ。
 二階の階段を降りて、とうとう一階に来た。体育館の横の昇降口から外に出れば、そこはピロティ―だ。行きたくない。
 気持ち悪い集団意識。排他的で、狭い世界の中でしか生きていくことができない昆虫のような人間。外見ばっかり気にして、恋愛だってファッションで、やがて汚い外面は内面を侵食し始める。言葉づかいとか、価値観とか。あたしはまだかろうじて生きているようなものだ。いつ死んだっておかしくないところに居るのだけれど。
 昇降口をくぐる。水飲み場があって、その角を曲がったところに三人はいるだろう。すでに泣き声と必死で慰める安っぽい言葉が聞こえている。
 あたしはグループに帰属したくない。いっそのこと、ケーシィみたいになりたい。ケーシィはだって、一日のほとんどを寝て過ごしているのだ。テレポートで空間を移動して、独りだって何の苦になることもない。そもそもグループがないからだ。あたしたちは学校という大きなグループに所属するかぎり、集団の目から逃れることができない。それが孤独になることを恥ずかしいものとして仕立てあげてしまう。本来はケーシィのように、独り気ままに生きていければいいはずなのに。
 水飲み場には化粧品やら、染髪剤なんかが置かれっぱなしになっていた。黒の染髪剤は誰かが派手な色にしすぎて生徒指導からお叱りを受けた時に使ったのだろう。時間を稼ぐために水飲み場の蛇口をひねった。一つ、二つ、三つ。全部ひねった。水の勢いを最大にする。水の流れる音が、聞きたくない「仲間」を徐々に薄く隠していく。辺りがびしょびしょになって、あたしの制服の上下もずぶ濡れで、汚い金髪はすっかりわかめみたいになった。
 眠い。別に風邪を引いたわけじゃないだろう。いいかげん気づいてくれてもいいと思うけれど、あたしたちの仲間意識がそれくらいのものだったと証明できるなら、このままでもいいかなって思う。
 眠い、眠い。あたしは目を閉じた。
 陳腐な言葉の数々は、水の音に消えていった。


 さらさらと水が流れている。
 どうやらあたしは眠ってしまったらしい。だれにも起こされなかったということは、つまり仲間意識なんてそれくらいのものでしかなかったということだろう。
 目を開けて辺りを見渡してみると、どうやらそういうわけでもないらしかった。
 そこは水飲み場なんかじゃなくて、どころか学校ですらない。見たことがあるような気もするけれど、来たという記憶は欠片もない。
 ポケットからケータイを取り出して開く。
 ――圏外。
 電波が入っていない。そこでケータイが少しも湿っていないことに気付く。全身に手を滑らせると、湿っている部分なんてどこにもなかった。どういうことだろう。
 ケータイを裏返すと、ポッチャマがほほえんでいた。やっぱりどこも濡れていない。
 やけに草むらの多い場所だった。木があり、ため池があり、近くには掘っ立て小屋のような家があり、誰かを待つように立っている人が何人かいる。
 草むらが小さく揺れた。近くにいた人がふっと振り返るけれど、すぐに目を正面に戻す。
 こんな自然に満ちた場所にはどんな動物がいるだろう。ここで寝ていた理由よりも先に、あたしはそんな好奇心に駆られた。ケータイを右手に握って、試しに揺れている草むらまで歩いてみる。
 そこには草が生えていた。当たり前だ。草むらの中なんだから、草だっていくらでも生えている。
 けれどその草は芝色の草むらとは違って、やけに濃い緑色をしている。その上、たいした風もないのに揺れまくってる。がさがさうるさい理由は恐らくこの変わった草だろうと思う。
 あたしがその変わった草を掴もうとすると、そいつはひょいっと手を避けて、草むらを揺らしながら逃げていく。あたしはびっくりした。草が動いている――。
 草に逃げられるなんて経験は、生まれてこの方初めてだ。まさか草に逃げられることがこんなに悔しいことだとは思わなかった。あたしは悔しさを紛らわすためにケータイを強く握りしめ、臨戦態勢を取った。
 ――捕まえる!
 短いスカートをはためかせて、あたしは幼いころに戻ったような気持ちで走り出す。遠くにいた緑の草は、ぴょんと小さく跳ねて、草むらの中を逃げていく。足が速いのはあたしのほうだ。雑草を踏みしめて、ほどよく柔らかい土壌を蹴る。突っ立ている人を避け、規則的に立ち並んだ木々の中ほどで追いついた。鮭を捕獲する熊のような動きで緑の草を勢いよく引っこ抜く。
 草の割には意外と重いけれど、ついに獲物を捕獲した!
「なじょー!」
 なじょーって言った。その草はなじょーと悲痛の叫び声をあげた。泣きそうな赤い点と目があった。あたしの目も点になった。
「ナゾノクサじゃん!」
 思わずあたしはナゾノクサを地面にたたきつけた。
 再びなじょーと鳴き声が上がる。徹底的におかしかった。ナゾノクサじゃん! とか言っている場合じゃないくらい完全におかしい。だってナゾノクサだ。それ以上説明なんかしたくないくらいにナゾノクサで、それはつまり、あたしの目の前にポケモンがいるということだった。
 あたしが持ってるポケモンなんてケータイの裏に貼られたポッチャマしかいない。動くポケモンがいていいものだろうか。
「君! そこのミニスカ! ポケモンになんてことしてんの!」
 たぶんあたしが呼ばれているのだ。
 振り返ってみると掘っ立て小屋の前で、白衣を着た背の低い男が叫んでいる。腰を手に当てて、いかにも怒ってますよといった格好だ。
 あたしは逃げ出そうとしたナゾノクサを引っ掴んで、男の方に走っていく。目をそらされたのは、たぶんスカートがひらひらしていたからだろう。ごめんなさい、この下はスパッツです。
「あの、これ、ナゾノクサ?」
 目を回しているナゾノクサを突き出す。
「君にはこのポケモンがマダツボミだとかピカチュウだとかに見えるってのかい?」
 そうじゃない。なんでここにナゾノクサがいるのかっていう話だ。
「ほ、ホンモノ?」
 あたしがそう言うと、男は怪訝そうな表情を作った。何を言っているんだこいつは、と。
「どっかにジッパーが付いてる? それともスイッチとか?」
 ナゾノクサの体中を眺めたり触ったりしても、なじょなじょと笑い出すだけで本当に何もなかった。
「これ、ホンモノです」
「最初から言ってるでしょ」
 俄然テンションが上がってきた。ナゾノクサが居るということは、他にも色んなポケモンがいるってことだ。別に夢だっていい。今ここで感覚や思考が生きてるなら、楽しめるんだからそれでいい。あたしは辺りを見回した。
 そして、あることに気づく。
 このオブジェの配置は、初代のポケモンをやった人ならすぐに気づいてもいいものじゃないだろうか。あたしは恥ずかしことにようやく気がついた。ここはハナダシティの北だ。金の玉をくれるおじさんがいた橋の先。この掘っ立て小屋は、だったら、マサキの小屋か――!
「も、もしかして、マサキさんですか?」
「へ? いや、ここはマサキの家だけど、ぼくは助手なんでね。しゃべり方と外見で気づかないかなあ」
 そう言った助手は嫌そうな顔なんて一つもしなかった。きっとマサキの名前が出てきたことで嬉しくなったのだろう。あたしもこの場所を思い出したときは嬉しかったから、似たようなものだ。マサキの顔は思い出せなかったけど。
「あ」あたしは声を洩らした。
「もしかして、この辺にケーシィいますか!?」
「うっ、い、いるけど、ナゾノクサみたいに簡単に捕まったりしないよ」
 助手が吠えるをくらったオタマロのような顔をして答えた。対してあたしの方は嫌でもにやついてしまう。ナゾノクサを放り投げたくなるくらいに心が躍った。なじょー! と鳴き声が聞こえたときには、ナゾノクサは本当に宙を舞っていて、助手が慌ててナゾノクサの落下点にダイブする。
「ポケモン虐待!」
 白衣を土に擦らせて、ナゾノクサを見事にキャッチする。申し訳ないけど、今のあたしはケーシィを捕まえることで頭がいっぱいだ。
「ごめんなさい! ナゾノクサは任せます!」
 走り出したあたしに向かって飛んでくる声なんか無視して、あたしはケーシィの潜む草むらを目指した。


 いた。いたいた。まっ黄色のキツネ顔。年中閉じられた目だけを見ても、寝ているのかどうかはさっぱり分からない。不思議なポケモン。あたしの好きなポケモン。
 ケーシィはテレポートを使うのだから、何も考えずに寄っていったらすぐに逃げられる。まずは草むらの中に身を隠し、極力音を立てないようにしてゆっくり近づいていけばいい。
 足を折って、背中を丸めて、草の背よりも低くなって進む。ケーシィの近くに辿り着いたその瞬間、一気に草むらから飛び出す――!
 思わず掛け声を上げて獣のように跳びかかる。跳躍。しかしケーシィはもういない。
 あたしは呆然とした。まるでバーゲンのワゴンでおばさんにバッグを掻っ攫われたような気分だ。さっきまでそこにあったのに、次の瞬間にはどこかに消えているのだ。これがテレポートというやつか。ナゾノクサと違ってどっちの足が速いとか、そういう次元の問題ではないということらしい。
 あたしはケータイを握りしめた。手の中ではポッチャマがほほえんでいる。


 ケーシィはいっぱいいる? その答えをだれが証明してくれるだろう。
 時間を忘れるくらいに走り回ったあたしは、未だに複数のケーシィを同時に見てはいない。つまり発見したとしてもそれは一匹ずつで、ケーシィの個体判別ができないあたしには、テレポートで逃げたケーシィとそうでないケーシィの見分けがつかないのだ。ケーシィはケーシィ。一度でいいから捕まえてみたい。
 あたしは跳ぶ。ケーシィも飛ぶ。あたしたちの心は一度だって交わされることなどない。なんだか泣きそうになってきた。あたしだってケーシィみたいにグループを脱して生きてみたいんだ。孤独を感じない独りになりたいんだ。ケーシィに触れたらそれができるような気がして、あたしは無謀な追いかけっこを続ける。
「おい、ミニスカ」
 助手の声が背後から聞こえた。泣きそうだったあたしは涙目になっているかもしれない。あたしは立ち上がっても振り返りはしなかった。
「なんですか」声が震えた。
「なんですかじゃなくて、なにしてんの」
「見てわかりませんか。ケーシィを捕まえようとしてるんです」あたしは目をこする。
「手持ちのポケモンは? ボールは?」
「いません。ありません」あたしは間をおかずに答えた。
 助手はため息をついて、たっぷり黙ってから再び口を開く。
「どうしてもそのスタイルで捕まえたいんだったら、ケーシィの気持ちを考えてみることだね」
 ケーシィの気持ち? 理解できないうちに、助手は足音を立てて小屋の方に戻っていこうとするので、あたしは慌てて呼び止めた。
「待って! それってどういう意味ですか!」
 あたしは涙目のまま振り返ってしまう。助手の後ろ姿が見える。振り返った。
「わからないかな? ケーシィは独りでいたいんだよ」
 助手の冷たい瞳があたしを捉えていた。とうとう堪えきれずに一筋の涙が頬を伝った。その様子を見ても、助手は表情一つ変えず、何の感想も洩らさずに歩き出した。
 ポケモンのことをちゃんと分かっている人間だ。あたしはポケモンに気持ちがあるだなんて、そんな当たり前のことすら考えたこともなかった。
 ――ケーシィは独りでいたいんだよ。
 あたしと同じだ。ケーシィが独りで一日のほとんどを眠って過ごしたいように、あたしだってグループを抜け出して自由に生きたい。ケーシィに憧れていたんだ。だから、ケーシィはあたしの理想の姿勢であるに決まっているじゃないか。ケーシィだって、独りがいいんだ。

 それからあたしは追いかけるのを止めた。
 草むらの中に大の字で倒れこみ、綿あめのような雲が浮かぶ空を眺めた。その空は現実で見る空と大して変わらなかった。青は青だし、白は白だ。それなのにあっちの世界に戻ってしまったら、空は変わらなくても、あたしはあたしじゃなくて、グループになってしまう。集団だ。塊だ。
 あたしにだって意思がある。チカにもよっしーにもゆうこにだってある。もちろんケーシィにだってある。その意思を統一するなんて、されるなんて、あたしには我慢ならない。それじゃあ何人でグループを作ったって、外見が違うだけで中身が一緒の人形が何体もいるだけだ。綿ばっか詰めて勝手に笑わせておけばいい。
 あたしは空に向かって精一杯嘲笑を投げてやろうと思った。けれど、それすらもめんどくさい。
 ケーシィになろう。ケーシィはきっと周りのことなんか気にしない。周りを罵倒して独りになることは、自分の殻に閉じこもって、結局孤独を惨めだと思う人間であるのと変わらない。それは強がりなのだから。
 気にしない。それが一番だ。
 今度こそあたしは笑った。嘲笑じゃなくて、心から素直に笑った。傍目から見たら気持ち悪いかもしれないけれど、グループにいるときの作り笑いのほうがよっぽど気持ち悪いに違いなかった。
 風が吹き抜けたような気がした。そばの草むらが一瞬だけ音を立てる。
 そこにはいつの間にかケーシィが座っていた。キツネ目を閉じて、眠るようにして佇んでいる。
 憧れのケーシィがこんなに近くまで来ているのに、あたしの心臓は一秒のペースも乱さなかった。風に触れるような気持ちで、あたしはケーシィに手を伸ばし、金色の身体に指先を当てた。ケーシィも動じない。
 眠そうなケーシィの顔に手のひらを添える。この瞬間に、あたしはとうとうケーシィと心を交わせたのだと思った。言葉も声もなく、無音の世界であたしたちはシンクロする。孤独を分かち合ったふたりぼっち。空はどこでも変わらなくて、誰だって自由になれるのだと教えてくれる。すべては自分の意思で。
 風が吹き抜ける。ケーシィが消えた。そして、あたしも消えた――。


 水の音が聞こえる。
「大丈夫だから、悪いのはゆうこじゃないし!」
 ピロティーの方から声が聞こえる。水飲み場には、化粧品やら染髪剤なんかが置いたままになっている。しっかりメイク用具も揃っていた。だれが使ったものだろうか。
 あたしはその中にあった正方形の鏡を取って、自分の顔をそこに映した。
 気持ち悪い仮面をかぶった自分がそこにいる。
 あたしは染髪剤を取って、髪を黒に染め直した。メイク落としで気持ち悪い仮面を剥いで、大人しめのメイクに直す。ピロティーからはまだ泣き声が聴こえていた。
 グループの「仲間」たちは、なんて言うだろうか。集団から突き出たあたしを、徹底的に排除しようとするだろうか。
 水を止めて、ピロティーの方へ歩き出す。ここからあたしはやり直す。リスタートを切るのだ。
 孤独が辛くなったらそのときは、またケーシィとシンクロすればいい。
 空を見上げた。
 空は青くて、そして、白かった――。



 了
 
> 散りゆく桜が蘇るなら 作:夜月光介
散りゆく桜が蘇るなら 作:夜月光介
「桜は何時見ても美しい」

 私は誰に言うでも無くそんな言葉を呟いた。陽だまりの中、縁側で座っていると心地良い風が吹いてくる。
 傍らには誰もいない。この家は私1人のものだ。汗水流して懸命に働きやっとの思いで建てた家――
 縁側から見える庭には私の大好きな桜の木が植えてあり、毎年見事に咲きまた散ると言う事を繰り返していた。
「散るからこそ美しいのかな」
 仕事に明け暮れた毎日は私から人間との触れ合いを少しずつ奪っていった。私を訪ねてくる者等今では滅多にいない。
 人生に後悔しているかと問われれば正直半々だった。している部分もあれば誇れる部分もある。
 それが人生と言うものだろう。100%の成功等ありはしない。勿論その逆も……

「うッ!」
 突如私を襲った激しい胸の痛みに私は悶絶した。心臓が早鐘を鳴らし、危険信号を送っているのが解る。
 その痛みはあまりにも激しい為助けを呼ぶ声さえ出せず、意識がゆっくりと遠のいていく。

 私は意識を失った――


「桜庭、授業中だぞ。船を漕いでる場合か!」
 何かで頭を叩かれ、私はハッと目を覚ました。周りには懐かしい顔ぶれが揃っている。
「ロク、お前徹夜でもしたのかよ!」
 クラスメイト達のからかいが聞こえてくるが、それに反応する事が出来ない。ただ自分の陥った状況が理解出来ずキョロキョロと辺りを見回すばかりだ。
「シャキっとしろシャキっと!」
 クラスの担任であった山岸稔が教壇に立ち、授業をしている。私にとっては遥か昔の思い出話だったハズが、今は紛れも無い現実だ。
 状況が掴めないまま学校の授業は滞り無く終了し、各自が家に帰宅していく。

「ロク、一緒に帰ろうぜ。帰りに高松屋の駄菓子でも奢ってやるよ」
 当時親友だった橋本秀明が私の肩を叩いた。他にも数人の男子が私との合流を待っている。
「……なぁヒデ。今年って何年だったっけ?」
「お前まだ寝ぼけてるのかよ。今年は昭和60年。西暦なら1985年だろ!」
 衝撃的な返答だった。そうだとすれば今の私は18歳。高校生の頃に戻ってしまった事になる。
 そもそも先程橋本が話に出した駄菓子屋の高松屋も、2000年の時点で既に無くなっていたハズだった。
 (魂だけ過去に飛んだのか。そうなると今から起こる事は全部同じだな)
 人生を今からやり直すとするならば、勿論成功者としての人生を送りたい。起こる事が解っているのならば、
 それを踏まえて人生を謳歌する事は充分に可能だと言えた。

 それからたった数ヶ月で、自分の人生は大きく変化していく。
 競馬好きの父がいる為記憶を頼りに勝馬を教えた事で臨時収入が入り、勝ち続ける事でどんどん資金が肥大化していった。
 テストでも昔の記憶を頼りに範囲をもっと狭めて勉強し、今までの知識も相まって優秀な成績をキープ。
 次々と『予言』を行なう事で人が集まり、18歳にして成功への階段を上がり続ける事になる。
「詳しい事は言えないけど8月は航空関係で凄い事件が起こるね。旅行関係は避けた方が無難だな」
「突然バカヅキじゃんかロク。予言も的中しっぱなしだし、家が突然裕福になるとかどうなってんだよ!」
 私は笑ってその質問には答えなかった。話すべき内容では無いし、話した所で信じてくれるハズも無い。
 人間は金と名誉が手に入れば当然女性関係にも手を出したくなる。都合の良い事に『彼女』もまた、今の自分に興味を持っている様子だった。

 二階堂彩香――当時クラスの高嶺の花と言われていた才色兼備の女性。
 トップ成績を連発しおまけに美人。中小企業の社長の娘だけあってそれなりに豊かな暮らしをしている。
 そんな彼女を魅了する存在など簡単に現れるハズも無く、あの頃はそのまま卒業し離れてしまったが、今は違う。
 私が彼女を魅了する事も、今の私なら不可能では無い。

「桜庭君のとこ、豪華な一軒家買ったって言ってるけど……突然どうしたの?それにテストの点も突然良くなったし……」
「人生にはついている時があるんだよ。それがずっと続く奴もいれば続かない奴もいる。俺は……さぁどちらかな」
 はぐらかされるとますます気になる。人間ならば誰もがそうなるハズだ。彼女も例外では無かった。
「私にだけ、こっそり教えてよ」
「特別扱いは出来ないよ。でも……俺をもっと近くで見てくれるのなら、解ってくれるかもしれない」
 私は彼女を見据え、あの時なら絶対に言う事が許されなかった言葉を告げる。
「俺と付き合ってくれませんか?」
 彼女は多少驚いた表情であったが、やがてニッコリ笑うと静かに頷いた。

 それからの私の人生はまさに上昇を続ける一方だった。馬鹿売れする商品が予め解っている為彼女の父親が経営する会社は大企業へと成長。
 私は大学卒業後高待遇で迎えられる事となり若き役員としてアドバイスを続けた。
 結婚も決まり二階堂の名が世間に知れ渡っていた為世間的には二階堂姓を名乗る事となり、次々にヒット商品を連発。
 金はどんどんとこちらに転がり込み。娘も誕生。金がある暮らしに破綻があるハズも無く、妻との関係も良好。
 遂には30半ばにして二階堂グループの社長に就任。
 独創的なアイディアと絶賛される商品も全て誰かがヒットさせた商品だったが、それを知る人間がいるワケが無い。

「桜は何時見ても美しい」
「本当ね。特にこんなに沢山の桜がある場所ですもの」

 自宅の庭はあの時よりも一層豪華になり、私の好きな桜は何十本も植えられ咲き乱れていた。
 自分の家で花見が出来る事程贅沢な事は無い。私はその嬉しさをゆっくりと噛み締める。
 傍らには愛する妻と母譲りの美貌を手に入れた娘、そして会社に向かえば大勢の人間が自分を褒めちぎり賞賛してくれるのだ。
 これが人生の成功と言わずして何と言おう。惨めな人生の終了から私は一転して成功者となった。
「……散るからこそ、美しいのかな」
「散らない桜もあるよ御父さん」
 娘の綾香が私を指差してそんな事を言うと、妻は微笑み頷く。
「そうか。私は散らない桜か。面白い事を言うな綾香は」
 心地良い充足感に包まれ、意識がまたゆっくりと遠のいていく――

 
「たった今、全ての行程を終了しました。彼は今、幸せの絶頂にいる事でしょう」
 どこかから、声が聞こえている。暗闇だ。何も見えない。聞こえてくる声もぼやけている様だった。
「そうですか、これでやっとあいつに恩を返せました。有難うございます」
 その声は誰かに似ていた。思い出せない。何がどうなっているのかさっぱりだ。
「なぁロク。俺の事覚えてるか?お互いもういい歳になっちまったけどさ。お前が倒れた事を聞いて飛んできたんだよ。
 お前は俺の親友だし色々助けてもらった。俺、脳科学の大教授って呼ばれる程になってな――」
 解らない。自分が何処にいるのか、彼が誰なのか、そもそもココは何処なのか。
 薄れていく意識。最早それは暗闇ですら無いのかもしれない。無に向かって落ちていく感覚。

 私は意識を失った。


 親友の墓の前で、俺は静かに手を合わせていた。傍らには彩香がいる。
「無事に天国に行ったのかしら、六郎さんは」
「俺が見せた夢が天国だったんだから、天国が万が一無かったとしても幸せだろう」
 俺の友人に夢を自在に操る機械を発明したやつがいた。意識不明の重体であったとしても通用する代物だ。
 前々から彩香の事を桜庭が好きな事は知っている。彩香にはその夢の内容は伏せてあるが、自分の成功体験を混ぜた様な内容の夢だった。
「まぁ……天国があるなら、無事天国に行っていると良いが」
 新しい花を持ってきた綾香から花を受け取り、俺はその花を供えてやった。綺麗な桜を――
 
> 蔵 作:とらと
蔵 作:とらと
 空はからっと晴れ渡っていたが、蔵の中にいる三吉にとっては何の関係もないことであった。そもそもこの時期この時間に空がすっきりしているなんて特に珍しい事態でもない。雲低く頭垂れる日和の方が、むしろ三吉には望ましい。腐った屋根が雨漏りするからだ。
 蔵暮らしの生活と言うのはもっぱら飲むのに困る。食べるのには、時折壁板の間隙から忍び込んでくるネズミやミネズミを仕留めればよい。それ一匹で十日は腹が持つ。けれど飲み水はそういう訳にはいかなくて、生き血だけでは足りない時に三吉はほとほと弱った。弱ると言って、だから特別何かをするのではなく、三吉はただただ乾いて待つのが常だった。心得ているのである。こういう場合、大概が『果報は寝て待て』で丸く収まってしまうのだ。
 例えばこんなことがあった。喉をかぴかぴにして死にかけている折、蔵の外にてごとりちゃぷりと音がした。隙間から片目を覗かせると、ひとつ手桶が立っている。そこから水の匂いがするではないか。これ幸いと三吉は足をわさわさ伸ばし、それが届かないと知ると今度は尻を向けぷっと針を飛ばして、ごろんと桶を倒してやった。しぶき散らしたのは神のたもうた水である。その浸み入った土を食むと、なんとも甘い味がした。ありがたや神の水。後になにやら知らない声が怒鳴っていたが、蔵の中にいる三吉には何の関係もないことであった。
 今日とて三吉は喉が渇いていたから、蔵の高い所から張り板の間隙を見下ろして、ネズミやミネズミが呑気に来るのを今か今かと待っていた。三吉はそうするのが嫌いではない。光の漏れ入る中を埃があちらこちらと行き交うさまは、眺めて実に愉快である。三吉は本当にそういった、なんでもない日常に些細な楽しみを感じるのを好んでいた。この男、見かけに似合わず、人生平凡が一番と考えている。物事の激しく移り変わるのは良しとしない。つまるところ――何の前触れもなく突然遠慮なし戸が引かれて直射日光が津波のように蔵を襲ってその前に立つ人間がばっちり己と目を合わせて真っ青になって半狂乱で戸を押し戻し日差しが細まってぷつんと消えるさまになんて、ほとんど興味を抱けないのであった。ハプニングは嫌いである。嬉しいハプニングと言うものは、滅多に起こることなどないのだから。
 ――それは遡ること数ヶ月前。三吉は森に住んでいた。中でも大きなオリーブに、でたらめに巣をかけて暮らしていた。ある日、ふかふかと積み上がった枯葉の上をうろついている折、三吉は妙な音を聞いた。ごーりごーり。リングマの鼾のようで、違う。ごーりごーり。年老いたギガイアスの説法でもない。怨念めいた低音のもたらす不愉快は、まさに呪いの歌である。瞬間、ずどぉん、ととてつもない音がして、三吉は飛び上がって、集めた数人分の食料をてんやわんやと放り投げ、急いで森を駆け抜けた。確かにあのオリーブの方向であった。見ると、そこに慣れた景色は待っておらず、三吉の巣はでろんと土草の上に落ちており、バンザイと大手を広げて倒れているオリーブのその右腕の下に、妻と娘が潰れていた。
 そんな日に限って風重たく、土と緑の中にもうもうと体液の匂いが立ちこめていた。切り株の新鮮な断面が染みだす滴に濡れている。三吉のがくがく震えるのを、前より開けた黒塗りの空が見下ろしている。その時、どこからか再びあの音が響きだしたのである。ごーりごーり。西か東か南か北か。ごーりごーり。突如、どぶ色の悪魔が赤く裂けた口からそれを発して迫りくる幻想が起こって、三吉は叫んで逃げ出した。まもなく空が泣き始めた。泥濘の森地を抜け無我夢中で辿りついたのは人間の多く住むところであった。どこでもよいからと飛び込んだ、そこは薄暗く埃っぽくかび臭く三吉を迎え入れた。雨脚はごうごうと強まる一方であった。その天蓋を打つ音を別の世界に感じながら、三吉はすとんと眠りについた。
 それが、この蔵暮らしの始まりである。


 そうは言ってもどうせまた来るのだろうと気にかけていた折、埃の流れがふいっと乱されるのを三吉は見た。
 がたんと戸が揺れ、開き始めた。溢れんばかりの春の日差しが蔵の陰鬱を浄化していくさまが眩しい。やがて引き戸の向こうから、おそるおそると何かが顔を覗かせた。短い黒髪に小麦の肌。真っ青でこそ無くなっているが、それは先程急に戸を開けて、閉めた、あの人間の少年であった。
「おぉ悪いな、ここは今俺の巣だ。用なら何か言うてみぃ」
 久々に発した声は思いのほか潤っていた。三吉は言いながら、ひとまず少年に気を許してみようと考えた。せっかくの話相手なのだ。人間だとてむやみに突き放すことはない。
 三吉の試みがどう影響したかは分からないが、少年は何やら考え込んだ様子でぶつぶつと呟いている。こいつがあの時のナンチャラ、どうやってここからカンチャラ。それから顔を上げ、意を決したようにすうと息を吸い込み、あぁいやいや大声出してびっくりさせちゃいけないよなとの面持ちですうと息を吐き、結局いかにも普段通りといった声色で話し始めた。
「……アリアドス、悪いけどここから出ていってほしい」
 アリアドス、三吉のようなみかけの生き物のことを人間はそんな名前で呼んでいる。
 三吉もこの蔵が人間の使っていたものであるとは知っていたから、いつかこの日が来てもおかしくはないと思っていた。そしてその発言の内容としては、およそ三吉の予想していた通りであった。
「ここは、僕たちの……人間の住んでいる家の一部なんだ。ここに飼われてるポケモンもいるけど、君はそういう訳じゃない。だから、ここにいるのはおかしい」
 少年は言い終えると、巣の屑にまみれた蔵の内部をうろうろ見やって、品定めするような懐疑の眼差しを三吉に向けた。
 内容はともかく、一言一言選び抜くような少年の喋り方が、三吉はなんだか気に入った。人間と言うのはせかせかとした小賢しい生き物であると度々噂に聞いていたが、どう伝えようかと思案する少年の言葉には、こちらを思いやる気づかいが感じられる。誰かと口を聞くのさえおよそあの雨の日以来である三吉には、それが一層嬉しくこそばゆいものなのであった。
「しかしなぁ人間よ、お前さんらは長いことここを使っていないじゃないか。俺は冬の初め頃からここにいるが、戸が開いたのは初めてだぞ。使わない場所なら、誰が使ったって構わんだろう」
 そこまで説いて三吉ははっとする。その巷の噂によれば、人間にはこちらの言う事が通じない。言葉が理解できないのである。これでは相手に何を言ったところで意味もない。念願の話相手を前にがっくり肩部を落としそうになった折、少年はこちらを見つめながら難しい顔で腕を組んだ。
「君の言いたいことは分かるけれど」
 ――なんだって? こいつ、ポケモンの言葉が分かるのか。
 三吉の驚きをよそに、少年はじっくりと咀嚼するリズムで話を続ける。
「君が出ていってくれないと僕が困る。ここの家主に君のことを話したら、追い出しとけって言われたんだ。ここの掃除も、僕がしなきゃならない。……僕はこの家の人間じゃない。ろくにお金も払わずに、ここに住まわせてもらってる。だから、言われたことくらいちゃんとできないとだめなんだ。君を追い出さなければ、僕がこの家を追い出されるかもしれない」
 穏和な日の元でやんわりと拳を握りしめる少年の顔は沈痛であり、低めた声は深刻さを携えている。三吉は唸った。どうやら元住む場所におれなかったらしいという点で、少年の境遇は三吉と似通っている。せっかく得た新たな住処を奪われたくないという気持ちには同情の余地もある。が、しかし……。
「君はポケモンだから、他に住めるところも探せばたくさんあるだろうけれど、僕にはここしかないんだ」
 訴えるような少年の言葉に、三吉は頭を持ち上げた。
「おいおいそりゃあ自分勝手というもんだろう人間よ。俺はもう半年近くもここに巣を構えて暮らしてきたんだ。それを後からのこのこやってきたお前さんに出ていっとくれと言われて、アァそうですかホイホイと巣を明け渡す義理があるか? そいつぁ無理な相談だ。分かってくれるか? ん?」
 出来うる限りの優しい口調で語ってやったつもりが、少年はむうと黙りこんで動かなくなってしまった。そのまましばらく時が流れた。吹き抜ける風がさわさわと少年の黒髪を撫ぜるのに、こいつは風のある世界、つまり蔵の外、俺とは違う場所に生きているんだなァと三吉はしみじみ思った。もっとも、今しがた開いた戸口からは絶えず新鮮な空気が送り込まれて、三吉の巣網もさわさわ揺れていたのだが。その間もじっと見つめる少年は、なにやら三吉の動きを待っているかのようでもあったが、ふいに痺れを切らしたとでも言わんばかりにくうと体を伸ばした。
「……じゃあこうしよう。君は出ていかなくてもいい。その代わり、ひとまずその巣だけ片付けさせてくれないかな」
「おいてめぇ話聞いてんのか」
 思わず三吉は身を乗り出した。
「そういうのが自分勝手だって言ってんだ。だいたい、巣っていうのは蜘蛛の大動脈だぞ。生命線だぞ。それを片すってことは死ねって言うのと同じだぜ。つまるところお前さんは、俺に蔵の中でひっそり死ねと言ったんだ。いいな、巣を片すなんてことしようものなら、俺は相手が人間でも子供でも、容赦はしねぇ」
 そしてくわっと前足を上げ毒牙を光らせ臨戦態勢をアピールする三吉の前で、少年はしばし体を竦めた。その状態で向かいあったまま、またしばらくの時間が過ぎた。それは我慢比べであった。むしろ我慢の一人舞台であった。前足を上げ毒牙を光らせた微妙な姿勢を保ちながら、三吉は悠久の流れを感じていた。巣網がぷるぷるぷるりと震え出した折、少年は構えている三吉を見据え、右腰に手を伸ばした。ポケットから取り出したのは、上下紅白に色分けされた手のひら大の球である。ほお、と三吉は感嘆した。噂に聞くモンスターボールとは、ポケモンをこじんまりした空間に閉じ込め、かと思うと解放しては意のままに操ってしまうという、摩訶不思議な道具である。
「お前さんトレーナーだったのか。やるのか? ああん?」
 ちょいちょいと前足を動かして挑発する三吉に対して、しかし少年はすぐにそれをしまいこんだ。
「……あんまりこういうことはしたくない。僕だってトレーナーのはしくれだし、野良をむやみに傷つけないってマナーくらいは知ってるつもりだ。でも、全部が全部ポケモンの都合を尊重するべきだなんて僕は思わない。君だって馬鹿じゃないなら分かるだろう。人間とポケモンは、いつだって仲良く一緒に暮らせる訳じゃない。ここは人間の住むところだ。こっちの領域を侵してるのは君の方だ。住み分けなきゃお互いが迷惑する」
「そいつは前提が間違ってる。人間の住むとこ、ポケモンの住むとこ、なんて一体全体誰が決めた? 現に俺はここに住んでいるんだ。人間の尺度で線引きしてもらっちゃ困る」
「新しく巣を作り直すのは億劫かもしれないけれど、ここでじっとしてるよりかは君にとってもいいんじゃないかな。森にいる方が餌や水もずっと手に入りやすい。こんな狭いところじゃなくても、君くらいのポケモンなら、どこでだってやっていけるよ」
「だからそれは人間のわがままだろうよ。自分たちが暮らしやすい場所からポケモンを追い立てるために都合よく勘違いしてるだけだ。蜘蛛には蜘蛛なりに、ポケモンにはポケモンなりに、住み易い場所とそうでない場所がある。どこでもやっていけるなんてのは大間違いだ、人間たちの勝手な思い込みだ。ポケモンと話のできるお前さんなら、分かってくれるだろう?」
 ようよう前足を下ろすと幾分落ち着いた心地がしたので、三吉は終盤諭すように言って聞かせた。人間というやつは、ポケモンは皆野山に放っておけばよいと思い込んでいる節がある。この少年も例に漏れずそう述べた。
 けれども、三吉は確信している。生身のポケモンの真実を知ることによって、この少年は必ず良いトレーナーに成長できるであろう。ポケモンの言葉を解せる人間などというものはそうそうおるまい。三吉は少年に、人間とポケモンの進むべき未来を見ている気がしたのであった。
 三吉は少年に期待した。蔵の外の少年に、美しい人間への希望を込めた。だからこそ、困ったように考えあぐねた結果少年が放った返答に、三吉ははらわたを猟銃でぶち抜かれるほどの衝撃を覚えるのこととなるのである。
「……なあ、無駄な時間だと思わないか。君が譲ってくれさえすれば、お互い傷つくこともない。面倒起こしたくないんだ、分かってくれないかな」
 ――無駄。面倒。それは望みとはあまりにもかけ離れた答えであった。
 その瞬間、三吉の中で、ぷんと軽快に重石が弾けた。
 我慢の、限界であった。
「なぁ、おい、え、そりゃあてめぇ随分勝手がすぎるだろ。どうして俺がてめぇのために住み処手放さなきゃならねぇんだ。どうしてポケモンが人間のために譲ってやらなきゃならねぇんだ。ちょっとばかしヘコヘコ媚びてるポケモンがいるからって調子に乗ってんじゃねぇ。いいか、勘違いするんじゃない、ポケモンのどいつもこいつもにてめぇらの言うことを聞かせられると思うなよ。むしろそんな糞野郎は少数派だっててめぇの胸に刻んどけ。だいたいの野良は人間どもを憎んでいる。あぁてめぇらが偉そうだからだよ! 自分たちじゃあ非力でろくな技も使えないくせに、こうして威張り散らしていやがる。人間ってのはいつもそうだ。チンケな容器の中に閉じ込めて飼い馴らしたり、殺し合いギリギリのところで戦うよう指図したり、ヒラヒラゴテゴテした妙なもん着せたり脱がせたり、それでいてひとたび寄り集まると気味の悪い偽善面晒して『ポケモンは友達! ポケモンを大切に!』、ああまったく嫌気がさすぜ。人間の手慰みで人生めちゃくちゃにされたポケモンたちがどれだけいることか。まずい餌だけ食わせて、てめぇの代わりに喧嘩をさせる! 働かせる! 自分のバロメーターとしてポケモンの強さを誇示する! ポケモンがいなけりゃ生活が成り立たないことは分かりきっているのに、それを下僕としか見ていない。自分たちがポケモンに比べどんだけ矮小な存在か、いつまでたってもてめぇらは気付かない。話し合いの時間が無駄だ? 面倒だからさっさと出て行け? 冗談じゃない! 第一、俺がこんな暗くて狭くてかび臭いところに住まなきゃならなくなったのは誰のせいだ? 虫や木の実を取り、明るい日の元で妻と娘と談笑した森での毎日、それを打ち崩したのはどいつだ? 俺の豊かなあの住処を、平凡で幸せなあの生活を、平気な顔して奪っていったのはどこのどいつだ!? ――てめぇら人間だろうが!」
 言い切ってはずみで吸いこんだのは、普段より澄んだ空気であった。
 ぜぇぜぇ息つく三吉の脳裏に、次々と記憶が溢れていく。――空。若草。湧水の香。色づき移りゆ森の四季。一目惚れした彼女。抱く娘の温もり。何度も嵐にやられた巣網。ずっと見守っていてくれた、大きな大きなオリーブの木。夢のように浮かんでは消えるすべてを奪ったのは、あの恨めしい音であった。
 実はあの音の正体に、三吉はいくらか前に気付いていた。しかし気付いたところでどうすることもできなかった。どうしたところで何も戻らないことは憎たらしいほどよく理解できた。三吉には赤く滾る怒りから目をそらすことしか、講じる術を持たなかったのである。
 幸いにしてあの日から始まった蔵暮らしは平穏安息であった。気を落ち着かせるには十分な時間も経過した。十分すぎるほどの空白の時間が、悠々と流れて消えていった。悲しいほどに何もない、得るものも失うものもない堕落した日々であった。埃の往来を眺めることをただ愉快だと決めつけて、自らの感情に蓋をした。板間から漏れる光の屑を延々と睨み続けたのは、認めよう、確かに外に憧れているからだ。しかし、外には無数の悪魔が蔓延っていることを、三吉はよく心得ている。反吐が出るほど厭らしい悪魔の存在が、三吉を惨めな蔵暮らしへと追いやっていたのであった。
 あの音。それは切り殺される森の悲鳴であり、同時に、おそらく本当に、悪魔の口からも零れ落ちているのだ。
 少年は結局、三吉の思ったような人間ではなかった。他と同じく利己的で、危険な思考を忍ばせている。はなからこちらを理解する耳など持ち合わせていなかったのである。三吉は裏切られた気持ちでいっぱいであった。蔵の内と外とを隔てる見えない膜を、この少年こそ取り払ってくれるのではないかと、心の内に期待していたのだ。
 突風が吹きつけ、ばちばちと蔵に小石が爆ぜた。風の唸りの中で少年は動かなかった。少年は三吉を見ていた。三吉は気付かなかったが、前髪の影にちらつく瞳は、猛禽のごとき鋭い光を湛えていた。それは紛うことなく野生の光であった。
「……どうしても、出ていかないんだな」
 呻くような少年の声に、三吉は喉がかあっと熱くなるのを感じた。
「まだ分からねぇっていうのか、一体何度言わせれば気が済むんだお前が何を言おうと俺はここから一歩たりとも――」
「水鉄砲」
「え?」
 そこで三吉と目を合わせたのは、少年の背後から飛び出してきた一匹のビーダルであった。
 ビーダルは一瞬頬を膨らませると、出っ歯の奥からぶじゃあと水を吹き出した。もちもちした腹がどくんと脈打つのを見る間に三吉は水流に飲み込まれた。前足を取られ後ろ足を取られ頭を押され背を押され、千切れた巣網が体じゅうに絡みついて三吉はそれごと吹き飛ばされた。ごんと鈍い音して頭打ち、打った戸棚がぐらりと傾き、引き出し滑り落ちあれやこれやが宙を舞い、壺やら鉢やら分からないものがヒビ入って割れて崩れて流されるのをきらきら光る水玉模様の中に見た。珍品たちのどんがらがっしゃんお祭り騒ぎで身も心も揉みくちゃにされ、意識はああ、はるか彼方の夢幻の園へ…………次に気を確かにしたその折、三吉は思わず前足を目の前にやった。すかんと晴れた青空が眩しい。いつの間にか、蔵の外まで押し出されたのであった。
 ついさっきまであれほど有難く思っていた水はぐじゃぐじゃと体を濡らし、しとしと滴り落ちている。腕のひとつもずっしりとしてまるで言うことを聞かない。それはあまりにもあっけない『戦闘不能』であった。
 日差しを遮るようにして、少年とビーダルが揃いこちらを覗きこむ。少年は先程より幾分落ち着いた表情で、物言わぬ三吉の隣に腰を下ろした。
「……弱肉強食って、知ってるか」
 ずんぐりむっくりがふんふん鼻を鳴らした。構わず少年は続けた。
「君に欲しいものがあって、それが誰かのものだったとしたら、君は戦って勝ち取らなきゃいけない。どこかで手に入れたものにあぐらをかいて、それが奪われたからって誰かのせいにしたり、権利ばっかり主張するのは、ただの『甘え』だ。僕はここに置かせてもらってる以上、ここを守るために戦う覚悟があるし、もし元の家に帰れるなら、そのために最大限の努力ができる」
 少年はすくっと立ち上がると、ズボンのポケットからもう一度モンスターボールを取り出した。
「僕は君に勝った。今日からこの蔵は僕のものだ。君がここにいたいと思うなら、僕を倒してみろ」
 戸口の前は水溜りとなり、日に光る角を映している。
 その時だった。どこからか人間の怒鳴り声が聞こえて、少年ははっと顔を上げた。水鉄砲の一撃に煽られた蔵の内部は、浸水どころか壊滅的な被害を受けている。途端に少年は最初に見た時のような真っ青になって、どうしよう、と早口に漏らすと、慌ててどこかへ駆けていった。
 水溜りに映し出された気持ちの良い空合いが、風のリズムで軽やかに揺れる。久方すぎる日向のせいか、はたまた水と一緒に悪いものも流れてしまったのか、三吉はせいせいした気分であった。胸の中にむくむくと、またあの森でやり直せる、という気が起こりだした。元の生活は戻らなくとも、新しい暮らしを、新鮮な気持ちで始めよう。この蔵から脱することで、三吉の人生は今再び動き出そうとしているのであった。
 門出に相応しい、美しい日和である。蔵は日差しに鈍く輝き、戸口開け放ち水に洗われた今が一番見事なものと思われた。
「……敗者は去るのみ、か」
 三吉の呟きにビーダルはひょいと顔を上げ、もぐもぐ何かを食みながら言う。
「理不尽だろう、人間というのは」
「あぁまったくだ。どうしてこんな生き物の言うことを聞きたがるのか分かりゃしない。お前さんのようなポケモンがいるから、つけあがってしまうというのに」
「野生のには分からんだろうねぇ。やつらはそういうところがかわいくて、魅力的なんだよ」
「……飼い馴らされてるやつの、考えることは」
 ビーダルはむふぅと鼻息を立てて笑った。
 向かいの家屋から、山のような雑巾を抱えて少年が戻ってきた。ぼろ布をぽいぽいと蔵の方へ放り投げ、瓦礫と化した壺の類を拾い上げおろおろと首を回すさまは、確かにまぬけでかわいいとも見てとれる。
 とにもかくにも、腐っていた三吉を蔵から引きずり出したのは、紛うことなくこの少年なのであった。小憎い背中には恩義も感じる。せめてもの報いにと、三吉は体を揺り起こす。じっとりと重い体でも動けないほどのことはなかった。
「立つ鳥跡を濁さず、だ。人間よ、しばらく片づけを手伝おう」
「――なぁさ、野生の」
 意気揚々と蔵の内部へ入っていく三吉に、再度ビーダルが声をかける。
「さっきから聞いてりゃ、この坊主にポケモンの言葉が通じるとでも思ってるみたいだけど、とんだ勘違い野郎だね、あんたは」
「え?」
「あたしらの言うことなんざ理解しちゃいないよ」
 三吉には最初、ビーダルの言う意味が分からなかった。
 振り向くと。蔵の外には少年が、それを見て――ついさっき追い出したアリアドスが蔵へのこのこ戻るのを見て、わなわな拳を震わせて、
「……知ってるんだぞ。ひと月前にここでバケツ倒したのお前だろ。毒針が転がってるの見つけたんだ、あのせいで、あのせいで、僕がどんだけ怒られたか……!」
「い、いや待て、そりゃあしかし俺はだな」
「――痛い目を見ないと、分からないみたいだなっ!」
 今日一張りのある声でそう言うと、少年は再三モンスターボールを取り出して――



 春めく蔵に、蜘蛛の悲鳴が轟いた。
 
> 檻の中の小さなはらっぱ 作:風見鶏
檻の中の小さなはらっぱ 作:風見鶏
 近頃はポケモンをボックスに放置することが社会問題になっている。
 メタモンとくっつけて無限にタマゴを産ませ、孵化させても気に入らなければボックスに閉じ込めたまま。その赤ん坊は草むらを駆ける数多のポケモンを見ることなく、ボックスという檻の中で一生を終える。
 テレビのニュースでは連日そんな報道ばかり。ボックスにポケモンを閉じ込めておく者は、もれなく批難の対象となっていた。
 そう、その批難は、社会的地位が揺らぐくらいに、大きな影響を与えてしまうのだ――。


 彼の通称はキサラギ。本名はメイケ。今となってはメイケと呼ぶ者などほとんどないに等しい。
 あまりにもキサラギの名前が広く知れ渡りすぎた。彼はつまり、この地方のチャンピオンで、通算八度の防衛を難なく達成しているからだ。
 圧倒的な実力とバトルスピード。烈風のキサラギと呼ばれた。挑戦者は軒並み彼の繰り出すヘルガーに苦戦した。ヘルガーのためにくだらない対策用講座が各地で開かれることもあるくらいだった。
 一世を風靡したキサラギであったが、九度目の防衛戦で事件は起こる。
 九度目の防衛戦を一週間後に控えた彼にとっては、まだ知るよしもないことなのであったが――。


 昼下がりのポケモンセンター。
 まだ眠気を拭いきれないトレーナーたちがロビーでくつろいでいる。今日は休日だから、元気がいいのはスクールが休みの子どもたちくらいなものだ。仕方なしに、ジョーイたちもずれた帽子を直しもせず動き回る。
 ロビーに設置された大型のテレビではニュースを放送していた。
 たいしたニュースはない。ポケモンリーグの挑戦者が四天王を制覇し、来週にはチャンピオンに挑むことが大見出しに来る程度の平和な日常。せいぜい剣呑なニュースはといえば、ボックスの中に多くのポケモンを放置したスクール生が、いじめにあって不登校になってしまったとか。スクールの小さな社会ですらボックス内は誰にも見られてはいけないようだ。
 休日の昼下がりの引力に逆らえないキサラギは、ソファに座ってぼけっとニュースを眺めている。一週間後には挑戦者とのバトル。今度の挑戦者は少しくらい骨のある戦士だろうか。四天王を制覇して挑戦してくる者は多いけれど、チャンピオンを目の前にしても強者であり続けた戦士は少ない。残念なことだ。
 キサラギが八度の防衛に成功しているのには、それなりの訳がある。
 四天王は比較的バトルが多くて、鍛錬の時間をとるのが難しい。けれど、チャンピオンともなると、そんなに頻繁に挑戦者が現れるわけではない。何しろそのバトルがイベントとしてニュースになるくらいなのだから。おかげで、チャンピオンのキサラギは、日々の鍛錬を怠ることなく挑戦者を迎えることができるというわけだ。
 もちろんそれだけじゃない。キサラギはバトルの度に手持ちのポケモンを入れ替えていた。得意手のヘルガーはそのままに、そのときのボックスにいる仲間たちの調子を見極めて、パーティを編成する。強くないはずがない。
 自動ドアからカウンターまで敷かれている赤絨毯を子どもが駆ける。
 小さな足音にキサラギが振り返ると、その寝ぼけた顔も子どもにとっては十分な歓喜の対象になった。子どもが嬉しそうに手を振って、キサラギも嬉しくなって手を振り返す。ロビーでくつろぐ大人たちは、キサラギなんて見慣れているので反応すらしてくれない。あんたらいつか、そこの子どもに追い抜かれるよ。それもきっと、近い未来にね。子どもが手を振る度に、キサラギはそんなことを思う。
 子どもがポケモンセンターから出て行くのを見送って、キサラギはパソコンの前に立った。続いてボックスを開く。
 主力メンバーがアイコンで並ぶボックスを眺めて、来週に控えた防衛戦の戦略を練る。どうせまたヘルガーの対策とかで、弱点をついたポケモンが出てくることだろう。それがむしろ、キサラギにとっての対策になる。ヘルガーが有名になってくれたおかげで、他にも強い手持ちはいるのに、うまい具合に隠されている。そうしてヘルガー対策のポケモンはあっさり敗れて、悪巧みをしたヘルガーの暴走が始まる。そんな王道で単純な戦略に、挑戦者たちはあっさりと崩れていく。
 よし、キサラギは脳内のビジョンにほくそ笑んだ。
 そのとき、そんな妄想を壊すかのような敵意がキサラギを刺した。慌てて姿勢を正したときにはもう遅い。横から手が伸びてきて、パソコンが勝手に操作される。
「なんだよ、おまえ!」
 カタカタと無機質な音を立てるキーボード。動く手を押さえても、すでに操作は完了した後だった。パソコンの画面に映されているのは主力メンバーの姿ではない。カメラのシャッターを切る音がした。
 鳥肌が立った。汗がにじむ。そこに表示されたのは、『ちいさなはらっぱ』だった。草原の壁紙に、びっしりとポケモンのアイコンが並んでいる。その小さなポケモンたちは本物の原っぱを見たことなどない。それならせめて――そう思って名前を付けた。ちいさなはらっぱ。孵化されてすぐにボックスに入ったデルビルたちが、ところ狭しと並んでいる。デルビルが、ボックスを埋め尽くしている。
 掴んだ手をゆっくりと視線で辿る。背格好はキサラギとほとんど変わらない。けれど首の上についた顔は悪魔のような笑みを浮かべていた。明確な悪意をもって、キサラギの行く末を刈り取ろうとしている。
 思わず腕から力が抜けて、掴んでいた手を放してしまった。
「これがチャンピオンの真実ってとこだな」
 その悪魔のような男は、冷たい引き笑いを洩らした。まるで首筋に刃物を突きつけられているようだった。全身が寒いのに汗はとまらなくて、声を出すこともかなわず、震ることしかできない。これからのことを考えると、ますます自由がきかなくなる。
「こんなくだらねぇことで、一生を終わらせたいか? 嫌だろ? ん?」
 悪魔のささやき。キサラギは頷くしかなかった。
「分かってるじゃねえか。死にたくねぇもんなぁ」
 しばらくの引き笑いのあと、悪魔は続ける。
「来週のバトル、おりてくれよ、チャンピオン。ただおりるんじゃねぇ。おとくいのヘルガーを出して、盛大に負けてくれ。分かってるよな? なぁ、烈風のキサラギくん」
 首からはカメラが提がっている。
 この条件をのまなければ、八度の防衛に成功したチャンピオンは、九度目を待たずして社会的地位を追いやられるだろう。たとえ、のんだとしても、次のチャンピオン戦は人生最大の羞恥をさらして、チャンピオンという最高位を略奪される。
 その選択に悩む時間は、一週間しかない。
 悪魔のような男が去って行く。通りかかった子どもが、キサラギを見つけて嬉しそうに手を振った。キサラギは動けなかった。


 それからの一週間、キサラギは鬱々とした心情のまま過ごすことになった。
 まずは家から出なかった。挑戦者のバトルに使うパーティを準備して、ポケモンはみんなボールから出しておいた。静かに泣きながらヘルガーのごつごつした背中を撫でた。わざと負けることになってしまえば、恥をかくのはキサラギじゃなくてヘルガーの方だ。もちろんキサラギだって多少の被害は受けるだろう。それでもボックスの秘密をばらされるよりは軽い。要は保身に走るか、仲間を売るか。この選択でしかなかった。
 答えは二つに一つしかないのに、キサラギは悩み続けた。チャンピオンの地位は、ずっと昔からの夢で、ようやくたどり着いた悲願だったのだ。それに手放さなければいけないのは地位だけではない。それまでに培ってきた努力を何もかも手放さなければいけなくなる。そんな悔しさに耐えられるはずがないではないか。
 ただ負けるだけならば、また次に挑戦すればいい。そしてチャンピオンに返り咲いたときに、やつが写真を公開したとしても、作り物だなんだと言ってごまかせばいいだろう。負け惜しみほど憐れなものはないのだから、誰もがチャンピオンを擁護するに違いない。
 それなら、仲間を売るのか――?
 こうして自問自答は堂々巡りを続け、ついに決断の日を迎えてしまった。


 やはりと言うべきか、対戦相手はあの悪魔のような男だった。
 特徴的な引き笑いで、チャンピオンと対峙している。
 多くの観客がスタンドから見下ろす、スタジアムの中央。歓声に満ちあふれた異様な空気の中でも、チャンピオンは静かだった。
 チャンピオンの名前が呼ばれた。電光の大画面にキサラギの名前が、整った顔写真と共に浮かび上がる。
 続いて挑戦者の名前も呼ばれたが、二人はもう画面の方など見ていなかった。
 スタジアムの熱気が最高潮に達し、戦いの火蓋は切って落とされた。
 キサラギが出したのはヘルガー。対する挑戦者のポケモンはメガヤンマ。どちらが有利とも不利ともいえない。それでもおそらく、勝つのはヘルガーだろう。持たせている道具が、ヘルガーを持ちこたえるように守ってくれる。
 先手必勝――!
 一瞬で周囲の空気が熱を帯びた。ヘルガーが全身を赤く火照らせ、最大出力のオーバーヒートを放つ。
 キサラギは仲間を守る選択をした。どちらが正しいかは分からない。だが、せめてチャンピオンとしての誇りくらいは守りたかったのだろう。
 宙に浮くメガヤンマが業火に包まれる。それでも持ちこたえたのは、ヘルガーがどうぐに守られているのと同じ理由だ。
 そのとき、キサラギは悪魔のようにほほえむ男と目が合った。
 わかってるよな、口元がそう動いた。
 ぞくりと悪寒が走る。やつの首からは相変わらずカメラが提がっていた。
 メガヤンマが反撃に打って出たのに、指示を飛ばすことができない。実況の叫び声が意味不明な言葉に聞こえ、スタジアムの歓声が薄れていった。
 わかってるよな、もう一度、悪魔の口が動いた。
 ヘルガーが倒れた。
 観客の声も実況の声も聞こえない。視界がぼんやりしている。
 次のポケモンを出した。
 チャンピオンは指示を出さなかった。仲間を裏切った。


 先に控え室に戻ったのは、元チャンピオンの方だ。
 スタジアムでは新たに生まれたチャンピオンが盛大な祝福を受けている。歓声の後にはどよめきが起こっていた。自分が初めてチャンピオンになった時もそんな空気だっただろう、キサラギは記憶を辿る。
 あぁ、これで自分はチャンピオンの地位を降りた。でも、まだだ。
 またやり直せばいい。いくらでもやり直せる。バトルの実力だけだったら、あんな雑魚よりも自分の方がよっぽど強い。四天王を軽くひねり倒して、それからチャンピオンを倒して、どちらが本当のチャンピオンに相応しいかを証明してやる。
 おれが、チャンピオンだ――!


 キサラギは地元のポケモンセンターに入った。
 まずはパーティの編成からやろう。そう思っていた。
 しかし、どこか普段とは雰囲気が違う。自分に向けられる視線の種類がいつもとは違う。
 これは憐れみの視線だろうか。九度目の防衛戦で醜態をさらしたキサラギに対する、軽蔑か何かだろうか。
 わからないまま手持ちのポケモンをカウンターに持って行くと、馴染みのジョーイさんまで嫌な顔をしていた。
 見渡すと、誰もが同じようにキサラギを見ていて、中にはひそひそと囁き合っている者までいる。
 テレビの画面が目に入った。
 チャンピオン戦の録画をやっていて、映像は既にヒーローインタビューを迎えていた。
 そこでキサラギは気づいた。
 全国に向けて、あの写真が公開されていた。
 あの男が高らかに宣言をした。元チャンピオンのキサラギはこんなやつで、保身のためにこんな負け方をしたのだと――。
 キサラギは悪魔に裏切られ、最悪な結果を招いたことに、この世界の誰よりも遅く気づいたのだ。
 終わった。何もかも。
 足が笑っている。その場に崩れそうになるのを必死で堪えて、なけなしの勇気を振りかざしながら走り出した。預けたポケモンもそのままにして、ポケモンセンターを出て行く。
 走る。どこに行っても、人の視線がある。冷たくて、攻撃的な。
 刺さる視線は鋭くて、走れば走るほど傷は増えていった。どこまで行っても傷は癒えない。新しいチャンピオンがどこかで笑っていて、社会的地位を追われた元チャンピオンに差し伸べられる手はどこにもなかった。
 あぁ、あぁ、声が洩れた。涙が流れていった。
 やがて森にたどり着き、周囲の視線が一つもなくなった。うずたかく積もった葉っぱの上に倒れ込んで、元チャンピオンは死んだように動かなくなった。
 たかがボックスにポケモンを放置していただけで――。
 誰もがそうしているじゃないか。ポケモンを強くするなら避けては通れないことだ。それでも人々は批難するのだ。自分がやっていたとしても。
 それをあの悪魔は分かっていた。知っていた。恐らくやつも同じことをやっているに違いない。やつはあれだけ強いヘルガーがいるならやっていても不思議ではないと思ったのだろう。その予想を見事的中させて、ポケモントレーナーの最高位を奪っていった。
 いや、奪ったのは地位だけじゃない。ただ一人の男の未来も一緒に。
 キサラギは仰向けになり、周囲にだれもいないことを確認すると立ち上がった。
 よろよろと歩き出す。木に手をつきながら、奥へ奥へと進んでいくと、急に視界が開けた。
 そこに広がっていたのは原っぱだ。小さくなんてない。ずっと広がっている、はらっぱ。
 こんな綺麗な場所を切り取った箱庭の中に、あのデルビルたちは閉じ込められていたのだ。デルビルも風を感じて、思いっきり走り回りたいに違いないのに。小さなはらっぱは、それを許すことなんてない。まさしく檻だった。
 この原っぱに、デルビルたちを放そう。デルビルだけじゃない。ボックスにいる色んなポケモンを放すんだ。
 苦しかったろう。冷たかったろう。大丈夫だよ、ここはもう、檻の中じゃないんだよ。
 そんな、償いにもならない言葉をささやいて。
 キサラギは急いでポケモンセンターに戻り、檻の中に閉じ込められていたポケモンたちを引き出し始めた。一度に持ち出せるわけがない。
 だからポケモンセンターと原っぱを何度も何度も往復した。
 一日で終わらない。二日でも。三日目でようやく終わった。
 もうどんな視線を向けられたってかまわない。
 自分がやれることは一つを残して全てやったのだから、あとはあの悪魔のような男に一泡吹かせてやるだけでいい。
 キサラギの心身はすでにぼろぼろだったけれど、まだ最後の仕事がある。
 初心に返ろう。初めてポケモンリーグの門をたたいたあの時に戻ろう。ただ六匹のポケモンしかいなくて、鍛錬なんて高尚な言葉を使う余裕すらなかったあの頃に――。

 
 スタジアムは歓声に沸いている。
 挑戦者の名前が呼ばれた。
 彼の名前はメイケ。古い名前は檻の中に捨ててきた。冷たい場所だ。
 
 ――小さな、はらっぱだった。
 
> 偽心真心 作:プラネット
偽心真心 作:プラネット
 僕の事を、人々はなんと言うだろう。
 最強のトレーナーとか、天才とか、期待の星とか――はたまた化物という人もいると思う。
 僕は――なんなのだろうか。

 僕の生まれはジョウト地方のワカバタウン。恐らくだけど、ジョウト一の田舎だと思う。
 僕はそこの中の一つの家で生を受けた。そして、僕は十歳になって旅に出る事となる。
 道中、色々な騒動があった。

 アルフの遺跡の謎を偶然だけど解いた。
 ウバメの森では時渡りなんていう超常現象に巻き込まれた。
 エンジュシティでは伝説のポケモンと出会ったり、戦ったりもした。
 アサギシティでは薬を貰いに行かなきゃならなくなった。
 怒りの湖では赤いギャラドスなんてものを見た。
 チョウジタウンでは迷惑なお土産屋さんやロケット団のアジトに乗り込んだ。
 挙句の果てにはロケット団という組織を解散させてしまった。
 その上、何だかジムバッジをくれない強情な人もいた。

 そして、僕は快進撃を続けていった。そんなある時、ある人は君は本当に子供なのかい?と言った。
 僕は確かに自分のこの力量をおかしい、と思っていた。
 三年前にも似たような凄い少年が現れたらしいが、それを十年――いや百年に一人の逸材だと判断すれば、充分に考える事は可能だ。でも、僅か三年で似たような快進撃をする子供がまた現れたとなれば、それは当然おかしいと思う。
 僕もそれには同意見だった。でも、彼は違った。コウヤだけは。僕を見据えてこう言った。
「お前はお前だ。他の連中がどう言おうが、お前は俺のライバルだ。天敵でもある。お前ほどのヤツを倒せずにポケモンチャンピオンなど名乗れるか。お前だけは俺が倒す。必ずな」
 彼は自分を見失わない。強さをどこまでも求めている。それが、純粋に僕にしては羨ましいし、妬ましい。

 そんな時。僕はカントー地方へ招待された。オーキド博士の斡旋だった。
 僅か十歳という若き年齢でポケモンリーグを制覇した天才少年、という事でカントーのジムを回る事となった。
 そして、それを僕はまたやってのけた。人々は更に化物だという。もう、僕がいつ見ても、客観的に自分を見ても化物だ、としか思わなかった。
 そんな中、僕は――シロガネ山へと向かう事になった。
 普通のトレーナーの侵入を拒むのだが、僕は二つの地方を制覇した前代未聞のトレーナーとして特別に入ることを許された。これもオーキド博士の斡旋である。

 そして――僕は見た。真なる伝説を。
 彼はそこにいた。聖なる霊峰――シロガネ山の頂に。一人寂しく。
 その瞳は一体、何を見据えているのだろうか。無感情、ともいえる――そんな瞳。
 彼は――腰のベルトからモンスターボールを取り出した。彼の右肩にはピカチュウが乗っている。
 僕は静かに頷いた。
 『生きる伝説』という言葉があるなら僕の目の前の彼が最も当てはまると思う。彼は圧倒的だった。
 僕は自分自身を化物と思っていた。だけど――彼は格が、何もかもが、ステージそのものが違っていた。
 結論から言おう。僕は――負けた。


 何故だろうか、それ以来僕はずっとワカバタウンに篭っていた。周囲は突然の帰郷に驚き、そして閉じこもった僕を不思議に思っていたみたいだけど、僕は全然違う。
 あの圧倒的な存在を――僕は恐れていた。
 バトルをしようとするだけで彼を思い出し、そして身体が震えてしまう。トラウマ、と言っても過言ではないと思った。
 僕はポケモンバトルが出来ない――旅も出来るわけが無い、そう思って帰ってきたわけだ。
 彼は僕の全てを破壊した。根底から天上まで、僕の全てを揺るがし、そして完膚なきまでに破壊した。
 そして、僕は思った。僕はこのまま――こうして暮らすしかないんだろうって。
 僕はもう――戦えない。
 数週間が経った。数ヶ月が経ってしまえばいいと思った。
 コウヤが僕の目の前に突然と姿を見せに来たのだ。
 僕にとって、それは意外な来訪者。コウヤは僕の顔を見るなり、僕を外へ連れ出した。
「何なのさ」
「さあな、お前自身に聞いてみろ」
「バトルならしないよ」
「あぁ、言うと思った。少し付き合え」

 コウヤは僕をどこへ連れて行くのだろうか。
 近場だった。ウツギ研究所。僕の旅の切っ掛けを作り出した場所だった。
 そこにはある来客がいた。間違っても、こんな田舎には来ないであろう人が一人。
 橙色のツンツンした髪、黒の革ジャン、薄茶色のジーンズを身に着けた人物――カントー地方、トキワシティジムリーダーのグリーンさんだ。
「よぉ久々だな」
「お久しぶりです」
 僕は軒並みな挨拶で返す。グリーンさんを見る限り、暫く会っていなかったけど元気そうだった。
「ところで、何でまた突然篭りだした? ん?」
 直球に聞いてきた。
 まぁ、大方そうなんだろうなと思う。僕は――何も言えなかった。いや、実際には色々と言えただろう。
 だけど、それをできなかった。出そうと思えば出せるのに、その先が言えなかった。
 その様子を見て、グリーンさんは言った。

「………その感じ。もしかするとだがお前……会ったな? アイツに」
「アイツ……?」
「あぁ、オレの邪魔をしたヤツがいるって以前言ったろ? ……オレの幼馴染さ」
「……………」
「まさかとは思うがお前、本気でアイツに会ったのか? アイツは三年前から行方知れず。オレだってアイツの所在は知らないんだ」
 僕は何も言えなかった。でも分かる。グリーンさんの言っている人物が間違いなく、僕にトラウマを植えつけた張本人である事は。
「ま……焦っても始まらないな。今度また来るわ」
 そう言い残して、グリーンさんは研究所を後にした。
 残るのは僕とコウヤの二人。暫く黙っていたのだけど、コウヤはやがて我慢できずに僕に聞いた。
「お前、負けたのか?」
 コクン、と首を縦に振った。
 否定できなかった。いや、彼だからこそだろう――僕はしなかった。
「負けたからお前止めたのか?」
「まさか……僕だって負けた事はある。でも、全てが違っていたんだ」
「全て、だと?」
「根から全てをかき回された。僕は僕なのか。僕は一体何なのか――本当に色々とかき回された。気付いたら……負けてた」
「リベンジは考えなかったのか?」
「考えた。でも、バトルしようとする度に――身体が拒絶したんだ。震えが止まらない」
 コウヤは壁にいつのまにか体重を預けて凭れていた。
 僕は続ける。
「それだけじゃない。僕はあの人のことばかりを考えるようになった。全てが全て、その人に囲まれて……」
 考えるだけで僕の身体は恐怖を感じ、怯えだす。震えだす。
 その様子を黙って静観していたコウヤは――こう言った。

「バカじゃねぇのか」
「え……?」
「だからオレはバカじゃねぇのか、って言ったんだ」
 流石に僕も目つきが変わる。そしてコウヤの服を咄嗟に掴んだ。
「君は分からない! 僕は知っている! 分からない癖に勝手な事を言うなッ!!」
「いいや、分かる」
 コウヤは僕の手を静かに振り払う。何故だか、いつものコウヤじゃない気がしていた。
 コウヤは僕を一瞥する。
「お前、オレが今までどんな気持ちでお前と戦っていたか、分かるか?」
「ぇ――」
「オレはずっと言いたかった。お前、人間じゃねぇってな」
「―――ッ!?」
「だが、今回の事ではっきり分かった。お前は人間だ」
「どういう事……!?」
 コウヤははっきり、僕に宣告した。僕の恐怖の元凶を。
「お前は自分のポケモンをボロボロにされたくないから、戦いたくないんだ」
「え?」
「お前は今まで、負けたとは言ってもそれは常に自分だけが関与する事だったはずだ。だが、お前は――自分のポケモンを完膚なきまでに叩き潰され、恐怖に怯えているだけだ。臆病者なんだよ、お前」
 一瞬、コウヤの言葉の意味を僕は理解しようとは思わなかった。
 恐れている? 僕が?
 でも――考えてみれば、辻褄はちゃんと合う。
 コウヤは言う。
「お前らしさって何だ?」
「僕らしさ?」
「あぁ。オレは絶対に諦めないというところだろう。お前は――オレから言ってみるなら」

 ――ポケモンをとことん信じる絶対的な強さを持っているんだろうな――

 コウヤはそう言い、僕はそれを最後まで聞かずに研究所を飛び出した。聞きたくなかった。
 僕に、そんな言葉は似合わない。そして、僕はやっと気付けた。
 化物と呼ばれていた真の理由を。
 家へ帰ると、僕はモンスターボールからポケモン達を出した。

「みんな……ごめんね」

 静かに僕は呟くように言う。
「みんなを信頼していたつもりだった――でも、実際は違っていた。僕はみんなを仲間だなんて思っていなかったんだ。僕はみんなを兵士として扱っていた……あの人は一瞬でそれに気付いたんだ。だからっ! だからっ! だからっ! だから、僕は僕をも欺いていたんだ。みんなを信頼しているように自分や周りに見せ付けるために――それすら……それすら……あの人は……」
 今まで泣かなかった。泣けなかった。だけど――それは僕自身が言ったように、本当にポケモンを信じていたとは言い難いと思う。
 僕は色々な言葉を、謝罪をしたかった。でも、それをみんなはさせなかった。

 僕を優しく包み込んでくれた。こんな僕を。みんなは道具として使われていたようなものなのに、そんな僕を許してくれるというのかい?
 自然と涙が頬を伝う。
 みんなは僕の嗚咽する声を懸命に聞いてくれていた。僕の懺悔を、後悔を、静かに聞いてくれていた。
 僕は、僕は、僕は、僕は、僕は――



 あれから二週間足らず。
 僕は再び、シロガネ山へ来ていた。
 もう、迷いは無い。
 彼と再び戦うために―――僕はここへやって来た。
 そして、彼もまた、僕を待つように頂に立っていた。
 足音をわざと鳴らす。
 頂には雪が積もっているから、そんな事をしなくてもいい。でも、あえてやったのだ。
 彼は音に気付き、僕の方を見る。

 口元が微笑む。
 嬉しいのだろうか。それはよく分からない。でも、どうやら表情だけで分かったらしい。
 この前との変化に一瞬で気づくなんて流石だ、と思う。
 彼は言った。
「やっと来たね。もう来ないかと思っていたよ」
「負けませんよ先輩。僕は先輩を、伝説を越えてみせます」
「そう――」

 楽しみだ、と彼は静かに言い――
 期待していて下さい、と僕は返した。

 さあ、始めよう。
 僕は迷わない。僕は歩き出せるし、挫けたってまた立ち上がれる。
 僕には――友がいる! 仲間がいる! 親友がいる!
 この言葉は――随分と久しぶりだ。
 でも、僕が僕である今、初めて使う言葉だと言っていい。
 さあ、生きる伝説よ、僕はあなたを今こそ越えてみせる!
 僕は心の底からその言葉を強く叫ぶように言う。

「頼んだよ、バクフーン!!」
 
> 魅了入門 作:来来坊(風)
魅了入門 作:来来坊(風)
 一人の人間がその人生において永遠に頂点に君臨することは難しい、一人の頂点のために多くの没落者が存在する。
 その中にはかつて頂点に立った者もいる、だが彼らは誰にも思い出されることも無く、時代とともに消える。人々の目は頂点とその付近にしか向いていないものだ。
 それを考慮すれば、このゴウキという男はましな部類なのかもしれない。
 現役時代はホウエンリーグが非公認であったが今でも当時の最強トレーナー候補に挙がる内の一人で、戦闘のエキスパートとして少なくない弟子を持ち、内一人を娘と結婚させホウエンではもっとも発展している都市の一つであるミナモシティに狭くない住居を構えている。
 だが一線を退いた後に、ゴウキはかつて所持していたポケモンの殆どを手放した。あるポケモンは筋の良い弟子に譲ったし、あるポケモンはレンジャー部隊に入隊させた。あるポケモンは保育園に譲り子供の遊び相手になっている。
 適材適所という言葉がある。年老いた自らにポケモンを操る資格は無い。十分すぎる力を持った彼らはその力を発揮できる場所に行くべきなのだと言うゴウキの持論からだった。
 だが、ゴウキにもどうしても手放すことができない一匹がいた。彼が最後に育成したキュウコンである。
 彼は己のトレーナーとしてのすべてをそのキュウコンに教え込んだ、いわばこのキュウコンはゴウキというトレーナーそのもの、鏡であり、ゴウキはようやく最良のパートナーに出会ったのだと思った。
 だが、ゴウキはキュウコンを表舞台に登場させる前に己の力の限界を感じる。
 これから戦うポケモンとして最も充実した期間に入るキュウコンに己は相応しくないという自責の念を感じながらも、それを、ひいては自分自身の分身を誰かに預けることはできなかった。
 そのキュウコンは贔屓目なしに美しい。どことなく人懐っこさを感じさせながらも、光を反射してまるで金色のように見えるその体からはえも言われぬ風格が滲み出ており。同じく金色の九つの尾は九つもあることが贅沢のように思える。
 ある日、ゴウキとキュウコンはミナモのコンテスト会場に向かった。
 だが別にコンテストに出るわけではない、ゴウキはコンテストのことなんて全くわからない。
 会場に入った瞬間皆の目がゴウキのキュウコンに向かう、ポケモンの美しさや賢さに敏感な者達が集まっているのだから当然キュウコンは注目される。
 だがゴウキに気がつくと皆一様に安堵する。良かった、出場者じゃないんだなと言いたげに。
「あ、師匠」
 会場の奥のほう、木の実ブレンダー付近に居た男がゴウキに声をかける。
 ウェーブがかかった茶色く長い髪、白いスラックスにジャケットとマフラーと言う出で立ちはゴウキとは真反対に存在している人間のように見えるが、意外にもゴウキは彼を見つけて幾許か安堵の表情を見せ、彼の元へ歩み寄る。
 その男、アマナイはかつて晩年のゴウキの弟子で、ゴウキは筋がいいとかっていたがアマナイは同時にコンテストにも力を入れており、現在ではコンテストを主戦場としている。
「アマナイ、居てくれて助かった。ワシはどうにもここは苦手だ」
「そうですか? このキュウコンをつれていればあながち場違いってわけでもないですよ」
 アマナイは腰を落とし、キュウコンの首元を慣れた手つきでガシガシと撫でてやる。キュウコンも心地よさ気にハッハと息を漏らす。
 ゴウキは先ほどの言葉に首を振りながら
「ワシとは違う次元の場所だ、否定するわけではないが軟弱だ。お前だって」
 もっと強くなれたのに、と言いかけた所で「ストップストップ」とアマナイが遮る、この愚痴は長くなりそうだと悟った。
「愚痴を言いに来たんじゃないでしょ」
 そう言われ、ゴウキは思い出したようにポケットからポロックケースと袋に入ったの木の実をアマナイに差し出す。
「これに、頼む」
 アマナイはそれらを受け取るとケースに緑色のポロックを詰め、ゴウキに手渡した。
 キュウコンはアマナイが作るこの緑色の、ゴウキが思わず顔を歪ませるほどに苦いそのポロックが大好物であり、ゴウキはそれらを貰いに会場に来る。
 その際に、アマナイは「良いですよ」と断るのだが、きちんとそれらの分の木の実を報酬として渡すのだ。
 ゴウキが不慣れな手つきでポロックケースからポロックを取り出し、キュウコンに与えていると、アマナイが言う。
「そういえば、師匠、一つ頼みたいことがあるのですが」
「なんだ」
「二日後のコンテストに僕の代理として出ていただけませんか」
 アマナイの願いに、ゴウキはあまり良い顔をしない。
「アマナイ、ワシはコンテストなんてした事ないしやり方もわからん、あまり良い結果になるとは思わんぞ、そもそもワシは、その、何だ、コンテストパスとか言うの持っていない」
「大丈夫です、師匠に出ていただきたいのはうつくしさノーマルランクコンテストですから。出場既定はありませんし、パスは当日発行すれば問題ありません、僕は本来ならもっと高いランクに出場するんですけど、まぁ、その、大人の付き合いって奴でエントリーしてるんです、ですが」
 アマナイはわざとらしく目頭に手を当て。
「二日後は、妹の出産予定日なのです。一人の兄として、立ち会ってあげたいじゃないですか」
 ゴウキは、こいつに妹なんていただろうかと思ったが、彼がそう言うのならそうなのだろう。
「ワシは恥をかきたくない」
 ゴウキからすれば、自らは一線を退いた身、それが図々しくも何か行動しようなど滑稽以外の何者でもない。
「大丈夫ですよ師匠、師匠のキュウコンなら一次、見た目の審査は楽勝ですし、師匠の技なら二次、技の審査も楽勝です。それに」
 アマナイはゴウキに耳打ちする。
「これだけのキュウコンを育て上げていながら、何もしないなんてもったいないですよ。キュウコンもたまには運動しないとね」



『はい! これより、ノーマルランクのポケモン美しさコンテストが始まります』
 司会の女性が遠くまで良く通る声でコンテストの始まりを宣言する。
 観客兼一次の審査員達はゴウキたちを囲むように輪になって彼らを見ている。会場に天井は無く、基本的には吹き曝し。
 ゴウキは自分が思っていた以上に観客が居た為に若干、背筋が伸びる。
 出場者は四人、ゴウキのエントリーナンバーは四番。
『出場されるトレーナーとポケモンの皆さんはこちら』
 司会の女性が出場者とそのポケモンをそれぞれのお立ち台まで誘導する。ただの紹介ではなく一次のビジュアル審査として重要だ。
 ゴウキは何年かぶりに白髪を染め、久しぶりにスーツをクリーニングに出した。やるからにはキッチリやらなければ気が済まない性分なのだ。弟子の代理と言う手前、己の恥は弟子の恥に直結する。
 この会場に来るまではアマナイのことを気にかけていたゴウキだったが、ステージに立つと、そのような気持ちがすべて吹き飛んだ。
 すべては、エントリーナンバー三番の男に原因がある。
『エントリーナンバー三番、ビューティフルロズレーさんのミロカロス、ニックネームはディーヴァです』
 事前に用意された大き目の水槽に、水タイプのポケモン、ミロカロスが繰り出される。
 ノーマルランクに似つかわしくないほど美しく洗練されたその姿に観客たちは満足したようにホゥと声を重ねる。
 その男は顔をロズレイドに似せて作ってあるマスクで覆い、体の線を隠すようにローブを纏っていた。だが、マスクの隙間から見えるウェーブのかかった茶髪と見覚えのあるミロカロスはその男が誰であるのかを明確に記している。
「妹は如何したんだ?」
 おそらくアマナイであろう三番の男にしか聞こえぬようにゴウキは言った。
「えぇっ!」
 ロズレーはなぜばれたのかと言わんばかりの素っ頓狂な声を上げた、そしてその声はゴウキが彼をアマナイだと確信するのに十分。頭隠して尻隠さずとはよく言うがこの場合頭すら隠れていない、失格である。
『エントリーナンバー四番、ゴウキさんのキュウコンです』
 この時点でゴウキにコンテストに集中する義理など無くなったが、ここで自分勝手な行動をとって多くの人間を混乱させるのは良くない。若い頃ならアマナイに罵声の一つでも浴びせて飛び出すだろうが、歳をとってゴウキは丸くなっていた。
 ゴウキは横で鎮座しているキュウコンにお立ち台に乗るように言う。
 キュウコンは足取り軽くお立ち台に飛び乗る。
 観客はそれに驚きと感嘆の声を重ねた。気品あふれる佇まい、妖艶にゆれる九つの尾、無意識のうちに跪きそうになる透き通った目。見れただけでも満足といわんばかりに顔を高揚させている者もいる。
「もったいないですよ」
 観客が一次審査の投票をしている間にアマナイがゴウキに言った。もう、隠す気は無いようだ。
「キュウコンも師匠もこれだけの人を魅了できるのに、もったいない」
 マスクの下で微笑んでいるのがゴウキにもわかる。腹立たしい。ふざけている。同時に自分が馬鹿らしい。
「ワシは帰るぞ」
「どうぞ、できるものならね」
 アマナイは退場口を指差して挑発するように言う。
「この空気の中、帰れるものならば帰ってみてください。でもそれは戦い途中に背を向けるのと同じですよ。この熱気を作ったのは誰ですか? まぁ殆どは僕ですが師匠も少しはね。僕は知ってますよ、師匠は戦いから逃げるなんてことはしない。たとえそれが嵌められたものだとしても必ず立ち向かう」
「それは現役の頃の話だ、今のワシにその活力は無い」
「それなら、キュウコンは?」
 アマナイがキュウコンを目にやる。ゴウキも同じく。
 キュウコンはお立ち台の上で微動だにせず胸を張っている。視線は一点を見据え、その風貌はゴウキが散々教え込んだ戦いの姿勢。今ここで棄権することなど許されるわけ無い、それは主人であるゴウキの意思でもあり、自らの意思でもあるのだ。
「師匠、僕は信じている、師匠は自分自身を裏切らない」
 優先させるべきは、恥をかきたくないという終わった人間のエゴか、それとも分身の意志か。キュウコンとアマナイを交互に見比べながらゴウキは考える。
 やがて司会の女性が集計が終わったと告げる。棄権をするならこのタイミングが最良だろう。
 ゴウキはスーツの内ポケットからポロックケースを取り出し、不器用に緑色のポロックを取り出した。そしてそれをキュウコンの口元へと持ってゆく。
 だがキュウコンはそれを一瞥しただけで後は見向きもしない。いつもなら飛びつく苦くて渋い緑色に。
「そうか」
 ゴウキは深いため息をつき、手持ち無沙汰になっていた緑色を口の中に放り込んだ。それまでのものより特別苦く、特別渋かったが、それが逆に自らへの気付けになるような気がする。
「どうなっても、知らんぞ」
 観客が静まり返り、自然に二次審査への空気が出来上がる。司会の女性がマイクを握りなおして
『二次審査はアピールタイム、では張り切ってどうぞ! レッツアピール!』
「水の波動」
 司会の女性が言い終わるや否やアマナイが声を張り上げ指示を飛ばす。
 ミロカロスが水槽に潜りぐるりと一周する。一呼吸置いた後に一気に体を水面から投げ出し、空に向かって水流を繰り出した。
 水流はある程度空を舞うと、重力に負けて花のように広がる。それらの花びらは雨となってミロカロスの水槽に降り注ぎ、静かな雨音とともに幾多もの波紋を作った。
 ノーマルランクを見に来た観客にとってそれは想像していた以上に雄大で美しい。彼らはミロカロスに惜しみなく拍手と歓声を送る。
 そんなもので良いのかと、ゴウキは心の中で笑う。あまりにも目の肥えていない連中だ。技としてはギリギリ合格点といったところ。
 ゴウキが動かないので他の出場者が先に技を出す。エントリーナンバー二番はアマナイに負けまいと美しさをアピールしたがとても敵わない。レベルが違う。
 エントリーナンバー一番は嫌な音でミロカロスを妨害しようとしたがこれも無駄。ミロカロスは澄ました表情のままで効果が無い。だがエントリーナンバー二番のポケモンがそれに気を取られ下を向いてしまう。協力すべき者達がことごとく自滅に向かっていった。
 彼らの様子をゴウキ鼻で笑う。しょうもない、しょうもない。ゴウキから見れば彼らの技は技ではない。
 一週目で技を出していないのはゴウキだけとなった。観客、出場者、すべての目がゴウキとキュウコンに集中する。ゴウキもキュウコンも視線には慣れている、緊張などしない。
「見せてやれ」
 ゴウキに指示に合わせてキュウコンが首と尾を空へと向ける。
「だいもんじ」
 キュウコンがそれぞれの尾に燈した炎を揺らめかせるとやがてそれらはその勢いを増す、一定の大きさに成長すると今度はそれらを一気に空へと向けて放出。空中に『大』の文字を出現させた。
 未熟なものは対象に叩きつける事でしか『大』の字を作ることはできないが、キュウコンほどになると対象がなくとも炎を形作ることができる。そしてそれはコンテスト、バトルのどちらにおいても習得しているものは少ない技術。
 それは時間にすれば短いものだったが、観客たちはそれに見とれた。そしてそれが完全に空から消滅してから思い出すように歓声と拍手を送る。
 表情には出さなかったがゴウキは得意げに笑った。それはドータクンこそが最強のポケモンと信じて疑わない弟に現実を突きつけ得意げになる兄にも似ている。
 ここでエントリーナンバー一番が手を上げ、棄権する旨を司会者に告げるとエントリーナンバー二番も同様に棄権を告げた。
 本来ならば棄権には激しいブーイングが飛ぶが、今回はそれは無い「君たちが悪いわけじゃないんだよ、君たちは運が悪かった。ノーマルランクだしまたおいで」という同情と不運を悲しむ視線。
 残ったのはゴウキとアマナイ二人だけ。
 ゴウキは気づかなかったが、騒ぎを聞きつけ観客がかなり増えてきた。


「師匠、やっぱり貴方は凄い」
 アマナイはそう呟く、観客のざわめきにかき消されゴウキに聞かれることは無い。
 アマナイはゴウキの弟子であった、だが元々はバトルに興味など無く、むしろポケモンバトルを軽蔑していた節もある。戦うということ、傷付け合うということは論理に反した行為だと思っていた。
 しかし初めてゴウキの戦いを目の当たりにした時、彼の中の何かが崩れるとともに新しく構築される事になる。当時、強く美しいと評判のトレーナーが居なかった訳ではない。が、アマナイは彼らよりもゴウキに強く惹かれた。
 敵を圧倒するゴウキの姿は戦っているにもかかわらず美しかった。なぜそう見えたのか、それは今でも分からない。分からないことが更に口惜しい。
 戦いに勝つという目的の為に洗練された技、技術、それらすべてが煌びやかに光っているように錯覚した。否、彼にとっては錯覚ではない、事実そう見えたのだ。
 晩年だという理由で弟子を拒むゴウキに半ば無理やり弟子入りしたのはゴウキの元で技を磨きたいのと同時に、ゴウキの戦いを最も近くで見たかったからでもある。
 だがアマナイは今、弟子という立場よりもより近いところでゴウキを見ている。
 対戦者として。


 コツをつかんだのか次に先手を取ったのはゴウキのほう。
「鬼火」
 高く掲げられたキュウコンの九つの尻尾の先それぞれが紫色の炎を燈し、ふらふらと揺れる。それらは意思を持ったかのように空中を浮遊し、意識があるものの視線を釘付けにする。相手を妨害しても良いのだと先程の嫌な音でゴウキは気づいていた。
 だがそれを読んでいたかのようにアマナイは素早く、的確な指示を出す。
「神秘の守り」
 観客は不規則に揺らめく紫に夢中でミロカロスの静かな変化に気づかない。
 ミロカロスは何の反応もせず、澄ました顔で炎には一目もくれない。
 初めは鬼火に目を奪われていた観客もやがてミロカロスの佇まいに気づく。ミロカロスの周りだけ時が流れていないようにすら思える、自分たちとは違う次元にいるようにも思え、抱くのは尊敬と羨望、感じるのは凛とした美しさ。
 ゴウキは悔しげに顔をゆがめる。また良い様に使われた。
 ゴウキの隙の無い技を相乗的に利用する。この局面はアマナイが優位に立ち、拍手と歓声が送られる。
「厳しいかもしれないけど、見せ付けてやろうディーヴァ」
 アマナイがミロカロスを鼓舞するように言う。ミロカロスが二、三度うなずく。
「吹雪」
 首をもたげたミロカロスの口から強烈な冷風と作り出された雪が放たれ、それらは会場全体を覆うように吹き渡る。太陽の光が雪を反射し、それぞれの時間で煌く。
 それら雪と日光の織り成す芸術は自然界ではあまり目にかかることができない神秘。自然界の吹雪は分厚い雲とともにある。
 薄着の観客は肌寒さを感じるはずだが、そんなことを気にするような者はいない。感覚が視覚に支配されているのかもしれない。とにかく、とにかく一つ一つの雪を目で追う。帽子をかぶっているものは飛ばされぬよう手で押さえた。
 風で暴れるスーツの裾を押さえながらゴウキは悪態をつく、こんなもの、技でもなんでもない。
 技を見せてやらねばならぬ。こいつ等に、技とはどんなものを言うのかを教えてやらねばならぬ。
 その熱意、執念は、当の昔に捨て去ったと思っていたもの。
「炎の渦」
 キュウコンが尾からでは無く口から炎を繰り出し、キュウコンを中心に巨大な炎のつむじ風を作り出す。
 それはごうごうと音を立て、ミロカロスが作り出した風もろとも周りの空気と風を吸い込む。
 アマナイはその様子を見てやれやれと首を振る。怒らせてしまった、確かにこの技法はあの人から見ればあまりに大衆的だ。それにしても、すごい。
 見ているものが暴力的だと思うほどに増長した炎の渦はすべての雪を溶かし、すべての風を飲み込んだ。後に残ったものは渦巻く強大な火の魔物のみ。だがその魔物をあくまで優雅に、いとも簡単に操るキュウコンに観客の視線は集中する。
 ゴウキはアマナイに向けてニコニコと笑う。お前にこれほどのエネルギーが作り出せるか? という一種の挑発。
 炎の渦が消滅すると、今度こそゴウキが先手を取る。
「日本晴れ」
 キュウコンはすぐに九本の尾で炎の球体を作り出す。キュウコンのもとをふわりと離れたそれはある程度高く舞うと空中に留まり小さな太陽のように会場に光を注いだ。
 やぁ、やってみろと言わんばかりにゴウキがアマナイを見る。さっき俺がやったみたいにこれを打ち消してみろよ。できるか、お前に?
 観客は皆息を飲む、アマナイの、観客から見ればビューティフルロゼリーの一挙一動を見逃すまいとする。
 その間にも観客は増える、黒々としたその光景はさながらマスターランク。
「師匠」
 観客には聞こえ無いくらいの声でアマナイが言う。ゴウキはアマナイに目を向ける。
 マスクでよく分からなかったが、おそらくアマナイは満面の笑みだった。休日の昼下がりに父親に思いっきり遊んでもらった子供のように屈託の無い。
「貴方、最高ですよ」
 発言の意図が分からず、ゴウキは言葉を返さない。
「竜巻」
 ミロカロスが先程の吹雪と同じ按配で風を作る。周りのものを巻き上げ見えないそれは成長する。
 観客は首を傾げる、確かに力強く可憐な技だ。だがそれは『美しさ』コンテストにはそぐわない様に思える。
 そんな疑問なぞ小さなことと言わんばかりに竜巻は成長を続ける、やがてミロカロスが入っている水槽の水も巻き上げ始めた。
 不穏な空気を感じ取った観客の何人かは避難を始める、技のミスだ、ミロカロスの暴走に違いない。
「僕は師匠を超えます。僕なりのやり方でね」
 轟音の中、アマナイが言う。
「師匠は勘違いしている、僕達が戦っているのはお互いではない。僕達が戦っているのは、僕達を見ている観客たちだ」
 ゴウキは険しい顔をして返す。
「だから軟弱だというんだ。屁理屈こねずに黙って越えて見ろ」
「そうしますよ、だけど師匠は怒るかもしれない」
 アマナイが力強く手を叩くとそれまであれほど猛威を振るっていた竜巻が穏やかなものになる。同時にアマナイがこれまでゴウキが聞いたことが無いほどの大声を張る。
「波乗り!」
 それは一瞬の出来事だった。
 巻き上げれられた水流にミロカロスが飛び乗ったかと思うとそのまま上へ上へと進む。
 落ちてくる水流に乗り、時にはかわしながら上へ上へと進む。
 その光景に、滝登りを連想する人間もいるかもしれない。だが、巻き上げられた水流は滝に比べると細く、希薄。
 七色に光るミロカロスの鱗はキュウコンが作り出した小さな太陽に近づくにつれその輝きを強める。太陽に近づくその姿は神々しく、神話の一ページを飾ってもおかしくない様に思える。
 会場から賞賛以外の声が無くなる、人間としてのすべての機能がその一瞬だけ視覚に全力を注ぐ。
 端的に、味気なく言えば、神業。まるで空を飛んでいるかのような優雅さな光景にゴウキですら、見とれた。
 アマナイはゴウキを見つめ、笑う。どうです? さすがの貴方も認めざるを得ないでしょう? 口元がそう語る。
 無常にもそれは時にして一瞬、やがて水流と共にミロカロスも水槽に落下。
 ポーズをとったミロカロスに会場は割れんばかりの歓声と拍手を送る。ノーマルランクではありえない、否、マスターランクでもここまでの歓声はめったに起こらない。
 奇跡の瞬間を写真に収めることができた者はカメラをカバンの奥底へと突っ込む。画家はその瞬間をどの筆、どの絵の具、どんな姿勢で書けばいいものかと考える。そのどちらでもない者は、写真と、絵の完成を心待ちにする。
 ミロカロスは消耗しており、姿勢を保つだけで精一杯。水面に叩きつけられたダメージも、細い水流を昇った疲れもあるだろうが、ミロカロスにとって最も辛かったのは、キュウコンが作り出した火球に近づきすぎた事。強すぎる技術と気持ちは時にタイプの相性すら覆す。
 歓声と拍手はまだ止まない。ゴウキがまだ技を出していないことに気づいている者が何人いるのだろうか。司会者も、審査長も、立場を忘れてブリキのように手を叩く。
 ゴウキは許せない。確かに凄かった、凄い技だったよ、恥ずかしいが俺も見とれた。だが、だがよ。
 まだ俺の方が凄いに決まってる。俺を誰だと持ってる、俺の横に座っている奴を誰だと思ってる。俺達を誰だと思ってる? こんな小僧の技なんて吹き飛ばしてやる。
 キュウコンを見る。胸を張り、目は強く一点を見据える。まだまだ雄大、こういうのを王者と言うに決まっている。美しいに決まってる。逞しいに決まってる。カッコいいに決まってる。
 ゴウキは息を深く吸い込む
「見ろ!」
 キュウコンに手を掲げ、できる限りの大声で叫んだ。だが気づいたのは司会者と審査長とアマナイと会場の前の方にいる者達だけ。
「オーバーヒート」
 キュウコンが目を瞑ると体全体から炎が巻き上がる、爆発に近いそれは火柱となって空へ空へと向かう。
 観客はそこでようやくゴウキの存在を思い出す。
 やがて火柱が日本晴れの火球を飲み込んだ時、空一面を炎が覆ったのではないかと勘違いしてしまうほど炎が広がる。煙を出すことも無く、音を立てる訳でも無い。だが、それは強大。本当に一匹のキュウコンが繰り出しているのかどうか疑ってしまうほどに。
 ゴウキは満足げに笑う。どうだ、これこそが技だ。これこそが俺の集大成だ。これこそがキュウコンの集大成だ。これこそが俺達の集大成なんだよ。
 観客席にいた子供が付き添いの母親に言う「お母さん、キュウコン死んじゃう」
 力を振り絞るキュウコンは命を削っている様に見えた。なぜそこまでするのか、自分が惜しくないのか。
 観客の一人は汗を拭くために挙げた手を下ろすことを忘れ、それに見入る。
 観客たちはそれに何を見るのか、狂気か、破滅か、それとも、美しさか。
 アマナイとミロカロスも火柱に釘付けになる。熱さを忘れる、自らの心がゴウキに支配されている気分だ。
 歓声も、拍手も無い。だが誰一人として目を背けない、異様な空間がそこにある。
 故に、誰も気づかなかった。
 最初に気づいたのはゴウキ、次いでキュウコン、後を追うようにアマナイとミロカロス。
「キュウコン!」
 ゴウキが声を張り上げる。
 キュウコンが技を止め、あれほど燃え滾っていた炎は、供給元と燃やす対象を失い、一瞬燃え上がって、消えた。 
「アマナイ!」
「はい!」
 アマナイがミロカロスにハイドロポンプの指示を出し、競技場に水を撒く。
 競技場の一部が燃えていた。あまりのエネルギーに競技場が耐えられなかったのだろう。
 幸いにも人が居ない場所だった、観客席だったら大事だっただろう。
 だが、濛々と沸き起こる白煙に観客たちが気づき、次の瞬間、会場は大混乱に陥った。
 観客を落ち着かせようと、司会者の女性が声を張る。だがそれは多くの喧騒に掻き消される。その混乱が収まるまでかなりの時間を要した。



「アマナイ、ワシは間違ったことを言っているか? 仮にもポケモンを扱おうという施設がポケモンの技に負けるとは何事だ」
 あの混乱が原因で、ゴウキが参加したコンテストは無効となった。怪我人が存在しなかったのは不幸中の幸いといえるだろう。
 おまけにゴウキは厳重注意を受ける羽目になる。もっとも、ゴウキは一切聞き入れず先のような主張を繰り返したのだが。
「あのね、手加減ってものがあるでしょう」
 武装を解除してただの人となったアマナイが呆れて言う、自らが撒いた種とは言え、もっと上手くやれば良かったと後悔した。
「技に手加減などできるか、だから軟弱なんだ」
 ゴウキは心底軽蔑したようにはき捨てる、だがその後すぐに得意げな表情になって。
「だが、見事だっただろう。パチパチパチパチうるさい奴らを黙らせてやったんだ」
 キュウコンがゴウキの右手に頭を押し付ける。そうすればなし崩し的にゴウキが頭を撫でてくれることを知っている。
 ゴウキはなし崩し的に頭を撫でながら、よしよし、良くがんばったぞと緑色の菓子を三つばかりキュウコンに与えた。
「ありゃ引いてたんですよ、何ですかあれ? 爆弾かなんかですか?」
「だがまぁ、お前もまだまだだな。新参のワシに負けるようじゃ」
 勝ち誇るように言うゴウキにアマナイはムッとして。
「いやいや師匠それは無い。見てくださいよこれを」
 会場の壁にかけてある出来立てほやほやの絵画を指差して言う。
 それは先程の試合を見ていた画家が作り出した、ミロカロスが空を飛んでいる絵画。
「どうですこれ、これがコンテストに求められているものなんですよ。どう考えても僕の勝ち、師匠も腕が落ちましたね」
 師弟関係になると性格が似るのだろうか。ゴウキも同じようにムッとすると。
「ほぉ、ならもう一度だ。要領も掴んだ事だし、次は圧勝だな」
 だがアマナイはニヤリとして。
「いやですね」
 虚をつかれ、ゴウキは一瞬反応できない。だがすぐに顔を赤くする。
 まくし立てようとするゴウキを手の平で遮り。
「ノーマルランクでは、いやですね。師匠、僕は一応マスターランクにエントリーできる立場にあります」
 少しだけ得意げなアマナイにゴウキは
「レベルが低いな」
 と返す。
「そうですね、だから師匠も僕のところまで来てください、マスターランクへ」
 ゴウキは、何を言っているんだ、という表情。
「最高の舞台で、最高の観客を相手にやりましょう。ま、最も、隠居の身の師匠がそこまで登って来られたらの話ですがね」
 ゴウキはようやく理解した。あぁ、そう言うことか。
 もはや見え見え、こいつはよっぽどワシとキュウコンを引きずり出したいらしい。
 ゴウキは顔に手を当て考える。
 キュウコンが右手に頭を擦り付けてきた。そうすればなし崩し的にゴウキが頭を撫でてくれることを知っている。だが、今回の場合本当にそれだけの理由だろうか?
「良いだろう」
 なし崩し的にキュウコンの頭を撫でながら答えた。
 アマナイよ、とことんまで乗ってやろうじゃないか。
「だが勘違いするなよ」
 アマナイを指差し、睨み付ける。
 見覚えのある眼光にアマナイは少し固まる。それは昔のゴウキ、強かった頃のゴウキだった。
「もうワシは昨日までのワシではない、覚悟しろ。ワシも、キュウコンも、まだまだこれからだ」
 
> Midnight Mansion 作:ジャック
Midnight Mansion 作:ジャック
この作品は作者様のご希望により、掲載を控えさせていただいてます。
 
> MONK 作:乃響じゅん 【☆】
MONK 作:乃響じゅん 【☆】
 1

「お、俺の負けだ、食い物ならいくらでもやる、だから許してくれぇ」
 私との勝負に敗れたリングマは、しりもちをつき、慌てて逃げ出した。約束通り、大小様々な木の実を大量に残して。
 だけど、許すも何も、負けたら持っている食べ物を差し出すという以外は何のルールもない。
「慌てて逃げることもないのになぁ」
 私はそう呟いた。たまに、そういう奴がいるのだ。特に、ガラの悪い奴。一撃で倒されてしまったことが、そんなにショックだったのだろうか。
 脇で見ていた一匹のエーフィが、身体を躍らせながら私に寄ってくる。
「いやーさすがライ先輩! 相変わらずお強いですねぇ」
 フィオーレと名乗るこのお調子者は、私のことを褒めつつ、私より先に木の実をがっつき始めた。あんたは何もしていないだろうが。きっと睨んでみても、こいつは意にも介さない。エーフィは空気の流れを読めると聞いたが、こいつの図々しさを見ていると嘘なのではないかと疑いたくなる。
 リングマから勝ち取った木の実を近くの木まで運び、寄りかかったところでようやく一息ついて、木の実を口に放りこむ。運動をした後の木の実は、普段より格段に美味しい。
「私が強いんじゃなくて、周りが弱すぎるんだよ」
 私はフィオーレに言い返す。
「そんなことないですよ。あのリングマも結構やる方だったと思いますよ」
「そうかなぁ」
 私は首を傾げた。あのリングマだって、多分に漏れず、一撃で倒れてしまったではないか。
「それにしても、ライ先輩ってやっぱり有名なんですねぇ。この集落に入った時も、みんなすぐにライ先輩だって分かってたみたいですし。カントー、ジョウト辺りで知らない野生ポケモンのグループはいないんじゃないですかね。バトルで負けなし、最強と呼ばれた旅ライチュウのこと」
 ふん、と私は言ってやった。
 私は自分の力を試すべく、強い相手を求めて各地を旅している。相手のやる気を引き出すために、布に巻いて持ち運んでいるポロックと、相手方の食料を賭けて戦うのだ。今のところ、私は負けたことがない。どいつもこいつも弱すぎるのだ。考えてみれば、生きるだけでほぼ精一杯の野生界で競技としてのバトルなんか楽しんでいる余裕はない。当然のことだ。
 ふと上に動くものがあったので、そっちに顔を向けた。何かと思えば、木の枝にしがみついていたコラッタが、一瞬脚を踏み外したらしい。急いで枝につかまり直し、両手両足に力を込めてこちらをじっと見つめる。非常に警戒している。私たちが彼らにとってどういう存在なのかを考えたらすぐに分かることだ。言わば、暴力的な力を持った侵略者。私たちが怖くて降りられない、と言うのは想像がつく。
 周りをよく見ると、コラッタだけではなかった。葉の陰から、木の陰から、私たちに視線が向けられている。このライチュウは、どんな危害を我々に加えるのか分からない。そういう疑いと恐怖の視線だ。
 私は小さな木の実を一つ選び、木の枝の上に投げて乗せた。
「それ、あげるよ。怖がらなくていいよ」
 そう言って、私は立ち上がる。まだ木の実は沢山あったが、両手に一つずつ持つだけにして、私はその場を去る。
「あれ、もう食べないんですか?」
 後ろからついてきたフィオーレが言う。
「あんなに視線あったら、気まずくて食べてられないよ。もうお腹もいっぱいだし、これ以上はいらない」
 振り返らずに、私は答える。いくら勝ち取ったとは言え、こちらが貰い過ぎても、野生のポケモン達が困るだけだ。一介の旅ライチュウには、重すぎる。
「まぁライさんの噂は『負けたらコミュニティ内の食べ物を全部盗られて、小さなポケモンもさらわれる』っていう広がり方までしてますからねぇ」
「はぁ?」
 私は振り返った。そこまでしたことは一度たりともない。
「噂って怖いもんですよ」
 これじゃあ本当にただの暴君じゃないか。私はため息をつく。本当にこんな生活を続けていても、意味はあるのだろうか。ただただ悪名を広げて回るだけの旅で、私は何を得られると言うのか。私はここのところ、この旅路の先が見えなくなってきた。

 ジョウト地方からカントー地方へ、シロガネ山のふもとに沿って南下していく。そろそろ真南はトージョウの滝だろうか。日は沈みかけている。あっちは西。太陽を右手に、空を見上げた。
 太陽が沈み、山に隠れる。鳥ポケモンが頭上を飛び交い、私もフィオーレの姿も影に近くなる。人間の手の入っていない森の中には、電気は一切通っていない。日が落ちれば真っ暗だ。
 今日の旅はここまでだ。私たちは手頃な樹のそばで眠ることにした。
「そう言えば、ライ先輩」
 フィオーレが口を開く。
「何」
 私は目を閉じて言った。
「ライ先輩って、どうして旅をしてるんですか」
 私は返答に困った。それだけは、思い出したくない嫌な思い出なのだ。
 フィオーレの言葉を聴こえなかったことにして、無視を決め込んだ。
「ねぇ、ライ先輩」
「私知りたいんですよ」
「ねぇ、教えて下さいよ」
 フィオーレは一呼吸置きに言ってくる。うるさい。ここまで騒がれては、さすがに眠れない。何だかんだ言いつつ、私は結局このエーフィのわがままには逆らえないのかもしれない、と肩を落とした。
「しょうがないなぁ。話すからさ、黙ってくれないかな」
 眠りの世界と現実の狭間で、私の頭はふらふらだった。眠い目を擦りながら、私は何から話そうか考える。
 フィオーレは、黙ってくれという言葉を忠実に守っていた。その調子の良さに、妙に腹が立つ。一つため息が漏れた。
「私もね、元々は人のポケモンだったんだよ」
 私は一呼吸置いて、話し始めた。


 2

 私はトキワの森で生まれた、ごく普通の野生のピカチュウだった。
 元気にあちこちを走りまわるようになり、そろそろ自立しようかという時に、ヒトカゲを連れた人間と出会った。彼の名前を、レッドと言った。赤い帽子がトレードマークで、いつも深く被って、あまり自分の目や表情を見せない人だった。マサラタウンから来た、と彼は言う。
 つい最近旅に出たばかりで、これからポケモンリーグに挑戦するためにジムバッジを集めに行くそうだ。私はそのヒトカゲに次ぐ、二番目のパートナーとなった。
「これからもよろしくな」
 入れられたボールから出されて、もう一度握手を求められた。ピカチュウは尻尾で握手する。私は尻尾を出して、彼につまませた。彼の顔は良く分からなかったが、口元の笑みを浮かべたのを見て、この人と一緒ならきっと楽しくなるだろう、と予感していた。
 仲間のしるしだ、と言って、レッドは小さな首飾りを私にかけてくれた。レッドの手持ちには、全て同じ首飾りがぶら下がっている。
 レッドは勝利に貪欲な男だった。と言うより、負けるのがとことん嫌いだった。
 彼の頭の中にはありとあらゆるポケモンの知識が入っていて、勝負の前には緻密な戦略を練り、考えられる全ての状況を考えてから戦いに挑む。そんな彼のやり方が功を奏し、一度たりとも負けることはなかった。
 レッドに鍛えられた手持ちの中で、とりわけバトルの腕を上げたのは、ヒトカゲと私だった。ヒトカゲは彼の最初のパートナーでもあり、レッドの考えをいち早く見抜いて忠実に実行することに長けていた。私は私で、戦闘や電撃の扱いのセンスがずば抜けていることに気付き、バッタバッタと相手をなぎ倒していった。
 やがて、私とヒトカゲ(二匹とも進化して、ライチュウとリザードンになった)の間にも、力の差が見えてくるようになった。リザードンが少しつまづくようなバトルでも、私は平気な顔して勝つことができた。強い敵と戦い勝つことが、私の喜びだった。身体を動かすことは好きだったし、何よりレッドが褒めてくれるから。「レッドと言うトレーナーに、ライチュウを使われたら勝ち目はない」。カントーのトレーナーの間に、そんな噂が流れ始めた。
 最後のジムに挑む頃だっただろうか。私はあるバトルのアイデアが浮かぶと同時に、ふと疑問に思った。ポケモンはトレーナーの指示に従い、自らを鍛え、戦う。――本当にそれでいいのだろうか。
 レッドのトレーナーとしてのやり方は、ポケモンの全てを管理しきっている。裏を返せば、ポケモンに自分で考える自由が与えられていない、と言うことにはならないだろうか。
 そう思った瞬間、私は何もかもが急に息苦しく感じられた。私は縛られている。このまま、彼の行く道を、黙ってついていくだけ。私が勝負に勝つんじゃない、レッドが勝負に勝つんだ。私でなくても、きっとレッドは勝利を掴むだろう。じゃあ、私って一体何なんだろう。急に全てが分からなくなった。
 一度、自分にバトルの全てを任せてほしい、と言ってみようと思ったが、すぐに諦めた。どうせ、彼は受け入れてくれないだろう。自分が全てを管理しなければ気が済まない。旅をしていくうちに、彼のそんな性質が浮き彫りになっていく。私にはそれが嫌で嫌でたまらなかった。
 出来る限り気付かれないように、バトルに影響しないように、私は隠し続けた。相変わらず、負ける事はなかった。
 カントー地方のナンバー1を決定する、ポケモンリーグ。チャンピオンロードを抜け、会場のセキエイ高原に辿り着いた。大会が始まって、会場が盛り上がっても、レッドも私たちもさほど緊張せずに一回戦をあっさりと勝ち抜いた。
 その晩、思い切って私はレッドに、自分の思いを打ち明けてみた。一度だけ、自分の考えた通りにバトルさせてくれないかな? そう、彼の神経を出来るだけ逆なでしないように言ったつもりだった。
「俺が一度でも間違ってたことがあるのかよ」
 だけど、レッドは私を怒った。馬鹿なことを言うなと、ぴしゃりと言いつけられた。
 事実、彼は間違わない。彼の言う通りにしていれば、負けはしない。その正しさが、彼の強さであると言うことは、誰もが認めるところだった。しかしそれが、私の心を締め付ける。
 2回戦。3回戦。私はレッドの指示通りに行動し、相手のポケモンを翻弄し、撃墜していく。
 そのたびに、身体の底から苛立ちを感じた。違う、私がやりたいのはこんなことじゃない。こんな戦いじゃ、何にも楽しくない。倒れてモンスターボールに戻っていく相手のポケモンを見ながら、そんなことを考えた。戦いが終わり、控室に戻るたび、自分の思う通りにやらせてくれと、同じことを頼もうとして諦める。きっと何度頼んでも、同じなのだろう。一度でいいのに、一度でいいのに、一度でいいのに!
「今日の動きは、粗っぽかったぞ。勝てたからよかったけど……もっと丁寧に動いてくれよ。分かったか?」
 レッドがこの一言を放った瞬間、私の中で怒りの糸が切れた。心の中がどうしようもない気持ちでいっぱいになり、行動を決意する。
 準決勝の前夜、全員が寝静まった頃、私はこっそりモンスターボールから抜け出し、ポケモンリーグから脱走した。かばんの中から取り出した、どこかで貰ったポロックケースを布に包んで。
 その後、レッドがどうなったのか、私は知らない。それから一切、彼と関わることもなく、思い出すことさえしなかった。


 3

「……まぁ、こういういきさつで旅をしてるってわけ」
 意外と、細かいところまで思い出せてしまったことが、私は悔しかった。レッドの仏頂面を思い出すだけで、ポケモンリーグ前のあの怒りが甦ってくる。
 一人旅を始めてから、身の上話を聞いてくるポケモンなんて誰もいなかった。だから心にふたをすることは簡単だったし、毎日バトルのことだけ考えていれば良かった。
 レッドに会ったら、何と言われるだろうか。想像もつかない。あれから3年も経っているのだ。最早他人と言っても差し支えないレベルにまで到達している。逆に、レッドに会ったら何と言ってやろうか。それを考えても、特に何も思いつかなかった。実際に会ったら、何か言うことが見えてくるのかもしれないが、そんなことは万が一つにもないだろう。
 そう言えば、途中からフィオーレの相槌は一切なくなった。私は彼女の方を向く。
「ねぇ、聞いてる? って、寝てるし」
 横にいるフィオーレは、身体を丸めて完全に眠っていた。話に夢中になって、全然気付かなかった。いつから寝ていたのだろうか。もしかして、これは話し損か?
 仕方がない。暗い気持ちを晴らすためにも、私はさっさと寝てしまうことにした。

 次の日の朝、日の出と共に目が覚める。大きなあくびを一つして、フィオーレを踏み起こし、また歩き始めた。
「あれ」
 ふいに、フィオーレが空を見上げて呟いた。私もそれに倣う。
 雲の少ない青空に、大きな鳥が飛んでいる。その影は段々大きくなり、それは鳥ではないことに気付いた。鳥と言うより、竜に近い姿をしている。
「リザードンですかね」
 本当だ。野生で見る事は殆どないから、きっとトレーナーを乗せているのだろう。
 しばらくして、はたと気がついた。そのリザードンは、明らかにこちらに向かって飛んできている。顔の形でさえ判別できるほど近づいたところで、彼のぶら下げてる首飾りに気付いた。
 まさか、このリザードンの背中に乗っているのは。
 瞳孔を開き、全身の毛が逆立つ。全身を電気が走り、一瞬にして一触即発の身体になる。
 リザードンが私たちから数メートルのところに着陸すると、背中から一人の男が降りた。赤い帽子を深く被った、私の良く知る姿。
「レッド」
 私は口から、彼の名前がこぼれた。彼はリザードンをボールに戻すと、私の方に一歩一歩近づいてきた。お互いの目が合う。私は彼を睨みつけた。
「どうしてここが……ってか、今更何をしにきたのさ」
 強い口調で、私は言う。睨んでみても、彼はまるで応えない様子で、一歩一歩歩みを進めてくる。
「昨日、連絡があった。お前がここにいるから、今すぐ来いって」
 記憶よりも、ずっと低い声でレッドは語りかける。心なしか、背も伸びている気がする。
「誰から」
 私は威嚇の姿勢を崩さず、聞いた。レッドは、すっと指をこちらに向けた。いや、私のほうではない。私の隣にいる、フィオーレを指さしている。
「フィオーレ」
「はーい」
 彼は名前を呼び掛けた。手を開き、彼女を招き入れるポーズを取る。
「こいつのこと、知ってるの?」
 フィオーレは、彼の呼び掛けに応えて、しっぽをぴんと立てながらレッドの元へ駆けよった。
「そりゃあ、俺のポケモンだからな」
 レッドは不敵な笑みを浮かべてみせた。私は驚きを隠せなかった。レッドがエーフィを持っていたことなんて、これっぽっちも知らない。
「お前がいなくなった後、仲間になった。テレパシーが使えるから、お前の居場所を調べてもらっていたんだよ」
「幸いライ先輩の名前は広まっていましたから、探し出すのにはそれほど苦労しませんでしたよ」
 フィオーレはレッドの脚に頭をこすりつけた。
 道理で、こいつが私のことを先輩と呼ぶわけだ。私の話は、大体知ってると言うわけだ。
「昨日ライ先輩のお話を聞いて、あなたがマスターの探しライチュウだって確信したんです。それで連絡させて頂きました」
 とどのつまり、私の口からレッドの名前が出るかどうかで、最後の確認をしたかったということだったのか。ぺらぺらと必要以上に喋ってしまって、恥ずかしい。
 問答をしているうちに、何だか怒りが冷めてしまった。それはとてもばかばかしいことのように感じてしまう。こいつの策略にまんまとはまってしまったような気分になり、私は肩をすくめた。
 全身はち切れんばかりに溜まった電気は徐々に周囲に漏れて、逆立った毛並みも次第に元に戻っていた。
「それで、私に何の用があって来たの」
 私は投げやりな口調で聞いた。もしまた仲間に戻れと言われたら、困る。レッドと一緒に居たら、また私は彼に媚び、辛い思いをする気がする。かと言って、この生活を続けていても、先は見えない。
 そんなことを考えていたが、彼の答えは全く別のものだった。
「ライ、俺とバトルしてくれないか」
 モンスターボールを一つ取り出し、彼はもう一度、私に真剣な眼差しを向ける。

 私は頷いた。バトルなら、迷うことは何もない。


 4

「全力を尽くすよ。持てる手段を全部使って、お前を倒す」
 レッドは宣言する。極度の負けず嫌い。そう言うガツガツしたところは、改めてやはり少し嫌な感じを受ける。だけれど、勝負を挑まれる立場になって、何となく分かった。バトルに一切手を抜かないことは、相手に対する最大の敬意なのだ。私は、全力で戦いたい。レッドの言葉は、私に高揚感を与えた。
「……やってみなよ」
 私は口元にだけ、笑みを浮かべた。レッドを見据えて、一挙一動を見逃さない。
「いくぞ」
 ずっとレッドの隣にいたフィオーレが先発かと思ったが、どうやら違うらしい。レッドはボールを投げ、一匹目のポケモンを出す。光がシルエットとなって、私より小さな黄色い姿が現れる。そこにいたのは、ピカチュウだった。首から、何やら黄色いかけらをぶら下げている。
「初めまして、ライ先輩。ピカって言います」
 私の知らないうちに、レッドも新しい手持ちを増やしていたようだ。ピカは私に挨拶をして、不敵な笑みを浮かべた。
「うん、初めまして。宜しく」
 私は笑った。頭の中で、戦いのゴングが鳴り響く。私は再び、全身を電気の力で満たす。
「ピカ、かげぶんしん!」
 レッドが指示を出す。ピカの姿が二重にぶれ、三重にぶれていく。その数は加速度的に増え、三百六十度を同じ姿に囲まれた。
「ボルテッカー!」
 全てのピカチュウが、私に向かって突撃してくる。なるほど、何処から来るか悟らせない戦法か。電気エネルギーをまとったピカチュウに、黄色い光が見える。
 何か様子がおかしい、と私は思った。たかだかピカチュウの身体で、ここまで強い電気を出せるものなのか? 全身に、悪い電流が走る。私はこうそくいどうを使った。感覚を研ぎ澄ませ、一時的に身体能力を強化する。近寄ってくるボルテッカーの輪を飛び越えた。勢い余って、草はらの上を転がった。
 影分身が消滅して、相手の姿は一つに戻る。ピカは振り返って、私とまた対峙する。
「どうしてこんな強い電気を出せるかと、疑問に思ってるみたいですね。これですよ、これ」
 ピカは胸の黄色いかけらを持った。
「でんきだま、って言って、ピカチュウの電気の力を増幅させる効果があるんですよ。これさえあれば、ライチュウの電撃にだって劣らない」
 ピカは自信満々に言う。
「起き上がる隙を与えるな、ピカ! 追いかけ続けろ!」
 はいよっ、と答えると、ピカは再び私に向かって突進してくる。
 ピカがどう思ってるかは知らないが、彼の動きは私からすればそんなに早くない。私は前方に、ひかりのかべを張った。オレンジ色した半透明の板が、私の目の前に現れる。
「ひかりのかべじゃ、僕の技は止まりませんよ!」
「知ってるよ」
 ひかりのかべは、水や火や電気の進行を妨げるが、物理技などの固体は一切貫通する。ボルテッカーは物理技だから、身を守るにはミスマッチだ。だが、私の狙いはそこにはない。
 ひかりのかべは、一瞬のうちに長い槍状に変化した。それを右手に巻きつけ、私はピカより速い速度で飛び込み、ひかりのかべの槍を強く振り抜く。
 ピカの身体に触れた瞬間、ドン、と雷が落ちたような重たい音がする。強い電撃を喰らわせた時に発生する音だ。
「が……ッ!」
 ピカの動きが、空中で止まった。そのまま勢いを失い、地面に倒れる。ピカの方を見なくても、感覚で分かる。戦闘不能だ。
「戻れ、ピカ」
 ボールをかざし、レッドがピカを戻す。私はもう一度、軽く光の槍を振った。
「……なるほどね。ひかりのかべは物体を貫通してエネルギーは貫通しない。だけど、エネルギー自体の伝導率は高い。だから、ひかりのかべに電気を流せば、相手の身体を貫いて身体の中から電撃を浴びせられる」
「そういうこと」
 レッドの言葉に、私は頷いた。どんなに電気に耐性があるポケモンでも、身体の中から攻撃されてはたまらない。
 それに、電気技は強力なもので無ければ空気を伝って行かず、多くの場合近距離で攻撃するしかない。
 ひかりのかべを操れば、電気の弱点を二つも克服できるのだ。
 胸を張って言える。これこそが、私のやりたかった戦法。自分の感じたように作り上げた、私だけのバトル。
「さぁ、次は誰を出してくるんだい?」
 私はレッドにひかりのかべの電気槍の矛先を向けた。

 カビゴンのゴンは相変わらずのんきに構えてのしかかってきたが、素早い動きでかわした。技は喰らわなかったものの、種族自慢の体力はすさまじく、槍を四回振るわねば倒せなかった。
 フシギバナのフッシーは厄介で、あらゆる植物を操って、近接を妨げてくる。一発入れるのに何度転んだか分からない。フッシーもその巨体によく似合う耐久力の持ち主で、植えつけられたやどりぎのたねに体力を奪われながら、三度目の槍でようやくギブアップしてくれた。
 カメックスのメックスには、苦労した。殻にこもって身体を守られると、槍が折れてしまった。全ての技を防ぐ技、まもる。何度も槍を生成し直し、攻撃するもまた槍の方が甲羅に負けてしまう。本当のところ、この技を連続で成功させるには相当な技量が要るらしい。二連続成功すればいい方だ。それなのにメックスは連続六回も成功させてしまった。
 攻撃しているのはこっちなのに、相性でも勝っているはずなのに、逆に追い詰められているような気分になるのはどうしてだろう。痺れてひっくり返ったメックスの姿を前にしながら、心の中に焦りが生まれる。
 今までレッドと戦ってきたトレーナーは、こういう思いを味わってきたのか。攻撃にも防御にも、一片の隙も見せないレッド。かつて出会ってきた対戦相手の強さの槍は、彼にちょっと動かれただけでことごとくへし折られていく。私も、今多くのトレーナーと同じ脅威を感じている。
 レッドは最初に言った。持てる手段を全部使う、と。彼は、手持ちの六匹を全部使うつもりなのだろう。ならば、これは根競べだ。心がくじけた方が負けなのだ。

 ラスト二匹。先に出たのは、リザードンのリザだった。
「よう、ライ。元気か」
「君達みんなタフすぎて、そろそろバテて来ちゃったかもねー」
 私はおどけて言ってみた。リザはふうとため息をつくように笑った。事実、そろそろ身体から電気を作るのが辛くなってきた。同じ威力で、せいぜいあと一、二回が限界だろう。私は深く息を吸い、乱れた呼吸を整える。全身から溢れんばかりの熱を感じる。冷たい空気と肺の熱気が混ざり合うのを感じる。
「飛べ、リザ!」
 レッドからの指示を受けると同時に、リザは羽ばたいて一気に空へと舞い上がった。
 槍状の武器を持っている以上、空中に逃げれば手出しできないと踏んだか。かみなりのような巨大な電気を扱う技を使えば、遠く離れた相手にも電撃を当てることは出来ただろう。だが、あいにく私はそういう技を持ち合わせてはいない。電気技は10まんボルト一本だ。
「だいもんじ!」
 レッドが空に向かって叫ぶ。リザは口から高音の炎を放ち、私の方へととんでもないスピードで迫ってくる。瞬きする一瞬の差、こうそくいどうで何とか直撃は避けた。だが、この技はこのままでは終わらない。地面に触れた瞬間、炎は五方向に広がるのだ。私はもう一度避けるが、転倒してしまう。起き上がってみたものの、炎の方は激しい熱に目を空けていられない。五方向に伸びた炎は未だに消える気配を見せない。私は空を見上げてリザの姿を探した。空中を大きく旋回している。
 もう一度攻撃される前に、こっちから攻めよう。
 私は右手から、ひかりのかべを糸のように細く、細く、生成した。ある程度のところまでは生成にとても神経を使うので、大きな隙が生まれてしまう。炎で自分の身体が隠れている今しかできないことだ。
 細い糸を自分の身長の半分ほどまで作ったところで、一気に生成は楽になる。人間の言葉で例えるなら、スピードの乗ってきた自転車だ。後は加速度的に伸びていく。
 このオレンジ色の光の糸は、完全に私の思い通りに動く。蛇のように伸縮自在の糸だ。
「行け!」
 小さく叫んだ掛け声と共に、糸が空へと伸び飛んでいく。リザの飛ぶ方向へ、一直線だ。
「リザ、何か来てる! 急降下しながらエアスラッシュ!」
 あともう少しのところで、レッドが叫ぶ。この糸の存在に初見で気付かれるなんて。今まで想定もしていなかったことに、軽いショックを覚える。すぐに気を取り直し、糸に集中する。
 リザは頭を地面に向けて、高度を強引に下げる。私は糸を操り、更に伸ばしながらリザの姿を追った。高度を充分下げたリザは私の姿を捉えたらしく、鋭い爪で空気を切り裂き、刃を放つ。
 糸を操るのは集中力を要するため、高速移動との併用は今の私には出来ない。かと言って、折角作った糸を解除する訳にはいかなかった。空気の刃が迫る中、私に閃きが生まれる。
 伸ばした糸は、今もなお空中に残り続けている。今まで伸ばした軌道が全て固定されているのだ。そして今リザは、最初に一直線に伸ばした糸の真下にいる。つまり、これ以上糸を伸ばす必要はない。
 私は、糸を全て下に落とした。その軌道上にいたリザに、糸が触れる。その瞬間、私は思いっきり糸に電流を流しこんだ。パァン、と弾ける音が響いて、くるくるとリザは地面に落ちていく。
 地面に触れる前に、レッドはリザをモンスターボールに戻した。戦闘不能だ。
「あと一匹」
 私は生成した糸をまとめて、再び槍の形に戻した。

 レッドは一切表情を変えなかった。まだ負けたとも、勝ったとも思ってはいない。そういう緊張感に溢れた顔をしていた。
 ずっとレッドの足元にまとわりついていたフィオーレが、ついに前に出る。
「フィオーレ。後は頼んだぜ」
 紫色のしなやかな体が、ゆったりとした動きで近づいてくる。
 ある程度の距離で、フィオーレは立ち止まって腰を下ろした。
 その距離は、公式試合のフィールドに描かれているモンスターボールの図形を思い出させる。

「さすがライ先輩、本当にお強いですねぇ」
「そういうの、いらないよ」
 フィオーレには申し訳ないけれど、ジョークに笑えるほどの余裕は無かった。フィオーレは普段のように飄々とした顔をして、私の方を見つめた。
 まっすぐに行こう。もう体力はあとわずか、次の一発に賭けるしかない。私の心が、信号を出す。
 息を吐いて、こうそくいどうを自分にかけた。二度その場で飛び跳ね、確かに感覚が研ぎ澄まされたのを感じる。そして三回目、私はフィオーレの方へと跳んだ。風を切り、フィオーレの方へと駆ける。疲れのせいか、彼女の姿を捉えようとしても大雑把なシルエットしか見えない。彼女の姿はその場から動かなかった。それだけを確認して、私は気にも留めなかった。
 自分の身長大に伸ばした槍を、思いっきりフィオーレに突き出す。
 しかし。槍はフィオーレの体をするっと通り抜けた。勢い余って足がもつれ、空中で天地がひっくり返る。一瞬、何が起こったか理解できなかった。
 電気の弾ける音と衝撃がない。電気が、流れていない!?
 フィオーレはその場から一歩も動かず、ただ胸を張って私の槍をただ受け入れていた。あたかも、攻撃は失敗すると知っていたかのように。
「今だ!」
 レッドの声が飛ぶ。いや、フィオーレの行動はそれよりも一歩早い。振り返って、紫色の目を光らせると、私の体は地面につくことなく、見えない大きな力で空に放り投げられる。無理やり加えられた加速度に体がついていかず、空気抵抗の洗礼を受けて自由を失う。
 視界は、虹色の光線が迫ってくるのを捉えた。しかし成す術無く、直撃してしまう。頭の中がぐるぐるとかき混ぜられて、脳が捻じ切れそうだ。ああ、目が回る。
 そして、自由落下。私は何の覚悟も出来ないままに、地面に叩き付けられた。ぐえっ、と今まであげたこともないような声が漏れる。
 あぁ、もう力が入らないや。ゆっくりと大の字になって、空を見上げた。形の崩れそうな綿雲が、目に見える速さで流れていく。
 戦闘不能。私の、負けだ。

 そのうち、レッドとフィオーレが駆けてくる。
「大丈夫ですか」
 心配そうにフィオーレが尋ねる。
「全身がすごく痛いや。やりすぎだよフィオーレ」
 私は文句のように言葉を投げた。
 だが、納得いくまで身体を動かせたせいか、やりたいことを全てやりきれたせいか、私の心は妙に満ち足りていた。
「ポケモンセンターまで連れてくよ。立てるか」
 レッドが手を伸ばす。にっ、と口を上げて笑った。彼がこんな顔をするのも珍しい。何となく、昔より表情が豊かになっている気がした。私は右手を伸ばす。茶色い手はがっしりと掴まれて、力強く引き上げられた。


 5

 最寄りのポケモンセンターに着くまでに、途中何度も休憩を取った。川の水を飲んで、歩ける程度には回復した。リザもげんきのかけらで体力を戻してもらったものの、本調子ではなさそうだ。空に橙と青が混ざる頃、ようやく辿り着いた。
 レッドはモンスターボールを六個、トレーに乗せてカウンターに持っていく。
「お願いします」
「かしこまりました。そちらのライチュウはどうなさいますか? 随分疲れてるみたいですが」
 受付がレッドはこっちを向いて、聞いてくる。ポケモンの体調を一発で見抜くのは、プロなんだろうなぁとぼんやり考えた。
「どうする?」
 私は首を振った。レッドに会えた今日だからこそ、話したいことがたくさんある。治療に当てるのは勿体ない気がした。
「構わないみたいです。こいつと会うの、凄く久しぶりなんですよ」
 レッドはそう伝えた。
「かしこまりました、それでは、こちらのモンスターボールだけお預かりしますね」
 そう言って、受付はトレーを持って裏手へと戻っていった。

「これ、飲むか」
 レッドが、ミックスオレの缶を私に差し出した。私の好きな味だ。両手で受け取ると、ひんやりとした鉄の感触が懐かしい。飲むのは随分久しぶりになる。
 ラウンジのベンチに腰掛けて、私とレッドは並んでいた。レッドは手に持っている缶コーヒーのふたを開ける。私も、歯を上手に使ってプルタブを空ける。かこっ、という音を聞くと、何だか彼と一緒に旅をしていた時のことを思い出す。
「やっぱりおいしいなぁ、これ」
 オレンジ色した甘いミルクの味が、口の中に広がる。タマムシシティの屋上で飲んで以来のお気に入りで、自販機を見つける度に同じものが売っていないかと期待していた。ポケモンセンター内ではよく見かけるが、道中では殆ど見ないということに気付いて、私はポケモンセンターに着くたびにレッドにせがんでいた。激しいバトルの後なら、必ず買ってくれた。
 しばらくの後、レッドはぼそりと呟いた。
「強くなったな、ライ」
 私はレッドの顔を見たが、レッドの視線は前のままで、その続きを話す。
「ひかりのかべと10まんボルトの複合技。それに、こうそくいどうによる身体強化。面白い戦い方を考えたな。俺じゃ絶対思いつかないし、仮に思いついたとしてもあそこまで完成度の高い技にはならなかっただろうなぁ」
 レッドは素直に感心しているようだった。私を見て、目を輝かせていた。でしょ、と私は胸を張る。
「でも、負けちゃったけどね」
 と付け加えて、苦笑する。
「そうだな。弱点はまだまだ沢山あるだろう」
 彼は私の言葉をくそまじめに解釈した。私がふてくされないうちに、レッドは続けた。
「今回俺が弱点だと思ったのは、回数制限だな」
 そう言われて、フィオーレに技が決まらなかった時のことを思い出す。そういえば。
「最後、フィオーレとバトルした時、私の技が上手く決まらないって分かってたの?」
 私自身、電気を放てるかどうか分からなかったと言うのに。私の疑問に、レッドは答える。
「普段バトルって長丁場になるものじゃないからあまり気にならないんだけど、ポケモンの技には使える回数に限度がある。10まんボルトの攻撃回数はどのポケモンも十五回までなんだよ」
「そうなの!?」
「逆に言えば、自分の電気の力を十五等分するようなパワーで打つのが10まんボルトって言う技なわけ。本人の意識に関係なく、ね」
 私は驚きを隠せなかった。それは初耳だった。六連戦なんて初めてのことで、今まで気にも留めたことのないことだった。
 それで、守りを中心にした戦いをしていたのか。私に技をたくさん発動させる為に。
「まさか、フィオーレと戦う時に十五回になるように調節してた訳じゃ……?」
「それは流石に、まさかだよ」
 私の疑いに、レッドは笑った。
「でも、技のエネルギーが消費された回数はしっかりカウントしていた。出来る限り早く技を十五回出させるようにはしたけれど、思ったよりお前の電撃が強かったから、全部使い切らせるのに五匹もかかった。正直間に合わないんじゃないかと、ヒヤヒヤしたよ」
 それでも、レッドは強い。彼の戦略は難攻不落だと言う事を、相手にしてみて初めて実感した。

「そう言えば、レッド。ポケモンリーグはどうなったの」
 私はふと思い立って、三年前のことを聞いてみた。私は準決勝前日に逃げ出したから、結末を知らない。あぁ、と思い出したようにレッドは言う。
「準決勝で負けたよ。ドラゴン使いのワタルって奴に。ドラゴンタイプのポケモンの強さはケタ違いだったな。お前無しじゃ歯が立たない相手だった。打つ手なしさ」
 レッドは肩をすくめた。
「あの時はライがいなくなったことがショックで、三位決定戦にも全く身が入らなかった。それも負けてしまったよ」
 そう言って、コーヒーをすする。
「で、そのワタルをグリーンが倒して、グリーンがチャンピオンになった。でも、あいつはやりたいことが他にあるからってチャンピオンの座をワタルに譲ったのさ。それから三年間、ワタルがチャンピオンの座を守り続けているらしい」
 グリーンとは、レッドと同時期に旅に出たライバルだ。道中たまに勝負をしかけてきて、一度も私達に勝つことはなかったが、彼の中にはただならぬ強さを感じた覚えがある。話を聞いて、私は納得した。
「それで、レッドは三年間何してたの?」
「殆どシロガネ山に籠って修業してたな。俺のトレーナーとしてのやり方は、本当に正しかったのかが分からなくなって、さ」
 少し俯いた様子で、レッドは語る。レッドの戦いは、緻密に戦略を組み、それをポケモン達が忠実に実行するやり方だ。
「本当はもっと、ポケモン達に判断を任せるべきじゃないのか。その方が、よっぽど楽に戦えるんじゃないのか。そう思い始めたら、止まらなくなった」
 レッドの迷いの原因は、間違いなく私にあるのだろう。確かに、彼のやり方が気に入らなかったのは事実だった。でも、立場のせいだろうか、今ならあの戦い方を認められる気がしていた。それだけに、話を聞いているととても後ろめたい気持ちになった。
「俺は新しく、ピカとフィオーレを育てた。自由な発想を持って育ったポケモンが、バトルでどんな風に活躍してくれるのか。ピカは、あまり柔軟なタイプじゃなかったから途中で今までのやり方に戻したけど、フィオーレはまさに自由な発想をしたがるタイプだった。俺が指示を出さなくても、何をすればいいかは直感で分かってしまうらしい。だからこいつに関しては、具体的な指示をせずに自分で考えてもらうスタイルを取らせた」
 そう言えば私と戦った時も、レッドが出した指示はたった一言、「今だ!」だけだった。
「それでも十分、フィオーレは強かった。その時初めて分かったんだよ。そう言う奴もいるってこと」
 レッドは私を見て微笑んだ。私は思わず、目を逸らしてしまう。

「それから、結局俺はお前抜きだと何にもならない、ただのトレーナーだと言うことを思い知らされたよ。カントーとジョウトのバッジを全部集めたっていう男の子が来て、俺と勝負したんだけどさ、俺より年下なのに、かなり強くてな。ギリギリ、ラスト一匹の差で負けてしまった」
「うそ!?」
 私は思わず叫んでしまった。ポケモンリーグのことならともかく、レッドが普通のトレーナーに負けるところが、いまひとつ想像出来ない。私からすれば、彼は非の打ちどころのない完璧なトレーナーなのだ。一体どんな男なのだろうか。私は想像したが、レッドと似たような姿しかイメージ出来なかった。
「お前をもう一度探そうと思ったのは、それからだ。ふと、お前ともう一度会いたいと思って、フィオーレに探させた」
「そうだったんだ」
 私は言った。ずっと一直線に進んできた彼を、私のわがまま勝手で迷わせ、ひどく傷つけてしまった。そう思うと、胸が痛い。
 会話はここで途切れ、知らない人達の絶え間ない話し声が混ざって流れるだけになった。
 その時、私は自分の気持ちをはっきり自覚した。私はレッドのことを好きとか嫌いとかいう言葉で語れないほど尊敬しているということ。そして、レッドに対する怒りが、実は私自身への怒りだったということ。

「ねぇ」
 周囲の雑音の中、私は改まった。とても恥ずかしいけれど、言わなければいけないことがある。
「何」
「勝手に逃げ出して、ごめん」
 私は、言葉を噛みしめるように言った。
 言わなければ、いつまでもレッドに対して怒りを抱き、自分自身を許せないままになってしまうことが分かっていたから。きっとこれが、旅の途中で感じていた閉塞感の正体だろう。どんなに忘れようとしても、心の奥底で後ろめたさは消えていなかったのだ。
 一体、レッドに何を言われるのだろうか。どんな罵声だろうと、私は構わなかった。
 だけど、レッドの言葉はそうではなかった。親指を唇に当て、恥ずかしそうにしながら、
「俺の方こそ、悪かったな」
 と言った。
「お前がどれだけあのバトルをやりたかったか、今日手合わせして良く分かったよ。あの時、一度でもお前に任せたらよかった……いや」
 レッドは言葉を切って、少し考え込んだ。
「きっと、あれは俺の手を離れる時だったんだ」
 その言葉に、後ろめたさは全くない。そうかもしれない、と私は思った。きっと、一度試したところで私は満足しなかっただろう。もっとやりたい、という欲を募らせて、同じことを繰り返していただろう。
 彼の手を離れて自立することが、私には必要だったんだ。
「これでよかったんだよ。これで」
 彼は笑った。心の深い奥底にある栓が、ぽんと音を立てて抜けた。感情の流れが、一気に溢れ出しそうになる。私は俯いて、それを必死にこらえた。さすがにみっともなくて、レッドには見せられない。
「これで、よかったのかな」
「あぁ」
 レッドは頷いた。多分、私の声は震えていたかもしれない。だけど、レッドは見逃してくれた。
 ミックスオレの最後の一口は、特別甘い味がした。


 次の日の朝。ポケモンセンターで一泊し、出発の準備を整えて建物を出た。レッドはバッグからポロックケースを取り出して、お前にはこれが必要なんだろう、と大きな布に包んで渡してくれた。
「そう言えば、ライ、お前はこれからどうするんだ?」
 レッドは尋ねた。目的地は、決まっている。
「最近知ったんだけど、ハナダの洞窟ってところに強いポケモンがいっぱい住んでるって聞いてさ。そこで力を試そうと思う。レッドは?」
「俺は、そうだな……いっそこの地方を離れようかと思ってる。今行こうと思ってるのはシンオウ地方だな。そこで、イチからトレーナーとしてやり直す。今の手持ちも全部預けて、全く新しい仲間と一緒に旅をしたい」
 それを語るレッドの目は、輝いていた。朝日のせいかもしれない。そうだ、と、私の中に一つ閃きが生まれる。
「全部預けるんだったらさ、フィオーレを貸してよ」
「フィオーレを?」
 レッドは聞き返した。私はゆっくりと頷く。
「うん。一人旅ってのも何だかさびしくってね。それに、いざって時は頼りになるかもしれないし。それに」
 言葉を切って、レッドを見上げ、いたずらっぽく笑う。
「いつかまた、あんたと勝負したいから。テレパシーで居場所が分かるんなら、いつでも会いにこれるでしょ」
 レッドは少し驚きの表情を見せたあと、ぷっ、と噴き出し、大きく笑った。私もつられて、笑い声を上げた。
「それもそうだな! よし分かった。こんな奴で良かったら、連れていけ」
 レッドはボールからフィオーレを出した。大きく伸びをする。
「フィオーレ。ライと一緒に旅をしろ」
 フィオーレは急に言われた言葉に驚いた様子で、えぇ!? と言葉を漏らした。
「今までずっとついて来たんだから、今更文句言うことでもないでしょ」
 と私は語気を強めて言ってみる。
「分かりましたよう、お供しますとも」
 呆れたようにフィオーレは言った。そんな彼女を見て、私とレッドは笑っていた。

 旅の途中なのに、何だか新しく旅を始めるような気分だ。お互い、それほど急ぎの用事ではない。気楽なものだ。
 レッドはリザをボールから出した。
「送って行こうか」
 レッドは聞く。私は首を振って答える。
「いいよ。自分の足で歩きたいんだ」
「そうか」
 レッドは言った。リザの背中に乗って、リザに羽ばたきを指示する。
「それじゃ、またね」
 私が言うと、レッドは歯を見せて笑った。
「次会う時は、三体だけでお前を倒す」
 言ったことは本当に実現してしまいそうなのが、この男の怖いところだ。
「……やってみなよ」
 私はレッドと同じ顔をしてみせた。
 リザが一気に上空へと浮かび上がっていく。そして、青空の中へとゆっくりと消えていった。
 旅の先にはレッドがいる。その先にも、きっとたくさんの強者がいる。
 私は、まだまだ強くなりたい。いつかまた会うその日まで、光の槍を折る訳にはいかないのだ。
 
> 飛び出す○○○と地を逝く××× 作:dodo
飛び出す○○○と地を逝く××× 作:dodo
―*―47―*―


 アカ・ダイダイ・キ

 様々な、色が彼女を照らす。
いや、その色は実際に彼女を照らしているわけではない。その色は、この街の様々な店の看板を目立たせる為に輝くネオンの色だ。
 しかし、彼女の目から見ればまるで自分が立つ無骨なビルの屋上をライトアップしているかのようだった。

 ビルの安全のために設けられている柵を超え、天井と空との境に足を置く。
下を見れば、大きな通りにポツポツとまばらな黒い点がゆっくりと左右を行きかっていた。
夜分遅いためだろう、人はあまり居ないようだ。
 あまり人の迷惑にかけたくなかった彼女にとってはうってつけの時だった。

 両手を広げ、彼女はそのまま倒れこんだ。

 自由落下の気持ち悪さよりも、一瞬感じた激痛よりも、自身の長髪が風に煽られて体をはたくむずがゆさがなによりも絶えがたかった―――


―*―48―*―


 キ・ミドリ・アオ

 様々な、色が彼女を照らす。
いや、その色は実際に彼女を照らしているわけではない。その色は、この街の様々な店の看板を目立たせる為に輝くネオンの色だ。
 しかし、彼女の目から見ればまるで自分が立つ無骨なビルの屋上をライトアップしているかのようだった。

 ビルの安全のために設けられている柵を超え、天井と空との境に足を置く。
 下を見れば、大きな通りに様々な色と模様の傘がゆっくりと左右を行きかっていた。
今日が雨のせいだろう、通りがいつもより華やかに見えた。
最期を派手に決めたかった彼女にとってはうってつけの時だった。

 両手を頭の上でピッタリと合わせ、彼女はそのまま入水した。

 自由落下の気持ち悪さよりも、ぬれた長髪が肌に張り付く気持ち悪さよりも、雨粒を追い抜いていくほどの速度が、絶えられなかった。


―*―49―*―


 アオ・アイ・ムラサキ

 様々な、色が彼女を照らす。
いや、その色は実際に彼女を照らしているわけではない。その色は、この街の様々な店の看板を目立たせる為に輝くネオンの色だ。
 しかし、彼女の目から見ればまるで自分が立つ無骨なビルの屋上をライトアップしているかのようだった。

 ビルの安全のために設けられている柵を超え、天井と空との境に足を置く。
 下を見れば、大きな通りに黒い斑点がフラフラと左右を行きかっていた。
今日が風邪の強い日のためだろう、風に飛ばされないと必死になる人々が滑稽に見えた。
最期に笑いたかった彼女にとってはうってつけの時だった。

 両手を腰にピッタリと合わせ、彼女はそのまま宙に舞った。

 自由落下の気持ち悪さよりも、風にあおられてグルグルと回される気持ち悪さよりも、落ちていく彼女を誰かが見つけて叫んだ声が耳につくのが、絶えられなかった。


―*―50―*―


 アカ・ダイダイ・キ・ミドリ・アオ・アイイロ・ムラサキ

 彼女の上に、七つの色がありありと表されている。
本日は、快晴。雲ひとつなく、風もまったくといって良いほどなかった。
 ビルの安全のために設けられている柵を超え、天井と空との境に足を置いた彼女は目の前の景色に圧倒され、ふと思い返した。

 この光景を見たのは何度目だろうか?

 初めて見るはずの光景なのに、何故か何度も見たこともあるような奇妙な感覚が彼女の胸からあふれ始めた。

 姿勢を正す前にもう一度、通りを見る。『いつも』と変わらない通り、大きな道の割に人通りの少ないのが特徴な通りだった。

 がさりと、顔に新聞紙が被さってきた。鬱陶しくまとわりつくソレを引き剥がすと一面に書かれた記事が目に飛び込んできた。

『××市に住む、女性 飛び降り自殺。増える自殺、何故?』

 と、大きく取り上げられていた。
よく見ると、そこに彼女の名前があった……たった今、死のうとしている自分の名前。

それを見た瞬間、彼女は全てを理解した。

 そうかと、息を呑んだ。

「私はもう、死んでいるんだ……」

 そう認めた瞬間、彼女は体が軽くなるのを感じた。
それまで、地面に縛られていたのではないかという錯覚にすら覚えた。

 両の手を胸の前でだらりと力なくたらし、彼女は空を飛んだ。

地縛霊としてではなく、浮遊霊としての彼女の死が 新たに 始まった のであった。




                                      続く
 
> クソ親父 作:クーウィ
クソ親父 作:クーウィ
 荒涼とした瓦礫の山が、見渡す限り続いている。
 吹きそよぐ風は不快な湿気と鼻を突く悪臭を帯びて清涼感などまるで無く、深夜の空に浮かぶ月は殆ど欠ける所なく満ちていたが、反ってそれ故に、何も残っていない地上の有様を余す所無く浮かび上がらせる事となり、その惨状を無情なまでに強調していた。

 僅か半月ほど前には数十万人が生活し、国内でも指折りの大都市だったこの町も、今では死体と残骸が堆(うずたか)く、嘆きと無気力に支配された、ただの広大な廃墟に過ぎない。
 首都近郊を襲った、未曾有の巨大地震。幾万とも知れぬ犠牲者を出し、カントー地方全域に被害が及んだこの大災害によって、住み慣れた故郷はあっと言う間に廃材の陳列場所に成り下がり、見知った顔の大半はその中に埋もれて、二度と姿を見る事は無かった。

 しかし、敢えて正直な感想を言えば、赤の他人が何人死んだ所で、俺自身にはそう深刻な問題にはならなかったに違いない。……確かに身近な人間を失うのは辛かったが、それ以外に関しては所詮は他人事であり、苦悩や悲しみがしつこく心を掻き乱す事など、御世辞にも慈しみ深い性格とは言えない俺には、到底有り得なかったからだ。
 その日から何十年も経った後に、ある人物が一つの言葉を残している。『一人の死は悲劇でも、集団の死は統計上の数字に過ぎない』と言うものだ。同じ男は、『百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない』とも口にしたらしいが、こちらはこの時の惨状には相応しく無かろう。……厳密には、元の言葉の意味するところも若干違うのだが、少なくともこの頃の俺の考え方を表現するには、これで十分である。

 はっきりしていたのは、その時の俺には関係の無い連中を悼むような気持ちは全く無かったと言う事と、それにも拘らず、俺はただただ絶望に打ちひしがれて、何の希望も喜びも見出せないままに、死に場所を探してふら付いていたと言う事だけだった。


 赤の他人がどうなろうと、俺には知ったこっちゃ無い。……だが、家族や友人の全てが其処に含まれているとなれば、話は根本的に異なって来る。

 俺の家族は、一人残らず震災で全滅した。別れ際最後に聞いたのは、親父の「先に行け」と言う叫び声。倒壊した我が家の前で、親父とお袋は中に取り残されている筈の祖母を何とか助け出そうと死力を尽くしており、町内会に伝令にやられた俺だけが、まだ収まらぬ余震の中、こけつまろびつその場を離れた。
 丁度昼餉の時刻だったと気が付いたのは、それから少し後。予め決められていた避難場所まで後半町ぐらいの所までやって来た頃、キナ臭い臭いに気が付いて、元来た方角を振り返った直後であった。
 息を切らせた俺の目の内に飛び込んで来たのは、折からの風に巻かれて空を圧している夥しい黒煙と、其処かしこから押し寄せてくる火災の波が、必死に逃げてくる避難民達を、情け容赦無く追い立てている光景だった。
 最早、走って来た道程は渦を巻く紅蓮の炎によって遮断されてしまっており、血相を変えて逃げ惑う無数の人間達や獣達の向こう側には、烈風に煽られて燃え盛る火炎地獄が、延々と広がっているばかりである。慌てて背を向け、周りの人込みを掻き分けるようにして逃げ始めた俺には、残して来た家族の安否について、『何とか無事に逃げたであろう』と、自分に言い聞かせるぐらいの事しか出来なかった。

 本来ならば炎に強い筈の獣達ですら、全く踏み止まろうともしなかったほどの大火災。
 その追求を何とか振り切り、漸く安全と思われる場所まで辿り着いた時には、もう周りに家並みは残っておらず、俺は憔悴し切った大勢の避難民達の群れに紛れて、尚も燃え続ける市街地からずっと離れた場所で、放心したように立ち尽くし、黒煙に覆われる空を見上げていた。
 やがて夜が訪れると、空を覆った煙の海は何時しか雲を呼び、乾き切っていた大気に湿り気を齎して、翌日の昼頃を境に、被災地周辺に於いて局地的な雨を降らせ始める。

 降り注ぐ雨水に力を得た水タイプのポケモン達が、この天の配剤に俄然勢いを取り戻す中――漸くこの頃になって、情勢への危機感が動転した恐怖心に勝り始めた俺達は、これらの水生生物達を中心に据えた幾つかのグループに分かれて、未だに火勢の衰えない町の方角に向け、三々五々に引き返して行く。
 雨によって得られた豊富な水気を武器に、遠巻きに消火活動に当たる獣達を上手く用い、俺達生き残りの住民は、既に殆どの建物が倒壊している自分達の町を、どうにか完全な焼失からは、守り通す事に成功した。

 ……しかし結局、俺がずっと祈り続けて来た家族との再会が、望まれた形で実現する事は無かった。


 鎮火してからずっと捜し続けていた家族の変わり果てた姿と、焼け焦げた路上で再会したのが、二日前の事。……その時既に、俺は疲れ切っていた。
 復興は、後から振り返って見れば急ピッチで進められたものの、その頃はまだ何も始まってなかったと言っても良く、焼け跡で元住民や連れているポケモン達が細々と作業している他には、再建への動きは全く見られぬままであった。
 倒壊した家は完全に焼き尽くされてしまっており、そこにあった筈の物は最早跡形も無い。当時の風向きと火災発生箇所が悪かった為、近所の知り合いも軒並み全滅してしまっていて、行き場も拠り所も失ってしまっていた俺には、頼るものなど何一つ残っていなかった。

 辛うじて焼け跡を巡りつつ、口に入るものは何でも拾い集めて凌いで来たものの、しつこく捨て切れなかった最後の希望も絶えた今では、それも馬鹿馬鹿しいだけである。
 最早息をし、視線を巡らす事にすら徒労感を覚えるようになっていた俺は、焼け跡から拾った焼き入れの過ぎた文化包丁を懐に呑んで、人気の無い深夜の廃墟をただ当ても無く、体一つでふら付いていた。
 瓦礫に紛れて転がっている幾多の屍は、日が経つにつれて腐敗の速度を速め、食う物も無く流離う一部の獣達は、止む無くそれを口にする事で飢えをしのぐ。死骸を貪り歪んだ味を覚えた獣達は目立って凶暴化しており、人の姿を見ると積極的に襲い掛かって来るので、最近では大の男ですら夜歩きが出来ない有様だった。

 彼らに目を付けられて、食い殺されるも良し。同じ様に焼け跡をうろついている、略奪目当ての同族に狙われるも良し。
 その時の俺の頭の内にあったのは、兎に角この下らない死に損ないが、無事にこれ以上の面倒事から解放される瞬間を、冀(こいねが)う思いだけであった。


 ところが、そう言う無情な思いを抱き、重い足を引きずりつつ歩き回っているにも拘らず、その夜に限って、俺は誰にも巡り会う事が無かった。
 今までは意識して警戒し、身を隠す意思があったが故に何事も無かったものの、それでも歓迎せざる客人の姿を目にする事は、少なからずあった。……にも拘らず、よりにもよって此方から待ち望んでいる時に限って、何も出て来ないのである。
 やがて月と星とが広い夜空を散策し終え、西の空へと引き上げ始める時刻になっても、未だ俺の身には、何の危険も及ぶ気配は無かった。

 そしてとうとう、皮肉に満ちた目下の状況に対し、苛立ちを隠せなくなっていた俺の前に、一人の同族が現れた。
 前方の焼け焦げたレンガの山の陰から出てきたその人物は、俺の姿を見るなり立ち止まると、風呂敷包みをぶら下げた片手をダラリと垂らして、訝しげな誰何の声を上げる。
「そこに居るのは誰か」、と訊ねかけてくるその声の調子に失望を覚えつつ、明らかに待ち望んでいたタイプの連中とは異なる目の前の男に対し、ぞんざいに返事を返した俺は、そのまま顔を顰めて前進し、脇をすり抜ようとした。

 するとそいつは、ずっとヒトの顔を興味深げに覗き込んで来た挙句、いきなりすれ違おうとした俺の腕を掴んで、「良かったら付き合わんか」と声を掛けて来た。
 咄嗟の事に唖然としたまま、改めて相手の人相を確認しようとする俺を尻目に、そいつは捉まえた相手の返事も聞かぬまま、「急ぐぞ!」と抜かして走り出す。……意図も目的も全く理解出来ないその男は、見たところ五十も近いかと思われる中年オヤジの風貌をしているにも拘らず、片手に掴んだ俺の手を軽々と引いて、飛ぶように駆けた。
 年齢を感じさせない足取りで駆け走る相手の足取りに何とか合わせつつ、俺は戸惑いの声に続いて抗議の意を伝えたが、その男は全く聞く耳持たずに、瓦礫が山を為す廃墟の海を縫うようにして、俺を引き回すのを止めようとしない。……無理矢理にでも振り切ると言う選択肢が浮かんで来なかったのは、長らくまともな物を口にしていなかったお陰で、若くて体力に余裕がある筈の俺の方が、この年齢離れした健脚を誇る元気オヤジに、逆に圧倒されてしまっていた為だ。


 やがて、漸くそいつが足を止めた時。その時にはもう既に、辺りは薄っすらと明るくなり始めており、俯いて荒い息を吐く俺の目にも、足元に生えている雑草一株一株の葉の本数が、鮮明に見分けられるぐらいになっていた。
 そして、一頻り息を切らせた後、顔を上げて周りの状況を確認した俺は、今自分が立っている場所を把握して、暫し言葉を失ったまま立ち尽くす。
 そこは、この町で一番の高所――町のシンボルとも言える広大な港の様子を一望出来る、市街の中心にある小高い丘の頂上であった。
 一方隣に立っているオヤジの方はと言うと、あの激しい疾走も小憎らしいまでに堪えておらず、いそいそと風呂敷包みを解き始めると、中から取り出した紙の包みを、俺に向けて突き出して来る。何かを思考する前に、無意識の内に受け取ったその包みの中からは、得も言われぬ様な美味そうな匂いが立ち昇って来て、ずっとろくに食べていなかった俺の鼻腔を、これ以上無いまでに刺激し、擽って来た。

「座れよ。もう直ぐ夜が明けるから。 此処から見る日の出は実にいいぞ! 此処で朝飯を食うのが、私の一番の楽しみなんだ」

 自らも早々に座り込んで、握り飯の入った包みを開けながら、そいつは立ち尽くしている俺の顔を見て、人の良さそうな笑みを浮かべる。更に言うが早いが、彼は包みの中から沢庵漬けを一枚摘み上げて、朝日が昇ってくるのを待つ事無く、パクリと口に放り込んで咀嚼し始めた。
 

 ……しかし、相手のそんな様子を目にしたその直後――俺の意識を支配したのは、久しぶりにありついた食料への喜びでも、話し掛けて来る相手の心遣いや親切心への感謝の念でもなく、どす黒く湧き上がって来た、憎悪に満ち溢れた怒りの感情だけであった。
 それはある意味、当然だっただろう。何せ俺は、直前まで人生に絶望して、ワザワザ死ぬ為だけに疲れ切った体を引きずり、悪臭漂う夜の町を、休息も取らずに彷徨い歩いていたのである。
 それがいきなり、見ず知らずの相手に訳も分からぬまま引きずり回され、挙句にこんな辺鄙な場所で、時候も弁えない能天気な誘いを、さも嬉しそうな顔で告げられているのである。……これが果たして、怒らずにいられようか?

「何抜かしてやがる、このクソ野郎! 他人様の気も知らずによ!!」

 自分でも驚くほどに、その時の罵りには悪意が篭っていた。……後から思い返して見ても、あの時自分が抱いていた憤懣や憎悪の強さは理解し切れる様なレベルではなかったし、その感情の激しさは、今から思い返してみてもゾッとする他に無い。
 はっきりしているのは、漸く捌け口を見つけた自分の心が、溜まっていた鬱憤と怨嗟の全てを、対象に向けてぶつけようとしたと言う事だ。

「折角ヒトが楽になろうと思ってたってのに、下らねぇ道楽で邪魔しやがって! 世の中皆があんた見たいにお気楽な御身分でいられる訳が無い事ぐらい、この有様を一目見りゃ分かるだろうが!?」

 目の前のクソ親父に向けて、俺は今までの鬱憤の全てをぶちまけるかのように、声を涸らして喚き散らした。
「てめぇに俺の気持ちが分かるってのか!?」、から始まったそれは、死ぬ事を邪魔された事実に対する怒りから、現状にそぐわない相手のその慎みに欠けた行いに対する批判に飛び火し、やがては被害者としての心理を声高に叫ぶと共に、目の前の相手の人間性自体を否定すると言う、極めて攻撃的な論理に発展していく。
 その内自分が、まだ手に渡された握り飯を掴んだままの状態である事に思い当たると、俺は尚も口調を緩めぬままに、足元の地面に向けて、それを力一杯に叩き付ける。……しかしそれでも、そいつは顔色一つ変えないままで、まくし立ておらび立てる俺の顔を、黙って見詰めているばかりであった。


 やがて俺が喚き疲れて口を閉じ、一旦息を吐いた所で、漸く目の前の男は手に持っていたものを脇に置いて立ち上がると、俺を真っ直ぐに見返しつつ、穏やかな口調でこう呟いた。

「なら、今から死になさい」

 一瞬その台詞の内容に固まった俺は、次の瞬間相手に後ろ手を取られ、背中をぐいぐいと押されるようにして、近くに口を開いている、土砂崩れの爪痕に向けて連れて行かれる。地震によって大きく崩れたその場所は、ずっと下の方まで険しい斜面が続いており、切り立った崖の様な様相を呈していた。
 思いがけない展開に焦り、必死に抵抗する俺の怒鳴り声も物ともせずに、相手は手馴れた物腰で俺をその端にまで誘導すると、間髪を入れず突き放すようにして、俺の体を崖下に向け放り出す。
 体が平衡を失った瞬間、俺は恐怖の叫び声を上げると共に目を瞑り、気が付けば一瞬の後に後ろから体を支えてくれた存在に、全身を使って抱きついていた。

「やっぱり、まだ死にたくは無いんじゃないのか?」

 身を乗り出して俺の体を支えてくれたオッサンは、へばり付いている俺の情け無い姿にも全く頓着せずに、寸分変わらぬ穏やかな声音で、そう口にした。
 そんな彼の言葉に、俺は最早何も言い返す事が出来ず、すっかり意地気の無くなった情け無い表情で、引っ張り上げてくれる相手の腕に、素直に身を委ねる。
 そのまま元居た場所まで俺を引っ張って行った彼は、先ほど座っていた場所に再びどっかりと胡坐を掻くと、「どうにか間に合ったみたいだ」と呟いて、此方の方へと笑みを向ける。「兎に角座りなさい」と重ねて口にするオッサンの言葉に、俺が渋々ながらも応じたところで、夜が明けた。

 遠くに見える東の海の水平線の辺りから、新しい一日の到来を告げる一抹の光が、しぶとく残る夜の影を切り裂いて、俺達の目に飛び込んで来る。
 それは、眼下に広がる荒涼とした廃墟を明確に浮かび上がらせつつも、つい先ほどまで世界を支配していた月の光とは違って、其処に蟠り続けていた溶けきれぬ闇を、冷たい夜気と共に洗い流し、拭い去って行く。
 時が経つにつれ輝きを増す曙光を浴びつつ、静かにその様を眺めていた俺は、ふと隣に視線を向けて、自分を此処に連れて来た男の顔を、複雑な思いで見詰める。……目を細めて握り飯に齧り付く、クソ親父の髭を豊富に蓄えた頬が、差し込める朝日で金色に輝くのを見詰めながら、俺は柔らかな温かさに包まれつつ、今自らも同じ様な色に染まって見えているのであろう事を、ボンヤリと頭の中に思い描いた。
 不意に相手の顔が此方に向けられたのを受け、慌てて視線を逸らす俺に対し、彼は地面に落ちて拉(ひしゃ)げている紙包みを指差して、「まぁ食べて見ろ」と重ねて誘う。「何なら俺のと代えてやってもいいぞ?」と付け加える相手の言葉を無視し続ける事も出来ず、仕方無しに俺は手を伸ばして、その包みを拾い上げた。

 と、すると其処へ、視界の端に見える茂みを割って、一匹の子犬ポケモンが、フラフラと姿を現した。
 どうやら食べ物の匂いに誘われて来たらしいそいつは、相当腹を空かせている様であり、両の瞳は飢えている者に特有の、どんよりとした曇りを帯びている。……しかしその一方で、余程人に慣れているものと見え、それほどまでに追い詰められているにも拘らず、此方を見詰めるその目付きには、敵意の様なものは欠片ほども無い。

「また客が増えたな」と口にしたオッサンは、次いで俺に向け視線を戻すと、俺が手にしている紙包みに目をやりつつ、「食べないのならあいつに分けてやったらどうだ」と、二個目のむすびを取り出しながら言う。
 それを聞いた子犬ポケモンの表情の変化と、保持しているだけでいっかな食べようとしない後ろめたさとが相まった事もあり、俺は改めて手に持った紙包みを開けると、中に並んでいた三個の握り飯の内一個を取って、じっと此方を見詰めているガーディに対し、空いた片手で手招きしてみせた。
 パッと目を輝かせると同時に、千切れんばかりに尻尾を振りつつ殺到して来たそいつに対し、手に持ったそれを少し離れた雑草の群落の上に乗っかるように投げてやると、赤い子犬はあっという間にそれに飛びついて、咳き込む様な勢いで食べてしまう。あっという間に食べ尽くし、舌を名残惜しそうにペロペロやっているガーディに向け、更にもう一つを投げてやろうと手に取ったところで、俺の視線は指先に掴んだそれに対して、束の間の間釘付けになった。
 表面に荒々しく味噌が塗られ、軽く炙られた焼きむすび。……漂ってくる香ばしい香りに、自分が如何に空腹であるかを、改めて思い出したのだった。

 しかし一度素振りを見せたものを、今更引っ込めるわけには行かない。期待して尻尾を振っている子犬ポケモンの手前もあるし、先ほどまでずっと意地を張り続けていた、自分自身へのプライドもある。
 結局矜持が逡巡に勝利を収め、痩せ我慢が手の内にあるものを送り出す決意をしたところで、傍らに座っていたクソ親父が、『クックッ……』と笑いながら声をかけて来た。

「大したものだな。お前はいい『親』になれるだろうよ」

 感心半分からかい半分と言った感じのその言葉に反発しつつ、無言で相手を睨み付けた俺は、今度こそ自分で消費するべく、最後に残った焼きむすびと、三枚の沢庵漬けが入った紙の包みに視線を落とした。
 先に沢庵漬けに手を伸ばすと、苛立ちを込めてむんずと引っ掴み、三枚纏めて口の中へと、勢いをつけて放り込む。……途端に、懐かしい味と優しい甘みが、今日此処まで抱いてきた憤懣と反感の全てを、一瞬で無意味な存在へと変えてしまった。
 一噛みごとに広がる味わいと、それに応じて湧き出てくる、喜びと唾(つばき)。本能の齎すその素直な反応に、些かの苛立ちと戸惑いを覚えながらも、俺は結局手を止められないままに、握り飯を口に運ぶ。

 尚も昇り続ける旭日に目を向け、全身に感じる温かさに包まれて口にしたそれは、ただただ美味かった。


 ゆっくりと惜しむように、手の内にあるものを味わい終わった後。
 改めて周囲に目をやってみれば、既にガーディもオッサンも食べるものは食べ尽くしており、すっかり明るくなった朝の日差しの中で、気の抜けるような欠伸をしている最中であった。

 やがて首を鳴らして立ち上がった彼は、生じたごみを元の通り風呂敷の中に包んだ後、立ち上がった俺に対し、「まだ何か言いたい事はあるか」と訊ねて来る。
 その悠々とした態度に、再び反発心が込み上げて来た俺は、喉元まで出て来ていた感謝の言葉を飲み下し、代わりにその口で、精一杯に憎まれ口を叩いて見せた。

「言いたい事は山ほどあるけど、飯を馳走になった事だし、今日はもういい」

「そうか。なら、今日の所はもう終わりだ。 もしもまた用があるのなら、その時はそっちから訪ねてくればいいさ」

 そう言うとオッサンは、自分の住んでいる場所を簡単に説明した後、更にこう付け加えた。

「そいつは今日からお前が面倒見てやれ。……後、お前はもう死んだのだから、もうこれ以上死にたがったりするんじゃないぞ」

 それを聞いた時、俺は一瞬訳が分からずに、目の前の相手の顔を、戸惑った表情で見詰め返した。
 するとそいつは、にやりと意味ありげに笑った後に、続いて真面目腐った口調でこう続ける。

「お前はさっき、其処から下に落とされてくたばった筈だ。……言ってみりゃ、今のお前は幽霊みたいなもんだな。 一度死んだのだから、もう残りの人生はオマケみたいなものだ。どうせオマケの人生ならば、少しは有意義に生きるんだな。捨て犬一匹拾って育てるだけでも、それだけの意味はある。せいぜい頑張ってくれ」

「ちょ、ちょっと待て! 俺が死んだのなら、あんたは当然殺人……」

「私は警察署長でね。 それに、誰にも見られていないなら完全犯罪だ。足は付かないし、証拠も残っていない。あるのはただ、お前が死んだという事実のみだな」

 俺の意味も無い突込みを軽く遮って受け流すと、目の前のクソ親父は高らかにカラカラと笑い、最早俺なんかには構わずに、スタスタと元来た道を引き返し、丘を下って去っていく。
 対する俺は、完全に気を飲まれて為す術も無くその背中を見送った後、背後を振り返ったところに待ち構えていた子犬ポケモンに、嬉しそうに体を摺り寄せられて、困惑したまま立ち尽くすのみだった。

『お前はもう死んだのだから、残りの人生はオマケみたいなものだ――』 そんな彼の言葉を幾度と無く頭の中で転がして反芻する内、今度は降り注ぐ朝の日差しに温められた俺の体の奥から、何か言葉に出来ない様な、新しい活力が生まれて来るのを感じた。
 尻尾を振りつつ頭をこすり付けてくるガーディの、汚れた背中に腕を伸ばしつつ、俺は改めて目の前に広がっている瓦礫の荒野を、新たな気持ちで見詰め直して見た。 

 そうだ――俺はもう、死んでいるのだ。

 この町が瓦礫の山と化し、家族や友人が遠い所へと旅立ったのと同じ様に、今や俺は一度死んでいなくなり、積み上げて来た一切のものも、一度全て清算された状態にあるのだ。
 それは究極的な喪失を意味するものかもしれないが、同時に全ての柵を取り払い、自らを過去と過剰な自意識の呪縛から解放する、自由への最高の切り札でもあるのでは無いのだろうか。

『オマケの人生』と言う言葉も、今の自分になら、すんなりと受け入れられた。……何故なら、嘗て過ごしていた人生を、俺は心から愛していたから。
 両親も兄弟も、知人も友人も。赤の他人が全く眼中に入らないほどに、俺は自分の知るコミュニティの中だけに神経を使い、それに見合った愛情を、自分の見知っている世界の内に見出していた。
 しかし、最早それは、何処にも存在してはいない。俺の生きていた世界を構成していた彼らが、この地上から完全に消滅してしまった時点で、既に俺の本来の人生は、事実上終わりを告げていた。

 俺は一度死んだ人間としてオマケの人生を歩みつつ、改めて自分に出来る事を、考え直していく事にした。



 それから後、俺はカントーのあちこちを回りながら、瓦礫の撤去作業や遺体の埋葬と言った、震災の後始末で糊口をしのいだ。
 炊き出しや支援物資は確かに受け取る事が出来たが、食い盛りのポケモンを連れたまだ若い男が生活して行くには、それだけでは物質的にも精神的にも、全く足りなかった。

 やがてそれらが一区切り付くと、今度は幾十万とも知れぬ罹災者達の為の、仮設住宅の建設に携わる。
 けれどもそれにしたって、空き地と言う空き地にバラックを建て増ししたところで、数量的には到底追いつくものではない。勢い住む所にも事欠いていた俺達は、結局震災直後と同じく各地を流れながら、雨露が避けられるところを探して、草に枕の生活を送るしかなかった。
 そんな中、漸くだんだんと生活が安定し始めるに従って、俺は徐々に新しい捨てられポケモン達を受け入れ、世話をするようになって行く。……あの時諭された、『オマケ』と言う人生観。それに対する俺なりの答えが、捨てられたポケモン達を受け入れて、共に生活して行くと言う選択であった。

 また、幾度かはあの時世話になったクソ親父のところに、顔を出した事もあった。
 別れ際に話したところに嘘偽りは無く、事実彼は町の警察署長であり、訊ねていけば快く迎え入れて、土方の紹介状を書いてくれたり、当時立ち上げたばかりの、捨てられたポケモンを保護して訓練すると言う事業に対し、行政的な手続きに手を貸してくれたりした。
 しかし、最終的には幾度かに渡って助力を願ったものの、基本的に最初に尋ねた時以外は、どうにも手が塞がっている時場合の他、手を借りる事は無かった。何故なら、彼は何時顔を見せても急がしそうで、また多くの問題を抱えていたらしく、初めて訊ねた時から、頼り続けるのは良くないと憚らせる何かがあった。

 それが何だったかは、彼が死んだ時に明らかになった。
 逝去の伝聞を聞いた当時、時代は既に戦争一色に塗り潰されつつあり、俺は自らが保護している捨てられたポケモン達に、『御国の為に』役立てるよう様々な訓練を課すべきだと言う周囲の圧力に晒され、苦悩している最中であった。
 それでも何とか時間に折り合いをつけて、事業所の切り盛りをボランティアの職員達に任せ、葬儀の営まれている場所へと駆け付けた俺の目に飛び込んで来たのは、何十人何百人と集まった、異国の言葉を口にする参列客達の姿だった。……其処で俺は、既に本当の死人となって棺桶の中で眠っていたあのオッサン―最後まで、『クソ親父』と言う呼び方を改められなかった、あの恩人―が、あの大震災の直後、デマが元で狂乱した千人近い暴徒の群れから、保護を求めて逃げ込んで来た数百人もの異邦人達を匿って、たった一人命がけで守り通したのだという事実を聞かされたのだった。

「彼らを殺すと言うのであらば、先ずこの私を殺していけ!」

 荒れ狂って武器を携え、殺気立ったポケモン達を率いて警察署を包囲した暴徒達を前に、彼は我が身を盾にしてそう叫ぶ事で、怯え慄く数百人の無辜の命を、無事に騒乱が収まるまで匿い切った。

 その話を聞かされた時の衝撃は、生涯忘れ難いものとなった。
 また、同時にそこには、あれほど簡単に現実から目を背け、自分を見失ってしまっていた、己自身への羞恥の念も含まれていた。
「何処の誰であろうとも、人の生命に変わりは無い。それを守るのが自分の役目である――」 最早記憶の中の人間となってしまった彼は、生前そう口にした事があったのだと言う。
 その『何処の誰』と言うものの中に、自分と言う恐ろしくちっぽけな存在が含まれていた事が、堪らなく申し訳なく、またそれ以上に思い出深く、忝かった。

 結局一度も、はっきりとした礼を言えぬずくだった。
 あの時口にした焼きむすびの美味しさも、無意識の内に縋ったその手の頼もしさも、水平線から昇る朝日が、一度は死に絶えた町のあちこちに築かれ始めた、拙い造りのバラックを照らし行く際の言葉に出来ないほどの感動も、遂に伝える事が出来なかった。
 ……しかし、彼がその様な言葉を必要とはしない人物である事も、短い時間であれ共に過ごした俺には、良く分かってもいた。



 それから、また数年が過ぎた。
 世の中はもう完全に戦争一色に染まり切っており、俺が拾い育て、共に暮らして来たポケモン達の多くも、各種召集令状や拠出命令によって次々と引き抜かれ、過酷な戦場に向けて旅立って行った。
 周囲は熱狂的に総力戦を叫び、俺自身もそれが避けられない運命だとは諦めていたものの、それでもやはり一匹でも多く、無事に帰って来る事を祈らずにはいられなかった。

 やがて戦局は傾き、戦いが不利になるに連れて、各地の都市は爆撃を受け、次々と焦土と化していく。あの震災から漸く立ち直ったカントー各地の都市も、再び見渡す限りの焦土となり、俺達やポケモン達、それに亡きおやじさんらが流した汗も、再び一握の灰燼に帰した。
 掘り返された土の中に身を寄せ合い、腕の中で震える小さなポケモン達や、怯えて泣きじゃくる幼い子供達を励ましつつ、俺は再び前に向けて歩み出せる時が来る事を信じ、残された仲間達共々、辛抱強く耐え続けた。


 そして遂に、戦争が終わった。
 各地から大勢の人間やポケモン達が復員し、再会を喜ぶ歓声が町を覆う中、それと同じか或いはそれ以上の規模で、失った者達の存在を嘆く、遺族の慟哭が木霊した。
 俺達の周囲も、やはり似たようなものであった。嘗て共に笑いあい、夢を語り合った職員の多くは帰らぬ人となり、またそれ以上のポケモン達が、二度と住みなれた我が家の敷地に、羽を伸ばす事が出来なかった。
 ……その中には、一番最初に知り合って、それからずっとパートナーとして俺を支え続けていてくれた、あのガーディも含まれていた。

 けれどもあいつの死は、決して無駄にはならなかった。
 戦争が終わった翌年、漸く再建の糸口をつけたばかりの俺達の事業所に、前線であいつの最期を看取ったという、一人の復員軍人が尋ねて来てくれた。
 不自然なほどに痩せていて、あまり顔色も良くないそんな彼の話によると、『最悪の激戦場』と呼ばれた南方の孤島に送られた彼らの部隊は、既にウィンディに進化していたあいつの活躍のお陰で奇跡的に全滅を免れ、無事撤退に成功して生還出来たのだと言う。
 装備も物資も不十分なまま、殆ど体一つで上陸させられた彼の部隊の兵士達は、時を移さず食糧不足に陥って、激しい戦闘が続く未踏のジャングルの中、敵との戦闘すら待たぬままに、次々と行き倒れて行った。……やがて戦いの帰趨が完全に定まった時、漸く撤退命令が出たものの、既に飢えさらばえて体力も残っていない彼らには、遥かに優勢な敵の追撃を振り切り、脱出の為の艦船が集う遠く離れた海岸線にまで後退するなど、到底不可能な事であった。

 そんな中、身動きの取れない友軍の撤退援護の為に派遣された殿部隊に、あのウィンディがいたのだ。
 数百キロを越えるスピードで疾駆する事が出来る伝説ポケモンは、前線で孤立していた彼らの下に駆けつけてくれたその日から、押し寄せてくる敵軍を先頭に立って食い止めつつ、その合間に歩く事も出来ない兵隊達を遠く離れた終結地まで運んだり、帰りに最早目にする事すら夢となっていた配給食料を届けてくれたりと、部隊の全員が後退し終えるまで、あらゆる面で彼らを支え続けた。
 ウィンディに助けられたのは、彼の部隊だけでは無い。孤島のあちこちに取り残され、最早二度と生きては帰れないと絶望し、悲嘆に暮れていた多くの傷病兵達が、ウィンディを始めとするポケモン達の献身的な働きによって、瀬戸際の所で危うい命を拾う事が出来た。

 しかし、そうやって奔走してくれたポケモン達の大半は、表情を曇らせて語る彼の見ている目の前で、その活躍が報われる事無く命を落とした。
 いよいよ撤退が始まり、最後の艦が浅瀬にのし上げたまさにその時、遂に敵軍の最前線が、撤退活動を察知して、収容地点に殺到してきたのだ。
 砲撃が激しくなり、収容予定者達がパニックに陥りかける中、突如収容を待っていたポケモン達の一団が、敵弾の飛来する方角に向け、一斉に進軍を開始したのである。……その先頭に立っていたのは、間違いなく彼をこの浜辺まで運んできてくれた、あの伝説ポケモンであった。
 やがて激しい戦闘音がジャングルの中から聞こえ始め、それに応じて敵の砲弾の着弾位置が、フネの停泊している海岸線から離れたその隙に、残っていた者達は、一人も余さず乗船を完了した。
 彼ら命を助けられた陸兵達は必死に懇願したものの、そんな状況で待機行動が取れる筈も無く、人員を満載した駆逐艦は、必死に人柱となって戦っているポケモン達を残して、『地獄』と呼ばれたその島を後にしたのだった。

「あのポケモンがいてくれなかったら、私達はこうして祖国の土を踏む事も無く、全員があの孤島の片隅で、骨を埋める事になっていたでしょう」

「彼らが、我々の命を救ってくれたのです――」 すすり泣きながらそう口にする、目の前のやせ細った人物を他の職員達と共に慰めつつ。
 俺は一人頭の中で、あいつとの思い出を遡りながら、誰にも気付かれぬようそっと顔を俯けて、寂しげな笑みを浮かべていた。

 初めて出会った時の、あいつの顔が思い浮かぶ。
 限界まで腹を空かせても、絶対亡骸には手を付けようとせず、一度は無くした人との絆を、求め続けていた子犬。
 住む所も無く野宿を繰り返していた時には、板に噛み付いた時に出る小さな火の粉を借りて暖を取り、寄り添って眠る寒い夜には、何時の間にか懐に潜り込んで来ていた。
 小さな見た目によらず力持ちで、瓦礫の撤去も進んで手伝い、作業の合間の休憩時間には、近所の子供らが投げる木の板やボールを、喜んで追い掛け回していた。

 ホンの小さな偶然から繋がれた、一コの命。
 あの時やせ細って、思い詰めた表情で焼きむすびに釣られた一匹のポケモンが、今こうして大勢の人間達の運命を変える事になろうとは、一体誰が予想し得ただろうか――? 

 今では婚約者も決まり、こうして遠隔地まで御礼を伝えに行く事も出来るようになったと話す彼の言葉を聞きつつ、俺はあいつが生きた『オマケの時間』の、確かさな力強さを感じていた。



 その時の縁が元となり、改めて嘗ての戦友達の間を巡って彼が奔走した結果、戦争で活躍したポケモン達を支える基金が、俺達の事業所を基盤に設立された。
 長く激しい戦の間に、ポケモン達によって救われた人間は数知れず、やがてその動きは大きなうねりとなって、犠牲になったポケモン達を追悼する、記念碑の建設へと発展していく。

 建設予定地は、シオンタウン。
 俺達が切り盛りしている事業所の近くに、その記念碑は建てられる。
 ……当初は石碑程度のものになる予定だったのだが、全国から寄せられる寄付は引きも切らず、やがてそれは建築物に姿を変え、最終的にはポケモン達の慰霊を祭る、巨大な塔として完成を見た。

 現在はカントー各地のポケモン達が眠っており、すっかり歳を食ってしまった『私』は、本来の福祉施設の経営の傍ら、この塔の管理人の一人として、毎日参拝も兼ねて其処に足を踏み入れている。


 ……今私は、一人の客人が尋ねて来てくれるのを、じっと待っている。
 昨日塔で起きていたいざこざに際して、非常に世話になった彼に対し、御礼をしなければならないからだ。

 やがて長い年月を経て、既に骨董品と化しつつある施設のインターホンが、古き時代の名残もそのままに、建物の中に響き渡った。
 それを聞いた私は、腰掛けていた椅子から「よっ」とばかりに立ち上がり、建物と同じく時代物めいた机の引き出しを開けて、中から一本の笛を取り出し、利き手に持ったまま歩き出す。
 玄関口から入って来た客人―赤い帽子を被った、一人の少年―に声をかけると、私はそちらに歩み寄って、彼に改めて昨日の礼を言った後、こう切り出した。


「さて、レッド君! ポケモン図鑑を完成させる為には、ポケモンへの深い愛情が無くてはならない――」





END
 
> 全てが君の力になる 作:でりでり
全てが君の力になる 作:でりでり
「ウソつきゲーチスめ。皆をたぶらかそうと必死に弁舌を振るっておる」
 僕の隣でこのイッシュ地方の頂点に立つポケモントレーナー、チャンピオンのアデクさんはそう毒づいた。
 僕たちの目の前では下っ端を従えたゲーチスがお得意の演説を披露しているところだ。
「そうなのです!」
 ゲーチスはわざとらしく両手を横に広げ、民衆の注目を一挙に集める。
「我らが王、N様は、伝説のポケモンと力を合わせ! 新しい理想の国を創ろうとなさっています! これこそイッシュに伝わる英雄の建国伝説の再現!」
 強い語調でそう言い切ると、興味本意で演説を聞きに来ていた街の人たちも驚きを隠せないようで、各々思ったことを口に出している。
「え、英雄だって?」
「ドラゴン!? そんなことが……」
「伝説! す、すげっー!」
 そんな反応をゲーチスは見渡すと、体を九十度捻らせて二歩進む。アスファルトに鳴り響くゲーチスの靴の音は、硬いものを打ち付けるような、やけに大きい音がする。
「ポケモンは人間とは異なり、未知の可能性を秘めた生き物なのです」
 演説の続きが始まれば、再び辺りが静まり、ゲーチスの声が計画的に並んだビル街に響き渡る。
 ほどなくしてまたゲーチスは体を捻らせ左に四歩歩く。この響く靴の音も、きっと注目を惹かせるための演出なのだろう。
「ポケモンは我々が学ぶべきところを数多く持つ存在なのです」
 話の抑揚、強弱に合わせ、ゲーチスが歩く靴音の強さも上下する。その様相はまるで舞台の上で行われるショーだ。
「その素晴らしさを認め、我々の支配から解放すべき存在なのです!」
 そこまで言って、ゲーチスは奇妙かつ大きな法衣から左手を出して突き上げる。二メートル近くもあるこの大男のその挙動は、見るものをすくませる威力がある。知り得ている。何をすれば人はどういう感情を取るかを。
「か、解放だと?」
「ポケモンを……?」
 ポケモンたちと共に長く暮らしていたはずの大人たちが、可哀想なくらいにも動揺している。僕だって何も知らなければ彼らと同じようなことになっていたかもしれない。
「我々プラズマ団とともに新しい国を! ポケモンも人も皆が自由になれる新しい国を創るため、皆さんポケモンを解き放ってください。というところでワタクシ、ゲーチスの話を終わらせていただきます。ご清聴感謝致します」
 続けて街の人たちの不安を煽るだけ煽ると、ゲーチスは下っ端を引き連れて街の向こうに消えていった。
 残された聴衆は皆がみな、今の演説に戸惑っている。
「そうか、わしらは……ポケモンを苦しめていたのか……」
「うぐぐ……。プラズマ団の言う通り、ポケモンを解き放とうか……」
「……そんなぁ。ポケモンがいないとあたし、寂しくてダメになっちゃう!」
 悲鳴に近い声を聞くたび、胸が苦しくなる。悲しそうな顔を見るたび、心が痛くなる。
 僕がそう思うくらいなんだ。隣にいるアデクさんもきっと同じことを思っているだろう。
 あいつらの言っていることは嘘っぱちだ! そう言いたかった。ただ、僕みたいな子供がそう確証ないことを言ったところで、大人の心さえ揺るがしてしまったゲーチスの演説に勝ることなど叶わない。
 人々が悲しげに普段の営みに戻っていく中、僕はただ拳を握りしめるしかなかった。
「なんなのよう! 今のお話おかしーじゃん!」
 聴衆が立ち去った後、聞き覚えのある幼い声が耳に入る。声の方に目をやれば、そこには白髪の老人とその隣に立つアイリスがいた。彼女はヒウンシティで幼馴染みのベルのボディーガードをやっていたんだっけ。
 僕たちに気付かない老人は、アイリスをなだめるように声をかける。
「……このイッシュは、ポケモンと人とが力を合わせ創りあげた。ポケモンが人との関係を望まぬというのであれば、自ら我々の元から去る……。たとえモンスターボールといえど、気持ちまで縛ることなど出来ぬ」
 しんみり語る老人の言葉に耳を傾けているとふと、右肩をアデクさんに叩かれた。
「行こうかトウヤ」
 そう言って老人とアイリスの方に歩き出すアデクさんに僕は続いた。
「久しいな。アイリスにシャガよ」
「あっ! アデクのおじーちゃんにあのときのおにーちゃん!」
「……どうした。ポケモンリーグを離れ、各地をさ迷うチャンピオンが一体何の用だ?」
 厳しく言い放つシャガと呼ばれた老人に対し、アデクさんは突然、迷うことなく頭を下げた。
「ずばり! 伝説のドラゴンポケモンのこと教えてくれい!」
 頭を下げて頼み込むアデクさんに、シャガさんはいささか虚を突かれたようだ。
「ゼクロムのこと? それともレシラム? どーしたの? いきなり」
「先程の演説でゲーチスなる胡散臭い男が言っていたな。Nという人物がゼクロムを復活させたと……」
 とたんにアデクさんは頭をあげ、右手の拳で左手の平をぽんと叩く。
「おうよ! そのNというトレーナーが、ここにいるトウヤにもう一匹のドラゴンポケモンを探せ! と言ったらしいのでな」
 アデクさんがそんなことを言ったがために、シャガさんが僕の方を見る。まるで品定めをされるような視線に、たまらずたじろぎそうになった。
 一通り僕を見るとまるで興味なさげに僕から目を離し、アデクさんに向き直る。
「……解せぬな。自分の信念のため、二匹のドラゴンポケモンをあえて戦わせるつもりか、そのNとやらは……?」
 シャガさんがその疑念を口にすると、驚いたアイリスはその場で軽くジャンプして、大きな声を出す。
「えっー! ドラゴンポケモンたちはもう仲良しなんだよー!」
「そうだよなアイリス。ポケモンを戦わせるのはトレーナー同士……。そしてトレーナーとポケモンが理解しあうためだよ」
 慈愛に満ちた目でアイリスを見つめたアデクさんは、そっとアイリスの頭を撫でた。その姿はまるで本当の孫と爺だ。
「さてと……」
 アイリスの頭から手を離したアデクさんは、僕の方を向く。
「わしはポケモンリーグに向かう! いや、この場合は戻ると言うべきかな……?」
 今までアデクさんは僕が見ていた限り、いつも子供を見守るような優しい目をしていた。だけど今の彼は違う。誇り高き戦士の目だ。覚悟を持って戦う人間の目だ。
「もちろんNに勝つ! トレーナーとポケモンが仲良く暮らしている今の世界の素晴らしさ、きゃつに教えてやるのだ!」
 僕の両肩に、アデクさんのごつごつした両手が乗る。
「そしてトウヤ! チャンピオンとしてお前さんを待つとしよう! だからソウリュウのジムバッジを手に入れてリーグに来い。もっとも、ソウリュウのジムリーダーは手強いぞ!」
 ニッと少年のように笑うアデクさんに、僕もつられて顔がほころぶ。
「じゃあな、頼んだぞシャガ、アイリス!」
 最後にそう言ってアデクさんは徒歩で街の向こうへ消えて行った。
「……あーあ、おじーちゃん行っちゃった。大丈夫かなあ? なんだか怖い顔してたけど」
「……アイリス、心配ないよ。彼はイッシュで一番強いポケモントレーナーだからね」
 不安がるアイリスに、シャガさんが優しく語りかける。アデクさんはゼクロムを連れたNと戦う覚悟を決めた。僕も、託されたホワイトストーンからゼクロムと対となると言われているドラゴンポケモン、レシラムを蘇らせて少しでも手助けをしなくてはいけない。まずは彼らからそのヒントをもらわなければ。
「さて、トウヤと言ったか。私の家に来なさい。アデクの言う通り、伝説のドラゴンポケモンについて教えられることをお教えしよう。アイリスや、案内してあげるんだ」
 シャガさんが僕にそう言うと、一足先にヒウンシティ程ではないがビルの並び立つ街に消えていった。僕にドラゴンポケモンについて教えてくれることから察するに、どうやら僕のことを認めてはくれたようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「ゼクロムとレシラム、二匹のお話! あたしたちが教えてあげる! ソウリュウなら案内出来るし! こっちだよ!」
 ズボンの裾を小動物のようにじゃれるアイリスに引っ張られる。その勢いでポケモンセンターの側の交差点を曲がると、その突き当たりにはとりわけ周囲よりも立派な建物が聳え立っている。またもや跳ねるようにはしゃぐアイリスにその入口まで引っ張られると、ここだよ! と言って建物の中に一足先に入っていく。
 追って建物に入ると、暗めの照明が点いている室内でシャガとアイリスが待っていた。
「……では話そう。君が持っているのはライトストーンだな。ライトストーンから目覚めるだろうレシラム、既に目覚めたゼクロムは、元々一匹のポケモンだった――」
 シャガ、アイリスの口から語られたのは、イッシュに伝わる英雄伝説だった。
 僕が幼い頃に母から聞かされたことがある話よりも、より詳しく語られた。理想と真実。レシラムとゼクロム。そしてイッシュの、成り立ち。
「……確かにポケモンはものを言わぬ。それゆえ人がポケモンに勝手な想いを重ね、辛い思いをさせるかもしれぬ」
 シャガさんの口調は徐々に重く、深く、そして強くなっていく。
「だがそれでもだ! 我々ポケモンと人は、お互いを信じ必要とし、これからも生きていく……」
「そーなのッ! だから、だからねっ。ポケモンとあたしたちを別れさせようとするプラズマ団なんか絶対許さないんだからッ!」
 そうだ。僕がここ、ソウリュウに来るまで歩んだ長い道のり。その中で人とポケモンは互いに足りないところを補いあい、笑顔で暮らしていた。その素晴らしい姿勢を見て、僕はより互いの存在が不可欠なものだと改めて気付かされた。
 プラズマ団はポケモンと人とを別れさせ、ポケモンを完全な存在にすると言った。そうではない。真の完全とは、互いに互いを支えあう、共存していく世界なんだ。それをなんとしてもNに伝えなければならない。
「……すまない。最後、話が逸れてしまったが私たちが知っていることは以上だ。残念ながら伝説のドラゴンポケモンを目覚めさせる方法は分からぬ……」
 チャンピオンのアデクさんが頼るほど、ドラゴンタイプに精通しているはずのシャガさん達が分からないのであればもう八方塞がりか……。いや、それでももしNと戦うことになっても、僕と共に旅を続けてくれたポケモンが、仲間がいる。僕たちの未来のためにも負けない。負けられない!
「……さて、アデクとの約束だったね。君はソウリュウポケモンジムのジムバッジを手に入れねばならない。ではトウヤ、ポケモンジムにて君の挑戦を待つ!」
 そうだ。まずは目の前に立ちはだかる試練を乗り越えなくてはならない。僕の横を通り過ぎ、先にジムに向かったシャガさん。まずはこのシャガさんに僕の、僕たちの力を見せつけてやらねばならない。
 ここまで歩いてきた僕たちの絆を、力を。



 ドリュウズの渾身のシザークロスを受け、オノノクスは大きい音をたてながら前に崩れていく。
 ジムの時が止まったかのような沈黙がしばし流れた。
 シャガさんは倒れたオノノクスをモンスターボールに戻すと、称賛の拍手を送る。僕もワンテンポ遅れてバトルが終わったことに気付き、最後の一匹となっても戦い抜いたドリュウズをボールに戻す。
「素晴らしい。君と出会い戦えたこと、感謝する」
 僕の目の前までゆっくり歩いてきたシャガさんは、これがレジェンドバッジだ。と、竜の頭を象った細長いジムバッジを手渡す。最後の、八番目のジムバッジ。これで僕のバッジケースは全て埋まった。ついでにシャガさん曰くお気に入りのドラゴンテールのワザマシンも受け取った。
 礼を言おうと手元からシャガさんに視線を戻したが、そこにはらしからぬ暗い表情があって、思わず怯んだ僕は礼を言うタイミングを失っていた。
「……君に頼みがある。アデクを追いかけてポケモンリーグに向かってほしい」
 そう言ったシャガさんの表情は弱々しく、先ほどまでいた屈強なドラゴン使いのトレーナーは目の前からいなくなり、ただの一人の老人がそこにいた。
「ポケモンリーグはソウリュウから繋がる10番道路の先。チャンピオンロードを越えたところにある。アデクの強さは知っているが、Nという男の強さ、底知れぬのだ」
 そうか。Nはチャンピオン、アデクさんを倒すと言った。その過程でジムリーダーのシャガさんとも既に一戦交えていたのだ。
 ――Nという男の強さ、底知れぬのだ。
 今までの旅の中、僕とNは幾度となく戦って来た。確かに彼は強敵だった。とはいえ、シャガさんにギリギリで勝てた僕なのに、そこまで言わせたNともし戦うことになっても僕は勝てるのだろうか。……いや、僕が弱気になってどうするんだ。信じなきゃ。僕のポケモンと、僕の力を。
 そう思いながらジムを出たときだった。
「……ハーイ。シャガさんはたくましかった?」
 聞きなれた明るい声。顔を上げれば正面にはアララギ博士がいた。
「あっ、伝説のレシラムを復活させる方法についての報告に来たんだ。ライブキャスターで伝えるのもなんだか申し訳ないしね」
 Nのゼクロムに唯一対抗出来うると言われるレシラム。その復活方法の報告……。固唾を飲めば、ごくりと喉を通る音が聞こえた。
「で、結論をいっちゃうと……。まだ解明出来ていないの。きっとポケモンが誰かを認めたときに目覚めるのね……」
 沈黙が流れる。僕もなんだか申し訳なく、顔を伏せる博士に何を言って良いのか分からない。
 すると博士は暗い話を止めようと、すぐさま笑顔になって口を開く。
「それよりも凄いじゃない! イッシュのジムバッジを八個揃えたんでしょ、すごくたくましくなったよね! 自分では実感ないかもしれないけど、カノコを出たときとは大違い!」
 それは決して作り笑いやただの誉め言葉じゃなく、博士は本気でそう言ってくれたということが目で分かる。嬉しかった。ここずっとプラズマ団のことで必死だったから、そう言ってくれた博士の言葉がなおのこと優しく響く。
「では、ポケモンジム巡りを終えたポケモントレーナーが次はどこへ向かうべきか、わたしが案内するわね」
 そう言ってジムから東に進むアララギ博士の後を追えば、ソウリュウ北のゲートまで案内された。ゲートの向こうにはチャンピオンロードと呼ばれる切り立った崖が挑戦者を拒むかのように聳え立っている。
「あのゲートをくぐり、10番道路を抜ければバッジチェックゲート。その先にあるチャンピオンロードを越えてようやくポケモンリーグよ」
 この先には全てのトレーナーの目標がある。そう考えると、自然と目が乾き拳に力が入る。
「カラクサのポケモンセンターを案内したこと、思い出しちゃった」
 僕たちが初めて生まれ故郷のカノコから隣のカラクサに着いたとき、博士は僕たちにポケモンセンターの使い方をレクチャーしてくれた。確かに、あのときと同じだ。
「ねえトウヤ。ポケモンと一緒に旅立ったこと、後悔している?」
 そんなことはない! 僕はポケモンと旅が出来て、辛いこともあったけども楽しいこともいっぱいあった! 他にも伝えたいことがいっぱいありすぎて、うまく舌が回らない。とにかく首を強く横に振れば、博士の歓喜の声がする。
「ありがとッ! 最高の返事よね! わたしも君たちにポケモンをプレゼント出来てすごく嬉しかったの! だって、また人とポケモンのステキな出会いが生まれたから! トウヤ、これ。プレゼントよ」
 アララギ博士から手渡されたのは、紫に輝く究極のモンスターボール、マスターボールだ。その存在自体は聞いたことがあるが、実物を見るのはこれが初めて。
「そのマスターボールはどんなポケモンも絶対に捕まえられる最高のボール。こんな形でしか応援出来ないけれど……」
 そこまで言って、博士は言葉を区切る。
「トウヤはトウヤ。どんなことがあっても迷わずにポケモンと進んでね!」
 博士はこれ以上ないくらいの笑顔でそう言った。きっと、本当は復元に関してなんかではなくこれを伝えに来たかったのかもしれない。お陰で張りつめていた緊張も、表情と共に自然とほぐれた気がする。
「じゃーねー!」
 と去っていく博士の背中を見送ってから、僕は再び手元で妖しく輝くマスターボールを見つめる。
 ……博士には悪いけど、僕はこのマスターボールは使わない。もしもレシラムと戦うことになっても絶対に使いたくないんだ。マスターボールを使うっていうことは、マスターボールという道具の性能に頼るということだ。
 それじゃあダメだ。僕とレシラムの真剣勝負に水を刺すのと同等だ。互いに全力をぶつけあうことに本当の意味があると僕は思う。
 僕はソウリュウのポケモンセンターに戻り、マスターボールをダゲキに持たせてユニオンルームに入った。
 そこには、あらかじめ連絡をしておいた僕と同年齢の女性トレーナー、トウコがいる。僕は、この親愛なる彼女にこのマスターボールを託す。博士には悪いけども、僕じゃあこのマスターボールは扱えない。身に余る贈り物だ。彼女は僕より優秀なトレーナー、彼女の方がきっと有用に使ってくれる。ポケモン交換装置にモンスタ ーボールをセットすれば、マスターボールを持ったダゲキは彼女の元に。そして彼女のズルッグが僕の元に。
 交換が終わると彼女は満面の笑みでありがとう、と僕にだけ伝わるようにひっそりと言った。そして、お疲れ様。とも。


 ゲームの電源は消された。マスターボールを手放したトウヤのソフトの記録を消して、再び新たなトウヤの冒険が始まる。
 マスターボールを集め、それをトウコに渡す作業という名の冒険が今。

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