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クソ親父 作:クーウィ
 荒涼とした瓦礫の山が、見渡す限り続いている。
 吹きそよぐ風は不快な湿気と鼻を突く悪臭を帯びて清涼感などまるで無く、深夜の空に浮かぶ月は殆ど欠ける所なく満ちていたが、反ってそれ故に、何も残っていない地上の有様を余す所無く浮かび上がらせる事となり、その惨状を無情なまでに強調していた。

 僅か半月ほど前には数十万人が生活し、国内でも指折りの大都市だったこの町も、今では死体と残骸が堆(うずたか)く、嘆きと無気力に支配された、ただの広大な廃墟に過ぎない。
 首都近郊を襲った、未曾有の巨大地震。幾万とも知れぬ犠牲者を出し、カントー地方全域に被害が及んだこの大災害によって、住み慣れた故郷はあっと言う間に廃材の陳列場所に成り下がり、見知った顔の大半はその中に埋もれて、二度と姿を見る事は無かった。

 しかし、敢えて正直な感想を言えば、赤の他人が何人死んだ所で、俺自身にはそう深刻な問題にはならなかったに違いない。……確かに身近な人間を失うのは辛かったが、それ以外に関しては所詮は他人事であり、苦悩や悲しみがしつこく心を掻き乱す事など、御世辞にも慈しみ深い性格とは言えない俺には、到底有り得なかったからだ。
 その日から何十年も経った後に、ある人物が一つの言葉を残している。『一人の死は悲劇でも、集団の死は統計上の数字に過ぎない』と言うものだ。同じ男は、『百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない』とも口にしたらしいが、こちらはこの時の惨状には相応しく無かろう。……厳密には、元の言葉の意味するところも若干違うのだが、少なくともこの頃の俺の考え方を表現するには、これで十分である。

 はっきりしていたのは、その時の俺には関係の無い連中を悼むような気持ちは全く無かったと言う事と、それにも拘らず、俺はただただ絶望に打ちひしがれて、何の希望も喜びも見出せないままに、死に場所を探してふら付いていたと言う事だけだった。


 赤の他人がどうなろうと、俺には知ったこっちゃ無い。……だが、家族や友人の全てが其処に含まれているとなれば、話は根本的に異なって来る。

 俺の家族は、一人残らず震災で全滅した。別れ際最後に聞いたのは、親父の「先に行け」と言う叫び声。倒壊した我が家の前で、親父とお袋は中に取り残されている筈の祖母を何とか助け出そうと死力を尽くしており、町内会に伝令にやられた俺だけが、まだ収まらぬ余震の中、こけつまろびつその場を離れた。
 丁度昼餉の時刻だったと気が付いたのは、それから少し後。予め決められていた避難場所まで後半町ぐらいの所までやって来た頃、キナ臭い臭いに気が付いて、元来た方角を振り返った直後であった。
 息を切らせた俺の目の内に飛び込んで来たのは、折からの風に巻かれて空を圧している夥しい黒煙と、其処かしこから押し寄せてくる火災の波が、必死に逃げてくる避難民達を、情け容赦無く追い立てている光景だった。
 最早、走って来た道程は渦を巻く紅蓮の炎によって遮断されてしまっており、血相を変えて逃げ惑う無数の人間達や獣達の向こう側には、烈風に煽られて燃え盛る火炎地獄が、延々と広がっているばかりである。慌てて背を向け、周りの人込みを掻き分けるようにして逃げ始めた俺には、残して来た家族の安否について、『何とか無事に逃げたであろう』と、自分に言い聞かせるぐらいの事しか出来なかった。

 本来ならば炎に強い筈の獣達ですら、全く踏み止まろうともしなかったほどの大火災。
 その追求を何とか振り切り、漸く安全と思われる場所まで辿り着いた時には、もう周りに家並みは残っておらず、俺は憔悴し切った大勢の避難民達の群れに紛れて、尚も燃え続ける市街地からずっと離れた場所で、放心したように立ち尽くし、黒煙に覆われる空を見上げていた。
 やがて夜が訪れると、空を覆った煙の海は何時しか雲を呼び、乾き切っていた大気に湿り気を齎して、翌日の昼頃を境に、被災地周辺に於いて局地的な雨を降らせ始める。

 降り注ぐ雨水に力を得た水タイプのポケモン達が、この天の配剤に俄然勢いを取り戻す中――漸くこの頃になって、情勢への危機感が動転した恐怖心に勝り始めた俺達は、これらの水生生物達を中心に据えた幾つかのグループに分かれて、未だに火勢の衰えない町の方角に向け、三々五々に引き返して行く。
 雨によって得られた豊富な水気を武器に、遠巻きに消火活動に当たる獣達を上手く用い、俺達生き残りの住民は、既に殆どの建物が倒壊している自分達の町を、どうにか完全な焼失からは、守り通す事に成功した。

 ……しかし結局、俺がずっと祈り続けて来た家族との再会が、望まれた形で実現する事は無かった。


 鎮火してからずっと捜し続けていた家族の変わり果てた姿と、焼け焦げた路上で再会したのが、二日前の事。……その時既に、俺は疲れ切っていた。
 復興は、後から振り返って見れば急ピッチで進められたものの、その頃はまだ何も始まってなかったと言っても良く、焼け跡で元住民や連れているポケモン達が細々と作業している他には、再建への動きは全く見られぬままであった。
 倒壊した家は完全に焼き尽くされてしまっており、そこにあった筈の物は最早跡形も無い。当時の風向きと火災発生箇所が悪かった為、近所の知り合いも軒並み全滅してしまっていて、行き場も拠り所も失ってしまっていた俺には、頼るものなど何一つ残っていなかった。

 辛うじて焼け跡を巡りつつ、口に入るものは何でも拾い集めて凌いで来たものの、しつこく捨て切れなかった最後の希望も絶えた今では、それも馬鹿馬鹿しいだけである。
 最早息をし、視線を巡らす事にすら徒労感を覚えるようになっていた俺は、焼け跡から拾った焼き入れの過ぎた文化包丁を懐に呑んで、人気の無い深夜の廃墟をただ当ても無く、体一つでふら付いていた。
 瓦礫に紛れて転がっている幾多の屍は、日が経つにつれて腐敗の速度を速め、食う物も無く流離う一部の獣達は、止む無くそれを口にする事で飢えをしのぐ。死骸を貪り歪んだ味を覚えた獣達は目立って凶暴化しており、人の姿を見ると積極的に襲い掛かって来るので、最近では大の男ですら夜歩きが出来ない有様だった。

 彼らに目を付けられて、食い殺されるも良し。同じ様に焼け跡をうろついている、略奪目当ての同族に狙われるも良し。
 その時の俺の頭の内にあったのは、兎に角この下らない死に損ないが、無事にこれ以上の面倒事から解放される瞬間を、冀(こいねが)う思いだけであった。


 ところが、そう言う無情な思いを抱き、重い足を引きずりつつ歩き回っているにも拘らず、その夜に限って、俺は誰にも巡り会う事が無かった。
 今までは意識して警戒し、身を隠す意思があったが故に何事も無かったものの、それでも歓迎せざる客人の姿を目にする事は、少なからずあった。……にも拘らず、よりにもよって此方から待ち望んでいる時に限って、何も出て来ないのである。
 やがて月と星とが広い夜空を散策し終え、西の空へと引き上げ始める時刻になっても、未だ俺の身には、何の危険も及ぶ気配は無かった。

 そしてとうとう、皮肉に満ちた目下の状況に対し、苛立ちを隠せなくなっていた俺の前に、一人の同族が現れた。
 前方の焼け焦げたレンガの山の陰から出てきたその人物は、俺の姿を見るなり立ち止まると、風呂敷包みをぶら下げた片手をダラリと垂らして、訝しげな誰何の声を上げる。
「そこに居るのは誰か」、と訊ねかけてくるその声の調子に失望を覚えつつ、明らかに待ち望んでいたタイプの連中とは異なる目の前の男に対し、ぞんざいに返事を返した俺は、そのまま顔を顰めて前進し、脇をすり抜ようとした。

 するとそいつは、ずっとヒトの顔を興味深げに覗き込んで来た挙句、いきなりすれ違おうとした俺の腕を掴んで、「良かったら付き合わんか」と声を掛けて来た。
 咄嗟の事に唖然としたまま、改めて相手の人相を確認しようとする俺を尻目に、そいつは捉まえた相手の返事も聞かぬまま、「急ぐぞ!」と抜かして走り出す。……意図も目的も全く理解出来ないその男は、見たところ五十も近いかと思われる中年オヤジの風貌をしているにも拘らず、片手に掴んだ俺の手を軽々と引いて、飛ぶように駆けた。
 年齢を感じさせない足取りで駆け走る相手の足取りに何とか合わせつつ、俺は戸惑いの声に続いて抗議の意を伝えたが、その男は全く聞く耳持たずに、瓦礫が山を為す廃墟の海を縫うようにして、俺を引き回すのを止めようとしない。……無理矢理にでも振り切ると言う選択肢が浮かんで来なかったのは、長らくまともな物を口にしていなかったお陰で、若くて体力に余裕がある筈の俺の方が、この年齢離れした健脚を誇る元気オヤジに、逆に圧倒されてしまっていた為だ。


 やがて、漸くそいつが足を止めた時。その時にはもう既に、辺りは薄っすらと明るくなり始めており、俯いて荒い息を吐く俺の目にも、足元に生えている雑草一株一株の葉の本数が、鮮明に見分けられるぐらいになっていた。
 そして、一頻り息を切らせた後、顔を上げて周りの状況を確認した俺は、今自分が立っている場所を把握して、暫し言葉を失ったまま立ち尽くす。
 そこは、この町で一番の高所――町のシンボルとも言える広大な港の様子を一望出来る、市街の中心にある小高い丘の頂上であった。
 一方隣に立っているオヤジの方はと言うと、あの激しい疾走も小憎らしいまでに堪えておらず、いそいそと風呂敷包みを解き始めると、中から取り出した紙の包みを、俺に向けて突き出して来る。何かを思考する前に、無意識の内に受け取ったその包みの中からは、得も言われぬ様な美味そうな匂いが立ち昇って来て、ずっとろくに食べていなかった俺の鼻腔を、これ以上無いまでに刺激し、擽って来た。

「座れよ。もう直ぐ夜が明けるから。 此処から見る日の出は実にいいぞ! 此処で朝飯を食うのが、私の一番の楽しみなんだ」

 自らも早々に座り込んで、握り飯の入った包みを開けながら、そいつは立ち尽くしている俺の顔を見て、人の良さそうな笑みを浮かべる。更に言うが早いが、彼は包みの中から沢庵漬けを一枚摘み上げて、朝日が昇ってくるのを待つ事無く、パクリと口に放り込んで咀嚼し始めた。
 

 ……しかし、相手のそんな様子を目にしたその直後――俺の意識を支配したのは、久しぶりにありついた食料への喜びでも、話し掛けて来る相手の心遣いや親切心への感謝の念でもなく、どす黒く湧き上がって来た、憎悪に満ち溢れた怒りの感情だけであった。
 それはある意味、当然だっただろう。何せ俺は、直前まで人生に絶望して、ワザワザ死ぬ為だけに疲れ切った体を引きずり、悪臭漂う夜の町を、休息も取らずに彷徨い歩いていたのである。
 それがいきなり、見ず知らずの相手に訳も分からぬまま引きずり回され、挙句にこんな辺鄙な場所で、時候も弁えない能天気な誘いを、さも嬉しそうな顔で告げられているのである。……これが果たして、怒らずにいられようか?

「何抜かしてやがる、このクソ野郎! 他人様の気も知らずによ!!」

 自分でも驚くほどに、その時の罵りには悪意が篭っていた。……後から思い返して見ても、あの時自分が抱いていた憤懣や憎悪の強さは理解し切れる様なレベルではなかったし、その感情の激しさは、今から思い返してみてもゾッとする他に無い。
 はっきりしているのは、漸く捌け口を見つけた自分の心が、溜まっていた鬱憤と怨嗟の全てを、対象に向けてぶつけようとしたと言う事だ。

「折角ヒトが楽になろうと思ってたってのに、下らねぇ道楽で邪魔しやがって! 世の中皆があんた見たいにお気楽な御身分でいられる訳が無い事ぐらい、この有様を一目見りゃ分かるだろうが!?」

 目の前のクソ親父に向けて、俺は今までの鬱憤の全てをぶちまけるかのように、声を涸らして喚き散らした。
「てめぇに俺の気持ちが分かるってのか!?」、から始まったそれは、死ぬ事を邪魔された事実に対する怒りから、現状にそぐわない相手のその慎みに欠けた行いに対する批判に飛び火し、やがては被害者としての心理を声高に叫ぶと共に、目の前の相手の人間性自体を否定すると言う、極めて攻撃的な論理に発展していく。
 その内自分が、まだ手に渡された握り飯を掴んだままの状態である事に思い当たると、俺は尚も口調を緩めぬままに、足元の地面に向けて、それを力一杯に叩き付ける。……しかしそれでも、そいつは顔色一つ変えないままで、まくし立ておらび立てる俺の顔を、黙って見詰めているばかりであった。


 やがて俺が喚き疲れて口を閉じ、一旦息を吐いた所で、漸く目の前の男は手に持っていたものを脇に置いて立ち上がると、俺を真っ直ぐに見返しつつ、穏やかな口調でこう呟いた。

「なら、今から死になさい」

 一瞬その台詞の内容に固まった俺は、次の瞬間相手に後ろ手を取られ、背中をぐいぐいと押されるようにして、近くに口を開いている、土砂崩れの爪痕に向けて連れて行かれる。地震によって大きく崩れたその場所は、ずっと下の方まで険しい斜面が続いており、切り立った崖の様な様相を呈していた。
 思いがけない展開に焦り、必死に抵抗する俺の怒鳴り声も物ともせずに、相手は手馴れた物腰で俺をその端にまで誘導すると、間髪を入れず突き放すようにして、俺の体を崖下に向け放り出す。
 体が平衡を失った瞬間、俺は恐怖の叫び声を上げると共に目を瞑り、気が付けば一瞬の後に後ろから体を支えてくれた存在に、全身を使って抱きついていた。

「やっぱり、まだ死にたくは無いんじゃないのか?」

 身を乗り出して俺の体を支えてくれたオッサンは、へばり付いている俺の情け無い姿にも全く頓着せずに、寸分変わらぬ穏やかな声音で、そう口にした。
 そんな彼の言葉に、俺は最早何も言い返す事が出来ず、すっかり意地気の無くなった情け無い表情で、引っ張り上げてくれる相手の腕に、素直に身を委ねる。
 そのまま元居た場所まで俺を引っ張って行った彼は、先ほど座っていた場所に再びどっかりと胡坐を掻くと、「どうにか間に合ったみたいだ」と呟いて、此方の方へと笑みを向ける。「兎に角座りなさい」と重ねて口にするオッサンの言葉に、俺が渋々ながらも応じたところで、夜が明けた。

 遠くに見える東の海の水平線の辺りから、新しい一日の到来を告げる一抹の光が、しぶとく残る夜の影を切り裂いて、俺達の目に飛び込んで来る。
 それは、眼下に広がる荒涼とした廃墟を明確に浮かび上がらせつつも、つい先ほどまで世界を支配していた月の光とは違って、其処に蟠り続けていた溶けきれぬ闇を、冷たい夜気と共に洗い流し、拭い去って行く。
 時が経つにつれ輝きを増す曙光を浴びつつ、静かにその様を眺めていた俺は、ふと隣に視線を向けて、自分を此処に連れて来た男の顔を、複雑な思いで見詰める。……目を細めて握り飯に齧り付く、クソ親父の髭を豊富に蓄えた頬が、差し込める朝日で金色に輝くのを見詰めながら、俺は柔らかな温かさに包まれつつ、今自らも同じ様な色に染まって見えているのであろう事を、ボンヤリと頭の中に思い描いた。
 不意に相手の顔が此方に向けられたのを受け、慌てて視線を逸らす俺に対し、彼は地面に落ちて拉(ひしゃ)げている紙包みを指差して、「まぁ食べて見ろ」と重ねて誘う。「何なら俺のと代えてやってもいいぞ?」と付け加える相手の言葉を無視し続ける事も出来ず、仕方無しに俺は手を伸ばして、その包みを拾い上げた。

 と、すると其処へ、視界の端に見える茂みを割って、一匹の子犬ポケモンが、フラフラと姿を現した。
 どうやら食べ物の匂いに誘われて来たらしいそいつは、相当腹を空かせている様であり、両の瞳は飢えている者に特有の、どんよりとした曇りを帯びている。……しかしその一方で、余程人に慣れているものと見え、それほどまでに追い詰められているにも拘らず、此方を見詰めるその目付きには、敵意の様なものは欠片ほども無い。

「また客が増えたな」と口にしたオッサンは、次いで俺に向け視線を戻すと、俺が手にしている紙包みに目をやりつつ、「食べないのならあいつに分けてやったらどうだ」と、二個目のむすびを取り出しながら言う。
 それを聞いた子犬ポケモンの表情の変化と、保持しているだけでいっかな食べようとしない後ろめたさとが相まった事もあり、俺は改めて手に持った紙包みを開けると、中に並んでいた三個の握り飯の内一個を取って、じっと此方を見詰めているガーディに対し、空いた片手で手招きしてみせた。
 パッと目を輝かせると同時に、千切れんばかりに尻尾を振りつつ殺到して来たそいつに対し、手に持ったそれを少し離れた雑草の群落の上に乗っかるように投げてやると、赤い子犬はあっという間にそれに飛びついて、咳き込む様な勢いで食べてしまう。あっという間に食べ尽くし、舌を名残惜しそうにペロペロやっているガーディに向け、更にもう一つを投げてやろうと手に取ったところで、俺の視線は指先に掴んだそれに対して、束の間の間釘付けになった。
 表面に荒々しく味噌が塗られ、軽く炙られた焼きむすび。……漂ってくる香ばしい香りに、自分が如何に空腹であるかを、改めて思い出したのだった。

 しかし一度素振りを見せたものを、今更引っ込めるわけには行かない。期待して尻尾を振っている子犬ポケモンの手前もあるし、先ほどまでずっと意地を張り続けていた、自分自身へのプライドもある。
 結局矜持が逡巡に勝利を収め、痩せ我慢が手の内にあるものを送り出す決意をしたところで、傍らに座っていたクソ親父が、『クックッ……』と笑いながら声をかけて来た。

「大したものだな。お前はいい『親』になれるだろうよ」

 感心半分からかい半分と言った感じのその言葉に反発しつつ、無言で相手を睨み付けた俺は、今度こそ自分で消費するべく、最後に残った焼きむすびと、三枚の沢庵漬けが入った紙の包みに視線を落とした。
 先に沢庵漬けに手を伸ばすと、苛立ちを込めてむんずと引っ掴み、三枚纏めて口の中へと、勢いをつけて放り込む。……途端に、懐かしい味と優しい甘みが、今日此処まで抱いてきた憤懣と反感の全てを、一瞬で無意味な存在へと変えてしまった。
 一噛みごとに広がる味わいと、それに応じて湧き出てくる、喜びと唾(つばき)。本能の齎すその素直な反応に、些かの苛立ちと戸惑いを覚えながらも、俺は結局手を止められないままに、握り飯を口に運ぶ。

 尚も昇り続ける旭日に目を向け、全身に感じる温かさに包まれて口にしたそれは、ただただ美味かった。


 ゆっくりと惜しむように、手の内にあるものを味わい終わった後。
 改めて周囲に目をやってみれば、既にガーディもオッサンも食べるものは食べ尽くしており、すっかり明るくなった朝の日差しの中で、気の抜けるような欠伸をしている最中であった。

 やがて首を鳴らして立ち上がった彼は、生じたごみを元の通り風呂敷の中に包んだ後、立ち上がった俺に対し、「まだ何か言いたい事はあるか」と訊ねて来る。
 その悠々とした態度に、再び反発心が込み上げて来た俺は、喉元まで出て来ていた感謝の言葉を飲み下し、代わりにその口で、精一杯に憎まれ口を叩いて見せた。

「言いたい事は山ほどあるけど、飯を馳走になった事だし、今日はもういい」

「そうか。なら、今日の所はもう終わりだ。 もしもまた用があるのなら、その時はそっちから訪ねてくればいいさ」

 そう言うとオッサンは、自分の住んでいる場所を簡単に説明した後、更にこう付け加えた。

「そいつは今日からお前が面倒見てやれ。……後、お前はもう死んだのだから、もうこれ以上死にたがったりするんじゃないぞ」

 それを聞いた時、俺は一瞬訳が分からずに、目の前の相手の顔を、戸惑った表情で見詰め返した。
 するとそいつは、にやりと意味ありげに笑った後に、続いて真面目腐った口調でこう続ける。

「お前はさっき、其処から下に落とされてくたばった筈だ。……言ってみりゃ、今のお前は幽霊みたいなもんだな。 一度死んだのだから、もう残りの人生はオマケみたいなものだ。どうせオマケの人生ならば、少しは有意義に生きるんだな。捨て犬一匹拾って育てるだけでも、それだけの意味はある。せいぜい頑張ってくれ」

「ちょ、ちょっと待て! 俺が死んだのなら、あんたは当然殺人……」

「私は警察署長でね。 それに、誰にも見られていないなら完全犯罪だ。足は付かないし、証拠も残っていない。あるのはただ、お前が死んだという事実のみだな」

 俺の意味も無い突込みを軽く遮って受け流すと、目の前のクソ親父は高らかにカラカラと笑い、最早俺なんかには構わずに、スタスタと元来た道を引き返し、丘を下って去っていく。
 対する俺は、完全に気を飲まれて為す術も無くその背中を見送った後、背後を振り返ったところに待ち構えていた子犬ポケモンに、嬉しそうに体を摺り寄せられて、困惑したまま立ち尽くすのみだった。

『お前はもう死んだのだから、残りの人生はオマケみたいなものだ――』 そんな彼の言葉を幾度と無く頭の中で転がして反芻する内、今度は降り注ぐ朝の日差しに温められた俺の体の奥から、何か言葉に出来ない様な、新しい活力が生まれて来るのを感じた。
 尻尾を振りつつ頭をこすり付けてくるガーディの、汚れた背中に腕を伸ばしつつ、俺は改めて目の前に広がっている瓦礫の荒野を、新たな気持ちで見詰め直して見た。 

 そうだ――俺はもう、死んでいるのだ。

 この町が瓦礫の山と化し、家族や友人が遠い所へと旅立ったのと同じ様に、今や俺は一度死んでいなくなり、積み上げて来た一切のものも、一度全て清算された状態にあるのだ。
 それは究極的な喪失を意味するものかもしれないが、同時に全ての柵を取り払い、自らを過去と過剰な自意識の呪縛から解放する、自由への最高の切り札でもあるのでは無いのだろうか。

『オマケの人生』と言う言葉も、今の自分になら、すんなりと受け入れられた。……何故なら、嘗て過ごしていた人生を、俺は心から愛していたから。
 両親も兄弟も、知人も友人も。赤の他人が全く眼中に入らないほどに、俺は自分の知るコミュニティの中だけに神経を使い、それに見合った愛情を、自分の見知っている世界の内に見出していた。
 しかし、最早それは、何処にも存在してはいない。俺の生きていた世界を構成していた彼らが、この地上から完全に消滅してしまった時点で、既に俺の本来の人生は、事実上終わりを告げていた。

 俺は一度死んだ人間としてオマケの人生を歩みつつ、改めて自分に出来る事を、考え直していく事にした。



 それから後、俺はカントーのあちこちを回りながら、瓦礫の撤去作業や遺体の埋葬と言った、震災の後始末で糊口をしのいだ。
 炊き出しや支援物資は確かに受け取る事が出来たが、食い盛りのポケモンを連れたまだ若い男が生活して行くには、それだけでは物質的にも精神的にも、全く足りなかった。

 やがてそれらが一区切り付くと、今度は幾十万とも知れぬ罹災者達の為の、仮設住宅の建設に携わる。
 けれどもそれにしたって、空き地と言う空き地にバラックを建て増ししたところで、数量的には到底追いつくものではない。勢い住む所にも事欠いていた俺達は、結局震災直後と同じく各地を流れながら、雨露が避けられるところを探して、草に枕の生活を送るしかなかった。
 そんな中、漸くだんだんと生活が安定し始めるに従って、俺は徐々に新しい捨てられポケモン達を受け入れ、世話をするようになって行く。……あの時諭された、『オマケ』と言う人生観。それに対する俺なりの答えが、捨てられたポケモン達を受け入れて、共に生活して行くと言う選択であった。

 また、幾度かはあの時世話になったクソ親父のところに、顔を出した事もあった。
 別れ際に話したところに嘘偽りは無く、事実彼は町の警察署長であり、訊ねていけば快く迎え入れて、土方の紹介状を書いてくれたり、当時立ち上げたばかりの、捨てられたポケモンを保護して訓練すると言う事業に対し、行政的な手続きに手を貸してくれたりした。
 しかし、最終的には幾度かに渡って助力を願ったものの、基本的に最初に尋ねた時以外は、どうにも手が塞がっている時場合の他、手を借りる事は無かった。何故なら、彼は何時顔を見せても急がしそうで、また多くの問題を抱えていたらしく、初めて訊ねた時から、頼り続けるのは良くないと憚らせる何かがあった。

 それが何だったかは、彼が死んだ時に明らかになった。
 逝去の伝聞を聞いた当時、時代は既に戦争一色に塗り潰されつつあり、俺は自らが保護している捨てられたポケモン達に、『御国の為に』役立てるよう様々な訓練を課すべきだと言う周囲の圧力に晒され、苦悩している最中であった。
 それでも何とか時間に折り合いをつけて、事業所の切り盛りをボランティアの職員達に任せ、葬儀の営まれている場所へと駆け付けた俺の目に飛び込んで来たのは、何十人何百人と集まった、異国の言葉を口にする参列客達の姿だった。……其処で俺は、既に本当の死人となって棺桶の中で眠っていたあのオッサン―最後まで、『クソ親父』と言う呼び方を改められなかった、あの恩人―が、あの大震災の直後、デマが元で狂乱した千人近い暴徒の群れから、保護を求めて逃げ込んで来た数百人もの異邦人達を匿って、たった一人命がけで守り通したのだという事実を聞かされたのだった。

「彼らを殺すと言うのであらば、先ずこの私を殺していけ!」

 荒れ狂って武器を携え、殺気立ったポケモン達を率いて警察署を包囲した暴徒達を前に、彼は我が身を盾にしてそう叫ぶ事で、怯え慄く数百人の無辜の命を、無事に騒乱が収まるまで匿い切った。

 その話を聞かされた時の衝撃は、生涯忘れ難いものとなった。
 また、同時にそこには、あれほど簡単に現実から目を背け、自分を見失ってしまっていた、己自身への羞恥の念も含まれていた。
「何処の誰であろうとも、人の生命に変わりは無い。それを守るのが自分の役目である――」 最早記憶の中の人間となってしまった彼は、生前そう口にした事があったのだと言う。
 その『何処の誰』と言うものの中に、自分と言う恐ろしくちっぽけな存在が含まれていた事が、堪らなく申し訳なく、またそれ以上に思い出深く、忝かった。

 結局一度も、はっきりとした礼を言えぬずくだった。
 あの時口にした焼きむすびの美味しさも、無意識の内に縋ったその手の頼もしさも、水平線から昇る朝日が、一度は死に絶えた町のあちこちに築かれ始めた、拙い造りのバラックを照らし行く際の言葉に出来ないほどの感動も、遂に伝える事が出来なかった。
 ……しかし、彼がその様な言葉を必要とはしない人物である事も、短い時間であれ共に過ごした俺には、良く分かってもいた。



 それから、また数年が過ぎた。
 世の中はもう完全に戦争一色に染まり切っており、俺が拾い育て、共に暮らして来たポケモン達の多くも、各種召集令状や拠出命令によって次々と引き抜かれ、過酷な戦場に向けて旅立って行った。
 周囲は熱狂的に総力戦を叫び、俺自身もそれが避けられない運命だとは諦めていたものの、それでもやはり一匹でも多く、無事に帰って来る事を祈らずにはいられなかった。

 やがて戦局は傾き、戦いが不利になるに連れて、各地の都市は爆撃を受け、次々と焦土と化していく。あの震災から漸く立ち直ったカントー各地の都市も、再び見渡す限りの焦土となり、俺達やポケモン達、それに亡きおやじさんらが流した汗も、再び一握の灰燼に帰した。
 掘り返された土の中に身を寄せ合い、腕の中で震える小さなポケモン達や、怯えて泣きじゃくる幼い子供達を励ましつつ、俺は再び前に向けて歩み出せる時が来る事を信じ、残された仲間達共々、辛抱強く耐え続けた。


 そして遂に、戦争が終わった。
 各地から大勢の人間やポケモン達が復員し、再会を喜ぶ歓声が町を覆う中、それと同じか或いはそれ以上の規模で、失った者達の存在を嘆く、遺族の慟哭が木霊した。
 俺達の周囲も、やはり似たようなものであった。嘗て共に笑いあい、夢を語り合った職員の多くは帰らぬ人となり、またそれ以上のポケモン達が、二度と住みなれた我が家の敷地に、羽を伸ばす事が出来なかった。
 ……その中には、一番最初に知り合って、それからずっとパートナーとして俺を支え続けていてくれた、あのガーディも含まれていた。

 けれどもあいつの死は、決して無駄にはならなかった。
 戦争が終わった翌年、漸く再建の糸口をつけたばかりの俺達の事業所に、前線であいつの最期を看取ったという、一人の復員軍人が尋ねて来てくれた。
 不自然なほどに痩せていて、あまり顔色も良くないそんな彼の話によると、『最悪の激戦場』と呼ばれた南方の孤島に送られた彼らの部隊は、既にウィンディに進化していたあいつの活躍のお陰で奇跡的に全滅を免れ、無事撤退に成功して生還出来たのだと言う。
 装備も物資も不十分なまま、殆ど体一つで上陸させられた彼の部隊の兵士達は、時を移さず食糧不足に陥って、激しい戦闘が続く未踏のジャングルの中、敵との戦闘すら待たぬままに、次々と行き倒れて行った。……やがて戦いの帰趨が完全に定まった時、漸く撤退命令が出たものの、既に飢えさらばえて体力も残っていない彼らには、遥かに優勢な敵の追撃を振り切り、脱出の為の艦船が集う遠く離れた海岸線にまで後退するなど、到底不可能な事であった。

 そんな中、身動きの取れない友軍の撤退援護の為に派遣された殿部隊に、あのウィンディがいたのだ。
 数百キロを越えるスピードで疾駆する事が出来る伝説ポケモンは、前線で孤立していた彼らの下に駆けつけてくれたその日から、押し寄せてくる敵軍を先頭に立って食い止めつつ、その合間に歩く事も出来ない兵隊達を遠く離れた終結地まで運んだり、帰りに最早目にする事すら夢となっていた配給食料を届けてくれたりと、部隊の全員が後退し終えるまで、あらゆる面で彼らを支え続けた。
 ウィンディに助けられたのは、彼の部隊だけでは無い。孤島のあちこちに取り残され、最早二度と生きては帰れないと絶望し、悲嘆に暮れていた多くの傷病兵達が、ウィンディを始めとするポケモン達の献身的な働きによって、瀬戸際の所で危うい命を拾う事が出来た。

 しかし、そうやって奔走してくれたポケモン達の大半は、表情を曇らせて語る彼の見ている目の前で、その活躍が報われる事無く命を落とした。
 いよいよ撤退が始まり、最後の艦が浅瀬にのし上げたまさにその時、遂に敵軍の最前線が、撤退活動を察知して、収容地点に殺到してきたのだ。
 砲撃が激しくなり、収容予定者達がパニックに陥りかける中、突如収容を待っていたポケモン達の一団が、敵弾の飛来する方角に向け、一斉に進軍を開始したのである。……その先頭に立っていたのは、間違いなく彼をこの浜辺まで運んできてくれた、あの伝説ポケモンであった。
 やがて激しい戦闘音がジャングルの中から聞こえ始め、それに応じて敵の砲弾の着弾位置が、フネの停泊している海岸線から離れたその隙に、残っていた者達は、一人も余さず乗船を完了した。
 彼ら命を助けられた陸兵達は必死に懇願したものの、そんな状況で待機行動が取れる筈も無く、人員を満載した駆逐艦は、必死に人柱となって戦っているポケモン達を残して、『地獄』と呼ばれたその島を後にしたのだった。

「あのポケモンがいてくれなかったら、私達はこうして祖国の土を踏む事も無く、全員があの孤島の片隅で、骨を埋める事になっていたでしょう」

「彼らが、我々の命を救ってくれたのです――」 すすり泣きながらそう口にする、目の前のやせ細った人物を他の職員達と共に慰めつつ。
 俺は一人頭の中で、あいつとの思い出を遡りながら、誰にも気付かれぬようそっと顔を俯けて、寂しげな笑みを浮かべていた。

 初めて出会った時の、あいつの顔が思い浮かぶ。
 限界まで腹を空かせても、絶対亡骸には手を付けようとせず、一度は無くした人との絆を、求め続けていた子犬。
 住む所も無く野宿を繰り返していた時には、板に噛み付いた時に出る小さな火の粉を借りて暖を取り、寄り添って眠る寒い夜には、何時の間にか懐に潜り込んで来ていた。
 小さな見た目によらず力持ちで、瓦礫の撤去も進んで手伝い、作業の合間の休憩時間には、近所の子供らが投げる木の板やボールを、喜んで追い掛け回していた。

 ホンの小さな偶然から繋がれた、一コの命。
 あの時やせ細って、思い詰めた表情で焼きむすびに釣られた一匹のポケモンが、今こうして大勢の人間達の運命を変える事になろうとは、一体誰が予想し得ただろうか――? 

 今では婚約者も決まり、こうして遠隔地まで御礼を伝えに行く事も出来るようになったと話す彼の言葉を聞きつつ、俺はあいつが生きた『オマケの時間』の、確かさな力強さを感じていた。



 その時の縁が元となり、改めて嘗ての戦友達の間を巡って彼が奔走した結果、戦争で活躍したポケモン達を支える基金が、俺達の事業所を基盤に設立された。
 長く激しい戦の間に、ポケモン達によって救われた人間は数知れず、やがてその動きは大きなうねりとなって、犠牲になったポケモン達を追悼する、記念碑の建設へと発展していく。

 建設予定地は、シオンタウン。
 俺達が切り盛りしている事業所の近くに、その記念碑は建てられる。
 ……当初は石碑程度のものになる予定だったのだが、全国から寄せられる寄付は引きも切らず、やがてそれは建築物に姿を変え、最終的にはポケモン達の慰霊を祭る、巨大な塔として完成を見た。

 現在はカントー各地のポケモン達が眠っており、すっかり歳を食ってしまった『私』は、本来の福祉施設の経営の傍ら、この塔の管理人の一人として、毎日参拝も兼ねて其処に足を踏み入れている。


 ……今私は、一人の客人が尋ねて来てくれるのを、じっと待っている。
 昨日塔で起きていたいざこざに際して、非常に世話になった彼に対し、御礼をしなければならないからだ。

 やがて長い年月を経て、既に骨董品と化しつつある施設のインターホンが、古き時代の名残もそのままに、建物の中に響き渡った。
 それを聞いた私は、腰掛けていた椅子から「よっ」とばかりに立ち上がり、建物と同じく時代物めいた机の引き出しを開けて、中から一本の笛を取り出し、利き手に持ったまま歩き出す。
 玄関口から入って来た客人―赤い帽子を被った、一人の少年―に声をかけると、私はそちらに歩み寄って、彼に改めて昨日の礼を言った後、こう切り出した。


「さて、レッド君! ポケモン図鑑を完成させる為には、ポケモンへの深い愛情が無くてはならない――」





END
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