Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.1 ) |
- 日時: 2010/10/10 22:33
- 名前: 海
- Page 1 : 本日は快晴なり
太陽が長い時間を経てようやく顔を出す。眩しい光が辺りを真っ直ぐに照らしていく。 そのあまりの眩さにその少年はかったるそうに、苛つきつつ深緑の眼を細めた。冷たい空気が創り出した風に身を震わせ思わず縮こまる。
何の音もしない。いや、音はしている。 彼の乗っている真っ白な美しい毛並みのポニータが、乾燥した地面を優しく蹴りながら歩いている音だ。 そのポニータの瞼も彼と同じように少し閉じぎみである。太陽のせいか、あるいは眠気のせいか。恐らくの原因は二割が朝の太陽に対する眩さで、八割は眠気である。時々何かを訴えるように頭だけ振りかえっては少年の方に大きな目を向ける。
照らされた風景はなんとも平凡で静かな田舎である。 田圃ばかりがただひたすらに辺り一面に広がっており、変わったものは何もない。それが尚一層眠気を増幅させるきっかけとなっている。 道も舗装されているわけもなく、細い砂の道だ。だがポニータにとっては舗装された固くて冷たい道よりも、砂や草原などの自然のままの道の方が好みなので、好都合である。 だがそんなことも言っていられないくらい、ポニータはいよいよ不機嫌そうに鼻息を荒くしている。 少年はそれを見て見ぬふりをし、少し眠たげに軽いあくびをした。
「何もないところだな……」 彼のその言葉に賛同するように、ポニータは眠たげな声を細々とあげ、ゆっくりとうなづく。 少年はその様子にそっと微笑んで、ポニータの柔らかな頭を優しく撫でる。そして、もうすぐだから、と耳元に声をかけた。 若干不満げな表情のポニータだが、諦めたように溜息をついた。
ふと、少年の目にある家が目に入る。地震が起これば、あるいは突風が起こればすぐに倒れてしまいそうな小さなボロボロの木造の家である。 詳しくはその家の前にいる人に、目がとまった。
子供だった。 七、八歳といったところかくらいの、小さな女の子である。黒い髪の毛は整えておらず、自由奔放に跳ねていた。 泥で汚れた服を着ていて、裸足であった。可愛らしい顔も汚れている。真剣な顔つきでせっせと身体を動かし何かをしているようだが、何をしているかまでは遠くにいる少年の瞳に明確に映らなかった。 けれど自然と理解はできた。ふうと溜息をつく。
「ここも、か」 その声は憐れみでも悲しみでもなく、 諦め、に近かった。
*
―今日もウォルタはとてもよいお天気に恵まれ、絶好のお出かけ日和となるでしょう―
小さな部屋の机の上にある小さなラジオの中からお姉さんが、恐らく満面の笑みと共に言葉を発している。 そしてその声に呼応するように、窓からのぞく空は雲ひとつない青空が広がり、太陽はサンサンと地上を照りつけている。確かに絶好調すぎるくらいに眩い太陽。 時計の針はもうすぐ朝の九時を指そうとしているところだった。
彼女は、ラーナー・クレアライトは栗色の長い髪を懸命にくしでとかしていた。 部屋の中の机に少し大きめの鏡を置き、それを見ながら必死に身だしなみを整えている。その動きはおぼつかない。
「ああーもうっ時間がきちゃうじゃんっ」
寝坊をしてしまったのだ。昨日夜遅くまで部屋で遊んでいたのがいけなかったのだ。 世間一般では休みの日だけれど、朝早くから予定がラーナーにはある。チラチラと壁にかけてある人気のキャラクターの時計を見る。 無情にもそうしている間にも時間は過ぎていく。秒針は小さく音を立てながら時を刻む。
―それではおまちかねの、今日の占いにいきましょう!― 時計はもうすぐ九時を指そうとしている。ラーナーは赤いゴムを取り、鏡を見つつ急いで髪を高い位置で一つに束ね、結ぶ。
―今日の一位は! 魚座のあなた!― 残念ながらラーナーは魚座ではない。耳をちらりと傾け、自分の星座が何位かを気にする。 次々と早口でお姉さんは星座の名前やらラッキーアイテムやらを読んでいく。早口言葉が苦手なラーナーは、どうしてお姉さんはそんなに早口で話ができるのか、永遠の疑問である。 しかしなかなか自分の星座は出てこない。まさか。嫌な予感が脳裏を走る。いやそんなことあってたまるか。そうは思うもいよいよ十二番目まで出てくることは無かった。
―残念ながら最下位のあなたは、双子座のあなた!―
「――っ」 思わず彼女は手を止め、ラジオの方を見る。
―いろんなところで転んじゃうかも。足元には気をつけて!家の中にいた方が安全?― どういう意味だ、と心の中で叫ぶ。今これからまさに家を出るというのに。
―そんなふたご座のあなたに、もやもやを吹き飛ばすラッキーアイテムをご紹介!― その言葉にラーナーはぴたりと急かしていた動きを止める。 急いでいるのにもかかわらず手を止めて、ラーナーは全神経をラジオに集中させる。お姉さんは少し間を置く。
―赤いキーホルダーを常に身につけて! そうすれば運命の出会いがあるかも……?―
「……」 ラーナーは決して占いを信じているわけではない。けれどそんな風に言われると、信じていなくともやりたくなるのが人間。 彼女は前に友達とお揃いで買った赤い星のキーホルダーを机の右の引き出しから出して、デニム生地の短パンのポケットに乱暴に入れる。 キーホルダーとしての役目とは全く関係のない可哀そうな使われ方である。
「……出会い、か」 何かを思い出したように、彼女はぼそりと呟く。俯いた瞳がおぼろげに光る。 とても近くで聞こえているはずなのに、彼女にとってはどこか遠くで発せられているような電子音が部屋に空しく響く。
数秒、彼女の中で、時間が止まる。 現実の時は、ただ過ぎてゆく。
賑やかな占いのコーナーが終わる。その瞬間唇を軽く噛んで、乱暴にラジオの主電源を叩くように切るラーナー。 と同時に時計は九時を指す。どこか彼方の方でそれを知らせる鐘の音が鳴り響いていた。ウォルタ市内中心にある名物の古い時計台の鐘だ。 それに呼応するように窓の外で白い小鳥達が可愛らしい鳴き声で羽ばたく。青々とした木の葉が優しく揺れる。
風の音。
「……行かなきゃ」 絶対に間に合わせなければならない。何が何でも。 一年に一度だけ来る大切な日。大切な時刻。 椅子に置いていた荷物を取る。ベージュのショルダーバッグだ。それは小さく簡素なもので使い古されている。 彼女は急いで、まるで逃げるように部屋を飛び出した。そう、止まっている場合などではないのだから。
外の世界は朝から活気づいていて、人々の笑顔が溢れんばかりに走り回っていた。 水の町と呼ばれるウォルタは今日も大勢の人で賑やかで平和。それは日常的な景色。 今日もいつもと同じような平凡な休日になる。そんなこと、当たり前すぎて誰も考えてすらいない。
それでも物語は、既に始まっているのだ。 例えそれが、どんなに先の見えない暗闇の中に歩いていく道だったとしても。 それでも物語は、既に始まっているのだ。 例えそれが、どんなに涙を止めることのできない道だったとしても。
It continues...
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.2 ) |
- 日時: 2010/10/11 15:46
- 名前: 海
- Page 2 : ウォルタ
「……んぁあねむ」
大きな欠伸をしてその少年は呟く。かれこれ何時間起きているのだろう。考えるだけでも寒気がしそうだ。 何しろ寝ようとすると瞬時に彼の乗っているポニータの怒りが襲いかかる。機嫌やら寝不足の度合いにもよるが、最悪だと振り落とされる。 自分が頑張って眠気を堪えて人間を一人乗せて歩いているというのに、何の苦労もしていないからといって乗っている人間が寝るのは気に入らないらしい。 過去に少しうたた寝をしただけで、丁度渡っていた川に前触れもなく落とされた経験がある。幸い軽傷で済んだが、川によっては溺れるかもしれないし、重傷患者として病院に運び込まれていたかもしれない。 その恐怖から、それ以来彼がポニータに乗っている間に眠ったことはない。
時間はあれから随分と経ち、太陽はだいぶ高い位置に昇り、周りの雰囲気も明るいものになってきている。寒ささえ感じた気温も上がってきた。 町が近いのだ。現にもう目に見える先には建物の集落がある。あと数分歩けば町の中に入れるだろう。
ウォルタ。 巷では別名水の町、とも呼ばれている。 そう言われているのは、その名の通り水が豊かであるがためである。 近くの山から流れる川がいくつもあり、その一本一本が透明に透き通っていて、太陽の光に星のように煌めく。夏になると子供が水遊びをするようになるそうだ。 町の中心地にはウォルタのシンボルとも言える巨大な噴水があり、そのデザインもなかなか凝ったものだと聞いている。 人口が多い都市であるが古い街並みが未だに残っており、中心部のやや東の地点には、市内一の高さを誇る時計台がある。少年が歩く場所からもそれはもうよく見えた。
そんな事を思い返している間に、ポニータは町の中へいよいよ歩みこもうとしていた。 心なしか足取りが速い。恐らくは早く休みたい、眠りたいという願望からだろう。しかしそれは少年も同じ。 何しろ夜中からずっと起きて歩いていたのだ。歩いていない少年も同じ姿勢だったために、そろそろ尻が限界というほどに痛みがじんわりとあった。
ようやく町の中に入る。道の端にある小さな標識には「ウォルタ」と短く書かれてあった。 ウォルタは石でできた家が多く、道も滑らかに削られた石が並べられてできている。そこを様々な人達が笑顔で行き交っている。 石でできているせいか、落ち着いた印象のある町であった。そして視界には川が入ってくる。 自分たちの歩いている場所より少し下の方。石の壁に沿って、爽やかな音をたてて流れていた。噂で聞いていた以上に美しかった。爽快感溢れる水の音に心踊らされるものがある。 川岸は石でできた段で固められ、子供が遊んでいるのか叫びながら走り回っていた。見ている方としては少し危なっかしい。 車が軋むエンジン音と共に石の道路を次々と走り去ってゆく。
人が多い町だった。時間帯的に見ればまだ休日の朝だというのに大人も子供もまんべんなく歩道を歩いている。 しかしその間を縫うようにやってくる自転車は相当危ない。気をつけないとそのタイヤにひかれてしまいそうだ。 けれど少年にその心配はなかった。ポニータは慣れているように器用に人も自転車も避ける。あちらも勿論避ける。その過程でほとんどの人が物珍しそうに見ている。 ポケモンをモンスターボールに入れずに歩いていると、必ず同じ反応をされる。それはどの町も共通していた。そもそもポケモンを持っているという時点でその人間は珍しい存在になる。そういう国なのだ。 出会う人々の眼は興味ありげな光をともしていたり、あるいは迷惑そうに睨みつけていたり、反応は様々だ。
高くそびえ立っている町の自慢の種の一つ、古く白い時計台は、少し九時を過ぎたところだった。
少年は溜息を吐きながら自然とその時計を目を細めて見た。その表情には疲労の色がはっきりと表れている。 とりあえず一休みしたい。いっそここで今日は一日を過ごしてしまおう。 たまにはいいだろう。 そう思った彼の心をまるで読んだかのように、ポニータは嬉しそうに喉をうならせた。 少年は優しく、柔らかいポニータの長い首をそっと撫でてやった。燃え盛る炎は彼にとっては熱さなど感じさせなかった。 と、この町の地図と思わしき木の看板を見つける。少年はそっとポニータに声をかけ、慣れた足取りでスルリと降りる。 やはり地図。ウォルタの一部が大きくピックアップされ、詳しく載っていた。誰でも分かるようにするためか、低めに立てており点字等も御丁寧に打ってあった。バリアフリーという言葉が連想される。
「宿屋は……と」 彼は目で地図を見回した。できればホテルのような所ではなく、落ち着いた雰囲気の宿屋が丁度いい。 町の中心を最初は探していたがどうも理想のものは無さそうで、徐々に探す範囲を外側へと広げていく。
「……あーここでいっか」 ポニータが覗きこんでくる。温かい吐息が少年にかかる。草の匂いも一緒に吐かれている。ポニータは食事として普段は雑草を食べているせいだ。 少年は右手の人さし指でその場所を指す。町の端の方にある、辺りがあまり賑やかでないことを予感させる場所だった。あらゆる建物の名前が密集している中心地に対して、そこはむしろ過疎地のように空白が多かった。 幸いここから近そうだ。少年は道やその周りにある建物を入念に見て頭の中に焼き込む。 こういうことには慣れていた。ずっと、ずっと前から。
「行こう」 ポニータに声をかけた。今度は自分の足で地を歩く。 少し帽子を深く被り直す。前髪が顔面を覆うようにかかる。まるで誰にも顔を見られたくないかのようであった。 ほんの少し遅れてポニータも彼の横を歩く。炎がそっと揺れている。
ここは賑やか過ぎて、彼には少し眩しい場所だった。
*
「ありがとうございましたー」
笑顔でお礼の言葉を交わす。硬貨を払う音。チャランチャラン、と耳に何故か心地よい音。そしてラーナーは軽い足取りでバスを降りた。 降りるのはラーナーの一人だけで、乗りこむ人も居なかった。だから、ラーナーが降りた途端に扉は音を立てて閉まり、バスは発進した。 少し砂を巻き上げてその場を離れていく。 ラーナーはしばらくその汚れた赤い小さなバスを見送る。どんどん小さくなっていく。他に車はない。
改めてラーナーは周りを見渡す。太陽の日差しが強く、手を額に当て目元に日陰を落とした。 何とも静かな場所だった。ウォルタ市内でありながらも、中央区とはかけ離れたような田舎。人でさえ一人も見当たらない。 柔らかな緑が風に揺れてサラサラと音を奏でている。と共に川の流れが作り出す美しく爽やかな音のハーモニー。 耳を傾けると自然の織りなす様々な音が跳びこんでくる。これは都会では得る事の出来ない安心感を誘ってくれる。 空気は柔らかい。自然の息吹を感じる。夏の度を超えた暑さを持つ太陽の光さえも、何故か心地よく感じられた。 家も少ない。見渡せば数えるほどしかない。所狭しと建物が並ぶ中心地とは大きく違い一つ一つの家が点在している。実に落ち着いた場所だった。 ラーナーは思いっきり深呼吸をして身体中に新鮮な空気を満たすと、口元に笑みを浮かべながら歩き始める。
「ン〜……ンンンン〜」 鼻歌までしている。気分は好調。何しろバスに遅れると思ったのに、見事に間に合ったからだ。あやうく発進しかけたが、運転手が運良く気付いてくれたおかげだ。 人間、全力で走ればなんとなるものだ。その過程で恐らく沢山の人に迷惑をかけたのだけど。脳裏にぶつかりかけた人々の表情が浮かんでくる。 軽い足取りで乾いた地面を進んでいく。右方向に小さな古い家が立っていてその横を抜けていく。
曲がり角。見慣れた道。風が流れる。草が揺れた。折り重なるように波打つ木々。
「……あ」 「あ」
思わずはっと立ち止まる。 いわゆる反射というやつだ。
彼女にとって見たこともない男の子と、ポニータだった。
それが、彼と彼女の出会い。
It continues...
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.3 ) |
- 日時: 2010/10/16 22:00
- 名前: 海
- Page 3 : 時
「すいません」 そう軽く言ってからラーナーはヒョイと少年とポニータの横をあっさり通り抜け、また普通に歩きはじめた。
変な人。こんなに暑いのに長袖に長ズボン。しかもポケモンを出してる。 一瞬だけそう思いはしたラーナーだったが、すぐに脳から忘れ去られる。 道端で出会っただけの全くの赤の他人同士で、そんなに干渉し合うわけがないのだから。 彼女の乾いた地面を歩いていく軽い音が、消えては出てきて、消えては出てくる。足元から飛び出すリズム。 だんだんと少年から遠ざかっていく。行き先はとうの昔に決まっているし、そこに何度も彼女は行ったことがあるから道に迷うこともない。 温い風が正面からやってきて、長い髪がふわりと揺れた。
それに対して少年は、立ち止まっていた。動こうとせずに、ラーナーの向かっていった方を呆然と見つめていた。 息を呑み、深緑の目は先程までの眠気を忘れたように見開いていた。彼女を見た途端に跳ね上がった心臓は今も激しい鼓動を続けている。 頭の中に甦ってきた鮮明な記憶に沿いながら自分の状況を確認するように考え込む。 強い日差しが彼らを刺すように当たり、立ち止まっているだけで汗が流れる。が、その汗もただ単に暑さから来るものだけではなく冷や汗も混じっていた。 もちろん彼の瞳には、もうラーナーの姿は映っていない。彼女は角の向こうに姿を消した。
太陽を反射して、彼の帽子の上にある大きめの黒いゴーグルが太陽の眩さを受け光る。
「……今の人って」 思わず喉から飛び出してきた呟き。その言葉にポニータは少年を振り返る。 彼女はただすれ違っただけの赤の他人。それは彼にとって何一つ間違いのないことだ。 けれど。
「……チッ」 軽い舌打ち。ポニータはそれを見て、不思議そうに首を傾げる。 それが視界の片端に入った少年はポニータに視線を移すとそっと白い首の毛並みを撫でて、下から視線を真正面から合わせる。 何かを語るかのようにじっと。ただ、じっと見つめる。 数秒、ずっとその状態のまま固まっていた。そのうちに、ポニータはさっきの少年と同じようにラーナーの消えていった方を見つめた。元々大きな瞳が、更に開かれている。 風がそっと通り過ぎて、少年の髪を撫でるように揺らす。
「ほんとかどうかは分からない。だけど、顔が瓜二つだ。それに、あのブレスレットは」 そこで一度言葉を止めて、ポニータと顔を見合わせる。それから厳しい表情を崩して溜息をついた。
「行くか」 少々諦めたような声に、ポニータは溜息をつき、続けざまに欠伸をした。 それにつられ眠気が戻ってくる少年の瞳。瞼が半分閉じているが、覗いている瞳は何か決意したように、一種の獣のように光っていた。 歩き始める。方向はラーナーの向かった方。 本来の彼等の行き先は、それとは全く逆の方向にある、静かに寝ることができそうな宿なのに。 “赤の他人”を追いかけるように、少年とポニータは元来た道を辿っていくことにしたのだ。
角を曲がる。が、ラーナーはもう既に見当たらない。 不意に立ち止まる少年だったが、唇を噛みしめて目を閉じ、耳を立てる。その瞬間、凄まじい集中が辺りを呑みこむ。彼の周りの空気が急速に冷えていくような雰囲気で包み込んだ。 ポニータは何も気にしていないのか、穏やかな目で少年を見つめていた。 と、また瞼をそっと開ける少年。途端に、彼の周りの空気が何もなかったように正常に戻る。糸をピンと張ったような刹那の緊張感が消えた。 しばらく静止していたが突然また歩き出し、ポニータは慌てて少し遅れて追う。
独特の石の道路には人が誰もいない。 川のせせらぎが彼方で流れている。涼しげで清流を思わせるような透明の音だ。 近くに茂る林の青々しい木の葉が風に揺れ擦れ合い、音を立てる。自然の音と彼らが歩く音しか辺りには無い。
荒々しい足取りは速い。 そのうちに二つの右と左の分かれ道に出会う。正面には少し深そうな広葉樹の林が広がっていた。 しかし彼は一瞬も迷う素振りを見せず、左には目も暮れずさっさと右の方へ歩みを進める。右は少しなだらかな上り坂。 彼は正にラーナーの歩いていた道を辿っていた。彼女の行き先を知らないのに。彼女の足跡が残っているわけでもないのに。 その道は、確かにラーナーの目的地への道だった。
「……くそっ」 彼は苛立ちを露わに、少し歩くスピードを進めた。額から落ちるのは暑さに対する汗かそれとも冷や汗か。 空は眩しいほどに青く、雲一つない日本晴れ。
*
彼女の腕の中には、数えきれない位のたくさんのシロツメクサがある。 道中で咄嗟に草原から摘み取ったものだ。あまりにも急いでいたために花を用意しておくのを忘れていた。 せめて、昨日にでも買っておけば良かったと後悔はした。が、きっと許してくれるだろうとあっという間に開き直った。 それでもさすがに何も無いのは悪いと思ったから、溢れんばかりの白い花々を摘んできたというわけだ。歩いてきた道沿いに群れているように咲き誇っていたのだ。
軽い足取りである。光と影の織り成す綺麗な木漏れ日の中を、絶えず笑顔をこぼしながら歩いていく。何がそんなに楽しいのか、それは彼女自身もよくわかっていない。 風で木が揺れると、木陰も同じように柔らかく揺れる。それと同時にポニーテールの彼女の髪もさらさらと風になびいた。 今までとは一転して砂利でできた道だったため、足音が辺りに分かりやすく響く。 その彼女の歩く道沿いに連なるようにあるのは、紛れもなく墓、だった。灰色の大きな個体が静かに並んでいる。それはある意味で不気味だった。 ラーナーが来ているのは、ウォルタ市街の外れにある、比較的小さな墓地である。 朝早いせいなのかそれともただの偶然か、ラーナーの他に人はいない。いると言えば朝に可愛らしく鳴く小鳥くらいなものだ。 少し時間がずれると、お年寄りが数人訪れ手を合わせている風景が日常的になるのだが、今は彼女一人。 それはこの日だと毎年のことだから、ラーナーは何も気にしていないけれど。
油蝉の声が辺り一帯に響き渡る。夏の真っ盛りの時期に比べればそれほどうるさくはないが、聞くだけで暑苦しくさせるのはどんな時も同じだ。 よく聞いてみれば油蝉の他にもミンミン蝉の鳴き声も遠くからしている。 鼓膜を揺らして頭の中を鳴らすようなその声だったが、もう彼女にとってはそれも慣れたことだ。
ようやく、彼女の求めていた場所に来る。 そこは広い墓地の中でも、かなり奥の方だった。
「ふう」 少し安心したようにしゃがみ込む。同時にそっとシロツメクサの束を墓前に置く。他に比べると黒いその墓に対する花の白さは、少し眩しすぎるくらいだった。 と、思い出したように慌ててベージュのショルダーバッグの中を右手で探る。 そして右手に握られて出てきたのは花の絵が掘られた懐中時計。金属製だが所々が錆びていて、とても新しいものとは思えなかった。 かち、と上のボタンを押す音と同時に、閉じた貝がぱっと開くが如くに蓋が開く。 時計の文字盤。古いものだが働きは現役である。立派に秒針がかちかちと音をたてながら、時を刻んでいた。 九時三十四分。もうすぐ長い針が七の文字を指そうとしているところだった。 ほっとしたように彼女の口から安堵の息が漏れ、再び笑みがこぼれる。 そして改めて墓を見た。灰色の石でできたその小さな二つの墓を。
右の方には、リュード・クレアライト。 左の方には、ニノ・クレアライト。
そして両方に、ここに眠る、と彫られてある。
ラーナーには秒針による時を刻む音が木が揺れる音よりも油蝉の声よりも何よりも大きく感じられた。 その時、時計の長針が何事もなく七の文字を指した。 それを彼女は視界に入れると、そっと手を合わせた。静かに。
風がそよそよとただ吹いていた。暑いけれど柔らかな空気。 時が止まったようにただ静かで。 瞼を閉じて祈るその表情は今までの笑顔とは一変して切なげで、悲しげである。 ラーナーの周りだけ世界が、次元がまるで違うかのように。
その間もひたすらに時は過ぎていく。立ち止まることのない時間の中、ずっとラーナーは止まっていた。 息が詰まりそうなくらいに、ずっと。
人の名を刻まれた石碑は何も言わない。何も動じない。 なにも。
ザッ
そっとラーナーが瞼を開いたそれと同じタイミングで、彼女の背後で砂利を踏む音がした。 ほとんど無意識で彼女は振り返る、と同時に目の前の光景に眉を少しひそめた。
「……こんにちは」 ぼそりと呟くように挨拶したのはラーナーではない。相手の方だ。少し苛立ちと戸惑いが混ざり合った低めの声。仏頂面を構えてラーナーを見つめている。 彼女の目の前にいたのは、先程ラーナーと角でぶつかりかけた少年と、連れのポニータだった。
It continues...
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.4 ) |
- 日時: 2010/10/17 15:34
- 名前: 海
- Page 4 : 忠告
砂利の音を出したのはポニータの方。そっと気配を消し、音を立てないようにラーナーに近づいていたのだった。 一瞬息を詰まらせるラーナー。見覚えのある人だった。少し間が空いて目を見開く。思い出したのだ。数分前にすれ違った人がどうしてここにいるのか、彼女には理解できなかった。 少年はポケットから手を出して更にラーナーに歩み寄る。 改めてラーナーは彼を見た。濃い緑の帽子に大きなゴーグルが付けられ、その下から除くのは少し長めの深緑の髪とそれと同じ色の瞳。 柔らかな緑のフードの付いた長袖の上着の下には、灰色のTシャツ。そして下に伸びる黒い長ズボン。 肌がほとんど見えない。手と顔、それ以外には見当たらない。顔だって帽子と髪のせいでよく分からない。 夏のこの暑い時に着る服装ではなかった。見ていても暑苦しい。そんな服装であるために体格を知るのは困難である。
「こんにちは……」 彼女の喉から出た言葉は誰が聞いても明らかなくらい、不信感に満たされた低いトーンだった。 少年はその挨拶を流すと、ラーナーの前にある二つの墓を見やる。ゆっくりと目だけで墓に刻まれた文字を追う。 そして読み切ると眼を細め、軽く唇を噛んだ。軽く眉間にしわを寄せたその顔は、悔しそうに少し歪んでいた。 その様子を見たラーナーは更に怪しく思い、思わず口を開いた。
「あの」 「あんた、もしかしてニノ・クレアライトの娘?」 彼女の言葉が全て出てくるのを突然制し、彼は先に自分から質問を彼女に叩きつける。 唐突な質問に怯むラーナー。動揺して、目が泳ぎ始めた。 同時に身体の奥底からぐるりと溢れ出してくるのは苛立ちと憤怒。歯を強く噛み、突然立ち上がって少年と正面から向き合った。 あくまで強気な姿勢だった。栗色の瞳は怒りを交えた強い光を灯している。
「なんですか、あなた。初対面の人に対して。ていうか、さっきすれ違った人ですよね!? なんでここにいるんですか、ストーカー!?」 その言葉を聞いた途端に、ひく、と少年の眉間に更に皺が刻まれる。ラーナーの発言は彼の機嫌を損なったようだ。 「……先に質問したの俺なんだけど」 少年は氷のように冷たい声だった。表情の苛立ちがそのまま声に表れていて、思わずラーナーはその迫力に気圧されてしまう。 そんなラーナーの表情を横目に、ちらりと彼の深緑の瞳がラーナーの右の手首を見る。
「その手首にあるブレスレット」 「はい?」 「それ、ニノ・クレアライトのだろ。彼女がすごく大切にしていたものだ」 「……」
ラーナーの息が詰まる。思わず左手で右の手首を隠すように覆う。包まれたのは白い小さな石がワイヤーで繋がれているブレスレット。 太陽の光を反射すると星のように可愛らしく光る。 少年の言う通りだった。それはラーナーの母親であるニノが生前とても大切にし、いつも身につけていた。ニノが死んでからは、ラーナーが形見として毎日必ず右の手首につけている。 ラーナーは何も言うことができなかった。何も言葉が出てこなかったのだ。 目の前にいる赤の他人として記憶から忘れられるはずだった少年が、ラーナーの内面に突然切りかかってきたのだ。その攻撃をラーナーは防ぐことができなかった。 敬語を知らないかのようにずげずげと話すその口調と態度は、ラーナーを黙らせるのを手助けしている。 先ほどの強気の威勢はどこへやら。形勢は完全に少年の方が有利だった。
見た目は二人とも同年代と思われるのに、余りにも少年は冷静沈着である。一種の慣れさえも伺える。 瞳は真っ直ぐに、刃物のように鋭くラーナーを見つめている。一方のラーナーは少し顔を俯かせて少年と目を合わせようとしなかった。 どうして、と細々と小さな線香の煙のような声が、彼女の口元から漏れた。少し顔を上げる。
「どうして知ってるんですか……お母さんの、知り合い?」 その言葉を聞いた途端に、少年とポニータはちらりと目を合わせ、やっぱり、と少年は呟いた。あまりにも小さな声だったから、ラーナーの耳には届かなかったけれど。 ラーナーは少し首をかしげ、眉をひそめる。その様子を見て、はぁ、とあからさまな溜息を彼はついた。
「まあそんなところ。それより」 ブルン、とポニータは鼻に葉が付いたのを取ろうと頭を振った。 音をたてて強い風が過ぎ去っていった。ポニーテールの長いラーナーの髪が風の吹くままに踊る。ポニータの体で舞う淡い炎。 重なり合う林の音が耳に障る様に響いた。絶えることなく鳴り響いていた蝉の声が突如、途切れた。 揺れる前髪の下で少年の表情が一層引き締まったものになる。
「……なんですか」 何か嫌な予感がラーナーの脳裏をよぎった。空気が濁っているような息苦しさを彼女は感じた。 少年は何かをためらう様に一瞬目線を落とす。唇を噛んで拳を強く握ると、またラーナーの目を見た。 深緑の瞳と栗色の瞳の視線が再び絡み合う。
「忠告しとく」 決心した少年の目は、とてもその外見からは想像できないほど冷徹な光を帯びていた。冷たく鋭い氷の刃が深緑の奥に潜んでいる。 金縛りにあったように、ラーナーはその視線から目を逸らすことができなかった。 冷たい生き物が背中を這いつくばって走るような感覚がラーナーを襲った。一瞬、けれど確かに彼女の体が震える。 けれど対照的に太陽は高熱の光を地に浴びせている。それなのにどうしてこんなに寒いのか。ラーナーの半袖から伸びる白い肌に、今にも鳥肌が立ってしまいそうだった。 少年の唇が小さく動いた。
「あんた……このままじゃいつか、殺されるよ」
しばらく沈黙が続いた。ラーナーは呆然として言葉も出ないでいた。ゆっくりと言われた言葉を消化して理解しようとする。 ただあまりにも彼の吐いた言葉が現実味を帯びていないように彼女には感じられて、とても信じられなかった。 震えている唇を魚のように小さく開閉していたラーナーだったが、そのうち僅かに気持ちが安定してくる。聞き返すほどの力が戻ってくる。
「どういう……意味?」 「そういう意味だ」 「訳分かんない!」
即答した少年にラーナーはいらつきを露わに怒りを彼にぶつける。 もはやラーナーの言葉に敬語というものは失せていた。
「殺されたくないならなるべく静かに暮らせ。……勇気があるならウォルタを出た方がいい。それだけだ」 口調はかなり早口で、少し焦っているようにも感じ取れた。呆気にとられてまたラーナーは言葉が出なくなる。彼が何を言っているのかさっぱりだった。 温い風が吹き抜けて木々が騒ぎ始めた。 少年はいくぞ、とポニータに呟くように声をかけて、ラーナーに背を向けた。 頭をうなづかせ、、ポニータも後ろを向く。ただラーナーを気にしているのか、ちらちらと彼女を見ながらだ。 その様子を見たラーナーにはあっさりと逃げていくように見えた。一気に湧いてくるのは怒り。止められるものではなかった。
「ちょっと待ってよ! 言うだけ言って帰るわけ! 殺されるって、何の根拠もなしに……ふざけないで!!」 少年の背中につばを吐くようにラーナーは叫んだ。 一瞬その言動に足を止めた少年だったが、少し顔を振り向かせただけですぐにまた砂利道を歩きだす。耳障りな蝉の声と石を踏む音が絡む。
「ちょっと……」 言葉と同時にラーナーは自然と足が動いていた。小走りで少年に近付く。それに気付いていた少年だがあえて無視を貫く。 ポニータだけ足を止めてラーナーの行動に目を見開いていた。 ラーナーは右手を伸ばす。その手首にはめているブラスレットが激しく揺れた。きらきらと太陽を反射する。 その手は少年の右腕を掴もうとしていた。白く細い指が彼の上着を、腕目がけて伸びる。 途端、沈黙を貫いていた少年の様子が豹変した。振り返ると同時に目が鋭く光る。
「さわるなっ!!」 反射とも取れそうなほど、瞬時に少年は右腕を振り上げる。パン、という鋭い音と共にラーナーの手は弾かれていた。 ラーナーの右手に痛みが走り、思わずその手を抑え込む。表情は痛みに歪んでいた。言葉はない。 同時に少年の目も見開かれていた。肩が上下にゆっくりと動き、唇を強く噛む。帽子と髪に隠された額に冷や汗が滲んでいた。
「……すまない」 早口で小さな声で彼は謝り、そそくさと逃げるように足早にその場を離れた。 ラーナーの顔を心配そうに覗き込んでいたポニータはそれに気づいて、慌てて追いかける。彼等の足音がだんだんと遠くへ過ぎ去っていく。
その場に残ったのはラーナー一人だけ。 急に操り人形の糸が切れたように、ラーナーは地面に座り込んだ。足元のごつごつとした道が露出した足に当たり痛みを伴う。 もう痛みは右手に無い。しかし顔はただ呆然としていた。
小さくなっていく少年の背中を呆気にとられて見つめる。もう追おうとは思っていないようだ。 風が吹く。冷たい風だった。暑い毎日の中で珍しく心地よさを感じさせるほどの風。 が、ラーナーにとってそれは悪寒を増幅させるものの他ならなかった。まだ体が小刻みに震えている。それを抑えるように、彼女は左手で右腕をきつく抑える。 まだ鮮明に思い出せる。少年の瞳。冷たくて鋭くてそして真剣だった。恐怖さえ覚えるほど。 彼の言葉がラーナーの頭の中でひたすらに繰り返される。殺されるよ、殺されるよ。頭の中で重く響きわたった。
「なんなの……」 ようやく出てきた独り言は霞んでいて、誰に届けられることもなく空気に消えた。
*
ブルン、とポニータが頭を振る。 木陰。少年は淡いブルーのベンチに座って何かを頭の中で考えていた。さっきラーナーに掴まれかけた右腕を押さえながら。 表情は浮かない。心配そうにポニータは、少年の顔の前に頭を少し突き出す。それを見てハッと弾かれるように顔をあげた少年はハハ、と力無く笑い立ち上がった。 場所は錆びれたバス停のベンチ。青々と風に大きく揺れる林を背にしている。 別にバスを待っているわけではない。ただ座れる場所を探していただけだった。どこかに座って落ち着いて考えたいだけだった。少年は目の前の広い田舎を見つつ、口を開く。 瞳は相変わらずあの時ラーナーに忠告をした時のような、真剣な色を帯びている。
「あの感じを見てると、まだ気付いてないみたいだな」 ポニータに話しかけ、その言葉にポニータは一度だけ深く頷いた。 軽く舌打ちをする少年。
「奴らもそろそろ気付くだろ。……容赦ないからな。むしろ今まで何も無かったのが不思議なくらいだ」 右手に力がこもる。ポニータの目付きが瞬時に険しいものになる。 「…俺らも長くはここに居られない。けど、ほっとくわけにはいかない。恩を仇で返せない」 ちらとポニータを見る。真剣な眼。ポニータはこくりと頷き、一歩踏み出してクロが立ちあがるのを促した。 少年は思いっきり腕を上に伸ばし背伸びをする。自然と喉から漏れる声。そして腕を勢いよく下ろす。 改めて夏の青空を見る。真っ白い雲がどこまでも続く、吸い込まれてしまいそうな青の中、フワフワと心地良さげに浮かんでいる。 眩しそうに眼を細める少年。
「……とりま、まだ当分寝れそうにないな」 一変して笑って言う少年に、ポニータは少々残念そうにうなだれる。それを見た少年はポンと背中を叩いてやった。 とりあえず宿だけはとっとこうと少年は重い、白い石の道をポニータと並んで歩き始めた。
*
そこは真昼にも関わらず、暗闇に包まれていた。異臭が部屋に漂い、普通の人間ならまずそれに耐えられずに逃げ出してしまいそうだ。 闇の中で何かが蠢いていた。人間である。光のないその場所では、恐らく人間であるだろうという憶測しかできなかった。 時を正確に規則通りに刻む時計の音だけが、恐ろしく冷えた部屋に響く。それは夜の足音のようだった。しかし時計があったところでこの暗闇では今何時かは分からない。 かちゃ、という音がした。金属が何かに当たった音だ。 数秒たってからクッという笑い声。声というよりはただの音に近く、喉から思わず跳び出した、というそんなものだった。
「随分と丁寧に磨いているな」 闇の中で突如皮肉を吐いたのは、男の声。若さが伺えるが少し低めの声である。直後、先程同じような笑いが漏れた。 「ずっと待ってましたからねえ、この時を」 その声に反応し楽しげに、今度は少しはっきりと笑う声が部屋の中を泳ぐ。 もう一人の男。先程の男に比べると若干年齢が高いか。笑う彼の手元でさっきから金属が掠れ合う音がしている。
「長かった」 笑う男の声。後に彼のふうという溜息。少し震えている。 「実に長かった」 声は高揚している。息遣いまでが手に取るように分かりそうだ。
木の床を踏む足音がした。続いて一方の男が何か古い戸を開け、ぎぃという軋む音が響く。 「これは……」 若い男の驚いた声。どうやら戸を開けたのはそちらの男のようである。 「言ったでしょう、待ってたって。…準備はとうの昔に出来ています。シナリオは完璧ですよ」 「そうだな。これなら少しは安心してもいいか」 「心配して来てくれたんですか」 「ただの様子見だ」 「そうですか」
何の抑揚もない平らな会話。 敬語の男は相変わらず笑っていた。やはり今のこの状況を楽しんでいるようだ。暗闇の中で狂ったように笑うのは不気味であるほかない。 戸をそっと音が部屋に響く。その後、男は敬語の男に歩み寄り、紙袋と思われる物を乱暴に置く。恐らくは机の上に。
「手土産だ」 「……これはこれは。有り難く頂戴します」 途端金属を擦る音が止み、椅子から立ち上がる音。紙袋を探り、中の物を確認しているようだ。真っ暗にもかかわらず、だ。 次々と机に物がそっと置かれていった。古い机なのか、ギシギシと呻いているような音を出している。 重いものではなく軽いもののよう。物が置かれていく音は決して大きいものではなかった。 音が止む。全部で8つ。フゥという溜息にも似た空気を男は吐く。
「……気合が入っていますねぇ」 男は出し終えてからの感想を少し呆れたように言う。 「当然だ。重要性はAランク…Sに限りなく近い、な。全く、今までどうしてここまで放置されていたのか不思議なくらいだ」 「A……そりゃあ報酬も期待できそうだ。こんなに簡単そうな任務なのに」 また跳び出してきたクックッという笑い声。が、さっきよりも高らかだ。きっとその表情にも満面の笑みが浮かんでいるのだろう。 ギシ、という床の沈む音。物の一つ一つが古いようだが、この建物自体もかなり危ないようだ。 その中を若い男は歩いているようである。
「……油断はするな。失敗は許されない」 「ハイハイ。分かってますよ。……万が一に誰かに邪魔された場合は?」 「分かっているだろう?」 冷たい声だった。氷のような、冷え切った声。闇の中で言っているものだから、恐怖さえも覚える。 時計の音。床を踏む音。と、足音がとまる。 一瞬の静寂が辺りを凍らせる。時計の針が動いたその後の一瞬。緊張の糸がピンと一直線に張られたような息の詰まる空気。
「殺せ」
吐きだされた言葉は刺々しいが何の感情もこもっていない。ただ平坦な言葉。 再び始まる金属を擦る音。耳障りなものの他ない。 足音が再び部屋の中に響く。ドアノブが周り、ギィという乾いた音で戸が開く。その奥にもまた光は無い。この部屋に光が差し込むことは今後あるのだろうか。 鼻をつく異臭が開けられた扉の向こうの別の部屋へとゆったり流れていく。 完全に外の太陽のある世界とは遮断されたような場所だと再確認させられる。
「りょーかい」 声は笑っている。
少し遅れてドアの閉まる音がした。
It continues...
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.5 ) |
- 日時: 2010/10/21 18:06
- 名前: 海
- Page 5 : 日常
休日の溢れんばかりの人混みの中をぶつかりながらもくぐり抜け、レンガ造りの住宅が連なる道をラーナーは歩いている。 時はあれから随分と過ぎ去って、太陽は赤く燃えるような光で町を照らしながら、西の向こう側に沈んでいこうとしていた。 朝は東の海から顔をのぞかせ、夕方は西の山に隠れていくウォルタの太陽の風景は、国内では美しいと有名らしい。 ただ小さい頃からここに住んでいるラーナーにとっては、これが他と比べても綺麗なのかどうかは分からない。この景色が普通で日常で、慣れてしまったのだ。だけど、確かに美麗なのは認めている。 ラーナーの右腕の中には大きな茶色い紙袋があった。中には食料品がどっさりと入っている。 左手には大きく光り輝いているようなひまわりが二輪、白い紙に包まれていた。 花はともかく紙袋は持っているというよりは抱え込んでおり、一見女の子が持つにはかなりの重量がありそうだ。が、ラーナーにとってはもうそれさえも慣れたものである。 しかしその表情は沈んでいた。足の運び具合もどことなく重い。 石の敷き詰められた道を歩くたびにコツコツと硬い音。右の方に長く黒い影が平らかに伸びて、建物にぶつかると沿うように屈折した。
彼女の頭の中はやはり朝のことでいっぱいになっていた。 気を紛らわせていっそさっぱり忘れてしまおうと思い、無駄にウォルタ市内を歩き回り最終的にいつもの買い物をした。 けれど結局は忘れることもできず、植物が地面に根を張るようにしっかりと記憶に残っている。 目を閉じても閉じなくても、鮮明に思い出せる。優しい炎の揺れも冷たい緑の色も、流れた風も木の動きも蝉の声も。 彼女の横をサッカーボールを持った小さな男の子が走って行った。 近づいてきた音はすぐにまた遠くへと消え去っていく。
やがて道の右側のある背の高いアパートの中にラーナーは足を踏み入れる。 上へと続く階段には目もくれず、少し長い廊下を歩く。そして一階の一番奥にある黒いドアの前に立った。 チャイムのボタンを押す。途端中からリン、という小さな鈴の音が一回だけ聞こえた。 続けざまに中から鳴り響くのはバタバタと忙しそうな足音。外まで聞こえてくるということはよほど急いでいるのか。 鍵の開く音のすぐ後に、ドアが滑らかに開く。中から顔を出したのは、十二歳くらいのまだ顔が幼い男の子だった。 黒い半ズボン。鮮やかな青い半そでのTシャツには、黒で何やらアルファベットが敷き詰められたようなプリントが大きく前に描かれている。 髪の毛はラーナーよりも少し暗めな栗色で、瞳の色は彼女と同じだった。 ラーナーの弟、セルド・クレアライトだ。
「なんだ、姉ちゃんか」 彼は少し何か落胆したような声を出した。 「なんだって何よ。ただいま」 「おかえり」 ラーナーがドアノブを取り更に扉を開いた瞬間に、待ちかねたようにセルドは扉から離れ部屋に駆けこむ。 とりあえず中に入り、ラーナーは扉を閉めて鍵をかけた。そして重い荷物を持ってセルドの言ったリビングへと向かう。 この国には部屋で靴を脱ぐという習慣がないため、靴を脱ぎ捨てる場所はない。そのため靴を履いたままだ。
リビングに入ると賑やかな音が耳に入り、見ればテレビがついていた。テレビの中ではアニメがやっている。それをセルドは椅子に座り真剣に観ていた。 そういえばこの曜日のこの時間はいつもセルドはテレビを見てたな、とラーナーは思い出す。 何やら人気の少年漫画の映像化バージョンらしく、彼も数えきれないファンの一人だ。42巻にわたる現在も連載中らしいその漫画を友達に借りて、そしてラーナーにも自慢げに見せていた。 以前熱くその漫画の内容をラーナーにも話してくれたのだが、よくストーリーが理解できず、すねられたことがある。結局ラーナーに実物は見せてくれていない。
そんなアニメの音が響く中、ラーナーは少々呆れた顔でセルドを見やり、持っていた荷物をようやくテーブルに置いた。鞄はセルドの正面の椅子の上に置く。 ぎしりという怪しい音こそしなかったが、叩きつけたような大きな音が一瞬だけ響いた。 花束だけは別にする。台所に持っていき流し台の前に立つと、置いてあった小さな花瓶に蛇口から水を入れる。透明な冷たい液体が流れ出てきた。 ひまわりは少しはさみで茎を切って、短くする。花瓶の中が水でいっぱいになり、今度は湧き出すように水が花瓶から零れていく。 慌てて蛇口をひねり水を止める。一瞬にして水は止まり、ラーナーはひまわりを花瓶の中に二輪とも入れた。
少し笑顔を零すと、布巾で花瓶をそっと優しく撫でるように拭いて、台所から出る。 明るい色の木でできたテーブルの上に、花瓶を乗せる。こと、という固い音がした。 テレビの中から何やら明るい歌が流れてきた。ふと何気なく見やると、白い文字の羅列のスタッフロールが流れ始めている。 どうやら物語は終わったようだ。気に入っている曲なのか、セルドは笑顔でそっと自分の鼻歌を重ねていた。
時間は七時を回ろうとしている。身体の重さをラーナーは確かに感じていた。気分が乗らず、できればシャワーを浴びて寝てしまいたかった。 けれどそろそろいい加減に夕食を作らないと、またねちねちとセルドに文句を言われるのが目に見えている。 仕方がない、そう思って紙袋をもう一度の中を覗き込み、トマト、茄子、肉など次々と買ったものを出してテーブルの上に並べていった。暑いが今日はカレーを作ろう、そう思って買いそろえた物々である。
「あ」 米をまずは炊かなくては、そう思い出して、少し急ぎ足で台所に戻り下の戸棚を開ける。 その中の一番下の段にあるのは透明の少し大きめのケース。クレアライト家の米の保存場所だ。 しゃがみ込むとそれに手をかけて、一気に床に引きずりおろす。その時ラーナーは違和感を感じ、思わず眉をひそめる。米が入っているにしては、いくらなんでも軽い。
嫌な予感がして蓋を開けた。途端深い溜息をついた。案の定ドンピシャ、だった。 中には米を量る計量カップと、数粒の米粒しか無かった。 これではカレーもルーだけになってしまう。
「……セルドー」 堪えられなくなって弟の名をそっと呼んだ。 セルドはその声に気付いたが振り向かなかった。
「何」 「あのさ、米買ってくる気とか……ない?」 「ない」 視線はテレビのまま、間髪入れずにセルドは即答する。
「……」 「姉ちゃん、まさか買うの忘れたの? あんなに昨日の夜米買わなきゃって連呼してたのに」 「……買って、きます」 セルドは幼い見た目以上に冷静で、生意気でもある。 人の嫌なところをピンポイントについてくるのが得意なのだ。本人に悪気があるわけではないが。
テレビの中では文字の羅列が消えて、歌も終わったようだ。すぐに次回予告が映し出される。 ラーナーは椅子の上にあった茶色の小さめの鞄を手に取った。
「じゃ、ちょっと行って来る。鍵よろしく」 「ん」 バタバタと忙しそうにリビングを出ていくラーナーの姿を、セルドは横眼でそっと見送った。 窓の外は夕日が沈みかけて、薄らと暗くなり始めている。
鍵を開けて扉を開く。いってきます、と声をもう一度リビングの中に向かって言ってからラーナーは出ていった。 米を売っている店は近くの商店街にある。走れば五分と経たずに着くだろう。 走る必要はないかもしれない。けれど彼女はダッシュをかけて、アパートから出る。
東の果ての空には明るい星が見え始めている。
*
「そろそろ夜だ」
帽子を深く被りなおすと、少年は呟いた。その声にポニータは軽く頷いた。 彼等は今ウォルタ市街の住宅街が立ち並ぶ道を歩いていた。住宅街、といっても古いものが多く、夕方にしては人通りは極めて少ない。 一度立ち止まると、持っててとポニータに声をかけてから、背負っていた黒い片方の肩にだけかけるタイプのリュックサックをポニータの背に乗せる。 そして来ていた白めの上着をそっと脱ぐ。現れたのは灰色のTシャツ。やはり長袖だが。 ありがとう、と言って鞄を取りチャックを開け、乱暴に上着を入れ、被るように再び背負う。いよいよ彼の見た目はほぼまっ黒だった。
「感覚ちょっと尖らせる。ちょっとでも異変がきたら行く」 目は少しも笑っていない。ポニータは目を細めて、暗くなり始めた空を見上げた。
七時を示すチャイムが街中に響き渡る。町の時計台は、毎時間このチャイムを高らかに鳴らすのだ。
彼の周りの空気が少しずつ冷えていく。瞼を閉じていた。涼しい風が彼を揺らした。激しく踊るポニータの淡い炎。 瞼の裏で広がる世界。暗闇の中で耳を立て、匂いをそっと探る。
蠢く闇を、捉えるために。
It continues...
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.6 ) |
- 日時: 2010/10/21 18:15
- 名前: 海
- Page 6 : 暗転
セルドはテーブルの上にあったリモコンに手を取ると、赤くて一番大きなボタンを押した。見えない赤外線がテレビまで一瞬にしてたどり着き、急に死んだようにテレビは静かになった。 音が止む。途端に部屋の中は静寂に包まれ、一種の寂しささえも感じることができた。 先程までずっとアニメを見ていたがそれはとっくに終わった。ラーナーに頼まれていた鍵を閉めると、つまらないし他の番組でも見ようと思ってテレビをつけていたが、どうも面白そうな番組が無く、切ってしまった。 何となく辺りを見回す。壁にかけられた小さな時計に目を向けると7時20分と指していた。 そういえば買い物に行ってたな、と思い出し彼は浅く短い溜息をついた。 テーブルの上に投げ出された食材達の存在にセルドは気づくと顔をしかめ、少し考えてから大きな溜息をついた。 しぶしぶ椅子から立ち上がり、出してある食材をとりあえず全て紙袋の中に入れなおすと、それを持って冷蔵庫へと近づいた。 冷蔵庫の扉を開けると紙袋を床に下ろし、野菜や肉などカラフルな食材を次々と中にしまっていく。どこに何を入れるかが分かっているようだった。やけに慣れた手つきで作業は進んでいく。
最後に残ったのは箱に入ったクッキー。それを見つけるとセルドのしかめ面は一気に明るくなる。冷蔵庫の扉をとりあえず閉めると、厚紙でできた箱を開けて中にある袋に包まれたクッキーを一つ出した。 それは適当に台所に置いておくと、クッキーの箱の方は別の戸棚の中へと入れる。さっきラーナーが米を取った戸棚だ。 仕事を終えると満足そうにセルドは笑って、さっき取ったクッキーを取り、袋を開ける。 バニラクッキーで、表面は柔らかさを感じさせるほど綺麗な色で焼けていた。 夕食前にお菓子を食べるといつもラーナーに口うるさく怒られるので普段はしないが、彼の腹の虫はテレビを観賞していた終盤から大合唱を続けているのだ。もう我慢できない様子である。 歯で半分くらいかじり、奥歯でゆっくりと噛む。まろやかな甘みが口の中に溶け込み、食べている方を幸せの渦に誘う。 ケーキ屋等で売っているような少し高いものではなく市販のものであるが、この味がセルドは大好きだった。今も大好物を味わえて彼の気分は高潮している。
食べながら椅子に戻る。そこでようやくテーブルに置かれたひまわりに気付く。 夏の代名詞とも言えるその大きな花は、黄色い花びらを堂々と広げ、エアコンの涼しい風に微かに揺れていた。 セルドは目を細めた。高揚していた心は少し冷えて、力無く手を膝に乗せる。 窓の外から夏の虫の声が小さく鳴っているのが彼の耳に届いた。 今日が特別な日であったということを、改めて実感する。だからラーナーが朝早くから家を出た理由もセルドはよく知っている。
「母さんと、父さんの、命日か…………」 そっと出てきたその言葉。
ひまわりは彼等の両親の好きな花だった。 漢字で書くと向日葵。別名日輪草。また英語ではサンフラワーと呼ばれる。その名の通り、黄色い花びらを持つその大きな花の姿は、確かに世界を照らす太陽を連想させる。 セルドにとってはその煌びやかさや堂々たる姿がむしろうっとおしくて、そんなに好きな花ではない。 どうしてこの花が好きだったんだろう、そう思ったことが今まで何度あったか。手で数えられる数はゆうに超えている。 けれど聞くことはできない。聞いても答えてはくれない。何故ならもうこの世の人ではないのだから。
一度だけラーナーに聞いたことがある。何故か、と。 けれど彼女は少し驚いた顔をして、すぐに薄い笑顔で分からない、と言葉短く答えた。 その時の目がセルドには印象的だった。淋しそうに揺れるその栗色の瞳が、セルドを拒絶しているようにも見えた。その瞬間怖くなって以後は聞いていない。 今ではその時の様子をいまいち覚えていないというのが事実だが、子供心で何かを感じ取ったのだろう。
「なんだかなあ」 少し虚ろな視線を向日葵に向けたまま一枚目のクッキーを食べ終えて、二枚目にかじりつく。一袋二枚入りのクッキーは、いつのまにかもう終わってしまいそうだ。
外はすでに暗闇に包まれていて、そろそろラーナーも帰ってくる頃だった。むしろ少し遅いくらいだった。 恐らく商店街の米屋に行っているだろうから、あそこならさほど時間はかからずに着くことができるはずだ。
彼のクッキーを食べるその硬い音だけが部屋に響いていた。 その時。
リン、と鈴が鳴った。訪問者を示す音だ。外のドアの横にあるチャイムのボタンを押すと、この音が部屋中に高らかに鳴る。 ようやく帰ってきたか、と思い慌ててクッキーを全て口の中に入れると、急いで胃に流し込む。 リビングから出ると、エアコンのかかっていない廊下は相変わらず暑かった。もう一度鈴が鳴る。慌てなくてもいいのに、と半ば思いつつ鍵を開ける。 が、扉を開いて目の前に居たのは、ラーナーではなかった。
「宅配便でーす」 夜の暗闇をバックに、緑と白を基調とした専用服に身を包み深く帽子をかぶった男性だった。若いとも老いてるとも言えない微妙な顔つき。体つきが良く、腕で大きな段ボール箱を抱え込んでいる。 なんだ姉ちゃんじゃないのかと思いつつ、はい、と彼は男性に応答する。 「サイン宜しいですか?」 「あ、ちょっと待ってください」 一度扉をセルドは閉めると、扉のすぐ傍にある靴入れの棚の上に手を伸ばす。 花の入っていない綺麗な小さな花瓶の隣にあるこれもまた小さなペン立て。セルドはそこに入っている黒いボールペンを手に取った。 その後扉を再び開く。お願いします、と男性は笑顔で言って段ボール箱を少し前に突き出す。
ラーナー宛てだった。シーザー・アボットという人から来ているようだ。心当たりがないが、ラーナーの知り合いなのだろうと思いつつサインを書く場所を探す。
「ここです」 男性は人差し指である場所を指す。サインを書く場所らしく、点線で四角く区切られた空白があった。 なるほど、と思い彼はサインをしようとボールペンのノックを押し、自身の名前を書き込もうとする。
早く姉ちゃん帰ってこないかなとそんなことを頭の片隅で思いつつ。
男性は、ニッコリと笑みを浮かべた。
*
結局こんなのに何の意味があったのだろう。いや意味がないのは最初から分かっていたけど。ラーナーは心の中で自身に毒づく。 ラーナーの手のひらには、朝に自分がポケットに乱暴に入れた赤い星のキーホルダーがあった。 運命の出会いがあるかもなんて言うし何より十二位という悲惨な結果だったし、信じては無いと思いながらも何となく心の片隅で占いを信じていたのだろう。 少し遅くなっている足取りで彼女は深い溜息をついた。道を行く人が思わずラーナーに視線を何となく当ててしまうほど大きな溜息であった。 馬鹿みたい、と小さく呟いて、再びポケットに戻した。
本当に今日は彼女にとって、十二星座中十二位という結果にぴったりな一日だった。 寝坊。花の買い忘れ。米の買い忘れ。変な男の子。 米の買い物だってこんなに時間をかけるつもりは彼女にはなかったのに、米屋の主人の妻と時間を忘れて話をしていたのだった。 主婦の話はためになる。特に両親のいない彼女にとっては、家事全般の大先輩でもあるのだ。今日もたくさんの事を教えくれたが正直無駄話も多く、いつもより幾分長く感じられた。 おかげでこんな暗い夜道を歩くことになった。 空には星が煌めいており、道は街灯のおかげでようやく辺りが見えた。市街地の中心ならもっと明るいだろうが、住宅街はさすがに暗い。 彼女の腹の虫が鳴る。五キロの米は重い。いつもならここまで感じないのに、今日はやけに重く感じていた。
ようやくラーナーの住むアパートの前に来る。米の入ったビニール袋を持ち直し、自分の扉へ向かおうとしたその時目を丸くする。 自分の部屋のドアが開いている。こぼれた光に照らされて、見覚えのあるユニフォームを着た男の人がいた。段ボール箱を持っていることから、宅配便の人だと気付く。 セルドが応答しているようだ。急ぐ必要もない。ラーナーは米を持っていくのを最優先に、重い足取りで廊下を進もうとする。
瞬間。
帽子の下で男性は口元に笑みを浮かべた。 セルドは目を見開いた。
遠くのことだから何の事だか詳しくは分からなかった。 けれど分かったのは遠くだったからだろうか。近ければ灯台下暗し、見えなかったかもしれない。
段ボールで隠されているようにさえ見える。けれど確かにその茶色い箱の下から見えたのは、赤いもの。 噴き出しているようだった。セルドの顔がだんだんと蒼白になっていく。そして彼の口から突如飛び出したのは、鮮血。ラーナーの体がびくんと震えあがり、突然のことに目を見開かせた。息が止まり身体が固まる。 前かがみに倒れ始めるセルド。全てがスローモーションで動いているようにラーナーには見えた。 なんのことだか分からない。体はぴくりとも動かない。脳が状況についていかない。ただ呆然としていた。
床に、落ちたような音がした。セルドが一度ダンボール箱にぶつかってから床に倒れ、血が弾け跳んだ。
男性は段ボールをセルドの手前側に置く。他人から見えないようにしたいのか。 彼の右手には、明りに煌めくナイフが一本、血塗れになって握られていた。持つ手も赤黒く染まっている。男性は相変わらず笑っている。ラーナーは息を呑んだ。 どうやら男性はラーナーには気付いていないようで、セルドの横を通り抜けると、中へと素早く入っていった。 弾かれたようにラーナーの眼に意志が戻り、米を乱暴に廊下に投げるように置く。 一番奥の部屋であったことに彼女は後悔した。こんなにも廊下が長く感じたのは初めてだった。走る、走る。息遣いは荒い。 声が出ない。セルド、そう叫ぼうとしても悲鳴をあげたくても、何故か彼女の喉から声は出てこなかった。ただ心臓が高鳴っている。心拍数が激しくて苦しさがまとう。嫌な予感が胸をよぎって離れない。 そしてドアの前に来る。肩が上下し、口を右手でそっと押さえた。その光景は、彼女には重すぎるものだった。
「せるど……?」 辛うじて出てきた声だった。誰が聞いても明らかなくらい、震えた言葉だった。彼女の体も小刻みに震えている。
横に向いた顔は血の気がなく、目はどこか彼方を見ているようで。 口から飛び出していたのは赤い血。刺された胸から飛び出しているのもまた血。赤く煌めいて、生温かい。 床に弾かれたような返り血がいくつもあって、彼女の踏んでいる場所もまた血があって、少し捻るとぬるりと気味が悪い感触が襲う。背筋に寒気が走る。思わず跳ね上がる肩。 異臭が辺りを漂っていた。鼻を突く血の匂いにラーナーは思わずせき込んでしまう。猛烈に襲いかかってくる吐き気を押さえると、再びセルドをゆっくりと見る。
「あ…………あ……あ」
首を軽く振りながら、しゃがみ込み弟の顔を覗き込む。見開かれて意志の無い瞳はどこも見ていない。 どうしたらいいのか彼女には分からなかった。思考がついていかない。目の前がグラグラとしている。 セルドはほんの少しも動かない。周りにあるのは血だけ。ただ、少し開かれた口から虫のようなか細い呼吸をしているように見える。
突如脳裏を掠めたのは、少年の瞳。暗転、氷が背中に突き刺さったような感覚。 「殺されるよ」 何度も響き渡る声。頭が痛い。ラーナーは手で頭を抱え込む。髪を握る様に乱した。目からこぼれてくる熱くて透明なもの。 恐怖が包む。
「なんだ、こんなところにいたんだ」 男の声。ラーナーは反射的に顔を上げた。涙が中の部屋の明かりに光る。 逆光でよく見えないが、帽子の下に浮かんでいる不気味な笑みがラーナーには分かった。服には返り血と思われる赤いものが幾つもついている。右手に握られたナイフは血を拭きとったのか、刃が鮮明に光っている。 彼は唇の横に付いた赤い液体を、舌を伸ばしそっと舐めた。舌の先についた血は彼の口の中へ潜り込む。ラーナーの心臓が跳ね上がり背筋が凍った。
男性とラーナーの視線が合う。途端に彼女が感じたのは息苦しさ。首を絞められたような感覚。唾が口の中に溜まっていく。 逃げないと。彼女は本能でそう感じ、素早く立ち上がり、後ろに走りだした。ラーナーにとって恐らく今まで生きていて一番のスタートダッシュ。 廊下を駆ける。足跡として血が残るが構わなかった。アパートを彼女は夢中で飛び出して、なるべく人のあるところへとウォルタの中心地への道を走った。 走らなければ。逃げなければ。そうしなければ、確実に死ぬ。
It continues...
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.7 ) |
- 日時: 2010/10/21 18:20
- 名前: 海
- Page 7 : 恐怖
どれだけ走ったのだろうか。もう体力は限界に達している。大きく開けた口でする呼吸の音は掠れている。 足が重い。けれど走るしかない。ラーナーは涙を零しながら必死に暗い夜道を走る。 左に入る横道がぼやけた視界の中に入り、ラーナーは唇を噛みその曲がり角を覗いた。
「……っ」 目に入ったのは、細い道の真ん中にいる赤い目を光らせた何か。恐らくは生き物である。大きさ的には人間ではない。 ラーナーはもう一度走り始めた。曲がらずだ。疲れが起こす、心臓が切り裂かれたような痛みが呼吸を苦しめる。 先程からずっとこうだった。 ウォルタの中心地に向かうにはそれなりに道を曲がらなくてはならない。が、彼女が曲がろうとする道の行く先々にいつも何かが待ち伏せている。赤い目をした獣だ。 彼女の瞳には敵と映っている。眼の光が尋常ではないからだ。餌を狩ろうとする獣の眼の他ならないからだ。
しかし曲がらなければ一方的に暗い道へと入っていく。すでに彼女にとって見覚えのない地域へと入っていた。 電灯は光っていないものばかり。明かりは夜空の月と星の灯ししかなく、足元はほとんど見えない。 周りには高くそびえる今にも崩れそうな木の建物。現在のウォルタ内ではほとんど見ない木の設計。風に押されては不気味な音を立てている。どれも地震でも起これば崩れ落ちてしまいそうだった。 人はいない。建物に人が住んでいるという気配はない。夜の廃墟は彼女の恐怖心を更にあおぎたてる。 涙が落ちる。止まらない。かき回された濁流のような心境だった。 誰でもよかった。とにかく助けてほしい。今すぐに。けれど叫ぶほどの力は彼女には残されていない。大きな声をあげればそれと同時に体内のものを全て吐きだしてしまいそうだ。
「あっ」 声が零れた。と同時に彼女は石の敷き詰められた床に向かって前に倒れる。ラーナーの足元には、少し盛り上がった石が一つ。 そこに足を引っ掛け、転んでしまった。少し大袈裟なくらいに地面に転がる。地に打たれた痛みが襲う。と同時に、彼女は力が全て抜け切ってしまったように、脱力感に満ちた。 動けなかった。走ろうとも思わなかった。肩が激しく上下している。顔が熱い。息が苦しく思わず咳きこむと口から何かが跳び出した。唾液の塊だ。 汗が身体中から噴き出していた。外は暑かった。もやもやとした湿気に包まれている。 音はない。誰かが追ってくるような気配も感じなかった。逃げ切ったのだろうか。そう思いラーナーはそっと安堵する。 きっとこれは夢なんだ。そう思うしかなかった。彼女に残る期待。セルドのところに戻らなきゃ。冗談やめてよって言わないと。でも、少し休んでから。
「やったー逃げ切れたー……なーんて、思った?」
後ろから声がした。ラーナーの心臓が大きく跳ね、反射的に起き上がり後ろを振り向いた。 涙で顔がぐしゃぐしゃになった彼女を見て、男はにやりと笑う。 手にはナイフ。慣れているのか右手で遊んでいるようにそれを回している。その姿にラーナーは驚くしかなかった。 顔は楽しげに笑っている。けれど黒い眼は殺気に溺れていた。 残り僅かしかない力を振り絞り、彼女は起き上がり逃げようとした。
「逃げようったって無駄だ。結界を張らせてもらった。――もう飽きちゃったんでね」 ラーナーの身体が凍りついたように止まる。恐る恐る振り向いた彼女の瞳に、笑顔の男の姿が映った。途端寒気が背中を襲う。 「けっかい……?」 「そうそう。まあバリヤードの力を利用した……って理屈なんだけどね」 男は笑いながら言い、一歩、また一歩とラーナーへ近づいた。 彼女の額から冷汗が噴き出す。身体が動かなかった。脳は動けと確かに命令しているはずだった。しかし動かない。縄で縛りつけられたようである。 立ち上がったそのままの状態で、彼女はピクリとも動かなかった。動けなかった。
「金縛りのされ心地、どう」 男はスキップをしているような軽い足取りでラーナーに近づき、そっと見下ろす。 「君は運がいい。それ、されながら逝けるやつなんてなかなか居ないよ、きっと」 つい先程まで激しく動いていた彼女の肩は止まっていた。呼吸はできる。が、荒い。 ラーナーは男を揺れる視界の中で見つめた。ぼやけている。改めて見たその姿は、本当に普通の人と何も変わらない。右手のナイフを除いては。 呼吸は震えて、口の中に唾液がたまるのをラーナーは感じた。 さっきまで被っていた帽子は取っていた。そのおかげで、顔がよく分かる。 ぼさぼさの黒髪。汚れた瞳も黒だった。宅配便の専用服も脱いだようで、代わりに黒い上着を着ていた。前のファスナーは開けられていて、その中から灰色のTシャツが覗く。 見た目は20代の半ば、というところか。肌の色は明るく、や皺があまりないことから若さが伺える。 ラーナーは体の内面が冷たくなっていくのを感じた。走ったせいで頭はのぼせている。涙と走った汗と恐怖に対する冷や汗とが彼女の顔をひどく潰しているようだった。
「怖がることはない。……すぐ、終わるから。一瞬で君の弟クンのところへ連れて行ってあげるよ」 「――ッ!」 ラーナーは鋭い睨みをきかせ、噛みつくように男を見た。
「なんで……なんでセルドを! どうしてこんなことするの!! あたしたちが……あたしたちは何もやってないのに!」 涙が滝のように止まることなく、彼女の瞳から零れ落ちていた。 表情だけはいくらでも変わるのに、体は動かない。焦がれる想いが溢れんばかりに満たされる。 その時、突然男はラーナーの目の前に右手のナイフを突き出した。月明かりに刀身が鈍く光る。ラーナーはひっとしゃくり上げ、怖気づく。 ナイフと彼女の顔との距離は目と鼻の先だった。ナイフがそのままゆらゆらと見せびらかすように揺れる。ラーナーはその刃先を追うように見つめた。
「知る必要はない。君は誰に見られることもなく、闇に葬り去られる――そういう運命だった、ということだけさ」 刃の先がラーナーの透きとおるような白く柔らかい頬に当たる。尖った感覚は冷や汗を呼んだ。 そっと横に動く刃。途端、鋭い痛みが彼女に走る。思わず目を咄嗟に閉じた。 薄い傷が頬に軌跡を残す。それはナイフの通った道を鮮明に浮かび上がらせていた。 少し時間が経った後に細い線から滲むように出てくる赤い血。ナイフにも微量の血が付いている。 男はナイフを持っていない左手でラーナーの傷を撫でるようになぞる。彼の指の皮膚は厚く固く、冷たかった。彼女は背中が跳び上がったような気持ちに襲われた。 彼の親指に少しだけ血が付いたのにラーナーは気付いた。それが彼女の血であることは、言うまでもない。 震え上がるような笑みが男からこぼれた。快楽以外の何物でもない。男はそっと親指の先についた血を舌で舐める。 ラーナーの心に、一層激しくサイレンが鳴り始めた。それは彼女の中の、危険信号。
暗闇、建物無き場所から覗く夜空、月を背に彼の眼は意気揚揚と光っているようにも見えた。 ラーナーは必死に体を動かそうとする。心臓が全力で走っているように脈を打つ。涙とともに零れる抑えきれない感情、声。
「動け……動いてよおっ……!」 もどかしさが体中を駆け巡る。自分の体ではないようだった。心だけが残ってしまった、動く電気エネルギーを失ったロボットのようだ。
「さて……と、そろそろこの世への別れの挨拶もすんだかな」 男はそう言い、右手を少し後ろに引く。刃の先がラーナーの胸に真っ直ぐ向けられている。勢いづけるつもりのようだ。 しゃっくりをあげるラーナー。逃げたい、逃げなきゃ、想いだけが向こう側へと独り突っ走っていく。 風が吹く。湿気を多く含んだ生暖かい風だ。周りの木の建物が唸り、どこかの落ち葉が音をたてて宙を舞う。 月が黙って世界を見下ろしている。 男の口元が裂けたように笑った。
「さよなら、ラーナー・クレアライト。……恨むなら、君の母と父を恨むがいい」 「――え?」
突然彼の口から飛び出した思いがけない単語に、ラーナーは目を見開く。 と同時に、彼の右手が動く。狙っているのは彼女の心臓。ラーナーは瞬時に強く目を閉じた。考えも何もかも爆発して吹き飛んだ。
数秒、たった。 彼女は何も感じなかった。痛みは、ない。音もない。これが死というものか。なんとあっけないものだろう。 恐る恐る瞼を開いた。そこにはさっきと同じ光景があった。ただ、時間が止まったように、ナイフは彼女の胸の寸前で、固まっていた。 しかし、少し振動している。微妙だが、少しだけ。
そして突如彼女の体が軽くなり、かと思えばすぐに重くなって、急に地に落ちるように倒れた。 何が起こっているのは彼女には分からなかった。ただ、体が動かせるようになったのは確かだった。驚きの視線を頭上にいる男に向ける。
「……」 対する男は無言だった。視線はラーナーではなく自分の右腕に向けられていた。 白いゴムで出来たようなロープが彼の腕を縛っていた。締め方が強く、血流が止まるのではないかと思うくらいだ。 ぴんと張られたロープの先に男は少しずつ視線を移す。それに合わせるように、ラーナーは目でロープを追った。 暗闇の中にロープは溶けている。しかし月明かりでその行方は微かながら分かる。男は目を細め、抵抗するように右腕を引いた。 その時足音が響き、月明かりに照らされて闇の中から人がゆっくりと現れる。 ラーナーは息を詰めた。大きく見開かれた瞳には、見覚えのある人物の姿がぼやけながらも映っていた。
帽子の下から覗く長めの前髪とその下で光る瞳。 昼間に来ていた白めの上着は脱がれ、灰色の長袖のTシャツとまっ黒なズボンを身にまとっている。 思い出される。脳裏に浮かび上がってくる、忘れるはずのない記憶。 その瞳と今の瞳の光は違った。冷たい闇が渦巻いているような目。それを見たら、あの時の瞳に少しでも優しさが宿っていたことに今更彼女は気付かされた。 吸い込まれそうになる。 彼の元に近付けば瞬時に殺されそうだ。
「……間に合った」
It continues...
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.8 ) |
- 日時: 2010/10/21 18:28
- 名前: 海
- Page 8 : 名前
「誰だ」 今までラーナーを誘うような口調とは打って変わって、男は低く重い声を発した。 数メートル先に居る少年に聞こえるよう、少し大きめの声だった。少年は一歩前に警戒しつつ出た。少年の足元から微かな道を摩る音が聞こえた。 空気が冷たかった。気温としては蒸し暑いが、雰囲気が氷柱のように冷たく鋭いのだ。刺激を与えれば、瞬時に爆発してしまいそうだ。 ラーナーはその空気に耐えられず、地に身を投げたまま、少し後ずさりをした。
少年はしばらく唇を噛んだままだった。目は男の動きを探っているようにも見える。 と、更に少年の後ろから音が聞こえた。歩いてくる音だ。男は眉間にしわを寄せ、音の主に目を配る。 奥からはまず光が見えた。温かみのある光。黄色と赤、そして橙の折り重なって風に揺れる光は、炎によるものだった。四本の脚でまっすぐに歩く大きな生物。白い体毛は暗闇によく映えている。 黒く優しい瞳を持つポニータだった。長い首には少年が背負っていた鞄が下げられている。 ポニータの背中にも何かが乗っている。それに男は気付くと目を丸くして、軽い舌うちをした。 白と青、そしてピンクというカラフルな体をしているポケモン、バリヤード。その上に重ねられているのは、片手にスプーンを持ち、五芳星を象る額を持つポケモン、ユンゲラー。 どちらも干からびたようにのびており、すでに指を動かす力すらもなく気を失っているようだった。
「バリヤードを倒してバリアを破り、ユンゲラーも倒して金縛りを解いたか」 それなら今ここに少年がいる理由も、ラーナーは動けるようになった理由も理解できる。 「やってくれる」 男は吐き捨てるように言葉を投げた。 少年はずっと口を閉じたままだったが、もう一歩彼は足を出して、そっと唇を動かした。
「……黒の団、だな」 低く重い声は、確かに男とラーナーの耳に届いた。 その言葉を聞いた途端に男は目を見開き、硬直した。 しばらく沈黙が凍りついたように続いていたが、そのうちに男は口元を釣り上げて嘲笑した。
「どうやら、君の方から始末しなければならないようだな」 そう男は言いながら、ナイフを左手に持ち替えてロープに刃を向ける。 勢いよくそれを振りおろし、それと同時にロープは不気味な音を立てて二本に分かれた。 反動で少年は少し後ろに体をのけ反らせる。男は右腕に巻かれていたロープを器用に解く。右腕は血が先程まで通っていなかったせいで、死人の様に蒼白になっていた。 きつく残ったロープの跡。血がまたゆっくりと男の右腕を流れ始め、男はぶらぶらと軽く右手を振る。 少年は右手に持っていた用済みの物と化したロープを道端に投げ捨てる。ポニータは足を畳み、背に乗る二匹のポケモンをそっと道に優しく滑らせるように下ろした。 男と少年の身長差のある視線がぶつかる。 音が消え、空気がしんと凍る。 薄い雲が月の下を通過し、月光がそれに伴い小さくなる。影が夜の闇に溶ける。ラーナーは背筋に寒気が走るのを感じ、思わず後ずさった。 それでも彼女は何故か、逃げようとはしなかった。栗色の瞳は真っ直ぐに少年に向けられている。 少年は目を細め、少し体勢を低くした。男は右手が正常に動くようになったのを、手を閉じたり開いたりしながら確認し、ナイフを再び右手に持つ。 刃が鋭く光る。それは肉体を貫く獣の爪のようだった。 静寂が辺りを押し潰す。月が雲から再度顔を覗かせる。ほぼ満月に等しいくらい美しい円の形だった。
先に動いたのは少年だった。 スイッチが入ったように突然地を蹴り、気づいた時には男の目の前に飛び出していた。 右足が後ろに反る。反ったかと思うと勢いをつけ男の顔面に向かう。回し蹴りだ。 男はぎりぎりで左腕でそれを受け止める。が、代償にまともに腕がそれを食らう。ハンマーで殴られたような衝撃が男を襲い、思わず男は歯を食いしばった。 しかし少年が止まることはない。足を一度下ろすと瞬時にある程度後方に下がり、強く地面を蹴る。重心が低い。右手に力がこもり、視線は男の腹に向けられていた。 ドッという鈍い音。男は目を見開き息を詰まらせる。少年の右手が男のみぞおちを直撃した。男の口から呻き声が漏れた。 続けざまに少年は左足を浮かす。男は危険を本能で察知し、右腕でガードしようとする。 が、腹への凄まじい衝撃が男に苦痛を与えていた。ガードは甘い。少年の力が男の防御に勝り、男は横によろめき咳きこむ。
「くそっが……このっ」 男は左手で腹を押さえつつナイフを少年に向ける。腕が直線状に伸びる。が、少年は頭を少し下げて避ける。刃は空を切った。 舌打ちをしつつ男は素早く間合いをとる。肩が激しく上下し、表情を歪めている。 それに対し少年の顔は冷ややかだった。疲れを感じさせない。男よりも体つきは小さく細いというのに彼の方が上手であった。 ラーナーは一体何が起こったのか分からなかった。彼らが動き始めてから一分も経っていない。信じられない速さで目まぐるしく戦いは進んだ。
男は口の中に溜まった唾液を道端に吐く。彼は呪文のように油断は禁物だと言われ続けてきたが、子供に無様にも押されていることになるとは思ってもいなかっただろう。 彼の黒い瞳が真剣に少年をとらえる。先程までのどこかちゃらけたような雰囲気は虚空に消え去っていた。 一種の獣の瞳。
次の攻撃を仕掛けるつもりか、少年は右手を少し前に突き出す。 男は唇を噛み、動きをよく見ようとする。月光に照らされ風になびく少年の髪。その時、男は何かに気づいたように目を見開いた。 と、少年が走りだした。男は体を少しも動かさず、ただ唇のみを小さく開く。
「お前もしかして、笹波、白……か?」 ぴくり、と少年の耳が動き、一瞬、本当に一瞬だけ動きが鈍る。 しかしその一瞬が隙となった。男はすかさず右足を回し、少年に攻撃を仕掛けた。少年は咄嗟にしゃがみ込み、すぐに再び間合いをとった。 少年の目が槍で貫くかの如く男を睨みつける。それに怯む男だがすぐにその口元が怪しくつり上がる。
「そうか……お前か! 探してた、ずっと!!」 そして男は狂ったように大声で笑い出した。その声が高らかに周りの建物に反響する。 ポニータ、と少年は呟いた。男とは対照的に、彼の瞳はただ冷えていた。少年に呼ばれた声をポニータは聞き逃していなかった。ポニータの眼もまた、暗闇に冷徹なまでに光っていた。 男は少しずつ笑いを押さえつついた。ひっひっ、という喉から零れる声。 笑いを隠すように左手で顔を包み込み、もう片方の手はナイフを持ったまま空へ向かって真っすぐと伸びた。 途端殺気が辺りを冷やした。空気が重くなる。少年は少し後方に下がり腰を若干下げ、目だけを動かし周りの様子を窺う。周りの建物と建物の間に目を配りソレらの数を数える。 一匹二匹、……八匹。四方八方から追い詰めるように奴等は来ていた。 白と赤の毛を持つモノ。 ザングースの群れ。どれも鍛えられているのだろう、瞳には力強さが宿り、爪は月光を反射して鈍く光っている。 ひ、という小さな悲鳴がラーナーの喉から零れた。思わず後ろに後ずさる。だが逃げてはいけないような気がした。だから彼女はこの場に留まっていた。
「貴様からだ笹波白……その女を守ったこと、後悔するんだな。行け、ザングース」 男が右手の人差し指を少年に向ける。 その時、ザングースが奇声を張り上げ、強く地面を蹴る。八匹の動きは殆ど見えない。瞬間移動にも等しい。 思わずラーナーは叫び声をあげそうになる。あぶない、そんなありふれた言葉は喉を越えて今にも声として出そうだった。 しかし少年は動じることもなく、その眼でザングースの動きをしっかり捉えていた。
「炎の渦」 途端、ポニータの体の炎が燃え盛り、首を後ろに捻り思いっきり口を開いて頭を突き出した。男は表情を一転させると危険を感じ後方に跳ぶ。同時に少年も逃げるように前方へと走った。 ポニータの口から突然真っ赤な炎が飛び出した。それはカーブを繰り返しポニータの周りを回り、大きな火柱が上がる。 勢い余って止まることの出来なかったザングース達がその中に巻き込まれ、次々に悲鳴が耳につんざくように届く。 男は熱から頭を守るように腕で顔を隠しつつ様子を見た。汗が彼の頬を伝った。 熱風がラーナーの栗色の挑発を狂ったように躍らせている。 炎の渦はポケモンの動きをしばらく止めることが可能な炎の技。その名の通り炎で出来た渦が敵を襲う。 だが少年のポニータのそれは、威力がそこらのポケモンの炎の渦とはまるで桁違いだった。何より大きさが見る者を圧巻させる。天にまで届きそうだ。
少年は逃げる途中で熱風に押されたためにしゃがみ込んでいたが、ゆっくりと立ち上がり目を光らせた。熱の光が逆光となり表情はよく見えない。熱風で彼の髪や服が暴れていた。 そっと右手で少年は腰を探る。ズボンのベルトをかけるところに引っ掛けていた黒い袋。そこから何かを取り出す。 二十五センチくらいの長さで、直径約五センチくらいの円筒だった。ゴム素材なのか、彼の右手に柔らかくフィットしている。 男は警戒し少し足を後ろに下げる。嫌な予感が男の体中を一瞬の内に巡った。
「……火閃」
少年は呟くようにその言葉を綴り、手に力を込めた。 その時円筒の両端から何かが真っ直ぐに跳び出す。光を鋭く反射するソレは、四十センチほどの両刃の他ならなかった。 そしてその刃の周りの空気が揺らぎ始め、それはだんだんと炎を形成する。オレンジの光、熱が揺らめく。ただ少年の手が持つ黒い円筒の部分は炎が無い。 しかしそれは男を怯ませるのには充分だった。 ラーナーは目を見開き、口を手で覆った。何故か涙が眼に込み上げてくるのを感じた。本当に昼間に出会った人と同一人物なのかと目を疑ってしまう。
「それは……やはりお前は」 「違う」
少年ははっきりと声を発した。今まで彼が話した中で一番大きく、重い声だった。 男は息を呑み、ナイフを強く握る。少年の深緑の眼を見て、直感した。――殺らなければ、殺られると。
「笹波白は死んだ。俺は――」 慣らすように、あるいは男に対する威嚇か、少年は器用に円筒をバトンのように回し始める。炎が円を描くように回る。
「藤波、黒だ」 少年――クロははっきりとその名を飛ばした。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.9 ) |
- 日時: 2010/10/23 10:58
- 名前: 海
- Page 9 : 炎
刃の炎はクロ自身を今にも包み込み焼けきってしまいそうなくらい、暴れまわるように燃え上がっていた。 元々現在の季節は夏であるのに加えこの炎。気温は跳ね上がり、気をしっかりと持たせなければすぐに倒れてしまいそうだった。 だがクロだけは異例だった。彼だけを見ればまるで暑さは感じさせない。涼しい顔で、汗も何もかいていない。 ラーナーはさすがに身の危険を感じた。このままでは炎に呑みこまれてしまう、そう思い立ち上がり近くにあったドラム缶の陰に隠れる。 長い髪の毛先が焦げていた。干からびたように乾き、黒く細くなっている。 それでも様子が好奇心から気になり、陰からそっと顔を出し息を呑む。 クロは円筒の動きを止める。そして空いている左手を首にそっと当てて頭を軽く回す。軽いウォーミングアップといったところか。 尚も刃から炎は噴き出している。燃える物などないはずだ。なのに何故あんなにも絶えず炎が暴れまわり、刃は無傷なのか。 男は自分の目を信じることができなかった。彼の脳裏にある人物が走る。目の前にいるのはそれと全く同じ外見、攻撃方法。なのに同一ではないというのか。 だが迷っている場合ではない。男は腰のベルトに付けていた焦げ茶の鞄から、数個のナイフを取り出す。両手にそれらを持つと、少し後ろに下がってから一気にクロに向かって投げる。 刃先は真っ直ぐにクロへ向かって飛ぶ。クロは落ち着いてそれを見、左へ素早く避ける。 が、その間にまた男は両手にナイフを用意していた。速い手の動きは戦いの慣れを感じさせる。
「まだだっ」 男はすぐさまナイフを投げつける。今度は若干一つずつずらしながらだ。 それもクロは避ける。がクロの足元に一本のナイフが突き刺さり、クロの動きは狂わされる。 そのチャンスを男は見逃さなかった。今だと言わんばかりに男は左手に残っていたナイフを一斉に飛ばす。一直線にクロの体を狙って襲いかかる。 しかしクロの判断は冷静で俊敏だった。クロはその右手にもっていた円筒を前に突き出すと、素早く空を横に切るように振る。 鋭い金属音が三回鳴った。そしてクロの足元に無残にも力を失ったナイフが三つ、音を立てながら落ちた。
それとほぼ同時に、クロの後ろ側で盛んに燃え続けていた炎の渦が弱まり始める。 オレンジと黄色の混ざり合ったような不安定な光がだんだんと薄れていく。光に潰されていた影がだんだんと長さを伸ばしていき、周囲は暗闇を少し取り戻していく。 炎の回転は上の方から無くなっていき、虚空に火は消えていく。風に押されては何も無かったように死んでゆく炎の中から、身体に大きな火傷を負いか細い呼吸を微かにしているザングース達が次々と姿を現す。 目は誰も開けている者は一匹として居なかった。身体は力を完全に失ったようにだらりと地に伏せ、美しくも逞しかった白い毛並みは焦げていた。 ただ黒い爪だけが鈍い光を反射させて、空しく倒れていた。
そして渦が全て消え去ったとき、ポニータが涼しげに頭を軽く振る。つい先程まで炎を口から吐き続けていたのにもかかわらず、その顔に疲れは伺えない。 普通では持ち得ない尋常ではない体力、そして攻撃力をポニータは持っていた。
「……さて、ザングースは皆気絶……でもないかもな。ただ体力は残っていても、あれだけ大火傷を負えば体を動かすことさえできない。ナイフの本数もかなり失った……。まだやるか?」 クロは男に向かって挑発するように言う。口調は男を舐めているように感じさせる。 それを聞いた男は肩を軽く上下させつつも、口元を釣り上げた。それを見た途端クロは不快だったのか少し眉間に皺を寄せた。
「くっくははははははははは!! ……藤波黒、といったな。その力は認める。だが、少々油断が過ぎるな」 その言葉を聞いた瞬間、クロは自分の耳に何か不審な音が届いているのを感じた。 何か迫ってくるような音だ。小さい。だが、少しずつ近づいてきているような。ただ何の音なのかが分からない。 ポニータは駆け寄るようにクロに近付く。音は大きくなっていく。ポニータの地を蹴るような軽快な音ではない、もっと重く底からくるような音。 その時、クロは直感した。そして瞬時にその仮定を肯定し、血相を変えて後ろを向いた。
「ポニータ、来るなっ――」 忠告は遅過ぎた。 ポニータの足元から何かが飛び出す。それは丁度ポニータの腹の下の位置にいた。 手に持つ白く大きな爪がポニータの白い腹を切り裂く。途端ポニータは悲鳴をあげつつも、クロの忠告を聞いていたおかげか急所は避ける。が、続けざまに背中にある重なるように生えているハリで、ポニータの前足に力強く体当たりをする。 大きな黒い瞳を持つそれは、サンドパンだった。穴を掘るで相手の動きを止めてから背中のハリを使った体当たりといった攻撃。 加えて地面タイプの技である穴を掘るは、炎タイプであるポニータにとって相当の痛手だった。ポニータは腹の痛みと前足のバランスを崩されたことで、勢い任せに地に倒れた。 ポニータの前足から血が出ていた。サンドパンのハリをまともに食らった足は、恐らく自在に動かすことは到底無理だろう。
「ポニータ!」 クロは悲鳴にも近い叫びをあげ、二メートル程後方のポニータのところへ駆け寄ろうとした。 が、瞬間男の方から殺気を感じ円筒を回す。思った通り、男がナイフを投げてきていた。一体いくつ持っているのか。舌打ちをしながらクロはそれらを円筒でいなす。 「サンドパン、砂かけだ」 男はすかさず命令し、サンドパンはその言葉を聞いた瞬間動いた。鋭い爪で地面に埋め込まれている石を削る。 みるみるうちに石は削られ粉と化し、それなりの量が出来あがるとサンドパンはそれを発達した後ろ脚でクロに向かってかける。 クロは右に避ける。が、少々体にかかり気をとられる。その隙に男は再び懐からナイフを右手に持つと、それを素早く投げた。 ナイフの先がクロの左腕を掠る。が、掠っただけで十分だった。刃先はクロの黒い服を引き裂き、更には腕にも浅い傷を残していった。傷口に血が少しずつ出てくる。 大した傷ではない。が、突然の怒涛の攻撃を守りきることができなかったことに対しての、精神的ダメージがクロに出来た。 陰から見守るラーナーは初めてクロが押されているのに気づき焦った。だが自分が出たところで何もできない。
「油断は戦場では命取りだよ。持っているポケモンはポニータだけか?」 男は形勢逆転したことで声が上ずっていた。 「…………」 クロは左腕に出来た三センチほどの傷をしばらく見つめていた。表情は静かだった。風も波紋もないただ平らな湖のように、落ち着いていた。 ただ目の光だけが冷えていくようだった。
「おい、なんとかいったらどう――」 「黙れ」 クロの氷のような声が男を無理矢理黙らせる。声の重みが男を震えさせ圧倒していた。 凛とした空気が流れ、クロは火をまとった刃の片方を地に荒々しく付けた途端、素早くそれを回す。自分を中心とした円を描いていた。まるでクロ自身がコンパスになったように。 地面に傷が付き、描き始めと描き終わりの線が重なった時、円は完成した。その時、円の線から炎がちらつき始める。 ぞくり、と男の背中に恐怖が走った。笑みが張りついたような表情が凍りつき、足は何故か動かなかった。
「一気に終わらせてやるよ……」 その声は怒っているようにも笑っているようにもとれた。ラーナーは息をつまらせた。
「炎渦鳳来(えんかほうらい)」
クロは呟くように言葉をなぞる。その瞬間円の炎が消え、途端同じだけの大きさの炎の円が男とサンドパンの周りに現れた。 気付き逃げようとした時にはもう遅かった。その円から突如赤い炎が飛び出し、火柱が地面から天へ伸びる。勿論彼等はその中に巻き込まれた。 ラーナーは悲鳴をあげそうになった。だが声は出てこなかった。涙は驚きで止まっていた。
男は悲鳴をあげた。手が足が頭が腹が全てが炎に在る。耳の中を訳の分からない音が暴れまわっている。自分の体が燃えてしまう。死という言葉が今はっきりと脳に浮かぶ。 が、すぐに気が付いた。おかしかった。 ――熱くない?
「ポニータの炎を知ってるか?」 クロは男の入っている火柱に近づきながら問う。
「ポニータは背中に火を持っている。だけど、自分が心を許した奴にはその炎を熱く感じさせない能力がある。――それとこの炎の原理はよく似ている」 「――っ」 男は何か言おうとしたが言葉には出来なかった。 クロは円筒を反回転させて改めて持ち直すと、少し右腕を上げた。右手は柔らかく包むようにその黒い円筒を持っている。 熱風によって帽子の下から覗く髪が弾けるように舞っている。
刃の炎と火柱、辺りは炎で包まれているのにもかかわらず、周りの木造建築の建物は燃える気配は微塵も感じさせなかった。
「俺は、自分の意思で炎で対象を“燃やすか”“燃やさないか”を操ることができる。……結構コントロールが大変だけどな。だから今あんたが入ってる火柱は見かけ倒しってとこだ。……ああでも出ない方がいい。外側は本物だから。サンドパンも同じだ」 その声は男の耳にはっきりと届いていた。だんだんと荒くなっていく男の呼吸。胸の中に何かどす黒いものが滝のように流れてくる。
「戦いで自分の手の内を明かすのは死活問題。なのに今なぜ俺があんたに話したか。それにこんなにゆったり話してる……分かるだろ?」 男は全身が震えあがった。目が見開き、呼吸が今までになく激しくなる。疲れているわけではなく、すぐ起こるであろうことに対する焦りと恐怖と苦痛からだ。 外からまだその男の姿がよく見えた。炎の壁が邪魔になりながらも。クロは冷ややかな目でその様子をただ見つめた。 唇を噛みながらもクロは右手を強く握り、口をそっと開いた。
「さよなら」
二つの火柱の威力が増したかのように、少し炎が膨らんだ。 男の姿はもう外からは見えなかった。声も聞こえなかった。無理矢理かき消された二つの悲鳴だけが、余韻としてほんの少しの間だけ残っていた。 ラーナーの声にならない悲鳴も確かにそこに響いていた。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.10 ) |
- 日時: 2010/10/23 12:38
- 名前: 海
- Page 10 : 静寂
「火閃、」 火柱がだんだんと小さくなっていこうとしている時、クロは呟いた。 同時に刃の炎が溶けるように消えていき、円筒の中に滑らかに入っていった。明らかに円筒より刃の方が長い。なのに何故か全て納まってしまった。それを元の腰の袋に戻す。 気温が下がっていく気配がした。炎がどんどん消えているからだ。こうなれば、元の夏の暑ささえも寒く感じられてくる。 クロはふぅと息をつき、ポニータの傍に歩いて行った。屈みこみポニータの足の怪我の様子を診る。 切なげにポニータは喉の奥で鳴らしたような声を発した。白く美しい毛並みは乱れ、いくつかは地面に散らばるように落ちていた。 そして何より眼を瞠るのが、血。右の前足から湧き出るように出ている。ハリが直撃したのはやはり痛手だった。赤がはっきりと浮き出ているようだ。更に違う異変に気付きクロは顔を歪ませる。 「……毒か」 苦々しげに彼は言った。同時にポニータの口を手で無理矢理開かせて、口内の様子を診る。ポニータは抵抗する素振りさえも見せず、ぐったりとしていた。 ビンゴである。クロの予感は正に的中だった。舌が紫色に染まっている。クロのポニータは体の調子がおかしくなると、舌にまず異変を見せるのだ。 クロは慌ててはいないものの素早い対処を始めた。右手で腰を探りその手に握られてきたものは、赤と白の球体、モンスターボールだった。
「頼む」 声と同時にボールが開く。途端中から白い光が飛び出し、クロの近くにそっと降り立つ。 光はだんだんと確かな形を形成していき、その中から実体が姿を現す。大きな羽が花咲くようにパッと目に着く。その模様はまるで巨大な瞳を思わせるものだった。 それとは対照的な可愛らしい淡い水色の身体、黒い瞳。アメモースだ。
「水遊びだ。軽く。ポニータにダメージを与えちゃだめだ」 言いながらクロは立ち上がる。軽く周りを見回すと小走りでバリヤード達が倒れている場所へと向かう。そこには彼の鞄があった。 黒い鞄だけを持ち上げると急いでポニータの元へと戻る。 その間にアメモースは身体を細かく震わせ、小さな口から水を出す。水遊びは他の技“水鉄砲”ほどの威力はなく、元々攻撃用の技ではない。 本来は一面に勢いよく水を撒くようににして炎タイプの技の威力を削減させるための技だ。
が、今回は勝手が違う。アメモースは水をポニータの足にそっとかける。血が絶え間なく水と共に流れていく。 クロはその場に戻ると、鞄の中から青いタオルと茶色の小さな瓶、それに包帯を一つずつ出した。
まずタオルをポニータの右足の付け根の方できつく結ぶ。何度も引っ張りながらちゃんと結ばれたことを確認する。 タオルから手を離すと瓶の蓋を開けてそれを少し下に傾けて揺らす。すると錠剤が数個出てきた。いくつかは瓶に戻し、二粒だけ掌に残す。 ポニータに一言声をかけてから、小さな錠剤をポニータの口に入れる。アメモースの水遊びの水を少し貰って呑みやすくし、ポニータは特に難なく錠剤を呑み込んだ。 いわゆる毒の効果を消す錠剤だった。 休む暇なくクロは動く。 アメモースに水を止めるように手を差し出して指示すると、途端水の出が止まる。 クロは包帯を手に取り、ポニータの足を器用に包んでいく。白い包帯に痛々しい赤がくっきりと浮かび上がり、すぐにその上に新しい布が巻かれていく。 血の出が思っていたより早く止まりそうで少し彼は安堵した。ポニータの顔色は相変わらず悪いが、もうじき戻るだろう。 回復系の技を持っているポケモンがいれば一番手っ取り早いのだが、生憎彼はそのようなポケモンを持ち合わせていないようだ。 包帯を巻き終わる。残り少なかったせいなのか丁度全て使いきった。 きつめに結んでおき、ようやく処置が終了した。ふぅとクロは息をついて腰を下ろした。一気に緊張の糸が緩み、疲れも同時に圧し掛かってくる。 炎がほとんど弱まったと同時に少し異臭が漂い始める。それが何なのか、クロは知っている。 クロは少しだるそうにしつつも思い出したように目を開き、そっと立ち上がった。 ズボンに付いた汚れを手で軽くはたくと、腰をかがめてポニータの頭を撫でてから背を向けて歩き始める。
「……」 「へぇ……あの熱風と炎圧の中で意識を保てれたんだ」
クロは少し驚いた風に言った。本当に心の底から驚きがあるのかどうかは話し方からは伺えない。 ラーナーはドラム缶の上を手で持って立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。すぐに崩れるように座り込んでしまった。 目が泳いでいる。どこも見てはいなかった。長くて綺麗だった髪は熱風のせいかぼさぼさになっていた。 息は荒く汗が噴き出すように出ていた。クロは目を細めつつ少しそらした。やり切れない思いが込み上げてきたのだ。 ようやくラーナーは顔を上げる。視線の焦点が今しっかりと合う。月明かりを背に、彼女の前に立つ少年がひとり。 話す力も動く力ももうほとんどラーナーには残っていなかった。何もかも動き出す前に諦めてしまっている。 それでも訊きたいことは山のようにある。今言わなければいつ言うのだろう。そう思いラーナーは震えながら唇を動かした。
「あのひと、は、その……死んだ、の?」 一つ一つの言葉を絞り出すように言うラーナー。 「生存はしていないだろ。あの炎に生身の人間が耐えられるはずがない。ポケモンなら耐性ついてるから気絶してるだけだろうけど」 ラーナーの心の奥から何かこみあげてくるものがあった。 あまりにも淡々と言うクロの言葉の数々。自分が人間を一人手をかけたということにまるで気付いていないかのように、ただ無表情で変わらぬ抑揚だった。 信じられなかった。目の前にいる人は顔に幼さを残した、ラーナーと同じくらいの人間。
同じ? 本当に同じ?
「なんで……」 「なんでって……お前、よくそんなことが言えるな。ああもしなかったらお前、確実に殺されてたんだぞ。分かってんのか?」 クロ自身も彼女の言っていることが分からなかった。彼の言っていることは正しかった。 実際、もう一秒でもクロが来るのが遅かったら、ラーナーの心臓は男のナイフによって貫かれていただろう。 事態があまりに速く動きすぎていたから、待ったと言う時間も待つ時間も残されていなかった。勝つのは決意が固く、殺意が強い方。 ラーナーの脳裏に笑みを浮かべてナイフをかざす男の姿が映る。途端に身の毛のよだつ冷たいものが体中を走りまわる。
「あのひと……」 男の口の動き、言った言葉。全てがラーナーの中に流れ込んでくる。 「お母さんと、お父さんのこと知ってた」 「……!」 「恨むなら、君の母と父を、恨むがいい……って言ってた。どういうこと? お母さんとお父さんがどうしたっていうの? だってお母さん達は車に……私は……セルドは」 完全に頭の中の回線が絡まっているようだった。クロはそっと息を吐いた。何故か安堵しているような溜息だった。 ゆっくりとラーナーに更に近付き、しゃがみ込んでまっすぐにラーナーの瞳を見た。近くで見れば、彼女はとても綺麗な栗色の瞳をしていた。とても、あの人に似ていた。 右手でポケットから何かを出すと、そのままラーナーに手を伸ばす。
「なに……っ」 しゅっという軽い音の後、ラーナーは目を見開く。が、すぐに瞼が閉じてしまい、力を全て失ったのか雪崩れ込む様に前に倒れた。 それをクロはしっかりと受け止める。彼の右手には、小さな手のひらサイズくらいの白いスプレーがあった。 中にはポケモンの技、眠り粉のパウダーが含まれている。かなり即効性のあるもののようだ。 証拠にラーナーは既に眠りについてしまっている。彼のやわらかな温もりに包まれながら、小さな寝息をたてている。 同時にこぼれてくるラーナーの温もりが、クロにも伝わってくる。 すでに身体から忘れ去られていた、あたたかなもの。目に見えない、光のような。
数秒そのまま動かなかったクロだが、一度ラーナーは近くの建物の壁にもたれかけさせる。スプレーはポケットに戻す。 自分にはまだやらなければならないことが残されている。しかも相当な力仕事だ。 ポニータに期待できないとなると、かなり辛いが仕方がない。少しでも早く始めなければ、時間がない。
「アメモース、悪いけどもう少し手伝ってくれ」 クロはアメモースに近付きながら言った。アメモースは笑顔で頷いて、その大きな羽を広げて低いながらも上空に飛ぶ。 とりあえずは、騒ぎになる前にここを片づけなくては。 クロは表情を引き締め、再び動き始めた。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.11 ) |
- 日時: 2010/10/24 15:01
- 名前: 海
- Page 11 : 弟
彼女は瞼が自然と開いていくのを自分で制御せず、ただゆっくりとその瞳を覗かせた。 木の優しい茶の天井。時を刻むキャラクターの時計。電源の入っていない小さなテレビ。見たことのある、いや、見慣れた景色がそこにあった。 布団の温もりはベッドの上にいることを分からせた。ゆっくりと体をおき上げる。途端に首に激痛が走り表情を歪ませる。変な姿勢で寝ていたようだ。 首を動かさないようにそっと部屋を見渡す。 本やノートが積み重なった机。縫いぐるみがいくつか乗っているタンス。引き出しは一つ開きっぱなし。中から服が覗いている。 部屋は暗い。外も暗い。白いカーテンの隙間からは月光と思われる柔らかな光が注いでいる。
頭が回転していなかった。 自分は今まで何をしていたんだっけ。 自分は今までどこにいたんだっけ。
「――!」 ラーナーは弾かれたように布団から飛び出す。服装は変わっていない。所々に点々と黒く焦げている部分がある。 ここは彼女の自室だった。部屋の匂いも温もりも、全て今までと同じで慣れきった部屋だった。 何故今ここに自分がいるのか。さっきまで確かに外にいて、炎が舞っていた。記憶は突然途切れている。彼がどこか悲しそうな顔で自分を見ているところから覚えがない。 ラーナーは部屋を駆けるように飛び出した。隣り合わせのリビングに直接出る。今日は月光がとても明るい日だった。電気が点いていなくとも窓から光が零れてくる。 柔らかな光に照らされているリビング。静かだった。夏でも夜中だと少しひんやりとした空気を漂わせている。 冷たいフローリングの上を裸足でそっと彼女は歩いた。あまりにも音が無くて、自分の家のように思えなかった。昼と夜で随分と表情が違うことに驚きを感じさせられる。
壁に掛けられた小さな時計を見る。秒針が音を立てずに滑るように盤面を走っていた。三時二分。随分と眠っていたようだ。 体に気だるさが残っている。足取りは重い。ゆっくりと歩いていた足を止める。 テーブルの上に目をやった。今日自分が買ってきたヒマワリの入った花瓶と、ラップのかかった青い皿とコッペパンが乗っていた。 更にその皿の下に、白い紙を四つ折りにしているものがあるのを見つけた。暗い中で白はとても映えていた。 彼女は右手を差し出し、それを慎重に引く。皿が音をたてて、ようやく平常のバランスをとる。 しばらく紙を見つめたまま動かなかったが、やがてそっと紙を開く。薄く白い紙で、B5サイズほどの小さめなサイズだった。 黒い文字が敷き詰められている。鉛筆かシャーペンで書かれている。筆圧と太さからいって恐らくはシャーペンだ。 小さな文字で走り書きで書かれていた。けれど中心がとても整えられ、読みやすい文字が並べられている。 ラーナーは立ったまま、目で文字を追いかけはじめた。
「今日はいろいろあってかなり頭が混乱してると思う。 勝手ながら、あんたのこと、いろいろ調べさせてもらった。 だからまあ部屋も確定できたんだけど。 もうあんたも部外者とはいえないから、ある程度知っとくべきことはここに書いておこうと思う。 まず、セルド・クレアライトのこと。 部屋にはいないし、周辺にも「いる」という情報は無い。 殺害されて、連れて行かれたという可能性が高い。 証拠隠滅のためにね。恐らく血も何も残ってはいない。まるで何も無かったかのように。 セルドが殺されたのは、そしてあんたが殺されそうになったのは、ニノ・クレアライトの子供だからだ。 俺の予想では、多分あんたが身に付けているブレスレットも奴等は狙ってる。 そして、今日あんたを殺そうとしたのは、黒の団という組織だ。 奴等はあんたを殺そうとしている。今日に限ったことじゃない。脅すようだけど、確実にこれからも狙われる。 どうしてこの長期間何の音沙汰も無かったのかが分からないけど、これだけは確かだ。 あまり詳しくは書けない。 この手紙を読み終わったら、粉々になるまでちぎって捨てるか、燃やしてしまってほしい。 なるべく周囲にはこのことを言わない方がいい。言ったところで何も解決しないし、逆に危険だ。 昼間にも行ったことだけど、とにかく逃げろ。 もうウォルタから出た方がいい。死んじゃいけない。 まとまりのない手紙ですまない。 ただ、今は少し休んだ方がいい。テーブルの上に食べ物を置いておく」
最後に小さく彼の名前が書かれて、そこで手紙は終わっていた。 ラーナーは呆然と手紙を見つめていた。一度読んだだけでは理解が出来なかった。何度も何度も文を、言葉を一つ一つを噛みしめるように読み直す。 数秒後、思い出したように突然走りだした。弾かれたようにリビングを出て、玄関に向かう。 扉の鍵はかかっていない。不用心極まりない。しかしそんなことはどうでも良かった。ドアを勢いよく開けて、そして息を詰めた。
何も、無かった。 確かに、ここにセルドが、居たはずなのに。
本当に血痕の一つも残されてはいなかった。ただ普段と同じコンクリートで出来た無機質な廊下が横に伸びているだけ。 冷たい風が彼女の長髪を揺らす。夏でも夜の風は涼しい、寒すぎるくらいだ。 手が小刻みに震えていた。目の前にある現実を信じられなかった。確かにラーナーの記憶の中で、セルドはここで倒れていたのだ。 嘘だ。 そう思い、扉から離れる。途端に扉はゆっくりと動き、音をたてて再び閉まる頃には、彼女は別の部屋へと走っていた。 セルドの部屋だ。普段は彼が極度に嫌がるため、入ろうとも思わなかったこの部屋。久々に扉を開ける。
「セルドっ!」 それはほんの一筋の希望を願っての言葉だった。これに反応して彼が驚いて、そして怒ってほしいと。その存在を確かめようと。 しかし現実は理想とはかけ離れていた。 電気がついていない月光に照らされたその部屋は、人など一人もいなかった。 意外に綺麗な床。白い布団が乗ったベッドに、漫画が積まれ、鉛筆やペンが放りっぱなしの机。古くなって傷だらけになってしまったけれど、彼がとても大切にしていたサッカーボール。 何もかもいつだったかに見た部屋と同じだった。そう、この部屋の主がいないことを抜いては。 呼吸が震えているのがラーナー自身でも分かった。 突如込み上げてくるものがあった。言葉では言い表すことのできない、黒くて重いものが胸の奥で膨らんでいった。 そっとセルドの部屋に入る。小さな掛け時計の音が部屋の中で淋しくこだましている。 机の上にある漫画を手に取り、ぱらぱらと力なくページを捲る。先程セルドが楽しそうに見ていたアニメの原作だ。それぐらいは彼女にも分かった。 読む気にはとてもじゃないがなれなかった。再びそれを机の上に置く。
風を感じた。思わず目を窓に向ける。暑かったのだろうか、窓は開けっ放しにしていて、白いカーテンが流れるように揺れている。 窓に近寄るとそれに手をかけ、ゆっくりと閉める。だんだんと風が無くなっていって、最後には消えた。カーテンもおとなしくなる。
呆然としていた。そして見つめざるを得ない現実というものが彼女の目の前に立ちはだかっていた。 立っていられるのが自分でも不思議なくらいだった。本当は足も震えている。今にも折れて、倒れてしまいそうだった。それなのに彼女は立っていた。 ふと、彼女の視界の端に金属的な光が映る。無気力のままに、それに視点を合わせようと体ごと再び机の上に向ける。 月光を浴びて鈍く光る、ハサミがそこに放置してあった。
その光り方が彼女に記憶を強制的に思い出させる。黒の団の男が持っていたナイフが脳裏を走る。 恐怖が再び彼女を襲い、思わず右手で服の胸元を握る。その上に左手を乗せ、落ち着かせるようにそっと深呼吸をする。 青いプラスチックの持ち手であるそのハサミを、彼女は心を沈ませながら手に取る。使った跡が傷となって刃に残っている。恐らくは、切れ味も鋭いものだろう。 ラーナーの頭の中にセルドの顔が映る。 楽しそうに笑った顔も怒った顔も、何かを我慢しているのか今にも泣きそうな辛い顔も、全てが思い出せる。 記憶を呼び戻せば、何もかも思い出せる。 親を早くに失くし身内も他にいないラーナーにとって、ずっと支え合って生きていた唯一の血の繋がった家族だった。 決して切ることのできない、固い絆があった。 今でも頭の中で彼の少し低めの声が響きわたる。 「おねえちゃん」 とラーナーを読んでいる声がする。
光る刃。弟の声。外で吹く風。時計の小さな音。 ラーナーはハサミを動かして、首の近くまで右手で持っていく。 「死んじゃいけない」 そう書かれた文字が脳裏を掠める。
彼女は一瞬その目に光を宿した。決意の光だった。 そして瞼を閉じ、その右手を動かした。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.12 ) |
- 日時: 2010/10/30 12:39
- 名前: 海
- Page 12 : 暗
同じ頃、先程まで激しい戦闘が行われていた場所。 月はもうとっくの昔に西の果てに落ちていった。月光を失った深夜の町は、何時ものように静けさと暗闇に包まれるはずだった。 警察やそのポケモン達、それに野次馬の人々が、あれやこれやと言葉を発している。誰もが不安そうに顔を歪めていた。 とてもじゃないが深夜とは思えないほどにざわついている。 そもそも昼であろうと夜であろうとこんな人気の無いところに人間がこんなにいること自体も、異常事態であった。 ガーディなどの警察犬としての役割を持つポケモンが、地面に鼻を当てて懸命に匂いを探っている。 警察は現場を調べるのと同時に、野次馬を追い返すのに躍起になっていた。どうやらあまり捜査は上手くいっていないようで苛立ちの表情が垣間見える。 それを遥か上の方から見つめる者が一人、いた。 高い木造建築の屋上、夏の生暖かい風に髪を揺らす男が一人、立ったまま人混みを見下ろしていた。 濃い茶髪で、それと同じような色の瞳。そして、さっき戦っていた男の来ていた黒い上着と同様のものを着用していた。 歳は十代後半と言ったところで、まだ若さが顔に、そして身体に満ち溢れている。両腕を組み、唇を閉じたままただ黙っていた。 と。
「バジルさん!」 幼げな雰囲気を残す声がした。男子の声だが、声変わりがまだなのか高めのトーンだ。 バジルと呼ばれたその男は右方向に体を向ける。すると、暗闇の中で高い建物の屋根を軽快に跳びながら、人が来た。 金髪のその人は、バジルの前に来るとすばやく膝を折り頭を下げる。十三、四歳ほどのまだ成長途上の男子だった。上着はバジルの着ているそれと全く同じ。 彼はそっと頭を上げた。頭には怪我をしているのか、包帯を巻いている。その上を覆うような長い髪の毛の下、金色ながら不思議な雰囲気を持った瞳があった。それは人間というよりは、獣に近い瞳をしている。 「……遅かったな」 低く呟くようにバジルは金髪の彼に向かって言った。 途端に彼はハッとして、弾かれるように頭を再び下げた。 「申し訳ありません! 予想していた以上に難航しました」 「難航、か。まあそれは置いておく、どうなっていた」 「はい」 彼は腰に巻いていた灰色のウェストバッグから、白い布に巻かれた少し掌より大きめのものを取り出した。 撫でるように布を彼は広げる。すると、ナイフが一本姿を現した。下の光で刃が真っ直ぐに光っている。 バジルは眉間に皺を寄せる。ほんの数秒だけ金髪の男子はバジルの様子を伺ったあと、一回だけ頷きながら口を開いた。 「形状から見て、シーザー・アボットの持っていたものと見て間違いないかと」 「どこにあった?」 「この下です。警察が来る前に探したところ、一つだけ残されていました。……若干ながら傷もあります。しかも、火花に当たったような焼けた跡も」 彼は立ち上がり、布に乗せたままバジルにナイフを差し出す。バジルはそれを受け取り、目を細めて観察する。 彼が言っている通り、暗いために詳しくは分からないが傷がある。右手でなぞるように触ると皮膚がそれを感じ取る。 「周辺を捜しましたが、シーザーは見つかりませんでした。……ラーナー・クレアライトも」 「そうか……」 バジルはナイフを再び布に包んでから、それを持ったまま再び地上を見下ろす。 慌ただしそうに、けれど規律のある動きで警察が捜査を続けている。だがそれが意味のないことだということを、この二人は知っていた。 その場に残っていたものは彼等が全て処分した。処分したといっても見つかったのはナイフだけだが。他には何も残ってはいなかったのだ。 誰かが故意に片づけたとしか、思えない。 しかし、ウォルタにいる情報屋を訪れても、ほとんど何も情報を得ることは出来なかった。分かったのは、突如巨大な火柱がこの場所に上がったということだけ。 それもかなり不可解だった。彼等が今立っている建造物は木造。その周りにあるものもまた同じ。火にあてられたという割には焼けた跡も燃えた跡も残っていない。 そんな芸当が出来るものだろうか。常識で考えてもおかしい。しかしナイフには焼けた跡がある。 靄のかかった真実。不審な現実。 けれど、彼等の脳裏にはこの現実を可能にすることができる人物が浮かび上がっていた。
「……笹波白、の可能性がある」
バジルの言葉を聞いた途端に金髪の彼が息を詰まらせた。 その様子を見たバジルは彼の方を向いて、少し眉をひそめた。慌てて金髪の彼は頭を垂れる。 浅い溜息をついてからどこか遠くを見つめるようにバジルは空を見上げた。薄い雲が少し出ている。風もどこか強めだ。無数の星が埋め尽くしている。いつもならもっと暗いがためにはっきり見えるのだが、今日は少し地上が明るいせいで少しばかり薄らいだ光のように思える。この時間の星など誰もが見れるものじゃあない。 けれど彼等にとって夜は昼間と同然。動き回れるのは、むしろ夜の方だ。
「もしも、笹波白がこれに関連しているなら……全ての辻褄が合う」 「そう、ですね……」 「確かめる必要があるな」 バジルのその言葉を聞いた途端に金髪の彼はそっと頭を上げる。 横風に髪が揺れる。ずっと切っていないがために伸びた上に増えた髪は、彼の顔を覆いかぶさってしまいそうな勢いだった。 警察の怒鳴るような声が辺りをちらつく。深夜なのに張りのある声だ。いつの間にか野次馬は減っている。
金髪の彼の脳裏に、いつだったかの小さな背中が映る。 当時にとってはとても大きな背中だと思えたのに、今ではとても小さな背中となってしまった。 今、その背中はどれほど大きくなったのかが彼には分からない。知ることが出来なかった。もしかしたら、そのまま消えてしまっているかもしれない。 本当のことが知りたかった。真実をこの眼に焼き付けたかった。 彼は固く結んでいた唇をそっと開いた。
「僕が、行きます」 その言葉を聞いた途端、驚いたように眼を見開いてバジルは彼に振り返る。 そこに居たのは、強い決意の光を灯した瞳を持つ少年が一人。さっきまでとは雰囲気がまるで違う。 「僕が確かめてきます。この目で」 「……何もお前が行かなくても、もっと下っ端に行かせればいい」 「僕は地位的には最下位同然です。出来損ないですから。それに、万が一あの人だった場合、ただの人間が太刀打ちできるでしょうか」 「……」 「行かせてください」 沈黙が二人の間に流れる。数秒ほどの間だったが、金髪の彼にとってはひどく長い時間のように思えた。 風が吹き付けては通り過ぎていく。張りつめた冷たい空気が彼等の周りを覆う。 睨みあうようにぶつかる目線を先に逸らしたのは、バジルの方だった。
「好きにしろ」 「!」 金髪の彼は思わず目を見開く。 バジルははぁと深い溜息をつきながら、左手を上着のポケットの中に入れる。
「随時報告を怠るな」 「はい!」 明らかにトーンの高い声にバジルは顔をしかめる。それに気づいたのか金髪の彼は急に顔を引き締める。そして同時に強く握られた両手の拳。肩にも力が入っている。 バジルは右手に持っていたナイフの包まれた布を金髪の彼に差し出す。それを金髪の彼はゆっくりと受け取った。 再び二人の視線がぶつかる。バジルは複雑な心境で金髪の彼を見つめていた。 「……忘れるなよ。笹波白がした行いを」 「……分かってます」 バジルはゆっくりと動き始め、金髪の彼に背を向ける。少し大きめの背中は、彼の身長もあるが、彼の持つ威厳に近い何かも助けてそう見える。 顔だけを動かし、横眼で金髪の彼を見やる。
「――俺はもう行かないと。この件については、任せた。……“疾風”」 金髪の彼の返事を聞く前に、バジルは腰からモンスターボールを一つ取り出し、それを軽く投げる。するとボールが開いて白い光が飛び出し、光はものの形を形成する。 大きくたくましい翼とクリーム色をベースとした羽毛を持つ、ピジョットだった。 それにバジルは素早く乗ってまたがり、もう一度確認するように金髪の彼を見る。金髪の彼は唇を噛むように結んでいたが、それをほぐすようにそっと開く。 「はい」 その言葉を聞き届けた後、バジルはほんの少しだけ頬を緩め、が、すぐに引き締め直し、ピジョットと呟く。 ピジョットは一度軽く頷いた後に畳んでいた翼を広げる。広げた翼は迫力を更に引き出す。翼を開いた瞬間の風に、金髪の彼は一瞬吹き飛ばされそうな感覚に襲われた。 翼がゆっくりと羽ばたきはじめる。ピジョットの力強い足が屋上を離れたかと思うと、大きく羽ばたいて、空へとのぼる。 無数の星の煌めく夜空へと、その姿はあっという間に溶けていった。
それが本当に見えなくなってしまうその時まで、見送るように金髪の彼は空を見つめていた。 独りになった屋上。 空を仰ぐその瞳は、今までバジルの前では決して見せなかった、弱弱しく悲しげな光を灯していた。
「白、さん……」 呟いた小さな言葉は、空に消えた。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.13 ) |
- 日時: 2010/11/03 12:43
- 名前: 海
- Page 13 : 旅立ち
太陽が東の空から姿を現わしてから一時間ほどのまだ早朝の時間。詳しくは六時を少し回ったところ。 鳥のさえずりも少しばかり聞こえてくる。可愛らしい鳴き声は心を震わせる。 まだ人はさほど外には出ていない。が、休日を終えて平日となった今日は、もう少ししたら大人も子供も混じって道を歩くだろう。 朝とはいえ日光に当たり続けていると自然と汗がにじんでくる。たまに吹いてくる風が涼しい空気を運んで来てくれるのが救いだ。 ラーナーの住んでいるアパートから徒歩約一分というとても近い場所。 住宅が寄り添うように立ち並んでいる団地の中の一つの家。レンガの暖かな壁の、大きいとはいえないがそこそこの大きさのある一軒家。 そこには、二人の夫婦が住んでいた。 姓を、エイリー夫妻といった。 どちらも五十を過ぎた位の歳。とても仲が良いが、子供を授かってはいない。妻の方の体の関係だった。 そして、ラーナーの住むアパートの管理人でもあった。 そんな家の中に、今彼女はいた。
「こんな早朝に来るから、何事かと思ったけど……そう。あそこを出るの」 エイリー婦人は白く花の絵が描かれたティーカップに紅茶を入れて、木の四角いテーブルに置いて彼女に差し出す。 会釈をしながらありがとうございます、とお決まりの言葉を彼女は口から滑らせた。 ミルクは今ないの、ごめんね、お砂糖はここにあるから、と言ってエイリー婦人はテーブルの真ん中にあった白い皿を寄せる。砂糖の入った透明のガラスの入れ物が上に乗っている。 その後エイリー婦人は一度彼女の傍を離れ、彼女の正面にあたる椅子に腰かける。そして優しい茶色の瞳で彼女をそっと見た。 「はい。セルドが、……とても、遠くに行ってしまったみたいなんで。連れ戻しに行かないと」 彼女、ラーナーは薄く笑いながら言った。苦しそうな笑顔だった。 無理をして笑っているということに、エイリー婦人は気付いていた。ただ、敢えて何も言わなかった。言えなかった。 「もう出なくちゃいけないの」 「少しでも早く行かなくちゃいけないんです」 「そうなの……淋しいわね。あなたは私たちにとって本当の子供のような存在だったの。勿論、セルドもよ」 エイリー婦人は自分のティーカップに右手を伸ばし、そっと口に運ぶ。 婦人は茶色で肩まであるふわっとした髪をしていた。彼女の温厚な性格をそのまま表現しているように優しい女性らしい髪型である。 窓から入る朝の光に包まれた部屋は先程からつけた冷房のおかげで、少しひんやりとしていて夏には丁度いい温度になっていた。 紅茶を少し飲んでから、エイリー婦人は溜息をつく。温かな息と共に紅茶の良い香りが口の中から零れる。
「懐かしいわね……こうやって話すの、いつぶり?」 「さあ……言うほどじゃないですよ。お正月以来じゃないですか?」 「約半年じゃない。まあ、年寄りになるとあっという間になっちゃうんだけど。なんだか、あなたたちが小さい時の姿だってほんの昨日のことみたいに思い出せちゃうわ。覚えてる? 大雨の日の時、ほら、セルドとラーナーがレト川の近くで」 婦人は喉を鳴らすようにククッと笑う。同時にラーナーの頬が少し赤くなる。 レト川というのは、ウォルタに流れる川のうちの一つ。比較的浅いために夏になると毎日子供たちで賑わっているスポットだ。 「セルドが大雨なのにこっそり外に出てって、ラーナーが最初に気付いたよね。慌てて探しに行ったんだっけ。あたしたちも探して、ようやく見つけたときにはもうラーナーが見つけてたわねー。二人とも頭から足まで泥だらけだったからびっくりしたけど」 はぁとラーナーは溜息をつく。 「川の近くに出来た大きな水溜りで二人して転んだんですよ。すごい雨だったから大変でした。ほんと、セルドが出なかったら……」 自分の口から自然と弟の名前が出てきたのに自分で驚いた。そして同時に後悔する。名前を呼べば、また頭の中に思い出が駆け巡る。思わずラーナーの顔がかげってしまう。 それを見たエイリー婦人は眉をひそめて、何か言おうとしたが、唇を紡ぐ。妙な緊迫感に襲われる 「……ニノやリュードがいたらそうはならなかったかもね」 呟くようにエイリー婦人は言った。ラーナーは更に少し顔を俯かせる。けれど無理に頭を上げるとひきつったような笑みを浮かべて言う。 「エイリーさんには……本当に、お世話になりました。小さい頃から、色々と気にかけてくださって」 「いいのよそんな。あなたたち二人とも良い子だったから、何にも困らなかったわ」 優しく微笑むエイリー婦人の顔を見て、ラーナーはようやく本来彼女がいつも見せる笑顔を顔に浮かべた。 リラックスしたのだろう。婦人もその様子を見て、思わず安堵してしまう。 「部屋のことならいいわ。面倒なことはやっておいてあげる」 「すいません。最後の最後まで、迷惑ばっかりかけてしまって……」 「最後なんて言わないの。縁起でもないだから。――本当に行くのね」 念を押すようにエイリー婦人は言う。まだ事が整理できていないのか混乱していることが伺える。 ラーナーの答えは一つだった。もう心は決まっていた。栗色の瞳が強く光る。決意の光だった。
「はい」
そんな瞳で言われたら、誰ももう止めることなどできない。 エイリー婦人はふぅと浅い溜息をついた。いつの間にこの子はこんなに強い瞳をするようになったのだろう。 行動力の良さも瞳の強さも父母にそっくりだった。彼女の親を知るエイリー婦人は、ラーナーを見ていると自然ともうここに居ない存在を思い出す。
「……ちょっと待ってて」 そう言うと婦人は席を離れて、ブラウン管の大きなテレビの隣へと歩み寄る。そこには背丈の低い本棚があった。 本棚の上には白い布が敷かれ、更にその上に様々な小物が置いてある。その中で壁にもたれさせている二つのものに手を伸ばす。 二つの、モンスターボールだった。 小さくなっている状態なので、二つとはいえど楽々右手の中におさまる。 それらを少しの間だけ婦人は見つめて、振り返る。そして今度はラーナーの傍へと歩み寄る。 ラーナーは不思議そうに婦人を見つめていた。婦人は優しい瞳でまっすぐにラーナーを見て、膝に乗せていた彼女の左手をそっと手に取る。 温かな手にラーナーは心が休まる。婦人はそっと開かせたその中に、モンスターボールを二つとも置く。 そして、婦人は両手で包みこむようにラーナーの左手を優しく握る。
「これは、あなたのお母さんとお父さんのものよ」 「!」 ラーナーは驚いて目を見開き、思わず自分の手にあるボールを凝視してしまう。 「ずっと預かっていたの。いつか、あなたとセルドに渡そうと思って。――中には、ニノとリュードのポケモンが一匹ずつ入ってるわ。大切にしてあげて」 ゆっくりとエイリー婦人はその手を離す。ラーナーの手の中に二つの命が残される。 ボールはどちらも綺麗に磨かれていた。けれどそれでも消えない、無数の傷があることは触ればよく分かった。 外からじゃあ何の生き物が入っているのかはまるで分からない。けれどラーナーはそれを婦人に聞こうとはしなかった。 「……ありがとう、ございます」 絞り込むような声がラーナーの喉からこぼれてくる。 やりきれない思いになったエイリー婦人は、そっと腕を伸ばし、ラーナーの体を抱き包んだ。 突然のことに少し驚くラーナーだったが、嫌がってはいなかった。素直に受け入れ、ラーナーも婦人の体をそっと抱く。
二人の温もりがお互いを包み込む。 それは命のあたたかさだった。 ラーナーは涙を必死に堪える。 泣かない、ということも彼女がまた決意したこと。 泣いてしまうと、思いと共に全てが吐き出されて、自分が見えなくなりそうだったから。弱い自分が浮き彫りになってしまいそうだから。
「また、帰ってきてね」 そう言う婦人の声は、少しだけ震えているようにラーナーは思えた。ただ、何も言わなかった。 少し間が空いてから、ラーナーは一回だけ頷いた。声を出したら泣いてしまいそうだったから。 絶対に戻ってきたいと思うけれど。 戻れない方が大きいということは、ラーナー自身がよく分かっていた。 左手にある二つのモンスターボールを、彼女は強く握った。その手は小刻みに震えていた。 ずっと、このままでいたいというどうしようもない願い。このまま時間が止まっていたらいいのにというどうしようもない願い。 それでもほんの少しの間だけ。この大切な温もりを、体が、心が覚えていてくれますように。信じていない神様。それくらいはいいでしょう? ああ、零れてきそうな涙を止めてくれたら、もっと嬉しいです。 心の中で呟く彼女の思いは誰に届くこともなく光る。
長かったラーナーの綺麗な髪の毛。 彼女が自分で切ったったがために散切りのボブスタイルになった栗色の髪は、彼女の決意の証だった。
*
誰もいない朝の墓場。夜なら恐怖も生まれてくるかもしれないが、日の光がある今は何も感じない。 まだ冷えた空気が凛として肌に刺さる。これも時間が経つにつれて温く湿ったものとなっていくのだろう。 目的の墓の前にクロは来ると、右手に持っていた赤い名前の分からない夏の花を差し出す。 彼の前に墓は二つ。どちらの前にもたくさんのシロツメクサが置かれている。あまりの真っ白さに眩しささえ感じる。 しゃがみ込んでその隣にその赤い花を置く。白の隣に置くと、やけに際立っている。これなら白い花を摘めば良かったと心の中で落ち込む。 目立つのは嫌だった。 立ち上がるとしばらく二つの墓を見つめた。 クロは片方の墓に眠る者には一度も会ったことがない。ただ顔だけは写真で見たことがある。薄らとしか覚えていないが、優しげな顔つきをしていた。 帽子の上につけている黒いゴーグルが太陽を反射し光っている。 大きく口を開けて、欠伸をする。開けすぎて、口の両端に痺れるような痛みが走る。 「……ねむ……」 深緑の瞳のすぐ下、薄いながらもクマができていた。 結局折角宿をとったにも関わらず、そこで寝てはいない。朝になってから訪れて、キャンセル代だけ払ってまた出ていった。 本当に眠い。瞼を閉じれば一瞬で夢の世界へ吹っ飛んでいける自信がある。瞬きがやけに重い。 何しろ一晩中彼はずっとラーナーの住むアパートの屋上で、ポニータと交代しながら見張りを続けていたのだ。 交代は一時間ほど。片方が見張っている間に、もう片方はひたすら寝る。一時間をただ重ねていった睡眠は、当然だが深くない。 よって今も睡眠不足だ。
もう一度欠伸をしようとする、その時。 クロは欠伸をするのを忘れ、耳に入ってきた音に敏感に反応し後ろを振り返る。 敵かもしれない、と思ったのだろうか。そして現れた者の存在に、思わず目を見開いた。
「……お、はよ」 呟くような声で彼女、ラーナーは彼に向かって朝の挨拶をする。突然クロが振り返ったおかげで驚いたらしい。 白い半そでの薄めのシャツ。更にその上に薄い灰色で下に長めののタンクトップ。胸元に大きなボタンが一つ、飾りでついている。 濃く青いデニムのショートパンツを穿いており、黒いハイソックスと灰色のスニーカーを履いている。 そして肩にかけれる青くて小さなボストンバッグ。 どう見てもちょっとそこらにお出かけ、というような荷物の量ではないことが鞄の膨れようから分かる。 クロは呆然としていた。時間が止まったかのように口を少し開いたまま、動かなかった。 空は白い雲が薄く張ったように伸びている。 ラーナーはクロの視線が自分の頭に注がれているのに気づき、少し笑いながら自分の髪を少し掴む。 「切ってみた。……自分で切ったから変だけど」 彼女の言っている通り、とても美容院のようなきちんとしたところで切ったような感じはしない。散切りで、量のすき方もなんだかアンバランスだ。 風を受けて揺れる様子も、今はやはりどこか寂しく感じられる。髪を切っただけでこんなにも人の印象は変わるのかとクロは衝撃を隠せなかった。 ラーナーは改めてクロを見ると、何かに気付いたように目を丸くする。 「あ、でもあなたも切ったんだね。ちょっとだけ毛先が」 「ああ……まあ。ちょっと焦げたし」 その瞬間、ラーナーは少し吹き出してしまう。右手で口を抑え、体を震わせて笑った。 クロは急に笑い出したのに驚いて、顔を赤くしながらもどうして笑っているのか分からず、動揺する。 「え、えっと……」 「ああごめんっなんか笑っちゃって……焦げたって……ははっ」 ラーナーは口を押さえていた手を離し、そのまま右耳に髪をかけた。 つぼにはまったのだろうがそろそろ彼女の笑いもおさまってきた。クロは複雑な表情をして、溜息をつく。 今だに顔は柔らかく笑っているままで、ラーナーはポニータに近寄る。凛とした黒い瞳でポニータはラーナーを見つめる。ラーナーはその白い体毛の頭をそっと撫でてやった。 気持ちよさそうに眼を細めるポニータ。炎がオレンジ色にゆらゆら揺れている。いつの間にかポニータはラーナーに心を許していたようだ。 思っていたより動揺していないようで、クロは内心安堵する。まあ、それは表面上だけのことだろうけど。 本当の心は、きっと暗くて深くて、もっと涙に溢れているはずで。
「あたし、もう今日ウォルタ出ようと思うんだ」 ポニータを撫でながらラーナーは声を出した。張りのある声だった。 少し下げていた顎を上げるクロ。ラーナーは一度腕を下ろし、真っ直ぐにクロの方に体を向ける。 「アパートのことは、知り合いに任せちゃった」 「……やつらのことは?」 クロの眼の色がその瞬間に変わった。 「言ってないよ。危険な目に会ってほしくないし。……すごく、大切な人達だから」 遠くの方を見るような目でラーナーは少し上を向く。空の方から涼しい朝の風が通り抜け、短くなった彼女の髪をなびかせる。 「セルドを探しに行くって言ってきたんだ。もう、いないって分かってるのにね」 悲しそうな眼をするラーナー。思わずクロは絶句して、唇を噛みしめ顔を俯かせる。 それを見てラーナーは困ったように笑うと、ニノの墓に歩み寄る。硬い石の物体を大切そうに撫でる。とても愛おしげに。
「で、さあ……ものは相談なんだけど……」 急にもじり始めるラーナーに、クロは眉をひそめる。 ラーナーは少し唇を噛んでいたが、決意したように急にクロの方を向く。クロは思わず身体を震わせる。 「一緒についてっちゃダメかな?」 かなりの早口でラーナーは言い切る。普通の早口言葉並みのスピードで言われ、クロは一瞬耳を疑ってしまった。 しかし聞き取れなかったわけではない。少し彼は頭の中で整理をする。数秒の間が空く。妙に気まずいような空気が彼等を包む。
「……はあ?」 思わずクロから出てきたのは、そんな間抜けな声でしかなかった。 ラーナーはそれを聞いて浅い溜息をつくと、睨むような強気な姿勢でもう一度クロと対峙する。 「一緒に行かせてって言ってるのっ」 「……お前、それが人にものを頼む態度か」 「行かせてくださいお願いします」 ラーナーは少し苛ついているような声で言うと、即座にクロに頭を垂れる。 まさかそんな態度に出るとは思っていなかったクロは、目を丸くしてあからさまに動揺する。 ゆっくりと頭を上げるラーナー。ほっとしたようにクロは肩を撫でおろす。 そして、ようやく心が静まっていき、二人の視線が絡み合う。重なるように生きる木々が音をたてて揺れ始めた。
「正直、一人じゃ、ちょっと……怖すぎて。ごめん、ほんと……自己中だってわかってるんだけど……」 力無く彼女は笑った。話している途中から彼女の目がおびえているのも、体が震えているのもクロにはわかった。 ラーナーから飛び出した本音は、昨日の夜の出来事を思えば当然の事だった。 ポニータは軽く喉を鳴らすような声を出す。クロは目を細めた。
「どうしたらいいんだろう」
ラーナーはぼそりと呟いた。本当に小さな声だった。そして同時に、今にも泣いてしまいそうな声だった。 耳の良いクロは一字一句聞き逃すことは無かったけれど。 薄い雲が太陽の下を通過する。同時に少しだけ日光が遮られる。気持ちほど涼しくなったような気分にさせられる。 夏独特の、蝉の声が聞こえ始めた。この声は、アブラゼミの鳴き声だ。 彼女の気持ちは彼はよく分かっているつもりだった。けれど、彼女の悲しみの大きさを彼は計ることができない。 むやみな言葉は時に人を傷つけてしまうから、彼は分からなかった。 今までにも何回かこんな気分にさせられることはあった。何を言えば彼女は笑ってくれるのだろうか。何を言えば彼女は傷ついてしまうのだろう。 答えは見えない。
「……いいよ」 考えている間に勝手に口から滑って出てきたクロの言葉。 その瞬間にラーナーははっと顔をあげた。ポニータも今までラーナーに向けていた視線をクロに移す。 風がやんで、木の葉の踊る音は聞こえなくなった。相変わらずアブラゼミは鳴き続けている。 声を発した本人は、自分で驚いたような顔をしていたが、時間は戻らない。それに、それが本音だとも分かってる。 「いいって……」 「一緒に来ても」 「そ、そんなにあっさり決めちゃっていいもんなの?」 「別に……ポニータは見るからにいいって言ってるし」 ポニータは軽く頷いた。 ラーナーは未だに信じられない顔のままで口を開けている。 「ほんとにいいの?」 「……付いていきたかったんじゃないのか」 「そうだけど。本当についてくよ」 「好きにすれば」 素っ気ない言葉ばかり彼からは出てくるけれど、ラーナーは気にしなかった。 徐々に彼女の顔に笑みが広がっていく。空気が明るくなっていく。 「……ありがとうっ」 彼女の心からの笑顔だった。とても輝いている顔がそこにあった。 クロは息を詰める。頬の温度が凄まじい勢いで上がっていくのが分かった。 それに気付かれてほしくなくて、クロは急いで隠れるように背を彼女に向けた。 「そうとなったら、さっさと行くぞっ」 「え、あ、ちょっと待ってよ」 ラーナーは彼を呼び止める。しかしクロは逃げるように歩くのを止めない。ポニータは付いていっていないが。 クロがどんどん遠くなるのに焦るラーナーは、それでも落ち着いて二つの墓を見やる。 心なしか急いで手を合わせる。両目を閉じて心の中で必死に言葉を並べる。一方的な彼女から肉親へのメッセージ。 彼女の耳から彼の足音が消えていくのがわかる。 雲は太陽の下を通り過ぎた。影がこゆくなる。夏の暑さは時間が経つにつれどんどん本性を見せるだろう。 青空が透き通るように眩しくなってきた。
ラーナーはそっと目を開いた。 ほぼ同時期くらいにクロの足音が止まる。少し遠いがまだラーナーの目の届くところにいた。 ポニータはラーナーの背中を鼻で軽く押す。ラーナーが動くのを促しているのだ。 軽く笑みを浮かべながらもう一度彼女は墓を見て、口を動かした。それは、先程彼女が亡き両親へ向けて送った一番大切な言葉。
「行ってきます」
もう一度、戻ってきたいから。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.14 ) |
- 日時: 2010/11/03 13:34
- 名前: 海
- Page 14 : 行先
約二時間前、ウォルタを二人は出た。 朝日は高くまで上がっていた。照りつける日差しが痛いようにも感じる。 道は市街を出て最初の方こそ整備されていたが、今はもう自然の乾いた地面の道。歩くと砂を蹴る音がする。 この道に入ってから、ラーナーは何度水の町を振り返ったのだろうか。もう数えるのも億劫になるほどだ。その度に悲しげな瞳をするのを、クロは見ていられずにいつも目を逸らしていた。 だいぶんウォルタからは離れた。街の中心にそびえる高い時計台だけが、今は見える。 きっと今頃街の中は人と車で溢れているだろう。町を流れるほとんどの川は子供たちで溢れているはずだ。笑い声を携えて。 クロとラーナーが現在歩いている辺りには、真っ直ぐに伸びる道の外側には草原が広がっていて、木々がぽつぽつと点在している。 それぞれが生温い風を受けて、海の引いては寄せる波の動きのようにうねっている。 またラーナーは振り返った。その瞬間に、クロは大きな溜息を思わずついてしまった。
「なによ、そんな溜息ついて」 歩くのを止めて少し怒ったような声でラーナーは言い、クロを睨む。 「あんたさ、……いい加減そうするのもやめたらどうなんだよ」 クロは帽子を右手で少し深くかぶりなおしながら、うざったそうに言う。 その途端にクロの後ろにいたポニータが彼の背中を鼻で押し、うわっ、と声を出してクロは前につんのめる。 ポニータは怒っているのか鼻息を荒くして、じっとクロの方を見ている。 クロは顔をしかめて、ポニータと睨み合う。 「お前、あいつの肩持つのかよ……」 「故郷を離れるんだよ。これくらい分かってよ」 「故郷ねえ……」 また溜息をついて、クロは両手を頭の後ろで組んで空を見上げつつ歩き始めた。 もう、とラーナーは頬を膨らまして、小走りでクロの元に駆け寄る。 「なんかこう、クロはデリカシーないよね」 「別にどうでもいいだろ」 唾を吐き捨てるように彼は言う。 ラーナーはこれからの旅が激しく心配になってくるのを感じた。思っていたよりうまくいきそうにない。 ポニータがいるとはいえ、ポニータは人間の言葉を喋れない。話し相手がクロしかいないのは分かっていた。 不安が襲いかかる。けれど一人で旅をするのはそれと比べようがないくらい怖い。 今は少しでもコミュニケーションをとって、仲良くなることが必要だとラーナーは結論した。
「あと、あんたっていうのもやめようよ。ラーナーでいいって。あ、ラナでもいいよ。友達にはよくそう呼ばれるの」 「よく喋るな……」 「なに?」 「いや、何も」
それから数分間、しばらく二人は何も喋らなかった。ラーナーは最早何を話せばいいのか分からなくなってしまった。それはクロも同じ。空気を自分が重くしたという自覚は彼の中にあった。 太陽が熱い。気温がみるみる上昇していくのが体中で感じる。こうも暑いといつか倒れてしまいそうだ。まだ暑くなるなんて信じられない。 照りつける光、風の無い道。ラーナーは後ろ髪を両手で束ねて、少しでも首に空気に触れさせる。 暑いのに加えて二時間以上の歩行は、ラーナーの足取りをだんだんと重くしていく。確実に遅くなっているのが自分でも分かった。 先ほどまで隣同士にいた二人だったが、ラーナーが徐々に後退していく。 ポニータはクロの頭を軽く突く。クロは相変わらず苛立ったような顔で振り向く。 視線をポニータに移す経過で、クロはようやくラーナーの顔色と足取りの悪さに気づく。彼は少しだけ目を見開いた。 頭を突いたのはクロにラーナーの疲れを気付かせるため。彼女の隣にいたクロより先に後ろにいたポニータは気付いていた。 唇を固く結ぶクロ。両手を腰に当ててさり気無く周りを見渡す。 あからさまに頭を動かさずに眼で周りの景色を追い、少し大きめの木が彼らのいる十数メートル先の左側にあるのを見つけた。 「あそこで休もう」 ラーナーは若干俯いていた顔をぱっと上げる。 クロが右手で指さす方向を見て、少し安心したように笑みを浮かべて頷いた。 自然と彼女の足取りは軽くなり、彼の隣に戻った。ほっとしたのはクロも同じだ。 後ろから風が押し始めてくれる。ぬるい風だがどこか心地よく感じさせられる。目標が目に見えるというだけで心が躍る。左にいたラーナーはいち早く乾燥した地面の道から草原へと足を踏み入れた。 今までかたい地面ばかり歩いていたおかげで、草の絨毯は異様に柔らかく感じられた。 花がちらほらと咲いている草原。夏の日差しは更に生き生きとした眩しい青さを演出させている。 道からそんなに離れていない場所にその木はあった。ラーナーはその木陰に入る。瞬間に体中が急に涼しさに襲われる。特別涼しいというわけでもないが、これまで直射日光に当たっていたことを考えると、十分な涼しさだった。 遅れてクロも木の下に入る。やはりクロも疲れが無かったわけではない。涼しさのあまり溜息をついた。 その後ポニータも中に入った。
「涼しー」 ラーナーは鞄を下ろして伸びをしつつ言った。体を絞って出したような声だった。 クロも鞄を置き、木の幹に背中を当てて座った。この木だけ周りに比べると少し大きい。おかげで木陰も広い。 涼しくなると頭も冷えてくる。クロは帽子をゴーグルがついたままで取った。途端に何ともいえない心地よさが頭を撫でる。 帽子を取ったクロを見るのが初めてのラーナーは目を見開いた。そして自分も座り、まじまじと彼の髪の毛を見る。 「すごい、本当に深緑なんだね」 「そんなじろじろ見なくても」 少し不快気にクロは言って目を下に向ける。ごめんごめんとラーナーは笑った。 「でもこんな髪の毛の人、初めて見た。染めてるって感じじゃないよね。なんか、外国の人みたい」 ラーナーは言いながら微笑んで、服の襟元を手で掴んであおぐ。服の中に涼しい空気が入っていく。 クロは少し顔を硬直させる。ポニータはクロの隣に四足をゆっくりと畳んで座り込んだ。 それにしても休憩を始めただけでこのテンションが戻ってくるとは。クロはそう思うばかりだった。 風が木を揺らす。木の葉と木の葉の間から生まれる日の光が踊っている。クロとラーナーの髪も風に揺れる。 ラーナーの足の痛みが急速に冷えるように引いていく。 二人とも額から汗が流れ落ちている。それを手や腕で拭う。 大分落ち着いてきたのは事実。ラーナーの顔色が戻ってきたのは、木陰で暗くなっていても分かる。クロは安堵した。
「ね、これからどこにいくの」 ラーナーはずっと気になってはいたがなかなか口に出せなかった質問をした。 ああと思い出したかのような声を出すクロ。そして自分の脇に置いていた鞄のファスナーを開けて中を探る。 すぐに折りたたまれた紙が出てくる。それを広げて草原に置いた。それは、他でもなくこの国――アーレイスの地図だった。 右側と下側、つまり東側と南側は海に面し、北と西はまた別の国と面している。 「今がここ」 クロはウォルタの南に少し外れたところを指さす。ウォルタは東の海に沿った町。 もう少し南に位置していたら、南の海にも面する位置にある。ようするに角のところに近い。 「ここからこう行って、――バハロに向かう」 指が左――西へゆっくりと動く。それはこれから歩いて行く軌跡。再び止まる。そこには一つの町がある。 小さな町だった。というのも、書かれている文字の大きさでわかる。ウォルタは比較的都会であるために大きめの文字だが、バハロはとても小さい。 ふぅん、とラーナーは喉の奥で声をだす。 「バハロならここからまあ割と近いし……小さいから奴らの手も薄い」 「……うんっ」
クロはラーナーの言葉の弾みの良さに、自分ではよく気付かずに安心していた。
*
「緊急任務、ですか!?」 彼は驚きを隠せず、思わず大きな声を張り上げてしまう。その後すぐに、自分の口をそっと塞ぎ辺りを見る。
『すみません。一番近くにいる信頼できる人があなただけなんです』 「でもさっき僕……」 『バジルさんから話は聞いてます。でも、あそこには派遣人数も少ないですし、手薄なんです』 話しているのは金髪の少年だった。ポケギアと世間で呼ばれる機械ごしに電話をしている。 ポケギアと言っても名ばかりで、見た目は変わっていなくとも中身はかなり改造されてはいるようだが。 相手も男。しかも声質からして、彼と同じくらいか。幼さの残る、けれど何か芯を持ったような声。 彼はウォルタ市内の人のいない暗い場所で壁に背を寄せていた。壁の高い建物ばかりで、日があまり入ってこない。 おかげで暑さはあまり感じない。けれど彼の中で何かたぎるものがあり、それでだんだんと暑くなる。 少年は周りを見渡し改めて人がいないことを確認すると、深い溜息をついた。 『そんなあからさまに溜息つかないでください』 「すいません……」 『ココ・ロンドを見かけた、という情報が入りました』 その瞬間、金髪の少年の表情が引き締まる。 冷汗が額に滲むのを感じた。頭に巻いている包帯が熱を帯びている気がした。 『偽情報かもしれないですが。本当なら普通の人間がどうこうできるはずがありません。……行ってくれますか』 金髪の彼は唇を噛む。本当の心の底は、あまり気が進まなかった。折角バジルから任をもらったというのに。 ふぅと息をはく少年。ポケギアを持っていない左手を腰に当ててしばらく無言で考えた。 けれども分かっている。自分の立場は低いがために、断りきることなどできないということは。 固く結んでいた唇をそっと開く。
「――どこですか」
電話越しに、緊張の糸が張られる。金髪の少年の声は低く、真剣なものだった。 獣に似た瞳が光る。彼の気持ちが緊張に走るほど、少年の目はより獣に近くなり恐怖を感じさせられる。 しばらく電話の向こうの男の声はしなかった。代わりに紙をめくるような音がした。恐らく資料を見ているのだろう。 何秒かしてから紙をめくる音が消える。
『バハロです』
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.15 ) |
- 日時: 2010/11/09 22:01
- 名前: 海
- Page 15 : 追憶
「ったく、お前、女が乗ってんなら寝ても何もしないのか」 クロは大きな溜息をついてからポニータに向かって言った。 あれからずっと歩き続けて、時に休憩を挿みながらいつの間にか太陽は西へ傾き、大分薄暗くなっていた。オレンジ色の光が赤々と周りを照らし、森に目を移せばまるで燃えているかのようにも見える。 西側には山が連なっている。この国、アーレイスの北西には、山脈があり夏になると登山客で賑わう。 彼の右にいるポニータの背中に乗っているラーナーは、つい数分前から夢の中へと旅立っていた。微かに聞こえる寝息は、女の子らしいというか小さく可愛らしいものである。 以前に説明したように、ポニータは背中にクロを乗せている時にクロが眠った瞬間、川に落としたという経歴がある。 自分は起きてずっと歩き続けているというのに、背中に乗っている人間は楽して眠っているというのが気に入らないらしい。しかし今はラーナーが眠っているのにまるで落とそうなどという気配はまるでない。どうやら女が乗っているなら話は別らしい。ポニータはふふんと鼻を鳴らした。 けれど返ってこの方が歩きやすいと言えばそうだった。ラーナーは歩いてすぐにばてる。歩き慣れていないのもあるだろうが、クロはそれに対して少し戸惑いと苛立ちを感じていた。 これでスムーズに進める、それは確実だった。まあ今日一日が終わってしまいそうだけれど。
「なあ、ポニータ」 クロは呟くように火の馬の名を呼んだ。ポニータは隣で歩くクロの方を見る。 再び溜息をクロはついた。そして目を閉じて気持ちよさそうに眠っているラーナーの顔を見つめた。 「これが……普通、の人間だよな」 彼は目を細めて言う。ポニータは彼をじっと見つめ、少しうつ向き気味になる。 “普通”という言葉が無意識に強調気味に発音されていた。 「いや、なんでもない」 首を軽く振りながら少し砕けた笑いをした。 ポニータは心配そうに目を細めた。クロはそれに気付いて、長い首を丁寧にゆっくりと撫でてやる。 気温は低下中だが風は相変わらず温いまま。揺れるポニータの炎は、柔らかく赤々と燃えていた。 「……なんか、変な感じがするな。こんな風に、普通の人と長い間いるなんて」 長いといっても共に歩き始めて一日も経ってはいないが。クロは軽く笑って、ラーナーの寝顔を見やる。 無防備なその姿は、昨日命を狙われていた人物とは思えない。よっぽど安心したのだろう。 「ニノはこうなるって分かってたのかな。だから、俺にあんなことを――」 瞬間、クロの表情が変わる。暗みが差し込み、恐怖に怯えたように目を見開いた。そしてそっと右手で左腕を掴みさする。自分で自分を落ち着かせているつもりなのだろうか。 左の長袖の袖が少しまくれる。若干でも見えたのは、生々しさの覗く赤にも似た黒い痕。 彼は大きく深呼吸をした。体全体で息をするように呼吸をし、鼓動を速める心臓を落ち着かせるように。 もう、昔のことだ。それに彼女はもうどちらにしたって死んでしまったのだ。心の中でクロは自分に言い聞かせる。
「……クロ?」
はっと目を見開き警戒した瞳でクロはポニータの背中に乗る人物を見た。 そこには怯えたような目でクロをじっと見つめているラーナーの姿があった。 冷たい沈黙が流れる。 クロの足が止まったのに合わせて、ポニータの足もすぐさま止まる。 数秒間ぶつかり合っていた視線を先に逸らしたのはクロの方だった。何かを嫌がるように顔を歪めている。 小さく声を漏らすラーナーは、自分が起きた時に見たクロの様子が気になって仕方がなかった。今だって明らかにクロの様子はおかしい。
「クロ、どうしたの?」 「どうしたって……別にどうもしてない」 「嘘。何考えてたの。顔色すごく悪いよ!」 「なんでもないって言ってるだろ! そんなに言うならついてくるな!」 相変わらずラーナーから顔を逸らしたままクロは叫んだ。その言葉に思わずラーナーは怯んでしまう。 その瞬間、クロの右足に鈍い痛みが走る。 「いっ」 思わず声をあげるクロの右足を、ポニータの足が踏みつけたのだ。脚力があるポニータの突然の踏みつけに、クロは痛みを堪えられずにはいられなかった。 クロは右足を急いで引っ張る。なかなか抜けなかったが、数秒後ようやく引っ張り出す。ポニータの足が音をたてて地面に沈んだ。 抜けた拍子でクロは後ろに尻もちをつく。いって、と声を漏らしながら踏まれていた右足をさする。ポニータは目を細くしてクロを見下した。 「ポニータ! お前、さっきからこいつの肩ばっか持って!」 「ポニータはクロが悪いって分かってるんだよっ。私、心配してるんだよ」 「はっ」 クロは言葉を吐き捨てて、足の感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。
「心配なんかいらない」
ラーナーに少し背を向けた状態で、呟くようにクロは言った。その背中が一瞬少しだけ小さくなったように思えて、ラーナーは息を止めた。 生ぬるい風が吹き、青い空に少し大きな白い雲が浮かんでいた。 ポニータの足が動き始め、立ち止まって少し俯いているクロの横をゆっくりと抜いていく。ラーナーは後ろを振り返ってクロを見つめた。暗い影が顔に差し込んでいるように、彼の表情は暗かった。帽子をしていることと今の時間帯が夕暮れであるゆえに、それは尚更そう見えた。 彼の名前を呼ぼうとしたが彼女は躊躇った。クロが自分から全てを遮断しているかのように思えたからだ。 ポニータの足は止まることなく歩き続けている。どんどんクロから離れていくのにラーナーは焦りを感じずにはいられなかった。 クロは気付いていないのかそれともどうでもいいのか、ただ立ち止まったまま頭の中でひたすら回るものに浸っていた。 確実に遠くなっていく彼の姿に、ラーナーは勇気を出して言葉を発した。 「……クロー?」 降りようとも思ったが、ポニータは止まる気配を少しも見せない。ゆっくりではあるが、確実に進んでいく足。 彼は名前を呼ばれても耳を貸さなかった。瞳にはラーナーの姿が映っていないようにも見えた。どこか違う、もっと空の向こう側を見ているような、そんな瞳だった。目の前の世界を彼は見ていないのだ。 「……ポニータ」 ラーナーは呟いて自分の乗るポケモンの名を呼んだ。一瞬ポニータは足を止めたが、目を閉じて首を振り、また歩く。ポニータの長いまつ毛が風に揺れる。 この状況に慣れているかのような素振りだ。静まった湖のような落ち着きがある。 「クロを追いてっちゃうよ、このままじゃ」 不安そうに言う彼女の声は確かにポニータの耳に届いている。 が、ポニータは何も答えなかった。答える術を持っていないのだ。ポケモンは高度な知能を持ち、人間の言葉がある程度分かっても自らがその言葉を口にすることは叶わない。それ故に、ラーナーにはポニータの考えていること、思いを理解することができない。 地面を蹴る音が耳に響く。
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遠くなっていく音。風が髪を撫でては去っていく。 広い草原に一人、クロは佇む。その目には力が無く、微かな呼吸がかろうじて彼がこの世界と繋がっていることを示していた。全身の力は抜け、突風が吹けばそのまま抗うことなく倒れてしまうのではないかと錯覚するほどだ。 オレンジ色の太陽を反射して帽子の上にあるゴーグルを光らせる。踏まれた足の痛みはとっくの昔に消えていた。 頭の中で響く声。瞳の裏に移る色あせない映像。彼の心を切り裂くように掻き回し、過去へと連れ戻していく。それは遠い記憶。
『どうなってるんだ、こんな……』 『だめ、こんなところで死んだら』 『あのまま死んでた方が楽だったのかな』 『ふざけないでください! 何をするつもりですか!?』
叫びが聞こえてくる。 自分の声と他人の声とが激しく重なりあい、当時の風景が色鮮やかに蘇る。 今にも崩れそうな建物達。自分を引く手。氷のように冷たい床。その中で少しだけあった笑顔。衝撃と決心、ただ走り走り休むことなど無い。 『笹波白は死んだも同然なんだよ』 猛スピードで駆け抜けていくそれが終盤に差し掛かったころ、クロは目を細めて唇を小さく動かした。
「……死んだんだ。笹波白は」 クロは言葉を噛みしめるようにゆっくりと呟いた。 右手で左腕を痛みを感じるほどに強く握った。下唇を噛みしめると、舌に血の味が流れ込んできた。 力の宿っていないその瞳を、そっと瞼が世界から隠した。 あの頃に戻りたいとは決して思わない。けれど、過去を忘れることはクロには出来なかった。過去を隅々まで思い出そうと思えば思い出せるが、それをしないのは彼が過去を拒絶しているから。それでもふとした拍子に雪崩のように襲いかかってくるのだ。 刻み込まれた日々の記憶は彼を今もなお縛り付けている。
バハロをまだもう少し先に控えた頃、夕日がもうじき山の向こうに落ちようとしていた。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.16 ) |
- 日時: 2010/11/10 18:51
- 名前: 海
- Page 16 : 新たな仲間
「クロ……来ないなあ……」 ラーナーは目の前で赤々と燃える火の中に、自分の横にあった枝を投げ入れた。 焚火というのは彼女自身したことがなかったが、ポニータという存在は非常に便利だった。わざわざ火を自分で起こさずともポニータの吹く炎が十分に効果を発揮してくれた。 オレンジのかかった綺麗な炎である。炎の先からは灰色の煙が細々と黒い空へ上がっている。 こうしていれば煙を目印にクロが気付くかもしれない、そう思ったのだ。この光が火の他に無い暗い夜道で煙に気付くことができるかは分からないが、可能性が無いわけじゃない。 さすがに草原で焚火をするわけにはいかないから、あれからポニータにはもう少し頑張ってもらってようやく草が減ってきたかたい砂地に今いる。 火の熱気に彼女は慣れていない。時々弾ける火花に体を跳ねさせつつ、少し火から離れた場所でラーナーは溜息をついた。 炎を見ていると昨日のことが自然と思い出されてしまう。昨日というよりもうずっと昔のことのような気がするが、昨日の現実なのだ。セルドは殺されてしまった。そしてセルドを殺した人もまた殺された。 あの時の炎は今ラーナーの見ている炎とはまるで違う質のものだった。もっと猛々しく、全てを飲み込む勢いの凄まじいものだった。 獲物を食いつくす獣のような。 それからよく覚えていない。炎が消えていってクロが近づいてきて、そしていつの間にかベッドの上にいた。
あの間に何があった?
起きて、手紙が置いてあって、そこに少しだけ真実が書かれていた。 ラーナーは右手首につけているブレスレットに視線を移した。彼女の母親にもらった品だ。白い石は少し傷がついているがきれいなものばかりだった。 狙われているのはラーナーの命だけじゃない。このブレスレットも同じく狙われているのだ。何の目的で? そして母親は一体どういう人物だったのか。ニノの存在は自分の全く見たことのない赤の他人によく知られている。 黒の団とは一体なんなのか。 あんなメモ書き程度の説明ではラーナーが納得するわけがない。考えれば考えるほど、謎が生まれてくる。
「はああぁぁ……」 大きな溜息をついた。思わず声も出てしまった。足を休めているポニータがラーナーの方を振り向く。 「あぁ、ごめんね。なんでもないよ」 ラーナーは愛想笑いをする。へらっと笑った力のない笑いに、ポニータは目を細めた。ポニータをじっと見つめて、ラーナーは突然思い出したようにあっと声を出して立ち上がった。 集めた木の枝の隣に置いていた自分の鞄を掴みあげると、右膝を上げてその上に乗せる。ファスナーを動かし鞄が開いていく。その中には様々なものが所狭しと入っている。鞄の内ポケットに手を入れると、その中から二つの丸くて小さな物を取り出した。ポニータは目を丸くする。 モンスターボールだった。そう、今朝エイリー夫人からもらった、ラーナーの父母のポケモンの入ったボールである。 「あたしの叔母さんからもらったんだ。お母さんとお父さんのポケモンなんだって。すっかり忘れちゃってた」 鞄のファスナーをしめ直して足元に下ろすと、ボールの開閉スイッチを押した。すると手のひらに軽く入っていたボールが大きくなる。 ぎりぎり手で持てるサイズだった。外からは中の様子が見えない。ただ、手で持っていると何かを感じる。 生命の鼓動か、それとも他の何かか。とにかく何かが動いているリズムをラーナーは感じた。 「えいっ」 テレビで見たことがあるトレーナーがしていたように、彼女は二つのモンスターボールを上に投げた。 ボールは上に上に行き約三メートルほどのところで頂点に達すると、突然口をあけたように開いた。 中から白い光が飛び出す。光は猛スピードで地上へと走り、地面に達した途端に大きな円になり、やがて形づくりはじめた。 ラーナーは息を呑む。二つの光は形成を終えると吸い込まれるように消えていった。 あっけにとられてラーナーは戻ってくるボールを受け止めるのを忘れてしまう。 ボールは受け皿無しにそのまま地面へと落ち、音をたてて地面を転がった。衝撃には強い仕組みなのか、少し傷が加えられたくらいで壊れてはいないようだ。 光が消える。
片方は柔らかな紫の体毛である。大きな耳を持ち、額には赤い宝石のようなものを埋め込んでいる。 細く長い尻尾が途中で分かれ、ふわふわと揺らしていた。瞳は、見た者を吸い込むような綺麗な紫色をしていた。 エーフィ。
もう片方は全体に黒い体毛をしていて、額には大きな黄色の輪を模っている。 黄色の部分は足や尻尾にもある。黒の中でその眩ささえも覚える色は、浮き出ているようにも思える。赤い瞳はじっとラーナーを見つめていた。 ブラッキー。
「う……わぁ、すご……」 ラーナーは感嘆せざるをえなかった。目の前に現れた二匹のポケモンは、素人のラーナーが見ても分かるくらい、鍛えられているようだった。時々ウォルタで見たトレーナーの連れているポケモンとは顔つきや毛並みが違うのだ。ポニータとその点では似ている。 二匹は不思議そうに周りを見渡し、最後にラーナーに視線を止める。 エーフィがまずラーナーに歩み寄る。ラーナーは呆然としていて身動きができなかった。エーフィは何かを確かめるように足から頭までラーナーを見て、そして目を細めた。 唖然としていたラーナーだったが、はっとしてしゃがみ込み、そろりそろりと右手を伸ばす。 もうあと少しのところで少し手を止めたが、また伸ばしそっと指先にエーフィの温もりを感じると、柔らかな笑みを浮かべた。猫を撫でるように首のところを触ると、エーフィは気持ちよさそうに目を閉じた。 ブラッキーも暫く様子を見ていたようで遠くにいたままだったが、やがてラーナーに歩み寄る。合わせてポニータもラーナーの隣にやってくる。 三匹のポケモンに囲まれたラーナーは、ブラッキーの頭も左手で撫でてやりながら、ポニータを見上げて笑った。 ブラッキーは少し睨みつけ気味の鋭い瞳をしていたが、少しずつその冷たさは無くなっていく。 彼女は両手から感じるあたたかなものに心が安らいでいくのが分かった。 だからこそ気付かなかった。だんだん近づいてくる足音に。 ポニータはラーナーから目を離し、後ろに首を回した。
「何やってんの」 ラーナーは突如後ろから声をかけられて、心臓が飛び上がる。 慌てて後ろを振り向くと、そこには半ば呆れたような顔つきの藤波黒の姿があった。 ブラッキーは彼の姿を見た瞬間に目を大きく見開き、真っ直ぐにクロから視線を外さなかった。クロはそれに気がつき少し驚いた顔をする。 「ニノのポケモンか」 「え、えっと、お父さんのもいるよ。……どっちか分かんないけど」 「じゃあブラッキーがニノのポケモンだ。雰囲気が変わってない」 懐かしそうに目を細めて、クロは足元に鞄を下ろしラーナーに近付きブラッキーを見下ろす。 ブラッキーはラーナーの手からするりと抜けると、クロから相変わらず視線を外さないようにしながら彼の足元に来る。匂いを嗅いでいるのか鼻を動かすブラッキー。そっとクロは笑うと、腰を折りブラッキーの頭を撫でる。 「相変わらず鋭い目だな。大丈夫、こいつはニノの子供だから」 ラーナーの方をちらりと見ながらクロは言う。ブラッキーは目を細め懐かしむように手に頭をすりよせた。 手に温もりが伝わってくる。思わず口元がほころんでしまう。優しい顔つきになったクロに、ラーナーは不本意ながら心が揺れ動いた。 「あたしの知り合いが預かってたんだって」 「へえ、良かったな。こいつ強いから、もしもの時に助けてくれるさ」 「怖いこと言わないで」 少し唇を尖らせてラーナーは言う。
「真面目な話だ」 クロの口から出てきたのは低く冷たい声だった。 思わずラーナーは肩を震わせて、立っているクロを少し怯えたような目で見上げた。丁度クロと視線が真っ直ぐに合う。 クロの表情は見方によっては怒っているようにもとれるかたい表情で、ラーナーを見つめた。ブラッキーからそっと手を離した。 しばらく沈黙を保っていたクロだが、そのうちに口を開いた。
「俺がお前のそばにいないとき、奴らに襲われたらどうするんだよ」 「……」 「昨日襲われた場所が俺のいた場所の近くだったから良かった。あれがもっと遠くだったらお前、確実に死んでたんだ」 「やめて」
呟くような声がラーナーから漏れる。 それにクロは気付き、少し躊躇いを見せつつも続ける。
「いつまでも俺が一緒にいれるとは思わない方がいい。もし俺が先に死んだら――」 「どうしてそんなこと言うの!?」 ラーナーは全力で遮るように突如大きな声を出した。傍にいたエーフィは思わず体を飛び上がらせて固まる。 ポニータは少し目を丸くしてラーナーを見つめた。 ゆっくりと立ち上がりラーナーはクロを睨みつける。しかしクロはそれに動じることはなく、平然と立っていた。 「そんなこと言わないで」 「現実をみろ。とにかく、そういう時にこいつらがお前を助けてくれるように、ある程度連携ができるようになってないと」 ラーナーは眉を潜ませ細い首を少し傾ける。 「れんけい?」 「まともにバトルが出来るようになっとくってことだよ」 「バトルって、ポケモンバトル?」 「それ以外に何があるんだよ。お前が戦う気か」 深い溜息をついてクロは目を閉じる。 暑くなったのか帽子を取る。その時帽子の上につけていた大きいゴーグルが音を立てて地面に落ちる。 深緑の髪が垂れた。ブラッキーがゴーグルに近付く。ゆっくりとクロは手を伸ばしゴーグルを取った。
「まあ、そういう話は明日以降にするか。明日にはバハロに着くつもりだから今日は早く寝よう」 「……うん」 ラーナーから漏れた声は重いものだった。 暗い影が差し込んでいるような表情のラーナーにクロは目を細めたが、地面に置いた鞄に手を入れる。 その中を覗きながら数秒後右手にものをつかんだ状態で鞄から手を出す。 出てきたのは少し大きめの缶詰だった。一つ地面に置いてからもう一つ取り出す。そのラベルにラーナーは見覚えがあり、缶詰をじっと見つめる。 「まあちょっとこってりしたスープみたいなもんだ」 言いながら更に鞄から出てきたのは持ち手が折りたためる小鍋。持ち手も銀色に光っている。 彼は右腰を探り、一つのモンスターボールを出す。開閉ボタンを一度押すと大きくなり、もう一度押して中からポケモンを出す。 彼の隣に光が着地し、アメモースが現われる。ラーナーはあっけにとられ、口をあんぐりと開ける。
「アメモース、みずあそび」 クロは指示をしながら腕を伸ばし小鍋をアメモースに差し出す。 こくりと頷きながらアメモースは足と思われるところで小鍋を受け取り少し遠くに飛んでいくと、小鍋を地面に置き、躍る様に身体を動かし口から発する水を散らせた。 必要な量も大したことがないため、数秒後には戻ってくる。 さんきゅ、と言いながらクロは小鍋を受け取り、アメモースをボールに戻す。そして小鍋は手に持ち焚火の上で熱し始める。 「夕飯はもう少ししたらできるから、沸騰するの待って」 クロは小鍋を少し揺らしながら言う。揺らすと小鍋の底についていた水滴が焚火に落ちた。 ラーナーはこくりと頷きつつも内心その水に不信感を抱かざるを得なかった。その後栗色の瞳でエーフィとブラッキーを交互に見やり、地面に落ちたままにしていたボールを二つとも拾う。 戻って、と小さな声で呟くように言った。開閉ボタンを押す。赤い光が飛び出し二匹に当たると二匹を包み込む。 急に場が寂しくなる。クロとラーナー、そしてポニータという同じ面子に再び戻る。 何気なくラーナーは空を見上げる。今日の空は少し雲が覗いているだけでほとんど晴れていた。瞬く星がよく見える。 クロは手に熱が伝わってくるのが分かった。が、炎を扱い慣れている彼には焚火の熱さは大したことではなかった。
夜がまた過ぎてゆく。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.17 ) |
- 日時: 2010/11/11 18:32
- 名前: 海
- Page 17 : 話
「ん」 クロはラーナーに薄いハンカチで包まれた缶詰、そして銀色のスプーンを差し出す。お湯の入った缶詰は相当熱いようだから、ハンカチのようなものがないと触れれないことが分かる。 ありがとうと言いながらラーナーはそれらを受け取る。手にこんもりとした熱が伝わる。 白い湯気が絶えることなく上がっている。中を見ると、コンソメスープに似たようなものであることが匂いと色などから分かる。 具材が意外にもけっこう大きくて、美味しそうな匂いは見た者の食欲を沸かす。 昼は持ってきたおにぎりを食べたが、かなりの長距離を歩いたこともありラーナーのお腹は限界に近かった。スープのお湯の元はアメモースの放出した水であることはもうどうでもよかった。 クロは缶詰の端に唇をあて、慎重に缶詰を傾けていき熱いスープを飲んでいく。 その姿をかみつくように見つめていたラーナーは眉をひそめながら、同じようにスプーンを使わず直接飲もうとする。 ゆっくりと傾斜が緩くなっていく缶詰。液体がラーナーの口の中に徐々に近付き、少し入ったその瞬間にラーナーは唇を離した。 「あつっ!」 思わず声が飛び出した。大きい声だったためにクロは驚いてラーナーを凝視する。 それに気付いたラーナーは舌を冷ますように口を少し開きながら右手をたてて謝る動作をする。 「だって熱くて」 「……猫舌?」 「うん。ちょっと冷ましとく」 そう言ってラーナーは地面に缶詰を一度置く。スプーンだけは置くところがないため、自分で持っておくことにした。 クロは無言でまたスープを飲む。彼にとってはもう飽きてしまうほど慣れてしまった味だった。 風味はコンソメだが、入れたお湯は少しこってりとした味に仕上がっていて、具もかなり入っているのでこれを食べただけでお腹が意外と膨れる。が、所詮はインスタント食品。 成長期であるはずのクロだが、少食であることに加え普段もこのような栄養の足りない食事が続いているために痩せていることが分かる。 ほとんど肌の露出していない服装だが、手や顔の形から何となく察することができる。 ラーナーは近くで寝転がっているポニータの頭を撫でた。気持ちよさそうにポニータは目を閉じた。
「クロー」 「何」 「ポニータはボールに戻さないの?」 思えばポニータはずっと外に出ている。アメモースは普通にモンスターボールに納めていたが、ポニータは例外だった。 普通ポケモンはボールに戻し、必要時以外はその中で暮らしている。原理はよく分からないが、どうも中は意外と心地よい空間になっているらしい。テレビ番組の特集で誰かが言っていたのをラーナーは見たことがあった。 どうであれボールに戻すことは、ポケモンにゆったりとした休息を与えるのとイコールになっている。 だからこそ、彼がポニータをボールに戻さないことはラーナーには理解し難いことだった。 「……必要な時は戻すけど、基本は戻さない」 「なんで?」 「色々と大変なんだ、ポニータが外に出てないと」 彼はだんだんと冷めてきた缶詰を一気に飲み始める。彼の喉に焼けるような痛みに似たものが流れる。 ラーナーは自分も、と缶詰に触れてみたが彼女にとってはまだ熱いので、もう少し置いておくことにした。 「大変って、何が大変なの?」 「……まあ色々」 「またそうやってぼかすんだねー」 口をとがらせるラーナー。誤魔化すようにクロは少し目を俯かせ、焚火に枝を一つ放り投げた。枝の弾ける音が響いた。 まあ昨日今日の付き合いなのだから、何でもかんでも言い合える方がどうかしている。 クロは焚火の炎を見つめる。火花が弾ける。炎の光は柔らかにクロたちを照らしている。これを消せば暗くなるんだ、とラーナーは心細くなった。
「……聞かないんだな」 ラーナーは首をかしげた。クロはラーナーの方を向き、少し間を置いてから口を開いた。
「黒の団のこと」
その瞬間、ラーナーは心臓が跳ねたかのような驚きに襲われた。息を呑み、まっすぐにクロを見つめた。 クロは俯きがちに目を動かし、スープを今度はスプーンを使って口に一気に入れる。具も一緒に吸い込まれていく。ラーナーは唇を強く噛んで、それから少しだけ開いた。 「知りたいけど」 「だろうな」 缶詰を地面に置くクロ。静かな沈黙が流れる。生ぬるい風が吹いてくる。夏の焚火は必要以上に暑さを感じさせる。 ラーナーは髪の後ろの方を結ぶような手の動作をして、少し首に風を送る。
「話すよ。少しだけ」 その言葉はラーナーが密かに待ち焦がれていた言葉だった。 しかしそれから迷っているようにしばらくクロは口を閉ざしたままだった。けれどラーナーは根気強くその口から言葉が発せられるのを待った。 ポニータが頭を上げ、深みのある優しい瞳で彼を見守る。 数分してから、彼の唇がようやくゆっくりと開く。
「黒の団は、普通の社会とは違う――まあ、裏社会とでも言っとくものの中で強い力を持ってる組織だ。といっても」 少し間が空く。 「意外とまあ、人数は他と比較すると少人数なんだ」 「?」 ラーナーは首をかしげる。基本的に彼女に所謂裏社会の事情など皆目見当もつかないのだが。 「今がどうとかは詳しく分からないけど。ただ、根源は相当な腕利きの科学者の集まりから始まってて、そういう感じの技術力に長けてるんだ」 「でも……人、ころ、しちゃったりとかしてるんでしょ?」 「なんでそんな科学者の集団なんかが裏社会の一角を牛耳る組織に発展できたと思う?」 ラーナーは答えない。 クロは彼女の様子をじっくりと見ながら、話を続ける。 「非人道的な実験を行うために集まった組織だから、とでも言っとこうか」 「……非人道的?」 「詳しい内容は伏せとく。興味をもった実験を自分達の好奇心が動くままに――。公の場に出せばたちまち非難の嵐になるであろう数々のもの。最初は下火だったんだ、何もかも。集まった人数も数人程度だった。だけど……」 頭を少し俯かせるクロ。 ラーナーは無意識に缶詰に手を伸ばす。冷めてきていた。さすがに猫舌の彼女でも食べられそうである。 けれど持って膝に乗せただけで、まだ食べようとはしなかった。 「実験内容の情報がある日ネットを通して少し漏れて、それを聞きつけたある別の組織が手を組まないかと言ってきたんだ。金とそれなりの人も持っている――アーレイスの西の隣国、李国の組織が」 「え、李国?」 ラーナーは少し驚いたような声をあげ、クロは一回深く頷いた。
李国。 クロが先程言った通り、アーレイスの西隣に位置する国だ。 もっとも隣にあるとはいえ、二つの国の間には大きな山脈があり言語をはじめとしてあらゆる文化が異なる。 また数年前まで続いていた内戦によって治安は悪い。それ故に経済力や技術力に欠け、他国との交流も薄い。ほとんど閉鎖状態だ。それは今も続いている。 隣国であるアーレイスだが、アーレイスも急速に経済発展しているところであり、李国に救済の手を差し伸べる余裕はない。
「李国は当時二つの勢力が戦っていた。お互い裏社会の組織だったけど、規模が少し大きかったから、李国の治安も揺るがした」 ラーナーもそのことは学んだことがある。少し前まで通っていた学校で、隣国である李国の歴史も少しかじったのだ。 「その二つの組織の名前が白の団と、黒の団」 「!」 息を止めるラーナー。 「その一方の黒の団が交渉をしてきた。金と引き替えに、実験を黒の団で行わないか、と。金欠は確かな事実だったから、その科学者たちはそれに同意した」 「……そんなにすごい実験だったの?」 「まあ、そうだな。黒の団の目には魅力的に映ったんだろう。これで白の団に勝てるってな。それから、実験内容は熱を急速に帯びていった。それを元に黒の団は軍事力をつけていった」 「なんの実験、なの?」 聞きたいようで、聞きたくない。真実を知る恐怖が彼女を襲う。その一方でまとわりつく好奇心。 「……言ったろ、詳しい内容は伏せるって。……ほぼ均衡していた二つの組織の力だったけど、黒の団の力は白の団を上回るようになっていった。その中で、実験に人間が必要になった」 「人間?」 「それまでは数少ないポケモンを使った実験も行っていた。だけど、ある新たな実験では人間でなければいけなかった。予想以上に使っていた金を必要以上に出したくなかった黒の団が手を出したのは――」 クロは唇を強く紡ぐ。 苦しそうに顔を歪めていた。ラーナーは彼を急かそうとはしなかった。内心は続きが知りたいが、彼の顔を見ていてはそうも言えない。 一度目を閉じてから、クロは再び話し始めた。
「子供」
冷たい沈黙が辺りを襲う。 現実には身体にまとわりつく生温い空気なのに、彼らの体感温度は急激に下がっていくようだった。 ポニータがクロの傍に身を寄せる。言葉なくともさりげなく彼を支えていようとしている。 「李国は貧しい国で、多くの子供たちが身寄りを失い、路上で暮らしていた。店から食べ物を盗んで、ひどい時にはそこらにいる虫を摘まんで食べるような生活だ。家族のいる子供も、金がなくて満足に食べれない。そこに黒の団は目をとめたんだ」 ラーナーは声も出なかった。何か重いものが喉に引っかかっているようだった。 「子供は扱いやすいんだよ。特に食べ物に飢えた子供は……。たくさんの子供が李国の町から消えた。たくさんの命が実験で消えた。勿論その中で生き残ったやつもいた。けど生き残ったやつも生き地獄の始まりだ。戦いに雇用されて、そこでまた死んでいく」 「……」 ラーナーはいつの間にかクロから視線を逸らし、自然と地面の方に目を向けていた。 決して視線は定まってはいなかった。動揺しているのが表情から分かる。口を少しだけ開けて、かろうじて息をしているようにも見えた。 限界か、クロはそう感じて軽く息を吐いた。だがその静かさとは裏腹に、沸々と彼の中から黒いものが渦巻く感覚があった。
「結果的に――黒の団が白の団を壊滅させ、戦いは終わった。けど、黒の団はそこで勢いを止めなかった。――しばらくしてから、アーレイスに足を伸ばしたんだ!」 語尾が上がる。言いきると両手を強く握りしめて突然クロは立ち上がる。 ラーナーは驚いて思わず彼を見上げた。彼の顔は影が入り込んで、憎々しげに歪んでいた。
「奴らのやっていることに耐えきれずに逃げ出そうとした奴らは皆殺された」 彼の言葉にラーナーは息を呑む。 淡々と話していたそれまでと違い、段々と彼の感情が言葉に混ぜ込まれるようになっていた。 「黒の団の存在を深く知る者、関係のある者……そういうやつが“表”にいる場合、誰一人として例外なく危険人物の対象だ」 クロはラーナーを見下ろす。透き通っている目が、どこか濁っているように見えてしまう。 不意に表情が緩む。それは諦めに似たものだった。 「あんたも、あんたの弟もその対象だったというわけだ」 「なんで。私もセルドもそんな、黒の団とか全然知らなかったし、関わりも全然ないのに!」 先程までしばらく声も出なかったラーナーだが、さすがに理不尽なことに対しては声が出る。 声は震えていた。溢れて零れ落ちてしまいそうな重い怒りが彼女から沸き起こっていた。 「どうしてセルドが……どうして! 意味分かんないよ!」 「もう何を言ってもしょうがないんだよ! 弟はこの世にはいないというそれだけはほぼ確実だ」 ラーナーの言葉を遮断するように少し大きめの声でクロは言い放つ。 彼女の心が大きく揺れていた。吐き気さえも襲ってくる。手に持っているスープの良い香りが鼻につく。飲む気にはなれなかった。 だんだんと重い疲れが彼女に圧し掛かり、怒りはだんだんと治まっていった。自然と丸くなる背中。
「クロも……狙われてるの?」 「え?」 面食らったようにクロは思わず声を漏らす。 怒りが消え、更に生気さえも失ってしまったかのような彼方を見つめる目でラーナーはクロの方を向く。 「それだけ知ってるんだから、クロも……」 「俺は別にそういうわけじゃない」 クロの言葉は早口だった。 「ただ、顔は覚えられたくないね」 苦々しげに言う。 ラーナーは不思議そうにクロを見つめる。
重い沈黙がしばらく続き、その中でクロはラーナーに背を向けると、鞄の中から一つ大きくなったモンスターボールと同じくらいの大きさの白く長細いカプセルを出す。 それを捻るような動作をすると丁度真ん中で二つに別れ、中から白い光が飛び出す。 それは彼の左腕に着地し、形作る。深い青色をして、触れば気持ちよさげなふわふわとした印象をもたせるそれは、寝袋だった。 「道具カプセル持ってるんだ」 先程まで暗い話をしていた故に声に張りはないが、ラーナーは心の中で興奮していた。 口元で乾いた苦笑いをするクロ。ポニータは彼をどこか冷たい横目でじっと見る。 道具カプセルとは、モンスターボールの技術を応用した製品だ。ある程度の重さまでの道具を一つだけ縮小し、中に入れて持ち運ぶことができる。 最近売り出されたばかりのもので、値段はまだ高いし収納の制限はあるものの便利さゆえにすぐに売り切れて、入荷してはまたすぐに売り切れる、という状態なのだ。 「あたしも知り合いにもらったんだ。寝袋大きいからね。野宿した時用に」 「悪いけど、大抵は野宿のつもりなんだ」 「……なんかそんな気は少ししてたよ。ほんと、叔母さんに感謝だね」 少し残念そうな重い声だった。 言いながらラーナーはスープを足元に置き、鞄から彼と色違いの、薄いピンクという可愛らしい女の子モデルの道具カプセルを取り出した。 「スープぐらい食べたら?」クロは問う。 「なんかちょっと食べる気がしなくて……」薄く笑うラーナー。 強制的に食べろということはできなかった。クロは目を俯かせる。その途端に眠気が彼の瞼を重くする。
「……俺、眠いからもう寝る。ポニータ、こいつについてやってて。明日は早いからさっさと寝ろよ」 大きな欠伸を右手で覆ってした後に言う。ポニータはラーナーを見やり、またクロの方を向いて頷いた。 彼は昨日、ほとんど寝ていないに等しい。夜の戦闘やラーナーとの旅の始まりは、彼にとっては負担が重かった。 ラーナーは少し寂しくなったが止めることもできないため、軽く頷いた。 クロは少しだけ笑って見せて、ラーナーの左肩をぽんと叩いた。その後にポニータの頭を優しく撫でようと、少し腰を折り曲げた。 「おやすみ」 小さく呟くような彼の声だった。優しくその手がポニータの白い体毛を撫でる。頭の炎が柔らかく揺れている。
それから彼はラーナーに背を向けて少し離れたところに行き、丁度焚火をはさんでラーナーとは反対側の位置で、腕に持っていた寝袋を地面に落とす。 下ろした瞬間に風が上がり、焚火が大きく揺れた。その火もだんだんと下火になってきているようだった。 彼は上着を脱いで、黒く長袖のTシャツ姿になる。そうなると、彼の細さが更に際立つように思えて、ラーナーは息を呑んでしまう。 靴を脱いで、足から寝袋に入っていくクロ。さわさわと寝袋のこすれ合う音が耳を掠める。頭だけは袋から出た状態で、彼は顔は決してラーナーには見せずに眠りについていった。 急に音が無くなったような感覚にラーナーは襲われる。本当は消えていない。火花は散っているし、草の中でささやかに歌っている虫もいる。 けれどラーナーは突如暗い穴の中に入り込んだような、そんな一人ぼっちの感覚に襲われた。 彼の説明はラーナーにはまだ不十分だった。完全に消化されていない疑問のかたまり。しかし、あれ以上聞くような元気がラーナーに無かったのも事実だった。 ゆっくりと噛みしめるように頭の中で先程クロの話したことを思い出す。そして脳裏に映る弟の姿。セルドはいない。つい一昨日までは確かに彼女の傍にいた。手を伸ばせば触れることができた。正直でズバリと真ん中を射る言葉にいらつきを感じたこともあった。けれど今思い出してみれば、何もかも愛おしくて、そんなことに気付いたのは皮肉にも彼がいなくなったからだった。 もういないのだ。
目を俯かせていたラーナーの頬に、ポニータの鼻が当たった。驚いたラーナーは目を見開いて肩を飛び上がらせた。 ポニータは首をかしげていた。大きな真っ黒い瞳がまっすぐにラーナーを見つめている。ラーナーの目尻には微かな涙があった。それにポニータは気付いたのだ。とても人を気遣う気持ちのあるポケモンだった。
「セルドは……遠いとこに行っちゃったんだなあ……」 熱いものが彼女の目から零れ落ちた。拭こうとはしていなかった。涙に気づいていないかのようだった。 あの時救急車でも呼んだら、助かったのかな、と彼女はひそひそと口元で呟いた。誰にも聞こえないように、ひとりごと。そんなこと出来るわけがなかったことくらい、彼女が一番よくわかっていた。だからこそ、誰にも聞かれたくなかった。 今さら何を言ったところで、セルドが彼女の元に帰ってくるわけじゃない。 ポニータは聞こえたのか聞こえていないのか、目を細め頭を少し下げる。 少し眉を困ったように傾けた状態で、ラーナーは涙を手で拭くと、ポニータの体をさする。 「一緒に寝ようね。私、一人じゃ寝れる気がしないや」 声がポニータの耳に吸い込まれて、ゆっくりとポニータは頷いた。 涙の通った後が炎に照らされて少しだけ光っている。焚火は時間をゆったりとかけて少しずつ小さくなっていく。煙はか細くなっていき、ポニータの炎が明るく感じられてきた。 ああそうか、とラーナーは気づく。ポニータがいれば、真夜中も光がある。
ラーナーの言葉は、ほんの少しだけ瞼を開いていたクロの耳にも確かに届いていた。声をかけようとは思わなかった。言葉も思いつかない。 雪崩れ込んでくる眠気の渦に身を浸らせるほかに、彼の選択肢は無かった。深緑色の目が完全に隠される。闇の中に彼はおちていった。それから少しして本当に眠りについた。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.18 ) |
- 日時: 2010/11/12 18:02
- 名前: 海
- Page 18 : バハロ
まだ太陽が出たばかりの朝早い時刻。どこまでも広がる草原に朝露がついていた。遠くの景色は何となく霞がかっている。 ラーナーは心地よさそうな寝息をたてていた。青い寝袋のすぐ傍にはポニータもいる。ぐっすりと寝ているようだ。 焚火はとっくの昔に消えた。煙も立っていない。音も風もない朝の世界。 ラーナー達とは少し離れたところにある一本の木に寄り添って、クロは一人顔を俯かせていた。 視線の先には、手に握られた黒いボディのポケギアがあった。トランシーバーでも持つように、顔にかなり近い位置である。
『何やってるんだか。あれだけ言ったってのに』 溜息の混じった声がポケギアから発せられる。電話をしているようだ。 相手の声は男の子の声だった。変声期をまだ迎えていないようで、少し幼さのある声がスピーカーから出てくる。
「仕方ないだろ。そうでもしなきゃ耐えられなかったんだ」 『はいはい。でも分かってるだろ。やりすぎは体に毒。中毒症状になっても俺は知らないから』 「そんなのにはならない」 『どうかな。というか、普通の人間ならもうすでにぶっ倒れてるレベルだろうから、そんなんじゃすまないかもな』 電話の向こうで喉の奥を鳴らすように笑う声がする。 『で、どうすんの。そんな調子じゃもうすぐ切れるだろ』 「今バハロに向かってるから、近いうちに向かうことになると思う」 『まあ、それならいいよ。死んでもらっちゃ、せっかくの金づるが消えちゃうからな』 「……お前、一応俺は客だって分かってる?」 『なんだよ今さらだろ。兄弟みたいなもんなんだから気にすんなって』 ふぅとクロは息を吐く。柔らかな風が吹き、頭上に茂る葉が大きく揺れる。 思わず上を見上げ、目を細める。若々しい緑の色だ。夏を感じさせる鮮やかな緑。一枚一枚の葉っぱの動きを見るように目を離さず沈黙が続く。
「……で、何か分かったこととかある?」 彼が言った後しばらく沈黙があり、スピーカーの向こうで何かを探るような音がする。 時々何か重いものが一気に雪崩れ落ちたような音もクロの耳に突き刺さり、思わずクロは口元を歪ませた。 『……いんや、悪いな。何も情報はないよ』 その言葉を聞いた後、クロは唇を少しだけ噛みながらも、乾いた笑みを浮かべた。 「そうか。じゃあいいよ。引き続きよろしく。そろそろ切らないと、ポニータが起きそうだ」 少し遠くのラーナーとポニータが寝ている場所をちらりと見ながら彼は言った。 悪いな、ともう一度小さく言う声が彼の耳に届いた。こういう返事だろうなとクロは内心思っていたから、そこまでショックではない。
『クロ』 「ん?」 また沈黙が訪れる。電話では相手の表情が見えないから、沈黙の間にどんなことを思っているのかが全く読めない。 だからクロにはただ、電話の向こうの彼が口を開き言葉を待つしかやることはないのだ。 数秒してから声が聞こえた。
『頑張れよ』 思わず息を呑んでしまうクロ。突然どうしたんだよ、と苦笑しながら言おうとしてやめた。 その声に真剣な重みがあったからだ。それを笑うことなどできない、許されない。 「ああ」 低い声だった。顔が少し俯いていたせいで前髪が大きく顔にかかり、彼の表情はよく見えない。 じゃあなと声をかけて電話の通信を切った。ぶつりという音と共に相手の声は聞こえなくなった。 しばらくポケギアの小さな画面をクロは見つめていた。アラン、という文字がその視線の先にある。 瞼を数秒閉じながらポケギアを腰に付けている黒い小さな袋に入れる。そこには火閃も入っているが、一緒に入れているようだ。 木の陰から出る。太陽の光が異様に眩しく感じられた。クロは一つ軽い咳をして、ゆっくりと草原を踏みながらラーナー達の場所へ向かう。 ラーナーとポニータが起き次第出発しよう、そう思いながらクロは小さく欠伸をした。
*
「あ、何か家が見えてきたよ!」 ラーナーはいきいきとした声で言う。指差した先には、古びた町があった。
バハロ。 ウォルタの少し西にある小さな町だ。 観光ができるといえる場所はほぼ無いに等しく、観光客は年中を通してほぼ皆無。 古びた建物が身を寄せ合うように固まっている住宅街。中に住んでいるのは大体がお年寄り。 かつては比較的栄えていた商店街も今ではシャッター街というなんとも切ない風景になってしまっている。 利便さは欠けるが静かという点では住む人々に優しく、住民達は住宅街の外れに作った畑などで老後の生活を楽しんでいるらしい。 都会の華やかさとは大きくかけ離れたその町では、黒の団のような裏の人間も住んではいない。そこをクロは知っていて、バハロを次の目的地に選んだのだ。
先程まで疲れが表情にありありと出ていたラーナーだが、ここに来て元気を取り戻したようだ。 広い草原の道から家が点々と出てきた程度の道になっただけでは、風景も大して変わらないし精神的にも体力的にも苦痛だったのだろう。 空は青く、太陽は高い場所に上がっている。遠くに目を移せば遠くには大きな入道雲。 ラーナーは暑そうに髪を軽く手で揺する。帽子をしているクロとは違い、長時間夏の日光がラーナーの頭に直射している。 乾いた地面を蹴る音が響く。町にだんだんと近づいていき、ただひたすらに歩を進めているといつの間にか家の集落の目の前へと来ていた。 バハロと書かれた小さな看板の前に来るとクロは歩くのを止めた。それに合わせてラーナーとポニータも止まる。 クロはラーナーの方を見ると、口を開いた。 「多分安全だとは思うけど、一応様子を見てくる。ポニータは置いていくから、ここで待っててくれ」 「え、あ、うん」 急に話を振られたために流されるように返事をするラーナー。 クロはポニータによろしくな、と一声かけると帽子を一度かぶり直し、バハロの中へと歩を進めていった。
中に入ってから注意深く辺りを鋭い目つきで確認するクロ。耳を傾けつつ歩く。 本当に寂れた町である。歩いていてまるで人に会うことが無い。真昼だというのに。 皆家の中に入っているのだろうか。クロは一つの古い家を見るが、よく分からない。物音はほとんど聞こえない。静かな場所である。 と、ようやく一人曲がり角から現われる。しわが顔中にある白髪のお婆さんだ。腰を低くして手を後ろで組んでいる。 思わず目で追うクロ。お婆さんはクロの目の前に来ると、あらこんにちは、としわがれた声で挨拶をする。 クロは少し驚いた風に身体を震わせると、数秒後に会釈を返す。にっこりと彼女は笑い、クロの横をゆっくりと通り過ぎていった。 何だか拍子が外れたような気分にさせられたクロは溜息をつく。白くも古びた色をした小さな車が、少し危なげにクロの後ろから来る。都会ではもうあまり見ることのない古いモデルだ。 改めて強く思わさせられる。ここは田舎だ。
先程お婆さんが出てきた曲がり角に来るとクロはその角の先を見る。 住宅街の途切れが見える。もっと先に視線を持っていくと田圃と畑が混在しているのが見える。そこに点々とお年寄りがいた。そういえば先程出逢ったお婆さんの手にも野菜の入ったビニール袋があったような、とクロは思い出す。 角で立ち止まったままクロは深呼吸をする。空気がどこか澄んでいた。クロは二度ほどバハロを訪れたことがある。ここは初めて来たときから何も変わっていない。 入ってからまだ十分も経っていないが、これ以上詮索することに馬鹿馬鹿しさを感じたクロは身をひるがえす。 その瞬間。
目を見開いたクロは思わず先程見ていた角を曲がり、家の陰に背中を張り付け、そっと角から顔をのぞかせる。 細めた目を凝らし対象のモノをじっと見つめ焦点を合わせる。そして彼の目にはっきりとソイツの姿が映った。 クロはやはり見間違いではなかったことに歯を食いしばる。 視線の先には、金髪の男の子がいた。 見覚えのある黒い上着に灰色のズボンを履いて、こちら側にゆっくりと歩いてくる。 その目は獣のような金色の瞳だった。普通の人間の目ではない。彼のことをクロは知っている。だからこそ分かる――黒の団だ。 クロは目を背け足音を立てないようにそっと足を動かし、神経を張りつめさせその場を離れる。ある程度のバハロの地図は頭の中にある。 その脳内の地図を信じ少し小走り気味に途中で角を右に曲がる。田圃が広がる場所の一歩手前だ。建物と建物の間の狭い空間。 足を止めることなく、後ろを振り返ることもなく、いつの間にか本気で走っていた。焦りが彼の中に芽生えていた。 路地裏は普段誰も通ることがないのだろう。道に落ちているゴミは埃を被っている。鼠が驚いて逃げる声がした。 彼の足は速かった。とても狭いところを走っているとは思えない速さである。 クロは唇を噛む。 多分安全だと思う。ラーナーにそうは言ったが、彼の中では百パーセント黒の団はいないと踏んでいた。過去二回訪れてその二回ともいなかった。 「くそ、しかもアイツかよ……」 独り言が漏れた。落ち着け、落ち着けと心の中で叫ぶ。走りながらまた曲がり、表通りに出る。明るい日光が目を刺す。が、それに戸惑っている場合ではない。 辺りを見ながらなおも走る。遅くなることはない。かつ人気も気にする。今のところ追手はいなさそうだ。 クロは走りながら目的の場所が目に入ったのを確認する。 白い建物の前でクロは足をようやく止める。洋酒を売っている小さな店だ。彼の肩は激しく上下している。 クロは息を切らしながらそっと扉を開ける。りん、という鈴の音が店内に響いた途端に洋酒の匂いがぷんと鼻につき、思わず顔をしかめる。 落ち着いたシックな雰囲気の店。バハロの中ではやけにおしゃれな店内だ。濃い茶色の木の棚にはたくさんの洋酒の入った瓶が並んでいる。 彼の知らない名前ばかりの洋酒だ。それはそうだ。洋酒などクロは飲んだことはない。
「おや、いらっしゃい」 クロは顔を上げ、声のしたカウンターの方へ向かう。ぎしぎしという音が足元から聞こえる。 カウンターには白いタオルでせっせと机を拭いているひょろっとした男の老人がいた。 近づけば近づくほど洋酒の匂いが強くなる。クロが不満げな表情をしているのに気付いた老人は笑った。老人の手元のタオルは濃い紫色に染まっている。 「悪いね、さっきちょっとだけこぼしてしまってね。今拭いてるんだ。小さなお客さん」 「いや、まあいいんですけど」 クロはカウンターに手を置き、一瞬後ろに目を配るが人の気配はない。ほっとすると黒い椅子に腰かけた。 息は最早安定していて、心臓の鼓動も元の速さに戻っていく。ただ汗だけは噴き出している。額の汗を服の袖で軽く拭う。 老人は改めてクロを見ると、ほぉ、と感嘆しながら目を細めた。 「久しぶりだね。えーっと、クロ、フジナミ……だったか」 「……覚えてるんですね」 「まあねえ。ここに来る若い人なんて、君くらいなもんだからなあ。嫌でも印象に残るものさ」 「はあ。……そんなことより、ちょっといいですか」 クロは身を乗り出して、老人の茶色の瞳を正面から睨むように見つめる。 「ああやっぱり洋酒目当てではないんだね」 「当然です。お金ならそれなりにあるんで、いいですか」 せっかちだねえ、と老人は苦笑しながら洋酒くさいタオルを畳むと横に置く。 クロはリュックを背中から下ろし、それを隣の黒い椅子に乗せる。そしてリュックから黒く古ぼけた財布を取り出す。 中から二枚ほどお札を出して老人の前に出す。老人は少し驚いた顔をして、一枚手に取るとクロに差し出す。 「こんなにいいよ。大切なお金なんだから」 「あ、はあ」 クロは不思議そうに首を傾げながら老人と札を交互に見やり、おずおずとお札を受け取る。 さて、と老人は切り出すとお札を胸ポケットの中に無理矢理突っ込んでクロを見下ろす。
「いつから、どうしてこの町に黒の団がいるんですか」 老人は目を細める。 クロの瞳は憎々しげに光っている。机に置いた右手の拳は強く握られていた。何もかも握り潰してしまいそうなくらいに。 ふぅと老人は息を吐くと、カウンターに置いていたグラスを手に取り、白いハンカチを懐から出してそれを拭く。 「昨日からさ」 「昨日?」 クロは思わず聞き返す。老人は真剣な顔で僅かに頷く。 「ああ、昨日の夜に。四人ほどかな。一人とても目立つ子がいるそうだ。子供まであんな組織に入っているとは驚きだよ」 「子供……」 クロは先程自分が見た金髪の少年を思い出す。自分より少しだけ年下ほどの少年。あどけなさの残った顔つき。 目立つ、というのは恐らくあの金色の髪に金色の瞳のことだろう。老人の言う子供は間違いなくあの少年のことだ。 「来てから二十四時間も経っていない。だから“どうして”という質問には答えづらいな。まだ何も分かっていない」 「そうですか。……じゃあ、調べといてもらえますか」 「やれやれ。骨の折れそうなことになりそうだけどねえ。まあ、ぼちぼちとやってみるよ」 「なるべく早くお願いします」 「……やれやれ」 溜息を少しだけつく老人。クロは机に肘をつき、顔の前で手を組み眉をひそめる。 先程見た少年の他に三人はいる。ラーナーの傍にはポニータがいる。ラーナーはブラッキーとエーフィを持っているが、彼女が戦闘を指示できることは期待できない。 ポニータがいればいざという時に逃げる事もできる。でもそうなれば、クロとラーナーがばらばらになってしまう。それはまずい。 クロは懸命に頭の中で考える。情報が少なすぎるのだ。下手に動けばあっちに見つかり、しかし早く手を打たなければ危険性は高まるばかり。 困ったことにラーナーと連絡は取れない。それが一番の厄介な点だ。
「くそっ」 気持ちばかりがはやる。
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Re: まっしろな闇 のっそりと引っ越し開始 ( No.19 ) |
- 日時: 2010/11/13 16:20
- 名前: 海
- Page 19 女の子
「クロ、いつ帰ってくるんだろー」 バハロの中で何が起こったかをつゆも知らず、ラーナーはバハロの町を見つめる。 ラーナーは大きな木陰に入り、木の根元に腰を下ろしていた。涼しい風がラーナーに当たり、心地よい気分にさせる。 先程一台白い車が出ていったっきり、何も町から出てくる人も車もない。しかもその車は、ウォルタじゃ見た事のないものだった。 どことなく危なっかしい動きで出ていき、そのうちガス欠かパンクでもしそうな気がしてならない雰囲気だった。 のどかで、耳に入ってくるのは鳥の鳴き声や風の音だけ。ウォルタの隣だから多分近くに川でもありそうな気がするが、水の音は耳に入ってこない。 ポニータはラーナーから時々目を離し遠くの方を見つめている。それはバハロ市内であったり、青い空の向こうであったりする。 「暇だなー。もう入っちゃっていいかなー」 ラーナーは不満げに言うが、ポニータはその途端にラーナーを軽く睨む。そしてはいはい、とラーナーは諦めたように呟いた。 しかし本当に暇であった。何もすることがないのだ。時間はただ進むばかりで、勿体なく感じられる。 どれだけ経ったのか時計が無いラーナーには分からない。まだ少ししか経ってないのだが、彼女の心の中ではもう数十分が過ぎている。
「クロのばかー自分だけー! そのまま忘れたら承知しないんだからー!」 少し叫び気味にラーナーは言う。慌ててポニータは彼女を落ち着けさせようと傍に寄る。 唇を尖らせたままラーナーは背中の木にゆっくり体重を乗せ、一つ深い溜息をついた。溜息と共に気分も下の方へ落ちていく。 何となくに自分の横髪を軽く掴み、毛先を観察する。自分で切ったおかげで雑になっている。枝毛こそ勿論無いが、こんな生活を続けていたら枝毛ができるのは時間の問題だ。 滑らかに髪の毛が指から落ちる。 「分かってるよ。クロが何で一人で行ったかくらい……」 目を俯かせて言うラーナー。青い木の葉がさわさわと揺れる。 ラーナーは傍に置いていた青いバッグの外ポケットに手を入れ、中を探ると数秒後に手を出す。その手にはブレスレットが軽く握られていた。 今はいない、彼女の母親ニノの形見の品だ。ラーナーはブレスレットを軽く上に持ち上げて、下から見上げてみる。太陽の光を反射してきらきらと白い石達が光る。 「それ、隠しといたほうがいい」 クロから今日の道中で忠告され、渋々とバッグの中に入れた。どうも黒の団はこれも狙っているらしい。 溜息をつくラーナー。ブレスレットを自分の胸の前に持ってくると、じっと見つめる。よく見ると石はけっこう傷がついていて、少し古いものであることが伺える。 何も知らないんだ。彼女は心の中で呟く。ニノを、自分の母親のことを自分は何も知らない。どうして母の大切にしていたものが狙われているのだろう。母と黒の団が関係とは一体何なのだろう。頭の中でもやもやと思い描くラーナー。途中でそれを振り払うように頭を二、三回振る。 少し俯き加減だった顔を上げて、無造作にブレスレットをまたバッグの中に入れる。クロが来る気配は一向に無い。そもそも人が出てこない。車一台しか今のところ出入りがない。ある程度都会であるウォルタじゃあ考えられない。ウォルタをほとんど出た事がないラーナーにとって、ある意味で驚くべき過疎化具合だった。 それほどウォルタから離れていないはずなのに。
ポニータが顔を上げて後ろを見る。その時、ラーナーの後方から草を踏む音がした。 驚いてラーナーは振り向く。木々の生える中で歩いてくる人がいる。思わず木から背中を離しポニータに無意識に寄り添うラーナー。 風が止み、木の葉は音を鳴らすのを休憩する。 「!」 ラーナーは目を見開く。前方から訪れてくるのは、ラーナーとさほど年齢が変わらなさそうな女の子だ。茶色の髪を高い位置でポニーテールにしている。 近づいてくるほどにだんだんと明確になっていくその姿は、女の子にしては背が高い。そして足が長い。思わずラーナーは息を呑む。 程よい筋肉が引き締まっていて、綺麗な体型をしていた。半袖にホットパンツという多少露出が目立つ姿をしているせいなのかもしれない。 女の子はラーナーが自分のことを穴をあけるのではないかというくらいに見つめているのに気付き、笑った。
「珍しい! ポケモン持った女の子だ!」 明るいトーンで話しかけてくる女の子。思わず身を震わせるラーナーを見て、声をあげて笑いながら一歩一歩ラーナーに早歩きで近付く。 ポニータは大きい黒い瞳を更に見開いていた。 女の子は軽やかな足取りでラーナーの隣へとやってきて、見下ろす。綺麗な顔をしていて、ラーナーは心臓の鼓動が早まるのを感じた。 可愛いというよりはかっこいい雰囲気をかもし出している。 「バハロに用があるの? ぶっちゃけ何もないよ。お婆ちゃんにでも会うの?」 「え、あ、まあそんな感じです」 へぇと女の子は呟く。黒と白の太いボーダーの服の上に、薄い黒の半袖の上着を着ている。両手首にはオレンジのリストバンド。 思わずまじまじと見つめてしまう自分がいることに、ラーナーは一人で頬を赤くしていた。 「そんなにじろじろ見られてもなあ」 女の子はくくっと喉の奥を鳴らすような音を出す。ラーナーの頬がまた一段と紅潮する。 とても社交性のある女の子に、ラーナーは戸惑いを隠せない。女の子はポニータを見ると、にっこりと笑った。 「このポニータ、すごくよく育てられてるね。毛並みが綺麗だ」 感嘆する女の子に対し、ポニータの息は少し荒くなっている。女の子は少し目を細めた。 「あたしの友達にもさ、いたんだ。ポニータ持ってるやつ」 「そうなんですか」 「そうそう。超曲がってる奴だったけどね。もうずっと会ってないし。いやあ、なんか触ってやりたいけど、火傷するからやめとこ」 ラーナーは思わず苦笑する。ポニータの炎はポニータが認めた者にだけ触る事ができるのだ。 女の子は少し視線を逸らしてバハロを一目見やる。その瞬間に茶色の瞳が冷たくなった様な気がして、ラーナーは少し驚く。 睨むような目つきだった。が、すぐにそれはなくなって、ふぅと息を吐く。 「なんだろうな。あなた不思議な感じがするなあ」 「え?」 ラーナーは呟くように聞き返す。女の子は優しく微笑む。視線は再びラーナーに向いていた。 「気にしないで」 首を傾げるラーナー。女の子は軽く笑う。 「可愛いねー」 「え、いやっそんなことないです!」 慌ててラーナーは首を振る。これでもかというほどに振った為にくらくらとした感覚が彼女を襲う。 「あなたみたいに可愛い子は、狙われないように気を付けなよ」 その言葉の意味をラーナーが理解する前に、女の子はさて、と呟いて後ろを振り返る。目線の先にあるのは、先程ラーナー達が通ってきた平坦な道だ。 女の子がラーナーに背中を見せた時に、ラーナーは女の子が肩に鞄をかけているのに気付く。紫色の鞄だ。中身が多いのか膨らんでいる。もしかしたらこの人も旅をしているんだろうか、という考えをしつつもすぐに払う。 ポニータが声を出す。軽く呼びとめるような小さな声だった。女の子はポニータを見やると、軽く微笑んで見せた。 ラーナーは立ち上がり、ポニータの背中を撫でてやる。そういえば、ラーナーは女の子はこのポニータは自分のものではないと言っていない。 「まああなたには関係無いだろうけどね。ちょっと変な奴がこんな田舎にもいるみたいだからさ」 女の子は表情を崩す。複雑な表情をしていた。口元は笑っているけれど、顔全体を見れば本心から笑っているようにはとても見えない。 そのすぐ後に女の子は右手を軽く振って、じゃあね、とラーナーに明るい声で言う。 「あ、さよならっ」 「固い固い」 女の子は苦笑する。ラーナーは少し頬の熱さが抜けていくのを感じた。女の子が日光の強く当たる木陰の外へと出ていく。ポニーテールが光を受けて上下左右へ自由に揺れる。 ポニータがまた鳴く。ラーナーは落ち着かせるように慌てて首をさすってやる。炎の色がどこかいつもより赤い。 段々と遠くなっていく背中。一瞬のことのようであった。実際たった数分間の出来事だった。とても初対面とは思えない口調で話しかけてきた女の子は、一体なんだったのか。ラーナーには分からない。 静けさがゆっくりと戻ってくる。風はまだほとんど無いが、木々はまた揺れ始めている。木漏れ日が躍っている。 女の子が見えなくなるまでラーナーはずっと見届けていた。やはりあの道を行くようで途中で曲がる。 不思議な人だ。 ラーナーは心の中で呟いた。それに尽きる。 と同時に足の長い人だ、と思うのである。
女の子はちらりと横目で小さくなっていくラーナーを見やる。そして同時に目に入るポニータ。 日光が強く彼女を照らし、影が色濃く足の下で動く。目を細めて、少し考えるように眉をひそめた。 「似てたなあ……」 ぼそりと呟いた声は彼女の口元で消える。女の子の頭の中で残像が掠める。 少し重みのある鞄の紐が肩から落ちかけて、慣れた風に持ち直す。重い音が鞄の中で揺れた。しかし彼女の様子を見ていると重いようには見えない。 「気のせいだよね。うん、気のせい気のせい」 一人でただ喋り無理矢理に自己完結させると、少し遅くなっていた歩きを速める。足の長さ故に元々歩幅は大きいが、それにスピードも加わる。 早くバハロから遠く離れたいとでも言いたいかのように、早歩きで道を歩く。地面は夏の太陽によって干からびている。 顔を上げると日光が視界を刺した。痛みに似た感覚が瞳に走る。
本当に束の間のひと時であった。
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