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シュナとアルスの不思議な旅
日時: 2011/02/06 00:56
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E ID:jdNgFCJo

――それはいつか どこかで 誰かが 願ったことだったのかもしれない……











 物心がついてから一番最初に残っている記憶を辿り、その場面を思い浮かべても、いつから自分はそこに居てその前には何があったのかと答えることは出来ないのと同じように、“その者”はいつから自分がここに居てどうしてこんな場所に今居るのか見当がつかなかった。
 気がつくと自分は仰向けになっていていた。深い眠りから覚めたから仰向けになっているのか、何か気を失うような事態に遭遇したから仰向けになっているのかその判断さえ付かない。夢を見ていたような気もするし、見ていなかったような気もする。頭がクラクラと霞がかっているようにぼんやりした。
 その目に写っている光景は何も無い空。
 明るい。そして紅を垂らしたようなあかね色に染まっているように見えた。きっと夕暮れ時なのだろう。西日だと思う光りに照らされて顔が熱い。
 仰向けの体勢のまま、すぅっと深呼吸し思わず瞼を閉じた。肺に取り込まれた空気を全身に運ぼうと血管に温かい血がめぐっていくのを感じた。その体内の働きをさらに促そうと大きく手足を伸ばそうとする。その時だ、違和感を覚えたのは。

 手足の感覚がない。いや違う。五体は確かに自分の意思通りに動いている。だが“動かしているという感覚だけ”がないのだ。まるで手足を動かしたいという意思が眼に見えない誰かに伝わって、その誰かが見えない糸を操ってようやく動いてくれているといった奇妙な感覚。ちゃんと目覚めているはずなのに動かす手足はまるで夢のなかのようにふわふわと浮遊しているように覚える。それともここが夢の世界なのだろうか……。
 慌てて起き上がり、とじていたまぶたを勢い良く開いて自分の手足を確認しようとした。そうでもしないと今にも自分が、まるで春の山の残雪のように儚く溶け消えてしまうのではないかという恐怖が、心にそっと影を落としたからだ。
 だが目を見開いたその瞬間、その者は四つの事実に否応なく直面するのだった。

 まず一つ目に、自分の体はちゃんと五体満足しているということ。いつの間にか先程感じた奇妙な浮遊感も消えてしまっている。
 二つ目に、この場所はなんだかたくさんの種類の花々が乱れ咲く花畑だということ。自分はこの場所を知っているのか知らないのか判断がつかないが。
 三つ目に、そもそも今は夕暮れ時ではなく、夜だったのだということ。よく見ると空のどこにもその暖かな光を与えてくれる太陽は浮かんでいなかった。
 ではなぜ空があかね色に染まっているように見え、西日のような熱い光を感じたのか。

 四つ目、この花畑は今まさに失われようとしていること。
 なぜなら……、まるで巨大な生き物のような不気味な何かが、赤く輝きながら花畑中を跋扈し蠢いていたからだ。
 あたり一面、火の海だった。いろんな色、形の花々が咲いているはずなのに、朱に交われれば赤という言葉のように炎に紅色に照らされていた……。


――物語はここから始まる







☆目次

【第一篇:旅の始まり】


第一章「廃墟での出会い」

−1− >>1 
−2− >>2 

第二章「音と香りは夕暮れの大気に漂う」

−1− >>3
−2− >>4

第三章「バーンズロウ家」

−1ー >>5
−2− >>6

第四章「最初に思い出したこと」

−1− >>7
−2− >>8

第五章「葉末を渡る鐘の音」

−1− >>9
−2− >>10
−3− >>11
−4− >>12

第一篇TIPS >>13


【第二篇:鍵の行方】

第六章「レマルクシティへ」 >>14

第七章「歴史の街の冒険」

−1− >>15
−2− >>16
−3− >>17
−4− >>18

第八章「私をレースに連れてって」

−1− >>19
−2− >>20
−3− >>22

第九章「レース・誘拐・第三者」

−1− >>23
−2− >>24
−3− >>25
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Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.1 )
日時: 2010/09/14 20:31
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 第一篇【旅の始まり】
 第一章「廃墟での出会い」

−1−


 その日ほど彼女は自分の生まれを呪ったことはなかった。それまでにも彼女は自分の生まれや一族のことを嫌に思ったことはあれど、このときほどそれを強く思ったことはなかったろう。
 駆ける。駆ける。後ろも振り向かずにただ彼女はどこに向かうものでもなく駆けた。ちょっとでも後ろを振り向いたり、走る速度を落としたりすれば、後ろから追ってくるそのモノたちにたちまちのうちに追いつかれるような気がした。
 風が頬を打ち、走っている勢いで視界が上下に揺れる。走り始めてまだ幾ばくもたっていないというのに、普段あまり激しく動かすことに慣れていない体はすでに疲労を感じ始めていた。
 
 しかしそうも言っていられない。とにかく遠くへ、奥へと彼女は進み、やがて倒れこむような形でどこだか分からない部屋へと身を隠した。追ってきた"奴ら"を撒いたとは到底思えないが、少なくとも自分の姿を見失わせることには成功したのではないかと思う。ここに来るまでいくつかの四辻や分かれ道があったがそれらがあるたびに彼女は迷わずこっちだと思う方向へと逃げてきたので、彼女自身今どこに自分がいるのか検討もつかなかった。だけど今はとにかく見つからないように時間を稼ぐ。それが最も大きな優先事項だった。
 じっと聞き耳を立てると自分が走ってきたずっと向こうからかすかに声が聞こえた。

「お前は向こうを探せ、俺はこっちへいく!」

 いまいち聞き取ることができないが、やはり奴らは彼女を見失っていることだけは確かのようだった。ほっと安堵の息を付くが、まだまだ安心はしていられない。しかし彼女はその時になって初めて自分の全身が恐怖で小刻みに震えていることを知った。手足の末端がまるで痙攣でもほこしているかのようにわなわなと蠢く。自分の体ではないかのようだ。涙こそ出てはいないが、恐怖心の強さで逆に流れていないと言った方が正しい。呼吸をなんとか整えようとするが思うようにいかない。
 それにゆっくりもしていられないのだ。あの黒服の男たちがこの部屋を探し始めるのも時間の問題だ。
 とりあえず隠れるような場所を探さなければ、あの男たちが他の部屋を探っている隙に抜け出すと言うことも考えたが、そもそも追手の正確な人数を把握していない上でそのような行動をとるのはあまりにリスクが高すぎると考えた。追手は何人いるか分からないが、最低でも三人はいることを彼女は確認していた。どうにかしてこの部屋でやり過ごした方が良いかもしれない。
 入ったその時は、窓もなく真っ暗な部屋だったが幸いにも目が慣れ始めてぼんやりとだがこの部屋に何があるか分かってきた。
 どうやら元は書斎だった場所らしい。入ってきた扉の向かい側には、この廃墟に人が住んでいた時はさぞ暖かな火を提供していたであろう暖炉が冷え冷えと据えられている。そして左右両方の壁には窓はなく、かわりにぎっしりと本棚が並べられていた。しかしそこにあるはずの本は一冊も残ってはなく、寂しそうにぽっかりと口を開けているだけだった。天井にはなにもなかったが、かつて電灯が取り付けられていた形跡が残っている。昔この部屋の主は壁いっぱいの本棚に一体どんな本を並べて、どれくらい読んでいたのだろうかと彼女は想像したが、すぐにそんなことを考えている場合ではないということを思い出す。
 そして彼女は暖炉を伝って外に出てみようかと思い至った。残念なことにこの部屋には隠れられそうな場所は見受けられなかった。引き返すわけにも行かない、暖炉をうまく伝ったらなんとかやり過ごせるかもしれないと考えるのは自然な考えだったといえよう。
 そして彼女は暖炉へと歩みを進める。煤だらけになってしまうかもしれないが仕方がない。だが、直後に起こったときはその時は不運と見るほかなかった。床にある何かに足を引っ掛け、思いっきり倒れてしまったのだ。

「痛ったー……」

 思いっきり衝いてしまった膝をさする。暗くてよく分からないが幸いにも怪我はしていないようだった。そのことにホッと安心すると、自分は一体何に足を取られたのかと確認しようとした。
 とはいえ暗がりでよく分からない。目を細める。なにか溝のようなものが見える。そしてさらに目をこらすとその小さな溝にそって、床板がまっすぐ横に一直線切れ込みが入っていることに気づいた。

「なんだ今の音は!」
「向こうの部屋からだ!」

 心臓が口から飛び出てしまうのではないかと思うほどの戦慄がよぎる。今転んだ時の音を聞きつけたのだろう。バタバタと足音が急速にこちらへ近づいてくる。彼女は思った今から暖炉へ飛び込もうとしても間に合わない。だがひとつだけ可能性があった。もはや彼女に残されてる道はこれしかない。あとものの十秒前後で男たちはこの部屋へとたどり着いてしまうだろう。彼女は床にある溝に手をかけた。

 けたたましく扉が開かれ、勢いで戸は蝶番いっぱいまで開いて壁にぶつかった。

「どこだ!」

 最初に入った一人目が懐中電灯であたりを照らしながらそう叫ぶ。すかさず次に入ってきた二人目が部屋の全体を見回す。あとにも何人かの人間が入ってくるのを彼女は感じたが、やはり正確な人数は把握できない。判断もろくにできないくらい彼女の胸は高鳴っていた。なんとか息を殺そうとする。絶対に物音を立ててはいけない。

「暖炉から逃げやがったか」
「おまえたちは外へ回れ、あとはここじゃない別の部屋かもしれない。引き続き探せ」

 それに何人かの男が相槌を打ち、バタバタと音が遠ざかっていく。外へ回った者もいれば、別の部屋へと向かった者もいる。ハーっと溜め込んでいた呼気を一気に出す。それでもなるべく音がしないように細心の注意を払ってのことだ。
 彼女が思った通り、この部分だけ床が外れ、下に隠しスペースが存在した。しかし彼女はただ微妙な溝を発見しただけでこのスペースの存在を確信したのではない。もしただ溝が入っているだけだったら、そんな無謀とも言える確信には到底至らなかっただろう。
 溝の横にある紋章が本当に小さくだが鋳れられていたのだ。その紋章を見た瞬間彼女は確信した。
 そして彼女は気づく、このスペースにはさらに下があって階段が伸びていることに。なぜ真っ暗にも関わらず、階段が伸びていることがわかったのか。ところどころにほんの小さな電灯が、階段があることを示すように点々と光っていてずっとさきまでそれが続いていたからだ。まるでこちらにおいでおいでと手招きしているようにも見える。どうせいま此処を出てもまだあの黒服の男たちがうろついていると思ったので、少女は階段を降り始めた。それに此処に入った最初から何かがあるかもしれないとは感じていたことだ。
 一歩一歩、一段一段、足元で光る小さな電灯を頼りにすこしずつ降りていった。湿っぽくひんやりとした空気が満ちている。
 降り始めてどれくらい経つだろうか、地の深淵まで続いているのかとも思える階段は唐突に終りを迎えた。そして目の前に一枚の扉に行き当たった。その扉に描かれているものを目にして彼女は息を飲む。扉にはあの床板に小さく彫られていたものと全く同じ紋章が描かれていた。デフォルメ化された山の上に太陽が昇っていることを表したような紋だった。そして彼女はこの紋のことを廃墟へ訪れる前から知っていた。
 ポケットを探る。そして取り出したものはニ本の鍵束。ひとつの輪っかに鍵が二本括りつけられていた。そのうち一本の鍵の摘みの部分にこの壁に描かれているのと同じ意匠が刻み込まれている。
 そしてこれは必然。目の前の扉の取っ手部分の下に、ポッカリと小さな鍵穴が口を開けていた。少女はほとんど本能的に鍵を鍵穴へと差し込み、ゆっくりと回す。カチャリという音とともに心地よいとも言える手応えが伝わってくる。ゴトンと低く重い音が響くと、扉はまるで悲鳴のような齟齬音を鳴らしながら開き始めた。どうやらずいぶん長い間開かれていなかったらしく、塵や埃が落ちるパラパラという音が暗闇のなかで聞こえてきた。一連の音で上の男たちがこちらに気づかないかと少女は内心ひやひやしたが、どうやら杞憂だったらしく上からは特に何も聞こえてこないし、気配もない。
 そして扉が完全に開ききる。彼女の胸は先程まではまたちがった意味で鼓動を強めていた。しかし目の前は真っ暗。こういう時に懐中電灯かもしくは辺りを照らすことのできるポケモンでも居ればどんなに心強いだろうと思いながら、手探りで少しずつ前へと歩き始めた。
 そのとき奇妙な音が聞こえてきた。いや正確には彼女がこの部屋に入った時から聞こえてきたのだが、暗がりを探ることに夢中になって今まで気づかないでいたのだ。音というよりもそれは何かの声。キンキンと耳に残る声がどこからか響いてくる。音と呼ぶにしてはそれは明らかに何かの感情のようなものが伝わってくる。しかしシュナはこの声が何のものなのか分からないし、このような奇妙な声を今まで聞いたことがなかった。

 彼女はさらに歩みを進める。何かにつまずきはしないだろうかと恐る恐る進んでいたが、刹那に思いもかけないことが起こった。
 突然、部屋の中に光があふれた。少女は何の前触れも無いこの出来事に思わず「きゃっ!」と小さな悲鳴をあげる。光源は天井に吊り下げられている白熱の黄色っぽい電球だ。だが思いがけないことはさらに続く。天井の天球によって部屋全体が照らされたものがあまりに意外なものだったからだ。
 部屋は縦横六メートル、高さ三メートルほどの広さで棚の類もなければ椅子一つおいてない、正しく何も無い部屋だった。ただ一つのことを除いて。部屋の中央に"それ"はいた。

「なにこれ……」

 彼女がそうつぶやいた。
 一体彼女には何が起こっているのかわからなかった。この廃墟に来てから分からない事だらけだったが、今ほどそれを強く感じたことはない。
 そのとき先程からかすかに聞こえてきた声のような音がにわかに強まった。
 それは二メートルを裕に越す巨大なカプセル。いや、というより寧ろ卵と言った方が印象的には正しいかも知れない。その卵は黒く半透明で中に入っている"それ"の輪郭をハッキリと映し出していた。
 "それ"は巨大な岩を思わせるような巨体を持ち、卵の中でまるで胎児のような体勢で丸まっており、一見すると眠っているらしく体躯には力は感じられず瞼は閉じられていた。。この種族の特徴の一つである背中から生えている巨大な翼も小さく器用に閉じられている。
 カイリュー。それがこの卵の中で眠っている者の種族であった。

「これが……手紙に書いてあったもの?」

 彼女はカイリューの顔を見上げてつぶやく。一通の手紙と鍵に導かれてやってきたこの廃墟。ここに来て襲われた当初は罠だと思ってしまったが、それは思い違い。ただの不運な出来事だっただけ。
 最初、彼女はこのカイリューは死んでいるのかと思った。
 だが彼女は察した。このカイリューは生きている。生きてこの卵のようなものの中で眠らされているのだと。しかしこのカイリューの周りに纏っている卵のようなものは一体なんなのだろうと、彼女はさらに近づいた。そして恐る恐る卵の"殻"とも呼べるような部分に手を触れようとした。だが、そのとき思いがけないことにさきほどから聞こえていた声のような音がさらに強まった。明らかにその声は何かに対して驚いているような、そんな感情が表れている。
 彼女は気づいた。それも二度も。
 一つ目はまずさきほどから聞こえていた声はこの卵の"殻"から発せられていたこと。そしてもうひとつはそもそもこれは卵でもなんでもないこと。この卵の殻のようなものはたくさんのポケモンの集合体だったのだ。それは一見すると小さな文字のような姿をしていて、同じポケモンなのだが一体一体が姿形が違う。彼女は知っていた。世界各地にある古代の遺跡にはこのアンノーンと呼ばれるポケモンが多数確認されているということを。しかし廃墟であるとはいえ、ただの屋敷の地下になぜアンノーンがいるのか彼女には合点が行かない。しかしこのアンノーン達によって中に入っているカイリューが眠らされているのは確実のようだった。
 一体どうしてこのカイリューがこんな廃墟の地下でアンノーン達によって眠らされているのか全く分からない。一体いつからここにいるのか、そもそもこのカイリューが何者かも分からない。
 そしてもう一つ重要な事柄として、どうすればこのカイリューが目を覚ますのかも問題だ。とりあえず卵型の形になって集まっているこのアンノーンたちをどうにかすればいいようである。なんとなく彼女は恐る恐るアンノーンたちが集まって形をなしている卵状のものに手を触れようとした。

 そして、指先が触れる。明かりが灯っているにも関わらずあたりが闇におおわれ、まるでこの世に存在するのが自分と卵状となっているアンノーンたちと中にいるカイリューだけになったかのようになった。そして触れた先からカッと光があふれ、指先はパチンとまるで静電気を受けたかのようなショックを感じ、思わず手を引っ込めた。アンノーンたちが一体一体青白く光りながら卵型を保ったまま動き始める。
 少女は一体何が起きているのか全く判断付かないまま、ただその様子を呆然と眺めていた。あまりに現実離れした光景に頭がぼんやりとする。

 誰かが呼んでいる気がする。
 誰が?
 誰を?

 刹那、ガラスが粉々に砕けるような鋭い叫びのような音が響くとともに、卵状に集まっていたアンノーンたちがバラバラにはじけた。
 そしてカイリューは胎児のように丸まった姿勢を保ったまま、ゆっくりとまるで誰かからそっと据えられるように床に落ちた。明るさが戻ってくる。
 バラバラにお互いが離れ離れになったアンノーンたちは、しばらくの間一体一体が中空でくるくる回ったり、同じ位置を行ったり来たりと思い思いの動きをしていた。しかし何かを思い出したように全てのアンノーンはまたひとつの塊のように集結すると、何か叫び声のような音をあげると共に光りに包まれ消えた。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.2 )
日時: 2010/09/14 21:00
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

−2−

 アンノーンたちがいなくなった後、部屋には少女と未だ目を覚まさないカイリューが取り残される。少女は小山ほどもあるカイリューをまじまじと見つめた。ゴクリと固唾を呑む。心なしか飲み込んだ唾は苦く感じた。そして恐る恐る近寄ってみた。
 カイリューはやはり目を覚まさない。胎児のように丸まったままピクリとも動かないでいた。少女はさらに近寄る。まるで触れたら爆発してしまうのではないかと錯覚させるような慎重さで。
 少女は迷った。彼女はこれまでポケモンと接したことはあれど、世間に数多と存在するトレーナーたちのように一緒に暮らしたり戦わせあったりしたことなどなかった。それもカイリューという明らかに自分の手に余るようなポケモンを果たして自分が扱えるのかもわからない。それにこのカイリューのことも気になった。いつからこんな廃墟の地下で、なぜ眠らされていたのか。あのアンノーンたちはなんだったのか。ここに来る以前はどこでなにをしていたのか。様々な疑問がまるで川の澱みに生ずる水泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消えする。
 しかし少し経って彼女は何かを思い出したようにポケットを探り始めた。取り出したものは四つ折りにされた折紙ほどの大きさの小さな紙切れ。彼女はその紙に書いてある言葉を独り言のように何度も何度も復唱する。そしてついに意を決したように深呼吸し、一つ唾を飲み込むとゆっくりと自らの手を眠っているカイリューの頭の方へと伸ばした。この廃墟に来てからが非現実的な出来事が続いたせいで、半分夢うつつな状態にあることを少女は半ば自覚していた。しかしこのカイリューがきっと今自分が置かれている現実を打開する一つのきっかけになる。少女はそんなことを思いながらさらに手を伸ばす。
 指先と頭までの距離が狭まっていく。

「こんな所にいましたか」

 感情のこもっていないような冷ややかで鋭い声が響いた。同時に夢うつつのような状態から少女は一気に現実へと引き戻された。心臓が早鐘を打つように鼓動する。声のした扉の方へと振り向くと、例の黒服の男たちが立っていた。

「なあに、抵抗さえしなければ悪いようにはしない」

 絵に描いたような甘言を先頭に立っていた男がささやいた。

 男は甘言をささやく。そして扉から次々と仲間であろう他の黒服たちが次々と入ってくる。

「おい、なんだこれは!?」

 別の男がようやく部屋の端にあるものに向かって叫ぶ。男たち全員の視線が一挙にその方向へと集まる。しかしやはりこのような場面まできてもカイリューは目を覚ます様子はない。
 その様子に安堵したのか男たちは再び少女へと詰め寄る。彼女は後ずさる。しかし非情なことにすぐにその小さな背中は後方の壁にぶつかってしまう。彼女がその時感じた壁の感触は氷のように冷たいものだった。せめてもの抵抗で彼女はそのまま座り込む。

「さあ来るんだ!」

 先頭の男の乱暴そうな手が彼女を追い詰めるように迫る。

「いやッ!」

 無自覚に彼女は叫んぶ。頭ではもう観念するしかないとわかっていても、体が拒否したのだ。

「連れていけ!」

 男たちの内さらに数人が少女へと近づく、そして先頭の男が彼女の手首を乱暴に握った。とても強い力で握られてこのまま無理やり引っ張られれば手首から先がちぎれてしまうのではないかと思った。振り払おうとするが男の力は強く、まるで万力で押え付けられているかのようにビクともしない。
 後に続いた男がさらに片方の手首を握ろうとする。無理やり引っ張っていこうという魂胆なのだろう。

「いや、やめてッ! 離して!」

 助けなど来るはずが無いとわかっていながらも、彼女は有らん限りに叫ぶ。
 どうしてこんなことに? あたしは何も求めてないのに。ただ今の生活が嫌だっただけなのに。悔しさの叫びが心のなかで次々と浮かぶ。
 そして目の前にいる男の手に白いハンカチが握られている。ああ、よくサスペンスもののストーリーなんかにあるようにあのハンカチに染み込ませてある薬で眠らせるつもりなのだ。彼女は直感する。

「いやーッ!」
「おい、大人しくし……」

 そのとき小さな爆発のような鋭い破裂音のようなものが響く。その一瞬後、ハンカチを持っていた男が重い苦悶の声を漏らし、膝をついてうずくまった。よく見ると男の体から小さな雷のようなものがまとわりついて、パチパチと音を立てていた。一体何が起きたのかとその場にいる全員があたりを見回す。そしてすぐにその原因となるものが目に入った。少女のうずくまった音を挟んで向かい側に二メートルを優に越す巨体があった。薄い褐色の肌に筋骨の発達した体つき、全長をはるかに超すほどの大きさの巨大な両翼。カイリューが目を覚ましていた。

「お前ら……そいつになにしてんだ?」

 混乱につぐ混乱の中で頭は理解出来る容量を超えてカンストでも起こしてしまったのか、彼女は「えーっと……」とこの場にそぐわないほどのすっとぼけた台詞を吐いていた。

 しゃべった?

 少女はそのとき黒服たちもこの奇妙な出来事に唖然として、掴んでいる男は手の力が弱まっていることに気づいた。渾身の力を振り絞って男の手を振り払い、ついに自由を手にする。とはいえ、あまり広いとは言えない上に出入口が塞がれているこの部屋では行き着く場所はひとつしかなかった。
 もうこうなってしまった以上、自分にとって危険か否かなど関係ない。藁にもすがる思いで彼女はカイリューの方へと走る。そして言おうとした。「助けて!」と。だがカイリューは意外なことにその言葉を遮る。

「分かってるよ。こいつらから逃げてるんだろ」

 彼女は思った。このカイリューは自分と誰かとを勘違いしているのかもしれないと。さきほどの「その女になにしてんだ?」という発言もそうだ。

「あの、あたしは……」
「暴れんなよ」

 さらにカイリューは彼女の言葉を遮ったばかりか、突如その大きな腕で彼女をつかみ、自身の体勢を若干かがませると乱暴とも思えるような動作で彼女を自分の背に載せた。ほとんど放られるような形でカイリューの背に乗る。
 男たちは何人か人数が減っていた。おそらくさきほどのカイリューの電撃――ポケモンのことはよく知らないがさっきのは「電磁波」という技だったのかもと彼女は思った――で倒れた者を運んでいったのだろう。しかし未だ健在な者が数人残っており、さらに悪いことに残った黒服たちはそれぞれの手に黒く光るものを持っている。拳銃だった。少女はそれを今までテレビや映画の中でしか見たことがなかった。だから現実に目の前に出されると、一瞬それが本物なのかどうか迷ってしまう。

「掴まってろ」

 カイリューはくぐもった声で囁く。
 彼女は言われた通り、カイリューの翼の付け根の部分をしっかりと握った。そして彼女は感じた。部屋の空気の流れが変わったと。実際そうなっているのか分からないが、直感がそうだと示す。

「撃て!」

 黒服の中でも先程少女を真っ先に詰め寄ったおそらくこの中でのリーダー格らしき者が叫ぶ。少女は思わずぎゅっと手のひらを握り締めるようにまぶたを閉じた。
 刹那、先程から渦巻いていたと思われる部屋の空気がカイリューを中心として一気に放たれる。何が起こったのか彼女はカイリューの背が壁のように塞いでいるため眼にすることができない。だが、その結果は分かった。
 黒服たちの叫ぶ声が聞こえる。同時に何かを落とした音が聞こえる。
 直後に何か地鳴りのようなものが起こり、突如としてこの部屋の扉とは反対側にある壁が赤く光り始めた。一体何が起きたのか。見るとその壁にはまたあのアンノーンたちの模様が光っている。そしてアンノーンはまたあの叫び声のような音を響かせると、赤く光っていた部分が消え、隠れていたまた通路がポッカリと口をあけた。もはやここに来て様々なことが起こりすぎた彼女にとって、このような展開ではもはや驚かなくなっていた。

「おおう、御丁寧だな」
「くそ! カイリューを止めろ」

 開いた口へと動き始めたカイリューに、黒服たちがその背に乗せている少女に飛びかかろうとする。だがそれは無駄なこと、動きに気づいたカイリューはまるで黒服たちが周りをしつこく飛んでる蠅か何かのように片手で振り払った。だがカイリューの大きな腕に払われた男たちは一気に扉近くまで飛ばされる。

「くっ、やむを得ん。退くぞ」

 リーダー格の男が叫び、残りの数人もいそいそと扉から退散した。
 なぜ彼らは銃を使わなかったのか。すると床にまるで壊れたおもちゃのようにバラバラに分解している銃が黒服たちの人数分落ちているのに彼女は気づく。

 それにしてもこのカイリューはいったい何なのだろうか。もう聞き違いでも空耳でもなく間違いなくこのカイリューは人間の言葉をしゃべっている。人間でない者が人間の言葉を話す。少女はこのカイリューが人間の言葉をしゃべっているのか、自分がカイリューの言葉が分かるようになったのかよく分からなくて奇妙な目眩のようなものを覚えた。

「さ、行くぞ」
「待って!」

 いざ飛び立とうと翼を広げようとしたカイリューを少女は止める。

「おう、何だ?」
「ひょっとしてあたしのこと、誰かと間違えてない? 助けてもらってこんなこと言うの申し訳ないんだけど、あなたに会うのはここが初めてだし、今まで生きていてカイリューの実物に会うの、やっぱり初めてなの」

 カイリューはよっぽど意外なことを言われたのか、少し考えるような素振り見せる。そして一旦少女はその背中から降り、カイリューの前へと立つ。
 カイリューは少女の顔をじっと見つめる。考え事をするように首を傾げたり、何かを思い出そうとするように片手を頭に当てる。そして返ってきたカイリューの答えはさらに意外なものだった。
 
「すまん。お前の顔見てよく知ってる誰かと同じに見えたんだ。だけど、今考えると誰だったか思い出せない。それに……ここ、どこなんだ? 俺、今まで自分が何をしてきたのか。全然思い出せねえんだ……」
「それって、記憶喪失ってやつ?」
「キオクソウシツ……?」
「昔のことが思い出せなくなってたり、自分のことや周りのことを忘れちゃってることよ」

 カイリューは「なるほど」と返し、また何か考えているような仕草を見せた。少女の方もこのカイリューについて色々と考えを巡らせた。さきほど自分のことを助けてもらったときは、とても心強いばかりか一種の恐怖の念すら感じたが、今自分の記憶が思い出せ無くなっている様を見るとどうにも人間臭く、ちょっと違うのかもしれないが可愛くも見えた。

「そうなのかもしれねえ。だけどお前の顔、よく知ってる誰かと同じ感じがすることは確かなんだよ」

 もはや彼女はこのカイリューがどうして人語を話すことが出来るのか気にしない。それよりもこのカイリューが何者で、どうしてこんな場所に今まで眠らされていたのか、そして眠らされる前はどこで何をしていたのか。そして最も気に掛かること。なぜその場所がこのキュロスの廃墟であるのか。
 しばらくお互いに沈黙が続いた後、突如カイリューの方が思いついたように顔を上げ、少女に再び背に乗るよう促す。

「どうしたの?」
「いや、なんだかわかんねえけど、お前の周りに居れば何か思い出せるような気がするんだ」 

 それが一体どういった根拠によるものかはおそらくカイリュー自身も分かっていないようだった。しかし少女にとっては打算的な考え方は嫌いではあるが、都合が良かった。このままこのカイリューが自分の周りにいてくれたら、きっと身にかかる危険から守ってくれるだろうと。
 彼女は促されたとおりに背に乗る。先程は感じなかったがカイリューの背は今までずっとアンノーンによって眠らされていたとは思えないほど暖かだった。そしてカイリューはさきほど止められた翼を再び大きく広げた。
 カイリューは満身の力を込めて羽ばたく、隠し扉が開いた先は長い回廊のようになっている、しかし天井がかなり高くなっており、あらかじめカイリューがここを飛翔して通ることを見越して設計されているようだった。
 何度か羽ばたいて翼に調子がついてきたところで、カイリューは思いっきり床を蹴った。ふわりとその巨体が浮き上がる。さらに羽ばたくスピードを早め、それにともなって前へと進む速度も上がっていく。
 通路はさらに奥へと伸びているところで、急に上りの勾配に差し掛かった。すると何か前方にうっすらと光りに照らされる石垣のようなものが見えた。さらに前方へと進むとどうやら縦方向に伸びている穴と合流するようになっているらしかった。

「井戸よ!」

 彼女は直感的に叫ぶ。するとカイリューはその縦伸びている穴に合流すると同時に、翼を起用に羽ばたかせさらに真上へと飛んだ。少女はカイリューの肩を落ちないようにぐっと握る。そして地上へと出る。溢れんばかりの太陽の光。たった少しだけ見ていなかっただけなのに、少女にとってとても懐かしく、そして有り難いものに思った。それはおそらくカイリューの方も同じだろう。
 地上を見下ろす。どうやら出た場所は廃墟から少し離れた場所にある古井戸だったらしい。屋敷の影がどんどん小さくなっていく。それから、彼女は何かを思い出し、カイリューに話しかけた。

「あの、ありがとう」

 一瞬カイリューは何のことかわからなかったらしく、その旨を返す。

「助けてくれて」
「なあんだ。それならお互い様だろ」

 それはきっとあの冷たい部屋から出してくれたことを言っているのだろうと彼女は直感する。

「あなた。自分の名前……なんて呼ばれていたか覚えてる?」
「すまねえな。それもちょっと……思い出せねえんだ。好きに呼んでくれ」

 自分の名前を忘れる。それはどんな気持ちあのだろうと少女は内心ぞっとする。自分が何者かも忘れて、そして名前まで分からない。そんな気持ちはおそらくこのカイリュー自身にしかわからないだろう。しかし彼女は自分が何者なのか、捨ててしまいたかった。今自分を縛っている事柄から離れ、解放されたいと思った。だが、すぐにそんな考えを浮かべる自分を恥じる。
 そして少女は思案する。記憶を失ってしまっているこのカイリューに付けるべき名前。ただの名前ではいけない。このカイリューには一体以前なんと呼ばれていたのか想像も付かないが、なんとなくそれに負けないものにしたかった。でも、もしカイリューが記憶を取り戻し、本当の名前を思い出したらどっちの名前で呼べばいいのだろうという考えもよぎる。一,二分ほど思案したところで、彼女の頭に懐かしい響きの言葉がまるで果てしなく続く荒野の中で、ポッと一輪の花を見つけたかのように浮かんだ。

「『アルス』ってのは……どうかな?」
「なんだそりゃ?」
「あたしのおばあちゃんが昔教えてくれたおまじないでね。『エト・アルス・ペルペチュア・ル……セ……? サ……?』うーん全部思い出せないわ……。『光を見失うな』って意味で『アルス』は『光』」

 少女は教えられたまだ幼かったとき、「どうしてわざわざ変な言葉で言うの?」という自分の疑問に「おまじないとかはそれっぽい言葉で言うから効果が出るのよ」と祖母が満面の笑みで返した時のことを思い出した。思えば彼女自身随分長い間このおまじないの言葉のことを忘れていた。だから全文がどうしても思い出せない。他にもいろんなおまじないを教わったはずなのに、思い出せるのはこの言葉だけ。今度祖母に会うことがあればもう一度教えてもらおうと思った。
 カイリューは「ふーん」とまるで他人事のような反応を見せる。あまり嬉しくなかったのだろうかと少しだけ少女は焦る。

「なかなかいいと思うぜ」
「そう、ならよかった。あたしはシュナっていうの。よろしくね」

 そのときシュナは自分がようやく微笑むことが出来たことに気づく。廃墟に来てからと言うもの、謎の黒服の集団に追われ、命からがら逃げてきた。そして突然自分の前に現れた記憶をなくしたカイリュー。色々余裕の無いことが立て続けに起こっていたのだ。安心できなかったのも無理もないことである。
 そしてシュナは見た。上空からみる広大なキュロスの山麓の光景を。緑色に茂っている森がまるで海のように広がっていた。

「アルスか。気に入った!」
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.3 )
日時: 2010/09/14 21:01
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

第二章「音と香りは夕暮れの大気に漂う」

 −1−

 シュナの父親、アルド=バーンズロウが死んだのは二週間前のことだった。
 代々の資産家で、様々な事業に手を出していたバーンズロウ家はアルドの代でさらに事業を拡大し、彼の死の直前には彼が当主を引き継ぐ以前と比べて総資産が十倍以上にまで跳ね上がっているという業績をたたき出していた。親族たちもそれぞれがアルドの商才と強運を讃え、もはや彼に思い通りにならないことは何も無いのでは、と謳われるまでとなっていた。
 しかしそんな彼にもどうにもならなかったことがあった。
 四十五歳という見方によってはまだまだこれからという若さで死に至ることなった健康問題である。アルドが不治の病に侵され、もはや先が長くないと医者に宣言されたのは二年前のことだった。もはや生き方そのものに無病息災、五体満足という言葉を見出しているような彼にとって、その言葉がどれだけ己の矜持を折り、喪失させたかは想像に難くない。彼は生前弁護士を呼び寄せ、立ち会いのもとに遺言を残した。
 そしてその遺言が発表されたのはアルドの埋葬から二日後のことだった。


「どうやら、皆様お集まりのようですな」

 顔に深いシワの入った弁護士が部屋中を一瞥してから言う。
 この日バーンズロウ家本家の屋敷には、アルドの親族を初めとして、所有しているいくつもの会社の重役、などおよそ二十人ほどが集まっていた。もちろんシュナもその一人である。さらに案内された居間には屋敷で働く使用人たちのほとんども集まっていたため、部屋には三十人近くの人数が出入していたこととなる。これだけの人数がいたにもかかわらず、この屋敷の居間はまるでひとつの会場を思わせるほどに広く、狭さなどはほとんど感じないほどの余裕があった。さらに屋敷全体で数えると、それぞれの参加者がつけてきた護衛や車の運転手、秘書などが別の部屋に待機させられたため、この日この屋敷には全員で六十を越える人間が集まっていた。
 弁護士の言葉に、今まで談話などでわいわいと賑わっていた居間が急に水を打ったように鳴りを潜める。シュナは使用人の一人を側に侍らせてその者から離れないようにしていた。

「これより、故アルド=バーンズロウ様が生前残された遺言の発表会を始めさせていただきます。まずは自己紹介をさせていただきます。故アルド様の顧問弁護士を務めさせていただきましたグラハム=トールキンと申します。レマルクシティでトールキン弁護士事務所を営んでおります。わたくしの身分になにか疑いがあると言うのならそちらの方に問い合わせ願いたい」

 そう宣言し、この遺言の発表が厳粛かつ公正なるものとするよう弁護士は会場に集まっている皆に釘をさす。

「皆様もお気になさっているようですので、早速本題に参りましょう。さて、故アルド様は遺言を残す方法として二つの手段を取られました、ひとつはいわゆる『遺言書』として書面に残す方法、そしてもう一つがこれより皆様にご覧になっていただく、『映像』としての方法でございます」

 どういうことだろうかと、あたりがにわかにざわついたところで出入口の扉が開き、初老の使用人がワゴンを運んでくる。そしてそのワゴンの上には一台の映写機が置かれている。そして別の使用人たちが手はずを整える。まず部屋の灯りを落とし、アーチ状になっている大窓にあるカーテンを次々と閉めていった。そして部屋の中で弁護士が立っているあたりの壁付近の天井から真っ白なスクリーンがまるで舌を突き出すように降りてきた。
 参加者の中にはおもしろい趣向じゃないかと微笑む者もいた。
 そして使用人の手によって映写機の電源が入れられ、スクリーンに最初に一面青い画像が映る。そして使用人がさらに何か操作をすると、果たして映像が映り始めた。会場から「おお……」と感嘆の声があがった。
 そこにはこの屋敷の二階にある当主の間が映っていた。窓際に樫の木で作られた意匠を凝らしてあるベッドが置かれ、羽毛布団から腰で座っているアルド氏の姿があった。ベッドの上であるにも関わらず、スーツにネクタイと言うそぐわないような服の装をしている。彼は画面外にいる誰かに何か一言二言話しかけたのち、この画面をみている会場の参加者たちに挨拶をした。

『やあ、諸君。ごきげんよう。ちょっと滑稽に映るかもしれないが、私の死後の大切なことを伝えるために敢えてこのような格好をさせてもらったよ』

 そして画面のなかの彼は一つウィンクをする。会場の中で小さな笑いが起こる。しかししばらくアルド氏と会っていなかった者たちは、彼のその見るからに痩せ細った姿に、かつての疲れを知らないかのような気力でバリバリに事業をこなす彼の姿がここまで変わり果てていたということに感傷に浸っていた。

『私は運悪く不治の病に侵され、どうやらこの先も長くないようだ。なのでこうしてこの映像を遺言として残すことにする。立会はすでに紹介があったかもしれないが、顧問弁護士のグラハム君だ』

 そして映像の中、アルド氏がいるベッドの脇にグラハム氏が立つ。映像の中と実際にそこにいるその光景は、すこしばかり不思議なもののように思えた。
 映像の中のアルド氏は脇にたたせているグラハム氏からなにか書面を受け取り、それに一旦目を通すとまた口を開く。

『では、これより私の残した遺言書を私自身の口より読ませていただく』

 またしても会場中が虫の飛ぶ音さえも聞こえてきそうなほどに静まり返る。皆が皆固唾を飲んで映像の行く末を見守っていた。

『まずバーンズロウ鉄鋼、これは我が弟であるガリア=バーンズロウに一任する。委任状も発行しよう』

 会場から拍手が沸き起こる。そしてその拍手の中心にアルドの弟、ガリアがいた。彼は拍手に囲まれる中方方にお辞儀をし、最後にどうやらそのバーンズロウ鉄鋼の重役と思われる男性と握手をした。
 映像はさらに読み上げていく。

 バーンズロウ自動車。これも同じくガリア=バーンズロウ。
 ポケモン食品『シーバス』。 これは末の弟ヨブ=バーンズロウ。
 レストランチェーン『アシュトリカ』。ガリアとヨブの間の妹のオルガ=バーンズロウ。
 電子機械メーカー『B・E・M』。副社長へ委任。
 ポケモンファッション『ネルクラージュ』。従姉妹へ。
 ……
 ……
 
 そうして一社一社読み上げられていくごとに、アルド氏がいかに急速に事業を拡大させ、経済界において彗星のごとくの活躍を見せたかを誰もが讃えざるをえなかった。
 そのようにして彼が直接管理をしていた十社ほどの会社が読み上げられ、そして誰に委任するかを画面の中のアルド氏は宣言すると、そこで一つ息をついた。

『さて、自惚れと捉えてくれて構わないが、これを読み上げていくうちにいかに自分に商才があったか自分で驚いてきたよ』

 そのときのシュナはほとんど映像の内容に興味を示さず、早くこの場が終わってくることを願っていた。自分の父親が映っている映像であるとはいえ、彼女は自分がこれからどうなるのかというその一つのことだけが気になった。

『冗談もこのくらいにして、財産分与について最終事項をこれより発表しよう。すなわちバーンズロウ家個人所有の資金、そしてこの屋敷の主、ならびにバーンズロウ家当主の権限の譲渡についてである』

 だからそのとき、彼女は自分の名前が映像の中に映る父親によって呼ばれることは夢にも思っていなかったし、また最初その名前が聞こえてきたときも、なにかの聞き違いか、もしくは自分と同名の誰かがこの場にいるのかと思うほどだった。

『わが娘、シュナ=バーンズロウにこれらの権限を譲渡することを宣言する』

 会場が三度目の沈黙を迎える。それもこれまでで最も静かでまた長い沈黙である。誰もが動きを止めている。あまりの光景にシュナは一瞬この世の時がカチリと止められたのではないかとの錯覚さえ覚えた。そういえばニホンという国のシンオウとかいう地方に時間をつかさどるポケモンの伝説が存在するなということを、そのときの彼女はあまりにも場違いであさってな思考だと自覚しながらも、そのことを思い出したのであった。
 そしてこの沈黙をあたかもあらかじめ予想していたかのように映像の中のアルド氏はさらに続ける。

『皆も驚いていることだろう。親族のなかには納得のいかない者たちもいることだろう。だが私はこの意志を変えるつもりは毛頭ない。なのでこれより納得の行かないであろう者たちに次のことを宣言する』

 そこにあるアルド氏は一部の者が知るような晩年の狂気に染まった表情をしていた。表情こそ笑っているものの、それによって表れる皺一本一本が己の死への恐怖や不安を皮肉にも克明に映し出していた。口元は笑っているというよりも引きつっているといったほうが正しいかもしれない。ほほの辺りがひくひくと痙攣していた。

『特別条項。もし、何者かによってシュナへの遺産譲渡が妨害されたり……うむ、これは極端な話かもしれないが』

 そこでもったいぶったようにアルド氏は咳払いする。

『それこそ、シュナに何らかの危害が加わったり、死ぬようなことがあれば、個人所有の三百億弗(※)もの資金は基金や恵まれないものたちへの寄付団体などに全額寄付する。またすでにそのように仮定した場合の手続きは済んでいる。ああ、言い忘れていたが最低でも十年はシュナが自らの意志でこれらの財産を放棄することはできない。
 このバーンズロウ家所有の個人資産、屋敷の家主、当主としての権限を委託する委任状ならびに遺言書の全文は何者にも盗られぬよう、この屋敷の地下大金庫に保管する。親族たちには周知のことのように私が造らせたこの地下金庫はセキュリティの塊のようなもので、普通の人間には近寄ることもできん。さらに鍵はこの世で一本しかないし、当然合鍵やコピーも不可能なものだ』

 アルド氏はそこで一息つき、そこで映像の中でのグラハム氏から黒い小さな宝物箱のようなケースを受け取ると、その蓋をぱかりと開ける。中からは金色に輝く一本の鍵が入っていた。一見シンプルな鍵に見えるが、よくみると細かい溝が無数に掘られており、さながら川の流れをあらわしているように複雑な構造を形作っていた。

『これらの特別条項を無効とする条件はただ一つ。遺言書原稿の正式な破棄だが、これより私は先ほど言った委任状と遺言書を大金庫に保管した後、私の手によってこの鍵を隠す。隠し場所は親族、友人たちはもちろんのこと、使用人にも、シュナにさえも教えていない。探しても無駄だ』

 アルド氏は視線を一瞬だけ窓の外へと見やると、蓋を閉め鍵の入った宝物箱を手元に置いた。

『私からは以上だ。諸君も言いたいことがあるだろうが、幸か不幸かこの映像を諸君が見ているときにはもうどうにもならない。会社を委任されたものは責任を持って更なる発展を目指してほしい。名残惜しいが諸君、ありがとう。永遠にさようなら』

 そこで映像は終了した。
 その後の騒ぎは大変なものだった。しばらく沈黙に包まれた会場で誰かが叫ぶように何かを言ってきた。その誰かの叫びで止まっていた時間がようやく動き始めたかのように誰も彼もがたった今映像の中でアルド氏が語ったことについて意見を交わした。
 シュナはまだ白昼夢を見ているかのように呆然とその場に立ち尽くしていた。自分にこのバーンズロウ家所有の個人資産三百億弗もの巨額の大金、そしてバーンズロウ家当主の座が受け渡されたことが、そしてそれが何を意味するのか彼女は理解できず、ただ口をパクパクと動かすばかりであった。

「お嬢様!」

 そんな様子のシュナに侍らせていた女性の使用人が呼びかける。気がつくとシュナは何人もの大人たちに囲まれ、それぞれの口からさまざまな言葉を次から次へとまるで機関銃射撃のように浴びせられた。あるものは、いくら実の娘だからといってなぜこんな小娘に当主の座が引き継がれたのかと嘆く声もあれば、本当はアルド氏の隠した鍵のありかを知っているのだろうと詰め寄るものもいた。それらの声の波に押され、彼女はそんな大人たち一人一人の顔から鬼のような表情を見出してしまう。誰もが今にも彼女を襲ってくるような勢いだ。溺れるものに対して、水が容赦なく口から入り息を詰まらせてしまうのと同じように、彼女は音の洪水の中で溺れ、立て続けに浴びせられる声という名の水によって息が詰まるかのようだった。表情は恐怖という感情がカンストしてしまったかのように不気味なほど無表情。
 さらに親族の反発の声はシュナだけに留まらず、弁護士のグラハム氏にまで向けられる。だがさすがは弁護士をやっているだけあってグラハム氏は何もわからないシュナと違って、一人一人に大人の対応をしていく。彼の言葉によって論破された者はその場をすごすごと立ち去るか、もしくはさらに苛立ちを高めさせてシュナへと突っかかるのだった。
 その後シュナはどのようにしてその騒ぎの中、抜け出すことができたのか覚えていない。話によると使用人たちが次々と詰め寄る大人たちを抑え、侍らせていた女性使用人の手に引かれてなんとか連れ出すことができたとのことだった。


※――この国でのお金の単位は弗(ドル)としている。とはいえ、実際にドル換算はしないので、日本の円と同じように考えてくだされば結構です。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.4 )
日時: 2010/09/14 21:02
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −2−

「なーるほどな。するとあの妙な黒服どもはお前さんの父親の決定に納得していない奴らの手による者どもか」

 二人――正確には一人と一体と言うべきかもしれないが――は半時ほど飛んだのち、通りがかりにあった湖の畔で一旦降り、休憩していた。
 キュロス山麓を初めとするこの地域一帯はまだまだ開発の手が伸びていないらしく、湖の周りは大小様々な木々による深い混交林に覆われていた。正午をとうに過ぎていた太陽は徐々に傾き始めている。しかし空はまだ夜が近づくのを感じさせないほど青く澄んでいた。湖の水はその空の青さをそのまま流し込んだように、これもまた澄み切った青さと対岸の山に生えているたくさんの木々の瑞々しい青葉の色を湛えている。水面は少し風が吹く度に波打ち、水面に移る山体の写し身がゆらゆらと揺れていた。
 少女とカイリューが休んでいたのはその波打ち際から少し離れた草地。
 シュナは風で髪の毛が靡くのを嫌がったためだろうか、背中ほどまで伸ばしている黒髪をゴムで纏めてポニーテールのようにしている。そして草地の中でも比較的地面が乾いていると思われる部分に膝を抱えるようにして座っていた。一方で先程シュナによって新しい名前をもらったばかりのカイリュー、アルスは片手に顔を載せるような体勢で、足を湖に向け、顔をシュナの付近に持ってくるような形で寝そべっていた。
 廃墟をなんとか脱出して追手から逃れた興奮もようやく冷めてきたところになって、シュナは何かアルスに話しかけようと思ったが、どんな言葉で切り出せばいいのか迷っていた。そもそも人語を操ることができるポケモンを彼女は知らない。様々な学者がポケモンは人語をある程度解することが出来るということは知っていたが、このカイリューのように完全に人語を理解するばかりかさも当然のようにしゃべっているという例なんて聞いたことがない。一応ペラップというポケモンが居るが、あれは単に聞こえてきた音を真似ているだけで自分で理解してしゃべっているわけではないはずだ。
 それはそうとしてやはりこれ以上沈黙を続けるわけにはいかない。なにか切りだそうとするが、その切り口をどうにも見いだせなかった。そんなこんなで考えを巡らせているうちに、話の切り口はアルスが「そういやさ、なんでシュナはあの変な奴らに追われてんだ?」と尋ね、どうしようか躊躇しながらも彼女はこれまでの話を語ったのだった。

「しっかし、なんでお前こんな辺鄙なところで一人で来たんだよ?」
「そのことだけどね、三日前に手紙が届いたの」

 彼女はジーンズのポケットからその手紙の実物と二本の鍵束を取り出す。
 一瞬シュナはその内容を聞かせるべきか否か躊躇するが、数秒ほど考えた後それを読み上げた。


    “バーンズロウ家の新しい当主へ
     あなたが自分の身を守りたいと願うのなら、同封している鍵を持ってキュロスの廃墟へ行きなさい”


 極簡単なメッセージだった。手紙というよりもただの伝言といったほうが良いかもしれない。実際それが書かれている用紙は手紙などで使われる便箋というよりも、メモ帳の一頁を切り出したものと言うのが的を射ていた。

「それで、私はあの廃墟に来たの。といっても屋敷の人たちに黙ってこっそりとね。だって私が当主になってから、なんだかいつもなにかしら五月蝿くて、ちょっとそういうのから開放されたいって気分だったの。それが結局、あの怖い人達に機会を与えちゃったんだけどね」

 実際彼女が当主になってからというもの、使用人は毎日のようにシュナに対して彼女が何をするにしても五月蝿く干渉してくるのだった。ちょっと外出するにしても必ず警護のものを付かせなければならなかったし、別の部屋から運びだしたいものがあっても、その場面を見られようものなら「そういうことはわたくしどもにお申し付けください」と釘を刺されるのだった。まるで自分に対して腫れ物に触れるような過剰ともいえる使用人たちの態度にうんざりして、たまには一人で行動したいと思うのも自然の成り行きであろう。
 彼女は一番近くの街の駅から乗ったタクシーで、キュロスの廃墟を指定したとき運転手から妙な目で見られたことを思い出した。まだ十代半ばにも達していないような少女がこんな辺鄙な廃墟へ行くことに対して不思議に思われるのは当然のことだったなと彼女は少し笑みを浮かべる。

「あの人たちに追われている時に、偶然地下階段を見つけてこの鍵を使う扉を見つけたの。その先にいたのがあなただったというわけ」
「そういうわけか。なんとか合点がいったが、誰かわかんねえのか? その手紙送ったやつ」
「うん。最初は父の当主継承の一貫で使用人たちが口裏合わせてるかと思ったんだけど、もし父がそういうことするならそんな回りくどいことするはずないなって思ったの。あんな映像見せて堂々と当主継承を宣言したほどだから」
「うーん、よくわかんねえな。ところでその鍵、大金庫とやらの鍵とは違ったのか?」
「もちろん、試してみたよ。でもやっぱりというか、二本とも違った」

 

 そのときズンッという低く重苦しい音が鳴り渡った。同時に地面が振動する。初め、シュナは地震でも起きたのかと思った。だが、その考えはすぐに破られる。音はズン、ズンと一定のリズムにしたがって起こり、明らかにそれは何か大きな生き物が歩いている音を思わせた。だが、別の音も聞こえてくる。なにか大きなものが這ってくるような、あるいは転がっているような音。どちらの音もとにかく、それは大きく重い何かだということは分かる。
 そしてそれらの音は、明らかにこちらへ向かっていた。だんだんそれが近づいてくる。しかし、二人が座っている草地の周りには深い森が広がっているため、音の正体である者は未だに姿を現さない。
 そのとき何か堅いものが無情に折られるような音が悲鳴のように鳴り渡る。それとともに森の奥のほうで木が何本か倒れ始め、その衝撃で辺りに潜んでいた鳥たちが一斉に飛び立つ。鳥たちは自分たちの住処が荒らされたことによる怒りや悲しみに声をあげながらもその危険な場所から逃げるのだった。

「な、なに?」

 シュナが緊張した声を漏らす。
 そしてついに音の正体が姿を現す。音の種類が二つあったように、その正体もまた二匹のポケモンだった。一体は四本足で象のような長い鼻を持ちながら、頭から背中全体にかけて硬く大きな装甲のようなもの、そして二本の大きな牙を持っている。もう一体はたくさんの岩がつながってそれが蛇のようになっている。繋がっている岩一つ一つが大きく、またそれがゴツゴツと角立っているため、そのポケモンが這った後は浅く溝をほったように地面がえぐれていた。
 シュナはこれらのポケモンを二体とも知っている。四本足の方はドンファン。岩蛇のような方はイワーク。その二体のポケモンは明らかに彼女ら二人を睨んでいる。敵意を持っていると表現した方が正しいようだ。

「二匹ともこんな場所にはいないはずなのに」

 たしかにそうだった。ドンファンにしろイワークにしろこういった緑溢れる水辺で生息するにはあまりに場違いな存在に思われる。

「どうやらシュナの追手が放った奴みたいだな。ちょうどいいや。昔のこと思い出せねえがなんか腕がなまってる気がしてたんだよ」

 横になっていたアルスは二メートルを越す巨体であることを思わせないようにヒョイと立ち上がった。こういうとき人間だったら腕をぐるぐると振り回したり、首や指の骨をパキパキと鳴らしたりするものだが、カイリューの場合はどうやら翼を動かすらしい。翼をいっぱいに広げてわざと飛ばないほどの強さでバサバサと羽ばたかせる。
 台詞自体は余裕に溢れるようなものだったが、表情はきつく緊張させている。その表情からシュナは自ずとその場から一二歩下がる。
 ドンファンもイワークもアルスに負けないほどの大きさの持ち主で、シュナは大丈夫だろうかと心配する。特にイワークは岩タイプの持ち主で岩の属性の攻撃は飛行の属性を持つカイリューにとって不利なもののだと知ってるからだ。

「心配すんな。ちゃっちゃか片付けてやっから」

 アルスは彼女の胸中を察したのかそう言い聞かせた。

「それより、巻き込まれたくなかったら近寄るなよ」

 そして始まる。
 最初に行動を起こしたのはドンファンだった。壊れたチューバのような雄叫びを上げ、前足で大きく地面を踏み鳴らし、後ろ足で強く蹴り、一気に突進してきた。
 アルスは片足を一歩踏み出し、両腕を広げる。そしてシュナはアルスがやろうとしていることを察してさらに波打ち際近くまで下がった。
 爆発にも似た衝撃音とともに二つの影は衝突し土と砂埃が舞った。
 そして晴れる。

「おい、やめとけよ」

 アルスは両手でドンファンの牙を押さえていた。そして両足は大地を強く踏みしめ踏ん張っている。彼には避けるという選択もあった。しかし後ろにシュナがいたためそれをするわけにはいかない。
 ドンファンは自分の得意の攻撃を抑えられたことが意外だったのか、その目に驚愕の色を浮かべている。一方でアルスは自分の目論見通りに運んで思わず顔に笑みを浮かべる。
 しかしこの状況でもまだアルスは不利であった。イワークが行動を始めたのだ。
 イワークはその巨体と体形にも似あわず大きく飛び跳ね、ドンファンを抑えている状況にあるアルスに自身の岩のしっぽを振り下ろす。だがアルスもこの状況を黙って許すはずもなかった。彼はドンファンの牙を離すと弾かれたように跳躍し、ギリギリのところでイワークのしっぽを避ける。
 まるで巨大な太鼓に巨大な撥を振り下ろしたかのような、轟音がとどろき、イワークのしっぽは地面へと叩きつけられた。

「ったく。こいつら聞く耳を持ちゃしない。『アルジノメイレイ サカラエナイ』だとよ」

 アルスはそう吐き捨て、力を込めて地面を勢い良く蹴るとドンファンとイワークへと向かう。
 先程のアルスがイワークを避けたことによって二匹は思わぬ被害を被っていたが、体勢を整えアルスを迎え撃つため構える。
 しかしアルスの方が数瞬早い。
 アルスはいつの間にか右腕になにか青白い光を纏わせ、その腕を大きく振りかぶりながら急速に接近する。そしてターゲットはイワークだった。自分が狙われていることに気づいたイワークはなんとか避けようと体を仰け反らせるが遅い。
 そしてアルスの右手は固く握られて拳となってイワークの体の身中へと叩き込まれる。その衝撃にイワークは白目を向いて吹っ飛ばされる。九メートル近い全長を持つ巨体は大きく弧を描きながら投げ出されていく。そして頭から地面に突っ込み、倒れた。
 その姿はまさしく戦う者。
 心の記憶は失われていても、身体の記憶は今なお彼の中で息づいていた。
 そのときアルスの右手の森の奥から木の枝が激しく折れるバキバキという音が響く。

「あ、危ない!」

 シュナが叫ぶ。いつの間にか姿を消していたドンファンが森の中からその姿を現したのだ。それも体を丸めて猛スピードで転がりながら。その速度は先程の突進の比ではない。シュナの立っている場所からはエアの表情が読み取れないため、彼が何を思っているのか知れない。
 しかし分かることは一つ。彼は避けようとは思っていないことだ。
 時間を数える暇もなくドンファンはアルスへと接近して行く。
 刹那、両者が接触する。
 シュナの耳は雷が落ちたような鳴動で聾した。
 アルスは転がってきたドンファンの鼻の部分に掴みかかり、強引に回転の動きを止めていた。だが勢いまでは殺せずそのまま地面を滑り十メートルほど流された。
 そして止まったとき、アルスは自らの勝利を確信する。

「ワンパターンなんだよ! お前の動きは!」

 だがドンファンもそのままカイリューに行動を許すまいと、自らの牙をアルスの腹めがけて刺しかかる。
 しかしアルスの方はその動きを強引に止めさせる。そして彼は両足を地面に対してガッシリと踏ん張りを駆けるとあろうことかドンファンの巨体を持ち上げた。

「どおおぉぉおりゃあぁアアぁぁァッ!」

 彼はドンファンを宙高く持ち上げるとそのまま後ろにひっくり返るように背中から地面に叩きつける。シュナはその動きにニホンのスポーツである柔道の巴投げを思い出す。とはいえ、あれは相手の攻撃を逆に利用して背中から落とす技らしいが、アルスの動きは自分の力のみで相手を持ち上げそして落としていた。
 地震にも似た振動が鳴り渡る。ドンファンはそのまま目を回して動かなくなった。
 
 シュナは一部始終を目にしていた。
 そして改めて思う。アルスは一体、あのキュロスの廃墟で眠る、あるいは眠らされる前は一体どこでどんなことをやっていたのだろうかと。

 アルスは事が終わったことを悟り、自分の体についた土や砂埃を払う。

「ふー、前のこと憶えてねえけどなんか久しぶりな気がするわ、この感じ」

 そしてシュナはアルスへと駆け寄った。
 
「大丈夫?」
「ああ、ちょっと久々で感覚がわかんなかったけど、平気だよ」

 アルスは笑い顔で答える。確かに先程の戦闘を振り返ると目立った攻撃は受けていなかったと見えるからその言葉に嘘はないようだった。
 思わず安堵の笑みをシュナは返す。しかしシュナは先程から自分が考えていることを彼に問わなければならなかった。

「本当にいいの?」

 シュナは尋ねる。相手の方はいったい何のことかと思いその旨を返す。しかしシュナは一瞬言おうか否かを迷った。数秒ほど間が開いた後、意を決して彼女は自らの思いを伝える。

「あたし、実はあなたを初めて前にしたとき、状況が状況だったからもあるけど、自分のことしか見えてなかった。ただ自分を助けて欲しいというそれだけであなたの封印を解いたの。
 でも、これで分かったでしょう? あたしに関わったらこれからもこんなふうに危ない目に遭うかも知れないよ。今回は楽に倒せたみたいだけど、これからもっと強いのが狙ってくるかも知れない。
 せっかく自由を手にしたんだから、あたしなんかに関わって、これからも危ない目にあって、それで……いいの?」

 彼女はそこまで言うと顔をうつむかせる。確かにキュロスの廃墟やそして今回この湖で戦ってくれたのは正直嬉しいと感じていた。しかしアルスを目覚めさせたのは自分の都合、助けてくれるのも自分の都合。だけどアルスの都合はどうなのか? それがずっと気がかりなことだった。
 アルスはどのくらいあの廃墟で眠っていたのかしれないが、もしアルスにやりたい事があるのなら、その方を優先させようと思っていた。
 と、そのとき視界がにわかに暗くなる。同時に頭の上にアルスの大きな手が置かれるのを感じた。

「なーに言ってんだよ。最初に言っただろうが。お前といると昔のことが思い出せるかも知れないって。お前にはあそこから出した恩も感じてるんだしさ」

 アルスは背中を曲げて自らの目線をシュナの位置まで下げて、彼女の目を見据えながら言った。

「それに記憶がねえ俺にどこに行けってんだ? それこそ無責任じゃねえか。お前には名前までもらってるんだしよ」

 彼は片目をつぶって片手の爪を自分の頭にチョンチョンと当てながら言挙する。
 その動きがどうにも人間臭くて彼女は思わず吹き出した。アルスの様子はとても記憶をなくしている者とは思えないほど揚々としていた。
 そしてさらにアルスは付け加える。

「守ってやるって」

 それは彼がポケモンであるが故なのか、なんの恥らいもなくためらいもなく、まるで極自然であることのように当たり前に言ったのだった。
 シュナは涙こそ出さないものの、目頭が熱くなるのを感じる。久しぶりだったのだ。誰かからここまで親しく振舞われることが。ほとんど自分のことに気をかけなかった父親、自分の存在を疎ましく思う親戚達、話し相手にはなってくれるものの立場の壁を取り払ってくれない使用人たち。バーンズロウ家という立場であるが故、深く関わろうとしない街の人たち。そんな中でどんな考えがあるのかは分からないが、自分のことを『守る』と言ってくれたアルスに。

「ありがとう」

 シュナは微笑みかけて口にした。
 そして涙が出そうになった目頭をなんとか抑える。
 いつの間にかドンファンもイワークもその姿を消していた。どうやら森の奥に潜んでいた追手たちが二人が会話している間に戻したらしい。逃げられたことは惜しいがシュナは構わなかった。

「じゃあ、ちょうどいい準備運動にもなったし、行くか」
「うん、屋敷に戻らないとね」

 そしてシュナは彼の背中へと跨る。アルスは翼を大きく広げると、十歩ほど踏み切りをつけて地面を大きくけった。同時に羽ばたく。あっという間に大地と湖から離れていった。ぐんぐん上昇していって程良い高さまで到達すると、その高さを維持して飛行する。
 西の方角に目を向けると太陽がもう赤く染まりかけているのが見えた。今日中に屋敷に帰るのは無理かもしれないなと思った。そして次に東の空へと目をやる。西の空の赤さとは対照的にもう夜の到来を予感させるような紺色に染まりつつあった。空気を打つ風の音がゴオゴオと鳴り、太陽に暖められていた森の香りが鼻をくすぐる。
 音と香りは夕暮れの大気に漂う。この上なく安らかに。
 もう少し時間が経てば一番星が見えるかもしれない。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.5 )
日時: 2010/09/14 21:04
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 第三章「シュナ=バーンズロウ」

 −1−

 屋敷に着いたころにはもう日は完全にその姿の名残さえも残しておらず、空には悠久なる真っ暗な闇が広がり星星がまるで散りばめた宝石のようにチラチラと輝いていた。
 バーンズロウ家の邸宅はフィッツシティという街にあり、市街から少し離れた郊外に建っている。もともと別の土地にあった屋敷をアルドがこの地に移したとシュナは聞いていた。もともとの土地は交通の便の悪さなどの理由でこの地に移したらしい。
 トルバから隣町へと続く幹線道路から側道が伸びており、その道を少し入ったところに屋敷はある。敷地全体を三メートルほどの高さの鉄柵で囲み、その鉄柵の内では大きく分けて二つのエリアに分けられている。
 一つは屋敷の建物そのもので、敷地の半分を占めている。この建物は有名な建築家に依頼したもので基本的な材料に赤レンガを使用したものという、時代に逆行したようなものだったが、むしろそのような要素がこの屋敷が大富豪バーンズロウ家の邸宅であるという貫禄を演出していた。門をくぐった正面から眺めるとちょうど左右対称なるよう設計され、中央に正面扉、その真上に当主の間のある白い柵のあるバルコニーが配置されていた。そこを中心として建物は左右に広がり、それぞれの区画に山高帽のような三角屋根があった。
 そしてもう一つのエリアはその屋敷の前に広がり、門をくぐった者を最初にお出迎えする庭園だった。庭園はそこにある花で道を作っているかのようにきっちりと生育され、バーンズロウ家を訪れる客人たちはまずこの庭園に驚かされるのだ。植えられている花は様々で庭園のそれぞれの区画にそれぞれ四季ごとの花を植えているため、基本的に庭園は年中なにかしらの花が咲いているようにされている。
 春である今の季節にはチューリップやマリーゴールドなどが占めている。
 シュナは今が夜であることをほんの少しだけ残念に思った。空からのこの庭園を見下ろせばきっと色とりどりな花がまるで種々の刺繍を施してある絨毯のように見えただろうと思ったからだ。
 アルスは大きな翼を前に寄せるように羽ばたかせ空中でとまると、そのままゆっくりと真下に降下していった。そして降り立ったは庭園の中央の十字路。正面から見渡す屋敷は灯りが全て消えていた。使用人を除けばここで今現在住んでいるのはシュナだけだから当然でなことであった。とはいえ、やはりシュナは何か物足りなさを感じずにはいられない。
 
「へえ、こんなところに住んでんだな」

 まずはアルスがそう漏らす。ポケモンであるがゆえかこのような豪邸を前にしても反応は薄い。

「うん。あ、そうだ。ちょっといいかな」

 シュナは屋敷の扉へと近づこうとして気づく。

「なんだ?」
「その、使用人たちが驚くといけないからアルスはあとから入ってきてほしいの。あたしが合図するまで外で待っててくれないかな?」
「めんどくせえな」
 
 そう言いながらもアルスはしぶしぶと承諾する。
 シュナは屋敷の正面玄関へと歩いた。途中なにか忘れているような、という思いが走ったがすぐにそれは消える。
 今が夜であることを少し残念に思った。日のあるうちならアルスにこの庭園を見せることが出来るからだ。今も見えないわけではないがやはり暗い内より明るい時に見た方が断然いい。この屋敷に住み始めてあまりいい思いはなかったがこの庭園だけは素直に気に入っていたのだ。
 二人は屋敷の大扉の前へと立った。そして傍らにあるインターホンにシュナは手を伸ばした。屋敷では扉の鍵は全て内で管理されており、門限を過ぎると全ての扉および窓が施錠され家の者であろうと外へと締め出されることになっているからだ。
 そしてシュナはインターホンのボタンを押し込む。チャイムのような音が鳴る。
 数秒ほどしてインターホンが繋がり、女性の声が聞こえた。

『――どなたでしょうか?』
「私よ。今帰りました」

 途端にスピーカーの向こうから何かをひっくり返すような音が鳴り響き、同時に接続が切れる。
 そして十数秒ほどして扉の向こうからもドタドタと物音が近づいてきた。そして正面扉が勢い良く開かれた。

「お嬢様! どこへ行っておられたのですか!?」

 そこにはシュナと同年程度かあるいは少し年上ほどに見える女が立っていた。明らかに使用人と思われるメイド姿をしていた。黒く足首ほどまで丈があり袖の長いドレスに白いエプロンを付けている。背丈はシュナより少し高い程度で栗色の髪を後ろで団子のように纏めていた。
 女は狼狽した面持ちでシュナを見る。

「ただいま。ソフィア」

 シュナははぐらかすような笑いを浮かべて彼女の名を言った。

「ただいまじゃないですよ。護衛もつけないで黙って三日も留守にするなんて。私たちがどれほどお嬢様を心配したか分かってたんですか?」

 ソフィアと呼ばれた使用人は今にも泣き出さんとする勢いだ。
 このソフィアはシュナがこの家に来る少し前にアルドが雇った使用人で、歳が近いということでシュナが気軽に接することのできる数少ない使用人の一人だった。アルドが死後自分の遺言を発表したあの日にシュナが侍らせていた使用人も彼女だった。
 それから、まだソフィアがシュナにぼやいているところに別の使用人が来た。ソフィアと同じく女性だが、こちらは初老で髪の毛には黒いものよりも白いもののほうがもはや多かった。服もソフィアのそれと同じなのだがやはりだいぶ年季が入っており、くたびれながらも経験の深さを匂わせていた。

「ソフィア。行儀がなっておりませんよ。いくらお嬢様の御身を案じていたとはいえ、それ以上の言葉は慎みなさい」

 そういわれるとソフィアもまだまだ言いたい事はあったが、そこでようやく自分の行為の無礼に気づき、言葉に詰まって黙って引き下がった。口調こそ穏やかであれ、やはり長年の経験からか老女の使用人の言葉には思わず言うとおりにせずにはいられない重みが含まれていた。そしてその穏やかな叱責の矛先はシュナにも向かう。

「お帰りなさいませお嬢様」
「ただいまナタリーさん。黙って出かけてごめんなさい」
「お嬢様。使用人の身であることを、そして無礼を深く承知の上で申し上げます。ソフィアにはああ言いましたが、今やお嬢様の御身はお嬢様一人だけのものではないと自覚していただかないと」

 シュナは黙ってナタリーの言葉を呑む。今やバーンズロウ家の当主という身である彼女は継承する以前以上に使用人たちの目が厳しくなっていた。使用人たちは本来ならシュナのことは「お館様」もしくは「当主様」と呼ばなければならない。しかしシュナがどうしてもその呼び方を嫌がり彼女がなんとか今までの呼び方にするよう説き伏せたのだ。もっとも本当なら「お嬢様」という呼称さえできれば止めてほしかったのだが、それ以上を求めるのは使用人たちには逆に酷だということも分かっていた。
 ナタリーの話によると今晩の屋敷への宿直は彼女とソフィアの二人だけらしい。

「ごめん。今日はもう休ませてくれないかな。ちょっと疲れちゃって」

 留守している間どうしていたのかと使用人が問いただしてきそうな雰囲気を感じてシュナはそう言った。実際キュロスの廃墟を訪れて以降さまざまなことが起こりすぎていたので少々精神的に参っていたのだ。そして外にはまだアルスを待たせているからあんまり時間をとるのも悪いと思った。
 そして彼女は自分の部屋へと向かう。本来なら彼女の部屋はアルドが生前使っていた当主の間となるはずなのだが、未だにこの屋敷に来たときに与えられた部屋を使っていた。玄関ホールの中央に階段があり、そこから中二階へ昇ると二手に回廊が分かれ、左に折れた方の奥へと行くとシュナの部屋へと当たる。

「今お開けします」

 連れていたソフィアがすかさず鍵を開ける。それから彼女はそのまま鍵をシュナへと渡すと一礼して引き下がった。

「出かけてたときの話、聞かせてくださいね」

 ソフィアは無邪気に笑いを浮かべて言いながら立ち去った。シュナとソフィアの関係は先述したように、主と使用人というよりも友人同士のそれに近い。屋敷での生活が退屈なシュナはよくソフィアを自分の部屋に呼び寄せてあれこれ他愛のない話を楽しんでいる。シュナの田舎に住んでいたころの暮らしや今の生活での不満に対する愚痴。そしてこれからの生活への不安。とても他の使用人には話せないようなことをあれやこれやと打ち明けた。そのたびにソフィアはまるでシュナの話を糧にしているかのように興味深げに相槌を打ちながら聞くのだった。
 しかしながら、今回ばかりはソフィアを部屋に通すわけにはいかない。
 シュナは部屋へ入り、荷物を机に置くとすぐにバルコニーに向かった。当主の間にあるそれと比べると小ぢんまりとしたものだが、窓の大きさはなんとかアルスのような巨体でも入れるほどのものだった。バルコニーに出るとまずは外に使用人の二人がいないことを確認する。隈なく目を配って誰もいないことを確認すると一旦部屋の中に戻った。そして部屋の明かりを二三度、点灯と消灯を繰り返した。それが合図だった。合図であると同時に自分の部屋はここだと教える目印も兼ねた。
 そして数秒の後に部屋の中に翼を羽ばたかせる音が入ってきた。同時に俄(にわ)かに風が吹き込む。出かける前に机の上におきっぱなしていた本が、見えざる手によってパラパラとページがめくられる。気がづくとバルコニーの上にすでにアルスが立っていた。一瞬シュナは彼の重みでバルコニーが壊れやしないかと思ったが、壊れるどころかきしむ音ひとつ立てていない。

「ごめんね待たせて」
「ああ、そんなことねえよ」

 アルスはそう口にしながら片手で首の後ろあたりを掻いた。
 それからシュナは彼を中へと入れたが、窓から入るときは若干つかえて、特に翼が大きいだけに入りにくそうにしていた。
 その様子が可笑しくてシュナは少しだけ笑ってしまった。
 部屋は天井の高さはさすがにカイリューにとっては低そうであったが、広さは十分にある。シュナはとりあえず彼を何も家具類を置いていない壁際に座ってもらった。
 
「にしても、デカイ所に住んでるんだな」

 アルスは自分が入っても尚余裕のある広いこの部屋をぐるりと見回す。「豪華」だとか「派手」だという言葉を使わず「デカイ」という大きさにだけ関心がいくのはいかにもポケモンらしい。さすがに人を乗せての長時間の飛行、それも久しぶりの飛行に疲れたのか、声にはため息が混じっていた。
 しかし奇妙なことにシュナからのそれに対する返答には少しばかりの間があった。何かを言おうとしているのだが渋っているようにも見える。その気持ちが動きに表れるのか彼女は目をまるで拳を握り締めるように瞑っている。しかし自分の中で何かを決めるようにうっすらとまぶたを開くと、ポツリと口を開いた。

「本当はこんな屋敷住みたくなかったの」
「あん? どういうことだ」
「少し長くなるよ」
「どうせ暇つぶしついでだ。聞いてやるよ」
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.6 )
日時: 2010/09/14 21:05
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −2−

 あたしね。つい半年くらい前までこの家の子供だってこと知らなかったの。住んでいたのもこことは全然別の場所で、北のほうにあるジェラルドタウンって村。ときどき暴走族がやってきて迷惑することもあるけど、基本的には静かな村。もともとはそこでおばあちゃんと二人で暮らしてたの。母さんは私の物心つく前に亡くなったらしくて、顔も写真でしか見たことないんだ。
 本当に静かな村でね。ときどき人里までポケモンが悪戯にくるくらい。

 それで、ほんの半年まで両親のことをろくに知らずにその村で暮らしてたんだけど。その半年前に……父さんというべきなのかな? アルドって人が訪ねてきて、あたしを引き取りにきたって。うん、驚いたってもんじゃなかったなあ。突然家に押しかけてきた見知らぬ人間が自分の父親だったなんて。おばあちゃんのあのときの顔、忘れられない。何かの間違いかも知れないっておばあちゃんの顔見るんだけど、なんだか悲しんでいるような、諦めているような、とにかく『ああ、ついに来たんだな』って顔をしてた。たぶんおばあちゃんも知ってたんだと思う。あたしがそのアルドって人の子供だったってこと。

 あの人ときたら、あたしがどういうことか説明を求めたって何も答えない。なにか言うとしても「お前は私の娘だったのだ。それ以外に何か説明が必要か」ってだけ。それならどうして今まで迎えにこなかったのかとか、どうして母さんと一緒に暮らさなかったのかとかいろいろ聞きたいことはあったけど、そのとき見せたあの人の目がまるで悪魔のようにギロリと光ったからあたしはそれ以上は聞けなかった。
 それからあの人はおばあちゃんと何か二人きりで話すことがあったらしくて、あたしを家の外で待たせた。すぐに終わったみたいだけどね。そしてあたしはこの家に来た。

 今までテレビでしか見たこと無いような大きなお屋敷だったから、うーん正直言うと少しだけわくわくしたかな? でもやっぱり不安でしょうがなかったわ。まるで方向の分からない深い森に迷い込んじゃった気分だった。周りに自分が知ってる人も自分のことを知る人もいない。慣れない行儀作法は厳しくしつけられるし、家庭教師はつけられるしでうんざりだった。
 でもどうしてかここから逃げ出したいってき分にだけはなれなかった。なぜなのかはうまく言えないんだけど、あの人があの時見せたあの悪魔のような燃えさかる鋭い目をもう見たくなかったからかも知れない。
 あたし、正直に言うとあの人……父を恨んでる。母さんをとっくの昔に見捨てたくせに今になって娘のあたしを引きとって。挙句の果てにこの家のくだらない家督と一緒に親戚たちからの恨みを私に全部押し付けて、自分は先に死んじゃうなんて。

 あんな遺書を残したせいで、あたしはますますこの家を離れられなくなっちゃうし、おまけに叔父や叔母からは狙われるし。
 この屋敷に来て嫌なことばかりってわけでもないけど、でもやっぱり元の暮らしに戻りたいよ。


 *


「ごめん。やっぱ退屈だったでしょ」

 シュナは一息ついた。部屋の中に冷たい風が入ってきた。やはり春とはいえ夜はまだ冷えるのか、シュナは座っていたベッドから立ち上がり、今まで開けっ放しにしていた窓を閉じた。
 そして後ろを振り返るとちょうどアルスが大きくあくびをしているところだった。さすがにカイリューのあくびとあって人間のそれに比べると豪快なものだ。大きく開かれた口は大人の人間の頭が丸々入ってしまいそうで、その中には白くて鋭利な牙が光っているのが見える。こうしてみるとやはりアルスはポケモンなんだって改めて認識できる。ポケモンでありながらなぜか人間の言葉をしゃべることができるこのカイリューに時々シュナは彼が人間であるのかポケモンであるのかわからなくなるような不思議な感覚が走った。

「わりぃな、正直少し退屈だったがちゃんと聞いてたつもりだよ」

 そう言ってるそばからまたひとつあくびを見せた。今日の昼ごろにキュロスの廃墟地下から目覚めてその後いろいろとあったから、急な運動で疲れたのだろうか。アルスは壁にもたれ掛かって少しばかりまどろむような表情を見せた。

「人間って変なもんだな。こんなデカイ家があるってのにわざわざそれを嫌がるってのか?」
「うーん。確かに今の暮らしは悪くはないわよ。朝早くから料理人さんが出勤してきておいしい料理を作ってくれるし、欲しいものは何でも手に入る。使用人のみんなは厳しいところもあるけどあたしのことを本当に大切にしてくれる」

 シュナは一旦そこで言葉を切った。自分の中で言葉を選んでいるのか、それとも自分が言わんとしていることを言うべきが迷っているのか、眉間に少しだけ皺を寄せて考える素振りを見せた。すぐにそれは終り、下唇をグッと上顎で噛むとまた話し始める。声はあとの方になるに連れて次第に速さを増し、同時に熱がこもっていった。

「でもねなんだか怖いのよ。恐ろしいの。これから先の人生、あの人が無理矢理用意したレールの上を私は走り続けなきゃいけない、決して自分の意志で止まったり、それこそ横道にそれることも出来ないって思うと。私まだこの家に来て半年くらいしか経ってないけど、このバーンズロウ家がどんなしがらみに取り憑かれた家かは嫌でも理解した。きっとこれから先私がどう行動しようとバーンズロウ家の当主という肩書があたしに、まるで足枷のように付いて回るわ。いろんな人が敵に回る。ううん、実際もう敵が現れてしまったのは明白。それらの負荷をずっと背負い続けなきゃいけないって思うと……怖くてたまらないの……
 なんで? どうしてあたしが……」

 彼女はまるでダムが過剰に溜まった水を放水するかのように一気に捲し立てた。
 シュナは今十四歳だ。十四歳といったらこれから大人になるまでたくさんの可能性が満ち溢れている。やろうと思えばどんな人生だろうと歩んでいける。世間の同い年の女の子と同じように恋を憶えてもおかしくないし、自分の将来に付いて様々と思いを巡らせるのも十分すぎるほど許される年頃だ。ジェラルドタウンにいた頃は人並みに友人だって居た。だがそれらの可能性、夢、友人たちは彼女の実の父によって半ば奪われてしまったのだ。いくらシュナの父がアルド氏でこうなることは決まっていたとはしても、それまで何も知らされず教えられてこなかった彼女にとっては理不尽この上ない仕打ちであるに違いなかった。
 それらの言葉をカイリューである、ポケモンであるアルスがどこまで理解したのかは知れない。
 アルスはそこで彼女の言いたいことが終わったと見ると、何かを言わんと口を開きかけたが、何を言えばいいのか彼の中でもまだ整理がついていないようだった。

「ああ、なんっつーか。俺は人間じゃないから正直どうお前に言葉かけていいのか分からねえ。だけどよ……」

 そこでアルスはなんだか困ったように言葉を詰まらせた。最初は何か照れくさいことでも言おうとしているのかとシュナは思ったが、よく観察してみるとこれから言う言葉が照れくさくて詰まっていると言うよりも、どう言えばいいのかの表現が見つからなくて困っているような感じだ。

「ああクソッ。とりあえずその表情やめろよ!」

 アルスはキッとシュナを射ぬくように見据えて片腕をまっすぐ彼女の方に指した。
 思いがけぬ激しい口調だったため、彼女は一瞬どきりと衝撃を受けた。

「いいか。お前ここに戻ってからシケた面ばっか見せやがって、もうちょっとマシな顔出来ねえのか?」
「マシな顔……?」
「そうだ。ええっとつまりだな……」

 そのときシュナはアルスの伝えようとしていることがピンと来て彼の求めてる表情を作った。

「こうでいいのかな?」

 いつもなら自然にその顔を出せるのに、今回に限って妙にぎこちなくなってしまう。笑顔をつくるというのは当たり前にできるようで当たり前にできない。まるで普段当たり前のように呼吸しているのに、一度呼吸のやり方を意識すると妙に気になってそれが何故か続いてしまうかのようだ。
 だがこの時に限ってはこれで十分のようだった。

「そうだ。そんなふうに笑っていろよ」

 そのときだった。アルスは自分の記憶の奥底に一瞬光のようなものが過ぎった気がした。自分があの廃墟の地下で眠りに付く前の記憶。あの廃墟で初めてシュナに会ったときに勘違いした記憶の中の誰か。その誰かの表情とシュナの表情が一瞬一致したのだ。そのときの感覚はまるで粘土の上に立っているかのように不安定で視界が刹那ぐにゃりと歪んだ。だがその感覚はほんの一瞬にして過ぎ去り、それが自分の動きに出る前に消え去った。だからシュナは気づかない。アルスが自分の表情によって記憶の中の何かを見出しかけたことに。
 同時にアルスは確信した。シュナは間違いなく自分の失われた記憶についての鍵を持っているのだと。
 一方でシュナの方はまたやってしまったと自省していた。

「ごめんね」
「あん?」
「記憶がなくなってるアルスは、自分が誰なのか知ることの方が大切だというのに、あたしったら勝手に……」
「よせよせ。さっきも言ったじゃねえか。暇つぶしついでだって」

 そしてアルスは大儀そうにゆっくりと立ち上がった。

「どうしたの?」
「あん? お前のマシな顔も見られたことだし、今日はもう寝るよ」

 そう言うと彼は窓のほうへとのそのそと歩いていった。尻尾が右左に揺れて机のそばにおいてあったくずかごにぶつけて倒してしまった。このまま窓を突き破ってしまうんじゃないかとあわててシュナはアルスより先に窓へと向かいいっぱいにまで開いた。

「どこに?」
「そこらへんで寝床探す。ここはちょっと狭い」

 彼はぶっきらぼうに返し、バルコニーに立つと両翼をいっぱいに広げる。そして何度かの羽ばたきの後、浮き上がった。

「ちょっと!」

 あまりに唐突なカイリューの行動に思わず彼女は声を上げる。空中で羽ばたきながらシュナのほうへと見返すアルスの表情はどうやら本格的に眠気を感じてるようだ。

「あんまり人前には姿を見せちゃだめよ。特にポケモンを連れてる人間には」

 一瞬、アルスはどういう意味なのかわかりかねた様子だったが、すぐに言葉の意図に気づき「分かった」と返した。
 そして彼は飛び上がりすぐに真っ暗な闇の支配する夜の空気の中へと消えていった。
 彼が見えなくなるのを見届けてから彼女は一息ため息をつくと、部屋へと戻り肌寒い空気が入り込んでいく窓を閉め鍵をかけた。そのときちょうど見計らったように部屋の扉からノックの音が彼女の耳へと届いた。
 扉を開けるとソフィアが立っており、水差しとグラスをワゴンの上に載せて持ってきていた。

「お水お持ちしました」

 ソフィアは何かに期待しているように無邪気に笑っていた。そして水差しとグラスをワゴンごと部屋の中へと入れた。そして机のそばまで持ってくるとそのまま出て行こうとした。すると突然ソフィアは小さな悲鳴を上げてその場で転んだ。慌ててシュナも彼女の元に駆け寄る。見るとソフィアの足元にはさきほどアルスが倒していったくずかごが転がっていた。アルスが飛び去ってからすぐにソフィアが来たために片付けるのを忘れていた上、ソフィアの方もワゴンを転がしていたため倒れたくずかごに気づかなかったのだ。

「いけませんよお嬢様。私だったから良かったものの、ナタリーさんやグラマーさんだったらカンカンでしたよ」
「ああ、ごめん。うっかりしてて」

 シュナは適当にごまかしながら内心どぎまぎしていた。ソフィアが来たのがアルスが去ってからで本当に良かったと痛切に感じた。

「ねえ、ソフィア。さっき言ってたのはまた今度にしてくれない? ちょっと今日はいろいろありすぎちゃって本当に疲れちゃったの」

 シュナはひとつには本当に疲れていたのもあるが、もうひとつにしばらく一人で考えたいことがあったのだ。ソフィアにはいずれ話すことになるとは思うが、今日はあまりにいろいろな事が起こりすぎて頭の中が混乱している上に、もし話すなら思い切ってアルスも居た方が話しやすいと思ったのだ。これまでソフィアにシュナはさまざまな打ち明け話もしていたし、それと同じように彼女のことも自分のことを開けっぴろげに話してもらっていたが今回のことほど話しにくいことはなかった。

「分かりました。今日はナタリーさんと一緒に宿直していますから何かあったら呼んでくださいね」

 ソフィアは部屋から出て両手を前に揃えて使用人特有の深々とした礼を見せ、「おやすみなさいませ」と夜の挨拶を終えるとなるべく音のたたないように丁寧に戸を閉めた。
 あとに残されたシュナは机の椅子に座ってひとつため息をつくと窓の外を見やった。いったいアルスはどこまで寝床を探しに行ったんだろう。そういえば明日はいつごろ来てくれるのだろうか。誰かが見ている前で来られたらちょっと困るかもしれない。そんなことが水泡のように浮かんでは消えた。
 それから彼女はシャワーを浴び、寝巻きに着替え歯磨きを終える。そのままシュナは洗面台の鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。

「マシな顔……ね」

 そして彼女は両手で無理矢理顔の口角を上げてみせた。まるでサーカスのクラウンのような不自然な笑顔が鏡に映った。

「なにやってんだろ、私……」

 シュナは洗面台をあとにし、部屋に戻るとソフィアの持ってきてくれた水差しの水をグラスに注いで一気に飲み干した。
 明かりを消して彼女はベッドに横になり布団をかぶった。
 だが、今日一日の体験でびっくりしていた心をは彼女をすぐに眠りの世界へ向かわせることを許さない。

 誰も居なくなった部屋、明かりのない暗くなった部屋。こういう静かな空気の中でよく彼女は自分の考えをめぐらせることがあった。そして今回もまた例外ではない。シュナは改めて今日一日自分の身に降りかかった出来事について思いを泳がせる。
 その主な対象はやはりあのカイリュー、自分がアルスと名づけたポケモンについてだった。

 アルスはいつからあそこに居たのか。あの地下で眠らされる前はいったいどこで何をしていたのか。どうして人間の言葉をしゃべることができるのか。なぜ記憶を失っているのか。アルスを封印していたアンノーンたちはなんだったのか。次々と川の水が決して途切れずに流れていくように次から次へとそのような疑問が浮かび上がる。しかしそのような考えも些細なことと呼べてしまうほどの疑問が彼女の中にあった。それは彼が初めて会ったときから無意識ながら感じていたものだが、あの湖のほとりでの出来事の後にその疑問はさらに顕著なものとなった。
 この疑問を彼女はアルス自身に問いかけてみようかと考えてはいたが、なぜかその言葉が出てこない。結局今日はそのことを話せずに彼はどこかへと寝床を探しに行ってしまった。明日あたりに尋ねてみようかと思ったところでようやく眠気という名の門が開き、彼女を深い眠りの世界へと誘った。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.7 )
日時: 2010/09/14 21:06
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 第四章「最初に思い出したこと」

 −1−

 翌朝、シュナは誰かに呼ばれるような錯覚を感じながら目を覚ました。夢と現実のまどろみの中をうとうととしながら机の上の置き時計に目をやる。午前七時を回っていた。体を起こして大きく伸びをするとベッドから降り、まずは寝間着から着替えた。そして窓のカーテンをサッと開ける。春らしい柔らかで暖かな朝日が部屋へと差し込んできた。そして鍵を開けて窓を開けた。蝶番の軋む音が響き、風が舞い込んできた。そして目に飛び込んでくるは屋敷の広大な花の庭園だった。
 この花々の繚乱する庭園は彼女がこの屋敷に来て気に入った数少ないものの一つだ。バーンズロウ家敷地の正面入口から屋敷の正面玄関までまっすぐに一本の道が通っており、入り口と玄関のちょうど真ん中あたりは十字路になっている。庭園のさらに奥に入っていけるように別の道が敷いてあるのだ。

「よう起きたか」

 その声とともに不意に視界が遮られたと思うと、逆さまになっているアルスの顔が視界に映った。思わず口から飛び出すワケの分からない叫び声。そして思わず彼女は後退り、そして今度はアルスの目の前からシュナの姿が消えた。見るとバルコニーと部屋の間の窓の敷居の部分に足をひっかけて後ろ向きに転んでいた。

「なにやってんだお前?」
「こっちの台詞よ!」

 シュナは思いっきり打ってしまった背中のあたりをさすりながら立ち上がった。おかげでまだ少しまどろみの残っていた目がバッチリ過ぎるほど覚めてしまった。そして改めて見てみると、アルスは窓の上の三角屋根の部分に乗っかりそこから覗き込むような形で頭を下げている。

「いつからそこにいたのよ」
「さっき来たばかりだ。言われた通り誰にも見られないようにしたつもりだ」
「そう、ならいいけど」

 シュナは未だ内心どぎまぎしていた。このカイリューがいきなり屋根の上から現れたことで、もしかして夜の間ずっとそこに居たのではないかと思ってしまったからだ。この屋敷は主に使用人だが早朝から人の出入りが激しい。ひとまずアルスの存在をしばらく隠しておこうと思ったシュナとしてはいきなり誰かに見られるということはどうしても避けたかった。
 とりあえずシュナはアルスを部屋に招き入れた。これから使用人が庭園の朝の手入れをする時間だ。このまま屋根の上に居座られて誰かに見られてもまずいと思ったためだ。相変わらずこの窓からのアルスの出入は狭そうだ。いつか窓の戸を壊してしまうんじゃないかと少しだけ心配してしまう。
 アルスは入るととりあえず身の置き場として昨晩座っていた場所に再び腰掛けた。傍らには夜の去り際に倒してしまったくずかごがちゃんと立て直されて置かれている。

「昨日はどこで寝てたの?」
「んあ、そこらへんの山ん中のちょうど良さそうな木の根元で寝たよ。人間はああいう所では寝ないのか?」
「うーん人間としてはやっぱりこういった屋根や壁に囲まれた場所がいいんじゃないかしら?」
「へえ……」

 アルスの返事は実に素っ気ない。自分から訊いたもののあまり興味がないといった風でもあった。それよりなにか別のことを考えているようにも見えた。なにか考えを整理しているというのか、アルスの目はどこか遠くを見つめているようにぼんやりとしていた。

「どうしたの?」

 シュナがそんなアルスの様子に気づき、話しかける。

「あっ? いやなんでもねえ」

 実にわかりやすいような反応を見せたが、シュナもシュナで彼に訊いておきたい疑問が一つあったので、とりあえず今は置いておくことにした。

「ねえアルス、一つ訊いてもいいかな?」
「なんだ?」
「アルスって……」

 そのときまずい事態が二人に降りかかった。部屋の扉からノックする音が聞こえてきたのだ。その音を聞いたシュナはまるでそのノック音が自分の心臓を直接叩いているかのように驚いた。瞬間シュナはアルスを部屋に入れてしまったことを後悔する。 誰が来たのかは明白だ。ソフィアだ。ソフィアがシフトに入っている日は朝は必ず朝の挨拶を兼ねて、その前の晩に持ってきた水差しの回収に来るのだ。

「おはようございますお嬢様」

 ドア越しにやはりソフィアの声が聞こえてきた。シュナは無意識の内に「おはよう」と返す。声が少し震えていたような気がする。返事をせずに眠った振りをするのも考えたが、いつもシュナはこの時間には起きるため妙な不自然さを感じさせるのもまずい。とりあえずシュナはアルスに立つよう促す。だが窓の外にやろうにも窓はこういう事態に限って閉めてしまっていた。それにこの時間にはもう使用人の誰かが庭園の手入れを始めている。外にだすのはどっちにしろ駄目だ。となると……
 彼女は部屋を見回す。そして一つのものに焦点が合わさった。

「ソフィア、ごめん今着替えてる途中だから少しだけ待って!」
「そうですか。では終わったら呼んでくださいね」 

 とりあえずこれで少しだけ時間をかせぐことが出来る。いつもソフィアが挨拶に来るときは部屋を開けるので今追い返すのもまずいと考えた。
 そしてシュナは焦点のあったそれに向かう。そしてぐっとそれの戸を開いた。そこはクローゼットだった。この屋敷のクローゼットは天井ほどまである高さとかなりの広さがあった。その広さはほとんど小さな部屋と言ってもおかしくないほどのものだ。あんまり広いスペースのためシュナはそのクローゼットの半分ほどしか使えていなかったが、それでも屋敷に来た当初よりはずっと増えている。主な理由はシュナの家庭教師を勤めるアーノルドという女性がバーンズロウ家の令嬢にふさわしい衣服をと次々と買い与えた結果だった。
 シュナはクローゼットの中に吊り下がっている衣服を全て端に寄せた。狭いだろうがとりあえずカイリュー一体がなんとか縮こまれば入るスペースは確保出来た。

「ごめんね。狭いだろうけどここで大人しくしてて」

 シュナは詫びるように手をあわせてからいそいそとアルスをクローゼットの中に促した。アルスはというと何がなにやら分からぬまま振り回されるようにクローゼットの中へと入った。途端にまずホコリっぽさが気になった。

「おい、ちょっと狭ッ……!」

 言いかけたところでシュナによって戸が閉められる。誰かに見られてはいけない理由はアルスのほうもなんとなく理解しているため、仕方ないと分かっているがちょっと理不尽ではないかと感じた。部屋の様子はクローゼットの戸についている斜めに切り込まれている空気穴から狭いながらも伺うことが出来た。勝手だなとアルスは内心ぼやきながらとりあえず楽な体勢でなんとか座るようにした。

「ごめーん待たせて」

 無駄に勢い良くシュナは部屋の扉を開けた。そこには昨晩水を持ってきたときと同じようにソフィアが両手を前に揃えて立っている。さすがに部屋を出るときの態度が不自然だったのか、妙に訝しげな目で見られているような気がした。

「おはようございます。お水差しの方回収に伺いました」

 できる事ならシュナは自分からワゴンを持ってきて部屋の入口で渡したかったが、そうするとやはりかえって不自然だろう。なるべく自然を装ってシュナはソフィアを部屋の中に入れた。ソフィアがクローゼットの横を通り過ぎるときは内心どぎまぎしたが、どうやら何も気づかなかったように通り過ぎてくれて、シュナは悟られない程度にため息をついた。ソフィアは使用人たちの中で最年少ということでまだどこか抜けている様子があったが、時に勘が鋭くなるときがある。いつかソフィアを部屋に招き入れて一緒に推理もののドラマを見ていたときに、劇中の探偵が犯人を突き止めるよりもずっと前に犯人を自分で推理してトリックまで言い当てたことが幾度もあった。口では柔らかに「教えてくださいね」と言っていたが、シュナが留守のあいだ何をしていたのかソフィアは内心誰よりも気になっているに違いなかった。
 ソフィアにはいずれアルスのことも留守中に起こったことも話そうと思っていが、今はなぜだか時期尚早に思えたためのこの行動だった。それに朝は慌ただしいのであんまりソフィアを捕まえていては他の使用人の迷惑がかかる。だからもう少しだけ時間を置いてから話すつもりでいた。まさかいくらソフィアの勘が鋭いとはいえ、今現在クローゼットの中にカイリューが入っているなんて夢にも思っていないだろう。
 とりあえずのところ、今はこのまま誤魔化せそうとホッと気が抜きかけているところ、いつのまにか視界からソフィアの姿が消え、今まさに彼女が持って出ようとしていたワゴンがその場にポッツりと放置されていた。

「え?」

 見るとソフィアはなにやら床板のある一部分に手を当てている。その場所を見てシュナはギクリとまるで胃袋に重い石がどすんと落ちてきたような感触を覚えた。そこはついさっきまでアルスが座っていた場所だった。そしてその場所にソフィアは手を当ててなにやら難しい顔をしている。

「どうしたの?」

 シュナはできるだけ平静を装ったように話しかけたつもりだが、その声は自分で聞いてもなにやら裏返っているようにしか聞こえなかった。そしてソフィアは立ち上がってまっすぐシュナに視線を注いで、それから無邪気そうににこりと笑った。

「お嬢様、どなたかいらっしゃってるんですか?」

 半ば予想していた言葉とはいえ、実際に言われると改めて驚きまるで心臓に矢を刺されたような感覚が走り全身へとそれが渡る。

「えっ? どうして?」
「床がここだけわずかに温かくて、ここに誰かが座ってたんじゃないでしょうか?」

 正しくその通りだ。その瞬間シュナの頭の中にいくつもの言い訳の言葉がよぎるが、どれもまともに言い訳としては通用するとは思えないものばかりで結局言葉に詰まってしまった。

「当たってるんですね」

 ソフィアがいじわるそうに笑う。本来ソフィアの態度は使用人としてあるまじき態度なのであるが、言っていることが正しく図星であるのと、使用人に対してあまりきつく言う事の出来ないシュナの性格との要因が被り合い何も言い返すことが出来ないでいた。その上ソフィアはこの所謂「探偵モード」に一度スイッチが入ってしまうと自制心というストッパーが吹き飛んでしまうのか、相手が誰であろうとこのような態度に出てしまうのだった。

「でも、スリッパも履いているのにどうしてそこだけ温かいって分かったの?」
「実は昨夜ここで私がくずかごに引っ掛けて転びましたでしょう? あのとき床に手をついたときも同じようにここだけ不自然に温かかったんです」

 シュナは思い出した。昨夜ソフィアがアルスの倒したくずかごで転んで手をついた場所。あの場所は確かに昨夜、そしてついさっきまでとアルスが腰掛けていた場所だった。
 一方その頃アルスの方はと言うと、クローゼットの中で狭苦しい思いをしながらも外の状況が気になってしょうがなかった。とはいえ、クローゼットの戸についている小さな穴ではどうしてもシュナともう一人入ってきた人間の様子を伺うには無理がある。聞こえてくる声で判断するに、どうやら問い詰められているらしいということは伺い知れた。

「そしてその人物はさっきお嬢様の言う"着替え"の時間にどこかに隠れました。かといって洗面所のような探してすぐ分かるような場所に隠れるとは思えません。それに"着替え"は妙に時間がかかってるようでした。そのことを鑑みるに隠れるにはすこしばかり時間の係る場所。ベッドの下かあるいは……」

 そしてソフィアは自分の推理によって判断した場所へつかつかと歩いていく。シュナは為す術も無くよく分からない声を漏らした。

「クローゼットですね!」

 いつもならソフィアの朝の挨拶に時間がかかってるようならナタリーが呼びに来るのに今日に限ってそれがない。矛先を向けるには的はずれすぎるとわかっていながらもシュナはそのことを少しだけ恨んだ。
 バンッという音とともにクローゼットの戸が開かれる。

「あっ……」 とアルス。
「えっ?」  とソフィア。
「あぁ……」 とシュナ。

 いくらソフィアが推理に長けているとはいえ、まさかこのクローゼットに二メートルを越える巨体を持ったカイリューが入っているなんて塵ひとつほどにも思っていなかったに違いない。アルスの方はというと可哀想に、ただでさえ体が大きいというのにこんな狭い場所に入れられて妙に不自然な体勢でなんとか座っているようだった。

「え? あ……れ?」

 探偵モード終了。その瞬間ソフィアは目の前にある光景と自分が予想していた光景とのあまりのギャップに頭の中で何かが爆発するような音を聞いた気がした。呆然となるソフィア。その機会をシュナは逃さず、ソフィアの手に半ば強引にワゴンの取っ手を持たせると彼女を背中から押して一緒に部屋から出た。

「はいはい! 朝食の時間よね!? 今行くからねー」

 シュナも半ば混乱していたようだ。ソフィアが思考停止しているこのうちにとにかく部屋から引き離さなくては。とりあえずソフィアには後でこっそり事情を話すことにして、早く朝食の場に行かないと他の使用人がやってくるかもしれないと思った。
 そして後に取り残されるはなんとかクローゼットから脱出したアルスのみ。

「おーい俺も腹へったんだが」
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.8 )
日時: 2010/09/27 22:15
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −2−


「お嬢様、おはようございます」

 バーンズロウ家の執事頭を勤める老齢の使用人ウィリアム=グラマーの淡白な声に続いて、今日の奉公をする使用人全員が「おはようございます」と彼の後を追った。
 バーンズロウ家では毎朝当主が起き、朝食の席が終わると使用人一同が朝の挨拶をすることを決まりごととしていた。それはこの家が代々やってきて今に至っている伝統とも言うべきもののひとつ。どの使用人もこの時間になるといくら今行っている作業が中途であろうとこの場に集まってくるのだ。執事頭から料理人、庭師に至るまでズラリと肩を並べているその様は壮観と呼んでも過言ではない。しかし、当のシュナはというとやはりこの光景を取り仕切ることに未だに慣れることの出来ないでいた。アルドが生きていた頃はこの光景をただ見るだけでいい立場だったのでまだ気が楽だった。しかし今やシュナはこの使用人たちを取り仕切り、この場で挨拶される立場。
 アルドの葬儀も済み、初めてシュナがこの場に立った時の緊張感は、彼女が今思い出しても息が詰まりそうなものだった。その頃に比べるとまだマシなものではあったが、未だに当主を継承した自覚の薄いシュナにとって苦手な場面だった。

「みなさん本日もどうぞよろしくお願いします」

 一通りの挨拶を述べた後、最後にその言葉でこの場を締めくくった。使用人一同も深々と礼を返すと、それぞれが「失礼します」という言葉とともにそれぞれの持場へと戻っていった。
 そのときソフィアだけが他の使用人とは違って妙に言葉に緊張感が含まれていた。ソフィアには朝食の場へと行く途中に「あとで説明するから今は誰にも言わないで」と釘を刺して置いた。約束事はちゃんと守ってくれる彼女だからシュナはソフィア自身から漏らすことには心配していないが、ソフィアは動揺が行動に現れるタイプの人間なのでその点だけが気がかりでやきもきとした。
 食事の際もソフィアのその性分が気が揉まれ、せっかくのバーンズロウ家専属のシェフが自ら厳選した素材と元七つ星レストランの料理長時代の自慢の腕によりをかけた朝食も、味がよく分からなかった。さらにバタバタと部屋を出て行ったからアルスはちゃんと大人しくしてくれてるだろうかという心配まで重なっていく。
 だから一刻も早く部屋に戻りたくてシュナはすぐに席を立つと、足早に食堂をあとにした。途中、あらかじめ朝の挨拶後は階段で掃除をしているふりをして待っててと言っておいたソフィアと合流すると二人で部屋へと入り、念のために鍵をかけておいた。
 
「ごめんね待たせて」

 さきほどまで彼が隠れていたクローゼットは戸の締め方分からなかったのが開けっ放しになっている。そしてアルスはというと部屋の壁際にうつ伏せで倒れて……

「ちょっと、どうしたの?!」

 慌てて駆け寄るシュナ。うつぶせになっているとはいえ、さすがはカイリューの巨体なだけあって倒れていても小山ほどに大きかった。
 アルスは横面を床につけて気だるそうな表情を見せて漏らすように言った。

「腹へった……。そういえばお前に会ってからまだ何も食ってねえんだよ……」
「ああ、ごめんなさい。あたしも忘れてたわ」

 そのとき「ひぇっ」というなんとも奇妙な叫び声が聞こえた。見るとソフィアが目尻と頬を引きつらせて、手足は硬直させ、指を強がらせて壊れた機械仕掛けのようにひくひくと動かしている。そうだった。ソフィアはこのカイリューが人語を話す場に居合わせたのは初めてだったのだ。先ほどクローゼットで暴いた際もアルスは少しだけ言葉を漏らしたが、恐らく彼女の中で“聞き違い”として処理されていたのだろう。

「ソフィア! ソフィアったら!」

 呆然とした表情となっているソフィアの眼前でシュナは手を振った。たちまち水をかけられたようにハッと我に返る。シュナ自身も思えば初めてアルスを前にして彼がしゃべったシーンも似たような反応をしたものだと、まるで自分を見ているようでおかしかった。

「あたしちょっと食べ物とってくるから待ってて」
「そんな、お嬢様がお手を煩わせることありません。私が行きます」

 そしてソフィアは多少ふらつきながらパタパタと部屋を出て行った。大丈夫かなと思いながらもシュナはその様を見送った。再びシュナとアルスは二人になる。
 昨日からにかけてたくさんの出来事がドタバタと起きたために、シュナの方もアルス自身も空腹のことを忘れていたのだ。それが今になってからようやく体が思い出したのだろう。

「おい、シュナ。そこにいるか?」
「なあに?」

 どうやらアルスはシュナの方に向き直るのも億劫と見える。ほとんど体勢を変えずに話しかけてくる。だからシュナの方が彼の目の前に来なければならなかった。シュナは仕方がないなと思いながら、倒れているアルスの顔の前に座った。
 アルスは半分開かれた瞼から目だけでシュナの姿を追う。

「一つ思い出したんだ……」

 その言葉が何を意味しているのか、もはや彼女には説明は不要だった。そうか。さっきアルスが言葉を濁した事の正体はこれだったんだ。自ずとシュナは身を乗り出してかれの言葉に耳を傾けていた。
 アルスはこのままの体勢じゃ喋りにくいと判断したのか、時間をかけて大儀そうにようようと体を起こした。そしてさきほどのようにまた壁にもたれかかって座ると一息ついた。

「何を思い出したの?」
「花畑のような場所……だな」

 アルスのその物言いは、シュナに言っているというよりも、自分で自分の思い出したことを再度確認しているかのようだった。花畑、と聞いてシュナは首を傾げる。そしてあッと何かに納得したように窓の外に視線を移した。
 屋敷の庭園。なるほど。アルスはこのバーンズロウ家邸宅の年中何かの花が咲いていないことはない庭園を目にして、連想したのだろう。昨夜なにも思い出さなかったのは夜だったからこのあまたある花々から受け取る刺激が弱かったのかもしれない。
 しかしアルスの思い出した「花畑のような場所」とは一体どこなのだろう。花畑と一口いっても、この世界に花畑と呼ぶに値する場所がどれほど数多にあることだろう。さすがにそれだけの情報では少なすぎる。

「花畑ねえ。他には?」
「他にはってなんだ?」
「えっとそこに咲いていた花とか、周りに何か見えるとか」

 アルスは言われると、目をいくばくか硬くつむって右腕で頭をポンポンと叩く。「うーっ」と唸ってなんとか最初に手にした自分の記憶への手がかりの糸を手繰り寄せようとした。
 それは花畑だった。たくさんの花々が咲き乱れ、色も種類もてんでバラバラ。
 他には?
 木が一本立っている。あれは何の木? 緑色の大きな葉っぱが幾重にも重なって木を飾っている。幹は少し白っぽい。

「木が立っていた。……んぐ、駄目だ。これ以上は何も浮かばねえ」

 どうやら今回はこれ以上引き出すのは無理のようだった。それでもアルスが何かを思い出したという、ただそれだけでも十分な収穫だ。
 そこへソフィアが戻ってきて、ワゴンの上に果物や料理の余りなどを載せてきた。

「ポケモンのお口に合うかどうかわかりませんが……」

 ソフィアの物言いはなんだかおずおずとして言葉尻がしぼんでいた。やはりこのしゃべるカイリューに対して恐怖まではいかないにしても、何か奇異なものを感じているのは確かであるし、無理のないことだった。
 そしてようやくまともな食料にありつけたことに、おそらくこのときアルスはこの上ない僥倖を覚えたに違いない。いきなりガバッと起き上がってほとんど他に見向きもせずにまずはリンゴを一つ乱暴に手にとった。そして大口を開けて当然のように皮をむきもせず、芯ごとパクリと放りこむ。よほど空腹だったのだろうそれからアルスは何かが憑依したように黙々と手当たりしだいに食べ物をとっては次々と口に入れた。
 食べることに夢中になってるアルスをよそ目に、シュナはソフィアを呼んで洗面所に連れ込んだ。

「ソフィア、もう分かってると思うんだけどあのカイリューはね、人の言葉を話せるのよ」
「しかし、とても信じられません……」

 ソフィアの言い分はもっともだ。いくら自分たちの知識がまだまだ浅いものだとしてもヒトの言葉を話すポケモンは――テレパシーなどで意志を伝える例はあれど――見たことも聞いたこともなかったし、ありえなかった。

「それはあたしも同じ。でも落ち着いて。信じようと信じまいと実際にしゃべっちゃってるんだからどうにもならないわ」

 なんとかシュナの言葉で自分自身を納得させたのか、ソフィアはいぶかしげな顔を見せながらも黙ってうなずいた。
 それからシュナはアルスが食事をしている間、ソフィアに居なくなっていた三日間のことを話した。
 キュロス山の廃墟に行けという謎の手紙とともに二本の鍵が送られてきたこと。その廃墟で何者かに襲われ、地下室に逃げ込んだこと。その地下室でアンノーンに封印されていたカイリューに会ったこと。カイリューは記憶を失っていて、自分が“アルス”と名づけたこと。とりあえずアルスが食事を終えるまでに話も終えようと思っていたため、掻い摘んでの説明となった。そのためシュナはどこまでちゃんと説明できたかいささか不安であったが、どちらにしても簡単には納得してくれそうにない話だ。

「とにかく、今のがあたしが出かけていた三日間に起こったことなの」
「お嬢様を襲った者たちって……」
「うん、あたしも予想は付いてるんだけど」

 だけどあの時黒服たちを逃がしてしまったから証拠はない。
 そして二人は洗面所から出た。ちょうどアルスの廃墟で目覚めてからの初めての食事が終わったところだった。満足したのか再び壁にもたれかかって膨れた腹をぽんぽんとたたいていた。


メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.9 )
日時: 2010/09/27 22:17
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

第五章「葉末を渡る鐘の音」

 −1−

「お嬢様、失礼ですが私もそろそろ持ち場に戻らなければ」

 ソフィアは部屋に置いてある時計に目をやっておもむろにそう言った。

「ああ、ごめんなさい。それでだけど、ここで見たことは……」
「はい、もちろん誰にも言いません」
「うん。ありがとう」

 そしてソフィアは裾を持ち上げて頭をさげると、部屋を出て行った。その足取りはまだ動揺が残っているのか少し震えているように見えた。
 自分の仕事に戻らなければならないという気持ちもそうだったろうが、今見た出来事をしばらく自分の中で整理したいという思いも見て取れた。そう考えるとシュナは少しだけ彼女になんだか申し訳ない気分になった。

 そのとき部屋にいた二人は窓の外、邸宅敷地の門の方がにわかに騒がしくなっていることに気がついた。いったい何事かと思ったが、シュナにはすぐ合点がいった。そしてシュナはちらりと窓の外を見やり、自分の予想が当たっていたことにため息を付くのだった。
 アルスは何だろうと窓から覗く。鉄柵の門の方に人垣が出来ている。数は十四、五人といったところだろうか。ここからだと遠目で分からないが、一人ひとりがなにやら黒い機材のようなものを持っている。大小は様々だ。片手で持てるものもあれば、二人がかりで動かしているようなものもある。

「顔を出しちゃダメ」

 珍しくシュナがきつい口調で叫ぶ。アルスは思わず顔を引っ込めた。

「ごめんね。あの人たちのことは気にしないで」

 シュナはなるべくカーテンを閉めた。
 アルド氏から莫大な遺産を相続したシュナのことを恨めしく思っているのは、なにも親戚たちだけではなかった。世間の新聞やテレビのようなマスコミ連も、「あのバーンズロウグループの社長の娘が資産の殆どを相続した」という話題性の高さにこぞって取材をしているのだ。アルドが死んでからは毎日のように屋敷に報道陣が押しかけ、葬儀の間も次から次へとまるで太陽をもう一つ作ろうとしているのではないかと言わんばかりにカメラのフラッシュに彼女はさらされた。
 使用人たちは気を遣ってシュナのことが載せられた記事やニュースを見せようとしなかったし、シュナ自身見ようとも思わなかった。しかしどんなことが好き勝手書いてあるかはシュナ自身も、そしてそれらの記事を見せようとしない使用人たちの反応からも大体の予想がついていた。だが、やはりそういった情報を全く耳にしないでいるというのは不可能なのか、ある日なんとなくテレビをつけたときにちょうどシュナのことをやっているニュースに出くわしてしまった。すぐにテレビを消したが、たまたま耳に入ってしまった言葉から自分は『幸運の少女』とか『ラッキーガール』とか呼ばれていることを知ってしまった。
 そして今回、またマスコミ連が取材に押しかけてきた理由は一つしかない。アルスに会うきっかけとなった彼女の三日間の失踪。ただでさえ莫大な遺産をまだ幼さの残る少女が相続したということだけでも十分すぎるほどの話題性だというのに、それにプラスして謎の失踪ときたら彼らが目をつけないはずがない。使用人たちにも事情を話さず勝手に出かけてしまったので、こればかりは自分が撒いた事柄であるとわかっていてもやはり理不尽さを感じずにいられない。
 ジェラルドタウンに居たころ、かつて大多数の人間と同じように視聴者側であったシュナはまさか自分が出演者側に回るなんて夢にも思わなかったろう。それも芸能人やアイドルなどのような愛される出演者ではなく、犯罪者などと同じようなただ話題を与えるだけの愛されぬ出演者としてなどとは。

――バーンズロウ家の資産の大半を相続したとのことですが、今の気持ちをどうか一言。

――故アルド氏が実の父親だと初めて知ったときどう思いましたか?

――嬉しかったですよね? 何の苦労もなく幸せが約束されたようなものですから。

 かつて自分のことを取材しに来た記者たちが浴びせかけた言葉が次々とよみがえる。その一つ一つが思い出されるたびに、まるで胸、背中両方から熱したナイフを突き立てられるかのようなどす黒い感覚が襲い掛かった。直接的な罵詈雑言ではないとは言え、いや、むしろ直接的な罵詈雑言でない故にそれらのナイフは深く深く刺さり傷口が膿んでいくのだ。

「ねえ、アルス」
「なんだ?」
「やっぱり、あなたはあたしから離れたほうがいいと思う」
「どういうことだ?」
「あたしはこの家から離れることは出来ない。あなたは記憶を早く取り戻したいんでしょうけど、きっとあたしじゃ力になれない……。それだけじゃないわ。この前のあたしのことを狙ってる人たちもそうだけど、世の中には別の形で狙ってくる人もいる。いつもカメラやレコーダーを持って何か変わったことはないか、特別なことはないかと嗅ぎまわって、挙句の果てには他人の領域に勝手に踏み込んでくる」

 アルスは黙って耳を傾ける。

「アルスはポケモンなのに人の言葉をしゃべるでしょう? そういう“他と違う”ことがあの人達にとってどれだけ垂涎に値するか分かる? あの人達がアルスがしゃべることをもし知ってしまったら、きっとあなたは記憶の手がかりを探すどころじゃなくなる」

 シュナは長い黒髪を手櫛で撫でながら言った。
 初めてアルスに会ったときは、きっとこのことが何か“変化”のきっかけだと思った。だけど再びこの屋敷に戻ってから分かった。やはり自分はバーンズロウ家としての運命から逃れることが出来ないのではないかと。何か一つ行動を起こせば親戚たちから目をつけられる。マスコミが何事かと記事にしようとする。
 
「だけどよ。お前はむざむざそいつらに縛られる必要はないんじゃねえか?」
「え?」

 そのときシュナは心中に何かがずっしりとのしかかる様な感覚が走った。いったいどうしたのか、その感覚はだんだんと胸に熱さとなって広がり始める。

「なんていうかな、バーンズ……なんとかがどうとか、イサンがどうとか全部お前じゃねえ誰かが決めたことなんだろ?」
「……でもね。そんな簡単なことじゃないのよ」

 不意にシュナの語調が強くなった。同時にその表情に影が差す。

「人間はね、そんな……アルスが思ってるほど簡単じゃないわ。誰かが幸せをつかもうとしたら他の誰かが邪魔をするし、本人にとっては全然良くないことを勝手に幸せなことに仕立て上げようとするし。そういったしがらみから逃れようとすればするほど、誰かがそれを妨げる。とても自分ひとりだけじゃどうにもならないのよ!」

 シュナはなぜ自分がこんなにも激高しているのか、自分で理解ができない。しかしさっきアルスが言ったことが彼女の中の何かに触れたのだ。
 アルスはというとシュナがこのように声高にしている場を目にするのが初めてで思わず気圧されていた。
 それなのにシュナの口は止まらない。自分で自分が何を言っているのか分からないのに止められない。

「アルスだって……!」

 そこまで言って彼女は何かに気づいたように口を止める。自分が今なにを言おうとしたのか、口から吐き出すその直前になって分かったからだ。

――アルスだって、自分の知ってる誰かにあたしが似てるというそれだけのために付いてきてるだけでしょ? 

 刹那、シュナは口元から胸、背中にかけて足の爪先に至るまでになにか氷を当てられたような冷たさを覚え身震いした。アルスの顔を見ようとした。だがまるで反射反応のように体がそれを許さず、無意識のうちに踵を返し足早に部屋を出た。部屋を出る際、机の上においてある財布などが入ってるブラウンのポシェットを乱暴に掴み持っていった。アルスが何か声をかけているような気がしたが、その声はシュナの耳元をくすぐるだけでとても意味の通ったものには感じることができなかった。
 屋敷の廊下をほとんど走るようにして通り過ぎる。途中何人かの使用人とすれ違い、その中にはナタリーも含まれ、何事か声をかけられた気がしたが無視をした。しかし思い直し、ナタリーに振り返り言った。

「車を出して」

 余程のことがない限り狼狽える様子を見せることのないナタリーもまた、普段見せることのないシュナの形相に気圧されたのか、「はい」と驚いた様子で答えると、すぐに控えの運転手に指示を出した。
 途中運転手の出してくれたハイヤーに乗ろうと、門を出た際待ち構えた記者たちに何事か質問を浴びせかけられた気がするが、彼女は最初からそこには誰もいないかのように振舞って乗り込んだ。
 そのあと運転手にどこに行くよう命じたかよく覚えてない。適当に街中を通り過ぎ、気がつけば少し郊外まできた山道に差し掛かっていた。

「いいわ。ここで降ろして」
 
 運転手は一瞬何事かと思うような顔でシュナを横目に見やったが、すぐに返事をすると車を道路の脇に止めた。
 ドアを開けるとちょうど外では風が吹いていて、車内に木々と草の香りを含んだ空気がそっと頬をなでた。そこは隣町へと続く幹線道路だった。周りを木々に囲まれ、閑散としている。近くに家がポツポツと建っているが、人の気配はしない。
 山の坂道を削るように敷いてあり、前は崖、後ろは山のほうに続く急坂になっている。
 時刻は正午を少し過ぎたあたりだろうか。春のさんさんとした日差しがあたりに降り注いでいた。

「先に帰ってて。帰りたくなったら電話するから」

 シュナは運転手のほうを見ようともせず、遠くを眺めながら言った。

「はっ? ……しかしお一人では危のうございます。それに僭越ながら……昨日の今日でもありまして……」
「いいから帰って! 当主の命令が聞けないの!?」

 シュナは半ば自棄だった。大きな声を出されて運転手は狼狽しながら返事をし、あわてて逃げ去るように帰っていった。
 そして彼女は歩き始める。どこに行くともなく。時折風が吹き付けては彼女をやさしく包み込む。しかし彼女の心はそんな春のそよ風をもってしても未だ熱を冷まそうとしない。
 途中、主枝から小さな側枝が生えるように小さな山への遊歩道のような道が枝分かれし、なんとなくそっちのほうへと歩みを進めた。別にどこにいく当てもない。この道がどこへ続いているのかも知らない。ただただ彼女は一人になりたかった。
 こうなることを自分で望んでいたのか否かは自分でも理解できない。彼女はどうしてこんなにも苛立っているのかそのことに狼狽していた。さらに今日の自分の行動に自分で驚く。さきほど運転手に言い放ったように彼女が自らの権力を振るうような真似はこれまでしたことがなかった。

 いったいどうして自分はこんなにも苛立ってるのだろうと彼女は自問する。だけど答えが出てこない。
 坂道がだんだん急になっていく。どこに続いているかもわからない道をひたすら歩く。もともと運動向けには作られていない靴が悲鳴を上げているのがわかった。だけどシュナ自身はアルドに引き取られるまでの十四年間は田舎で暮らしたため、このくらいは大丈夫だ。とはいえ、キュロスの廃墟でも感じたことだが明らかに以前に比べて体力が落ちていることは認めざるを得なかった。やはり屋敷で暮らした半年間は体にとっても長いものだったのか。

「あッ!」

 転がっていた小岩に足をとられ転んでしまう。なんとか受身は取ったが右膝を思いっきりぶつけてしまった。痛みに顔をゆがませながらズボンをまくる。履いていたズボンに保護されて出血こそしていなかったが、膝頭には血がにじんでいた。
 このくらいどうってことない。シュナはそう自らを鼓舞してさらに坂道を登り進むことにした。ほとんど腐葉土に多い尽くされている地面はなんとなくふわふわして歩きににくい。どこかの木の上で雲雀が鳴いている。

――お前は私の娘だったのだ。それ以外に何か説明が必要か?

 不意にアルドが初めてやってきて、自分に言い放った言葉を思い出し、彼女は歯噛みする。

 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。いったいあたしが何をしたっていうの?
 突然わけの分からない人から、わけの分からない屋敷に引き取られて。大好きなおばあちゃんとも引き離されて。自分は勝手に死んで、迷惑な財産は無理やり相続させて、そのせいで親戚たちからは恨まれて。何も知らない世間の人たちからは羨望されて。
 あたしがいったい何をしたの? 何もしてない。ただあの人の子供だったというだけ。しかもそのことをあたしは十四年間もずっと知らなかった。あたしの人生はいったい何なの?

 今までなるべく考えないようにしていた不満が次から次へとあふれ出す。
 どれくらい高さまで登ったのか、どのくらいの時間登り続けたのか。すでに足腰は疲労によって悲鳴を上げている。履いているズボンや靴にも草や種がいっぱいにくっついて、もしズボンじゃなくてスカートだったらいっぱいに切り傷がついていたかもしれない。
 そしてまたしてもシュナは何かに足をとられ膝を突く。だが今度はさっきのようにうまく立ち上がれない。何時間もこの坂道を少しの休みも無く歩き続けていた彼女の足腰はもはや限界を迎えていた。彼女は立ち上がれない代わりに近くに立っていた欅(けやき)の木に寄りかかった。疲労のため息遣いが荒くなっている。その荒い息遣いの中でシュナは搾り出すように、誰もいない誰かに向かって叫んだ。

「なにが『幸運の少女』よ……なにが『幸せを約束されている』よ……。自分で何も考えないで、自分で何もしないで、勝手に全部決められて、それに抗いもせず流されて……何が『幸せ』だっていうのよッ!」

 それは今までシュナが誰にも明かしてこなかった胸の内のすべてだった。
 背の高い木々が並んでいる。いったい自分はどこまで歩いてきたのだろう。ふと後ろを振り返る。そして気づく。自分が道だと思って歩いていた場所に道なんて無かった。
 ここはどこなのだろう。

 突如、背筋に氷水を浴びせられたかのような悪寒が走り、全身を巡った。そしてまるで天から降って舞い降りたかのようにシュナの心の中に恐怖の念が影を落とした。風が吹き、空気が葉と葉の間、枝と枝の間を吹きぬける音と、葉っぱ同士がこすれあう音が同時に響く。それはまるで山全体が唸り声を上げているかのようにゴウゴウと鳴り渡った。そうだ。電話で誰かを呼ぼうと、シュナはポシェットを探る。だが非情なことに、現れた画面には圏外の表示。ガクリと肩を落とした。
 日はまだ明るさを保っているが、もうすでに傾き始めており、青かった空は山吹色がかかっている。誰にも命じられるまでもなく、シュナは欅の根元に座り込み、膝を抱えてうずくまってた。
 
――だけどよ。お前はむざむざそいつらに縛られる必要はないんじゃねえか?

 あの言葉を受けたとき分かったのだ。バーンズロウ家、アルドの遺産、親戚からの怨恨、屋敷のしきたり、面白半分のマスコミ、確かにそれら一つ一つは自分を拘束する堅い鎖だ。だけどそれらは自分が抗えば、ある程度はどうにかできたはずだった。なのに自分はそれをしなかった。あのときアルドの燃え盛るような冷たい目を見たとき、諦めてしまっていたのだ。
 自分を最もきつく縛る最も太く硬い鎖は自分自身だったのだ。
 それをアルスに難なく指摘され、心の中で混乱がおきたのだ。それはまさに図星だったというのに、自分でそれを認められなくて、激高してしまった。その結果がこのざまだった。

「おかあさん……」

 シュナは無意識のうちにその言葉をつぶやいた。吹けば飛んでいってしまいそうな弱々しい声色で。
 そしてシュナの中に眠る母の唯一ともいえる記憶が思い浮かばれる。
 ときどき夢に見る。今の自分と同じように深い森の中で迷っていると、母が自分を探してやさしく抱きしめてくれる。そんな記憶。


 いつかおばあちゃんが教えてくれた。あたしが二歳くらいの頃、おかあさんもおばあちゃんもたまたま幼いあたしから目を離してしまって、その間にあたしはまだ歩けるようになったばかりの足で、家の裏の森に入ってしまい、そのまま迷子になった。
 最初に自分がいなくなったことに気づいたのはおばあちゃんで、すぐにおかあさんと二人で裏の森を探した。結果はすぐに見つかったみたいだけど、そのときのあたしは迷い込んだ恐怖と疲れで泣き疲れてとある木の根元に座り込んでいたらしい。
 そのときおかあさんはあたしをやさしく抱きしめて自身も泣き出さんばかりだったんだって。


 そしてシュナの母はその出来事の数週間後に流行り病で亡くなった。
 シュナは母の顔を思い浮かべる。写真でしかろくに記憶に残せなかった母の顔を。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.10 )
日時: 2010/09/27 22:17
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −2−

 再び一陣の風が吹きすさび、山全体が唸り声を上げる。転倒した際に打ってしまった膝の痛みは残れど、足の疲れはようようと癒えてきたのでシュナは立ち上がり、なんとか下山しようと思った。
 そのとき、どこまでも生えている木々の群れの中から、影が蠢いた。
 
「――誰ッ!?」

 思わず叫ぶ。
 動物? ポケモン? 人間? いずれにしても今確かに何かが動いた。それともただの見間違いだったのか? 風で木の枝が揺れたのを誰かがいると勘違いしただけなのだろうか。
 シュナは影が動いたように見えた方向にじっと視線を向けたまま、あとずさった。
 そのときに見えた。木と木の間から誰かが来る。今度はもう見間違いようが無い。あれは人間だった。いったい誰が登山道からも離れてしまったこんな場所に? 自分のほかにも迷ってしまった人間か。
 シュナはできる限り都合のいい解釈をしようとした。そうでもしなければただでさえ胸を圧迫して押しつぶしてしまいそうな恐怖が、さらに増大してしまいそうだったから。だが、やはりというか、現実はいつだって非情だ。
 それはポケモンだった。全体は流線型でほっそりとしているが無駄のない体つきをしている。全身はまるで曼珠沙華の花のような鮮やかな赤色で、腹と胸の一部分だけが黒い。両腕には人の顔と同程度の大きさを持つ巨大なハサミがあり、そこに描かれている丸い紋様がまるで顔とは別にある目のようだ。背からは薄く白い四枚の羽が生えている。
 ハッサム。それがこのポケモンに名付けられている種族名だった。シュナは直接見るのは初めてだったが、テレビや本などで何度か目にしたことがあり、その強さはある程度認知している。
 ハッサムは明らかにシュナを睨みつけており、一歩一歩歩みを進めて互いの距離を徐々に狭めていく。シュナはまさに蛇に睨まれた蛙であるかのようにその場から動くことが出来なかった。立つことは出来るが足が動いてくれない。野生にしろ誰かの差し金にしろシュナのことを狙っているのは明白であり、その眼差しは彼女から全く逸らそうとしない。パクパクと魚のように口が動き、そのたびに声にならない声が漏れる。

「シュナさん。一緒に来てもらいましょうか」

 それは低い男の声だった。シュナは一瞬耳を疑い、このポケモンもアルスのようにしゃべることが出来るのかと思った。だがその考えはすぐに消える。聞こえてきた音は明らかに何かスピーカーを通しての声だったからだ。よく目をこらすとハッサムの首には首輪のようなものがはめられており、どうやらそこからこのハッサムを操る主の声を伝え、また同時にマイクも兼ねている仕組みになっているようだった。おそらくハッサムの主はここからかなり離れた場所から指示を出しているのだろう。
 不思議と恐怖感は先程に比べるとまるで潮が引くように収まっていた。しかし代わりにシュナの心に台頭しているのは諦観の念。もうどうなっても構わないという気持ちが巣食っていた。

「大人しく付いてきてさえくれれば、身の安全は保証しましょう」

 一体何度そういった類の言葉を聞いてきただろうとシュナは考えた。前回のキュロスの廃墟での出来事もしかり、アルドによる遺言の発表の直後も自分の養子にならないか、きっと幸せにしてあげるよなどの甘言の数々。だが今や自棄の気持ちが大きくなってしまっているシュナにとっては、もうその言葉を受け入れてしまうのもいいかも知れないと考えてしまっていた。このままずっと誰かに怯え続けてるよりも、利用されるだけと分かっていながらも安全のもとに暮らすことが出来るのなら、または騙されて殺されるとしてもそれも構わないかもしれない。
 だからシュナの足はいつの間にかハッサムの方へと向かっていた。ただ楽になりたい。それだけが頭の中を麻薬のように支配する。
 シュナとハッサムとの間の距離が狭まっていく。四メートル、三メートル……。おもむろに顔を上げると木々の間から傾きながらもまだその輝きを失おうとしない太陽の光が差し込んできた。
 そのときシュナの足が止まった。頭の中で祖母の声が響く。そしてその祖母の声と共に、自然に己の口も動いていた。

「エト・アルス・ペルペチュア・ルシーテ・アイズ……」

――エト・アルス・ペルペチュア・ルシーテ・アイズ。これはね『どんな時も光を見失うな』って意味なの。これから困ったときや辛いと思ったときにはこの言葉を思い出すといいわ。あなたのおかあさんも、そして私もいつもこの言葉に助けられてたんだから。

――そうだ。そんなふうに笑っていろよ。

 どうして祖母とアルスの別々の言葉がそのとき結びついたのか分からない。だけどその二つの言葉が結びついたとき、シュナに再び抗おうという気持ちが蘇った。そしてハッサムが今まさにシュナを抱きかかえようとしたとき、身を委ねるふりをしてその両腕が彼女を捉えようとしたとき、一気に地面を蹴って走りだした。シュナの体はハッサムの腕からスルリと抜け、お互いに背を向け合うような形で距離を広げていった。
 一瞬ハッサムは何事が起きたのか理解できていないようにぽかんとしていたが、己が主から手厳しい叱責を受けると、すぐに向き直り走り去るシュナを追いかけ始めた。
 相手はポケモンだ身体能力は何もかも相手の方が上。シュナはもとよりこの相手から逃れられるとは思っていなかった。ただ少しでも抗いたい。少しでも自分を貫きたい。そうでもしなければ自分で自分を許すことが出来ないと思ったから。なるべく地面の凹凸の少ない部分を選んで走る。不思議とあれだけ疲れていたはずなのに、身体が随分軽く感じた。木々の葉っぱの間から挿し込んでくる太陽の光が、まるでこっちに逃げろあっちに逃げろと指し示しているかのように足元を照らした。

 そのとき何か大きなものを振り回すような音が聞こえた。そうかと思ったら突然一本の木がバキバキと鋭い悲鳴をあげながらシュナの行く手を阻むように倒れてきた。このまま止まらないと押しつぶされる。シュナの防衛本能は無意識のうちに足を止めようと促す。だがこのまま止まっては絶対に追手から捕らわれてしまう。一瞬のことが何分も何時間もの長時間に感じる。シュナの身体を止めようとする一歩が地面についた。体が妙な無重力感に襲われ、頭がクラクラした。
 だが次の瞬間シュナの身体を止めようとする一歩は、さらに逃げようと駆けるための一歩に変わっていた。留まろうとする足に激しくムチを入れ、シュナはおもいっきり地面を蹴った。あのおまじないの言葉を思い出してから、何かがシュナを付き動かしているかのようだった。そして木の巨体が容赦なく彼女を押し潰そうとした瞬間、間一髪、危機一髪で回避。巨木はそのまま地面にたたきつけられ、まるで雷が落ちたような悲鳴を上げて横たわった。
 シュナは徐にポシェットを開けた。何か武器になるようなものはないか。とはいえ、いつも持ち歩いているようなバッグにとてもあのハッサムに叶いそうなものなど入っているはずがない。
 携帯電話、いくつかのボールペン、財布、長い髪をまとめるためのゴムの髪留め、飲料水の入った小さなペットボトル、あまり使っていない化粧品のいくつか。

 突然、シュナは足を止めた。それは今まで逃げようとしていた彼女にしては意外な行動。そして追いかけてくるハッサムの方に向き直った。

「どうしましたか。逃げるのはもうおやめですか?」

 追いついてきたハッサムの首輪から、その主の声が聞こえてくる。語調からは不審感が漂っている。

「ええ。どうせこれ以上逃げても、体力も身体能力もずっと上のハッサムからは逃げられないと思って」
「賢い考えですね。ハッサム、連れていけ」

 そしてハッサムは再び、シュナに近づく。だが今度は幾分か警戒の色をみせている。当然だ、さきほど不意打ちをくらって逃げられたのだ。たとえ彼女が諦めた素振りを見せたとしても本能的にハッサムは心の矛を収めようとはしなかった。そしてハッサムの腕はシュナを捉え、そのままだきかかえようとした。

 だから死角となって見えなかった。シュナの片手がポシェットの中のあるものに触れたのを。

 そしてシュナを己の右腕の上に座らせるような形で抱えた瞬間、シュナの手が動いた。素早くポシェットの内より携帯電話を取り出し、それをハッサムの目の前に突き出す。ピッという電子音が一瞬だけ響いたと思ったら、刹那ハッサムの目の前がまるで白の絵の具をこぼしたように真っ白に埋め尽くされる。携帯電話カメラのフラッシュは通常のカメラに比べると弱いものではあるが、ここまで至近距離で、目の前でそれを焚かれたら怯んでしまうほどの力はあった。
 ハッサムは反射的に目を抑えようとして、シュナを落とした。そして地面についたシュナはさらにポシェットから一本のボールペンを取り出した。だが持ち方が本来のそれとはかなり違う。ペンの上の部分を掌で握りこみ、ノックの部分を親指で抑えこむような持ち方だ。

 まだジェラルドタウンにいた頃、村の八歳くらいの男の子が虫を捕まえて遊んでいたのを見たことがあった。そしてやがて男の子は一匹のバッタを捕まえた。最初男の子はやっと捕まえたそれに目を輝かせて喜んでいた。
 しかし八歳くらいの子供の性分なのか、すぐに飽きたと見えてその目の輝きはすぐに失われてしまう。
 そして次に何をしたというのか、男の子はそのバッタの足をもぎ取り始めたのだ。大きく跳躍するためのバッタの大きな足は、男の子の手に引っ張られてあまりに呆気無くプツリと取れた。雑草を抜くよりも手軽に、簡単に……。
 ではポケモンも基本的には変わらないとしたら? この星の上に数多く存在する虫と基本的に身体の作りが同じだとしたら?

 シュナは歪な持ち方をしたボールペンをおもいっきり振るった。

 ああ、今自分はこれほど抗う勇気を持っているというのに、この勇気をもっと早く振るうことが出来たのなら、バーンズロウ家にやってきた時点で、いやその前から振るうことが出来れば……? 事態はここまで悪い方向には進まなかったのかも知れない。
 シュナのボールペンがハッサムの右足の付け根、節目の部分に突き立てた。ボールペンは先端から五センチメートルほどの深さまで抉りこまれる。

 ハッサムは苦痛の叫びを上げる、そしてその目がシュナの姿を認めた瞬間、腕を大きく振るった。
 シュナ自身、思っていた以上の効果をあげたことに呆気にとられ、そのとき振るわれた腕を避けることが出来なかった。ハッサムの大きなハサミのような腕がシュナの頬をかすった。だがただ頬をかすると言っても、人間のそれとポケモンのそれではまったく違う。シュナはまるで頬を殴られたような衝撃を受け、その場で腰を落としてしまった。

「シュナさん。馬鹿なことを……。怒りに囚われたこのハッサムはもう私の命令も聞かなくなる。どういう意味かわかりますかな?」

 ああ、やはり自分は馬鹿なことをしてしまったんだろう。奇妙な脱力感が芽生える。叩かれた頬が痛む。
 ハッサムが近づいてくる。その眼は爛々と怒りに燃えている。シュナはハッサムの足元に先程フラッシュを焚いた携帯電話が落ちていることに気づいた。そして次の瞬間携帯電話はハッサムの足に踏みつけられ、あっという間に粉々に分解した。よく見るとハッサムは足の節目を刺されたとは思えないほどしっかりと立っていた。あまり効果がなかったのだろうか。
 シュナは逃げようと立ち上がった、しかし次の瞬間ハッサムはシュナの目の前に立ちはだかっていた。やはりボールペンを突き刺したのは効果がなかったのか。そしてハッサムの腕の巨大なハサミが高々と掲げられる。まともに食らったら今度こそ無事では済まない。
 思わずシュナは目を瞑る。そして自分が死んだあと、遺産を狙う者たちはどうするのだろう、アルドの言っていた寄付先の慈善団体とやらと裁判でも起こすつもりなのだろうかなどと場違いなことを考えたりした。

 だが、巨大なハサミの腕は降ってこない。どうしたのだろうと思ったがシュナのまぶたは開けることを拒む。それとも既に自分は殺されていて今目を開けたら死後の世界というものが映るのだろうかとも思ったりした。

「全くよ。お前はつくづく面倒な奴だな」

 聞き慣れた声が聞こえるとともに、シュナはハッとしてまぶたを開いた。シュナをかばうような形でアルスが立ちはだかり、今まさに振り下ろさんとしていたハッサムの腕を抑えていた。

「アルス!」

 ガキンという音とともに、二体のポケモンはそれぞれ後ろに引き下がり、お互いの距離をおく。

「下がってろ。すぐに終わらせてやる」

 改めて二体はお互いの眼をにらみ合い、そして対峙した。

メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.11 )
日時: 2010/09/27 22:18
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −3−

 日が陰りつつある。
 カイリューとハッサムの間は五メートルほどの距離があった。二体はお互いをにらみ合い、それによって均衡を保っているのかじっと硬直して動かなかった。
 その二体から一点離れたシュナは固い唾を飲み込んでこの様子を見守っている。シュナはアルスにどうやってここが分かったのかなどと聞きたいこともあったが、今はどう考えてもそんなことを聞くような場合ではない。
 最初に行動を起こしたのはアルスの方。地面を強く蹴り、二メートルを越す巨体とは思わせないほど軽々とした動きで跳躍した。見ると右手の爪がまるで燃え盛る炎のように赤く光っている。アルスはその爪におもいっきり体重をかけ自身の落下地点にいるハッサムに目標を絞る。だが、相手も甘んじてそれを受けるはずもない。ハッサムは自身の足と背中の羽を巧みに操って素早く後ろに回避した。
 だがアルスは追撃の手をやめない。足が地面につくとすぐさまさらに蹴りこみ、赤く染まった爪を振り上げる。
 今度はよけられないと踏んだハッサムは巨大な鋏の腕を持ち上げ、それを受ける。まるで鍔迫(つばぜ)り合いのような音が鳴り響く。
 そしてハッサムは空いている方の腕を今度はアルスに向かって突き上げた。動きを読んでいたのかアルスは脱兎のように引き下がりそれをよける。ガッと鈍く重い音がして鋏は近くに生えている木にぶつかった。

『なんであいつを狙う?』

 アルスがポケモンのみに分かる言葉で話しかける。しかしハッサムは答えない。その代わりのように飛び出し、そのときには右腕を振りかぶる行為を終えている。アルスには何の攻撃が自分を襲おうとしているのか分かった。
 バレットパンチ。
 動きはあまりに早く、技が来ることが分かっていても防御さえも許さない。ドンという深い衝撃とともにハッサムの右腕がアルスのわき腹を捉えた。
 思わずその苦痛に顔を歪める。どうやら直撃は免れたが、その痛みはやはり無視できないものだった。

「アルスッ!」

 その光景を目にし、我知らずシュナは叫んだ。しかしアルスは歪めていた口元をニヤリと緩ませ、笑う。

「心配すんな。このくらいどうってことねえよ」

 シュナを安心させるための言葉でもあるが、大半は言葉どおりの意味だった。アルスはその言葉を証明するかのように、再び飛んできたバレットパンチをうまく避け、ドラゴンクローをおみまいした。爪は相手の胸の辺りを切り裂き、ハッサムは思わずのけぞる。だがアルス自慢のドラゴンクローはもともとハッサムの持つはがねの属性とは相性がよくない。確かにダメージは与えたが、相手の体力を奪うには至らない。チィッ! アルスは思わず舌打ちする。

 シュナは二体の戦闘を目にし、どうもアルスが不利な状況に立たされていることに気づいた。
 なぜか? 周りに数多と生えている木々のせいだ。このあたりの木々は背の高い針葉樹が多く、それぞれの木の間がほとんど離れていない上に、空にはびっしりと枝葉が覆っている。だからカイリューであるアルスはその巨体がかえって障害になっている上にその翼をうまく生かすことができないのだ。
 その一方でハッサムは元々虫ポケモンだからこういった森林内はむしろホームグラウンドであり、細い体躯は狭い木々の間を抜けるのに適している。

『おい、なんとか言えよ』

 アルスがもう一度ハッサムに話しかける。だがハッサムは攻撃をやめない。さきほどからメタルクローを連続で放っていた。そのたびにアルスはその体躯にもかかわらずなんとか避けていた。

『大恩ある我が主に従っているだけだ』

 初めてハッサムが淡白に答えた。だが言葉を放っている最中も攻撃の手は休めない。そしてそれを次々とかわす。

『気にいらねえな。そんなの単なる言いなりってことじゃねえか』
『黙れ』
『ふん。どうしたさっきから全然当たってねえじゃねえか』

 アルスはハッサムから次々に繰り出されるメタルクローをかわしながら笑う。
 事実最初のバレットパンチの時に比べるとハッサムの攻撃の命中率はなぜか格段に落ちていた。さきほどから何発も何発も相手はアルスに対しその両腕のはさみで切りかかっているというのに、それらをアルスは次々に避け、命中には程遠い。そしてそれらの攻撃はすべて回りの木々に当たり……

「だめよ! アルス、避(よ)けてッ――」

 そのときシュナが叫んだ。いったい何のことで? ハッサムの攻撃からだといういうのならこの通りほとんどかわすことができている。シュナは何のことを避けろといっているのか? そのときハッサムが口元だけでわずかに笑う。
 そして同時にアルスは気づいた。自分の四方から聞こえてくる木々の断末魔。そして一斉に枝から飛び立つ鳥たちの悲鳴。そして彼は上を見上げる。自分の周囲四方に生えていた木々が一斉に自分に向かって倒れてくる。ハッサムはさきほどからアルスへの攻撃を外すふりをして、周りの木々に切れ込みを入れていたのだ。それもすぐには倒れないような調整を入れながら。
 アルスは敵の策にはまってしまったことに歯噛みしながらも、翼を広げた。このくらい自分が本気で大風を起こせば吹き飛ばせると思った。
 だが、そのときアルスの動きが止まる。倒れくる木々のなかで何かを見つけた。彼の視線はその“何か”から片時も離そうとしない。
 そして倒れてくる木の最初の一本がまさにアルスを襲おうとしたその瞬間、彼は何かに向かって手を伸ばした。

 まるで落雷にも似た地響きを起こしながら、何本もの木体がドウと倒れた。そのさまはまるでひとつの建物が崩れ落ちたかのようだった。いつの間にかこんなにも沢山の樹木に切込みを入れていたのか、アルスがいた場所を中心としてまるでちょっとした広場ができたかのように忽然と木々の姿が消えていた。アルスの姿は見えない。あの沢山の木に押しつぶされてしまったのか。

「アルスッ!」

 シュナはすぐそばに自分のことを狙うハッサムがいるのも忘れて駆けた。だがその進路を無情にもなぎ倒された木々が阻んだ。彼がいた場所はたくさんもの枝場や幹に覆われて見えない。

「さあ、来なさい」

 再びハッサムに取り付けられた首輪のスピーカーから声が聞こえる。スピーカーの向こうの“主”はすでに勝利を確信しているらしい。低くくぐもった笑い声が漏れ出してきている。

「嫌よ!」
「……思ってたよりも強情な子だな。ハッサム、少しお仕置きしてあげなさい。殺してはいかんぞ」

 主からの命令に、ハッサムはにやりと笑みを見せた。ハッサムの方もさきほどこの娘によって負わされた屈辱を払いたかったので、これは願ってもいない機会だったに違いない。ハッサムはじりじりとシュナに近寄る。一方で彼女はアルスのいた場所を背にするような形であとずさった。
 そのため、倒れている木の枝に足を引っ掛けてそして受身を取ろうと横様に倒れ、しりもちをついた。もはや逃げられないと悟ったシュナは腕で顔を守るように覆い、ぐっと目をつぶった。

 だが、そのとき後ろのほうでたくさんの枝が一気に折れるようなバキバキという音がし、最後に何かが破裂するような音が耳をついた。
 シュナはハッとして実を縮こめるのをやめて音のした後方へと顔を向ける。そしてシュナの目線の先にある中空にアルスはいた。もはや夕日と呼ぶのも差し支えなくなった真朱の日の光に照らされ、元から橙色だった体の色は臙脂(えんじ)に染まっているように見えた。
 
「痛ってーなァ」

 あれだけたくさんの木々からつぶされたにもかかわらず、アルスのその声はなんともあっけらかんとしたものだった。
 だが当の彼は先ほどの攻撃の衝撃でようやく戦いというのがどういうことなのかを思い出していた。
 ああ、そうだ。戦うというのはこういうことなのだ。戦いによって伴う痛みは強大なものであるが、自分もまたその痛みを相手に与えることがあるのだと。そして以前にもこういうことが……。以前にも……?
 アルスはこの戦いの中で再び何かを思い出しかけていたが、彼の意識は思い出しかけている記憶よりも目の前にいるハッサムをどう倒すかの方に傾いていた。

『にしてもお前は馬鹿なことやったな。今の状況がわかるか?』

 上空からアルスはハッサムをまっすぐににらみ、そして翼を大きく広げると効果の体勢へと入る。

『ぐッ……しまった』

 初めてハッサムが焦る。そうだ。このあたりの木を無差別に切り倒してしまった。それが何を意味するか? この木々によって封印されていたアルスの翼を開放してしまったということだ。

「何をしているハッサム。娘だ! 娘を人質に取ればやつは手出し出来ん」

 “主”が強い口調で指示した。ハッとわれに返ってしてハッサムは自分から数メートル離れた前方にいるシュナに押し迫ろうとした。しかしシュナもおめおめとその手にかかるわけには行かない。どうやらアルスはあのまま何らかの攻撃態勢に入ろうとしている。それを邪魔してはいけない。だがどうすればいいか。今自分の足で適当な方向へ逃げようとしてもアルスがハッサムに到達するまでにハッサムは自分を捕らえてしまう。
 そのときシュナは天恵を受けたようにあることを思い出し、その可能性に賭けることにする。
 シュナはくるりと踵を返すとハッサムから見て左方向に走った。

「アルス! あたしにかまわないでそのまま攻撃して!」
「おう!」

 アルスは最初からそのつもりだったかのように大きくひとつ羽ばたくと、ハッサムに向かってまっすぐ降下を始めた。
 一方でハッサムは、アルスの攻撃に対処しなければならない、そしてそのためにシュナを捕らえなければならない。そして自分の左前の方向に逃げるシュナを瞬時に捕らえる為に、右足を慢心の力を込めて蹴ろうとした。蹴ろうとしたということはどういうことか、実際にはそれが出来なかった。
 そのときハッサムの右足の付け根がまるでそこに溶岩でもべたりと塗りつけられたかのような凄まじく熱い痛みが走りぬけた。思わず顔をゆがめ、がくりと右足の力が抜ける。何がおきたのかハッサムは痛む箇所に目を向ける。
 そして唖然とした。さきほどシュナによってボールペンで刺された部分からいつの間にか体液が止め処なくだらだらと流れ、毒々しい色に腫れあがっていた。シュナが抗おうとしたあのボールペンの一撃は決して無駄ではなかったのだ。刺さった当初はそれほど気にはならなかったものの、その後のアルスの戦闘でなんども患部付近の器官が酷使された結果、ここまで悪化させることとなったのだ。
 アルスからの攻撃の勢いを予告するかのようにヒュッとハッサムに風が通り抜ける。そして気がついたときには、空からの攻撃主は今まさに目の前まで迫っていた。避けようにも、足の痛みはこのような土壇場でも決して無視できないほどのもので動くことが出来なかった。ハッサムはせめて少しでも攻撃の衝撃を抑えようと両腕を盾のように胸の前で固めた。

 アルスはスピードを緩めることなくハッサムに迫る。そして相手との距離がいまや目と鼻の先になったという状況になって、ぐるりと状態をまるで踵を返すようにくるりと勢いを保ったまま背を向けるような形になると、その勢いに乗った丸太ほどの太さもある尻尾をまるで巨大なムチのようにふりかざした。アクアテール――尻尾は水属性の波動によってターコイズに似た青白い光に包まれ、凄まじいスピードと遠心力を持ってハッサムの身体に叩き込まれる。

 まるで大砲を撃ったかのような衝撃音が響き渡り、ハッサムの身体はその大砲から打ち出される弾丸のように吹っ飛ばされた。防御体制を取っていたにもかかわらず、アクアテールによる衝撃はハッサムの全身にまるで打たされた鐘のように響き渡り、まるで全身の体液が一瞬にして流れ切ってしまったような感覚に襲われた。彼の意識は瞬時に真っ白ににごり、その塗りつぶされた白の中に消えていった。
 そのままハッサムの身体は後ろに生えていた木々の一本にぶつかり、ずるりとまるで糸の切られた操り人形のように倒れた。

「油断しよって……」

 首輪のスピーカーから例の男の声が聞こえた。

「シュナさん。今回は見逃しましょう。ですがあなたは常に狙われているということをお忘れなく」

 そこでどうやら向こう側がスピーカーを切ったらしい。今まで聞こえてこなかったプツッという切断音が鳴ると、それ以降何も聞こえなくなった。

 シュナは気がつくとカイリューの側に駆け寄っていた。

「大丈夫? 怪我は?」
「ああ、こんくらいどうってことねえ。人間と違って俺らは治りも早い。それよりもお前も怪我してんじゃねえか」

 そしてアルスは自分の腕をシュナの右頬のあたりを指した。思わずシュナはあッと漏らし、示されたあたりを指で撫でた。ペタリと粘度の高い液体の感触が触れ、それがついた指を見てみると、赤い血で濡れていた。おそらくハッサムに叩(はた)かれたときに受けた傷だろう。今まで夢中になって気付かなかったが今になってピリっとした痛みが身体が思い出したように疼(うず)いた。シュナはハンカチを取り出し、それにポシェットに入れていたペットボトルの水を染み込ませ、怪我をしたところを拭う。

「でも、どうしてあのとき木が倒れてくるのを避けなかったの?」
「あん時ゃ、ちょっとまずっただけだ」
「嘘よ。あたし見てたわ。アルス、あのとき身構えて翼も広げて明らかに何かしようとしてたのに、途中でピタっと動きが止まったじゃない」

 アルスはそう言われると、あーあと面倒くさそうに頭を掻くとどうしようかと考えるような仕草を見せて答えた。

「俺が埋まってた場所を見てみろ」

 するとアルスは少し恥ずかしそうにシュナから背を向けた。
 何事なのかとシュナは言われたとおりにアルスが埋まっていた場所へと行ってみる。倒れた木や枝葉が行く手を遮ってなかなかうまく進めなかったがようやく到達した。
 アルスのいた場所の周りはやはり倒れた木々の中心あたりで、木の幹がそこを中心として放射状の線を描いていた。だが驚いたことに中心部分はよほどアルスが勢い良く飛び出したのか、そのあたりには特に折れた枝葉が転がっており、地面が見えていた。そして地面の上になにやら毬栗(いがぐり)が何倍かに大きくなったようなものが三つほど転がっており、よく見てみるとそれはおわんのような形に中心がくぼんでいた。
 そしてシュナはあッと声をあげた。鳥の巣だ。
 空から数羽の小鳥が舞い降りてきて、それぞれが自分の巣の上に立った。三つの巣のうちの二つは卵があり、残り一つの巣には雛が一羽ちょこんと座っていて帰ってきた親鳥に餌をねだっていた。
 あのとき、アルスは倒れてくる木の上にある鳥の巣を見つけた。やろうと思えば大風を起こして木ごと吹き飛ばすことも可能だった。しかしそうすれば枝の上にある巣もただではすまない。だから彼は敢えて何もせずそして木が倒れてくる中ですばやく視界に入っていた三つの巣を掬い上げ、それをかばうようにして木の下に埋まったのだった。
 動物の表情はよくわからないが、そのときのシュナの眼には帰ってきた親鳥は半ば絶望的に思っていた自分たちの卵や子供が無事だったことに安堵しているように映った。
 いつの間にアルスが横に来ており、まだシュナが何も言っていないのになにやら言い訳がましく口を並べた。

「だってよ、なんかその巣を見たら自然に体が動いちまったていうか……、放っておけなかったていうか……」

 それがあんまり照れくさそうに言うものだから、シュナはおかしく思った。そしてまるで堰が壊れたかのように別の感情が溢れ出してくる。

「アルス……ごめんね。きついこと言っちゃって」

 アルスはすぐにあの屋敷での彼女の激昂のことを言っているのだと察する。

「んあ? 気にすんなよ。俺もちょっと無神経にポンポン言っちまったしな……。って、おい。どうした? 俺、なんかまずいこと言ったか?」

 アルスはシュナの見せている反応を眼にし、思わず慌てうろたえてしまった。
 見るとシュナは眼から次々と止めどなく涙を流し、自分の中で溢れる感情を抑えることが出来ず、嗚咽をもらしていた。アルスは自分が何か彼女を泣かせるようなことをしてしまったのかと狼狽する。シュナは必死にそれを否定しようとするが、涙と激しい嗚咽によってうまく言葉に出来ない。

「違うの……、ちが……う、……うっううううぅぅぅう……」

 そして彼女はまるで導かれるようにアルスに寄りかかると、ついに我慢することも出来ずに声を上げて慟哭した。バーンズロウの屋敷に来てからソフィアにさえも見せず、心の中に封印してしまっていた涙を、シュナはまるで堤防が決壊したかのように流した。
 アルスは自分に寄りかかってきたシュナをどうすればいいのか分からず、誰かから教えられたわけでもなくいつのまに彼はその大きな手をシュナの頭を覆うようにポンと載せた。そしてそのまま「どうすりゃいいんだ」と思いながら、彼はシュナが泣き止むのを待つのだった。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.12 )
日時: 2010/09/27 22:19
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −4−

 あと少し。
 シュナの足は既にこの山の中を走りまわって逃げたりでパンパンに張っていたが、シュナの目の先にあるもの前には瑣末なことに思えてしまう。ただひたすら彼女はもう既に眼と鼻の先まで迫っているその場所に向かって歩みを進めた。側にはアルスが付き添っている。

「着いた!」

 登り坂が終り、同時に森もそこで途切れひらけた場所に出て、シュナはその言葉と共に大きくため息を付いた。まだ少し寒さの名残の残る春の夕暮の中、二人はようやくその場所に立った。
 そこは山道の峠だった。最初、二人はそのまま下山しようと考えていたが、シュナはハッサムに追われてあちこちに逃げまわった結果、偶然元の山道の通る場所に差し掛かったのでせっかくだからとそのまま登ることにしたのだ。それに彼女としてはこのまま下山したくないと思った。
 アルスは当初、載せてやるよと言っていたがそれをシュナが断った。どうしても自分の足で登りたかった。
 そしてようやく差し掛かった峠。そこは山道を通るものの休憩場所となっているらしく、小さな広場があり山道から少し逸れたところに麓を見渡せる小さな東屋が建っていた。二人は特にお互いの合意を得ずとも自然のうちにその東屋の屋根をくぐっていた。全て木材だけで建てられており、木のテーブルに半径二十センチメートルほどの丸太をそのまま立てただけの椅子が用意されている。シュナはその椅子に座ったが、アルスにはどうにも合わないらしくそのまま地面に座り込んだ。

「わあ……こんな場所があったなんて」

 麓の街が一望できた。フィッツシティはそこまで大きな街ではないが、シュナの故郷のジェラルドタウンに比べれば十分都会と呼ぶに値する街だ。川べりにある駅を中心として背が低めのビルがぽつぽつと立ち並んでいる。バーンズロウ家の屋敷はこういった場所でもよく見えるほどの大きさを誇っているのだが、ここからでは山体の影になって隠れている。
 山の上から眺める街の姿はまるでミニチュア細工のよう。

「ねえアルス。どうしてあたしの居場所が分かったの?」

 視線を夕日に染まる麓の街に向けながらシュナが訊く。

「ああ、そのことだけどよ。お前が出ていってから大変だったんだぞ。すぐ戻ってくると思ってたら、あの後ソフィアって奴が来てなんやかやうるさく言ってさ」
「まさかソフィアに何かしたんじゃないでしょうね」
「まさか? それで俺もちょっと気になってよ。探しに行ったんってわけだ」
「ねえ、もしかして。探しに出る時、誰かに……」
「見られちまったな。お前んとこの庭にいた奴らとかにな。俺はめんどくさくてみなかったが、なんかギャーギャー叫んでたな」

 シュナは「あちゃー」と漏らして手のひらを頭に当てた。

「それからまあ、色々あってよ。お前を見つけたってわけだ」
「色々って?」
「色々って、まあ……色々だ」
「なによそれ」
「うるせえ。説明がめんどくせえんだよ」

 珍しくアルスが何かを言うことを渋ることがあるのだなとシュナは笑った。
 シュナを見つけるためにアルスが辿った内容は以下のようなものだ。
 屋敷をでたあとアルスはどこに行ったのか宛てもないままあちこちを探し回った。何のヒントもないまま探すので当然のごとく見つけられるはずがない。そのうちうっかり街中に出てしまった。フィッツシティはそこまで大きくない街ではあるが通行人の数はそこそこいる。それからが大変だった。
 なにせこのような街中に、到底現れるはずのないカイリューが姿を現したのである。ただでさえこのような場所で見られるはずなく、また図体の大きいポケモンであるため一般の通行人はパニックを起こしてあたふたと逃げまわった。さらに悪いことにはガラの悪いトレーナーたちがあろうことかアルスを捕まえようと襲ってきたのである。
 アルスはというとそういった者たちをほとんど無視してシュナを探し続けていたのだが、さすがに襲われたとなっては無視し続けることも出来ずに、受けて立ったのだ。とはいってもほとんど一蹴するように片付けてしまってそのトレーナーたちはヒイヒイ言いながら退散したのだが。

 そのうちあるトレーナーの持っていたゼニガメがシュナの乗っていた車が隣町に続く山の方に走っていくのを見たと教えてもらって、この山へと赴いた。しかし山に場所をある程度絞ったとはいえ、上空から探すにしても広すぎた。そしたら偶然その山に住んでいたラッタの親子が山道を女の子が登っていくのを見たと教えてもらい、山道をたどることとなった。
 そしたら遠くの方でなにやら木の倒れる音がして不審に思ってそちらの方へと急いで向かうとちょうどシュナがハッサムに襲われているところだったというわけである。
 
 反対側の山の向こうへ夕陽がおちていく。空はまるで朱を垂らしたように鮮やかな紅色に染まっている。少し肌寒さを感じる風が通りすぎていった。それに揺られた木々たちがサワサワと歌っている。
 そのとき木々の歌声に混じって麓の街の方から教会の鐘の音が風に乗ってやってきた。日没を告げる鐘を鳴らしているのだろう。それはあたかも歌っている木の葉たちに静かで厳かな伴奏が入ってきたよう。そして鐘の音が合図だったかのように東の空に一番星がポツリと光った。
 ゆっくりと静かに時間が流れているようだった。二人はしばらくの間言葉をかわさずに黙っていた。なんだか今野暮なことを言ったら今眼に見えている幻想的とも言える光景が崩れ落ちてしまうのではないかと思ったからだ。
 葉末を渡る鐘の音はシュナの心のなかにすぅっとまるで布に音もなく水が染みこんでいくように深く浸透していった。そしてついに鐘は鳴り止む。同時に太陽も向かいの山の向こうへと姿を消した。
 そのとき、まるで天啓を受けたかのようにシュナの心にある考えが浮かんだ。そして一度その考えが浮かんだが最後、どんどん大きくなりついにはその考えを実行する以外に手はないような気さえした。

「ねえアルス」
「なんだ?」
「……旅に出よう……」

 それはまるで極ありふれた日常の会話を交わすかのように自然に放たれた。
 アルスは一瞬あっけに取られて、何か言おうとしたがそれを遮るようにさらにシュナが続けた。

「あたし、あなたに会うまで自分が何をしても今の状況は何も変えられないとばかり思ってた。色んなものに縛られてるような気がして変わることを諦めてた。いや、変わることによるその代償が怖かったのかもしれない。鳥籠はとっくの昔に開いていたのに、抜け出す勇気が無かったの。でも、あたしやっと勇気が出せる」

 そしてシュナは「それに……」とつぶやいてさらにつなげる。

「アルスもあんな屋敷でずっと隠れてるように過ごすよりは、この広い世界に出るほうがいいでしょう? 記憶の手がかりだって見つかるかもしれない。ね? いいと思わない?」

 シュナはくるりと舞でも舞うように回ってアルスの目を見つめる。アルスは頭に右手を乗せてガリガリと掻いた。またこの仕草だ。このカイリューは何かを考えるときはこのように頭を掻くのを癖としているようだ。

「いいぜ。俺も早く昔のことを思い出したいしな」

 アルスはわざとシュナから目をそらして、その向こう側に映る紅色の空を眺めた。
 シュナの耳には先程の教会の鐘とは別の、心のなかで何かの鐘が鳴るのを感じた。その鐘の音はまた葉末を渡っていく……。

「シュナ、腹が減った」
「ああ、そうね。あたしもだわ」
「あれが食いてえ。リンゴが。……ん? どうした」
「……花畑といい、アルスって結構メルヘンなカイリューだったのかしら?」
「めるへん? なんだそりゃ」
「かわいいってことよ」
「か、かわ……い? う、うるせえ!」


 *

 ニ日後、バーンズロウ家の屋敷に一通の手紙が届いた。
 差出人はシュナ=バーンズロウ。


【 〜拝啓、使用人の皆様へ〜

 突然のお手紙失礼いたします。
 まずはこの前のことに引き続き、またしても突然居なくなってごめんなさい。そしてこれからも皆様にはご迷惑をおかけするかと思います。
 この家の当主である私、シュナは思うところがあってしばらく旅に出ることにしました。
 身の安全については問題ありません。知っている方もいらっしゃるかも知れませんが、とても頼りになる護衛としてカイリューが付き添ってくれています。

 思えば皆様には私が初めてこの家に来たとき、右も左もわからず家のしきたりにも慣れない私に協力してくれたり、優しくサポートしてくれましたね。
 そのことについては大変感謝しております。

 さて、私が旅に出ている間の皆様のお給金のことですが、全員無期限の有給休暇と致します。
 日頃お世話になっている皆様への私ができる限りの恩返しだと思っています。

 またちょっとした事故で私の持つ携帯電話が壊れてしまったので、新しくポケギアというものを買いました。
 もしどうしても連絡を取らなければならないことがありましたら、下記の電話番号までご連絡ください。
 新しい電話番号は070******1です。

 しばらくの間、多大な迷惑をお掛けすると存じますが、どうかよろしくお願い致します。
 そして皆様どうかお体に気をつけてお元気で。
                                         敬具

                               シュナ=バーンズロウ】


 
 シュナとアルスの不思議な旅 第一篇【旅の始まり】 −END−
 第二篇へつづく
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.13 )
日時: 2010/09/27 22:21
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 第一篇TIPS


【エノーラ地方】

 この物語の舞台となる地方。カントー、ジョウト、ホウエン、シンオウなどと同じ世界上にある地方の一つだが、それらとは全く遠くの別の国にある。
 使われているお金の単位は弗(ドル)。ドル換算はせずに日本円と同じに考えて良い。
 遥か昔は様々な王国、王朝が栄えていたこともあって各地に歴史的建造物や遺跡が残っている。
 気候は温暖で冬の寒さはとても厳しいがそれ以外の季節はとても過ごしやすい。
 そのため様々な地方のポケモンが混在している。
 


【キュロスの廃墟】

 キュロス山という山の麓に広がる樹海にひっそりと佇む屋敷。
 もう何十年も放置されているらしく、建物のあちこちに蔦が絡み付いていたり、朽ち果てている部分もある。
 地下に謎の空間があり、その場所にカイリュー(アルス)はアンノーンによって眠らされていた。
 一番近くの街から自動車で何十分をかけて到着できる場所。シュナはタクシーを使って訪れた。
 元々誰の屋敷で、いつごろ打ち捨てられたのか全くの謎。


【アンノーン】

 キュロスの廃墟地下で、卵の殻のような形になってカイリューを眠らせていた。
 シュナが触れるとバラバラになり、どこかへ消える。
 世界中の様々な遺跡でその姿が確認されている。特に有名なのはジョウトのアルフの遺跡とシンオウのズイの遺跡。


【バーンズロウ家】

 フィッツシティに屋敷を構える大富豪。
 元々フィッツシティでのいわゆる「地元の名士」という程度のものだったが、アルドによって急激に事業が拡大され、数々の企業を傘下に持つバーンズロウグループを創設した。
 アルドの死後、彼の遺言によって企業は親戚連に譲渡されたが、三百億弗もの私財と当主の座はシュナに相続された。



【シュナを狙う者たち】

 先述したようにバーンズロウ家の三百億弗もの私財はシュナ一人に全額相続された。
 そのことは他の親戚連の不満の対象となり、一部の親戚はその財産を横取りするためシュナに危害を加えようとしているという噂がある。
 実際シュナはキュロスの廃墟を訪れたとき、何者かに襲われた。結果的にはそれがアルスの発見につながった。


【シュナに届いた手紙】

 アルドの死後、シュナの元に届いた差出人不明の手紙。
 手紙の文字は印刷された活字のため、筆跡は分からない。
 手紙と一緒に二本の鍵が同封されていた。
 一本はキュロスの廃墟の地下室へ至るための鍵。もう一本は不明。
 手紙の内容は以下のとおり。

    “バーンズロウ家の新しい当主へ
     あなたが自分の身を守りたいと願うのなら、同封している鍵を持ってキュロスの廃墟へ行きなさい”


【バーンズロウ家に勤める主な使用人】

 バーンズロウ家邸宅にはたくさんの使用人が勤めており、それぞれが当主に忠誠を誓っている。

 
 ・ウィリアム=グラマー

 性別は男性。年齢は七十三歳。バーンズロウ家に勤める最も高齢で古株の使用人で使用人頭を担う。
 その年齢でありながら物腰はてきぱきとしており、若々しい。
 その様子は全ての使用人にとっての憧れの的。
 喋り方は淡白で、人によっては無感情のようにみえるが、分かる人にとっては言葉の端にユーモアが隠されていることが分かるのである。


 ・ナタリー=シュトッツマン

 性別は女性。年齢は六十九歳。グラマーに次ぐ高齢で古参の使用人。
 シュナの教育係で自分にも他人にも厳しい。
 完璧主義で屋敷の廊下に塵一つ落ちていることも許さない。

 
 ・マルタ=チェンチ

 性別は女性。年齢は四十三歳。
 声が大きくて世話好き。三児の母。仕事はてきぱきとこなすのだが細かいミスが目立ったり、要領よくさぼってたりする。
 おしゃべりと噂好き。    家政婦は見t(ry


 ・セバスチャン=ケルター

 性別は男性。年齢は五十歳。
 庭師長を務めている。彼の手にかかれば庭園はすばらしい芸術となる。
 神経質で仕事の邪魔をされたらたとえ相手が当主だろうと怒鳴っちゃうよ。相棒のラフレシアさんと仕事をする。


 ・ソフィア=アイシェル

 性別は女性。年齢は十六歳。
 最年少の使用人。孤児であり『アイシェル』は孤児院の名前。
 シュナと年齢が近いこともあり、いつも彼女の話し相手となる。ソフィア自身もシュナとの会話を楽しんでいる。
 ときどき探偵並みに勘が鋭くなることがあるが、普段はそそっかしく要領が悪い。


 ・エドガー=クランツ

 性別は男性。年齢は三十四歳。
 料理長を勤める。七ツ星ランクのレストランからの引き抜き。
 栄養バランスの取れてかつ、至高の料理を作るため日夜奮闘中。使用人への賄いだっておまかせあれ。

 他多数


【エト・アルス・ペルペチュア・ルシーテ・アイズ】

 シュナがアルドに引き取られる以前、ジェラルドタウンの祖母に教えてもらったおまじないの言葉の一つ。
 意味は「どんなときも光を見失うな」というもの。「光」を意味する言葉は「アルス」でこのおまじないからアルスの名前が付けられた。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.14 )
日時: 2010/09/27 22:22
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 さて、いよいよシュナとアルスの不思議な旅が始まりました。
 莫大な遺産を受け継いだ少女『シュナ』。廃墟の地下で封印されていたしゃべるカイリュー『アルス』。
 二人の旅はどこへ向い、どこへ行き着くのか。シュナを狙う輩は? アルスの記憶は? そして運命は二人をどこへ誘(いざな)うのか。
 【鍵の行方篇】。ここに開幕。



 



 シュナとアルスの不思議な旅 第二篇【鍵の行方】

 第六章「レマルクシティへ」


 駅の構内で鉄道の発車を告げる笛の音が鳴り渡った。勢い良く空気の出るような音とともに開いていたいくつもの扉が一斉にとじる。それから数秒の間をおいてから、一瞬だけ鋭い揺れが起き、列車は進み始めた。

「うおおお! すげえ! シュナ、こんなデカイくて長いのが動き出したぞ!」
「うん。分かってるから、あまりはしゃがないで」

 シュナとアルスの二人はフィッツシティの隣町モンテシティで旅支度を整えた後、街の中心にある駅からレマルクシティ行きの特急に乗った。
 なぜフィッツシティではなく、わざわざ隣のモンテシティにしたのか。それは先述したアルスが起こしてしまった騒動のせいだった。結局山の峠での決意のあとアルスは街で起こしてしまったことを告白した。シュナは呆れたが、そもそも自分が屋敷を飛び出したからアルスがそんな行動に出てしまったんだと思い直し、では隣町のオルキスに行こうと提案したのだ。

 二人がモンテについたのはもうとっくに日も暮れ、空には星星が輝き始めている時刻だった。それから街のポケモンセンターへ行ったのだ。
 いくつか説明が必要だが、まずポケモンセンターはほとんどの自治体に最低一箇所は置かれているポケモンの診療施設およびポケモントレーナーのための宿泊施設だ。小さな町や村だと一箇所、もしくは置いていないという場合もあるが、大きな街になると規模が大きかったり複数置いていたりする場合もある。
 このモンテシティの場合だと街の規模は隣のフィッツシティと同程度の小さな市であるためポケモンセンターは街の中心街に一箇所あるだけだった。ポケモンセンターの外観のデザインは町ごとで多少の違いはあれど、一目見てそれだと見間違わないようにどこも一貫してモンスターボールをあしらったデザインとなっている。屋根は赤く壁は白というデザインを基本とし、広い入り口の上にはでかでかと「POKEMON CENTER」と書かれた看板が掲げられていた。
 大概のポケモンセンターは一階がポケモン診療、二階がトレーナー宿泊施設となっている。どちらを利用するにせよまずは一階のロビーカウンターの総合受付に行くことになる。そこでトレーナーカードを提示して利用するというシステムなのだ。
 トレーナーカードは全国民が十歳になるとトレーナーになるにしろならないにしろ自動的に発行される証明書で、これによって人々はポケモンと一緒に過ごすことの出来る権利を得るのだ。だからシュナもトレーナーカードは持っていて、いつも財布の中に入れている。だが如何せんこのカイリューと出会うまでポケモンと一緒に暮らすことはおろか、興味もあまり示したことがなかったので、このトレーナーカードもずっと持ち歩いていながらこの時になって初めて使うこととなったのだ。
 翌日、朝からシュナとアルスは旅支度のために街中を奔走することとなった。

 一通りに旅に必要な物品等を揃えると駅へ行ってこの列車に乗った。
 ここ数十年で世間もポケモントレーナーに対する目は寛容になっており、この鉄道を有する鉄道会社はポケモンをモンスターボールから出したまま乗ることが出来るという業界初のサービスを実施していた。それまでは膝に載せられる程度の小さなポケモンならば他の乗客の迷惑さえかけなければ黙認のような形で乗せることもあったが、大々的な形でポケモンも乗車可能としたのは初めてのことであった。
 そのかわり、やはりまだ色々制限は設けられていて、あまりに巨大すぎるポケモンや重すぎるポケモンはやはりモンスターボールに入れなければならなかったし、一席をどうしても占有するほどの大きさのポケモンはトレーナーとは別にもう一人分の切符を購入しなければならない。
 アルスは大きさや重さの制限ではほとんどギリギリ許可が出たが、当然ながら乗るにはシュナとは別にもう一人分の切符を購入する必要があった。幸いなことにというか皮肉なことにというか、シュナはお金に困ることはなかったので難なく払うことは出来たのだが……。
 シュナとアルスは空いているコンパートメントの席を見つけ、そこに腰を落ち着かせ現在に至るというわけだ。
 アルスは初めて乗る鉄道に子供のように大はしゃぎで外を流れていく景色に見とれていた。椅子は元々人間向けに設計されたものだから座りにくそうな体勢になっていたが、そんなことは全く気にしていないようだ。
 コンパートメントは今シュナとアルスの二人しかいないので、アルスがしゃべっていても大丈夫だが、シュナはいつ車掌が切符の拝見に来たり、他の客が入ってくるかと思うと内心ヒヤヒヤした。

「人間ってすげえなあ! こんなデカイ鉄の塊を動かしたりするんだからなー」

 アルスのこのはしゃぎようでは、巨大な豪華客船やジャンボジェットなどを目の前にした日には卒倒するんではないかとシュナは思う。身を乗り出して次々と移り変わっていく窓からの景色にじっと子供のように見とれていた。その様子をじっと見つめるシュナ。シュナの目はアルスとその向こうにある忘れられた記憶へと向けられる。
 今のところ分かっていることは、まず自分に似た女性を見たことがあるような気がするということ。様々な種類、色の花々が咲いている花畑。その場所がどこなのかそこに住んでいたのかそれともただ記憶にある場所なのかはわからない。現在分かっているのはこの二つだけ。しかしこの二つの事項は今のところ何も結びつかない。座標の全く結びつかない点でしかない。それはまるでレストランで出されたウミガメのスープを飲んだ男が自殺した、さてそれはなぜかと問う問題のようだ。しかも難易度はそれよりも凶悪的な高さである上に、ヒントは絶対に教えられることはない。
 それにしても、アルスは人間のものにとても興味を持っているようだ。自動車や鉄道のことは知っていたようだが、乗るのはこのように欣喜雀躍(きんきじゃくやく)に舞い上がってることから分かるように初めてのようだったし、モンスターボールのことも初めて知ったよう……?
 そのときシュナが気づく。

 え? それって……?
 じゃあアルスって今……えっ? あり得ない。
 だとすると……まさかアンノーンってそんなことも出来るの……?
 いや、まだ確信するのは早い。そもそもポケモンの寿命は人間のそれとは違うかもしれないし……。
 それにあたしの記憶違いかもしれない。

「どうしたんだシュナ。難しい顔して」

 自分でも知らないうちに顔をしかめて俯いていたらしい。アルスが下からシュナの顔を覗き込んできた。いきなりアルスの顔が度アップで迫ってきたので、思わずシュナは声でもない声を上げて慌てる。勢い良く背中のモンテで買ったリュックサックが背もたれにぶつかった。

「ううん。なんでもないよ」

 しかしアルスはなにやら腑に落ちないらしく、何か言おうと口を開きかけた。だが、そこへまるで見計らったかのようにコンパートメントの扉がガラリと開き、車掌が切符の拝見にやってきた。
 慌ててアルスは口を閉じる。シュナも思わず無意味に背筋を伸ばした。
 車掌は初め、席にでかでかとカイリューが乗っている様にぎょっとしたような表情を見せたが、すぐに自分の中で納得したらしく誰に対してでもなく二,三度頷くとシュナに切符を求めた。
 シュナの分とアルスの分と二枚渡す。本来ポケモンはモンスターボールにさえ入れていれば料金は発生しないのだが、アルスはモンスターボールに入ることを嫌がった。「こんな狭苦しい物(もん)に入れだなんてごめんだな」というのが彼の言い分である。実際はモンスターボールの中はポケモンにとって快適な空間などと言われているが、アルス曰く「気持ちの問題」だそうだ。
 確かにアルスの言い分は理解できるなとシュナは思った。もしも、たとえ内装はとても豊かで快適でも外から見たら手のひらに乗るくらい小さいというヘンテコな家に住めと言われたら敬遠してしまうだろう。人によって意見は異なるだろうが、そういう点ではシュナとアルスの認識は共通していた。
 切符の拝見が終わると車掌はさっさと次の乗客の元へとコンパートメントを去った。
 そのとき列車はトンネルに入ったらしく、外が暗くなる。それに驚いたアルスがまたもはしゃぐ。

「うおおおおぉ! 急に真っ暗になったぞ。なんだ!? この世の終わりか!?」
「トンネルに入っただけよ」

 レマルクシティへは二時間ほどで到着するようだ。そしてこの二時間の間にアルスがしゃべることが誰にもバレませんようにとシュナは祈るのだった。


 *



 誰かの電話の受話器からの声

「……お電話失礼いたします。グラマーでございます。今お時間の程は?……はい。……はい、お館様が亡くなって早いもので三週間になろうとしてます。……はい、その件は誰も気づいていません。……。ただ、ソフィアには気をつけなければならないかもしれません。あのときうっかり彼女の前でモンスターボールを落としてしまいまして。……あれだけで気づいたとは思えませんが、彼女は普段呆けているようで時折勘の鋭いところがありますので。
 ……いえ、ただ少しばかり紆余曲折(うよきょくせつ)あったようですが。はい、シュナお嬢様はあなたさまのご予定の通り、あのカイリューとともに旅立たれました。……、それはお嬢様次第で私(わたくし)どもにはどうすることも出来ません。
 ……そう、お嬢様から使用人全員宛に手紙が届きました。内容は旅に出るということの他、使用人全員に有給休暇をくださるとのことです。……はい、どなたに似たのでありましょうね。……、いえ、お嬢様が旅立たれたことは全員には伝えましたが、有給休暇のことは敢えて伝えませんでした。……。たとえ無期限の休暇を与えてくださったとしても、屋敷の主がいつ帰って来てもいいように勤めるのが私ども使用人の使命なので。このことを知っているのは私とナタリーだけです。
 ……いえ、もったいないお言葉を感謝いたします。……。そうですね、場合によっては……それも致し方ないでしょう。……了解いたしました。私ももうしばらく経ってからそちらへ伺います。
 ……。いえ、こちらこそ突然のお電話失礼いたしました。……。はい、心得ております。あなたさまもどうかお体に気をつけて。では、失礼いたします」
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.15 )
日時: 2010/09/27 22:23
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

第七章「歴史の街の冒険」

 −1−


 プラットホームに降り立つと共に活気ある街の空気が舞い込んできた。その空気を吸い込んだシュナはそれだけで二時間もアルスがしゃべることがバレないかとヒヤヒヤしていた陰気な気分が吹き飛んでしまいそう。他の車両からも終点であるこのレマルクシティへやってくるために乗っていた乗客がぞろぞろと降りてくる。一人旅、家族連れ、シュナとアルスのようにポケモンを連れ歩いている者もいた。頭端式のホームであるため改札近くまで来ると全てのホームが見渡せた。さすがはこの地方で二番目の大都市のターミナル駅。いくつものホームから次から次へと列車が発着し、そのたびにたくさんの人々が行き交っている。構内のアナウンスもほとんど途絶えることなく、次々とやってくる列車の案内をしている。

「うわあ……!」

 改札を抜けて駅を出たシュナは思わず感嘆の声をあげた。レマルクシティ最大の特徴である昔ながらの赤レンガ造りの建物の群れが視界に飛び込んでくる。それらは正午の太陽の光に照らされて曙の空のように煌煌と輝いているように見えた。レマルクシティは昔から港町として栄えており、とても歴史が深い。そのため十年ほど前に国の歴史景観保護地域に認定され、このように伝統的な赤レンガ建築物が町中に建ち並んでいるのである。
 そして二人の視界にはこの街のもう一つの名物の姿が飛び込んでくる。

「おいシュナ。ありゃなんだ?」
「あれは路面電車よ。さっきまで乗ってたのが小さくなったものって言えばいいかな?」

 この街の名物の一つ。路面電車。元々レマルクシティは入り江の港が街に発展したものだったが、発展につれて海辺のベイエリアだけでは収まらなくなり、丘陵の斜面の開発にも手を出されてきた。そのためこの街は坂道が非常に多く、その坂道を自在に昇り降りするために、路面電車やバスなどの公共交通機関が飛躍的に発達した。
 街に住む人々は自動車を使うよりもこれらの交通機関を使ったほうが効率がいいことを知っているため、住民で自動車を日常的に使用する者はあまり多くない。
 そのことも相まってこの街はこの地方で有数の観光都市としても名を馳せており、毎年多くの観光客が訪れるのだ。
 街の住民の気質も相まってこのレマルクシティはいつも活気あふれる空気に包まれているが、古くからの街並みがそうさせるのか、情熱的でありながらもどこか落ち着いた雰囲気を街全体に漂わせているようだった。
 シュナはまず交番に寄った。制服を崩して着ている警官が応対する。

「すみません。トールキン弁護士事務所の場所を知りたいんですけど」
「ああ、トールキン弁護士事務所ね。ちょっと待ちな」

 そう言って警官は奥の棚から電話帳と街の地図を取り出し、まず電話帳で住所を調べ、それから地図で当該の場所を探す。弁護士事務所ととても十四歳の少女が行くような場所ではないであろうにも関わらず、警官はなんの頓着もなく探している。
 シュナはその間、交番の中を見渡して隅の方にある犬小屋の中にガーディが眠っていることに気づいた。両前脚をクロスさせるように置いて、その上に顔を乗せてぐっすりと寝息を立てていた。さきほどまで餌を頬張っていたのか、犬小屋の前には受け皿が置かれ、ガーディの口元にはポケモンフーズの食べくずがくっついている。シュナはその様子を目にして思わず口元を綻(ほころ)ばせてしまう。
 一方、アルスはというと交番の外で待っていた。交番の中の退屈そうな雰囲気を察知すると早々と外に出て、目にするものの悉くが新鮮な街の様子にアンテナを立てるのだった。

「おまたせ。この街の地図は持ってるかい?」

 そしてシュナはモンテシティで予(あらかじ)め購入しておいたレマルクの地図をリュックより取り出した。それを渡すと警官はパラパラと広げ、そこに交番の地図と照らし合わせてペンを立てる。

「おっと、君の地図に少し書き込むけど構わないかな?」
「ええ、お願いします」

 シュナの返事を確認すると、警官は彼女の地図にちょこちょこと何かを書き込む。そして書き込みながら説明した。

「まずはそこの路面電車の『カナベル公園行き』に乗って、『シスコ街四丁目』で降りる。次に同じ場所にあるバス停から『25系統リーマ車庫行き』に乗って……」

 警官はシュナの地図上の道に線を引きながらそれらを説明する。
 一方でアルスは早く終わらないものかとあくびをしていた。太陽の光は燃えるような赤レンガの街に燦々(さんさん)と降り注いでいる。まだ春だとはいえ、この強い日差しにはやがて来る夏の足音が聞こえてくるようだ。
 駅前のとおりにはまるでどこからか湧いて出てくるように人々が行き交っているが、その悉くがアルスに一瞬目をやっている。やはりカイリューが街中にいるなんて珍しいことなのだろう。ポケモンを連れ歩いている人間でさえ、一瞬ぎょっとした顔をする。アルスはそのような人々の反応は既にフィッツシティで体験しているから慣れているつもりだったが、やはり気持ちのいいものではない。それらの目線を気にしないようにぼんやりと空を仰いだ。

「ごめんね。お待たせ」

 ようやく終わったようだ。交番から出てきたシュナがパタパタとアルスのもとに駆け寄り、申し訳なさそうにアルスの顔を見上げた。アルスはすぐ側に警官が居たため言葉には表さずに、代わりに瞼を薄めてじっとシュナの顔を睨んだ。シュナの片手に先程リュックから取り出した地図が再び折りたたまれてあった。

「そのカイリュー、お嬢ちゃんのポケモンかい?」

 警官がいつのまに取り出したのか、タバコに火をつけながら寄ってきた。

「はい」
「すっごいねえ。カイリューなんてなかなかお目にかかれないよ。こんなに頼りになるパートナーが居れば旅先でも安心だね」

 シュナは自分が褒められたわけでもないのに、なんだか照れくさい気分になった。

「ただ、この街は人が集まる分、ガラの悪いトレーナーも集まってくるから気をつけなよ。特に最近は不良どもが集団でトレーナーを襲う事件も聞くから、危険を感じたら関わっていないですぐ逃げるようにね」
「はい。色々教えてくださってありがとうございました」

 シュナはぺこりと頭を深く下げる。警官はいやいやと言いながら小憎らしく制帽をとって軽く頭をさげると、交番の中へと戻り、また次の来訪客に備えるのであった。
 犬小屋の中に居るガーディーが目を覚まして大きくあくびをした。

「待たせてごめんね。行きましょう」
「なあ、お前の目的地までどうやって行くつもりなんだ?」
「ええっとね」

 そうつぶやいてシュナは手に持っていた地図を再び広げる。レマルクシティのほぼ全域が描かれた地図だ。駅を中心として市街地を示す薄紅色の表示が広がり、道路の線がまるで蜘蛛の巣のように広がり複雑に絡み合っている。そして駅を始点として黒い線が市街地の間を縫うように引かれている。その線は道に沿ってあちこちでカクカクと曲がりやがて街の内陸よりの東のエリアの一点で終り、そこに丸印が描かれてあった。他にもいくつか丸印で囲っている部分があるが、とりあえずの目的地は線の終点となっている場所であるようだった。
 アルスは地図の見方など分からなかったが、大体の見当はついた。つまり“ここからはわりと遠い”ということだ。

「えっとね。そこの路面電車に乗ってね……」

 シュナが先程警官から受けた説明を自分で確認するように復唱し始める。地図に指をさしながら説明している場所をたどる。とはいっても、アルスにとっては何を言っているのかちんぷんかんぷんなので彼は先程の質問を投げかけたことに少し後悔した。
 シュナもシュナで相手が人間のことをよく知らないカイリューだということをすっかり忘れているように説明を続けている。

「……なあシュナ。要するにどっちの方角なんだ?」

 ついにしびれを切らしたアルスがぶっきらぼうに問う。周りには人々が歩き回っているので、シュナにしか聞き取れないほどの小声だった。

「え? えーっとだいたい向こうが北だから……あっちね」
「なるほど。分かった」

 アルスはポツリと言うと、急にシュナの後ろ襟首をむんずと掴んでまるで親猫が子猫を運ぶかのようにひょいと彼女を持ち上げた。

「きゃあッ! ちょっとなにするのよ!?」
「そんな面倒くせえ行き方よりも、俺の翼があるだろうが」

 そしてアルスは放るように乱暴にシュナを背中に乗せると、翼をいっぱいに広げ大きく羽ばたくと地面を蹴り飛び立った。端から見たらまるで乱暴者のカイリューがいたいけな少女をさらっていったように見えたかも知れない。
 アルスはぐんぐん上昇していく、そのうちにこのレマルクシティの全景が広がった。シュナは思わず感嘆の声をあげる。それはさながら鮮やかの紅(くれない)の海と呼ぶべきか。赤褐色のレンガの屋根がはるか彼方にまで続いており、それが輝く太陽の光に照らされまるでサルビアの花畑のようだ。北のほうに広がる海は見事な水平線を描き、その水平線の向こうからまだちょっと季節の早い入道雲が顔を出していた。
 そしてさらに二人はこの街の最大の名物のその堂々とした姿を目にすることとなる。駅にいるときは大きな建物の影に隠れて分からなかったのだが、駅から東の方向に百メートルは越えている高さはある巨大な時計塔がその姿を現したのだ。この街の他の建物と同じように下部は赤煉瓦で出来ており、残りの尖塔の部分はおそらく鋳鉄のような金属で出来ていた。そして赤煉瓦で出来ている部位の最上部に直径十メートルはありそうな時計盤が嵌めこまれている。四方全く同じものがついており、それぞれが同じ時刻を教えているのだ。
 時計塔の時刻は十二時四五分を指している。

「なぁにが『アルスの翼にはなるべく頼らないようにする』だよ。そりゃあお前を乗せて疲れることはねえからありがてえが、少しは頼ってもらはねえと翼が鈍(なま)っちまうだろうが」
「だからってあんな乱暴な乗せ方はないでしょ!」
「そりゃすまん。だが人間の乗り物でチンタラ行くよりはマシだろ?」
「なによ。電車に乗ったとき一番はしゃいでたのはどこの誰よ?」
「うるせえ!」

 そして二人は目的地のトールキン弁護士事務所を目指す。
 シュナがこの街に来た最大の目的はトールキン弁護士事務所の所長であり、またアルドの古くからの親友で彼の遺言の立会人にもなったグラハム=トールキン氏に会うためだった。トールキン氏は晩年の狂気に陥りほとんど誰とも合わなくなったアルドが常に側に置いていた数少ない人物の一人であった。アルドの狂気は凄まじく、自らの書斎にはトールキン氏や主治医を含めたほんの数人しか部屋に通さず、シュナにすら会おうとしなかった。もっとも、アルドを憎んでいたシュナにとってはかえって都合が良いと思いつつもやはり血を受け継いた父親から会うのを拒否されることには傷つかずにはいられなかった。
 シュナがトールキン氏に会って最も聞きたいことは一つだった。それはバーンズロウ家の地下金庫の鍵の在処を知っているか否かということだ。シュナは旅立つ決意はしたものの、やはり自分を縛る最大の鎖である三百億弗の私財とバーンズロウ家の当主という肩書きをそのままにしておくわけにはいかないと考えた。この二つの事項がある限り、これからも自分を狙う者は後を絶たないだろうと考えた。しかし自らの意志でこの二つを放棄することはあのアルドの忌々しい遺言によって向こう十年は不可能となってしまっている。
 しかしアルドはあのビデオレターの中で言っていた。「これらの特別条項を無効とする条件はただ一つ。遺言書原稿の正式な破棄だが……」と。そしてその遺言書は屋敷の地下金庫の中に保管されている。だが地下金庫の鍵はアルドがどこかへ隠したっきりどこにも行方がわからない。シュナはソフィアをはじめとする数人の使用人にも手伝ってもらって屋敷中のあらゆる場所、それこそアルドが最後まで居座り続けた当主の間から庭園の用具倉庫に至るまで数日かけて探した。だが結局は見つからずじまい。
 だからシュナはそのうち鍵はこの屋敷には無いのではないかと考えるまでになった。
 そこでシュナはまず旅の目的としてアルドが死の直前まで側に置いていた人間に会い、鍵の手がかりを聞くことだった。映像の中のアルスは鍵の隠し場所は誰にも教えていないと言っていたが、それは嘘かもしれない。嘘ではないにしろ、誰かに在処の手がかりになるようなことを漏らしているかも知れないと考えた。その最初の一人がこのレマルクシティのグラハム=トールキン氏だというわけである。

 そのとき進行方向の左手から若い男の声がした。

「へーい、お嬢ちゃん! 遊んでいかない?」

 見ると金髪のサングラスをかけた若い男がオニドリルに乗ってアルスと並走するように飛んでいた。
 シュナはすぐにピンときた。さきほど警官が言っていた「ガラの悪いトレーナー」だろう。

「悪いけどあたし、用があるからあなたと付き合うつもりはないわ」
「そんなこと言わずにさあ。きっと楽しいよ」

 どうやらそう簡単に引き下がってくれるような輩ではない。そう理解したシュナは一つため息を付いて、アルスにささやいた。

「悪いけど、撒けないかな?」
「おう、任せろ」

 アルスがシュナにしか聞こえないほどの声で答えると、羽ばたく速度を上げ一気にスピードをあげた。後方のオニドリルとの差がどんどん開いていく。

「全く、舐めた子だな」

 金髪の男はそう舌打ちすると、オニドリルに追いかけるように命令する。
 オニドリルは一声鳴くと、同じように羽ばたく速度を早めアルスを追う。
 こうして昼下がりのレマルクシティで街についたばかりのシュナたちと街の不良トレーナーとの追いかけっこが始まった。
 先にアルスが動いた分オニドリルとの距離は十メートルほど離れているが、それ以上距離は広がらない。
 アルスはちらりと後ろを一瞥し、オニドリルとの距離がさほど広がっていないことに軽く舌打ちを鳴らすと、シュナに叫んだ。

「おい、ちょっとばかり乱暴な飛び方をするぜ。しっかり掴まってろよ」
「え……? あ、……うん」

 慌ててシュナは返事をすると、アルスの首元にしっかりと抱きついた。
 それを確認したアルスは、翼の角度を下に向けると突然一気に急降下を始める。まるでジェットコースターが最大の角度で一気に駆け下りるかのような無重力感がシュナを襲い、思わず叫びそうになった。だがその恐怖感を目を瞑ることで何とか咬み殺す。空気が頬を打ち、駆け抜ける風の音がまるで耳を突き抜けるようだ。
 真っ逆さまに高度を落とすアルスは一本の広いストリートにぶつかる直前にまで落下したあと、地面にぶつかる直前でまたも翼の角度を変え、瞬間的に道路と並行するような形で滑空する。一方で男とオニドリルの方も負けじと急降下しカイリューを追う。

「くっそ、なんなんだあの女とカイリュー!?」

 男は思うようにカイリューに追いつけないことに歯噛みした。アルスに比べ、オニドリルは急降下の角度が甘く、またアルスが地面すれすれで飛行角度を変えたのに対し、オニドリルはなだらかに曲線を描くように早々と降下をやめてしまったため、その速度に差が付き始めていた。
 一方でシュナは恐る恐る目を開けるととんでもない光景が目に入っていた。左右には赤煉瓦の建物が延々と続き、それに挟まれるように広い道路が敷かれ、その真上をアルスが滑空しているのだ。当然すぐ下には自動車が行き交い、また路面電車の軌道も通っている。しかも先程の空中での飛行に比べるとかなりスピードが増していること彼女は気づく。道行く人々が低空でさらに猛スピードを出して飛行するカイリューとオニドリルとに思わず目を白黒させる。しかし幸いなるかな、その待ちゆく人々の様子はシュナとアルスの二人の目には入らなかった。

 シュナはちらりと後方に目をやった。さきほどよりも差は広がったようだが依然としてオニドリルは追跡を続けている。ただのナンパでなんてしつこい、と彼女は思う。
 向こうが諦めないことにはこのままでは埒があかない。なんとか出来ないものかと考えているうちに、シュナはまず今ここはどこなのだろうと思った。
 シュナはアルスにじっとしがみついてうまく首が動かせない中、なんとか周りにこの場所の手がかりがないかと目を向けた。そのとき、この通りの名を現す案内表示板が一瞬だけ目に留まる。
 エムンステ通り。
 その瞬間シュナの頭の中に街の地図が浮かび上がる。ここがエムンステ通りだというのならそれはあのとき警官が教えてくれたルートの一部にそのような名前の通りがあったことを彼女は思い出したのだ。そしてあのとき何を説明されたのか、地図には何が描かれてあったかを件名に思い出す。今この場では地図を見たくても見ることが出来ないからだ。
 そして浮かぶ。そして叫ぶ。

「アルス、そのまま聞いて!」

 オニドリルに乗った男の方はようやくカイリューの速度が落ち始めていることにニヤリと笑った。
 すると次の瞬間カイリューがかくんと曲がり、路地の方向へと入っていった。

「ふん、路地に逃げようったってそうはいかねえよ」

 男はオニドリルに指示し、路地方面へと入らせる。オニドリルは器用に翼を動かすとほとんどスピードを落とすことなく曲がり、アルスが入っていった路地へと向かった。
 しかし曲がった瞬間男は目を丸くした。そこにカイリューの姿もシュナの姿もなく、またそこは路地だと思っていたが水路が流れ、建物と建物の間を縫うように流れる水がエムンステ通りをの下に流れていく。
 一体どこに消えたのかと男は探す。上かと思って空を見上げるがやはり姿は見えない。

「くッ! どこいきやがった!?」

 男もオニドリルもきょろきょろと見回すがやはりいない。
 と、そのときシュナの声が男の耳に届いた。しかも意外にもその声は男の後方より聞こえたのである。

「ごめんなさい。ちょっと乱暴なことするわよ」
「へっ?」

 なんとも素っ頓狂な声をあげて男は振り向こうとしたが、その瞬間体が硬直する。それは男だけでなくオニドリルもだった。
 シュナとアルスはこの水路に差し掛かったところで、男が追いついてこないうちにすばやく水の流れこむ通り下のトンネル部分に身を隠したのだ。そして男が来たところでアルスが電磁波をオニドリルと男に浴びせかけたのだ。
 弱い電流によって全身が痺れたオニドリルはそのまま飛ぶこともできなくなり、男と一緒に水路へと落ちた。バシャンと激しい水しぶきが上がったが、幸いなことにこの水路は底が浅く、十センチメートルほどの深さしか無かったため、男は二人は水路の底に尻餅を付いただけですんだ。

「ごめんなさいね。あたしも急いでいるので、失礼するわ」

 シュナは心底水路に落っこちた男とオニドリルを心配しているふうであったが、アルスは構わずさっさと再び空へと飛び立った。

「お、おぼえてろよ! このままですむと思うな!」

 男は捨て台詞を吐いたが飛び去っていく二人には聞こえたのか……。
 随分寄り道をしてしまったとシュナは思ったが、地図を確認すると結果的には目的地である弁護士事務所はもう目と鼻の先であることに気づいて安心した。

「すっごい。駅からたった十五分くらいで着いたわね」
「な? だからたまには俺の翼に頼れって言ってんだよ」
「でも頼ったおかげで、あんな変な人に絡まれちゃったじゃない」
「へッ。撒いたんだからいいだろ?」

 そのとき、二人の耳に低く重々しい荘厳な鐘の音が飛び込んできた。音のする方に目を向けると、あの巨大な時計塔が午後一時ちょうどを指していた。
 それぞれ音程の違う四つの鐘が交互に鳴り響き、同じような単旋律が四回繰り返されると最後に全ての鐘が一度に打ち鳴らされ、それがまた四回鳴り響くとようやく鐘は静かになり、街の大時計はまた黙々と時を刻み始めるのであった。
 鐘の音は風に乗って余韻を残し、その音色はまるで心を洗うように澄んでいた。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.16 )
日時: 2010/09/27 22:23
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −2−

 シュナが通された部屋は広い応接室だった。壁一面にかかる大きな窓からは外の街並みを眺めることができる。面が厚いガラスでできたテーブルとそれを挟むように深い赤紫色の長いソファーが置かれている。テーブルの上にはガラス製で意匠の凝った灰皿と包み紙入りの飴玉や一口サイズのチョコレートの入った籠が置かれており、いつでも来訪者のために備えてあるようだった。バーンズロウの邸宅のそれと比べるとやはり物足りなさを感じずにいられなかったが、そもそもが邸宅のそれが豪華すぎるのだと思い直し、シュナはソファーへと腰を下ろし、荷物を傍らに置いた。
 アルスは外で待たせてある。弁護士事務所のような場所にマリルやピカチュウなどの小さいポケモンならともかく、カイリューのような大きなポケモンを入れるわけにいかなかったからだ。シュナはこういうときくらいモンスターボールに入れと言い聞かせたが、アルスがどうしても聞き入れないので結局彼を外で待たせる形となったのだ。彼も人間の言葉をしゃべることを知られてはいけないということは理解しているので、人前で不用意に人語を披露するようなことはないと思うが、何か面倒なトラブルでも起こさなければ良いがと彼女は気が気でない。
 壁にかけられている時計がカチカチと時を刻む。時刻は午後一時二十分を少し過ぎたあたりを指していた。

 そのときシュナの目から見て左手にあるこの部屋の入り口である扉からコンコンと丁寧にノックする音が響き、シュナは思わず背筋をピンと伸ばした。キイッと蝶番(ちょうつがい)の小さな金切り声とともに戸が開き、その向こうから初老の男性が現れた。
 シュナも見覚えのあるその男性。身長は百七十を越えているほどだろうか。年相応ともいえるブラウンのスーツに身を包み、少々やせている。しかし肩幅がやや広いところを見ると、若いころはきっと立派な体格をしていたのだろうということがうかがい知れる。右手に持ってついている杖は歩行の補助よりもインテリア的な要素のほうが強いと見えた。
 グラハム=トールキン。このトールキン弁護士事務所の所長を務め、アルド=バーンズロウが死の直前まで交流していた数少ない人間の一人、そして彼の遺言の立会人となった人物であった。
 
「やあ、こんにちは。ようこそトールキン弁護士事務所へ」
「あ……、こんにちは」

 トールキン氏がにこやかに深々と頭を下げるのに対し、シュナも思わず立ち上がって同じように深々と頭を下げる。そして座るよう促されるので、お言葉に甘えて再びソファーに座りなおした。

「シュナ=ク……バーンズロウです。今日はお忙しい中、事前の予約もなしでこのような場を設けていただき、誠に恐悦至極に存じます」

 シュナは思わず母方の姓を名乗りそうになってあわてて言い直した。彼女は思いつく限りの丁寧な振る舞いをしようと動作がぎこちなくなってしまう。初対面や目上の者に対する言葉遣いや態度はバーンズロウ家でのナタリーなどからの躾(しつけ)の賜物であるが、やはりまだそれが板についていないのか舌を噛んでしまいそうになる。
 そのなんとも不器用に丁寧な言葉遣いの様子を悟ったのか、トールキン氏は老人特有の深くこもったような笑いをこぼし言った。

「そんな硬くならずに。あのアルドさんの娘さんなんだから、ただの友人同士と思ってリラックスして話しかけてほしい。まあちょっと難しいかもしれんがね」

 トールキン氏がそういってくれたおかげか、シュナは彼が入室してからずっと強張らせていた肩を下げた。ただ、アルドさんの娘さんなんだから、という言い方がちょっとだけ引っかかった。

「一応自己紹介させていただくよ。私はグラハム=トールキン。この弁護士事務所を創立し所長を務めてる。アルドさんとは同じ趣味の仲間でね。年齢こそ私のほうがずいぶん上だが、その道では彼のほうがずっと先輩だったよ」

 トールキン氏はまるでアルドとの交流を思い出すかのような感慨に浸るような表情を見せながら語った。

「そうなんですか。あの、父とはいつごろからのお知り合いだったのでしょうか?」
「ふむ……だいたい二十年位前ですかな。アルドさんは当時実業家として実力をめきめきと発揮させ始めていました。ところがそういった若く逞しい芽を妬む連中もおりまして、彼はそういう輩から運悪く目をつけられ謂れのない訴訟が起こったことがありました」
「では、そのとき父の弁護人を引き受けたのが……トールキンさんだったというわけですね」
「左様です。ああ、そんなトールキンさんだなんて……グラハムと呼んでいただいて結構ですよ」

 シュナは相槌を打ったが、なんだか腑に落ちない気分だった。
 隣の部屋で電話が鳴った。三回ほどベル鳴った後、聞こえなくなるとともに誰かの話し声が聞こえた。事務所に勤めている誰かが取ったのだろう。

「……その、トールき……グラハムさんから見て、父はどのような方でしたか?」

 それは自分は父、アルドのことを何も知らないと自ら告白するような質問だった。実際シュナはアルド=バーンズロウという男について、何一つ知らなかった。ただ、事業に成功した事業家で、自分の実の父親。そして、自分に三百億弗もの遺産とバーンズロウ家当主の座を相続させ死んだ迷惑な人物。何も語らず、何も教えず、最期を看取ることすら許さず逝ったシュナにとって憎むべき人物だった。

「そうですな……。実に気さくでユーモアのある方でしたな。そして友人思いの。実は私、数年前に癌手術を受けましてな。手術は運よく成功しまして、今もこのとおりいたって健康なのですが、手術後はしばらく入院して……そのお見舞いに彼は誰よりも早く真っ先に駆けつけてくれたんです」

 シュナは適当な相槌を打ちながら聞いていたが、やはり腑に落ちない。そして分からなくなってしまう。
 そして長年弁護士として軽く三桁を越える人物と接してきた経験から自然と彼女の胸のうちを見抜いたのか。トールキン氏は少し身を乗り出して問う。

「シュナさん。失礼ながらあなたが私を訪ねてきた理由を当てて見ましょうか? あなたはアルドさんがどこかに隠したという地下金庫の鍵の手がかりを探すためにおいでになられたのでしょう?」

 シュナはものの見事に自分の訪問の目的を言い当てられ、思わず言葉を詰まらせた。そして唇をかんで呼吸を整えると「はい。そのとおりです」と返した。

「父が……私に相続した莫大な財産と当主の座、これらを私は放棄したくて……そのためにあの遺言書のある地下金庫の鍵の在処(ありか)を知りたくて、ここに来たんです」

 シュナは言いよどみかけたが、思い切って腹を据えて言い切った。そしてどうやら弁護士はシュナが鍵を見つけた後どうしたいかの目的も予想していたらしく、特に驚いた表情も見せずに納得したようにうなずいた。
 そしてシュナはこのあと、なにから尋ねようと深呼吸して頭の中を整理した。

「グラハムさん。まず最初の質問ですが、あなたは父の遺言の立会人でしたよね。あの遺言書は間違いなく地下金庫に保管されているのでしょうか?」

 シュナはトールキン氏の目をじっと見据える。そしてトールキンのまなざしもさきほどまでの昔語りをして懐かしむような目ではなく、シュナを一人の依頼人として立ち向かう真剣なものとなっていた。
 そして彼は答える。口調こそ穏やかだが、その響きは何か張り詰めたものが含まれていた。

「はい。確かに間違いなく私と、ほかの何人かの方々との立会いの下で間違いなくあの遺言書は地下金庫へアルドさんの手で納められました」

 トールキン氏は「間違いなく」という言葉を強調する。単純でありながら、いや単純な言葉だからこそその発言は絶対性を帯びる。何の肩透かしもごまかしもない言葉。
 
「そうですか。では、……遺言書と遺言のビデオレターが作成された時期はいつごろでしょうか?」
「ふむ……。だいたい今から二ヶ月ほど前ですね。まず私の立会いの下で遺言書が筆耕され、次にあのビデオレターが……あなたもご覧になったでしょうがこれまた私の立会いの下で撮影されました。遺言書を金庫に保管されたのもそのあとのことです。おそらく鍵をお隠しになられたのも、その直後のことでしょう」
「じゃあ、鍵をどこに隠されたのかは知らないのですね」
「左様です」
「では――」

――なにか鍵の隠し場所について、なにかヒントのようなことは言ってませんでしたか?

 シュナはそういいかけた。しかしトールキン氏がそこで静止を促すように右手を手のひらを見せ付けるような形で前に突き出したのだ。

「慌てないで。シュナさん。私からもあなたに質問があります」

 静止されてシュナは自省した。

「シュナさんは……アルドさんのことをどう思っているのですか? そして彼のことをどこまでご存知でしたか?」

 シュナがアルドに対してどう思っているのか既に見透かした上での質問のようだった。だがいくら見透かしたと言っても、本人の口から語らない限りどんなに証拠を並べようと“憶測”でしかない。彼はシュナの口からシュナが自分の友人のことをどう思っているのかを直接聞きたかったのだろう。
 一方でシュナは自分が思っていることを口にしていいのか迷っているようだった。口の中の唾が心なしか固く苦いもののように感じる。

「私は……」

 いつもは自分のことを“あたし”と呼ぶ彼女だったが、やはりトールキン氏に対する敬意の念からか、自然に“私”と言う。

「グラハムさんに気を悪くさせてしまうでしょうけど、私は父のことを憎んでいます。父が私のことを引き取りに来るまで、自分には父親はいないものだとばかり思ってました。それが半年前にいきなり現れて、私はあの屋敷に引き取られました。でもそれだけです。あの人が私にやったことと言ったら、引き取って屋敷に住まわせただけ。ほかは何もしてくれませんでした。父はいつも仕事で家にいなくて、たまに帰ってきてもすぐに自分の書斎――当主の間と呼ばれてますけど――そこに引きこもって私には目を合わせるどころか、姿を見せることさえしませんでした」

 語り始めた最初はアルドに対する怒りの感情がこもっていたが、しだいにそれは薄れ逆に自分に対する情けなさが影を落とした。どうして自分はこうまで父親のことを何一つ知らないのだろう。いくら彼が何も語らなかった、何も教えなかったとはいえ、自分のほうからもっとアプローチすることができたのではないかとも考えた。

「私は父のことは何一つ知らないんです。あの人は私に何も話さず亡くなったので」
「ふむ……」

 トールキン氏は豊かな顎ひげをなでまわしながら黙想した。
 弁護士は今シュナがこれまで語った言葉を思い返し、その一言一言、単語一つに至るまでじっくりと吟味している風であった。
 しばらく二人の間に沈黙が流れた。弁護士は何かぶつぶつと独り言のようなものを呟き、ときどき自問を投げては「なるほど……」と自分を納得させていた。

 そのとき、再び扉がノックされその向こうから「失礼します」と女性の声が聞こえる。トールキンは「どうぞ」と入室を促した。
 扉が開くとスーツを着込んだ少々恰幅のいい中年の女性がティーカップとティーポットの載ったトレイを持って入ってきた。

「遅くなってすみません。ティーをお持ちしました」
「おお、ごくろう。シュナさんはルイボスティーは飲んだことあるかね?」
「いえ、初めてです」

 スーツの女性はティーポットを持つと二つのティーカップに交互に中の茶を注いだ。それは一見紅茶と同じように赤みのかかった茶色をしていたが、漂ってくる香りは甘ったるく、自分は大丈夫だがちょっと好みの別れそうなものだとシュナは思う。
 それからトールキン氏は茶の注がれたティーカップを手に取り一口、口に運ぶ。 
 
「最初はこの強い香りに敬遠される方もいらっしゃいますが、慣れるととてもおいしく頂けるのですよ。紅茶は――厳密にはこれは紅茶とは違いますが――香りを楽しむものですが、このルイボスティーは特にその傾向が顕著ですな」

 そしてシュナもティーカップを手に取った。そしてティーカップの底を見るように覗き込む。そこにはうっすらと自分の顔が映っている。そして彼女は口に運んだ。
 飲み込んだ後、思わずため息が漏れた。
 スーツの女性が出て行ったあと、トールキン氏はティーカップを置き、先ほど言いかけたことを始める。

「さて、シュナさん。あなたにとってのアルドさんを話していただきありがとう。実は私たち友人連の中ではアルドさんの家族の話は一種のタブーのような扱いになっていました。まずあれほどまでに深く愛し合っていたあなたのお母様であるエルザさんとなぜ別れたのかが今でも謎ですし……」
「お母さんと、父はそんなに愛し合ってたのですか!?」

 トールキン氏が続きに何かを言おうとしたところでシュナが思わず大声でそれを遮った。弁護士は急に大声を出されたのと意外な反応だったのとで一瞬目を白黒させた。

「え、ええ。それはそれは家内がいる私でさえ、思わず見てて羨んでしまうほどの相思相愛ぶりでございました。シュナさん、彼女があなたを身籠られたときもアルドさんの喜びようと言ったら、月並みな表現ですが今すぐ天に昇られてもおかしくないとも言えるほどでしたよ。ですが……、お二方はあなたがお生まれになる直前になって別れました」
「それで……?」
「はい、すぐに私も彼を問いただしました。ですが結果はあなたと同じ、彼は何も語らず、話さずじまいで、そのうち我々の中では先ほど述べましたようにこの話はタブー化しました」

 シュナは呆気にとられたような形で話に耳を傾けていた。
 ジェラルドタウンにいたころ、祖母は自分の父親の話を一切しなかった。そしてなんとなく聞きづらい雰囲気なので、いつのころからか自分に父親はいないものなのだと無理に納得させていた。だがここに来て分からなくなってしまう。
 どうしてそれほどまでに愛し合っていた二人が別れなければならなかったのか。トールキン氏の話ではアルドは自分が生まれることも心の底から喜んでいたという。いくら事業が忙しいとはいえ、これからの長いときを経て愛を育みあい、お互いがお互いを支えあい助け合うことを誓った二人がなぜ離れなければならなかったのか。シュナには理解できなかった。
 そしてさらに理解できないことは、トールキン氏ぶりから親しい間柄の関係の者同士ではアルドはとても仲睦まじく接していたという。トールキン氏ががんで入院した時真っ先に駆け付けたという話はその最たるものだろう。それはシュナの知るアルドの人物像とはあまりにかけ離れたもの。
 トールキン氏の知るアルドとシュナの知るアルド。一体どちらが実像でどちらが虚像?
 そのときシュナの胸の内にある一つの考えが浮かんだ。しかしそれはあまりにあり得ないことで、また理解できないことだったのですぐにそれを振り払った。

「それで、あなたの一番知りたいことは地下金庫の鍵の手がかりでしょうが。残念ながら私は何も知りません。ただほかの友人はまた別の手がかりを持っているかもしれません。ダリオ=ベックマンという方をご存じで?」
「はい。確か父の主治医だった方ですよね?」
「左様。もともとエンデタウンの町医者だったのだがアルド氏の体調の悪化とともにフィッツシティにしばらく滞在していたようだね。今はまたエンデに戻られてるそうだが」

 シュナは懸命にトールキン氏の言葉に耳を傾けようとしたが、妙に頭がぼんやりしてしまって受け答えするのがやっとだった。
 彼女はなんとか自分のこの気分を紛らわすきっかけを探し、部屋を見回したところで壁の時計が目に入った。壁の時計が間もなく十四時を迎えようとしていた。
 そのとき、かすかにまたあの時計塔の鐘の音が聞こえてきた。四種類の音色の鐘が交互になり、それが四回繰り返されると、また一度に四つすべての鐘が鳴らされる。

「おお、もうこんな時間か」
「今日はいろいろ教えてくださいましてありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ会えて嬉しかったよ。私のほうこそ大した力になれなくて申し訳ない」
「そんなことありません。全然知らなかった父のこと……知ることができましたから」
「それならよかった」

 トールキン氏は気をきかせて先に席を立つ。それによって先に立ち上がるべきか否かを迷っていたシュナを促すことに繋がるからだ。
 そしてリュックを手に持ち、シュナは部屋を出ようとしたところで、思い出したようにトールキン氏の方へ振り返った。

「最後に一つだけ、あ……今までの話と全然関係ない質問ですけど、いいですか?」
「ええ、どうぞ」
「モンスターボールが開発されて一般に普及したのって大体今から何年くらい前でしたっけ?」

 今までの話と全然関係ないと前置いていたものの、あまりに関係なさ過ぎてトールキン氏は一瞬質問の内容を間違えそうになった。
 そして、また自身の豊かな顎ヒゲを撫で回し始める。どうやらこの行為は彼が思考にふける際の一種の癖のようだった。

「ふむ……。今のモンスターボールの原型が開発されて普及したのは……だいたい五十年ほど前ではなかったでしょうか。私がまだ子供の頃だったということは確かですので」
「……ありがとうございました。では、私はこれで失礼いたします」
「いえいえ、もしご縁があればまたお会いしましょう」

 そしてシュナは一礼すると扉の向こうへと姿を消した。トールキン氏は質問に答えたとき、彼女の目に何かに驚愕したような色を見た気がした。長年甘たという言葉ではもはや足りないほどの依頼人と彼は接してきたが、その驚愕の色の向こうにあるものは彼には分からなかった。しかし詮索はしない。
 弁護士は再びソファーに腰を掛けると大きくため息を付き窓からの町並みを見下ろした。
 彼がただひとつ、シュナに教えなかったことがある。彼はシュナと最初に対面した時からそのことを言おうか言うまいかと迷っていたが、ついに言えずじまいだった。
 それはアルドの遺言が無事金庫に収められ、そして彼と最後の会話にて交わした言葉。

――グラハム先生……今まで色々迷惑かけて本当に申し訳ない。そしてありがとう。
――何を言うか。私の方こそ謝罪と礼を言うべきだろうよ。ほっほっほ。
――そしてこれからも……

 そこで何かを言いかけてアルドは言葉づまり。「今のは忘れてくれ」と言い直した。
 あのときアルドは何を言おうとしたのだろう。今となっては誰にも分からない。アルド=バーンズロウは今や冷たい墓の下なのだ。

「先生、先月の詐欺の訴訟の件で依頼のあったチェトラさんからお電話です。どうしても今すぐ先生にお話したいことがあると」

 さきほどの中年女性の所員が入ってくるなり言った。
 やれやれと彼は呟きながら、再び依頼人の声で頭を痛める日々に戻るのかと嘆くのだった。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.17 )
日時: 2010/09/27 22:24
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −3−

 外に出ると午後の力強い光が顔に当たり、思わず手を屋根のようにして目を覆う。
 このあたりはレマルクシティでもだいぶ中心から外れた場所であるせいか、また十四時という午後のまだ早い時間のせいもあるのか往来に人は少なかった。
 シュナは今になってグラハム氏の別れの挨拶をもっと丁寧にやっておけばよかったと後悔した。緊張していたのと、シュナの中で生まれた考えに気をとられそのことが疎かになってしまったのかもしれない。とはいえ、いまさらまた挨拶しなおしに行くのもなんだか具合が悪いのでシュナはそのまま歩き始める。
 結局地下金庫の鍵のことは分からなかったが父、アルドのことはある程度知ることが出来た。
 シュナはグラハム氏の語った言葉よりアルドのことについて、様々に思索をめぐらしていた。しかし今は手がかりもまだ少ない、今はこれ以上考えても無駄だろうと思い直し、いったんアルドのことについて考えるのはやめることにする。

「よう、終わったのか」

 シュナが少し歩いた街角でカイリューは待っていた。

「うん。ごめんね、何度も待たせて」

 ぱたぱたと駆け寄るとペコリと頭を下げる。しかしアルスは特に気にしていない様子で頭をポリポリと掻いていた。

「別に、俺も暇だったから好き勝手空飛んでたよ」

 アルスは気持よさそうに翼を動かしてみせる。どうやら待たせている間にどこか出かけていたようだが、いつ終わるかもわからないグラハム氏との対談を終わるまでずっと待っていろという方が無理だという話なのでシュナは特に気にはしない。とはいえ、なにか問題を起こしたのではないかという疑念はぬぐえない。アルスはそんなシュナの胸の内を見ぬいたかのように「心配すんな。ただ飛び回ってただけで何もしてねえよ」と加えた。

「そう、よかった。それで、どうだった?」
「ああ、楽しかったぜ。お前を乗せて飛ぶのも暇しねえが、自由に飛びまわるってのはなんっていうか……すっげえおもしれえ」

 アルスは子供のように目を輝かせながらシュナに言って聞かせる。まるで空を自由に飛ぶことのできないシュナちょっとだけ小馬鹿にしているようにも聞こえる。よっぽど楽しんできたんだなとシュナは、アルスが待たされたことに怒ってないんだと安心した。
 そしてシュナはパッと思い出す。ここがアルスがしゃべっているところを見られるかもしれない往来の中であると。慌ててシュナは愉快そうにしているアルスの口をふさいだ。アルスも人前でしゃべってはいけないことを思い出すのだが、やはり気持ちが弾んでいるところに水を差されたことに少しだけ不愉快そうな表情を見せる。シュナは申し訳なさそうに「ごめんね」と苦笑いしてみせるのだった。

「でも小声でしゃべるのなら大丈夫だと思うよ」

 それから二人は近くにある公園に移動した。公園はちょっとした運動場にベンチとブランコがあるだけの小ぢんまりとしたものだったが、敷地に沿って並木が植えてあり、ベンチに座ると外からは二人を丁度良く覆い隠すようになっていたので勝手が良い。それに今公園にはシュナとアルスの二人しかいないため、今ここではアルスがしゃべっても何も問題はない。座っている位置からは公園の入口が見えるため、だれかが入って来たらすぐに分かる。

「これからどうしよっか?」

 シュナは街の地図を広げた。ポケギアの時計を確認すると午後二時十分を少し過ぎたところ。

「別に、俺はどうしてもいいが」
「うーん、じゃあせっかくレマルクシティに来たんだし、ちょっと散歩するのはどうかな?」

 レマルクシティは観光の街。せっかくのこの機会にこの街の名所や町並みを少しも見物しないというのは嘘というものだ。シュナとしてはレマルクシティをあちこち回ってみたいというのも確かだったが、グラハム氏との話で少し頭が混乱していたので気分を落ちつけたいという意図もあった。
 そして再び二人は街の中心街近くへ飛んだ。中央の時計塔を中心点としたこのあたりの地域は自動車の乗り入れが禁じられており、広い石畳の道路は歩行者と路面電車のみが行き交っていた。
 道路の両端はテントを利用した簡易的な小屋による露店が並んでおり、これもまたこの街の名物の一つとなっている。街行く人々のほとんどは観光客で中にはポケモンを連れ歩いている者も多い。しかしカイリューというのはやはり稀少種であるためか、ときどき二人は物珍しそうな視線を感じることがあった。
 太陽は少し傾いているが、その輝きを失う気配はない。むしろまだまだこれからだと思えるように強い日差しを地上に注いでいた。街は観光目的の人間と露天に買い物に来る地元の人間とか入り交じってワイワイと賑わっている。

「すごい賑わいだな」

 アルスが小声でシュナに話しかける。

「うん。あたしも初めて来たんだけど、ほんとすごいね! 街並みも綺麗だし、賑やかだし」
「うーん、俺はこういうの苦手だな。こいつらただ歩きまわって何がしてえんだ?」
「あら、ポケモンにはこういう楽しさ分からないかもね」
「なんだよそれ」

 そして人々が行き交う流れのままに歩いていくうちにやがて時計塔のずっとまっすぐ向こうに見える通りに差し掛かる。やはりこの通りにも露店が軒を構えている。シュナは時々露店を覗いて普通の買い物をする場ではなかなかお目にかかれないようなものも目にする。アクセサリやどこからか輸入した珍しい食べ物やおみやげ品。眺めるだけでもお腹いっぱいなのだがシュナは何度か買ってみたい衝動に駆られる。しかしそのたびにまだこの先どれだけ続くか分からない旅の中で無駄に荷物を増やすのは駄目だと言い聞かせてなんとか抑えるのだった。

「うーん、悔しいけどまた別の機会に買おうかしら」
「だけど、こいつらにしてもお前にしてもなんで目の前に置いてあるのに誰も持っていかないんだ?」
「ああ、それはね……」

 と、シュナがアルスに振り返ると、彼は腕に大好物のりんごを五、六個抱えてそのうちの一つを美味しそうにシャクシャクとほおばっていた。

「あら、美味しそうなリンゴね。あたしにも一つ分けてよ」
「あいよ」
「ありがと。……それでね(しゃりしゃり)あ、おいしい。えっと、人間は誰かから物ももらおうと思ったらお金ってものを……、――ってッ!」

 そこでシュナはほおばっていたリンゴをプーッと吹き出し、ゲホゲホとむせ返った。

「――ッ! ちょっと、これどこから持ってきたのよ!?」

 突然シュナが怒鳴るものだから、アルスは何のことやら分からずきょとんとするが、後ろを向いてあの店だと顎でさした。
 二十メートル後ろの果物などを扱っている露店だった。店主はかなり年のいっているおばあさんだったが、どうやら居眠りしているらしくアルスが勝手に売り物のリンゴを拝借したのに気づいていないらしい。
 シュナは「ああ……」と声を漏らして、まるで貧血を起こしたかのように天を仰ぐのであった。
 そして二人は大急ぎで店へと舞い戻り、シュナは「ごめんなさい。ごめんなさい」と何度も謝りながらアルスが勝手に持っていった分のりんごの代金を払うのだった。一方で店主のおばあさんは自分が居眠りしていたこともあってか、ほとんど意に介していないかのように笑って応対したばかりかアルスを「元気な子だねえ」と感嘆してもちろんシュナが払った代金はもらったのだが、さらにりんごを二個サービスに渡してくれた。それがまた申し訳なくてシュナは何度もお礼にペコペコと頭を下げながら受け取るのだった。

「もう! 危うく泥棒になるところだったじゃない」
「いいじゃねえか。さらに二個くれたんだから」
「そういう問題じゃなくて……。とにかく、こういうお店に置いてあるものを勝手に持って行っちゃダメよ」

 そしてシュナは再びグラハム氏との対談の間、アルスをずっと外で待たせていたことを思い出した。とりあえずアルスが何もやっていないというのでその言葉を信じることにするのだが、これからはやっぱりアルスを一人で待たせるようなことは控えようと心に刻むのだった。
 どうやらアルスはお腹もすかせていたらしく、結局サービスで貰ったりんご合わせて合計八個あったリンゴの内七個をわずか数分のうちに芯ごと平らげてしまうのだった。残りの一つはシュナが食べたのだが、どうにもアルスがまた何かやらかさないだろうかと気になってほとんど味に気を回すことが出来なかった。

 やがて二人は時計塔がまっすぐ正面のずっと先の突き当たりで視界に収められる通りへと差し掛かった。このあたりに来ると露店の数はだいぶ減る。どうやら露店が賑わっているのは先程の通りまでだったようだ。時計塔の時計は午後二時五十分ごろを指している。もうすぐ三時の鐘がなる。
 道の途中に橋があり、その橋の下を流れているのは川というよりも水路というべきだった。

「“〜 レマルクの疎水 〜
 レマルクシティのように丘陵地帯を削るように広がっている街で起こる問題のひとつが水の問題である。現在のようにポンプの開発されていない時代は水は上から下に流すことしかできなかった。そこで当時の街の統治者は街から外れた山の向こうの水源に目をつけた。具体的にはその水源からの川の途中にある広い湖――これは街よりも海抜の高い位置にある――から水路を敷き、街の上部数箇所に上水施設を建て海抜の低いほうへと流した。街の地下には現在でも階段状の水路が張り巡らされてある。そのほとんどは現在は観光目的に残されているのみだが、一部は今でも運用されている現役である。”」

 シュナは橋を渡りきった所にある案内板を読み上げ、「へぇ〜」と感嘆の声を上げる。案内板の説明文の横には街の簡易的な地図と蜘蛛の巣ように張り巡らされている水路の図があり、今は使われておらずかつて水の通っていた穴だけが残っている部分は黄色、現在でも使われているものは青のラインで表されていた。

「あの変な人を撒くときに隠れたのもこの水路の一部だったのかもね」

 一方でアルスはほとんど興味なさそうに小さくうなずくだけ。そんな様子のアルスを目にしてシュナは少しだけムッとしてしまう。いくら自分がポケモンだからって少しくらい興味を示してくれればいいのにと内心彼女はぼやいた。
 と、そのときシュナは肩に誰かがぶつかるのを感じた。思わずバランスを失うが、なんとかよろめくだけにとどまる。自分がよそ見してぶつかってしまったのだと思い、あわてて頭を下げようとするが、その人間はまるで逃げるようにそそくさとシュナから離れていく。そして離れていく男が持っているものがちらりと視界に映ったときになってようやく異変に気づいた。

「あ! あたしのポシェット!」

 シュナはぶつかった方の肩に提げていたポシェットがなくなっていることと、男が持っているのがまぎれもなく自分のポシェットであることを同時に気づいた。そしてすぐに掏(す)りなんだと直感した。

「待ってっ!」

 ポシェットには財布やポケギアのような使用頻度が高い貴重品が入れてある。さらに財布の中にはお金はもちろんのことトレーナーカードやそのほか身分証の類が入れてあるので、盗まれたとなると大変だ。シュナは男に追いつこうと行きかう人々をうまくよけながら走るが直後に意外な事態を目にする。
 男はおもむろにモンスターボールを取り出すとそれを投げ、ボールからは一体のポケモンが姿を現す。全身を小麦色と黄土色の羽毛に覆われており、白と紅の美しい鬣を持っているピジョットと呼ばれるポケモンだった。
 そしてシュナが、それこそ「あっ」と言う間に男はピジョットに乗り、空へと飛び上がった。

「おい、追うぞ」

 呆然としているところにまたアルスが乱暴に半ば強引にシュナを背に乗せ、飛び上がった。その様子を周りの観光客から好奇の目で見られるのだがそんなこと今は気にしていられない。
 街に来たときに妙な男に追い回されたときとは逆の、今度はこちらが追う側となる空の追いかけっこが始まるのだった。
 周りの建物より高い高度までくるとすぐにピジョットの姿が目に入った。アルスは全力で翼を羽ばたかせる。するとピジョットは蛇行するように飛んだり、急に方向を変えたりでアルスを翻弄する。スピード自体はアルスのほうがずっと早いのにそういったトリッキーな動きでなかなか距離は縮まらない。

「くっそ。ちょこまか妙な動きをしやがって」
「ねえ、アルス。ちょっと変じゃない?」
「あん?」
「普通にあたしのポシェットを掏るだけなら、こっちにはアルスがいるっていうのにわざわざポケモンを出して逃げるなんて。そのまま人ごみに紛れればいいのに……。これってもしかしてあたしたちをおびき寄せてるんじゃないかしら?」

 そしてシュナは最初の追いかけっこで撒いた男の捨て台詞「このままですむと思うな!」という言葉を思い出す。外見からしてピジョットに乗っている男はあのときの男とは別人のようではある。しかしまさかあのときの男の仲間がなんらかの仕返しをしようと企んで、そのため自分のポシェットを盗んでおびき寄せているのではないか。さらにシュナは駅の警官が言っていた街の不良トレーナーのことも思い出す。
 このままでは何らかの面倒ごとに巻き込まれるだろうとシュナは直感するのだが、だからといって盗まれたままにしておくわけにもいかない。それにポシェットには財布やポケギアなどの貴重品のほかにもうひとつ彼女が大切にしているものが入っていた。

「おびき寄せるって、……まっさかあいつらかなあ」
「ん? アルスなにか心当たりがあるの?」
「ああ、お前がトールキンの弁当だかなんだかに行ってるときにちょっとな」

 この際、弁当と弁護士を間違えていることには目をつぶってシュナはその先を訊きだそうと思ったが、そのときアルスが突然高度を落とし始めた。
 見るとピジョットが同じように高度を落として、市街へと入り込もうとしている。
 
「どうする? お前の言っているとおり奴らの狙いだとしたら」
「うー……、ええいままよ! 変なことに巻き込まれたらごめんね」
「おう、任せとけ」

 そして二人はピジョットと乗っている男を追いかけて街へと降りていった。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.18 )
日時: 2010/09/27 22:24
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −4−

 このあたりは街というよりも倉庫街で、小さな工場や倉庫のような建物が立ち並んでいる。人通りはあれだけ観光客や露店への買い物客でにぎわっていた中心街に比べると、同じ街とは思えないほどガランとしていて歩行者など一人としていなかった。
 二人はピジョットを見失ってしまい、しばらく低空であたりを旋回していたのだが、やがて倉庫街の脇を流れる一本の水路の横を平行して敷かれている小奇麗な通りへ降り立った。シュナはえいっとアルスの背中から飛び降りる。
 このあたりは歴史景観保護地域としての規制も中心街に比べると緩いらしく、ほとんどが鉄筋とコンクリートでできた比較的新しい建物だった。なかには昔ながらのレンガ造りの建物も見受けられるが、中心街に比べると影を潜めていた。シュナはなんだか奇妙な感覚にとらわれた。この無機質な建物の群れとあのサルビアの花のような建物の群れとが同じレマルクシティという街の延長線上にあるというのがいまいち結びつかなかったがためだった。そんな不可思議なパッチワークを見たような感覚を彼女は率直に感想する。

「うーん変な感じね。同じ街のはずなのに、こんなに雰囲気が違うなんて」
「んなこと言ってる場合かよ。あの男とピジョットを探すぞ」
「ごめんごめん」

 それにしてもというか……。人影がほとんど見受けられないためか、それとも建物の雰囲気がガラリと違っているためなのか、もしくは日が傾き始めているためか、このあたりの地区は全体的に薄暗いといった様相が漂っている。今何時なのだろうとシュナは時間を確認しようと思ったが、時計がわりにしていたポケギアもポシェットの中に入れて盗まれていることを思い出してガクリと肩を落とした。さすがにここからは時計塔の姿も見えず、倉庫群の影に隠れてしまっていた。
 道の脇を流れる水路は音もなく緑色に濁った水を流し続けている。ときおり水面にどこからか落ちたのか枯葉を浮かべていた。
 そのときほぼ二人同時に「あっ!」という声を上げて立ち止まった。
 二人の目線の先――まっすぐに伸びてる道の先にあのピジョットがこちらをじっと見据えて佇(たたず)んでいた。そして二人がピジョットの存在に気づいたことに向こうが認識するとくるりと背を向け、流し目に一瞥するとぴょんぴょんと鳥が地面を歩くときの特有の動きで横にずらりと並んでいる倉庫群の物陰に姿を消した。

「……。こっちに来いって言ってるのかしら?」
「ああ、たぶんな」
「でも、何か罠だったりしたら……」
「んなら盗まれたアレ諦めるか?」

 アルスは牙を見せるように意地悪に笑う。だがそれとは裏腹にシュナはどきりと胸を打たれたような気がした。彼としてはただ単純にポシェットのことを指して言ってるに違いなかったが、シュナにとってはポシェットの中に入れているあの大切なもののことを指摘されたかのように思えたからだ。
 そうだ。何か妙な企みに巻き込まれるかもしれないとはいえ、中に入っている“アレ”を盗まれたまま諦めることなんてとても出来ない。

「ううん。絶対取り返すわ」

 思っていたよりも気丈な声をシュナはあげたため、彼は少し意外そうな表情を見せた。だがすぐにまたあの牙を見せつけるような笑い顔に戻ると軽く浮かび上がった。

「おう! 盗られたもんは盗り返さなきゃな」

 そしてシュナはひとつ深呼吸すると地面を蹴り走りだした。ピジョットを追いかけるのだ。アルスはシュナの横に並ぶように極低空で飛んでいる。本来ならピジョット相手にこんな人間の走りごときでとぼとぼと追いかけている場合ではないのだろうが、シュナはあのポケモンが自分たちを導き寄せているということを半ば確信していたので、見失わないようにと急ぐ必要もない。
 背中のリュックサックがガチャガチャと揺れる。駅かどこかのコインロッカーにでも置いて来ればよかったと少しだけ後悔した。これからは街を出歩く際はリュックは中から必要なものだけを出してどこかに預けるようにしよう。
 そう思いながらいくつかの倉庫の路地を見送った後、五つめの路地を通りすぎようとしたときに予想通り待ってくれていた。
 ピジョットだ。両脇に倉庫の無骨な建物に挟まれた路地の突き当たりのT字路と思われる場所に、やはりこちらをじっと見据えていた。そしてやはりシュナとアルスの二人が追いかけて来てくれたことを確認すると、T字路を左に移動した。

「やっぱり、あたしたちをどこかに連れていこうって思ってるみたいね」
「いったいなに企んでやがるんだ……?」
「うーん、思うんだけど。単純にあたしたちをおびき寄せて陥(おとしい)れようっていうのなら、こんな露骨にこっち来いみたいなやり方するかしら?」
「どうだかな」

 それから二人はさらに走り、ピジョットに導かれていくつかの別れ道や十字路を曲がった。いくつかの別れ道を経た際アルスが急に回りにチラチラと軽快するように視線を向けた。

「どうしたの?」
「どうも見張られてるみたいだな。それも何人かに」
「えっ?」

 シュナはそれまでもこの状況下で胸が緊張しつつあったのだが、アルスの言葉で胸はさらに高鳴りを強めた。ひょっとしてこれはアルドの遺産を狙う追っ手による罠なのではないかという考えがよぎったからだ。ごくりと唾を飲む。喉に引っかかりを感じるほど硬く感じた。

「だけど、敵意――少なくとも俺たちに攻撃しようって気配は感じねえよ。勘だけどな」
 その勘がどこまであてになるのか知れたものではないが、少なくともそのときはシュナの心に安堵を与えるには十分なものだった。しかしますますこれは何かよからぬ企みに巻き込まれつつあるという考えは確実なものになる。自分たちを監視している者が何者なのかはわからないが、おそらくちゃんとピジョットの導きに付いて行ってるかを見張っているのだろう。
 誰かの企みに乗ってしまっていることを自覚しながらも二人はピジョットをさらに追いかける。そこからさらにいくつかの通を通り過ぎたり十字路を曲がったりしていると、やがてピジョットはバサバサと飛び立つとある建物へ割れた窓から入っていった。
 その建物もまたこのあたりに数多ある倉庫の一つのようだった。鉄筋にモルタルの外壁にいくつかの小さな窓があったが、どうやら長い間本来の用途としては使われていないらしく、ピジョットの入った割れた窓もそうだが建物全体が草臥(くたび)れた印象を振りまいていた。よく見ると周りの建物も壁にスプレーなどで怪しげな落書きが施してあり、見方によってはある意味芸術的とも取れるが、それらはとても明るい印象といったものに程遠いものだった。
――どうする? 今ならまだ引き返せる。
 面倒事に巻き込まれたくないという臆病な気持ちが、まるで満潮時を前にして海の水がじわじわと引上っていくかのように大きくなる。元々こういう事態は避けるべきなのだ。ポシェットを盗まれたのは運が悪かったとして諦めたほうがいいかもしれない。警察にでも訴えた方が現実的と言えるだろう。
 しかしその感情を掻き消そうとするかのように別の気持ちも湧いてくる。
 “アレ”はどうするつもりなのだ? いくら警察に訴えようとも“アレ”が返ってくる保証はない。財布やポケギアなどはまだどうにかなる。ポケギアは単純に買い換えればいいのだし、財布とその中身もどうにかして屋敷に戻ればなんとかなる。だけど“アレ”は……。たった一つしかない何物も換えにはなりえない“アレ”は……。

「行こう。変なことに巻き込まれたら、そのときはほんとにごめんね」
「気にすんな。それに……」

 珍しくアルスが言いよどむ。そして気まずそうにシュナから少しだけ目をそらして続けた。

「たぶんこれ……俺のせいだから」

 意外な言葉にシュナは思わず目を丸くする。しかし少し思い出すとアルスはさきほども似たようなことを言ってた。

「さっきもそんなこと言ったわよね。いったいなにをしたの?」
「んまあ。あとでちゃんと話すからよ」

 そして二人は扉の前に立った。二枚の鉄の板による大きな引き戸のようだが、全体的に錆びていてきちんと動いてくれるのかは怪しいものだ。だがその心配とは裏腹に扉はシュナが引くと少しばかり重い抵抗はあったが、思っていたよりもすんなりとその口を開けた。
 開いた隙間から中を覗き込むが明かり一つ灯っていない上に、窓も割れている一枚を残して板で封印が施してあるらしくほとんど真っ暗と言って差し支えないほどだった。やはり倉庫だ。暗がりでよく見えないがここが何かを収め置くための空間であることは確か。天井の高さはゆうに十メートルはある。割れた窓と開いた扉からわずかに漏れいる光りに照らされて何かを保存しているだろうと見える木箱がいくつか目に入った。
 二人は中へと足を踏み入れる。コンクリートの硬い床が足に触れる。もはや中に誰かがいるとしたら二人が入ってきたことは明白なのに、それでもシュナはなるべく足音をたてないようにそろそろと歩みをすすめる。アルスは黙って付いてきている。さすがに今この場でシュナに話しかけるのはまずいと判断してくれたのだろう。
 
「やっぱり来てくれたのね!」

 語尾にハートマークでもつきそうな甘ったるい猫のようなレモン色の声が、建物の外壁に反響してこだました。同時に天井に吊り下げられている複数の電灯がカッと輝き、闇に包まれていた内部を光で満たした。そして直後気づいた。既に自分の周りに何人……いや二十近くもの人間がぐるりと自分たちをまばらに囲んでいた。中にはポケモンを連れている者もいる。
 二人を囲んでいる人間はどれも十代後半から二十代ほどの若い男女だ。そして誰もが外見からは全うな人間とは言いがたく髪の毛を奇異奇妙奇天烈な色や形に染めたり狩ったり伸ばしたりしていた。身体のあちこち、中には顔にまで刺青を入れている者までいる。そして皆が皆、不快不可解奇怪で不気味な笑みをニヤニヤと浮かべていた。
 アルスが身構えている。やるならいつでも来いと言わんばかりの目付きをギラギラと輝かせている。

「あっはっはっは。ごめんなさいね、驚かせて。そして来てくれてありがとね」

 再び女のレモン色の声だ。二人は声の方を向く。そこにいるのは一人の女性。傍らに一体のポケモンを従えて木箱の上に座っていた。ポケモンは巨大な犬のような姿。二メートル近くある巨体をたくましい前後の足で支えている。全身を深い体毛で覆っており、目元から尖った耳にかけてと胴体の大部分は燃え上がるような赤毛、さらに胴体の部分には黒鉛を思わせるような黒い縞が入っている。鬣(たてがみ)や胸元、しっぽなどはふわふわしたクリーム色の毛で覆われていた。ウインディとそのポケモンは一般に呼ばれている。
 女のほうはというと、長く輝くような金髪で座っているので背丈はよく分からないが、足がスラリと長いところを見るとおそらく結構な高身長なのだろう。まるでバイクのライダーが使うようなな黒い皮のつなぎを着ている。

「あなた方は……いったい……?」
「あら、怖がらせちゃったかしら? 心配しないで、別にあんたを襲おうなんて思ってないわ。ちょっとお遊びに付き合ってもらいたいだけだから」
「遊……び?」
「単刀直入に言うわ。あんたのそのカイリューちゃんとアタシのウインディ――かわいいかわいいファングちゃんとでレースしなさい!」
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.19 )
日時: 2010/09/28 07:33
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

第八章「私をレースに連れてって」


 −1−

 女はビシリと人差し指を立てた右腕をまっすぐアルスの方へと指した。
 レース。
 自分がその当事者となることのあまりない単語を耳にしてシュナは混乱する。アルスと……このファングと呼ばれたウインディとで、レース?
 思わずアルスの方へと振り向く。すると意外なことにアルスはこの状況をある程度理解しているように――少なくともシュナよりかは落ち着いていた。ただレースということはさすがに想定していなかったらしく、すこしばかり首をかしげている。
 女のほうもどうやらシュナには何かしらの説明が必要だと踏んだらしく、再び語り始めた。

「あんた今日、そのカイリューを散歩かなんかさせなかった?」

 散歩?
 その言葉を聞いてシュナは「えっと」と思索する。だがほとんど時間もかけずにすぐに思い当たる。
 シュナがグラハム氏のところで話をうかがっていた際、アルスを外で待たせていた。そしてアルスもここに来る途中その時に何かが起こっていたことを仄めかしている。

「ええ、ちょっとあたしが用事で行っているときに……彼、モンスターボールに入りたがらないから外で待たせてたんです」
「なるほどね。……、その前もあなたがその子で空を飛んでる時、変な男からナンパされなかった?」

 “その子”なんて呼ばれ方をしてアルスが露骨に顔を歪ませる。人間を目の前にしている手前しゃべることが出来ないが、もし出来ることならブースカ文句を言いたいに違いない。
 一方でシュナはナンパと聞いてすぐに節に思い至った。

「その反応ではどうやら心当たりあるようね。まあ、ちょっと面倒だけどあんたに納得してもらうために説明するわ
 まずあんたをナンパした男。もう想像は付いているでしょうけど、ソイツはアタシらの仲間の一人でね。気に入った女を見つけては誰かれ構わず手を出すような奴よ。正直言って痛い目を見て当然だわ。それで、ソイツがあんたたちに痛い目に合わされてなに考えてんのか逆恨みしてね。特にそこのカイリューちゃんにね」
「それでこんなことしたって言うの?!」

 ようやくこの状況を冷静に捉えることが出来たのか、シュナが少し口調を強くして噛み付く。

「あーあー、話は最後まで聞きなさいよ。あのナンパ野郎がどうなろうと知ったこっちゃないわ、正直あいつのこと嫌いだし」

 この女があのナンパしてきた男のことを歯牙にもかけない程度にしか思っていないことで、周りの人間はクスクスと笑ったり「かわいそうに」と嘲笑いながらつぶやいたりした。

「それであの屑、なにをしたと思う? 自分ひとりじゃカイリューちゃんに勝てないと踏んで、勝手にポケモンを持ってる仲間を呼び集めて集団で襲ったのさ」

 その言葉の意味することが一瞬シュナには理解できず、まるでピアノを弾く時に両手で和音をダンと鳴らすところをどちらかの手が半拍遅れてしまったかのような間を置いてようやく、そして息が詰まるように唖然とした。

「ちょっとッ! ……えっ、そんなことが?」

 シュナは再びアルスの顔を伺う。そして目があったが、彼は不機嫌な表情をしたままバツが悪そうにあさっての方向へと視線を逸らした。否定しないということは暗に肯定しているということに他ならない。シュナは混乱してしまう。確かにさっきからアルスは外で待たせていた間に何かやらかしたようなことを匂わすようなことを零していたが、まさかそんな大変なことが起きていたなんて夢にも思っていなかった。
 アルスは相変わらずバツが悪そうに視線をあちらこちらとシュナに向けないように泳がせていたが、ようやく「悪りぃ」と詫びるような視線をチラリとこちらに向けるのだった。実際声には出さずとも口は動いていたかもしれない。

「んまぁ、その子がほとんど怪我もなくてピンピンしてるところを見ると、結果なんて聞かずとも分かるでしょう?」

 アルスはフンと大きく鼻息を鳴らして腕を組んだ。その様子を視界に収めた女はクスリと笑う。

「それでその子にコテンパンにされちゃったアホどもがこのアタシに泣きついてきたってわけ」

 さっきから“屑”だの“アホ”だの酷い言われようだなと、シュナは被害者でありながらそう呼ばれてしまってる者たちにちょっとだけ同情してしまう。とはいえ、やはり因果応報というべきなのだが。

「正直言って無視してやろうと思ったわ。だってそんなの自業自得じゃない? 勝手に自分たちで喧嘩ふっかけておいて、勝手に負けっ恥晒して、それでこのアタシに泣きついてきたって虫が良すぎるもんだわ。こう見えてアタシ、そこらへんの分別は出来る方よ」
「じゃあなんでこんなことするの?」
「そこよ。ハッキリ言ってあのタコども(アホの次はタコと来たものだ)のために仕返しなんてするつもりはないわ。だけど一点だけアタシの興味をそそる所があった。あんたをナンパしようとした負け犬野郎。あの男自体は別にどうだっていいんだけど、あいつの持ってるオニドリルはなかなかのスピードの持ち主でね。あの子の追跡から逃れるなんてきっと相当の速さの持ち主に違いない」

 そこで女は一旦言葉の端を収める。そして視線をアルスに向けて口元だけでまるでずっと探していたものを見つけたような喜びを含んだ笑みを見せた。そして倉庫全体、周りにいる人間全員に目を配らせると、傍らに侍らせているウインディの首元を舐めるように撫で回した。ウインディは己の主の腕に遠慮無くまとわり、グルグルと気持よさそうに唸り声をあげる。

「要するにね、そこのカイリューちゃんがどれほどの速さを持ってるのかアタシは興味を持った。だからこのウインディのファングちゃんとレースして欲しい。だいたい説明はこんなもんでいいかしら?」

 シュナは言葉に迷ってしまう。なんだかこの女の勢いに乗せられてポンポンとあれこれの説明を受けたので頭の中がいまいち整理がつかない。でも結局はレースをして欲しいというところに落ち着くようだ。

「話は分かったけど……」

 シュナがそのあとに続く言葉を言おうとしたその刹那、女の姿が消えた。いや、……消えたように見えた。女とシュナとの距離は四メートルほど離れていたはず。だのに、シュナがほとんど瞬きしたくらいの真の間に、女はほとんど音もなく、あるいは風のようにシュナの間近にまで近寄っていた。もう女とシュナとの間は数歩ほどしかない。あっけに取られたシュナは思わず後ずさりアルスの腹もとにぶつかった。そして女はさらにシュナに押し迫り、鼻と鼻の先がぶつかりそうなほどにまで顔を寄せると猫なで声を流す。

「このトレニア様がこのいざこざを平和的な手段で解決してやろうって言うのよ?」

 初めて女が自分の名を名乗る。「これ、返して欲しいんでしょ?」

 いつの間にやらトレニアは手にシュナのポシェットを持っていた。シュナはあっと声を漏らし、反射的に返してと手を伸ばす。だがトレニアは意外にもその手を避けようともせず、何の苦労も、また遊びも与えずにすんなりとそれをシュナに取替されるがままにした。シュナは一瞬ポシェットを取り返すことが出来たことに喜ぶがすぐに別の不気味さが影を落とす。このトレニアという女は絶対にまるでペットから餌をオアズケと取り上げるようにシュナの手を退けるだろうと予想していたからだ。
 そしてトレニアの顔を見る。すると彼女はシュナのその妙な違和感に答えるかのようなうれしそうな表情をにやつかせていた。
 そして同時に気づく。さきほどトレニアからポシェットを奪い返した勢いでそのときには気付かなかったが、シュナの右手首に、まるで彼女を拘束するように……ひんやりとした腕輪のようなものが取り付けられていた。

「なに……これ?」

 シュナは目を皿にする。腕輪は全体が灰色で、表面はプラスチックのようなもので覆われている。それぞれ半円状のものを接合部と蝶番とで合わせられており、ガッシリとした接合部には鍵穴のような小さな穴があいている。そして手の甲側の部分に妙な膨らみがありその部分には小さな赤いランプが光っていた。

「悪いわね。アタシは気に入った相手とはなにがなんでも比べないと気が済まない性質(たち)なの。先に言っておくけど無理に外したら大変なことになるからね」
「大変なことって……?」
「それをね、外さないままこの街を出ようとしたら……それ、爆発するわ」
「なっ!? え、ちょっと」

 シュナは耳を疑った。爆発なんて普段真っ当な生活をするなら到底関わることのない単語。

「威力は打ち上げ花火くらいのものだけど、その程度でもそんなのが手元で爆発したらどうなるかしらね? それを外せるのはアタシの持ってる鍵だけ。無理に外そうものならそれでもドカンよ」
「なんで、外してよ!」
「嫌よ。そのポシェットを返す代わりにそれをあなたに取り付けたんだから」
「そんな……!」
「外して欲しいなら、このレースを引き受けて、そして勝つことね」

 この腕輪が爆弾だと聞いてシュナが慌てる様が滑稽だったからだろうか。周りから意地の悪い下品な笑いが耳を障る。シュナは自分を取り巻くこの異常な状況にまるで心臓を氷のように冷たい手でガシリ、ぺたぺたと鷲掴みされるかのような恐怖に怯え、ついに涙が出そうなほどになった。
 そのとき、ズズンとまるで地震が起きたような振動が建物に響き渡り、天井から砂埃がこぼれ落ちパラパラと音をたてた。シュナもまたその地鳴りに驚き出かかった涙が引っ込む。そして気づいた。この地鳴りの震源地は自分のすぐ後ろあたりだと。
 アルスが飛び立つ直前のような地面に踏ん張るような体勢で立っていた。どうやら今のはアルスが自分の体重を思いっきりかけ、地面を踏み鳴らしたことによって響いた音だったらしい。
 そして彼はギロリと苛立った目をトレニアに向ける。それを見た瞬間シュナは次にアルスが何をやろうとしているのかに気づいたが、それを止める間もなかった。

「テメエらいい加減にしろよ!」

 人間ではなく、ポケモンのカイリューであるアルスの声が堂内に響き渡り、それは石壁にぶつかりあい広い空間にこだました。シュナとアルスを除くその場にいた全員は一瞬、カイリューが人間の言葉をしゃべったという事実を信じることが出来ず、ある者はこの場に他に人間がいるのかときょろきょろと見回したり、またある者は自分の耳に届いた言葉とアルスの姿とがどうにも重ならないらしく何が何だか分からないといった様相を晒していた。トレニアとファングは周りにいた者に比べると幾分落ち着いていたが、やはり驚きを隠せないらしくお互いかおを見せ合った。
 だがアルスはそんな様子の人間たちには全くお構いなしに言葉を続ける。

「さっきから聞いてりゃなんだ? 最初に喧嘩ふっかけてきたのはそっちだってのにコイツのものを盗んでおいて、レースしろ? 挙句の果てには、さもなきゃ爆発だと? 勝手もほどほどにしろ!」

 アルスは一気にまくし立てる。おそらくずっとトレニアたちの手段や言うことに対して苛立を募らせていたのだろう、そしてついに堪忍袋の緒を切らしてしまったといったところ。
 もはや、ここまで来ると聞き違いや空耳ではすまない。周りの人間たちから口々に「しゃべった?」といったような言葉が投げかけられる。
 
「驚いたわね……カイリュ……あんた、しゃべれるの?」

 トレニアは冷静を努めるが言葉の端からはやはり驚きの感情が垣間見える。

「ああ。ポケモンがしゃべっちゃ悪いかよ? あと俺をカイリューちゃんなんて気持ち悪りぃ言い方で呼ぶな!」

 シュナは最初は止めようと思ったが、ここまで来てしまうともはや急な坂道でうっかりボールを落としてしまってそれを止めようと追いかけるくらい無駄だと諦めた。

「あら、ごめんなさい。アタシはかわいいと思ってたんだけどなぁ。じゃあなんて呼べばいい?」
「今はコイツからアルスって呼ばれてる」 

 アルスはシュナを指さす。

「アルスね。アタシたちが勝手だったことは謝るわ。でもね、アタシはただ純粋にね。あなたとアタシのファングちゃん。どっちが速いかを比べたいのよ」
「……本当か?」
「ええ。……それにしてもすごいわね。ポケモンがしゃべるなんて初めて見たわ」
「ふん」

 アルスは鼻息を鳴らす。「俺もなんで自分がしゃべれるのか知らねえ」と言おうとしたがこれ以上自分のことを言うのは面倒だし、第一自分ですら自分のことをよく思い出せないのだからそれ以上言うのをやめた。

「ねえねえ、なんでしゃべれるの? どうやってしゃべれるようになったのぉ? 教えてよ」
「うるせえ」
「ツレないわね。ファングちゃんもしゃべれるといいのにね。ねえ?」

 トレニアは再びファングの首元を撫で回した。そしてウインディは心地良さそうにグルルと喉を鳴らす。

「まあいいわ。それで、どうするの? あんたがカッカと怒ったところでアタシは鍵を渡すつもりはない。力ずくで奪おうってのなら海にでも下水にでも捨てるわよ」
「へッ! なら受けてやらあ」

 アルスは腕を組んでどっかと仁王立ちする。周りから「おお!」と期待と興奮の声があふれた。

「ちょっと、アルス? 本当に大丈夫なの?」
「ふん、気に入らねえんだよあの女。それに、それ外さねえと街から出られねえんだろ?」
「確かにそうだけど」

 シュナはアルスが自分に代わってしゃべり始めてからようやく頭を落ち着けるに至ることが出来た。それでトレニアが自分に付けたこの首輪は本当に爆弾なのだろうか、いくらなんでもそんな過激な真似をするだろうかという疑問も浮かんだ。実際に街を出て確かめることも出来るが、もしトレニアの言うことが本当でこの腕輪が爆発してしまったらと思うととてもそんなことは出来ないし、それ以外の安全な方法で真意を確かめる術(すべ)を持たない。彼女らにどうなのかと問い詰めてもおそらく答えは教えてくれないだろう。
 結局のところ、やはりシュナとアルスが次の街へと向かうためにはこの腕輪をどうしても外す必要があるのだ。

「ところでだ。シュナ」
「ん? なあに?」
「レースってなんだ?」

 アルスは自分の鼻面をポリリと掻いた。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 引越し完了+更新 ( No.20 )
日時: 2010/10/19 14:15
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E

 −2−

 シュナは返されたポシェットの中身を検め、確認した。
 まずは財布を確認。中も何かが盗られたような様子はない。まずはこれがなければ旅を中断せざるを得ないのでひとまずほっとする。次にポケギア。これも確認。メインのポケットにはあとはペンなどの雑多なものが元のとおり入っていた。
 そしてシュナが最後に確認する場所。サイドのポケットを探る。そしてほどなくしてポケットに入れた手は何か硬い物に触れる。シュナは掴んでそれを取り出した。それが何も恙無(つつがな)く無事な姿であるのを見て取ると深く安堵の息を漏らした。

「よかったぁ……」

 それはブローチだった。中央にまるで田舎の清浄な小川を思わせるようなエメラルドのような宝石がはめ込まれており、カリンの花を模したような黄金色の花弁細工がそれを囲んでいる。宝石の表面の光沢がまるでシュナの元に戻ってきたことを喜んでいるかのようにきらりと光った。シュナもそれに答えるかのように顔をほころばせる。
 そのブローチはジェラルドタウンに住んでいたころより祖母から持っているようにと言われたものだった。物心ついたころより常に自分のそばにあったと思うし、どこか外出するときにも必ず持たされていた。祖母は「これはお守りのようなものだからいつも持っていなさい。絶対になくしちゃだめよ」という言葉をシュナの耳にタコができるのを意図しているかのように常に言い続けていたものだ。だからいつの間にかシュナにとってもそのブローチは自分の命の次に大切なものであるかのように扱っていたし、村から離れるときも真っ先に荷物に持ったものだった。以前は外出するときはいつも衣服のどこかに付けていたものだったが、最近は付けることが妙に小恥ずかしくていつも持ち歩いているポシェットに入れるだけにとどめていた。
 それでもやはりいつも側に置いていたし、手放すようなことはこれまで一度も考えたことがなかった。そして絶対に無くさないように大切にしていた。なぜだか分からないが、まるでこれを失ってしまったら自分を守ってくれてる何かが消えてしまいそうな、なんとなくそんな気分にさせるようなものだったから。
 そのときトレニアがそうやって大切な物を取り戻し安堵している自分を見てにんまりとニャルマーみたいな表情を浮かべているものだから、シュナはちょっとだけ対抗する気持ちでぷいっとそっぽ向けるように顔を逸らした。
 取り戻したポケギアで時間を確認すると液晶には「15:32」という表示が浮かび上がった。

「ふふん、それじゃ説明するけどいいかしら?」

 いつの間にやらキャスターが付いているホワイトボードがどこからか運ばれ、その面にはボードいっぱいの大きさのレマルクシティの地図が貼り付けてあった。その地図にはところどころに赤いインクで番号が振られており、その番号はぐるりと街を囲むような位置にあった。

「ルールは簡単なものよ。まず挑戦者、この場合アタシとあなたね。挑戦者はパートナーのポケモンに乗る。ゴールするときは必ずポケモンとその騎乗者が一緒にいること。ポケモンか人間かどちらかだけがゴールしたって認められないわ。そしてここがスタート地点。この倉庫街の水路の通り。あんたたちも来る途中に通らなかった?」

 シュナは思い出す。この界隈に降り立ったときに最初にピジョットの姿を見つけたあの通りだ。地図の位置的にもそれで間違いないだろう。

「そこをスタートにしてこの赤い番号の印のついている場所を番号の順番で経由して最後にまたスタート地点に戻る。だいたいこの街をぐるりと一周するような順番になってるわ」

 二人は黙ってうなずく。
 さらに説明は続く。
 赤い番号で印されたチェックポイントにはあらかじめトレニアたちの仲間がチェックフラッグを置いているので、それをちゃんと持ち帰ることでポイントを通った証明になる。そしてチェックポイントを通ってゴールにいたるまでの道のりは挑戦者の自由。どこを通ってどこに至ろうとちゃんとチェックポイントを経由さえすれば構わないとのことだ。
 だが、その説明にシュナは首をかしげた。こんなルールだったら空を飛んで一直線に経由ポイントに行くことができるカイリューの方が圧倒的に有利なのではないかと。するとどうやらトレニアにはシュナがそんな疑問を浮かべていることを見抜いているかのようにまたにんまりと笑う。

「それで、次が重要なんだけど」

 トレニアが見せるはくあっと口開くあくびひとつ。そして彼女は周りを囲む彼女の仲間の方へをちらりと一瞥した。そして彼女の一瞥の的となった男が歩み寄る。

「あとの説明任せたわ」
「そりゃないですよ。いつもこの説明は僕にばかり任せて」

 そうぼやきながらも男はうれしそうに笑みを浮かべている。まるでこのトレニアという女に指名されたことを喜んでいるようにさえ見える。
 男は男性にしては背は低め一七○前後といったところか。それでもシュナから見れば少し見上げるほどはあるのだが。金色に染めた髪をツンツンさせている。細目に黒いフレームの眼鏡をかけており、少々猫背気味。それも災いして背が低く見えるのかもしれない。

「さ、あんたたちは準備してきなさい」

 トレニアが周りを囲む一同を見渡して、張りの込められた声で言い放つと「ハイッ! トレニア姐さん!」と彼らが不良集団であることを一瞬忘れさせてしまうような士気のこもった声を揃える。そしてときにシュナとアルスに向かって物珍しそうな目つきをなめるように上下させながら建物を出て行った。

「さてと、あとは僕が説明すればいいんですね」
「何か文句でも?」
「反抗しようにも、ただの機械弄りがわれらが姐さんに適うはずもないでしょうに」
「言っとくけど、ナンパするんじゃないわよ」

 それだけ吐くと、トレニアは元の上席ともいえる椅子の上にふんぞり返るのだった。
 男は苦笑して二人のほうへと向き直ると「やれやれ」と零しながら、右手の中指で眼鏡のズレを直した。

「こんにちは。僕はランジアっていうんだ」

 ランジアと名乗った男は二人に対して気さくに話しかけてくる。しかしやはりこの男もまたカイリューであるアルスがしゃべるだなんてアジサイの苗からヒマワリが咲くくらい夢にも思っていなかったらしく、アルスの姿を見回しながら「あー」とか「えー」とまるで夢の中の光景が現実になったかのような反応を見せた。一方でアルスはというとやはりトレニアの態度が気に入らないのか、威嚇するように翼を広げている。トレニアがナンパするなと言ったが、こんな威圧されてはナンパなんてする勇気なんて塵ほどにも湧かないなと彼は考える。

「さてと、これから話すことはよく聞いてほしいね。なにせ“ソレ”に関わることだから」

 ランジアが“ソレ”と指すもの。それはシュナがトレニアに付けられたこの爆弾腕輪だった。二人はギョッと顔をゆがませた。

「君は旅行者だろう? この街は何十年か前に歴史景観保護地域に指定されたことは知ってるかな?」
「あ、はい……」
「んまあ、その条例だかなんだかでこの街の開発には制限が掛けられてるんだけど、その中で今回の話に一番重要なのが『建築物の高さに関する制限』なんだ
 この街ではその条例によって新しく建物を建てるときは高さは二十五メートルまでって決められてるんだ」

 シュナは今日一日この街のあちこちを見て回ったが、確かに中心街ではともかく比較的市街から離れているこのあたりの地域もそこまで高い建物は見受けられない。だが、その話とこの腕輪と一体なんの関係があるのか。

「そして君をこの街から出さないようにしているその腕輪。作ったのはこの僕なんだ。姐さんから頼まれてね。これでも機械弄りは得意だから」
「んじゃあ外せよ」

 ズイっとアルスが首を彼の高さにまで落として詰め寄る。そしてシュナはそんなアルスの行動を後ろから引っ張って諌めるのだった。さすがにランジアも顔を引きつらせて思わず後ずさるが、シュナが引き止めてくれたのを見ると肝を冷やしたようにふうっとため息をついて返した。

「ダメダメ。トレニア姐さんの言いつけは逆らえないよ。それに姐さんは正々堂々とした勝負を好むからね。“ソレ”はそのためにあるんだ」
「どういうこと?」

 今度はシュナが詰まる。

「さっき条例で二十五メートル以上の建築物は建てられないって話をしたろ? その腕輪は装備者が地上から何メートル離れているか測定する機能も付いてる。ここまで言えばもう分かるかな?」

 問われ、シュナはどういう事かと考える。そして幾許かの時間も必要とせずに意味を理解した。

「まさか……地上から二十五メートル以上離れたら……」
「そのとおり! 二十五メートル以上離れても爆発するからね。僕の作品は優秀だからね。建物の上にいようとちゃんと地面までの距離を測ってくれるんだ」

 シュナは顔を強ばらせる。そして再び自分の腕につけられているこの爆弾腕輪を凝視した。そんなシュナに構わずランジアは続ける。

「これによって自ずと課せられるルールは一つ。『挑戦者は建物の上を跨いではならない。必ず道路、あるいは平地を通ること』。なあに心配しないで。二十五メートルを越えた瞬間にドカンといくわけじゃないよ。二十五メートルを越えるとここの赤いランプが点滅して警告音が鳴りだしてその五秒後に爆発する仕組みだから。うっかり二十五メートルを越えてしまっても五秒以内に高度を低めれば爆発しないってことさ」

 ランジアはまるで自分の創りあげた作品の素晴らしい出来を誇っているようにエッへンと腰に手を当てて胸を張った。そのとき彼の体がふわりと地面から離れる。何事かと彼自身がびっくりして思わず地面から離れた足と離れた地面とを交互に見回す。「えっ? えぇ?」

 答えはというとアルスがランジアの後ろ襟首を捕まえてそのまま吊るし上げたのである。アルスは無言のまま自分の顔とランジアの顔とをモンスターボール一個分にも満たない距離まで近寄らせてまるで噛み付くような目付きを彼に降り注いだ。ランジアは半ば笑っているような表情が顔にびしゃりと張り付いたように強ばらせる。ついにその緊張に耐えられなくなったランジアは後ろ襟首からつるし上げられたままバタバタと丘に上がったコイキングのように暴れて裏返った声を上げるのだった。

「うわぅあ! ごめんごめん、ごめんなさい! 降ろしてえ……!」

 アッハッハとその様子を見ていたトレニアが笑った。後ろにいるウインディのファングも笑っているのか喉をぐるぐる言わせている。

「そういうわけ。分かったかしら?」

 アルスは相変わらずランジアを持ち上げていじめているものだから、代わりにシュナが答えた。

「ええ、分かったわ」

 シュナは自分で出来る限りの毅然とした態度でその言葉を放った。それが少しはトレニアに伝わったのか、彼女はニコリと笑って「いい返事ね」と小さな称賛を向けた。
 それから二人はトレニアよりスタートはいつがいいかと問われ、シュナが考える間もなくアルスがいつでもいいぜと答えたのでトレニアはこれより約一時間後の十六時三十分と言い渡した。それまでの間彼女は少し仮眠をとるからとファングとともに奥へと引っ込んでいった。

「あと、これも渡しておくよ」

 ランジアは出来る事ならアルスの目の届かないところへと引っ込みたいと思っていたが、挑戦者である二人に対して自分に課せられている仕事がまだ残っている。それがまず彼がシュナに渡した何かの機械だった。液晶と思われる画面、フレームの一番端にアンテナのような棒が伸びており、一見ポータブルテレビかなにかのようだった。そのテレビのようなものには環状の紐が取り付けられており、首からペンダントのように提げられるようになっていた。
 どうやって使うものかとシュナがあれこれとぐるぐる回している様子を見かねたのか、彼はイライラしたようにシュナからテレビを取り上げて側面にあるスイッチを押した。
 すると液晶に画面が映り、まず中央から少し下の位置にピコンピコンと点滅する赤い丸印が表示され、そこを中心としてあらかじめ目には見えにくい溝が掘ってありそこに水を流すとその溝に沿って線が描かれるおもちゃのように様々な色の線が伸びていく。線は途中で折り重なったりあるところで途切れたりで様々な様相を見せた。程なくしてシュナはこれは地図だと直感した。そしてご名答ですと言うかのように、最後に画面の右上に東西南北を示す方位磁針が表示された。

「これは車なんかについているカーナビにちょっと僕が手を加えたものさ。君はこの街に来るのは始めてだろう? それだと地の利は圧倒的にこっちにあるからね。ええっと、これをこうしてと……。ほら、こんなふうにチェックポイントを経由したスタートからゴールまでの道筋を最短距離で示してくれるよ」
「あ……、ありがとう。ランジアさん」

 それはシュナの素直な言葉だった。
 お礼を言われることなんぞ想定していなかったのか、ランジアはいきなり投げかけられたその言葉にどう反応を返せばいいのか分からずあたふたと手をバタバタさせる。

「え、わっ、いやお礼を言うのはよしな。敵に塩って奴だよ。姐さんはそういうのも好きだからね」

 ようやく落ち着いたランジアはまるで奇異な目をシュナに注ぐ。

「まったく、変わった奴というか、人がいいっていうか……」
「あの、ランジアさん」
「なんだい?」
「これって、本当に……その爆発するの?」

 シュナは自らの視線を腕輪へと向けた。ランジアは言葉になってない声をひとつ漏らし、何事かを言うのを考えているようだった。そしてちらりとアルスの表情を伺う。幾許かの沈黙ののちにコホンと一つ咳払いをするとようやく口を開いた。

「ああ、そうだよ。爆弾というよりも花火だけどね。破裂しても死ぬほどの火力はないよう調節してあるけど、少なくとも……その、装備している手は……使い物にならなくなるね」

 ランジアは出来るだけ遠まわしな言葉を選んだつもりであったが、それだけで十分すぎるほど伝わる。シュナはそれを聞くと少しだけ複雑そうな表情を見せなにか思案しているような仕草をのぞかせた。
 そしてちらりとアルスに視線を注ぐ。アルスは何も言わなかったが、その表情にはこれからシュナが言わんとしていることを促しているようだった。再びランジアへと視線を向ける。いや、正確にはランジアを通り越してその向こう、今は奥へと引っ込んでいるトレニアへ向けられたのかもしれない。

「分かったわ。改めてこのレース、受けてたちます」

 声には気概にあふれた張りが込められていた。その勢いに気圧されたのかランジアは少し驚いたような表情を見せる。そして右手の中指で再び眼鏡のズレを直すとニヤリと笑みをこぼした。

「そうかい。じゃあまた一時間後に。言っておくけどトレニア姐さんを甘く見ちゃあダメだよ」

 それだけ言うとランジアはもう何か伝えるべきことはなかったかなと少しだけ考えたのち「それじゃあ」と、くるりと二人に背を向けて奥へと引っ込んでいった。あとにはシュナとアルスの二人だけが残る。
 ランジアの足音が遠ざかるとアルスはポツリと呟くように吐いた。

「悪りぃ……」
「なにが?」
「いや、人間の言葉でしゃべっちゃいけねえっていう言いつけ破っちまって」

 ああ、とシュナは合点のいった返事をした。

「ううん、いいよ。あそこでアルスが助け舟だしてくれてなかったらあたしどうしたらいいか分からなかったし」

 シュナはさきほどの、この腕輪を外してくれと喚く己の情けない姿を思い出してカッと顔を赤く染めた。
 
「あー、あんときのお前はなかなかおもしろかったな」
「んもう、言わないでよ」

 顔を赤くしたシュナはアルスの背中をぽかぽかと叩くのだった。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 ( No.21 )
日時: 2010/11/13 18:48
名前: レイコ

こんばんは。こちらでは初めて感想を投稿させて頂きます。

ズバリ巻き込まれる一方で、様々な厄介事を背負い込んだシュナの旅立ち。
アルスという頼りがいのあるこのカイリューがいてこそ、大きな決断が出来たのですね。
しかし一方でアルスもまた自分の正体がはっきり分からない訳で、ある意味人に構っている余裕はないはず。脳天気とも豪快ともいえる彼の明るさに救われる場面は多いです。
不思議と波長があったらしいシュナとアルス。両者の意見の一致で始まったかに思える旅路も、どうやら怪しい人物が裏で糸を引いていると伺える描写もちらほら……
感想というよりあらすじのような形になってしまいましたが、詳しい語りは長くなるので今回は省略させて頂きます。
ああでも、これだけは言わせてください。早くトレニア&ファングとのレースを読みたいものです。
次回の更新が待ち遠しいです。それでは。
メンテ
第八章「私をレースに連れてって」 −3− ( No.22 )
日時: 2010/12/20 18:37
名前: わたぬけ◆OdnfD8pLTQ ID:MkIoGqb2

>レイコさん
ほんとに巻き込まれ体質な二人組でございます。
そもそもアルスが自らの記憶喪失にもかかわらず、すんなりとシュナについていく気になったのか。
ちょっとしたヒントですがこれも物語に関わるちょっとした謎となってきます。

>ああでも、これだけは言わせてください。早くトレニア&ファングとのレースを読みたいものです。

そんなこんなで二か月も待たせてしまって本当に申し訳ないですorz
ファングのキャラ設定に無駄に悩み過ぎたので/^o^/ヘイコウシヘンケーイ
これからもなんとか精進いたします。







 −3−


 天候甚だ良好。太陽は西の空へと傾き、暖かな夕色はレマルクシティの半天に、ほの紅(くれない)の靄のように広がっている。西日に晒される街の空気はぬるりとした熱気を孕んでいた。
 時刻は十六時二五分。あとわずかという時間でシュナとアルス対トレニアとファングによるレマルクシティ一周をコースとしたレースが始まる。
 シュナとアルスの二人は既にスタート地点にいて、いつでも開始してもかまわないように準備を整えていた。スタート地点であるこの場所は横に数百メートルにわたって水路が並行している倉庫街で、道の端の終わりあたりに石造りの門が建っている。この門がスタートとゴールを表すゲートというわけか。そして二人はその門の前に立ち、周りには誰が呼んだのか数十人のギャラリーが取り巻いている。最初に倉庫で囲んでいた連中もその中に混じっている。取り巻きたちはシュナとアルスとに交互に視線を浴びせては隣にいる者とぺちゃくちゃとしゃべったり囃し立てたりしている。だがシュナに囃し立てる声はすぐに静まる。アルスがそのたびにぎろりと声のした方向へと睨みを利かせるからだ。どうやらアルスはそういう囃し立ての声をイコール害をなす存在とみなしてしまっているようだ。ただこの場合それでだいたいあってるわけだが。
 そのときワッと大きな声が上がった。そして次の瞬間横脇に並ぶ倉庫の屋根の上から、ウインディの赤々とした巨体がまるで隕石のように落ちてきて、地面に降り立った。ウインディの四本の足が地面につく際は、あれだけの巨体を誇っているにもかかわらずまるで猫が降り立ったかのごとく、ほとんど音も立てずにしなやかだった。まるで巨大な火炎が獣となったかのようなそのウインディの背に乗るはトレニア嬢。はたして“嬢”と呼ぶに値するかどうかはともかく。
 トレニアは長い燃え盛るような金色の髪を靡(なび)かせながら装着しているゴーグルを外した。そして挑戦者たるシュナとアルスに視線を移す。これより始まることを純粋に期待しているのか彼女はニヤリとさも楽しげな笑みを見せた。周りの声の大きさが一段と増した。その声に気圧されてシュナは思わず目元を少しだけ歪めた。

「調子はどうかしら?」

 トレニアはファングの背より降り、猫なで声でシュナに話しかけた。目には相手をまるで小馬鹿にしたようなものが映っている。そんな彼女の態度にシュナはちょっとだけ対抗心を見せつける。

「ええ、いつでも大丈夫です」

 その声にはある種の決然としたものが含まれていた。
 シュナは腕に付けられてる爆弾腕輪に一瞥する。これを外すにはともかくこのレースに勝つしかない。このトレニアという女を始めとするこの集団の狙いがなんなのかシュナには図りかねた。このレースというものが意図しているところも、よく分からない。本当にただレースがしたいだけなのだろうか。その答えを知らないのはこの中で自分たち二人だけだろう。あるいはトレニア本人だけかもしれない。しかし今はそこを問いただしたところで状況は変わらないことはシュナも理解していた。トレニアはそのシュナの返事を耳にし、「楽しみね」とだけ投げた。するとトレニアはつかつかとシュナに歩み寄り、二人は文字通り目と鼻の先ほどの距離にまで近づいた。
 そしてトレニアはシュナの耳元で彼女にしか聞き取れないほどの声で囁いた。
 
「あなた、あのシュナ=バーンズロウね」

 きっと相手方は自分の名前や正体を知っているだろうと予想はしていたものの、それを聞いたシュナは外見からはそれと分からないが一気に全身に緊張が走った。
 
「どうしてあのお金持ちのお嬢様がなんの護衛もなくこんなところにいるのか知らないけど、アタシにはそんなのどうでもいいわ」
「あたしがバーンズロウだと知ってこんなことしたの?」シュナは思わず口を鋭くした。
「さあ、それはどうかしら? まあ、楽しみましょう?」

 そのようにしてトレニアはわざとはぐらかす。それから彼女は身を退いた。シュナは待つように声を上げた。

「なにかしら?」

 そのときになってシュナは待つように言いとめたは良いが、なんと声をかければいいかが分からなくなってしまう。

「えっと……、これ。本当に爆発するのよね?」

 そうしてシュナが口に出した言葉はなんだか自分で言ってて間が抜けているような気がした。だが口に出してしまったものはしょうがない。この爆弾腕輪のことを訊いてやろうとシュナは思った。

「ふふん。さあ、試してみればわかるんじゃない?」

 それだけ言ってトレニアはシュナから離れた。待ちなさいと言ってやりたかったが、シュナもシュナでトレニアはこうしたシュナの反応を楽しんでいるんだということに気付いてわざと口をつぐむ。これ以上なにか言おうとしても、それこそ彼女の思うつぼなのだ。
 一方でアルスは目の前に立つウインディへジロリと睨んでいた。対してファングと名付けられているウインディはアルスのことなんて興味なさそうにあさっての方向へ向いている。向こうから話しかけてくる気配はない。ならばこちらから話しかけてやろうとアルスはファングにポケモンの言葉で声をかけた。

『あー、お前も大変だな。あんなのがパートナーで』

 少々苛立っていたせいかもしれない。アルスは思わず相手の神経を逆なでるような言葉を吐いた。だが相手の方はその言葉を特に気にも留めていないのかほとんど表情を変えない。さきほど見せていたトレニアに対する態度とは大違いで、そのギャップにアルスは少しだけ驚いた。

『トレニアはいい人間だ。少なくとも俺は彼女と会ったことを少しも後悔してない』

 その言葉は淡々と述べられたが、響きの中心にはしっかりと一直線に強固な芯が通っており、ただの上辺だけの気持ちではないということを如実に表していた。アルスは思わず『へえ』と返す。

『君とあの少女はどうなのだ?』

 ファングは初めて顔をアルスへと向けた。アルスは自分にそのような質問がかけられるとは思っていなかったのだろう。一瞬、ちょっと間の抜けた声を漏らしてしまう。それから少し首をひねって考える。思いのほか難儀して思考をめぐらすと、アルスはわずかに目を細めて答えた。

『正直言ってまだよく分かんねえよ。あいつとはちょっと前に初めて会ったばかりだからな』

 アルスの答えにファングはしばらく何も言わずに黙っていたが、すぐに顔にわずかに笑みを含ませた。 

『そうか……』

 それからファングは再びアルスの目を見据え、きっぱりと言い放った。

『こっちから一方的に売った喧嘩だということは分かってる。それを承知で言わせてもらうが、……経験も、また人間との関わりもまだ浅い君が俺に勝てるとは思えない』
『なんだと?』

 それはファングにとって挑発しているような気は一切なく、純粋に警告しているつもりであった。

『だから、よければ君にハンディを与えようと思うのだが』

 そこには純粋な勝負では必ず自分が勝利するという自信、これまで同じようなレースで連戦連勝を重ねてきたという自信という二つの意味合いがうかがい知れた。
 事実、このウインディは体つきも風采もこれまでの勝利と自信を裏付けるかのように“美しい”と言えた。煌びやかな鬣はレマルクシティの夕日に照らされてまるで黄金のごとく輝き、頭から首、背までにかけてすらりとした流線型を描いている。がっしりとした体躯は引き締まっており、トレニアやファングの抱く自信が口だけのものではないことを物語っていた。
 経験も、また地の利もこちらの方にあると思っているファングがアルスにこのようなことを持ちかけるのは、ある意味で当然のこととも言えるだろう。だがそれを持ちかけるファングの態度がアルスの気に触れた。たとえ態度自体に問題はなくてもアルスにとってはハンディという提案自体が気に入らなかったろう。当然のごとく、彼は勝負相手となるウインディへとズンズンと迫る。

『そんな下らねえ情けなんぞいらねえよ。そんなんで勝ってあとで負け惜しみ言われても気分悪ぃからな』

 それだけ捲し立てるとくるりと背を向けてシュナの元へと歩き出した。その背中にファングのもう一言がぶつかってくる。

『俺はそんなこと言うつもりはない……が、君がそう望むならそうさせてもらう』

 アルスは何も言わずに首だけで振り向き、ファングに対して刺すような流し目をやった。それだけで返答には十分だった。ファングもアルスのそれを理解しにやりと笑う。
 シュナとトレニア、アルスとファング。各々がスタート前の互いの通過儀礼を終えると、それぞれが門前に立った。門前に立った時、シュナはふとずっと遠く、いくつもの建物を越えたその先にあのレマルクの時計塔が見えることに気付いた。場所によっては建物の影となって見えなくなることもあるが、こうして街の果てから目にできて改めてあの時計塔がこの街のシンボル、あるいは心臓であるということを実感した。これからこの街をぐるりと一周するんだ。そしてこの場所へと戻るための最終チェックポイントがあそこなのだということをまじまじと思い浮かべる。
 シュナは今一度、此度のレースの経由地とその周辺の地図を確認のために思い出した。こうしてスタートラインに立つまでの待ち時間、チェックポイントである場所と地図とを頭に叩き込んでいたのだ。 この場所、水路を並行とする通をスタートとして、チェックポイントは全部で五つ。まず一つめはここから約一キロメートル西に進んだ場所――地図には建物を示す表示しか書かれてないため、なんの場所なのかは分からない。二つめは街の南のエリアどうやら二人がこの街に来るために乗った鉄道の線路のすぐ傍。三つめは街の南西エリアでカナベルという公園の中央噴水広場を位置している。そういえば駅の交番でトールキン氏の弁護士事務所の場所と道筋を教えてもらう際にその名前を聞いた気がする。四つめはこれまで続いた比較的山なりのエリアから打って変わって北部海沿いを位置していた。錨のマークがついているところを見るに、きっと港なのだろう。
 そして最後五つめは街の中心街。場所の表示名を目にしたとき、シュナは「ああ」と納得した。それはレマルクシティの大時計塔の教会前門の広場を位置している。最後のチェックポイントとしてはうってつけの場所と言えよう。
 シュナは右腕に付けられている爆弾腕輪に目をやった。実際これに爆薬が仕掛けられているか知る術は今の彼女は持ち合わせていない。もしかしたらただのフェイクかもわからない。実際この腕輪を押しつけられてから時間も経過し、シュナはそのことを考えるに至るだけの落ち着きを取り戻していた。だが、例えフェイクだからと言って今この場から逃れるのは周りの人間たち、なによりも相手であるトレニアが許しそうにないし、全力でなにかしらの妨害を行うだろう。もしかしたらアルスならそれも可能かもしれないが、あまり騒ぎを大きくしたくない。結局のところシュナが取るべき手段はこのレースに正々堂々と参加し、かつ勝利することしかなかった。
 そのようにあれこれと考えている最中(さなか)、ふとシュナの耳にこの場にそぐわないものが聴こえてきた。それはまるで草一本生えぬ乾燥し荒れ果てた土地に一輪の花、それも一つ一つの葉っぱが青々と瑞々しくあでやかでかわいらしい鮮やかな色を湛えた花を見るようなもの。
 
「おい、シュナ。どうしたんだ?」

 その耳に届くものに気を取られてぼんやりしていたのだろう。アルスがそんなシュナを目にして訝しげに顔を覗き込んできた。シュナは白昼夢から覚めたように驚き、目をパチパチさせた。
 
「あ、なんでもないよ」

 シュナは取り繕うようにそう返した。アルスは何も言わなかったが、なんだかまだ腑に落ちないように首をかしげている。
 アルスを含める他の者たちは今シュナが耳にしたものは聞こえていなかったらしい。シュナはもう一度耳を澄ましてみる。だが聞こえてくるのは取り巻きの囃し立てる声などの雑音ばかり。今のは幻聴だったのだろうか。しかしシュナは確かに聴いた、女性のような歌声を。なんの歌だったかはよく聴き取れなかったし、今ではすっかり聴こえなくなってしまっている。歌っていたのはトレニアだったのだろうかとも思ったが、明らかにあの声は挑戦相手である彼女のものとは異なるものだった。

「もう始まるみたいだぞ。乗れよ」

 そしてシュナはアルスの背に寄った。ここに来てしまえばともかく今聴こえた歌声のことなんぞは置いておいて、これから始まるこのレースに集中しなければならない。シュナは歌声のことを気にしているその思考を振り払うように首を小刻みに震わせ、そして乗る前にアルスに話しかけた。

「がんばろうね」

 それにアルスがどんな反応を示したかはシュナの立ち位置からはその表情が見えなかった。そして彼女はカイリューの背へと身を委ねる。そのとき彼女の耳があらゆる雑音を排除したかのように不思議と心に平静が訪れた。いざすべての用意が整ってしまうと、つい今しがた頭の中を支配していたあの奇妙な歌声のことも意識の外へと弾き出されてしまう。シュナのその様子がトレニアが一瞥した際に小さな笑みを誘ったがそのことにシュナは気づかなかった。
 アルスが翼を動かし始めた。ひとたび翼を羽ばたかせると緑色の翼膜に絡んだ空気が地面へと押し付けられる。あたりの砂埃が音もなく舞い上がり始めた。ファングも四本の足を始めとして体の筋肉全てをスタートを切ることに集中させる。その集中によるのか体中の体毛が逆立った。
 そのときシュナが気づく。もうあと数十秒でスタートだというのにスタートの合図となるものが何も用意されていないことに。スタート信号もなければ誰かが空砲を持っているわけでもない。誰もかれもがただ始まるのを待っているだけだった。じゃあいったい何がスタートの合図に?

「もうすぐ鳴るわよ。集中なさい」

 そのときトレニアがシュナの胸の内を見抜いたかのように言った。鳴る、とはいったい何のことだ。と思ったその矢先だった。
 海の方角からまるで巨人が吹くラッパのように低く重い吠え声のような轟音が響き渡った。それは海から少し離れているこのエリアにまで十分鳴り渡り、もう少し聞こえる音が大きければ耳をふさぎたくなるほどだった。シュナもアルスも突然のその音に驚愕したが、その瞬間自分たちの横にいたトレニアとファングの姿が消えていることに気付き、瞬時にこの音こそがスタートの合図なのだということを否が応でも理解した。

「アルス、早く!」
「おう」

 トレニアとファングよりわずかに数秒遅れてシュナとアルスはスタートした。シュナとアルスは後に知ることになるが、あの海の方角から聞こえた轟音は、近くの港から毎日出港する貨物の定期船の十六時三十分の定時出港を知らせる警笛の音だったのである。こうしてトレニアとファング、シュナとアルスの両者が競うレマルクシティ一周のレースの火ぶたが切って落とされた。
メンテ
第九章「レース・誘拐・第三者」 −1− ( No.23 )
日時: 2011/01/13 20:28
名前: わたぬけ◆Yzj.2OFEoQ ID:7wfwwlQg

 トレニアとファングの組より少々遅れた形でスタートしてしまったシュナとアルス。わずか数秒の差であるというのに、両者の距離は数十メートルも離れてしまっている。当然のごとくアルスは少し出遅れてしまったことに焦っていた。一方でシュナは同じように出遅れてしまったことに小さく歯噛みしていたものの、心は自分でも驚くほどに落ち着いていた。出遅れたとはいえ、レースは始まったばかりだ。これからいくらでも挽回できる。シュナの心はごく自然にそのような考えに至った。
 風が身を切り、周りの景色が前から後ろへと勢いよく流れていく。そしてその勢いはぐんぐんと増していった。
 まずは一つ目のチェックポイントへ。シュナはナビへと目をやる。自分の位置を示す赤い点を中心として周囲の地図が移動していく。シュナはこれから向かう五つのチェックポイントをどのようなルートで行くか既に定めていた。とにかくこちら側はトレニア・ファング組に比べて決定的に地の利の問題としては不利だ。ならば近道や抜け道などは気にせず比較的通りやすい主要な道路を使って向かうほうがずっと良い。トレニアたちが途中どんな道を辿ろうと気にしないようにする。アルスにも出発前にその旨を伝えていた。

「アルス、次を左に!」

 まもなく差し掛かった交差点に入る直前でシュナが叫んだ。だがアルスは一瞬躊躇してしまう。自分の前を走っていたウインディがその同じ交差点をまっすぐ進んでしまったからだ。
 
「大丈夫、さっきも決めたてたでしょう?」

 すかさずシュナが叫ぶ。アルスはファングの後を追う形になれないことに舌打ちするも、
 
「ったく。ちゃんと案内しろよ」

 と、勢い良く返し、交差点を左に折れた。するとなるほど、差し掛かった道路は比較的広い道で分かりやすかった。両脇にはいくつもの建物が立ち並んでいる。夕刻を迎えた街並みは昼間のそれに比べて通行人が多い。腕輪爆弾が爆発するという地表から二十五メートルの高さなどなかなか越えるものではないが、車や路面電車に衝突しない程度とはいえ比較的低空で飛行しているため必然的に通行人の注目を集めてしまう。だが、今の二人にはそのようなものはまったく眼中になかった。
 アルスはさらにスピードをあげる。道は上り勾配となっているため、スピードを上げつつ道路と並行になるように飛ばなければならない。
 
「こっちでいいんだよな?」
「うん、このまま行って」
「あいつらはどこか分かるか?」

 “あいつら”というのは説明を受けるまでもなく、トレニア・ファング組のことだろう。シュナはナビへと目をやる。地図には自分の位置を示す赤い点の他に、青い点が離れた場所に表示されていた。これはトレニアとファングの位置を示すものだとランジアから教えられていた。そして両者はともに第一チェックポイントを示す地点へと向かっている。ナビ上にはチェックポイントには旗のマークが表示され、それぞれに番号が振ってあった。
 シュナとアルスが比較的カーブが少ないが大回りする形のルートをたどっているのに対して、トレニアたちはあちこちの道をくねくねと折れてショートカットするルートをたどっていた。
 
「うーん、やっぱり向こうのほうが少し早いみたい」
「ならもっと飛ばせばいいんだよな」

 アルスはさらに翼を羽ばたく。第一のチェックポイントはすぐに辿りつくだろう。
 シュナは自分たちがぐんぐんと街を通りすぎていくさまをナビで確認する。やはりこの調子だとトレニアたちのほうが先にポイントへと到着しそうだ。なに、まだレースは始まったばかりだ。焦るにはまだ早い。これからどのようなことが待っているのかは予想付かないが、どのようなことが待ち受けても必ず勝たなければとシュナは決意を新たにするのだった。
 
 
 
 *
 
 
 レマルクシティは今や夕方の空に包まれ、少しずつ夜に向かっての歩みを進めていた。
 グラハム=トールキン弁護士は今日のお勤めも無事に終わり、自宅への帰り道を歩いていた。彼の自宅はここから十分ほど歩いた場所にある。グラハムが弁護士事務所を始めた当初は、事務所と母屋は一緒になっていたが、弁護士としての名も上げて行き、事務所の規模を大きくしていくに連れて、どうしても母屋は別の場所へと移さざるを得なくなった。当時母屋を移すか、事務所を移すかで家族とすこしばかりもめたことがあったが、結局は母屋を移すことになった。
 家には自分より二つ年下の妻が待っている。子供たちは今やそれぞれが自立し、街を離れて別々の人生を送っている。
 通りには自分と同じように家路へと向かう人々の姿がチラホラと見受けられ、街行く路面電車はほとんど満員だった。
 グラハムはしばらく歩くと、いつも近道に使っている路地へと入り込む。家に帰る際に特にどこへ寄る用もなければいつもこの近道を使っていた。幅にしてほんの二メートル弱の細い通り。こういった細い道を通ると、幼い頃の知らない道を適当に進んでしょっちゅう迷子になった記憶が蘇り、にわかに童心に帰る。だから今でも時々街を散歩するときにはどこかに自分の知らない道はないだろうかと探してしまう。
 そんなことを思い浮かべながら歩いていた時だった。前方から誰か来る。別にこんな人通りの滅多にない道でもときどき誰かとすれ違うことくらいある。だからこのときも特に気にもとめずに前からくる人間とすれ違おうとした。そしてお互いがすれ違い、グラハムの視界からその人間の姿が消えた時だった。

「グラハム=トールキン氏ですね」

 思わず彼は足を止めた。唐突に自分の名前を呼ばれたからではない。この街の特にこのあたりの地域では自分の名を知っているものも多い。街を歩いていると名前を呼ばれることも多い。だが、このとき足を止めたのは自分を呼んだ人物の声がまるで氷のように冷たいものに感じられたからだ。同時に彼は足をとめるべきではなかったと直感する。
 
「そうだが、何の用かね? あいにく依頼なら今日の勤めが終わったから明日にしてくれんか」
「はぐらかさずに申し上げます。御身を危険にさらしたくなければこれから私の発する質問に正直に答えてください」

 グラハムはごくりと苦いつばを飲み込む。こういったことに似たような場面にはこれまでいくつか経験したことがあった。弁護士という職業柄、非があるにせよただの言いがかりにせよ憎まれ役を買うことはしばしばある。特にアルド=バーンズロウのために尽力していた若い時分には無茶が祟ってめぐりめぐって自分に矛先が向けられることもしょっちゅうだった。
 だが、その相手から明らかな「身の危険」を仄めかされるようなことは今回が初めてだった。グラハムは呼吸を整え「言ってみなさい」と返した。

「今日、シュナ=バーンズロウに会いましたね。彼女が今、この街のどこにいるかご存知ですか?」

 シュナ=バーンズロウ。その名前を耳にし、再びグラハムは息遣いを荒くしなった。心臓が早鐘のように高鳴る。

「会ったことは認めるよ。だが、今日はどこに滞在するとかそういうことは聞いとらんな」

 グラハムの心は緊張に張り詰めながらも、発する声には十分な冷静さが含まれていた。職業柄、相手に動揺を悟られてしまうようなことはあってはならない。法廷の場では動揺を悟られるようなことは敗北を認めているに等しいのだ。それにグラハムの言葉は確かだ。シュナがグラハムに会ったとき、彼女は今日はこれからどうするとか、どこに滞在するというようなことは言ってなかったし、話題にも上らなかった。
 相手の男はまるでグラハムの言葉を反芻し、どこか言葉の端に尻尾が隠れていないかを吟味するかのようにしばらく黙っていた。そしてやがて「よろしいでしょう」と述べ、次の質問へと移った。

「では、彼女がこれからどこへ行くかはご存知ですか」

 グラハムは押し黙った。シュナの次の行き先。それはエンデタウン、またそこへ向かえと薦めたのは他ならぬ自分である。
 彼は考えた。大声を出すか。いや、それは無駄だ。この路地は本道からだいぶ奥まったところに入り込んでしまっている。大声を出したところで、誰にも聞こえない。それでも自分と同じようにこの道を近道のように使う誰かが耳にしてくれる可能性はあった。だが先ほどから聞くに、この男はおそらく本気だ。なんとなくだが本能的にグラハムは確かに身の危険を感じていた。おそらく単なる脅しではない。

「だいたい、あの子のことを訊いてどうするつもりなのかね」
「それはあなたには関係の無いことです。私の質問に答えてください」

 気味の悪ささえ感じるほどの即答だった。今のことできっと相手には自分が二つ目の質問の答えを知っていることを悟られたであろう。自分には失うものは無い、といえばそれは嘘だった。家に帰れば細君が今日も食事の用意をして待っているだろう。

「申し訳ないがね、私は弁護士だ。今日私の元に来てくれたシュナさんは私の大切な友人の娘だ。その友人は私のクライアントでもある。その娘であるシュナさんも今日、客人として来てくれた」

 そこで彼はいったん言葉を止める。相手は何か言おうとしていたが、それをさえぎるようにさらに続ける。

「どんな理由があろうと、弁護士としての守秘義務は全うさせてもらう。それがのっぴきならないようなことを考えている連中ならなお更ね!」

 次の瞬間グラハムはコートの懐に手をいれ、すばやく手に触れたソレを高々と放り投げた。ソレはモンスターボール。白と赤のきれいな球体が接合部からパックリと割れ、中から激しい光とともに一体のポケモンが地上に降り立った。同時にグラハムはそのポケモンに向かって「フラッシュッ!」と命令する。人間の腰の高さを少しだけ越している程の四足で立つポケモンで、全身を包む黒と青の体毛が見事なツートンカラーを描いている。凛々しい顔立ちだが、どこか幼い雰囲気の漂うそのポケモンはルクシオと呼ばれる種族だった。
 ルクシオは地面に降り立つなり、激しく相手を威嚇するうなり声をあげながら全身の体毛からまるでスポットライトを思わせるような目のくらむようなまばゆい光を発した。グラハムは走りだす。インテリアに持っている杖は今や邪魔なだけなので、構わず放り出した。ルクシオは己の使命を果たしたと判断すると、すぐさま主人の後を追いかけた。相手の男は、初老であるグラハムがこのような反撃に出るとは思っていなかったのか、ルクシオのフラッシュに思わずひるんでしまったが、その口元に不穏な笑みを浮かべていた。
 もはや激しく運動するには適さぬ歳を重ねたグラハムの身体はすぐさま関節から悲鳴をあげた。だが今はそのようなことには気にもとめない。とにかく表通りまで行き着くことが出来ればそれでなんとかなる。やがて後ろからパートナーのルクシオも追いついてくる。次の角を曲がればもうそこは表通りだ。老人は後ろを振り返ることもせずにひたすら走った。
 そのときだった。まるで自分の中で時間が止められたかのように、時間が自分を置いていってしまったように、身体の動きがピタリと止まった。それも、走る体勢そのままでだ。グラハムは何が起こったのか分からず、口をパクパクと開いて声ならぬ声を漏らす。後ろからはルクシオの唸り声が聞こえる。先程のような相手を威嚇する雄々しい声ではなく、自分よりはるかに強い相手に対する怯えの声だった。どうやら動きを止められてしまっているのはルクシオも同じらしい。

「ご老体を傷めつけるようなマネは出来ればやりたくないのですが……」

 後方からコツコツと靴を鳴らしながら男が近づいてくる。そのかたわらには一体のポケモンを侍らせているのだが、前を向いたまま動きを止められてしまっているグラハムからは男の姿もポケモンの姿もその目に写すことがかなわない。

「一緒に来てもらいましょう」

 そして男はグラハムの口と鼻に白い布を押え付けた。その瞬間、グラハムは急激な眠気、いや眠気というよりも世界が突然色を失って消えて行くような感覚といった方が言い得て妙。瞼がまるで錘(おもり)を吊り下げられたかのように重い。
 シュナ=バーンズロウはアルドから莫大な遺産を受け継いた。その遺産を狙って何者かが不穏な動きを見せているという噂はグラハムも知っていた。やはり、この男はそのような輩の……おそらく雇われ人なのだろう。自分はこれからどうなってしまうのか。
 ルクシオがなにか攻撃しているような音が聞こえるが、すぐそこで繰り広げられているはずなのにずっと遠くで聞こえてくるようだ。いいんだ、ルクシオ。私のことはいいから……逃げ……。
 そしてグラハムの意識はそこでストンと途切れた。
 だが、その場にいる者たちは皆気付かなかった。その様子の一部始終を少し離れた場所で一人の人物が目にしていたことを。その人物はつぶやく。
 
「おや、……これは予想外ね。まあ、これもこれでおもしろそうな展開じゃない」

 そして女性と思われる人物は、右手の指をそっと鳴らした。その指の先からなにか小さな黒いものが一つ出てくる。その黒い奇妙な形をしたものは音もなく空中へと飛び上がっていく。よくみるとその小さな黒い物体には明らかに目と思われるようなものがついており、それはグラハム氏たちの方向をじっと見据えているようだった。
メンテ
Re: シュナとアルスの不思議な旅 ( No.24 )
日時: 2011/01/20 16:05
名前: わたぬけ◆Yzj.2OFEoQ ID:IBHrX1HU

 第一のチェックポイントは特に何の変哲もないただの空き地だった。なるほど、これではナビには何の表示もされない空白として表示されるわけだ。そこに到着したとき、二人は表情を曇らせた。広い空き地は三方をそれぞれ別の建物、残りの一方を道路とに囲まれている。道路側から見渡すと、乾いた地面からはそこかしこと雑草が生い茂っており、土地の端の方になるに連れて深さを増していた。そして雑草がはえている密度の比較的少ない中央のあたりに、トレニアとファングがこちらを向いて立っていた。
 シュナとアルスの二人が顔を曇らせた原因はこれだ。特にアルスのそれは顕著。二人が自分たちより先にここへ至ってしまったからではない。トレニアとファングがここで二人が来るのを待っていたからだ。

「遅かったじゃない?」

 そのように最初に口を開くは、もはや言うまでもなくトレニア。ウインディ、ファングの背に乗っている彼女は表情がよく見えなかった。空き地を道路側から見渡すと西向きとなり、まるで太陽を背負うかのような形となっているので、シュナとアルスから見ると逆光になっていたからだ。
 しかし、その中でシュナはトレニアがじっと自分へと視線を注いでいるのを感じた。そして根拠のない漠然とした考えが浮かぶ。トレニアはシュナに対して何かを期待しているような。
 隣の敷地に生えている木の葉っぱがさわさわと鳴く。風が吹いたのだ。

「じゃあ先に行くわね。あのボールを取るのよ」

 トレニアはファングを進め、二人を横切ろうとしながら、今まで立っていた空き地の中央を指差す。そこにあるのは小さな台座に置かれているモンスターボールなどより二回りほど小さな蛍光イエローのゴム玉。あらかじめ設置されたその旗を集めることで、それぞれのチェックポイントへ確かに寄ったという証明になるのだ。
 トレニアを背に乗せたファングが二人の横をすれ違いざまのそのときに、アルスが何事かを言わんと口を開きかけた。しかしそれをシュナが横から割り込むように言葉を投げた。

「待って!」

 シュナはほとんど無意識的にアルスの背から飛び降りていた。トレニアは一瞬体をピクリとさせるも、ファングを止めようともせず、代わりに言う。

「レース中に相手から『待って』と言われて待つ馬鹿がどこにいるってのよ?」
「じゃあなんであたしたちが来るまで待ってたの? あなたと話している間はあたしもアルスも一歩もあのボールには近づかないわ」

 言い終えてからシュナは自分自身に驚くのを禁じえなかった。
 トレニアはスッとシュナに流し目をやった。ファングは己の主であるこの女性の真意を測ったのか足を止める。

「いいわ。その代わり一分だけよ」
「ありがとう。……アルスごめんね。今は黙っててくれるかな」

 シュナは今しがたアルスを横から遮ってしまったことも含めて詫びるように軽く手を合わせた。もしポケモンであるアルスがニンゲンの言葉をしゃべっているのを通りかかるかもしれない通行人に見聞きされてはいけないという意図もあったが、何よりこれからのトレニアとの会話に割り込んでほしくなかったから。アルスは困惑しながらも黙ってうなずいてくれた。 
 改めてシュナはファングの背に乗っている彼女を見上げる。どうしてもトレニアに問いたいことがあった。それは初めて彼女がレースをしたいという提案をしたときから、まるで透明で澄み渡った水にぽたりと絵の具を一滴垂らしたかのように現れた。その後のあれやこれやの混乱でいっときは頭の中から弾き出されてしまったのだが、今またトレニアが自分たちがここに来るまで待っていたという事実を前にしたとき再び現れ、それはいつの間にか垂らした絵の具がひとりでに水の中へ浸透してしまったかのようにシュナの心を支配していた。

「トレニアさん……」
「“さん”付けなんていらないわ」

 そのように遮られシュナはムッとする。

「トレニア……、あなたはいったいこんなレースでなにがしたいんです?」
「なに、って今更な質問ね。アタシはただあなたのカイリューと……」
「いいえ、確かにそれもあるかもしれませんが、あたしには分かる。本当は別にあるって」
「ふ〜ん……、じゃああなたがそう思うっていうのなら、何だと思う?」

 シュナは「それは……分かりませんけど」と言葉に詰まってしまう。トレニアは自分の感情をおくびにも出さず、口元で小さな笑みを含ませるだけだ。

「でもそんなことを思ったのは、どうしてあなたがあたしたちをなんとしてもレースに参加させたいのかというのから始まった。それもわざわざこんな、爆弾まで用意させて。だから……」

 目的は何か、自分が相続したという遺産か、と言おうとしたが思い直しシュナはその言葉を喉で押し殺す。その代わりに声のトーンを落とし「いったいあなたの本当の狙いは何?」とだけで言葉を締める。いつの間にか言葉から敬語が抜けていることにシュナ自身気づかなかった。そして再びトレニアの表情に目を凝らすとシュナはどきりとした。シュナが目を向けたそのほんの一瞬、トレニアは何かどことなく淋しそうな色をその顔に浮かべた気がしたから。しかしそのような色はサッと消えうせ、彼女は再びいつものようなからかうような表情に戻る。

「そうね、“あなたの相続した莫大な遺産”とでも言えば納得する? それとも“お金持ちのお嬢様をちょっと懲らしめてやろうと思った”の方がいいかしら?」
「真面目に答えなさいよ」

 トレニアがやはりこの本題からのらりくらりと避けるような態度を続けることに、シュナは声を荒らげてしまう。
 
「悪いわね。時間切れよ」

 トレニアはそう言洩らし、ふさふさの髪の毛をたくし上げると背中へと流した。シュナは「待ちなさい」と引きとめようとしたが、そのとき彼女の目にずっと髪の毛に隠れていたトレニアの耳が映り、思いがけず言葉が喉にぶつかった。そして気づく、彼女の左耳にだけ緑色に輝く宝石のようなものがついたピアスが光ったのを。なぜか左耳だけに……。

「アタシたちに勝ったら、答えてあげるわ」

 シュナとトレニアとの会話が終わったことを察したファングは、もはやそれ以上待つことをせず、力強く大地を蹴り走りだした。その様子をじっと見ていたシュナの背中を風をきる翼の雄叫びが押す。振り向くとアルスが例のゴム玉を手に持ち、それを少々ぞんざいにシュナに渡した。そして背を屈めて「乗れ」とぶっきらぼうに言い放った。シュナはコクリと頷きながら、カイリューの背に飛び乗る。
 アルスはすぐさま飛び上がり、走り去ったファングのあとを追った。スピードはすぐにさっきまでの飛行と同等になったばかりか、さらに上がっていくようだ。シュナはナビに目をやった。次のチェックポイントは街の南部、鉄道線路脇だ。ナビの経路はここから本道に一旦戻ってそのまま南下するというもの。経路沿いの道は比較的住宅が多く、この時間だからもしかして道は混んでるかもしれないなとシュナは思った。とはいえ、いくら道が混んでいてもその上を飛び越えていくのだから関係はないのだけれども。

「にしても、どういうつもりだ?」

 本道にさしかかり、次々と車を追い越しながらアルスが訊いた。
「なにが?」

 なんのことで訊かれているのかおおかたの予想はついたが、シュナは敢えてそのように返す。
 
「あのトレニアって女にあんなこと訊いて、どうするつもりだったんだよ」
「うーん、分かんない」
「分かんないって、なんだそりゃ?」
「うん、ハッキリと分からないんだけど、あの人何か隠してるんじゃないかって思って」
「それであんなこと訊いたってわけか」
「うん。それよりごめんね、黙っててなんて言って」
「構やしねえよ。それより、もっと飛ばすから振り落とされんな」


 *


(アタシったらつくづく人が悪いものね)

 猛スピードで疾走しながらも次から次へと迫ってくる自動車や通行人を巧みに避けるファング。その背の上でトレニアは誰にも聞こえないように独りごちた。
 
 あんなにあの子たちを焚きつけておいて、終わったあとに殴られでもされたらどうするつもり? 
 それもそれでおもしろいかもね。
 そんな事言って、いつまでもこんなことしてたら、いつか身を滅ぼすわよ。
 いいのよ。アタシ今すっごく幸せなんだから。
 
 そんな自問自答を繰り返しながら、彼女は表情に自ずと笑みを浮かべていた。
 トレニアは自分のナビを開く。本来この街の道のほとんどを熟知している彼女にとってはこんなもの邪魔になるだけなのだが、今回ばかりはちょくちょくと画面に目をやっている。経路確認のためではない。彼女の目は常に自分の少し後ろを走る相手方以外映すものはなかった。
 トレニアは己の勝負相手である少女とカイリューのことに思いを馳せる。

(さあ、アタシをもっと楽しませて頂戴!)

 少しずつであるが、トレニアのナビの赤い点が自分たちの位置を示すマークに近づきつつあった。


 *


「見えたぜ!」

 アルスはさらに加速しながら得意げな顔を見せた。もっともその表情はシュナからは見えなかったのだが。シュナも吹き付ける風に抗いながら顔を上げる。そして確かに視界に入った。自分たちの数十メートル先に背中につなぎ姿の女性を乗せたウインディが、猛スピードで疾走しているのを。
 やっと追いついてきた。シュナはそう実感する。
 ファングの走る姿はここから目にするだけでも見事なものだった。次から次へと迫り来る自動車や障害物にはまるで最初からそんなモノ存在しないかのように必要最小限の動きだけで巧みにかわす。
 そしてファングはシュナたち二人から見て一つ先に交差点で右に折れ、その姿を隠した。すぐにアルスもそれに倣い、身体を大きく傾けて右へと折れた。だが次の瞬間のことだ。
 交差点を曲がりきった先に待ち、アルスの目の前に立ちはだかっていたのは巨大な車体を誇る二階建てバス。
 
「うおっ!?」

 その瞬間アルスは右に避けようとしたが、運の悪いことにそこにもトラックという大きな障害物が待っている。左に折れるには身体を右方面に傾けすぎた。となると最後の選択肢は真上へ上昇すること。なんとか翼を上に向け、機関車のピストンのごとく羽ばたく。シュナは思わず驚愕の叫びを上げ、より強くアルスに掴まった。
 間一髪、自動車に衝突するギリギリのところでアルスは回避に成功し、二台の自動車からクラクションの音を投げつけられながら二人の体は一気に上空へと舞い上がった。たった今ぶつかるか否かの瀬戸際だった二階建てバスとトラックを見下ろしながら二人は大きく安堵の息を漏らした。

「あー、びっくりしたあ」
「悪りぃな。クッ……また離れちまったか」

 アルスがそう舌打ちした瞬間のことだ。
 なにかまるで目覚まし時計が設定された時刻へ至ったようなカチリという機械音が二人の耳を打った。なんだろうと互いに顔を合わせる暇もなく更に耳をつんざくような警報音がうるさく叫び声をあげた。先に気づいたのはシュナだった。彼女はあっと声を上げて腕に装着されている腕輪に視線を移す。腕輪に設置されている赤いランプが狂ったように点滅を始め、この叫び声のような警報音も同じく腕輪から発せられている。
 今の上昇で地上から二十五メートル以上離れてしまった。
(二十五メートルを越えた瞬間にドカンといくわけじゃないよ。二十五メートルを越えるとここの赤いランプが点滅して警告音が鳴りだしてその五秒後に爆発する仕組みだから。うっかり二十五メートルを越えてしまっても五秒以内に高度を落とせば爆発しないってことさ)
 そう説明するランジアの言葉が瞬時にシュナの頭をよぎる。

「うわわわ、アルス?! 降りて降りて降りてッ!」

 シュナがまくし立てるまでもなく、アルスも思い出し、慌てて高度を落とす。警告音ははじめ一定のリズムを刻んでいたのがやがて次の音がなるまでの間隔が短くなり、そして……
 止まった。
 アルスがほとんど落下するように一気に五メートルほど高度を落としたときに警報音は静かになり、狂ったような赤いランプの点滅も止んだ。
 しばらくの間シュナとアルスの両者は、地上から十数メートルの上空でお互いの顔を見合わせ、息の仕方を忘れたかのように沈黙していた。やがてほぼ二人同時に溜め込んでいた肺の空気を一気に吐き出し、にわかに呼吸が荒くなった。さらに心臓が早鐘のようにドクンドクンと胸を打つ。どうやら爆発を回避する試みは成功したようだ。
 アルスがはじめ自動車に衝突しそうになってからほんの二十秒と経っていなかったというのに、まるで何時間分も凝縮された時を一気に体験したかのようだった。

「すまん。それのこと忘れてたよ」
「うん。実はあたしも。やっぱり、これ本当に爆弾なのかもしれないわね」

 奇妙な気分だった。レースが始まる直前はこれが本当に爆弾なのか、ただのフェイクなのかもしれないとシュナは疑っていたところもあった。だがこうしていざ警告音やランプの点滅で爆発の危機を示されると、やはり爆発するに違いないと信じないわけにはいかなかった。
 改めてこの腕輪をはめられているという事の重大さにシュナは背中にまるで氷でも当てられたかのようにヒヤリとしたものを覚える。ごくりと唾を飲んだ。唾は喉に引っかかることもなくすんなりと胃袋へと落ちていく。

「あたしはもう大丈夫だから。早く追いかけよう」

 その言葉を受けて、アルスは翼の向きを変えると下降しながら一気に加速した。せっかく追いつきかけたというのに今のでまた差をつけてしまった。だがレースの道程はまだゆうに半分以上残っている。まだまだ追いつき、勝てるチャンスは残っている。
 
「平気か?」
「うん、ちょっと動転しただけだから。もう大丈夫だよ」

 シュナはここで爆弾を爆発させかけて、かえって好都合だったかもしれないと思った。これで改めて自分たちがこのレースに勝たなければならないという事実を再認識できたのだから。
 しかしその時、再びシュナの脳裏に最初のチェックポイントでトレニアが一瞬だけ見せたあのどこか淋しげな表情と、左耳にしか付けられていなかったピアスがちらつく。
 いけない。今はそんな事考えている場合じゃないと、シュナはその考えを払い落とすように首を振ると、ナビに視線を移し次の交差点を左に折れるようにアルスに指示を出した。
 
 
 *
 
 
 二人の様子をずっと遠くの建物の屋根の上から彼女は眺めていた。全身を覆う黒い衣装のうえから帽子を目深に被っている姿は、傍目から見たらまるで昔話にあるように誰かから抜けだした影が歩いているように見えるだろう。
 黒い薄布の手袋をつけた手の上にはまるで調度品に適しているような透き通ったガラスのようなもののカケラが乗っている。カケラは美しい正八面体で向こう側が見通せるほど透き通ったものであるが、このときカケラが映しているものは周りの光景が屈折したものではない。正八面体のカケラには一台の黒の乗用車が映し出されている。その自動車はさきほどグラハム=トールキンを襲った男のものだった。車の後部座席には弁護士が両手両足を縛られた姿で寝かされている。

「さてさて、これが困ったということか。しかしこれはかえって好都合かもしれない……。もう少しだけ様子をみるとしよう」

 誰にともなく女は呟くと、片手でカケラをまるで中身を混ぜるように手をかざした。するとシャンと鈴を鳴らすような音色とともに、カケラに写っていた光景はまるで夢だったかのように消えうせた。あとに残るのは何の変哲もないただの透き通った正八面体のカケラだった。
 彼女はなにごとかを口から漏らす。それは女がつい最近憶えたばかりのもの。こんなものが何の役に立つのかと思いながら、彼女が口から漏らすそれは……歌だった。
メンテ
第九章「レース・誘拐・第三者」 −3− ( No.25 )
日時: 2011/02/07 20:00
名前: わたぬけ◆Yzj.2OFEoQ ID:Om3bLOAQ

 −3−


 だいぶ山なりなエリアに入ってきた。このあたりまで来るとマンションやビルのような集合施設は影を潜め、一戸建ての住宅が目立つようになる。緩やかな斜面に立つ家々はやはり褐色の煉瓦建てで、窓の向こう側では夕食の準備に勤しむ人々の姿がチラホラと見受けられた。
 そしてアルスはその家々が立ち並ぶ道路のすぐ上を猛スピードで走り、否、飛び抜けていた。先の危うくバスとトラックに衝突しそうになった件でまたもトレニアとファングとの差が開いてしまったことで、アルスは顔に少しばかりの焦りの色を浮かべていた。
 もうすぐ第二のチェックポイントも迫っている。シュナの持つナビには今、上空を飛んでいる道路はこのあと例の鉄道線路と並行し、その並行するエリアが終わった少し先にチェックポイントがあることを示していた。
 やがて二人の視界の左側方向脇から鉄道の線路が現れた。それは地図のとおり先の道路で並行する形となる。
 
「見えた。トレニアだわ」

 シュナが指さす先にファングの姿があった。道は緩やか登り坂の直線で、数百メートル先まで向こう見渡せる。そのずっと先にあの二人がいたのだ。
 
「よっしゃ、今度こそ追いついてやる」

 向こうはまだこちらに気づいていないようだが、それでも走る速度を決して緩めようとはしていない。もうトレニアはチェックポイントで自分たちを待つような真似はしない。なんとなくだがシュナはそう確信した。
 前方のトレニア・ファング組はもうチェックポイントのボールを入手したのか、サラリと向きを変えて右に折れるとまた建物の影へと見えなくなってしまった。その様子を認めたアルスはさらに羽ばたく速度を上げる。翼が羽ばたく音はバサバサというものがいつしか、空気を打つような軽い破裂音のようになっていた。
 そして二人はほぼ同時に見つける。道路とずっと並行していた鉄道線路が右へと折れ、街が背後に背負う山脈へと別れ行く、その枝分かれの根元にある空き地にあのボールが置かれていた。今回は蛍光ピンク。第一の時と同じ白い台座に置かれ、ナビの地図上でも同じ地点を指している。間違いなかった。するとアルスはぐっと高度を道路上を走る車にほとんどぶつかりそうなほどにまで落とす。そして次の瞬間に蛍光ピンクのゴムボールを台座ごと掴み上げ、再び一気に上昇した。

「ほらよ。これだろ」

 アルスはボールをぞんざいにシュナへ渡し、後に残った台座を乱暴に放る。プラスチック製の白い台座は何も無い地面に乱暴にたたきつけられ、カランカランと音を立てて転がった。シュナはその様子にまぶたを軽く歪ませたが、これは後で咎めることとし、今はアルスに次の指示を出す。
 次の第三チェックポイントはここからさらに西へと向かった先のカナベル公園という場所。
 シュナはアルスにさきほどファングが折れたのと同じ交差点を右に曲がるように指示を出した。ナビによるとこの交差点を右に曲がった先にはレマルクシティ南部を東西に結ぶ幹線道路が走っており、そこを通るのが最短距離になることを示していた。そしてアルスは右へと曲がる。すると百メートル弱ほど先に再びファングがその背中をさらすような姿を現した。
 シュナは先ほどから時間の感覚が変になっているような錯覚を覚えた。ついさっきこの交差点を折れたファングの姿を見たのが何十秒も前のことのように思えるが、実際にはアルスと十秒前後しか差が無い。長時間と認識するようなことがほんの数秒に過ぎない。そう感じている自分を自身で認識したとき、シュナはあまり認めたくない感情が芽生えていることを認識せざるを得なかった。それはシュナ自身がこのレースを“楽しい”と感じていることだった。
 スタートした当初はこの腕輪の爆弾のせいで必ず勝たなければという焦燥感ばかりが募っていたのだが、今では気持ちの上にだいぶ鷹揚な構えが出来始めていた。それがこのような形となって表れ始めたのか。
 耳に入ってくるのは風が吹きすさぶ轟轟という呻り声のような音ばかり。
 シュナが手に入れた二つ目のゴム玉をポケットの中へ入れようとしたそのときだ。玉の表面にチェックポイントの番号を示す「2」という文字の他に、なにかマジックで書かれていることに気づいた。今しがたトレニアがこのボールを取る際はそんなもの書く暇なぞ無いようだったから、おそらくあらかじめ表記されていたのだろう。

『これから先は“途中参加者”あり。捕まらないように気をつけてね』

 そう書かれてあった。いったいどういうことだろうかとシュナは首をかしげる。“途中参加者”というのはどういう意味か。自分たち以外に誰かが乱入でもしてくるというのだろうか。だが、後半の文章の意味に至ってはさらにわかりかねた。そうこうしているうちに目的の幹線道路が近づいたため、シュナはすかさずそこを左に折れるように指示を出した。アルスは勢いよく「おう!」と返し、ほとんど減速することなく広い交差点を体勢をかなり傾けながら左へと曲がった。シュナは振り落とされないようしっかり掴まるために、一度ボールの文章の意味を考えることを頭から放り出した。
 幹線道路は片側三車線もあるかなり広い道路で中央には路面電車も走っていた。交通量も多いが、三車線という広さのおかげか車の数に比べて掃け具合はかなり早かった。その道路の数十メートル先に再びウインディとその背に乗るトレニアの姿を認める。
 トレニアが一瞬こちらへと振り返った。トレニアは自らの視界にシュナとアルスの姿を映すと、意外と早く追いついてきたことに驚いたような相貌を向けたが、刹那まるでいよいよ楽しくなってきたと言わんばかりのとびっきりの笑みを投げかけ、前へと向き直った。

「気をつけてねアルス。トレニアたちを追い越したいからって無茶なことしちゃ駄目だからね」

 ファングを追い越そうと躍起になった挙句に先刻バスとトラックに衝突しそうになったことを思い、シュナは声のトーンを落ち着けて話しかける。アルスはぶっきらぼうに「分かった」と返す。分かったのか分かってないのか、それがよく分からないような口ぶりだったが、とりあえずはよしとする。
 ファングの走りは見事なものだった。ファングが次々と車を追い越していく様は先ほども目にしたが、今回はより顕著だった。交通量の多い中、まったくスピードを落とすことなくすいすいと自動車を追い抜いていく。それは水の流れがどんなに障害物に阻まれようとも最適な道を瞬時に探し当て、上から下へと当たり前に流れていく様によく似ており、まるで進むべき経路が最初から見えているかのようだった。それでいてスピードは車なぞ関係なく空を飛ぶアルスとほどんど変わらないのだ。シュナは精緻にして精彩とも言えるファングの走りに図らずも舌を巻いてしまう。

「すごい……」

 無意識のうちに彼女はそう呟いていた。
 そのとき再びトレニアがこちらへと振り返った。すると彼女は荷や着いた表情のままゆっくりと口を動かした。しかし距離が離れている上に、周りは自動車の雑音だらけだ。そう思ったとき、トレニアの口の動きは非常に大げさなものとなり、その瞬間シュナは口パクで言葉を伝えようとしているのだと悟り、彼女の口の動きに注目する。

――は・じ・ま・る・わ・よ。き・を・つ・け・な・さ・い

 そこでトレニアの口パクは終わり、くるりと再び前に向き直った。
 シュナは何のことだろうと訝しげな色に顔を染めた。しかし次の瞬間シュナはハッと息を呑む。空気に味は無いはずだというのに、なぜか苦々しげでのどにつかえるような感覚を覚える。同時にナビへと目をやった。ボールに書かれた途中“参加者”の存在。“捕まらないように”という謎の言葉。そしてトレニアの「始まるわよ」。そしてシュナが予想していたとおり、“それ”の存在はこの先の地図上にしっかりと刻まれていた。そこには×を丸で囲ったマークがあった。

「アルス、まずいわ」
「どうした?」
「あたしたち、気づいてなかったけど思ってた以上に相当まずいことをやらかしてるわ。いや、これからやらかすのかも……?」



 *



 レマルクシティ南部のエリアを管轄とするレマルク南警察署はここ数日ほとんど事件も無く、その平和さでけだるい雰囲気を漂わせていた。交通課も数日前に小さな事故が一件あったのを最後に交通違反などを除いて特に大事無く穏やかな日々を過ごせていた。
 交通課に所属するジント警部もこの平和な日々を大いに歓迎しており、この日も何事もなく今日という日が終わりそうなので大いに機嫌がよかった。

「暇ですね。こんだけ大きい街なんだからもっと事件の一つや二つ起こってもいいもんだと思うんですけど」

 最近この課に配属されたばかりの部下がデスクにぐったりと身を持たせかけ、ため息混じりに漏らす。そんな彼を尻目にジント警部は半分ほど中身の残ったコーヒーカップを手にカラカラと笑う。

「ハッハッハ。若いうちは誰だってそういうもんさ。これからいろんな事件やらに遭遇すると今にそう言ってられなくなるぞ」

 しかしそう言いながら彼が振り向いたとき、当の部下はなにやら窓に身を乗り出して外を眺めていた。なんだ、人が話しているのに外を眺めているなんて失礼なやつだ。そんなことを思い、警部が部下へと歩み寄ったとき、なぜこの男が窓に身を乗り出しているのか、その理由である異変に気づいた。
 遠くから自動車のクラクションの音が近づいてくる。しかもおかしいのは近づいてくるクラクションの音は一台の車のものではなく、それぞれが別々の車より発せられているものなのだ。

「なんでしょう? なにかがこっちに近づいてるみたいですね」

 南署はレマルクシティ南部を東西に結ぶ幹線道路に面しており、例のクラクションの音は片側三車線の幹線道路の東方向より近づいてくる。
 
「まさか……」

 警部はゴクリと息を飲んだ。
 そして次の瞬間、それは正体を表した。ほとんど目にも留まらぬ速さで一体のウインディが左から現れ、瞬時に右の建物の影へと消えた。そして数秒遅れて、今度はカイリューがほとんど同じ速度で同じように現れて消えていった。クラクションの正体はウインディに行く手を阻まれた自動車たちの叫び声だったのである。
 
「な、なんだぁ今のは?」

 部下が素っ頓狂な声をあげ、今見た光景に目を皿のようにした。そして次の瞬間、背後でガシャンとカップの割れる音と、カップに入っていたコーヒーが飛び散る音が鳴り渡った。
 そこにはカップを落としたことには目もくれず、たった今目の前で起こった光景に身を震わせているジント警部の姿があった。
 
「まあぁぁぁたアイツかぁああぁ! トぅぉルェニぃアァあああ! 畜生めがあぁ! 最近おとなしくしてると思ったらまたやってくれたかっ!」

 全身の体毛という体毛が逆立っているような出で立ちのその姿に、部下の署員はあっけにとられる。というよりも、まだ知り合って数日ではあるが自分の知るジント警部の姿と、目の前にいる悪魔のような様相の人物が同一人物だという認識ができなかったというべきだ。
 ジント警部には許せないものが三つある。一つ目は歯に引っかかってなかなか取れない食べかす。二つ目は自分の愛娘に近寄る男という名の悪い虫たち。そして三つ目はこのレマルクシティの交通安全を乱す輩。トレニアはその三つ目に属し、またジント警部のここ一年の頭痛の種だった。
 トレニアはだいたい一年ほど前からレマルクシティに突然現れ、レースだと称してはたびたび街の交通安全の障害となるような迷惑行為を繰り返していた。レースだかなんだか知らないが、当然ながらジント警部をはじめとするレマルクの警察たちもこれを放っておくことなど出来ず、これまで何度も捕らえようとしたが、これまでその試みは一度も成功していない。彼女らのアジトとなる場所も探し当てようと試みたこともあるのだが、まるで地震を察知した野生動物のごとく、踏み込んだ時にはもぬけの殻ということも何度となくあった。
 もっとも、一度でも成功したら一年にわたって頭痛の種になるようなことはないのだが。
 
「今日という今日は捕まえてやるぞっ! 治安の敵! 交通安全の敵! 住民平和の敵! そしてワシの安眠の敵であるあの女をッ!」

 そして警部は無線を乱暴に引っつかむと、巡回中のパトロール警官へと緊急連絡を下した。
 その様子を部下の署員はただただ口をあんぐりと開けて視界に収めることしか出来なかった。
メンテ
第九章「レース・誘拐・第三者」 −4− ( No.26 )
日時: 2011/02/18 21:49
名前: わたぬけ◆Yzj.2OFEoQ ID:DUY1yVi6

 その音はほとんど身を切る風の音ばかりに支配されているシュナの耳にも遠慮なしに飛び込んできた。まるで獣の遠吠えとも思わせる。やっぱり。シュナは心のなかでひとりごち、なぜこんな事態になることを予想できなかったのだろうかと自身を少しだけ悔やんだ。
 パトカーか、あるいは白バイか。どちらにしても警察の車両が自分たちを追ってきている。後ろを振り向くことさえある種の恐怖感に襲われ、出来ない。一方で、はるか前方を走るウインディのファングとその背に乗るトレニアは全く意に介していないかのようにちらりと後ろを振り向き、その瞬間に楽しげな笑み――実際は遠目で細かい表情は判然としなかったが、シュナの目にはそう見えた――見せる。
 そしてシュナも意を決して首を濡らした布を絞るようにギリギリと曲げ、後方へと視界を移した。そしてギョッとする。
 警察の乗る白バイが数台猛スピードでこちらの後を追いかけていた。それだけではない。上空からまるで自分たちと同じようにレースに参加しているかのように、数体の飛行ポケモンが迫っている。それぞれのポケモンの首には警察に所属することを表す藍色と白のツートンカラーで構成されたスカーフが巻かれていた。
 あのポケモンはなんといったかな。シュナは自分の持っているポケモンに関する知識の本棚をひっくり返す。細い流線型の体型に鋼色の体色、一枚一枚の羽根がまるで剃刀の刃のように鋭利に光り、それは羽根というよりも鮫肌の鱗のようにすら思える。そうだ、思い出した。エアームド、確かそんな名前のポケモンだった、とシュナはようやく知識の本棚の中から目的の名前を見つけることができた。
 
 
 
「おい、シュナ。何が起きてんだよ」

 アルスも何が起きているかは分からないが、なにか異常な事態が起こっていることは理解できたらしく、肩越しにシュナに振り向き言った。
 
「警察があたしたちを捕まえようとしてるのよ」
「ケーサツってなんだ?」
「ごめん、詳しいことはあとにして」

 実際説明する暇もない。
 シュナは一瞬、この際警察に保護してもらったほうがいいかもしれないという考えが湧いたが、それはすぐに泡沫のごとく消え去る。たとえ警察に保護を求めたところで、この腕輪自体がどうにかならないと何も解決しないし、もしそんなことして相手方を刺激でもすればそれこそ爆破される危険さえある。さらに、仮に上手くいって腕輪の問題が解決したとしてもその先に起こることが、瞬時にシュナの頭の中で明確なイメージとなって浮かぶどころか、ある種の確信を持って演劇のごとく上演されたのだ。当然ながら自分がシュナ=バーンズロウであること、そしてどうしてこんなところにいるのかを問いただされる。そのうちメディアがこれを聞きつけ、ただでさえ莫大な遺産を相続した自分をさらに面白おかしく記事なりニュースなりに興すことだろう。うまく要領よく立ち回れば、それさえ回避できる手段があるかもしれないが、今の彼女にはそのようなものなど浮かんでこない。シュナにはメディアが掲げるであろう記事の見出しが目に浮かぶようだった。想像するだけで身の毛がよだつ。

「とにかく気をつけて、これからあたしたちを捕まえようとする人達が来るわ。絶対に捕まらないで」
「おうよ。任せろ」

 アルスはそう返すとより一層翼を羽ばたかせ、さらに速度を上げた。一方でシュナはナビへと視線を移す。次のチェックポイントのカナベル公園まではあとどれほどの距離か。見るとその場所まではもうすぐそばまで近づいていた。自分たち二人を表す赤いポインタが中央にあり、そのすぐ前にはトレニアたちを表す青いポインタがあり、そして両者のはるか前方数百メートル先に公園を表す緑色のエリアが広範囲に広がっていた。カナベル公園はかなりの広さを誇る公園らしい。そこの中央噴水広場の噴水に例のボールが置かれているという話だ。ナビのチェックポイントを表すフラッグもちょうど公園の中央付近あたりを指していた。
 そのとき警察のエアームドたちの一体がアルスへと接近した。アルスはほとんど前方ばかりに視線を向けていたが、本能的に敵意を持った何かが自分に迫っていることを感じ取る。そして必要最小限にだけ首を後ろに傾け、横目でそれがエアームドだということを確認した。アルスは少しだけ何かを考えるように目を細めると、低い声でシュナへと話しかけた。

「シュナ、次の場所はあとどのくらいだ?」

 質問の意図が飲み込めず、一瞬困惑したが、「この先まっすぐの公園よ」と答える。
 
「わかった。今から一気に飛ばすから絶対に振り落とされるな」

 その声の色でアルスがこれから何かを仕掛けようとしているのは明白だった。何をやろうとしているのかは分からないが、意図だけは汲み取りシュナはより強くアルスに捕まる腕の力を込めた。
 そのときエアームドが一声大きく叫ぶと、アルスの上空数メートルのところまで高度を上げた。するとその翼が真っ白に光り始め、ただでさえ頑丈で鋭い羽根の一枚一枚が、さらに硬度を高めたかのように艶(つや)やかに煌(きらめ)き始めた。
 しかし同時にアルスも行動に入る。シュナはギョッとして目を見張った。アルスの頭、二本の触覚のような角からなにやら赤黒い光のようなものが発せられている。その光は渦のように角に纏わり、そして角から全身へと一気に広がった。アルスは低い唸り声を上げて赤黒い光に包まれる。
 そのときヒュッと強く空気を切り裂くような音が通り抜ける。エアームドが翼を大きく広げると一気にアルスに向けて降下を始めたのだ。この技は“はがねのつばさ”。両翼をその名のとおり一時的に鋼のごとく硬化させ、相手とすれ違いざまにその翼をぶつけるという技。
 ぶつかる! シュナがそれを覚悟し目をつぶった瞬間、攻撃があたったのとは明らかに違う衝撃が走りぬけ、アルスが予告したように振り落とされそうになった。うっすらと目を開けると、たった今まで目の前にいたエアームドが遥か後方に遠ざかり、その距離は見る見るうちに広がっていく。エアームドが減速したのではない。アルスが今までにないような急加速をしたのだ。
 エアームドは攻撃が外れた勢いに余ってバランスを崩し、そのままくるくるとひっくり返るように道路を走る自動車の屋根にぶつかった。
 アルスはさらに加速を続け、ついさっきまで数十メートル先を走っていたトレニアたちに一気に追いついた。自分のすぐ目と鼻の先に、ウインディの煌々と輝く体躯が迫っている。トレニアは瞬く間に自分たちに追いついてきたシュナたちに一瞬驚愕の表情を見せたが、それはすぐに影に隠れて楽しそうな薄ら笑いへと変わる。
 ようやく追いついた。思えばシュナはファングが走る姿をこれほど間近で目にするのは初めてだった。その印象として最初に浮かび上がるものはやはり“美しい”という一言。その肢体はまさに走ることに特化しているといえよう。ファングだけではない、トレニアもまたそうなのだ。
 
 そして両者の前方突き当たりにおそらくカナベル公園だと思われる緑地帯が迫っていた。道路は突き当たりで左右に折れており、幹線道路は左方へと抜ける。入口付近の歩道境目には樅の木の並木が立ち並んでおり、その向こうには都会とは切り離された緑色の草原地帯が広がっている。
 するとトレニアがこちらに振り向いた。

「面白いけどちょっと困ったことになったわ。どう? この先の公園で一時休戦としない?」

 シュナは一瞬返答をつまらせる。

「何を企んでるの?」
「疑うならそれでも結構。でもね、悪いことは言わないわ。あいつらポリ公どもにはアタシの協力なしでは、アナタたちは絶対に逃げられない」

 二体のポケモンのその背に乗る二人の人間は、カナベル公園の緑色の地面を踏んだ。


 *   *
 

 パトカーの唸り声を耳にして、男は一瞬体を強ばらせた。そして目の前に警察の車両が現れたときは思わず固い唾を飲み込む。だが、そのパトカーは自分たちの車両などには目もくれず、通りすぎていくのを確認したときにはすぐにその緊張は何処かへと消え去った。やはりいくら自分の行いに絶対の自信を持っていたとしても、警察を前にしては緊張を禁じ得ない。しかしそのたびにどのような自信も、それを越えて過信の段階には決して入ってはいけないことを自信に戒めてくれる。
 どこかのバカが変な騒ぎでも起こしたのだろう。男は口の中で含むように独りごちた。運転する車の後方の席にはグラハム・トールキンが両手両足を縛られて横にされている。あれから誰にも見られないように車に運ぶのには少々骨を折ったが、何の問題も無く事は進んでいる。先ほどクライアントとも連絡を取った所だ。
 男は車を港へ向けて走らせる。

「トールキン先生。そろそろ目を開けたらどうですか?」

 男の声は機械のように無機質だった。その声にピクリと後部座席のトールキンが動く。それまでほとんど息を潜めていたのか、グラハムは一つ大きくため息をついた。

「君は、私をどうするつもりなのかね」

 グラハムは鷹揚とした声を心がけたつもりだったが、その言葉の端がわずかに震えていることを彼自身認めざるをえない。これまでアルドに関する訴訟などの関連で危ない目にも何度か遭遇していたが、これほどまでに身の危険へのビジョンが明確であったことはこれが初めてだった。

「シュナ・バーンズロウがどこへ向かったのか話していただければ、今すぐにでも解放しますよ」

 男は低い声で答えたが、その言葉をどこまで信用していいのかは測りかねた。グラハムはキリリと下唇を噛み締める。

「残念だがそれはあり得んよ……」

 男は何も返してこない。それがこの後グラハムをどうするつもりなのか、どのような言葉を並べ立てるよりも物語っていた。
 グラハムにとってシュナのことを漏らすことなど有りえない。シュナ・バーンズロウは旧友のアルドの娘。グラハムにとってアルドはよき親友であり、恩人でもある。彼が今の地位を確立するにはアルドなしでは有りえなかった。だからグラハムはアルドに大して友情以上に絶大な恩義を感じており、その娘であるシュナを売り渡すようなことは、巡り巡ってその恩義を仇で返すことと同義なのであった。
 シュナ・バーンズロウは今この街のどこでなにをしているのだろう……。グラハムは恩人の娘に対して想いを馳せる。
 
「私の……ルクシオはどうしたのかね」

 自分の側に、気を失う直前まで己を守ろうとしてくれていたルクシオの姿がないことに気づく。
 しかし男は何も答えず、黙って車を走らせる。自分の目的に何の関係もない質問には答えないということなのか、あるいは……。
 何も答える様子のない男を前にしてはグラハムは想像することしか許されない。無事、逃げてくれればいいが。心のなかでそっと呟くのだった。

 だが、そのときまるで心のなかに真っ黒な光が差し込むように、グラハムに別の考えが宿る。
 このままだと自分は最悪の場合殺されるかもしれない。もし、そうなると家族はどうなる? 息子たちはもうそれぞれが独り立ちしているから良しとして、妻は……? 
 するとそんなグラハムの心の中を見透かしたかのように、男がようやく口を開いた。

「もしあなたの身になにか良からぬことが起こったとしたら、あなたの家族は悲しむでしょうな。それだけでない。事務所の方もどうするつもりです?」

 男の言葉ひとつひとつがまるで焼印を押し当てられるかのように胸を焼く。思っているのと、実際にそれを指摘されるのとでは分かっていても別の痛みが走ってしまう。唇がわなわなと震えるのをはっきりと感じる。ちょっとでも気を許せば、シュナのことを話してしまうかもしれない。だから彼はより一層下唇をかむ力を強める。
 
 一方で男の方は先程からなにか妙な気配を感じ取っていた。気のせいと言われればそれまでかもしれないが、なにかが耳元でチリチリとして引っかかるような感触を拭えない。
 しかし何度もミラーなどを使って尾行を確認しているがそれらしきものは見当たらない。やはり気のせいなのか? 
 念の為に男はアクセルを少しだけ強く踏み込んだ。
 彼の勘は当たっていた。しかしその尾行者は彼らの遥か上空のまるで空に落ちたシミのように見える一体のアンノーンだったのであった。
メンテ
第九章「レース・誘拐・第三者」 −5− ( No.27 )
日時: 2011/02/27 00:32
名前: わたぬけ◆Yzj.2OFEoQ ID:9ThrA9UU

「休戦というよりも、アタシからの一方的な協力というべきね」

 中央噴水広場の大噴水を背に構えながらトレニアは身を乗り出した。
 ここにたどり着いたことを証明するボールはトマトのように赤いものだった。
 
「警察どもは一部はあなたも捕まえようとするけど、ほとんどの狙いはこのアタシね。だからアタシたちがあいつらを引きつけてヤろうって言うのよ」

 背後に構える凝った意匠の大噴水の醸し出す雰囲気も相まって、トレニアはまるで舞台女優を演じているかのような口ぶりのようだった。そこからは何かまた変な企みがあるのか、それとも純粋な提案であるのかの判別がつかない。シュナにはどうしてもトレニアの言葉奥に何か秘めたものを感じても、その正体が何なのかまでは掴みかねていた。
 しかし深く考えている猶予はない。警察のパトカーだか白バイだかの車両が明らかに迫り、シュナの焦燥感を掻き立てるかのようにサイレンの音が近づいていた。だからシュナは言いたいことだけを手短に話す。
 
「いったい何を企んでるつもり?」
「やーねっ。何も企んでないわよ。強いて言えばアンタたちが警察どもの手に渡るようなことになってレースの興が削がれることが嫌なだけよ」

 トレニアは小気味良さそうに笑う。それからちらりとカイリューのアルスへと目をやる。シュナもここに来たときには気づいていたことだが、アルスはどうにか隠そうと努めているようだがすこしばかり疲労の色が見え始めていた。スタート地点からここまでファングに追いつこうとずっと全速力で飛び続けていた。その上さきほどエアームドを振り切る際に使った技“りゅうのまい”でにわかにではあるが力を限界近くまで発揮したのだ。
 しかしそれはまだ小さいもので、それにここのチェックポイントでもう折り返しなのだ。アルスはトレニアとは話したくないらしくまだまだ自分は平気だと無言で伝えるようにプイとそっぽを向く。その反応が面白かったのかトレニアはくすくすと笑うと、まるで己自身に語るかのように小さくつぶやく。
 
「……たが……んの……ら良かったのにね……」

 えっ? とシュナが聞き返そうとしたとき、背後から迫ったけたたましい声が耳を貫いた。思わず音の下方向へと振り向くと、さきほどのエアームドたちに加えて警察の車両がスピーカーからなにやらにゃかましい声を発しながら押し寄せていた。トレニアはまるで嬉しそうに「ジントのおっさんったら、今日もお勤めご苦労なことね」と囁き、颯爽とファングにまたがる。
 
「さあ、あいつら撒いたらすぐアンタたち追いかけるからね。アンタたちは勝手に進んでていいわよ」

 そしてシュナ、アルスの返事を待つこともせずにファングは次のポイントとは全く違うあさっての方向へと飛び出すと、まるで疾風のごとく走り始めた。

「あたしたちも行こう!」

 颯爽と走り去っていったあの二人に見とれる余裕なんて無いことを思い直し、シュナはアルスへと捕まる腕にグッと力を入れた。そしてアルスもまた羽ばたくと、トレニアたちが去っていった方向とは真逆の次のチェックポイントの方向へと飛行し始めた。
 警察はトレニアの目論見通りほとんどがトレニアを追うこととなった。だが少数であるが何体かの警察所属のポケモンたちがシュナたちの方へも追いかけていった。

 *    *
 
――ジントのおじさまったら今日はまた随分と力入れてるわね。ストレスが溜まってるのかしら?

 トレニアは猛スピードで大通りを駆け抜けるファングの背の上で、そのような呑気な思考を巡らせていた。カナベル公園の林をファングは一気に駆け抜ける。空気の抵抗を受けて全身に身を切るような風が吹き抜けていく。このパターンだとこの先に待ち構えているであろう警察はどう構えているだろう。トレニアは瞬時にこれまでの例と現在の状況を照らし合わせ、これからの対策を練り上げていた。
 
 まず公園の出口で待ち構えている。それも絶対的な自信のある待ち伏せの仕方だろう。きっとファングでさえ動きを阻まれてしまうようなものが隠されていると思っていいかもしれない。では奴らが来た噴水側は……?
 そこでトレニアは口元ににやりと笑みを浮かべ、クスクスと笑いを交えながら言った。

「ファング、噴水側から出るわよ」

 ファングはトレニアの指示に何の疑問をもつこともせずに、ヒラリと匠に身を翻すと、元来た方向へとまた一直線に走り始めた。当然ながらトレニア、ファングの両者は後ろから追いかけていたエアームドたちと対面することになる。エアームドは目視で確認できるだけでも四体、それぞれがバラバラにしかしトレニアたちを取り囲むように動く。
 
「いい? 数に惑わされちゃ駄目よ。林を抜けたら一気に突っ込むから」

 トレニアは林にいる段階ではエアームドたちは攻撃を仕掛けてこないことは分かっていた。こう木々が乱立していては相手の動きも鈍るし、第一ここは市が管理しているれっきとした指定地区。下手に攻撃して樹木を傷つけるようなことは避けるはず。
 そしてまもなく林が終わり、向こう側から光が差し込んだ。そこには何人かの警察官が待ち構えていたが、トレニアの読み通りまさかこちら側に戻ってくるとは思っていなかったらしく突然目の前に現れた対象に一瞬呆気にとられる。だがその一瞬さえあればファングがその場を一気に突き抜けるには十分すぎた。
 警官たちはその一瞬の行動の遅れに浸け込まれ、あとは迫ってくるウインディを避けるしか選択肢が残されてなかった。そして風の如く突き抜けるファングの勢いに押されその場で身を安全な方へと投げ出す。
 すぐに後ろのほうで何事化怒鳴る声が轟いたが、トレニアの意識からは全くの蚊帳の外。
 再び中央噴水広場へさしかかり、先ほど警察が押しかけてきた方向へ向かうようトレニアは指示する。そして差し掛かるは公園の出入り口。そこにはパトカーが複数停まっており、その列をなすパトカーの群れの中央にトレニアのよく知る顔があった。どんな群衆に紛れ込んだって一発でその人物と分る角張った輪郭に太い眉。この一年、トレニアを拘置所送りにしてやろうとやっきになっているジント警部だった。
 なにか気のきいたことでも話しかけてやろうという衝動がポツリと沸き起こったが、流石にそんな場合ではないと頭(かぶり)を振る。
 そしてファングは力強く大地を蹴ると、地上から十メートル以上にも達する高さに飛び上がった。足元にパトカーの群れを見下ろしながら、数学を齧っているものが目にすれば瞠目するかと思わせる美しい放物線を描く。

「まったくジントのおじさまは、血は熱いのに詰めが甘い。一年もアタシを追い掛け回してるんだからそろそろ学習して欲しいものね」

 ダンと心地良い衝撃と共に、ファングが地面へと降り立ち、ちょうど差し掛かった通りを真っ直ぐ切り抜き去った。だが先に追いかけていた数体の鳥ポケモンたちを振り切ったわけではない。彼らは建物あるいはトンネルのような場所にでも逃げこまない限り、上空からどこまでも追いかけてくる。
 トレニアはくるりと後ろを向き、敵の数を確認する。エアームドが二体、ピジョンが二体、そしてオオスバメが一体。トレニアの頭にまるで泉のごとくこの地域の地図が浮かび上がり、どこになにがあるか、あそこの道はどこへ続いているかが刹那的に思い起こされ、瞬時にこの状況をうまく掻い潜る道を導き出す。
 
「ファング、そこを左ッ!」

 トレニアが指さしながら声を張る。そしてファングもまるで最初からそこへ入るつもりだったかのように自然に身を翻し、トレニアが指さした路地へと入っていった。鳥ポケモンたちも後を追い、同じように路地に入ったり、あるいは高く飛び上がって上空から障害物を気にすること無く追う。
 やがて視界が開けて大きな水路に沿った舗装道へと出た。トレニアは後ろを振り向く。すぐに鳥ポケモンたちが追いついてきた。そして彼らはすぐにトレニアたちを取り囲んでしまう。しかしそのような状況になってもトレニアは少しの焦りの色も浮かべずに、追いかけてきたポケモンを値踏みするように目配せしていた。
 
「ねぇ、ファング。あの子たちのなかに女の子はいるのかしら?」

 その問いを放った瞬間、にわかにファングの表情が人間からでもそれと分かるように歪んだ。その質問の意味するところ捉えたくなくても瞬時に捉えてしまったから。

「なによ。久々にいいじゃない。 それに無駄な戦闘はしないに越したことはないでしょう」

 ファングの心の中を察しながらも、敢えてやめようとしないトレニア。そうと分かっているからファングは心中あきれ果てながらも、彼女の質問の問いに答えた。ファングは自分たちを囲むポケモンのうちの二体に人間が顎で指すように頭を縦に振った。三体のエアームドの内の一体とオオスバメ。なるほどとトレニアは口に含むと、大きく深呼吸し肺をたっぷりの空気で膨らませると、あたりに反響(こだま)するような勢いで叫んだ。

「行くよ!」

 エアームドたちが一斉に襲いかかる。トレニアを乗せたファングは真上へ飛び上がり、さらに後方の建物の壁を蹴って、建物の屋根の上へと登った。

「悪いわね、シュナ。今だけはルールを破らせてもらうわ」

 そして屋根の上へと降り立ったファングはすぐに体の向きを変えて、エアームドたちと対峙するような形を整える。トレニアたちの思惑通り、エアームドたちは取り囲んでいた形から、隊列のような形になって二人の前へと現れることとなった。
 そこでトレニアがにやりと笑みを口元に作る。ファングも分かってて、もはや抗う気にもならない。

「ファング、メロメロ!」

 その瞬間、ファングの顔を取り囲むように桃色のオーラが寄り集まり、それはやがてハートマークでできた輪っか状になる。そしてファングの異変に気づいたエアームドの内の一体、オオスバメ、ともに雌のポケモンが動きを止める。
 そしてファングの目から、あらゆる異性のポケモンのハートを射止める、魅惑的で甘美なるウィンクが放たれた。キラッ☆! っとな。 
 それはほとんど何事にも動じず、ただ科目にトレニアの指示に従うファングからは大凡想像どころか夢にも思わない姿。もし誰かが彼女にどうしてファングにこんな技を覚えさせたのかと問い詰めると、きっと彼女はなんの屈託もない笑顔を溢れ返らせてこう答えるだろう。
 
――だってかわいいじゃない!

 ファングから放たれたメロメロのハートは雌二体の体の周りをくるくると回ると、まるで風船が破裂するようにポンと弾けた。刹那、二体の雌ポケモンの瞳から紡がれる光景は、あまりにもロマンチックで蠱惑的なものへと塗り替えられる。もはや両者の間に戦う必要というものは存在せず、ただただ雌ポケモンは雄々しく佇むファングの前にひれ伏すことしかできないのだった。

 
 

 *    *

 
「トレニア、大丈夫かな?」

 シュナが四番目のチェックポイントのある港方面へのルートを確認しながら顔を寄せてきた。
 
「なんだよ。あいつのこと心配してんのか?」
「正直に言えばね」

 アルスは「そうかい」とぶっきらぼうに返し、なおも目の前に通る道に沿って飛ぶのだった。
 カナベル公園の中央噴水広場でトレニアと別れてから、二体のポケモンに追いかけられたが、それも先ほどようやく振り切ったところだった。今は人目に付く大通りを避けて、路地を通っていた。
 シュナがナビでトレニアの場所を確認すると、彼女を表すマークはだいぶコースから逸れて、だいぶ西に行き過ぎたポイントを指し示していた。耳を済ませるとずっと遠くでパトカーのサイレンの音も聞こえる。
 
「あいつが捕まって、それでソイツを外してもらえれば、願ったり叶ったりじゃねえか」
「うん、そうなんだけどね」

 アルスはシュナの思うところがいまいち掴みそこねているような妙な気持ちになり、さらにシュナに対して話しかけようとした。そのときだった。
 突然空気が凍りついた。いや、空間が凍りついたというべきか。まるで世界の中で自分たちの周りだけ、誰かがはさみで切り取ったように他が遮断され、アルスとシュナは空中でまるで空間座標に固定されたかのように止まった。いや、完全には止まっていない。わずかにだがアルスの翼は微々たる速度だが動き、若干ではあるが前に進んでいる。
 とはいえ、この状況は明らかに異常だった。

「な、……なんだ……こりゃ……。動か……ねえぞ」

 アルスは懸命に翼を動かそうとする画素の努力をあざ笑うかのように、翼は遅々として動かない。
 シュナに至っては突然舞い降りたこの自体に混乱してしまい、言葉を失っていた。一体何が自分たちのみに降りかかったのか。シュナも体を動かす力をうんと強めるが、全く意思に反してゆっくりとしか動かない。なのに意識と言葉だけは通常の時間の流れに取り残されたかのようにハッキリとしている。

「お、落ち着いて」

 その言葉はむしろシュナが自分に言い聞かせるかのような響きのほうが多く含まれる。
 すると二人の前方からなにか音が聞こえてくる。一定のリズムで硬いものをぶつけ、近づくその音は足音だった。そして薄暗い路地の向こうからその足音の主が姿を表す。
 シュナがその者の姿を視界に入れたとき、人間の女性だと思った。全身を黒いドレスのような物でまとい、あちこちに白い装飾のようなものが付く。顔は大きな帽子で目深に覆われ、ほとんど見えず、帽子というよりも頭巾のようにすら見えた。だからその者の首から上はほぼ隠されていて、ほんの帽子と首もとの間から紫色の口紅を塗っているかと思われる口元が見え隠れした。女性は両腕なにか大きなものを抱き抱えていた。それは全身を青と黒の体毛で覆われ、地面に立つときはきっと四本足なのだろう。シュナはそのポケモンの種族の名前を思い出そうとするが、どうにも名前が出てこない。
 そして女性はゆっくりと空中で縫いとめられている二人へと近づき、大儀そうに口を開いた。

「シュナ・バーンズロウ。あなたに伝えることがある」

 その声はやはり人間の女性のように聞こえる。そしてズキリと小さくも全身に広がるような衝撃が走った。

「どうして……あたしの名前を。あなたは……」

 しかし女性はシュナの質問には最初から聞こえていなかったかのように答えず、かわりに重々しく冷たく無機質な口調でこう言った。

「今日あなたが会った人間。グラハム・トールキンがあなたを狙う人間に拐われた」










  ☆彡あとがき☆彡

あそびすぎた……
メンテ
第九章「レース・誘拐・第三者」 −6− ( No.28 )
日時: 2011/04/08 00:17
名前: わたぬけ◆Yzj.2OFEoQ ID:TMwITSu2

 シュナは目前に立つ女性の口から発せられた言葉の意味を理解するのに幾秒かの間を要した。そうしてようやくハッと息を呑み込む。
 グラハム・トールキンが何者かに誘拐された。その女の言葉がシュナに与えた衝撃は、自分たち二人の身に起こっている体が思うように動かないという事象など瑣末なことだとさえ思えるほどだった。しかしすぐにシュナは今この場で起きている奇怪なことも含めて、女に問いただしたい言葉が次々と溢れてそれは腹から一気に喉元へとせり上がると、奇妙な溜飲(りゅういん)となってその場に留まり詰まるだけとなった。

「あなたはいったい誰? 今コレ、何が起きてるの?」

 シュナはどうにかして頭の中で複雑に絡み合った質問の糸を解きほぐし、ようやく整理のついた質問事項を一つ一つ問い始めた。

「ワタシは今はただの気まぐれな観測者。今あなたたち二人の動きを止めてるコレはワタシが起こしたことだと正直に言おう。時間が経てば元に戻るから心配は要らない」

 女性はまるで打てば響く鐘のように即答するのだが、その鐘にヒビが入って澄んだ響きを妨げるかのように捉えどころのない言い方で転がす。帽子を目深にかぶって表情が殆ど見えないせいもあるだろう。その声には感情がこもっていないというよりも、感情が何たるものなのかをそもそも知らないかのように事務的でほとんど抑揚がない。
 なんだかはぐらかされたような気分で、シュナは首を傾げる――もっとも、首を動かそうものその意思に反して相変わらず体が動かず、シュナはますます不快感を募らせるのだが――ものの、今はそれ以上訊くのはやめ、一番気にかかっている質問を投げかける。

「グラハムさんが拐(さら)われたってどういうこと?」
「おそらくあなたが相続した遺産を狙う者の手の者だろう。自宅に戻る途中に襲撃された」

 女性の物言いがあまりに淡々としているため、シュナは時々語られている事の重大さを判断し損ないそうになってしまう。まるで「今日は天気がいいね」だとか「もう日が暮れますね」と日常の瑣末な出来事を報告するような事務的なものがあった。
 帽子を目深に被り口元を顔のほぼ全体が隠されているため、まったく表情が読めないということもこの女性の異様さと奇怪さ、不気味さを演出するのに一役買っていた。
 そして今、女性から発せられた言葉が何を意味しているかをようよう捉え、シュナはゴクリと硬い唾を飲み込んだ。きっと女の言うように自分の相続した遺産を狙う連中の仕業だとすぐに察しがついた。そしてその連中は自分一人だけの身を狙うならまだしも、自分に関わる人間にまで手を出すという事実にシュナは慄然とする。
 スッと体温が体から抜けていくのを感じる。同時に数時間前に会ったばかりだったあの柔和な好々爺の表情がぼんやりと心の鏡面に映った。今日初めて対面したばかりだが、父親のことで感情が昂った己を優しく諭してくれた彼が、自分なんかのために危殆に瀕するようなことはシュナには耐え難いことだった。そのときシュナの面差しは敵の魔の手が忍び寄ったことに戦慄する気持ちと、拐われたグラハムの身を案ずる気持ち、そしてそのことに対する襲撃者への怒りとが奇妙な度合いで混ざり合った苦々しげな色に染まる。

「それで――」

 グラハムさんは今どこに? ――とシュナが訊こうとしたが、そこに横槍を入れるアルス。

「ちょっと待て。コイツの言うこと信じていいのかよ?」
「あ、そうか」

 言われてからシュナはハタと気づく。淡々としながらも妙に惹きつけるような口調に気圧されて、いつの間にかシュナは女性の言うことを無条件に信じこんでしまいそうになっていた。少し冷静になって考えてみれば女性が述べていることの証拠など、今のところ何一つ無いと分かるのに。
 一方で女のほうは自分の言うことに疑いが向けられているというのに、まるで木で鼻を括るように何の反応も見せない。その様相にシュナは女が何もしていないというのに、何か正体の判然としない圧力を受けるような気がして、口をつぐみそうになった。しかしここは問いただすのを止めてはならないと思い直し、グッと食い下がった。

「悪いけど、本当にグラハムさんが誘拐されたなんて証拠はあるの?」

 それにシュナは口にこそ出さなかったが、アルスの言葉によってもう一つ女について疑心し始めたことがあった。それはこの女性が自分を狙っている人間の一味やも知れぬということだった。第一、あんなよく分からないなんらかの力を使って自分たちを止めたのだ。一体何者なのか、何を企んでいるのか全く掴みどころがない。
 女は自分の言動を疑われていることを一応は理解しているらしく、ふぅとひとつ溜息をつくと、まるで自動人形がしゃべるような調子で言った。
 
「さて、困った。ワタシは確かにその場の一部始終を目にしたが、お前たちはそれを疑う。ワタシの手にあるこのルクシオはトールキン氏のポケモンではあるが、お前たちがそれを知らなければ、いくらこのルクシオ自身が主張したところで証拠とは成り得ない」
「そのルクシオ、グラハムさんのポケモンなの?」

 ようやくシュナはこの青と黒の体毛に覆われた獣のようなポケモンの種族がルクシオだということを思い出した。ルクシオは眠っているのか気を失っているのか、目を瞑って大人しくされるがままになっている。

「そうであるか否かはあとでこのポケモン自身より聞き出せばいい。誘拐犯は黒塗りの乗用車に乗り、この先の港へ向かっている」

 さらに女はその自動車のナンバーを二人に伝えた。そして腕に抱かれているルクシオをそっと地面に下ろした。しかしよくみるとルクシオは女の手に抱かれていたように見えていたが、その実なにか超能力的な力によって浮き上げられており、女は少しも体を屈めることなく地面に横たえたのだった。

「伝えるべきことは以上だ。ワタシの言ったことを信じるか否かはお前たち次第。好きにするがいい」

 始終全くぶれない調子で述べると、女はこの場から退散しようと二人に背を向けようとした。

「待って」
「待て!」

 路地の壁に木霊するは二人の声。シュナとアルスはほぼ同時に叫んだ。女は背を向ける動作の途中で止まったので、二人の目から見たら右半身だけを見せているような姿となった。すると何かに興味を示したように女はこちらに向き直った。シュナは女の立ち姿の微妙な向き加減でその興味が自分にではなく、アルスに向けられていることに気づく。

「なにか?」

 だからここは質問の役をアルスに譲ることにする。アルスは「すまねえな」とぶっきら棒に述べ、じっと視線を女の方へと向けた。

「お前、俺のこと知ってるのか」

 その問に、女は応えるべき言葉を選ぶように少しだけ間を置いて返す。

「……どうしてそう思う?」
「俺はカイリューだぜ。なのにさっきからニンゲンの言葉をしゃべってる俺に全然驚いてないみてえじゃねえか」
「ふむ、なるほど。『これは珍しい、ヒトの言葉をしゃべるカイリューか』とでも言っておくべきだったか?」
「ツマンネえこと言ってはぐらかすんじゃねえ」
「そうよ。それに最初にも言ったようにどうしてあたしの名前を知ってるの?」

 アルスの勢いに乗ってついシュナも迫った。
 アルスはこの女を引っ捕えて知っていることを聞き出そうと、自分がこの空間ごと切り取られているような奇妙な現象の渦中にあることも忘れて手を伸ばそうとするが、当然ながらいくら伸ばしたところで彼の手足はマグマッグが這うよりも鈍重にしか動かない。自分の意志に反して全く動いてくれない手足に彼は苛立ち唸り、最後に「くそっ」と吐き捨てた。
 
「カイリューの質問にだけ答える。“知っている。だが会うのはこれが初めて”とだけ言っておこう。今ワタシの口から語るのはそれだけだ。ワタシはまだお前たちを見つけていないことになっているし、それにグラハム・トールキンの件が無ければ今回お前たちに接触しようとも思っていなかったのだ」

 そのとき初めて女がその口元に僅かな笑みを含ませるのをシュナは見た気がした。同時に奇妙な感覚がシュナを襲う。口元に浮かべられたその笑みが、シュナの目を通して己の心の中にある何かにコツンととても小さな音を立てて触れた気がした。
 一方でアルスは女の回答が全く要領を得たものではなかったので憤慨して食って掛かる。

「ふざけんな! そんな説明で満足すると思ってんのか!」
「聞こえなかったか? 今はこれ以上の説明は無用だ」

 その物言いにアルスはますます苛立ちを募らせる。

「くっ……このッ……教えやがれ! 俺は誰なんだよ」

 アルスの喉を絞り上げるような懸命な叫びにシュナは息を呑んだ。初めて目にしたからだ。アルスがこんなにも必死になっている様子を。いつもはなんだかんだとしながらも、腹が据わっているような彼がここまで動揺している。シュナは改めて痛感した。アルスはやはり自分の失われた過去を取り戻したいのだということを。己のことを知っていると主張する人物が目の前にいるというのに、アルスは聞き出すことはおろか詰め寄ることすら出来ない。そして女もまた無情に口を閉ざす。
 なんとか少しでも女に近づこうと藻掻(もが)くアルスを尻目に、今度こそ女はルクシオを残し、二人に背を向けた。

「では二人ともさらばだ。今後も観測させてもらうこともあるだろうから、そのとき再び会うこともあるだろう」

 シュナはこのまま去るのを許すわけにはいかないと、なんとか引き止める言葉を探し回した。種々雑多な声がシュナの腹の中で洗濯物を水を入れた桶の中で引っ掻き回すように交互入り混じる。そうして搾り出された言葉はシュナがそれを本当に訊きたいのかという自問を全く無視して声となった。

「待って! あなた、名前を……教えて」

 だが、女は構わず歩き出す。そのときシュナとアルスの二人はなんとなく取り巻く空気が動き始めたことに気づく。女の起こした何かの力の効き目が切れ用としていることは明白だった。しかし二人の体は依然自由がきかない。
 すると女は足を一旦止め、何かを考えるように肩をいからせ、落とすと二人に振り向くこと無く呟くように一言。

「アルマティアス」

 だからシュナはその言葉が自分の問いに答えたものなのだと一瞬判断がつかなかった。そして女は脇に続く路地を折れ、二人の視界から姿を消した。
 それを合図とするかのように女の使った力はようやくその効力を失い、二人の体はようやく自由を得ようとする。
 しかし二人は気づいていない。そもそも二人は飛んでいる大勢のまま空中に空間ごと縫いとめられたようになっていたのだ。空気が恐ろしい速さで収斂していき、取り巻いていた空間が元に戻る。二人はまるで水中からようやく水面へと顔を出せたような開放感に包まれる。
 刹那、襲うは一瞬去るも一瞬。二人の体はまるでカタパルトから射出されたの如く猛スピードで前へ押し出され、飛行中だったことをすっかり忘れていたアルスはバランスを失う。

「う、……おわあ!?」

 無意識にアルスはあらぬ声を漏らした。バランスを崩して壁や地面にぶつかりそうになりながらも、なんとか翼を巧みに動かし、無理やり上昇することによって辛くも体勢を立て直した。

「び、びっくりしたあ。だ、大丈夫だったアルス?」

 そう言うシュナが一番驚いていたようで、この短い言葉ひとつ言うのに二、三度も噛んでしまう。
 
「ああ、なんとかな。それよりもさっきの女追いかけるぞ。とっ捕まえていろいろ聞き出してやる」
「待って。その前に降ろして。あたしはルクシオを見るから」

 そこでアルスは一旦シュナを降ろし、自分は先程の通りを左に折れたはずの女性を追いかけた。あとにはシュナと地面に以前横たわっているルクシオが残る。シュナは無性に緊張して喉が貼り付くように乾くのを感じた。よくよく考えて見れば屋敷を後にしてからアルス以外のポケモンに一人で接するのは初めてだったから。ルクシオはどんなポケモンだったっけとあれこれ考えながら意味もなく音をたてるのを憚りながら近づいた。
 それにしても、とシュナは同時に考えることがあった。アルマティアスと名乗った女性。アルマティアス……。ふと、どこかで聞いた言葉のような気がした。
メンテ

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