Re: ポケノベ2010夏企画 移転中につきコメント禁止 ( No.30 )
日時: 2010/09/06 23:08
名前: Rという名の秋桜 ID:

【バケモノ、それは冤罪につき】 =Aコース

 小さい頃、わたしには友達と呼べる人間がいなかった。今もそれほどいるわけではないけれど、そのような次元ではなく、中学校以前に、友達のような関係の人間関係を体験した記憶がまるでないのだ。わたしはいつも、どのような人間と、なにをしていたのだろうか。思い出をたどっていくと、友人関係にとどまらず、なにもかもがうっすらと感じられ、自分がまるで、アイデンティティを確立し終わってからこの人間社会どこかから送り出されて、わたしという“完成品”が市場にぽんと登場したような、そんなイメージに苛まれる。わたしという人格の形成が、どのような経緯をたどってされていったのかが、自分自身で掌握できない、わたしにはそれが堪えざることであり、それだから、過去を振り返るのはわたしにとって苦痛の所行でしかなかった。

 今、そんな苦行を敢えて犯しているのも、幼少から大学生の終わりまで住んでいたここでの人生を少しでも思い出して、感傷的感情に思いを馳せようと考えていたからであった。この春、わたしは、この街にもう足を踏み入れることがないであろう、遠い彼方へ、やはり一人で出かける算段であったから。雪解けが終わりかけた、三月の終わり、淡い桃の色の風を感じながら、わたしは通っていた小学校から自宅までを散策していた。
 この辺りは地震が頻繁に発生する。数年前、桃の花の匂いがこの街に訪れた季節に、大地震がおこって津波がこの街を襲った。それからは、高台以外の人家が極端に少なくなり、人々が寄り付かなくなった。わたしの実家はもともと高い場所にあったため津波の被害は免れたものの、この天災でたくさんの知り合いが死んだような記憶が残っている。「あなたの幼いころの記憶が曖昧なのは、この出来事が“トラウマ”になっているからだと考えられます」と、精神科の医師はわたしに、哀れみの目でそう言った。
 自宅から小学校まで約一キロ程度の道のり。市街地とは名ばかりの、寒い国道沿い裏の路地を行くと、視界が我が母校の校庭で開けた。高いフェンス越しに、校舎を見やる。3階立て、鉄筋コンクリート製の外観はひどく冷たい。わたしの思い出を置いてきたはずのこの敷地内は、わたしに“淋しい”というニュアンスの感情しかもたらさなかった。ぐるり、校庭の裏へ周りって、北に位置する場所へ移動する。わたしの目的地は、最初からここであったから、まっすぐに歩みを進めた。『裏山』と呼ばれていたこの小高い丘には、街や海を見晴らす展望台があったはずだ。高台に続く小路には、桃の木が並び、豊満な匂いが一面に漂っていた。

 1年前。大学3期生の冬の終わり、わたしはこれに似たような匂いに惹かれた。
その女は、何かにつけて愉快そうに笑う女だった。へらへら、という擬態語がよく似合って、いつも着古した奇抜な洋服ばかりを着て、耳にはピアスの穴が何個も開けてあって、顔のつくりは整っているのに、間抜けそうに無防備でいて、そのくせ人の感情には敏感で。ああ、馬鹿な女だった。そんな彼女が、関係が深まったある夜、わたしが寝ている隣で、わたしを見つめて涙を流していたときの彼女は、なぜだろう、格別に美しかった覚えがある。
「どうした?」わたしは驚いて彼女に問う。彼女もわたしの目が覚めたことに驚いて慌てたようなフリをして、赤く腫らした瞼を、わたしからそむけた。「寝ぼけてた」と彼女は身体ごと私に背を向けて、そのまま何も言わなかった。しばらくの沈黙。目が冴えてしまい、いたたまれなくなったわたしは彼女を後ろから抱きよせる。華奢な彼女の身体はわたしの胸の中で小さく、その瞬間、わたしは彼女が無性にいとおしく感じられた。
「あなたはなぜ、私がよかったの?」彼女は震えた呼吸でそうつぶやく。「……匂い、いや、唇かもしれない」わたしは真面目に答えた。この匂いがお好きなら、この香水と寝ればいいじゃない。そう言って笑う彼女に、そういうニュアンスじゃないと、わたしはまた真面目に撤回する。そして、『なぜ彼女がよかったのか』という的確な理由を探した。
 彼女と出会ったあの時、その刹那、手繰ることを拒んでさえいたわたしの記憶から、なぜか自然に、ある出来事が思い出された。小学生時代だったと思われる。学校の帰り道、何かを探してわたしは、今現在歩いているこの裏山を進んでいた。どういった目的で裏山に侵入したのかは覚えていないが、探検とか、秘密基地探しとか、そういったなんらかの名目での散策だったんだろう。ひたすら山を登って行って、夕暮れで辺りが赤黒い光で照らされた頃、わたしは、そこで、妙な雰囲気の、白い肌の少女と出会い、短い会話をした。――いや、実際は出会っていないかもしれない。そのあたりで記憶が曖昧になる。その直後、自分の足元や視界ががくがくと大きく揺れ、木々が騒いだ。今思い返すと、それは、精神科の医師の言う“トラウマ”になった地震の日だったのだろう。恐怖の感情の中、その場で動けなくなり、視界がぼやけて、意識が遠のいて、いつの間にかわたしは病院のベッドで眠っていた。
 なぜこの記憶が、彼女の登場で思い出されたのかはわからない。だが、この記憶が引き出されてから、わたしは彼女を強く意識するようになったのだ。彼女にはそこまでのことは言わず、ただ「きみの匂いで昔を思い出して安心するんだ」とだけ言う。
「私の匂いと唇の色で、あなたは、なんかわかんないけど、昔のことを思い出して、それで、結局、私のことを好きになったの?」彼女はわたしに身体を向き直った。いつもの、馬鹿のようなしゃべり方でわたしに問うてくる、わたしは素直にそれを肯定する。彼女は笑って、その唇でわたしにキスをした。
その1週間後、この街で震度が6を超える地震が発生する。彼女はその混乱の中、わたしの前から、あっけなくその姿を消してしまった。「まあ、きみのその嗅覚を持ってすれば、どうせまた会えるから」そういい残して。

 彼女との関係はそれまでだった。年月だけが流れて、彼女が結局何者だったのかはわからずじまいである。連絡が取れなくなってから半年はさまざまな手段で必死に彼女を探したが、それを過ぎたあたりから、なぜか、彼女の言うとおり、またどこかで会えるのではないかと、妙な自信がついて、それ以来は、普通の人間のように日常生活を送ることに専念した。あれから1年経ち、そうして今、彼女を思い出した匂いをたどって裏山を歩いていると、ぽろぽろと、精神科の医師のいう“トラウマ”になった幼少期の記憶が嘘のように舞い戻ってきた。
 あの日、わたしは友人たちと一緒に、普段は立ち入り禁止であるこの裏山へ探検をしに来た。秘密基地を作ろう、とか、いろんな本が落ちているとか、おばけが出るとか、そんな情報を教えあった、わくわくという感情。それを持ったまま、ずっとこの遊歩道を歩くと、桃の花の匂いがさらに増してきた。同時に、わたしは、ふとその道が外れた遠く向こうに、おんなのこの姿を見たような気がした。「ねえ、あそこに女の子がいるよ」わたしはそう発言し、そのほうへ興味の赴くまま引かれるようにずんずん歩いていく。「やめようよ」「いいじゃん行こう」「こわいよう」友人たちの声。歩くたび遠ざかっていって、ふと気がつくとわたしは一人はぐれる形になっていた。夕日が赤い。寒さの残った風が、その火照りをぬぐう。むしろそれ以上の寒気を誘って、わたしはその場で足を止めた。「だれかいるの?」の言葉を、耳の静けさをかき消すために独白のように搾り出して、周囲を見回す。人影らしいそれはやはりおんなのこだった。
「いるよ」それの声が聞こえる。
「だれ?」わたしは問う。
「ないしょ」それが返す。
「いじわるするなよ」茶化された怒りを隠さないわたしに、その女声は、短く、ごめん、とだけ言って、そのあと一呼吸。「ねえ、アブソルって知ってる?」彼女は問うてきた。知ってるよ、とわたしは答えた。アブソル。それは普段姿を潜めているが、極稀に人の前、特に子供たちの前に姿を現す。そして、その後は決まって天災が起こると伝えられている幻の獣である。それなので、普段それは別の呼び名で忌み嫌われていた。「“バケモノ”でしょ?」
 その一言に、彼女の視線が刺さる。瞬間に、す、っとわたしのそばで彼女がわたしを直視していた。背丈は同じくらい。肌の白さと唇の赤のコントラストが、わたしにはなぜが強烈に印象に残っている。
「アブソルはね、災いを呼ぶ者ではないの。ただ彼はね、災いの匂いに惹かれてしまうだけなの。彼も被害者なの」静かに彼女はまくし立てる。わたしは怖じて一歩引き、「ごめんなさい」とだけ言った。「ううん、それだけちゃんと言いたかった」と、彼女。一瞬の沈黙の後、「あなたも、わたしの匂いに惹かれたでしょう? あなたならわかるはずよ」と笑った。やり取りの中、そろそろ日が暮れるという、空が紫のころになり、そろそろ帰ろうと焦り始めたわたしに、彼女は「今は山を降りちゃだめ」と言う。「この上をずっといくと、展望台があるから。そこで今日はいなさい。私も一緒にいてあげるから。きっと誰かが助けに来てくれるから」
 彼女の言うとおりに、展望台へ上がる。わたしたちはそこで、打ち解けるわけでも、拒絶するでもなく、微妙な距離で会話を続けた。この裏山には野良エネコがよってきて会議をするとか、ジグザグマはまっすぐ走るんだよとか、そんな話。沈黙の合間、見上げれば、漆黒の空は星の粒に彩られており、ふたりで、きれい、とつぶやいて、そのまま、意識を失くし、気がつくと病院で、母に手を握られていた。
 地域全体が混乱を極めたまま学期がはじまり、わたしは、裏山に一緒に行った友人のうち三人が津波に飲まれて行方不明であるということを知る。わたしが見た少女の話はその生き残りによって広められ、わたしは瞬く間に“バケモノ”として虐げられることとなる。わたしが記憶を捨てたのはそのころからだ。以来信頼する友人を作らず、ここまで生きてきた。
 少し疲れた。わたしは気の株に腰を下ろし、夕日を見やった。あの時と同じ景色。頬を焼く、熱い光。周囲に咲きほこる桃の花はよりいっそうに匂いを増し、彼女がすぐそこにいることを教えてくれた。

――衝動。
 走った。立ち上がり、眼球をむき出しにして、走った。ひたすらわたしは走った。急勾配の荒々しい斜面、苦しい胸をかきむしって、喉が渇く。呼吸がどうしようも荒くなり、唾液と汗とが舌に絡み付いても、しかし、何にも構わない。足元から、頭上から、茂った枝や雑草がわたしに押し寄せる。波のように行く手を阻んで、それを除けるわたしの腕から、鮮血。追いかけてくる桃の匂いと血液の臭いと同時に、血管がむき出しになっているような鼓動を感じた。
 瞬間、木の根に足を奪われ、前に体勢を崩される。否応なしに掌を地面に預ければ、それは三番目、四番目の脚となった。聴覚と嗅覚とが研ぎ澄まされる感覚。四肢で地面を駆け抜ける感覚。それはもはや快感に近く、全身の毛孔の奥が蠢くのを感じて、視界が狭くなる。無我夢中のまま、我に帰ることも許されないまま、わたしの身体は『体毛の白い獣』に変態していた。覚醒と呼ぶに相応しい熱に犯されながら、わたしは有り余る高鳴りでわたしは咆哮の如く声を張り上げた。刹那、それに反応した周囲の空気が旋風を巻き起こし、それは刃に変わる。生み出された疾風はさながら鎌鼬の如く、わたしを遮っていた何もかもを切り裂いていった。
 遥か視線の先、遠くで、わたしを呼ぶ声が聞こえる。桃の花の匂いがする。欲情が止まらない! 今わたしの意識は正常だろうか、狂っているのだろうか。わたしは走っているのか、飛んでいるのか、どこへ向かおうとしているのか、ああ、わからない。ただ、ぬかるんだ、道なきこの視線の先を、彼女の匂いがするこの先を、わたしは走った。