Re: シュナとアルスの不思議な旅 引っ越し準備中 ( No.10 )
日時: 2010/09/27 22:17
名前: わたぬけ◆uIYgSadM30E ID:

 −2−

 再び一陣の風が吹きすさび、山全体が唸り声を上げる。転倒した際に打ってしまった膝の痛みは残れど、足の疲れはようようと癒えてきたのでシュナは立ち上がり、なんとか下山しようと思った。
 そのとき、どこまでも生えている木々の群れの中から、影が蠢いた。
 
「――誰ッ!?」

 思わず叫ぶ。
 動物? ポケモン? 人間? いずれにしても今確かに何かが動いた。それともただの見間違いだったのか? 風で木の枝が揺れたのを誰かがいると勘違いしただけなのだろうか。
 シュナは影が動いたように見えた方向にじっと視線を向けたまま、あとずさった。
 そのときに見えた。木と木の間から誰かが来る。今度はもう見間違いようが無い。あれは人間だった。いったい誰が登山道からも離れてしまったこんな場所に? 自分のほかにも迷ってしまった人間か。
 シュナはできる限り都合のいい解釈をしようとした。そうでもしなければただでさえ胸を圧迫して押しつぶしてしまいそうな恐怖が、さらに増大してしまいそうだったから。だが、やはりというか、現実はいつだって非情だ。
 それはポケモンだった。全体は流線型でほっそりとしているが無駄のない体つきをしている。全身はまるで曼珠沙華の花のような鮮やかな赤色で、腹と胸の一部分だけが黒い。両腕には人の顔と同程度の大きさを持つ巨大なハサミがあり、そこに描かれている丸い紋様がまるで顔とは別にある目のようだ。背からは薄く白い四枚の羽が生えている。
 ハッサム。それがこのポケモンに名付けられている種族名だった。シュナは直接見るのは初めてだったが、テレビや本などで何度か目にしたことがあり、その強さはある程度認知している。
 ハッサムは明らかにシュナを睨みつけており、一歩一歩歩みを進めて互いの距離を徐々に狭めていく。シュナはまさに蛇に睨まれた蛙であるかのようにその場から動くことが出来なかった。立つことは出来るが足が動いてくれない。野生にしろ誰かの差し金にしろシュナのことを狙っているのは明白であり、その眼差しは彼女から全く逸らそうとしない。パクパクと魚のように口が動き、そのたびに声にならない声が漏れる。

「シュナさん。一緒に来てもらいましょうか」

 それは低い男の声だった。シュナは一瞬耳を疑い、このポケモンもアルスのようにしゃべることが出来るのかと思った。だがその考えはすぐに消える。聞こえてきた音は明らかに何かスピーカーを通しての声だったからだ。よく目をこらすとハッサムの首には首輪のようなものがはめられており、どうやらそこからこのハッサムを操る主の声を伝え、また同時にマイクも兼ねている仕組みになっているようだった。おそらくハッサムの主はここからかなり離れた場所から指示を出しているのだろう。
 不思議と恐怖感は先程に比べるとまるで潮が引くように収まっていた。しかし代わりにシュナの心に台頭しているのは諦観の念。もうどうなっても構わないという気持ちが巣食っていた。

「大人しく付いてきてさえくれれば、身の安全は保証しましょう」

 一体何度そういった類の言葉を聞いてきただろうとシュナは考えた。前回のキュロスの廃墟での出来事もしかり、アルドによる遺言の発表の直後も自分の養子にならないか、きっと幸せにしてあげるよなどの甘言の数々。だが今や自棄の気持ちが大きくなってしまっているシュナにとっては、もうその言葉を受け入れてしまうのもいいかも知れないと考えてしまっていた。このままずっと誰かに怯え続けてるよりも、利用されるだけと分かっていながらも安全のもとに暮らすことが出来るのなら、または騙されて殺されるとしてもそれも構わないかもしれない。
 だからシュナの足はいつの間にかハッサムの方へと向かっていた。ただ楽になりたい。それだけが頭の中を麻薬のように支配する。
 シュナとハッサムとの間の距離が狭まっていく。四メートル、三メートル……。おもむろに顔を上げると木々の間から傾きながらもまだその輝きを失おうとしない太陽の光が差し込んできた。
 そのときシュナの足が止まった。頭の中で祖母の声が響く。そしてその祖母の声と共に、自然に己の口も動いていた。

「エト・アルス・ペルペチュア・ルシーテ・アイズ……」

――エト・アルス・ペルペチュア・ルシーテ・アイズ。これはね『どんな時も光を見失うな』って意味なの。これから困ったときや辛いと思ったときにはこの言葉を思い出すといいわ。あなたのおかあさんも、そして私もいつもこの言葉に助けられてたんだから。

――そうだ。そんなふうに笑っていろよ。

 どうして祖母とアルスの別々の言葉がそのとき結びついたのか分からない。だけどその二つの言葉が結びついたとき、シュナに再び抗おうという気持ちが蘇った。そしてハッサムが今まさにシュナを抱きかかえようとしたとき、身を委ねるふりをしてその両腕が彼女を捉えようとしたとき、一気に地面を蹴って走りだした。シュナの体はハッサムの腕からスルリと抜け、お互いに背を向け合うような形で距離を広げていった。
 一瞬ハッサムは何事が起きたのか理解できていないようにぽかんとしていたが、己が主から手厳しい叱責を受けると、すぐに向き直り走り去るシュナを追いかけ始めた。
 相手はポケモンだ身体能力は何もかも相手の方が上。シュナはもとよりこの相手から逃れられるとは思っていなかった。ただ少しでも抗いたい。少しでも自分を貫きたい。そうでもしなければ自分で自分を許すことが出来ないと思ったから。なるべく地面の凹凸の少ない部分を選んで走る。不思議とあれだけ疲れていたはずなのに、身体が随分軽く感じた。木々の葉っぱの間から挿し込んでくる太陽の光が、まるでこっちに逃げろあっちに逃げろと指し示しているかのように足元を照らした。

 そのとき何か大きなものを振り回すような音が聞こえた。そうかと思ったら突然一本の木がバキバキと鋭い悲鳴をあげながらシュナの行く手を阻むように倒れてきた。このまま止まらないと押しつぶされる。シュナの防衛本能は無意識のうちに足を止めようと促す。だがこのまま止まっては絶対に追手から捕らわれてしまう。一瞬のことが何分も何時間もの長時間に感じる。シュナの身体を止めようとする一歩が地面についた。体が妙な無重力感に襲われ、頭がクラクラした。
 だが次の瞬間シュナの身体を止めようとする一歩は、さらに逃げようと駆けるための一歩に変わっていた。留まろうとする足に激しくムチを入れ、シュナはおもいっきり地面を蹴った。あのおまじないの言葉を思い出してから、何かがシュナを付き動かしているかのようだった。そして木の巨体が容赦なく彼女を押し潰そうとした瞬間、間一髪、危機一髪で回避。巨木はそのまま地面にたたきつけられ、まるで雷が落ちたような悲鳴を上げて横たわった。
 シュナは徐にポシェットを開けた。何か武器になるようなものはないか。とはいえ、いつも持ち歩いているようなバッグにとてもあのハッサムに叶いそうなものなど入っているはずがない。
 携帯電話、いくつかのボールペン、財布、長い髪をまとめるためのゴムの髪留め、飲料水の入った小さなペットボトル、あまり使っていない化粧品のいくつか。

 突然、シュナは足を止めた。それは今まで逃げようとしていた彼女にしては意外な行動。そして追いかけてくるハッサムの方に向き直った。

「どうしましたか。逃げるのはもうおやめですか?」

 追いついてきたハッサムの首輪から、その主の声が聞こえてくる。語調からは不審感が漂っている。

「ええ。どうせこれ以上逃げても、体力も身体能力もずっと上のハッサムからは逃げられないと思って」
「賢い考えですね。ハッサム、連れていけ」

 そしてハッサムは再び、シュナに近づく。だが今度は幾分か警戒の色をみせている。当然だ、さきほど不意打ちをくらって逃げられたのだ。たとえ彼女が諦めた素振りを見せたとしても本能的にハッサムは心の矛を収めようとはしなかった。そしてハッサムの腕はシュナを捉え、そのままだきかかえようとした。

 だから死角となって見えなかった。シュナの片手がポシェットの中のあるものに触れたのを。

 そしてシュナを己の右腕の上に座らせるような形で抱えた瞬間、シュナの手が動いた。素早くポシェットの内より携帯電話を取り出し、それをハッサムの目の前に突き出す。ピッという電子音が一瞬だけ響いたと思ったら、刹那ハッサムの目の前がまるで白の絵の具をこぼしたように真っ白に埋め尽くされる。携帯電話カメラのフラッシュは通常のカメラに比べると弱いものではあるが、ここまで至近距離で、目の前でそれを焚かれたら怯んでしまうほどの力はあった。
 ハッサムは反射的に目を抑えようとして、シュナを落とした。そして地面についたシュナはさらにポシェットから一本のボールペンを取り出した。だが持ち方が本来のそれとはかなり違う。ペンの上の部分を掌で握りこみ、ノックの部分を親指で抑えこむような持ち方だ。

 まだジェラルドタウンにいた頃、村の八歳くらいの男の子が虫を捕まえて遊んでいたのを見たことがあった。そしてやがて男の子は一匹のバッタを捕まえた。最初男の子はやっと捕まえたそれに目を輝かせて喜んでいた。
 しかし八歳くらいの子供の性分なのか、すぐに飽きたと見えてその目の輝きはすぐに失われてしまう。
 そして次に何をしたというのか、男の子はそのバッタの足をもぎ取り始めたのだ。大きく跳躍するためのバッタの大きな足は、男の子の手に引っ張られてあまりに呆気無くプツリと取れた。雑草を抜くよりも手軽に、簡単に……。
 ではポケモンも基本的には変わらないとしたら? この星の上に数多く存在する虫と基本的に身体の作りが同じだとしたら?

 シュナは歪な持ち方をしたボールペンをおもいっきり振るった。

 ああ、今自分はこれほど抗う勇気を持っているというのに、この勇気をもっと早く振るうことが出来たのなら、バーンズロウ家にやってきた時点で、いやその前から振るうことが出来れば……? 事態はここまで悪い方向には進まなかったのかも知れない。
 シュナのボールペンがハッサムの右足の付け根、節目の部分に突き立てた。ボールペンは先端から五センチメートルほどの深さまで抉りこまれる。

 ハッサムは苦痛の叫びを上げる、そしてその目がシュナの姿を認めた瞬間、腕を大きく振るった。
 シュナ自身、思っていた以上の効果をあげたことに呆気にとられ、そのとき振るわれた腕を避けることが出来なかった。ハッサムの大きなハサミのような腕がシュナの頬をかすった。だがただ頬をかすると言っても、人間のそれとポケモンのそれではまったく違う。シュナはまるで頬を殴られたような衝撃を受け、その場で腰を落としてしまった。

「シュナさん。馬鹿なことを……。怒りに囚われたこのハッサムはもう私の命令も聞かなくなる。どういう意味かわかりますかな?」

 ああ、やはり自分は馬鹿なことをしてしまったんだろう。奇妙な脱力感が芽生える。叩かれた頬が痛む。
 ハッサムが近づいてくる。その眼は爛々と怒りに燃えている。シュナはハッサムの足元に先程フラッシュを焚いた携帯電話が落ちていることに気づいた。そして次の瞬間携帯電話はハッサムの足に踏みつけられ、あっという間に粉々に分解した。よく見るとハッサムは足の節目を刺されたとは思えないほどしっかりと立っていた。あまり効果がなかったのだろうか。
 シュナは逃げようと立ち上がった、しかし次の瞬間ハッサムはシュナの目の前に立ちはだかっていた。やはりボールペンを突き刺したのは効果がなかったのか。そしてハッサムの腕の巨大なハサミが高々と掲げられる。まともに食らったら今度こそ無事では済まない。
 思わずシュナは目を瞑る。そして自分が死んだあと、遺産を狙う者たちはどうするのだろう、アルドの言っていた寄付先の慈善団体とやらと裁判でも起こすつもりなのだろうかなどと場違いなことを考えたりした。

 だが、巨大なハサミの腕は降ってこない。どうしたのだろうと思ったがシュナのまぶたは開けることを拒む。それとも既に自分は殺されていて今目を開けたら死後の世界というものが映るのだろうかとも思ったりした。

「全くよ。お前はつくづく面倒な奴だな」

 聞き慣れた声が聞こえるとともに、シュナはハッとしてまぶたを開いた。シュナをかばうような形でアルスが立ちはだかり、今まさに振り下ろさんとしていたハッサムの腕を抑えていた。

「アルス!」

 ガキンという音とともに、二体のポケモンはそれぞれ後ろに引き下がり、お互いの距離をおく。

「下がってろ。すぐに終わらせてやる」

 改めて二体はお互いの眼をにらみ合い、そして対峙した。